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2009年10月22日 (木)

20年後に読み返すと――中村とうようのポール・サイモン批判

ミュージック・マガジン1988年6月号を読む。国会図書館でコピーしたもの。「南アのアパルトハイトとその音楽 ゲイブリエル、サイモン、クレッグが提起する南アの問題」という記事でポール・サイモンとアルバム「グレイスランド」に対して激烈な批判が展開されている(どんな批判だったか、コピーした資料をpdf化しておらず失念。ネタにつまったらワールド・ミュージックをつまみ食いするといった批判だったか)。

当時、衝撃を受けたが、20年近く経過して読み返すと、作品に対する批判についてはこういう問題提起もあるだろうと思う。実際、作品のクレジットを巡って共演したロス・ロボスと揉めたりもしている。

それよりも同じ頃に起きた飛行機事故についての記述に目がいってしまった。日本人の遠洋漁業の方たちが当時南アフリカに買い付けに行っていて犠牲になったのだ。アパルトヘイトの片棒を担ぐ日本人なんぞ……と言いたいのだろうか。これは遺族の方たちが読んだら激怒する内容だ。自己を「冷血漢」と正当化しているが、こういう発言はいずれ自分に跳ね返ってくるのだろう。

思うに、当時はパソコン通信の時代だし、仮に読者から苦情がきてもミュージック・マガジン編集部で握りつぶせてしまえたのだろう。

話を戻すと、ワールド・ミュージックを聴き比べてみた訳ではないので、当時のポール・サイモンの音楽性についてはどうこう言えない。ただ、幾つか強引なこじつけもあるように思えるし、南アフリカ音楽の定義から外れているからNGと言ってるようにも受け止められる。

僕個人はアパルトヘイトに直接言及していないのが却って良かったと思っている。元々穏健・中庸な歌詞の曲がほとんどだ。「ホームレス」の歌詞はいつの時代にも共感されるのではないか。

「グレイスランド」のライブ・ビデオもしくはCDがある。南アフリカで演奏できないため、隣国でのコンサートとなった経緯があって、当時ニュースで取り上げられたりもした。とうよう氏はポールの傲慢さが鼻について途中で視聴を止めたそうだが、このオープニング、一曲目は "Township Jive"という曲だ。コーサ語の曲とあり、ポール自身の曲ではない。タウンシップは南アフリカの黒人居住区を指すのだろう。非常に明るく聴いていて楽しくなる曲なのだ。辛辣なのがプロテスト・ソングとは限らないという好例ではないだろうか。

「グレイスランド」は南アフリカで現地のミュージシャンとセッションを重ねて先ずバッキング・トラックを完成させ、それに歌を載せていく流れ・スタイルで作曲・レコーディングされている。メイキング・ビデオで実例があったが、ニューヨークのスタジオで南アフリカで録音されたトラックにパーカッションを追加したりもしている。次作のアルバム「リズム・オブ・ザ・セインツ」も同様の流れでレコーディングされている。

この両作についての批評で、バッキング・トラックとポールの歌(旋律)とのミスマッチ感というかスイングしてないとでも言うか、そんな違和感を指摘する評論がいくつかあった。この辺りについては音楽に造詣の深い人の解説があれば、と思う。

僕自身、ミスマッチとまでは思わないが「グレイスランド」「リズム・オブ・ザ・セインツ」からボーカルトラックを外したらどんな風に聞こえるか、インストゥルメンタルとしても聴かせる内容ではないかと思っている(ある意味冒涜だが)。

ただ、一つはサンプリングという表現が極めて狭く解釈されたのではないかとも思っている。ライブで再現不可能なのかと勘違いしそうになった。

久しぶりに聴いていて思ったが、完成したバッキング・トラックに後からメロディを載せているのがミスマッチに思える理由の一つではないか。ライブ・アルバムに収録されたものの方がヴィヴィッドである。
※「ワン・トリック・ポニー」のボーナストラックによると、「ワン・トリック・ポニー」の時点でバッキング・トラックに後でメロディを乗せる試みは行われていた。

ポール・サイモン「ザ・コレクション」という3枚組のアルバムがある。ベスト盤+グレイスランドのライブアルバム+インタビューという構成となっているが、「リズム・オブ・ザ・セインツ」のレコーディングの経緯について詳しい情報が記載されている。
クインシー・ジョーンズの
「アフリカの南からすごい歌手達が輩出しているのは知っているだろうけど、すごいドラマー達がアフリカの西の方にいるのは知らないだろう」
という発言、それとエディー・パルミエ(ピアニスト・作曲家)の
「ドラムの歴史は西アフリカに発祥してそれからブラジルに行ったんだ。それからカリブの島々に伝えられ、究極の到達点はキューバなんだよ」
これらの発言が発端となったと語られている。ポール自身はオデッセイと表現していたはずだが、黒人音楽の源流とその伝播した先を訪ねる内容となっている。

・中村とうよう「南アのアパルトハイトとその音楽 ゲイブリエル、サイモン、クレッグが提起する南アの問題」(ミュージック・マガジン1988年6月号[通巻256号], ミュージック・マガジン社, 38-47P)※これで国立国会図書館の遠隔複写サービスが利用可能です。

<追記 2020.04>
ポール・サイモンのアルバム「グレイスランド(発売25周年記念盤)」に収録された映画「アンダー・アフリカン・スカイズ」を視聴する。グレイスランド25周年を記念して制作されたドキュメンタリー。ポールが南アフリカに赴いて当時のバックバンドのメンバーと再会、それから過去に遡って南アフリカの黒人ミュージシャンとセッションを重ねるところから始まり、アルバム発売後の厳しい批判について触れている。

批判とは、要するにポールはアパルトヘイト下の南アフリカに対する文化ボイコットを破った。そして白人ミュージシャンが黒人音楽を搾取したという様なところである(当時の南アフリカ側の関係者によると、南アフリカの黒人音楽を世界に知らしめるチャンスであると感じたようだ)。ポールは南アフリカで録音する際、伝手となった人にANC(アフリカ民族会議)に話を通しておけとアドバイスされる。だが、ポールにとってそれは政治家による検閲を認める様なもので到底受け入れられるものではなかった。ポールは忠告を無視してレコーディングを始める。実際、ANCはアパルトヘイト下の南アフリカに対する文化ボイコットを主導しており、ポールが申請しても原則論で却下されただろう。その点で、黒人側からも拒否反応を示されたのである。

グレイスランドがヒットしてワールドツアーに乗り出した後も反対デモが活発だったようだった。僕は日本にいたので当時の世界の空気を知る由も無い。

作曲家のフィリップ・グラスだったか、ポールが南アフリカで行ったセッションはサンプリングと呼ばれるものだったようだ。録音したセッションをアメリカに持ち帰って、エンジニアのロイ・ハリーが編集する。そうしてバッキング・トラックが完成したとのこと。このバック・トラックに詩とメロディを乗せていくことで曲は完成したとのこと。

サンプリングと呼ぶと、ライブで再現不可能という印象を与えてしまう。実際にはそんなことは無かったのだけど。

当時の映像を見ると、セッションの際もレディスミス・ブラック・マンバーゾのメンバーたちは踊っている。


「ミュージック・マガジン」1986年11月号にグレイスランドのアルバム評が載せられている(118P)。他の評者が7点、7点、8点をつける中で、最後の評が3点である。この3点が中村とうようの評点である。

 いかにもサイモンらしいズルいアルバム。だからズル・ジャイヴ? アフリカ各地などからミュージシャンを集めておいて何もやらせない。まるでお座敷にタイコモチを呼びながら芸なんかやらなくてもいいよ、金はタンマリ払ってやるよ、と言ってるイヤミな旦那。なぜやらせないか。やらせたら主役の自分が喰われちゃうから。第三世界に理解あるポーズで評判だけ自分のものにしよう。そこがズルい。そのタイトルがどうしてエルヴィスの母親の名前なの?3点(グレイスランド/ポール・サイモン)

 やっぱりデイヴィッド・バーンはポール・サイモンの何倍も頭いいし音楽わかっているね。記事のほうでも書いたように内在的にノリをもったメロディを巧みに構築しているから、彼らの音楽は外へ外への広がる力を持つ。サイモンの音楽は逆に内むきに縮まってゆく。かつての名作『リメイン・イン・ライト』と比較してどうこういうのも意味のないことで、今回のは『リメイン…』とは色彩は異なっても同じくらいに強力で同じくらい楽しい音楽だ。9点(トゥルー・ストーリーズ/トーキング・ヘッズ)

とある。10点満点中3点というのは明らかに恣意的な採点で、とうよう氏がポール・サイモンを嫌っていることがよく顕れている。


ミュージック・マガジン2012年9月号に大鷹俊一「25年後の『グレイスランド』ポール・サイモンの問題作の発売25周年記念盤を機に、その評価を再検証」という記事がある(74-77P)。「グレイスランド」発売25周年記念盤がリリースされたのを背景として、ミュージック・マガジンで再検証した記事となる。なにせ今や歴史的名盤と言ってもいいアルバムを過去の記事で盛大にこき下ろしているのだ。その評が当を得たものであったのか問われているということになる。

記事でもDVD「アンダー・アフリカン・スカイズ」を観ての評論となっている。「グレイスランド」は当時500万枚(全世界で累計1400万枚)という大ヒット作となりグラミー賞を受賞する等高い評価を受けたのだけど、同時に厳しい批判を受けた。

一つは、当時アパルトヘイトをしていた南アフリカ政府に対する世界中からの文化的ボイコットをどう考えるかという点。そしてもう一つがベテラン読者なら思い出されるかもしれないが、当時の編集長、中村とうようさんに代表されるアフリカ音楽のおいしいところだけをつまみ食いしただけじゃないかという批判だ。

この内、著者の回想によると、グレイスランドと同時期、ミュージック・マガジンでもワールド・ミュージックをプッシュする流れがあって、例えばレディスミス・ブラック・マンバーゾも紹介されていたとのこと。グレイスランドとやりたいことがぶつかったのだ。とうよう氏的にはこれから日本でプッシュしようとしていたところにトンビに油揚げをさらわれた的な印象を受けたのだろう。日本で地道に啓蒙活動に励んでいたら、アメリカで大々的にプッシュされ華々しく脚光を浴びた、この一件が嫉妬心といってもいいか、グレイスランドの酷評に繋がったと思われる。狭量なのである。

その他、「レコードコレクターズ」2012年7月号でも宮子和眞「ポール・サイモン 新リマスターCDと当事者の証言DVDで綴る『グレイスランド』25年目の真実」という記事があった。

「サイモンと一緒に世界を回った黒人のミュージシャンたちは、個人として良い経験をしたのは間違いない。しかし、アパルトヘイトに苦しむ南アの黒人全体にとってみれば、文化的交流のボイコットへの賛同こそが彼らの利益だった。サイモンは南アに来るべきではなかった」、そう語る活動家のコメントは真理を突いているようにも思える。
 対してサイモンは言う。「僕はただいいアルバムを作りたかっただけなんだ」

とある。「アンダー・アフリカン・スカイズ」によると最初に紹介されたボヨヨボーイズはセッションで上手くいかず、結局レイ・フィリが率いるバックバンドがチャンスを得た形となっている。

しかし、結果論であるが、グレイスランドのヒットは当時「三流(※アンダー・アフリカン・スカイズ)」とされていた南アフリカの黒人音楽の評価を上げ、南アフリカの黒人層に自分たちにも世界に通用する素晴らしい音楽があると知らしめたのではないか。自国文化に誇りを持つことが悪いことなのか。

僕自身は「グレイスランド」発売当時、アフリカン・ギターの独特な奏法に魅了された。一方で、リズムに重点を置いた分、美しいメロディ、バラードが影を潜めた様にも感じた。

<追記>
ポール・サイモン「グレイスランド・ザ・リミックス」をAmazon Musicで聴く。グレイスランドを現代に再現するとこうなるといった雰囲気であろうか。

「グレイスランド」発表当時、音楽評論家の中村とうようが激烈なポール・サイモン批判を行った。日本の評論家の多くは同調したのではないか。ポールのアルバムの売り上げは日本では伸びなかったそうである。多分、これも一因である。

「グレイスランド」は南アフリカ(※だけではないが)のミュージシャンの演奏したバッキング・トラックにポールのメロディが載っているという構造になっている。だから純粋な南アフリカ音楽ではない。むしろ、南アフリカのミュージシャンを起用したニューヨークの新しいスタイルのサウンドだったと言った方がいいのかもしれない。

中村とうようが怒ったのは、よりによってポールが金の鉱脈を発掘したからだ。自分たち音楽評論家が地道にワールドミュージックを紹介、普及に努めていたところに、ポールが美味しいところをかっさらっていったのである。怒るのは理解できる。

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