本質主義/構築主義

2020年1月 8日 (水)

記述自体は平易だが――山内志朗「普遍論争 近代の源流としての」

山内志朗「普遍論争 近代の源流としての」(平凡社)電子版を読み終える。本質主義/構築主義の対立はスコラ哲学の実在論/唯名論にまで遡るということで、参考になるかと思って読んでみたが、記述自体は平易なものの、初学者で一読では難しかった。

電子版で読んだが、書籍版だと約480ページ。その内後半がスコラ哲学関係の学者名小辞典となっている。本文は4章まであるが、3章までが難解というところだろうか。

本質主義というのは不変のエッセンス(神髄)が存在するという立場だが、構築主義もそれが時代の潮流によって影響を受けているとするだけで、エッセンスの存在自体は否定していないだろう。

芸において神髄が存在していないという人は多分いないだろう。言ってしまえば個々の芸、スキルつまり下部構造を統括する上位のスキル、上部構造となるが、それが何層にも渡って形成されているのだろう。それは脳の神経回路というところにまで帰せられるか。それは個々人の持って生まれたセンスと経験によって獲得した何物かということになるか。

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2019年12月29日 (日)

90年代の大学では

米沢穂信「さよなら妖精」という推理小説を読んでいる。ユーゴスラビアから来た少女をホームステイさせる話なのだけど(作中ではまだユーゴ紛争は起こっていない)途中「わざとでない伝統の創造ですね」というセリフが出る。「さよなら妖精」は2000年代の初め頃に出版された推理小説である。作者の米沢穂信と僕は十歳くらい違うのだけど、米沢の時代、90年代の大学だと「伝統の創造」という用語が教えられていたということになるだろうか。

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2019年12月11日 (水)

コンプレックスを吐き出す

文教大学の斉藤先生にメールを送る。神楽入門用の記事をWordファイル化して送ったもの。神楽についてあまり知識の無い学生向けの記事になるだろうと思って提案したもの。関東の大学生が主な対象だが、石見神楽や芸北神楽中心の内容となっている。関東の里神楽も出雲流神楽に分類されるので、まあ、なんとかなるだろう。

読み返してみると。「石見神楽はショーである」という批判についてつらつらと考えた内容となっている。多分、新聞記事であったのだと思うが、石見神楽は人気があるが、一部でショーだという批判があるといった書かれ方をしていたことを記憶している。それから中学一年生のときの担任の先生が郷土史家だったのだけど、「本物の神楽は大元神楽の様なものを言うんだ」といった発言をされたことを記憶している。

これらの批判について、どう答えたら良いか分からないままにコンプレックスとなっていたものが一気に噴出したというところである。現在は本質主義と構築主義という学説の対立の存在を知ったので、あのときのあれは多分こういうことだったんだろうなと思いつつ書いた記事である。

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2019年9月28日 (土)

体制転覆的――シェクナー「パフォーマンス研究 : 演劇と文化人類学の出会うところ」

「パフォーマンス研究 : 演劇と文化人類学の出会うところ」(リチャード・シェクナー, 高橋雄一郎/訳, 人文書院, 1998)を読み終える。

パフォーマンスというと演劇におけるパフォーマンスなどが狭義の意味でそうである。一方で、広義にとると、我々は日常生活において家庭では家庭人として、職場では職業人としてパフォームしているということになり、パフォーマンスは極めて広範囲な領域をカバーするのである。

また、演劇においては上演だけをパフォーマンスとするのではなく、稽古、上演、上演後のクールダウンに至るまで全ての過程がパフォーマンスだとしている。

演技と儀式に関する論考。演技も通過儀礼も<私>から<私でないもの>へと円環的に変化していくという点で共通しているとする。ギリシャ悲劇を手本として発展してきた西洋演劇に対して東洋の演劇を研究することで新風を吹き込もうとしている。

演技の場合、円環的にまた元の<私>にクールダウンされるのであるが、通過儀礼の場合は子供から大人の成員として変化を遂げることとなる。また、西洋の演劇ではクール・ダウンの方法論が確立されていないとしている。

インドのラーマーヤナの劇を大きく取り上げていて、日本の能についても触れられている。ラーマーヤナの劇は数十日にもおよぶ長大な内容を複数の劇場で移動しながら上演するという形式で、数万人もの観客がそれに従って移動するのである。一種の巡礼に近い。西洋演劇は三幕構成法によって物語のうねりが作られているが、インドの劇はそれとは異なり複数の筋が絡まり合いながら進行していく。

インドのラーマーヤナの事例の次はジャワ島の影絵劇(ワヤン)についてだった。オランダの植民地支配が長く続いた土地で(オランダ人はジャワ人に広く教育を施さなかった)、オランダの影響を受けて古典への回帰が図られたが(規範的期待)、シェクナーはそれは白人から見た古典としてお墨付きを与えるもので、構築主義的観点から異論を述べている。

最後の章では、トランス状態に入ることを目的とした研究者のワークショップの事例が紹介される。その宗教の内面を信じるのではなく、あくまで体のポーズ等にトランス状態に入り易い姿勢があるとのこと。トランス状態に入ることで一種の神秘体験をすることになる。神秘体験を経ることでそれまでの自分とは異なる自分となる。ただし、ここではそれは宗教的信仰とは結び付かない。

巻末の訳者あとがきでパフォーマンス理論について触れられていた。以前は演劇というと大学の文学部で学ぶもので、それも戯曲の解釈が中心だったという。その限界を超えたところでパフォーマンス理論は発展してきた。また、英国のカルチュラル・スタディーズと結びつき、内容を深化させてきた。ジェンダー理論などもそうである。東洋の演劇には植民地主義による支配-被支配の問題があるとしている(ポストコロニアル)。故にその内容は体制転覆的でもあるという。いわば既存の価値観を破壊的に乗り越えるのである。そういう点では日本では受け入れ難いのかもしれない。僕が感じたところだと、1980年代頃から盛んになってきた構築主義が根底にある。そういう意味では何でもありなのである。

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2019年6月12日 (水)

民俗から文化へ――岩本通弥/編「ふるさと資源化と民俗学」

「ふるさと資源化と民俗学」(岩本通弥/編, 吉川弘文館)を読み終える。タイトルにあるように、郷土の伝統芸能が地域おこしに活用され観光資源化されつつある。海外ではフォークロリズム(フォークロアまがい)という概念を用いて分析されてきた課題だけれども、現代日本でもフォークロリズムが浸透しつつある。

それらの動きの背景には農業が深く関わっている。民俗行事と農業というのは元々関係が深いものだけど、WTOによる関税引き下げ圧力で、国内農家を保護する既存の政策が見直されていることとも深い関わり合いがある。農水省はグリーンツーリズムといった新しい観光形態で農家の民宿経営を支援する保護策を打ち出している。が、小学生の体験学習で独自のノウハウを積み重ねている地域ではグリーンツーリズムに敢えて参加しないという方向性を選んでいるようだ。

また、ユネスコの世界遺産条約も加盟の影響も大きいようだ。世界遺産といっても、その保護自体は日本の国内法、文化財保護法等で守られており、白川郷の事例を挙げて、世界遺産化した現状に対する分析が行われている。

元々、文化という言葉は文化住宅といった用語でもそうであるように「進んだ、進歩した」というニュアンスが込められていた。明治時代以降の日本は西洋文化を取り入れることで文化化を推し進めてきた訳であるが、戦後になって見直しがされる。文化が西洋化されても心理面で豊かになっていないという現実である。そこで地方に残る伝統文化が見直されてきたという流れの様だ。

これらの政策の転換の背景には農水省の意向や、神道系の保守系圧力団体の意向が深く関わっていると指摘がされている。

後半に入ると、本書の姿勢が明確になる。本質主義の限界を指摘し、構築主義的な文化観となっていく。

民俗学はこれまで一国民俗学として日本の民俗を統一的に把握しようとしてきたことが指摘されている。しかし、実際には一国の括りで括れない程の多様性が日本の民俗にはあるのではないかという観点が提供される。

中西裕二「複数の民俗論、そして複数の日本論へ」では、白川琢磨の九州の神楽研究を例として挙げ、宮崎県の高千穂神楽を取り上げる。高千穂神楽は神楽の本場であるが、一面では観光神楽化して多くの観光客を受け入れている。高千穂神楽というと岩戸神楽のイメージであるが、実は歴史を振り返ると、岩戸神楽が現在の編成となったのは十九世紀に入ってからのことだとしている。

僕自身、本田安次の「日本の伝統芸能」に収録された九州の神楽の詞章を読んだことがあるが、それらは江戸時代に神道流に改作されたものであった。なので、明治以降だということはないと思う。

白川琢磨は宗教人類学者で、神道流に改作される以前の神楽の姿を捉えるには神道の知識だけでは追いつかない面もあるので、今後の課題としたい。

こういった十九世紀に再編成された神楽という見方自体が構築主義的である。構築主義は文化はその都度再構成/再創造されるものとの解釈である。とすると、それを推し進めると文化に本物も偽物もないことになり、何でもありになってしまう。それもまた困った話である。

川森博司「中央と地方の入り組んだ関係―地方人から見た柳田民俗学―」では岡正雄が柳田民俗学を「一将功なって万骨枯るの学問」と評した。一国民俗学の立場からこうした知の中央集権システムを構築した面があるのだけど、川森は地方で民俗を収集していた人たちは地方の知識人層であり、民俗学の外に生業があったとして、「万骨枯る」という見方に修正を施している。

民俗学の黎明期にはコンピュータやデータベースは存在しなかった。カードによる分類法などはあっただろう。現代的な視点で捉えると、柳田は自らを人間データベース化しようとしていたのではないか。

また、文化の客体化という用語がしっくり来るようになる。文化が本来の文脈から切り離されることで、文化が客体化、もっと推し進めれば商品化されるのだという解釈らしい。

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2019年5月31日 (金)

換喩と隠喩の混同―ー橋本和也「観光人類学の戦略 文化の売り方・売られ方」

橋本和也「観光人類学の戦略 文化の売り方・売られ方」(世界思想社)を読み終える。この本では観光の定義を狭くとる。巡礼とは文脈が異なるとして区別するのだ。アニメの聖地巡礼ではない。本物の巡礼である。巡礼・参詣には通過儀礼といった側面が強いが、観光にはそれはないからだ。

本書では観光を「異境において、よく知られているものを、ほんの少し、一時的な楽しみとして売買すること」と定義する。そして「一時的な楽しみ」を「本来の文脈から切り離され、集められて、新たな『観光文化』を形成するもの」と定義する。

民俗学にフォークロリズム(フォークロアまがい)という概念があって、民俗の現代的な傾向として取り上げられているのだけど、なぜ人はまがいもので満足するのだろうと考えていた。観光学的にいえば、例えまがいものであっても顧客の望むものを提供しているからだろうけれど、それは民俗学的な答えではないと思っていた。

観光人類学の橋本説では、よく知られてさえいえれば「本物/まがいもの」どちらであっても構わないのである。観光とは既によく知られているものを観光する個人が再発見することであり、本来の文脈から切り離されたものであっても一時的な楽しみとして消費するというのである。

フォークロリズムという概念があるとして、顧客だって本物とまがいものの区別くらいつくだろうと思っていたが、別に一時的な楽しみとして消費するのだから、まがいものであっても一向に構わないのである。

神楽で例えると、本来の神楽は神社のお祭りで奉納される奉納神楽だ。一方、それが観光に資するためにステージで舞われるようになると、それは本来の文脈から切り離された観光神楽となる。民俗学者はこの観光神楽に強く反発し無視してきたのだけど、見直しを迫られるかもしれない。地域活性化という名目で再構成/再創造された神楽で、ステージに特化した演出がなされているが、それらも視野に入ってくるのである。

同じような混乱をもたらす議論として、「観光化」によって自らの文化を対外的に紹介する機会を得、自らの文化に「誇り」を感じるようになったという「主体化」に関する議論がある。しかしそこで、誇りを感じるのは、自らが新たに従事するようになった「観光業」に対してなのか、それとも「自文化」に対してなのかを明確にしなければならない。自文化が評価されることに誇りを感じても、観光にたずさわる自分を誇りにする例は少ない。民族のアイデンティティに関する問題と観光に関する問題を混同することは観光研究にとっては大きなマイナスになる。(286P)

平成の時代辺りから本質主義が批判されて構築主義的解釈が優勢になってきた。今伝統と思われているものは実は近代になって誕生した創られた伝統である。ないしは観光上の必要から再構成/再創造された伝統にすぎないということになると、創られた伝統、つまりまがいものという見方になってしまう。その批判を回避するために、その再構成/再創造された伝統に携わる地域の人々の主体性をそこに見るべきだという論調がある。創られた伝統であっても、地域の人々が主体的に関わっているのだから、それは敢えて指摘するべきでないといったモラルに関する問題ともされている。こういう傾向に対する反論である。

「AはBを表す」と言うとき、搬送体(A)とメッセージ(B)が同じ文脈に属しているか、まったく別の文脈に属しているかによって、換喩的関係か隠喩的関係かの違いとなる。(中略)「真正性」についての議論も実は、この換喩と隠喩との混同に関する議論に他ならない。(中略)これらの事例はすべて、一部を提示して全体を表そうとする「換喩」の試みであった。しかし、本来の文脈から離れて観光の文脈に置かれたときには、すべてが「隠喩」の関係となる。当事者はそれを「換喩」的関係であり、「真正」だと主張する。一方それを批判する側は、それは単なる「隠喩」的関係であり、本質的で「真正」な関係はなく、自分勝手な類似性を見ているだけであると主張していることになる。別々の文脈に属するものを「換喩」だと主張するところにあいまい性が、文脈の混同が見られるのである。本来の文脈から離れた時点で「隠喩」になっているのだが、当事者にはどこで本来の文脈を離れたかが判然としない。そして反対者やライバルからは本来の姿ではない、「真正性」を欠いていると批判されるのである。(中略)一方、観光者は「まがいもの」か否かに頓着せず、そこに提示されているものを金を払って見に来るだけなのである。(173-174P)

文化が文脈に沿ったものであれば換喩的関係であり「真正」であるとなるが、本来の文脈から離れ観光の文脈に置かれたときには「隠喩」の関係となる。別々の文脈に属するものを「換喩」だと主張するところにあいまい性が、文脈の混同が見られるとしている。この議論は僕自身、理解しているとは言えないので、ここまでにしておく。直接書跡に当たって欲しい。

著者には観光の定義を広くとることで散漫になったという反省があり、観光の定義をここで見られる限定的なものにした。そこでは民俗学が問題にしている課題に一つの観点を与えるものとなっている。

 

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2019年4月28日 (日)

八木康幸「郷土芸能としての和太鼓」「たいころじい」15号

八木康幸「郷土芸能としての和太鼓」「たいころじい」15号を読む。創作太鼓、創作和太鼓に関する論文。全国に和太鼓のグループは数千あると言われているが、その多くが昭和の比較的新しい時期に結成されたものであるとしている。特定の指導者によって指導を受けている点でも特徴的である。つまり、歴史ある土着の音かというと必ずしもそうではないのである。

漫画やアニメを見ていても、お祭りに和太鼓が出演するという描写は珍しくない。それくらい定着しているのだけど、それは古くからの伝統がある芸能だと思っていたので意外な感がある。

論文によると、県単位で催される博覧会に出演する創作和太鼓のグループが多いとの指摘がある。そういう意味では既に郷土を代表する芸能としての扱いを受けているのである。

太鼓グループを結成するには、太鼓代、衣装代、作曲料、指導料などで1000万円近い経費がかかるとのことである。そういう意味では市町村からの補助によって成り立ったという背景も無視できない。

和太鼓を「心を持たぬ芸能」とみなし、「温泉芸能」「御当地民舞太鼓」と揶揄してきた「民俗芸能の本質」を信奉する民俗芸能研究者たちは、もはや敵ではない。たしかに和太鼓は言説と装いの上で民俗芸能を写し鏡としているが、時と場所のコンテクストを離れてますます舞台化する民俗芸能は、実体の上で和太鼓に限りなく近づきつつある。いわば地域文化としての両者は対等なのであり、伝統ある民族芸能に与えられてきたのと同じ「ふるさと」を表現する資格を、すでに和太鼓は手中にしているのである。(25P)
八木康幸「郷土芸能としての和太鼓」「たいころじい」15号(十月社, 1997)


論文の結びで、こういう記述がある。同じステージの上で上演されるんだから等価ではないかとでも言えばいいのか、挑発的な文章である。「心を持たぬ芸能」「温泉芸能」「御当地民舞太鼓」と揶揄したというソースを読んでみたい気もする。一方、「どこがヴァナキュラー(土着な)音なんだ?」という反発もある。

本質主義の頑固さにも戸惑ってしまうが、一方、構築主義を推し進めると「伝統に本物もまがいものもない」となってしまって、それでは本物とまがいものの区別もつかないということで、審美眼的な点から言っても見る目がないということになってしまう。

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2019年3月21日 (木)

案外、近代の産物――ホブズボウム「創られた伝統」

ホブズボウム「創られた伝統」を読み終える。多くの人に読まれてきたと見えて、本が大分痛んでいる。伝統とは案外近代になって創られたものであると発想の転換を迫る本。ホブズボウムの序論は抽象的で難解だった。それ以降の各論は高校で世界史を履修した程度の知識しかない自分にとっても比較的読み易かった。とはいえ、馴染みのない固有名詞も多かった。世界史履修といっても真面目に勉強したのは中国の清朝までで、西欧の近代はさっぱりだったので、あまり役に立っていないのは事実である。

スコットランドのキルトは近代になって創られたもので、それ以前はマント状の衣服をベルトで留めているという簡素な衣装だったらしい。それが現在ではキルトはスコットランドの象徴的衣服となっている。

ウェールズでは一部の人間が偽の独自の歴史をでっちあげ、幅広い支持を得た。文献学の発達によってそれらは偽物と看破されたのであるが。
儀礼も近代になって誕生した国民国家の国民をまとめ上げるための象徴として創られたものが意外と多い。英国だとヴィクトリア女王の時代以前は低調だったとしている。そして過去の儀礼の詳細が容易に分からないとしている。儀礼が儀礼としての荘重さをまとうようになった、そして国民の支持を得るようになったのはヴィクトリア女王の時代に入ってからだとしている。

インドでは大英帝国のインドとして臣民をまとめあげるため、それまでのムガル朝時代の儀礼が排され、新たに創造された儀礼や皇帝の新たな称号が導入されたとしている。

アフリカの部族社会もそうである。元から部族社会であったのではなく、植民地化した西欧人がそう見なしたからそうなったというのである。もっとも、これは訳者による解説がついているので、現在でも通じる議論かどうかは分かりかねる。

スポーツもそうである。十九世紀になって誕生したスポーツの多くは誕生してまもなく世界大会が催されるようになった。国民をまとめ上げる手段としても活用されていたことになる。また、当時は貴族・ブルジョワ階級のアマチュアリズムと労働者階級のプロフェッショナリズム(サッカー等)とが対立していたとのこと。

「創られた伝統」は構築主義の嚆矢となった本である。訳者の解説によるとマルクス主義の影響が多少伺えるとしているが、単純な下部構造決定論を取っている訳ではない。上部構造に当たる儀礼や衣装といった伝統文化が国民をまとめ上げる作用を果たすのであるから。

<追記>
ちなみに、岩竹美加子「民俗学の政治性―アメリカ民俗学100年目の省察から」によると(26P)ホブズボウム「創られた伝統」は構築主義に大きな影響を与えた本だが、その前段としてイギリスのマルクス主義学者ウィリアムスの歴史や伝統の意味を問い直す研究があり、そこから「創られた伝統」等の著作につながったとされる。東西冷戦が終わり、唯物史観は力を失ったと考えていたが、思わぬところで猛威を振るっていた。

◆参考文献
・「創られた伝統」(エリック・ホブズボウム, テレンス・レンジャー/編, 前川啓治, 梶原景昭 他/訳, 紀伊国屋書店, 1992)
・「民俗学の政治性―アメリカ民俗学100年目の省察から ニュー・フォークロア双書27」(岩竹美加子/訳, 未来社, 1996) 26P


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2019年3月 3日 (日)

疎外体験から――太田好信「トランスポジションの思想―文化人類学の再想像―」

「(増補版)トランスポジションの思想―文化人類学の再想像―」(太田好信, 世界思想社, 2010)を読み終える。最初、観光人類学の本と勘違いしていて(第2章が著者の論文をベースとしていて、それを先に読んでいた)、観光人類学は随分と楽観的なんだなと思っていたら、ポストモダン、ポスト植民地主義、ネオ植民地主義といった概念を背景に「文化」を考察する書物だった。

文化人類学は帝国主義、植民地主義の時代に確立した西欧中心の学問だ。そのため、観察する者と観察される者の間に力(パワー)関係が内包されている。文化相対主義にもその力関係が内包されていると批判する。文化人類学の政治性を問い直す本である。

日本の文化人類学は西欧からは離れた周縁に位置するが、戦前は海外に領土を持っていたこともあり、全くの無縁ではない。現在でも沖縄、アイヌといった領域がある。とはいえ、日本が近代化を施した国はうまく近代化を果たしたから、西欧とは事情が若干異なるだろうが。

基本的には構築主義の立場をとっている。一方で、民族誌の成果を先住民族が自らの文化を「真正である」として本質主義的に利用して主権回復運動に使ったりする(戦略的本質主義)といった事象が現れているとのこと。不変の本質はなく、不断に新しい解釈が付与されて再創造されるのだといった構築主義の立場からは戦略的本質主義に対して、それは間違っていると伝えることになり、ジレンマを生じているとのこと。

他、非西欧出身の研究者は出身国のインフォーマント(情報提供者)として期待されていて、理論構築からは疎外されているという現状があるそうだ。

著者はアメリカ留学体験があり、そのときの疎外感が文化人類学を学ぶモチベーションとなっているとのこと。

◆批判

青木隆浩「観光地における文化と自然の有用性―グリーン・ツーリズムを事例に―」「日本民俗学」243 に太田説に対する批判があったので引用する。

 前節で取り上げた問題のうち、経済学の文化概念については次節で検討することとし、ここでは文化の創出を肯定的に捉えることの問題点について考察する。
 その代表的な論者である太田は、まず文化の真正性をめぐる語りについて、「語りの対象を、創造力が欠如した客体とみなす罪を、その客体が過去の文化を継承するとして評価することにより隠蔽し、原初的な社会行為のイメージに見合わない変化をノイズとして退ける。その結果できあがる民族(俗)誌のなかに残っているのは、サイードがオリエンタリズムの特徴としてあげた知識と権力の癒着以外の何ものでもない」と批判し[太田 一九九八 四六]、「現在必要なのは、対象社会の人々の実践を文化の創造過程としてとらえ、その主体性を否定しない語り口なのである」と主張している[同 六六]
 しかし、現実問題として、地域住民の主体性を観光政策や企業の経営戦略、観光客のまなざしから明確に切り離すことは困難である。太田は主体性の枠組みをどのように設定しているのだろうか。政府からの補助金や企業の資本提供を受けて外部から管理されている事業でも、地域住民が積極的に参加していれば、主体性があると認めるのか。あるいは、観光客の期待に応えようとして田舎らしさを演出している観光地において、その文化を創出している主体は誰か。対象社会の主体性を否定しない語り口は、主体を地域住民として単純化して捉えるために、彼らを取り巻く複雑な社会関係を軽視し、結果的にあらゆる観光開発に対して迎合的な態度をとることになりかねない。その結果、この立場をとる論者は、恣意的な手段により地域住民を周辺の社会関係から切り離さなければ、観光開発に多大な影響を与えている政治や経済を批判することができない。しかし、それは主体性のあり方を歪めることになるので現実的でない。(7-8P)

 文化の創造において当該住民の主体性を積極的に評価するというスタンスは足立重和が言うところの文化構成主義の主体性バージョンということになるのだろう。構成主義(構築主義)の欠点はそれを推し進めると、結果的に現状追認となってしまうことだ。そういう意味ではまだ問題は解決されていないのだと思う。

◆参考文献
・「(増補版)トランスポジションの思想―文化人類学の再想像―」(太田好信, 世界思想社, 2010)
・太田好信「文化の客体化―観光をとおした文化とアイデンティティの創造」「民族学研究」57-4(日本民族学会, 1993)pp.383-410
・青木隆浩「観光地における文化と自然の有用性―グリーン・ツーリズムを事例に―」「日本民俗学」243(日本民俗学会, 2005)pp.1-32
・足立重和「伝統文化の説明―郡上おどりの保存をめぐって」「歴史的環境の社会学 シリーズ環境社会学3」(片岡新自/編, 新曜社, 2000)pp.132-154
・足立重和「伝統文化の管理人 郡上おどりの保存をめぐる郷土史家の言説実践」「社会構築主義のスペクトラム―パースペクティブの現在と可能性―」(中河伸俊, 北澤毅, 土井隆義/編, ナカニシヤ出版, 2001)pp.175-195

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2019年2月28日 (木)

so what?  「民俗学の政治性―アメリカ民俗学100年目の省察から」(岩竹美加子/訳)

「民俗学の政治性―アメリカ民俗学100年目の省察から」(岩竹美加子/訳, 未来社, 1996)を読み終える。翻訳ものとしてはこなれた文章だった。複数の著者の手になる論文集で、明言はされていないが、構築主義的なスタンスで一貫していた。なお、ホブズボウム「創られた伝統」以前にイギリスのマルクス主義学者ウィリアムスの歴史や伝統の意味を問い直す研究があり、そこから「創られた伝統」等の著作につながったとしている。構築主義はマルクス主義系でもあるというところだろうか。現在においては効力を失っていると思っていたのだが、意外なところで猛威を振るっていた。
 伝統というイデオロギーが持つ矛盾の一つは、文化を保存しようとする試みが、必然的にその固定されようとしている伝統を変容させ、構成し直し、作り変えてしまうことである。伝統は、本物でもないし、偽物でもない。というのは、もし、本物の伝統というものが、基層にある過去の不変の遺産を指すのであるなら、すべての本物の伝統は偽物だからである。
 しかし、我々が論じてきたように、もし伝統は常に現在において定義されるのであるなら、すべての偽物の伝統は本物である。本物と偽物という言葉は、意味のない世界から客観的な現実を区別するために用いられてきたが、それを社会現象にあてはめようとすることは不適当である。社会現象は、決して我々がそれを解釈する行為と切り離されては存在しないからである。
リチャード・ハンドラー, ジョスリン・リネキン「本物の伝統、偽物の伝統」「民俗学の政治性―アメリカ民俗学100年目の省察から ニュー・フォークロア双書27」(岩竹美加子/訳, 未来社, 1996)p.152
イデオロギーとするところがマルクス主義的だ。しかし、それはともかく民俗に本物も偽物もない。そこまで言い切ると、それは違うんじゃないかという気もしないでもない。本物も偽物も無いというなら、それは民俗学や文化人類学が単に現状を追認するだけの学問に成り下がるのではないかという気がする。価値相対主義の悪い面が出ている。

元々読んだ動機はアメリカ民俗学のパフォーマンス理論について触れられているとのことだったので興味を覚えたのだけど、概要は分かっても、それをどう具体的に適用していけばよいのか分からない、というのが現状だ。例えば、昔話を語るのは第二の型のパフォーマンス、神楽は第三の型のパフォーマンスというところまでは分かるのだけど(第一の型がよく分からないけど民俗一般を指すのか)、そこから何をどう読み取っていけばよいのか見えてこないのだ。

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