歴史・地理・民俗

2024年4月15日 (月)

バ美肉のバーチャル人類学

「最深日本研究~外国人博士の目~」をNHK+で見る。スイス人の若手女性人類学者がメタバース世界で日本人男性が美少女のアバターを使う割合が非常に多いことに着目したもの。声はボイスチェンジャーで変換する。当初はSNSで接触を図ったが欧米人の女性であることで信用されなかったという。そこで自身もメタバース世界に入り彼らと一年かけて交流することで距離を縮めていったとのこと。発表された論文では歌舞伎の女形や人形浄瑠璃と関連づけられて論じられているとのこと。美少女のアバターをまとった男性は「バ美肉」と呼ばれる。「バーチャル 美少女 受肉」の略とのこと。受肉には宗教的な意味合いはない。その女性研究者の6度目の来日でのフィールドワークが取材される。男性なのに女性声優的なアニメ声をだせる特異なスキルを持つ男性と直接面会し発声のコツを聴く。男性も習得するのに2年かかったという。研究者によると、カワイイ仕草も実際にやってみると難しいという。文化人類学は過去には主に未開民族のフィールドワークを中心にしていたが、この女性研究者はバーチャル人類学という領域を開拓しつつある。研究者の考察では日本人男性はカワイイになりきることでストレスから解放される。カワイイだと失敗しても許されるからとしていた。ある男性はインタビューで容易に他人と交流できるのが魅力と語っていた。この研究者はロシアからスイスに移住した際、フランス語を憶える必要があり、その際にフランス語に翻訳された日本の漫画を読んで学習したのがきっかけとのこと。

メタバースの利用者は4億人に上るという。期待外れと言われたりしたが、結構な数のアーリーアダプターがいるという印象。僕自身は眼鏡をかけているのでヘッドマウントディスプレイを装着するには困難があるかもしれない。必要なパソコンのスペック等も知らない。ゲームプレイの経験は実質2Dまでで、オープン3DCGの世界だと迷ってしまうタイプである。そこまでして他人と交流したくないという気質なのである。

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2024年1月19日 (金)

社会学は役にたたない学問か

社会学者の宮台真司氏が女子大生と不倫しているというスクープがちょっと前に話題になった。それで某匿名掲示板の関連スレッドを読んだりしていたのだけど、その中で社会学は役に立たない学問というレスが散見された。

僕からすれば社会学は量的分析と質的分析の両方を学べるバランスのとれた学問に映るのだが。量的分析と質的分析の両方ができれば就職してからも応用が利くだろう。

たとえば民俗学は文化人類学に対して明らかに劣位にある。ユネスコで無形文化財は元は民俗学的な定義がなされていたものが後に文化人類学的な定義に変更されている。

民俗学は基本自国の文化を扱うのに対して文化人類学は異なる民族の文化を対象とするものだから時として鋭い視点が生まれる。自分たちが自明のこととして考えもしなかったことが異国では全く別の思考がされている。そういった点では優位にある。ただ、過去の歴史から植民地主義的という批判はされるだろう。

民俗学も捨てたものではなくて、学生運動で挫折した人たちの一部は失敗の原因は外国の理論にとらわれて柳田国男的な土着的なものを見過ごしていたからではないかと考えたらしい。柳田は無方法の方法と批判されることもあるけれど、一面で日本の本質を上手く突いているとの評もある。

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2023年10月 1日 (日)

アドレス見当たらず

山陰民俗学会は自前のホームページもブログも持っていないと気づく。他に神楽研究者の所属する博物館は古代博物館という建前。

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2023年1月14日 (土)

どんど焼きに行く 2023.01

近所の公園で催されたどんど焼きに行く。二年ぶりの開催。雨模様だったが途中で止んだ。餅を焼いて食べる。

横浜市都筑区・どんど焼き
横浜市都筑区・どんど焼き
横浜市都筑区・どんど焼き
パナソニックTX1で撮影。

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2022年10月28日 (金)

民俗芸能は生活世界再構築の核となり得るか

このところ、東浩紀、大塚英志、宮台真司といった批評家の本を読んでいる。いずれもその世界では名を知られた著者たちである。東はポストモダニストだが現在では観光客の哲学を提唱している。大塚は漫画畑の評論家だが、民俗学研究のメッカである筑波大学出身ということもあって柳田国男の経世済民の思想の啓蒙を行っている。宮台は社会学の社会システム理論を援用した日本社会の分析を行っている。

システムとは企業の基幹情報システムを連想する人もいるかもしれない。正確な定義は分からないが、ここでは流転する世界の仕組みを指してシステムと呼称している。

宮台理論だと社会システム理論を援用して社会をシステム世界(市場・行政etc)とその外部にある生活世界(共同体)とに分けている。この内日本ではシステムが高度に発達し利便性・快適性・安全性を追求した結果、システムが生活世界を浸食し、共同体の空洞化が生じることになったとしている。

宮台は郊外化というキーワードで共同体の空洞化を説明している。第一段階の郊外化は郊外の団地化である。これで専業主婦化したともしている。第二段階の郊外化はコンビニ化である。ここでは家族の空洞化が起きたとしている。

共同体が空洞化した結果、相互扶助の仕組みが失われた。例えば高齢男性の孤独死が目立つようになった。また、かつての工場城下町では工場が撤退した後で男性の自殺率の上昇と女性の売春の比率が高くなっていることなどが挙げられる。

共同体の空洞化はネットの発達によって補われているとも見られるけれども、リアルな社会でのコミュニケーションから疎外された結果、上記のような社会の枠組みから外れた人たちへのセーフティネットが欠如している状態となっている。

昔は良かったで過去にロールバックをすることはできないが、生活世界の再構築の核として伝統芸能を置くことはできないだろうか。

柳田国男は官僚であり農政学者だった。民俗学が経世済民の学と呼ばれることがピンと来なかったのだが、こういった生活世界という文脈であれば豊かな世界を提供できる。

ただ、子供のいる家庭では近所づきあいが生じるけれど、問題となるのは独身の特に男性である。これを巻き込むのは難しい。

ひろしま神楽のセミナーにおける高島知佐子氏の講演によると、現在では教育に伝統芸能が取り入れられて一定の成果を挙げている。一方で、高校・大学進学で地元を離れる若者が多い、また継承者の高齢化が進んでいるとして10代後半から50代の後継者獲得が課題となっているとしている。

例えば石見神楽では子供神楽があって、児童から中学三年生までの年齢層が神楽を演じている。俵木悟氏はそういう自分より少し年上のお兄ちゃんお姉ちゃんが舞っているのをみれば格好いい、自分もやってみたいと感化されるのではないかと語っている。

ただ、石見神楽の場合、激しい舞なので舞手は若い層主体で高齢者は奏楽に回ることになる。高齢者のリクルートは機能しない。

関東の里神楽はゆったりした舞なので、仕事を引退してから始める層もあるとのことである。これであれば高年齢層の後継者獲得にも繋がるのではないか。

島根県石見地方の石見神楽は日本遺産に認定された。それで何かが劇的に変わったということはないだろうが、現在では週末になればどこかで神楽公演を行っているという地域へ変化している。こういった神楽公演は奉納神楽とは異なる観光神楽である。民俗学者たちの中では神楽のショー化として批判的なスタンスの人もいるだろう。例えば浜田市の三宮神社では拝殿で観光神楽が舞われる。観光神楽だが奉納神楽に近い感覚が味わえるということでもあり、奉納神楽と観光神楽の融合が見られると言ってもいいのではないか。

2022年10月に埼玉県久喜市の鷲宮神社で神楽を見学した。巫女さん二人が舞う杓舞のとき、幼い女の子が舞台にかぶりつきで見ようとしていた。それは舞うお姉さん達に惹かれたということでもある。

石見神楽の動画を見ていると、子供たちが舞台にかぶりつきで見ている場面がしばしばある。子供は先天的な審美眼で素直に魅力を感じているのだ。バウムガルテンは『美学』で審美眼には先天的なものと後天的なものがあるとしている。

なので神楽に限らず伝統芸能は子供に見せることが肝要であると思う。他の地域の伝統芸能は初めから真正性をアピールするのでとっつきにくくなっているのではと俵木氏は指摘する。幼い内に見せることで心理的な壁を低くすることが可能である。

別に舞手にならなくてもいいのである。観客として参加するだけでも違うだろう。

祭りには、一年に一度、その開放的な(今日だけは休んでいい)空気に触れることで精神をリフレッシュさせる作用があるだろう。そういった精神面でのケアも重要だと思われる。

僕自身、横浜市の港北ニュータウンで生活しているが、近所づきあいはない。町内会長さんには顔を憶えてもらっているくらいである。うちの町内では正月にとんど焼きを行う。また、コロナ禍で中止されているが7月末には盆踊り大会が催される。

◆参考文献
・宮台真司/野田智義『経営リーダーのための社会システム論~構造的問題と僕らの未来~』(光文社、2022)
・宮台真司『日本の難点』(幻冬舎、2014)
・大塚英志『社会をつくれなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門』(KADOKAWA、2014)
・東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、2017)

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2022年10月 5日 (水)

「戦国武将が欲しがった石見銀山」を視聴する

よみうりカルチャー・島根を学ぶオンデマンド講座「戦国武将が欲しがった石見銀山」を観る。大内氏・尼子氏・毛利氏の銀山を巡る争いが解説される。講師は小和田哲男氏。

大内氏:守護大名から戦国大名化
尼子氏:守護代から戦国大名化
毛利氏:国人一揆から戦国大名化

とそれぞれが異なるルートを辿って戦国大名化したとのこと。

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2022年10月 2日 (日)

アクセスが集中

(番外編)備中松山城と大石内蔵助の腰掛け岩: 薄味へのアクセスが異常に多い。テレビで放送でもしたか。

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2022年7月25日 (月)

文学青年だった柳田――大塚英志「社会をつくれなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門」

大塚英志「社会をつくれなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門」(角川EPUB選書)を読む。「ソーシャル」という英語には実は適切な日本語訳がないのではないかとしている。米国では結社がそうであるとのこと。

柳田がロマン主義の文学青年だった話は知らず、田山花袋との関係は勉強になった。文学を止め、官僚/農政学者の道をまず歩みはじめることになる訳だが、「経世済民」の思想はその後の民俗学、戦後の国語・社会科教育でも一貫しているとしている。また、自分で学んで自分で判断するという近代における個の確立を重視していたともする。周囲に流されるのでは自分で判断していることにならないのである。

著者は柳田の学問における手法をデータベース的、ハイパーテキスト的と指摘する。それは雑誌の運営において研究者個人の他に先駆けた発表を重視する方法論と齟齬をきたす。柳田がやろうとしていたことは現代になってWEBが発展することによってようやく機能する方法論だったのである。そういう意味で柳田の方法論はソーシャルなものだったのである。

基本的に漫画編集者/原作者でサブカル評論家であり民俗学に関しては学士でしかない著者が大学で民俗学の講義を行うことはアカデミック・ポストを一つ奪うものであり、いかがなものかと思っていたが、本書を読んでまあ許せるかという印象に変わった。

<追記>
要するに大塚が言いたいのは、近代的自我の確立だろう。それは果たして達成しなければならないものだろうか。欧米とは異なるルートを通ってきた日本人が小魚の群れ的な行動をとる傾向にあるのは、ある意味本能的な処世術である。


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2022年7月 1日 (金)

現在では乗り越えられるべき存在――福田アジオ「日本民俗学方法序説」

福田アジオ「日本民俗学方法序説」を読む。これは民俗学の理論に全面的な検討を加えた本で、当時、柳田国男が確立した民俗学の方法論を金科玉条のごとく守っていた彼の弟子たちに対して痛烈な批判を浴びせたものとなる。

検討内容は多岐に渡るが、主な批判は民俗学の資料操作法、つまり重出立証法と周圏論について理論的検討を加えたものとなる。

重出立証法は比較研究とも呼ばれ、民俗学者たちが全国で収集した資料を比較検討することで分類し系統づけ、その分布状況から個々の変遷を推測するというものである。

福田は重出立証法に対し、差異を比較することでは歴史的な変遷までをも明らかにすることはできないのではないかと批判する。

周圏論は本来は方言周圏論、つまり方言は中央(近畿)から同心円状に分布するとしたものである。これはある面で地域の隔絶具合によって方言の変遷の早い遅いを示すもので、その変遷を一系統上の変化と見なすものである。

本来は周圏論は方言研究に限定されていた。が、やがて民俗全般に適用されるようになっていったと批判するものである。

柳田の中央集権的な方法論(地域の研究者は資料の提供者として限定されていて、理論構築からは疎外されている)を批判した本でもある。

また、収集した資料が(カード化されること等によって)脱文脈化されることで、その地域との繋がりを失った根無し草となるのではないかと疑義を呈している。

他にも批判は多岐に渡るのであるが、一読ではまとめきれない。

読んでみた感想として、これは民俗学の核心的な内容にメスを入れた本であるが、特に難解ということはなかった。そういう意味では自分に合っていた学問は民俗学だったのかなと考えさせられた。

2020年代の現在では福田アジオは逆に乗り越えられるべき存在と見なされていることも付け加えておこう。

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2022年6月 3日 (金)

民俗学の方法論の特集――国立歴史民俗博物館研究報告第27集

国立歴史民俗博物館研究報告第27集を読む。民俗学の方法論の特集で斉藤修平先生に送っていただいたもの。個々の論文をコピーして読むことはあったが、通読するのは初めて。非売品である。

なぜ歴史民俗博物館なのかと思っていたが、考えるに、歴史は文字に記録された史料を元に考証する。一方で民俗学は言わば当然のこととして文字化されてこなかった口頭伝承を対象とする。そういう点で補い合う関係にあると言えるだろうか。

平成2年の発行なので30年以上が経過している。民俗学の場合、1930年代の創始の頃にあった民俗は現在では多くが消えてしまっている。民俗芸能は祭礼に伴う芸能だから命脈を保っているが、僕の周辺でも年中行事的なものはあまりない。正月のとんど焼きくらいである。新たに加わったものとしてハロウィンがあるか。

民俗学の存立基盤を揺るがす大問題なのだけど、どうなのだろう。現代の社会を対象にするとなれば社会学とも被ってくる。質的量的研究をよくする社会学に劣位となってしまう。

それはともかく、方法論に意識が向いてきたということは大分分かってきたということかもしれない。

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