伝承ならぬ電承――伊藤龍平「ネットロア」
ネットというメディアを通じての現代社会論にもなっている。内容的には読書スピードの遅い自分でも一日で読み切れるボリュームだ。
「くねくね」という某匿名掲示板を舞台にした電承がまず検討される。某匿名掲示板には僕も時間を吸い取られたが、それはともかく、オカルト板と民俗・神話学板でそれぞれ電承が繰り広げられたとしている。オカルト板は覗いたことがないが、民俗・神話学板は時々覗いている。専門板でほとんどのスレッドが過疎気味である。
オカルト板はスレッドの参加者がビリーバー(話を信じている人)というスタンスであるが、民俗・神話学板ではリサーチャー(調査者)というスタンスに別れるとのことである。板にもその板特有の気風があるのである。
現在ではTwitter、Facebook、LINEといったSNSが普及していて、2018年現在、匿名で書き込む掲示板スタイルはピークを過ぎたと思う。
僕自身、オカルトネタを書き込んだことはないけれど、ネタならよくレスしている。たまに受けて、更に稀にそのレスがコピー&ペーストされることがある。コピペによってスレッド、ボードを超えて拡散していくのだけど、その際、微妙に改変が加えられることがある。
一方、Twitter、FacebookといったSNSでは基本、リツイート、いいね!でそのまま拡散していく仕組みなので改変が加えられる可能性は匿名掲示板より少ないのではないか。
Twitter、Facebookを使い始めた頃のこと、リツイートやいいね!が何をするものか意味がよく分からなかった。いきつけの歯科医の先生のアカウントを教えてもらって友達設定としたのだけど、そうしたところ、タイムラインに先生がいいね!を押した内容が頻繁に表示されるようになった。それを見て「あっ、こうやって拡散していくんだ」と感心した憶えがある。SNSは友達の輪を介して友達の友達に情報を拡散していく機能が標準でそなわっているのが特徴だろうか。
ネットロア(電承)を取り扱った本であるが、この30年ほどはパソコン通信からインターネット掲示板、ブログ、ポッドキャスト、動画共有、SNSなどメディアとしての性格が目まぐるしく進化した時代でもあった。歴史的に百年分の進化が一気に起きたと言っても過言ではないだろう。そういう時代の匿名掲示板論にもなっていると思う。
本書では他に「八尺様」などを参照しつつ、ネットによる電承の形態――文字、音声、画像、動画による――を探っていく。ネットの動画については一人称的な視点で――ゲームと違い主人公をコントロールできないが――視聴させることも可能である。他、「南極のニンゲン」など。
また、鳥居みゆきの芸(黒い笑い)とネットという「地下」との関連、ドラマ「あまちゃん」の考察を元にしたアマチュア的アイドル論やファスト風土化した郷土論なども収録されている。
さて、「くねくね」というネットロアであるが、僕自身、あまりオカルトを信じる性質ではないのだけれど、小学生のときに不思議なものを見た記憶があるのだ。それは小学高学年のあるとき、秋だったか、剣道教室を終えて同級生と帰り道を歩いていたときの話である。既に日は暮れていた。陸上競技場を挟んで小学校の体育館が見えるのだけれど、体育館のカマボコ状の屋根の上を何かヒラヒラしたものが飛び回っているのである。なにかとんぼ返りしている印象だった。それは大きさからして人間の動きを遥かに上回っていたろう。遠くから見えたのだから発光していたかもしれない。あれは何だろうと思った記憶がある。確かめに引き返す気もなかったのだけど、未だに記憶している。今となっては夢を混同したのかとも思わないでもない。ただ、夢ならば醒めてしまえば直ぐに忘れてしまうはずなのである。夕方になって今朝の夢を思い出せるかと言われて答えられる人は少ないだろう。それが記憶に焼きついているのである。ネットロアと違うのはそれを見たから何か不幸が自分の身に起きたという訳ではなかったことである。心胆を寒からしめる強烈なオチがないのである。
インターネット上のコンテンツという電子媒体による伝承という意味であれば、当ブログも電承である。当ブログの場合は地方の伝説を紹介して、それに現地にいった写真を添付することで伝説のリアリティを増している。僕自身、郷土史家のように伝説そのものを発掘する訳ではないけれど、収集者の役割を果たしていることになる。
<追記>
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