江津市

2019年8月17日 (土)

現在では舞われていない過去の演目――竹生島

◆はじめに
 2019年に江津市で18世紀半ばの神楽史料が発見された。多鳩神社のもので、将軍舞や竹生島など、現在の石見地方では舞われていない演目が記録されていたとのこと。このうち「竹生島」は謡曲の「竹生島」が元ではないかと思われる。天皇にお暇を申して竹生島詣でをした廷臣の前に弁財天や竜神が現れ、この世を寿(ことほ)ぐという目出度い内容である。

◆謡曲「竹生島」

ワキ:廷臣
ワキツレ:廷臣(二人)
ツレ:女
シテ:老人
アイ:社人
後ツレ:弁財天
後シテ:竜神

弁財天として、また竜神として、衆生済度の姿を示し、理想の世界である延喜帝の時代を神仏が守護したということによって、この世をことほぐ。

 (真の次第)
ワキ/ワキツレ(次第)「竹に生まれる鶯(うぐいす)の、竹に生まれる鶯の、竹生島詣でを急ごう」
ワキ「(名のり)そもそもこれは延喜の聖主(聖徳ある君主)に仕える臣下である。さても(ところで)江州(がうしう)竹生島の明神は霊神であるので、君主にお暇を申して、ただいま竹生島に参詣しました」
ワキ/ワキツレ{<上歌>四の宮や、河原の宮居(神が座すること)末早く、河原の宮居末早く、名も走り井(湧き出る清水)の水の月、曇らぬ御代に逢う逢坂の、関の宮居を伏し拝み、山越え近い志賀の里、鳰(にほ)の浦にも着いたことだ、鳰の浦にも着いたことだ」
ワキ「<着きゼリフ>急ぐ間に鳰の浦に着きました。あれを見ると釣舟が来ました。便船(都合よく出る船)を乞おう(乗せてもらおう)と思います」
ワキツレ「そうしてよいと思います」
 (一声)
シテ「<サシ>面白い。頃は弥生(三月)の半ばなので、波もうららか(穏やか)で湖の面(おも)」
シテ/ツレ「霞み渡る朝ぼらけ(あけぼの)」
シテ「<一セイ>のどかに通う舟の道」
シテ/ツレ「憂い(つらい)仕事に従っているけれど、憂くはない心かな」
シテ「<サシ>これはこの浦里に住み馴れて、明け暮れ運ぶ鱗(うろくず:魚類)の」
シテ/ツレ「数を尽くして身一つを助けよう(養おう)とすると詫び人(侘しく暮らす人)が隙(ひま)も波間に明け暮れて、この世を渡ることこそ物憂い(つらい)ことだ」
シテ/ツレ「<下歌>よしよし同じ仕事ながら、この世に越えた(風光明媚な)この湖の」
シテ/ツレ「<上歌>名所(などころ)の多い数々に、名所の多い数々に、浦と山にかけて眺めれば、志賀の都の花園、昔ながらの長等(ながら)の山桜、真野の入江の舟を大声で呼び、さあさし寄せて問おう、さあさし寄せて問おう」
ワキ「もしもし、ここの舟に便船(都合のよい舟)を申そう(乗せてもらおう)」
シテ「これは渡りの舟とお思いになったのですか。ご覧なさい釣舟でございます」
ワキ「こちらも釣舟と見えたので都合の良い舟と申したのだ。私は竹生島に初めて参詣する者である。誓いの(弘誓の)舟に(だから)乗るべきである」
シテ「実にこの所は霊地で、歩みを運ぶ人をとかく(色々)申せば、お心に違(たが)い(背き)、また神の意も図ることが難しいのです」
ツレ「ならばお舟を参らせよう」
ワキ「嬉しい、さては誓いの(弘誓の)舟(に乗ることができるのも)、法(のり)の力(仏法の功徳)と思ったことだ」
シテ「今日は殊更のどかで、心に掛かる(気がかりな)風もありません」
地謡「<下歌>名はささ波か、志賀の浦にお立ちになったのは、都の人か労しいことだ。お舟にお乗りになって、浦々を眺めなさいませ」
地謡「<上歌>所は海の上、所は湖の上、国は近江(あふみ)の入江に近い、山々の春だからか、花はさながら白雪が降るか残るか時を知らぬ、山(比叡山)は都の富士だろうか、なお冴えかえる春の日に、比良の嶺おろしが吹くとしても、沖を漕ぐ舟はよもや尽きまい。旅の習いの思わずに雲居の他所(何の縁も無い)に見た人も、同じ舟に慣れ衣、浦を隔てて行く程に竹生島も見えたことだ」
シテ「緑の樹々の影が沈んで」
地謡「(水中の)魚が木に登る気色(様子)がある。月は海上に浮かんでは、兎も波を走るか、面白い島の気色だ」
シテ「舟が着きました。お上がりください。この尉(じよう:老人)が道案内申しましょう。これこそが弁財天でございます。よくよくご祈念なさいませ」
ワキ「承って及んだ(聞き及んだ)よりもいや勝って有難いことです。不思議かなこの所は、女人結界(女人禁制)と聞いていましたが、あそこにいる女人はどうして参られたのか」
シテ「それは(物を)知らない人の申すことです。かたじけなくも(恐れ多くも)九生如来(きうしやうによらい)のご再誕なので、ことに女人こそ参るべきです」
ツレ「いや、それほどでもないものを」
地謡「<上歌>弁財天は女体で、弁財天は女体で、その神徳もあらたかである、天女と現じなさったので、女人だといっても隔てない、ただ(物を)知らぬ人の言葉である」
地謡「<クセ>(弁財天が)このような悲願を起こして(立てて)正覚(最高の悟り)を得て年久しい。獅子通王(ししつうわう)の古(いにしえ)から利生(りしやう:仏が衆生に利益を与えること)は更に怠っていません」
シテ「実に実にこれほども疑いも」
地謡「荒磯島の松陰を、頼りに寄せる海人(漁師)の小舟、自分は人間でないといって、社壇の扉を押し開き、御殿にお入になれば、翁も水中に入るかと見えたが白波の、立ち帰り我はこの湖(うみ)の主だぞと言い捨ててまた波にお入りになった。
アイ「(常座で)このような者は、江州(がうしう)竹生島の天女に仕える者でございます。さて、国々に霊験あらたかな天女は数多いらっしゃるけれども、中でも隠れない(広く知れ渡っている)のは安芸の厳島、天の川、箕面、江の島、この竹生島、いずれも隠れないとは申すけれども、とりわけ当島の天女と申すのは、隠れもしない霊験あらたかな事ですので、国々在々所々から信仰し、参って下向する人々は夥しい事でございます。それについて当今(今上天皇)にお仕え申した臣下殿、今日は当社へご参詣ですので、我らも罷り出で、お礼を申そうと存じます。どのようにお礼申しましょう。これは当島の天女に仕え申す者でございますが、ただ今のご参詣目出度くてございます。さて当社へ初めてご参詣のお方へは御宝物を拝ませて申しますが、そのようなお望みがございませんか」
ワキ「実に聞き及んだお宝物でございます。拝ませてください」
アイ「畏まって候。やれやれ一段(一層)のご機嫌に申し上げた。急いでお宝物を拝ませようと思う。これは御蔵(みくら)の鍵です。これは天女の朝夕看経なされる(経をお読みになる)数珠でございます。ちと(しばらく)ありがたいものと思って尊重しなさい。皆さんも尊重なさい。さて、またこれは二股の竹といって当島一の宝物でございます。よくよく拝みなされ。まずお宝物はこれまででございます。さて、当島の神秘において、岩飛(いはとび)と申すことがありますが、これをお目にかけましょうか。ただし何とございましょうぞ」
ワキ「それならば岩飛飛んで見せ給え」
アイ「畏まって候。さあさあ岩飛を始めようといって、さあさあ岩飛始めようといって巌の上に走り上がって、東を見れば日輪月輪が照り輝いて、西を見れば入日を招き、危なさそうな巌の上から、危なさそうな巌の上から水底にずんぶと入ったことだ。ハハア、クッサメクッサメ」
 (出端)
地謡「御殿がしきりに鳴動して日月光り輝いて、山の端に出たごとくで、現れ給うのが恐れ多い」
ツレ「そもそもこれは、この島に住んで衆生を守る、弁財天とは私の事である」
地謡「その時虚空に音楽が聞こえ、その時虚空に音楽が聞こえ、花が降り下る、春の夜の月に輝く乙女の袂を返す返すも(本当に)面白い」
 (天女ノ舞)
地謡「夜遊(夜の神事)の舞楽も、夜遊の舞楽も時過ぎて、月が澄みわたった湖の水面に波風がしきりに鳴動して、下界の竜神が現れたことだ」
 (早笛)
地謡「竜神が湖上に出現して、竜神が湖上に出現して、光も輝く金銀珠玉をかの稀人(まれびと:客人、ここではワキの廷臣)に捧げる気色(様子)有り難いことだ。奇特(殊勝)かな」
 (舞働)
シテ「もとより衆生済度の誓い」
地謡「もとより衆生済度の誓い、様々なので、あるいは天女の形となって現じ、有縁の(仏を信仰する)衆生の諸々の願いを叶え、または下界の竜神となって国土を鎮め、誓いを現わし、天女は宮中にお入りになったので、竜神はただちに湖水に飛行(ひぎやう)して、波を蹴立て、水を返して、天地に群がる大蛇の形、天地にむらがる大蛇の形は竜宮に飛んで入ったことだ」

◆余談
 出典として「謡曲叢書」に収録されたものを参照しようと思ったのだけど、謡曲叢書の該当箇所が欠損(というか元から無いように思われる)していたので、小学館の新編日本古典文学全集を使う。こちらは注釈も詳細で現代語訳もあるので、それを参照しながらの作業となった。

◆参考文献
・「謡曲集1 新編日本古典文学全集58」(小山弘志, 佐藤健一郎, 小学館, 1997)※「竹生島」pp.67-76

記事を転載→「竹生島

|

2019年6月23日 (日)

18世紀半ばの神楽史料が見つかる

Facebookを閲覧していると、江津市で18世紀半ばの神楽史料が見つかったとの新聞記事が。当時は石見地方でも将軍舞が舞われていたとのこと。「竹生島」は謡曲由来だろうか。一方、天神、八幡など現在につながる演目も記載されているとのこと。

|

2019年3月26日 (火)

神楽の常設会場

江津市の道の駅サンピコごうつに併設される舞乃市に神楽専用劇場「石見小屋」が建てられたとのこと。収容人数120人。スケジュールは従来通りだとすると、毎月第1・第3日曜日/毎月第2・第4金曜日の実施だろう。年間入場客数2,900人を見込んでいるとのこと。動画を見たところ、照明が凝っている。常設会場でないと出来ない工夫だろう。

|

2019年3月12日 (火)

土着の音?

YouTubeで江津の敬川太鼓を視聴する。石見らしく笛がいるのが特徴か。昭和61年結成とあるので30年以上の歴史があることになる。当初は石見神楽の神祇太鼓を習得したとのこと。なので、神祇太鼓に関しては土着(ヴァナキュラー)な音と言えるだろう。

創作和太鼓は創作とある通り歴史は浅いのだが、地元の囃子を取り入れて創作しているという話も多々あり、そういう意味では半土着の音なのかもしれない。

|

2018年3月31日 (土)

JR三江線、廃止される

JR三江線、3月31日で88年の歴史に幕
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12198-010455/

JR三江線が三月末でその歴史に幕を閉じた。100㎞を超える鉄道線の廃止は本州では初とのことである。2016年夏に三江線に乗って三次まで往復した。朝4時起きで、車窓の風景をデジカメで録画しながらの旅となったのだけど、後で見返してみると、居眠りでカメラが揺れていた。江川沿いを走るので車窓の風景は綺麗なのだけど、満員ではろくに風景も楽しめないだろう。三次から引き返す途中でJR川本駅で一時間半ほどの時間があって駅の外に出る。喫茶店があってよい雰囲気だった。これからは三江線で下車した人が立ち寄ることも無くなる。

JR三江線の列車

|

2017年12月 9日 (土)

六調子石見神楽「山の大王」はメタ神楽か

◆山の大王

 六調子石見神楽に「山の大王」という演目がある。手草(たぐさ)の舞いにつられて出て来た山の大王を祝詞司(のっとじ)がもてなすが、難解な山言葉をしゃべる大王に、それを一々曲解する祝詞司の滑稽な姿を描いたものである。

祝詞司「山の大王さん、大変ご苦労さまでございました。わしゃ言葉が解りませんから、どうぞ大和言葉でおっしゃって下さい」
大王「あいあい。祝詞司、さんげ、さんげ」
祝詞司「大王さん、さんげさんげとおっしゃっても、今子供を産めというても産むものはいませんが、後家くらいではどうでしょうか」
大王「いやいや、さんげとはお前のいう子供を産むことではない。神明から申して、かのみそぎのことじゃ」
祝詞司「みそぎと言うのは」
大王「神明から申して、かの祓いのことじゃ」
祝詞司「高天の原に神づまります、神漏岐漏美(かむろぎかむろみ)の命以ちて、皇御祖(すめみおや)いざなぎ命、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原(あはぎ)、禊ぎ祓いし時に成りませる祓戸の大神たち、もろもろの禍事、罪汚れあらむをば、祓い清め給へと申す事の由を天津神国津神八百万の神たち、共に聞こしめせとかしこみかしこみ申す」
  祝詞司の祓詞が途中間違うと、大王は機嫌が悪くなる。
大王「うん、なかなか良く出来た」
祝詞司「神饌ものは、何から先に供えましょうか」
大王「あいあい、祝詞司、からくり、からくり」
祝詞司「からくりからくりと申されても、今からあの遠い唐の国は栗を拾いに行くのは出来ませんが、私のやりくりさねくり(女陰、陰核か)では、どうでございましょうか」
大王「これこれ、やりくりさねくりの事ではない。神明から申してお神酒の事じゃ」
  ここで神酒を大王に捧げる。
「山の大王が降りなされて、神酒を上る時や、左廻しが十九と九つ、右に廻しが十九と九つ、廻いたり廻いたり」
大王「うん、なかなか良く出来た。今度は、仏の耳、仏の耳」
祝詞司「仏の耳仏の耳と言いましても、仏の耳を取りに行くわけには参りません。私の耳ではどうでしょうか」
大王「仏の耳ではない。神明から申して鏡餅のことじゃ」
  大王に鏡餅を捧げる。
大王「今度は、またあり、またあり」
祝詞司「又あんなことを言われるが、またありまたあり言うて、人の股を借りてくる訳には行きませんが、私の股ではどうでしょうか」
大王「人の股の事ではない。神明から申して肴の事じゃ」
  祝詞司が肴を捧げるとき、長短二本の箸を用いる。
大王「これこれ、祝詞司、上箸が長く、下箸が短いのは一体どうした訳じゃ」
祝詞司「上箸の長いのは悪魔災難をずっと押しのけるためです。下箸の短いのは、福徳円満をずらずらずらずらと引っ込むためです」
大王「ふん、なるほど、もう一回やり直せ」
  やり直し。次いで神饌を下げる。
大王「うん、なかなかよく出来た。大王は一足先に帰るから、祝詞司も早く帰って来い」
  大王入り、祝詞司、舞い収めて入る。

◆手草の先

 校訂石見神楽台本では一名「手草の先」とあり、「手草の後」の意であり、その伝来は古いとしている。八調子石見神楽では手草を真榊として改訂しており、「山の大王」は改訂の際省かれたのだろうと推察している。

 「校訂石見神楽台本」では戯事としており、実際に滑稽な内容であるが、神を招いてもてなし、神を送り返す(祭却)という内容であり、神楽内神楽という見方もできるのではないだろうか。入れ子構造である。観客の視点と演者の視点のズレはいわばメタ視点と言えるかもしれない。「山の大王」はメタ神楽なのだ。

 出雲神楽において神楽の演劇化が始まり、石見神楽にもその影響が及んだが、古い六調子神楽の時点でメタフィクショナルな視点を既に得ていたという見方も可能ではないだろうか。

◆山の神と炭焼き

 牛尾三千夫「神楽と神がかり」でも「山の大王」は取り上げられている。参考資料として「山の神と炭焼き」が挙げられている。

 昔、ある処に炭焼きがいて、毎日山に行って炭を焼いていた。ある日、山の天狗が着て「わしも炭を焼いて暮らしているが、お前は一日にどのくらい仕事がなるか」と言った。「この竈へ一杯木を伐って立てるには五、六日かかる」と言うと、天狗は「それなら竈を開けておけ、わしが一杯炭を焼いてやる」と言ったので、炭焼きはその通りにして寝た。
 朝起きてみると、竈の中に木が一杯入っていた。これは昨日の天狗の仕業だと思って、竈へ火を焚いていると、天狗が来て、今日は火を焚かしてもらおうと言う。炭焼きは「大変ご苦労して下さったので、お酒をあげようと思いますが、肴が何も無い」と言うと天狗はその一言を聞いただけで逃げてしまった。それは山では天狗にはマタアリと言わなければならないのに、肴と言ったため、食べずに逃げられたのである。
 そこで炭焼きは天狗へ断りを言ってもらうように山の神へお願いした。すると山の神はそれならば自分が断りを言ってやろうと言われたので、今度は山の神に向かって「お礼をしなければならないが、お酒を差し上げましょうか、それともお餅を搗いてあげましょうか」と言うと、山の神は逃げていなくなった。
 山の神は餅と言うと気に入らない。ネコノミミと言わねばならなかった。炭焼きは二度も不作法したので、山の木を伐っている時に、木にはねられていなくなった……という内容。

 「山の神と炭焼き」の昔話を読むと、「山の大王」の意味する所がようやく伝わって来る。

◆山の神

 出雲神楽には類似の演目として「山の神」(山神祭、香具山)という演目があるとのこと。先ず柴叟(しばそ)と称する直面の者が両手に柴を持って舞う。次に着面の山の神が白幣を持って現れて柴叟を見つけて「我が山の柴を勝手に取るものは何者か」となじる。そして追いつ追われつとなるが、やがて山の神は柴叟を捕らえ、持っている柴を取り上げる。ところが柴叟は開き直り、「われは天照大神に仕える春日大明神なり」と名乗る。たちまち山の神は平伏する。柴叟がさらに「この度天照大神が天の岩戸にお隠れになったので、岩戸の前でお神楽をすることになった。そのため真榊がいるので、自分が採りに来た」と言う。そこで山の神はそれならばこれを献じましょうと言って、取り上げた柴を改めて柴叟に奉る。春日大明神は褒美として山の神に宝剣を与える。山の神はそれによって「悪切り」の舞いを舞う、という内容である。

 大田市の仙山神楽の「山の神」では山の神が荒平となっていることが特徴として挙げられる。荒平は広島の十二神祇神楽で登場する鬼で、道返しの鬼のルーツとも言える存在である。

◆抜月神楽

 「山の大王」や「山の神」のルーツを探ると、抜月神楽に「山舞」という古い儀式舞があることが分かった。ただ、この舞は藁蛇を使った舞ですなわち蛇神なのだ。蛇体から人体に変貌する上では幾つかの変遷があるものと思われるが、そのミッシングリンクを埋めるものはあるだろうか。

 石塚尊俊「山の神出現の神楽」では「山の神」のルーツを求めて遠く土佐や日向の神楽を取り上げている。そこでは神が直面の者の舞いで誘い出され、司祭者の代表と問答をして、その答えに満足して帰るという形となっており、「山の大王」や「山の神」に至る原型がほの見えて来る。

◆動画

 Youtubeで検索すると「山の大王」がヒットする。一分ほどしか収録されていないが、それでも笑い声に満ち溢れていて、観客を楽しませるものであることが伝わってくる。

◆芸北神楽の新舞

 広島県の芸北神楽の新舞に「天香山(あまのかぐやま)」という演目がある。天照大神が天の岩戸に籠ったので、世界は闇に閉ざされる。そのため神々が集まって協議する。天児屋根命が祭りに使う真榊を天香山に採りに行くことになる。天児屋根命が真榊を採ったところ、大山津見神が現れ、自分に断りなく真榊を取るのは誰だと問う。天児屋根命は自ら名乗って天の岩戸を開くため真榊が必要であることを訴える。大山津見命は快く応ずる。天児屋根命は代わりに神剣を大山津見命に与え、四方の魔物を調伏すべきことを伝える。魔神が登場し、大山津見神と戦うが討ち取られる……という内容である。

 「天香山」は出雲神楽の「山の神」とほとんど同じ粗筋であることが分かる。一方で「山の神」には無い大山津見神と魔神の立ち合いという要素が付加されている。これに関しては蛇足であるように感じられる。

◆余談

 「山の大王」は「神楽と風流 山陰民俗叢書9」を読んでいて石塚尊俊「山の神出現の神楽」で存在を知った。「満足した。帰る」が気に入った。校訂石見神楽台本では戯事との評であるけれど、こういうのが好みなのである。八調子神楽でも取り入れるところがでないか。

◆参考文献

・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)pp.214-217
・石塚尊俊「山の神出現の神楽」「神楽と風流 山陰民俗叢書9」(山陰民俗学会, 島根日日新聞社, 1996)pp.16-23
・石塚尊俊「山の神出現の神楽」「山陰民俗」第27号(山陰民俗学会, 1976)pp.8-13
・「神楽と神がかり」(牛尾三千夫, 名著出版, 1985)pp.228-231
・「西日本諸神楽の研究」(石塚尊俊, 慶友社, 1979)pp.381-385
・「里神楽の成立に関する研究」(石塚尊俊, 岩田書院, 2005)pp.111-118
・川上登「山の神と荒平―仙山神楽の詞章―」「山陰民俗」第32号(山陰民俗学会, 1979)pp.57-58
・牛尾三千夫「信仰としての神楽」「西石見の民俗」(和歌森太郎, 吉川弘文館, 1962)
・「抜月神楽 島根県古代文化センター調査研究報告書 11」(島根県古代文化センター/編, 島根県古代文化センター, 2002)
・「見々久神楽 (島根県古代文化センター調査研究報告書 9) 」(島根県古代文化センター/編, 島根県古代文化センター, 2001)
・「かぐら台本集」(佐々木順三, 佐々木敬文, 2016)
・三村泰臣「佐伯郡佐伯町の神楽―旧佐伯郡津田村を中心として―」「広島民俗」第57号(広島民俗学会, 2002)pp.28-38

記事を転載 →「広小路

|

2017年3月 5日 (日)

来春、廃線とのこと――JR三江線

朝日新聞の報道で来春JR三江線が廃線になると知る。いつか来ると思っていたが、決まると速いものだなと感じる。
実は昨年の夏の帰省時に一日開けて三江線に乗った。朝4時起きで浜田駅を出る。デジカメで車窓の風景を撮りながら乗っていたのだけど、眠気でうとうとしてカメラの構図がズレては戻しズレては戻しを繰り返す。
最初はキヤノンPowershot SX130ISで動画を撮影していたのだけど、ファイル容量の制限か一回当たり十分程しか撮れず、駅間の風景が途切れてしまうこともあった。エネループが劣化していたため、浜原駅からPowershot G16に機材を変える。
それで三次駅に到着する。三次駅ではしばらく待って、石見川本駅行きの鈍行で引き返す。途中、石見川本駅で一時間半くらいの待ち時間があって、街に繰り出す。時間があるようで無いので、Cafe' du Soleil というカフェで一服する。ここは気持ちのいい店だった。
気づいたところでは、乗客の多くは僕と同じくカメラを構えた旅行客だった。
石見川本駅を出て江津駅に着く。しばらくして快速がやってくるのでそれに乗って浜田に引き返す。石見神楽トレイン。
そうして録画した動画なのだけど、まだ全部見返していない。どこまで見たか忘れてしまった。今となっては貴重な映像で、Youtubeにアップロードできなくもないだけど、うちの回線は未だにADSLで10分程度の動画をアップロードするのに数時間かかってしまう。
キハ120系車内・JR三次駅にて
JR石見川本駅
JR石見川本駅
キハ120系・JR石見川本駅にて撮影
キハ120系
JR三江線車内から見た江川
JR三江線車内から見た江川

|

2017年1月22日 (日)

江津と益田の違い――柿本人麻呂の伝説

◆はじめに

 「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」に柿本人麻呂の伝説が収録されている。主なものは江津市と益田市のものとなる。

江津市――人麿は大和に生まれ、幼い時に父に死別した。母に連れられて石見国美濃郡小野郷(現、益田市)の身よりを頼って来た。人麿は長ずると語部になり、天武天皇の御代、国史記定の事が行われ、諸国の語部が朝廷に召された時に人麿も出仕した。しかし、記憶していた出雲石見の伝説で、朝廷の怒りに触れ、語部をやめることになった。だが抜群の才が惜しまれて、草壁皇子の舎人となった。皇子が二十八歳で亡くなると、自ら進んで石見国府の役人として帰ってきた。江津とはゆかりが深く、朝集使として上京の際、石見でめとった妻・依羅娘子に送られ、高角山で別れを惜しんで詠んだ歌はよく知られている。この依羅娘子は『石見八重葎』によると「人麻呂が都野津本郷の井上道益という医師の娘の歌才を愛でて、都に召しつれよさみのむらじの養女として、よさみのおとめと名づけ、内室とし、都野津に仮寓した」とあり、都野津の仮寓近くに人麿夫婦を祀った柿本神社がある。(『江津のはなし』)
「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」65P

益田市――歌聖柿本人麻呂は同地に生まれ、少年時代を送り、晩年再び石見の国府に留まり、高津の鴨山にその生涯を閉じたと伝えられている。綾部家はもと大和に居住し、柿本氏に仕えていた。柿本氏が石見に下った時、従って美濃郡小野郷戸田(現、益田市戸田町)に住み、代々語家(やからや)と称していた。柿本某は語家の女を寵愛して、一男子を得た。それが柿本人麻呂であったという。「綾部氏家系」に「綾部は其先、出づる所詳ならず。初め大和に住し、柿本に仕へ、氏の石見に下らるるに際し、陪従して美濃郡小野に住し、一世に語家と称し、柿本氏に仕ふ。柿本某語家の女を嬖幸(いこう)して一男を挙げられ、其児幼にして、父を喪へるを以て、語家これを養育したりき。これ柿本朝臣人麻呂なり」と記されている。人麻呂の死後、その出生を記念するため、今日の戸田柿本神社が建造されたと言われている。一方、同家では、人麻呂の死後、彼の死没地の鴨山から遺髪を奉じて帰り、同家の側に埋め、墓を建てた。この墓は綾部家の前にあり、方三メートルくらいの土壇を盛り、周囲には石の柵をめぐらしている。さらに壇上の礎石の上に、高さ約一メートル、幅三十センチの自然石を墓標として据えている。なお、人麻呂が石見にいる時に、石見の産鉄と石見半紙の生産を奨励したとも伝えられているという。(『益田市誌』上巻)
「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」67P

◆柿本氏

 柿本氏は人皇第五代孝昭天皇の皇子の天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)の後裔である。大和に住んでいたが後に石見に移り戸田郷小野に住んだと「綾部氏柿本人麿譜」にある。これは柿本氏と小野氏が同族であったことから縁故を頼ったものだろうとしている。

 祖先の天足彦国押人命は浜田市下府町の伊甘神社の祭神として祀られている。石見地方には春日族や同系の櫛代族、小野族などが移り住んだとされており、小野の戸田町には小野族の祖神を祀る小野神社がある。

◆出生

 江津の伝承では人麻呂は大和に生まれ、幼いときに父と死別して母と共に石見国の美濃郡小野郷の身よりを頼ってきたとあり、益田市の伝承と食い違っている。いずれにせよ、幼少期を石見国で過ごしたとされているようだ。

 益田市の伝承では、綾部氏は大和に住んでいたが、仕えていた柿本氏が石見国に下るのに付き従って小野郷に移り住み、語家(やからや)と称したとある。人麻呂の母は綾部氏の女で、人麻呂の父が寵愛して人麻呂を授かったとしている。「嬖」は貴人から特にかわいがられる身分の低い女の意(広辞苑)。

 柿本社旧記では、ある時綾部家の後ろの庭園にあった柿の木の下に七、八歳の神童が忽然と出現したとする。どこから来たかと問うと、自分には父も母もないので生死を知らず、ただ敷島の道を知るのみと答えたという。そこで綾部氏が養育することとなったという。

 これは父の柿本氏が皇孫の出であることに対し、母の身分が離れていたために柿の木の下に忽然と出現したという言い伝えとなったものであろうとしている。

◆語り部

 江津市の伝承では、長じた人麻呂は語り部になり、朝廷に出仕したとある。しかし、記憶していた出雲石見の伝説が朝廷の怒りに触れたため語り部をやめたとされ、ただ、抜群の才が惜しまれたため、草壁皇子の舎人となったとある。若い頃から才気煥発で知られていたことが分かる。

 皇子が亡くなると、自ら進んで石見国府の役人として帰ってきたとある。この頃の国府は現浜田市下府町の伊甘郷にあったのではなく、都野津の辺りにあったようだ。人麻呂は在任中、砂鉄洗いを勧めたり、紙を漉くことを教えたとされる。殖産興業に努めた先人という扱いである。

◆女性

 人麻呂が愛した女性に依羅娘子(よさみのおとめ)と石見娘子(いわみのおとめ)の二人がいたとされる。また、二人は同一人物であったする説もあるようだ。

 依羅娘子は恵良媛のことだが、石見八重葎によると、人麻呂が都野津本郷の井上道駅益という医師の娘の歌才を愛で、都に召しつれ、依羅連(よさみのむらじ)の養女として依羅娘子と名づけ内室とし、都野津に仮の住いを設けたとしている。

島根県江津市の高角山公園・依羅娘子像
依羅娘子像

 これとは正反対の史料もあり、人麻呂は石見の掾(じょう)、国司の三等官として任じられたのが石見と関係を持つはじめであったとする。依羅娘子は都に残されて、現地で石見娘子という愛人を得たとしている。しかし、「柿本朝臣人麿が石見国より妻に別れ上り来る時の歌」とあるので、どうだろうか。

◆角の里

 角の里、角の浦で江津市と益田市の解釈が分かれるようだ。江津市の伝承では都野を角の里、角の浦としており、島の星山を高角山としている。一方で、益田市では美濃郡高津の高角山としている。

島根県江津市波子町大崎鼻灯台から見た角の浦

江津市の高角山(島の星山)

石見相聞歌の世界・解説図

◆終焉の地

 人麻呂は四十代で亡くなったとするものや七十代で亡くなったとするものがある。鴨山をどこに比定するかだが、益田市の高角山とするものや邑智郡美里町の鴨山だとする説の他、浜田市の亀山(浜田城が建つ以前は鴨山と呼ばれていた)とする説もある。

 人麻呂の死後、社が建立されたのが、益田市沖の鴨島だった。が、鴨嶋は万寿三年の大地震で海中に没したとされている。延宝年間に津和野藩主・亀井公が現在地に遷座した。

島根県益田市の柿本神社

柿本神社・拝殿

柿本神社楼門由緒

柿本神社由緒

鴨島(鴨山)遺跡海底調査状況・解説

 また、小野郷戸田では人麻呂の出生を記念するため戸田柿本神社が建立されたとされている。

島根県益田市の戸田柿本神社

戸田柿本神社・拝殿

戸田柿本神社・ご由緒

ひとまろの里・案内図

戸田柿本神社近くの遺髪塚

遺髪塚

◆安来市の伝説

 他、安来市の伝説があって、人麻呂が京都から任地の石見に向かう途中、岩礁に船が当たり溺死したとするものがある。安来にも人麻呂の墓と伝えられるものがあるようだ。

◆菅原道真の出生伝説

 北野天神縁起に、

 菅原院とは菅相公(是善)の家である。相公は生前の当初、相公の家の南の庭に五、六歳ばかりの幼い小児が遊んでいたのを見たところ、容貌、姿形が只の人でないと思いながら「君はどこの家の子か。どうして来て遊んでいるのか」と問うた。稚児は答えるに「さしたる定めた居所もなく、父もなく母もいません。相公を父としたいと思います」とおっしゃったので、相公は大いに喜んで、かき抱いて撫でて次第にくわしく研究させたところ、天才が日に日に新たとなった。これを菅贈大相国と申すらしいと日記にある。

 戸田柿本神社の柿本人麻呂の伝説と似ている。菅公の伝説の影響か。

◆余談

 江津市の島の星山を登っていくと、ゴルフ場があり、近くに高角山公園がある。そこに人丸神社が鎮座している。

 

高角山公園・入口

高角山公園・入口はたかつのグランドゴルフ場が目印

島根県江津市の人丸神社・鳥居

人丸神社

 益田市の戸田柿本神社は国道9号線の戸田の辺りに看板が立っているので、そこを曲がる。JR山陰本線・戸田小浜駅から歩いていけなくもない。近くには小野神社もある。

戸田柿本神社へ向かう道

 人麻呂公ゆかりの歌は一部しか知らないが、依羅娘子の「な思ひと 君は言へども 逢はむ時 いつと知りてか 我が恋ざらむ」が好きである。

◆参考文献

・「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)pp.64-70
・「日本思想大系 20 寺社縁起(※八幡愚童訓 甲乙および諸山縁起、北野天神縁起所収)」(桜井徳太郎, 萩原龍夫, 宮田登/校注, 岩波書店, 1975)

記事を転載 →「広小路

 

|

2017年1月15日 (日)

人丸神社:江津市・高角山公園

江津市の島の星山を登っていくと、ゴルフ場があり、近くに高角山公園がある。そこに人丸神社が鎮座している。
島根県江津市の高角山公園・入口
高角山公園へはたかつのグランドゴルフ場が目印
島根県江津市の人丸神社・鳥居
人丸神社
凡そ千三百年の昔、天武、持統、文武三朝の頃、役人且つ宮廷歌人として、都で名をなした万葉歌人柿本人麿は、晩年石見の国の役人として、慶雲三年(七〇五)角の里(現江津市二宮町)の仮国庁に来た。やがて近くの豪族の娘依羅娘子(里名恵良媛)を妻に迎えた。
万葉銅像建立の由来
萬葉銅像建立記念碑
な思ひと 君は言へども 逢はむ時 いつと知りてか 我が恋ざらむ
依羅娘子(2・一四○) は好きな歌である。
人麻呂像と依羅娘子像
柿本人麻呂像
依羅娘子像
江津市波子町・大崎鼻灯台から見た江津市内。角の里、恵良の里の位置がよく分かる。
島根県江津市波子町の大崎鼻灯台から見た高角山(島の星山)
石見相聞歌の世界・解説

|

2017年1月 7日 (土)

牛鬼と影ワニ

◆はじめに

 大庭良美「石見の民話 ―その特色と面白さ―」(「郷土石見」8号)に「うしおに」「影ワニ」が紹介されている。
 次に同じ石見でも地域によって特色のあることである。石見は日本海に沿った海岸線と中国山地の細長い国である。東部の海岸には「うしおに」「影ワニ」といった海の怪物がいるが、これから西にはいない。
 「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」でも大田から江津にかけての牛鬼伝説が収録されている。

◆牛鬼

 波路浦に一人の漁師がいた。ある日漁に出たが、その日は大漁だった。喜んで帰ろうとすると、海の中から大きな牛の様な怪物が「魚をくれ」と叫ぶのに出くわした。恐ろしくなった漁師は魚を投げてやったが、またしても怪物は「魚をくれ」と叫ぶ。そこで少しづつ魚を投げてやった。そうして港へつくと、急いで家に戻ったところ、怪物は家にまで押しかけて来て「魚をくれ」と叫んだ。困った漁師が「では家の中へ入れ」と言うと、怪物は「お前はお仏飯を食べているから中には入れん」と言って去っていった。これは昔から言われている牛鬼だろうという話になった。

◆濡れ女

 昔、大田の染物屋の主が魚釣りをしていると、魚がよく釣れた。こんなときは濡れ女と牛鬼が出るという言い伝えがあり、それを思い出して帰ろうとすると、濡れ女が出て「赤ん坊を抱いて欲しい」と言って差し出した。前だれで抱くと石の様に重いので、赤ん坊ともども投げ捨てて逃げ帰った。そこである家に飛び込むと、「もう少しだったのに、逃して残念だった」と牛鬼は言い残して去った。

◆アニメ

 牛鬼伝説は「まんが日本昔ばなし」でアニメ化されている。演出:芝山努、脚本:沖島勲、美術:亀谷三良、作画:海谷敏久。

 昔、浅利に侍夫婦がいた。元は名のある武士に仕えていたが、今は浅利で読み書きを漁民の子供たちに教えて暮らしていた。ある日米が底をついた。侍は家に伝わる刀を売ってしまおうと考えたが、妻が制止する。そこで米を借りに浅利の村へいくと漁民たちが牛鬼に船が襲われた、退治して欲しいと頼まれる。どうせ思い過ごしだろうと侍は引き受けてしまう。嫌なことを引き受けてしまったと侍は釣りに出かける。その日は魚がよく釣れた。そうしていると日が暮れた。すると赤子を抱いた女が現れ「この子に一尾恵んで欲しい」という。魚を渡すと赤子は生のままあっという間に食べ尽くし「もう一尾恵んで欲しい」と繰り返す。魚が尽きると、今度は腰に挿した脇差を食べてしまった。ようやく侍は女と赤子が人でないと気づくが、女は赤子を侍に抱かせると海に飛び込んでしまう。すると海の中から牛鬼が現れた。女は牛鬼だった。気づくと赤子は石になっていた。と、侍の家にあった刀がカタカタと揺れ始め飛んでいった。間一髪、飛んできた刀が牛鬼の眉間に刺さり、牛鬼は海へと沈んでいった。

 ……という内容。クレジットでは大庭良美・未来社刊とあり「石見の民話」らしいのだが、「石見の民話」に類話は収録されていない。「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」には類話が収録されており、刀が飛んで牛鬼を退治するというモチーフは確認される。

浅利富士と浅利海岸と風車
浅利海岸と風車
浅利町の海岸

 貉工房のまんが日本昔話データベースによると、「牛鬼」の放送年月日は平成1年5月20日。「日本伝説大系」は昭和五十九年発行なので、「日本伝説大系」の方が先となる。もしもアニメ「牛鬼」の方がかなり先だったら、アニメオリジナルの話の展開が牛鬼伝説に影響を及ぼしたかもしれない。しかし、脚本家の沖島氏は既に亡くなっている……などと妄想したのだが、さすがにそれはなかった。

◆影ワニ

 温泉津の辺りでは鮫のことをワニという。影ワニがいるという。船が海を走っていると、海に映った船乗りの影を影ワニが呑んでしまう。影を呑まれた船乗りは死んでしまうという。もしも影ワニに見つかったときは、むしろでも板でも海に投げて自分の影を隠さなければいけないという。
 あるとき、ある漁師が影を影ワニに呑まれそうになって、逆に影ワニを撃ち殺してしまった。ところが、その漁師は足に刺さった魚の骨で出来た傷が原因で死んでしまったが、その魚の骨は影ワニのものだという。

◆アニメ

 影ワニ伝説も「まんが日本昔ばなし」でアニメ化されている。演出:白梅進、脚本:沖島勲、美術:門屋達郎、作画:白梅進。

 昔々、石見の国の温泉津辺りでは鮫のことをワニと呼んでいた。ある嵐の晩、村の衆が村長を囲んで酒を飲んでいると影ワニの話になった。海の凪いだ日は船乗りの影が海に映ると、その影を影ワニが食べてしまう。すると船乗りは死んでしまう。だから海の凪いだ日には漁には出てはいけないと村長が諭す。
 その話を迷信だと鼻で笑ったゴンゾウという漁師がいた。この中で誰か影ワニに遭ったものはいるかと訊くと誰も答えない。それは影ワニに遭った者は助からないからだと村長が宥めるのも無視する。
 嵐が去った翌日は海が凪いでいたが、村人たちは村長の言いつけを守り、浜で魚やワカメを干していた。漁師は村長たちが制止するのも聞かず、船を海に漕ぎ出した。村長は影ワニに出会ったら、むしろでも板でも海に投げ込んで自分の影を消すのだと声をかける。
 漁をはじめると、面白いように魚が釣れる。夢中になっていると海の中から大きな影が現れた。影ワニが漁師の体をかじると、そこから血が噴き出た。慌てた漁師は釣った魚を海に捨てはじめた。魚を投げ尽くすと、船底にむしろがあった。村長の言葉を思い出した漁師はむしろを海に投げ入れた。ところが影ワニは去ろうとせず、むしろを食いちぎりはじめた。意識朦朧となった漁師だったが、日が暮れて影が海に溶け込んでしまうと影ワニはついに立ち去った。九死に一生を得た漁師はそれからは村長の言いつけを守り、二度と凪いだ日には漁に出なかった。

◆参考文献

・「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)pp.222-231
・「日本の民話 34 石見篇」(大庭良美/編著, 未来社, 1978)pp.32-38
・大庭良美「石見の民話 ―その特色と面白さ―」(雑誌「郷土石見」8号, 石見郷土研究懇話会, 1979)pp.58-71
・平賀英一郎「牛鬼考」「山陰民俗」第55号(山陰民俗学会, 1991)pp.1-14
・「伝承怪異譚――語りのなかの妖怪たち(三弥井民俗選書)」(田中瑩一, 三弥井書店, 2010)pp.203-214

記事を転載 →「広小路

 

|