忠臣蔵

2017年2月26日 (日)

(番外編)両国・本所松坂町公園――吉良上野介の邸宅跡

 両国本所の本所松坂公園。ここに忠臣蔵で有名な元禄赤穂事件で首を取られた吉良上野介の邸宅跡がある。
 両国駅を出て本所警察署の裏道を行くと両国小学校がある。その先を進んでいくと、一角に黒い平瓦を壁面に菱形に張り連ね、漆喰で目地を盛り上げた海鼠壁で仕切られた本所松坂町公園がある。
JR両国駅
JR両国駅
本所警察署・裏手
本所警察署・裏手
両国小学校
両国小学校
吉良邸正門跡
吉良邸正門跡
吉良邸正門跡・由緒書
本所松坂町公園
本所松坂町公園
本所松坂町公園由来
 元禄十四年、西暦だと一七〇一年三月十四日、江戸城松の廊下で浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に刃傷に及ぶ事件が発生。浅野内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家はお取り潰しとなる。
 筆頭家老の大石内蔵助は赤穂城を明け渡す苦渋の決断をし、浪人となる。内蔵助はお家再興に動くが、望みが断たれ討入りを決断。この間、血盟を誓った者たちが次々と脱盟、残されたのは四十七人だった。
 翌元禄十五年十二月十四日から十五日未明にかけて、四十七士が両国本所の吉良邸に討入り、上野介の首級をあげる、というのが元禄赤穂事件の大まかな流れ。
本所松坂町公園・首洗い井戸
首洗い井戸
本所松坂町公園・祠
吉良家家臣二十士
討ち入りで亡くなった人たちの名が確認できる
本所松坂町公園・吉良上野介義央公像
吉良上野介義央公像
本所松坂町公園・吉良上野介義央公像
 討ち入りで命を落とした吉良家家臣の名も確認できる。上杉の家臣も侍長屋に詰めていたはずだが、名前は確認できない。長屋の戸にかすがいを打ち付けられて出られなかったという話もあるが、蹴破れるはずで、実際のところは判然としない。
 打ち取られた吉良上野介義央は領地の愛知県幡豆郡吉良町では黄金堤を築いたとされる。矢作川水系の氾濫に悩む領民のため、吉良上野介が私財を投じたと言伝えられており、水害を防いだことで黄金色の稲穂が垂れる豊かな田地となったことから黄金堤と呼ばれている。なので、地元では名君とされているとのこと。だが、ドラマ的には憎々しい悪役でないと面白くないのも事実。
本所松坂町公園・稲荷神社
本所松坂町公園・内部
本所松坂町公園・遠景

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(番外編)港区高輪の泉岳寺――赤穂浪士ゆかりの地

 東京都港区高輪の泉岳寺。JR品川駅から歩いて行く。門前には土産物屋があって、ちょっとした門前町の雰囲気である。
東京都港区高輪の泉岳寺・中門
泉岳寺・山門
泉岳寺・中門
中門
 泉岳寺には忠臣蔵で有名な元禄赤穂事件の赤穂浪士たちの墓がある。赤穂浪士の墓があるというより浅野内匠頭の墓があるといった方が正確か。討ち入りを果たした赤穂浪士たちは泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に報告している。
泉岳寺・大石内蔵助像
大石内蔵助像
 境内は撮影禁止なので写真がないが、気づいたところでは討ち入り前に自害した萱野三平のお墓があること。47人でなく、48人のお墓があることになるか。萱野三平は亡君への忠と再仕官を勧める父への孝との板挟みになって自害した人。
高輪周辺地図
東海道と泉岳寺・解説

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2015年8月21日 (金)

源氏巻と元禄赤穂事件

◆はじめに

 津和野の銘菓・源氏巻に次のような物語が添えられている。
銘菓物語(源氏巻)
 江戸・元禄時代、赤穂の浅野内匠頭の刃傷が起きる前のことです。当時の津和野藩主、亀井茲親が勅使接待役を命じられ、吉良上野介に教示を依頼しましたが、浅野同様、数々の非礼を受け藩主を怒らせました。それを知った国家老多胡外記は早速、吉良家に進物を贈りつけ、ことなきを得ました。
 その時の進物の一つが「源氏巻」です。小判を下に敷きその上に竹皮で包んだ源氏巻をのせたという言い伝えがあります。津和野を救ったといわれる縁起の良いお菓子です。

◆浅野内匠頭、乱心

 元禄十四年、西暦だと一七〇一年三月十四日、江戸城松の廊下で浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に刃傷に及ぶ事件が発生した。浅野内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家はお取り潰しとなった。

 では、浅野内匠頭はどうして刃傷沙汰に及んだのか? 松の廊下で勅使饗応役――朝廷からの使者をもてなす役目の浅野内匠頭が脇差しを抜き、この間の遺恨覚えたるかと言い放つと、指南役の吉良上野介に斬りつけたという事実は分かっているが、その動機は諸説紛々、定かでない。

 取り調べに対しても浅野内匠頭は明言していない。どうして刃傷沙汰に及んだのかは忠臣蔵の肝と言える。明確な答えが出ないということは、浅野内匠頭は錯乱していたのかもしれない。

◆余談

 それにしても、吉良上野介はやはり悪役なのだろうか。悪役の方がドラマ的には面白いのは確かだけど。帰省の土産でもらった源氏巻の箱に書かれていた秘話を読んでそう思う。

松の大廊下跡・解説
松の大廊下跡・標識
皇居東御苑・松の大廊下跡
皇居東御苑・松の大廊下跡
皇居東御苑にて撮影

記事を転載 →「広小路

 

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2011年1月20日 (木)

(番外編)備中松山城と大石内蔵助の腰掛け岩

正月の帰省。帰りは伯備線経由。備中高梁市で途中下車。頼久寺には寄れなかったが、武家屋敷通りを通って臥牛山の登山道に入り備中松山城へ向かう。学生のとき以来、今回二度目になる。
備中松山城・遊歩道入口
備中松山城・遊歩道入口
標識・備中松山城・遊歩道入口
備中松山城・遊歩道入口
登山口
備中松山城・遊歩道と大石内蔵助の腰掛け岩
大石内蔵助の腰掛け岩
登山道の中程(遊歩道登城口から700m、備中松山城まで900mほど)に元禄赤穂事件で知られる大石内蔵助が腰掛けたとされる岩がある。江戸城・松の廊下事件の七年前(八年か?)、水谷(みずのや)家が改易となり、松山城の収城に赴いたときのこと。
大石内蔵助の腰掛け岩
播州赤穂藩家老大石良雄腰掛岩・ご由緒
播州赤穂藩家老
大石良雄腰掛岩
元禄六年十月藩主水谷勝美歿して家嗣がなく御家断絶領地を召上げられたので播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩に城請取りを仰付けられた
翌元禄七年二月二十一日先発隊として大石内蔵助良雄が松山城に到着した
城請渡しについては水谷家家老鶴見内蔵助と会見して平穏裡に折衝を了へ 元禄八年八月六日(一六九五年)まで一年七ヶ月この城に在藩した
その間大石良雄は城地を調査に登城の際此の岩に腰を掛けて休息したと伝えられている
うまく話をまとめた内蔵助だが、数年後に自身も赤穂城を明け渡す立場になるとは思わなかったのではないか。運命の皮肉の様なものを感じる。
浅野内匠頭と正室の間に子が無かったので、全くということもなかったとは思う。松の廊下事件の後、内匠頭の弟の大学を立て、お家再興を図るも叶わず、吉良邸へ討入りを決行することになる。
本丸に入るところで音声解説のついた案内図があるが、このときの経験が後に役立ったと解説していた。それは確かにそうだろうが、望んでそうなった訳でもなく、何とも言えないだろう。ちなみに水谷家家老の名が鶴見内蔵助で「二人の内蔵助」として知られているとのこと。
備中松山城・大手門前
備中松山城・音声付き解説図
大手門前と音声付き解説図
確か、学生のときは腰掛けなかったと思い出しつつ、腰掛けてみる。運命という程でもないが、生きていれば色々ある。
備中松山城・天守閣
備中松山城。天守閣は創建当時のものが現存している。
備中松山城・天守閣内部
備中松山城・装束の間
備中松山城・装束の間・解説
中写真が装束の間。中二階に当たるか。床下には人が入れないようになっており、いざというときは城主はここで自決する場であるとのこと。
装束の間
籠城時の城主一家の居室床下に石を入れ隙間のないようにし、忍びの者でも侵入できないように工夫がされている.
戦に敗れ、落城の時は城主一家の死に場所でもある.
帰り道は舗装された道路を徒歩で戻る。高所恐怖症なので下りの遊歩道は敬遠。歩いていると、どうも背後で物音がする。が、振り向いても何も無い。もしかしたら猿なのかもしれない。
<追記>
アップロードしようと思っていたら、東北~北関東にかけて激甚な災害が起きてしまった。生死について考えさせられる。

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