◆はじめに
角川書店「室町時代物語大成」に収録されていた「鈴鹿の草子」を精読した。坂上田村麻呂の一族に関する英雄譚である。
「田村の草子」と比較すると、基本的な流れは同じだが、後半、田村殿(俊宗)の代になってから違いが目立ってくる。「田村の草子」では無かった展開として、俊宗が鈴鹿の御前(立烏帽子)と剣を投げ合って戦い、結果、互いに認め合って結ばれるという流れとなっている。また「田村の草子」では一度成敗した大嶽丸だが魂が一つ天竺に残っていて復活するのだが、「鈴鹿の草子」では先ず鈴鹿の御前が大嶽の魂を抜いてしまい、一度倒しただけで終わる異なる展開となっている。一方で「鈴鹿の草子」の大嶽は高丸が千人かかっても叶わない大物としてされている。
俊宗と鈴鹿の御前との関係から、成立は「田村の草子」の方が早かったのではないかと考えられる。
◆鈴鹿の草子・あらすじ
※「鈴鹿の草子」の粗筋は父・俊人の代までは「田村の草子」とほぼ同じだが、後半、三代目の俊宗の代になって違いを見せはじめる。
俊祐という源氏の将軍がいた。心に叶う人がいなかったので長年独身であった。寂しく思っていた俊祐だが、あるとき若い女房が虫の声を聞くと貴方への想いが募っていきますと和歌を詠んだのを聞いた。それを聞いた俊祐は誰とは知らないけれども、恋しいことですと返歌する。
若く美しい女房と出会った俊祐は女房と契る。すると女房は懐妊した。喜んだ俊祐だったが、女房は出産までに三年かかると言う。巨大な産所を建てて、女房はその中に籠る。七日間は中を覗くな。八日目になったらよいと言い残す。待ちきれない俊祐は七日目に産所を覗いてしまう。すると中には大蛇がいて赤子を抱いていた。
驚いた俊祐だったが、八日目に女房が赤子を抱いて出てくる。女房は俊祐に八日目に見たならば日本の主ともなしたが、七日で見てしまった。されど天下の大将軍となるだろうと告げて消えた。子供は日龍と名づけられた。その後、俊祐は日龍が三歳の年に亡くなってしまう。
七歳になった日龍に武蔵国のみなれ川に棲む大蛇を退治せよとの宣旨が下される。日龍は父母の無いまま、幼くして勅命を被った我が身を嘆くが、乳母が日龍の父も幼くして大蛇を退治したと勇気づける。
武蔵国に赴いた日龍だが、手勢を失ってしまう。大蛇を退治できないまま数年が過ぎた。ある時日龍は神仏に祈り、川の水を干すよう願った。すると川が干上がり大蛇が姿を現した。大蛇は自分の妹が日龍の母だと告げる。日龍は大蛇を神通の鏑矢で退治する。
日龍は十六歳で将軍となり、俊人と名乗った。あるとき鳥が空を飛ぶのを見て、鳥や獣ですら夫婦であるのに自分は独り身だと思った。その頃、中納言の娘に照日の御前という美しい姫君がいることを知る。俊人は文を送って照日の御前と心を通わす。契りを結んだ二人だったが、帝がこの次第を聞き、照日の御前を召し上げてしまう。そして俊人は伊豆の国へ流罪となった。
近江の国の瀬田の橋を渡った俊人はみなせ川で退治した大蛇の魂魄に好きにせよと言い残す。それから都では大蛇の被害が出る様になった。天文博士がこれは俊人の仕業だと奏上した。
照日の御前を伊豆の国へ下し、赦された俊人は上洛する。大蛇の被害は止んだ。それから年月が重なり、俊人は照日の御前との間に二人の姫君をもうけた。
ある時内裏にいた照日の御前が魔性の物に攫われてしまった。俊人は悲嘆に暮れる。俊人の夢に翁と姥と三人の童子が現れ、愛宕山の天狗に訊けば何か分かるかもしれないと告げる。
愛宕山に向かった俊人は、老僧から自分達は知らない。詳しいことは朽木に訊けと言われる。朽木と対面した俊人は、陸奥の国の悪路王が人々を攫ったと教えられる。朽木は俊人の母の兄弟であった。朽木は成仏できないので俊人に供養してくれる様頼む。俊人は戻って供養する。また、鞍馬に参って毘沙門天に祈る。七日目、目覚めると枕許に多聞天の剣が刺さっていた。
陸奥の国へ軍勢を率いて出発した俊人だったが、田村の郷で身分の低い女を抱く。子供が生まれることを予感した俊人は、形見として鏑矢を置いていく。
悪路王の城を囲んだ俊人だったが、門番の娘に問うと、鬼たちは越前の国へ行っていると答えた。城の中に入った俊人達は攫われた人たちと再会する。照日の御前もいた。
鬼が帰ってきた。睨み合いとなったが、俊人の眼力が勝って、鬼たちを怖気づかせた。俊人が剣を投げると、鬼たちの首を次々と打ち落とした。悪路王を退治して都へ引き揚げた俊人だった。
俊人が身分の低い女に産ませた子がいた。名をふせや丸と言う。ふせや丸はなぜ自分には父がいないのかと母に問う。母の示唆で形見の鏑矢を手にしたふせや丸は都へと向かう。
蹴鞠の腕の程を見せたふせや丸は関心を示した俊人に形見の鏑矢を見せる。我が子だと悟った俊人はふせや丸をもてなす。九歳になったふせや丸は朝日と名を改める。試練が与えられた朝日だったが、何事もなかったかのように済ませてみせた(俊人に矢で射られるが、箸で矢を受け止める)。十一歳になった朝日は日龍と名乗る。再び試練が与えられたが、無事乗り越え(俊人に剣を投げつけられるが、懐に収まる)、十三歳で元服、俊宗と名乗った。
俊人は末代までの伝えとして、唐の国を従えようと考える。帝の裁許を得た俊人は十万叟の船で大海に乗り出す。自分が来た証として、俊人は火界の印を結び、唐の国に火の雨を七日間降らせた。
凡夫の力では叶わないと見た恵果和尚は仏力にすがる。不動明王が俊人の前に立ち塞がるが、俊人が優勢であった。叶わないと見た不動明王は金剛童子を日本に遣わして毘沙門天にこのままでは唐の国が破れてしまい、仏法が衰えてしまうと訴えた。が、毘沙門天は耳を貸さない。
そこで不動明王が俊人が失われたら日本を守護しようと約束する。それで毘沙門天の気が変わる。劣勢となった俊人は不動の船に乗り移って組打ちとなるが、飛んで来た剣が俊人の首を打ち落とした。
父の死を知った俊宗は博多の港へと下り、形見を以て上京、父の菩提を弔った。
十五歳となった俊宗だったが、大和の国の奈良坂山に赴いて金つぶてという法師を退治するよう宣旨が下された。三つのつぶてを投げる金つぶてだったが、ことごとく俊宗に打ち落とされてしまう。俊宗は金つぶてを降参させた。都に連れ帰った俊人だったが、帝の判断で金つぶては獄門となった。
俊宗は将軍となった。そして年月が経ったあるとき、俊宗は伊勢の国の鈴鹿山に現れた鈴鹿の御前(立烏帽子)を成敗するよう宣旨が下された。鈴鹿の御前は目には見えなかったので、何ともしようがなく、時間が過ぎた。神仏に祈った俊宗だったが、あるとき道が開けて、鈴鹿の御前の館へと迷いこんだ。鈴鹿御前の館は四季の姿を映した庭園がある極楽の如きものだった。
館のうちに若く美しい女房がいた。鈴鹿の御前と悟った俊宗は何の報いでこれ程に美しい女房を敵としなくてはならないのかと思う。それでも俊宗は剣を抜いて鈴鹿の御前に投げつける。応戦した鈴鹿の御前も剣を投げ、戦いとなったが、決着がつかなかった。鈴鹿の御前は自分には大とうれん、小とうれん、そうみょうれんの三本の剣があるので討たれることは無いと言った。
互いに認め合った二人は結ばれる。やがて鈴鹿の御前は懐妊して一人の姫君(しょうりゅう)が生まれた。
姫君が三歳になった俊宗は都が恋しくなる。それを通力で知った鈴鹿の御前は心変わりしたかと恨めし気に言う。俊宗はこれまでの事情をしたためて、文を都へ送る。神通の車に乗って参内した俊宗と鈴鹿の御前だった。
鈴鹿の御前は近江の国の蒲生山に高丸という鬼が現れて人々に害を成すことを予言する。果して、そうなり、俊宗は近江の国へ向かう。俊宗は高丸の城に火の雨を降らせて、鬼たちを攻撃する。戦い負けた高丸は駿河の国、武蔵の国、相模の国と逃げ回る。最後に海の中の嶋に逃げ込んだ。海の中では手が出しようがなく、俊宗の軍勢も多くが討たれてしまった。
軍勢を調えるため都へ上洛しようとした俊宗は途中、鈴鹿山に立ち寄る。そこで事情を悟った鈴鹿の御前と会う。鈴鹿の御前は自分の許に帰ってこない俊宗を恨めしく思うが、協力する。
二人だけで高丸を討つことになった。鈴鹿の御前と俊宗は四本の剣を投げて八十人の鬼を首を打ち落とす。残り七人となった高丸だったが、岩屋に閉じ籠ってしまう。鈴鹿の御前が空から十二の星を招いて妙なる音楽を奏でる。
それを聞きつけた高丸の末の娘がもっと聞きたいといって岩戸を開けさせてしまう。神通の鏑矢で俊宗は高丸を射る。高丸親子を退治した俊宗だった。
再び、鈴鹿の御前が予言する。陸奥の国のきり山が岳に大嶽という強力な鬼が現れると。大嶽は高丸が千人いても打ち勝つことができないほど強大であるという。
鈴鹿の御前はわざと大嶽に攫われてしまう。そして、三年の間に大嶽の魂を抜いてしまう。
大嶽を討てと宣旨を受けた俊宗は陸奥の国へ向かう。鈴鹿の御前に手引きされた俊宗は大嶽の城内を見て回る。打出の小槌など様々の宝物があった。
大嶽が唐の国の姫君を攫って帰ってきた。四本の剣を投げた俊宗と鈴鹿の御前の勢いに手下の鬼たちは逃げ出す。ただ一人になった大嶽の首を打ち落とす。大嶽の首は俊宗の兜に食らいついてきたが、鈴鹿の御前がとどめを刺してそのまま死んでしまった。
大嶽の首を持って上洛した俊宗だった。大嶽の首は宝蔵に納められることになった。
鈴鹿の御前は二十五歳となった自分の死期が近いことを俊宗に告げる。都から帰った俊宗だったが、既に鈴鹿の御前は病の床に臥していた。俊宗と最後の言葉を交わした鈴鹿の御前は亡くなってしまう。
鈴鹿の御前の死を嘆き悲しんだ俊宗だったが、自分もそのまま死んでしまった。冥途へ旅立った俊宗だったが、倶生神に鈴鹿の御前を返せと狼藉を働く。俊宗は非業の死だったので、元の世界に戻されることになったが、鈴鹿の御前は既に肉体が失われていた。そこで、御前と同じ年に生まれた女の身体を身代りとして復活させる。
が、復活した鈴鹿の御前は以前とは似ても似つかない姿だった。俊宗は腹を立てる。そこで不死の薬を使って元の姿以上に美しくした。三年の暇(現世では六年)の暇を与えられた俊宗と鈴鹿の御前だった。
もしも鈴鹿の御前がいなかったら、日本は鬼の世界となっていた。よく心得て鈴鹿へ参るべし。
◆鈴鹿の御前の葛藤
「鈴鹿の草子」では「田村の草子」に比べて、鈴鹿御前が俊宗に恨み言をいうことが多い。それだけ二人が引き離されることに葛藤を抱いている。「田村の草子」と違って、「鈴鹿の草子」では俊宗と鈴鹿の御前が先ず戦って互いを認め合うという展開となっている。
「田村の草子」では鬼の住処に四季の景色を映す庭園があったが、「鈴鹿の草子」では鈴鹿御前の館の庭となっている。四季の景色を映す庭園というモチーフは鬼や尋常ではない物のものとして描かれるようだ。
また、「鈴鹿の草子」と「田村の草子」では大嶽という鬼との戦いの経過が異なる。「田村の草子」では大とうれん、小とうれん、けんみょうれんの剣を持つのは大嶽である。大嶽丸を一度は退治するものの、天竺にけんみょうれんの剣を預けていたため、大嶽丸は復活し、再度俊宗と戦う。一方、「鈴鹿の草子」では三本の剣を持つのは鈴鹿の御前となっている。そして大嶽に攫われた鈴鹿の御前が大嶽の魂を抜いてしまうため、俊宗と大嶽の戦いは一度きりとなっている。
◆鈴鹿の草子
※これは角川書店「室町時代物語大成 第七」に収録された「鈴鹿の草子」に私が独自で漢字を当てたものです。「室町時代物語大成」には注釈も現代語訳も無く、原文がドンと載っているだけなので、間違っている箇所も多々あるかと思われますのでご注意ください。
すゝかのさうし
日本(ほん)、我が朝(わかてう)に、としゆう(俊祐か)と申、源氏(けんし)の将軍(しやうくん)一人おわします。
御心(こゝろ)に叶ふ人、ましまさねば、たゞ独り、御居(い)りあり、伏屋(ふせや)の御徒然、いと寂しくぞ、思し召しける。
九月中頃(なかころ)なるに、南面(みなみおもて)に立ち出でて、四方の景色を眺(なか)め給へば、草は絞るゝ花の色、鹿の鳴く音(ね)も、誠に我が身の上と悲しみ嘆き給ひつゝ、いづくとも知らざるに、斯くぞ聞こえける。
草むらに 鳴く虫の音を 聞くからに いとゞ思ひや 勝りゆくらん
と言ふを聞き給へば、若き女房(ねうはう)の声(こゑ)なり、あさましく胸うち騒ぎ、妖しく思ひて斯くなん、
ほのぼのと 明くる明日の 東雲(しのゝめ)に 誰(たれ)とも知らぬ 人ぞ恋しき
と眺(なか)めつゝ、見給へば、歳の頃廿ばかりと覚(おほ)えて、たゞ人とも見ずして、御物語り有りけるか、それより契りを籠め給ひける。
さる程に、我が御所へ具(く)し奉り、連理(れんち[りカ])の語らひ深く、片時も離れ給ふこともなく、契り給ふ程に
女房(ねうはう)、たゞならず、艶めき給へば、俊祐、我五十に余りまで(ママ)、子といふ物のなかりつるにとて斜(なの)めならず、喜び給ふ。
さる程に、七月の患ひ、八月の苦しみ、十月と申に御産所(さんしよ)をこしらえ給へば、
この女房(ねうはう)仰せられける様(やう)、十月と申せ共、産い(はカ)有べからず。三年と言わんとき産すべし。産の所は、岨(そわ)へ三十六町あるべしと宣へば
番匠(ばんじやう)共を集めつつ、程なく三年が間(あひた)に柱門(ちうもん)を建て、楼門(ろうもん)に組み上げ、御産所(さんしよ)出できければ
女房(ねうはう)仰せられけるは、我が産したらん所ゑは七日より内には通ふべからずとて高き所に登(のほ)り給(たも)ふ。
俊祐、片時も離るゝ事を悲しみ給へば、七日にもなりぬれば、今は何か苦しかるべきとて、楼門の上に登(のほ)り給ひて、物の隙(ひま)より見給へば、
節丈(だけ)の恐ろしき大蛇の極めて背中に諸々の草生い茂る、苔むしてあるが、美しき幼(おさあ)ひ物を引き回して眠(ねふ)り至る。
月日の如くに輝きつるは、則ち、二の眼なる。かゝる高き楼門なれば、佛神(ふつしん)三宝(ほう)も現じ給(たも)ふらんとて、やがて、降り給ひぬ。
八日にもなりぬれば、三ばかりなる幼(おさあ)ひ者を抱(いた)きて女房(ねうはう)降り給ひぬ、則ち若君(わかきみ)にてぞおはします。
その後(のち)北の方、宣ひけるは、将軍(しやうくん)この若君を八日に当たりて見たらば、日本の主(あるし)とも成して奉るべきに、八日も待たせ給はで、我が有様を御覧しつれば、天下の大将軍(しやうくん)と成し奉るべし。
人の子は親のつけたる名をこそは呼べ、若君(わかきみ)をば日龍(りう)と呼ぶべしとて、涙を流し仰せられけるは、
日龍(りう)殿の三歳の時は、父は儚(はかな)くなり給(たも)ふべし。七歳と申さんとき、王(わう)より宣旨(せんし)を被(かうふ)り給ふべし。
妾(わらは)は近江(あふみ)の国、ますたの池の大蛇(しや)なり、しかるに、宣旨の仰(おほ)せに従ひ、この年月、なれ奉るなり。
御名残(なこり)惜しくば、思ひ奉れども、今は暇申とて、かき消す様に失せ給(たも)ふ。
俊祐、たゞ呆れ果てゝおわします。
斯様に恐ろしき大蛇(しや)なれども三歳(とせ)が程、契(ちき)りも忘れがたく、御涙、堰(せ)きあへさせ給わず。
せめての、せん方なさに、生(む)まれて幾程もましまさぬ若君(わかきみ)に向かひて、汝が母は何方(いつかた)へ行(ゆ)き給ふぞと問ひ給えば、
天に向かひて、あ、とばかり、さして音もし給わず、俊祐は哀れに思し召しける。
月日に関守(せきもり)据へざれば、三年と申にわ、日龍(りやう:ママ)は十二三の気色して見ゑ給ふ。
俊祐、人知れず嬉しく見給ひながら、遂に儚くなりたまふ。日龍(りう)殿(との)の悲しみ、限(かき)りなし。
さる程に、七歳になりぬれば、御上より宣旨(せんし)を被(かうふ)り給(たも)う様(やう)、
武蔵の国、みなれ川という川に、みつくしのたけという大蛇(しや)あり、年毎(としこと)に人を失ふ。国の患(わつら)ひ、これなり。急ぎ討ちて参らせよといふ宣旨を被(かうふ)り給へば、
日龍(りう)は涙を流して、我、そも、如何なる報いにて、生(む)まれて、やがて母失せぬ。三にて父に別れ、七歳にて、かゝる宣旨(せんち)を被(かうふ)り候ぞと宣えば、
乳母(めのと)申けるは、若君(わかきみ)の父にて渡らせ給ひし人は越前(ゑちせん)の国、なとりかわ(名取川か)と言ふところに長さ十丈(ちやう)の大蛇(しや)を殺し給ひしかば、世の中の人々、これを聞き、舌を振りけるとこそ承り候。
若君(わかきみ)は既に七歳にならせ給へば、斯様(かやう)の宣旨(せんし)を被(かうふ)り給ふ事こそ目出度(めてた)けれとて、君の宝とて、弓に鏑矢、取り具して奉る。
ときに、日龍(りう)は少しも騒ぎ給はずして、既(すて)に軍兵(くんひやう)を揃へ、武蔵の国へ赴き給へば、日数(かす)も経(ふ)りぬれば、武蔵のみなれ川にも着き給ふ。
御覧ずれば、道の程十丈(ちやう)ばかり有、池の岩高くして、落つる滝の音、いと凄まじくして、しばし、これを見給へば、色々の綾錦、数(かす)多(おほ)し。
これを見給ひ、日龍は宣ひける様(やう)、あれ見給へ、魔王(まわう)の物、流(なか)れてみゑ候ぞと、仰(おほ)せられければ、無窮(むくう)の宝、なれける(ママ)、よく(翼か)に散らしたるものは、これを取つて近く攻寄る。
我が国はこれ、みもすそ川の御流(なか)れ、忝(かたしけな)くも、十全(せん)の御位の宣旨(せんし)を知らさるか、
こつてんわう(天王:天皇か)の二代のそつし(卒士か)、とししけ(俊重か)の将軍(しやうくん)に、孫(まこ)、日龍(りう)と申す少年(しやうねん)、七歳也。宣旨(せんし)に任せて来たりたり。大蛇(しや)、出でよ出でよ、もの申べしと宣へば、
軍兵(くんひやう)ども、皆々、池の中へぞ入(い)りにける。何かわ少し溜まるべき、皆々、底の水屑(みくつ)となりにけり。
さて、年は経(ふ)れども、近づく人ぞなかりける。大蛇、滅ほすこと難し。
そのとき日龍(りう)は申されけるは、神は九全(せん)の御位、王(わう)は十全(せん)の御位なれば、この秋津国に跡を垂れ給(たも)う神はいかでか、十全をば背き給(たも)ふべし。
山にわ、さんし(暫時か)王法(わう:ママ:ほう)おわしまさん。この界の水上(みなかみ)利きして、水(みつ)干しく候と祈念し給へば、誠に神も恵(めく)みを垂れ給へば、界の水(みつ)、干にけり。
さる程に大蛇、二つ出で来て申様(やう)、汝が為には我は伯父ぞかし。汝が母にて有りしは、我が為には妹なり。近江(あふみ)の水うみ(湖)に、歳を経(ふ)る大蛇(しや)、汝にわ母なり。
我は既に山川に年を経て六千歳、この川に住て、二万(ママ)五百年、汝は僅(わつ)かに七歳ぞかし。我を敵にして何かわすべきと、口より炎(ほのを)を吹き出(いた)し、申ければ、
さすがに哀れに思し召し、その時日龍(りう)は角(つの)の槻弓(つきゆみ)に神通(しんつう)の鏑矢(かふらや)を取って番(つか)ひ、よっぴき(よつひき)放ち給へば、
この大蛇、命、やがて止め給(たも)ふ、その後、東西(とうさい)、患(わすら)ひもなく静(しつ)かなり。
さる程に、日龍(りう)殿の十六にて、俊人(とし人)の将軍(しやうくん)とぞ申ける。
俊人、有夕暮(ゆふく)れに、縁(ゑん)に立ち出で、世の中を見暮らし給(たも)ふ。折節、鳥の一つがい(つかひ)、飛ぶを御覧じて、いかなれば、あの鳥類(てうるい)、獣(けた物)までも夫婦といふ事のあるに、我に何とて寝覚め寂(さひ)しく悲しかるらん。
哀れ、人もがなと思し召さるゝ折節、その頃中納言(ちうなこん)とておわしける、世の中に並びなき姫君(ひめきみ)一人おわしける。されば父母のもてなし給(たも)ふ事、限りなし。
御名をば、照(てる)日の御前(せん)と申、この俊人、聞き給ひて参らせ給へば、遂に下紐(したひほ)解け、忍び通ひ給ふ。
さて、この姫君の次第(したひ)なく、渡らせ給(たも)ふを御門(かと)、聞し召し、雲の上(うへ)の真白(ましろ)いに、常は御袖(そて)の乾(かは)く間もなし、忍びの玉梓(つさ)、通ひけれども、終に照日わ御返事も無し。
御門、怪しく思(おほ)し召して、俊人、都の外(ほか)へ流(なか)せとて、伊豆(いつ)の国へぞ流(なか)され給(たも)ふ。
俊人は、こは、そも、何事ぞや、君の御遣ひに命を捨て、恐ろしき物を滅ぼし、世の中を静(しづ)むるに、何事の咎(とか)あるやらん。姫君(ひめきみ)の御事に、いとゞ思ひは深かりける。
さる程に、俊人、我都を出でば、都はあれよと御心に祈念して、出で給(たも)ふ程に
瀬田(せた)の橋を通り給ふとて、橋を打ち叩き、仰(おほ)せられけるは、俊(とし)人は都になき身ぞや、一歳(とせ)、みなせ川にて取りて上りし大蛇(しや)の魂はこの界にもあるらん。
今、都へ乱れ入りて、悪事(あくし)をすべし、蛇神(しやしん)は七へん(片か)の魂、有とこそ聞け、疾く疾く都へ乱れ入べしとて、板を強く踏み、伊豆の国へぞ下(くた)り給(たも)ふ。
俊人流されて廿一日と申に、大蛇(しや)の御頭(おかしら)八有が出できたりて、都の内の人を噛み喰らふ事、夥(おひたゞ)し。
天文の博士、座主(さす)の巫女を召して鎮(しつ)められけれども叶はず、上下(しやうけ)の人、怖じ恐れて天下の患(わつら)ひとなる。
ある博士の申は、これは伊豆(いつ)の国へ流され給(たも)ふ俊人の故なりと申。
さては、この人の故(ゆゑ)なり、さらば、元の如(こと)く、返(かへ)せとて照日(てるひ)の御前(こせん)を伊豆(いつ)の国へぞ下されける。俊人は召せともお返事をだにも宣わず、照日の御前は伊豆(いつ)の国へぞ着き給(たも)ふ。
俊人の、元より思ひ給(たも)ふ事なれば、照日(てるひ)の御前(せん)を見つけ奉り、喜び給(たも)ふ事、限(かき)りなし。又、御門(かと)より重ねて召しあり。その時、俊人、都へ上り給(たも)ふ。
瀬田の橋を通り給(たも)ふとて、我は都へ上るなり、悪事(あくし)を止(とゝ)めて、元の如く(ことく)、鎮(しつ)まり給へとかき口説(くと)き宣へば、大蛇(しや)、元の如く、鎮(しつ)まりて、かめ(瓶か)の中へぞ入(い)りにけり。
俊人、都へ上(のほ)り給ひて、元の如く、御二所(ふたところ)住み給ひける。
年(とし)月重なり給へば、照日(てるひ)の御前(せん)、たゞならずして、姫君一人出でき給(たも)ふ。二人の姫君(ひめきみ)、いつき傅(かしつ)き給ふ。
さる程に、俊人は内裏(大り)へ参りの御後に、北の方、徒然のあまりに南面の縁(ゑん)に御入(い)り有ところを、如何なる魔縁(まゑん)の者か、来たりけん、空へ、この北の方を取りて出でぬ。
急ぎ、俊人の御方へ申せば、俊人これを聞き、急ぎ東西を鎮(しつ)め給へとも、その験(しるし)も無かりけり。
一日二日も過ぎぬれば、この思ひに、伏し沈(しつ)み、悲しみの涙、堰(せ)きあへず、思ひのあまりに、俊人新たにおわします神に参り給ひて、今一度(と)、この行方(ゆくゑ)を知らせ賜(た)び給へと祈誓(きせい)申させ給へども、その甲斐もましまさず。
余りに慰む方も無くて、ゆふけ(夕餉か)の浦をぞ問はせ給ひける。
都を東(ひんかし)へ問ひければ、年の程八十余りの翁と七十ばかりの姥(うは)として申しけるは、何事も前世(せんせ)の事と言ひながら、俊人の将軍(しやうくん)の仲、羨ましからず、この北の方故(ゆゑ)に伊豆(いつ)の国へも流され給ひぬ。
又、この間(あひた)は、はや一所に住み給へば、如何なる魔縁(まゑん)の物来たりて、この北の方を取り奉るに、俊人の御もの思ひ、哀れ(あはれ)の御事や。
我等が仲ほど目出度(めてた)き事は無し。逢ひ初めて離るゝ事も無し。俊人廿四、北の方廿一より逢ひ初めて、僅(わつ)かに仲三年こそ、おわしませ。たゞ今掛かる事、嘆き給(たも)ふ、いたわしさよと、姥申ければ、翁申様(やう)、悲しみは、楽しみの始(はし)めなりと申けり。
又、三てう(町か条か)大とみ(富か)を通り給へば、幼(おさあ)ひ者、申けるは、日本秋津国には三の日の如(こと)くして神業(かみわさ)繁(しけ)き、世の中に弓矢の計(はか)が事、優れて目出度(めてたた:ママ)き国なり。
されども、俊人の北の方を、もの(ママ)取られて、おかしさよと申ければ、
中なる幼(おさあ)い者の申事、人間界(にんけんかい)に生(しやう)を受けて、誰(たれ)が生死(しやうし)を離れざらん。生老病死(しやうらうひやうし)の苦をば離れ難(かた)し。いはんや、人間(にんけん)の間(あひた)に、いかでか掛かるべき。
俊人、非業(ひこう)の悩みとかやの有なれば、日本にわ天空、魔王(まわう)の多(おほ)ければ、左様(さやう)の物や取りつらん。凡夫(ほんぶ)はいかでか知るべきと言へば、
今一人の幼(おそな:ママ)き物、げにげに(けにけに)言ふなり。天狗歌うは愛宕(あたこ)の山。太郎坊(はう)、東(ひんかし)山には三郎二郎。
又、鬼ならば、近江(あふみ)の国には、あこし(ママ)の高丸(たかまる)。陸奥の国にはきり山(桐山もしくは霧山)が岳(たけ)、それさなくば、同じき国になる、かゞさんの悪路(あくろ)王(わう)か、取り奉らんと申しければ、
俊人、喜びて愛宕(あたこ)の山に登り給ひぬ。きやうくらい坊(はう)にもの申さんと宣へば、答ふる物も、なかりけり。
やゝありて、三間(けん)四面(めん)の光たう(灯か)、出できたり。その中に歳八十ばかりなる老僧(らうそう)まします。まぶたの膝(ひさ)まで下がりたるか、二人引き開けられ、何事を仰せ有ぞと申せば、
俊人、おこがましき申事にて候へども、過ぎし二月に人を物に取られて候なり。もし御寺の内に左様(さやう)の事や有らんと宣へば、
寺の内にも曇りなく見れども、候わず、東(ひんかし)山の三郎坊(はう)が許にも左様(さやう)の事はあらじと思ひ候へどもと申ければ
俊人、東(ひんかし)山に行きて、三郎坊(はう)にこの由を宣へば、三郎坊(はう)申けるは、これにわ、左様の(さやう)の事は更になし。
こその二月に人が十人ばかり取られたる中に、由々しき女房(ねうはう)、おわし候しか、さては、御辺の女房にておわしける、詳しき事は朽木(くちき)に御尋(たつ)ね候へとて、かき消すように失せ給(たも)ふ。
急ぎ、俊人帰(かへ)られければ五丈(ぢやう)ばかりなる朽木ありけるを、上ざまに強かに蹴(け)させ給ひて、物申さんと宣へば、
この朽木、しばし揺るぎて、首を一丈(ぢやう)ばかり持ち上げて、いかなる事ぞとよ、人に蹴られたることは未だなし。
汝は未だ知らぬは理なり、我こそ、汝(なんち)がためには、母、近江(あふみ)の国の大蛇(しや)なるが、汝が父に契(ちき)りを込め、
汝(なんち)を孕みし時、楼門を開け七日見へからずと申たりしに、汝が父、七日を待たず見給(たも)ふにより、我、その時帰(かえ)りたり。
汝が夫妻は今天にもつかず、地にもつかず、六(むつ)の国、峨峨山(かゝさん)という所に悪路王(わう)が取りて有なり、今廿日と言はんに、合ひ給(たも)うべし、鞍馬の毘沙門(ひしやもん)に参り、よくよく申て、多聞天の御力にて悪路王(わう)を討つべき也。
相構へて構へて、我は邪道(しやたう)の苦しみ暇なし。善根(せんこん)を成し、我に賜(た)び給へとて、かき消す様(やう)に失せにけり。
俊人、涙を流し、我を哀れに思ひ給(たも)ふとて、やがて、鞍馬の毘沙門(ひしやもん)へ参り、俊人、鞍馬の御計らひに、夫妻の方へ知らせ給へと祈念し給ひける。
七日と申暁、多聞天の持ち給ひたる剣を賜ひたるとて示現(しけん)を被(かうふ)りて、うち驚(おとろ)きて見給へば、新たに多聞天王(たもむてんわう)の御剣(つるき)、枕に立ちたり。
これを急ぎ賜つて都へ帰り、軍兵(くんひやう)を卒して急ぎ給(たも)ふ。
七月中頃なれば、賤の女(しつのめ)か、早稲(わさ)田の鳴子引き鳴らしてありけるを、俊人御覧してあれば、髪は空様(そらさま)へ生い成して、黒き髪もなし。己は女なるかと御問ひ有ければ、あうと申。
世の習ひの儚さわ、御下紐(したひほ)解け給ふ。俊人、神通の人なれば御子の有べきを兼ねて知らせ給ひて、これを印にて我を訪(たつ)ねよとて、上(うは)差しの鏑矢を一つ賜(た)びにけり。
これより方(かた)山はいか程有ぞと人に問ひ給へば、これよりニ三十里は鬼の住処にて候、更に人通はずと申、やうやう、急ぎ給(たも)ふ程に、峨峨山(かゝさん)へぞおわします。
見給へば、悪路王が城(しやう)の有様、黒鉄(くろかね)の築地(ついち)を付き、高さは四十二丈(ぢやう)に付きたりける。
俊人、東(ひんがし)の方(はう)を見給へば、年の程、廿四五ばかりなる女房、涙(なみた)を流して申様(やう)、我はこれ都にて、みのゝせんし(美濃の前司)と申物の娘なり。
十三の歳より、鬼に取られて候が、今年三年、馬(むま)飼いの女房と名づけられて、門の守(まほ)る也。都の人と見参らせて候へば、懐かしくこそ候へ。
これは鬼神の城(しやう)なり。凡夫(ほんふ)の来たらぬ所なり。道に迷ひ給(たも)ふか、急ぎ鬼の無き間(ま)に帰(かへ)らせ給へと仰せられければ、
さて、鬼はいづくへぞと問ひ給へば、越前(ゑちぜん)へとて昨日より罷りて候と宣へば、
俊人、如何にして門の内へ入り候ぞと宣えば、
これに地獄王(ちこくわう)と申、馬(むま)に乗りて、父鬼(ちゝおに)入りて門を内より開きて、残る鬼共(とも)をば入れ候なりと申せば、
俊人、嬉しさ限りなく思(おほ)し召して、まさしくこれぞ多聞天の御告げなりとて、喜び給ひける。
俊人はこの地獄王(ちこくわう)を取りて乗り、築地(ついち)の内へ入(い)らんとし給へば、門の内にへは入(い)らずして、鬼の居たる越前(ゑちせん)へとて行(ゆ)く。
俊人は怒りを成し給ひて、剣(つるき)を抜き、畜生(ちくしやう)なりとも、龍(りう)は馬(むま)の王(わう)なり。又、俊人もニ双(にさう)を悟れる者なり。たゞ今命止めんと宣へば、引き返して門を開かんとし給へば、更に開かず。
そのとき、俊人、都の方を伏し拝み、祈念し給へば、その時、この門、開(あ)きにけり。
人々を入れて、彼方(あなた)此方(こなた)を見給へば、女房四五人の声(こゑ)して、都の恋(こい)しやと嘆(なけ)きけり。さればこそとて、走り入りて見給へば、都の人にてぞ、おわしける。
さる程に、この女房の中にも俊人の北の方はましまさず、こゝかしこに尋(たつ)ね給へば、傍らに由々しき女房の声(こゑ)して泣く音(をと)あり。
怪しくて立ち寄りて聞き給へば、俊人の北の方なり。嬉しさに胸うち騒ぎ、簾内(みすうち)開けて入(い)り給へば、北の方、呆れたる様にて如何なる事ぞと宣へば、
俊人宣ひけるは、命を捨てゝ、これまで参りたるに、如何にとだにも承り候わぬは、悪しく参りて候やと宣へば、
やゝ久しくありて、北の方、嬉しさにも涙(なみた)先立(さきた)ち候ぞ、この世にては、相見奉らむ事とも更に思ひ寄らず、又憂き目を見せさせ給わん事こそ悲しけれと、かき暮れてこそ泣き給ふ。
俊人、これまで参る志(こゝろさし)と、たゞ泣くより他の事ぞ無き、さりながら、御心安く思(おほ)し召すべし。
さて、鬼の来るときわ、何と候やらんと尋ね給へば、
鬼の来るときは晴れたる空かき曇り、雨ふり風吹き、騒がしく、雲居に物語りの声(こゑ)有て夥(おひたゞ)しき躰にて候と、語(かたり)も果て給わぬに、はや世間の曇り、風吹き騒ぐ。
十人の女房たちは今を最期(さいこ)と悪路王(あくろわう)をぞ待ち給ひける。
必至(ひつし)の時ばかるなるに、虚空に物語(かたり)の声(こゑ)して、この悪路王(わう)、申様(やう)、この女房どもは何方(いつかた)へ行(ゆ)きけん。又地獄王(ちこくわう)は何とて鳴きやらんと申ければ、
鬼共、大の眼(まなこ)を見い出し睨みける。女房(にうはう)達は皆々伏し給(たも)ふ。
されども、俊人、多聞天王(たもんてんわう)と祈念し給(たも)ふ事なれば、俊人の眼(まなこ)の光、俄かに日月の如(こと)くになりて、鬼共を睨み給へば、鬼共、こは如何なる事やらんとて慌(あは)て騒ぐ。
俊人に睨まれて、鬼共、血の涙(なみた)を流しつゝ、何処(いつく)も暗闇となりければ、
その時、俊人、剣(けん)を抜き給ひて、鬼の中へ投げさせ給へば、空へ舞い上がりて、鬼の首を一度に打ち落としけり。
悪路王(わう)が首は天に舞い上がりて、七日回りて、魔王(まわう)の剣(けん)を持ちて俊人を討たむとて、しばし喚(おめ)きけり。
やゝありて首は地にこそ落ちにけり。俊人は鬼の首、骸を灰に焼きて持たせ給(たも)ふ。
そうして、女房は六十人ばかりなり。皆々連れて都へ上り給(たも)う。道より、田舎の女房(にうはう)は暇申て、我がふるさとへ帰りける。
さる程に、俊人、都へ帰り、北の方諸共に相具して、俊人廿五まで天下の将軍(しやうくん)にて、我十一代(たい)になる。
末(すゑ)の世、継ぐべき子のなき事こそ悲しけれ。姫君二人おわしけれども、男子(なんし)の無き事を悲しみ給へける。
かくて、俊人、悪路王(わう)を攻めておはせしとき、田村といふ所にて召されし賤の女(しつのめ)が腹に若君(わかきみ)一人おわしける。御名をば、ふせや丸(まる)とぞ申ける。母、育(はこく)み奉る。
有とき、ふせや丸、母に向かひて、如何にや、我ははや、既(すて)に七歳になるまで父といふ事おわしまさぬ事こそ、不思議(ふしき)なれと仰(おほ)せられければ、
母、うち笑い、汝(なんち)が父といふ物は無し。尋(たつ)ね給(たも)ふとても、何にし給ふべきと言えば、
何とて、隠させ給(たも)ふらん、かゝる田舎に住まひして、数ならぬ御身、たゞ一人見(のみカ)年月を送り給(たも)ふに、稀に逢う世の試せしは親が知らせて有べき、伝へ聞きても見給へ、神佛の麗門(れいもん)を引きて押し給へと、涙を流して嘆き給へば、
汝(なんち)が父と出づし人の国には、これより東(ひんがし)に谷峰三越ゑて、あひほう山の腰に、小(こ)松三本が下にありと詳しく教ゑ給ひければ、
教への如く、行(ゆ)きて見給(たも)ふに、いぬかれ(射抜かれか)といふ鳥の羽にて佩(は)きたる鏑矢(かふらや)有。これを取りて宿へ帰りぬ。
母に向かいて宣ひけるは、この羽にて佩きたる矢は国の大将(しやう)こそ持つと母に宣ひければ
その時、母申様(やう)、一歳(とせ)、谷山に悪路王(あくろわう)といふ魔王(まわう)の物を攻めにおわします大将軍(しやうくん)こそ汝(なんち)が父ぞと教へけり。
世に嬉し気(け)にて、この年月(としつき)、母の浅ましげなるところにて育(はこく)みしを、立ち出でて行(ゆ)き給へば、母の嘆き、悲しみの涙、堰きあへず。
ふせや丸、七歳と申に、二月、田村の郷(かう)を立ち出でて、三年三月と申に、都に上り、父の俊人の築地(ついち)に立ち給(たも)ふ。
俊人、御徒然の夕暮れに毬を遊ばしけるが、かゝりの外へ毬の出でけるを内へ蹴入れさせ給ひければ、如何なる物の仕業にと、御尋(たつ)ねありければ、件(くたん)の鏑矢(かふらや)を参らせられければ、
俊人、御覧じて、此方(こなた)へ召せとて、近く召されて事の子細を尋ね給へば、母の申たりし事を有りのまゝに語り給へば、
俊人、聞し召して、然(さ)ることも有りとて、へちに御所(しよ)を建て、置き申てもてなし給(たも)ふ事限(かき)りなし。
あしたこと(明日事か朝事か)に、ふせや丸、着給ひける絹の裾、濡れければ、人々怪しく思ひて、密かに見給へば、桂川(かつらかわ)の広き所へおわしまして、彼方(あなた)此方(こなた)ゑ、三度(と)づつ、越え(こゑ)給ふとて、裾を濡らし給いけり。
この由、俊人、聞し召して、誠に我が子にてあるやらんとて、九の歳より朝日の御前(せん)とて(ママ)申ける。
有時、朝(あさ)日殿の御心を見んと思し召し、父御前、弓に鏑矢(かふらや)を差し佩け、よっぴきて(よつひきて)朝日殿、朝(あした)の御飯を聞し召し、召さるゝ所を居させ給へば、
ちっとも(ちつとも)騒がずして、御箸にて彼の矢を挟みて側に置き給(たも)ふ。
俊人は、これを御覧して、いよいよ喜び給いける。
さて、朝日(あさひ)殿(との)の御年、十一になり給(たも)ふ。俊人の幼(おさな)名をば日龍(りう)と申したればとて、朝日殿をも日龍(りう)殿(との)とぞ申ける。
かゝりける所に、ある朝(あした)、俊人、剣(つるき)を抜きて日龍殿(りうとの)に向かひて宣わく、この剣(つるき)を投げんぞ、受けてみよと宣へば、
日龍(りう)殿、心の内に思われけるは、我、蛇神(しやしん)の跡を持つべき身ならば、この剣を袂に収まるべし。又持つまじき身ならば、我が命を取らむべしと祈念し給へば、左右(さう)なく左の袂に収まりける。
斯様に目出度(めてた)き人なれば、御喜び限りなし。十三の御年、元服(けんふく)させ給いて、いなせの五郎俊宗(としむね)とぞ申ける。
俊人、仰せられけるは、我既(すて)に、末(すゑ)に早なりぬ。何事をしてか、末代(まつたい)の伝ゑにすべきと御心の内に思(おほ)し召し、日本は僅(わつ)かに島の国なり。唐土(たうと)を従(したか)へばやと思し召し、
末代(まつたい)までの形見にとて、暇を伺ひ、君に参(まいり)、守(まほ)り奉る事久し、命をば唐土(たうと)に捨て、名をば我が国に留めんと思ひ、君の御許されを被(かうふ)り、唐土(たうと)を従(したか)へ候はゞ、
我、如何様にもなり候はゞ、子にて候、俊宗に仰(おほ)せつけられ候べしと申されければ、
御門の御返事にわ、思ひたち給(たも)ふ事、しんひやう(信憑か)なりと有りしかば、俊人喜び給ひて、やがて博多へ発ち給(たも)ふ。
十万四叟の船を揃へ、軍兵(くんひやう)を乗せ、既(すて)に唐土(たうと)へ渡らんとし給(たも)ふ。
俊人、思(おほ)し召す様(やう)、我、唐土(たうと)ゑ渡らぬ先に奇特を致さんとて、多聞天を念じ奉り、火界(くわかい)の印を結び、唐国(からこく)へ投げられけは(ママ)
さる程に、唐土(たうと)には火の雨、七日降りけり。上下怪しみを成して、天の博士、占い申けるは、日本の将軍(しやうくん)、唐国(からこく)を従(したか)ゑんとて渡る。
さる程に、如何すべき、日本は弓矢の謀り事賢し。容易く勝負(せうふ)を決せん事難し。されば、如何すべき。佛(ほとけ)の力ならでは叶ひ難しと申せば、
その頃、恵果(けいくわ)しやう(上か尚か)と申人おわしけり、このたん(壇か)のつき、これを行い奉る程に、
俊人は十万四叟の船をこしらえ、渡り給(たも)ふ程に、不動明王(ふとうみやうわう)、十はうの金剛(かんかう)、十万のけい童子(たうし)を卒して相向ひ給(たも)ふ。
俊人、立ち出で宣ひけるは、そもそも、如何なる僧にておわしますぞ。戦の門出(かどい)でに、法師の出で合い給(たも)ふぞ。急ぎ、その船、退(しりそ)き給へと宣へば、
不動、申されけるは、例えば、俊人、迎へ奉らんがために恵果(けいくわ)しやう、御遣ひに、これまで参りたり。退(しりそ)き給へと散々に戦ふところに、不動、剣(けん)を抜き、投げ給(たも)ふ。
俊人は鞍馬の毘沙門(ひしやもん)の持ち給ひける剣(けん)を抜きて、合わせ給(たも)ふ。散々に戦いけるが、俊人の剣(けん)は光増しけり。不動の剣(けん)は光劣りければ、
こけい(呉景か)宣ひけるは、霊魂(れいこん)から日本に渡り、鞍馬の毘沙門(ひしやもん)に参り、申参ずる様(やう)は
こけいこそ凡夫(ほんふ)の俊人に負けて、胎蔵界(たいさうかい)の佛(ほとけ)力(りき)も優れて、誰か佛力(ふつりき)を仰(あふ)ぎ候べき、俊人が怪力を失い給へと申遣わす。
金剛(かんかう)、参りて、多聞天にこの由を申給へども、更に御返事もなし。
金剛(かんかう)童子(とうし)参り、かく申給へば、さらば、こけい参らんとて、不動急ぎ鞍馬へ参り、こけいこそ参りて候へ。しかるべくは俊人、利器(りき、力か)を失いて賜(た)び給へ。こけい負けなば、胎蔵界(たいさうかい)の威徳も廃るなりと仰(おほ)せあり。
多聞天、そのとき御返事は、我が国はこれ、しんまいの領(りやう)なり。新たにして佛たち、恵(めくみ)を去る事なし。いかでか我が国のけんしん天王(てんわう)の守(まふ)りをば背き候べきと仰せられければ
我、かうふく(降伏か光復か)の姿にて守(まほ)るべし。更に唐土(たうと)の人を贔屓するにあらず。こけい、負けなば、我三つに還らん事、疑(うたか)いなし。たゞ、道理(たうり)を曲げて利器(力か)を止めて賜(た)び候へと申されれば、
まことに俊人失せなば、日本の守(まほ)るべき由、仰せられ候へば、疾く疾く俊人を討たせ給へと宣へける。不動、御喜び限りなし。
かゝりければ、ときの程に、俊人の御剣(つるき)は光も劣りぬ。やがて、三に折れて霊鷲山(りやうしゆせん)へぞ参りける。
さる程に、風、四方(はう)より吹きて、船の有様、たちまちに覆(くつかへ)す。十万四叟(さう)の船は軍兵(くんひやう)も何方(いづち)へか失せぬらん。
かゝりければ、俊人、今を限りと思ひ給ひて、不動の御船に乗り移り、こけいを取って押さえ、船端(ふなはた)に押し当てて、沓の鼻にて三度蹴給ひて、かい掴んで海へ投げ給へば、剣、飛び来たりて、俊人の御首を打ち落とす。
首をば、不動、取り給ひて、唐土(たうと)へ帰り、恵果(けいくわ)しやうの五七日行なひ給ひける壇(たん)の上に置かれける。
さて、俊人の御船ばかりは、人に印見せんためにやありけん、八重の潮路(しほち)を分け過(すき)て、博多の津にぞ着きにける。
さて、俊宗(としむね)、父の御事を聞き給ひて、急ぎ博多ゑ下りつゝ、父の形見を拾い取りて、泣く泣く都へ上り、御跡を懇ろに弔(とふら)ひ申されけり。
さて、年(とし)月を経(ふ)る程に、いなせの五郎俊宗(としむね)、十五と申に、大和(やまと)の国、奈良坂(ならさか)山と言ふところに金礫(かなつぶて)といふ物ありて、人の持ちたる物を取る。それのみならず、都へ参る御年貢(ねんく)を留めける。
御門(かと)、この由聞し召し、いなせの五郎俊宗、これを急ぎ討ちて参らせよと仰(おほ)せありければ、やがて、百余騎の勢を賜りて、奈良坂の麓へ向かわれけり。
さる程に、色良き染(そめ)物を集めて華やかに拵ゑて、わざと奈良坂山の峠(たうけ)に、これをとり出だしてぞ、置かれけり。
さる程に、金礫(かなつふて)を待ち給へども、見ゑざりける。遥かに程経て、丈の程、二丈ばかりなる法師の極めて眼の深さ、見ゑぬ程なり。
遥かの谷より出で来たりて、高き所に登りて申様(やう)、
あら珍しや、この山に住まいして五六年が程ありつれども、斯様の物を隠さずして通りつる事未だ無し。
いかなる御年貢(ねんく)、御物をも、この山を通(とを)るとては、物に包み隠してこそ、通(とを)りつるにも、我は神通(しんつう)の物にして、賢(さか)し致してこそ、取りしに、志(こゝろさし)もなくて取らせんならば、言ふに及ばず。
さなくば、御門(かと)へ参る物なりとも、先ず(まつ)、はつ(初か筈か)を参らせよ。さなくば、件(くたん)の金礫(かなつふて)を取り出だして汝が命を止めんと大音(おん)上げて申しければ、
俊宗、騒がぬ躰にて宣ふ様(やう)、忝(かたしけな)くも御門の御物なり、いかでか止むべき。その気ならば、神通の鏑矢を取らすべしと宣へば、
金礫(かなつふて)申けるは、こはいかに、稀代(きたい)の事を言ふ物かな。事々しや、さこそあらめ。
我が先祖はとて王(わう)より十一代、せんさい王(わう)より四代、相伝して持ちたる金礫(かなつふて)、三郎つぶて参らせん。
金(かね)の重さは三千両(りやう)、角は四百六十あり、響く声(こゑ)は千頭(せんつ)の牛の一度に吠ゆるが如し、これを受け取り給へ。俊宗とて差し上げければ、俊宗、ちっとも(ちつとも)騒がずして打ち落とす。
その時金礫(かなつふて)申しけるは、こはいかに、三郎二郎つぶてを参らせんとて投げければ、このつぶての響く声は雷電の岩を崩(くつ)すがごとし、これも扇(あふぎ)を持ちて打ち落とす。
こはいかなる事、世の中にも、かゝる曲者はあり。かゝる無念の事なし。その気ならば、只今命を失わんとて、太郎つぶてを参らせんと、
このつぶては何事ありとも、埋(うつ)まじきけれども、余りに吾殿(わとの)が憎ければ投ぐるなり。確かに受け取り給へとて投げければ、鐙(あふみ)の鼻にて蹴落とし給ひける。
これをみてこんざう(勤操か)法師、今は叶わじとや思ひけん、方々へ落ちゆけば、如何にあの法師、何処(いつく)へ行(ゆ)くやらん、手並みの程見せんとて、
角の槻弓(つきゆみ)に神通(しんつう)の鏑矢(かふらや)を以て引き放ち給へば、こんさう坊(はう)が左の耳に離れずして七日まで鳴り回る。
余りの悲しさに元の有りつる所へ上がり申けるは、いかなる、みやうし(苗字か)のいるやなれば、斯くはあるらん。
物にわ当たらずして、かゝる事の悲しさよとて、谷に下り、峰に登ること数(かす)を知らず。
こんさう坊(はう)を召し取り、五百余騎の馬(むま)の先に立たせけり。
やがて、この由、御門(かと)へ申ければ、やがて斬るべき由、仰(おほ)せ下されければ、首を斬りて奈良坂(ならさか)山の峠(たうけ)に掛けられけり、その後は国の騒(さは)ぎ患(わつら)ひもなし。
たゞ今の御恩に、天下の将軍(しやうくん)に宣旨下されける。
かくて、年(とし)月を経(ふ)る程に、又有時、御門(かと)より宣旨(せんし)なる様(やう)は、伊勢の国、鈴鹿(すゝか)山といふ所に立烏帽子(たてゑほし)来て、目にも見ゑずして、不思議(ふしき)の物あり。御門(かと)ゑ参る物を止め、狼藉(らうせき)を致す。これを討つべき由、仰(おほ)せ下さる。
やがて、五百四騎の軍兵(くんひやう)を賜って、伊勢の国、鈴鹿山へぞ向かはれけり。この山に着き給ひて、この許かや、かの許か、こゝかしこを探し給へども、その印(しるし)、更に無し。
武士(ふし)ども、四方(はう)を固めて守(まほ)り給へども、鈴鹿の山、通る物は鳥の如(こと)く飛び連れて空に上がりて失せにけり。
これ程、狩りけれども手にもたまらず、かくて中一年も過ぎけれども、なかりければ、各々皆嘆きけり。
俊宗は屍(かはね)をこの山に晒すとも、彼の立烏帽子(たてゑぼし)を見ずして都へ二度(たひ)帰(かゑ)る事あるべからず、かゝる宣旨(せんし)を賜りて、討ちまて(ママ)こそ無くとも、せめて姿をだに見ずして、都へ帰(かゑ)る事、あるべからず。
たゞ上りなば、人々、物笑いにならんずらん、面々は疾く都へ上り給ひける(マゝ)。
俊宗は、我が御身一人、すごすごと山に泊まり給へば、物寂しき御有様、人跡(しんせき)絶ゑて、人も無し。時々事問ふ物とては峰に来伝ふ猿の声(こゑ)、松吹く風の音(おと)ばかり。
さる程に、あるとき清き水(みつ)にて御身を雪ぎ、高き所に登り、都の方(かた)を伏し拝み給ひて
南無帰命頂礼(なむきみやうちやうらい)、八幡大菩薩(ほさつ)、この山のさんしん(三神か)、こおう(五王か)を始め奉り、哀れと御納受(なうしゆう)垂れ給へと、
深く祈誓、申給ひて、礼(らい)し給へば、この三年が間見ざりつる、こまつ原(はら)こそ出で来けり。
これは祈念の験(しるし)やらんと思ひて、嬉しさに分け入りて見給へば、池あり。
その中に、島に廿四五町(ちやう)ばかりに、五色の波立ちて、水際(みきは)に蓮(はちす)の花開き、極楽浄土(こくらくしゃうと)も斯くやらんと覚えて面白し、しんし(神事か)とうし(有時か)を現したり。
池には反り橋を渡し、橋の許に行(ゆ)き給へば、白金(しろかね)にて築地(ついち)を付き、十二の門を建てたりける門の内を差し入りて見給へば、黄金(こかね)の砂金(いさこ)を庭に敷き、四方(はう)には四季の花を現したり。
東(ひんがし)を御覧ずれば、春の景色と見ゑたり。籬(まかき)の隙(ひま)より御覧ずれば、子の日(ねのひ)の松(まつ)に鶯(うくひす)のさえずりて有りければ、都にも斯くやらんと流石(さすか)に恋(こい)しく思(おほ)し召しける。
又、南の方(かた)を御覧ずれば樹々(きゝ)の梢(木すゑ)も押しなべて、青はじまりの梢(こすゑ)にわ、山時鳥(ほとゝきす)の我待つ声(こゑ)、初音の都に訪れて羨まし。沢辺(さわへ)の蛍も飛び迷ひ、空蝉の声(こゑ)も流石(さすか)心に哀れなり。
又、西の方(かた)を御覧ずれば、秋の景色とうち見ゑて、七夕星(たなはたほし)の天の川に物思ふ。萩(はき)野の露(つゆ)散り散りに、鹿の声(こゑ)、枕(まくら)に呻(すた)く、虫の音も己々の声(こゑ)つけて、峰の松風(まつかせ)、谷の水(みつ)音、いと哀れに心細さは限りなし。
さて又、北の方(かた)を御覧ずれば、冬の景色にうち見えて、木々(きゝ)の梢(木すゑ)も白妙(しろたゑ)の、雪の朝(あした)の風情(ふせい)して、心、言葉も及ばず。哀れにのみ御覧ずる。
籬(まかき)の隙(ひま)より御覧(らん)ずれば、御所(しよ)の有様、黄金(こかね)の柱建て並べ、瑪瑙(めなう)を以て天井(てんしやう)とし、玉の床にわ錦の褥(しとね)お敷き、簾(すたれ)には瓔珞(やうらく)を掛けたりけり。
さて、内を御覧ずれば、歳の程、十七八ばかりなる女房の辺りも輝くばかり、この世の人にも見ゑざりけり。
田村殿、これを御覧じて、俊宗は如何なる罪の報いにて斯様(かやう)の美しき女房(にうはう)を敵(かたき)にわ持つ身となるらん。
たとえ何と我が身はなる共、この女房に近づき会はゞやと思(おほ)し召されけり。
さる程に、田村殿、思(おほ)し召し(ママ)様(やう)、心弱くて悪しかりなんと思し召し、鈴鹿の御前(せん)の心をも見んとや、思(おほ)し召しけん、剣を抜きて、鈴鹿の御前(せん)の御髪(くし)の上に投げ給えば、
そのとき、鈴鹿の御前(せん)、ちっとも(ちつとも)騒がず、いつの間にか有りけん、側に立てて置かれける。琴を弾き、音に聞こゆる立烏帽子(たてゑぼし)に、金輪(こんりん)状(しやう)の直垂(ひたゝれ)に御鎧、高紐(たかひほ)強く締め給ひて、
さんたい(三代か)くけん(具現か)の小手を差し、しやうらん(上覧か)美麗(ひれい)の脛当てに、ちけん(示現)とうみやう(灯明)の御刀、三(しやく)尺一寸のいかもの(如何物)造りの太刀を抜き、
帳台(ちやうたい)の外(ほか)へ投げ出だし、田村の御剣(つるき)に鈴鹿の御剣(つるき)と行き合ひて、斬り様、上(うゑ)になり下になり、戦ひける程に
何(なに)とかしたりけん、田村殿の御剣(つるき)は鈴鹿の剣(つるき)に負けて、黄金(こかね)の鼠(ねすみ)になりて御簾の外へ食い出(ゐ)だす。
黄金(こかね)の鼠(ねすみ)負けて、烏と現(けん)じ、頭(かしら)白きが七つになりて、鈴鹿の御髪(くし)の上に飛び掛かり鳴きければ、
鈴鹿は難(むつか)しやと思はれけん、紅蓮(くれん)妙(みやう)の隠れ印を結ひて、我が身にかけ給ひて、御心を静(しつ)めて宣(のたも)ふ様(脱文カ)
又、田村殿、雉(きし)と現じて入り給へば、鷹となりて追い出し(いたし)給(たも)ふ。
そのとき鈴鹿、宣ふ様(やう)、いかに田村殿、我は人に見ゑじと思ゑば、見ゑざりつれども、余りに神佛(かみほとけ)に念じて我を見給(たも)ふか、愛おしさに斯くは現じ給ひたり、よくよく見給へ。
されども情けなく剣(つるき)を抜き、投げ給(たも)ふこそ、中々あさましけれ、さりながら、昔よりして我が姿(すかた)見たる物、よもあらじ。
さても、田村殿は由々しき名を上げて、御門(かと)の御意に入(い)らんと思ひ給ふとも、この世にては努々(ゆめゆめ)あるまじ。
殿は男なれども、騒速(そはや)の剣(つるき)ばかりなり。妾(わらは)は女人なれども剣(つるき)三あり。討たれて奉らん事、いと難し。
又、殿を討ち奉らん事、いと易し。大通連(とうれん)と申剣(つるき)を出だし、御首(くひ)を討たん事、いと易し。さりながら、殿をば討ち奉る事有まじ、疾く疾く都へ上り給へと鈴鹿の御前(せん)、申給へば、
田村殿、仰(おほ)せにわ、俊宗は都へ帰(かゑ)る事あらじ。その上(うへ)、俊宗の心の内をば、いかでか知り給(たも)ふべきと宣へば、
鈴鹿、うち笑ひ給ひて、宣ふ様(やう)、殿の御心の内、よくよく知りたり。
妾が姿を御覧じて、先の世にいかなる罪を作りて、かゝる敵(かたき)を討つべきと生(むま)るらん事の悲しさよ。喩ひ、如何なる物なりとも近づかばやと思し召ししかども、
又、邪険(しやけん)の御心に翻(ひるかへ)し、妾(わらは)を討ち取りて御門(かと)へと参らせ、名を後代(こうたい)に上げばやと思(おほ)し召して、剣(つるき)を抜きて妾(わらは)に投げかけ給(たも)ふらん。
三千大千世界(三せん大せんせかい)を見るに、御身は逢い給(たも)ふべき契なしと細々と宣へば、
田村殿、喜び給ひて、剣(つるき)を互ひに止めつゝ御一緒におわしまして、田村殿は琵琶(ひは)を弾き、鈴鹿の御前は琴を遊ばし給(たも)ふ。それより一つに語らひ、細やかにありけり。
さる程に、俊宗は明かし暮らし給(たも)ふ程に、鈴鹿の御前はたゞならず、成り給ふ。
月日に関守据へざれば、明くる春にもなりぬれば、玉の如(こと)くなる姫君一人出でき給(たも)ふ。御名をば、しやうりう(小龍か)殿とぞ申ける。
さる程に、姫君の御年、三歳になり給(たも)ふ御年の八月の中の七日に、田村殿、縁(ゑん)に立ち出で、都の方、恋しく思し召して、風の便りもがなと思(おほ)し召す折節に、
雁がね、訪(おとつ)れて通るを、霞の内に立ち籠めて、露わに斯くは鈴鹿も見給(たも)ふべしと思し召して、文(ふみ)を懐に遊ばす様(やう)、
鈴鹿の立烏帽子(たてゑほし)を討ちて参らせよとの宣旨を被(かうふ)り、三年鈴鹿山に籠りしかども、物の姿をだにも見ざりしに、やうやう近づきて、あまつさへ、子をもうけて(まふけて)こそ候へ
討つべしとは思ひ候わねども、宣旨をいかで背き参らせ候べき。
来(らい)八月十五夜に謀りて参るべし。そのとき勢を揃へて討ち取り給えへば
と遊ばして、雁がねに言付け給へば、
鳥も心あり(ママ)物とて、内裏(大り)の総門に落としたりければ、大臣、見つけ給ひて御門(かと)へ参らせ給ふ。御喜び限りなし。
田村(たむら)、未だこの世にありけるこそ目出度(めてた)けれ。武士(物のふ)に近づくだにもあるに、あまつさゑ、子を設(まふ)けたる事の不思議(ふしき)さよ。さらば、軍兵(くむひやう)を用意(よおひ)して待てとて、一万余騎の兵(つわ物)どもを揃ゑ、待ち給(たも)ふ程に、
やうやう、その日も近づきければ、田村殿、鈴鹿の御前(せん)に向かひて宣ふ様(やう)、これは面白き事は、さる事にて候へども、かゝる山深きところに、さのみはいかで住み給ふべき。
我、この山に入りて既に六年になり候、今はいかでか敵(かたき)と思(おほ)し召すべき。都へ上り給ひて、立つとき、所おも拝み給ふべしと宣へば
鈴鹿の御前(せん)、御返事はなくて、たゞ涙をのみ咽(むせ)び給ひて、宣(のたも)ふ様は、逢うは別れの始めなり。何おか宣ふらん。自ら(身つから)をこれにて命を失はんとも惜しむべきにあらず。
その上、忝(かたしけな)くも、親は一世の契(ちき)り、夫妻は二世の契(ちき)りとこそ聞け、御身を自ら(身つから)、この四五年が間の契(ちき)り浅からず。比翼の鳥とも、れんち(ママ:連理か)の枝(ゑた)とも契(ちき)りを籠むるなり。
情けなしとよ、俊宗は天下の大将軍(しやうくん)と生(む)まるゝ自ら(身つから)はこれ、上界(しやうかい)の天女なり、訓辞(くんし)に示現(しけん)なし、綸言(りんけん)、汗の如し、出でて帰らず
情けなしとよ。御身は過(すき)し八月、縁(ゑん)に立ち給ひて都恋しと思(おほ)し召して、風の便りもあらまほしく思(おほ)し召し候ところに、
雁がねの雲の上に渡るを見て、露わに書かば、妾が見んとて、御懐の内にて文を遊ばして、雁がねに御言伝(ことつて)候しを、自ら(身つから)が見てこそ候へ。
その文は内裏(大り)に参り着きて候、御心安く思し召すべし、大臣見つけ御門(かと)の御目にかけ給へば、御門(かと)、御喜び限りなし。
田村はこの世に無きと思ひければ、武士(もののふ)に近づきて、子をさゑ設(まふ)けたる事の不思議(ふしき)さよ、とて御沙汰にて候なり。
我を討たんとひしめく景色、これにわ候へども、詳しく見候、さりながら、殿にいかでか空(そら)言をさせ申べき、しやうりう(小龍か)一人候なれば、良くておはしまさん事こそ聞かまほしく候へ。
これにて、自ら(身つから)が命を失わんと思(おほ)し召し候とも、ちとも厭ひ申まし、自ら(身つから)は神通(しんつう)の物にて、討たれう、討たれしは我がまゝにて候。
田村殿、名を後代に挙げたくば、自ら(身つから)は、如何様にもなれかし。内裏(大り)へ参らんと仰(おほ)せありければ、田村殿、流石(さすか)に恥づかしく思(おほ)し召しける。
はや八月十五夜にもなりぬれば、御二所(ふたところ)、神通(しんつう)の車に乗り給ひて都へ飛びて行(ゆ)き給(たも)ふ。
内裏(大り)西の門に飛び着き給(たも)ふ、御覧ずれば、数万騎(すまんき)の兵(つわ物)とも、暇なく待ちかけたり、夥しくぞ、見ゑにけり。
さて、鈴鹿はなんてん(南天か)たい(台か)の床にぞおわします。田村殿は天井(てんしやう)に畏まり給(たも)ふ。そのとき御門(かと)、御覧して、この女房に俊宗が思ひつきたるも道理(たうり)なりと見給ふ。
さて、鈴鹿の女房(ねうはう)申されけるは、我何事を過ごしたる咎(とか)によりて御敵(かたき)と思(おほ)し召し候や、御門は十全の王(わう)にましませども、人界(にんかい)の卑しき御身なり。
妾(わらわ)わ、甲斐なき様(やう)に候へども、流石(さすか)に上界の天人(てんにん)なり。位も君には勝り奉りて候なり。
我を討たせ給(たも)ふべきにて候はば、早々討たせ給へ。鈴鹿まで人を賜らん事は、よき御大事(たいし)にて候と、かき口説き、涙を流し宣へば、
御門(かと)、あまりの御事に、ともかくも御返事はなくて、つくづくと守(まほ)りた(ママ)給ひてける。
鈴鹿の御前(せん)、田村殿に宣(のたも)ふ様(やう)、男女(おとこおんな)の仲は今に始(はし)めぬ事なれども、しやうりう(小龍か)一人候へば、常に尋ね給ひて、御訪(おとつ)れ給ふべし。
さりながら、今廿一日と申さんとき、あふみ(近江)の国、蒲生(かまふ)山といふ所にあくし(悪事か)の高丸(たかまる)といふ魔王(まわう)の物、討ちて参らせよと宣旨を被(かふぶ)り給(たも)ふべしとて、うち口説き給へば、互ひに涙汲(くみ)ておわしけり。
さらば、暇申てとて、左(ひたり)の御手を上げ給ひて天を招き給ふと見給へば、白き蝶(てう)となりて内裏(大り)の内を飛び出で、愛宕山を指して行(ゆ)く。
田村殿は、我が許の御所へ帰り給(たも)ふ。宣旨なれば、斯く儚き事の悲しさよとて深く沈み給ひける。
さて日数(かす)ゆけば、さる程に、中廿ニ日と申に、少しも違(たか)わず、近江(あふみ)の国の蒲生(かまう)山の腹に、あくし(悪事か)の高(たか)丸といふ魔王(まわう)、日本の従へてと申なり。
これを討ちて参らせよと申、宣旨を被(かうふ)り給ひて、やがて十万余騎の軍兵(くんひやう)を賜りて、近江(あふみ)の国へぞ向われける。
さて、押し寄せて御覧ずれば、高丸が城(しやう)の躰、神佛(かみほとけ)なりとも左右(さう)なく、破る(やふる)べしとも覚(おほ)えず、築地(ついち)を四十町に付きたり。如何にしてか入(い)るべき様(やう)もなかりけり。
そのとき田村殿はしやくわん(赭顔か)の印を結びて投げ給へば、火の雨となりて七日が間(あひた)焼きまわる。鬼はあまりに堪えかねて、木を以て人形(かた)に作りて、夜は戦はせ、昼は己が戦ひける。
終(つゐ)にあくし(悪事か)の高丸は戦ひまけて、駿河の国、冨士(ふし)の岳へ退きて行(ゆ)く。
それへも攻めてゆく程に、武蔵の国、秩父(ちゝふ)の岳に籠りけり。
それへも続きて攻め給へば、相模(さかみ)の国、足柄(あしから)山、白(しら)河(かわ)の関(せき)、那須(なす)の岳までも、攻められて、今は叶はじとや思ひけん、又、海の面、七日退きて嶋(しま)あり、それへ閉ぢ籠りけり。
そのとき、田村殿、御勢(せい)も皆討たれぬ。僅(わつ)かに三百余騎にぞなり給ふ。
そのとき田村殿、仰(おほ)せありけるは、如何すべき。いざや都へ上りて勢(せい)を集めて船を用意(よおい)して、又攻めんとて、都を指して上り給ふ。
伊勢の国、鈴鹿の山の麓に着き給ふ。田村殿、これより鈴鹿山近き所なり。定めて俊宗、恨めしく思ひ給ふらん。放心(はうしん)し給へ、面々とありしかば、
神通(しんつう)の鈴鹿の女房(にうはう)なれば、聞かぬ様(やう)にて斯く仰(おほ)せあるを曇りなく聞きて、鈴鹿の女房、思はれけるは、恨めしく思われける。
田村殿を敵(かたき)と思はば、我都へ上り、御門(かと)の見参(けんさん)に入べきか、しやうりう(小龍か)を捨てさせ給ふ事こそ、聞かまほしけれ。
又、しやうしんしやう(正真正か)の習ひ、我、如何にもなりなば、田村殿おわしませばしやうりう(小龍か)姫を、さりとも見捨て給わじと、頼もしく思ひ奉り、我を斯く隔て給ふ事、恨めしけれども、
さりながらのあくし(悪事か)の高丸、化性(けしやう)の物なり。凡夫(ほんふ)の身として、攻め給わん事候はゞ、田村殿は必ず討たれ給ふべし。
殿こそ、斯く御心、変わり給ふとも、自ら(身つから)行(ゆ)き、かの高丸を討ちてしやうりう(小龍か)諸共に育てばやと思われける。
この嶋へ下らば、十五日の暇なり、討ちて参らせんとて、大とうれん(通連)、せうとうれん(小通連)、さうみょうれん(小明連か)とて三つの剣(つるき)を取り持ちて、
神通(しんつう)の車に乗りて、鈴鹿の舘(たち)飛びて麓なる、まるの宿(しゆく)にぞ着き給ふ。
三百余騎の兵(つわもの)ども、用心(ようしん)しける中を、押し分け押し分け通り給ひて、人の目に見ゑ給わねば、咎むる者こそなかりける。田村殿、い給ひたる所へおわしましける。
田村殿は傍(そは)なる御剣(つるき)を抜きかけて、枕(まくら)許にぞ置き給(たも)ふ。
何とて、妾(わらは)程の敵(かたき)を持ち給ふ人の打ち解けておわしまし候やと有りしかば、田村殿、置き直り給ひ、御傍(そは)に置かれたる御剣(つるき)を取り給へば、
如何に殿は斯くあさましき事をばし給ふ。あくし(悪事か)の高(たか)丸を攻めかねさせ給ふを見参らせ候へば、もろ共に討ちて参らせんとて参りたり。恨めしくも斯様にし給ふ物かなと宣へば、
田村殿、聞し召して、いつぞや、都へ謀(たはか)り、上(のほ)せ参らせし御事、かれこれ、俊宗が事をこそ無念と思し召し候やらんと御恥づかしくて候と、御涙くみておわしませば、鈴鹿の女房も古(いにしへ)の恨みに御袖絞り給ひける。
さる程に、夜(よ)もほのぼのと明けゆけば、鈴鹿、申されけるは、皆々都へ上(のほ)せ給へ。殿と妾(わらは)と二人だに候はゞ、高丸討たん事、いと易しとて、
兵(つわもの)どもをば、都へ返し、我は二人、神通(しんつう)の車に乗りて、けさう(仮相か)の時ばかりに飛び、をゝ(ママ)未(ひつし)の時に外の浜にぞ着き給ふ。
さる程に、あくし(悪事か)の高(たか)丸、良きしやう(仕様か)にあるとて、打ち解けて昼寝して有りしが、何(なに)となく空を見れば、高丸申様(やう)、あはや、東(ひんかし)の雲の西へ険しく行(ゆ)くは田村が鈴鹿を語らひて、我を攻めに来ると覚えたり。
何とも、攻め易からじ。但し、鈴鹿の御前こそ射伏(いふ)せけれ、鬼共、よくよく防げと言ひければ、田村殿の乗り給ふ車を、中天(ちうてん)に上がる所を八十人の鬼共が一度(と)に、磯を吹き出だして、車を天にぞ吹き上げたる。
その時、田村殿の剣(つるき)と鈴鹿の御剣(つるき)と四の剣(つるき)を天地に投げ給へば、八十人の鬼の首をたちまちに打ち落とす。
さる程に高丸、親子ともに七人にぞなりにける。それより日本と唐土(たうと)の境なる、しゆかはらの東(ひんがし)なる秩父(ちゝふ)の岩屋に引き籠もり、せきしろと言ふ谷のやり戸を引き立てゝ
たとえたしやうくわうこう(他生か多少か、煌煌か皓皓か)は降るとも、田村殿にわ討たれじとぞ申ける。
さる程に田村殿、天地に有りつる程こそ、攻めつれ、今は海の底へ入(い)りぬれば、力及ばずいらせ給へ、帰(かゑ)らんと宣へば、
鈴鹿の仰せにわ、大将軍(しやうくん)の仰(おほ)せとも覚えず(ぬ)事かな。妾(わらは)、討つまじと申とも、進め給わんするか、たゞ、帰(かへ)らんと承るこそ甲斐(かひ)なけれ。
我、飛行(ひきやう)自在(しさい)の徳を得(ゑ)たり、賺(すか)し致して討ちてみせ申さんとて、
紅の扇(あふき)を上げて招き給へば、空より十二の星を招(しやう)じ下(くた)し、雲の上(うへ)に舞台(ふたい)を組み、しやかうほくうの東(ひんがし)にわ、秩父(ちゝふ)の岩屋にて三時ばかりぞ遊び給ふ。
その時、あくし(悪事か)の高丸が乙娘、きはた御せんと申か、父に向かひて申様(やう)、我、天竺に在りしとき、天人(てんにん)の舞を見たりしか、これ程面白き事なし、あれをちと見ばやと言ひければ、
高(たか)丸、申けるは、あれは誠の舞にて非ず、我等を討たん謀(はかり事)ぞ、努々(ゆめゆめ)叶ふまじと申ければ、
重ねて申様(やう)、露わにて見ばこそ、悪しからめ、谷のやり戸を細目に開けて見ばやと申しければ、さらばとて五分(ふん)ばかりぞ開けて見ける。あまりの面白さに一寸ばかり開けて見ける。
さる程に、鈴鹿宣ふ様(やう)、あれ見給へ、田村殿、高丸が左の眼(まなこ)差し出だしたり、我討ちてみせ申さんとて、
放した給ふと見ゑしかば、高丸(たかまる)が首(くひ)の骨、少しもたまらず射落とす。
すなわち剣を投げ給へば、七人が首、刺し貫(つなぬ:ママ)き天を指して舞い上がる。
そのとき田村殿、御喜びありて、高丸(たかまる)が首(くひ)計り取りて都へ上らんと申給ふとき、鈴鹿申す様(やう)
如何すべき、高(たか)丸を討ちて、はや心安く、添ひ奉らんと思ひつれども、又、離れて奉らん事こそ、返す返す悲しけれ。
今までは、斯くとも申さず。その故(ゆゑ)は、六(むつ)の国にきり山が岳(たけ)と申す処に大嶽(たけ)と言ふ鬼の候が、この三年が間(あひた)、我に心を掛け候へども、更に聞き入れ候わず候。
日本(ほん)にては、人々近づく事あるまじきと思ひ候へども、この大嶽(たけ)、我を取りに来(きた)るなり。
その故(ゆゑ)は稲妻(いなつま)の様(やう)に見へ、大嶽(たけ)、明日は定めて取りに来たるべし、殿は疾く疾く都へ御上り候へ。我は大嶽(たけ)取られでは、叶ふまじ、疾く疾く都へ御上り候へと有りしかば、
田村殿、誠にその気あるならば、一所にてとにもかくにもなり候はんと宣へば、
鈴鹿、宣ふ様(やう)、我、大嶽(たけ)に取られんと申も、殿を思ふ故(ゆゑ)なり、今三年と申さんにわ、この大嶽(たけ)を討ちて参らせよ宣旨(せんぢ)を被(かうふ)り給ふべし。
この鬼と申は、高(たか)丸が千人集めたりとも、この鬼には、しかし百年二百年(ねん)攻め給ふとも、千万の剣(つるき)を持ちて攻め給ふとも、叶ふまじければ、取られて行(ゆ)かんと思ふは、別(へち)の子細にあらず。
大嶽(たけ)が心を三年が内に誑(たふら)かし、魂を抜きて、殿に易々と討たせ申さんと宣ひければ、
そのとき田村(むら)殿は、たゞかき暮れて、泣き給(たも)ふ。
さて有べきにあらねば、田村(むら)殿は都へ上り給ひける。高(たか)丸が首(くひ)を都へ持ち、御門(かと)へ見参(けんさん)に入れ給(たも)ふ。
急ぎ、詮議(せんき)あるべしとて、やがて宣旨(せんし)をあり、いよいよ田村(たむら)殿、良き将軍(しやうくん)とて、仰(あふ)がぬ人はなかりけり。
さて、六の国、きり山が岳に鬼あり。我が朝(てう)を魔王(まわう)の住処となさんとす。急ぎ、これを討ちて参らせよと宣旨なり。
田村(たむら)殿は、かねて拵え給へば、子細なしとて了承(りやうしやう)申。騒速(そはや)の剣(つるき)を佩き、龍馬(りうむま)にきんふくりん(金覆輪か金輻輪か)の鞍を置き、うちて出で給(たも)ふ。
御供と仰(おほ)せを被(かうふ)りたれば、霞(かすみ)のけんたい(賢台か)と宣ふ御大将(しやう)と行(ゆ)く。
そのとき、龍(りう)を空にひき向け給へば、空に上がりて、程なく六の国、きり山が岳(たけ)、雲の釣殿(つりとの)に着き給(たも)ふ。
鈴鹿女房(ねうはう)、折節、昼寝しておわしけるか、魂は中央(ちうわう)にありて遊びけるか、田村殿を御覧じて急ぎ天下り給ひて、田村殿(たむらとの)を招じ(しやうし)申されけり。
さて、門に差し入りて、扉(とひら)を御覧ずれば、鈴鹿の御前の御手にて
恋みても 人のこゝろは けふはまた うき世にのこる かたみなりけり
斯様(やう)の事を御覧するに、いとゞ昔恋しく覚(おほ)え給ふ。
あなたこなたを御覧し給えへば、黒鉄(くろかね)の築地(ついち)を付き回しけり。
その景色を見給へば、鈴鹿の御前、はや、涙汲て、などやこのニ三年の間(あひた)、鈴鹿の姫君(ひめきみ)の方へは、御訪(おとつ)れも、し給わざらん。これへの又風(かせ)の便りをも下回ざるやとて、御涙、堰きあへず、恨み給へば、
田村殿は斯様(かやう)の所ゑは容易く人の来たるべきかとて、鈴鹿へは、さらに心に暇なくて申さず候、我も御恋しさは限(かき)りなし。それをば思(おほ)し召し御やり候へ。
又、斯様(かやう)のふしきなる所へ参り、今一度(と)会い奉らん為なりとて、さめざめと泣き給(たも)ふ。御物かたりども、やゝありて、さて大嶽(たけ)は如何にと問ひ給へば、
一の魂ははや抜きて候、御心安く討たせ奉らん。大嶽(たけ)は城(しやう)の上(うへ)に候なり、三月の中の午(むま)の日、天下(くた)り候なり。
そのとき珍(めつら)しき、会式(ゑしき)せんとて、午(むま)のとき、いて候はゞ(マゝ)、
大唐(たいたう)の姫君(ひめきみ)、けいたん(契丹か)国(こく)の姫君(ひめきみ)、その中に、見目良からんを取らんとて出でし、明日の未(ひつし)の時はこれへ来るべしと宣へば、
田村(むら)殿(との)、仰(おほ)せにわ、後の世の物語(かたり)に、あはれ(天晴か)大嶽(たけ)が住む所を見たく候と宣へば、
易き事なりとて、大嶽(たけ)が住むところを見せ申されければ、綾錦、隠れ蓑、隠れ笠、はこんしやうの鎧(よろひ)、打出の小槌などの様なる物どもを拵ゑて置きたり。
又、有ところを見れば、この年(とし)月取りたる人の死骨(しこつ)どもを積み置きたり。あさましき事、限りなし。
さて、鬼の帰(かゑ)る時にもなりぬれば、四方(はう)に剣(つるき)を立て並べ、神通(しんつう)の槻弓(つきゆみ)を張り、大嶽(たけ)を待ち給ふ所に、雲なき空、かき曇り、雷(いかつち)しげくなり、雨風(あめかせ)もの騒がしくしければ、
田村(むら)殿は高き櫓(やくら)の上(うゑ)に見給へば、大唐(たう)の姫君(ひめきみ)かと思しくて、鬼六人が、先に立てゝ、己は光を差し、けんしゃうきうの剣(つるき)を持ちて来たりけるが、申様(やう)
不思議(ふしき)や、人間(けん)の声(こゑ)のするはとて見ければ、さればこそと思ひて、伴の鬼とも申様(やう)、我等が敵(かたき)、葦毛(あしけ)なる馬(むま)のあるは、如何様、田村殿といふ曲者が来たりたると覚えたりとて
門の辺り、近く寄りて聞けば、内に田村(たむら)殿声(こゑ)しける。又聞けば、花瞼(くわけん)の声(こゑ)しける。
大嶽(たけ)これを聞き、腹をたて、申様(やう)、我が許へ来たり、斯様(かやう)の事あるべきこそ覚(おほ)えね。凡夫(ほんぶ)がおのれおのれと大嶽(たけ)が喚(おめ)く声(こゑ)、門も破(やふ)れ、築地(ついち)も崩(くつ)れ、内ゑ大嶽(たけ)入(い)りぬ。
姿を見れば、丈は四十丈(ちやう)ばかりもあるらんと覚(おほ)ゑたり、眼(まなこ)の数(かす)は七十ニ、面の数は六十なり。天地を動かして五色(しき)の息を吹き出だしける。
大嶽(たけ)、余りに腹をたて、田村(むら)、取って組み伏せよ、我がものどもと下知(けち)しければ、
田村(たむら)、静々(しつしつ)と宣ひけるは、音にも聞くらん今は目にもみよ。鬼共、無残なり。日本我が朝(てう)はみもすそ川の御流れ、十全(せん)の君の御遣ひなり。
いかで、狼藉(らうせき)をば申ぞ、己が命を助けむとも、助けじとも我がまゝなりと宣へば、
大嶽(たけ)、これを嘲笑(あさわら)ひ申けるは、日本に王(わう)のあるとかや、僅(わつ)かに嶋(しま)の辺(ほとり)に、何が王(わう)と定(さた)むらん。
天竺(てんちく)にわ、童(わらは)が主(しゆ)のさ大天に、二体の王子(おうち)、せんさい王(わう)、又、父鬼の王(わう)、五十王(わう)とておわします。
天竺(てんちく)にもん王(わう)の位に勝る事なし、唐土(たうと)は七御門(かと、ちく(ママ)さん国(粟散国か)なるゆわやわつか(僅かか)の秋津国を領(りやうする物をば王(わう)とは誰か言はん。
事々しや、命を助けおけばこそ、かゝる事をば言へ。いざや、微塵(みちん)になさんとして、大嶽(たけ)を先として、六人の鬼ども、喚(おめ)き掛かるとき、
田村殿、剣(つるき)に過ちすなと御言葉(ことは)ありければ、四方(はう)よる四の剣(つるき)、切っ先を揃へて来たりける。
これを鬼ども見て、こは如何にせん。命ありてこそ大嶽(たけ)殿にも仕へけめとて逃げぬれば、
大とうれん、左に続き、小とうれん、天地に入て攻むる。はや、御剣(つるき)、空より下りて攻めければ、終(つゐ)に鬼ども失せにけり。
大嶽(たけ)、たゞ一人になりて、こゝかしこ、逃げければ、剣(つるき)、追うてかゝる。あまりに攻められて、天地を破(やふ)つて入(い)らんとすれば、又地神(ちぢん)、下より攻められければ、せん方なくて、六十二の面、三百八十の口の鬼ども、ただ一度に落ち失せにけり。
大嶽(たけ)が首(くひ)をば天竺へ上りて、くた(ママ)の王(わう)に申下して、田村(むら)を討つべしと申ければ、
鈴鹿、これを聞し召して、あの首(くひ)、たゞ今落ちかゝり候わんとするぞ、過ちし給(たも)うなとて、鎧、三両(りやう)、兜(かふと)十枚重ねて着せ奉る。
案のごとく、首、空より喚(おめ)きかゝる。ひしひしと噛みつきける。
そのとき鈴鹿、けんみやうれんの剣(つるき)を持ちて、とどめを刺し給ふ。それよりして、兜にクワガタ(くわかた)と言ふもの始まりける。
さる程に、田村殿、鬼ども皆焼き失いて、大嶽(たけ)ばかりが首を持ち給ひて都へ上り給(たも)ふ。鈴鹿諸共に上(のほ)らん事を喜び給ふところに、鈴鹿、仰(おほ)せありけるは、
自ら、しやうりう(小龍か)諸共に育てゝ、世にあらんと思へばしやうしむしやう(常時無常か)の習ひにて、我死なん事、月日を定めたけり。
鈴鹿の山を持つ者は、下の果報(くわほう)の物は十二年を過ごし、中の果報(くわほう)の物は十六年を過ごし、上の果報(くわほう)の物は廿五を限りにて候。
されば我は上の果報(くわほう)の物にて、今年、自ら(身つから)は廿五になり候。されば、いかに御心苦しく思し召し候はん事、いたわしく候。
この八月十五日に、無常(むしやう)の風に誘われて、たゞ独りこそ行(ゆ)かんとて、御袖を絞(しほ)り給(たも)ふ。
生(しやう)を受けて、死する事、定(さた)まれる事なれど、御愛の道、夫妻の契(ちき)り、今に始めぬ事なり。夫妻は二世の契(ちき)りと申せば、必ず一蓮(はちす)の縁(ゑん)とならんと、御袖を絞(しほ)り給ひつゝ、
構えて、自らこそ、斯様(かやう)になるとも鈴鹿ゑおわしまして、姫君(ひめきみ)を御覧ぜよ。世に思ふ事は、姫君(ひめきみ)の事ばかりなりとて、御袖に余る涙、よそ(余所か)の袖(そて)まで朽ち果つべし。
田村殿はたゞ諸共に鈴鹿へ行きて、ともかくもなり給わんを、見奉らんと宣へば、
何しに、さのみ嘆き給ふらん。大嶽(たけ)が首を御門(みかと)ゑ見参に入れずして、鈴鹿へおわしまさん事、努々(ゆめゆめ)あるまじ。若姫君(きみ)の、せめて十五と申さんまで永らえたくこそ候へとて泣き給ふ。
斯くあるべきにあらざれば、都へ御上(のほ)りありて、鈴鹿へ急ぎおわしませとて、鈴鹿の御前は我がふるさとへとて、神通(しんつう)の車に乗り給ふ。
田村殿は大嶽が首(くひ)を取りて都へ上り給ひける。
さて、御門(かと)、首を実見(じつけん)あり、様々の恩賞(おんしやう)を行われけり。大嶽(たけ)が首(くひ)をば末代のためにとて、宝蔵(ほうさう)に込められけり。
田村殿、急いで鈴鹿へ下り給ひぬ。門を差し入(い)り給ふより、人の泣く声(こゑ)すれば、胸うち騒ぎて、急ぎ入(い)りて見給へば、七日と申ける。姫君(ひめきみ)の枕許に立ち寄り、悲しみ給ふ。
田村殿、おわしまして、働かさでおけと仰(おほ)せ候つると申、田村殿、いよいよ夢の心地して、嘆き給ふ事限りなし。
さて、田村殿、御手を取りて、胸に押し当て、今一度(と)物仰(おほ)せ候へ、何とて、御約束を御違(ちか)へ候ぞと嘆き給へば、
やゝありて、さも苦し気なるいそ(ママ)を付き、今一度(と)見ゑ奉らんとてこそ、斯様(かやう)にて候なれ、大とうれん、小とうれんをば、殿に奉る。けんみやうれんをば、姫君(ひめきみ)に賜(た)び候へ。
我、飛行(ひきやう)自在(しさい)の如くと申は、このけんみやうれんを朝日に当てゝ、見候へば、三千大千世界(せんせかい)を眼(まなこ)の前(まへ)に見るなり。
鈴鹿のしやうりう(小龍か)、保つべきにて候、返す返す世の末(すゑ)にも、愛おしくあらせ給へ。姫君(ひめきみ)、我に劣らぬ神通(しんつう)の物なり。
さらば暇申して、失せ給(たも)ふ、姿も変わり果て給ひぬ。田村殿御嘆(なけ)き、せん方なくおわします。
さる程(ほと)に、七日と申に、田村(たむら)殿、この思ひにやありけん、終(つゐ)に儚くなり給えば、姫君(ひめきみ)も一かたならむ思ひにや、これも左右(さう)なく見ゑ給(たも)ふ。
大将(しやう)に付けて候ける倶生神(くしやうしん)を始(はし)めとして、如何なる事かと怪しめれば、門を引きてみ給へば、伊勢の国、鈴鹿山といふ所に、女人成業(ちやうごう)、限(かき)りありて、廿五と申に、命、終わり候なり。
これ、上界(しやうかい)の天人(てんにん)なり。仮に縁(ゑん)深くして、娑婆に出でたりしを召さるれば、男女(おとこおんな)の習ひにて、かりそめに縁(ゑん)を結びたるか、思ひに死に候、その焔(ほむら)、火となりてたいしやくたう(帝釈堂か)も焼け候と申けり。
さる程(ほと)に、田村殿、非業(ひこう)の物なり。疾くして娑婆へ返(かへ)せと、閻魔王(ゑんまわう)、獄卒(こくそつ)に仰(おほ)せありて、急ぎ返(かへ)されければ、
田村殿、申されけるは、我一人、娑婆へ帰(かへ)りても何かせん、同じくは、鈴鹿諸共に返(かゑ)し給へとて御手を合はせて悲しみ給へば、
この女房(にうはう)は成業(ぢやうごう)の物なり、御辺ばかり疾く疾く帰れと閻魔王(ゑんまわう)宣へば、
田村殿、そのとき腹をたて、獄卒(こくそつ)の中を押し分けて行(ゆ)き給ひて、この田村殿と申も、たゞ人にてもなし、大とうれんと申も、文珠(もんしゆ)の智剣(ちけん)なり、かの剣(つるき)の怪力に、獄卒(こくそつ)、いと(マゝ)かすべきと大しゃくたう(帝釈堂か)は燃ゑければ、
閻魔王(ゑんまわう)、倶生神(くしやうしん)、大(おほ)きに騒(さは)ぎて、たいしやくたう(帝釈堂か)滅びなば、冥途の界(甲斐か)、何あるべき、さらば、三年が暇を賜(た)びて、田村も女房(ねうほう)も娑婆へ返(かゑ)すと閻魔王(ゑんまわう)仰(おほ)せありければ、
倶生神(くしやうしん)申様(やう)、この天女(てんによ)はこれへ参りても既(すて)に遥かになり、今は身体もよもあらじ。田村こそ非業(ひこう)の死になれば、返さるへ□と申せば、
ただ急ぎ返(かゑ)すべき、女人もたゞ物にてもなし。上界(しやうかい)の天人なり。
されば、一歳の同じ年生(む)まれたる近江(あふみ)の国の、とうかいと言ふところにあるに、急ぎ急ぎ鈴鹿を入れ替えよと宣ひければ、
田村(たむら)殿、元の如くの姿にてもなし、あさまし気にて候と有りしかば、閻魔王(ゑんまわう)、不死の薬を賜りて、ほんのな(本の名か)を美しくありけり、冥途(めいと)の三年と申は、娑婆の六年に当たるなり。
田村殿も、娑婆へ帰り、鈴鹿の女房(にうはう)諸共に、鈴鹿の御所(しよ)に立ち返り、都へ上り給ひて、
その内に姫君(ひめきみ)は数多になり給ひて、永く将軍(しやうくん)と仰(あふ)がれ給ひぬ。
鈴鹿の姫君(ひめきみ)も、永く鈴鹿の主とぞ言はれ給ひける。
衆生済度(しゆしやうさいと)の御方便(はうべん)なりければ、鈴鹿を信ぜん人は必ず、成就し給ふべし。
もし鈴鹿、御いり候わずは、日本は鬼の世界となるべし。この事、よくよく御聞き候て、鈴鹿へ御参り有べく候。あなかしこかしこ。
如本書之なり。
◆余談
ひらがな成分多めの原文だったので漢字を当てるのに苦労した。フリガナが多いのは元のイメージに近づけようとしたつもり。
◆参考文献
・「室町時代物語大成 第七」(横山重, 松本隆信/編, 角川書店, 1979)※「鈴鹿の草子」pp.461-497
・福田晃「奥浄瑠璃『田村三代記』の古層」「口承文芸研究」第二十七号(日本口承文藝学會, 2004)pp.1-33
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