新店舗オープンまでどうするか
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2024年11月、横浜から浜田にUターンしました。
11月13日に荷物の搬出作業を行い、その日は横浜市営地下鉄・センター南駅近くのチサンインに一泊、翌朝チェックアウトして新横浜から新幹線で広島駅に向かい、広島駅からは高速バスで浜田駅まで戻りました。荷物の搬入には間に合いませんので、滋賀の義兄がわざわざ浜田まで出向いてきて受け入れ作業を行ってくれました。正直な話、今回の引っ越しは上の姉夫婦がいないと期日までに完了してませんでした。14日は新たな入居先の場所確認と家具の配置を確認した程度で終わらせました。横浜ー浜田間で約900Kmありますので、移動だけで疲れてしまうからです。
現在の体調では車を自分で運転すると危ないので陸送業者に依頼しました。横浜から川崎まで車で移動し、川崎から広島までは船で輸送、広島から浜田までは再び陸送する段取りです。一週間から10日かかるとの見通しで、この間車がない状態となりますので、非常に不便です。住んでいるところは浜田駅から歩いて20分ほどの距離ですので、以前なら歩けたのですが、現状、どれくらいの距離が歩けるのか分からない状況です。
いずれ島根にUターンするのは既定事項だったのですが、いざ実際に引っ越しするとなると、心身ともにストレスのかかる作業でした。
昨年、住んでいたアパートのオーナーが地元の地主さんからとある不動産会社に変わりました。その報告はあったのですが、契約の更新はしないとありました。それで「これは退去だ」とピンときた人がいたそうです。実際にアパートの取り壊しと10月中旬まででの退去を求める通告があったのは三月末のことでした。約半年で退去を迫られることとなった訳です。
ちょうど春先から家族が病気になりまして、それで重たいものは持てない状態となりました。治療もあって実際に動き始めたのは5月に入ってからでしょうか。
アパートは横浜市の港北ニュータウンと呼ばれる地域に位置するのですが、築35~36年くらいでしょうか。バブル期の建築なので耐久性には問題ないと思いますが、5階建てでエレベーターがない古い仕様でしたので、そういう意味では人気が落ちていたようです。他所の建物と比べると間取りには余裕があったそうですが。取り壊しとなった理由については知りません。
それで、結局のところ島根に戻ることとなった訳です。生まれ故郷に戻る訳ですから特に異存はないのですが、一世帯まるごと引っ越しを済ませるには実はぎりぎりのスケジュールでした。家族はアパートの新築時から入居していたのですが、30年以上生活してきて溜まった荷物が大量にある訳です。それらの要/不要を選別して大量に廃棄する必要が出てきました。「どこから手をつけたらいいのだろう?」という状態でした。
家族が重いモノを持てないので、ゴミ出し係は私となりましたが、重いゴミを持って5階から1階への上り下りを繰り返すこととなりました。累計100往復くらいはしたでしょうか。これで心臓に負荷をかけてしまったようです。かなり疲弊してしまって、8月下旬に相模原市で薪能を鑑賞したのですが、このとき会場に向かう電車の中で「精神に余裕がないな」と感じました。また、会場で席についたところ、かなりの疲労感に襲われて「大丈夫かいな」となりました。
私の持ち分は9月上旬でだいたい整理が済んで、以降は必要なときだけ動くモード、言い換えると疲労を抜くモードに入ったのですが、以降も疲弊感は全く抜けませんでした。今思うと、疲労回復の点滴を受けておけばよかったかもしれません。
で、結局荷物の整理は遅々として進まず退去期限を一月延ばしてもらいました。それで10月下旬から体調を崩してしまいました。「これはまずい」と感じたのは思い出作りに(アリバイづくりとも言う)秩父に小旅行したのですが、ちょっと歩いただけですぐに息が上がってしまう状態となってしまい、行きつけの循環器科で受診しようとしたら、そのクリニックが休診となってしまい、二週間ほど気分の悪さを抱えたまま再開を待つ状況となりました。
緊急避難的に他の病院を当たってもよかったのですが、その際はこれまでの経過を知っている先生の方がいいだろうと判断して再開を待つことにした次第です。で、11月1日に受診して血液検査を行い、8日に結果が出ました。血液検査の結果、数値に異状はないとのことでした。なので薬の処方量を増やすことはしませんでした。
で、期限の11月中旬が間近に迫り、切羽詰まった状態となった訳ですが、上の姉の介入でなんとか進捗させることができたというのが正直なところです。上の姉は普段からモノを整理するタイプでしたので、こういうときには力を発揮しました。それで、私も手伝ったのですが、5階から1階の往復を繰り返しているとやはり気分が悪くなってしまいました。なので、やはり蓄積したダメージは大きいものと思われます。
まあ、とにもかくにも引っ越しという一大イベントを終えることはできました。これが心身ともに多大なストレス源となっていましたので、ようやく解放されて一息ついている状況です。
これから転入届など住所変更に伴う諸手続が残っていますし、荷ほどきもしなければなりません。とりあえず実家に送って保管してもらった荷物も大量にあります。なので、まだ重労働が完全に終わった訳ではありませんが、期限を切られる事態からは解放されましたので、多少の心の余裕はできたのではないかと思います。
今はとにかく脱出することができたでホッとしている状態ですが、しばらくしたら「やはり横浜の方がよかった」とはなるかもしれません。住んでいた所は最寄り駅が横浜市営地下鉄・センター南駅で、ここは駅前にショッピングモール、映画館、銀行、区役所、区民ホール、図書館、郵便局、警察署、消防署、大学病院、ホテル、公園と税務署以外の施設がほぼ揃った至便の立地でした。横浜や桜木町へも地下鉄で30分ほどの距離ですし、あざみ野駅に出れば、田園都市線、半蔵門線、東武線と都心に直通しています。横浜市立中央図書館と国会図書館に通いやすい立地だったのです。
なので、このブログの記事執筆はこれらの図書館の存在がなければ成り立たないものでした。今回浜田に引き揚げることで、そういった環境が失われてしまいました。おそらく浜田市立図書館で島根県立図書館の蔵書は借りることができるのではないかと思いますが、未確認です。長沢町によく分からない図書関連の施設がありますので、多分なんとかなるでしょう。
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母方の叔父が亡くなった。市の収入役を務めた人で、我が一族の中では出世した人である。叔母と会話していて「惣領」という言葉が出た。うちは名家でも資産家でもないが、親族のまとめ役が務まる人がいなくなったという感慨はある。
いくら親戚とは言え、そこまでする義理はなかったはずなのだが、姉の子である僕ら兄弟を何かと気にかけてくれた人だった。物心両面で支えて頂いた。叔母も理解のある人だった。結局何も恩返しができないままだったという無念さがある。
金曜日に横浜を出て浜田の実家に帰る。新幹線で広島駅まで行き、そこから浜田駅行きの高速バスに乗る。戻ってみると、居間のエアコンが故障していて、熱がこもっていてこれでは熱中症になってしまうと感じる。応接間のエアコンは生きているので、そちらに退避する。
土曜日、昼前に長沢町のキヌヤに行く。行ってみると建て替えの工事をしていて、プレハブの仮設店舗で営業していた。公民館が傍に建てられるそうである。
タクシーを呼んで式場に向かう。以前は陸軍墓地で話が通じたのだが、最近は住所と名前を伝えれば、そこまで来てくれるようになっているようだ。IT技術による進歩といえば進歩である。土曜の夜は花火大会が催されるとのことで、帰りのタクシーは呼ぶのに時間がかかるだろうとのことだった。
午後3時過ぎに竹迫町の典礼閣に入り、親族の控室に入る。長男である従弟や千葉の叔父たちが帰っていたので彼らと少しだけ会話を交わす。長女である従姉夫妻は叔父の家で用事があるとのことで合流したのは夕方になってからだった。滋賀の姉夫婦と山口の兄も夕方に合流した。
日曜は午前11時から葬儀がはじまった。上府出身の同郷の県会議員さんが出席していた。既に引退して久しいので出席者は関係者のみだったが、市長や市議会議長、市議会議員さんたちから弔電が届いていた。
喪主である従弟の挨拶によると、一年ほど前から体調を崩し、入退院を繰り返していたとのことだった。もともとは10年ほど前に体調を崩し、浜田の病院で検査したのだが原因が分からず、出雲の大学病院で検査したところ癌が見つかり摘出手術をしたという流れだった。既に転移していると聞いたので、もしかしたら長くないかもと危惧したが、抗がん剤治療が体質に合っていたのか、それからの病状は安定していた。ただ、性格は明らかに暗くなった。
いつかこの日が来ることは分かっていたのだが、せめて一度お見舞いに行っておきたかったという思いはある。
姉夫婦と兄は葬儀のみで退席した。自分たちは火葬場に向かった。火葬には1時間40分ほどかかるとのことだった。以前に来たときは火葬場の待合室で待機したが、今回は典礼閣に引き返して会食となった。なので、火葬場の裏にある崖(万年が鼻)を見る時間はなかった。それから再度火葬場に向かい、お骨を骨壺に納める。再び典礼閣に戻って解散となる。
考えてみれば、竹迫町に入ったのはこれが初めてかもしれない。山陰道より奥には入ったことがなかったはずである。
月曜の朝、浜田を出る。浜田駅の一階の裏の壁にツバメが巣を作っていた。既に雛たちは巣立っていて、寝に戻っているように見受けられた。ツバメは福をもたらすと歓迎する人と、糞で汚れるので嫌う人とがいる。長く子育てができるといいが。
帰りは伯備線経由で岡山に出た。新型やくもに乗りたかったからである。少し前にJR東日本がみどりの窓口を減らしたことが社会問題となったが、JR西日本でも人手で切符を売ることは止め、券売機のみでの販売となっていた。スーパーまつかぜからスーパーやくもに乗り換えるのだが、なぜか出雲市駅ではなく宍道駅で乗り換える選択肢しか出なかった。車掌さんと交渉するのも迷惑そうなので宍道駅で乗り換えする。岡山に着いたら着いたで、乗り換え時間が10分しかなく、慌てて新幹線口に向かう。どういうアルゴリズムなのか理解に苦しむ。本当は終点のホームでのんびりとやくもを撮影したかったのだが、それは時間の関係で叶わなかった。そんなこんなで新幹線に乗る。
そういえば姉たちが話していたが、浜田市の市内循環バス、土日はほとんど便がないそうである。バス運転手の人手不足がここでも露わとなっているということだろう。
新幹線の車内では、どこからだったろうか、同じ列に咳が止まらない若い女性がいた。そういう人に限ってマスクを着用していないのである。この酷暑に咳が止まらないのだから、おそらくコロナだろう。6月にワクチンは接種しているのだが、感染してもおかしくない状況だった。
新横浜からは市営地下鉄に乗り換え、センター南駅まで戻る。バスの時間には合わなかったので、タクシーで帰る。ひと月ほど前に空足を踏んで左足を剥離骨折しており、まだ治りきっていないので長距離を歩きたくないのである。
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浜田駅裏のジャスト(ジュンテンドー系列)も閉店になるとの報が。僕自身、電子書籍にシフトしてから書店の前を通りかかってもスルーすることが増えた。困るのはネット通販を使えなさそうな中高生か。浜田では唯一の書店とは書いてなかったのでゆめタウン辺りにまだあるのかもしれないが。
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ICレコーダーに録音したデータ、叔父宅の分を再生してみたが、朝鮮半島引揚げの時の話は無かった。別の機会に聴いたようだ。終戦当時、叔父はまだ幼く(母も小学生だった)話自体は祖母が語った内容を記憶してそれを語ったというのが正確なところなのだが。
このエピソードはホームページには記事として上げているのだが、ブログには上げてなかった。終戦の日の記事にしようかと思って忘れてしまっていた。
その記事を読むと、当時その話を聴いてICレコーダーを買って記録しておかねばと思ったようだ。
二時間以上あったが、ほとんどが親族同士の他愛もない会話だった。ただ、40年くらい前か浜田市が大水害に見舞われたときに叔父が三隅町で川に流された子供を救助したというエピソードはあった。聞き終えて、データは2016年のものだが、この頃はまだみんな元気だったんだなという印象。
大叔母の話の分も再生してみたが、こちらは記録が残されていた。終戦後に浜田市(当時は那賀郡)に引き揚げたところで大叔母と知り合ったという話であった。
Audacityという音声編集ソフトをインストールしてみたのだが、使わなさそうだ。
僕自身は活舌が非常に悪くトークも下手なので音声での配信は念頭になかったが、これなら上げてもいいかなというところである。
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安西生世「植田晃司と石見神楽「大蛇」―石見神楽の<オロチ>誕生が地域に与えた影響と技術継承の問題―」『山陰民俗研究』28号を読む。
石見神楽の演目「大蛇」を支えるのが蛇胴である。主に竹と和紙で作られており、伸ばすと約17mまで伸び、収納時には1.3mと収縮する優れものである。
水には弱いらしく、雨天時には「大蛇」の上演が中止されると断っているイベントもある。
蛇胴を明治期に開発したのが植田菊市(初代植田晃司)でその製作技法を継承しているのが三代目植田倫吉(三代目植田晃司)の植田蛇胴製作所である。
※注釈によると蛇胴の考案者が誰かについては異論もあるとのこと。
植田菊市は蛇胴製作の傍ら、弟の花立万太郎と共に舞法を考案し、現在でも基本の型として受け継がれている。
本論文には蛇胴の製作のノウハウも記録されている。それを読むと皮膚感覚が大切な職人芸であることが分かる。竹の選定にも眼力が必要であり、それは自分の土地の竹林から採っていることが大きいようにも思える。
植田蛇胴製作所では主に植田夫妻によって蛇胴の製作が行われており、家内制手工業的なそれは現在の雇用制度では技術の継承を困難にしている。植田蛇胴製作所以外にも蛇胴の製作を手掛ける業者は存在するが、のれん分けしたものではないとのこと。
コロナ禍で神楽の上演はストップし、神楽関連産業も大きな打撃を受けた。国・県・市から補助金を受け経営を続けているとのこと。
……蛇胴のメリットは蛇に見えることである。例えば関東の神代神楽では「八雲神詠」という演目が八岐大蛇退治の演目だが、人と変わらぬ衣装を着たもので蛇には見えないのである。蛇胴を得ることで「大蛇」は一番人気を得たと言える。
蛇胴は石見神楽のみならず西日本の神楽に普及した。神楽以外の芸能でも蛇胴が使用されるようになっている。
「大蛇」と石見神楽の存在を一般に認知させたのは大阪万博である。基本的には悪龍退治の物語であり、口上が無くてもストーリーを把握できる。そのため海外公演でも必須の演目となっている。
植田氏は高齢であり、奥様は2023年にお亡くなりになったという。手伝いをしている人はいるそうだが、直接の技術継承者がいないと見られるため、植田氏直系の蛇胴の製作ノウハウは失われてしまうかも知れない。
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六郷寛「第二五回古代文化講座 芸北地域に「石見神楽」はいつ伝播したか? ―「伝統」と「創作」の視点から―」『しまねの古代文化:古代文化記録集』17号を読む。六郷氏は北広島町教育委員会の職員。
何年か分からないが、浜田市のいわみーるという施設での講演の模様が文字起こしされたもの。講演録の後に芸北地域の史料が掲載されている。漢文を読み下したものと思われる。文字面を追うことはできなくもないが文脈をとるのは難しい。
この講演が収録された『しまねの古代文化:古代文化記録集』17号は2010年3月の発行であった。芸北地域の江戸時代の動向が語られているのでもっと早く読んでおけばよかった。
おそらく同様の内容だと思うが、六郷寛「近世末期安芸国北部地域における「石見神楽」の受容」『近世近代の地域社会と文化』という論文名も記されている。ただ、この論文はおそらく雑誌でなく書籍に掲載されたものだろう。国会図書館だと書籍に掲載された論文は著作権の関係で半分しかコピーできない。全部読むには国会図書館に行かなければならない。
北広島町は大朝や千代田の辺り。浜田市からなら高速道路一本でいける地理的関係にある。
広島県の安芸国の北部で舞われる神楽は芸北神楽と呼ばれることが多いが、六郷氏は石見神楽という認識である。学問的には芸北神楽は石見神楽なのである。ここでは石見神楽+芸北神楽の場合、石見系神楽と表記する。
従来、神楽の分類で出雲流神楽という分類があった。現在は採物神楽と称されるように変わっている。中国四国九州に分布していてストーリー性のある神楽、神楽能(能舞)と儀式舞が組み合わされた神楽だとされている。
その出雲流神楽の源流が松江市の佐陀神社の佐陀神能だとされている。安土桃山時代から慶長期にかけて能の影響を受けた神楽が成立したとされている。
ここで六郷氏は旧山県郡の壬生神社に伝わる資料(井上家文書)から「荒平舞詞」を挙げる。この史料は『日本庶民文化史料集成』第一巻に収録されている。これは荒平という鬼が長々と口上を述べていかに自分が凄い存在であるかアピールするが、日本は神国なので敗れてしまって、魔法の杖を授ける……というような内容である。これは現在でも広島県の安芸十二神祇で「関」といった演目名で舞われている。四国ではこの鬼は提婆と呼ばれてもいる。九州の神楽の詞章にも荒平の名を見ることができる。
このように西日本に広く分布している荒平なのだが、六郷氏は「荒平舞詞」は戦国時代の史料だと指摘する。つまり佐陀神能より古い神楽の記録が残っているとするのである。六郷氏は佐陀神能は仏教色を排除した神楽だと指摘し、当時は西日本一帯に神仏習合的な神楽があったのではないかと推測する。後に吉田神道が神職を統括するようになり、1800年代の初め頃に神楽が仏教色を排して神道流に改訂されたのである。
で、話は芸北地域、主に旧山県郡の歴史に移るのだけど、六郷氏は井上家文書を読み解き、1830年代に邑智郡から石見神楽の流入が始まったとする。当時の石見神楽は神職によって舞われていた。その後1850年頃に石見神楽の伝習が行われ氏子(若連中)が舞うようになったと解説する。
石見地方でも浜田藩が氏子が神楽を舞うことを禁止したという記録が残っているそうなので、江戸時代から見様見真似で舞っていたとされる。ただ、氏子自身が舞うようになるのは芸北地域の方が早かったのかもしれない。
ちなみに、石見神楽が流入する以前は湯立、造花といった儀式が主たるものだったとする。造花は大正時代か昭和の時代に廃絶してしまったとされている。獅子舞もあったが、その他の出し物は変遷して定着せず、石見神楽が流入して固定化されるようになったとのこと。
……大体そういう内容なのだけど、僕自身、江戸時代の芸北地域については漠然としたイメージしかなかった。江戸末期とは幕末くらいだろうかと思っていたのだが、実際には天保期の出来事だった。認識が改まったので、いずれ拙書『神楽と文芸(総論)』を改訂しようと思う。
締めとして現在の芸北神楽について語られる。よく知られているように芸北神楽は石見神楽が伝わった当時のもの(旧舞)と戦後の創作演目(新舞)とに分けられる。
新舞はGHQが皇国史観を危険視したため従来の神楽が禁止され、その検閲を回避するために創作されたとされている。作者は佐々木順三で彼が自費出版した台本には17演目記載されている。
現在では更に進んでスーパー神楽を新々舞と呼ぶこともあるそうだ。
で、芸北地域の内部でも新舞に関しては「これは神楽ではない」という声があるそうである。「伝統を守る」と「新しいものに挑戦する」という姿勢が対立している訳であるが、六郷氏は「どうかな」と態度を保留する。石見神楽にしても元は他所から流入してきたものが定着したものである。だから「新しいもの」が駄目とは一概に言えないとするのである。
まあ、どんな演目も最初は創作演目である。僕自身は現在の郷土芸能は観光路線もあって「現状維持」が基本線だと思う。出雲神楽を見に行ったら芸北神楽をやっていたとなったら話が違うとなるからだ。ただ、新しいことをしてはいけないという決まりも無い。自身でリスクを引き受ける分には構わないのではないか。
関東の事例だと、厚木市の垣澤社中、ここは厚木市の指定無形文化財に指定されているが、次の家元(娘さん)が中心になって声楽家や舞踏家とコラボした創作演目を発表したりしている。自分でリスクを引き受けているから許されているのである。
ただ、芸北の人たちが考える新しいこととは奇抜な演出のことではないかという気もする。それは違うと思うのである。
現状維持に不満を感じるならこうも言える。芸能とは本来上達するにつれてその奥深さに目覚めていく性質のものではないか。
ここで冒頭部分を引用する。
ところが、東京のほうから来られた方が石見神楽をご覧になると、「なんじゃこりゃあ」とびっくりする。だいたい神楽とは言わない。我われのほうでも神楽というのは新しい言い方で、昔の人は“舞”って言っちゃった。「舞を舞う」って。関東では“舞”どころか“神楽”という言い方もしない。ていねいに“お”をつけて“お神楽、お神楽”といわれる。“お神楽”は何者かといいますと、手に鈴を持ったりして、ここら辺でいう“儀式舞”ですね。鬼が出てきてチャンチャンバラバラ、というようなことはしない。キリキリ回って「あれ残念なり無念なり!」とかいうようなことは、まちがってもしない。というんでありまして、おとなしい、どっちかというたら退屈なものが“お神楽”だ、というふうに関東地方の人は思うとってんです。3-4P
ここで引っかかりを感じる。この東京の方から来た人は具体的にどこの神楽を指していたのか。僕自身、横浜に住んでいるので首都圏の神楽は見学したことがある。埼玉県久喜市の鷲宮神社の催馬楽神楽や東京の品川神社の太々神楽は確かにストーリー性のない儀式舞的な神楽である。だが、埼玉県坂戸市の大宮住吉神楽は昔ながらの鄙びた神楽を残しているがストーリー性のある演目もある。また、東京や神奈川の神代神楽はストーリー性のある演目、口上のない黙劇である。
ちなみに鷲宮神社の神楽は関東の神楽の源流とされる。やはり江戸時代に改訂を受けているが当時の演目が12演目+α残されている。品川神社の太々神楽は氏子さんたちが正装してかしこまって見る神楽である。都心に古い神楽が残されていることが驚きである。
で、僕は関東の神代神楽と石見系神楽は好対照をなしていると思うのだ。神代神楽ではモドキという滑稽な役柄を演じる登場人物が活躍する。全体的にユーモラスな内容なのである。勇壮な演目を好む石見系神楽とは明確に異なる。テンポもゆったりしたもので、例えると、動きの速い能だろうか。同じく演劇性のある神楽だが、神代神楽が「静」なら石見系神楽は「動」という対比が見られるのである。
関東の神代神楽を実見して僕は気づいたのである。石見系神楽は鬼退治ばかりではないかと。石見系神楽の能舞はバトルを中心にして構成された舞が多い。それに対して神代神楽では記紀の内容を忠実に再現した演目が多く、バトルが無い訳ではないけれど、それがメインということはないのである。
また、関東の神楽師たちは獅子舞も演じる。そういう意味で芸能本来の持つ祝福芸的な要素も残しているのである。石見神楽だと恵比須だろうか。山間部だからだろうか、芸北では釣りがモチーフの恵比須の上演頻度は高くないように見える。
出典は失念したが、昔、民俗学者の偉い先生が中国地方の神楽は鬼退治ばかりだと笑ったという逸話が残っている。石見系神楽に関してはその言葉がそのまま当てはまるのである。
これが現代の創作演目である新舞の欠点なのである。僕も台本集を読んだり出典を調べるなり、視聴可能な演目は動画を見るなりした。全部バトルなのである。石見神楽からの流れで人気があるからそうなっているのだが、それ以外の展開がないのである。ある面では表現の幅が狭いと言わざるを得ない。
また、これは石塚尊俊が指摘したことだが、新舞はその成り立ち上、説話ベースで神話劇ではないのである(※一部、神武天皇やヤマトタケル尊の演目はある)。題材の幅が広がった面もあるが本筋から逸脱してしまったように思える。神さまに神話劇を奉納するなら分かるが、神さまに源頼光の鬼退治を奉納するのは意味があるだろうか。源頼光やその四天王はヒーローではあるが信仰の対象ではない。神さまはそんなことは気にしないとは言える。石見神楽の理屈だと神さまは人が喜んでいるのを見てお喜びになるということだそうである。
神代神楽にも「紅葉狩」といった能に出典を持つ演目は存在する。そういう演目を本田安次は「近代神楽」と呼んでいる。だが、それはあくまで演目の一部であって主体をなす訳ではないのである。
佐々木順三の作品以外にも創作神楽は作られている。でも、その多くは地元の伝説を題材にしたもので地元的には正統性のあるものである。
僕自身、浜田市の出身で八調子石見神楽を見て育ったから新舞に関してもさほど違うとは思わない。石見神楽より演劇性が強いなとは思う。
そういう僕も安芸高田市で開催された高校生の神楽甲子園という全国大会で奥出雲の高校生が新舞で出場して日芸選賞(※当日の最優秀校)を受賞したのを見たときには極めて保守的な感情を抱いた。牛尾三千夫や岩田勝といった神楽の権威は八調子石見神楽や新舞を激しく嫌ったが、その気持ちが理解できたように感じたのである。
これは他所の地域の若者が新しい芸能を受け入れた事例である。歴史的には別に珍しくないだろう。が、僕には新舞が出雲神楽のテリトリーを荒らしているように見えるのである。神楽甲子園については別途記事を書いているので、興味のある方は当ブログの神楽カテゴリーか2023年7月の過去ログを当たって頂きたい。
新舞の長所を挙げることもできる。ストーリー性があり、ライブの一回性もあって繰り返しの鑑賞に耐えるのだ。儀式舞なら一回見ればいいかという人も多いだろう。
また、新舞の派手な身体パフォーマンスは若い先天的な感性に訴える力を有している。石見神楽の動画を見ていると、子供が舞台にかぶりつきで見ている場面を目にすることがしばしばあるが、幼い子供たちは先天的な感性、審美眼で神楽を見ているのである。
全国の神楽を隈なく回って見ている神楽通が何人いるか知らないが、そういう人たちは新舞を神楽とは見なさないだろう。新舞は現代神楽と言い換えることができると思うが、現代に至るまでに失われたものがある。神楽を神楽たらしめている何か、神楽通たちはそういったものの欠如を敏感に感じ取ることだろう。
僕も神楽をやった経験がある訳ではないのでよく分からないが、何と言うか、演劇の要素が強まることで呪術的な要素の名残が消え失せてしまっているように見えるのである。今の新舞は現代民俗音楽劇と呼んでもさほど的を外していないだろう。
神代神楽は首都圏の芸能だけあって洗練されているなと見ていて感じる。新舞も神楽を洗練させていった結果の一つだけど、進化の方向性は一つではないのである。
僕は出不精で全国の神楽を見て回っている訳ではない。日帰り圏がせいぜいだ。でも、浜田市出身で現在は横浜市に在住していることがプラスに作用した。石見系神楽と関東の里神楽を偶然ではあるが比較して見る機会に恵まれたのである。この結果、僕は石見系神楽を相対化して見ることが可能になったと感じている。
もし新しいことがやりたいなら、他所の地域の昔ながらの神楽を見てバランスをとった方がいいと思うのである。バトルしか能のない新舞(※だから佐々木順三は茶利にこだわったのだろう)は既に進化の袋小路にはまり込んでいると見る。
なお、SNSで芸北神楽の奉納神楽の宣伝ポスターの画像を見ると、上演演目では新舞と旧舞が混在していることが分かる。新舞だけを舞う神楽団というのはおそらく存在しないだろう(※岩戸を保持演目としていない神楽団はあるそうだが)。
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OneDriveの中身を見ていて、母が大叔母(祖母の腹違いの妹だが、母と同い年だった)について語った音声ファイルがクラウドに保存されていたことに気づく。では、叔父から聴いた朝鮮半島からの引き揚げ話はどうだったかなと思って検索してみるが見つからない。あれはICレコーダーで録音してなかったか。もしかしたらICレコーダーに記録が残っているかもしれないが、ICレコーダー自体がどこにいったか分からなくなってしまった。
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