まんが日本昔ばなし

2021年12月22日 (水)

サイトが消える

狢工房という「まんが日本昔ばなし」の演出・作画を担当されていた方が運営されているサイトがあったのだが、アクセスできなくなっていた。「まんが日本昔ばなし」の各エピソードのスタッフ、放送年月日などがデータベース化されていたのだが閲覧できなくなってしまった。知的損失だが、個人のホームページだとこういうことがある。

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2019年6月30日 (日)

伝説から昔話へ――渡廊下の寄附

◆はじめに
 「まんが日本昔ばなし」で「渡廊下の寄附」がアニメ化されている。出典:大庭良美(未来社刊)よりとあるので、未来社「石見の民話 第二集」である。島根の昔話として紹介されている。演出:あがわさち、文芸:沖島勲、美術:阿部幸次、作画:塚田洋子。

◆アニメのあらすじ
 昔、ある村に分限者(お金持ち)がいた。あるとき村の橋が壊れたので和尚が橋を建て替える寄附を募る手紙を出した。手紙を読んだ分限者だったが、村でどんな災難があっても、びた一文出したことがなかった。今度も持ち合わせがないといって使いの小僧を帰した。村人たちはなけなしの金をはたいて橋や道の修理をしていた。こんな分限者にお寺の和尚は何とかしなければと考えていた。ある雨の日、和尚は本堂と母屋を結ぶ渡り廊下を作ることを思いつく。分限者に手紙を書くが、分限者は生憎持ち合わせがないといって使いの小僧を帰した。そこで和尚は分限者の許に直接赴いた。人間、一生に一度はよい事をしないと地獄に堕ちると告げる。強かな分限者も和尚のこの言葉には堪えた。寄附は幾らと訊くと、和尚は一両と答えた。分限者は寄附というと五、六十両くらいを思い浮かべていたので、和尚の申し出に乗って一両だけ渡した。こうしてお寺の渡り廊下が建てられた。和尚は分限者の功徳だと言う。それから間もなく、分限者は急な病で死んでしまった。けちだとは言っても分限者なので葬儀は盛大に行われた。幸い天気もよく野辺送りも滞りなく行われていた。ところが途中まで来たところで晴れていた空が急に黒雲に覆われた。と、なにやら得体の知れない黒雲が行列の頭上を飛び交いはじめた。黒雲の中から巨大な手が現れて、分限者の棺を取ってしまおうとした。和尚は「待て、廊下、渡り廊下」と叫んだ。和尚が大声で二度叫んだところ、どうしたことか黒雲は動きを止めた。手は分限者の棺を元に戻した。そして黒雲は去っていき、空は晴れ渡った。和尚はあれは火車といって強欲な人が死ぬと死体を地獄に運びとって喰う魔物だといった。分限者は強欲だったが、生前に良い行いを一つだけしていた。それが渡り廊下の寄附だ。火車もそれを忘れていたので、それを教えたのだと言った。和尚は生前、分限者に良い行いをさせるために渡り廊下の寄附を無理やりさせたのだ。こうして分限者の野辺送りはおだやかに行われた。

◆未来社「石見の民話」
 「石見の民話 第二集」の粗筋は下記の通りである。

 あるところに分限者がいた。とてもケチでお寺の寄附なども色々言い訳をして中々出さなかった。檀那寺の方丈は何とかして功徳を積ませないと死んでから罪に落ちると考え、近頃の寺の渡り廊下が痛んで歩くのに危ないようになったので寄附をして欲しいといった。分限者は寄附というと五両も十両もいると考えて嫌な顔をしたが、和尚が一両もあれば充分だと答えたので、喜んで一両出した。

 ところがそれから間もなく分限者は急病で亡くなってしまった。葬式の日は何と言っても分限者だということで大勢の人が来た。幸い天気もよく、坊さんもお経をあげ焼香した。すると急に空がかき曇り、真っ黒い雲が棺を狙って舞い降りてきた。檀那寺の方丈は鉄の如意を振りかぶって「廊下、廊下」と大きな声で叫んで黒雲めがけて投げつけた。すると黒雲は直ちに天上へと舞い上がり、空はもとのように晴れた。

 黒雲は火車で、棺の中の死体をさらうために来たのだった。火車は強欲な人が死ぬと死体をとって喰う魔物だ。居合わせた他の坊さんたちは方丈の「廊下廊下」という一喝の威力に驚いた。方丈は、分限者が強欲で死んだら火車に取られるようなことになってはいけないと思い、渡り廊下の寄附をさせてその功徳で救ったのだと教えた。

◆火車
 アニメでは巨大な手として描かれていたが、Wikipediaの該当項目を読むと猫の妖怪、または猫又だとされている。

山形県では昔、ある裕福な男が死んだときにカシャ猫(火車)が現れて亡骸を奪おうとしたが、清源寺の和尚により追い払われたと伝えられる。そのとき残された尻尾とされるものが魔除けとして長谷観音堂に奉納されており、毎年正月に公開される[16]。この話はまんが日本昔ばなしで「渡り廊下の寄付」の元とされ妖怪火車として登場している。

とある。「まんが日本昔ばなし」でアニメ化されたのは石見の昔話であるが、原典は山形県の伝説だとしている。どうして山形県の伝説が島根県石見地方にまで伝わったのだろうか。単純に考えると、書承ということになるが、「石見の民話」の原話としては「佐々木義雄昔話集」が挙げられている。おそらく昔話を百話レベルで記憶していた人の語りを昔話として採録した本だろう。口承でも相当数の昔話を継承していた人だと思われる。

国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースで火車を検索すると、30件ヒットする。山形県の事例は登録されていないようだが、全国的にも人気のある妖怪だと言えるのではないか。

◆参考文献
・「石見の民話 第二集」(大庭良美/編著, 未来社, 1978)pp.304-305

記事を転載→「広小路

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2017年9月24日 (日)

隠れ里か猿神退治か浦島太郎か――高田六左衛の夢

◆粗筋
 昔、高田余頃(よごろ)というとこりに鬼の穴という洞穴があった。奥がでれほどあるのか、誰も入ったものがいない。
 近くに六左衛という肝の太い鉄砲うちがいて、いつかその鬼の穴に入ってみたいと考えていた。
 ある日、「おかみさん、俺はあの鬼の穴に入ってみようと思う。弁当をこさえてくれ」と言った。おかみさんは驚いて「お前さん、何をおっしゃるのやら、やめて下さいな」と止めようとしたが、六佐は聴かない。
 無理に作らせた弁当を持って、穴の中へどんどん入っていく。中は真っ暗で何もないところをおよそ一日も歩いたかと思う頃、彼方に灯りが見えてきた。
 「ようやく出口を見つけた」と更に進んでいくと、穴の出口へ出た。見たことのない山奥で谷あいに小川が流れている。水をすくって飲んでいると、椀が一つ流れてきた。川上に誰か住んでいる、と小川の岸を上流へと上がっていった。
 すると村があった。着いてみると、村ではお囃子が鳴り響き、幟(のぼり)が立っている。ところが不思議なことに、一軒の家では賑やかな酒盛りをしているのに、隣では人々が泣き悲しんでいた。
 どうしたことか訊いてみると、「ここの氏神様の祭りには毎年娘を一人、人身御供にあげることになっていて、くじ引きをしたら、当たったところでは悲しみ、外れたところでは喜んでいる」と村人が答えた。
 可哀想に思った六佐は助けてやろうと決心した。人身御供の家に行き、自分が娘の代わりに行こうと言った。 六佐は強そうに見えたので、人々は助かったと喜んだ。
 六佐は赤い着物を着て女装し、人身御供に使う長持ちの中に入った。長持ちには細い穴が開けてある。明日の朝、太鼓が鳴ったら、六佐が生きている合図だ、迎えに来るようにと頼んで、山の宮へ担がれていった。
 宮の拝殿に長持ちを置いた村人たちは逃げるように帰っていった。
 夜が更けた。拝殿の扉が開いた。六佐が長持ちに開けた穴から覗いていると、二人の小坊主が現れた。
 小坊主が長持ちの蓋に手を掛けた。六佐はここぞとばかりに長持ちの穴から鉄砲をぶっ放した。一人の小坊主があっと叫んで消えた。次の弾をこめると、逃げようとするもう一人の背中めがけて、またぶっ放した。小坊主はあっと叫んで消えた。やがて静まり返り、六佐は息を殺して耳を澄ましたが、何も起こらなかった。
 夜が明けた。六佐は長持ちから出て太鼓を精一杯打ち鳴らした。すると村人たちが上がってきた。六佐から夕べの話を聞き、点々と落ちている血の跡を辿っていくと、洞穴の中に二疋の古狸がいた。村人は古狸を打ち殺してしまった。
 こんなうれしいことはないと、村中でお祭りをして祝った。六佐は強い人だから、うちの娘の婿(むこ)になってくれと頼まれた。困った六佐は「家におかみさんがいるから、帰らなければ」と断った。
 六佐はお礼の品を貰い、もと来た道を引き返した。洞穴を抜けて、自分の村に出てみると、どことなく様子が違う。自分の家があった辺りは畑になっている。
 畑を耕している爺さんに話を聞いてみると、何でも、昔、六左衛という人の家があったらしい。これが六左衛のかみさんの墓だと教えてくれた。
 六佐はたった四、五日のことだと思ったのに、そんな昔のことなのかと合点がいかない。おかみさんの墓の前で跪くと泣き出した。
 すると、「お前さん、何言ってるかね」というおかみさんの声でパッと目が覚めた。みんな夢だったとさ。

 ……村は隠れ里か、六左衛の活躍は猿神退治か、そして結末は浦島太郎かと思わせつつ、結局は夢落ちで終わってしまうお話である。

◆誤読した粗筋
 最初に読んだとき、全体で6ページあるのだけど、真ん中の2ページを飛ばして読んでしまっていた。その様に粗筋を書くと下記のようになる。

 昔、高田余頃というとこりに鬼の穴という洞穴があった。奥がでれほどあるのか、誰も入ったものがいない。
 近くに六左衛という鉄砲うちがいて、いつかその鬼の穴に入ってみたいと考えていた。
 おかみさんに無理に作らせた弁当を持って、洞穴の中へどんどん入っていく。中は真っ暗で何もないところをおよそ一日も歩いたかと思う頃、彼方に灯りが見えてきた。
 「ようやく出口を見つけた」と更に進んでいくと、穴の出口へ出た。見たことのない山奥で谷あいに小川が流れている。椀が一つ流れてきた。川上に誰か住んでいる、と小川の岸を上流へと上がっていった。
 すると村があった。着いてみると、村ではお囃子が鳴り響き、幟が立っている。ところが不思議なことに、一軒の家では賑やかな酒盛りをしているのに、隣では人々が泣き悲しんでいた。
 どうしたことか訊いてみると、「ここの氏神様の祭りには毎年娘を一人、人身御供にあげることになっていて、くじ引きをしたら、当たったところでは悲しみ、外れたところでは喜んでいる」と村人が答えた。
 困った六佐は「家におかみさんがいるから、帰らなければ」と村人の願いを断った。
 六佐はもと来た道を引き返した。洞穴を抜けて、自分の村に出てみると、どことなく様子が違う。自分の家があった辺りは畑になっている。
 畑を耕している爺さんに話を聞いてみると、何でも、昔、六左衛という人の家があったらしい。これが六左衛のかみさんの墓だと教えてくれた。
 六佐はたった四、五日のことだと思ったのに、そんな昔のことなのかと合点がいかない。おかみさんの墓の前で跪くと泣き出した。
 すると、「お前さん、何言ってるかね」というおかみさんの声でパッと目が覚めた。みんな夢だったとさ。

 ……という具合に読んだのだが、読み飛ばしても意外と繋がっていたのだ。これだと六左衛が活躍するはずのところを、家にかみさんがいるからと渋ってしまうという妙な流れになってしまう。何とも不思議な味わいの昔話だと思っていたら、真ん中のページを読み飛ばしていただけだったというオチであった。

◆アニメ
 「高田六左衛の夢」は「まんが日本昔ばなし」でアニメ化されている。石塚尊俊(未来社刊)より、スタッフは、演出・美術・作画:久米工、文芸:境のぶひろ。

 昔、出雲の片田舎、高田の余頃というところに六左衛という名の鉄砲うちがいた。こうした山里には一人くらい鉄砲うちがいたものだ。そして普通の人とはどこか変わったところのある男たちだった。六左衛もその内の一人だった。
 六佐はかみさんに明日は鬼の穴に入るから、朝早くから出る。弁当を作ってくれと言う。おかみさんは鬼の穴には鬼が住んでいる、とんでもないと言ったが、六佐は鬼がいるかどうかは入って見なければ分からない。人は恐れて入ろうとしないが、自分は入ろうと思うと答えた。
 あくる朝、六左は鬼の穴へと出かけた。確かに六佐は肝の太い男だった。鬼の穴はどれくらい深いか見当もつかない深い洞穴で、入り口の前に立つと唸り声のような音がして人を震え上がらせた。
 その日の鬼の穴は六佐を迎え入れるかのように、しんと静まり返っていた。と、と、松明の火が消えた。どちらへ行けばいいのか、仕方がないので弁当を食べた。そうして、風向きを調べて、風の吹いてくる方向へと進んでいった。と、六左は落とし穴に落ちてしまった。すると、小鳥の声が聴こえる。出口が見つかった。
 出口から出ると絶景だった。どうしたことか、家を出るときには雪が積もっていたのに、ここでは春で雪は積もっていなかった。
 小川で顔を洗っていると、上流から椀が流れて来た。上流には誰か住んでいる、六佐は上流へと向かった。どんなことがあろうとも、恐れる六佐ではなかった。やがて村に出た。
 村では家々に幟を立て、お囃子が響いていた。ところがある一軒では、村人が嘆き悲しんでいた。向かい合わせの家で、向こうは酒盛り、こっちは悲しんでいる、何とも不思議な光景だった。せっかく来たのだから、訳を聞かせて貰おうと、嘆き悲しんでいる家に向かった。すると、ここの氏神は化物で、毎年娘を一人、人身御供に上げねばならない。くじを引いたら当たってしまったので、こうして悲しんでいるのだと答えた。
 六佐はそれならば自分が身代りになろうと言って、娘の着物を羽織ると、長持ちの中に入った。明日の朝、氏神様の太鼓が鳴ったら、自分が生きている証拠だと言って、長持ちの中に身を潜めた。
 長持ちには六佐の注文で、外が見える様に穴が開けられていた。長持ちはお社の拝殿の前に置かれた。六佐は息を殺して時を待った。
 と、真夜中を過ぎた頃、拝殿の扉が開いた。すると中から一つ目の化物が二体出てきた。そこで六佐は狙いを定めると鉄砲をぶっ放した。化物は消えた。不思議な地響きがしたが、やがて止んだ。
 夜が明けた。暗い内に起きだす六佐ではなかったが、もう大丈夫と長持ちの外へと出た。六佐はしっかりバチを握ると、太鼓を打ち鳴らした。聞きつけた村人たちがやって来た。
 さて、化物の正体はというと、二匹の大狢(むじな)だった。長年に渡って、村の娘の生き血をすすってきた大狢を見て、村人たちは言葉も無かった。
 村は二日続きの祭りとなった。なにせもう悲しむ者はいないのだから。挙句の果てに、六佐に命を救われた娘の父親が六佐に婿になって欲しいと頼む。せっかくだが、自分には長年連れ添ったかみさんがいると六佐は断った。
 村人たちは沢山のものを六佐に贈り物として与えた。不思議なことに、気がつくと六佐は鬼の穴の入口に立っていた。だが、六佐の家が跡形もなく消えていた。通りかかった爺さんに訊いてみると、昔、自分の爺様の話だと、昔、六左衛という人の家があったというと答えた。そして、あれが六佐のかみさんの墓だと答えた。たった二日のことだったのに、六佐は墓に積もった雪を払った。すると、六佐のかみさんの名前が彫られていた。こんなことなら、鬼の穴の中に入るんじゃなかったと嘆いていると、おかみさんの声で目が覚めた。夢だった。その後、六佐は二度と鬼の穴に行くとは言わなかった。かみさんの傍が一番だと。

◆今昔物語
 今昔物語「飛騨国猿神止生贄語第八(ひだのくにのさるかみのいけにへをとどむることだいはち)」では隠れ里における猿神退治の話が収録されている。

 今は昔、仏の道を修行して歩く僧がいた。いずこともなく修行し歩くうちに飛騨の国まで行った。

 そうこうしているうちに山深く入って道に迷ったので、出る方向も分からないところに、道と思しく木の葉の散り積もった上を分け行くと、道が行き止まりになって大きな滝で簾をかけた様に高く広く落ちる所に行き着いた。引き返そうとしたけれども、道も分からない。行こうとすれば手を立てたような断崖の一、二百丈ばかりで、登ることのできる様子も無いので、「ただ仏よ助け給え」と念じていると、後ろに人の足音がしたので振り返って見ると、荷物を負った男が笠を被って歩いてきたので、「人の来たことだ」と嬉しく思って「道の行き方を問おう」と思うと、この男は僧を非常に怪し気に思った。僧はこの男に歩き寄って「どこからどうしてやって来た人か。この道はどこに出るのですか」と問うたけれども答えも無く、この滝の方に歩いて向い、滝の中に飛び込んでいなくなったので、僧は「これは人ではない。鬼でしょう」と思っていよいよ恐ろしくなった。「自分は今どうにも逃れ難い。さればこの鬼に喰われる前に彼が飛び込んだ様にこの滝に飛び込んで身を投げて死のう。死んだ後に鬼が食っても苦しくないだろう」と思い、歩み寄って「仏よ、後生を助け給え」と念じて、彼が飛び込んだ様に滝の中に飛び込んだところ、顔面に水を注ぐ様にして、滝を通った。「今に水に溺れて死んでしまうだろう」と思うと、なお正気だったので、立ち返って見ると滝はなんとただ一重に簾をかけた様であった。滝より内側には道があり、そのままに行くと、山の下を通って細い道があり、それを通り過ぎてしまえば、向こうに大きな人里があって、人の家が多く見えた。

 なので僧は「嬉しい」と思い歩き行くと、荷物を負った男が背負ったものを置いて走り向かって来た。後ろに大人しい男で浅黄の裃を着た男が遅れまいと走ってきて、僧を引いた。僧は「これはどうしたことですか」と言えば、この浅黄の裃を着た男はただ「私の許へ来なさい」と言って引いていくと、あちらこちらから人々が数多く来て、各々が「私の許へ来なさい」と言って引っ張り合ったから僧は「これはどうしたことだろう」と思っていると、「このような滅茶苦茶な奪い合いをしてはならない」と言って「郡司殿に参って、その定めに従ってこそよかろう」と言って、集まり付いて行けば、何が何やら訳の分からぬまま行くと、大きな家があってそこに行った。

 その家から年老いた翁がもったいぶった様子で出て「これはどうしたことだ」と言ったので、この荷物を負った男が言うには「これは、自分が日本の国から詣でて来てこの人に差し上げたのです」と浅黄の裃を着た者を指して言ったので、この年老いた翁は「とやかく言うべきではない。あの主の得るべきものだ」と言って取らせたので、他の者たちは去った。なので、僧は浅黄の男に取られて、その行く方に行った。僧は「これは皆鬼だろう。自分を連れて行き食おうとしてるのだ」と思うと、悲しくて涙が落ちた。「日本の国と言ったのは、ここはどういう所で、このように遠そうに言うのです」と怪しく思う様子をこの浅黄の男が見て、僧に言うには「分からないと思いなさるな。ここはとても楽しい世界である。思い煩うこともなく豊かに暮らせましょう」という内に家に行きついた。

 家を見ると、郡司の家よりは少し小さいけれども、望ましい様に造って男女の使用人が多かった。家の者たちは喜んで待ち、際限なく走り回った。浅黄の男は僧を「早く上がりなさい」と言って板敷に呼び上げれば負った笈(おひ)というものを取って傍らに置いて蓑、笠、藁沓(わらぐつ)などを脱いで上がったところ、すばらしくしつらえた所に座らせた。

 「先ず物を早く参らせよ(食べ物を用意せよ)」と言ったので、食物を持ってきたのを見ると魚や鳥をなんともいえない程見事に調理して差し出した。僧はそれを見て食わずにいたので、この浅黄の男が出て来て「どうしてこれを食べないのか」と言った。僧は「幼くして法師になってから未だこのような物を食べたことがないので、このようにして見ているのです」と言ったところ、「実にそれはさもありなん。しかしながら今はこのような状況なのでこの物を喰わないでいることはできない。かわいく思う娘が一人いるが、未だに独身で歳もよくよくとったので、そなたに娶せよう。今日からその髪を伸ばしなさい。そうだとしても、今は外へ出ることもないだろう。ただ申し上げるのに従っていなさい」と言ったので、僧は「このように言うのに異心を抱くならば、殺されるかもしれない」と恐ろしく思うのに合わせて、逃げていくべきところも無いので、「未経験のことですから、そう申しただけのことです。只今おっしゃったことに従いましょう」と言えば、家の主は喜んで自分の食物も取り出して、二人差し向かって食べた。僧は「仏はいかに思召すのか」と思ったけれども、魚や鳥を食べてしまった。

 その後、夜に入って、歳二十歳ばかりの女で美麗な姿形でよく装束を着た(着飾った)のが来たのを、家の主が押し出して、「娘を差し上げましょう。今日からは私が思うのと変わらず愛情をもって思うべきです。ただ一人の娘なので、その志の程を推し量ってください」と言って帰ったので、僧は何も言えずに近づいた。

 こうして夫婦として月日を過ごすに、楽しいことは一通りでない。思うに従って着衣をつけ、食物はなんでも食べたので、以前と違って引き替えたように太った。髪も髻(もとどり)を取られる程に生えたので、引き結い上げて、烏帽子を被った容姿にして、とても清らかであった。娘もこの夫からとても去りがたく思った。夫も女の志が愛情深いのに合わせて自分もいじらしいと思ったので、夜昼とも起き伏して日を明かし暮らす程に、いつの間にか年月が過ぎて八か月ばかりにもなった。

 そうしているうちに、その頃からこの妻の様子が変わって、深く物思いにふける姿となった。家の主は以前よりも大事にかしづいて「男は肉がつき肥えたのがよい。太りなさい」と言って日に何度も食べさせたので、食べ肥えるに従って、この妻がさめざめと泣くときもあった。夫はこれを怪しく思って、妻に「何事を思っているのか、分からない事だ」と言ったけれども、妻は「ただ心細く思えるだけです」と言って、それにつけても以前に増して泣いたので、夫も承知せず怪しんだけれども、人に問うべきことでもなかったので、そうして過ぎるうちに客人が来て、家の主に会った。互いに話し合うのを静かに立ち聞きすると、客人の言うに「運よく思いもかけない人を得なさった。娘殿のご無事でいらっしゃるのがいかにもうれしく思われます」などと言ったので、家の主は「そのことでございます。この人を得なかったら今頃はどのような心持ちであったでしょうか」「ただ今までは求め得た方がいらっしゃるが、(自分にはいないから)明くる年の今頃はどんな心持ちでしょうか」といって後ずさりして出て去ったので、家の主は返り入るままに「物を持ってきなさい。よく食べさせよ」などと言って食物をよこしたので、これを食うにつけても妻が物思いして嘆き泣く、分からない。客人が言った事も「いかなる事か」と恐ろしく思ったので妻の機嫌をとって問うたけれども、「本当のことを言いましょう」という様子ながらも言うことはなかった。

 そうする間に、この里の人々は事を急ぐ気配で、家毎にごちそうを調え騒ぐ。妻が泣き物思いにふける様が日ごとに勝ったので、夫は妻に「泣き笑い、大層な事があったとしても自分をよもや隔てたりはしないでしょうね」と思ったので、「このように隔てているのがつらいのです」と言って恨んで泣いたので、妻も泣いて「申すまいとは思いませんでした。だけれども、(お顔を)見て聞こえることはもう幾ばくもないでしょうから、このように睦まじくなったことが悔しいのです」と言いやる方もなく泣けば、夫、「自分が死ぬだろうということか。それは人の遂に免れぬ道なので、苦しくもないでしょう。ただ、それより他の事が何事かあるのでしょうか。ただ言いなさい」と責めたので、妻は泣く泣く言った。「この国には大変由々しきことがあります。この国に現じた神がいらっしゃいますが、人を生贄にして食うのです。あなたがこの国にお着きになったとき「自分も得よう」と口々に訴え騒いだのは、この生贄の用に供しようと思って言ったのです。年に一人の人が順番に生贄を出すのに、その生贄を求め得なかったときには愛しいと思う子であっても、それを生贄に出すのです。あなたがいなかったら自分のこの身が生贄にされ神に食われるだろう」と思えば「ただ自分が替りに出ようと思うのです」と言って泣いたので、夫は「それをどうして嘆くのです。簡単なことです。さて、生贄を料理して神に供えるのですか」ととえば、「そうではありません。生贄を裸にしてまな板の上に美しく伏せて瑞籬(みずかき:玉垣)の内にかつぎ入れて人が皆去ったら、神が調理して食うのです」と聞きます。やせ衰えた生贄を出せば、神が荒れて作物が不作となり、人も病み、里も平穏ではありません。かくして幾たびとなく物を喰わせて食い太らせようするのです」と言ったので、夫はここ何ヶ月か労わられた事を皆承知して、「さて、この生贄を喰らう神はいかなる姿でいらっしゃるか」と問えば、妻は「猿の姿形でいらっしゃいます」と答えたので、夫が妻に語るには「自分に鍛えた刀を求め得てください」と。妻は「容易いことです」と言って刀を一振り構えて取らせた。夫はその刀を得て、返す返す研いで隠し持っていた。

 さて過去より勇んで、物をよく食べ太ったので家の主も喜んで、これを聞き継ぐ者も「里の今後はよくなるでしょう」と言って喜んだ。こうして生贄の日の七日前を兼ねて、この家に注連縄を引いた。この男にも精進潔斎させた。家々にも注連縄を引いて物忌みをし合った。この妻は「今何日か」と数えて泣き入ったのを、夫は慰めつつ、大事とも思わなかったことで妻は少し慰められた。

 こうして生贄の日になったので、この男に沐浴させ、装束を美しく着させて、髪を櫛で削って、髻(もとどり)を取らせて、鬢(びん)を美しくかき繕い世話をしている間に、使いが幾たびともなく来て、「遅い」と責めたので、男は舅と共に馬に乗って行った。妻はものも言わず(着物を)被って泣き伏した。

 男が行き着いて見たところ、山の中に大きな神殿があって、瑞籬(玉垣)が大層広く巡らしてあった。その前に御馳走を多く据えて、人々が数知れず着き並みいた。この男は一段と高い座席を設けて食べさせられた。人々が皆物を喰い酒を飲んだりして舞を愉しんで終わって後、この男を呼び立てて裸に成し元結を解かせて、「ゆめゆめ動かずにものを言うな」と教え含めて、まな板の上に伏せて、まな板の四つの隅に榊を立てて、注連縄と木綿(ゆふ:楮の皮の繊維から作った白い糸)を掛けて集めてかつぎ入れて先払いして玉垣の内に担ぎ入れて、玉垣の戸を閉じて、人一人も無く帰った。この男は足を差し伸べた股の中にこの隠した刀を持ってさり気なく挟んで持っていた。

 そうしている間に第一の社殿の戸が思いがけずきっと鳴って開いたので、それに少し頭の毛が太って(身の毛がよだって)恐ろしく思えた。その後で次々と社殿の戸が順々に残らず開き渡った。そのときに大きさは人程の猿が社殿の傍から出て来て、一の社殿に向かって屈んだので、一の社殿の簾をかき開いて出た者があり。見たところ、これも同じ猿で、歯は銀を貫いたようなのが、もう少し大きく厳めしいのが歩み出てきた。「これは何とまあ、猿だ」と見て、心が安らかになった。このようにしつつ、社殿から次第に猿が出て着き並みいて後、あの初めの社殿の傍から出てきた猿が一の社殿の猿に向かったので、一の社殿の猿がきゃっきゃ言うのに従って、この猿は生贄の方に歩み寄ってきて、置いてあった真魚箸と刀を取って、生贄に向かって切ろうとしたその瞬間、この生贄の男は股に挟んだ刀を取るままに急に起きて走って、一の社殿の猿に掛かったので、猿は慌ててのけ反って倒れたのを、男はやがて起こさずに押しかかって踏んで、刀を未だ差し当てず、「お前は神か」と言ったところ、猿は手を擦る。他の猿どもはこれを見て一つもなく逃げ去り、木に走り登ってきゃっきゃ騒いだ。

 その時に男は傍に葛のあるのを断ってこの猿を縛り、柱に結いつけて刀を腹に差し当てて言うには「お前で猿ではないか。神という虚名を名乗って、年々に人を喰うのは、非常なことではないか。そこの二、三の御子と言った猿を確かに召し出せ。さもなくば突き殺そう。神ならば刀も立たないであろう。腹に突き立てて試みよう」と言って、ほんのちょっと刀でえぐる様にすると、猿は叫んで手を擦り合わせるので、男は「ならば、二、三の御子という猿を早く召し出せ」と言ったので、それに従ってきゃっと叫べば二、三の御子という猿が出てきた。また「自分を切ろうとした猿を召し出せ」といえば、またきゃっきゃと言ってその猿が出てきた。その猿に葛を折らせて、二、三の御子を縛って結いつけた。また、その猿を縛って「お前たち、自分を切ろうとしたけれども、従うならば命は断つまい。今日から後、事情を知らない人の為に、祟りをなし、よからぬ事を致すならば、その時には貴様の命を断とうとするぞ」と言って玉垣の内から皆を引き出して木の根元に結びつけた。

 さて、人が食事をした火の残り火があるのを取って、社殿に順につけ渡したので、この社から里の家々へは遠く去っていたので、こうしたことも知らないでいたけれども、社の方から高く燃え上がったのを見て、里の者たちは「これはどうした事だ」と怪しみ騒いだけれども、この祭りより三日ほどは家の門を閉じ込めて、人一人も外に出る事も無かったので、騒ぎ惑いながら、出て見る人もいなかった。

 この生贄を出した家の主は「自分の生贄にいかなる事があったのか」と心穏やかでなく恐ろしく思っていた。この生贄の妻は「自分の夫は刀を乞い取って、隠して持っていた。怪しかったのに合わせて、このような火が出たのは彼の仕業だろう」と思って、恐ろしくも気がかりにい思っていると、この生贄の男、この猿四匹を縛って前に追い立て、裸で髻(もとどり)を解いた髪で、葛を帯にして刀を差して杖をついて里に来て家々の門を覗き見たところ、里の家々の人はこれを見て「あの生贄が、御子たちを縛って前に追い立てて来たのはいかなる事か。これは神にも勝った人を生贄に出したに違いない。神ということすら隠す。まして我らを食うてはしまわないだろうか」と恐れ惑った。

 そうしている内に、生贄の男は舅の家に行って「門を開けよ」と叫んだけれども、音もしない。「ためらわずに門を開けよ。よもや悪いこともあるまい。開けねば中々よくないことがあるぞ」と「早く開けよ」と門を足で踏み鳴らしたので、舅が出て来て、娘を呼び出して「これは立派な神にも勝った人であろう。もしや我が子(娘)を悪く思っているのだろうか」「(娘に)そなた、門を開けてとりつくろいなさい」と言ったので、妻は恐ろしいと思いながら嬉しく思って、門を細目に開けたところ、押し開けて、妻が立っていたので、「早く中に入れよ。装束をもって来なさい」と言ったので、妻はすぐさま返り入って、狩衣、袴、烏帽子などを取り出したところ、猿どもを家の戸の許に強く結いつけて、戸口で装束を着て、弓や胡録(やなぐい:矢の容器)のあったのを求めて出させ、それを背負って舅を呼び出して言った。「これは神と言って、年毎に人を食わせたことはとても情けないことです。これは猿丸と言って人の家ででも繋いで飼えば、飼われた人にいじめられているものなのに、事情も知らずここで年々に生きた人を食わせていた事は極めて愚かです。自分がここに居る限り、これにいじめられることはあるまい。ただ自分に任せなさい」と言って猿の耳を痛くつねったところ、こらえる様がとてもおかしい。「このように人に従う物でありますのか」と見ると「自分は仲間は全くこうした事情を知りませんでした。今は君を神と仰いで身をお任せましょう。ただ仰せのままに」と言って手を擦ったところ、「さあ郡司の許へ行きましょう」と言って舅を引き連れて猿丸どもを前に追い立てて門を叩くと、それも開かなかった。

 舅がいて「これ、ただ開け給え。申すべきことがございます。お開けにならないのなら中々よろしくないことになるでしょう」と言って脅したので、郡司が出て来ておずおずと門を開けて、この生贄の男を見て土に平伏したので、生贄の男は猿どもを家の内に引き連ねて、目を怒らして猿に向かって言って「お前が年来神という虚名を名乗って年に一人の人を食い失っていた。お前、改めよ」といって弓箭(弓と矢)をつがえて射ようとしたので、猿は叫んで手を擦って惑った。郡司はこれを見て、あさましく恐ろし気に思って、舅の許に寄って「我らをも殺すおつもりか。助け給え」と言ったので、舅は「ただ仰せの通り(ご安心なさい)。自分たちがいるからその様な事はあるまいでしょう」と言ったので、頼もしく思っていたところ、生贄の男が「よしよし、お前の命は断つまい。これから後、もしこの辺りに見えて人の為に悪事を為さば、その時は必ずや射殺してやるぞ」と言って、杖を持って二十回ばかり順に打ち渡して、里の者を皆呼び集めて、あの社に(人を)やって、(焼け)残った祠を皆壊して集めて、火をつけて焼き払った。猿を四匹罪をあがなわせて追い払った。片足を引きずって山深く逃げ入って、その後敢えて姿を見せることは無かった。

 この生贄の男はその後、その里の長者として人を皆意のままに駆使して、妻と暮らしたという。

 (隠れ里)のあちら(人間界)にも時々密かに通ったので語り伝えるのである。元はそこには馬牛も犬もいなかったけれども、猿が人をいじめるためにといって犬の子や労役に使う目的で馬の子などを渡したので、皆子を産んだ(数を増やした)。飛騨の国の傍らでこういう所があるとは聞くけれども、信濃の国の人も美濃の国の人も行くことはなかったそうだ。その人はこちらに密かに通ったけれども、こちらの人は行くことが無かった。

 これを思うに、彼の僧がその所に迷い行って生贄をも止めさせ自分も住んだのは皆、前世の果報でこそあろうと語り伝えたそうだ。

◆余談
 創作では夢オチは禁止に近いくらい避けられている。面白い昔話は何度でも繰り返して楽しめるけれど、夢オチという手は最初の一回しか通じないからだろうか。「高田六左衛の夢」は昔話でも珍しい夢オチの作品である。

◆参考文献
・「出雲の民話 日本の民話12」(石塚尊俊, 未来社, 1958)pp.78-83
・「今昔物語集 新編日本古典文学全集 37」(馬淵和夫, 国東文麿, 稲垣泰一, 小学館, 2001)※猿神退治pp.491-513

記事を転載 →「広小路

 

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2017年9月16日 (土)

母の面と鬼の面――母思いの孝行話

◆はじめに

 日本標準「島根のむかし話に「おにの面」という昔話が掲載されている。仁多のお話とされているので、奥出雲の昔話だ。

◆粗筋

 仁多の奥の娘が町に奉公することになった。母思いの娘は町で母に似た面を買って行李(こうり)の中に入れて奉公先にいった。そうして毎日夜になると面を出しては「お母さん、今日も無事でした。お母さんもご無事で」と話しかけていた。
 ある日、そこの親方がこっそり覗き見て「何を見てぶつぶつ言っておるのかの」と言って、こっそり行李を開けて見た。
 そうしたら、行李の中に女の面が入っていた。「ふうん、それなら脅かしてやれ」と言って、女の面の代わりに鬼の面を入れておいた。
 あくる晩、「今日のお母さんは、どうしているだろうか」と思って行李の蓋をとったところ、母の面が鬼の面になっていた。
「これは、どうしたことか。行李の蓋を取った見たら、お母さんの面が鬼の面になっている。帰らなきゃ」と言って、親方に暇を貰って里へ帰ることにした。
 あくる朝、早くに出たが、峠まで来たら日が暮れてしまった。それでも歩いて行ったら、向こうに灯りが見えてきた。娘はやれ、うれしやとどんどん急いでいった。
 行ってみると、恐ろし気な顔をした男が焚火をして酒を飲んでいた。その中の男が娘を見つけて、「お前はこんな晩にどこに行くのか。ここで火たきの手伝いをせよ」といって捕まえてしまった。
「勘弁してください。私は実家へ帰らなきゃいけないから」と言ったけれども許してくれなかった。そうして「夜が明けるまでは仕方ない」と思って火を焚いていた。
 焚いてやったのはよいが、生の木もあったので、煙が出て煙たいので、娘は仕方なく荷物の中から鬼の面を取り出して被った。
 すると、男の中の一人がこれを見て、「やあ、あの娘が鬼になってしもうた。ありゃあ、鬼だったらしい」と言って、みんな逃げてしまった。
 後には沢山の銭が残っていたので、風呂敷に包んで持って帰った。
 帰ってみると、母は病気ではなく、家にも変わりがなかった。二人はそれから仲良く暮らしたとさ。

◆まんが日本昔ばなし

 このお話はまんが日本昔ばなしで「母の面と鬼の面」というタイトルでアニメ化されている。小汀松之進(未来社刊)より、演出:小林三男、文芸:沖島勲、美術:阿部幸次、作画:高橋信也とクレジットされている。

 むかしむかしのことだった。ある山国に一人の娘と母親が住んでいた。二人の家は貧乏だったので、ある年の冬のこと、娘は町の長者の家に奉公に出ることになった。奉公に出れば、二人が会えるのは盆と正月に限られる。年老いた母を独り残して娘は気が気でなかった。それで娘は町の面屋に頼んで、母そっくりの面を作ってもらった。母親は娘の無事を祈って、一生懸命に神棚に祈った。こうして娘は黙々と雪の山道を歩いていった。峠まで来ると、すでに夕暮れだった。娘は振り返って自分の村を見て母の無事を祈った。
 さて、こうして娘は長者の家に住み込んで働くことになった。朝は暗い内から起きだして炊事、昼日中は洗濯、風呂焚きも大変だった。こうして娘の手は来てまだ四五日も経たないのに赤くしもやけになった。でも、娘は毎晩、母の面に会うのが楽しみだった。娘はこうしていつも面に話しかけていた。
 ところが下男の中に一人いたずら者がいて、この様子を障子の穴から覗いていた。よし、一丁脅かしてやろうと言った。
 一日が終わり、仕事を終えた娘が母と話をしようと針箱の引き出しを開けた。すると母の面が鬼の面となっていた。
 娘はすっかり驚いて、これは故郷の母に何か不吉なことがあったに違いないと思い、いても立ってもいられなくなった。
 娘はその夜、長者が明日にしろと止めるのも聞かず、そのまま奉公先を飛び出ていった。一歩表に出ると、そこは暗い山の中だった。娘は暗い山の中を駈けに駆けていった。と、前方に小さな灯りが見える。あそこまで行けば、と娘は急いだ。ところが、火の側にはむさ苦しい男が三人立っていた。そして、娘をいやらしい目つきで見ると、にやにやと薄笑いを浮かべた。娘は慌てて逃げようとしたが、捕まってしまった。今夜は一晩中つきあってもらうぞと男は言った。娘はどうしても今晩中に帰らないといけないと懇願した。男は明日になれば許してもやろう、でも、今夜は駄目だ。火の番をしてもらおうと言い、放さなかった。娘は必死に頼んだが、聞き入れて貰えなかった。
 男たちはそのうち賭け事を始めた。娘は母のことを思うと気が気でなかった。娘は火の番をして段々顔がほてってきた。それでいつの間にか鬼の面を被っていた。すると、それを見た男たちは鬼だと一目散に逃げ出した。
 娘はこうして我が家に辿り着いた。母は元気で、何もかも下男のした仕業だと判った。
 娘は男たちが残していった金を集めて、お役人の所へ持っていったが、お役人はお前の母を思う気持ちが天まで届いたのだろうといって、そっくりそのまま娘に与えた。そして、娘は長者の家から暇をとり、いつまでも親子仲良く暮らしたという。

◆未来社

 この話は未来社の民話シリーズにも収録されている。石塚尊俊「出雲の民話 日本の民話12」では、原話:「仁多郡誌」、再話:小汀松之進とある。「まんが日本昔ばなし」の内容はこの未来社のものに沿っているようだ。大庭良美「日本の民話 34 石見篇」では原話:三原小学校児童採集「川本町誌」とある。

◆島根オリジナルか

 アニメと下に挙げた三冊の本だけで「母の面と鬼の面」は島根県が出所の昔話であると言えるかどうか分からない。こうして書籍化もされているし、昔話なので、全国に伝播していてもおかしくないだろう。

◆角川書店「日本昔話大成」

 角川書店「日本昔話大成」第9巻によると全国に伝播した昔話であった。「鬼の面」で収録されている。主人公が男のバージョンもあった。ただ、主人公は女の方が母を思う気持ちが出ていて好ましいと思う。

◆参考文献

・「島根のむかし話」(島根県小・中学校国語教育研究会/編著, 日本標準, 1976)pp.71-74
・「出雲の民話 日本の民話12」(石塚尊俊, 未来社, 1958)pp.170-174
・「日本の民話 34 石見篇」(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.215-216
・「日本昔話大成」(関敬吾, 角川書店, 1979)pp.102-108

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2017年1月 7日 (土)

牛鬼と影ワニ

◆はじめに

 大庭良美「石見の民話 ―その特色と面白さ―」(「郷土石見」8号)に「うしおに」「影ワニ」が紹介されている。
 次に同じ石見でも地域によって特色のあることである。石見は日本海に沿った海岸線と中国山地の細長い国である。東部の海岸には「うしおに」「影ワニ」といった海の怪物がいるが、これから西にはいない。
 「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」でも大田から江津にかけての牛鬼伝説が収録されている。

◆牛鬼

 波路浦に一人の漁師がいた。ある日漁に出たが、その日は大漁だった。喜んで帰ろうとすると、海の中から大きな牛の様な怪物が「魚をくれ」と叫ぶのに出くわした。恐ろしくなった漁師は魚を投げてやったが、またしても怪物は「魚をくれ」と叫ぶ。そこで少しづつ魚を投げてやった。そうして港へつくと、急いで家に戻ったところ、怪物は家にまで押しかけて来て「魚をくれ」と叫んだ。困った漁師が「では家の中へ入れ」と言うと、怪物は「お前はお仏飯を食べているから中には入れん」と言って去っていった。これは昔から言われている牛鬼だろうという話になった。

◆濡れ女

 昔、大田の染物屋の主が魚釣りをしていると、魚がよく釣れた。こんなときは濡れ女と牛鬼が出るという言い伝えがあり、それを思い出して帰ろうとすると、濡れ女が出て「赤ん坊を抱いて欲しい」と言って差し出した。前だれで抱くと石の様に重いので、赤ん坊ともども投げ捨てて逃げ帰った。そこである家に飛び込むと、「もう少しだったのに、逃して残念だった」と牛鬼は言い残して去った。

◆徳左衛門のウシワニ退治

 昔、大田市の西の方に五十猛(いそたけ)という町があり、近くに大浦(おおうら)の浜という綺麗な浜がある。ところが、いつの頃からか、この浜にウシワニという化け物が現れ、夜になると人を驚かしたり、干してある網を破ったりして困らせていた。

 その頃、五十猛の大浦に和田徳左衛門(とくざえもん)という男がいた。徳左衛門は身体が大きく力が強く、三度の飯よりも相撲が好きだった。周辺では徳左衛門に敵う者がいなかった。

 ところがウシワニがそのことを聞きつけた。徳左衛門と相撲が取りたいと言い出したのである。このことを伝え聞いた徳左衛門は見たこともないウシワニと相撲を取るのは嫌だと断った。

 するとウシワニは相撲を取らないなら、一生、徳左衛門を困らせてやる。そればかりか五十猛の浜をもっと荒らしてやると暴れまわった。徳左衛門は嫌々ながらも承知しなければならなくなった。

 その日から徳左衛門はウシワニが怖くなって夜も眠れず、食事も喉を通らなくなった。

 そのことを聞いた和尚が心配することはない。正定寺(しょうじょうじ)本尊の阿弥陀如来がきっとお前を守ってくださると教えた。さっそく徳左衛門は阿弥陀如来を信心した。するとあれほど怖れていたウシワニのことが気にならなくなった。

 そしてある日、徳左衛門は和尚にウシワニと相撲を取る自信ができたと告げた。満月の夜に勝負することになった。

 やがて満月の夜となった。徳左衛門は身体を清めて本堂に参り、心を込めて阿弥陀如来を拝んでいると、ウシワニは頭の上がどんぶり鉢のようになっている。この中に海水が入っている。鉢の中に水があるときは力が強いが、水が無くなってしまうと力が抜けてしまう、何とかして水を無くすようにすれば、勝負に勝てるだろうというお告げがあった。

 徳左衛門は和尚と浜辺に行き、静かに待っていた。やがて海の底から湧きたつように波が押しあがると、ウシワニが姿を現した。頭の大きな得体の知れない化け物である。

 徳左衛門はウシワニの前に進み出ると、首を左右に何回も強く曲げた。ウシワニは人間のする挨拶と思ったのか、真似をして首を大きく丁寧に曲げた。曲げている内に頭の水が少しずつこぼれていった。この調子だと身体も大きく曲げてみせると、ウシワニも真似をした。とうとうウシワニの頭の水が無くなった。

 今だと徳左衛門はウシワニに飛び掛かり、足を掴んで投げた。ウシワニはどっと後ろにひっくり返り、起き上がることができなかった。やがて這うようにして海の中へ逃げ込んでしまった。

 徳左衛門は和尚に礼を言って、正定寺の方に向かって手を合わせた。それからというもの、ウシワニは二度とこの浜に現れなくなった。

 ……という内容である。河童と相撲を取る話と同じやり方でウシワニを退治する。

大田市五十猛町・神上の浜

 五十猛の浜は神上(しんじょう)の浜とも呼ばれていて、古代、スサノオ命が息子の{五十猛|いそたける}命らと上陸した地だとされている。

◆アニメ

 牛鬼伝説は「まんが日本昔ばなし」でアニメ化されている。演出:芝山努、脚本:沖島勲、美術:亀谷三良、作画:海谷敏久。

 昔、浅利に侍夫婦がいた。元は名のある武士に仕えていたが、今は浅利で読み書きを漁民の子供たちに教えて暮らしていた。ある日米が底をついた。侍は家に伝わる刀を売ってしまおうと考えたが、妻が制止する。そこで米を借りに浅利の村へいくと漁民たちが牛鬼に船が襲われた、退治して欲しいと頼まれる。どうせ思い過ごしだろうと侍は引き受けてしまう。嫌なことを引き受けてしまったと侍は釣りに出かける。その日は魚がよく釣れた。そうしていると日が暮れた。すると赤子を抱いた女が現れ「この子に一尾恵んで欲しい」という。魚を渡すと赤子は生のままあっという間に食べ尽くし「もう一尾恵んで欲しい」と繰り返す。魚が尽きると、今度は腰に挿した脇差を食べてしまった。ようやく侍は女と赤子が人でないと気づくが、女は赤子を侍に抱かせると海に飛び込んでしまう。すると海の中から牛鬼が現れた。女は牛鬼だった。気づくと赤子は石になっていた。と、侍の家にあった刀がカタカタと揺れ始め飛んでいった。間一髪、飛んできた刀が牛鬼の眉間に刺さり、牛鬼は海へと沈んでいった。

 ……という内容。クレジットでは大庭良美・未来社刊とあり「石見の民話」らしいのだが、「石見の民話」に類話は収録されていない。「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」には類話が収録されており、刀が飛んで牛鬼を退治するというモチーフは確認される。

浅利富士と浅利海岸と風車
浅利海岸と風車
浅利町の海岸

 貉工房のまんが日本昔話データベースによると、「牛鬼」の放送年月日は平成1年5月20日。「日本伝説大系」は昭和五十九年発行なので、「日本伝説大系」の方が先となる。もしもアニメ「牛鬼」の方がかなり先だったら、アニメオリジナルの話の展開が牛鬼伝説に影響を及ぼしたかもしれない。しかし、脚本家の沖島氏は既に亡くなっている……などと妄想したのだが、さすがにそれはなかった。
 未来社『日本の民話 34 石見篇』を通読したところ、『石見の民話』第二集の那賀郡の項に「牛鬼」として収録されていた。脇差しがひとりでに抜けて濡れ女の頭に刺さるという展開である。舞台は浅利だが侍ではなく神主であった。つまり大まかな粗筋は民話集に沿いつつ、登場人物の造形を神主から浪人の侍に置き換えているのだ。

◆影ワニ

 温泉津の辺りでは鮫のことをワニという。影ワニがいるという。船が海を走っていると、海に映った船乗りの影を影ワニが呑んでしまう。影を呑まれた船乗りは死んでしまうという。もしも影ワニに見つかったときは、むしろでも板でも海に投げて自分の影を隠さなければいけないという。
 あるとき、ある漁師が影を影ワニに呑まれそうになって、逆に影ワニを撃ち殺してしまった。ところが、その漁師は足に刺さった魚の骨で出来た傷が原因で死んでしまったが、その魚の骨は影ワニのものだという。

◆アニメ

 影ワニ伝説も「まんが日本昔ばなし」でアニメ化されている。演出:白梅進、脚本:沖島勲、美術:門屋達郎、作画:白梅進。

 昔々、石見の国の温泉津辺りでは鮫のことをワニと呼んでいた。ある嵐の晩、村の衆が村長を囲んで酒を飲んでいると影ワニの話になった。海の凪いだ日は船乗りの影が海に映ると、その影を影ワニが食べてしまう。すると船乗りは死んでしまう。だから海の凪いだ日には漁には出てはいけないと村長が諭す。
 その話を迷信だと鼻で笑ったゴンゾウという漁師がいた。この中で誰か影ワニに遭ったものはいるかと訊くと誰も答えない。それは影ワニに遭った者は助からないからだと村長が宥めるのも無視する。
 嵐が去った翌日は海が凪いでいたが、村人たちは村長の言いつけを守り、浜で魚やワカメを干していた。漁師は村長たちが制止するのも聞かず、船を海に漕ぎ出した。村長は影ワニに出会ったら、むしろでも板でも海に投げ込んで自分の影を消すのだと声をかける。
 漁をはじめると、面白いように魚が釣れる。夢中になっていると海の中から大きな影が現れた。影ワニが漁師の体をかじると、そこから血が噴き出た。慌てた漁師は釣った魚を海に捨てはじめた。魚を投げ尽くすと、船底にむしろがあった。村長の言葉を思い出した漁師はむしろを海に投げ入れた。ところが影ワニは去ろうとせず、むしろを食いちぎりはじめた。意識朦朧となった漁師だったが、日が暮れて影が海に溶け込んでしまうと影ワニはついに立ち去った。九死に一生を得た漁師はそれからは村長の言いつけを守り、二度と凪いだ日には漁に出なかった。

◆参考文献

・「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)pp.222-231
・「日本の民話 34 石見篇」(大庭良美/編著, 未来社, 1978)pp.32-38, 271-272.
・大庭良美「石見の民話 ―その特色と面白さ―」(雑誌「郷土石見」8号, 石見郷土研究懇話会, 1979)pp.58-71
・平賀英一郎「牛鬼考」「山陰民俗」第55号(山陰民俗学会, 1991)pp.1-14
・「伝承怪異譚――語りのなかの妖怪たち(三弥井民俗選書)」(田中瑩一, 三弥井書店, 2010)pp.203-214
・『島根の伝説』(島根県小・中学校国語教育研究会/編、日本標準、一九七八)一七七―一八一頁。

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2015年6月14日 (日)

全国に伝播した龍の淵伝説と頼太水伝説

◆頼太水

「島根の伝説」(日本標準)に収録された頼太水という能義郡広瀬町(現・安来市)の伝説がある(135-139P)。

 寛永十二年(1635)、今の能義郡広瀬町布部に頼太と頼次という兄弟が住んでいた。二人は漆の汁をとることを生業としていたが、兄の頼太は怠け者だった。
 布部川の上流には雄渕、雌渕という二つの渕があった。この二つの渕は布部ダムができたため、湖底に沈んでしまった。
 雌渕には漆の木から自然に流れ出た漆が渕の底に沈んでいるという言い伝えがあったが、渕には竜が住んでいるということで誰もとりに行く者はいなかった。
 あるとき、この雌渕の漆をとってやろうと思い立った兄の頼太は、雌渕に出かけていき、潜った。果たせるかな、湖底には大量の漆がたまっていた。それで頼太は大量の漆を集めることができた。
 そのことを知った弟の頼次は竜の祟りを恐れ、頼太に危険なことを止めさせようと考えた。そこで藁で大きな竜の形を作り、湖底に沈めた。
 そのことを知らない頼太は再び雌淵に出かけると、潜った。ところがそのとき、急に天気が悪くなり、大雨が降りだしてきた。三日三晩雨は降り続き、渕の水は布部川に流れ込んでいった。頼太のその後を知る者は誰もいない。
 時が経つうちに、藁の竜が雨を呼び起こし大水を出させたのだろうと語り伝えられるようになった。それ以降、この地方では大水のことを頼太水と呼ぶようになったという。

旧JR浜田駅に展示されていた石見神楽の大蛇
旧JR浜田駅に展示されていた石見神楽の大蛇
これは旧浜田駅舎に展示されていたもの

◆まんが日本昔ばなし

 この伝説は「まんが日本昔ばなし」でも「龍の淵」というタイトルでアニメ化されている。ナレーションで「米良の荘」とあり、宮崎県の伝説が元となっていると思われる。「宮崎県の民話 ふるさとの民話23」(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 1981) に「蛇淵の生うるし」という民話が収録されているとのこと。

 なお、youtubeで動画を視聴した際、コメント欄に国語の教科書に収録されていたというコメントがあったことを記憶している。

◆広く伝播した伝説

 この伝説は能義郡広瀬町(現・安来市)の伝説であるが、これとほぼ同じ内容の伝説は日本各地に伝えられている。「日本伝説大系 第十一巻 山陰編」(みずうみ書房)でも「頼太水」の伝説が収録されている(276-279P)。参考として福井県福井市の同様の伝説が紹介されている。漆器の生産地ということで福井県の伝説が参考例として取り上げられたのかもしれない。

頼太が淵に入ると、大蛇は精気が通い頼太を一呑みにし、水を呼び大雷雨になり、山津波もおこし、布部は大海になり、能義平野の地形は一変したと伝える。世人、大水を頼太水という。歴史学者は、寛文六年、あるいは寛文十三年というが、布部の郷土史では享保十二年といっている。(『安来の歴史』)

 思うに、寛永の頃の大洪水が頼太水の名で記憶され、それに後から藁の竜にまつわる伝説が付け加えられたのではなかろうか。そうすると、どうして頼太水と呼ぶのか別の問題が生じるが。

◆参考文献

・「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)pp.135-139
・「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)pp.276-279

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

 

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2012年9月10日 (月)

「まんが日本昔ばなし」出典&地名&固有名詞一覧(未完)

(2012.09.22) 各項目を解説した一覧表を追加しました。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
アニメ「まんが日本昔ばなし」の約1200話について、出典(候補)や地名(各都道府県別)、固有名詞に関する一覧表を作りました。

「mukashimukashi_v1.01.zip」をダウンロード

・出身地やお住まいの地域のお話があるか、あるならどの本に載っているか調べたい、そういう用途を想定しています。

※出典で挙げられた都道府県・市町村が必ずしもその昔話の発祥の地であるとは限りません。単にその土地の方言で語られたお話が採録され本となった。そしてアニメ化する際に典拠として選ばれたとまでしか言えない場合も多々あります。伝説に関しても他所のお話からエッセンスが取り込まれていることが多々あります。元祖・本家という性格の分類ではないことにご注意ください。

「sample_shimane_tottori_UTF-8.csv」をダウンロード
※こちらはサンプルです。
※ブラウザ上で表示するため文字コードをユニコード(UTF-8)に変更しています。

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
・Zip形式で圧縮しています(96.0KB)
  mukashimukashi_v1.0.csv ※文字コードはShift-JiSです
  readme_mukashimukashi_v1.01.txt
  kaisetsu_mukashimukashi_v1.0.csv
 の3ファイルが入っています。
 ※中身はプレーンテキストなのでご安心をば。

・ファイル形式はCSVです。表計算ソフトで開けば一覧表として開きます。
 ※コンマ「, 」が区切り、セミコロン「"」がテキストの区切り記号です。
 ※文字化けする場合は文字コードを変更してみてください。

CSVファイルをインポートする画面

OpenOffice.org・Calcで開くと↑の様なダイアローグボックスが開きます。

・表計算ソフトやカード型データベース(ローカル環境)で利用していただくことを想定しております。
 ※個人で作業したもので、間違いや詳細不明の箇所は消し切れていません。ご容赦願います。

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

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2012年9月 9日 (日)

創刊時期は1980年前後

東京都立多摩図書館(東京マガジンバンク)でアニメ雑誌その他を閲覧。主に「アニメージュ」。創刊は1979年だけど、残念ながら2冊だけ。で1980年分と合わせて読む。ちなみに、1979年は「機動戦士ガンダム」が放送されたエポックメイキングな年。

東京都立多摩図書館 東京都立多摩図書館
東京都立・多摩図書館

東京都立多摩図書館

東京マガジンバンク

「まんが日本昔ばなし」関連の情報を探す。アニメ雑誌には放送中の番組でこれから放送予定のエピソードについて触れた(粗筋など)囲み記事というかコーナーがある。「まんが日本昔ばなし」では粗筋は少なめで、スタッフのコラムが主だった。

80年7月号に特集記事があって、80年当時のスタッフ編成が記載されていた。小林三男氏がチーフ・ディレクターということが分かった(※OPかEDにはクレジットされていただろう)。沖島勲氏はダイアローグとしてクレジットされている。これは沖島氏のコラムであったのだけど、

わがシリーズの場合、コンテにダイアローグをつけるケースと、シナリオを先におこすケースがあるが、最近は前者の場合が多い(120P)

と二通りのやり方があったことが分かる。ちなみに、(この時点では)沖島氏としもゆきこさんは面識が無かったという記述もある。

「アニメージュ」の囲み記事だと「データ・バンク」としてタイトル、放送日時、脚本・演出・作画スタッフが確認できる。ただ、各アニメ雑誌が創刊されるのは1980年前後なので、1975年から1979年までの情報は無い。ということで、やはり一般人が入手できる情報の範囲での完全な復元は無理そうだ。

ただ、実際に当時の雑誌に当たると、副産物というか副次効果(それが何かはその場にならないと分からない)が得られるのも確か。

他、1980年5月5日に放送された「こどもの日スペシャル『火のくにものがたり』(仮)」の情報が得られた(80年5月号)。実は阿蘇山と思っていたのだけど、舞台はえぞが島(北海道)だった。物語は第一話から五話までの5部構成。各話の演出と美術スタッフが確認できた。作画は未記載。

「アニメージュ」以外は国立国会図書館での確認となる。時間的には都立多摩図書館と変わらない。囲み記事の粗筋から復元できる情報もあるかもしれない。

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タイトルと演出スタッフがキー項目

近所の図書館で朝日新聞の縮刷版を約一年分ほど閲覧。

「まんが日本昔ばなし」は元々はNET(現在のテレビ朝日系列)で放送されていた。当時を確認すると、裏番組、TBSでは同じ時間帯に「はじめ人間ギャートルズ」を流していた。「ギャートルズ」は観た記憶がある。NETでは「まんが日本昔ばなし」の次の番組(19:30~)は「仮面ライダーアマゾン」だった。

いわゆる腸捻転解消でNETでの放送は三ヶ月で一旦終了する。その後、TBS系で「仮面ライダーストロンガー」が土曜夜七時からの放送でスタートし、「ストロンガー」終了後の1976年1月3日から「まんが日本昔ばなし」が再スタートした。「まんが日本昔ばなし」「クイズダービー」「8時だヨ!全員集合」「Gメン75」と黄金のリレーが開始する。

ちなみにNET系では「アマゾン」の後番組は「秘密戦隊ゴレンジャー」で、戦隊シリーズの歴史がここから始まった。

僕の出身地は島根なのだけど、「まんが日本昔ばなし」で最初に視聴したエピソードは「笠地蔵」だったような記憶がある。記憶違いかもしれないけど、先にNET系列で流したエピソードを放送して、実質3ヶ月遅れの放送だったのだろうか? 当時は全国放送から1週間遅れくらいなら普通にあった。

で、ノートに記録、パソコンに転記してすぐに気づいたのだけど、「かしき長者」のように新作と旧作(同一タイトルでスタッフが異なる)が存在するエピソードが幾つか存在する。つまり、タイトルと演出スタッフがキー項目となる。なので、このまま新聞のテレビ欄を追いかけても、それだけでは本放送・再放送の正確な日時を確定させることはできない。

でも、当時の新聞をチラ見するのも中々楽しい。「まんが日本昔ばなし」放送開始当時、東京都知事選で石原・現都知事と美濃部都知事(三選を目指す)の対決だった。また、当時のビデオは高価で定価は20万円を超えていた。テープは一本2500円。今はオープン価格で定価が分からなくなってしまったのだけど、当時は定価も広告に記載されていた。広告はホント、時代を映す鏡です。

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2012年7月10日 (火)

日本標準の「伝説」シリーズについて

「まんが日本昔ばなし」のクレジットを調べたことがあるが(1200話ほど。約8割)、出典元の多くは未来社、角川書店、日本標準、偕成社が当時出していた民話集だった。このうち未来社と偕成社の分についてはオンデマンド版で(割高だけど)現在も入手可能だ。角川書店のは復刊されていないはずだが、図書館、少なくともその都道府県立の図書館に行けば所蔵されている。

で、日本標準なのだけど、「○○のむかし話」「○○の伝説」(※○○には各都道府県が入ります)と二つのシリーズがあって、むかし話シリーズは「読みがたり ○○のむかし話」シリーズとして復刊されている(※復刊の際、改訂された箇所もあるかと)。

実は以前、メールで日本標準に「○○の伝説」シリーズは復刊予定はないのか訊いたことがある。残念ながら予定は無いという回答だった。

日本標準の「○○の伝説」シリーズはなぜか国立国会図書館(国際こども図書館)でも所蔵されていないものが多い(汚損したのかもしれない)。で、調べてみると、大阪府立中央図書館・国際児童文学館でその多くが所蔵されていた。

なので、「まんが日本昔ばなし」や昔話、伝説の類が好きな人で関西にお住まいの人は大阪府立中央図書館・国際児童文学館に足を運んでみる価値はあるはずだ。本自体は小学校中学年くらいから読める。

自分は「島根の伝説」しか読んでいないけど、「島根の伝説」は「島根のむかし話」と対称的に暗い内容だった。メデタシメデタシの話ですら、どこか陰がある。全てではないが理不尽な伝説も多かった。それで、大人になった今でも強烈に脳裏に焼き付いている。

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