出雲・隠岐・鳥取

2022年3月18日 (金)

国鉄カラー

特急やくもが国鉄カラーに塗装され直して運行をはじめた。Twitterで動画や写真が公開されている。

気動車の時代のやくもは益田発の編成があった。益田からだと小郡に出た方が早いのだけど、出雲・松江方面の需要も担っていたのだろう。

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2022年3月16日 (水)

100年前から変わっていない――芸能を舞台で上演することに関しての芸能観

山﨑達哉「佐陀神能の変化とその要因に関する研究―神事と芸能の二面性―」『待兼山論叢 50 文化動態論篇』(大阪大学大学院研究科, 2016)pp.1-34 という論文がある。

佐太神社の佐陀神能についての論文なのだけど、大正15年(1926年)の日本青年館における第二回全国郷土舞踊民謡大会に出演した。

この全国郷土舞踊民謡大会の反響なのだけど、

・郷土舞踊や民謡を素人が行う素朴で田舎風のものと考え、出演した芸能が技巧に奔ったり、演芸風・都会風だったりすると厳しい批判を加える(柳田国男)
・新調した衣装や派手な衣装に不快感を示し、禁止の指示を出す
・この種の芸能は郷土を離れて舞台上で再現することは不可能と考え、他の芸能との比較や芸能そのものにある郷土色などある特殊なおもしろさを狙う。こうしたおもしろさが舞台上に現れるように適宜アレンジする(小寺融吉)
・郷土舞踊や民謡は純粋で素朴かつ田舎風で、昔からのやり方を無闇に変え趣向を凝らすべきではない
・一度舞台に出てしまえばある意味芸術化し、変化していくことを認識し肯定する
・郷土舞踊や民謡について、研究資料としての価値を認めながらも、芸術的・技術的な面で質が低いとする

……といった見解が列挙されている。郷土芸能がステージ上で演じられるようになるのは大正末の日本青年館での公演が嚆矢となるのだけど、当時も現在も見解はあまり変わらないのではないか。永遠の問題とも言えるが、100年近く経過した現代でも進歩がないとも言えるだろう。

郷土芸能は変わらないことに価値を見いだすのだけど、一方で八調子石見神楽や芸北神楽の様に積極的に新しい演出を取り入れる芸能については手厳しい批判が向けられるのである。

しかし、本来、芸能というものは長い目で見れば時代に応じて変化するものではないかとも考えられる。変わらないことに価値を見いだすのは文化財保護行政がそういう指針だからとも言えるだろう。その文化財保護法にしても保存から活用へ軸足が移っているのである。

また、「明治期の神楽への影響で最も顕著であったのは、「神職演舞禁止令」と一般的に言われているものである。これは、明治四(一八七一)年二月十四日の太政官達にある、「是迄心願ト称シ猥ニ社頭ニ於テ神楽奉納之儀自今禁止之事」を指す。」(18P)と神職演舞禁止令の根拠についても記述がある。

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2022年3月 8日 (火)

島根県立図書館に遠隔複写サービスはない

島根県立図書館に所蔵されている「島根評論」という戦前の雑誌記事が読みたくなる。佐陀神能が東京のステージで舞われたときの反響について書かれているらしい。それは伝統芸能をステージ上で演じさせることの是非についての議論なので読みたいのだが、生憎と島根県立図書館に遠隔複写サービスはない。

伊原青々園「佐陀神能所感」『島根評論 第3巻6号』島根評論社、1926年

がそれである。

山﨑達哉「佐陀神能の変化とその要因に関する研究―神事と芸能の二面性―」『待兼山論叢 50 文化動態論篇』(大阪大学大学院研究科, 2016)pp.1-34によった。

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出雲神話は存在しない?

出雲神話は存在しない?!『古事記』もう一つの読み解き方
https://story.nakagawa-masashichi.jp/39541

という記事を読んで驚く。この記事では青山学院大学の矢嶋泉教授に取材しているのだけど、記事中では出雲を中心とした四隅突出型墳丘墓の存在がすっぽりと抜け落ちている。

文献上でなら、日本書紀は出雲神話への言及は少ない。天孫系の歴史のみで十分としている訳だが、それでも国譲りの記述はある。文献上の記述だけで分析するなら出雲神話なるものは存在しないとなるかもしれないが、考古学上の成果を等閑視する姿勢には疑問を抱く。

国生みと国造りは異なる。

荒神谷遺跡が発見される以前は出雲は架空の舞台と考えられていたらしいが、この先生の見解はその昔に逆戻りするものである。「純粋文学」とでも呼称しようか。矢嶋教授は若い頃の学習がアップデートされていないのではないか。

日本書紀では初代神武天皇の后は出雲の事代主命の娘となる訳だが、文学上ではどういう説明がされるのであろう。誰でもよかったのだろうか。だったら奈良近辺の豪族の子女でいいではないか。

国引き神話には三瓶山の噴火による土石が神戸川水系を通じて流れ、出雲平野の形成に繋がったことが神話形式で語られる。縄文時代からの記憶が息づいている訳だが、では出雲ニュータウン説はどう解釈するのだろう。なぜ日本トップクラスの巨大な神社を築かねばならなかったのか。

出雲国造家は現在でも出雲の権威である。なぜその地位を保ってこられたか、この点でも納得のいく説明が必要である。

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2022年2月16日 (水)

やくもが世代交代

特急やくもが24年度に新型車両導入。現行車両は引退。国鉄型特急はJR西ではこれが最後とのこと。

やくもは振り子式の電車で、酔いやすいと言われている。僕自身、子供の頃は酷い車酔いだったが、やくもは何故か平気だった。

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2021年12月 2日 (木)

韋駄天の末裔

港北ノースポートモールに行き、映画「神在月のこども」を見る。公開最終日だった。母に死なれて走る意味を失った少女(韋駄天の末裔)が神在月の出雲に神々の馳走を運ぶため、ひたすら走るという内容。島根が舞台となっているので、見てみた。走ることに対する少女の葛藤がテーマ。作画はそれほど良いとは思わなかった。ライデンフィルムの作品を見るのはこれが初めてだろうか。京都アニメーションから移籍した人が演出の重要なポジションについていた。

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2021年7月 3日 (土)

山陰はロケハンには遠い

Wikipediaでアニメ「ガールズ&パンツァー」の項を見る。美少女ものの皮を被っているが、戦車戦の描写が迫力ある作品。作品の舞台は茨城県の大洗町なのだけど、企画時点では山陰の港町が候補だったと書かれていた。山陰で港町というと境港か浜田が候補として挙げられるのだけど(学園が空母上にあるという設定なので、それなりの規模のある港でないといけない)、雪深い山地という想定だったとのこと。雪深いとなると浜田は外れるし(山間部は積もるか)、山地だと境港でもない(大山が近いか)。結局のところ、山陰はロケハンには遠いということで関東の大洗が選ばれたとのこと。ただ、当初はアニメ聖地化で街の活性化は見込んでいなかったとのこと。あくまで作品がヒットしてその上で結果がついてくるということらしい。

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2020年8月10日 (月)

91人も

島根県松江市で高校生を含む91人が新型コロナ感染、クラスター発生の速報を見て驚く。文教大学の斉藤先生に情報を貰っているのだけど、今年の神奈川の奉納神楽はほぼ全滅で練習再開もままならないとのこと。松江市は部活動で感染したのだろうか。こうなると部活動も行えない。島根県で91人はかなり大きな数字だ。

続報によると、感染者の多くはサッカー部で寮生活をしているとのこと。七月末には大阪に遠征したらしい。野球も強豪なので部員が多いだろう。更に広がるおそれもある。

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2020年4月10日 (金)

島根陥落

島根でも松江で新型コロナウイルス感染者が出たとの報。島根陥落。クラスタにならないように願う。残るは鳥取と岩手。

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2019年10月 4日 (金)

歩く・見る・聞く――石塚尊俊「顧みる八十余年―民俗採訪につとめて―」

石塚尊俊「顧みる八十余年―民俗採訪につとめて―」を読む。出雲の碩学と言える著者の自伝的作品。生い立ちから中学校卒業までは普通の自叙伝風に描かれるが、大学に上がって民俗学を専攻するようになってからはテーマ別に分かれる。日記、採訪ノートをこまめにつけていたようで、何月何日、何時何分の特急で移動し、誰と会い、どこそこに泊まった等細かに記録されている。

民俗採訪七十年の章では、サエの神に始まって/タタラ・金屋子神をたずねて/納戸神との出会い/俗信の由縁を探る/イエの神・ムラの神、年頭行事/離島を訪ねて/奥所の神楽/民俗の地域差を考える―北陸同行地帯と安芸門徒地帯―と節が分かれる。また、各節に関連する論文が引用されている。

神楽については、離島を訪ねて/奥所の神楽といった節で言及される。中四国・九州と丹念に見て回っている。その成果が「西日本諸神楽の研究」としてまとまっていて博士論文ともなっているのだけど、郷土史の執筆等、神楽だけに専念する時間的余裕が無かったようで、東北、関東、中部など東日本の神楽には奥三河の花祭り以外言及されない。これがいかにも惜しく思われる。

「サエの神に始まって」では境界の神である塞の神を考察している。してみると、僕のルーツである浜田市下府町の才ヶ峠は塞の神と地獄の閻魔様の眷属を祀る十王堂が共存していることが特徴か。いわば生の世界と死の世界とを分かつ境界でもある訳だ。

戦時中は出征していて、中国戦線にいたようだ。満州や南方戦線だと生きて帰れなかっただろうと述懐している。中国では国境警備などに従事していたようで、激しい戦闘には遭遇していないようである。それでも、牛尾三千夫に対しては出征していない癖にといった複雑な感情があるのを別の論文(講演)で読んだことがある。

大正生まれの人であり、戦後、高度経済成長で民俗が失われ始めるまでの言わば民俗学の絶頂期を歩く・見る・聞くといった行為に費やしている。そういう意味では地方在住の民俗学者としての務めを忠実に果たしている。

<追記>
石塚は雑誌「山陰民俗」を主宰していたが、山陰民俗学会発足の経緯については語られていない。それは他の講演などで説明されたことだからかもしれない。

 

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