六郷寛「第二五回古代文化講座 芸北地域に「石見神楽」はいつ伝播したか? ―「伝統」と「創作」の視点から―」『しまねの古代文化:古代文化記録集』17号を読む。六郷氏は北広島町教育委員会の職員。
何年か分からないが、浜田市のいわみーるという施設での講演の模様が文字起こしされたもの。講演録の後に芸北地域の史料が掲載されている。漢文を読み下したものと思われる。文字面を追うことはできなくもないが文脈をとるのは難しい。
この講演が収録された『しまねの古代文化:古代文化記録集』17号は2010年3月の発行であった。芸北地域の江戸時代の動向が語られているのでもっと早く読んでおけばよかった。
おそらく同様の内容だと思うが、六郷寛「近世末期安芸国北部地域における「石見神楽」の受容」『近世近代の地域社会と文化』という論文名も記されている。ただ、この論文はおそらく雑誌でなく書籍に掲載されたものだろう。国会図書館だと書籍に掲載された論文は著作権の関係で半分しかコピーできない。全部読むには国会図書館に行かなければならない。
北広島町は大朝や千代田の辺り。浜田市からなら高速道路一本でいける地理的関係にある。
広島県の安芸国の北部で舞われる神楽は芸北神楽と呼ばれることが多いが、六郷氏は石見神楽という認識である。学問的には芸北神楽は石見神楽なのである。ここでは石見神楽+芸北神楽の場合、石見系神楽と表記する。
従来、神楽の分類で出雲流神楽という分類があった。現在は採物神楽と称されるように変わっている。中国四国九州に分布していてストーリー性のある神楽、神楽能(能舞)と儀式舞が組み合わされた神楽だとされている。
その出雲流神楽の源流が松江市の佐陀神社の佐陀神能だとされている。安土桃山時代から慶長期にかけて能の影響を受けた神楽が成立したとされている。
ここで六郷氏は旧山県郡の壬生神社に伝わる資料(井上家文書)から「荒平舞詞」を挙げる。この史料は『日本庶民文化史料集成』第一巻に収録されている。これは荒平という鬼が長々と口上を述べていかに自分が凄い存在であるかアピールするが、日本は神国なので敗れてしまって、魔法の杖を授ける……というような内容である。これは現在でも広島県の安芸十二神祇で「関」といった演目名で舞われている。四国ではこの鬼は提婆と呼ばれてもいる。九州の神楽の詞章にも荒平の名を見ることができる。
このように西日本に広く分布している荒平なのだが、六郷氏は「荒平舞詞」は戦国時代の史料だと指摘する。つまり佐陀神能より古い神楽の記録が残っているとするのである。六郷氏は佐陀神能は仏教色を排除した神楽だと指摘し、当時は西日本一帯に神仏習合的な神楽があったのではないかと推測する。後に吉田神道が神職を統括するようになり、1800年代の初め頃に神楽が仏教色を排して神道流に改訂されたのである。
で、話は芸北地域、主に旧山県郡の歴史に移るのだけど、六郷氏は井上家文書を読み解き、1830年代に邑智郡から石見神楽の流入が始まったとする。当時の石見神楽は神職によって舞われていた。その後1850年頃に石見神楽の伝習が行われ氏子(若連中)が舞うようになったと解説する。
石見地方でも浜田藩が氏子が神楽を舞うことを禁止したという記録が残っているそうなので、江戸時代から見様見真似で舞っていたとされる。ただ、氏子自身が舞うようになるのは芸北地域の方が早かったのかもしれない。
ちなみに、石見神楽が流入する以前は湯立、造花といった儀式が主たるものだったとする。造花は大正時代か昭和の時代に廃絶してしまったとされている。獅子舞もあったが、その他の出し物は変遷して定着せず、石見神楽が流入して固定化されるようになったとのこと。
……大体そういう内容なのだけど、僕自身、江戸時代の芸北地域については漠然としたイメージしかなかった。江戸末期とは幕末くらいだろうかと思っていたのだが、実際には天保期の出来事だった。認識が改まったので、いずれ拙書『神楽と文芸(総論)』を改訂しようと思う。
締めとして現在の芸北神楽について語られる。よく知られているように芸北神楽は石見神楽が伝わった当時のもの(旧舞)と戦後の創作演目(新舞)とに分けられる。
新舞はGHQが皇国史観を危険視したため従来の神楽が禁止され、その検閲を回避するために創作されたとされている。作者は佐々木順三で彼が自費出版した台本には17演目記載されている。
現在では更に進んでスーパー神楽を新々舞と呼ぶこともあるそうだ。
で、芸北地域の内部でも新舞に関しては「これは神楽ではない」という声があるそうである。「伝統を守る」と「新しいものに挑戦する」という姿勢が対立している訳であるが、六郷氏は「どうかな」と態度を保留する。石見神楽にしても元は他所から流入してきたものが定着したものである。だから「新しいもの」が駄目とは一概に言えないとするのである。
まあ、どんな演目も最初は創作演目である。僕自身は現在の郷土芸能は観光路線もあって「現状維持」が基本線だと思う。出雲神楽を見に行ったら芸北神楽をやっていたとなったら話が違うとなるからだ。ただ、新しいことをしてはいけないという決まりも無い。自身でリスクを引き受ける分には構わないのではないか。
関東の事例だと、厚木市の垣澤社中、ここは厚木市の指定無形文化財に指定されているが、次の家元(娘さん)が中心になって声楽家や舞踏家とコラボした創作演目を発表したりしている。自分でリスクを引き受けているから許されているのである。
ただ、芸北の人たちが考える新しいこととは奇抜な演出のことではないかという気もする。それは違うと思うのである。
現状維持に不満を感じるならこうも言える。芸能とは本来上達するにつれてその奥深さに目覚めていく性質のものではないか。
ここで冒頭部分を引用する。
ところが、東京のほうから来られた方が石見神楽をご覧になると、「なんじゃこりゃあ」とびっくりする。だいたい神楽とは言わない。我われのほうでも神楽というのは新しい言い方で、昔の人は“舞”って言っちゃった。「舞を舞う」って。関東では“舞”どころか“神楽”という言い方もしない。ていねいに“お”をつけて“お神楽、お神楽”といわれる。“お神楽”は何者かといいますと、手に鈴を持ったりして、ここら辺でいう“儀式舞”ですね。鬼が出てきてチャンチャンバラバラ、というようなことはしない。キリキリ回って「あれ残念なり無念なり!」とかいうようなことは、まちがってもしない。というんでありまして、おとなしい、どっちかというたら退屈なものが“お神楽”だ、というふうに関東地方の人は思うとってんです。3-4P
ここで引っかかりを感じる。この東京の方から来た人は具体的にどこの神楽を指していたのか。僕自身、横浜に住んでいるので首都圏の神楽は見学したことがある。埼玉県久喜市の鷲宮神社の催馬楽神楽や東京の品川神社の太々神楽は確かにストーリー性のない儀式舞的な神楽である。だが、埼玉県坂戸市の大宮住吉神楽は昔ながらの鄙びた神楽を残しているがストーリー性のある演目もある。また、東京や神奈川の神代神楽はストーリー性のある演目、口上のない黙劇である。
ちなみに鷲宮神社の神楽は関東の神楽の源流とされる。やはり江戸時代に改訂を受けているが当時の演目が12演目+α残されている。品川神社の太々神楽は氏子さんたちが正装してかしこまって見る神楽である。都心に古い神楽が残されていることが驚きである。
で、僕は関東の神代神楽と石見系神楽は好対照をなしていると思うのだ。神代神楽ではモドキという滑稽な役柄を演じる登場人物が活躍する。全体的にユーモラスな内容なのである。勇壮な演目を好む石見系神楽とは明確に異なる。テンポもゆったりしたもので、例えると、動きの速い能だろうか。同じく演劇性のある神楽だが、神代神楽が「静」なら石見系神楽は「動」という対比が見られるのである。
関東の神代神楽を実見して僕は気づいたのである。石見系神楽は鬼退治ばかりではないかと。石見系神楽の能舞はバトルを中心にして構成された舞が多い。それに対して神代神楽では記紀の内容を忠実に再現した演目が多く、バトルが無い訳ではないけれど、それがメインということはないのである。
また、関東の神楽師たちは獅子舞も演じる。そういう意味で芸能本来の持つ祝福芸的な要素も残しているのである。石見神楽だと恵比須だろうか。山間部だからだろうか、芸北では釣りがモチーフの恵比須の上演頻度は高くないように見える。
出典は失念したが、昔、民俗学者の偉い先生が中国地方の神楽は鬼退治ばかりだと笑ったという逸話が残っている。石見系神楽に関してはその言葉がそのまま当てはまるのである。
これが現代の創作演目である新舞の欠点なのである。僕も台本集を読んだり出典を調べるなり、視聴可能な演目は動画を見るなりした。全部バトルなのである。石見神楽からの流れで人気があるからそうなっているのだが、それ以外の展開がないのである。ある面では表現の幅が狭いと言わざるを得ない。
また、これは石塚尊俊が指摘したことだが、新舞はその成り立ち上、説話ベースで神話劇ではないのである(※一部、神武天皇やヤマトタケル尊の演目はある)。題材の幅が広がった面もあるが本筋から逸脱してしまったように思える。神さまに神話劇を奉納するなら分かるが、神さまに源頼光の鬼退治を奉納するのは意味があるだろうか。源頼光やその四天王はヒーローではあるが信仰の対象ではない。神さまはそんなことは気にしないとは言える。石見神楽の理屈だと神さまは人が喜んでいるのを見てお喜びになるということだそうである。
神代神楽にも「紅葉狩」といった能に出典を持つ演目は存在する。そういう演目を本田安次は「近代神楽」と呼んでいる。だが、それはあくまで演目の一部であって主体をなす訳ではないのである。
佐々木順三の作品以外にも創作神楽は作られている。でも、その多くは地元の伝説を題材にしたもので地元的には正統性のあるものである。
僕自身、浜田市の出身で八調子石見神楽を見て育ったから新舞に関してもさほど違うとは思わない。石見神楽より演劇性が強いなとは思う。
そういう僕も安芸高田市で開催された高校生の神楽甲子園という全国大会で奥出雲の高校生が新舞で出場して日芸選賞(※当日の最優秀校)を受賞したのを見たときには極めて保守的な感情を抱いた。牛尾三千夫や岩田勝といった神楽の権威は八調子石見神楽や新舞を激しく嫌ったが、その気持ちが理解できたように感じたのである。
これは他所の地域の若者が新しい芸能を受け入れた事例である。歴史的には別に珍しくないだろう。が、僕には新舞が出雲神楽のテリトリーを荒らしているように見えるのである。神楽甲子園については別途記事を書いているので、興味のある方は当ブログの神楽カテゴリーか2023年7月の過去ログを当たって頂きたい。
新舞の長所を挙げることもできる。ストーリー性があり、ライブの一回性もあって繰り返しの鑑賞に耐えるのだ。儀式舞なら一回見ればいいかという人も多いだろう。
また、新舞の派手な身体パフォーマンスは若い先天的な感性に訴える力を有している。石見神楽の動画を見ていると、子供が舞台にかぶりつきで見ている場面を目にすることがしばしばあるが、幼い子供たちは先天的な感性、審美眼で神楽を見ているのである。
全国の神楽を隈なく回って見ている神楽通が何人いるか知らないが、そういう人たちは新舞を神楽とは見なさないだろう。新舞は現代神楽と言い換えることができると思うが、現代に至るまでに失われたものがある。神楽を神楽たらしめている何か、神楽通たちはそういったものの欠如を敏感に感じ取ることだろう。
僕も神楽をやった経験がある訳ではないのでよく分からないが、何と言うか、演劇の要素が強まることで呪術的な要素の名残が消え失せてしまっているように見えるのである。今の新舞は現代民俗音楽劇と呼んでもさほど的を外していないだろう。
神代神楽は首都圏の芸能だけあって洗練されているなと見ていて感じる。新舞も神楽を洗練させていった結果の一つだけど、進化の方向性は一つではないのである。
僕は出不精で全国の神楽を見て回っている訳ではない。日帰り圏がせいぜいだ。でも、浜田市出身で現在は横浜市に在住していることがプラスに作用した。石見系神楽と関東の里神楽を偶然ではあるが比較して見る機会に恵まれたのである。この結果、僕は石見系神楽を相対化して見ることが可能になったと感じている。
もし新しいことがやりたいなら、他所の地域の昔ながらの神楽を見てバランスをとった方がいいと思うのである。バトルしか能のない新舞(※だから佐々木順三は茶利にこだわったのだろう)は既に進化の袋小路にはまり込んでいると見る。
なお、SNSで芸北神楽の奉納神楽の宣伝ポスターの画像を見ると、上演演目では新舞と旧舞が混在していることが分かる。新舞だけを舞う神楽団というのはおそらく存在しないだろう(※岩戸を保持演目としていない神楽団はあるそうだが)。