関西

2020年1月18日 (土)

あれから25年

昨日で阪神淡路大震災から25年が経過したとのこと。当時の僕は姫路に住んでいたが、アパートで寝ていて、最初の激震で目が覚めて背筋がぞっとしてしばらく布団から出られなかった。姫路は震度4強だったが、棚のものが幾つか落ちた。ただ引っ越しを控えていて荷物を段ボールにまとめていたので大した被害は無かった。

後で聞いた話だと、同期によると神戸市内では洗濯機が吹っ飛んだとのことであった。重心の低い洗濯機が吹っ飛ぶのは余程のことである。上司は死ぬかと思ったと言っていた。取引先の社長はちょうどトンネル内を運転中だったが、事故を起こしたかと思ったそうである。本社に務めている女の子は実家が焼失したとのことだった。

当日は出社したが、一日仕事にならなかった。神戸を通るルートが通れなくなったので、現在の加東市を通る372号線が代替ルートとなったのだけど、社町に狭隘な区間があり、そこで大渋滞を引き起こしていた。今地図をみると流石に一直線になっている。強制収容されたか。

営業で外回りしていると乗用車の後席に毛布にくるまった人が乗っていたのを目撃した。後で明石にいったが、新幹線の高架が崩落しているのを見た。また、神戸のポートアイランドは液状化で道がデコボコになっていた。

|

2019年5月26日 (日)

芸北神楽の新舞で最も創作色が濃い「鈴鹿山」と田村三代の物語

◆はじめに
 芸北神楽の新舞に「鈴鹿山」という演目がある。征夷大将軍の坂上田村麻呂が鈴鹿山の鬼を成敗するという粗筋である。

 この「鈴鹿山」の粗筋を出典候補と思われる「田村の草子」「鈴鹿の草子」「田村三代記」の粗筋と比較してみたが、全くといってよいほど符合しないのである。奥浄瑠璃の「田村三代記」だと、舞台が鈴鹿山という以外は全く不一致なのである。それでは謡曲「田村」かと思ったが、これも鈴鹿山の鬼神を成敗するという件以外は符合しない。

 芸北神楽の創作演目である新舞は茶利の登場場面以外は基本的に出典から大きく外れることはない。おそらく「鈴鹿山」の台本は、佐々木順三が手掛けた創作演目の中でも最も創作色の濃いものだろう。

 旧舞の「鈴子山」も粗筋が符合しない。これも創作色が濃いのではないかと思われる。

 「鈴鹿山」の作者の佐々木順三は地元の小学校か中学校の校長を務めていた人だったか、地方の教養人なのである。だから「田村の草子」「鈴鹿の草子」「田村三代記」等を知らなかったということはないだろう。

 粗筋を追っていくと「田村の草子」「鈴鹿の草子」「田村三代記」と変遷していく中で、「鈴鹿山の鬼」というモチーフが「鈴鹿山の鈴鹿の御前(立烏帽子)」という風に変わっていくのである。なので、原点にあった「鈴鹿山の鬼退治」という観点から敢えて採用しなかったとも考えられる。佐々木順三は既に亡くなっているので、あくまで推測に過ぎないが。

 「田村の草子」「鈴鹿の草子」「田村三代記」と粗筋が一致しないということは、逆に言えば神楽の演目「鈴鹿山」をこれら草子類の粗筋に沿った内容に改変する余地も残されているのではないか。

◆神楽のあらすじ

新舞「鈴鹿山」あらすじ
 桓武天皇に仕える鎮守府将軍・坂上田村麻呂は摂州鈴鹿山の鬼を退治すべく、鈴鹿山に向かっていた。
 和田翁とあやめ姫が登場。鈴鹿山の鬼があやめ姫を狙っているため、山積権現(やまづみごんげん)に姫を逃そうとした。そこに鬼の手下である夜叉丸(やしゃまる)が現れ、和田翁を殺し、あやめ姫を奪う。
 そこに坂上田村麻呂が現れた。田村麻呂に打ち伏せられた夜叉丸は改心、田村麻呂の家臣となる。
 田村麻呂と計略を練った夜叉丸はあやめ姫と連れて鬼の首領である犬神丸(いぬがみまる)の許へと連れていく。酒宴が開かれた。酔った犬神丸に夜叉丸が切りつけた。田村麻呂が現れた。犬神丸は大悪鬼となって戦ったが、田村麻呂に討ち取られた。

旧舞「鈴子山」あらすじ
 田村将軍坂上是成(これなり ※田村麻呂か)は摂州鈴子山に籠もった鬼を退治せよとの勅命を被る。
 鈴子山に入った是成は里人に会い、鬼とは長屋という長者の家に鬼丸という子がいて、寺子屋に通う際、憎まれて額に鬼という字を書かれて、我鬼なれば、数多の諸民をとり喰らわんと悪鬼に変じたということを聞かされる。
 鬼の岩屋に入った是成は鬼と対決する。目の見えない鬼は帯の端と端を持って戦う。鬼は討ち取られた。

◆動画
 YouTubeで山王神楽団の「鈴鹿山」を鑑賞。基本的にはオリジナルの台本に沿った内容だった。夜叉丸ともう一人手下が出た。もう一人は斬られて退場する。鬼は二体出た。二対二の戦いとするためだろう。ザイだったか、鬼の持つ棒に火薬を仕込んで火花を吹かせていた。

 YouTubeで出雲神楽・唐川神楽の「田村」を見る。鈴鹿の御前に相当する人物が姫っぽい衣装を着ているのだが、翁面である。ネット上の解説によると里人らしい。鬼と翁との杖のやり取りで会場が沸く。そして田村将軍と鬼との押し合いへし合い。鬼がばたっと倒れ伏す。最後は田村将軍と鬼とが相撲をとって終わりとなる。

◆田村の草子
 角川書店「室町時代物語大成」に収録されていた「田村の草子」を精読した。坂上田村麻呂の一族三代に関する英雄譚である。

◆田村の草子・あらすじ

 俊祐(としすけ)の将軍には心に叶う妻がおらず子供がいなかった。五十歳を過ぎて都に移り住んだ俊祐だが、秋のあるとき、素性の知れぬ美しい女性と出会う。女性が魔性の者でも構わないと思った俊祐は女性と和歌を詠み交わす。契りを結んだ俊祐だが、やがて女性が懐妊した。女性はお産には三年かかると言った。三十六町にも及ぶ壮麗な産屋を建てさせた俊祐だが、女性は八日目になるまで覗いてはならないと言う。七日目に待ちかねた俊祐がこっそり覗くと、そこには大蛇が赤子と共にいた。女性はますたか池の大蛇だった。女性は八日を過ぎたならばこの赤子を日本の主にもしたものをと言う。しかし天下の大将軍としようと予言する。赤子には日龍丸と名づけられた。

 日龍丸が三歳のときに俊祐が亡くなった。七歳となってとき、宣旨が下り、近江の国のみなれ川の大蛇を退治せよと仰せだった。日龍丸は幼くして大役を任されたことを嘆く。五百騎の兵を従えて近江の国に向かう日龍丸だったが、大蛇は目に見えず、やがて日龍丸は十三歳となった。川の水を干して大蛇の姿を見せ給えと神仏に祈った日龍丸だったが、祈りが通じて大蛇が現れた。大蛇は日龍丸の伯父だと名乗った。たちまちの内に大蛇を滅ぼした日龍丸だった。宣旨が下り、日龍丸は将軍の宣旨を受け、俊仁(としひと)と名乗る。

 十七歳になった俊仁は妻が欲しいと思った。堀川の中納言に照日の御前という天下一の美人がいることを知った。乳母の左近助の伝手を頼り、俊仁は姫に文を届ける。返事を渋った幼い姫だったが、将軍の手紙だからと返事を書く。便りは重なり、やがて契りを結んだが、それを知った帝が歌合せの名目で姫を召し上げてしまい、俊仁は伊豆に配流されてしまう。

 近江の国の瀬田の橋を渡った俊仁だったが、自身が退治した大蛇の魂魄に自分は流人となって下るから都に上って好きにしろと言い捨てる。すると都では人が数多く失われるようになった。恐れた人々は家に閉じ籠った。帝が天文博士に尋ねたところ、俊仁将軍を都に戻さねば鎮まらないだろうと奏聞した。それで俊仁に赦免の綸旨が下った。俊仁が再び瀬田の橋を通ったところ、大蛇は鎮まり洛中は静かになった。帝は感嘆して照日の前を下された。再び契りを結んだ俊仁との間には娘が二人生まれた。

 ある時、内裏で管弦の遊びをしていたところ、強風が吹いて照日の前を天に吹き上げてしまった。俊仁は嘆くが夢に三人の童子が現れ、姫の居場所を知りたければ天狗に訊けと告げる。神仏のお告げと悟った俊仁は愛宕山に向かう。愛宕山では老僧が俊仁を迎える。老僧は自分たちは知らないが、帰り道に不思議の事があるだろうと告げる。大きなふし木の橋を通ったところ、俊仁の母の妹だという大蛇が現れる。妻を攫ったのは陸奥の国のあくる王という鬼だと大蛇は告げる。成仏できないと言う大蛇を俊仁は弔う。

 鞍馬に籠った俊仁は一振りの剣を得る。俊仁は陸奥の国へと出発する。妻子を失った人は他にもいた。彼らを連れ、俊仁は陸奥の国へと向かう。陸奥の国、初瀬の郡の田村の郷に着いた俊仁だった。俊仁は身分の低い女と一夜の契りを交わす。俊仁は自分の形見として一本の鏑矢を与える。

 鬼の城に近づいた俊仁は門番の少女に事情を尋ねる。鬼は越前へ行ったと答える。龍の駒に乗って内側に入るべしと言われた俊仁だったが、門は盤石の如しで中に入れず。鞍馬の神仏に祈ったところ、門が開いた。門の内側には大勢の女性がいた。見たところ、三条北の方と照日の前がいなかった。三条北の方は二、三日前に鬼の餌食となってしまったという。読経の声が聞こえたので探したところ、照日の前がいた。明日には喰われてしまう運命だと言う。

 鬼たちが帰ってきた。鬼と対峙した俊仁だが、その眼は日月の如しで鬼たちを恐れさせた。俊仁が多聞天から授かった剣を投げたところ、鬼達の首は皆落ちてしまった。攫われた男女は国へと送り返された。

 鬼達を従えた俊仁は都へと上った。一方、田村の郷で一夜の情けを掛けた女性が懐妊し、男子を産んだ。男子はふせりという名づけられた。ふせりは賢く学問が上達したが、ある時、鳥や獣にも父母がいるのに、どうして自分には父がいないのか母に尋ねた。母は涙を流し、ふせりの父は将軍だと告げた。形見の鏑矢を受け取ったふせりは都に上る。蹴鞠で将軍の眼に止まったふせりだったが、形見の鏑矢を見せたところ、さては我が子だとなり、名を改めて田村丸となり、元服して坂上の俊宗となった。

 俊仁が五十五歳のとき、唐土に攻め込んで従えようと考えた。関白を通して奏聞したところ、止めるに及ばずとのことで、俊仁は三千叟の船に五十万騎を従えて旅だった。渡海した印として神通の鏑矢を射たところ七日七夜鳴り響き、唐の人達は皆驚いた。凡夫の力では叶わない、仏力に頼るべしとなった。恵果和尚が不動明王と矜羯羅(こんから)、制多迦(せいたか)を引き連れて防ごうとした。

 俊仁と対峙した不動は降魔の利剣(鋭い剣)を持って立ち向かうが、劣勢であった。不動は金剛童子を日本へ派遣した。不動も刹那に日本に渡り毘沙門天と多聞天に、もし自分を勝たせてくれるなら、日本の仏法の守り神となろうと誓った。それで毘沙門は俊仁の加護を止めた。加護を失った俊仁の剣は折れ、組打ちとなるが、不動の利剣が俊仁の首をはねた。将軍を失った三千叟の船は日本へと戻った。俊宗は俊仁の死骸を納め、都へと上がった。

 年月が経った。大和の国の奈良坂山にりょうせん(りょうぜん)という化性の者が現れ、都への貢物を奪い取り、更に多くの人命を奪った。俊宗に従えよとの宣旨が下った。五百騎の軍兵を連れて俊宗は奈良坂山に向かった。計略を立て、濡らした小袖を木の枝に掛けておいたところ、丈二丈あまりの法師が現れた。俊宗と対峙したりょうせんは手並みの程を見んとした。金つぶてを三度投げ打ったりょうせんだったが、俊宗は扇と鐙でそれを防いだ。手立てを失ったりょうせんを俊宗は神通の鏑矢で射た。飛行自在のりょうせんは七日七夜飛んで逃げ回った。七日目に入り俊宗に降参したが、帝の判断で獄門となった。

 二年ほど経って、今度は伊勢の国の鈴鹿山に大嶽丸という鬼神が現れて民を悩ました。帝が俊宗に宣旨を下した。承った俊宗は三万騎の兵を連れて鈴鹿山へと赴く。大嶽丸は飛行自在の鬼神で、火の雨を降らせ、雷を落とす、決着がつかず数年が経過した。

 鈴鹿山に天女が天下った。名を鈴鹿御前という。大嶽丸は鈴鹿御前に恋をし、美しい童子の姿となって、契りを結ぼうとしていたが、通力でその事を知った鈴鹿御前はなびかなかった。

 俊宗は何としても勝負を決せんと諸天に祈った。すると夢の中に老人が現れて、鈴鹿御前の謀りごとによらないと大嶽丸を討つことは叶わないと告げた。有難く思った俊宗は三万の兵を都へ返し、ただ一人で鈴鹿山に向かった。

 夕暮れとなった。二八(十六)歳くらいの女が現れた。これを見た俊宗は鬼神の変化かと思い剣を隠した。女は鬼の居場所を知りたければ、ここにしばらく留まれと歌を詠んだ。

 恋煩いとなった俊宗だったが女の行方は知れなかった。神仏に祈った俊宗は、垣間見た面影が忘れられない。目に見えぬ鬼はあるならあれ、と歌を詠んだ。すると鈴鹿御前がやって来た。契りを結んだ俊宗と御前だった。

 鈴鹿御前は自分の計略で大嶽丸を討たせようと言った。山々を超えて大きな岩穴に辿りついた。その中に入ると大嶽丸の宮殿があった。庭は四季の姿を映していた。奥に大嶽丸が住む館があった。鏑矢を射ようと思った俊宗だったが、鈴鹿御前が制止する。大とうれん、小とうれん、けんみょうれんという三本の剣がある限りは大嶽丸が討たれることはないのだ。

 日が暮れた。鈴鹿御前の許に通ってきた大嶽丸だったが、鈴鹿御前が初めて返歌をした。御前は言葉巧みに大嶽丸の大とうれんと小とうれんの剣を預かった。そのまま大嶽丸は住処へと帰った。けんみょうれんの剣は天竺へ行っているという。

 酒を飲んで酔った鬼たちは伏せてしまった。今だと鈴鹿御前が声をかける。俊宗が名乗りを上げると、童子の姿だった大嶽丸が十丈もある鬼の姿となった。鬼は剣と鉾を三百ばかりも俊宗に投げつけた。が、俊宗は悉く払いのけた。俊宗が神通の矢を射ると、千万の矢先となって手下の鬼達を襲った。磐石へと変化した大嶽丸だったが、俊宗が剣を投げつけると、たちまち首が落とされた。鬼の首を持ち返った俊宗は伊賀の国を賜った。

 俊宗と鈴鹿御前の間には一人の姫君が誕生した。名をしょうりん(正林)と言う。都が恋しくなった俊宗だったが、それを知った鈴鹿御前が心変わりしたかと恨んだ。俊宗は共に上京して一緒に住もうと答えたが、鈴鹿御前は自分は鈴鹿山の守護神だから離れられないと言った。近江の国に高丸という悪鬼が出るから都へ上れと告げる。

 上京した俊宗は帝のもてなしを受けた。その内に高丸という悪鬼が出たと報告があった。俊宗は十六万騎を連れ近江の国へと下った。高丸の城に押し寄せた俊宗は我こそは田村将軍藤原俊宗であると名乗る。火界の印を結んだ俊宗は火炎を高丸の城に投げつける。城は焼け、高丸は信濃の国へと逃げた。高丸は唐土と日本の境に岩穴をくりぬいて城としたので攻められなかった。

 鈴鹿御前は凡夫の力では叶わないと告げた。兵を都に返し、俊宗と鈴鹿の御前は神通の車で高丸の居場所へと向かう。高丸は岩戸を閉じて引き籠ったが、鈴鹿御前が二十五の菩薩を呼んで音楽を流したところ、高丸の娘がこれを聴いて戸を僅かに開けさせた。音楽があまりに素晴らしかったので戸を大きく開けてしまった。俊宗は神通の鏑矢で高丸の眉間を射た。

 都に上って顕彰された俊宗は鈴鹿に下った。すると、けんみょうれんの剣が天竺に残っていたため、大嶽丸が復活すると告げた。大嶽丸は陸奥の国の桐山(もしくは霧山)に立て籠もるだろうと告げ、都に上って良い馬を求めよと言った。

 都に上った俊宗は翁から天下の名馬を得た。その速さは刹那で鈴鹿に到着する程であった。

 月日が経って大嶽丸が陸奥の国で復活した。俊宗に帝の宣旨が下った。俊宗は鈴鹿御前の助言で五百騎の兵を陸奥の国へと向かわせた。その間、俊宗は鈴鹿御前と遊んだ。兵たちが桐山に到着する頃を見計らって俊宗は出立した。刹那に桐山に到着した俊宗だった。

 鬼神は山を掘り、磐石を扉として固く守っていた。搦め手から回った俊宗が門番の鬼を捕らえると、大嶽丸はいなかった。蝦夷が嶋にいると言う。

 急に空が曇り、黒雲の中から声がした。田村殿ではないか。鈴鹿山で自分を討ったと思っただろうが、天竺に魂を一つ残していたのだと俊宗を嘲笑った。

 俊宗は大とうれん、小とうれんの剣に加えてけんみょうれんの剣が揃ったと答える。大嶽丸は腹を立て、三面鬼に命じて大石を雨の如くに降らせたけれども、俊宗には当たらなかった。俊宗は神通の鏑矢で三面鬼を討った。

 腹を据えかねた大嶽丸は俊宗に飛び掛かった。大嶽丸の首が落とされた。首はなおも飛び回って俊宗の兜に食らいついた。首はそのまま死んだ。残りの鬼たちは獄門にかけられた。大嶽丸の首は宇治の宝蔵に納められた。

 再び俊宗は鈴鹿御前と暮らしていたが、鈴鹿御前は病を得て、それが重くなった。鈴鹿御前は自分は仮にこの世に生まれてきた。この世での縁が尽きたので亡くなるのだ。いかなる祈祷も効かないと告げて亡くなった。

 俊宗は嘆き悲しんだ。あまりの嘆きに十七日目に死んでしまった。冥界に行った俊宗は倶生神(ぐしょうしん)を呼び、自分は田村将軍である。主に会わせて欲しいと言う。倶生神は怒るが、俊宗を引き立てようとした鬼を蹴飛ばしたので、肝を冷やしてしまった。

 俊宗は十王に会った。十王は俊宗は非業(ひごう)の死なので急いで現世に帰れと言う。鈴鹿の御前を返してくれと俊宗は火界の印を結んで暴れる。閻魔王が鈴鹿御前を返すように獄卒に言ったが、鈴鹿御前の肉体は失われていると答えた。そこで、御前と同じ時に生まれた女が死んだのを身代りとさせた。だが、この身代りは鈴鹿御前の姿に劣っていた。俊宗は腹を立てて元のようにしてくれと言った。そこで第三の冥官が浄瑠璃世界の宝尺の薬で元の御前を取り戻した。

 俊宗は三年の暇を与えられた。冥途の三年は娑婆の四十五年に相当する。こうして俊宗と鈴鹿御前は二世の契りを結んだ。

 俊宗は観音の化身であり、鈴鹿御前は弁財天である。末代まで伝えるために清水寺を建立し大同寺と称した。田村党の繁栄は仏法のお蔭である。この草子を読んだ人は観音を信じるべし。

◆英雄譚としての田村の草子
 祖父の俊祐のエピソードは異類婚姻譚であり、更に父の俊仁が異常出征譚の人物であり、幼くして大蛇を退治する。また、妻を攫った鬼を退治する。そして唐土を従えんと討って出て不動明王と争うも通力が失せて破れるなど英雄譚の色が濃い様に思える。息子の田村丸、俊宗は父である俊仁が身分の低い女と一夜の契りを交わして誕生した子であり、異常出生譚ではない。また、鈴鹿御前と結ばれることでその加護を得るといった要素が強い。また、都に仇なす鬼を退治するといった面から見ると、動員数こそ数万騎という規模であるが、日本を守護する将軍という軍事面よりむしろ警察に近いのではないか。

 俊宗が自分は藤原俊仁の嫡子、藤原俊宗であると名乗る場面があるが、これは藤原利仁であろうか。武人の藤原利仁と坂上田村麻呂が結びつくのである。

 また、大嶽丸の館の庭は四方がそれぞれ四季の風景を現すものとなっており、鬼の館の庭園という面で、大江山の酒呑童子伝説ともひき比べられるものとなっている。

 あくる王の城の内部では人肉が鮨とされている陰惨な描写があるが、大江山の酒呑童子の伝説の影響が見られる。

 最後に鈴鹿御前が亡くなってしまい、俊宗は御前を冥界から取返しに行くが、俊宗は地獄の獄卒たちを相手に暴れ、御前を四十五年の期限で取り返すことに成功するのである。一般的には取り返す寸前で失敗してしまうというパターンだが、田村の草子では死者を取り返すことに成功しているのである。

◆鈴鹿の草子
 角川書店「室町時代物語大成」に収録されていた「鈴鹿の草子」を精読した。

 「田村の草子」と比較すると、基本的な流れは同じだが、後半、田村殿(俊宗)の代になってから違いが目立ってくる。「田村の草子」では無かった展開として、俊宗が鈴鹿の御前(立烏帽子)と剣を投げ合って戦い、結果、互いに認め合って結ばれるという流れとなっている。また「田村の草子」では一度成敗した大嶽丸だが魂が一つ天竺に残っていて復活するのだが、「鈴鹿の草子」では先ず鈴鹿の御前が大嶽の魂を抜いてしまい、一度倒しただけで終わる異なる展開となっている。一方で「鈴鹿の草子」の大嶽は高丸が千人かかっても叶わない大物とされている。

 俊宗と鈴鹿の御前との関係から、成立は「田村の草子」の方が早かったのではないかと考えられる。

◆鈴鹿の草子・あらすじ
※「鈴鹿の草子」の粗筋は父・俊人の代までは「田村の草子」とほぼ同じだが、後半、三代目の俊宗の代になって違いを見せはじめる。

 俊祐という源氏の将軍がいた。心に叶う人がいなかったので長年独身であった。寂しく思っていた俊祐だが、あるとき若い女房が虫の声を聞くと貴方への想いが募っていきますと和歌を詠んだのを聞いた。それを聞いた俊祐は誰とは知らないけれども、恋しいことですと返歌する。

 若く美しい女房と出会った俊祐は女房と契る。すると女房は懐妊した。喜んだ俊祐だったが、女房は出産までに三年かかると言う。巨大な産所を建てて、女房はその中に籠る。七日間は中を覗くな。八日目になったらよいと言い残す。待ちきれない俊祐は七日目に産所を覗いてしまう。すると中には大蛇がいて赤子を抱いていた。

 驚いた俊祐だったが、八日目に女房が赤子を抱いて出てくる。女房は俊祐に八日目に見たならば日本の主ともなしたが、七日で見てしまった。されど天下の大将軍となるだろうと告げて消えた。子供は日龍と名づけられた。その後、俊祐は日龍が三歳の年に亡くなってしまう。

 七歳になった日龍に武蔵国のみなれ川に棲む大蛇を退治せよとの宣旨が下される。日龍は父母の無いまま、幼くして勅命を被った我が身を嘆くが、乳母が日龍の父も幼くして大蛇を退治したと勇気づける。

 武蔵国に赴いた日龍だが、手勢を失ってしまう。大蛇を退治できないまま数年が過ぎた。ある時日龍は神仏に祈り、川の水を干すよう願った。すると川が干上がり大蛇が姿を現した。大蛇は自分の妹が日龍の母だと告げる。日龍は大蛇を神通の鏑矢で退治する。

 日龍は十六歳で将軍となり、俊人と名乗った。あるとき鳥が空を飛ぶのを見て、鳥や獣ですら夫婦であるのに自分は独り身だと思った。その頃、中納言の娘に照日の御前という美しい姫君がいることを知る。俊人は文を送って照日の御前と心を通わす。契りを結んだ二人だったが、帝がこの次第を聞き、照日の御前を召し上げてしまう。そして俊人は伊豆の国へ流罪となった。

 近江の国の瀬田の橋を渡った俊人はみなせ川で退治した大蛇の魂魄に好きにせよと言い残す。それから都では大蛇の被害が出る様になった。天文博士がこれは俊人の仕業だと奏上した。

 照日の御前を伊豆の国へ下し、赦された俊人は上洛する。大蛇の被害は止んだ。それから年月が重なり、俊人は照日の御前との間に二人の姫君をもうけた。

 ある時内裏にいた照日の御前が魔性の物に攫われてしまった。俊人は悲嘆に暮れる。俊人の夢に翁と姥と三人の童子が現れ、愛宕山の天狗に訊けば何か分かるかもしれないと告げる。

 愛宕山に向かった俊人は、老僧から自分達は知らない。詳しいことは朽木に訊けと言われる。朽木と対面した俊人は、陸奥の国の悪路王が人々を攫ったと教えられる。朽木は俊人の母の兄弟であった。朽木は成仏できないので俊人に供養してくれる様頼む。俊人は戻って供養する。また、鞍馬に参って毘沙門天に祈る。七日目、目覚めると枕許に多聞天の剣が刺さっていた。

 陸奥の国へ軍勢を率いて出発した俊人だったが、田村の郷で身分の低い女を抱く。子供が生まれることを予感した俊人は、形見として鏑矢を置いていく。

 悪路王の城を囲んだ俊人だったが、門番の娘に問うと、鬼たちは越前の国へ行っていると答えた。城の中に入った俊人達は攫われた人たちと再会する。照日の御前もいた。

 鬼が帰ってきた。睨み合いとなったが、俊人の眼力が勝って、鬼たちを怖気づかせた。俊人が剣を投げると、鬼たちの首を次々と打ち落とした。悪路王を退治して都へ引き揚げた俊人だった。

 俊人が身分の低い女に産ませた子がいた。名をふせや丸と言う。ふせや丸はなぜ自分には父がいないのかと母に問う。母の示唆で形見の鏑矢を手にしたふせや丸は都へと向かう。

 蹴鞠の腕の程を見せたふせや丸は関心を示した俊人に形見の鏑矢を見せる。我が子だと悟った俊人はふせや丸をもてなす。九歳になったふせや丸は朝日と名を改める。試練が与えられた朝日だったが、何事もなかったかのように済ませてみせた(俊人に矢で射られるが、箸で矢を受け止める)。十一歳になった朝日は日龍と名乗る。再び試練が与えられたが、無事乗り越え(俊人に剣を投げつけられるが、懐に収まる)、十三歳で元服、俊人と名乗った。

 俊人は末代までの伝えとして、唐の国を従えようと考える。帝の裁許を得た俊人は十万叟の船で大海に乗り出す。自分が来た証として、俊人は火界の印を結び、唐の国に火の雨を七日間降らせた。

 凡夫の力では叶わないと見た恵果和尚は仏力にすがる。不動明王が俊人の前に立ち塞がるが、俊人が優勢であった。叶わないと見た不動明王は金剛童子を日本に遣わして毘沙門天にこのままでは唐の国が破れてしまい、仏法が衰えてしまうと訴えた。が、毘沙門天は耳を貸さない。

 そこで不動明王が俊人が失われたら日本を守護しようと約束する。それで毘沙門天の気が変わる。劣勢となった俊人は不動の船に乗り移って組打ちとなるが、飛んで来た剣が俊人の首を打ち落とした。

 父の死を知った俊宗は博多の港へと下り、形見を以て上京、父の菩提を弔った。

 十五歳となった俊宗だったが、大和の国の奈良坂山に赴いて金つぶてという法師を退治するよう宣旨が下された。三つのつぶてを投げる金つぶてだったが、ことごとく俊宗に打ち落とされてしまう。俊宗は金つぶてを降参させた。都に連れ帰った俊人だったが、帝の判断で金つぶては獄門となった。

 俊宗は将軍となった。そして年月が経ったあるとき、俊宗は伊勢の国の鈴鹿山に現れた鈴鹿の御前(立烏帽子)を成敗するよう宣旨が下された。鈴鹿の御前は目には見えなかったので、何ともしようがなく、時間が過ぎた。神仏に祈った俊宗だったが、あるとき道が開けて、鈴鹿の御前の館へと迷いこんだ。鈴鹿御前の館は四季の姿を映した庭園がある極楽の如きものだった。

 館のうちに若く美しい女房がいた。鈴鹿の御前と悟った俊宗は何の報いでこれ程に美しい女房を敵としなくてはならないのかと思う。それでも俊宗は剣を抜いて鈴鹿の御前に投げつける。応戦した鈴鹿の御前も剣を投げ、戦いとなったが、決着がつかなかった。鈴鹿の御前は自分には大とうれん、小とうれん、小みょうれんの三本の剣があるので討たれることは無いと言った。

 互いに認め合った二人は結ばれる。やがて鈴鹿の御前は懐妊して一人の姫君が生まれた。

 姫君が三歳になった俊宗は都が恋しくなる。それを通力で知った鈴鹿の御前は心変わりしたかと恨めし気に言う。俊宗はこれまでの事情をしたためて、文を都へ送る。神通の車に乗って参内した俊宗と鈴鹿の御前だった。

 鈴鹿の御前は近江の国の蒲生山に高丸という鬼が現れて人々に害を成すことを予言する。果して、そうなり、俊宗は近江の国へ向かう。俊宗は高丸の城に火の雨を降らせて、鬼たちを攻撃する。戦い負けた高丸は駿河の国、武蔵の国、相模の国と逃げ回る。最後に海の中の嶋に逃げ込んだ。海の中では手が出しようがなく、俊宗の軍勢も多くが討たれてしまった。

 軍勢を調えるため都へ上洛しようとした俊宗は途中、鈴鹿山に立ち寄る。そこで事情を悟った鈴鹿の御前と会う。鈴鹿の御前は自分の許に帰ってこない俊宗を恨めしく思うが、協力する。

 二人だけで高丸を討つことになった。鈴鹿の御前と俊宗は四本の剣を投げて八十人の鬼を首を打ち落とす。残り七人となった高丸だったが、岩屋に閉じ籠ってしまう。鈴鹿の御前が空から十二の星を招いて妙なる音楽を奏でる。

 それを聞きつけた高丸の末の娘がもっと聞きたいといって岩戸を開けさせてしまう。神通の鏑矢で俊宗は高丸を射る。高丸親子を退治した俊宗だった。

 再び、鈴鹿の御前が予言する。陸奥の国のきり山が岳に大嶽という強力な鬼が現れると。大嶽は高丸が千人いても打ち勝つことができないほど強大であるという。

 鈴鹿の御前はわざと大嶽に攫われてしまう。そして、三年の間に大嶽の魂を抜いてしまう。

 大嶽を討てと宣旨を受けた俊宗は陸奥の国へ向かう。鈴鹿の御前に手引きされた俊宗は大嶽の城内を見て回る。打出の小槌など様々の宝物があった。

 大嶽が唐の国の姫君を攫って帰ってきた。四本の剣を投げた俊宗と鈴鹿の御前の勢いに手下の鬼たちは逃げ出す。ただ一人になった大嶽の首を打ち落とす。大嶽の首は俊宗の兜に食らいついてきたが、鈴鹿の御前がとどめを刺してそのまま死んでしまった。

 大嶽の首を持って上洛した俊宗だった。大嶽の首は宝蔵に納められることになった。

 鈴鹿の御前は二十五歳となった自分の死期が近いことを俊宗に告げる。都から帰った俊宗だったが、既に鈴鹿の御前は病の床に臥していた。俊宗と最後の言葉を交わした鈴鹿の御前は亡くなってしまう。

 鈴鹿の御前の死を嘆き悲しんだ俊宗だったが、自分もそのまま死んでしまった。冥途へ旅立った俊宗だったが、倶生神に鈴鹿の御前を返せと狼藉を働く。俊宗は非業の死だったので、元の世界に戻されることになったが、鈴鹿の御前は既に肉体が失われていた。そこで、御前と同じ年に生まれた女の身体を身代りとして復活させる。

 が、復活した鈴鹿の御前は以前とは似ても似つかない姿だった。俊宗は腹を立てる。そこで不死の薬を使って元の姿以上に美しくした。三年の暇(現世では六年)の暇を与えられた俊宗と鈴鹿の御前だった。

 もしも鈴鹿の御前がいなかったら、日本は鬼の世界となっていた。よく心得て鈴鹿へ参るべし。

◆鈴鹿の御前の葛藤
 「鈴鹿の草子」では「田村の草子」に比べて、鈴鹿御前が俊宗に恨み言をいうことが多い。それだけ二人が引き離されることに葛藤を抱いている。「田村の草子」と違って、「鈴鹿の草子」では俊宗と鈴鹿の御前が先ず戦って互いを認め合うという展開となっている。

 「田村の草子」では鬼の住処に四季の景色を映す庭園があったが、「鈴鹿の草子」では鈴鹿御前の館の庭となっている。四季の景色を映す庭園というモチーフは鬼や尋常ではない物のものとして描かれるようだ。

 また、「鈴鹿の草子」と「田村の草子」では大嶽という鬼との戦いの経過が異なる。「田村の草子」では大とうれん、小とうれん、けんみょうれんの剣を持つのは大嶽である。大嶽丸を一度は退治するものの、天竺にけんみょうれんの剣を預けていたため、大嶽丸は復活し、再度俊宗と戦う。一方、「鈴鹿の草子」では三本の剣を持つのは鈴鹿の御前となっている。そして大嶽に攫われた鈴鹿の御前が大嶽の魂を抜いてしまうため、俊宗と大嶽の戦いは一度きりとなっている。

◆田村三代記
 「田村三代記」は征夷大将軍・坂上田村麻呂の祖父・父・子の三代にまたがる奥浄瑠璃であり、仙台藩、南部藩領で盛行した。「仙台叢書 復刻版 第十二巻」に収録された「田村三代記」を読んだが、祖父・父の代の物語は割愛されていて、子である田村将軍・利仁と立烏帽子にまつわる鬼退治伝説となっている。

 「田村の草子」「鈴鹿の草子」と比べて、特に子の田村将軍・利仁の代についてだが「鈴鹿の草子」とほぼ粗筋である。大きな違いは「田村の草子」「鈴鹿の草子」に登場する鈴鹿の御前(立烏帽子)の出自が天界の天女であるのに対し、「田村三代記」の立烏帽子は第四天の魔王の娘であることだ。つまり、魔性の物なのである。その日本を魔国となさんと企む魔性の物と田村将軍が結ばれて鬼退治をするという物語となっているのである。

 反面で「鈴鹿の草子」のように俊宗と会えない鈴鹿の御前が恨み事をいう、その葛藤は「田村三代記」には見られない。

◆田村三代記・あらすじ
※以下の粗筋は「田村三代記:御国浄瑠璃」の版から起こしたものである。

 人皇五十一代平城天皇の御代に丹波の国と播磨の国の境に大きな星が一つ天下り光輝くことあたかも白昼のごとくであった。そこで天文の博士を召して占わせたところ、これは吉事であるとなった。この星は砕けて隕石となって降り、中から三歳ばかりの麗しい童子が誕生した。この童子を連れて帰って参内し、養育した。この童子は七歳で書を読み文字を書いた。また笛の名手であった。十歳のとき利春(としはる)と改名した。十五歳のとき帝が利春を召し、先帝の命日に天人を天下らせ舞楽を奏せよと命じたところ、利春は天人の舞楽は天竺梵天王の大庭でなければ奏せないと断った。怒った帝は利春を流刑に処す。

 流された利春は心を慰めるために笛を吹く。すると笛の音に惹かれた女が現れた。夜な夜な利春の許に通ってくる。身分の低い水仕だと名乗っているが容顔美麗であり、いつしか二人は契りを結んだ。懐胎した女は利春の許に留まるようになる。女は出産には三年三月必要だと答える。産屋を建て、百日百夜経つまでは中を覗くなと言い残して女は中に籠る。

 九十九夜になった日、利春は待ちきれずに産屋を覗いてしまう。すると、中には二十尋もある大蛇がいた。明けた百日目に女は赤子を抱いて利春の許を訪れる。正体を見られた女は古巣の池に帰ると言い残して消える。鏑矢を乳房とせよと言い残したので、矢羽根を吸わせたところ、笑顔となった。赤子は大蛇丸と名づけられた。大蛇丸が七歳になった頃、利春は赦され、都に戻る。

 大蛇丸が十歳になった頃、大和の国と山城の国の境の今瀬が淵に棲む悪龍が人々に害をなした。十歳ながら武勇に優れた大蛇丸に悪龍退治の宣旨が下される。百騎余りの手勢を率いて大蛇丸は出発する。

 淵に着いた大蛇丸だったが、悪龍の恐ろしさに手勢の者が怖れをなしてしまう。ところが大蛇丸は動じず、母の形見の神通の矢で龍の眉間を射ぬき、龍を退治する。都に帰って参内した大蛇丸は帝の御感甚だしく、中納言に任じられ、利光の名を賜った。

 利光が退治した悪龍は利光の母の大蛇であり、利光に武功を立てさせるために悪龍と変じたものである。その身は滅んだが、心は天に登り八幡神として現したという。

 第五十二代嵯峨天皇の御代に奥州で反乱が起きた。そこで中納言の利光が召されて将軍として反乱の鎮圧に当たることになった。千騎の手勢を率いた利光は奥州に向けて出立する。大蛇の腹に三年三月宿った大蛇丸の成長した利光の威光に大名小名たちは恭順し、反乱は収まる。

 都への土産物を持って帰るという話となった。奥州には珍しい物がないというので、七ツ森という森で狩りを催して動物の皮を持って帰ることになった。狩りが実施された。多数の犠牲を出しながら、大きな狒々と荒熊を狩った。亡くなった者には弔い金を渡し、利光は帰城した。

 九門屋という長者に悪玉という醜女が水仕として仕えていた。悪玉は実は公家の娘であったが、信濃詣でに出た際に山賊に襲われて身売りされたものであった。肌を許さないため観音に祈ったところ、醜女と変じた。これでは売り物にならないと転々とした挙句に九問屋に身を寄せることになったのである。その悪玉に利春が目を留めた。利春の眼には本来の美麗な女として映っていたのである。悪玉と契った利春だったが、都に連れ帰る訳にもいかず、形見として神通の鏑矢を与える。

 懐妊した悪玉だったが、三年経っても出産しなかった。これは尋常の者を身ごもったのではない、化性の物だと長者は考えた。化け物が生まれては家の名誉に関わると思い長者は悪玉に暇を与える。行く当てもなく悪玉は放逐される。

 見かねた在所の者に産屋を建ててもらい、三年三月が経って悪玉は出産した。それを知った九門屋が子を捨てて奉公せよと命じる。悪玉は赤子を捨てようとするが果たせず、赤子諸共に河に身投げしようとするが、どこからともなく待てという塩釜明神の声がして思いとどまる。

 玉のような赤子を見た長者は考えを改めて我が子として育てることにする。悪玉から赤子を取り上げた長者は悪玉に決して母と名乗るなと誓言させる。赤子は千熊丸と名づけられた。

 千熊丸は十三歳に成長した。弓馬の道に優れた千熊丸だったが、八幡宮の流鏑馬の射手を務めさせて欲しいと別当に願いでるが、別当は千熊丸が悪玉という身分の低い水仕から生まれた素性も知れない子であるとして断る。屈辱を受けた千熊丸であったが、その場は堪え、悪玉の許に行く。悪玉から父が将軍であること、そして母の身の上を聞き出した千熊丸は神通の鏑矢を渡され都へ出立する。

 長い旅を経て都に到着した千熊丸は、利光の館へと赴き、蹴鞠の腕を見せて利光の関心を誘う。怪力を見せつけて利光に仕えることになった千熊丸であったが、千熊丸が只者ではないと見て取った利光は、千熊丸に逆心があるのではないかと疑う。そこで人喰い馬の世話をさせるが、千熊丸は馬を手なずける。いよいよ怪しんだ利光は千熊丸に食事をさせ、その最中に弓で射殺そうとする。が、千熊丸は何事もなかった様に箸で矢を受け止める。観念した利光に千熊丸は形見の神通の鏑矢を見せる。我が子だと利光は認める。

 内裏に参内した千熊丸は坂上田村麿利仁(としひと)の名を賜る。そして悪玉を利光の正妻として、奥州から召し出す。元の美麗な姿に戻った悪玉は都へ入り、田村御前と名を変えた。


※以下の粗筋は「仙台叢書 復刻版 第十二巻」の版から起こしたものである。

 仁明天皇の御代に異変が起きた。毬のような光るものが昼夜を問わず飛び回り、光と遭遇したものは皆、金品財宝を奪われた。帝は公卿と大臣を召されて詮議なさったが、とにかく博士を召して占わせた。

 第四天の魔王の娘である立烏帽子が伊勢の国の鈴鹿山に天下り、日本を魔国となそうとしているとしていると占う。そこで田村将軍利仁が召され、急ぎ立烏帽子の成敗をするよう宣旨が下った。

 利仁は神仏に祈念し、総勢二万騎を連れて都を出て鈴鹿山へ押し寄せる。鈴鹿山を包囲した軍勢だったが、立烏帽子の居所はさっぱり見つからない。ただ時間だけが過ぎていった。利仁は父の言葉を思い出す。魔性の者を尋ねるときは、大勢で尋ねてはならない。必ず主従二人か三人かで尋ねるべしと。利仁は軍兵を差し戻し、自分独りで鈴鹿山の陣地に籠る。それから三年経ったけれども立烏帽子に逢うことはなかった。

 利仁は神仏に祈念する。すると毬のような光るものが現れた。光はこの上に登れ。されば恋しき人に逢うべしといって消える。今まで見つからなかった細い道があった。その道を行くと立烏帽子の館があった。四方に四季を映す庭園があり、極楽浄土もかくやあらんという見事なものであった。

 利仁は立烏帽子の姿を見かける。歳の頃二八(十六歳)ばかりの美麗な女房であった。利仁は立烏帽子と親しくしたいと思ったが、何のためにここまで来たのだと考え直し、そはや丸という剣を立烏帽子に投げつける。立烏帽子も大通連の剣で応戦、斬り合ったが決着がつかなかった。

 呆然とした利仁の前に立烏帽子が忽然として現れた。自分を討とうとしても中々叶わないことだ。我は天竺の第四天魔王の娘で、将軍の先祖も知っている。利仁公三代は日本の悪魔を鎮めんがために観音が再来したものである。目には見えないはずの自分の姿が利仁公に見られた事は悔しいことだ。自分は日本を魔国となさんがために天下ったが、女の身ゆえ相応の夫がなくては叶わない。奥州に大嶽丸という鬼がいて、妻にせよと文を送ったが一向に返事が来ない。これは利仁公にとっては幸いである。かくなる上は悪心を翻し、善心で利仁公に馴れ初めよう。共に日本の悪魔を鎮めようではないか。

 利仁は従わなければ殺されると思い、かくなる上は立烏帽子に従って時節を伺い八つ裂きにしてくれようと考えた。それで、立烏帽子に承諾の意を伝える。喜んだ立烏帽子は利仁をもてなす。やがて比翼の契りを結び、三年暮らす内に正林という姫君が生まれた。子供が生まれたといっても利仁は油断しなかった。利仁は渡り鳥に文を託して、内裏へと送った。内裏では利仁の無事を知って、喜んだ。利仁は来る十五日に立烏帽子を連れて参内するから、そのときに立烏帽子を捕らえて八つ裂きにせよと書いていた。

 立烏帽子は通力で利仁の心を見抜いていた。お心を許しても討たんとするは何事かと言う。しかし、約束を果たせなくては夫の恥であるとして利仁の参内に同行する。神通の車で利仁と立烏帽子は参内する。利仁は立烏帽子を伴って帝に拝謁する。立烏帽子は来月になれば鬼神退治の宣旨が下るから協力しようと言う。

 九月になって利仁は参内した。近江の国の釜染が原に悪者の高丸という鬼神が住み着いて民に害をなしている。成敗せよと宣旨が下った。利仁は二万騎の軍勢を連れて出立する。

 釜染が原で高丸と対峙した利仁は戦いを始める。戦いは利仁が優位で高丸は常陸の国の鹿島に逃げる。それからあちこち逃げ回り、とうとう唐土と日本の境のちくらか沖へと逃げ込んだ。海では手が出せない。二万騎あった手勢も二百騎にまで減った。

 一旦、都に引き揚げることにした利仁だったが、伊勢の国に立ち寄ったところで、枕許に立烏帽子が現れる。高丸は築らが沖、大りんが窟に籠っている。自分が加勢して高丸を易々と討たせようと言う。

 兵を都に引き揚げさせた利仁と立烏帽子は神通の車に乗って築が沖へと赴く。そこには岩屋があった。利仁があそこからどうやって敵をおびき寄せるのだと問うと、立烏帽子は天から十二の星を招いて妙なる音楽を奏でさせた。高丸の末の娘がこれに関心を示した。高丸は自分たちをおびき寄せる田村殿の計略だと諭すが、娘の可愛さに負けて岩戸を開いてしまう。そこで利仁は神通の矢で高丸を射る。大通連、小通連、釼明連、そはや丸の四本の剣で鬼たちの首を残らず討ち取った。利仁は高丸の塚を築かせた。

 伊勢の国に戻った利仁と立烏帽子だったが、立烏帽子が予言する。自分は始め日本を魔国と成そうとして大嶽丸に文を送ったが、返事がないので利仁公を夫とした。夫と組んで高丸を退治したことを大嶽丸は憎んでいる。必ずや自分を攫いにくるだとうと。まず、帝に高丸討伐を奏聞すべし。大嶽丸は高丸の倍強い鬼だが、自分の計略で易々と討たせてやろうと。

 大嶽丸がやってきた。我に背き田村に味方するとは何事か。我に従わないなら微塵にしてくれよう。立烏帽子は、背く気はない。共に陸奥の国へ下るべしといって、大嶽丸に攫われていった。

 利仁に陸奥の国の桐山(もしくは霧山)に棲む大嶽丸を討伐せよとの宣旨が下された。まず利仁は神社仏閣に参拝して戦勝を祈念した。利仁は陸奥の国まで長い道のりを進んでいった。

 立烏帽子は利仁がやって来たことを通力で知り、迎える。達谷が窟に入った利仁と立烏帽子だったが、そこに大嶽丸が帰ってくる。賤しき者の死骸を見れば自分の大望が邪魔される。自分は立烏帽子に溺れ三明六通を失った。これから神通を改め、都へ上って帝を微塵にしてくれようと言う。それから窟を抜け出して桐山に籠った。桐山に三日籠れば三明六通を得るので急げと立烏帽子が言う。大嶽丸は箟嶽山のきりんが窟に逃れた。

 利仁は神仏に祈念する。大嶽丸が出てきた。四本の剣を投げつけて大嶽丸の首は打ち落とされた。が、その首が利仁の手の甲に喰らいついた。大嶽丸の死体を麓の村まで運んだ後、伊勢の国に戻った利仁と立烏帽子だったが、立烏帽子が自分は今年二十五歳になった。寿命だと告げる。泣く泣く立烏帽子と別れた利仁は都に上って帝に大嶽丸成敗の由奏上する。

 再び伊勢の国に戻った利仁だったが、立烏帽子は死の床についていた。再会した利仁と立烏帽子だったが、立烏帽子はそのまま亡くなってしまう。嘆き悲しんだ利仁だったが、夢で冥途に迷い込む。田村は未だ死んでおらず、引き返せと言われるが、利仁は夫婦は二世の契りだと言って聞かない。そこで今年死んだ小松の前という二十五歳の女がいたのでその身体を身代りとすることになった。夢は覚めた。すると立烏帽子の館は消え、娘の正林を抱いたまま眠っていた。

 利仁は都に上って大通連と小通連の剣を献上した。すると帝の宣旨で近江の国から小松の前親子がやって来た。小松の前は利仁の妻となり二世の契りとなった。その後、田村将軍はあちこちの悪魔を退治して九十六歳で大往生して田村大明神と呼ばれた。小松の前は百十三歳で大往生して清龍権現となった。正林は九十三歳まで生きて地蔵菩薩となった。田村大明神、清龍権現、地蔵菩薩が現れ衆生を済度した。

◆伝説の武人たちの合体
 「田村三代記」では子の田村将軍の名が利仁となっている。これは伝説の中で坂上田村麻呂が同じく平安時代の著名な武人である藤原利仁と結びついたということらしい。

 祖父の利春は星から生まれた異常出生譚の人であるが、英雄らしい活躍はしない。異類婚姻譚で血筋を次代の利光に繋ぐのみである。

 また、「田村三代記:御国浄瑠璃」では父の利光の代では唐土への遠征が語られていない。「東北の田村語り」の粗筋が参照した他の版ではあるようである。むしろ母の悪玉の物語の色が濃い。

 また、利仁(千熊丸)も母の胎内に三年三月いた異常出生譚の者となっている。これは「田村の草子」「鈴鹿の草子」と異なるところである。

◆謡曲「田村」
 謡曲「田村」では、東国から来た僧が清水寺に参詣する。僧は美しい玉箒を持った若い花守に語りかける。花守は清水寺の縁起を語る。清水寺は坂上田村丸の発願によると語る。後半、田村丸の亡霊が現れて鈴鹿山の鬼神退治を語る。

前シテ:花守童子
後シテ:坂上田村丸
ワキ:旅僧
処は:京都
季は:三月

清水寺にて田村丸の幽霊旅僧にあひて観音の仏徳をのべ、わが軍功の様を物語る事を作れり。

ワキ次第「鄙(ひな)の都路隔て来て、隔て来て、九重の春に急ごう」
詞「是は東国方より出立した僧でござる。自分はいまだ都を見たことがないところ、この春思い立ちました」
道行「頃もはや弥生半ばの春の空、春の空、影も長閑にめぐる日の、霞むそちらは音羽山、瀧の響きも静かで清水寺に着いたことだ。着いたことだ」
詞「急ぐ程に、これは都の清水寺と申すとか、ここの桜が盛りと見える。人を待って詳しく尋ねようと思う」
シテ一声「おのずと春の手向けとなったことです。地主権現の花盛り」
サシ「それ花の名所は多いけれども、大非の光の色が沿う故か、この寺の地主(ぢしゆ)の桜に勝るものはない。されば大慈大悲の春の花にか、十悪(十の罪悪)の里に香ばしく、三十三身の秋の月、五濁(五つの悪い現象:劫濁・衆生濁・煩悩濁・見濁・命濁)の水に影が清らかだ」
歌「ちはやふる神の御庭の雪か、白妙に雲も霞も埋もれて、埋もれて、いずれ桜の梢と見渡せば八重一重、実に九重の春の空、四方(よも)の山並み自ずから時だと見える気色かな、気色かな」
ワキ詞「いかにしてここにいる人に尋ねるべきだろうか」
シテ詞「私の事ですか。何事でしょう」
ワキ「見れば美しい玉箒を持って、木陰を清めなさるのはもしや花守でいらっしゃるか」
シテ「左様でございます。自分はこの地主権現に仕える者です。いつも花の頃は木陰を清めますから、花守と申しましょう。また宮つ子(神主)と申しましょうか。どこに由縁のある方でしょう」
ワキ「実に由縁ありそうに見えます。先ずこの寺のご来歴を詳しく教えてください」
シテ「そもそも当寺清水寺(せいすゐじ)というのは、大同二年の創始で、坂上田村丸の発願です。昔大和の国の小島寺という処にゲンシンという沙門(修行する僧)が正身(しやうじん)の観音を拝もうと誓ったところ、あるとき木津川(こつがは)の川上から金色の光が差したのを尋ねて登ってみたところ一人の老翁がいました。かの翁は立って曰く、自分は行叡居士(ぎやうえこじ)という。汝は一人の施主を待って大伽藍を建立すべしと言って東を指して飛び去りました。されば行叡居士と言うのは、観音薩た(さつた)の再誕した姿、又、施主を待てとあったのは、坂上田村丸のことです」
地「今もその、名が流れた清水の清水の、深き誓いの数々に、千手の御手のとりどり、様々の誓い普(あまね)くて、国土万民を漏らさず、大非の影こそありがたいことです。まこと安楽世界から今この娑婆に姿を現わして、我等の為の観音、仰ぐのも愚かだろうか、愚かだろうか」
ワキ詞「たいそう面白い人に参ってあったことかな。又、見え渡ったところは皆名所でしょうか。お教えください」
シテ詞「左様でございます。皆名所でございます。お尋ねください。お教えしましょう」
ワキ「まず南に当たって塔婆の見えているのは、どのような所でしょう」
シテ「あれこそ歌に歌われた中山清閑寺。今熊野まで見えています」
ワキ「また北に当たって入相(いりあい)の鐘の聞こえるのは、どのような寺でしょうか」
シテ「あれは上みぬ鷲尾(わしのを)寺です。御覧ください。音羽の山の嶺から出た月が輝いて、この地主(ぢしゆ)の桜に映る景色。まずまずこれこそを御覧なされ」
ワキ「実に暇(を申すの)が惜しまれます。こと心無い(情趣を解する心がない)春のひと時」
シテ「実に惜しむべきです」
ワキ「惜しむべきか」
シテワキ「春霄(しゆんせう)一刻値千金、花に清香月に陰」
シテ「千金にも代え難いとは実にこの時か」
地「あらあら面白い地主の花の景色かな。桜の木の間に漏れる月の、雪の降る夜嵐の、誘う花と連れて散る心でしょうか」
クセ「さぞ名の知られた花の都の春の空、実に時めく粧い、青楊の陰は緑で風がのどかな音羽の瀧の白糸の繰り返し返しても面白くありがたいことです。地主権現の花の色も殊なり」
シテ「ただ頼め、標茅(しめぢ)が原のさしも草」
地「自分がこの世にいる限りのご請願。濁るまい清水を、緑も差すか青柳の、まこと枯れた木だとても、花桜木の粧(よそほ)ひ、どこの春も押しなべて、のどかな影は有明の、天も花に酔ったか。面白い春の頃かな。あら面白い春の頃かな」
ロンギ地「まこと景色を見るからに、旅人であろう装いの、その名はいかなる人だろう」
シテ「どのようにとも、いざその名も白雪の跡を惜しめばこの寺に帰る方向をご覧なさい」
地「帰るかどこに蘆垣(あしがき)の、間近なところかあちらこちらか」
シテ「方便(たづき:方便)に知らない山の中に」
地「覚束なく思えば、我が行く方を見よと言って、地主権現の前から下ると見えたが、下り馳せて坂の上の田村堂の軒を見張るか、月のむら戸を押し開けて内に入ったことだ。内陣(本堂で本尊を安置する部分)にお入りになったことだ」
ワキ歌「一晩中、散るか桜の影に居て、影に居て、花も妙なる法(のり)の場(には)、迷わぬ月の夜とともに、このお経を読誦する、読誦する」
後シテ「あら有難いお経かな。清水寺の瀧の波、まこと一河の流れを汲んで、他生(前世と来世)の縁ある旅人に、言葉を交わす夜に聞こえる声の読誦、これぞ即ち大慈大悲の観音擁護の結ぶ縁だ」
ワキ「不思議かな花の光に輝いて、男体の人が見えるのは、いかなる人でいらっしゃるか」
シテ「今は何をか包み隠そうか。人皇五十一代、平城天皇の御代にあった坂上田村丸である。東夷を平らげ、悪魔を鎮め、天下泰平の忠勤だったのは即ち清水寺の仏力による」
地サシ「しかるに帝の宣旨には伊勢の国の鈴鹿の悪魔を鎮め都鄙を安全になすべしとの仰せによって軍兵を調え、赴く時節に至ってこの観音の仏前に参り祈念をいたし立願した」
シテ「不思議の瑞験あらたなれば」
地「歓喜微笑(くわんぎみせう)の頼みを含んで、急ぎ凶徒にうち立った」
クセ「普天の下、卒土の内、どこが王地でないだろうか。やがて名を知られた関の戸を差さずに逢坂の山を越えれば浦波の粟津の森やかげろうの石山寺を伏し拝み、これも清水の一仏と頼みはあひに近江路や、勢田の長橋ふみならし、駒も足並みや勇むらん」
シテ「既に伊勢路の山近く」
地「弓馬の道の先駆けんと、褐色見せたる梅の枝の花も紅葉も色めいて猛き心は粗金(あらがね)の、土も木も我が大君の神国に、もとより観音の御誓い、仏力といい神力も猶数々の丈夫(ますらお)が待つを知らでさ牡鹿(をしか)の鈴鹿の禊ぎせし世々までも思えば嘉例(目出度い先例)なるべし」
地「さるほどに山河を動かす鬼神の声、天に響き地に満ちて万木青山が動揺した」
シテ詞「いかに鬼神も確かに聞け。昔もそのような例(ためし)たあった。千方(ちかた)という逆臣に仕えた鬼も王位を背く天罰で、千方を捨てればたちまち滅び失せたぞ。ましてや間近い鈴鹿山」
地「ふりさけ見れば伊勢の海、あのあの松原群だち来たって、鬼神は黒雲鉄火を降らせつつ、数千騎に身を変じて山の如く見えたところに」
シテ「あれを見よ。不思議やな」
地「あれを見よ。不思議やな。味方の軍兵の旗の上に千手観音が光を放って虚空に飛行し、千の御手ごとに大非の弓には智恵の矢をはめて、一度放せば千の矢先、雨あられと降りかかって鬼神の上に乱れ落ちれば、ことごとく矢先に掛かって鬼神は討たれたことだ。ありがたい、ありがたや。誠に咒咀諸毒薬、念彼(ねんぴ)観音の力を合わせて、すなわち還着於本人(げんぢやくおほんにん)の敵(かたき)は滅びた。これこそ観音の力である」

◆謡曲「鈴鹿」
 謡曲「鈴鹿」も坂上田村麻呂を題材としていた。が、これは読むに「田村の草子」「鈴鹿の草子」の後に成立したものと思われる。

シテ:高丸
ワキ:田村将軍
ツレ:鈴鹿姫
立衆:従者
トモ:従者
処は:鈴鹿山

田村丸鈴鹿山の鬼神を退治する事を作る。田村の曲は田村の死後田村堂に祭られたる縁をかり来つて過去の事を語り、本曲はタムラが現在の立場として作為せり。

立衆「勇み行く、驛(うまや)づたいの鈴鹿山。夜の超えるべき山路かな」
ワキ「そもそも坂上田村丸とは自分の事である。さて、勢州鈴鹿山に化性の鬼女籠り居て、関はないけれど安全ではない」
立「帝からの宣旨には勢州鈴鹿の鬼神を平らげよと」
ワキ「田村に仰せ下された以上、たとえ如何なる天魔鬼神であっても、朝敵となってこの国にどうして跡をとどめることができようか」
立「勇み騒ぐ武士(もののふ)の」
ワキ「心は猛き」
立「梓弓」
歌「八声の鳥も告げ渡る、告げ渡る、夜とともに行けば逢坂の、関を過ぎれば近江路か。ここは川瀬か勢田(せた)の橋、とどろとどろと鳴る神も、雲より雨が漏る山や、三上が嶽を目にかけて渡るや野洲の川風の、跡白川をうち過ぎて鈴鹿山にも着いたことだ、着いたことだ」
女「山は遠くて雲が行く客の跡を埋め、松は寒くて風は旅人の夢を破る。あら物凄い景色かな」
ワキ詞「誰いないか」
トモ「御前におります」
ワキ「あれに見えた女を連れて来たまえ」
トモ「畏まって候。どう申したものか、大将の前にお参りくだされ」
女「いやはばかります」
トモ「はばかることは少しもありません。ただお参りくだされ」
ワキ「いかに女、貴方は此の辺りの者ですか」
女「左様でございます。ここに住む鈴鹿姫でございます」
ワキ詞「さては承った鈴鹿姫であったか。貴方はよく知られた人と聞きます。坂上の田村ですが、この山に赤頭(あかがしら)の四郎将軍という鬼神を平らげよとの勅諚(ちよくぢやう)によって、この山に分け入ったのです。この事を平に頼みましょう。彼の者を討たせて給え」
女「お安い事です」
ワキ「偖(さて)もいつもこの山にいるのですか」
女「左様でございます。いつも此の山におりますが、陸奥(みちのく)の安達が原に、また珍しい鬼女を伴い通っております。(夜が)明けたら必ずお帰りなさい。私も恨む子細があるので、田村殿を平に頼むべしと、頼もしく言ったので」
地「田村大いに喜んで、喜んで、また思い立つ唐衣、日も暮れ夜になったので、明日を遅しと松の根の、明ける空を待ち居たるぞ、待ち居たるぞ」
シテサシ「萬山に雲尽きて人家が稀な境涯だ。安達が原の客人をあがめてもてなそうと、諸国の鬼神は酒を湛えて、高丸をはじめて饗宴をなす。不思議かな、この中(うち)に」
地「この中に、鈴鹿御前はお見えにならず、もしや移ったか我が心、色めく鬼のきたない草のに交じるか女郎花(をみなへし)のくねる故の遅参か。遅くとも、遅くとも色には出まい薄紅葉をかざし連れて、松の風の声を上げて囃そう。この声を上げて囃そう」
シテ「面白い」
地「面白い、紅葉重ねの衣の袖、色めくは秋萩の、花の唐錦、立つ間も惜しい客人の、お慰みの饗宴に、歌を歌い舞を舞い、歌舞の菩薩の声々に囃していざ遊ぼう。面白いことだ」
ワキ「土も木も我が大君の国なので、どこが鬼の住処であろうか」
シテ詞「萬山に雲尽きて人家稀な岩頭に軍兵の数多見えるのは、そもどこの何者か」
ワキ「是はよく知られた坂上田村だが、勅命に応じて来たぞ。今日を最後と思うべし」
シテ「何、高丸を討とうというか」
ワキ「中々の事だ」
シテ「あらずとよ。高丸は王城のちさん(池山か)に住みながら、勅命を背く程なのに、通力自在の高丸を討手とは不届きである」
ワキ詞「いかに勢いありと言っても、朝敵ならば滅ぶべし。早く攻め入れや兵士たちよと田村が大声で呼びかければ」
地「数多の兵士が一同に、一同に、我も我もと賢(さか)しい岩頭を伝い上がって、隙間もなく掛かった」
シテ「しこんしとつくは是だな」
地「是だな。譬えば夏の虫の火に入り、己の身を焦がす。道理を知れよ田村丸と言って、手ごろの斧を引っ提げ、邪慳(じゃけん)の眼(まなこ)を開いて大勢に切ってかかれば、その勢いに恐れつつ、数万の軍兵は岩頭(がんとう)より転げ落ち、前後を失い力も尽きて、遥かに退いたぞ」
ワキ「田村は是を見て」
地「是を見て、余すまいと言って剣を抜いて、高丸に掛かったところ、物々しいかな田村丸と言って斧を振り上げ投げかければ、蝶鳥の様に飛び違った。また打ち掛ければ受け流し、高丸は田村の武芸に比べる勢いも、かんせい(喚声か)りき(利器か)も更に勝劣は見えなかった。その時鈴鹿の御前は、鈴鹿の御前は味方の様に前に進み、戦う風情でもてなして、高丸に剣を投げかけた」
シテ「これは安心できないことかな、鈴鹿姫」
地「鈴鹿姫、謀ったかと斧を振り上げ鈴鹿に掛かれば、又後ろから田村が切る。田村に掛かれば鈴鹿が切る。手に互いに暇なく攻められて、さしもの猛き高丸だけれども、今は弱って見えた。眷属よ眷属よと大声で呼んだけれども、逃げ去って見えない。あれほどに契った鈴鹿の御前も敵(かたき)となることが無念だ、無念だ。さあ物見せんと大手を広げて掛かろうとするけれども、目も暮れ肝も消え足もよろよろと長夜(ちやうや)の闇の眠りの内に夢の浮橋を渡る様に危なく見えたが、終に鶺鴒(せきれい)を転び落ちたのを田村が立ち寄って頸を打って都へと言って帰った。

◆余談
 原文に漢字を当てるのにあたって、基本的に口承である神楽の詞章と違って、崩れて意味がとれない箇所はあまり無かった。しかし、角川書店「室町時代物語大成」シリーズは注釈も現代語訳もなく、ドンと原文だけを載せているから、素人の自分にとって精読することは、かなり難儀なことであった。脳みその奥、小脳の辺りの疲労感が濃い。

 手間をかけた挙句に、出典の候補と思われた作品と粗筋が全くといってよいほど符合しないのは予想外なことであった。物語としては興味深いので元はとれている。

◆参考文献
・「室町時代物語大成 第九」(横山重, 松本隆信/編, 角川書店, 1981)※「田村の草子」pp.81-109
・金子恵里子『歴史民俗博物館「田村の草子」翻刻と解題』「専修国文」第八二号(専修大学日本語日本文学会, 2008)pp.63-107
・「室町時代物語大成 第七」(横山重, 松本隆信/編, 角川書店, 1979)※「鈴鹿の草子」pp.461-497
・「東北の田村語り」(阿部幹男, 三弥井書店, 2004)pp.9-55
・「仙台叢書 復刻版 第十二巻」(平重道/解題, 宝文堂, 1972)※「田村三代記」pp.479-504
・「田村三代記:御国浄瑠璃」(小倉博/編, 仙台郷土研究会出版部, 1940)pp.1-70
・「謡曲叢書 第二巻」(芳賀矢一、佐佐木信綱/編, 博文館, 1915)※「鈴鹿」pp.258-261, 「田村」pp.545-551
・「東北の田村語り」(阿部幹男, 三弥井書店, 2004)pp.9-55
・内藤正敏『鬼の物語になった古代東北侵略―「田村三代記」と「田村の草子」』「東北学」9(赤坂憲雄/編, 東北芸術工科大学東北文化研究センター, 2003)pp.338-364
・福田晃「奥浄瑠璃『田村三代記』の古層」「口承文芸研究」第二十七号(日本口承文藝学會, 2004)pp.1-33
・小林幸夫「大蛇の裔・田村将軍―鈴鹿山立烏帽子伝承と巫覡―」「講座日本の伝承文学 第七巻 在地伝承の世界【東日本】」(徳田和夫, 菊地仁, 錦仁/編, 三弥井書店, 1999)pp.62-83

記事を転載→「広小路

 

|

鈴鹿山――田村三代記を読む

◆はじめに
 「田村三代記」は征夷大将軍・坂上田村麻呂の祖父・父・子の三代にまたがる奥浄瑠璃であり、仙台藩、南部藩領で盛行した。「仙台叢書 復刻版 第十二巻」に収録された「田村三代記」を読んだが、祖父・父の代の物語は割愛されていて、子である田村将軍・利仁と立烏帽子にまつわる鬼退治伝説となっている。

 「田村の草子」「鈴鹿の草子」と比べて、特に子の田村将軍・利仁の代についてだが「鈴鹿の草子」とほぼ粗筋である。大きな違いは「田村の草子」「鈴鹿の草子」に登場する鈴鹿の御前(立烏帽子)の出自が天界の天女であるのに対し、「田村三代記」の立烏帽子は第四天の魔王の娘であることだ。つまり、魔性の物なのである。その日本を魔国となさんと企む魔性の物と田村将軍が結ばれて鬼退治をするという物語となっているのである。

 反面で「鈴鹿の草子」のように俊宗と会えない鈴鹿の御前が恨み事をいう、その葛藤は「田村三代記」には見られない。

◆田村三代記・あらすじ
※以下の粗筋は「田村三代記:御国浄瑠璃」の版から起こしたものである。

 人皇五十一代平城天皇の御代に丹波の国と播磨の国の境に大きな星が一つ天下り光輝くことあたかも白昼のごとくであった。そこで天文の博士を召して占わせたところ、これは吉事であるとなった。この星は砕けて隕石となって降り、中から三歳ばかりの麗しい童子が誕生した。この童子を連れて帰って参内し、養育した。この童子は七歳で書を読み文字を書いた。また笛の名手であった。十歳のとき利春(としはる)と改名した。十五歳のとき帝が利春を召し、先帝の命日に天人を天下らせ舞楽を奏せよと命じたところ、利春は天人の舞楽は天竺梵天王の大庭でなければ奏せないと断った。怒った帝は利春を流刑に処す。

 流された利春は心を慰めるために笛を吹く。すると笛の音に惹かれた女が現れた。夜な夜な利春の許に通ってくる。身分の低い水仕だと名乗っているが容顔美麗であり、いつしか二人は契りを結んだ。懐胎した女は利春の許に留まるようになる。女は出産には三年三月必要だと答える。産屋を建て、百日百夜経つまでは中を覗くなと言い残して女は中に籠る。

 九十九夜になった日、利春は待ちきれずに産屋を覗いてしまう。すると、中には二十尋もある大蛇がいた。明けた百日目に女は赤子を抱いて利春の許を訪れる。正体を見られた女は古巣の池に帰ると言い残して消える。鏑矢を乳房とせよと言い残したので、矢羽根を吸わせたところ、笑顔となった。赤子は大蛇丸と名づけられた。大蛇丸が七歳になった頃、利春は赦され、都に戻る。

 大蛇丸が十歳になった頃、大和の国と山城の国の境の今瀬が淵に棲む悪龍が人々に害をなした。十歳ながら武勇に優れた大蛇丸に悪龍退治の宣旨が下される。百騎余りの手勢を率いて大蛇丸は出発する。

 淵に着いた大蛇丸だったが、悪龍の恐ろしさに手勢の者が怖れをなしてしまう。ところが大蛇丸は動じず、母の形見の神通の矢で龍の眉間を射ぬき、龍を退治する。都に帰って参内した大蛇丸は帝の御感甚だしく、中納言に任じられ、利光の名を賜った。

 利光が退治した悪龍は利光の母の大蛇であり、利光に武功を立てさせるために悪龍と変じたものである。その身は滅んだが、心は天に登り八幡神として現したという。

 第五十二代嵯峨天皇の御代に奥州で反乱が起きた。そこで中納言の利光が召されて将軍として反乱の鎮圧に当たることになった。千騎の手勢を率いた利光は奥州に向けて出立する。大蛇の腹に三年三月宿った大蛇丸の成長した利光の威光に大名小名たちは恭順し、反乱は収まる。

 都への土産物を持って帰るという話となった。奥州には珍しい物がないというので、七ツ森という森で狩りを催して動物の皮を持って帰ることになった。狩りが実施された。多数の犠牲を出しながら、大きな狒々と荒熊を狩った。亡くなった者には弔い金を渡し、利光は帰城した。

 九門屋という長者に悪玉という醜女が水仕として仕えていた。悪玉は実は公家の娘であったが、信濃詣でに出た際に山賊に襲われて身売りされたものであった。肌を許さないため観音に祈ったところ、醜女と変じた。これでは売り物にならないと転々とした挙句に九問屋に身を寄せることになったのである。その悪玉に利春が目を留めた。利春の眼には本来の美麗な女として映っていたのである。悪玉と契った利春だったが、都に連れ帰る訳にもいかず、形見として神通の鏑矢を与える。

 懐妊した悪玉だったが、三年経っても出産しなかった。これは尋常の者を身ごもったのではない、化性の物だと考えた。化け物が生まれては家の名誉に関わると思い長者は悪玉に暇を与える。行く当てもなく悪玉は放逐される。

 見かねた在所の者に産屋を建ててもらい、三年三月が経って悪玉は出産した。それを知った九門屋が子を捨てて奉公せよと命じる。悪玉は赤子を捨てようとするが果たせず、赤子諸共に河に身投げしようとするが、どこからともなく待てという塩釜明神の声がして思いとどまる。

 玉のような赤子を見た長者は考えを改めて我が子として育てることにする。悪玉から赤子を取り上げた長者は悪玉に決して母と名乗るなと誓言させる。赤子は千熊丸と名づけられた。

 千熊丸は十三歳に成長した。弓馬の道に優れた千熊丸だったが、八幡宮の流鏑馬の射手を務めさせて欲しいと別当に願いでるが、別当は千熊丸が悪玉という身分の低い水仕から生まれた素性も知れない子であるとして断る。屈辱を受けた千熊丸であったが、その場は堪え、悪玉の許に行く。悪玉から父が将軍であること、そして母の身の上を聞き出した千熊丸は神通の鏑矢を渡され都へ出立する。

 長い旅を経て都に到着した千熊丸は、利光の館へと赴き、蹴鞠の腕を見せて利光の関心を誘う。怪力を見せつけて利光に仕えることになった千熊丸であったが、千熊丸が只者ではないと見て取った利光は、千熊丸に逆心があるのではないかと疑う。そこで人喰い馬の世話をさせるが、千熊丸は馬を手なずける。いよいよ怪しんだ利光は千熊丸に食事をさせ、その最中に弓で射殺そうとする。が、千熊丸は何事もなかった様に箸で矢を受け止める。観念した利光に千熊丸は形見の神通の鏑矢を見せる。我が子だと利光は認める。

 内裏に参内した千熊丸は坂上田村麿利仁(としひと)の名を賜る。そして悪玉を利光の正妻として、奥州から召し出す。元の美麗な姿に戻った悪玉は都へ入り、田村御前と名を変えた。


※以下の粗筋は「仙台叢書 復刻版 第十二巻」の版から起こしたものである。

 仁明天皇の御代に異変が起きた。毬のような光るものが昼夜を問わず飛び回り、光と遭遇したものは皆、金品財宝を奪われた。帝は公卿と大臣を召されて詮議なさったが、とにかく博士を召して占わせた。

 第四天の魔王の娘である立烏帽子が伊勢の国の鈴鹿山に天下り、日本を魔国となそうとしているとしていると占う。そこで田村将軍利仁が召され、急ぎ立烏帽子の成敗をするよう宣旨が下った。

 利仁は神仏に祈念し、総勢二万騎を連れて都を出て鈴鹿山へ押し寄せる。鈴鹿山を包囲した軍勢だったが、立烏帽子の居所はさっぱり見つからない。ただ時間だけが過ぎていった。利仁は父の言葉を思い出す。魔性の者を尋ねるときは、大勢で尋ねてはならない。必ず主従二人か三人かで尋ねるべしと。利仁は軍兵を差し戻し、自分独りで鈴鹿山の陣地に籠る。それから三年経ったけれども立烏帽子に逢うことはなかった。

 利仁は神仏に祈念する。すると毬のような光るものが現れた。光はこの上に登れ。されば恋しき人に逢うべしといって消える。今まで見つからなかった細い道があった。その道を行くと立烏帽子の館があった。四方に四季を映す庭園があり、極楽浄土もかくやあらんという見事なものであった。

 利仁は立烏帽子の姿を見かける。歳の頃二八(十六歳)ばかりの美麗な女房であった。利仁は立烏帽子と親しくしたいと思ったが、何のためにここまで来たのだと考え直し、そはや丸という剣を立烏帽子に投げつける。立烏帽子も大通連の剣で応戦、斬り合ったが決着がつかなかった。

 呆然とした利仁の前に立烏帽子が忽然として現れた。自分を討とうとしても中々叶わないことだ。我は天竺の第四天魔王の娘で、将軍の先祖も知っている。利仁公三代は日本の悪魔を鎮めんがために観音が再来したものである。目には見えないはずの自分の姿が利仁公に見られた事は悔しいことだ。自分は日本を魔国となさんがために天下ったが、女の身ゆえ相応の夫がなくては叶わない。奥州に大嶽丸という鬼がいて、妻にせよと文を送ったが一向に返事が来ない。これは利仁公にとっては幸いである。かくなる上は悪心を翻し、善心で利仁公に馴れ初めよう。共に日本の悪魔を鎮めようではないか。

 利仁は従わなければ殺されると思い、かくなる上は立烏帽子に従って時節を伺い八つ裂きにしてくれようと考えた。それで、立烏帽子に承諾の意を伝える。喜んだ立烏帽子は利仁をもてなす。やがて比翼の契りを結び、三年暮らす内に正林という姫君が生まれた。子供が生まれたといっても利仁は油断しなかった。利仁は渡り鳥に文を託して、内裏へと送った。内裏では利仁の無事を知って、喜んだ。利仁は来る十五日に立烏帽子を連れて参内するから、そのときに立烏帽子を捕らえて八つ裂きにせよと書いていた。

 立烏帽子は通力で利仁の心を見抜いていた。お心を許しても討たんとするは何事かと言う。しかし、約束を果たせなくては夫の恥であるとして利仁の参内に同行する。神通の車で利仁と立烏帽子は参内する。利仁は立烏帽子を伴って帝に拝謁する。立烏帽子は来月になれば鬼神退治の宣旨が下るから協力しようと言う。

 九月になって利仁は参内した。近江の国の釜染が原に悪者の高丸という鬼神が住み着いて民に害をなしている。成敗せよと宣旨が下った。利仁は二万騎の軍勢を連れて出立する。

 釜染が原で高丸と対峙した利仁は戦いを始める。戦いは利仁が優位で高丸は常陸の国の鹿島に逃げる。それからあちこち逃げ回り、とうとう唐土と日本の境のちくらか沖へと逃げ込んだ。海では手が出せない。二万騎あった手勢も二百騎にまで減った。

 一旦、都に引き揚げることにした利仁だったが、伊勢の国に立ち寄ったところで、枕許に立烏帽子が現れる。高丸は築らが沖、大りんが窟に籠っている。自分が加勢して高丸を易々と討たせようと言う。

 兵を都に引き揚げさせた利仁と立烏帽子は神通の車に乗って築が沖へと赴く。そこには岩屋があった。利仁があそこからどうやって敵をおびき寄せるのだと問うと、立烏帽子は天から十二の星を招いて妙なる音楽を奏でさせた。高丸の末の娘がこれに関心を示した。高丸は自分たちをおびき寄せる田村殿の計略だと諭すが、娘の可愛さに負けて岩戸を開いてしまう。そこで利仁は神通の矢で高丸を射る。大通連、小通連、釼明連、そはや丸の四本の剣で鬼たちの首を残らず討ち取った。利仁は高丸の塚を築かせた。

 伊勢の国に戻った利仁と立烏帽子だったが、立烏帽子が予言する。自分は始め日本を魔国と成そうとして大嶽丸に文を送ったが、返事がないので利仁公を夫とした。夫と組んで高丸を退治したことを大嶽丸は憎んでいる。必ずや自分を攫いにくるだとうと。まず、帝に高丸討伐を奏聞すべし。大嶽丸は高丸の倍強い鬼だが、自分の計略で易々と討たせてやろうと。

 大嶽丸がやってきた。我に背き田村に味方するとは何事か。我に従わないなら微塵にしてくれよう。立烏帽子は、背く気はない。共に陸奥の国へ下るべしといって、大嶽丸に攫われていった。

 利仁に陸奥の国の桐山(もしくは霧山)に棲む大嶽丸を討伐せよとの宣旨が下された。まず利仁は神社仏閣に参拝して戦勝を祈念した。利仁は陸奥の国まで長い道のりを進んでいった。

 立烏帽子は利仁がやって来たことを通力で知り、迎える。達谷が窟に入った利仁と立烏帽子だったが、そこに大嶽丸が帰ってくる。賤しき者の死骸を見れば自分の大望が邪魔される。自分は立烏帽子に溺れ三明六通を失った。これから神通を改め、都へ上って帝を微塵にしてくれようと言う。それから窟を抜け出して桐山に籠った。桐山に三日籠れば三明六通を得るので急げと立烏帽子が言う。大嶽丸は箟嶽山のきりんが窟に逃れた。

 利仁は神仏に祈念する。大嶽丸が出てきた。四本の剣を投げつけて大嶽丸の首は打ち落とされた。が、その首が利仁の手の甲に喰らいついた。大嶽丸の死体を麓の村まで運んだ後、伊勢の国に戻った利仁と立烏帽子だったが、立烏帽子が自分は今年二十五歳になった。寿命だと告げる。泣く泣く立烏帽子と別れた利仁は都に上って帝に大嶽丸成敗の由奏上する。

 再び伊勢の国に戻った利仁だったが、立烏帽子は死の床についていた。再会した利仁と立烏帽子だったが、立烏帽子はそのまま亡くなってしまう。嘆き悲しんだ利仁だったが、夢で冥途に迷い込む。田村は未だ死んでおらず、引き返せと言われるが、利仁は夫婦は二世の契りだと言って聞かない。そこで今年死んだ小松の前という二十五歳の女がいたのでその身体を身代りとすることになった。夢は覚めた。すると立烏帽子の館は消え、娘の正林を抱いたまま眠っていた。

 利仁は都に上って大通連と小通連の剣を献上した。すると帝の宣旨で近江の国から小松の前親子がやって来た。小松の前は利仁の妻となり二世の契りとなった。その後、田村将軍はあちこちの悪魔を退治して九十六歳で大往生して田村大明神と呼ばれた。小松の前は百十三歳で大往生して清龍権現となった。正林は九十三歳まで生きて地蔵菩薩となった。田村大明神、清龍権現、地蔵菩薩が現れ衆生を済度した。

◆伝説の武人たちの合体
 「田村三代記」では子の田村将軍の名が利仁となっている。これは伝説の中で坂上田村麻呂が同じく平安時代の著名な武人である藤原利仁と結びついたということらしい。

 祖父の利春は星から生まれた異常出生譚の人であるが、英雄らしい活躍はしない。異類婚姻譚で血筋を次代の利光に繋ぐのみである。

 また、「田村三代記:御国浄瑠璃」では父の利光の代では唐土への遠征が語られていない。「東北の田村語り」の粗筋が参照した他の版ではあるようである。むしろ母の悪玉の物語の色が濃い。

 また、利仁(千熊丸)も母の胎内に三年三月いた異常出生譚の者となっている。これは「田村の草子」「鈴鹿の草子」と異なるところである。

◆余談
 「田村三代記」をテキストに起こすか考えたが、実際に読んでみると旧字体で、フォントの線が太くて判読が難しい漢字が少なからずあったので止めにする。

「田村三代記」の内容は「仙台叢書 復刻版 第十二巻」に収められたものよりも「田村三代記:御国浄瑠璃」の方が平易であった。「田村三代記:御国浄瑠璃」はデジタルライブラリー化されたもので、書籍であった「仙台叢書」の方を優先したのである。

◆参考文献
・「仙台叢書 復刻版 第十二巻」(平重道/解題, 宝文堂, 1972)※「田村三代記」pp.479-504
・「田村三代記:御国浄瑠璃」(小倉博/編, 仙台郷土研究会出版部, 1940)pp.1-70
・「東北の田村語り」(阿部幹男, 三弥井書店, 2004)pp.9-55
・内藤正敏『鬼の物語になった古代東北侵略―「田村三代記」と「田村の草子」』「東北学」9(赤坂憲雄/編, 東北芸術工科大学東北文化研究センター, 2003)pp.338-364
・福田晃「奥浄瑠璃『田村三代記』の古層」「口承文芸研究」第二十七号(日本口承文藝学會, 2004)pp.1-33
・小林幸夫「大蛇の裔・田村将軍―鈴鹿山立烏帽子伝承と巫覡―」「講座日本の伝承文学 第七巻 在地伝承の世界【東日本】」(徳田和夫, 菊地仁, 錦仁/編, 三弥井書店, 1999)pp.62-83

記事を転載→「広小路

|

鈴鹿山――鈴鹿の草子を精読する

◆はじめに
 角川書店「室町時代物語大成」に収録されていた「鈴鹿の草子」を精読した。坂上田村麻呂の一族に関する英雄譚である。

 「田村の草子」と比較すると、基本的な流れは同じだが、後半、田村殿(俊宗)の代になってから違いが目立ってくる。「田村の草子」では無かった展開として、俊宗が鈴鹿の御前(立烏帽子)と剣を投げ合って戦い、結果、互いに認め合って結ばれるという流れとなっている。また「田村の草子」では一度成敗した大嶽丸だが魂が一つ天竺に残っていて復活するのだが、「鈴鹿の草子」では先ず鈴鹿の御前が大嶽の魂を抜いてしまい、一度倒しただけで終わる異なる展開となっている。一方で「鈴鹿の草子」の大嶽は高丸が千人かかっても叶わない大物としてされている。

 俊宗と鈴鹿の御前との関係から、成立は「田村の草子」の方が早かったのではないかと考えられる。

◆鈴鹿の草子・あらすじ
※「鈴鹿の草子」の粗筋は父・俊人の代までは「田村の草子」とほぼ同じだが、後半、三代目の俊宗の代になって違いを見せはじめる。

 俊祐という源氏の将軍がいた。心に叶う人がいなかったので長年独身であった。寂しく思っていた俊祐だが、あるとき若い女房が虫の声を聞くと貴方への想いが募っていきますと和歌を詠んだのを聞いた。それを聞いた俊祐は誰とは知らないけれども、恋しいことですと返歌する。

 若く美しい女房と出会った俊祐は女房と契る。すると女房は懐妊した。喜んだ俊祐だったが、女房は出産までに三年かかると言う。巨大な産所を建てて、女房はその中に籠る。七日間は中を覗くな。八日目になったらよいと言い残す。待ちきれない俊祐は七日目に産所を覗いてしまう。すると中には大蛇がいて赤子を抱いていた。

 驚いた俊祐だったが、八日目に女房が赤子を抱いて出てくる。女房は俊祐に八日目に見たならば日本の主ともなしたが、七日で見てしまった。されど天下の大将軍となるだろうと告げて消えた。子供は日龍と名づけられた。その後、俊祐は日龍が三歳の年に亡くなってしまう。

 七歳になった日龍に武蔵国のみなれ川に棲む大蛇を退治せよとの宣旨が下される。日龍は父母の無いまま、幼くして勅命を被った我が身を嘆くが、乳母が日龍の父も幼くして大蛇を退治したと勇気づける。

 武蔵国に赴いた日龍だが、手勢を失ってしまう。大蛇を退治できないまま数年が過ぎた。ある時日龍は神仏に祈り、川の水を干すよう願った。すると川が干上がり大蛇が姿を現した。大蛇は自分の妹が日龍の母だと告げる。日龍は大蛇を神通の鏑矢で退治する。

 日龍は十六歳で将軍となり、俊人と名乗った。あるとき鳥が空を飛ぶのを見て、鳥や獣ですら夫婦であるのに自分は独り身だと思った。その頃、中納言の娘に照日の御前という美しい姫君がいることを知る。俊人は文を送って照日の御前と心を通わす。契りを結んだ二人だったが、帝がこの次第を聞き、照日の御前を召し上げてしまう。そして俊人は伊豆の国へ流罪となった。

 近江の国の瀬田の橋を渡った俊人はみなせ川で退治した大蛇の魂魄に好きにせよと言い残す。それから都では大蛇の被害が出る様になった。天文博士がこれは俊人の仕業だと奏上した。

 照日の御前を伊豆の国へ下し、赦された俊人は上洛する。大蛇の被害は止んだ。それから年月が重なり、俊人は照日の御前との間に二人の姫君をもうけた。

 ある時内裏にいた照日の御前が魔性の物に攫われてしまった。俊人は悲嘆に暮れる。俊人の夢に翁と姥と三人の童子が現れ、愛宕山の天狗に訊けば何か分かるかもしれないと告げる。

 愛宕山に向かった俊人は、老僧から自分達は知らない。詳しいことは朽木に訊けと言われる。朽木と対面した俊人は、陸奥の国の悪路王が人々を攫ったと教えられる。朽木は俊人の母の兄弟であった。朽木は成仏できないので俊人に供養してくれる様頼む。俊人は戻って供養する。また、鞍馬に参って毘沙門天に祈る。七日目、目覚めると枕許に多聞天の剣が刺さっていた。

 陸奥の国へ軍勢を率いて出発した俊人だったが、田村の郷で身分の低い女を抱く。子供が生まれることを予感した俊人は、形見として鏑矢を置いていく。

 悪路王の城を囲んだ俊人だったが、門番の娘に問うと、鬼たちは越前の国へ行っていると答えた。城の中に入った俊人達は攫われた人たちと再会する。照日の御前もいた。

 鬼が帰ってきた。睨み合いとなったが、俊人の眼力が勝って、鬼たちを怖気づかせた。俊人が剣を投げると、鬼たちの首を次々と打ち落とした。悪路王を退治して都へ引き揚げた俊人だった。

 俊人が身分の低い女に産ませた子がいた。名をふせや丸と言う。ふせや丸はなぜ自分には父がいないのかと母に問う。母の示唆で形見の鏑矢を手にしたふせや丸は都へと向かう。

 蹴鞠の腕の程を見せたふせや丸は関心を示した俊人に形見の鏑矢を見せる。我が子だと悟った俊人はふせや丸をもてなす。九歳になったふせや丸は朝日と名を改める。試練が与えられた朝日だったが、何事もなかったかのように済ませてみせた(俊人に矢で射られるが、箸で矢を受け止める)。十一歳になった朝日は日龍と名乗る。再び試練が与えられたが、無事乗り越え(俊人に剣を投げつけられるが、懐に収まる)、十三歳で元服、俊人と名乗った。

 俊人は末代までの伝えとして、唐の国を従えようと考える。帝の裁許を得た俊人は十万叟の船で大海に乗り出す。自分が来た証として、俊人は火界の印を結び、唐の国に火の雨を七日間降らせた。

 凡夫の力では叶わないと見た恵果和尚は仏力にすがる。不動明王が俊人の前に立ち塞がるが、俊人が優勢であった。叶わないと見た不動明王は金剛童子を日本に遣わして毘沙門天にこのままでは唐の国が破れてしまい、仏法が衰えてしまうと訴えた。が、毘沙門天は耳を貸さない。

 そこで不動明王が俊人が失われたら日本を守護しようと約束する。それで毘沙門天の気が変わる。劣勢となった俊人は不動の船に乗り移って組打ちとなるが、飛んで来た剣が俊人の首を打ち落とした。

 父の死を知った俊宗は博多の港へと下り、形見を以て上京、父の菩提を弔った。

 十五歳となった俊宗だったが、大和の国の奈良坂山に赴いて金つぶてという法師を退治するよう宣旨が下された。三つのつぶてを投げる金つぶてだったが、ことごとく俊宗に打ち落とされてしまう。俊宗は金つぶてを降参させた。都に連れ帰った俊人だったが、帝の判断で金つぶては獄門となった。

 俊宗は将軍となった。そして年月が経ったあるとき、俊宗は伊勢の国の鈴鹿山に現れた鈴鹿の御前(立烏帽子)を成敗するよう宣旨が下された。鈴鹿の御前は目には見えなかったので、何ともしようがなく、時間が過ぎた。神仏に祈った俊宗だったが、あるとき道が開けて、鈴鹿の御前の館へと迷いこんだ。鈴鹿御前の館は四季の姿を映した庭園がある極楽の如きものだった。

 館のうちに若く美しい女房がいた。鈴鹿の御前と悟った俊宗は何の報いでこれ程に美しい女房を敵としなくてはならないのかと思う。それでも俊宗は剣を抜いて鈴鹿の御前に投げつける。応戦した鈴鹿の御前も剣を投げ、戦いとなったが、決着がつかなかった。鈴鹿の御前は自分には大とうれん、小とうれん、小みょうれんの三本の剣があるので討たれることは無いと言った。

 互いに認め合った二人は結ばれる。やがて鈴鹿の御前は懐妊して一人の姫君が生まれた。

 姫君が三歳になった俊宗は都が恋しくなる。それを通力で知った鈴鹿の御前は心変わりしたかと恨めし気に言う。俊宗はこれまでの事情をしたためて、文を都へ送る。神通の車に乗って参内した俊宗と鈴鹿の御前だった。

 鈴鹿の御前は近江の国の蒲生山に高丸という鬼が現れて人々に害を成すことを予言する。果して、そうなり、俊宗は近江の国へ向かう。俊宗は高丸の城に火の雨を降らせて、鬼たちを攻撃する。戦い負けた高丸は駿河の国、武蔵の国、相模の国と逃げ回る。最後に海の中の嶋に逃げ込んだ。海の中では手が出しようがなく、俊宗の軍勢も多くが討たれてしまった。

 軍勢を調えるため都へ上洛しようとした俊宗は途中、鈴鹿山に立ち寄る。そこで事情を悟った鈴鹿の御前と会う。鈴鹿の御前は自分の許に帰ってこない俊宗を恨めしく思うが、協力する。

 二人だけで高丸を討つことになった。鈴鹿の御前と俊宗は四本の剣を投げて八十人の鬼を首を打ち落とす。残り七人となった高丸だったが、岩屋に閉じ籠ってしまう。鈴鹿の御前が空から十二の星を招いて妙なる音楽を奏でる。

 それを聞きつけた高丸の末の娘がもっと聞きたいといって岩戸を開けさせてしまう。神通の鏑矢で俊宗は高丸を射る。高丸親子を退治した俊宗だった。

 再び、鈴鹿の御前が予言する。陸奥の国のきり山が岳に大嶽という強力な鬼が現れると。大嶽は高丸が千人いても打ち勝つことができないほど強大であるという。

 鈴鹿の御前はわざと大嶽に攫われてしまう。そして、三年の間に大嶽の魂を抜いてしまう。

 大嶽を討てと宣旨を受けた俊宗は陸奥の国へ向かう。鈴鹿の御前に手引きされた俊宗は大嶽の城内を見て回る。打出の小槌など様々の宝物があった。

 大嶽が唐の国の姫君を攫って帰ってきた。四本の剣を投げた俊宗と鈴鹿の御前の勢いに手下の鬼たちは逃げ出す。ただ一人になった大嶽の首を打ち落とす。大嶽の首は俊宗の兜に食らいついてきたが、鈴鹿の御前がとどめを刺してそのまま死んでしまった。

 大嶽の首を持って上洛した俊宗だった。大嶽の首は宝蔵に納められることになった。

 鈴鹿の御前は二十五歳となった自分の死期が近いことを俊宗に告げる。都から帰った俊宗だったが、既に鈴鹿の御前は病の床に臥していた。俊宗と最後の言葉を交わした鈴鹿の御前は亡くなってしまう。

 鈴鹿の御前の死を嘆き悲しんだ俊宗だったが、自分もそのまま死んでしまった。冥途へ旅立った俊宗だったが、倶生神に鈴鹿の御前を返せと狼藉を働く。俊宗は非業の死だったので、元の世界に戻されることになったが、鈴鹿の御前は既に肉体が失われていた。そこで、御前と同じ年に生まれた女の身体を身代りとして復活させる。

 が、復活した鈴鹿の御前は以前とは似ても似つかない姿だった。俊宗は腹を立てる。そこで不死の薬を使って元の姿以上に美しくした。三年の暇(現世では六年)の暇を与えられた俊宗と鈴鹿の御前だった。

 もしも鈴鹿の御前がいなかったら、日本は鬼の世界となっていた。よく心得て鈴鹿へ参るべし。

◆鈴鹿の御前の葛藤
 「鈴鹿の草子」では「田村の草子」に比べて、鈴鹿御前が俊宗に恨み言をいうことが多い。それだけ二人が引き離されることに葛藤を抱いている。「田村の草子」と違って、「鈴鹿の草子」では俊宗と鈴鹿の御前が先ず戦って互いを認め合うという展開となっている。

 「田村の草子」では鬼の住処に四季の景色を映す庭園があったが、「鈴鹿の草子」では鈴鹿御前の館の庭となっている。四季の景色を映す庭園というモチーフは鬼や尋常ではない物のものとして描かれるようだ。

 また、「鈴鹿の草子」と「田村の草子」では大嶽という鬼との戦いの経過が異なる。「田村の草子」では大とうれん、小とうれん、けんみょうれんの剣を持つのは大嶽である。大嶽丸を一度は退治するものの、天竺にけんみょうれんの剣を預けていたため、大嶽丸は復活し、再度俊宗と戦う。一方、「鈴鹿の草子」では三本の剣を持つのは鈴鹿の御前となっている。そして大嶽に攫われた鈴鹿の御前が大嶽の魂を抜いてしまうため、俊宗と大嶽の戦いは一度きりとなっている。


◆鈴鹿の草子
※これは角川書店「室町時代物語大成 第七」に収録された「鈴鹿の草子」に私が独自で漢字を当てたものです。「室町時代物語大成」には注釈も現代語訳も無く、原文がドンと載っているだけなので、間違っている箇所も多々あるかと思われますのでご注意ください。
すゝかのさうし

日本(ほん)、我が朝(わかてう)に、としゆう(俊祐か)と申、源氏(けんし)の将軍(しやうくん)一人おわします。

御心(こゝろ)に叶ふ人、ましまさねば、たゞ独り、御居(い)りあり、伏屋(ふせや)の御徒然、いと寂しくぞ、思し召しける。

九月中頃(なかころ)なるに、南面(みなみおもて)に立ち出でて、四方の景色を眺(なか)め給へば、草は絞るゝ花の色、鹿の鳴く音(ね)も、誠に我が身の上と悲しみ嘆き給ひつゝ、いづくとも知らざるに、斯くぞ聞こえける。

 草むらに 鳴く虫の音を 聞くからに いとゞ思ひや 勝りゆくらん

と言ふを聞き給へば、若き女房(ねうはう)の声(こゑ)なり、あさましく胸うち騒ぎ、妖しく思ひて斯くなん、

 ほのぼのと 明くる明日の 東雲(しのゝめ)に 誰(たれ)とも知らぬ 人ぞ恋しき

と眺(なか)めつゝ、見給へば、歳の頃廿ばかりと覚(おほ)えて、たゞ人とも見ずして、御物語り有りけるか、それより契りを籠め給ひける。

さる程に、我が御所へ具(く)し奉り、連理(れんち[りカ])の語らひ深く、片時も離れ給ふこともなく、契り給ふ程に

女房(ねうはう)、たゞならず、艶めき給へば、俊祐、我五十に余りまで(ママ)、子といふ物のなかりつるにとて斜(なの)めならず、喜び給ふ。

さる程に、七月の患ひ、八月の苦しみ、十月と申に御産所(さんしよ)をこしらえ給へば、

この女房(ねうはう)仰せられける様(やう)、十月と申せ共、産い(はカ)有べからず。三年と言わんとき産すべし。産の所は、岨(そわ)へ三十六町あるべしと宣へば

番匠(ばんじやう)共を集めつつ、程なく三年が間(あひた)に柱門(ちうもん)を建て、楼門(ろうもん)に組み上げ、御産所(さんしよ)出できければ

女房(ねうはう)仰せられけるは、我が産したらん所ゑは七日より内には通ふべからずとて高き所に登(のほ)り給(たも)ふ。

俊祐、片時も離るゝ事を悲しみ給へば、七日にもなりぬれば、今は何か苦しかるべきとて、楼門の上に登(のほ)り給ひて、物の隙(ひま)より見給へば、

節丈(だけ)の恐ろしき大蛇の極めて背中に諸々の草生い茂る、苔むしてあるが、美しき幼(おさあ)ひ物を引き回して眠(ねふ)り至る。

月日の如くに輝きつるは、則ち、二の眼なる。かゝる高き楼門なれば、佛神(ふつしん)三宝(ほう)も現じ給(たも)ふらんとて、やがて、降り給ひぬ。

八日にもなりぬれば、三ばかりなる幼(おさあ)ひ者を抱(いた)きて女房(ねうはう)降り給ひぬ、則ち若君(わかきみ)にてぞおはします。

その後(のち)北の方、宣ひけるは、将軍(しやうくん)この若君を八日に当たりて見たらば、日本の主(あるし)とも成して奉るべきに、八日も待たせ給はで、我が有様を御覧しつれば、天下の大将軍(しやうくん)と成し奉るべし。

人の子は親のつけたる名をこそは呼べ、若君(わかきみ)をば日龍(りう)と呼ぶべしとて、涙を流し仰せられけるは、

日龍(りう)殿の三歳の時は、父は儚(はかな)くなり給(たも)ふべし。七歳と申さんとき、王(わう)より宣旨(せんし)を被(かうふ)り給ふべし。

妾(わらは)は近江(あふみ)の国、ますたの池の大蛇(しや)なり、しかるに、宣旨の仰(おほ)せに従ひ、この年月、なれ奉るなり。

御名残(なこり)惜しくば、思ひ奉れども、今は暇申とて、かき消す様に失せ給(たも)ふ。

俊祐、たゞ呆れ果てゝおわします。

斯様に恐ろしき大蛇(しや)なれども三歳(とせ)が程、契(ちき)りも忘れがたく、御涙、堰(せ)きあへさせ給わず。

せめての、せん方なさに、生(む)まれて幾程もましまさぬ若君(わかきみ)に向かひて、汝が母は何方(いつかた)へ行(ゆ)き給ふぞと問ひ給えば、

天に向かひて、あ、とばかり、さして音もし給わず、俊祐は哀れに思し召しける。

月日に関守(せきもり)据へざれば、三年と申にわ、日龍(りやう:ママ)は十二三の気色して見ゑ給ふ。

俊祐、人知れず嬉しく見給ひながら、遂に儚くなりたまふ。日龍(りう)殿(との)の悲しみ、限(かき)りなし。

さる程に、七歳になりぬれば、御上より宣旨(せんし)を被(かうふ)り給(たも)う様(やう)、

武蔵の国、みなれ川という川に、みつくしのたけという大蛇(しや)あり、年毎(としこと)に人を失ふ。国の患(わつら)ひ、これなり。急ぎ討ちて参らせよといふ宣旨を被(かうふ)り給へば、

日龍(りう)は涙を流して、我、そも、如何なる報いにて、生(む)まれて、やがて母失せぬ。三にて父に別れ、七歳にて、かゝる宣旨(せんち)を被(かうふ)り候ぞと宣えば、

乳母(めのと)申けるは、若君(わかきみ)の父にて渡らせ給ひし人は越前(ゑちせん)の国、なとりかわ(名取川か)と言ふところに長さ十丈(ちやう)の大蛇(しや)を殺し給ひしかば、世の中の人々、これを聞き、舌を振りけるとこそ承り候。

若君(わかきみ)は既に七歳にならせ給へば、斯様(かやう)の宣旨(せんし)を被(かうふ)り給ふ事こそ目出度(めてた)けれとて、君の宝とて、弓に鏑矢、取り具して奉る。

ときに、日龍(りう)は少しも騒ぎ給はずして、既(すて)に軍兵(くんひやう)を揃へ、武蔵の国へ赴き給へば、日数(かす)も経(ふ)りぬれば、武蔵のみなれ川にも着き給ふ。

御覧ずれば、道の程十丈(ちやう)ばかり有、池の岩高くして、落つる滝の音、いと凄まじくして、しばし、これを見給へば、色々の綾錦、数(かす)多(おほ)し。

これを見給ひ、日龍は宣ひける様(やう)、あれ見給へ、魔王(まわう)の物、流(なか)れてみゑ候ぞと、仰(おほ)せられければ、無窮(むくう)の宝、なれける(ママ)、よく(翼か)に散らしたるものは、これを取つて近く攻寄る。

我が国はこれ、みもすそ川の御流(なか)れ、忝(かたしけな)くも、十全(せん)の御位の宣旨(せんし)を知らさるか、

こつてんわう(天王:天皇か)の二代のそつし(卒士か)、とししけ(俊重か)の将軍(しやうくん)に、孫(まこ)、日龍(りう)と申す少年(しやうねん)、七歳也。宣旨(せんし)に任せて来たりたり。大蛇(しや)、出でよ出でよ、もの申べしと宣へば、

軍兵(くんひやう)ども、皆々、池の中へぞ入(い)りにける。何かわ少し溜まるべき、皆々、底の水屑(みくつ)となりにけり。

さて、年は経(ふ)れども、近づく人ぞなかりける。大蛇、滅ほすこと難し。

そのとき日龍(りう)は申されけるは、神は九全(せん)の御位、王(わう)は十全(せん)の御位なれば、この秋津国に跡を垂れ給(たも)う神はいかでか、十全をば背き給(たも)ふべし。

山にわ、さんし(暫時か)王法(わう:ママ:ほう)おわしまさん。この界の水上(みなかみ)利きして、水(みつ)干しく候と祈念し給へば、誠に神も恵(めく)みを垂れ給へば、界の水(みつ)、干にけり。

さる程に大蛇、二つ出で来て申様(やう)、汝が為には我は伯父ぞかし。汝が母にて有りしは、我が為には妹なり。近江(あふみ)の水うみ(湖)に、歳を経(ふ)る大蛇(しや)、汝にわ母なり。

我は既に山川に年を経て六千歳、この川に住て、二万(ママ)五百年、汝は僅(わつ)かに七歳ぞかし。我を敵にして何かわすべきと、口より炎(ほのを)を吹き出(いた)し、申ければ、

さすがに哀れに思し召し、その時日龍(りう)は角(つの)の槻弓(つきゆみ)に神通(しんつう)の鏑矢(かふらや)を取って番(つか)ひ、よっぴき(よつひき)放ち給へば、

この大蛇、命、やがて止め給(たも)ふ、その後、東西(とうさい)、患(わすら)ひもなく静(しつ)かなり。

さる程に、日龍(りう)殿の十六にて、俊人(とし人)の将軍(しやうくん)とぞ申ける。

俊人、有夕暮(ゆふく)れに、縁(ゑん)に立ち出で、世の中を見暮らし給(たも)ふ。折節、鳥の一つがい(つかひ)、飛ぶを御覧じて、いかなれば、あの鳥類(てうるい)、獣(けた物)までも夫婦といふ事のあるに、我に何とて寝覚め寂(さひ)しく悲しかるらん。

哀れ、人もがなと思し召さるゝ折節、その頃中納言(ちうなこん)とておわしける、世の中に並びなき姫君(ひめきみ)一人おわしける。されば父母のもてなし給(たも)ふ事、限りなし。

御名をば、照(てる)日の御前(せん)と申、この俊人、聞き給ひて参らせ給へば、遂に下紐(したひほ)解け、忍び通ひ給ふ。

さて、この姫君の次第(したひ)なく、渡らせ給(たも)ふを御門(かと)、聞し召し、雲の上(うへ)の真白(ましろ)いに、常は御袖(そて)の乾(かは)く間もなし、忍びの玉梓(つさ)、通ひけれども、終に照日わ御返事も無し。

御門、怪しく思(おほ)し召して、俊人、都の外(ほか)へ流(なか)せとて、伊豆(いつ)の国へぞ流(なか)され給(たも)ふ。

俊人は、こは、そも、何事ぞや、君の御遣ひに命を捨て、恐ろしき物を滅ぼし、世の中を静(しづ)むるに、何事の咎(とか)あるやらん。姫君(ひめきみ)の御事に、いとゞ思ひは深かりける。

さる程に、俊人、我都を出でば、都はあれよと御心に祈念して、出で給(たも)ふ程に

瀬田(せた)の橋を通り給ふとて、橋を打ち叩き、仰(おほ)せられけるは、俊(とし)人は都になき身ぞや、一歳(とせ)、みなせ川にて取りて上りし大蛇(しや)の魂はこの界にもあるらん。

今、都へ乱れ入りて、悪事(あくし)をすべし、蛇神(しやしん)は七へん(片か)の魂、有とこそ聞け、疾く疾く都へ乱れ入べしとて、板を強く踏み、伊豆の国へぞ下(くた)り給(たも)ふ。

俊人流されて廿一日と申に、大蛇(しや)の御頭(おかしら)八有が出できたりて、都の内の人を噛み喰らふ事、夥(おひたゞ)し。

天文の博士、座主(さす)の巫女を召して鎮(しつ)められけれども叶はず、上下(しやうけ)の人、怖じ恐れて天下の患(わつら)ひとなる。

ある博士の申は、これは伊豆(いつ)の国へ流され給(たも)ふ俊人の故なりと申。

さては、この人の故(ゆゑ)なり、さらば、元の如(こと)く、返(かへ)せとて照日(てるひ)の御前(こせん)を伊豆(いつ)の国へぞ下されける。俊人は召せともお返事をだにも宣わず、照日の御前は伊豆(いつ)の国へぞ着き給(たも)ふ。

俊人の、元より思ひ給(たも)ふ事なれば、照日(てるひ)の御前(せん)を見つけ奉り、喜び給(たも)ふ事、限(かき)りなし。又、御門(かと)より重ねて召しあり。その時、俊人、都へ上り給(たも)ふ。

瀬田の橋を通り給(たも)ふとて、我は都へ上るなり、悪事(あくし)を止(とゝ)めて、元の如く(ことく)、鎮(しつ)まり給へとかき口説(くと)き宣へば、大蛇(しや)、元の如く、鎮(しつ)まりて、かめ(瓶か)の中へぞ入(い)りにけり。

俊人、都へ上(のほ)り給ひて、元の如く、御二所(ふたところ)住み給ひける。

年(とし)月重なり給へば、照日(てるひ)の御前(せん)、たゞならずして、姫君一人出でき給(たも)ふ。二人の姫君(ひめきみ)、いつき傅(かしつ)き給ふ。

さる程に、俊人は内裏(大り)へ参りの御後に、北の方、徒然のあまりに南面の縁(ゑん)に御入(い)り有ところを、如何なる魔縁(まゑん)の者か、来たりけん、空へ、この北の方を取りて出でぬ。

急ぎ、俊人の御方へ申せば、俊人これを聞き、急ぎ東西を鎮(しつ)め給へとも、その験(しるし)も無かりけり。

一日二日も過ぎぬれば、この思ひに、伏し沈(しつ)み、悲しみの涙、堰(せ)きあへず、思ひのあまりに、俊人新たにおわします神に参り給ひて、今一度(と)、この行方(ゆくゑ)を知らせ賜(た)び給へと祈誓(きせい)申させ給へども、その甲斐もましまさず。

余りに慰む方も無くて、ゆふけ(夕餉か)の浦をぞ問はせ給ひける。

都を東(ひんかし)へ問ひければ、年の程八十余りの翁と七十ばかりの姥(うは)として申しけるは、何事も前世(せんせ)の事と言ひながら、俊人の将軍(しやうくん)の仲、羨ましからず、この北の方故(ゆゑ)に伊豆(いつ)の国へも流され給ひぬ。

又、この間(あひた)は、はや一所に住み給へば、如何なる魔縁(まゑん)の物来たりて、この北の方を取り奉るに、俊人の御もの思ひ、哀れ(あはれ)の御事や。

我等が仲ほど目出度(めてた)き事は無し。逢ひ初めて離るゝ事も無し。俊人廿四、北の方廿一より逢ひ初めて、僅(わつ)かに仲三年こそ、おわしませ。たゞ今掛かる事、嘆き給(たも)ふ、いたわしさよと、姥申ければ、翁申様(やう)、悲しみは、楽しみの始(はし)めなりと申けり。

又、三てう(町か条か)大とみ(富か)を通り給へば、幼(おさあ)ひ者、申けるは、日本秋津国には三の日の如(こと)くして神業(かみわさ)繁(しけ)き、世の中に弓矢の計(はか)が事、優れて目出度(めてたた:ママ)き国なり。

されども、俊人の北の方を、もの(ママ)取られて、おかしさよと申ければ、

中なる幼(おさあ)い者の申事、人間界(にんけんかい)に生(しやう)を受けて、誰(たれ)が生死(しやうし)を離れざらん。生老病死(しやうらうひやうし)の苦をば離れ難(かた)し。いはんや、人間(にんけん)の間(あひた)に、いかでか掛かるべき。

俊人、非業(ひこう)の悩みとかやの有なれば、日本にわ天空、魔王(まわう)の多(おほ)ければ、左様(さやう)の物や取りつらん。凡夫(ほんぶ)はいかでか知るべきと言へば、

今一人の幼(おそな:ママ)き物、げにげに(けにけに)言ふなり。天狗歌うは愛宕(あたこ)の山。太郎坊(はう)、東(ひんかし)山には三郎二郎。

又、鬼ならば、近江(あふみ)の国には、あこし(ママ)の高丸(たかまる)。陸奥の国にはきり山(桐山もしくは霧山)が岳(たけ)、それさなくば、同じき国になる、かゞさんの悪路(あくろ)王(わう)か、取り奉らんと申しければ、

俊人、喜びて愛宕(あたこ)の山に登り給ひぬ。きやうくらい坊(はう)にもの申さんと宣へば、答ふる物も、なかりけり。

やゝありて、三間(けん)四面(めん)の光たう(灯か)、出できたり。その中に歳八十ばかりなる老僧(らうそう)まします。まぶたの膝(ひさ)まで下がりたるか、二人引き開けられ、何事を仰せ有ぞと申せば、

俊人、おこがましき申事にて候へども、過ぎし二月に人を物に取られて候なり。もし御寺の内に左様(さやう)の事や有らんと宣へば、

寺の内にも曇りなく見れども、候わず、東(ひんかし)山の三郎坊(はう)が許にも左様(さやう)の事はあらじと思ひ候へどもと申ければ

俊人、東(ひんかし)山に行きて、三郎坊(はう)にこの由を宣へば、三郎坊(はう)申けるは、これにわ、左様の(さやう)の事は更になし。

こその二月に人が十人ばかり取られたる中に、由々しき女房(ねうはう)、おわし候しか、さては、御辺の女房にておわしける、詳しき事は朽木(くちき)に御尋(たつ)ね候へとて、かき消すように失せ給(たも)ふ。

急ぎ、俊人帰(かへ)られければ五丈(ぢやう)ばかりなる朽木ありけるを、上ざまに強かに蹴(け)させ給ひて、物申さんと宣へば、

この朽木、しばし揺るぎて、首を一丈(ぢやう)ばかり持ち上げて、いかなる事ぞとよ、人に蹴られたることは未だなし。

汝は未だ知らぬは理なり、我こそ、汝(なんち)がためには、母、近江(あふみ)の国の大蛇(しや)なるが、汝が父に契(ちき)りを込め、

汝(なんち)を孕みし時、楼門を開け七日見へからずと申たりしに、汝が父、七日を待たず見給(たも)ふにより、我、その時帰(かえ)りたり。

汝が夫妻は今天にもつかず、地にもつかず、六(むつ)の国、峨峨山(かゝさん)という所に悪路王(わう)が取りて有なり、今廿日と言はんに、合ひ給(たも)うべし、鞍馬の毘沙門(ひしやもん)に参り、よくよく申て、多聞天の御力にて悪路王(わう)を討つべき也。

相構へて構へて、我は邪道(しやたう)の苦しみ暇なし。善根(せんこん)を成し、我に賜(た)び給へとて、かき消す様(やう)に失せにけり。

俊人、涙を流し、我を哀れに思ひ給(たも)ふとて、やがて、鞍馬の毘沙門(ひしやもん)へ参り、俊人、鞍馬の御計らひに、夫妻の方へ知らせ給へと祈念し給ひける。

七日と申暁、多聞天の持ち給ひたる剣を賜ひたるとて示現(しけん)を被(かうふ)りて、うち驚(おとろ)きて見給へば、新たに多聞天王(たもむてんわう)の御剣(つるき)、枕に立ちたり。

これを急ぎ賜つて都へ帰り、軍兵(くんひやう)を卒して急ぎ給(たも)ふ。

七月中頃なれば、賤の女(しつのめ)か、早稲(わさ)田の鳴子引き鳴らしてありけるを、俊人御覧してあれば、髪は空様(そらさま)へ生い成して、黒き髪もなし。己は女なるかと御問ひ有ければ、あうと申。

世の習ひの儚さわ、御下紐(したひほ)解け給ふ。俊人、神通の人なれば御子の有べきを兼ねて知らせ給ひて、これを印にて我を訪(たつ)ねよとて、上(うは)差しの鏑矢を一つ賜(た)びにけり。

これより方(かた)山はいか程有ぞと人に問ひ給へば、これよりニ三十里は鬼の住処にて候、更に人通はずと申、やうやう、急ぎ給(たも)ふ程に、峨峨山(かゝさん)へぞおわします。

見給へば、悪路王が城(しやう)の有様、黒鉄(くろかね)の築地(ついち)を付き、高さは四十二丈(ぢやう)に付きたりける。

俊人、東(ひんがし)の方(はう)を見給へば、年の程、廿四五ばかりなる女房、涙(なみた)を流して申様(やう)、我はこれ都にて、みのゝせんし(美濃の前司)と申物の娘なり。

十三の歳より、鬼に取られて候が、今年三年、馬(むま)飼いの女房と名づけられて、門の守(まほ)る也。都の人と見参らせて候へば、懐かしくこそ候へ。

これは鬼神の城(しやう)なり。凡夫(ほんふ)の来たらぬ所なり。道に迷ひ給(たも)ふか、急ぎ鬼の無き間(ま)に帰(かへ)らせ給へと仰せられければ、

さて、鬼はいづくへぞと問ひ給へば、越前(ゑちぜん)へとて昨日より罷りて候と宣へば、

俊人、如何にして門の内へ入り候ぞと宣えば、

これに地獄王(ちこくわう)と申、馬(むま)に乗りて、父鬼(ちゝおに)入りて門を内より開きて、残る鬼共(とも)をば入れ候なりと申せば、

俊人、嬉しさ限りなく思(おほ)し召して、まさしくこれぞ多聞天の御告げなりとて、喜び給ひける。

俊人はこの地獄王(ちこくわう)を取りて乗り、築地(ついち)の内へ入(い)らんとし給へば、門の内にへは入(い)らずして、鬼の居たる越前(ゑちせん)へとて行(ゆ)く。

俊人は怒りを成し給ひて、剣(つるき)を抜き、畜生(ちくしやう)なりとも、龍(りう)は馬(むま)の王(わう)なり。又、俊人もニ双(にさう)を悟れる者なり。たゞ今命止めんと宣へば、引き返して門を開かんとし給へば、更に開かず。

そのとき、俊人、都の方を伏し拝み、祈念し給へば、その時、この門、開(あ)きにけり。

人々を入れて、彼方(あなた)此方(こなた)を見給へば、女房四五人の声(こゑ)して、都の恋(こい)しやと嘆(なけ)きけり。さればこそとて、走り入りて見給へば、都の人にてぞ、おわしける。

さる程に、この女房の中にも俊人の北の方はましまさず、こゝかしこに尋(たつ)ね給へば、傍らに由々しき女房の声(こゑ)して泣く音(をと)あり。

怪しくて立ち寄りて聞き給へば、俊人の北の方なり。嬉しさに胸うち騒ぎ、簾内(みすうち)開けて入(い)り給へば、北の方、呆れたる様にて如何なる事ぞと宣へば、

俊人宣ひけるは、命を捨てゝ、これまで参りたるに、如何にとだにも承り候わぬは、悪しく参りて候やと宣へば、

やゝ久しくありて、北の方、嬉しさにも涙(なみた)先立(さきた)ち候ぞ、この世にては、相見奉らむ事とも更に思ひ寄らず、又憂き目を見せさせ給わん事こそ悲しけれと、かき暮れてこそ泣き給ふ。

俊人、これまで参る志(こゝろさし)と、たゞ泣くより他の事ぞ無き、さりながら、御心安く思(おほ)し召すべし。

さて、鬼の来るときわ、何と候やらんと尋ね給へば、

鬼の来るときは晴れたる空かき曇り、雨ふり風吹き、騒がしく、雲居に物語りの声(こゑ)有て夥(おひたゞ)しき躰にて候と、語(かたり)も果て給わぬに、はや世間の曇り、風吹き騒ぐ。

十人の女房たちは今を最期(さいこ)と悪路王(あくろわう)をぞ待ち給ひける。

必至(ひつし)の時ばかるなるに、虚空に物語(かたり)の声(こゑ)して、この悪路王(わう)、申様(やう)、この女房どもは何方(いつかた)へ行(ゆ)きけん。又地獄王(ちこくわう)は何とて鳴きやらんと申ければ、

鬼共、大の眼(まなこ)を見い出し睨みける。女房(にうはう)達は皆々伏し給(たも)ふ。

されども、俊人、多聞天王(たもんてんわう)と祈念し給(たも)ふ事なれば、俊人の眼(まなこ)の光、俄かに日月の如(こと)くになりて、鬼共を睨み給へば、鬼共、こは如何なる事やらんとて慌(あは)て騒ぐ。

俊人に睨まれて、鬼共、血の涙(なみた)を流しつゝ、何処(いつく)も暗闇となりければ、

その時、俊人、剣(けん)を抜き給ひて、鬼の中へ投げさせ給へば、空へ舞い上がりて、鬼の首を一度に打ち落としけり。

悪路王(わう)が首は天に舞い上がりて、七日回りて、魔王(まわう)の剣(けん)を持ちて俊人を討たむとて、しばし喚(おめ)きけり。

やゝありて首は地にこそ落ちにけり。俊人は鬼の首、骸を灰に焼きて持たせ給(たも)ふ。

そうして、女房は六十人ばかりなり。皆々連れて都へ上り給(たも)う。道より、田舎の女房(にうはう)は暇申て、我がふるさとへ帰りける。

さる程に、俊人、都へ帰り、北の方諸共に相具して、俊人廿五まで天下の将軍(しやうくん)にて、我十一代(たい)になる。

末(すゑ)の世、継ぐべき子のなき事こそ悲しけれ。姫君二人おわしけれども、男子(なんし)の無き事を悲しみ給へける。

かくて、俊人、悪路王(わう)を攻めておはせしとき、田村といふ所にて召されし賤の女(しつのめ)が腹に若君(わかきみ)一人おわしける。御名をば、ふせや丸(まる)とぞ申ける。母、育(はこく)み奉る。

有とき、ふせや丸、母に向かひて、如何にや、我ははや、既(すて)に七歳になるまで父といふ事おわしまさぬ事こそ、不思議(ふしき)なれと仰(おほ)せられければ、

母、うち笑い、汝(なんち)が父といふ物は無し。尋(たつ)ね給(たも)ふとても、何にし給ふべきと言えば、

何とて、隠させ給(たも)ふらん、かゝる田舎に住まひして、数ならぬ御身、たゞ一人見(のみカ)年月を送り給(たも)ふに、稀に逢う世の試せしは親が知らせて有べき、伝へ聞きても見給へ、神佛の麗門(れいもん)を引きて押し給へと、涙を流して嘆き給へば、

汝(なんち)が父と出づし人の国には、これより東(ひんがし)に谷峰三越ゑて、あひほう山の腰に、小(こ)松三本が下にありと詳しく教ゑ給ひければ、

教への如く、行(ゆ)きて見給(たも)ふに、いぬかれ(射抜かれか)といふ鳥の羽にて佩(は)きたる鏑矢(かふらや)有。これを取りて宿へ帰りぬ。

母に向かいて宣ひけるは、この羽にて佩きたる矢は国の大将(しやう)こそ持つと母に宣ひければ

その時、母申様(やう)、一歳(とせ)、谷山に悪路王(あくろわう)といふ魔王(まわう)の物を攻めにおわします大将軍(しやうくん)こそ汝(なんち)が父ぞと教へけり。

世に嬉し気(け)にて、この年月(としつき)、母の浅ましげなるところにて育(はこく)みしを、立ち出でて行(ゆ)き給へば、母の嘆き、悲しみの涙、堰きあへず。

ふせや丸、七歳と申に、二月、田村の郷(かう)を立ち出でて、三年三月と申に、都に上り、父の俊人の築地(ついち)に立ち給(たも)ふ。

俊人、御徒然の夕暮れに毬を遊ばしけるが、かゝりの外へ毬の出でけるを内へ蹴入れさせ給ひければ、如何なる物の仕業にと、御尋(たつ)ねありければ、件(くたん)の鏑矢(かふらや)を参らせられければ、

俊人、御覧じて、此方(こなた)へ召せとて、近く召されて事の子細を尋ね給へば、母の申たりし事を有りのまゝに語り給へば、

俊人、聞し召して、然(さ)ることも有りとて、へちに御所(しよ)を建て、置き申てもてなし給(たも)ふ事限(かき)りなし。

あしたこと(明日事か朝事か)に、ふせや丸、着給ひける絹の裾、濡れければ、人々怪しく思ひて、密かに見給へば、桂川(かつらかわ)の広き所へおわしまして、彼方(あなた)此方(こなた)ゑ、三度(と)づつ、越え(こゑ)給ふとて、裾を濡らし給いけり。

この由、俊人、聞し召して、誠に我が子にてあるやらんとて、九の歳より朝日の御前(せん)とて(ママ)申ける。

有時、朝(あさ)日殿の御心を見んと思し召し、父御前、弓に鏑矢(かふらや)を差し佩け、よっぴきて(よつひきて)朝日殿、朝(あした)の御飯を聞し召し、召さるゝ所を居させ給へば、

ちっとも(ちつとも)騒がずして、御箸にて彼の矢を挟みて側に置き給(たも)ふ。

俊人は、これを御覧して、いよいよ喜び給いける。

さて、朝日(あさひ)殿(との)の御年、十一になり給(たも)ふ。俊人の幼(おさな)名をば日龍(りう)と申したればとて、朝日殿をも日龍(りう)殿(との)とぞ申ける。

かゝりける所に、ある朝(あした)、俊人、剣(つるき)を抜きて日龍殿(りうとの)に向かひて宣わく、この剣(つるき)を投げんぞ、受けてみよと宣へば、

日龍(りう)殿、心の内に思われけるは、我、蛇神(しやしん)の跡を持つべき身ならば、この剣を袂に収まるべし。又持つまじき身ならば、我が命を取らむべしと祈念し給へば、左右(さう)なく左の袂に収まりける。

斯様に目出度(めてた)き人なれば、御喜び限りなし。十三の御年、元服(けんふく)させ給いて、いなせの五郎俊宗(としむね)とぞ申ける。

俊人、仰せられけるは、我既(すて)に、末(すゑ)に早なりぬ。何事をしてか、末代(まつたい)の伝ゑにすべきと御心の内に思(おほ)し召し、日本は僅(わつ)かに島の国なり。唐土(たうと)を従(したか)へばやと思し召し、

末代(まつたい)までの形見にとて、暇を伺ひ、君に参(まいり)、守(まほ)り奉る事久し、命をば唐土(たうと)に捨て、名をば我が国に留めんと思ひ、君の御許されを被(かうふ)り、唐土(たうと)を従(したか)へ候はゞ、

我、如何様にもなり候はゞ、子にて候、俊宗に仰(おほ)せつけられ候べしと申されければ、

御門の御返事にわ、思ひたち給(たも)ふ事、しんひやう(信憑か)なりと有りしかば、俊人喜び給ひて、やがて博多へ発ち給(たも)ふ。

十万四叟の船を揃へ、軍兵(くんひやう)を乗せ、既(すて)に唐土(たうと)へ渡らんとし給(たも)ふ。

俊人、思(おほ)し召す様(やう)、我、唐土(たうと)ゑ渡らぬ先に奇特を致さんとて、多聞天を念じ奉り、火界(くわかい)の印を結び、唐国(からこく)へ投げられけは(ママ)

さる程に、唐土(たうと)には火の雨、七日降りけり。上下怪しみを成して、天の博士、占い申けるは、日本の将軍(しやうくん)、唐国(からこく)を従(したか)ゑんとて渡る。

さる程に、如何すべき、日本は弓矢の謀り事賢し。容易く勝負(せうふ)を決せん事難し。されば、如何すべき。佛(ほとけ)の力ならでは叶ひ難しと申せば、

その頃、恵果(けいくわ)しやう(上か尚か)と申人おわしけり、このたん(壇か)のつき、これを行い奉る程に、

俊人は十万四叟の船をこしらえ、渡り給(たも)ふ程に、不動明王(ふとうみやうわう)、十はうの金剛(かんかう)、十万のけい童子(たうし)を卒して相向ひ給(たも)ふ。

俊人、立ち出で宣ひけるは、そもそも、如何なる僧にておわしますぞ。戦の門出(かどい)でに、法師の出で合い給(たも)ふぞ。急ぎ、その船、退(しりそ)き給へと宣へば、

不動、申されけるは、例えば、俊人、迎へ奉らんがために恵果(けいくわ)しやう、御遣ひに、これまで参りたり。退(しりそ)き給へと散々に戦ふところに、不動、剣(けん)を抜き、投げ給(たも)ふ。

俊人は鞍馬の毘沙門(ひしやもん)の持ち給ひける剣(けん)を抜きて、合わせ給(たも)ふ。散々に戦いけるが、俊人の剣(けん)は光増しけり。不動の剣(けん)は光劣りければ、

こけい(呉景か)宣ひけるは、霊魂(れいこん)から日本に渡り、鞍馬の毘沙門(ひしやもん)に参り、申参ずる様(やう)は

こけいこそ凡夫(ほんふ)の俊人に負けて、胎蔵界(たいさうかい)の佛(ほとけ)力(りき)も優れて、誰か佛力(ふつりき)を仰(あふ)ぎ候べき、俊人が怪力を失い給へと申遣わす。

金剛(かんかう)、参りて、多聞天にこの由を申給へども、更に御返事もなし。

金剛(かんかう)童子(とうし)参り、かく申給へば、さらば、こけい参らんとて、不動急ぎ鞍馬へ参り、こけいこそ参りて候へ。しかるべくは俊人、利器(りき、力か)を失いて賜(た)び給へ。こけい負けなば、胎蔵界(たいさうかい)の威徳も廃るなりと仰(おほ)せあり。

多聞天、そのとき御返事は、我が国はこれ、しんまいの領(りやう)なり。新たにして佛たち、恵(めくみ)を去る事なし。いかでか我が国のけんしん天王(てんわう)の守(まふ)りをば背き候べきと仰せられければ

我、かうふく(降伏か光復か)の姿にて守(まほ)るべし。更に唐土(たうと)の人を贔屓するにあらず。こけい、負けなば、我三つに還らん事、疑(うたか)いなし。たゞ、道理(たうり)を曲げて利器(力か)を止めて賜(た)び候へと申されれば、

まことに俊人失せなば、日本の守(まほ)るべき由、仰せられ候へば、疾く疾く俊人を討たせ給へと宣へける。不動、御喜び限りなし。

かゝりければ、ときの程に、俊人の御剣(つるき)は光も劣りぬ。やがて、三に折れて霊鷲山(りやうしゆせん)へぞ参りける。

さる程に、風、四方(はう)より吹きて、船の有様、たちまちに覆(くつかへ)す。十万四叟(さう)の船は軍兵(くんひやう)も何方(いづち)へか失せぬらん。

かゝりければ、俊人、今を限りと思ひ給ひて、不動の御船に乗り移り、こけいを取って押さえ、船端(ふなはた)に押し当てて、沓の鼻にて三度蹴給ひて、かい掴んで海へ投げ給へば、剣、飛び来たりて、俊人の御首を打ち落とす。

首をば、不動、取り給ひて、唐土(たうと)へ帰り、恵果(けいくわ)しやうの五七日行なひ給ひける壇(たん)の上に置かれける。

さて、俊人の御船ばかりは、人に印見せんためにやありけん、八重の潮路(しほち)を分け過(すき)て、博多の津にぞ着きにける。

さて、俊宗(としむね)、父の御事を聞き給ひて、急ぎ博多ゑ下りつゝ、父の形見を拾い取りて、泣く泣く都へ上り、御跡を懇ろに弔(とふら)ひ申されけり。

さて、年(とし)月を経(ふ)る程に、いなせの五郎俊宗(としむね)、十五と申に、大和(やまと)の国、奈良坂(ならさか)山と言ふところに金礫(かなつぶて)といふ物ありて、人の持ちたる物を取る。それのみならず、都へ参る御年貢(ねんく)を留めける。

御門(かと)、この由聞し召し、いなせの五郎俊宗、これを急ぎ討ちて参らせよと仰(おほ)せありければ、やがて、百余騎の勢を賜りて、奈良坂の麓へ向かわれけり。

さる程に、色良き染(そめ)物を集めて華やかに拵ゑて、わざと奈良坂山の峠(たうけ)に、これをとり出だしてぞ、置かれけり。

さる程に、金礫(かなつふて)を待ち給へども、見ゑざりける。遥かに程経て、丈の程、二丈ばかりなる法師の極めて眼の深さ、見ゑぬ程なり。

遥かの谷より出で来たりて、高き所に登りて申様(やう)、

あら珍しや、この山に住まいして五六年が程ありつれども、斯様の物を隠さずして通りつる事未だ無し。

いかなる御年貢(ねんく)、御物をも、この山を通(とを)るとては、物に包み隠してこそ、通(とを)りつるにも、我は神通(しんつう)の物にして、賢(さか)し致してこそ、取りしに、志(こゝろさし)もなくて取らせんならば、言ふに及ばず。

さなくば、御門(かと)へ参る物なりとも、先ず(まつ)、はつ(初か筈か)を参らせよ。さなくば、件(くたん)の金礫(かなつふて)を取り出だして汝が命を止めんと大音(おん)上げて申しければ、

俊宗、騒がぬ躰にて宣ふ様(やう)、忝(かたしけな)くも御門の御物なり、いかでか止むべき。その気ならば、神通の鏑矢を取らすべしと宣へば、

金礫(かなつふて)申けるは、こはいかに、稀代(きたい)の事を言ふ物かな。事々しや、さこそあらめ。

我が先祖はとて王(わう)より十一代、せんさい王(わう)より四代、相伝して持ちたる金礫(かなつふて)、三郎つぶて参らせん。

金(かね)の重さは三千両(りやう)、角は四百六十あり、響く声(こゑ)は千頭(せんつ)の牛の一度に吠ゆるが如し、これを受け取り給へ。俊宗とて差し上げければ、俊宗、ちっとも(ちつとも)騒がずして打ち落とす。

その時金礫(かなつふて)申しけるは、こはいかに、三郎二郎つぶてを参らせんとて投げければ、このつぶての響く声は雷電の岩を崩(くつ)すがごとし、これも扇(あふぎ)を持ちて打ち落とす。

こはいかなる事、世の中にも、かゝる曲者はあり。かゝる無念の事なし。その気ならば、只今命を失わんとて、太郎つぶてを参らせんと、

このつぶては何事ありとも、埋(うつ)まじきけれども、余りに吾殿(わとの)が憎ければ投ぐるなり。確かに受け取り給へとて投げければ、鐙(あふみ)の鼻にて蹴落とし給ひける。

これをみてこんざう(勤操か)法師、今は叶わじとや思ひけん、方々へ落ちゆけば、如何にあの法師、何処(いつく)へ行(ゆ)くやらん、手並みの程見せんとて、

角の槻弓(つきゆみ)に神通(しんつう)の鏑矢(かふらや)を以て引き放ち給へば、こんさう坊(はう)が左の耳に離れずして七日まで鳴り回る。

余りの悲しさに元の有りつる所へ上がり申けるは、いかなる、みやうし(苗字か)のいるやなれば、斯くはあるらん。

物にわ当たらずして、かゝる事の悲しさよとて、谷に下り、峰に登ること数(かす)を知らず。

こんさう坊(はう)を召し取り、五百余騎の馬(むま)の先に立たせけり。

やがて、この由、御門(かと)へ申ければ、やがて斬るべき由、仰(おほ)せ下されければ、首を斬りて奈良坂(ならさか)山の峠(たうけ)に掛けられけり、その後は国の騒(さは)ぎ患(わつら)ひもなし。

たゞ今の御恩に、天下の将軍(しやうくん)に宣旨下されける。

かくて、年(とし)月を経(ふ)る程に、又有時、御門(かと)より宣旨(せんし)なる様(やう)は、伊勢の国、鈴鹿(すゝか)山といふ所に立烏帽子(たてゑほし)来て、目にも見ゑずして、不思議(ふしき)の物あり。御門(かと)ゑ参る物を止め、狼藉(らうせき)を致す。これを討つべき由、仰(おほ)せ下さる。

やがて、五百四騎の軍兵(くんひやう)を賜って、伊勢の国、鈴鹿山へぞ向かはれけり。この山に着き給ひて、この許かや、かの許か、こゝかしこを探し給へども、その印(しるし)、更に無し。

武士(ふし)ども、四方(はう)を固めて守(まほ)り給へども、鈴鹿の山、通る物は鳥の如(こと)く飛び連れて空に上がりて失せにけり。

これ程、狩りけれども手にもたまらず、かくて中一年も過ぎけれども、なかりければ、各々皆嘆きけり。

俊宗は屍(かはね)をこの山に晒すとも、彼の立烏帽子(たてゑぼし)を見ずして都へ二度(たひ)帰(かゑ)る事あるべからず、かゝる宣旨(せんし)を賜りて、討ちまて(ママ)こそ無くとも、せめて姿をだに見ずして、都へ帰(かゑ)る事、あるべからず。

たゞ上りなば、人々、物笑いにならんずらん、面々は疾く都へ上り給ひける(マゝ)。

俊宗は、我が御身一人、すごすごと山に泊まり給へば、物寂しき御有様、人跡(しんせき)絶ゑて、人も無し。時々事問ふ物とては峰に来伝ふ猿の声(こゑ)、松吹く風の音(おと)ばかり。

さる程に、あるとき清き水(みつ)にて御身を雪ぎ、高き所に登り、都の方(かた)を伏し拝み給ひて

南無帰命頂礼(なむきみやうちやうらい)、八幡大菩薩(ほさつ)、この山のさんしん(三神か)、こおう(五王か)を始め奉り、哀れと御納受(なうしゆう)垂れ給へと、

深く祈誓、申給ひて、礼(らい)し給へば、この三年が間見ざりつる、こまつ原(はら)こそ出で来けり。

これは祈念の験(しるし)やらんと思ひて、嬉しさに分け入りて見給へば、池あり。

その中に、島に廿四五町(ちやう)ばかりに、五色の波立ちて、水際(みきは)に蓮(はちす)の花開き、極楽浄土(こくらくしゃうと)も斯くやらんと覚えて面白し、しんし(神事か)とうし(有時か)を現したり。

池には反り橋を渡し、橋の許に行(ゆ)き給へば、白金(しろかね)にて築地(ついち)を付き、十二の門を建てたりける門の内を差し入りて見給へば、黄金(こかね)の砂金(いさこ)を庭に敷き、四方(はう)には四季の花を現したり。

東(ひんがし)を御覧ずれば、春の景色と見ゑたり。籬(まかき)の隙(ひま)より御覧ずれば、子の日(ねのひ)の松(まつ)に鶯(うくひす)のさえずりて有りければ、都にも斯くやらんと流石(さすか)に恋(こい)しく思(おほ)し召しける。

又、南の方(かた)を御覧ずれば樹々(きゝ)の梢(木すゑ)も押しなべて、青はじまりの梢(こすゑ)にわ、山時鳥(ほとゝきす)の我待つ声(こゑ)、初音の都に訪れて羨まし。沢辺(さわへ)の蛍も飛び迷ひ、空蝉の声(こゑ)も流石(さすか)心に哀れなり。

又、西の方(かた)を御覧ずれば、秋の景色とうち見ゑて、七夕星(たなはたほし)の天の川に物思ふ。萩(はき)野の露(つゆ)散り散りに、鹿の声(こゑ)、枕(まくら)に呻(すた)く、虫の音も己々の声(こゑ)つけて、峰の松風(まつかせ)、谷の水(みつ)音、いと哀れに心細さは限りなし。

さて又、北の方(かた)を御覧ずれば、冬の景色にうち見えて、木々(きゝ)の梢(木すゑ)も白妙(しろたゑ)の、雪の朝(あした)の風情(ふせい)して、心、言葉も及ばず。哀れにのみ御覧ずる。

籬(まかき)の隙(ひま)より御覧(らん)ずれば、御所(しよ)の有様、黄金(こかね)の柱建て並べ、瑪瑙(めなう)を以て天井(てんしやう)とし、玉の床にわ錦の褥(しとね)お敷き、簾(すたれ)には瓔珞(やうらく)を掛けたりけり。

さて、内を御覧ずれば、歳の程、十七八ばかりなる女房の辺りも輝くばかり、この世の人にも見ゑざりけり。

田村殿、これを御覧じて、俊宗は如何なる罪の報いにて斯様(かやう)の美しき女房(にうはう)を敵(かたき)にわ持つ身となるらん。

たとえ何と我が身はなる共、この女房に近づき会はゞやと思(おほ)し召されけり。

さる程に、田村殿、思(おほ)し召し(ママ)様(やう)、心弱くて悪しかりなんと思し召し、鈴鹿の御前(せん)の心をも見んとや、思(おほ)し召しけん、剣を抜きて、鈴鹿の御前(せん)の御髪(くし)の上に投げ給えば、

そのとき、鈴鹿の御前(せん)、ちっとも(ちつとも)騒がず、いつの間にか有りけん、側に立てて置かれける。琴を弾き、音に聞こゆる立烏帽子(たてゑぼし)に、金輪(こんりん)状(しやう)の直垂(ひたゝれ)に御鎧、高紐(たかひほ)強く締め給ひて、

さんたい(三代か)くけん(具現か)の小手を差し、しやうらん(上覧か)美麗(ひれい)の脛当てに、ちけん(示現)とうみやう(灯明)の御刀、三(しやく)尺一寸のいかもの(如何物)造りの太刀を抜き、

帳台(ちやうたい)の外(ほか)へ投げ出だし、田村の御剣(つるき)に鈴鹿の御剣(つるき)と行き合ひて、斬り様、上(うゑ)になり下になり、戦ひける程に

何(なに)とかしたりけん、田村殿の御剣(つるき)は鈴鹿の剣(つるき)に負けて、黄金(こかね)の鼠(ねすみ)になりて御簾の外へ食い出(ゐ)だす。

黄金(こかね)の鼠(ねすみ)負けて、烏と現(けん)じ、頭(かしら)白きが七つになりて、鈴鹿の御髪(くし)の上に飛び掛かり鳴きければ、

鈴鹿は難(むつか)しやと思はれけん、紅蓮(くれん)妙(みやう)の隠れ印を結ひて、我が身にかけ給ひて、御心を静(しつ)めて宣(のたも)ふ様(脱文カ)

又、田村殿、雉(きし)と現じて入り給へば、鷹となりて追い出し(いたし)給(たも)ふ。

そのとき鈴鹿、宣ふ様(やう)、いかに田村殿、我は人に見ゑじと思ゑば、見ゑざりつれども、余りに神佛(かみほとけ)に念じて我を見給(たも)ふか、愛おしさに斯くは現じ給ひたり、よくよく見給へ。

されども情けなく剣(つるき)を抜き、投げ給(たも)ふこそ、中々あさましけれ、さりながら、昔よりして我が姿(すかた)見たる物、よもあらじ。

さても、田村殿は由々しき名を上げて、御門(かと)の御意に入(い)らんと思ひ給ふとも、この世にては努々(ゆめゆめ)あるまじ。

殿は男なれども、騒速(そはや)の剣(つるき)ばかりなり。妾(わらは)は女人なれども剣(つるき)三あり。討たれて奉らん事、いと難し。

又、殿を討ち奉らん事、いと易し。大通連(とうれん)と申剣(つるき)を出だし、御首(くひ)を討たん事、いと易し。さりながら、殿をば討ち奉る事有まじ、疾く疾く都へ上り給へと鈴鹿の御前(せん)、申給へば、

田村殿、仰(おほ)せにわ、俊宗は都へ帰(かゑ)る事あらじ。その上(うへ)、俊宗の心の内をば、いかでか知り給(たも)ふべきと宣へば、

鈴鹿、うち笑ひ給ひて、宣ふ様(やう)、殿の御心の内、よくよく知りたり。

妾が姿を御覧じて、先の世にいかなる罪を作りて、かゝる敵(かたき)を討つべきと生(むま)るらん事の悲しさよ。喩ひ、如何なる物なりとも近づかばやと思し召ししかども、

又、邪険(しやけん)の御心に翻(ひるかへ)し、妾(わらは)を討ち取りて御門(かと)へと参らせ、名を後代(こうたい)に上げばやと思(おほ)し召して、剣(つるき)を抜きて妾(わらは)に投げかけ給(たも)ふらん。

三千大千世界(三せん大せんせかい)を見るに、御身は逢い給(たも)ふべき契なしと細々と宣へば、

田村殿、喜び給ひて、剣(つるき)を互ひに止めつゝ御一緒におわしまして、田村殿は琵琶(ひは)を弾き、鈴鹿の御前は琴を遊ばし給(たも)ふ。それより一つに語らひ、細やかにありけり。

さる程に、俊宗は明かし暮らし給(たも)ふ程に、鈴鹿の御前はたゞならず、成り給ふ。

月日に関守据へざれば、明くる春にもなりぬれば、玉の如(こと)くなる姫君一人出でき給(たも)ふ。御名をば、しやうりう(小龍か)殿とぞ申ける。

さる程に、姫君の御年、三歳になり給(たも)ふ御年の八月の中の七日に、田村殿、縁(ゑん)に立ち出で、都の方、恋しく思し召して、風の便りもがなと思(おほ)し召す折節に、

雁がね、訪(おとつ)れて通るを、霞の内に立ち籠めて、露わに斯くは鈴鹿も見給(たも)ふべしと思し召して、文(ふみ)を懐に遊ばす様(やう)、

鈴鹿の立烏帽子(たてゑほし)を討ちて参らせよとの宣旨を被(かうふ)り、三年鈴鹿山に籠りしかども、物の姿をだにも見ざりしに、やうやう近づきて、あまつさへ、子をもうけて(まふけて)こそ候へ

討つべしとは思ひ候わねども、宣旨をいかで背き参らせ候べき。

来(らい)八月十五夜に謀りて参るべし。そのとき勢を揃へて討ち取り給えへば

と遊ばして、雁がねに言付け給へば、

鳥も心あり(ママ)物とて、内裏(大り)の総門に落としたりければ、大臣、見つけ給ひて御門(かと)へ参らせ給ふ。御喜び限りなし。

田村(たむら)、未だこの世にありけるこそ目出度(めてた)けれ。武士(物のふ)に近づくだにもあるに、あまつさゑ、子を設(まふ)けたる事の不思議(ふしき)さよ。さらば、軍兵(くむひやう)を用意(よおひ)して待てとて、一万余騎の兵(つわ物)どもを揃ゑ、待ち給(たも)ふ程に、

やうやう、その日も近づきければ、田村殿、鈴鹿の御前(せん)に向かひて宣ふ様(やう)、これは面白き事は、さる事にて候へども、かゝる山深きところに、さのみはいかで住み給ふべき。

我、この山に入りて既に六年になり候、今はいかでか敵(かたき)と思(おほ)し召すべき。都へ上り給ひて、立つとき、所おも拝み給ふべしと宣へば

鈴鹿の御前(せん)、御返事はなくて、たゞ涙をのみ咽(むせ)び給ひて、宣(のたも)ふ様は、逢うは別れの始めなり。何おか宣ふらん。自ら(身つから)をこれにて命を失はんとも惜しむべきにあらず。

その上、忝(かたしけな)くも、親は一世の契(ちき)り、夫妻は二世の契(ちき)りとこそ聞け、御身を自ら(身つから)、この四五年が間の契(ちき)り浅からず。比翼の鳥とも、れんち(ママ:連理か)の枝(ゑた)とも契(ちき)りを籠むるなり。

情けなしとよ、俊宗は天下の大将軍(しやうくん)と生(む)まるゝ自ら(身つから)はこれ、上界(しやうかい)の天女なり、訓辞(くんし)に示現(しけん)なし、綸言(りんけん)、汗の如し、出でて帰らず

情けなしとよ。御身は過(すき)し八月、縁(ゑん)に立ち給ひて都恋しと思(おほ)し召して、風の便りもあらまほしく思(おほ)し召し候ところに、

雁がねの雲の上に渡るを見て、露わに書かば、妾が見んとて、御懐の内にて文を遊ばして、雁がねに御言伝(ことつて)候しを、自ら(身つから)が見てこそ候へ。

その文は内裏(大り)に参り着きて候、御心安く思し召すべし、大臣見つけ御門(かと)の御目にかけ給へば、御門(かと)、御喜び限りなし。

田村はこの世に無きと思ひければ、武士(もののふ)に近づきて、子をさゑ設(まふ)けたる事の不思議(ふしき)さよ、とて御沙汰にて候なり。

我を討たんとひしめく景色、これにわ候へども、詳しく見候、さりながら、殿にいかでか空(そら)言をさせ申べき、しやうりう(小龍か)一人候なれば、良くておはしまさん事こそ聞かまほしく候へ。

これにて、自ら(身つから)が命を失わんと思(おほ)し召し候とも、ちとも厭ひ申まし、自ら(身つから)は神通(しんつう)の物にて、討たれう、討たれしは我がまゝにて候。

田村殿、名を後代に挙げたくば、自ら(身つから)は、如何様にもなれかし。内裏(大り)へ参らんと仰(おほ)せありければ、田村殿、流石(さすか)に恥づかしく思(おほ)し召しける。

はや八月十五夜にもなりぬれば、御二所(ふたところ)、神通(しんつう)の車に乗り給ひて都へ飛びて行(ゆ)き給(たも)ふ。

内裏(大り)西の門に飛び着き給(たも)ふ、御覧ずれば、数万騎(すまんき)の兵(つわ物)とも、暇なく待ちかけたり、夥しくぞ、見ゑにけり。

さて、鈴鹿はなんてん(南天か)たい(台か)の床にぞおわします。田村殿は天井(てんしやう)に畏まり給(たも)ふ。そのとき御門(かと)、御覧して、この女房に俊宗が思ひつきたるも道理(たうり)なりと見給ふ。

さて、鈴鹿の女房(ねうはう)申されけるは、我何事を過ごしたる咎(とか)によりて御敵(かたき)と思(おほ)し召し候や、御門は十全の王(わう)にましませども、人界(にんかい)の卑しき御身なり。

妾(わらわ)わ、甲斐なき様(やう)に候へども、流石(さすか)に上界の天人(てんにん)なり。位も君には勝り奉りて候なり。

我を討たせ給(たも)ふべきにて候はば、早々討たせ給へ。鈴鹿まで人を賜らん事は、よき御大事(たいし)にて候と、かき口説き、涙を流し宣へば、

御門(かと)、あまりの御事に、ともかくも御返事はなくて、つくづくと守(まほ)りた(ママ)給ひてける。

鈴鹿の御前(せん)、田村殿に宣(のたも)ふ様(やう)、男女(おとこおんな)の仲は今に始(はし)めぬ事なれども、しやうりう(小龍か)一人候へば、常に尋ね給ひて、御訪(おとつ)れ給ふべし。

さりながら、今廿一日と申さんとき、あふみ(近江)の国、蒲生(かまふ)山といふ所にあくし(悪事か)の高丸(たかまる)といふ魔王(まわう)の物、討ちて参らせよと宣旨を被(かふぶ)り給(たも)ふべしとて、うち口説き給へば、互ひに涙汲(くみ)ておわしけり。

さらば、暇申てとて、左(ひたり)の御手を上げ給ひて天を招き給ふと見給へば、白き蝶(てう)となりて内裏(大り)の内を飛び出で、愛宕山を指して行(ゆ)く。

田村殿は、我が許の御所へ帰り給(たも)ふ。宣旨なれば、斯く儚き事の悲しさよとて深く沈み給ひける。

さて日数(かす)ゆけば、さる程に、中廿ニ日と申に、少しも違(たか)わず、近江(あふみ)の国の蒲生(かまう)山の腹に、あくし(悪事か)の高(たか)丸といふ魔王(まわう)、日本の従へてと申なり。

これを討ちて参らせよと申、宣旨を被(かうふ)り給ひて、やがて十万余騎の軍兵(くんひやう)を賜りて、近江(あふみ)の国へぞ向われける。

さて、押し寄せて御覧ずれば、高丸が城(しやう)の躰、神佛(かみほとけ)なりとも左右(さう)なく、破る(やふる)べしとも覚(おほ)えず、築地(ついち)を四十町に付きたり。如何にしてか入(い)るべき様(やう)もなかりけり。

そのとき田村殿はしやくわん(赭顔か)の印を結びて投げ給へば、火の雨となりて七日が間(あひた)焼きまわる。鬼はあまりに堪えかねて、木を以て人形(かた)に作りて、夜は戦はせ、昼は己が戦ひける。

終(つゐ)にあくし(悪事か)の高丸は戦ひまけて、駿河の国、冨士(ふし)の岳へ退きて行(ゆ)く。

それへも攻めてゆく程に、武蔵の国、秩父(ちゝふ)の岳に籠りけり。

それへも続きて攻め給へば、相模(さかみ)の国、足柄(あしから)山、白(しら)河(かわ)の関(せき)、那須(なす)の岳までも、攻められて、今は叶はじとや思ひけん、又、海の面、七日退きて嶋(しま)あり、それへ閉ぢ籠りけり。

そのとき、田村殿、御勢(せい)も皆討たれぬ。僅(わつ)かに三百余騎にぞなり給ふ。

そのとき田村殿、仰(おほ)せありけるは、如何すべき。いざや都へ上りて勢(せい)を集めて船を用意(よおい)して、又攻めんとて、都を指して上り給ふ。

伊勢の国、鈴鹿の山の麓に着き給ふ。田村殿、これより鈴鹿山近き所なり。定めて俊宗、恨めしく思ひ給ふらん。放心(はうしん)し給へ、面々とありしかば、

神通(しんつう)の鈴鹿の女房(にうはう)なれば、聞かぬ様(やう)にて斯く仰(おほ)せあるを曇りなく聞きて、鈴鹿の女房、思はれけるは、恨めしく思われける。

田村殿を敵(かたき)と思はば、我都へ上り、御門(かと)の見参(けんさん)に入べきか、しやうりう(小龍か)を捨てさせ給ふ事こそ、聞かまほしけれ。

又、しやうしんしやう(正真正か)の習ひ、我、如何にもなりなば、田村殿おわしませばしやうりう(小龍か)姫を、さりとも見捨て給わじと、頼もしく思ひ奉り、我を斯く隔て給ふ事、恨めしけれども、

さりながらのあくし(悪事か)の高丸、化性(けしやう)の物なり。凡夫(ほんふ)の身として、攻め給わん事候はゞ、田村殿は必ず討たれ給ふべし。

殿こそ、斯く御心、変わり給ふとも、自ら(身つから)行(ゆ)き、かの高丸を討ちてしやうりう(小龍か)諸共に育てばやと思われける。

この嶋へ下らば、十五日の暇なり、討ちて参らせんとて、大とうれん(通連)、せうとうれん(小通連)、さうみょうれん(小明連か)とて三つの剣(つるき)を取り持ちて、

神通(しんつう)の車に乗りて、鈴鹿の舘(たち)飛びて麓なる、まるの宿(しゆく)にぞ着き給ふ。

三百余騎の兵(つわもの)ども、用心(ようしん)しける中を、押し分け押し分け通り給ひて、人の目に見ゑ給わねば、咎むる者こそなかりける。田村殿、い給ひたる所へおわしましける。

田村殿は傍(そは)なる御剣(つるき)を抜きかけて、枕(まくら)許にぞ置き給(たも)ふ。

何とて、妾(わらは)程の敵(かたき)を持ち給ふ人の打ち解けておわしまし候やと有りしかば、田村殿、置き直り給ひ、御傍(そは)に置かれたる御剣(つるき)を取り給へば、

如何に殿は斯くあさましき事をばし給ふ。あくし(悪事か)の高(たか)丸を攻めかねさせ給ふを見参らせ候へば、もろ共に討ちて参らせんとて参りたり。恨めしくも斯様にし給ふ物かなと宣へば、

田村殿、聞し召して、いつぞや、都へ謀(たはか)り、上(のほ)せ参らせし御事、かれこれ、俊宗が事をこそ無念と思し召し候やらんと御恥づかしくて候と、御涙くみておわしませば、鈴鹿の女房も古(いにしへ)の恨みに御袖絞り給ひける。

さる程に、夜(よ)もほのぼのと明けゆけば、鈴鹿、申されけるは、皆々都へ上(のほ)せ給へ。殿と妾(わらは)と二人だに候はゞ、高丸討たん事、いと易しとて、

兵(つわもの)どもをば、都へ返し、我は二人、神通(しんつう)の車に乗りて、けさう(仮相か)の時ばかりに飛び、をゝ(ママ)未(ひつし)の時に外の浜にぞ着き給ふ。

さる程に、あくし(悪事か)の高(たか)丸、良きしやう(仕様か)にあるとて、打ち解けて昼寝して有りしが、何(なに)となく空を見れば、高丸申様(やう)、あはや、東(ひんかし)の雲の西へ険しく行(ゆ)くは田村が鈴鹿を語らひて、我を攻めに来ると覚えたり。

何とも、攻め易からじ。但し、鈴鹿の御前こそ射伏(いふ)せけれ、鬼共、よくよく防げと言ひければ、田村殿の乗り給ふ車を、中天(ちうてん)に上がる所を八十人の鬼共が一度(と)に、磯を吹き出だして、車を天にぞ吹き上げたる。

その時、田村殿の剣(つるき)と鈴鹿の御剣(つるき)と四の剣(つるき)を天地に投げ給へば、八十人の鬼の首をたちまちに打ち落とす。

さる程に高丸、親子ともに七人にぞなりにける。それより日本と唐土(たうと)の境なる、しゆかはらの東(ひんがし)なる秩父(ちゝふ)の岩屋に引き籠もり、せきしろと言ふ谷のやり戸を引き立てゝ

たとえたしやうくわうこう(他生か多少か、煌煌か皓皓か)は降るとも、田村殿にわ討たれじとぞ申ける。

さる程に田村殿、天地に有りつる程こそ、攻めつれ、今は海の底へ入(い)りぬれば、力及ばずいらせ給へ、帰(かゑ)らんと宣へば、

鈴鹿の仰せにわ、大将軍(しやうくん)の仰(おほ)せとも覚えず(ぬ)事かな。妾(わらは)、討つまじと申とも、進め給わんするか、たゞ、帰(かへ)らんと承るこそ甲斐(かひ)なけれ。

我、飛行(ひきやう)自在(しさい)の徳を得(ゑ)たり、賺(すか)し致して討ちてみせ申さんとて、

紅の扇(あふき)を上げて招き給へば、空より十二の星を招(しやう)じ下(くた)し、雲の上(うへ)に舞台(ふたい)を組み、しやかうほくうの東(ひんがし)にわ、秩父(ちゝふ)の岩屋にて三時ばかりぞ遊び給ふ。

その時、あくし(悪事か)の高丸が乙娘、きはた御せんと申か、父に向かひて申様(やう)、我、天竺に在りしとき、天人(てんにん)の舞を見たりしか、これ程面白き事なし、あれをちと見ばやと言ひければ、

高(たか)丸、申けるは、あれは誠の舞にて非ず、我等を討たん謀(はかり事)ぞ、努々(ゆめゆめ)叶ふまじと申ければ、

重ねて申様(やう)、露わにて見ばこそ、悪しからめ、谷のやり戸を細目に開けて見ばやと申しければ、さらばとて五分(ふん)ばかりぞ開けて見ける。あまりの面白さに一寸ばかり開けて見ける。

さる程に、鈴鹿宣ふ様(やう)、あれ見給へ、田村殿、高丸が左の眼(まなこ)差し出だしたり、我討ちてみせ申さんとて、

放した給ふと見ゑしかば、高丸(たかまる)が首(くひ)の骨、少しもたまらず射落とす。

すなわち剣を投げ給へば、七人が首、刺し貫(つなぬ:ママ)き天を指して舞い上がる。

そのとき田村殿、御喜びありて、高丸(たかまる)が首(くひ)計り取りて都へ上らんと申給ふとき、鈴鹿申す様(やう)

如何すべき、高(たか)丸を討ちて、はや心安く、添ひ奉らんと思ひつれども、又、離れて奉らん事こそ、返す返す悲しけれ。

今までは、斯くとも申さず。その故(ゆゑ)は、六(むつ)の国にきり山が岳(たけ)と申す処に大嶽(たけ)と言ふ鬼の候が、この三年が間(あひた)、我に心を掛け候へども、更に聞き入れ候わず候。

日本(ほん)にては、人々近づく事あるまじきと思ひ候へども、この大嶽(たけ)、我を取りに来(きた)るなり。

その故(ゆゑ)は稲妻(いなつま)の様(やう)に見へ、大嶽(たけ)、明日は定めて取りに来たるべし、殿は疾く疾く都へ御上り候へ。我は大嶽(たけ)取られでは、叶ふまじ、疾く疾く都へ御上り候へと有りしかば、

田村殿、誠にその気あるならば、一所にてとにもかくにもなり候はんと宣へば、

鈴鹿、宣ふ様(やう)、我、大嶽(たけ)に取られんと申も、殿を思ふ故(ゆゑ)なり、今三年と申さんにわ、この大嶽(たけ)を討ちて参らせよ宣旨(せんぢ)を被(かうふ)り給ふべし。

この鬼と申は、高(たか)丸が千人集めたりとも、この鬼には、しかし百年二百年(ねん)攻め給ふとも、千万の剣(つるき)を持ちて攻め給ふとも、叶ふまじければ、取られて行(ゆ)かんと思ふは、別(へち)の子細にあらず。

大嶽(たけ)が心を三年が内に誑(たふら)かし、魂を抜きて、殿に易々と討たせ申さんと宣ひければ、

そのとき田村(むら)殿は、たゞかき暮れて、泣き給(たも)ふ。

さて有べきにあらねば、田村(むら)殿は都へ上り給ひける。高(たか)丸が首(くひ)を都へ持ち、御門(かと)へ見参(けんさん)に入れ給(たも)ふ。

急ぎ、詮議(せんき)あるべしとて、やがて宣旨(せんし)をあり、いよいよ田村(たむら)殿、良き将軍(しやうくん)とて、仰(あふ)がぬ人はなかりけり。

さて、六の国、きり山が岳に鬼あり。我が朝(てう)を魔王(まわう)の住処となさんとす。急ぎ、これを討ちて参らせよと宣旨なり。

田村(たむら)殿は、かねて拵え給へば、子細なしとて了承(りやうしやう)申。騒速(そはや)の剣(つるき)を佩き、龍馬(りうむま)にきんふくりん(金覆輪か金輻輪か)の鞍を置き、うちて出で給(たも)ふ。

御供と仰(おほ)せを被(かうふ)りたれば、霞(かすみ)のけんたい(賢台か)と宣ふ御大将(しやう)と行(ゆ)く。

そのとき、龍(りう)を空にひき向け給へば、空に上がりて、程なく六の国、きり山が岳(たけ)、雲の釣殿(つりとの)に着き給(たも)ふ。

鈴鹿女房(ねうはう)、折節、昼寝しておわしけるか、魂は中央(ちうわう)にありて遊びけるか、田村殿を御覧じて急ぎ天下り給ひて、田村殿(たむらとの)を招じ(しやうし)申されけり。

さて、門に差し入りて、扉(とひら)を御覧ずれば、鈴鹿の御前の御手にて

 恋みても 人のこゝろは けふはまた うき世にのこる かたみなりけり

斯様(やう)の事を御覧するに、いとゞ昔恋しく覚(おほ)え給ふ。

あなたこなたを御覧し給えへば、黒鉄(くろかね)の築地(ついち)を付き回しけり。

その景色を見給へば、鈴鹿の御前、はや、涙汲て、などやこのニ三年の間(あひた)、鈴鹿の姫君(ひめきみ)の方へは、御訪(おとつ)れも、し給わざらん。これへの又風(かせ)の便りをも下回ざるやとて、御涙、堰きあへず、恨み給へば、

田村殿は斯様(かやう)の所ゑは容易く人の来たるべきかとて、鈴鹿へは、さらに心に暇なくて申さず候、我も御恋しさは限(かき)りなし。それをば思(おほ)し召し御やり候へ。

又、斯様(かやう)のふしきなる所へ参り、今一度(と)会い奉らん為なりとて、さめざめと泣き給(たも)ふ。御物かたりども、やゝありて、さて大嶽(たけ)は如何にと問ひ給へば、

一の魂ははや抜きて候、御心安く討たせ奉らん。大嶽(たけ)は城(しやう)の上(うへ)に候なり、三月の中の午(むま)の日、天下(くた)り候なり。

そのとき珍(めつら)しき、会式(ゑしき)せんとて、午(むま)のとき、いて候はゞ(マゝ)、

大唐(たいたう)の姫君(ひめきみ)、けいたん(契丹か)国(こく)の姫君(ひめきみ)、その中に、見目良からんを取らんとて出でし、明日の未(ひつし)の時はこれへ来るべしと宣へば、

田村(むら)殿(との)、仰(おほ)せにわ、後の世の物語(かたり)に、あはれ(天晴か)大嶽(たけ)が住む所を見たく候と宣へば、

易き事なりとて、大嶽(たけ)が住むところを見せ申されければ、綾錦、隠れ蓑、隠れ笠、はこんしやうの鎧(よろひ)、打出の小槌などの様なる物どもを拵ゑて置きたり。

又、有ところを見れば、この年(とし)月取りたる人の死骨(しこつ)どもを積み置きたり。あさましき事、限りなし。

さて、鬼の帰(かゑ)る時にもなりぬれば、四方(はう)に剣(つるき)を立て並べ、神通(しんつう)の槻弓(つきゆみ)を張り、大嶽(たけ)を待ち給ふ所に、雲なき空、かき曇り、雷(いかつち)しげくなり、雨風(あめかせ)もの騒がしくしければ、

田村(むら)殿は高き櫓(やくら)の上(うゑ)に見給へば、大唐(たう)の姫君(ひめきみ)かと思しくて、鬼六人が、先に立てゝ、己は光を差し、けんしゃうきうの剣(つるき)を持ちて来たりけるが、申様(やう)

不思議(ふしき)や、人間(けん)の声(こゑ)のするはとて見ければ、さればこそと思ひて、伴の鬼とも申様(やう)、我等が敵(かたき)、葦毛(あしけ)なる馬(むま)のあるは、如何様、田村殿といふ曲者が来たりたると覚えたりとて

門の辺り、近く寄りて聞けば、内に田村(たむら)殿声(こゑ)しける。又聞けば、花瞼(くわけん)の声(こゑ)しける。

大嶽(たけ)これを聞き、腹をたて、申様(やう)、我が許へ来たり、斯様(かやう)の事あるべきこそ覚(おほ)えね。凡夫(ほんぶ)がおのれおのれと大嶽(たけ)が喚(おめ)く声(こゑ)、門も破(やふ)れ、築地(ついち)も崩(くつ)れ、内ゑ大嶽(たけ)入(い)りぬ。

姿を見れば、丈は四十丈(ちやう)ばかりもあるらんと覚(おほ)ゑたり、眼(まなこ)の数(かす)は七十ニ、面の数は六十なり。天地を動かして五色(しき)の息を吹き出だしける。

大嶽(たけ)、余りに腹をたて、田村(むら)、取って組み伏せよ、我がものどもと下知(けち)しければ、

田村(たむら)、静々(しつしつ)と宣ひけるは、音にも聞くらん今は目にもみよ。鬼共、無残なり。日本我が朝(てう)はみもすそ川の御流れ、十全(せん)の君の御遣ひなり。

いかで、狼藉(らうせき)をば申ぞ、己が命を助けむとも、助けじとも我がまゝなりと宣へば、

大嶽(たけ)、これを嘲笑(あさわら)ひ申けるは、日本に王(わう)のあるとかや、僅(わつ)かに嶋(しま)の辺(ほとり)に、何が王(わう)と定(さた)むらん。

天竺(てんちく)にわ、童(わらは)が主(しゆ)のさ大天に、二体の王子(おうち)、せんさい王(わう)、又、父鬼の王(わう)、五十王(わう)とておわします。

天竺(てんちく)にもん王(わう)の位に勝る事なし、唐土(たうと)は七御門(かと、ちく(ママ)さん国(粟散国か)なるゆわやわつか(僅かか)の秋津国を領(りやうする物をば王(わう)とは誰か言はん。

事々しや、命を助けおけばこそ、かゝる事をば言へ。いざや、微塵(みちん)になさんとして、大嶽(たけ)を先として、六人の鬼ども、喚(おめ)き掛かるとき、

田村殿、剣(つるき)に過ちすなと御言葉(ことは)ありければ、四方(はう)よる四の剣(つるき)、切っ先を揃へて来たりける。

これを鬼ども見て、こは如何にせん。命ありてこそ大嶽(たけ)殿にも仕へけめとて逃げぬれば、

大とうれん、左に続き、小とうれん、天地に入て攻むる。はや、御剣(つるき)、空より下りて攻めければ、終(つゐ)に鬼ども失せにけり。

大嶽(たけ)、たゞ一人になりて、こゝかしこ、逃げければ、剣(つるき)、追うてかゝる。あまりに攻められて、天地を破(やふ)つて入(い)らんとすれば、又地神(ちぢん)、下より攻められければ、せん方なくて、六十二の面、三百八十の口の鬼ども、ただ一度に落ち失せにけり。

大嶽(たけ)が首(くひ)をば天竺へ上りて、くた(ママ)の王(わう)に申下して、田村(むら)を討つべしと申ければ、

鈴鹿、これを聞し召して、あの首(くひ)、たゞ今落ちかゝり候わんとするぞ、過ちし給(たも)うなとて、鎧、三両(りやう)、兜(かふと)十枚重ねて着せ奉る。

案のごとく、首、空より喚(おめ)きかゝる。ひしひしと噛みつきける。

そのとき鈴鹿、けんみやうれんの剣(つるき)を持ちて、とどめを刺し給ふ。それよりして、兜にクワガタ(くわかた)と言ふもの始まりける。

さる程に、田村殿、鬼ども皆焼き失いて、大嶽(たけ)ばかりが首を持ち給ひて都へ上り給(たも)ふ。鈴鹿諸共に上(のほ)らん事を喜び給ふところに、鈴鹿、仰(おほ)せありけるは、

自ら、しやうりう(小龍か)諸共に育てゝ、世にあらんと思へばしやうしむしやう(常時無常か)の習ひにて、我死なん事、月日を定めたけり。

鈴鹿の山を持つ者は、下の果報(くわほう)の物は十二年を過ごし、中の果報(くわほう)の物は十六年を過ごし、上の果報(くわほう)の物は廿五を限りにて候。

されば我は上の果報(くわほう)の物にて、今年、自ら(身つから)は廿五になり候。されば、いかに御心苦しく思し召し候はん事、いたわしく候。

この八月十五日に、無常(むしやう)の風に誘われて、たゞ独りこそ行(ゆ)かんとて、御袖を絞(しほ)り給(たも)ふ。

生(しやう)を受けて、死する事、定(さた)まれる事なれど、御愛の道、夫妻の契(ちき)り、今に始めぬ事なり。夫妻は二世の契(ちき)りと申せば、必ず一蓮(はちす)の縁(ゑん)とならんと、御袖を絞(しほ)り給ひつゝ、

構えて、自らこそ、斯様(かやう)になるとも鈴鹿ゑおわしまして、姫君(ひめきみ)を御覧ぜよ。世に思ふ事は、姫君(ひめきみ)の事ばかりなりとて、御袖に余る涙、よそ(余所か)の袖(そて)まで朽ち果つべし。

田村殿はたゞ諸共に鈴鹿へ行きて、ともかくもなり給わんを、見奉らんと宣へば、

何しに、さのみ嘆き給ふらん。大嶽(たけ)が首を御門(みかと)ゑ見参に入れずして、鈴鹿へおわしまさん事、努々(ゆめゆめ)あるまじ。若姫君(きみ)の、せめて十五と申さんまで永らえたくこそ候へとて泣き給ふ。

斯くあるべきにあらざれば、都へ御上(のほ)りありて、鈴鹿へ急ぎおわしませとて、鈴鹿の御前は我がふるさとへとて、神通(しんつう)の車に乗り給ふ。

田村殿は大嶽が首(くひ)を取りて都へ上り給ひける。

さて、御門(かと)、首を実見(じつけん)あり、様々の恩賞(おんしやう)を行われけり。大嶽(たけ)が首(くひ)をば末代のためにとて、宝蔵(ほうさう)に込められけり。

田村殿、急いで鈴鹿へ下り給ひぬ。門を差し入(い)り給ふより、人の泣く声(こゑ)すれば、胸うち騒ぎて、急ぎ入(い)りて見給へば、七日と申ける。姫君(ひめきみ)の枕許に立ち寄り、悲しみ給ふ。

田村殿、おわしまして、働かさでおけと仰(おほ)せ候つると申、田村殿、いよいよ夢の心地して、嘆き給ふ事限りなし。

さて、田村殿、御手を取りて、胸に押し当て、今一度(と)物仰(おほ)せ候へ、何とて、御約束を御違(ちか)へ候ぞと嘆き給へば、

やゝありて、さも苦し気なるいそ(ママ)を付き、今一度(と)見ゑ奉らんとてこそ、斯様(かやう)にて候なれ、大とうれん、小とうれんをば、殿に奉る。けんみやうれんをば、姫君(ひめきみ)に賜(た)び候へ。

我、飛行(ひきやう)自在(しさい)の如くと申は、このけんみやうれんを朝日に当てゝ、見候へば、三千大千世界(せんせかい)を眼(まなこ)の前(まへ)に見るなり。

鈴鹿のしやうりう(小龍か)、保つべきにて候、返す返す世の末(すゑ)にも、愛おしくあらせ給へ。姫君(ひめきみ)、我に劣らぬ神通(しんつう)の物なり。

さらば暇申して、失せ給(たも)ふ、姿も変わり果て給ひぬ。田村殿御嘆(なけ)き、せん方なくおわします。

さる程(ほと)に、七日と申に、田村(たむら)殿、この思ひにやありけん、終(つゐ)に儚くなり給えば、姫君(ひめきみ)も一かたならむ思ひにや、これも左右(さう)なく見ゑ給(たも)ふ。

大将(しやう)に付けて候ける倶生神(くしやうしん)を始(はし)めとして、如何なる事かと怪しめれば、門を引きてみ給へば、伊勢の国、鈴鹿山といふ所に、女人成業(ちやうごう)、限(かき)りありて、廿五と申に、命、終わり候なり。

これ、上界(しやうかい)の天人(てんにん)なり。仮に縁(ゑん)深くして、娑婆に出でたりしを召さるれば、男女(おとこおんな)の習ひにて、かりそめに縁(ゑん)を結びたるか、思ひに死に候、その焔(ほむら)、火となりてたいしやくたう(帝釈堂か)も焼け候と申けり。

さる程(ほと)に、田村殿、非業(ひこう)の物なり。疾くして娑婆へ返(かへ)せと、閻魔王(ゑんまわう)、獄卒(こくそつ)に仰(おほ)せありて、急ぎ返(かへ)されければ、

田村殿、申されけるは、我一人、娑婆へ帰(かへ)りても何かせん、同じくは、鈴鹿諸共に返(かゑ)し給へとて御手を合はせて悲しみ給へば、

この女房(にうはう)は成業(ぢやうごう)の物なり、御辺ばかり疾く疾く帰れと閻魔王(ゑんまわう)宣へば、

田村殿、そのとき腹をたて、獄卒(こくそつ)の中を押し分けて行(ゆ)き給ひて、この田村殿と申も、たゞ人にてもなし、大とうれんと申も、文珠(もんしゆ)の智剣(ちけん)なり、かの剣(つるき)の怪力に、獄卒(こくそつ)、いと(マゝ)かすべきと大しゃくたう(帝釈堂か)は燃ゑければ、

閻魔王(ゑんまわう)、倶生神(くしやうしん)、大(おほ)きに騒(さは)ぎて、たいしやくたう(帝釈堂か)滅びなば、冥途の界(甲斐か)、何あるべき、さらば、三年が暇を賜(た)びて、田村も女房(ねうほう)も娑婆へ返(かゑ)すと閻魔王(ゑんまわう)仰(おほ)せありければ、

倶生神(くしやうしん)申様(やう)、この天女(てんによ)はこれへ参りても既(すて)に遥かになり、今は身体もよもあらじ。田村こそ非業(ひこう)の死になれば、返さるへ□と申せば、

ただ急ぎ返(かゑ)すべき、女人もたゞ物にてもなし。上界(しやうかい)の天人なり。

されば、一歳の同じ年生(む)まれたる近江(あふみ)の国の、とうかいと言ふところにあるに、急ぎ急ぎ鈴鹿を入れ替えよと宣ひければ、

田村(たむら)殿、元の如くの姿にてもなし、あさまし気にて候と有りしかば、閻魔王(ゑんまわう)、不死の薬を賜りて、ほんのな(本の名か)を美しくありけり、冥途(めいと)の三年と申は、娑婆の六年に当たるなり。

田村殿も、娑婆へ帰り、鈴鹿の女房(にうはう)諸共に、鈴鹿の御所(しよ)に立ち返り、都へ上り給ひて、

その内に姫君(ひめきみ)は数多になり給ひて、永く将軍(しやうくん)と仰(あふ)がれ給ひぬ。

鈴鹿の姫君(ひめきみ)も、永く鈴鹿の主とぞ言はれ給ひける。

衆生済度(しゆしやうさいと)の御方便(はうべん)なりければ、鈴鹿を信ぜん人は必ず、成就し給ふべし。

もし鈴鹿、御いり候わずは、日本は鬼の世界となるべし。この事、よくよく御聞き候て、鈴鹿へ御参り有べく候。あなかしこかしこ。

 如本書之なり。

◆余談
 ひらがな成分多めの原文だったので漢字を当てるのに苦労した。フリガナが多いのは元のイメージに近づけようとしたつもり。

◆参考文献
・「室町時代物語大成 第七」(横山重, 松本隆信/編, 角川書店, 1979)※「鈴鹿の草子」pp.461-497
・福田晃「奥浄瑠璃『田村三代記』の古層」「口承文芸研究」第二十七号(日本口承文藝学會, 2004)pp.1-33

記事を転載→「広小路

|

鈴鹿山――田村の草子を精読する

◆はじめに

 角川書店「室町時代物語大成」に収録されていた「田村の草子」を精読した。坂上田村麻呂の一族三代に関する英雄譚である。

◆田村の草子・あらすじ

 俊祐(としすけ)の将軍には心に叶う妻がおらず子供がいなかった。五十歳を過ぎて都に移り住んだ俊祐だが、秋のあるとき、素性の知れぬ美しい女性と出会う。女性が魔性の者でも構わないと思った俊祐は女性と和歌を詠み交わす。契りを結んだ俊祐だが、やがて女性が懐妊した。女性はお産には三年かかると言った。三十六町にも及ぶ壮麗な産屋を建てさせた俊祐だが、女性は八日目になるまで覗いてはならないと言う。七日目に待ちかねた俊祐がこっそり覗くと、そこには大蛇が赤子と共にいた。女性はますたか池の大蛇だった。女性は八日を過ぎたならばこの赤子を日本の主にもしたものをと言う。しかし天下の大将軍としようと予言する。赤子には日龍丸と名づけられた。

 日龍丸が三歳のときに俊祐が亡くなった。七歳となってとき、宣旨が下り、近江の国のみなれ川の大蛇を退治せよと仰せだった。日龍丸は幼くして大役を任されたことを嘆く。五百騎の兵を従えて近江の国に向かう日龍丸だったが、大蛇は目に見えず、やがて日龍丸は十三歳となった。川の水を干して大蛇の姿を見せ給えと神仏に祈った日龍丸だったが、祈りが通じて大蛇が現れた。大蛇は日龍丸の伯父だと名乗った。たちまちの内に大蛇を滅ぼした日龍丸だった。宣旨が下り、日龍丸は将軍の宣旨を受け、俊仁(としひと)と名乗る。

 十七歳になった俊仁は妻が欲しいと思った。堀川の中納言に照日の御前という天下一の美人がいることを知った。乳母の左近助の伝手を頼り、俊仁は姫に文を届ける。返事を渋った幼い姫だったが、将軍の手紙だからと返事を書く。便りは重なり、やがて契りを結んだが、それを知った帝が歌合せの名目で姫を召し上げてしまい、俊仁は伊豆に配流されてしまう。

 近江の国の瀬田の橋を渡った俊仁だったが、自身が退治した大蛇の魂魄に自分は流人となって下るから都に上って好きにしろと言い捨てる。すると都では人が数多く失われるようになった。恐れた人々は家に閉じ籠った。帝が天文博士に尋ねたところ、俊仁将軍を都に戻さねば鎮まらないだろうと奏聞した。それで俊仁に赦免の綸旨が下った。俊仁が再び瀬田の橋を通ったところ、大蛇は鎮まり洛中は静かになった。帝は感嘆して照日の前を下された。再び契りを結んだ俊仁との間には娘が二人生まれた。

 ある時、内裏で管弦の遊びをしていたところ、強風が吹いて照日の前を天に吹き上げてしまった。俊仁は嘆くが夢に三人の童子が現れ、姫の居場所を知りたければ天狗に訊けと告げる。神仏のお告げと悟った俊仁は愛宕山に向かう。愛宕山では老僧が俊仁を迎える。老僧は自分たちは知らないが、帰り道に不思議の事があるだろうと告げる。大きなふし木の橋を通ったところ、俊仁の母の妹だという大蛇が現れる。妻を攫ったのは陸奥の国のあくる王という鬼だと大蛇は告げる。成仏できないと言う大蛇を俊仁は弔う。

 鞍馬に籠った俊仁は一振りの剣を得る。俊仁は陸奥の国へと出発する。妻子を失った人は他にもいた。彼らを連れ、俊仁は陸奥の国へと向かう。陸奥の国、初瀬の郡の田村の郷に着いた俊仁だった。俊仁は身分の低い女と一夜の契りを交わす。俊仁は自分の形見として一本の鏑矢を与える。

 鬼の城に近づいた俊仁は門番の少女に事情を尋ねる。鬼は越前へ行ったと答える。龍の駒に乗って内側に入るべしと言われた俊仁だったが、門は盤石の如しで中に入れず。鞍馬の神仏に祈ったところ、門が開いた。門の内側には大勢の女性がいた。見たところ、三条北の方と照日の前がいなかった。三条北の方は二、三日前に鬼の餌食となってしまったという。読経の声が聞こえたので探したところ、照日の前がいた。明日には喰われてしまう運命だと言う。

 鬼たちが帰ってきた。鬼と対峙した俊仁だが、その眼は日月の如しで鬼たちを恐れさせた。俊仁が多聞天から授かった剣を投げたところ、鬼達の首は皆落ちてしまった。攫われた男女は国へと送り返された。

 鬼達を従えた俊仁は都へと上った。一方、田村の郷で一夜の情けを掛けた女性が懐妊し、男子を産んだ。男子はふせりという名づけられた。ふせりは賢く学問が上達したが、ある時、鳥や獣にも父母がいるのに、どうして自分には父がいないのか母に尋ねた。母は涙を流し、ふせりの父は将軍だと告げた。形見の鏑矢を受け取ったふせりは都に上る。蹴鞠で将軍の眼に止まったふせりだったが、形見の鏑矢を見せたところ、さては我が子だとなり、名を改めて田村丸となり、元服して坂上の俊宗となった。

 俊仁が五十五歳のとき、唐土に攻め込んで従えようと考えた。関白を通して奏聞したところ、止めるに及ばずとのことで、俊仁は三千叟の船に五十万騎を従えて旅だった。渡海した印として神通の鏑矢を射たところ七日七夜鳴り響き、唐の人達は皆驚いた。凡夫の力では叶わない、仏力に頼るべしとなった。恵果和尚が不動明王と矜羯羅(こんから)、制多迦(せいたか)を引き連れて防ごうとした。

 俊仁と対峙した不動は降魔の利剣(鋭い剣)を持って立ち向かうが、劣勢であった。不動は金剛童子を日本へ派遣した。不動も刹那に日本に渡り毘沙門天と多聞天に、もし自分を勝たせてくれるなら、日本の仏法の守り神となろうと誓った。それで毘沙門は俊仁の加護を止めた。加護を失った俊仁の剣は折れ、組打ちとなるが、不動の利剣が俊仁の首をはねた。将軍を失った三千叟の船は日本へと戻った。俊宗は俊仁の死骸を納め、都へと上がった。

 年月が経った。大和の国の奈良坂山にりょうせん(りょうぜん)という化性の者が現れ、都への貢物を奪い取り、更に多くの人命を奪った。俊宗に従えよとの宣旨が下った。五百騎の軍兵を連れて俊宗は奈良坂山に向かった。計略を立て、濡らした小袖を木の枝に掛けておいたところ、丈二丈あまりの法師が現れた。俊宗と対峙したりょうせんは手並みの程を見んとした。金つぶてを三度投げ打ったりょうせんだったが、俊宗は扇と鐙でそれを防いだ。手立てを失ったりょうせんを俊宗は神通の鏑矢で射た。飛行自在のりょうせんは七日七夜飛んで逃げ回った。七日目に入り俊宗に降参したが、帝の判断で獄門となった。

 二年ほど経って、今度は伊勢の国の鈴鹿山に大嶽丸という鬼神が現れて民を悩ました。帝が俊宗に宣旨を下した。承った俊宗は三万騎の兵を連れて鈴鹿山へと赴く。大嶽丸は飛行自在の鬼神で、火の雨を降らせ、雷を落とす、決着がつかず数年が経過した。

 鈴鹿山に天女が天下った。名を鈴鹿御前という。大嶽丸は鈴鹿御前に恋をし、美しい童子の姿となって、契りを結ぼうとしていたが、通力でその事を知った鈴鹿御前はなびかなかった。

 俊宗は何としても勝負を決せんと諸天に祈った。すると夢の中に老人が現れて、鈴鹿御前の謀りごとによらないと大嶽丸を討つことは叶わないと告げた。有難く思った俊宗は三万の兵を都へ返し、ただ一人で鈴鹿山に向かった。

 夕暮れとなった。二八(十六)歳くらいの女が現れた。これを見た俊宗は鬼神の変化かと思い剣を隠した。女は鬼の居場所を知りたければ、ここにしばらく留まれと歌を詠んだ。

 恋煩いとなった俊宗だったが女の行方は知れなかった。神仏に祈った俊宗は、垣間見た面影が忘れられない。目に見えぬ鬼はあるならあれ、と歌を詠んだ。すると鈴鹿御前がやって来た。契りを結んだ俊宗と御前だった。

 鈴鹿御前は自分の計略で大嶽丸を討たせようと言った。山々を超えて大きな岩穴に辿りついた。その中に入ると大嶽丸の宮殿があった。庭は四季の姿を映していた。奥に大嶽丸が住む館があった。鏑矢を射ようと思った俊宗だったが、鈴鹿御前が制止する。大とうれん、小とうれん、けんみょうれんという三本の剣がある限りは大嶽丸が討たれることはないのだ。

 日が暮れた。鈴鹿御前の許に通ってきた大嶽丸だったが、鈴鹿御前が初めて返歌をした。御前は言葉巧みに大嶽丸の大とうれんと小とうれんの剣を預かった。そのまま大嶽丸は住処へと帰った。けんみょうれんの剣は天竺へ行っているという。

 酒を飲んで酔った鬼たちは伏せてしまった。今だと鈴鹿御前が声をかける。俊宗が名乗りを上げると、童子の姿だった大嶽丸が十丈もある鬼の姿となった。鬼は剣と鉾を三百ばかりも俊宗に投げつけた。が、俊宗は悉く払いのけた。俊宗が神通の矢を射ると、千万の矢先となって手下の鬼達を襲った。磐石へと変化した大嶽丸だったが、俊宗が剣を投げつけると、たちまち首が落とされた。鬼の首を持ち返った俊宗は伊賀の国を賜った。

 俊宗と鈴鹿御前の間には一人の姫君が誕生した。名をしょうりん(正林)と言う。都が恋しくなった俊宗だったが、それを知った鈴鹿御前が心変わりしたかと恨んだ。俊宗は共に上京して一緒に住もうと答えたが、鈴鹿御前は自分は鈴鹿山の守護神だから離れられないと言った。近江の国に高丸という悪鬼が出るから都へ上れと告げる。

 上京した俊宗は帝のもてなしを受けた。その内に高丸という悪鬼が出たと報告があった。俊宗は十六万騎を連れ近江の国へと下った。高丸の城に押し寄せた俊宗は我こそは田村将軍藤原俊宗であると名乗る。火界の印を結んだ俊宗は火炎を高丸の城に投げつける。城は焼け、高丸は信濃の国へと逃げた。高丸は唐土と日本の境に岩穴をくりぬいて城としたので攻められなかった。

 鈴鹿御前は凡夫の力では叶わないと告げた。兵を都に返し、俊宗と鈴鹿の御前は神通の車で高丸の居場所へと向かう。高丸は岩戸を閉じて引き籠ったが、鈴鹿御前が二十五の菩薩を呼んで音楽を流したところ、高丸の娘がこれを聴いて戸を僅かに開けさせた。音楽があまりに素晴らしかったので戸を大きく開けてしまった。俊宗は神通の鏑矢で高丸の眉間を射た。

 都に上って顕彰された俊宗は鈴鹿に下った。すると、けんみょうれんの剣が天竺に残っていたため、大嶽丸が復活すると告げた。大嶽丸は陸奥の国の桐山(もしくは霧山)に立て籠もるだろうと告げ、都に上って良い馬を求めよと言った。

 都に上った俊宗は翁から天下の名馬を得た。その速さは刹那で鈴鹿に到着する程であった。

 月日が経って大嶽丸が陸奥の国で復活した。俊宗に帝の宣旨が下った。俊宗は鈴鹿御前の助言で五百騎の兵を陸奥の国へと向かわせた。その間、俊宗は鈴鹿御前と遊んだ。兵たちが桐山に到着する頃を見計らって俊宗は出立した。刹那に桐山に到着した俊宗だった。

 鬼神は山を掘り、磐石を扉として固く守っていた。搦め手から回った俊宗が門番の鬼を捕らえると、大嶽丸はいなかった。蝦夷が嶋にいると言う。

 急に空が曇り、黒雲の中から声がした。田村殿ではないか。鈴鹿山で自分を討ったと思っただろうが、天竺に魂を一つ残していたのだと俊宗を嘲笑った。

 俊宗は大とうれん、小とうれんの剣に加えてけんみょうれんの剣が揃ったと答える。大嶽丸は腹を立て、三面鬼に命じて大石を雨の如くに降らせたけれども、俊宗には当たらなかった。俊宗は神通の鏑矢で三面鬼を討った。

 腹を据えかねた大嶽丸は俊宗に飛び掛かった。大嶽丸の首が落とされた。首はなおも飛び回って俊宗の兜に食らいついた。首はそのまま死んだ。残りの鬼たちは獄門にかけられた。大嶽丸の首は宇治の宝蔵に納められた。

 再び俊宗は鈴鹿御前と暮らしていたが、鈴鹿御前は病を得て、それが重くなった。鈴鹿御前は自分は仮にこの世に生まれてきた。この世での縁が尽きたので亡くなるのだ。いかなる祈祷も効かないと告げて亡くなった。

 俊宗は嘆き悲しんだ。あまりの嘆きに十七日目に死んでしまった。冥界に行った俊宗は倶生神(ぐしょうしん)を呼び、自分は田村将軍である。主に会わせて欲しいと言う。倶生神は怒るが、俊宗を引き立てようとした鬼を蹴飛ばしたので、肝を冷やしてしまった。

 俊宗は十王に会った。十王は俊宗は非業(ひごう)の死なので急いで現世に帰れと言う。鈴鹿の御前を返してくれと俊宗は火界の印を結んで暴れる。閻魔王が鈴鹿御前を返すように獄卒に言ったが、鈴鹿御前の肉体は失われていると答えた。そこで、御前と同じ時に生まれた女が死んだのを身代りとさせた。だが、この身代りは鈴鹿御前の姿に劣っていた。俊宗は腹を立てて元のようにしてくれと言った。そこで第三の冥官が浄瑠璃世界の宝尺の薬で元の御前を取り戻した。

 俊宗は三年の暇を与えられた。冥途の三年は娑婆の四十五年に相当する。こうして俊宗と鈴鹿御前は二世の契りを結んだ。

 俊宗は観音の化身であり、鈴鹿御前は弁財天である。末代まで伝えるために清水寺を建立し大同寺と称した。田村党の繁栄は仏法のお蔭である。この草子を読んだ人は観音を信じるべし。

◆英雄譚としての田村の草子

 祖父の俊祐のエピソードは異類婚姻譚であり、更に父の俊仁が異常出征譚の人物であり、幼くして大蛇を退治する。また、妻を攫った鬼を退治する。そして唐土を従えんと討って出て不動明王と争うも通力が失せて破れるなど英雄譚の色が濃い様に思える。息子の田村丸、俊宗は父である俊仁が身分の低い女と一夜の契りを交わして誕生した子であり、異常出生譚ではない。また、鈴鹿御前と結ばれることでその加護を得るといった要素が強い。また、都に仇なす鬼を退治するといった面から見ると、動員数こそ数万騎という規模であるが、日本を守護する将軍という軍事面よりむしろ警察に近いのではないか。

 俊宗が自分は藤原俊仁の嫡子、藤原俊宗であると名乗る場面があるが、これは藤原利仁であろうか。武人の藤原利仁と坂上田村麻呂が結びつくのである。

 また、大嶽丸の館の庭は四方がそれぞれ四季の風景を現すものとなっており、鬼の館の庭園という面で、大江山の酒呑童子伝説ともひき比べられるものとなっている。

 あくる王の城の内部では人肉が鮨とされている陰惨な描写があるが、大江山の酒呑童子の伝説の影響が見られる。

 最後に鈴鹿御前が亡くなってしまい、俊宗は御前を冥界から取返しに行くが、俊宗は地獄の獄卒たちを相手に暴れ、御前を四十五年の期限で取り返すことに成功するのである。一般的には取り返す寸前で失敗してしまうというパターンだが、田村の草子では死者を取り返すことに成功しているのである。

◆田村の草子

※これは角川書店「室町時代物語大成 第九」に収録された「田村の草子」に私が独自で漢字を当てたものです。「室町時代物語大成」には注釈も現代語訳も無く、原文がドンと載っているだけなので、間違っている箇所も多々あるかと思われますのでご注意ください。

たむらのさうし 上

日本我朝始まりて、天神七代地神五代は扨(さて)置きぬ。仁王の御代と成て、度々の将軍、家を継がせ給ふ。

中にも俊重将軍の御子にとしすけ(俊祐の将軍と)と申奉るは、春は花の許にて日を暮し、秋は月の前にて夜を明かし、詩歌管弦(くはんけん)に心をかけ、色を好み、しゆえんらつふ[らんふ](酒宴乱舞か)を旨として、おはしける。

され共、御心に叶ふ御台所ましまさずとて、十六の御年より五十に及ばせ給ふ迄、四百六十四人を送り給ふ。されば御子一人もましまさず。

俊祐、思し召しけるは、五十に傾き、喩ひ七十の齢を保つ共、今廿余年の春秋、幾程かあらん、過にし方を思へば、たゞ夢のごとし。

我、一人の子なくして、いかにも成なん後、跡に留まり一度の香花をも供えて俊祐が菩提を誰か弔ひ申べき。

かゝる田舎(てんしや)の住ゐなればこそ、心に叶ふ負債もなけれ、都へ上り尋ねばやと思し召し、急ぎ上洛し給ひて、五条辺りに住ませ給ふ。

御門此よし、叡覧ましまし、都を守護せんための上洛ぞやと御感斜めならず

かくて、秋も暮れゆくに、さかの(坂野か)の方へ御遊覧に出給へば、野山の色も勝り、草の陰も侘しき、虫の声、折知り顔(かほ)ぞ哀なる。

かゝりける所に、いづくより来るとも知らず、いと美しき女のいざよふ月に打ち向かひ、詠む言の葉ぞ哀なる。

 草むらに 鳴く虫の音を 聞くからに いとゞ思ひの 勝りこそすれ

と連ねて、打ちしほれたる有様、絵に描くとも、筆も及難く、柳の糸の春風に靡き、芙蓉の紅(くれなゐ)の雨を負ひたるもかくやと思ひけるに、付き従ふ人もなく、ただ一人、ほれぼれと立給ふ。

こはいかに、天魔鬼神の我を謀らんと計らふらんと、心強く立ざるべくと(べくは)思へ共、色に惹かるゝ心なれば、行くべき方を、白雲の立ち迷ひ給ひけるか。

よし如何なる魔縁(まゑん)の変化にても語らひ行かばやと思し召し、かく詠み給ふ。

 哀れなり 我も(もしくは、なれも)人待つ 虫の声 同じ思ひか いざ比べなん

と打ち眺めつゝ、袂にすがり給へば

意は木ならぬ様にて、同じ車にて帰り給ひ、比翼の契をなし給ふに、程なく懐妊(くわいにん)し給ふ。俊祐、大きに喜び給ひて、我既に五十になるまで、子といふものなかりつるに、かゝる事こそ嬉しけれとて、いよいよかしづき給ふ。

かくて、月日重なるまゝに、御産の用意有ければ、女房仰せられけるは、未だ十月にては有べからず、三(二)年と言はん正月に誕生成べし。

産屋の高さは三十六丈、百八十本の柱を立て、四百八十人の繁昌(はんじやう)を以て二年が内に作り致すべしとの給ひければ、仰のごとく、三十六町(てう)の楼門をぞ組み上げける。

去程に(にナシ)、産(さん)屋に入給ふとき、殿に向かひ、我産屋に入て七日より内に人通ふべからず。八日にならば、かならず参るべしとて、楼門の内へ入給ふ。

将軍、今一日待たん事、千年を経(ふ)る心地しければ、待かねて七日目に立ち覗き給へば、内には大木の松三本、榊七本、生ひ出たり、光明赫奕(かくやく)として、日月のごとし

いかなる事やらんと怪しく思ひて見給ふに、百尋余りの大蛇なるか、二つの角の間に三歳計なる美しき子を乗せて紅の舌を出して、舐(ねぶ)り合いしてこそ遊びけれ、日月と見えつるは眼(まなこ)なり。

俊祐、思召けるは、かゝる恐ろしき事こそ、覚(おほえ)ね、いか様(やう)、天魔の入替りたるらん、其儀ならば、焼き打ちにせん等、思召患ひ給ふに、

八日と申に、在りし姿にて、慈(いつく)しき我が君を抱き参らせて、楼門より降り給ひて仰けるは、七日を過ぐ(直ぐか)して御覧さぶらはゞ、日本の主となし奉るべしと思ひつれ共、我本体を御覧じたる間、叶わず。

されども、天下の大将軍と成し奉り候べし、此若君をば、にちりう丸(日龍丸か)と申べし、若君、三歳の年、俊祐死し給ふべし、七歳の年、御門より大事の宣旨を被るべし。

我はますたか池の大蛇也、諸天宣旨の仰に従ひ、仮にも妹背の語らひをなしつる也、暇申て、さらばとてかき消す様に失せにけり。

斯様(かやう)に恐ろしき大蛇とは知り給へ共、三歳(とせ)が間、慣れし名残の惜しき事、喩えん方もなくて、たゞ涙にむせび立ち給ふ。

あまりの懐かしさに、生まれ給ふわか君に汝が母はいづくへ行きぬるぞとの給へば、天に向かふて、あれあれと計ぞ言ひける。

かくて年月を過行程に、日龍(りう)殿、三歳と申せし時、俊祐、儚くならせ給ひけり、元より越したる事なれ共、さしあたりたる別の悲しさ申計なし、日龍殿も嘆きながら、日数を繰りける程に、

七歳と申に、宣旨下り、近江の国みなれ川と云所に、くらみつ、くらへのすけとて二つの大蛇有、昔より西へ通る者を取り喰らう間、人跡絶えて通ひ路(ぢ)無し、急ぎ彼を滅ぼして参らせよとの宣旨也。

日龍涙を流し、の給ひけるは、恨めしかりける憂き世かな。生まれて十日に経ちて母に別かれ(別れて)、三歳と申に父に遅れ、又七歳にて斯様の宣旨を被(かふふ)る事よと仰られければ、

御乳母(めのと)申けるは、君の御父は五歳にて越前の国けい(気比か)の津にて長さ六丈の蛇(しや)を抱かせ給ひぬ。されば万民舌を振りけるとこそ承れ、君は既に七歳に成給へば何の子細の候べき。

是は先祖の御宝とて(御たらしとて)、角の槻弓(つきゆみ)に神通の鏑矢、取り添えて奉る。日龍殿、弓押し張り、引き給ふに、少も障る方なし。五百余騎の軍兵を揃えて、みなれ河へぞ下られける。

彼所へ着き給ひて、淵の辺りを御覧しければ、綾羅錦繍(れうら、きんしう)の類、多く無かれけり。日龍仰せけるは、是見給へ人々、我を謀らんため、斯様の謀(はかりこと)也。

構えて皆々、目を欠くべからずとて、淵の端(はた)へ立ち寄り、大音あげて、いかに此所の大蛇、確かに聞け、我はみもすそ川の流れ、天津彦根の御末(すゑ)、十前の君の仰に従ひ、日龍、これまで向かふたり、急ぎ出て対面仕べしとの給へば、

川浪高く、立上がり、風凄まじく吹ければ、五百余騎の軍兵、水の泡の消(きゆ)るごとくに一度にはらりと死したりけり。

目に見えぬ敵(かたき)なれば、如何にして滅ぼさん共、弁えずして日龍一人、河の汀
(みきは)を駆け巡りて年月を繰りける程に、七歳より十三の年まで心を尽くしけるが、

あまりの事に佛神に祈りけるは、日本の主、十前の君の宣旨にて候、願はくば、この川の水上を止めて(てナシ)水を干し、大蛇の形を見せ給へと肝胆を砕きて念じければ、

誠に佛神の恵みを垂れ給ふにや、水上(みなかみ)より横切りて、三里が間、白河原となりて百尋計なる大蛇二つ現れて、日龍に申けるは、汝知らずや、我は汝がためには伯父也、汝が母、ますたか池の大蛇は、我ためには妹也。

我此川に住む事、二千五百年、汝、僅か十三にて我に敵(てき)をなさん事、及び難し。出で出で微塵になさんとて、口より火炎を吹き出しければ、山も川も一度に熱鉄(ねつてつ)の海とぞなりける。

されども日龍、少も騒がず、角の槻弓、神通の鏑矢にて散々に射給へば、たちまち大蛇滅びけり、やがて首を貫き、雲に乗りて都へ上り給ふ。

御門、叡覧ましまして、将軍の宣旨を受け、俊仁(としひと)将軍とぞ申しける。

かくて俊仁、十七の御時、ある夕暮れの徒然に、霞の内に雁の一連(つら)行を見給ひて思召けるは、空を駆ける翼まで夫婦の語らひを成す、我十七まで妻と云う物の無きこそ、悲しけれ、由有人もかな、言ひ寄りて語らふべしと思召けるに、

其此、天下に時めき給ふ、堀河の中納言たかとを(高藤か)の姫君、照日の御前と申て、天下一の美人なるを風の便りに聞き初め給ひて、わくる方なき御物思ひの浅からざりしを、乳母(めのと)の左近助、諫め参らせければ、いと恥づかしき事ながら、かくて思ひし積まんも罪深くこそとて、有のまゝに語り給へば、

左近助縒(よ)り掛け、承り、某(それかし)、堀川殿に言ひ寄るべき伝手こそ侍れ、先ず(つ)御文を遣はして、御覧さふらへと申しければ、綠の(のナシ)薄様に

 伝え聞く、風の便りの 忘られて 思ひ消えなん 事ぞ悲しき

と遊ばして、遣わされれば、少将の局(つほね)とて、姫君の乳母(めのと)の有けるに、言ひ寄り、将軍の御文、参らせければ

稚(いはけな)し御心にて、手にも取給はで、顔打赤めておはしけるに、少将の局、御硯持て参り、

天下の大将軍の御文なるに、ともかくも一筆の御返事なくては叶ふまじとて、責め奉れども、引かづき、御答(いら)へもなし。

乳母(めのと)心憂く思ひ、母上に此由、しかじかと申ければ、誠に幼(おさあ)い人の心こそ、恨めしけれ。他所に聞く事ならば、いか計羨むべきぞや、急ぎ急ぎ御返事と、責め給へば

力なく起き直り給ひて、傍らに打向いて、紅葉重ねの薄様に

 いかにして 人の言葉を 頼むべき 相見て後は 変わる習ひに

と書て、引き結びて 置き給ふ(置き給ふを)

少将(せうしやう)取りて、左近助が許へ遣わしければ 縒(よ)り掛け喜び、やがて将軍へ御返事とて参らせければ

俊仁、嬉しくも、恋の闇路の道しるべせし物かなとて、左近の将監(しやうけん)にそ、なされける

扨(さて)此後、度々御文重なり、忍び忍び御契り浅からざりしに、御門、此由聞し召し、御哥合にことよせて召あげられ、それより返し給はずして、俊仁をば伊豆(いつ)の国へ流させ給ふ。

俊仁、口惜しく思ひながら、力なく、遠流(をんる)の道に赴き給ふ、心の程こそ哀れなる(哀れなれ)。

さる程に、近江(あふみ)の国、瀬田の橋を渡るとて、橋板荒く踏み鳴らし、俊仁こそ、只今流人となりて東国に下るなれ、みなれ川にて殺せし大蛇共の魂魄あらば、都に上り、心のまゝにせよと言ひ捨て下り給ふ。

さる程に、其此都の辺りにて人多く失せて、行かた知らず成にけり。日の暮るれば、門戸を閉ぢて声を立る事もなし、昼は行交ふ道絶えて浅茅(あさぢ)が原とぞ成りにける。

天文博士に仰て、考へ給ふに、俊仁将軍を召返し給はずば、鎮まるまじ御旨(きよし)、奏聞申ければ、やがて赦免の綸旨下り、二度上洛(帰洛)し給ひて

又瀬田の橋を通(とを)るとて、俊仁こそ赦免の綸旨を給て、只今上るなれ、大蛇共、都辺りに叶うまじとて、其日、都に着き給ふに(にナシ)、洛中、静かになり、万民喜びの色を成す。

御門、御感ましまして、頓而(やかて)、照日の前を下されて、比翼のち契(契)をなし給ひ、姫君二人出で来て給ひて、斎(いつ)き傅(かしつ)き給ふに、

ある時、俊仁参内おはしけるに、折節内裏には、管弦(くはんけん)の御遊(ゆふ)有けるを、聴聞(ちやうもん)しておはしける間に、土風荒く吹落ちて、照日の前を天に吹き上げたり。

此由将軍へ申遣はしければ、急ぎ我が屋に帰、こはいかなる事やらんと、嘆き給へ共、甲斐もなし、あまりの悲しさに、せめては夢になり共、今一度(たひ)見参らせばやとて少まどろみ給へば、

年の程、十二三計の童、三人連れて行けるが、先なる童の言ひけるは(はナシ)、それ日本は粟散(そくさん)辺地の小国なりと(たりと)言え共、神国たる故に、人の心、素直にして長久なり。

然共、慢心の心あれば、天魔の災ひありと言ひ伝へけるこそ、誠に不思議なれ、俊仁将軍は弓矢の誉れ、世に優れ、鬼(おに)神も恐れ従ふ程の人なるに、

此程、寵愛(てふあひ)の妻を土風に取られて嘆き悲しむと也、あれ程の武将(ふしやう)として言ひ甲斐なき事よとて笑ひければ、

中なる童も、誠に海山を逆(さか)しても、取返さずして、生ける甲斐もなき事よと、言へば、

後なる者の曰く、それはさる事なれども、行方(ゆくゑ)を知らずはいかがせん。さりながら、俊仁程の者が、天句共を捕らえて問ふならば、恐れて有所云べきものをとて、笑ひける声に夢覚めて(夢は覚めて)、辺りを見れば人も無し

扨(さて)は佛神の御告げぞと有難く思ひ、八幡大菩薩に起請申、先ず(まつ)愛宕山に登り、

きやうくわう坊は内におはしますか、天下の(のナシ)大将軍俊仁、是まで参りたりと仰ければ、刹那が間に、宮殿(くうてん)、楼閣、玉の台(うてな)に至る。

やゝありて、八十余りなる老僧、弟子どもに手を引かれて蹌踉(よろほ)ひ出て、何の御用にて御出候とて、膝の上まで掛かりたる、まぶたを弟子に引開けさせけるを(をナシ)、

俊仁、是まで参事、余の儀にあらず。某(それかし)女にて候ものを、此程、失ひて候、定て知ろしめさるべし、御弟子の中にも候ならば、返し賜(た)び候へ、何様行末を(行方を)御存候べし、教えて給はれと仰せければ、

きやうくわう坊、聞きて、是は思ひも寄らぬ事を承候、弟子共の中にも候はず、東山の三郎坊が方にも候はず(候はず候)、但是より御帰り候はんする道にふし木の有べし、是ぞ教え申べし、くわしく御尋あれと言ひ捨て、かき消す様に失せければ、

急ぎ帰、見給ふに、申つる如く、谷川に打渡して、大なるふし木の橋あり、立より、荒けなく踏み鳴らし、如何に汝に物問はんと仰せければ、

しばらくあつて、此木動くかと見えて、頭出で来(いてき)、首を三間ばかり持ち上げて、人に物問ふとて、去事やある、教しと(教へじと)思へども、汝が母は我が為には妹なれば教ゆるぞ。

吾殿(わとの)は女を失ひて(なふて)尋るよな、それは此辺には有べからず、陸奥の国、高(たか)山のあくるわう(あくる王)という鬼が取たるなり。

凡夫の力にては叶ひ難し、鞍馬の大非(ひ)多聞天の御力を頼み奉りて、かの鬼神を従へ、諸人(にん)の憂ひを(脱文アルカ)

御身が母、ますたか池の主なりしが、仮に人界(かい)に生れたる、縁に惹かれて成佛せり、我は未だ業因深くして赦身(しやしん)の思ひ尽きせず。

我ために善根を成し、邪道(しやたう)の苦しびを助け給へと言う言葉は残り、形は消えて失せたりけり。

俊仁哀れに思し召し、一万部の法花経を読み、千石千貫を千人の僧に引給へば、其功力(くりき)にて、やがて成佛して不思議の事ども多かりけり。

かくて俊仁は鞍馬へ参り、三七日籠り給ひて、まんするとら(満ずる寅か)の一天に甲冑を帯(たい)して几帳(きちやう)を打開け、汝如何に遅きぞと諫め給ふに、打驚きて見れば、枕に剣を立て有けり。

さては諸願成就、有難く思ひて、急ぎ陸奥の国へぞ下り給ふ。

其此、妻子を失ふ人、数を知らず、中にも二条大将殿御姫君、三条の中納言殿北の御方、みのゝせんし(美濃の前司)、河内判官、斯くの如くの人々は喩ひ千尋(ちいろ)の底までなり共、有か(在処)とだにも聞かば尋ねんと思召す折節なれば、

或ひは、郎党を下し、又は自ら下る人もあり、思ひ思ひの出立、華やかにこそ見えたりけれ。

さる程に、日数(かす)積もりて、陸奥の国、初瀬(はつせ)の郡、田村の郷に着き給ふ。

頃は七月下旬の事成に、賤の女(しつのめ)の、早稲田(わさ田)に隠る、鳴子(なるこ)なば、惹かるゝ心、浅からで一夜の情けを掛け給ひて、

もし忘形見もあるならば、是を印に尋ねこよとて、上ざしの鏑矢一、給はりて立出給ふ。

さる程に彼のあくる王か、城郭、近づきければ、駒駆け寄せ見給へば、銅(あかゝね)の築地を突き回し(て)、黒鉄(くろかね)の門を四方に立て、番を厳しく固めたり。

東面の門前に忍び寄りて見れば、年の程十五六計なる女童(わらは)の打しほれて涙にむせび、門外に佇みたるを、己(をのれ)は何者ぞと問ひ給へば、

是はみのゝせんし(美濃の前司)が娘にて候(さぶら)ふが、十三にて此所に囚われ、三歳(とせ)が間、門守りの(のナシ)女と定められて候とて、さめざめと泣く

俊仁、聞き給ひて、せんしも来たりたるぞ来りたるぞ、都へ具して行くべしとて、先御台所の御事を問ひ給ふに、詳しくは知り候はず、但、二三日以前までは、御声の聞こえたると申。

俊仁心許なく思召、鬼は内に有かと問ひ給ふ。此程、越前の方へ参りたると申。

扨(さて)此門の内へは何としても入と仰せければ、あれに候龍(りう)の駒に乗りて内へ入、門を開きて眷属共をば入れ候と申ければ、

彼龍に乗、入(い)らんとし給へども、門の内へは入らずして、北の方へ行、俊仁、剣(つるぎ)を抜き、汝命惜しくば内へ入(い)るべし、さなくば、たちまち命を止むべしとの給へば、恐れて内へぞ入(い)りにける。

扨(さて)彼の門を開かんとすれば、大磐石(はんしやく)共を重ねたるごとくにて少も揺るがず、其時、鞍馬の方を伏し拝み、願はくば、御力を添えて賜び給へと念じ給へば、開きけり。

やがて内へ入、見給ふに、女の声、数多して泣きける、立ち寄り見給ふに、三条北の方と俊仁の御台所はおはしまず、如何に成り行き給ふぞと御尋ありければ、

中納言殿北の方、二三日先に鬼の餌食となり給ひぬとて、首ばかり取り出しければ、

これは夢かや、三歳(みとせ)の程さへ永らへて、今日この此、むなしくなり給ふ事の悲しさよとて、伏し転(まろ)び泣き給ふ。

俊仁、いよいよむ(心)許なく思召、尋ねられければ、昨日までこれより奥に御経の声、聞こえつるが、何とならせ給ふやらん、知らずと言ふ。

覚束なくて、多くの戸を開け見給えば、かすかなる所に押し込められておはしけるが、御目を見合て、呆れ果て、いかにいかにと計なり。

やゝ有て(てナシ)仰けるは、何としても是までは御入候ぞや、先ず(まつ)今生にて、見々えぬる事こそ嬉しけれ。我、明日は鬼の餌食となるべし。一筋に後世菩提を頼み奉るべし。鬼の帰らぬ先に疾く疾く御帰りあれとて、涙にむせび給ふ。

俊仁、是まで尋参るも、同じ道にとこそ思ひつるに、いかで帰り候べき。扨(さて)鬼共、帰る時に印はいかゞ候と問ひ給へば、隈なき空もかき曇り、震動雷電夥しく、車軸の雨降りて(てナシ)里の内より(七里の内より)鬼の声聞こえ候とぞ、の給ひける。

さて何時に帰り候はんずる、明日の今(むま)の刻に帰らんと申つると仰られければ、其間に鬼共の住処(すみか)見んとて残りの人々語らひ、こゝかしこ御覧ずれば、大成桶共、多く並べ置きたり。

見れば、数多の人を取て、鮨にして置きける、又傍らを見れば、十四五の稚児、合式(かつしき)を串刺しにしてあり。

又、尼法師の首を二三百、数珠の如く繋ぎ、軒の下に掛け並べたり、かれを見、これを見るに恐ろしとも中々申は愚か也。

かくて、時刻移れば、俄に空かき曇り、雷震動して光りもの、飛び違い、鬼の声、山を崩す如し、残の人々はたゞ生きたる心地なし、俊仁は鬼の帰るを待給ふ。

あくる王、我宿近くなれば、門守りの女は無きか、我留守に何者なれば来るぞ、たゞ手な掛けそ、睨み殺せとて、千八百の眼の光、火炎(くわゑん)の飛ぶ如く也。

され共、俊仁の頭(かうへ)の上には日月、天下り給ひて、俊仁の眼となりて睨み給へば、鬼共、睨み負けて血の涙を流しける。

其時、多聞天より給はりたる剣(つるき)を投げ給へば、鬼の首は皆悉く落ちたりけり。此時、人々力付、俊仁を伏し拝み給ふ。

扨(さて)取られたる男女、思ひ思ひの古里へ、送り返されける、万民の喜ぶ事限りなし。中にも三条中納言殿御嘆き、思ひやられて哀也。

かくて、将軍は思ひのまゝに鬼神を従へ給ひて都に上り、年月を送り給ふ程に、陸奥の国にて一夜の情けをかけ給ふ賤の女(しつのめ)(のナシ)の腹に男子一人出できけり、名をば(はナシ)、ふせり殿と申。

此子、九歳の(五歳の)年より、辺りの山寺にて学問させけるに、一を十をと(をナシ)悟りけるが、十歳の年、つくづくと(とナシ)案じけるは、人間のみならず鳥類畜類までも父母あり。我が父はいづくにあるぞと母に問いければ、

母、涙を流し、汝が父こそは当国の鬼神を従え給ひつる俊仁将軍なれと、有のまゝにかたり、件の鏑矢取出し見せれば、

其儀ならば、都に上り父と対面せんとて廿日あまりの道なれ共、夜を日に継ぎ、三日に都に着き、将軍の御門の前に休らふ。

折節、俊仁、鞠を遊ばしけるが、篝(かゝり)の外へ切れけるを、ふせり殿、さらりと流し、思ひのまゝ蹴巡りて、元の如く、蹴(け)こまれたり、俊仁御覧して、何者ぞと問ひ給へ共、答えず。

如何様、鞠は優れたりと思召、如何なる者やと仰せければ、返事にも及ばず、腰よしも(よりも)鏑矢を(をナシ)抜き出し、将軍の御前に置かれたり。

俊仁、是を御覧じて、扨(さて)は我が子なりと嬉しく思召、様々の御もてなしにて、先ず(まつ)御名を改めて田村丸とぞ申ける。

器量(きりやう)事柄、人に優れ、御力はいか程あるとも限りなし。やがて御元服(けんふく)ありて、いなせの五郎坂上の俊宗(としむね)と申ける。

さる程に、俊仁五十五の御時、つくづく思し召しけるは、それ日本は僅か(わつか)の国なり、唐土(たうど)に渡りて、切り従へ、末代まで名を残さばやと思ひ、時の関白みつたかして奏聞申されければ、

誠に思ひ立たる事、止(とゞむ)るに及ばずと仰致されける。

俊仁喜び、三千叟の船に五十万騎打ち乗、神通のものゝ具帯して(ものゝ帯して)、二月の末に打つ立給ふか、

某(それかし)程の者が渡らんに、先ず(まつ)其印無くては叶ふまじとて、神通の鏑矢一、射給へば、其矢、みやうじゆう(命終か)の津に留まり、七日七夜響き渡れば、

人皆驚き騒ぎ、れい門(もん)を引かせらるゝに、博士、考えて曰く、日本の将軍、此国を従へんとて来る也。日本は粟散(そくさん)の小国なれ共、人の知恵深ふて、心孝也。

其上、神国として、弓矢の謀(はかりこと)を得たり、いかでか凡夫(ほんぶ)の力にて防ぐべし。佛力ならで、頼み方なし。

恵果(けいくわ)和尚、百千万の不動明王、矜羯羅(こんから)、制多迦(せいたか)引具して、みやうじゆうの津にて防ぎ給ふ。

俊仁、御覧じて、如何にや、汝、何者ぞ。我矢先にはとても叶うまじ。速やかに引き退(しりそ)くべしと仰せける。

不動の給う様(やう)、汝小国の臣として大国を従へん事、思ひも寄らず、急ぎ本朝に帰るべしとて、降魔(こうま)の利剣(りけん)の光を放つて、振り給ふ。

俊仁も神通の剣を抜き、戦ひ給ふが、不動の利剣、戦い負けて、次第次第に退きけり。

不動、叶はじと思ひ、金剛童子(こんかうとうじ)を日本へ遣はして、鞍馬の毘沙門へ申されけるは、

俊仁、唐土を従へんとて寄せ候、大方は防ぎ候へ共、叶ひ難く候、願はくは、此度の合戦に俊仁か、いりき(怪力か)を落とし、我に力を添へて賜(た)び給へと宣へば、

多聞、仰せられけるは、いかでか、日本の大将に不覚をばかゝせ候べき、疾く疾く帰り給へと仰せければ、俊仁の御力はいよいよ勝り、剣(つるき)の光輝きけり。

不動、叶はじとて、刹那が間に又身つから(自ら)鞍馬へ御越し成て(有りて)仰せけるは、全く此国を敵(かたき)と思ふには非ず、この度、俊仁に負けぬるものならば、佛力廃りて信ずる者、薄くなり、

いよいよ、邪道(しやたう)鬼神、力を得て衆生三津に還らん事、疑ひ有べからず、願はくは、俊仁怪力を落として賜び給へと仰せければ、

多聞天の御返事に、此国は佛法盛んにして、佛神、力を添え給ふ。然るを、日本の賢臣、帝王の守(まほ)りをば、いかでか失い候べきやと仰せければ、

不動、重ねて宣はく、喩ひ俊仁、失ひ候とも、我、日本に渡り、俊仁が如く王法を守り、佛法繁盛(はんじやう)の国となすべしと、の給ひければ、

其時、比沙門、俊仁が替りに日本の守護して衆生を助け給はんとの仰せこそ嬉しけれ、其儀ならば、急ぎ御帰りありて俊仁討ち給ふべしと有しかば

不動、大儀に(大きに)喜び、帰り給ひて、又戦ひ給ふ程に、俊仁の剣の光り劣り、不動の利剣に戦ひ負けて三つに折れて霊山(りやうぜん)へこそ舞い上がりけれ。

その時、俊仁、無念に思ひ、不動の船に乗移り、ひつ組んで、上を下に返し給ふ程に、利剣落ちかゝりて俊仁の首を打ち落とせば、不動、首を取りて矜羯羅(こんから)、制多迦(せいたか)も打連れ打連れ、唐土へ帰り給ふ。

三千叟の船共は波に揺られ、風に放されて、居付く共なく、揺られ行くこそ悲しけれ。その中に将軍の死骸のある船は人に知らせんためにや、八重の潮路を分けて博多の浦に着きける。

俊宗は此由聞し召し、急ぎ下り給ひて、彼御死骸を取り収め、様々の御弔いありて泣く泣く都へ上り給ひて、年月を繰り給ふに、

大和国、奈良坂(ならさか)山に金飛礫(かなつぶて)を打つりやうせんという化性のもの出きて、都へ参る貢物を道にて奪ひ取、多くの人の命を断つ事(断つ此事)、天下の嘆きならずや。

急ぎ俊宗に参むかふて(まむかふて)従えよとの宣旨下りければ、俊宗承、五百余騎の軍兵を引具して、奈良坂山へ向かはれけるが、

謀(はかりごと)に、色良き小袖数多、こつ川にて濡らしたる躰にして、木々の枝に掛け並べて置き、りやうせんを今や今やと待ち給ふ。

しばらくありて、丈二丈余りの法師の、まかふ(抹額か)ら高く、頬骨いかり、誠に恐ろしき有様にて、高き所に駆け上がりて

あら珍しや、此山を通るとて、斯様なる物を飾りて見せたるは、此法師を謀らんためか、よしよし、其儀ならば手並みの程を見すべし、なをも、良き物のあらば、残さず出だすべしとて、躍り上がり笑ひける。

俊宗、駒駆け寄せての給ふ様(やう)、是は御門へ参る御物なり、我命のあらん限りは取らゝる事有まじぞと仰せられければ

ぎこは(きこ[旗鼓か騎虎か]は)なる、くわし(華侈か)やめかな。事々しくは思へども、あまり、華奢(くわしや)めが言葉の憎ければ、金飛礫(かなつぶて)を以て、たゞ一つの勝負にせん。

三郎礫(つふて)と名づけて、金目(かねめ)は三百両、角の数は百八十三、受けてみよと言うまゝに肘を上げ、一振り振って打ければ、天地響き鳴神のごとし。

され共、俊宗騒がずして、扇にて打ち落とし給へば、又、次郎礫取出し、打ちけるをも同じ勝手に打落とし給へば、りやうせん、興ざめ顔にて立けるか。

さりとも、太郎礫に於きては、山を盾に付く共、微塵になさん物をとて、金(かね)は六百両、角は数を知らず、唐土(もろこし)に五百年、高麗(かうらい)国に五百年、日本の地に住事八十年、此山には、たゞ三歳(とせ)也。

万(よろつ)の宝を取る事も、皆、此礫の威徳なり、あたら、小賢しき童を殺さんも無残なれ共、口のさがなき故に只今暇取らするぞ、念佛申せと言うまゝに

馬手(めて)の足を強く踏み、ゑいやと打ちければ、百千の雷の一度に落つるかと覚えて肝魂も身に添わず、五百余騎の兵(つはもの)は皆ひれ伏して、音もせず、たゞ暗闇にこそなりたりけれ。

され共、俊宗、少も騒がず、馬立て直し、一違い違ふて、響き渡る金礫(かなつふて)を、鐙の鼻にて蹴落とし給へば、世間鳴り静まり、元の如く晴れたりけり。

りやうせんも頼みたる礫は三つながら打ち落とされ、今は力を失ひ、言ひ過ごしたる口を抱えて元の山に立忍ばんと足早に歩みける。

俊宗、駒駆け寄せ、いかに御坊、手並みは見申たるに然したる風情もなし、但、御坊の礫程こそなくとも、三代相伝して持たる鏑矢一筋、見参に入れては有べきとて、神通の鏑にて射給ふに、

りやうせん坊が耳の根、三寸退きて鳴り渡りたる、元より飛行自在(ひぎやうしさい)の者なれば、七日七夜、海山駆けて逃げけれ共、更に離るゝ事なし。俊宗は春日山に陣を取り、りやうせん坊を待ち給ふ。

七日目に帰り、俊宗の御前に参り、手を合、申けるは、如何なる精兵(せいひやう)と申とも、五町十町(ちやう)にて岩石(かんせき)、鉄壁(てつへき)は通すなど承て候へ、今日まで七日が間、海に入ば海に入、山に登れば山に登り、耳の根に離れず候。

いかなる御弓ぞや、今日よりして悪事すべからず、命を御助け候はゞ、御郎等と罷りなり申さんと泣く泣く申ければ、

俊宗、聞し召し、叡慮(えいりょ)測り難し、先戒めて参るべしとて、黒鉄(くろかね)の鎖繩にて括り、五百余騎が中に取籠、都に帰り給へば、御門叡覧ましまして、御感は申計なし。

りやうせんは船岡(ふなをか)山にて斬り、首を八十人して(八人して)欠き、獄門の前に掛けて行きの者に見せ給ふ。

頓而(やかて)、俊宗は十七にて、将軍司さ給り、陸奥の国初瀬の郡に越前を添えて下され、栄華に誇り給ひけり。

たむらのさうし 下

掛かりける所に、歳二年ありて、伊勢の国、鈴鹿山に大嶽(おほたけ)丸とて鬼神出き、行き交ふ一を悩まし、貢物も絶え絶え也。

御門此由、聞し召し、俊宗に仰付、急ぎ滅ぼすべしとの宣旨也、将軍畏まって、宣旨承、軍兵を召し寄せ、三万余騎にて打つ立、鈴鹿の山へ押し寄する。

大嶽丸は飛行自在(ひきやうしさい)の者なれば、此由を聞きて、峰の黒雲に立まぎれ、火の雨を降らせ、雷電、暇もなく風凄まじく吹て、攻寄るべき様無くして、年月を繰り給ふ。

又此山陰(かけ)に(にナシ)天女、天下りておはします。名をば鈴鹿御前と申ける。大嶽丸、鈴鹿御前に心を悩まし、ある時は美しき童子となり、又ある時は公卿、殿上人に変じて

様々の謀(はかりこと)を巡らし、一夜の契りを籠めばやと心を砕き、あくかれ(憧れか、悪枯れか)けれども、鈴鹿、通力にて知り給ふ故(上)、更に靡き給はず。

かくて俊宗は、いかにもして敵(かたき)のあり所を確かに知りて攻め入、勝負(せうぶ)を決せばやと思ひ、諸天に祈りをかけ給へば、ある夜の暁、夢ともなく現(うつゝ)ともなく、老人来たり給ひて

此山の鬼を従へんと思はゞ、此辺に鈴鹿御前とて、天女のおはしますを頼むべし。此謀(はかりこと)ならでは大嶽丸を(をナシ)討つ事、成り難しと教へて立去り給ふと御覧して、夢は覚めたりけり。

俊宗、有難く思し召し、先三万余騎の兵(つはもの)を都へ返し給ひて、たゞ一人、鈴鹿山に立ち忍ばせ給ふが

夕暮れの月、ほのかにさし移り、草葉の露も置き纏(まと)ひ、虫の声々、哀れを添え、ふる(ママ)の秋を思ひ出し、草の枕に打ち傾(かたふ)き給ふに、

年の程、二八ばかりなる女、玉のかんざしに金銀の瓔珞(やうらく)かけ、唐錦の水干に紅(くれなゐ)の袴、踏みしだきて忽然と来たり給ふ。

俊宗、これは彼の鬼の謀りて我心を引き見るにこそと思ひ、剣を膝の下に隠し、さらぬ躰にて見給へば

 目に見えぬ 鬼の住処を 知るべくは 我が有る方に しばし留まれ

と打ち眺めて、かき消すごとく失せにけり

俊宗、こは有難き、御告げぞと思ひ、大神宮を始め奉り、神々を伏し拝み給ふ。され共、その行方(ゑ)を知らず、されば尋ぬべき(知らざれば、尋ぬべき)方も無くて、

たゞ呆然として、大嶽丸が事は打忘れ、現(うつつ)に見えつる人の思かけ(面影)、身に添ひて、時の間も忘られて、恋路の闇に迷ひ給ふか。

せめて端々、夢の便りもがなと、まどろみ、上の空なる物思ひに、沈み果てなん事も、たゞ是、鬼の謀らふらんに思いきらんと、

又、神々を伏し拝み、願はくば、此悪念を忘れて鬼神を従へさせ賜び給へ、諸天諸佛の中にも大慈大非の御誓ひこそ有難けれど、肝胆を砕き、祈りて、心を澄まし給へども

猶、忘もやらぬ(忘やらぬ)面影の立ち添ひて、露の命も頼み少なき有様にて、かく口ずさみ給ふ。

 垣間見し 面影こそは 忘られね 目に見ぬ鬼は さも有らば有れ

と打ち眺めて、たゞ呆然として居給ふに

有し人の来り、疾く疾く我が方へ、御入候べしと語らい行て、比翼の契り、浅からず、来る共去るともなく月日を送けるが、

有夜の睦言に、我は此山に狩りに来りて(てナシ)三歳(とせ)なり、御身、此山の鬼神を従え給はんとて、来たり給ふ共、叶ひ難し。我力を添え奉らん為に、仮に此界に下る也。

彼大嶽丸、我に契りを籠めんとて、様々言ひ寄る也。我謀(はかりこと)にて、容易く討たせ申べし。御心安く思ひ、ひたすらに頼み給へ、さらば我が跡を慕ひ給へと有しかば(思召せと仰せければ、俊宗嬉しく思ひ、ひたすらに頼み給ふ。さらば我が跡を慕ひ給へと有りしかば)、

山々、峰々と辿り超えて見給へば、大き成岩穴有、此内に入、見給へば、満々たる霞の内に黄金(こかね)の甍(いらか)あり、金銀(こんごん)瑠璃の砂金(いさこ)を敷き、黒鉄の門を過ぎ行けば白金(しろがね)の門有。

猶し過行は、金銀の反り橋を掛けたり、誠に極楽世界といふ共、是にはいかで勝るべき

庭に四季の躰を現し、先ず(まつ)東は春の景色にて、出る日影ものどかなり。谷の戸(と)開くる、鶯(うくいす)の声も高根の雪溶けて、垣根の梅の数(かつ)散れば、桜は遅しと咲き続く、雉(きし)の山吹、色深く、藤波寄する。松が枝(え)も緑の空に立続き、

南面は夏の夜の明け方近き、ほとゝぎす鳴き行山は茂り合い、岩角削る滝つ瀬の波も涼しき夕暮に飛び交ふ蛍、かすかにて雨(あま)の戸叩く、水鶏(くゐな)鳥も明ぼのやな(柳か)を惜しむらん。

扨(さて)又西は秋風の末葉の露の散る影に、所々のむら紅葉の色(むら紅葉彩る野辺の)、野辺の虫の声、知らるゝ(哀れ知らるゝ)夜も急(きふ)の、露に満たるゝ、糸萩(いとはき)の花紫の藤袴、桔梗、刈茅(かるかや)、女郎花(をみなへし)、今を盛りと見えたりけり。

北は冬の景色にて、尾上(おのへ)の松の梢(こすゑ)までも降り埋みたる雪の日に、速(すみや)く煙り、ほのかにて、池の氷の偏るに使わぬ鴛鴦(をし)の立ち騒ぐ、羽風も寒き暁は独りぬる身や浮かるらん。

又巽(たつみ)の方を見れば、色々の鳥の羽根にて葺き分けたる館(やかた)百計並びたり。其内を見れば、玉の床に錦の褥(しとね)を敷き、七宝(しつほう)の格子(かうし)の内には、玉の簪(かんさし)掛けたる、女房数多並み居て、琵琶琴調べ、或ひは、碁、双六に心を寄せたるもあり。

それより奥を見るに、大嶽丸か、住ける所と思しくて、黄金の扉に白金の柱にて、一旦高く作り、氷の如くなる剣鉾を隙間も無く立並べ、黒鉄の弓、胡(やな)ぐゐは数を知らず。

俊宗思召けるは、只今よき折節也、鏑矢一つ射ばやと思召けるが、先鈴鹿御前に問ひ給へば、しばらく待給ふべし。只今事の出で来るならば、眷属共に取籠られ、御命有まじ。

それを如何にと申に、此鬼は大通連(とうれん)、小通連(とうれん)、顕明連(けんみやうれん)とて、三つの剣有。此剣共を帯する内には、日本が寄て(寄りて)攻むる共、討たるゝ事は有まじ。

大嶽丸、我に契りを籠めんと度々言ひ語らへ共、終に靡く事なし。定て又、今夜も訪れ来るべし、さあらば、請じ入、睦ましげにもてなし、三つの剣を預りて、取べし。

其後来たらん時、易々と討ち給へ。先只今は帰給ふべしとて、打連れ立て、帰り給ふ。

案の如く日暮れければ、大嶽丸は美しき童子となり、鈴鹿御前の御枕に立ち寄りて(御枕元に立ち寄り)

 岩ならず まくらなりとも 朽ちやせん 夜々の涙の 露の積もれば

と詠み、袂を顔に押し当てゝ、泣きける。

鈴鹿御前はかねて巧(たく)みし事なれば、返し

 朽ち果てん まくらは誰に 劣らめや 人こそ知らね 絶えぬ涙を

と詠み給へば、大嶽丸、是を聞き、こはいかに千束(ちつか)に文の重なる迄、一度の御返事だに無かりつるに、只今の人の言葉の嬉しさよ

誠成かな、目に見えぬ鬼神をも哀れと思はせ、男女の中をも和らげ、猛き武士(ものゝふ)の心をも慰むるは哥なり、我哥の道を知らずしては、いかに此君と契りなん、天晴(あつはれ)、哥詠もかなと(哥詠みかなと)そゞろに我身を褒めたりけり。

さて鈴鹿御前の、側近く寄り伏し、此程尽くせし心の程を、哀み給ふにや、只今の言の葉こそ、有難けれと(とて)涙を流しければ

鈴鹿御前、我も岩木ならねば、いか計思ひつるぞや、構えて、見捨て給ふべからずと、打解け顔に仰せければ、大嶽丸も何か心を残すべき、来し方、行末の事、言ひ語らひけるが

明ぼの(曙)作る鳥の声(鳥の声に驚き)、置き別れ行、絹々の袖を控え仰られけるは、斯様成事、申につけて、おこがましき事ながら、此程、俊宗とやらん云者、我に文を(をナシ)通はしけれ共、手にも取らず

御身に斯く慣れぬると聞くならば、如何なる憂き目にや遭わすべき、心細く思ふ也、御身の剣(つるぎ)を我に預け給えかしと仰せければ

誠に去事有、其俊宗と言ふこ華奢(くわしや)めは、由有る曲者にて、我等をも狙ふと聞こえ候(聞て候)。

さりながら、此剣(つるき)共の有らん程は、御心安く思召て、御枕に立給へとて、大通連(とうれん)、小通連(とうれん)、二つの剣(つるき/けん)を抜き出して

扨(さて)、此剣(つるき)と申は、天竺、摩掲陀(マガダ)国にて、阿修羅王日本の佛法、盛ん也、急ぎ魔道に引入よとの御使に、某(それかし)、眷属共を具して参る時、此三つの剣(つるき)を給る事、後代までの面目なれば身を離す事なし。

然るを、一夜の情けにほだされて、鈴鹿御前に参らせて、御枕神に立給へとて、また夜を籠て立迷ふ、黒雲に打乗て、鬼の住処に帰りける。

かくて俊宗は此由を聞し召し、たゞ是佛神の御計らひ成とて、いよいよ観念(くはんねん)し給ふ。かくて夜も明ければ、急ぎ御用意有べしとて、先二つの(のナシ)剣(けん)を参らする。

今一つの顕明連(けんみやうれん)と言ふ剣は大嶽丸が叔父に三面鬼(めんき)という鬼が預かりしが、此程天竺へ参り候ぞや。

又今夜は鬼共に酒を勧めて飲ませよと、瓶子(へいち)を送りて候間、皆眷属共は酔い伏し候べし、御心安く思召て、討ち給へとて、鈴鹿は雲に乗て、立ち隠れ給ふ。

さる程に、大嶽丸、是をば夢にも知らずして日の暮るゝを待ちかねて来り、御前は何処(いつく)におはすぞと連中指して入ければ

俊宗、立向給ひて、鈴鹿御前と申は何者ぞ、定而(さだめて)大嶽丸と言ふ曲者か。

汝知らずや、我は是、日本の御門に仕え奉る田村大将軍俊宗とは我事也。十七にて、大和国奈良坂山に金礫のりやうせんと云、化性の物を従え、大将軍司を給り、御門を守護し申事、異国までも其隠れ無し。

それに、なんぞ、目(ま)の前にて大悪を成す事、誰(た)が許しけるぞとの給へば、

大嶽丸は今迄美しき童子成しが、見る見る丈十丈ばかり成、鬼神となり、日月の如くなる眼を見出し、俊宗を睨みけるが、

天地を響かし、大音上げて、汝は、粟散(そくさん)国の御門の臣下として何程の事の有べきぞ、手並みの程を見せんとて、氷の如くなる剣鉾を三百計投げ掛くる。

され共、俊宗の味方には千手観音(くはんおん)と鞍馬の大非(ひ)多聞天、両脇に立給ひて、将軍の上に落ちかゝる鉾を払ひ給ふ。鬼神は怒りを成し、数千鬼(き)に身をなし、大山の動くごとし。

され共、田村、騒ぎ給はず。神通の鏑矢、射給へば、千万の矢先となり、鬼神の頭(かうへ)に落ちかゝれば、或ひは討たれ、痛手を負ひ、四方へ散り散りになりにけり。

され共、大嶽丸は微塵となり、磐石(はんしやく)と変化、しばらく打たれざれば、俊宗、剣を投げ給へば、首はたちまち打落とされ、雲霞(うんか)の如く見えたる眷属も皆消え消えと成にけり。

其後、鬼の首共をそう車(操車か)に積み、都に上せ給ふ、御門叡覧ましまして、伊賀の国を給はり、いよいよ栄え給ふ。

され共、俊宗は鈴鹿御前の情け深くおはしければ、頓而(やかて)御下り有て、明し暮らし給ふ程に、姫君一人出き給ひて、御名をばしやうりん(正林か)女と申て、いつきかしづき給ふ。

され共都遠き所なれば、折節は都の事思召して、何迄(いつまで)かゝる鄙(ひな)の住ゐならん、忍び都に上らばやと思召ければ、

鈴鹿御前、是を恨み給ひて、元より我は下界の人間にあらず、何事も御心に思ひ給ふ事を我知らぬ事なし。さしも、二(ふた)世とこそ契りつるに、早くも変わりたる御心かなと涙にむせび給へば

田村、聞し召し、いざとよ、心の替るは候(さふら)はず、されども、此所に角て(かくてか)永らへ候へば、君の御恵みも薄くなり、又は郎党共の思はん程も計り難し、同じくは、都へ御供申て住まばやとこそ、思ひ候(さふら)へと仰せられければ、

その御言葉も理なれ共、去ながら、我は此山の守護神となり、都を守り申べし、急ぎ御上り候へ、御心こそ替りたり共、我は正林(しやうりん)と申姫が候上は、弓矢の守り神となるべし。

さあらば、此暮れには近江の国に悪事(あくし)の高(たか)丸出て、世の妨げを成すべし、さあらば田村に又従えよとの宣旨下るべし、内々御心にかけ、御用意あれと仰せければ、

田村、聞し召し、こは恨めしき御事かな。諸々共に上り、都の住ゐもがなとこそ思ひつるに、いかで見捨て参らすべきと仰せける。

鈴鹿、聞し召し、先々此度は我にまかせて御上り候て、やがて又下り給へと有しかば、力なく、俊宗上洛有て、先ず(まつ)参内なされければ

御門叡感(ゑいかん)有て、管弦(くはんけん)、乱舞(らんふ)、御哥合、様々の御もてなし成上(なるうへ)、公卿天上人、とりどりの御慰めに、更に夜昼かけて、御暇もなし。

角て、弥生(やよひ)の末より、神無月の初此まで、御遊覧有ける所に、鈴鹿仰せし如く、近江の国に高丸(たかまる)という鬼出きて、行きの者を失ふ事数を知らず。急ぎ討つて下さるべしとて、在々所々より申来る。

此由、奏聞申ければ、たまたま将軍の在京なり、此年月の辛苦(しんく)をも慰めんと思ひつるに、幾程もなくて、かゝる事こそ恨めしけれ、さりながら、誰に仰付られん者なしと仰せければ

俊宗は時の面目、是に過じと喜び、御請を申罷立て、鈴鹿へ此由申さばやと思し召すが、いやいや、通力にて疾く知り給ふべき物を時移りては悪しかりなんと思召、

十六万騎の兵を引具して、高丸城(じやう)に押し寄せ、内の有様、見給ふに、石の築地(つゐち)を高く突き回し、黒鉄の門を差し固めて、攻め入べき様も無し。

俊宗、門前に駒駆け据ゑ、確かに聞け、只今汝が討手に向ふたる者をいか成者とか思ふらん、異国までも隠れなき、藤原の俊仁(藤原利仁か)の嫡子に、田村将軍藤原(ふちはら)の俊宗なり。

手並みの程は定而(さだめて)聞きこそは及ぶらんに、なにとて罷出て、降参(かうさん)して命を継ぎ(つき)、己(をのれ)が本国へ帰らぬぞとの給へば、城(しやう)にはなりを鎮めて音もせず。

俊宗、腹をたて、鈴鹿御前の伝へ給ふ火界(くわかい)の印を結びて城(しやう)の内へ投げ給へば、火炎(くわゑん)と成て焼け上がる。高丸は雲に乗て、信濃の国ふせやか岳へ落ち行ける

田村、続いて攻められければ、駿河の国、冨士(ふし)の岳へ落ち行ける。これをも頓而(やかて)攻め落され、外の浜に落ち行けるが、是をも攻め付けられて、唐土日本の境に岩をくり抜き、城として引籠ければ、

陸(ろく)地に続く程は攻めけるが、海上の事なれば、いかゞせん、先引とり、兵船を調、重て寄せんとて引き給ふが、十六万騎の兵(つはもの)、爰かしこにて討たれ、やうやう二万騎計になり。

都へ上り給ふとて、鈴鹿の坂の下、まかりの宿に着き給へば、鈴鹿御前、出向、何とて只今陣を引給ふぞと仰せける。

俊宗、聞し召、其御事にて候、罷向ふ時も御暇乞ひに参らばやと存候へ共、至極移りなんと思ひ、罷通り候也。

高丸をば随分攻め候へ共、今は海中に岩をくり抜きて引き籠り候間、船を調へん為に、先、都へ上り候、其上、人数多討たれ候、此由申上、頓而(やかて)又打よせ候べしと仰せければ、

鈴鹿、聞し召し、舟も兵も(舟も軍兵[くんひやう]も)、如何程集め給ふ共、凡夫(ほんぶ)の力に叶ふべからず。兵(つはもの)共をば、急、都へ上せ給ふべし、妾(わらは)は(はナシ)参り、謀り出し、易々と討たせ申さんとて、神通の車に乗、たゞ二人、刹那が間に外の浜に着き給ふ。

高丸は折節、昼寝して居たりつるが、かっぱ(かつは)と起き(をき)、例の田村が又来るぞ、用心せよと云うまゝに、岩戸を立て、ひき籠る。

其時鈴鹿は左の手を指上、天を招き給へば、十二の星、廿五の菩薩、天下り給ひて、微妙(みめう)の音楽(をんかく)を揃へ、彼岩屋の上にて(てナシ)舞遊び給へば

高丸が寵愛(てふあひ)の娘、是を聞、あら面白の音楽(をんかく)や、天竺にありし時は度々聞きけれ共、か程の楽(かく)は未だ聞かず、哀見ばやとこそ甘へけれ。

高丸、申様<誠の楽と思ふべからず。田村と鈴鹿、我を謀り出ださんとて、する事ぞかし。構えて見る事、無益(むやく)なりと言えば、

娘、重て申様(やう)、露わにも出て見てはこそ悪しからめ、戸を細目に開けて見候に、何の子細の有べきと言ひければ、力無く、岩屋(いはや)の戸を三寸計、開けて覗きければ、

二十五の菩薩(ほさつ)、てんとうし(天童子か)、集まりて、殊に妙なる音楽(をんかく)を揃へ、舞ひ給へば、あまりの面白さに開くるとは思はねども、広々と開きければ

鈴鹿、田村にあれ遊ばせとの給ふ。俊宗、黒鉄の弓に神通の鏑矢、打ち番(つか)ひ、しばし固めて放ち給へば、雷の如くに鳴り渡り、高丸が眉間を射砕き、腰骨欠けて、後ろなる石に貫かれける(つな[ママ]ぬかれける)

其時、剣(つるき)を投げ給へば、高丸親子、七人が首を打落とし、八人づつ(つゝ)の人足に持たせて都へ上り給ひければ、勲功勧賞(くんかうけじやう)、思ひのまゝに頂戴して、又鈴鹿へ下り給ふ。

御前は喜びの神酒(みき)を勧め(勧めて)、夜もすがら管弦(くわんけん)して明かし暮らさせ給ふか、ある時、鈴鹿仰せけるは、一歳(とせ)、大嶽丸が顕明連(けんみやうれん)の剣を取残せし故に、魂魄(こんはく)残て(残り)天竺へ帰り

又日本へ渡り、陸奥の国、きり山かたけ(霧山が岳か桐山が岳か)に立て籠もりて世の妨げをなすべきとの吹奏(すいさう)有、急ぎ都に上り、よき馬を求め給へと仰せければ、

頓而(やかて)上洛(しやうらく)して、馬を尋給ふ所に、五条の傍らに住荒らしたる館有、立寄見れば、二百歳にも及たる翁、馬屋(むまや)の前に眠(ねふ)り居たり。

又世の常の馬五つ計、一つにしたる程の馬を金鎖にて八方に繋ぎたるが、百日にも馬草(まくさ)くれたり共見えず、引立るとも、一足も(もナシ)行くべきとも見えず。

俊宗、此馬、売るべきかと仰せければ、翁、嘲笑ひ、何の用に此馬(むま)飼ひ給ふべき、欲しくば、価(あたひ)は要るべからず、引かせ給えと言ふ。

俊宗、うれしく思召、明日引かせ申さんとて帰給ひて、彼の翁に百石百貫に色よき小袖を添へて下し賜ぶ(たふ)。翁、大きに喜びけるとなり。

扨(さて)其馬を飼ひ給ふに、世中に並びなき名馬にて、俊宗乗り給へば、山を駆けり、海を渡るも同じ平地の如し。不思議に思召、鈴鹿へ行(ゆ)かんと思ひ、乗出し給へば、刹那が間に着き給ふ。

鈴鹿御前は御覧じて、あっぱれ(あつはれ)御馬候、是に召されて陸奥(むつ)の国、きり山かたけを御覧しをかれ候、大嶽丸が来り候とも、駒の足立(あした)ちを知らせ給はゞ、たゞ、一かせん(火戦か)の勝負ぞと仰せられければ、

頓而(やかて)、此駒に打乗て、東を指して打ち給ふに、片時の間にきり山辺りを駆け回り、元の所に帰給ふ。

かくて月日を過し給へば、案の如く、大嶽丸がしんはく(こんはく:魂魄)、元の如くに成て、きり山か峰に居(ゐ)て、人を取事、数限りなし、此由奏聞申ければ、廿万騎の軍兵を田村将軍に付け給ひて、急、打つ立つ(うつたつ)べしとの宣旨なり。

俊宗、畏而承、此由鈴鹿に(鈴鹿に此由)語り給へば、人数(人じゆ)は左様に入るべからず、たゞ、御手勢計、つれ給ふべしとて、皆人々をば返し給ひて、五百余騎の手勢計、召し連れ給ふ。

都より、きり山迄は三十五日の道なるを、軍兵共をば先に立て、俊宗は鈴鹿御前と酒宴(しゆゑん)、管弦(くはんけん)、様々の御遊びにて、七月の末(すゑ)より八月半迄、夜と共の御游、様々なりしか。

都を出て、三十四日と申に、鈴鹿を出る。御前は飛行(ひきやう)の車に召す。俊宗は、彼駒に打ち乗り、片時の間にきり山の麓に着き給ふに、軍兵共は、未だ二時(ふた時)ばかり後に着きける。

去程に、鬼神は山を掘り抜き、口に大磐石(はんしゃく)を扉(戸ひら)として、攻め入べき様は無し。され共、田村はかねて案内は知る也、搦め(からめ)手に回り、攻め入て見給えば、大嶽丸は無かりけり。

門守りの鬼、一人出、何者なれば、我に案内も言はで通るらん、物見せんとて黒鉄の棒(はう)にて打たんとすれば、俊宗、扇にて打落とし、憎き物の振る舞ひかなとて先縛(いまし)めて引出す。

扨(さて)、大嶽はいづくに有ぞと問ひ給へば、八大王と申は我等が衆(しう)の主成か、蝦夷(ゑそ)が嶋におはします。御見舞ひのために昨日(きのふ)御越候程に、頓而(やかて)帰り給はんと申せば、

俄に空曇り、神なり(雷)して、黒雲一群(むら)の中より鬼の声、凄まじくて、あら珍しや、田村殿、久敷程の見参也、一歳(とせ)、伊勢の鈴鹿山にして、御身は某(それかし)を(をナシ)討ち止めたりと思ふらん。

我は其比(そのころ)、天竺に用有て玉しゐ(魂か)一つ残し置て帰る也、それを我本躰と思ふらん、人間の知恵(ちゑ)の浅ましさよと笑ひければ、

田村、聞給ひて、それは然(さ)る事も有べし。汝が剣(つるき)は如何にと仰せければ、是こそ顕明連(けんみやうれん)よとて指上る。

俊宗、御覧じて、嬉しゝ嬉しゝ、二つの剣(つるぎ)は給はりて日本の宝と成し、今一つの剣を取残し、心に掛かり思ひしに、是迄の持参、何より満足なりとの給へば、

大嶽丸、腹を立、あの童(わっぱ:わつは)に物な言わせそ、三面鬼は無きかと言えば、面(つら)の三つ有、赤き鬼、踊り出て、大石を雨の降る程打けれ共、一つも当たらず。

其時俊宗、例の大弓に鏑矢番(つか)ひ、しばし固めて放ち給へば、三面鬼が真っ向(まつかう)射砕かれ、明日の露と消えにけり。

大嶽、腹を据ゑかね、手取にせんとて、半町計、一飛びに飛んでかゝるを飛び違えて、斬り給へば、首は前に落ちけるが、其まゝ天へ舞ひ上がる。

鈴鹿御前は御覧じて、此首只今落ちかゝるべし、用心あれとて鎧兜(よろひかふと)を重て着給ふに、二時計有て鳴り渡り、田村の兜の天辺(てへん)に喰らひ付、

俊宗、兜を脱ぎ、御覧するに其まゝ首は死にける。

残りの眷属共には繩(なは)を掛け、引き上り、皆斬つて獄門に掛けられける。又、大嶽丸が首は末代の伝へにとて、宇治の宝蔵(ほうさう)に納、千本の(千もとの)大頭と申て、今の世迄も、神輿の先に渡るは、此大嶽丸が首也。

去程に、将軍の御威光(いくわう)、弥々(いよいよ)勝りける。角て、俊宗鈴鹿御前と猶浅からぬ中と成給ひけるが、鈴鹿御前、たゞ風の心地(ち)と仰せられしか、次第におもらせ給ふ。俊宗心憂く思召、様々の御祈りあれば

鈴鹿、此由聞し召し、我は仮に此界に生まるゝ也、此世の化縁(けゑん)尽きたれば、いかに祈り給ふ共、甲斐(かひ)あるまじ、暇申て、田村殿、正林(しやうりん)を愛おしみ給へと言ひ捨て、空しく成給ふ。

俊宗の御嘆き、中々申計なし、あまり悲しみ給ひて、一七日に当たる日、焦がれ死にゝ、死に給ふか。

頓而(やかて)、冥途に行給ひて、倶生神(くしやうじん)を呼び、汝は十王の下人か、さらば、我、娑婆(しやは)の田村大将軍俊宗也。汝が主に対面したき由、申べしとの給へば、

倶生神、大きに怒り、娑婆にては何者にてもあれかし、今我等に左様の事を言はん者、無限へ打落すべしとて

黒き鬼と赤き鬼が引き立てんとしけるを高足(あし)だにてコロコロと踏み倒し、我云事、聞きまじきかと仰せければ、倶生神は肝を消し、たゞ呆れ果てたる計也。

やゝ有て、起き上がり、是非の子細もなく、十王の前に逃げて行、此由かくと申ければ、十王出給ふ。

其時俊宗、我妻、七日以前に身まかり候、急返し給るべしと宣えば、それは寵幸(てうこう)限あれば叶まじ、汝は非業(ひこう)也、急帰れと仰せければ、

寵幸(てうこう)なればこそ、返して賜(た)べとは申候へ、非業なれば言ひ分はなし、返し給はずは、狼藉(らうせき)の有べしとて、火界(くわかひ)の印を結、投げ給へば、大しやくてん(帝釈天か)焼け上る。その時、大通連(とうれん)を抜き給ひて駆け回り給ふ。

此大通連(とうれん)は文珠(もんじゆ)の化身なれば、十王も倶生神(くしやうしん)もいかで容易く思ふべき、閻魔(ゑんま)王は獄卒(ごくそつ)を召し、彼者を返せと仰せければ、

獄卒(こくそつ)申けるは、寵幸(てうこう)の者也、其上はや、身体も候はず、如何はせんと申ければ、鈴鹿と同じ時に生れたる女、美濃の国、とふかい(東海か)と云所に有、彼に取替よと仰せければ(仰せられければ)、

獄卒承って、彼からに取かへて、田村の前に出しけるが、有しより姿も変はり、形劣りければ、

俊宗、腹を立、本の如くに成して賜(た)び給へと仰せければ、

第三の冥官(みやうくはん)を御使にて、東方(はう)浄瑠璃(じやうるり)世界の医王(いわう)宝尺(ほうしやく)の薬を勧め給へば、尚其昔より慈(いつく)しく成らせ給ひけるとかや。

扨(さて)大しゃく(帝釈か)、の給ふは、今より後、三年の暇(いとま)を取らするなりぞと宣ひける。冥途の三年は娑婆の四十五年也。扨(さて)こそ、田村将軍と鈴鹿御前の御契は二世の縁とは申なれ、有難かりき験(ためし)也。

扨(さて)も此大将軍は観音の(誠は観音の)化身にてましませば、衆生済度(さいと)の方辺に仮に人間と現れ給ふ。

又鈴鹿御前は竹生嶋の弁財天女なるが、篤きしやしん(社人か)を助け、佛道に入給ふべきとて、様々に変化給ふも御慈悲深き事なり。

さて末代の験(ためし)には、清水寺の御建立(こんりう)、大同二年に成就(じやうじゆ)して、大同寺と申せしが、水の水上(みなかみ)清くして流れの末(すゑ)も、久方の空ものどかに、巡る日の、かけ清水の寺とし(御寺とし)、改めて、

猶此寺の坂上なる田村党(たう)の、軒端(のきは)の松の深み取り千代万代(よろつよ)の掛け締めて貴賤薫修(くんしゆ)する事、佛法繁盛の故なり。

此草子(さうし)見給はん人々はいよいよ観音を信じ給ふべし。

(彰考館古活字版ニハ、巻末ニ次ノ和歌ガアル)

 草も木も 我が大王(おほきみ)の 国なれば いづくか鬼の 住処おほ(マゝ)のなるべき

◆余談
 坂上田村麻呂に関する伝説は初めて読んだが面白かった。日本と言う枠組みを超え、唐の国、天竺と話が広がっていく。その中で祖父―父―子と三代の英雄譚が繰り広げられるのが興味深い。精読に手間をかけた元はとれた。

◆参考文献
・「室町時代物語大成 第九」(横山重, 松本隆信/編, 角川書店, 1981)※「田村の草子」pp.81-109
・金子恵里子『歴史民俗博物館「田村の草子」翻刻と解題』「専修国文」第八二号(専修大学日本語日本文学会, 2008)pp.63-107
・内藤正敏『鬼の物語になった古代東北侵略―「田村三代記」と「田村の草子」』「東北学」9(赤坂憲雄/編, 東北芸術工科大学東北文化研究センター, 2003)pp.338-364
・福田晃「奥浄瑠璃『田村三代記』の古層」「口承文芸研究」第二十七号(日本口承文藝学會, 2004)pp.1-33
・「説話文学研究叢書 第一巻 国民伝説類聚 前輯」(黒田彰, 湯谷祐三/編, クレス出版, 2004)pp.212-224

記事を転載→「広小路

|

2019年4月 9日 (火)

大阪に石見神楽の常設館が

以前、ニュースで見かけて、そのままスルーしてしまっていたのだけど、大阪に石見神楽の常設会場ができたとのことである。

石見神楽なにわ館

金・土・日・祝日に一日二回公演が行われるとのこと。料金は3,000円なので映画一本を見るより高い。

週6回公演なので、島根県からの社中の応援では賄いきれない。そこで大阪に在住する石見神楽経験者を募ったという流れらしい。金・土・日・祝日と公演するので、実質的には神楽専業という形になるだろうか。公演日以外にバイトを入れるとしても練習は必要だろう。これまで兼業だった石見神楽でプロの神楽師が誕生したという流れになるのだろうか。

観客は大阪府民だけでなく海外からの観光客も見込んでいるとのことである。神楽は衣装代がかかるし、うまく定着するといいのだが。収容人数は100人くらいとのこと。

<追記>
石見神楽なにわ館は年末で閉鎖するとのことだ。騒音で苦情がきたのだとか。大阪社中は活動を継続するとのこと。県の補助も無い独自の試みだったのだけど、中々難しいものだと感じさせられる。

大阪社中は頑張れと思う。関西は巫女神楽系で能舞を舞う社中は存在しないはずだし、うまくすれば東京社中の様になれるかもしれない。

|

2018年12月 7日 (金)

万博と大蛇

少し前の話だが、2025年の大阪万博が正式に決定した。前の大阪万博のとき、僕はまだ赤ん坊で、母が兄姉四人を連れて万博を観にいった。僕は父と家で留守番だったが、「びぃびぃやんに行く!」と父を困らせたらしい。近所の魚屋さんに母がいると思ったのだろう。

俵木悟『八頭の大蛇が辿ってきた道―石見神楽「大蛇」の大阪万博出演とその影響―』という論文が「石見神楽の創造性に関する研究」に収録されている。大阪万博で地方の郷土芸能が紹介されて、島根県からは石見神楽が出展したのだが(元々はホーランエンヤを予定だったが諸事情で変更になったらしい)、そこで舞われた八頭の大蛇が登場する「大蛇」が非常にインパクトを残したらしい。他所の伝統芸能で「オロチに喰われた」と述懐する人もいたとのことである。大阪万博をきっかけにして大蛇の上演機会は増え、何頭もの大蛇が舞うスペクタクル化していったらしい。

 

|

2018年12月 2日 (日)

大江山と伊吹山――酒呑童子

◆かつての創作演目

 「大江山」は他サイトの表現を借りると、オールスターキャストで人気の演目であるが、古い神楽台本には見当たらないらしい。校訂石見神楽台本にも「大江山」は収録されていない。佐々木順三「かぐら台本集」によると、
「大江山」
「この一曲は、一応藩政期と明治期に時代区分をしたとき、藩政時代に脚本ができて、舞われていたものか、明治期にはいってかっらのものかはっきりしていない。古典石見神楽台本中にも見当らない。おそらく明治期になってからできたものと思われる。美土里町内に明治五年に購入した記録のある酒呑童子面が本郷地区河内にあったことから、当時大江山の一曲がこの地方で舞われていたことはたしかであると思う。してみると、この曲は明治期の初期につくられた、当時の新作曲目であって、今日では中古典の曲目ということができると思う。」(中略)「また語法も他の曲目とちがって、きわめて通俗的で、とうてい国学者や神道学者によって書かれた台本とはいいがたいものがある。おそらく、宮かぐらが神職管理から開放された後に、地方の物好きな通俗文士によって作られたものであろう。」
佐々木順三「かぐら台本集」(56P)
とある。牛尾三千夫「神楽と神がかり」では、
大江山という曲目は、明治初年に石州矢上村の諏訪神社視祠官静靭夫の創作したもので、石州から安芸山県郡地方へと伝授されて、次第に山県郡地方から佐伯郡地方へ波及し、更に小瀬川を渡って釜ヶ原地方へ伝来したものと思われる。
牛尾三千夫「神楽と神がかり」489P
とある。

 芸北神楽の旧舞の「大江山」は、
 伊勢の国、天照皇大神宮の参誓託(さんぜがたく)という神が源頼光らが現れるのを待っている。
 源頼光は丹波国大江山に鬼人が多数住んで民を悩ますので、これを退治せよとの勅命を被った。四天王が出てくるまでしばし休息をとる。
 渡辺綱と坂田金時が登場する。参誓託が現れ、鎧、兜、剣、銚子を授ける。銚子は左口からつぐときは向こうの力が千人減り、右口からつぐときは、こちらの力が千人増すというものである。
 栗木又次郎(くりきのまたじろう)が現れ、頼光たちに大江山の案内をする。 都から囚われの身となった紅葉姫は洗濯している際に頼光たちに会い、鬼の岩屋まで案内する。
 酒の肴として案内された頼光たちだったが、自ら山伏修験者であると名乗り、酒呑童子たちに酒をつぐ。
 酒呑童子は越後の国の生まれで、山寺にこもったが、才を妬まれて額に鬼という文字を書かれた。その無念さで鬼人となった。高野山に登り、住処としようとしたが、弘法大師によって追い出された。そこで京都は比叡山に登り、住処としようとしたが、伝教大師によって追い出された。その後、京都の羅生門に立てこもったが、渡辺綱が茨木童子の左腕を切り落としたので、綱の乳母の姿となって左腕を取り戻した。その後、大江山にとび移って住処となしたと述べる。
 正体を現した頼光たちは童子たちと対決する。たばかられたと知った童子たちだったが、茨木童子は渡辺綱に、唐熊童子は坂田金時に討ち取られる。頼光と四天王を相手にした酒呑童子だったが、遂に討ち取られる。

という粗筋となっている。

◆芸北神楽の新舞

 佐々木順三「かぐら台本集」によると芸北神楽の新舞でも大江山の演目はあり、羅生門~戻り橋~大江山を約一時間程度にコンパクトにまとめた形となっている。
「大江山三段がえし」
[第一段]
 源頼光に仕える四天王の一人、渡辺綱は近頃羅生門に夜な夜な怪物が現れ、庶民を悩ましているため、これを退治すべく羅生門にやって来た。茨木童子(いばらぎどうじ)と対決した綱は童子の左腕を切り落とす。
 酒呑童子が現れ、渡辺綱の乳母に化けて、茨木童子の左腕を取り戻す。
[第二段]
 橘中納言忠家に仕える下僕喜藤太(しもべとうだ)は忠家の娘である紅葉姫について清水観音に詣でていた。そこに茨木童子が現れて、姫をさらってしまう。気絶していた喜藤太は忠家にことの次第を報告する。
[第三段]
 第十六代清和天皇三世の孫、満仲の嫡男である源頼光は渡辺綱、坂田金時を連れて丹波国大江山に向かった。山伏修験者に変装した頼光らは石清水弓矢八幡に詣でる。
 石清水の神霊が現れ、神変鬼毒酒(しんぺんきどくのさけ)を頼光らに授ける。この酒は善人がこれを飲むときは千人力となり、悪人がこれを飲むときは、たちどころにその魔力を失うものである。
 囚われの紅葉姫は谷の小川で洗濯をしていた。そこに頼光らが現れる。紅葉姫は鬼の岩屋に頼光らを案内する。
 山伏が一夜の宿を求めていると紅葉姫が酒呑童子たちの前に連れていく。酒呑童子は頼光らが刀を帯びていることを訝しく思ったが、神変鬼毒酒を飲む。茨木童子、唐熊童子(からくまどうじ)もこれを飲む。酒を飲んだことを見届けた頼光は名を名乗り、たばかられたと知った童子たちと戦いになる。茨木童子は渡辺綱に、唐熊童子は坂田金時に討ち取られる。酒呑童子は頼光、綱、金時の三人を相手に立ち回るが、討ち取られる。

 茨木童子の腕を取り返すのが酒呑童子であることが特徴だろうか。

◆御伽草子「酒呑童子」

 御伽草子「酒呑童子」をつたないながら訳してみた。

 昔、わが国のことであるが、天地が開けて以来、神の国といいながら、また仏法が盛んで、人代の天皇陛下の始め(神武天皇)から延喜の帝(醍醐天皇)に至るまで王たるものの道が備わり、政治は滞りなく、民をも憐れむこと中国の堯舜(ぎょうしゅん)の御代でも、これにはどうして勝るだろう。しかし、世の中に不思議なことが出て来た。丹波の国の大江山には鬼神が住んで、日が暮れれば近国や他国の者まで、数知れず取っていく。都の内で取る人は、見目うるわしい十七、八歳の女房を頭として、これをも沢山取っていく。いずれももっとも哀れだったのは、院にお仕えする池田の中納言くにたかといって、院の覚えがめでたく、宝は内に満ち満ちて富貴の家でありますが、姫が一人いる。仏教でいう三十ニ相の容貌を授かり、美人の姫君を見聞きする人で恩愛をかけない者はいない。二人の親の寵愛することは一通りではなく、これ程に優しい姫君を、ある日の暮れのことであるが、行方を知らず消えうせた。父くにたかをはじめとして奥方の嘆くこと、乳母やお守り役や女房たち、その他居合わせた人までの上を下へと騒ぎとなった。中納言はあまりの悲しさに左近衛府の者を召して、「どんなにか、左近、よ謹んで聞け、この程、都に隠れない村岡のまさときという評判の高い博士がいると聞く。連れて参れ」とおっしゃった。「承知しました」と答えて博士を連れて居所へ参った。気の毒だ、父くにたかも奥方も、恥も人目もはばからず、博士に対面しつつ、「どんなにか、まさときよ謹んで聞け。それは人の世の常で、五人十人ある子でさえいずれもおろそかにしない世の常で、自分はただ一人の姫を昨夜の暮れに行方知らずとなり見失った。今年十三歳の寅年で、生まれてからこの方は縁から下へ降りるのさえ乳母やお守り役が付き添って、荒い風も避けていたのを、人を迷わせる変化の仕業ならば自分をも共に、どうして連れて行かなかったのかと袂を顔に押し当てて、「占い給え、博士」といって代価として一万疋を博士の前に積ませながら、「姫の行方を知るならば、多数の宝を与えよう。よくよく占うべし」。もとから博士は名人であって、一つの巻物を取り出し、例の体(てい)を見渡し、両手をはたと打ち、「姫君の行方は丹波の国大江山の鬼神の仕業でしょう。お命には別状ない。なお、自分の得てきた手段で延命をお祈りしましょう。この占いの結果現れたかたちをよく見ると、観音に誓って、姫が誕生したその願がいまだ成就しないお咎めと見えています。よく誓ってくだされば姫君はすぐに都に帰りましょう」と見通すように占って、博士は自分の家に帰った。

 中納言も奥方もお聞きになって、これは夢か現実かと嘆く有様は何に譬えようもない。中納言殿は涙が落ちる隙(ひま)よりも急いで内裏へ奏上したところ、帝がご覧になって、公卿と大臣が集まっていろいろ評議したが意見がまちまちだった。その中で関白殿が進み出て、「嵯峨天皇の御代の時、これに似た事があって、弘法大師が封じ込め、国土を去って差しさわりありません。そうでありながら、今ここに源頼光を召されて鬼神を討てとおっしゃれば、貞光(さだみつ)、季武(すえたけ)、綱(つな)、公時(きんとき)、保昌(ほうしょう)を始めとして、この人々には鬼神も恐れおののいて、怖れをなすと聴いております。この者たちに仰せつけられよ」と答えた。帝はなるほどとお思いになり、頼光を召された。頼光は勅命を承って、急ぎ参内したところ、帝がご覧になって「どうだ頼光、謹んで聞け。丹波の国の大江山には鬼神が住んで害をなす。自分の国だから、国の果てまでも、どこに鬼神が住むことができような。ましてや都に間近で民を悩ます理由はない。平らげよ」との命令であった。頼光は勅命を謹んで受け、あっぱれ、重大なご命令だな。鬼神は化物なので、討手が向かうと知ったなら、塵や木の葉と身を変じて、我ら凡夫の眼で見つけることは難しいだろう。そうではあるけれど、勅命にどうして背くことができようか。急いで我が家へ帰りつつ、我らの力では叶わないだろう、仏神に祈りをかけ、神の力を頼むべし。もっとも適当であると言って、頼光と保昌は石清水八幡宮に参詣し、綱と公時は住吉神社へ、貞光と李武は熊野三社に参って籠り、様々なことを神に祈願した。もとから仏法のさかんな神国で、神も聞き入れて、いずれもあらたかなご利益があり、喜びはこれに勝ることはあるまいと言って、皆、我が家へ帰りつつ、一つ所に集まって、いろいろ評議したが、皆の意見はまちまちだった。

 頼光がおっしゃることには、「この度は、人が多くては叶うまい。以上六人が山伏に姿を変えて、山路に迷った様子で、丹波の国の鬼が城へ尋ねて行き、住家だけでも知れたならば、どうにかして軍略を巡らして討つことは容易いであろう。おのおの笈(修験者が背負う箱)を拵えて、具足や甲(かぶと)を入れよ。お前たち、どうだ?」とおっしゃったので、「謹んで受け入れます」と答えたと申して、各々が笈を拵えた。先ず頼光の笈にはらんでん鎖といって、緋縅(ひおどし)の鎧、同じ緋色の毛の五枚甲に、獅子王という兜を、ちすいという二尺一寸の剣を笈の中に入れなさった。保昌は紫縅(むらさきおどし)の腹巻に、同じ毛の甲を添えて岩切といって二尺ある小長刀(こなぎなた)、二重に金を延べ金にして、三束あまりにねじ切って笈の中に入れる。綱は、萌黄縅(もえぎおどし)の腹巻に同じ色の甲を添え、鬼切という太刀を笈の中に入れる。貞光と李武、公時も、思い思いの腹巻に同じ色の毛の甲を添え、いずれも劣らぬ剣を笈の中に入れる。竹筒(ささえ)と名づけて酒を持ち、火打ち石、竹製の付木、雨除けに使う油紙を笈の上に取り付けて、思い思いの打太刀、頭巾(ときん:小さいずきん)、法螺貝、金剛杖をつき連れて、日本国の神仏に深く誓いを立てつつ、都を出て、丹波の国へ急ぎなさる。この人々の様子はいかなる天魔波旬(てんまはじゅん:第六天の魔王)も怖れをなすだろうと思わせる。

 急いだので程なく丹波の国の広く知られた大江山に着いた。柴を刈る人に行き会って、頼光がおっしゃることには「どうだ、山人、この国の千丈嶽はどこか。鬼の岩屋を詳細に教え給え」と仰せになった。山人はこの由を謹んで聞き、「この峰をかなたへ超えつつ、また谷と峰のかなたこそ鬼の住家といって、人間が決して行くことはありません」と語った。頼光はお聞きになって「ならば、この峰を超えよ」といって谷よ峰よと分け上り、とある岩穴を見たところ、柴でできた庵(いおり)のその中に三人の翁がいるのを頼光がご覧になって「どのような方ですか。気がかりだ」とおっしゃった。翁が答えておっしゃる。「我々は人を迷わす化物ではない。一人は津の国の闕郡(かけのこおり)の者であり、一人は紀伊国の音無の里の者である。もう一人は京に近い山城の者であり、この山のかなたにある酒呑童子という鬼に妻子を取られ、無念さに、その仇を討たんため、この頃ここに来た。客僧たちをよく見ると、普通の人ではなく、勅命を受けて酒呑童子を滅ぼせとのお使いと見える。この三人の翁こそ、妻子を取られたので、ぜひ案内者となりましょう。笈を降ろし、ほっとして、疲れを休むべし。客僧たち」と言った。頼光はこの由をお聞きになって、「おっしゃる通り、我々は山道に踏み込んで迷い、くたびれているので、ならば、疲れを休めよう」と笈を降ろして置いて、竹筒(ささえ)の酒を取り出して、三人の人々に「お酒を召し上がれ」といって進上した。翁がおおしゃるには、「どのようにしても、忍び入るべし。あの鬼は常に酒を飲む。その名をなぞらえて酒呑童子と名づけた。酒を盛って酔って臥した者なので、前後を知らない。この三人の翁こそ、ここに不思議な酒を盛っている。その名を神便鬼毒酒(じんぺんきどくしゅ)といい、神の手段、鬼の毒酒と読む字なのだ。この酒を鬼が飲むならば自在に飛ぶ神通力も失せ、切っても突いても分かるまい。あなたたちがこの酒を飲めば、却って薬となる。そうしてこそ、後の世まで神便鬼毒酒と申すのだろう。どうしても不思議な徴(しるし)を見せるだろう」と言って星甲(ほしかぶと)を取り出し、「あなたはこれを着て鬼神の首をお切りなさい。何の差支えもないだろう」と件の酒を合い添えて、頼光に下された。六人の人々は、この由をご覧になって、さては三社の神々がここまでご出現なさるかと深く感じて涙を流し、肝に銘じつつ、ありがたいとも中々言葉にいい難い。その時、翁は岩屋を立ち出て、なおその上、道案内しましょう」と千丈嶽を登りつつ、暗い岩穴を十丈ばかりくぐり抜けて小さい谷川に出た。翁がおっしゃるには「この川上を登ってご覧なさい。十七八歳の上臈がいるだろう。会って詳しく問いなさい。鬼神を討つべきそのときは、なおその上、我らも助けよう。住吉、八幡、熊野の神がここまで現じて来る」といってかき消す様に失せた。

 六人の人々はこの次第を見て、三社の神のお帰りになった跡を伏し拝みつつ、教えに任せて川上を上って見ると、教えの様に、十七八歳の上臈が、血の付いたのを洗って、涙と共に居たが、頼光はこの次第をご覧になって、「どのような人か」とお問いになったところ、姫君はこの次第をお聞きになって「さようでございます。自分は都の者ですが、ある夜、鬼神につかまれて、ここまでやって来ましたが、恋しい二人の父母や乳母やお守り役に会いもせず、このように情けない姿をば、哀れにお思いになってください」と言ってさめざめとお泣きになった。涙の落ちる隙(ひま)よりも(涙を流しながら)「あら、みじめかな、ここは鬼の岩屋といって人間が来ることは決してありません。客僧たちはどうしてここまで来なさったのか。どのようにしてでも、自分を都へ帰してください」とおっしゃるのも耐えられず、たださめざめとお泣きになる。頼光がこの由をお聞きになって「あなたは都の誰の子か」とお問いになったところ、「そうでございます。自分は花園の中納言の一人娘でしたが、自分だけに限らず、十数人います。この度、池田の中納言くにたかの姫君も取られてここにいますが、かわいがってその後は身体から血を絞って酒と名づけて血を呑み、肴と名づけて肉体を削いで食べられる悲しみを側で見るのも哀れです。堀河の中納言の姫君も今朝血を絞られました。その帷子(かたびら)を自分が洗うのは悲しいことです。実に気のすすまないことです」といってさめざめとお泣きになったので、鬼にひけを取らない人々も実に道理であるといって、ともにむせび泣いた。頼光が「鬼を易々と平らげ、あなたたちをことごとく都へ帰すために、ここまで尋ね参ったのです。鬼の住家を詳しく語り給え」とおっしゃったので、姫君はこの次第をお聞きになって「これは夢か現実か。それなら語りましょう」と、「この川上を上ってご覧なさい。鉄の築地(土塀)を築き、鉄の門を建て、門口には鬼が集まって番をしているでしょう。どのようにしても門から内へ忍び入ってご覧なさい。瑠璃の宮殿が玉を垂れ瓦を並べています。四つの時期を学びつつ、鉄の御所と名づけて、鉄で屋形を建て、夜になれば、その内で自分たちを集めて可愛がって、足や手をさすらせて寝起きしていますが、牢屋の入口には従者たちに、ほしくま童子、くま童子、とらくま童子、かね童子、四天王と名づけて番をさせて置いています。彼ら四人の力の程は、どれほどと例えることもできないと聞きます。酒呑童子のその姿は、色は薄赤く、背は高く、髪を結わないで乱れたままで、昼の間は人だけれども、夜にもなれば恐ろしい、その丈は一丈あまりで、喩えようもない。あの鬼は常に酒を飲んでいます。酔って臥していれば、我が身の失せる(殺される)のも分からないでしょう。どのようにしても忍び入って、酒呑童子に酒を盛り、酔って臥したら、思いのままに討ち給え。鬼神は天命が尽き果てて、遂には討たれるでしょう。どのようにでも工夫なさいませ、客僧たち」とおっしゃる。

 さて、六人の人々は姫君の教えのままに川上を上ったところ、すぐに鉄の門に着いた。番の鬼どもはこれを見て、「これは何者か、珍しい。この頃人を喰っていないので、喰いたいと思っていたちょうどその時に愚か者は飛んで火に入る夏の虫。今こそ思い知った。さあ、引き裂いて食おう」といって我も我もと勇んだ。その中で、鬼の一人が言うには「慌てて事を仕損ずるな。このように珍しい肴を私にするのは叶うまい。主君は断り、御意次第で引き裂いて食おう」と言った。実に尤もといって、それよりも奥を指して参り、この次第をこのように言ったので、酒呑童子はこの次第を聞くとすぐ「これは不思議な次第かな。何にせよ対面すべし。こちらへ招け」と言ったので、六人の人々を縁側の上に招いた。その後で、生臭い風が吹いて、雷と稲妻がしきりに起きて、前後を忘れるその中に、色薄赤く、髪は結わずに乱れたままで、大格子(おおごうし)の織物に紅色の袴を着て、鉄杖を突き、辺りを睨んで立ったその姿は身の毛もよだつばかりである。童子がいうには「自分が住む山は普通と違い岩石が峨々(がが)としてそびえ立ち、谷が深く道もない。天をかける翼、地を走る獣まで道が無いので来ることもない。ましてや各々がたは人として天を駈けて来たのかね。語れ、聞こうではないか」頼光はお聞きになって「我らの修行の習慣で、役の行者(えんのぎょうじゃ)という人は、道なき道を踏み分けて、五鬼(後鬼)、前鬼、悪鬼といって鬼神がいるのに行き会って呪文を授け餌食を与えて、今に絶えないよう年々に餌食を与えて憐れんでいた。この客僧も流れを汲む。生まれた本国は出羽の羽黒の者だが、大峰山に大晦日の夜から元日の朝まで籠り、しだいに春にもなったので、都見物のために、昨夜、夜になって出立したが、山陰道より道に迷い、道があるように心得てここまで来たのです。童子のお目にかかること、ひとえに役の行者のお引き合わせ、何よりも嬉しくございます。一本の木の陰に宿り、同じ川の水を汲むことも、皆これ他生の縁と聞く。お宿を少し貸してください。お酒を持たせているので、恐れながら童子へもお酒を一献差し上げよう。我らもここでお酒をいただき、夜通し酒盛りしましょう」とおっしゃった。

 童子はこの次第を聞くとすぐに、それでは差し支えない人かと、縁側より上へ呼び上げて、尚も本心を知るために、童子が「持参のお酒があると聞く。我らもまた、客僧たちにお酒を一献差し上げよう。それそれ」とおっしゃったので、「謹んで受けましょう」と申して、酒と名づけて血を絞り、銚子に入れて盃を添え、童子の前に置いた。童子は盃を取り上げて頼光に差し出した。頼光は盃を取り上げて、これをさらりと飲み干した。酒呑童子がこれを見て「その盃を次へ」と言う。「謹んで受けましょう」と綱に差す。綱も盃を一つ受け、さらりと飲み干した。童子が「肴は無いか」と言ったので、「承る」と申して、今切ったと思しい腕(かいな)と股(もも)を板に据え、童子が台に置いた。童子はこの次第を見るとすぐ、「それを料理せよ」といい、手下が「承知した」とて立つところを頼光はご覧になって「自分が料理しましょう」と腰の脇差をするりと抜き、肉のかたまりを四、五寸押し切って、舌鼓を打った。綱はこの次第を見るとすぐに、「お志の有難さを自分もいただきましょう」と、これも四、五寸押し切って、うまそうに食われる。童子はこの次第を見るとすぐに「客僧たちは、いかなる山に住み慣れて、このように珍しい酒肴をいただくのは不思議だ」。頼光はお聞きになって「ご不信はもっともです。我らが修行の習慣で、慈悲で給わるものがあれば、たとえ心で望まなくても、嫌ということは決してありません。殊にこのような酒肴を喰う(空)心に浮かべたり謂われがあります。討つも討たれるも夢のようなはかない世の中。この身が即ち仏でなる故に、喰うに二つの味はない。我らもともに成仏するのです。あら、ありがたいことだ」と礼をしたので、鬼神は正道に外れたことをしないとかいうが、童子も却って頼光に礼拝するのがうれしいことである。童子が「意にそまない酒肴を差し上げるのは悲しいことだ。他の客僧へは無益なり」とおっしゃって、安心したと見えた。その時、頼光は座席を立ち、件の酒を取り出し、「これはまた都からの持参の酒なので、恐れながら童子へも一献差し上げましょう。お試しのために」と言って、頼光は一献さらりと飲み干し、酒呑童子に差し上げる。童子は盃を受け取り、これもさらりと飲み干した。実に神の方便は有難いことだ。不思議の酒なので、その味は甘露の様で、心も言葉も言いようが無い。童子は一通りではなく喜んで「わが最愛の女がいる。呼び出して飲ませよう」と言って、くにたかの姫君と花園の姫君を呼び出して座敷に置く。頼光はこの次第をご覧になって、「これはまた、都からの上臈たちにも差し上げましょう」とお酌に立った。

 童子はあまりの嬉しさに酔ってうっとりして「自分の過去を語って聞かせよう。生国は越後の者で、山寺育ちの稚児だったが、法師に妬みがあったため、数多くの法師を刺し殺し、その夜に比叡山に着き、自分が住む山だと思ったところ、伝教という法師が、仏たちを語って「自分の入り立つ杣(そま)山」と言って追い出す。力及ばず山を出て、また、この峰(大江山)に住んだところ、弘法大師という馬鹿者が法力で閉じ込めて追い出したので、力の及ばないところに、今はそのような法師もいない。弘法大師は高野山で亡くなった。今またここに立ち帰り、何の差支えもない。都からも我が欲しい上臈たちを呼びよせて、思いのままに増し使っている。座敷の様子をご覧になれ。瑠璃の宮殿は玉を垂れ、瓦を並べて置き、様々な木や草の前に、春かと思えば夏もあり、秋かと思えば冬もある。このような座敷のその内に女房たちを集めて置き、足や手をさすられて起きたり臥したりしているが、いかなる諸天王の身であろうとも、これにはどうして勝ろうか。そうでありながら、気に掛けるのは、都に隠れもない頼光といって荒々しい強者である。力は日本で並ぶものがない。また、頼光の家来に、貞光、李武、公時、綱、保昌、いずれも学問と武芸に秀でた強者である。これら六人の者どもこそ、気にかかるのだ。それをどうしてと言うと、自分が召し使う茨木童子という鬼を、都へ使いに上らせたとき、七条の堀河で、あの綱と斬り合った。茨木童子はすぐに用心して女の姿に形を変え、綱の辺りに立ち寄って髻(もとどり)むんずと取って、掴んで来ようとしたところを、綱はこの次第を見るとすぐ三尺五寸するりと抜き、茨木が片腕をあざやかに打ち落とした。やっと軍略を巡らせて腕を取返し、今は差し支えない。あいつらが面倒なので、自分は都へ行くこともない」と言った。

 その後、酒呑童子は頼光のお姿を目も放さず眺めて「なんとまあ、不思議な人々だ。そなたの眼をよく見ると頼光である。さて、その次は、茨木の腕(かいな)を切った綱である。残る四人の人々は、貞光、李武、公時や保昌と思う。自分が見る目は違えないだろう。いとわしい。立ちなさい。ここに居合わせた鬼どもよ、心を許して怪我をするな。我らも退出するぞと」と顔色を変えて騒ぎ立てた。頼光はこの次第をご覧になって、ここでいい訳仕損ずるならば重大事とお思いになり、元から文武二道の人なので、少しも騒がぬ態度で、からからと笑い「なんとまあ、嬉しいことをおっしゃるかな。日本一の強者に山伏どもが似ているとは。その頼光も李武も名前を聞くのも初めてで、まして見た事もない。ただ今仰せをよく聞くと悪逆で道理に外れた人と聞く。ああ、もっての他だ。意外だ。そのような人には似るのも嫌だ。我らの修行の習慣として、ものの命を助けるため、山路を家とすることも、飢えた虎や狼に身を与え、全ての生物(情、心のあるもの)、情、心のないものを救うためです。古の釈迦牟尼如来の時代はしうふうと名づけて諸国を修行に出なさった。ある時、山路を通ったところ、深い谷の底から、何者かは知らないけれど、「諸行無情」と唱えたところ、谷に下りてご覧になったところ、九足八面(くそくはちめん)の鬼神といって頭は八つ足九本のさも恐ろしいは鬼神がいた。しうふう、彼に近づいて「ただ今唱えた半偈(はんげ)の呪文の残りを自分に授けよ」と言う。鬼神答えて言うには、「授けることは容易いけれど、飢えて力がない。人の身だけでも食するならば唱えよう」と言った。しうふう、この次第をお聞きになって、「それこそ容易いことである。残りの呪文を唱えるならば、お前の餌食に自分がなろう」とおっしゃったので、鬼神は一通りでなく喜んで残った呪文を唱えた。「是生滅法(ぜしょうめっぽう)、生滅滅己(しょうめつめつい)、寂滅為楽(じゃくめついらく)と唱えたところ、しうふう、これを授かって、あら有難いと礼をしつつ鬼神の口に入ったところ、ただちに菩薩となってあらわれ、鬼神は即ち毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、しうふうは釈迦仏(しゃかぶつ)である。またある時は、なんとまあ、鳩の秤に身を掛けたのも、みなこれ生けるものを助けるため、ここに居合わせた山伏も同じ修行をしているので、呪文を一つ授けて、早く命を召し上がるべきである。露や塵ほども惜しくない」と、さもありそうにおっしゃったので、童子はこれに謀られ、顔色を直しつつ(機嫌を直して)「おっしゃることを聞けば有難い、あやつらがここまでよもや来るまいとは思うけれども、常に心にかかる故、酔っても本性を忘れない」と言って「ご持参の酒に酔い、ただの繰り言とお思いなさい。赤いのは酒の所為だぞ。鬼とお思いになられるな。自分もそなたのお姿ちょっと見には恐ろしいけれど、慣れてしまえば可愛い山伏だ」と歌い奏でて、心も打ち解け、差し受け差し受け飲む程に、これぞ神便鬼毒の酒なので、五臓六腑に染みわたり、心も姿も内乱れ、「どうだ、居合わせた鬼どもよ、このように珍しいお酒を一献、お前たちに下して、客僧たちを慰めろ。ひとさし舞え」とおっしゃった。「謹んで聞きました」と立ったところ、頼光がこの次第をご覧になって、「まずお酒を一献さしあげましょう」と言って、並びいた鬼どもに件の酒を盛ったので、五臓六腑に染みわたり前後も全く弁えない。そうであるけれども、その中で、いくしま童子はさっと立ち上がって舞った。「都よりどのような人が迷い来て、酒や肴の飾り物となる、面白いことだ」と繰り返して二、三遍は楽曲を奏でた。この心をよく聞けば、ここにいた山伏どもを酒や肴になすべき歌の心と思えた。やがて、頼光はお酌にお立ちになった。童子が受けた盃を、綱はこの次第をみるとすぐ、さっと立って舞った。「年を経て鬼の岩屋に春が木て、風を誘って花を散らそう、面白いことだ」と、これもまた繰り返し、二、三遍舞った。この歌の気持ちは、ここに居合わせた鬼たちを嵐に花の散るごとくになすべしとの歌の心を、鬼は少しも聞き知らず。あら、面白いかなと感じつつ、次第次第に酔って放心した。童子は「どうだ、居合わせた鬼どもよ、客僧たちをよきにお慰めするべし。自分の代理には二人の姫を残しておく。そこでしばらくお休みあれ。明日また対面するべし」といって童子は奥に入った。残る鬼どもは童子が帰ったのを見て、ここあそこと臥した様子はさながら死人のようであった。

 頼光はこの次第をご覧になって、二人の姫君を近づけて「あなたたちは都では誰の姫にていらっしゃるか」「そうでございます。自分は池田の中納言くにたかの一人娘ですが、近頃取られて、恋しい二人の父母や乳母やお守り役にも会えずに、このようにみじめで情けない姿を哀れとお思いになってください」と言ってさめざめと泣く。「もう一人の姫君は」と問うと、「そうでございます。自分は吉田の宰相の末娘ですが、却って命が消えないで恨めしいことです」とくどくどしく述べ、二人の姫は諸共に声も惜しまず消え入るように泣きなさる。頼光、この次第をお聞きになて「もっともなことである。そうではあるけれど、鬼を今夜退治して、そなたたちを都へお供しつつ、恋しい二人の父母にお目にかけるべし。鬼の寝床まで我々を導き給え」と言ったので、姫君たちはお聞きになって「これは夢か現実か」と「そういう訳ならば、鬼の寝床を我々が手落ちなく案内いたしましょう。ご用意を」と言ったので、頼光は一通りでなくお思いになり、「そういう訳なので、各々がた、具足をつけなさい」といって、まず傍らに隠れる。頼光の出で立ちは、らんでん鎖といって、緋縅(ひおどし)の鎧を着け、三社の神の賜った星甲(かぶと)に、同じ毛の獅子王の甲を押し重ねて着用しつつ、ちすいという剣を持ち、南無八幡大菩薩と心の内に祈念しつつ進み出た。残る五人の人々も思い思いの鎧を着て、いずれも劣らぬ剣を持ち、女房たちを先に立て、心静かに忍び行く。広い座敷を過ぎて、石橋を打って渡り、内の様子を見たところ、みな酒に酔い臥して、誰かと咎める鬼もいない。乗り越え乗り越えて見たところ、広い座敷のその中に鉄で屋根を建て、同じ扉に鉄の太い閂(かんぬき)を差立てて、凡夫の力で却って内へ入れる様子はない。牢屋の隙間から見たところ、四方にともし火を高く立て、鉄の杖と逆鉾を立てて並べ、童子の姿を見たところ、宵の姿と変わり果てて、その丈は二丈あまりで、髪は赤く逆立ち、髪の間から角が生えて、髭も眉毛も生い茂り、足と手は熊の様で、四方へ足と手を投げて、臥した姿を見たときは、身の毛もよだつばかりである。有難いことに、三社の神が現れ、六人の者たちに「よくここまで来た。そうでありながら、心は安らかに思うべし。鬼の足と手を我々が鎖で繋ぎながら、四方の柱に結びつけて、動く様子はあるまいぞ。頼光は首を斬れ。残る五人の者どもは、後や先に立ち回ってずたずたに斬り捨てよ。差支えはあるまい」とおっしゃって、門の扉を開き、かき消すように失せた。また三社の神たちがここまで現れたかと感じ入って涙を流し肝に銘じつつ、教えに任せて、頼光は頭の方に立ち回って、ちすいをするりと抜いて「南無三社の神々、力を合わせ給え」と三度礼をして切ったところ、鬼神は眼を見開いて「情けないことよ。客僧たち、偽りは無いと聞いたのに、鬼に道に外れた行ないは無いものを」と起き上がろうとしたが、足と手は鎖につながれて、起き上がる様子がないので、おおという声を上げて叫ぶ声は雷電、雷(いかづち)か、天地も響くばかりであった。

 元から強者どもは、刀は鋭利にずんずん切ったので、首は天に舞い上がる。頼光を目にかけて、ただ一噛みでと狙ったが、星甲(かぶと)に恐れをなし、その身体に差支えはなかった。足と手、胴まで切り、大庭を指して出る。多くの鬼のその中に茨木童子と名乗って「主を討つ奴らに腕前の程を見せよう」といってわき目もふらないで襲い掛かる。綱は、この次第を見るとすぐさま、「腕前の程は知っている。目にもの見せてくれよう」と激しく追いまくり、しばし戦ったけれど、決して勝負は見えなかった。並んでむずと組打ちし、上を下へと乱れる。綱の力は三百人力、茨木童子は力は強かったのだろう、綱を取って押し伏せる。頼光、この次第をご覧になって、走りかかって茨木童子の細い首を宙に打ち落とせば、いくしま童子、かね童子、その他門を固めた十人あまりの鬼どもがこの次第を見るとすぐさま、今は酒呑童子もいらっしゃらず、どこを住家となすべきか、鬼の岩屋も崩れよと大声でわめきながら掛かってくる。六人の人々は、この次第を見て「神妙な奴らだ。腕前の程を見せよう」と言って習った武術を披露して、あちらこちらへと追い詰めて、数多くの鬼どもを悉く打ち負かし、しばらく息をついだ。頼光がおっしゃるには「どうした女房たち、早く出てき給え。今は差支えもあるまい」とおっしゃったので、この声を聞くとすぐさま、取られた女房たちは、牢屋の内から転んで落ち、頼光を目にして「これは夢か現か。自分も助けてください」と我も我もと手を合わせて嘆き悲しむ様子を、ものに譬えれば、罪深い罪人が獄卒の手に渡り、無限地獄に落とされたのを地蔵菩薩の錫杖で「をんかあかみせんさいそわか」と救われたのもかくやと思い知らされた。

 その時、六人の人々は姫君を先に立て、奥の様子を見たところ、宮殿楼閣玉を垂れ、四方の四季を学びつつ、瓦を並べ立てたのは心も言葉にも及ばない(表せない)。また側をを見たところ、死んだ骨や白骨、まだ死んでいない生身の人、あるいは人を鮨にして目も当てられないその中に十七八歳の上臈の片腕を落とされ股を削がれてはいるが、未だに命は消えやらず、泣き悲しんでいらっしゃるのを、頼光がこの次第をご覧になって、「あの姫君は都では誰の娘でいらっしゃるか」と言った。姫君たちはお聞きになって、「左様でございます。あれこそは堀河の中納言の姫君でいらっしゃいます」といって、急いで側に走り寄って、「どうしました、姫君、いたわしいことだ。自分たちは、客僧たちが鬼をことごとく打ち負かして、都へ連れ帰りますが、あなた一人を残しておき帰るべきか。悲しいかな、こうも恐ろしい地獄にも、そなたに気持ちがひかれて、後に心に残りましょう」と髪をかき撫でて「何事であっても、お心にお思いになさることがあれば、我々に語ってください。都へ上ったならば、父母によいように届けて参りましょう。姫君どうです?」と言ったので、この次第をお聞きになり、「うらやましい人々かな、このように情けない露と消える身で、早くも先に消えもせず、このような姿を人々にお見せした恥ずかしさよ。都に上ってそれから父母にこの事を知らせてくだされば、我が身のことを却って嘆くであろう悲しさよ。形見を残すのは、物思いの種となるが、姫の形見とおっしゃって、私の黒髪を切り給え。また、この小袖は自分が最期の時まで着ていた小袖とおっしゃって、その黒髪を押し包み、母上様へ参らせて後世の菩提と弔ってくださいと、手落ちなく届けてください。どうした、あの客僧たち、帰るその前に自分にとどめを刺してください」といって消え入るように泣きなさる。頼光はこの次第をお聞きになり、「実に尤もである。そうではあるけれど、都に上ったら、父母にこのことをよく案内しつつ、明日になれば迎えの人を下しましょう。お暇申して、さらば」といって、物憂い洞を立ち出て、谷峰を過ぎて急がせたところ、程なく大江山の麓にあるしもむらの鄕村につく。頼光がおっしゃるには「どうだ、この所の者ども、急いで伝馬を広く告げて女房たちを都へ送るべし。どうだどうだ」とおっしゃったので「謹んで聞きました」と申した時、その頃、丹波の国司を大宮の大臣殿というが、この次第をお聞きになって、なんとまあ目出度い次第だと言って、急いで酒や食べ物でもてなした。その間に、馬や乗り物で人々を都へ送った。

 都には、このことを聞くとすぐ、頼光の上洛を見物しようとして一面にざわざわと騒ぎながら控えていた。その中に姫を取られた池田の中納言夫婦がおいでになって、いつまでも会えるところまでと迎えに出したが、頼光を見つけながら、「それ、ここへ」とおっしゃったので、すぐに姫君もご覧になって「母上様」と泣きなさる。母上、この次第をご覧になって、するすると走り寄って、姫君に取りついて、これは夢か現実かと消え入る様に泣いたので、中納言もお聞きになって、一度分かれたわが姫に再び会ったのがうれしいと急いで屋敷にお帰りになった。頼光は参内し、帝がご覧になって感じ入ることは言いようもなくご褒美は限りなかった。それよりも国土安全長久に治まる御代となった。あの頼光のお手柄、先例の少ない武士だと言って天皇から下は万民に至るまで、心に感じない者はいなかったのである。

 ……読み終わって思ったのは、可哀想なのは堀河の中納言の姫君である。片腕を落とされ、股の肉をそがれてしまっている。先の場面で頼光たちが食べた人肉はもしかしたら堀河の中納言の姫君のものではないだろうか。本記事で参照した小学館「御伽草子集」に収録された「酒呑童子」では堀河の中納言の姫君の生死は曖昧になっているが、別のバージョンでは死んでしまうとのこと。

 御伽草子では藤原保昌が頼光の四天王プラスアルファ的な扱いである。実際には頼光と保昌のツートップだが、いずれにせよ保昌の扱いは良くない。

「戻り橋」では決着のつかなかった渡辺綱と茨城童子であるが、「酒呑童子」では組打ち、綱が形勢不利になったところを頼光によって首を飛ばされている。
 神便鬼毒酒は神には助けとなり、鬼には毒になる両義性のある酒だけれども、別の版ではただの毒酒としているものもあるとのこと。

 本記事では小学館「御伽草子集」に収録された「酒呑童子」を参照した。佐竹昭広「酒呑童子異聞」では渋川版と呼んでいるけれども、評価が低い。何でも、肝心な箇所を端折っているらしいのだ。

 高橋昌明「酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化」では酒呑童子の伝説を中国の小説「補江総白猿伝(略称白猿伝)や「陳巡検梅海嶺失妻記」の影響が見られるとしている。

◆伊吹童子

 「室町物語集 上 新日本古典文学大系54」に収録された「伊吹童子」をつたないながらも訳してみた。ここでは酒呑童子の父として弥三郎という人物が登場するのが特筆される。
 昔、近江の国に伊吹の弥三郎という由々しい(忌まわしい)人がいた。その父は弥太郎殿といって古くより代々この伊吹山の主であった。また、同じ国に大野木殿といって名高い人がいた。その人には最愛の姫君がいた。見目かたちが美しかったので、そこでこの姫君を迎えて弥三郎の妻と定めて比翼連理のごとき仲睦まじい語らいをなした。

 この弥三郎と申す人は見目かたちは清らかで力量や人品はいかついが、幼い時から酒を好んで多量に飲んでいた。歳をとるにつれて次第に多量に飲んでは、常に酒に酔い浸って心は狂乱して、むやみなことばかり言い散らして、また、恐ろしいことをする。ああ、自分の腹に飽きる程酒を飲みたいなあと幾たびも願い事をされるが、近い辺りは北陸道へ上り下りする道路なので、商人の持って通う酒をどうしても奪い取って飲んでいた。

 また、日ごろの肴には、猪や鹿、猿、兎、狸などの類をそのままに引き裂き引き裂いては食べていたので、毎日三つ四つの獣が殺されていたので、後に山林を狩り求めても鳥も獣もいなくなった。こんな有様なので民の家々で養って飼う馬、牛を奪い取っては食べていた。恐ろしい有様である。

 昔、出雲の国の簸川上(ひのかわかみ)という所に八岐大蛇という大蛇がいたが、この大蛇は毎日生贄として生きた人を喰っていた。また、酒を飲む事もおびただしい。何度も繰り返して醸した八塩折(やしおり)の酒を八つの酒槽(さかぶね:木製の容器)で飲んだところ、飲み酔って素戔嗚尊に殺された。その大蛇が変じてまた神となる。今の伊吹大明神がこれである。なので、この弥三郎は伊吹大明神の御山を司る(祭祀を行う)人なので、酒を好み、生き物を好むのかと多くの人が怖れをなして旅人も道を行き通わず、村里も荒れ果てた。

 そうしている間に大野木殿はこの次第をお聞きになり、大いに驚き、きっと人間ではないだろう、鬼の類であろう、彼がもし年を経たら神通力の出て来て人間を滅ぼし世の災いをなすだろう、どのようにしても弥三郎を殺そうとお思いになって、弥三郎を呼んだところ、世の日常的な有様でないことを恥じて参らなかった。ならばと大野木殿は饗応のための色々な酒や食事をこしらえて、伊吹殿へ立ち言った。弥三郎はすぐさま出会い対面して色々なめずらしいものを用意して様々にもてなした。

 そのとき、大野木殿が持参した酒を出した。弥三郎は大いに喜んで、日ごろ所望するものなので、差し受けて多量に飲んだところ、大野木殿の用意された酒は馬七頭に負わせた大量のものだったのを悉く飲みつくしたと聞こえた。

 そうも大上戸だったが、ともかくおびただしい事なので正気を失うほど飲んで酔い、足許か枕許かの判断もつかず、そのまま座敷に倒れ臥した。運のつきはひどく痛わしいことで、大野木殿は謀りおおせたと勇み喜びつつ、すぐさま弥三郎の臥した枕に立ち寄り、脇の下に刀を突きたてて、あちらへ通れと突き刺して、自分の館に帰った。

 姫君は親子の仲だけれども、このような事はゆめゆめ知らなかったので、弥三郎殿はいつも酒に酔って臥していると思って、衣を被せておいた。

 三日が過ぎたが、酒の酔いが醒めつつ起き上がって脇の下に刀の突きたててあったのを探って大いに驚き、「さては大野木にたばかられたか、悔しい」とって踊り上がっては躍り上がったが、急所を突かれたために心も消えぎえとなって、遂に亡くなってしまった。弥三郎殿が死んだ次第が聞こえたので、田舎の人々は安堵して在々所々も繁昌した。

 そういうことで姫君は弥三郎殿と分かれて嘆くことは限りない。これはひとえに大野木殿の仕業だろう、情けのない事だと恨んだけれども、やるかたがなく過ごす間に、そのうち懐妊の月日が満ちて、安らかにお産の紐を解いた(出産した)。ことに美しく気高い男子だったので、父の忘れ形見に見るべしと言って、喜んで大事に世話をして育てている間に、いつしか弥三郎によく似ていると人々が言い合った。

 大野木殿はこの次第をお聞きになって、「父の形見といって世話をするのは道理ではあるが、弥三郎によく似ているならばきっと悪行をなすだろう。大人になる前にどのようにでも殺してしまえ」と申して命じたたので、姫君はこの次第をお聞きになって、「大野木殿は自分の父ではあるけれども、思いやりがなくてむごい人でいらっしゃる。弥三郎殿を謀ったことさえ情けなく恨めしく、忘れる暇もなかったところに、昨日今日生まれ出て偶々親子で喜んで、日ごろの悲しさをも慰めようと思えば、重ねて憂き目を見せようとしてこのようにおっしゃるのか」と耐え難いこととして恨み嘆いたところ、親子夫婦の間の愛情は誰でもそうであろう」と哀れにお思いになりつつ、その後はまた命じる事もなかった。

 かくてこの稚児は月日が重なるままにいつしか成人した。父によく似て酒をよく飲んだので、皆、酒呑童子と申した。

 常に酒に酔って心を乱し、魂は猛々しく罪もない人にむごく当たり、野山を走り歩いて馬や牛をうち叩くなど、幼い身にかなわぬ悪行ばかり事としたので、辺りの者はこれを見て、「思った通り弥三郎殿の分身よ。今度こそ世の人間は絶えてしまうだろう」といった。

 大野木殿はこの次第をお聞きになり、姫君の方へ使いを立てて「なぜ申したことを用いない。すぐさま世の災いを引き出すだろう」と大いに責め諫めたので、「父のおっしゃることも無視できない。その上、辺りの者たちも怖れ悲しむので、わが手元に抱えておくことはよくないであろう」といって日吉(ひえ)の山の北の谷に捨てられた。その時童子は七歳であった。

 このように親しむべき人々にも憎まれ、付き従える民百姓にも疎まれて、どことも知れぬ深い谷に住んだので、虎や狼、狐に害されて露の命たちどころに消えるだろうと思ったところ、一向に衰える気色もなく悲しむ有様もない。日にちを経て月を渡ってたくましくなってゆくほどに日ごろの形とは変わって恐ろしく凄まじい体(てい)である。普段は木の実などを採って食するが、後には鳥類、獣を食すると聞こえた。

 その後、小比叡(をびえ)の峰に移ってしばらく住んだ。ここには二宮権現(比叡山の地主神)が天下っていて、悪鬼邪神をこらしめるので、またその峰をも逃げ出た。ことに二宮権現と申される神はこの日本国の地主神でいらっしゃる。昔、天照大神が天の岩戸を押し開き、天の瓊矛(とぼこ)をもって青海原をかき探ったとき、鉾に当たった物があるのを「何か」とお問いになったところ、「我はこれ日本の地主なり」と答えた国常立の尊でいらっしゃる。本地を言えば、東方浄瑠璃世界の主、薬師如来である。第九滅劫人寿(にんじゅ)二万歳の始めからここの主である」と釈尊に語らせた。

 比叡(ひえ)の山の東に続いて峨々(がが)として険しい峰がある。この所、よい住処であるといって岩屋などを作って住んでいた。神妙不可思議な力などをも得たと見えて、どこから召してきたのか、様々に恐ろしい眷属などを使っていた。さて、ここは金石(こんせき:八王子社の傍らの金大巌)といって清くけがれのない霊地なので天照大神の御子たちが天下って垂迹した。「魍魎(もうりょう)、鬼神は汚らわしい、出ていけ」と責めるために、その所を逃げ去った。八王子という所がこれである。

 酒呑童子はそれから大比叡(おほびえ)に移った。ここは昔、拘留孫仏(くるそんぶつ:過去七仏の第四仏)の時代、広々とした大海の上に、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじゃうしつうぶっしゃう)、如来常住無有変易(にょらいじゃうじゅうむうへんやく)と唱える波の声があり、釈尊、この波のとどまる行く末を見たところ一葉(いちえふ)の葦の葉に凝り固まって島となる。波止土農(はしどの)という所がこれである。釈尊が「この所に仏法を広め結界の地(修行の妨げとなるものの出入りを禁じた地)となすべし」とおっしゃったところ、薬師如来は「我はこの山の王となって、後(ご)五百歳(仏滅後の五期のうち、第五の五百年)の仏法を守るべし」と契約して、東西へ分かれた。薬師如来は早く二宮権現と顕れて小比叡(をびゑ)の岳に天下ったところ、釈尊はまた大宮権現と顕れて、大和の国磯城郡(しきのこほり)に天下ったが、それからすぐに老翁の姿となって、この大比叡(びえ)に移った。

 酒呑童子は怖れをなし、すぐに大比叡を逃げ出て西坂(雲母坂)に移った。ここは要害の地である。深い谷を切り回して大木を並べ、大盤石をえぐり取って数百丈の岩屋を作り、居所を占めて数多の眷属を従え、四方を駈け歩いて民の財宝を奪い取り、山の様に積み上げ、野山を飛び回って鳥、獣を獲り蓄えて朝夕の食い物とした。恐ろしいとも言うは際限ない。

 ここにまた、近江の国滋賀郡(しがのこほり)の住人に三津(みつ)の百枝(ももえ:最澄の父)という人に男子が一人いた。利発で賢い童だったが、十二歳で出家してその名を最澄法師と号した。数年来学問修行したが、なおも奥深い微妙(みめう)の玉を磨こうとお思いになり、遂に唐に入唐して顕教と密教の両宗、奥深いところを極め、奥義を伝えて帰朝した。伝教大師と申すのはこれである。

 その頃、柏原(かしはばら)の帝、奈良の都を山城の国愛宕郡(おたぎのこほり)に移した。今の京、平安城、四方の神に相応じた吉兆の地がこれである。ときに大師、奏上しておっしゃることには、「帝都の鬼門(東北の方角)にあたって仏法の力によって国家の鎮定と守護を祈る道場を建立して国土を守り皇位を祈りましょう」と。帝は感嘆なさって、すぐさま大師と心を一つにして「伽藍を起こすべし」となった。大師はすぐに日吉(ひえ)の山によじ登り、どこが清浄の霊地かと見巡ったところ、山中に法華経を読む声が聞こえたので、そこに尋ねて行き見たところ、大地の底にこの経の声はあった。この地だろう、伽藍建立の地であるべしとお思いになって定めた。しかるに酒呑童子はこの次第を見て「ここに伽藍が出て結界を張った地となれば、我らはこの山に住む事は叶うまい。なのでどのようにしてでも妨害しよう」といって、元から通力を得ていたので、一夜の程に数十囲(ゐ)の杉の木となって、あの所に生え蔓延れた。数多の木こりどもがこれを切り倒そうとしたけれども、遂にその功はならなかった。ときに大師、十方を礼しておっしゃるには「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の仏たちよ、自分が立つ木こりに神仏の加護あれ」と詠じたので、この杉の木は朝日に霜の解ける様に消えぎえとなって失せてしまった。

 そうしてこそその地に伽藍を建てて根本中堂(一乗止観院)と号し、医王善逝(いわうぜんぜ:薬師如来の別号)の尊像を据えて崇め、天台の教法を移した。比叡山延暦寺は戒定恵(かいぢゃうゑ:身口所作を慎み、心を澄まし真理を悟る三種の修行)の三学を表して三塔(止観院、宝幢院、楞巌院)を建て、人はまた一念の中に三千の法界を観ずる儀を表して三千もの僧を置いた。その後、伝教大師、小比叡の岳に閑居して「波母(はも)山や小比叡の杉のひとり居(ゐ)は嵐も寒しとふ人もなし」と詠じたところ、虚空に日月星の三つの光が現れ、或いは釈迦、薬師、弥陀(みだ)の尊像と変じ、或いは一体となり、種々の奇瑞(めでたさの前兆である不思議な現象)を示したので、大師はこの有様をつくづく観て、もとより非一非三(天台所説の三諦[真理]がそれぞれの意味実体を持ちながら同時に円融相即して一体でもあるとされること)、中道実相(万有の実相は有でもなく空でもない、その中道であるということ)の妙躰(すぐれた姿)であるといって、この山の神を山王(日吉山王社の神)と崇めた。帝は大師と心を比べた故に比叡山と申す。寺をは延暦寺と号し、天台大乗(天台宗がすべての衆生を救済しようとする大乗の教えであること)の法流を末世に栄えさせ、天皇の位が長く久しいことをとこしえに祈った。まことに目出度い事である。

 ところで、酒呑童子は三世(過去・現在・未来)の諸仏に嫌われ、日吉山王の七社の権現に憎まれたので、遂にこの岩屋にも住む事が叶わず、それから丹波の国に逃げ行き、大江山という所に一つの岩窟を求め得た。その様子はことに厳めしく物凄い。山岳が峨々(がが)とそびえ立つので鳥も飛ぶことができない。谷深く巡り巡りて通うべき道もない難所であるので、巌をうがち石を畳んで石壁を成し石門を建てて、眷属の鬼どもを日夜警護に据え置いた。その奥に広々と岩屋を作って酒呑童子は相住んだ。諸方に飛び巡ってあらゆる珍しい宝を請い取り、美人貴女をたぶらかし来て夫人官女のように召し従え、栄華を誇り、快楽を極める装いは前代未聞の不思議である。世にこれを鬼が城ということである。

 ……酒呑童子伝説は大きく分けて大江山系統と滋賀の伊吹山系統に分かれるとのことであるが、伊吹童子は酒呑童子が伊吹山で生まれて大江山に移り住むまでの橋渡し的な作品となっている。また、伊吹大明神を八岐大蛇の転生とし、その大明神を斎祭る者を酒呑童子の父・弥三郎としているところが目につく。弥三郎に関しては、
 よく知られているように、同話は歴とした史実を背景にしている。すなわち、鎌倉初め、醍醐寺領近江国坂田郡柏原荘の地頭柏原弥三郎が、かずかずの非法を働いたため、近江守護佐々木定綱に宣旨(せんじ)を下し、討伐を命じた。弥三郎はいずこともなく姿をくらまし、半年後の建仁元年(一二〇一)五月になって、ようやく定綱の四男信綱に誅罰された(『明月記』正治二年一一月二六日条、『吾妻鏡』正治二年一一月一日、一二月二七日、建仁元年五月一七日条)。
高橋昌明「酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化」196P
とのことである。

◆謡曲「大江山」

 「謡曲大観」第1巻に収録された「大江山」を読んだが、謡曲に登場する酒呑童子はあまり悪く思えないのである。川に血が流れている描写はあるし、「鬼神に横道なきものを」というセリフに対し「あら空言や」と嘘を言うなと返してはあるのだが。

◆謡曲「大江山」現代語訳

シテ:酒呑童子
ワキ:源頼光
ツレ:同行山伏
狂言:童子侍女
處は:丹波

源頼光の一行山伏となつて酒呑童子のすみかにあざむき入り、遂に之を退治する物語を作れり。

大江山

山伏一声「秋風の音に類(たぐ)えて(そわせて)西川や。雲も行くなり大江山」
ワキサシ「そも是は源の頼光(よりみつ)とは私の事である。扨(さ)ても(ところで)この度丹波の国、大江山の鬼神の事、占方(占いをする人)の言葉に任せつつ、頼光保昌(やすまさ)に仰せ付けられた」
ツレ山伏「頼光保昌が申すに、たとえ大勢であったとしても、人倫(人間)でない変化の者、どこを境にして攻めるべきか」
ワキ「思う子細がありますと言って、山伏の姿に出で立って」
ツレ「兜にかわる兜巾(ときん:修験者の被る小さい頭巾)を着て」
ワキ「鎧でない篠懸(すゞかけ:修験者が着る直垂と同じ形の麻の衣)や」
ツレ「兵具(ひやうぐ:武器)に対する笈(おひ:修験者などが背に負う箱)を負い」
ワキ「その主々は頼光保昌」
ツレ「貞光季武綱公時」
ヒトリ「また名を得た一人武者」
ツレ「かれこれ(おおよそ)以上五十余人」
ワキ「また夜の内に有明の」
地「月の都を立ち出でて、月の都を立ち出でて、行く末を問えば西川や、波風たてて白木綿(しらゆふ:白色のゆう:楮の皮を剥ぎ、その繊維を蒸し、水にひたして裂いて糸としたもの)、御祓(みそぎ)も頼もしい。鬼神(おにかみ)であろうと大君の恵みに漏れる方はあるまい。ただ分けて行け足引(葦とかけている)の、大江の山に着いたことだ。着いたことだ」
狂言「如何に(もしもし)童子はいらっしゃるか」
シテ詞「童子と呼ぶのかどのような者か」
狂言「山伏達が入ってきましたが。一夜の宿をと仰せです」
シテ「何と山伏達が一夜の宿を求めておるか。恨めしい、桓武天皇に御請(返答)申し、自分が比叡山を出てから出家には手を差すまいと固く誓約した。中門の脇の廊にとめよ」
シテ詞「もしもし客僧達。どこからどこへお通りになれば、この隠れ家へお出でになったのか」
ワキ詞「左様でございます。自分は筑紫彦山(ひこさん)の客僧ですが、麓の山陰道から道に踏み迷い、前後を忘れ佇んだ所で、今宵のお宿何より祝着(満足に思うこと)申します。扨(さ)ても(ところで)酒呑童子と申すのは、どうした謂れですか」
シテ「我が名を酒呑童子と云うのは、明け暮れ酒を好むによって、眷族どもに酒呑童子と呼ばれています。なのでこれを見てあれを聞くにつけても、酒ほど面白いものはありません。客僧達もお聞きなされ」
ワキ「仰せなので、一つ下され。またこの山にいつのころからお住まいとしているのか」
シテ「我は比叡の山を先祖伝来の住処として、年月を送っていたところ、大師坊という似非人(えせびと:つまらない者)が、嶺に根本中堂を建て、麓に七社の霊神を祝った無念さに、一夜にして三十余丈の楠木となって奇瑞(めでたいことの前兆として現れた不思議な現象)を見せたところに、大師坊は一首の歌に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)の仏たち、自分が立つ杣(そま)に冥加(知らず知らずの内に神仏の加護を得ること)をあらせ給えと言ったので、仏たちも大師坊に語らわされ、出でよ出でよと責めたので、力なくして先祖伝来の比叡のお山を出たのです」
ワキ「扨(さ)ても(ところで)叡山を出て、そのままここに座したのか」
シテ「いや、どことも定めなき、霞に紛れ雲に乗り」
ワキ「身は久方の天ざかる(空遠く離れている)鄙の長い道のりや、遠田舎」
シテ「そなたの故郷と承った筑紫をも見ています」
ワキ「扨(さ)ては(そうして)残るまい天の下、天ざかる日の経緯(たてぬき:縦横)に」
シテ「飛行の道に行脚して」
ワキ「あるいは彦山(ひこさん)」
シテ「伯耆の大山」
ワキ「白山(しらやま)立山(たてやま)富士の御嶽(みだけ)」
シテ「上の空にある月に行き」
ワキ「雲の通路(かよひじ:つうろ)を帰って来て」
シテ「なおも輪廻(流転)に心ひく」
ワキ「都の辺りに程近い」
シテ「この大江の山に籠っていて」
ワキ「忍び忍びのお住まい」
シテ「隠れすましていた所に、今客僧たちが見え顕れ、通力を失うばかりです」
ワキ「お心安くお思いになりませ、人に顕す事はあるまい」
シテ「嬉し嬉し一筋に頼み申すぞ一樹の陰」
ワキ「一河の流れを汲んで知る、心はもとより慈悲の行(ぎやう)」
シテ「人を助けるお姿」
ワキ「私はもとより出家の形」
シテ「童子もさすが山育ち」
ワキ「さも(そのように)童形のあなたなので」
シテ「哀れみ給え」
ワキ「神でさえ」
地「一兒(ちご:稚児)二山王と建てたのは、神を避ける次第なのだ。そなたは客僧。我は童形の身なので、なぜか哀れまないだろう。構えて(用心して)余所で物語させますな」
地「陸奥(みちのく)の安達が原の塚にこそ、塚にこそ、鬼が籠れると聞いた物を。まことなりまことなり。ここは名を得た大江山、生野の道はなお遠い。天の橋立与謝の海、大山(おほやま)の天狗も我と親しい、友だとお知りになれよ。いざいざ酒を飲もうよ、飲もうよ。扨(さ)ても(ところで)肴は何だ。頃しも(折しも)秋の山草、桔梗刈萱(かるかや)我もこう、紫苑(しをん)と云うのは何であろう。鬼の醜草(しこくさ:きたない草)とは誰が付けた名か」
シテ「実にまこと」
地「実にまこと、丹後丹波の境にある、鬼が城も程近い。頼もしい、頼もしい。飲む酒は数添ひぬ(数が増えた)。面も色づくか。赤いのは酒の咎だ。鬼と思うな。恐れないで我に慣れ慣れよ。興がる(面白がる)友とお思いになれ。私もそなたのお姿、打ち見(一見)では、打ち見では、恐ろし気だけれど、馴れてつぼい(心安い)のは山伏だ。猶々巡る盃が、たび重なれば有明の天も花に酔ったか。足本(あしもと)はよろよろと、漂うかいざようか(進むように見えて進まない)、雲が折り敷いてそのまま、目に見えない鬼の間に入り、荒海の障子を押し明けて、夜の伏處(ふしど)に入ったことだ、入ったことだ」
ワキ「すでに今夜も更け、空がなお闇(くら)い鬼が城、鉄(くろがね)の戸びらを押し開き、見れば不思議かな今までは人の形と見えたが」
地「その丈二丈ばかりの、二丈ばかりの、鬼神が装い眠るのすら勢いの辺りを払う気色(顔色)かな。かねて期した事だけど、とても(何としても)命は君のため、又は神国氏社、南無や八幡山王権現。我らに力を添え給えと、頼光保昌綱公時、貞光季武一人武者、心を一つにして、まどろみ伏した鬼の上に剣を飛ばす光の陰、稲妻震動夥しい」
シテ「情けないよ客僧達。偽りあるまいと云ったのに、鬼神には横道(わうだう:邪道)ないものを」
ヒトリ詞「何鬼神に横道ないと」
シテ「中々の事」
ヒトリ「あら空言(うそ)か、などならば、王地(王の治める土地)に住んで人を取り、世の妨げとはなったぞ。自分を音にも聞いたろう、保昌が舘に一人武者。鬼神であるとも逃すまじ。まして是は勅命なので、土も木も我が大君の国なので、どこが鬼神の宿となるだろう」
地「余すな洩らすな。攻めよ攻めよ人々といって、切っ先を揃えて切って掛かる」
地「山河草木震動して、震動して、光が満ちてくる鬼の眼、ただ日月(じつげつ)の天の星、照り輝いてさながらに(そのまま)面を向くべき様子はない」
ワキ「頼光保昌はもとよりも、もとよりも」
地「鬼神(おにがみ)だとしてもさすが頼光が、手並み(腕前)でどうして洩らそうかと、走りかかってはったと打つ手にむんずと組んで、えいやえいやと組むと見えたが、頼光が下に組み伏せられて、鬼が一口で食おうとするのを頼光は下から刀を抜いて、二刀(ふたかたな)三刀(みかたな)刺し通し、刺し通し、刀を力にえいやと返し、さも(実に)勢おう(勇み立つ)鬼神を押しつけ、怒った首を打ち落とし、大江の山をまた踏み分けて、都へと帰ったことだ」

◆動画

 YouTubeで後野神楽社中の大江山を観る。最後、首を飛ばされた酒呑童子が、天蓋の要領で首だけ宙に回す演出があった。これは現代的な演出だろうか。中川戸神楽団の「板蓋宮」が初出らしい。同じような演出で大きな蜘蛛も登場していたが、これは「土蜘蛛」への伏線だろうか。本当に山伏か酒呑童子に疑われた頼光が呪文を唱え、鬼たちが苦しみはじめ、それで確かに山伏だという展開となっている。これは元の御伽草子より良いアイデアかもしれない。

◆余談

 「伊吹童子」は茨城童子と勘違いしてコピーしたのだけれど、酒呑童子の生い立ちを語るストーリーだったので結果的には良かった。

 伊吹山には実際に登ったことがある。山腹に駐車場があって車で上れて、そこからは歩くのだけど、途中に花畑があって綺麗だった(立ち入り禁止)。

◆参考文献

・「御伽草子集」(大島建彦/校注・訳, 小学館, 1974)PP.444-474
・「室町物語集 上 新日本古典文学大系54」(市古貞次, 秋谷治, 沢井耐三, 田嶋一夫, 徳田和夫/校注, 岩波書店, 1989)pp.185-213
・「謡曲大観 第1巻」(佐成謙太郎, 明治書院, 1963)pp.553-571
・「神楽と神がかり」(牛尾三千夫, 名著出版, 1985)
・「かぐら台本集」(佐々木順三, 佐々木敬文, 2016)
・「考訂 芸北神楽台本Ⅱ 旧舞の里山県郡西部編」(佐々木浩, 加計印刷, 2011)pp.171-188
・「酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化」(高橋昌明, 中央公論新社, 2005)
・「酒呑童子異聞」(佐竹昭広, 岩波書店, 1992)
・「御伽草子の精神史」(島内景二, ぺりかん社, 1988)pp.103-163
・「お伽草子」(福永武彦, 永井龍男, 円地文子, 谷崎潤一郎/訳, 筑摩書房, 1991)※「酒呑童子」pp.176-202
・「謡曲叢書 第一巻」(芳賀矢一、佐佐木信綱/編, 博文館, 1914)※「大江山」pp.331-336
・「説話文学研究叢書 第一巻 国民伝説類聚 前輯」(黒田彰, 湯谷祐三/編, クレス出版, 2004)pp.225-245, 253-255

記事を転載 →「広小路

|

2018年12月 1日 (土)

鎮守の森と神社

連休中は滋賀県にいた。湖東平野は広く、鎮守の森が点在している。その多くに神社の鳥居が見えるのである。実際に綿向神社というところに連れて行ってもらった。記憶の限りでは平野部の少ない島根県石見地方には鎮守の森らしきところはなかったと記憶している。鎮守の森は民俗学的にも、また環境保全的にも重要な役割を果たしているので、実際に行けたことはよい経験になった。

滋賀県蒲生郡日野町の馬見岡綿向神社

|

2017年12月23日 (土)

片脚の王子ときな粉の化粧の伝説――切目王子

◆鞨鼓・切目

 石見神楽に「鞨鼓(かっこ)」「切目」という一連の演目がある。紀伊の国、熊野の権現である切目王子に仕える禰宜(ねぎ)が、高天原から降ってきた目出度い太鼓をよろしき処に据え置けと命じられて、あれこれと苦心して据え置く。その太鼓を切目王子が叩く……という内容である

 切目王子は熊野九十九王子の一つで、また、藤白王子、稲葉根王子、滝尻王子、発心門王子と共に五体王子とも呼ばれて崇敬されている。熊野信仰が修験道の山伏によって伝播したものと思われるが、島根県では神楽の演目として切目王子が登場する舞いが残されているのが特徴である。

 その切目王子であるが絵画に描かれた王子の姿は片脚なのである。神楽に登場する切目王子はもちろん五体満足だが、どうして絵画では片脚の姿として描かれるのか、それには下記のような伝説がある。

◆きな粉の化粧伝説

 文安年間(15世紀、室町時代)のものとされる「宝蔵絵詞」と呼ばれる絵巻物の写本が残されている。その「宝蔵絵詞」に切目王子にまつわるきな粉の化粧伝説が語られている。固くこなれない訳だが、概略、以下の通りである。

 便所まで付いてくる切目王子を避けるため、腐った梛木とイワシを浴びた僧侶を臭いといって軽く殺してしまった切目王子は罰として右足を切られて熊野の山中に放逐される。王子は仕方がないので、熊野を参詣する人々の福幸いを奪うようになった。そこで困った権現は伏見稲荷の阿古町(あこまち)という女狐に頼みこむ。阿古町は切目王子に頼んで、王子が嫌うきな粉の化粧を目印として、化粧をしたものは阿古町の参詣者だから襲わないと約束させる……といった内容である。

 僧侶が(切目)王子が不浄の所(便所)まで付いてくるので、もてあましてしまい、「少しも離れないので如何にして放てばよいか。あさましい振る舞いをご覧になるか。世に恥ずかしく悲しいことだ」と相談したところ、「腐った梛木(なぎ)の臭いのにイワシを入れて頭から浴びよ」と言われたのを、その通りにしたところ、王子が現れて言った。「権現が離れて付けとの仰せあればこそ、このような憂き目を見た。どうして心憂きことをするか」と鼻を弾いたところ、僧侶は死んでしまった。

 さて童子は山に帰って言った。「付いてじっと側で待機していた僧は死んだので、帰ってきた」と申したところ、皆、「由々しい業をしたものかな」と言って、童子を捕らえて右の足を切って、切部の山に放った。その後、童子は権現が勘当しそうな様子もなく、さりとて如何せんと思って、熊野へ参って利益を得て下向しようとする者の福と幸いを取って世にあろうと思って、下向する者の福と幸いを取った。

 その時、権現がもてあまして(伏見)稲荷の大明神を召して仰せられた。「我が許に参る者の福と幸いを切部の王子が取るのはどうすべき」と。「まことに力の及ばぬ事だ。足を切って山に放てば、すべき様もなく、お仕えして側で待機しないのが理だ。但し、自分の許に阿古町という者がいる。それと王子は術のない困り果てた仲だ。阿古町に王子と語らってその心を見ましょう」と申した。権現は「返す返すも神妙なり。早く語らわせるべきだ」と仰せだった。

 稲荷の大明神は阿古町を召して、切部の皇子と語らうべき由を仰せつけられた。阿古町は承った。「退出して向い、語らって心を見ましょう」と申す。王子の許へ行って言った。「我が身は一重に王子を頼み参ったところ、我が許へ来る者どもの熊野に参って利益を被って下向する者の福と幸いを取らせ給えば、泣き悲しむなり。如何するべきか」と申したところ、王子は「これこそ知り得なかった。如何にして阿古町の許へ参る者と知ることができようか。阿古町の様に化粧した者を参る者と知るべし」と言えば、阿古町は言った。「化粧する者は世に多く、また、僧侶や男は如何にして化粧させるべきか」。王子は言った。「我は由々しく豆の粉を臭く思う。なので豆の粉を化粧にした者を、それへ参る者と知りて、その福と幸いは取るまい」と。阿古町は「神妙に」と言って喜んで帰って大明神に報告した。

 大明神はこの由を権現に申した。その後、この定めにご託宣あって後、豆の化粧をするのだ。昔はこの事を知る者はいなかった。この因縁を広めた事は、板東より参った先達(修験者の先導者)、豆の粉を作る因縁が覚束なくて、権現に七日間祈ったところ、この定めに示現あった。それから語り伝えるのである。その先は知った人の無かった。但し、本体と付くべき所は切部の皇子葛城山の繁盛する様であると示現させ給うとの由を語り伝える。

 ……阿古町は伏見稲荷の眷属で命婦社に祀られた女狐であるという。室町時代の日記に熊野参詣した際、きな粉の化粧を実際にしたこと、「こうこう」と狐の鳴き声の真似をしたことなどが記されているとのこと。
 ここで王子とは仏法を守護する童子のことで、切目王子は切目金剛王子とも呼ばれる。人間を遥かに上回る力を持ちながら無邪気で己の力に無自覚である王子の性格がよく現わされていると言えるだろう。

◆諸山縁起

 鎌倉時代初期以前の成立とされる「諸山縁起」では熊野の地主神として麁乱神(そらんしん)が挙げられている。麁乱神は荒ぶる神であるが、きな粉で目つぶしされたことできな粉を嫌うとされており、切目の地名も挙げられている。

 私に勘(かんが)へて云はく、金峯山(きんぷせん)は、持統天皇の代(みよ)白鳳(はくほう)年中に、般若(はんにゃ)の中より出生し給ふなり。かの持統天皇元年丁亥(ひのとい)より、長治二年乙酉(きのととり)に至るまで、年代を計れば四百四十二年なり。また建久三年は五百廿九年に成る。大峯(おおみね)より役行者(えんのぎょうじゃ)出でて、愛徳山(あいとくさん)に参詣の間、発心門(はつしんもん)に一人の老者あり。値(あ)ふ。「何人(なにびと)ぞ」と問ふに、答えて云はく、「吾は百済(くだら)国の美耶山に住む香蔵仙人なり」と。云はく、「公(きみ)、数万劫(こう)、法を求めること久しく御坐(ましま)す。今この国の行人(ぎょうにん)叶(かな)はざるか。然りといへどもこの峯ここに種々の主(ぬし)あり。知らず御(ましま)すや。如何(いかん)。熊野の御山を下向する人のその験気(けんき)の利生(りしょう)を奪ひ取る者三所あり。未だ知らざるや。何(いかん)」と。行者「知らず」と答ふ。「我に教え給へ」と。云はく、「熊野の本主は麁乱神(そらんしん)なり。人の生気を取り、善道を妨ぐる者なり。常に忿怒(ふんぬ)の心を発(おこ)して非常を致すなり。時々山内に走り散りて、人を動(おびや)かし、必ず下向する人のその利生を妨ぐ。その持(じ)する事は、壇香(だんこう)、大豆香(だいずこう)の粉(こ)なり。面(おもて)の左右に少(すこ)し付くれば、必ず件(くだん)の神遠く去る。その故に、南岳大師(なんがくだいし)の御弟子一深仙人の云はく、「人、もろもろの麁乱神を招き眼(まなこ)を奪ふことあらば、壇香・豆香を入るれば皆悉(ことごと)く去り了んぬ」と。その故に、大豆を粉にして作(な)して面に塗れば、必ず障碍(しょうげ)する者遠く去るなり。その処は、一に発心門(はつしんもん)、二に滝本(たきのもと)、三に切目(きりめ)なり。山中に何の笠をば尤もにせん。那木(なぎ)の葉は何(いかん)ぞ。荒れ乱るる山神、近く付かざる料なり。金剛童子の三昧耶形(さんまやぎょう)なり。而るに不詳なるは松の木なり。この事を能く知り、末代の人に伝え御(ましま)せ」と。云はく、「滝尻(たきじり)の上の御前は常行の地にして、善生土と云ふなり。諸仏と共にこの山に住する山人、歳久しく常に麁乱神の遊ぶを知らず。余の恠(かい)あらず。毎月一度の供、善生(ぜんしょう)に返るか」と云ひて、隠れ了んぬ。願行(がんぎょう)これを記すと云々。
「諸山縁起」「寺社縁起 日本思想大系20」102-103P
 もともとその土地を領有していた古い神たちは、仏教という強力な力を背景にした新しい信仰の主にその場を譲るとき激しい抵抗を試みるが、やがて威圧され服属し、かえって新しい主である仏を守護する役割を荷うことになる。麁乱神の暴悪は、熊野神という新しい信仰をもたらした役の行者に対する、地主神の抵抗を脚色したものと言える。
「室町物語研究――絵巻・絵本への文学的アプローチ」107P
 麁乱神自体は荒ぶる神であり熊野固有の神ではないが、鎌倉時代から室町時代に入ると「宝蔵絵詞」で、その性格が切目王子に集約されてくるのである。

◆五行説

 石見神楽「切目」では五体王子の信仰は天神七代、地神五代の神々と結びつけられる。そして「木火土金水」「青黄赤白黒」の属性を得て、陰陽五行説に接近していくのである。

 山本ひろ子「大荒神頌」に、切目王子の社伝に、社殿が戦乱で消失し、社伝も多くが失われたが、文禄年間(16世紀)に、日向の国からやって来た身元の知れない男が五体王子宮を再興し、神道を講釈、五体王子を地神五代と結び付けたとある。この社伝が事実に基づくものと考えると、切目王子と陰陽五行説が結びついたのは織豊政権期のことであったかもしれない。すると、石見神楽の「切目」はそれ以降の時代に生まれたものとも考えることができる。

 一方で石塚尊俊「里神楽の成立に関する研究」によると、熊野本社では地神五代と五体王子を早い段階で結びつけており、中世初期には道中の王子神にも適用され「切部・藤代・鹿の瀬・米持・こんごう童子、五代の王子と名づけつつ」とした記述があると指摘している。なので、五体王子を地神五代と結び付ける思考は切目神社の社伝よりも早い段階で生まれたものかもしれない。

◆伝説との整合性

 神楽に登場する切目王子は五体満足であるけれど、きな粉の化粧伝説とはどう整合性をとればよいのだろう。出雲神楽では切目命とあるので、実はニアリーイコールな存在なのかもしれない。石見神楽では六調子、八調子とも切目王子となっている。神楽と伝説はパラレルなのかもしれないし、後に許されて脚が治ったのかもしれない。

◆宝蔵絵詞

 以下の文章は私が、理解の範囲内で漢字や濁点、現代読みに修正したものです。

帰りて(返りてか)この由を僧に言いて、(本)をつきて、この度は現れ現して、不浄の事ともする所にも見えさせ給えば、僧し扱(あつかい)て、古き物に語らいて曰く「こおうの身に沿い給いて、少しも離れ給わぬをば、如何して、放ち奉るべき。あさましき振る舞いなどするをご覧ずるか。世に恥づかしく悲しきなり」と言えば、「易きことなり。腐(くた)し梛木(なき)のよくよく臭きにイワシという肴を入れて頭くたり浴みよ」とて、その定にして浴みたれば、王子現して宣わく、(権現の離れて付きたれと仰せ事あればこそ、かくて憂き目をも見てはあれ。如何で心憂きことはするぞ」とて鼻を弾き給いたれば、僧死ぬ。

さて、童子御山に帰り給いて申し給うよう、「付けさせおはしまして侍いし僧は死侍(さぶら)いにたれば、帰り参りてなん候」と申し給いければ、皆、「さしたり。由々しき業したる物かな」とて、童子を捕らえて、右の足を切って、切り辺の山に放たせおわしましぬ。その後、童子、権現の御勘当すべき様もなくて、さりとて如何せんと思して、熊野へ参りて利生かうふりて下向せん者の福幸いを排とりて(おしのける)、世にあらんと思し撮りて、下向する者の福幸いを取り給う。

その時、権現し扱(あつか)わせ給いて、稲荷の大明神を召して仰せられて曰く、「我許に参りていつる物の福幸いを、切部の王子の排いとるは、いかがすべき」と仰せられ、あわせければ、「まことに力及ばぬ事にこそ候え。足を切りて、山に放たせ給いて候へば、すべき様もなくて、仕り侍(さぶら)はんは、理にこそ候え。但し、己が許に阿古町と申し候物候。それと王子とはずちなき仲にて候なり。それして王子を語らいて心見候はん」と申し給う。権現、「返し返し神妙なり。疾く語らい給うべし」と仰せの事あり。

稲荷の大明神、阿古町を召して、切部の皇子語らうべき由を仰せらる。阿古町承り侍いぬ。「まかり向かいて語らい心見候はん」と申し給う。時の間に、王子の許へ行きて曰く、「我が身は一重に王子を頼み参らせてあるに、我が許へまうて来る物どもの、熊野に参りて利生かぶりて下向する物の福幸いを取らせ給えば、まうて来て泣き悲しみ候なり。如何し候べき」と申し給えば、王子、これこそ得知り候はざりけれ。如何にしてか阿古町の許へ参る物とは知り候べき。阿古町の様に化粧したらむ者を、参る物とは知り候べき」とあれば、阿古町宣わく「化粧する物は世に多く候、又、僧男は如何にか化粧はし候べき」と宣えば、王子宣わく、我は由々しく豆の粉を臭く思ゆるなり。されば豆の粉を化粧にしたらむ者を、それへ参る者とは知りて、それか福幸いをば取り候はじ」と王子宣う。阿古町、「神妙に候」とて、悦て帰り給いて大明神に申し給う。

大明神この由を権現に申し給う。その後、この定に御託宣ありて後、豆の粉の化粧はするなり。昔はこの事知りたる物なし。この因縁を広めたる事は、板東より参りたる先達、豆の粉の作る因縁を覚束なかりて、権現に七日が間祈り申しければ、この定めに示現しおわしましたりけるなり。それより語り伝えるなり、その先は知りたる人も無かりける。但し、本たいと付くべき所は、切部の皇子葛城山のむくさか(繁盛する様)なりとぞ示現せさせ給う由語り伝えたる。
石塚一雄『「切目王子」の「きな粉の化粧」伝」「那智叢書」840-842Pを参照の上、改変。

◆余談

 きな粉の化粧伝説を知ったのは、山本ひろこ「大荒神頌」の「切目の王子」を読んでのこと。子供の頃、はったい粉をまぶしたお団子は好物だったので、きな粉の香りは好きなのだけど、切目王子は苦手なようである。
 「すちなき」を最初「すぢなき」と読んだのだけど、「ずちなき」と読むと論文を読んで知って慌てて訂正した次第である。

◆参考文献

・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)pp.20-26
・嗣永芳照, 石塚一雄『「切目王子」の「きな粉の化粧」伝」「那智叢書」第25巻(熊野那智大社, 1977)pp.834-842
・「資料紹介 後崇光院宸筆宝蔵絵詞」「書陵部紀要」第21号(宮内庁書陵部, 1969)pp.77-81
・「室町物語研究――絵巻・絵本への文学的アプローチ」(沢井耐三, 三弥井書店, 2012)pp.102-128
・「大荒神頌 シリーズ〈物語の誕生〉」(山本ひろ子, 岩波書店, 1993)pp.63-112
・「諸山縁起」「寺社縁起 日本思想大系20」(桜井徳太郎, 萩原龍夫, 宮田登/校注, 岩波書店, 1975)pp.102-103
・むしゃこうじみのる「伏見宮旧蔵本『宝蔵絵詞』について」「和光大学人文学部紀要 7・8・9」(和光大学, 1972, 1973, 1974)pp.37-42
・山本陽子「切目王子小考―熊野曼荼羅から一本ダタラまで―」「明星大学研究紀要【日本文化学部造形芸術学科】」第12号(明星大学, 2004)pp.29-36
・「里神楽の成立に関する研究」(石塚尊俊, 岩田書院, 2005)pp.189-246
・「一目小僧その他」(柳田国男, 角川学芸出版, 2013)pp.11-71
・「定本柳田国男集 第四巻」(柳田国男, 筑摩書房, 1968)
・鈴木宗男「熊野参詣儀礼の記録と説話―切目王子の豆の粉化粧説話をめぐって―」「古文学の流域」(水原一, 新典社, 1996)pp.343-363
・筑土鈴寛「使霊と叙事伝説」「筑土鈴寛著作集第四巻 中世宗教芸文の研究二」(筑土鈴寛, せりか書房, 1996)pp.279-302

記事を転載 →「広小路

 

|