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2005年8月 2日 (火)

国松の死に様

「大坂の陣 証言・史上最大の攻防戦」(二木謙一著 中公新書)を読み終わる。豊臣方に家康と張り合えるだけの人がいなかったため、ついには滅ぼされてしまったという印象である。僕自身、交渉ごとは苦手である。秀頼が若く、淀殿の力が強かったことも一因だろう。

昔、漫画ではあるが横山光輝が山岡荘八版「徳川家康」を漫画化したものを読んだことがあるが、その家康は豊臣家を公家として生き残らせるために腐心するが、さすがに美化しすぎな様である。

印象的だったのは秀頼の遺児国松の最期である。引用すると、

 死に臨む国松の態度は、八歳の幼児とは思われぬほど立派であったらしい。レオン・パジェスは、 「伝える所によると、この不敵な小児は、最後に臨んで内府様の太閤様と秀頼に対する背信の罪を責め、勇ましく首をかい(會にりっとう)手(かいしゅ)(くびきり)に差延べたといふ事である」(『日本切支丹宗門史』) と記している。 (「大坂の陣 証言・史上最大の攻防戦」196P)

僕なら錯乱して取り乱すであろう。八歳だと状況を認識できないとは思うが。

<追記>
大坂の陣で、甲子夜話にいくつかエピソードが残されている。「開けずの間」と「秀頼生存説」である。「開けずの間」とはそこで女中が自害したと伝えられ、松浦静山は今の大坂城は徳川時代のものだといぶかしんでいる。後に発掘で証明されるまで実はあやふやだったのかもしれない。「秀頼生存説」は島津に落ち延びたというもの。他、井戸に黄金を沈め、毒消しに使ったというものもあった。

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