歴史・地理・民俗

2021年11月18日 (木)

芸能から文学へ――池田弥三郎「日本芸能伝承論」

池田弥三郎『日本芸能伝承論』を読む。池田は芸能を芸術には至っていないものとしているのを確認するため。実際読んでみると、民俗学というより国文学に近い内容だった。芸能がやがて文字に書き留められ文学化していく過程を追っていると言えばいいか。

横浜市図書館のOPACで「芸能伝承論」と検索すると、この本(1962年)と全集とがヒットする。全集の方は570ページある。もう一冊フィッシャー=リヒト「パフォーマンスの美学」を借りたので二週間では読み切れないだろうと思い、こちら(320ページ程)を借りた。

 

|

2021年10月31日 (日)

今日はハロウィン

選挙に行く。今日はハロウィンの日でもある。生憎の雨模様。しかし、思うに日本は八百万の神々の国だから一年に一度でなくてもいい気がする。百鬼夜行みたいな感じ。奥ゆかしいのか。
えだきんのハロウィン
パナソニックTX1で撮影。

|

2021年10月13日 (水)

90年代初頭の本――神崎宣武「観光民俗学の旅」

神崎宣武「観光民俗学の旅」を読む。本書は学術書ではなく、台湾ツアーを通してみた日本人論という色彩が強い。

終章では日本における旅行業の発生を江戸時代の伊勢の御師にみる。

文化人類学には観光人類学というサブジャンルがあるのだけど、民俗学に観光民俗学というサブジャンルは無い。民俗学は真正性(オーセンティシティ)を重視するから、観光に対する視線は一段下に見るものとなっているのだ。

本書が出版されて30年以上が経過したが、有形無形の文化財にとって観光という文脈は欠かせないものとなってきている。

|

2021年6月19日 (土)

タロットカードを買う

「はじめてのタロット占い」を買う。大アルカナ22枚。タロットはいつか欲しいと思っていたのだが、ここ最近アニメ「氷菓」の「愚者のエンドロール」を見て思い出した。モチーフとしても魅力的だ。

昔、姉の家にトランプ占いの本があって、よく占いをして遊んでいた。でも、その本に依ると占いは自分のことを占ってはいけないのだそうだが。

<追記>
実際に占ってみる。愚者の逆位置が三度出た。浅はか。中々に示唆的である。

|

2021年6月13日 (日)

生徒たちから収集――常光徹「学校の怪談 口承文芸の研究Ⅰ」

常光徹「学校の怪談 口承文芸の研究Ⅰ」(角川学芸出版)を読む。この本は正月に読もうと思って買ったのだけど、途中で進まなくなって読み終えるまでに六月まで掛かった。なぜ止まったかというと、怖い話、死にまつわる話が苦手だからである。

著者は民俗学者だが、中学校教員の経歴があり、まず学校で生徒たちを対象に収集した怪談が語られる。また、現代の都市伝説についても語られる(※文中では都市伝説とは呼んでいない)。都市伝説は近年になって成立したものだが、同じ構造を持つ話が江戸時代からあって換骨奪胎されたとみられる話もある様だ。

山で遭難した5人の内一人が死ぬ。山小屋に避難するが、眠ると凍死してしまう。、そのため、中央に死体を置き、小屋の四隅に陣取った四人が一人ずつ前進して前の者の肩を叩くという行為を繰り返す(最初に動いたものがその場を離れるため、四人目の前に人はいないはずであるが彼らは回り続ける)といった話が紹介される。江戸時代の話が改変されたものらしい。

後半は東北や北陸で採集した世間話、笑話についても取り上げている。最後は学校の保健室の話(養護教諭が私服の定時制高校から転任してきたが、制服だと表情が読み取りにくいと語る)やクラスの周縁にいるツッパリの思い出が語られる。一見口承文芸と関係なさそうに思えるが、学校という場での抑圧、鬱屈が形を変えて噴出する特異点でもある。

余談。
僕が卒業した小学校でも七不思議があった。どんな内容だったか忘れてしまったが、七つ全部知ると死んでしまうのだそうである。中には「赤字である」といったものもあった。

<追記>
なお、アマビエがアマエビと表記されていた。

|

2021年6月 4日 (金)

コロナ禍のアンケートあり――「かながわの民俗芸能」第85号

斉藤先生より「かながわの民俗芸能」第85号(神奈川県民俗芸能保存協会)が送られてくる。本号は浦賀の虎踊りにページを割いているが、巻末に2020年に実施したコロナ禍についてのアンケートが資料として添付されている。

芸能の稽古は密になりがちで、公演・奉納だけでなく稽古自体が中止になった団体も多かった。2021年も基本的には同じ傾向だろう。ワクチン接種が行きわたる2020年辺りから徐々に復活してくるといったところだろうか。幸いなことに財政危機を迎えた団体は少なかった。コロナで辞める人も少なかった。ただ、新人募集には多大な影響があった……というところである。

しかし、インフルエンザと同じようにワクチンは毎年接種する様になるのではないか。もう以前の様な日々は戻って来ないかもしれない。

|

2021年2月 9日 (火)

魂を操作する呪術――津城寛文「折口信夫の鎮魂論 研究史的位相と歌人の身体感覚」

津城寛文「折口信夫の鎮魂論 研究史的位相と歌人の身体感覚」を読む。「レクイエム」が鎮魂歌と訳されたこと、また「鎮」という漢字が用いられてることもあって、鎮魂は葬送慰霊的なニュアンスで捉えられることがあるが、折口の言う鎮魂は魂の出入りを操作する術なのである。また、鎮魂が分からなければ神道は分からないとも言ったそうである。

魂の操作というとオカルト的であるが、要するに古代人はそう観念していたということである。

鎮魂は他界と現界との間を行き来自在な霊魂である外来魂を増殖させたり(たま殖ゆ)、現界の物体に憑依させたり(たま触り)、運動を制して一か所に固定させたり(たま鎮め)、結び留めたり(たま結び)するといった一連の操作過程である。つまり、職能者が携わる呪術である。

例えば、宮中の所作では、伏せた桶を矛で突く、糸を結んで箱に収める、帝の御衣を箱から出して振動させるといったことが挙げられる。

第一部では「鎮魂」を巡る学説が取り上げられる。まず江戸時代のものとして伴信友が挙げられる。信友は鎮魂に関して呪物を振るあるいは結ぶことで魂が鎮まると解釈する。続いて鈴木重胤が挙げられる。言及されていないが、折口の説は重胤の説を基礎としているようである。また、高皇産霊神と神産霊神を魂を振り交わして万物を生成する神、そして魂を人に降り下らせて人身に寄り添わせる神としている。「むすぶ」は霊魂を物に密着させることとなる。

霊魂が身体に附着してきたり、体内で増殖したり分割して外に出たりするという霊魂信仰があり、またそうした霊魂の運動を起こすよう機能する神の技術として「産霊(むすび)」が考えられた。また、その信仰に基づいて人間の側で行う呪術があり、それを鎮魂と呼んだということになる。

「あそび」とは文芸や芸能や儀礼的所作により「鎮魂」することである。手足を動かすことにより霊魂が操られ、あるいは歌うことでそこに内在する言霊としての霊魂が相手に移動していくと考えるのである。

また、近代の学説が取り上げられる。明治・大正期には目だった成果は無いようである。昭和期には折口説を踏襲してそれに修正を加えた説が見られる。また折口説にはよらない独自の説もある。が、いずれにしても折口説を塗り替える程のものはないようだ。

ここで鎮魂の定義を「鎮魂とは霊魂の操作にかかわる呪術的儀礼的行為一般である」とする。

また、鎮魂と絡めて大嘗祭における天皇霊の解釈も行われる。天皇の権威の根源となるものである。

第二部では、霊魂の入れ物となる身体について歌人としての折口の読んだ和歌から探っていく展開となる。ここでは身体境界の透過性と呼んでいる。和歌を詠むことが身体境界の透明性から生じる不安を和らげていたのではないかと仮説を立てるのである。

折口の鎮魂説の基盤には、何かが身体の外から内へ侵入してきたり、あるいは逆に内から外へ漏出していったりする特異な感覚があったとしている。

また、鎮魂には施術者と被術者と霊魂の三者が構成因子としてあるとする。

著者は一応の結論として折口の内面における水的なものをを媒介とした透過性の克服、水の治癒力を挙げている。

ちなみに、折口は潔癖症だったとのことである。

|

2021年1月31日 (日)

招かれざる客――折口信夫「日本藝能史六講」

折口信夫「日本藝能史六講」を読み終える。折口の本を通読するのは初めて。折口は祭礼から芸能が文化してきたと考える。そこには招かれざる客たちいて、それが観客の発生となったとしている。また、もどきについても重視していた。

|

2020年12月25日 (金)

ユビキタス――河野眞「フォークロリズムから見た今日の民俗文化」

河野眞「フォークロリズムから見た今日の民俗文化」(創土社)を読む。フォークロリズムの嚆矢となるモーザーの論文を翻訳した著者の手になる本である。

平易に記述されているのだが、難読漢字/熟語が時折顔を出す。漢和辞典が手元にないので読み飛ばしてしまった。学者向けの論文だったらルビはいらないのだろうけど、書籍化されたら一般人や学生が手に取るようにもなるのだから、日常で用いない言葉には最低限ルビを振っておいて欲しかった。後、誤字脱字が結構あった。

フォークロリズムというのは神楽で例えれば、神社での奉納という本来の文脈を離れて、劇場のステージで舞う場合などを指す。本来の意義に加えて第二義的な意味が生じたものである。これをセカンドハンドと呼んでいる。

フォークロリズム概念の提唱者のモーザーは元々実証主義的な歴史民俗学者であり、彼がバウジンガーの「科学技術世界のなかの民俗文化」に刺激されて、フォークロリズムという概念を民俗学にもたらしたこと等が記されている。

フォークロリズム概念のもう一人の立役者であるバウジンガーはフォークロリズムの遍在を指摘している。すなわちユビキタス性である。

なぜフォークロリズムはセカンドハンドであるにも関わらず人を惹きつけるのかという疑問が湧いたのだが、それに対する回答は無かった。それともバウジンガーの言う内的エキゾチシズムだろうか。観光学的な観点から言うと、観光客の望むものを観光に適した利便性で提供しているからというところだろうか。アトラクションという言葉が用いられまる。ただ、それでは民俗学としての答えとは言えないと思う。

論考の部ではハイネが日本民俗学で高く評価されていることへの再考を促している。柳田が渡欧時にハイネの著作に触れたのが由来だそうだが、その当時既にハイネの民俗観は乗り越えられて新しい世代が生じていたとしている。柳田は既に持論を確立させており、欧米の最新の理論には関心が無かったのだろうと考察している。

モーザーの論文はドイツでキリスト教以前の上古から続くと思われていた伝統が文献等で実証的に研究すると実は近世近代に生まれたものが多いとしている。そういう意味ではホブズボウムの「創られた伝統」に先行するものではないか。

また、バウジンガーがフォークロリズムについて各国に送ったアンケートについても新たに訳出、収録されている。そういう意味で資料集としても読める本である。

なお、あとがきによると、河野氏と日本民俗学会との関係は必ずしも良好であるとは言えないようだ。「学術性に欠ける」という批判が向けられたそうだ。学術性がどういうものかよく分からないが、文系学問でそういうことがあるのだろうか。

|

2020年12月 7日 (月)

越境する民族誌――山下晋司『観光人類学の挑戦 「新しい地球」の生き方』

山下晋司『観光人類学の挑戦 「新しい地球」の生き方』(講談社)を読む。観光人類学を謳っているが、海外留学する日本人女性や国際結婚と子供の国籍問題なども取り上げていて応用人類学的な側面も見られる本である。本書で取り上げられる統計データは2008年頃までのもので、それ以降の「観光立国」的なインバウンドの急激な伸びについては範囲外である。

グローバル化を象徴するキーワードとして「リゾーム(根茎)」を挙げている。現代は人の国境を超えたトランスナショナルな移動が増え、その結果ネットワークと結節点を結ぶ地下茎的な複雑な社会になっているとしている。本書ではその越境的な民族誌を書くことが主目的となっている。

ここで文化の観光資源化が取り上げられる。資源化とは、本来のコンテクスト、目的において「資源である」ものを、それとは別のコンテクスト、目的において使用することによって生じると定義している。誰が、誰のために、何を、何のために、文化を資源化するかという問題が生じてくる。

世界遺産についてもヘリテージツーリズムとして取り上げられる。バリの芸能は観光資源化され、更に国家的制度に組み込まれるようになっている。そのため、芸能が学校制度等で標準化されていると指摘している。岐阜県白川郷は世界遺産化で来訪客が倍増したが、訪問客は平均45分ほどの滞在に終わり、地元に金が落ちてこないと指摘される。中国雲南省麗江では古城地区から元の住人のナシ族が出ていくようになって住民の入替りが起きていると指摘している。

マレーシアのサバのエコツーリズムが取り上げられる。サバは元はアマゾンに次ぐ規模の熱帯雨林が広がっていたが、プランテーション化や材木の切り出しなどで、大きくその面積を減らした。そこで林業に代わる産業としてエコツーリズムに目をつけた。日本人の観光客も多いが、実はサバの材木の主な輸出先が日本であって、そうした意味では先進国が収奪した後の観光に日本人がやって来ていると言う図式にもなっている。

パラオは過去に日本の統治を受けた歴史がある。戦前、南洋と呼ばれたミクロネシア諸島は日本にとって開発の手を入れるべき土地だった。そのため日本型のオリエンタリズムが見られると指摘している。そのため第二次大戦の慰霊での訪問も多い。若者たちはそれには頓着せず、ダイビングを楽しんでいる。パラオでは日本人が伝えた彫刻が土産物として売られているとのこと。

またロングステイについても取り上げられている。退職者が第二の人生を物価の安い海外で暮らすことを指したものである。温暖な気候の海外の方がより質の高い暮らしが送れると考えるのである。現地では日本人会も結成されている。

日本でも近年、未来の超高齢化社会に備えて移民1000万人計画がぶち上げられたりしている。反対意見も根強いのでどうなるか見通しは立たないが、著者は多文化主義を受け入れるべきと提言している。世界は混じり合い、かつ混じり合わないというアンビヴァレントな枠組みを生きるのである。

「消滅の語り」「生成の語り」論も読んでみたかったのだが、それには触れられていなかった。

|

より以前の記事一覧