ふと思いついて「魔女裁判」でググってみた。こんなサイトがあった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/yaziuma/essay2.html
セーレムの魔女裁判という有名な事件らしい。読んでいて映画「エクソシスト」を連想してしまった。現代の人間の目からすると事件の主役となった少女たちは集団催眠、集団ヒステリーの類であり、精神科医や心理学者はそう診断するだろう。でもこれは17世紀の事件である。日本なら江戸時代初期。当時の人々の恐怖はいかばかりであったろうか。
<追記>
集団ヒステリーはむしろ魔女裁判そのものがそうか。少女たちは一種のトランス状態だろう。
魔女裁判というと中世のイメージがあったが、17世紀になってもあったということは驚きであった。これはアメリカで記録された最後の事件だそうであるが、人間の心理というものは意外ともろいのだな、と感じさせるものであった。多分僕が渦中の人物であったらあっさりと自白させられ殺されているだろう。
<追記>
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD30159/
この事件、「クルーシブル」という名で映画化されていると教えてもらった。もとは戯曲だったそうである。ウィノナ・ライダーの演技が凄かったそうである。
<追記>
以外と「魔女裁判」のキーワードでこのページを訪れる人が多い。申し訳ないので、追加エピソード。魔女裁判ではないが、異端審問に関するものである。堀米庸三著「正統と異端 ヨーロッパ精神の源流」(中公新書)という本がある。名著とされている本だそうであるが、キリスト教の知識のない僕にはチンプンカンプンだった。その中で印象に残ったエピソードが一つある。ワルド派のエピソードである。これは異端審問とは別で、福音の自由説教をローマ法王庁に求めた際のものだそうであるが、
審理官はワルド派の代表者に「父なる神と子と聖霊を信ずるか」ときく。彼らがそれを肯定すると、つづいて「それならばキリストの母はどうか」と。聖母マリアのことと信じたワルド派が肯定すると、審理官一同は爆笑し、「それでは福音の説教などもってのほかだ」といって審理は終ってしまった。
何を笑われたのか分からないが、引用すると、
マリアについてはオリゲネス以来、ギリシア教父のあいだでテオトコス(神の母・神をはらんだもの)という呼称が次第に一般化したが、キリストにおける神的・人的ペルソナを認めながらも、それの別々の存在を主張したコンスタンティノープルの大司教ネストリウスは、それにかえてクリストコス(キリストの母)とよぶべきことを提唱した。この主張はローマ(430年)とエフェズス(431年)の公会議で否定され、ネストリウスは異端としてその地位を追われ、用語としてはテオトコスが正式とされた。ローマ教会ではそれをラテン訳しデイ-ゲニトリクス(神を生むもの)という。また、マーテル-ドミニ(主の母)ともいうがマーテル-クリスティ(キリストの母)とはいわないのである。(「正統と異端 ヨーロッパ精神の源流」堀米庸三著 中公新書 17P)
堀米氏は続いて「結局、ワルド派の人々はマップ(※ 審理官)によってキリスト教神学、それもまったく煩瑣な神学知識の試問をうけ、まんまと試験管の罠にはまったわけであった」(17P)と書く。
僕個人はこれをローマ法王庁の審理官たちが瑣末な知識を振りかざして素朴な信仰を握りつぶしてしまったと感じる。意外と身近でもそんな事例はないだろうか。