歴史・地理・民俗

2020年3月25日 (水)

魅惑の花祭――早川孝太郎「花祭」

早川孝太郎「花祭」(角川ソフィア文庫)を読む。電子書籍版。講談社学術文庫版と両方あったが、角川が約370ページで講談社が約420ページだった。50ページの差がどこから来ているのかは分からない。

奥三河の花祭を取り上げた論考。祭りの式次第をモノグラフを加えて極めて詳細に記述している。実際に花祭を見たことがある訳ではないので到底理解したとは言い難いが、魅惑の祭であった。

早川は画家だったとのことで、その観察力がモノグラフに活かされている。現代なら写真を撮るところだが、写真だと被写体の全てを描写するのに対し、絵だと描きたい、強調したいところだけを描写することになるから、却って分かりやすいものとなっている。

現在の神楽研究でも「花祭」ほどに詳細に祭のあれこれを記述したものは無いと言えるだろう。発表された当時、民俗学者たちに衝撃を与えたというのも頷ける。

一方、読んでいて思い出したのだが、確か岩田勝の指摘だったと思うが、榊鬼、山見鬼の裏で土公祭文が読誦されていたそうなのだが、早川の注意は土公祭文には向かわないのだ。土公祭文は竈祓いの祭文でもあり、また、花祭で読誦される土公祭文では五郎王子が五郎の姫宮となっているといった特徴もあるのだが、本書ではほとんど取り上げられていない。今入手できる「花祭」は抄縮版であり、元の「花祭」では記述があったのかもしれない。

花祭に登場する榊鬼、山見鬼は年齢争いで負けて反閇を踏んで大地を鎮めるなど、敬愛される存在であり、同じ鬼でも悪鬼しか登場しない中国地方の神楽とは異なっている。

花祭見学ツアーなど催されていないのだろかと検索したところ、過去にそういうツアーがあったことは確認できた。徹夜で舞う祭なので、宿泊はしないのだろう。そういう意味ではあまり地元にお金が落ちないのかもしれない。

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2020年3月12日 (木)

東京都民俗芸能大会も中止に

第51回 東京都民俗芸能大会の中止が決定した。3月28日29日と池袋で催される予定で、29日には石見神楽東京社中も出演予定だった。僕自身は28日のチケットを文教大学の斉藤先生から送ってもらっていたので残念だ。新型コロナウイルスが蔓延しているので止むを得ないだろう。しかし、この分だと春以降のイベントも開催されるのか怪しい。

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2019年11月16日 (土)

江戸里神楽公演学生実行委員会のパンフレットを読む

国会図書館に行く。今回はダブル盛り蕎麦といなり寿司を食す。今回は江戸里神楽公演学生実行委員会のパンフレットを読むのが主な目的。主要な部分はコピーしてまだ読んでいない。

<追記>
コピーした部分を読んだが、江戸里神楽公演学生実行委員会という組織は外からは正体不明の組織と映るようである。全貌を把握するには、全パンフレットに目を通した方がいいか。

岩竹美加子/訳「民俗学の政治性―アメリカ民俗学100年目の省察から ニュー・フォークロア双書27」(未来社)の冒頭部分を読む。著作権の関係で半分しかコピーできなかったが、読み返してみると、かなり構築主義を匂わせた構成であった。

川野裕一朗「民俗芸能を取り巻く視線―広島県の観光神楽をいかに理解すべきなのか」「森羅万象のささやき 民俗宗教研究の諸相」の前半部分を読んだが、芸北神楽を評価しようという心意気は立派だが、やはり梶矢手の解釈で変な箇所がある。阿須那系梶矢手というのは石見神楽系としか考えられないからである。

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2019年11月 9日 (土)

能を初鑑賞

梅若能学院会館「招魂」に行く。狂言「寝音曲」独吟「井筒」能「杜若」が演じられる。

「寝音曲」は太郎冠者が主に謡を謡えと命じられるが、あれこれ理屈をつけて断り、酒をしこたま飲んだ後、主の膝枕で謡い、そうでないと調子がでないふりをするが、段々混乱してきて……という内容。

能を鑑賞するのは初めての体験。セリフというか謡は何とか聞き取れたが、囃子方の「いよ~っ」ポン!という囃子に紛れて聞き取れなくなってしまう。隣の席の人は草書体の台本を持ち込んで参照しながら鑑賞していた。

動画で見たときには微動だにしないかの様に見えたが、生で見るとわずかに揺らいでいた。とはいえ、通常の動きからは考えられないくらいの微妙なものである。凄まじい身体能力だ。関東の里神楽の動きが早く思えるほどゆっくりとした所作だった。

文教大学の斉藤先生の勧めでシテの梅若長左衛門氏に挨拶する。まあ座っていきなさいとなる。会場には成城大学の山田先生(民俗学)と境先生(経済学)もいらしていて挨拶する。梅若氏は柳田民俗学の嫡子と言っていい成城大学の御出身とのことで、民俗学に造詣が深く、民俗学を語りはじめると止まらないという印象の方だった。ちなみに、日本の民俗が失われたのは戦後の鳩山一郎内閣の新生活運動の影響によるのだとか。他、柳田国男と折口信夫の確執や大嘗祭(大嘗祭の真実を知る者は天皇陛下と一部の人しかいない)などについて。

歌垣はフリーセックスではなく歌を詠むことによる求愛で応じる/拒否する方も歌で応じる。それで契約関係みたいな状態となり、子供が生まれれば継続、生まれなければ他の相手を探す……といったニュアンスのものだったそうだ。今でも銚子では漁師町なので女の子は高校生になったら家を出て下宿するとのこと。

柳田国男が記述自体は平易だが、結論を書かないので、結局のところ何がいいたいのか分からないという僕の質問に対しては山田先生が評論家の吉本隆明が体液的だと形容したとのこと。岡正雄は柳田国男の自宅に一年間下宿していたが、後に柳田を「一将功成りて万骨枯る」と評したとのこと。

あるとき若手が議論していた際に、重鎮が「柳田先生はそんなことをおっしゃらなかった」とピシャリと制止して、会話は途切れた……という話もあるそうだ。柳田自身、何かを取り上げて考察しようとした若手研究者に「君は考えなくていい。自分が考える」といった趣旨の発言をしたことがあるそうだ。柳田自身は自らを生きるデータベース化しようとしていた様だが、今からみると老害と言っていいかもしれない。

 

杜若(かきつばた)

シテ:杜若精霊
ワキ:僧
處は:三河

業平杜若の古跡を伊勢物語に依りて述べ。経文の功徳にて花の精まで成仏する事を作れり

ワキ詞「これは諸国一見の僧でございます。私はこの間は都にいて、洛陽の名所旧跡を残りなく一見しました。また是から東国行脚を志しています」
道行「ゆふべゆふべの仮枕、ゆふべゆふべの仮枕、宿は数多く変わったけれども、同じ憂き寐(寝の異体字)の美濃尾張、三河の国に着いたことだ。三河の国に着いたことだ」
詞「お急ぎになる間に、程なく三河の国に着きました。また、ここの沢辺に杜若(かきつばた)の今を盛りと見えます。立より詠(なが)めようと思います。実に光陰とどまらず、春過ぎ夏も来て、草木(さうもく)心なしとは申すけれども、時を忘れぬ花の色、かほよ花(カキツバタの異称)とも申すだろうか。あら美しい杜若かな」
シテ詞「のうのう御僧、何しに此の沢でお休みになっていらっしゃるのか」
ワキ詞「是は諸国一見の者でございますが。杜若の趣きがあるのを詠めています。扨(さて)ここをばいずこと申しますか」
シテ「これこそ三河の国八橋(やつはし)といって、杜若の名所でござます。さすがにこの杜若は名にし負う花の名所(などころ)なので、色もひとしお濃紫(こむらさき)の、おしなべての花のゆかりとも、思いなぞらえずに、とりわけお詠めくださいな。あら、心な(趣きを解することのない)の旅人(りょじん)かな」
ワキ「実に三河の国八橋の杜若は古歌にも読まれたという。いずれの歌人の言の葉だろうと承りたくございます」
シテ「伊勢物語に曰く、ここを八橋と言うのは、水行く河の蜘蛛手(蜘蛛の足の八方に出たように)なので、橋を八つ渡したのです。その沢に杜若のとても趣きがあるように咲き乱れたのを、ある人かきつばたと云う五文字(いつもじ)を句の上(かみ)に置いて、旅の心を詠めと云ったので、からころも着つつなれにし妻しあれば、はるばる来ぬる旅をしぞ思う。これは在原(ありはら)の業平(なりひら)がこの杜若を詠んだ歌です」
ワキ「あら趣きがあることだ、扨(さて)はこれ、東(あづま)の果ての国々までも業平はお下りになったのか」
シテ「こと新しい問事(とひごと)かな。此の八橋のここだけか、猶しも(なお)心の奥深い、名所名所の道すがら」
ワキ「国々ところは多いけれども、とりわけ心の移り行く末にかけて」
シテ「思い渡った八橋の」
ワキ「三河の沢の杜若」
シテ「はるばる来た旅を」
ワキ「思いの色を世に残して」
シテ「主は昔は業平だけれども」
ワキ「かたみの花は」
シテ「今ここに」
地「在原の跡を隔てるな杜若、在原の跡を隔てるな杜若、沢辺の水の浅くなく、契った人も八橋の蜘蛛手に物を思われる。今とても旅人に、昔を語る今日の暮れ、やがて馴れた心かな、やがて馴れた心かな」
シテ詞「いかに申すべき事がございます」
ワキ詞「何事でございます」
シテ「見苦しいけれども、妾(わらわ)の庵(いほり)で一夜をお明かしください」
ワキ「不思議だ賤しい賤(しづ)の臥處(ふしど)より、色も輝く衣(きぬ)を着て、透額(すきびたひ:冠の一種)の冠を着け、これを見よと承る。これはそもそも如何なる事でございますか」
シテ「是こそ此の歌に詠まれた唐衣(からころも)、高子(たかこ)の后の御衣(ぎょい)でございます。また此の冠(かむり)は業平の豊(とよ)の明(あかり)の五節(ごせつ)の舞の冠なので、かたみの冠唐衣、身に添え持っております」
ワキ「冠唐衣(からきぬ)はまず置こう。扨々(さてさて)あなたは如何なる人か」
シテ「誠は私は杜若の精です。植え置いた昔の宿の杜若と詠んだのも女の杜若に、なった謂れの事です。また業平は極楽の歌舞の菩薩の化現なれば、読み置く和歌の言の葉までも、皆法身(ほつしん:宇宙の理法そのものとして捉えられた仏のあり方)説法の妙文(優れた経典)なので、草木(さうもく)までも露の恵の仏果(悟り)の縁を弔うのです」
ワキ「これは末世の奇特(殊勝)かな。正しい非情の草木に言葉を交わす法(のり)の声」
シテ「仏事をなすか業平の、昔男(業平のこと)の舞の姿」
ワキ「これぞ即ち歌舞の菩薩の」
シテ「仮に衆生と業平の」
ワキ「本地寂光(じやくくわう:智慧の光)の都を出て」
シテ「普(あまね)く済度(仏・菩薩が苦海にある衆生を救い出して涅槃に渡らせること)」
ワキ「利生(仏の冥加)の」
シテ「道に」
地「はるばる来た唐衣、はるばる来た唐衣、着つつ舞を奏でよう」
シテ「別れ来た跡の恨みの唐衣」
地「袖を都に返そう」
シテ「抑(そも)此の物語は、如何なる人の何事によって、思いの露の忍ぶ山、忍びて通う道芝の、始めもなく終わりもなし」
シテサシ「昔男(業平)初冠(うひかむり:能で垂纓[すいえい]または巻纓[けんえい]の冠のこと)して奈良の京、春日の里に知る由して狩りにいった」
地「仁明(にんみやう)天皇の御宇(御世)だろうか、とても恐れ多い勅を受けて、大内山(おほうちやま)の春霞、立つや弥生の初めの方、春日の祭の勅使として透額(すきびたい)の冠を許された」
シテ「君の恵みの深い故」
地「殿上での元服の事、当時其の例は稀なので、初冠(うひかむり)とは申すのか」
クセ「そうではあるけれども世の中の、一度(ひとたび)は栄え、一度は衰える理(ことわり)の誠である身の行方。住む所を求めるといって、東の方に行く雲の、伊勢や終わりの海面(うなづら)に立つ波を見て、ますます過ぎた方の恋しさに、羨ましくも帰る波かなと、うち詠め行けば、信濃の浅間(あさま)の嶽(たけ)だろうか、くゆる烟(けぶり)の夕景色」
シテ「扨(さて)こそ信濃の、浅間の嶽に立つ烟」
地「遠近(ちこち)人(あちこちの人)の見るか(いや、そんなことはない)と咎めぬと口ずさみ、猶はるばるの旅衣、三河の国に着いたので、ここぞ名にある八橋の、沢辺に匂う杜若、花紫のゆかりなので、妻はあるかと、思い出た都人(みやこびと)。そうであるところに此の物語、其の品の多い事ながら、とりわけ此の八橋か、三河の水の底なく、契った人の数々に、名を変え品を変えて、人待つ女物(婦人物)病み玉すだれの、光も乱れて飛ぶ蛍の、雲の上まで行くべくは、秋風吹くと仮に現れ、衆生済度の我ぞとは、知るや否や世の人の」
シテ「暗きに行かない有明の」
地「光普(あまね)き月はなく、春か昔の春でない、我が身一つは元の身にして。本覚(衆生に本来備わっている悟りの智慧)真如(普遍的な心理)の身を分け、陰陽の神とは云われたのも、ただ業平のことだろう。このように申す物語、疑わせるな旅人。はるばる来た唐衣、着つつ舞を奏でよう。
シテ「花前(くわぜん)に蝶が舞う紛々たる雪」
地「柳上(りうじやう)に鶯が飛ぶ片々たる金」
シテ「植え置いた、昔の宿のかきつばた」
地「色ばかり昔だったか。色ばかりこそ」
シテ「昔男(業平)の名を留めて、花橘の匂い移る、菖蒲(あやめ)のかづらの」
地「色はいずれ、似るにも似たり杜若花菖蒲(はなあやめ)。梢(こすゑ)に鳴くは」
シテ「蝉の唐衣の」
地「袖白妙の(白い)卯の花の雲が、夜もしらじらと明ける東雲(しのゝめ)の、浅紫の杜若の、花も悟りの心開けて、すわ今こそ草木国土、すわ今こそ草木国土、悉皆(ことごとく)成仏の、御法(みのり)を得て失せたことだ」

井筒(ゐづゝ)

前シテ:里女
後シテ:井筒女
ワキ:僧
處は:大和
季は:九月

伊勢物語なる業平と紀有常の女と契る事、其の他の段をつゞりて合わせて作れり

ワキ詞「これは諸国一見の僧でございます。私は此の程南都七堂に参りました。また是から初瀬に参ろうと考えています。是なる寺を人に尋ねたところ、在原寺(ありはらでら)とか申すので、立ち寄り一見しようかと思います」
狂言「しかじか」
ワキ「さては此の在原寺は古(いにしえ)の業平が紀の有常(ありつね)の息女と夫婦でお住まいになった石上(いそのかみ)でしょう。風ふけば沖つ白浪たつた山と詠じたのも、この処での事でしょう」
歌「昔がたりの跡問えば、其業平の友とせし、紀の有常の常なき世、妹背をかけて弔はん、妹背をかけて弔はん」
シテ次第「暁ごとに閼伽(あか)の水、暁ごとに閼伽(あか)の水、月も心を澄ますだろう」
サシ「そうでなくてさえ物の淋しい秋の夜の、人目稀な古寺の、庭の松風更け過ぎて、月も傾く軒端(のきば)の草、忘れて過ぎた古(いにしえ)を、忍ぶ顔でいつまでか、待つ事なくて永らえよう。実に何事も思い出の、人には残る世の中かな」
歌「唯いつとなく一筋に、頼む仏の御手(みて)の糸、導き給へ法(のり)の声、迷ひをも照らさせ給ふ御誓い、迷ひをも照らさせ給ふ御誓い、げにもと見えて有明の、ゆくへは西の山なれど、ながめは四方(よも)の秋の空、松の声のみきこゆれども、嵐はいづくとも、定めなき世の夢心(ゆめごゝろ)、何の音にか覚めてまし、何の音にか覚めてまし」
ワキ詞「私はこの寺に安らい、心を澄ます折節に、とてもなまめいた女性(にょしょう)が、庭の板井(いたゐ)を掬(むす)びあげ花水(はなみず:仏前に手向ける花と水)とし、ここの塚に回向(えこう:仏事を営んで死者の成仏を祈ること)の気色が見えたのは、如何なる人でいらっしゃるか」
シテ詞「是はこの辺りに住む者です。この寺の本願(本願主:造寺など功徳となる事業の発起人)在原の業平は、世に名を留めた人です。なので其の跡の印もこの塚の陰でしょうか。妾(わらは)も委しくは知りませんが、花水を手向け御跡を弔い参らせております」
ワキ「実に業平の御事は、世に名を留めた人です。そうではありながら、今は遙かに遠い世の、昔語りの跡なのを、しかも女性の御身として、このようにお弔いになる事、其の在原の業平に、きっと故ある御身でしょう」
シテ「故ある身かとお問いになる、其の業平は其の時さえも、昔男と言われた身の、ましてや今は遠い世に、故もゆかりもありはしないでしょう」
ワキ「もっとも仰せはそのような事であるけれども、ここは昔の旧跡で」
シテ「主こそ遠く業平の」
ワキ「あとは残ってさすがに未だ」
シテ「聞こえは𣏓(朽)ちぬ世語りを」
ワキ「語れば今も」
シテ「昔男(業平)の」
地「名ばかりは、在原寺の跡舊(ふ:旧)るびて、在原寺の跡舊るびて、松も老いた塚の草、これこそそれよ亡き跡の、一村すすきの穂に出たのは、いつの名残だろう、草茫々(ばうばう)として露深々と古塚の、誠なるかな古(いにしえ)の、跡懐かしい景色かな、跡懐かしい景色かな」
ワキ詞「猶なお業平の御事を委しく物語ってください」
クリ地「むかし在原の中将、年を経てここに石の上、ふった里も花の春、月の秋といって住んでいたところ」
シテサシ「其の頃は紀の有常の娘と契り、妹背(夫婦)の心浅くなかったところに」
地「また河内の国高安(たかやす)の里に、知る人があって、二道(ふたみち:二人の異性を関係をもつころ)に忍んで通ったところ」
シテ「風ふけば沖つ白波立田山」
地「夜半(よは)にか君が独り行くだろうと、おぼつか波(はっきりしないで気がかりなこと)の夜の道、行方を思う心が解けて、よその契りはかれがれ(枯れ枯れ)です」
シテ「実に情知るうたかた(水の上に浮かぶ泡)の」
地「哀れを述べた理(ことわり)なり」
クセ「むかし此の国に、住む人がいたが、宿を並べて門(かど)の前、井筒によりてうない(髫髪:うなじで束ねた子供の髪)子の、友達かたらって、互いに影を水鏡、面をならべて袖をかけ、心の水も底ひ(極めて深い底)も無く、移る月日も重なって、おとなしく耻(恥の異体字)じがましく互いに今はなった。其の後彼のまめ男(好色の男)、言葉の露の王章(たまずさ:手紙の美称)の、心の花も色そって」
シテ「筒井筒、ゐづゝに掛けたまろ(私)がたけ(丈か)」
地「生えたことだよ、妹(妻)が見ない間にと、詠んで送ったところ、その時女も比べ超し、振分髪(ふりわけがみ:髪を肩までの長さに切り、左右に分けさばいたまま垂らしたもの)も肩過ぎた、君でなくして誰が上げるべきかと、互いに詠んだ故だろうか。筒井筒の女とも、聞こえたのは有常の娘の古い名でしょう」
ロンギ地「実に旧(ふ)るびた物語、聞けば妙なる(言いようもなく美しい)有様で、心を引かれる、お名乗りください」
シテ「誠は私は戀(恋)衣、紀の有常の娘とも、いざ白波の立田山、夜半にまぎれて来ました」
地「不思議かな、さては立田山、色に出る(秘めた恋心が表情に出る)紅葉ばの」
シテ「紀の有常の娘とも」
地「または井筒の女とも」
シテ「恥ずかしながら私であると」
地「言うや注連縄の長い世を、契った年は筒井筒、ゐづゝの陰に隠れたことだ、ゐづゝの陰に隠れたことだ」
ワキ詞「更けゆくか、在原寺の夜の月、在原寺の夜の月、昔を返す衣手に、夢待ち添えて仮枕、苔の莚に臥したことだ、苔の莚に臥したことだ」
後シテ「仇であると名にこそ立てれば桜花、年に稀な人も待っています。このように詠んだのも私なので、人待つ女とも言われました。私は筒井筒の昔から、真弓(弓の美称)槻弓(槻の木で作った丸木の弓)年を経て、今は亡き世に業平の、形見の直衣(なほし:昔の貴族の平常服)身に触れて、はずかしや昔男(業平)にうつり舞」
地「雪をめぐらす花の袖」
シテ「ここに来て、昔へ返す在原の」
地「寺井(てらゐ)に澄んだ月がさやかである、寺井に澄んだ月がさやかである」
シテ「月やあらぬ、春や昔と詠んだのも、いつの頃だろうか。筒井筒」
地「つゝゐづゝ井筒に掛けた」
シテ「まろ(私)のたけ(丈か)」
地「生えたことよ」
シテ「生えたことだよ」
地「そうでありながら見えた昔男(業平)の、冠直衣(かむりなおし)は女とも見えず、男だった業平の面影」
シテ「見れば懐かしい」
地「我ながら懐かしい。亡婦(ばうふ)魄霊(はくれい:魂)の姿は、しぼんだ花の色でなくて、匂いが残って在原の、寺の鐘もほのぼのと、明ければ古寺の、松風や芭蕉葉の、夢も破れて覚めたことだ、夢は破れ明けたことだ」

 

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2019年10月19日 (土)

新宿で会食する

新宿で文教大学の斉藤修平先生たちと会食する。六月に行われた第二回かながわのお神楽公演のプレ反省会。司会をつとめた若い女性二人が同席する。室内が思ったより騒がしく、声が聞き取り難かった。パンフレットに意外とお金が掛かるとのこと。2,000円×300人で60万円は掛かることになる。資料的価値を残すためカラーにしているのが要因の一つだとか。僕自身は四社中による共演大会方式は良かったと思うのだが、当の社中の方たちにしてみると、そうでもないらしい。

若い人たちの発想は柔軟で、イベント関係のノウハウの無い僕には思いも寄らない会話が続いた。

斉藤先生から石見神楽・東京社中はどれくらいの人数がいるの? と訊かれて答えられなかったが、大蛇ができるので、それなりの人数はいるはずと答えた。

その他、流鏑馬神事は落馬事故が多いとのこと。関東の里神楽は元締めと家元とで異なるのだそうだ。

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2019年9月28日 (土)

体制転覆的――シェクナー「パフォーマンス研究 : 演劇と文化人類学の出会うところ」

「パフォーマンス研究 : 演劇と文化人類学の出会うところ」(リチャード・シェクナー, 高橋雄一郎/訳, 人文書院, 1998)を読み終える。

パフォーマンスというと演劇におけるパフォーマンスなどが狭義の意味でそうである。一方で、広義にとると、我々は日常生活において家庭では家庭人として、職場では職業人としてパフォームしているということになり、パフォーマンスは極めて広範囲な領域をカバーするのである。

また、演劇においては上演だけをパフォーマンスとするのではなく、稽古、上演、上演後のクールダウンに至るまで全ての過程がパフォーマンスだとしている。

演技と儀式に関する論考。演技も通過儀礼も<私>から<私でないもの>へと円環的に変化していくという点で共通しているとする。ギリシャ悲劇を手本として発展してきた西洋演劇に対して東洋の演劇を研究することで新風を吹き込もうとしている。

演技の場合、円環的にまた元の<私>にクールダウンされるのであるが、通過儀礼の場合は子供から大人の成員として変化を遂げることとなる。また、西洋の演劇ではクール・ダウンの方法論が確立されていないとしている。

インドのラーマーヤナの劇を大きく取り上げていて、日本の能についても触れられている。ラーマーヤナの劇は数十日にもおよぶ長大な内容を複数の劇場で移動しながら上演するという形式で、数万人もの観客がそれに従って移動するのである。一種の巡礼に近い。西洋演劇は三幕構成法によって物語のうねりが作られているが、インドの劇はそれとは異なり複数の筋が絡まり合いながら進行していく。

インドのラーマーヤナの事例の次はジャワ島の影絵劇(ワヤン)についてだった。オランダの植民地支配が長く続いた土地で(オランダ人はジャワ人に広く教育を施さなかった)、オランダの影響を受けて古典への回帰が図られたが(規範的期待)、シェクナーはそれは白人から見た古典としてお墨付きを与えるもので、構築主義的観点から異論を述べている。

最後の章では、トランス状態に入ることを目的とした研究者のワークショップの事例が紹介される。その宗教の内面を信じるのではなく、あくまで体のポーズ等にトランス状態に入り易い姿勢があるとのこと。トランス状態に入ることで一種の神秘体験をすることになる。神秘体験を経ることでそれまでの自分とは異なる自分となる。ただし、ここではそれは宗教的信仰とは結び付かない。

巻末の訳者あとがきでパフォーマンス理論について触れられていた。以前は演劇というと大学の文学部で学ぶもので、それも戯曲の解釈が中心だったという。その限界を超えたところでパフォーマンス理論は発展してきた。また、英国のカルチュラル・スタディーズと結びつき、内容を深化させてきた。ジェンダー理論などもそうである。東洋の演劇には植民地主義による支配-被支配の問題があるとしている(ポストコロニアル)。故にその内容は体制転覆的でもあるという。いわば既存の価値観を破壊的に乗り越えるのである。そういう点では日本では受け入れ難いのかもしれない。僕が感じたところだと、1980年代頃から盛んになってきた構築主義が根底にある。そういう意味では何でもありなのである。

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2019年9月21日 (土)

演技も儀礼もパフォーマンス

国会図書館に行く。今回はダブル盛り蕎麦とおにぎりを食す。日本庶民文化史料集成は二冊両方とも借りて「複写」マークのない方を利用すればいいと後で気づく。

シェクナー「パフォーマンス研究」は141Pまで読む。演技と儀式に関する論考。ギリシャ悲劇を手本として発展してきた西洋演劇に対して東洋の演劇を研究することで新風を吹き込もうとしている。

演技も通過儀礼も<私>から<私でないもの>へと円環的に変化していくという点で共通しているとする。演技の場合、円環的にまた元の<私>にクールダウンされるのであるが、通過儀礼の場合は子供から大人の成員として変化を遂げることとなる。

インドのラーマーヤナの劇を大きく取り上げていて、日本の能についても触れられている。ラーマーヤナの劇は数十日にもおよぶ長大な内容を複数の劇場で移動しながら上演するという形式で、数万人もの観客がそれに従って移動するのである。西洋演劇は三幕構成法によって物語のうねりが作られているが、インドの劇はそれとは異なり複数の筋が絡まり合いながら進行していく。

この本、amazonではプレミアム価格となっている。

ちなみにラーマーヤナのヒロインをスィータとしているが、日本ではシータと表記されることが多いようである。「天空の城ラピュタ」のヒロイン・シータのネーミングもラーマーヤナからだろうか。

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2019年8月16日 (金)

平易かつ難解な文章

柳田国男「海上の道」の一部分を読む。竜宮に関する考察。それにしても柳田の文章は記述自体は平易だけれど、結局何が言いたいのかさっぱり分からない。そういう意味では難文だと思う。

<追記>
評論家の吉本隆明は柳田の文章を体液的だと評したとのこと。

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2019年7月27日 (土)

盆踊りに行く 2019

近所の小学校で催された盆踊り大会に行く。毎年涼みにいっているのだけど、よくよく考えると盆踊りも伝統行事であった。ちなみに太鼓は叩くけれど、歌はテープである。いつもは妙齢の娘さんが台の上で踊るのだけど、今年は無かった。他、地元中学校の吹奏楽も今年は無かった。

横浜市都筑区の小学校で催された盆踊り大会
パナソニックGF2+25mm/F1.7で撮影。

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2019年6月12日 (水)

民俗から文化へ――岩本通弥/編「ふるさと資源化と民俗学」

「ふるさと資源化と民俗学」(岩本通弥/編, 吉川弘文館)を読み終える。タイトルにあるように、郷土の伝統芸能が地域おこしに活用され観光資源化されつつある。海外ではフォークロリズム(フォークロアまがい)という概念を用いて分析されてきた課題だけれども、現代日本でもフォークロリズムが浸透しつつある。

それらの動きの背景には農業が深く関わっている。民俗行事と農業というのは元々関係が深いものだけど、WTOによる関税引き下げ圧力で、国内農家を保護する既存の政策が見直されていることとも深い関わり合いがある。農水省はグリーンツーリズムといった新しい観光形態で農家の民宿経営を支援する保護策を打ち出している。が、小学生の体験学習で独自のノウハウを積み重ねている地域ではグリーンツーリズムに敢えて参加しないという方向性を選んでいるようだ。

また、ユネスコの世界遺産条約も加盟の影響も大きいようだ。世界遺産といっても、その保護自体は日本の国内法、文化財保護法等で守られており、白川郷の事例を挙げて、世界遺産化した現状に対する分析が行われている。

元々、文化という言葉は文化住宅といった用語でもそうであるように「進んだ、進歩した」というニュアンスが込められていた。明治時代以降の日本は西洋文化を取り入れることで文化化を推し進めてきた訳であるが、戦後になって見直しがされる。文化が西洋化されても心理面で豊かになっていないという現実である。そこで地方に残る伝統文化が見直されてきたという流れの様だ。

これらの政策の転換の背景には農水省の意向や、神道系の保守系圧力団体の意向が深く関わっていると指摘がされている。

後半に入ると、本書の姿勢が明確になる。本質主義の限界を指摘し、構築主義的な文化観となっていく。

民俗学はこれまで一国民俗学として日本の民俗を統一的に把握しようとしてきたことが指摘されている。しかし、実際には一国の括りで括れない程の多様性が日本の民俗にはあるのではないかという観点が提供される。

中西裕二「複数の民俗論、そして複数の日本論へ」では、白川琢磨の九州の神楽研究を例として挙げ、宮崎県の高千穂神楽を取り上げる。高千穂神楽は神楽の本場であるが、一面では観光神楽化して多くの観光客を受け入れている。高千穂神楽というと岩戸神楽のイメージであるが、実は歴史を振り返ると、岩戸神楽が現在の編成となったのは十九世紀に入ってからのことだとしている。

僕自身、本田安次の「日本の伝統芸能」に収録された九州の神楽の詞章を読んだことがあるが、それらは江戸時代に神道流に改作されたものであった。なので、明治以降だということはないと思う。

白川琢磨は宗教人類学者で、神道流に改作される以前の神楽の姿を捉えるには神道の知識だけでは追いつかない面もあるので、今後の課題としたい。

こういった十九世紀に再編成された神楽という見方自体が構築主義的である。構築主義は文化はその都度再構成/再創造されるものとの解釈である。とすると、それを推し進めると文化に本物も偽物もないことになり、何でもありになってしまう。それもまた困った話である。

川森博司「中央と地方の入り組んだ関係―地方人から見た柳田民俗学―」では岡正雄が柳田民俗学を「一将功なって万骨枯るの学問」と評した。一国民俗学の立場からこうした知の中央集権システムを構築した面があるのだけど、川森は地方で民俗を収集していた人たちは地方の知識人層であり、民俗学の外に生業があったとして、「万骨枯る」という見方に修正を施している。

民俗学の黎明期にはコンピュータやデータベースは存在しなかった。カードによる分類法などはあっただろう。現代的な視点で捉えると、柳田は自らを人間データベース化しようとしていたのではないか。

また、文化の客体化という用語がしっくり来るようになる。文化が本来の文脈から切り離されることで、文化が客体化、もっと推し進めれば商品化されるのだという解釈らしい。

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