鹿足郡

2022年2月13日 (日)

予知能力――汗かき地蔵

◆あらすじ

 昔、日原(にちはら)の木の口(このくち)の宝泉寺(ほうせんじ)の山門に、背丈が二メートルもある大きな地蔵さまがあった。顔や胸は線香の煙で真っ黒にすすけているが、腰から下の方は白い御影石(みかげいし)で衣のひだもはっきり分かるくらい見事に彫られている。

 ある日、宝泉寺と地蔵さまが脇本(わきもと)へ移ることになった。しかし、地蔵さまは重くて動かすことができない。不思議だと村人は和尚に相談した。

 和尚はお経をあげてお地蔵さまはこの土地が気に入っていらっしゃるようだが、ここは場所が悪いようなので、少し上の方にお移りくださいと地蔵さまに話してみた。

 すると、あれほど重くて動かなかった地蔵さまを軽々と動かし移すことができた。

 この地蔵さまは不思議な力を持つという言い伝えがある。それは村に何か変わったことがある時は、必ず顔に汗をかいて知らされるというものだ。それも首から上だけで大粒の汗がどんどん流れてくるという。

 ある年、村人がお参りしていると、急に地蔵さまの様子が変わってみるみるうちに汗が流れだした。

 村人が一生懸命にお経を唱えると、その内に汗が止まった。後で村人がもの知りに診てもらうと、この先、村に悪い病気が流行るということであった。

 ところが、これを聞いた一人の男がそんな馬鹿なことがあるものか。もしそれが本当なら悪い病を儂(わし)に移してみせよと酒を飲んだ勢いで言ってしまった。

 明くる日、男は朝から起き上がることができず、それから十四、五日も高熱が続きうなされた。地蔵さまが枕元に立たれた。男はこっそり地蔵さまに謝りに行き、こらえてもらった。すると不思議なことに、あれほど高かった熱も下がり、やがて元気になった。

 村人たちはますます地蔵さまを信心するようになった。毎月二十四日には今でも祭りが行われている。

◆余談

 子供の頃は悪い病気が流行ると言われてもピンと来なかった。インフルエンザで高熱を出して嘔吐する事は度々だったが、流行病という意識が無かった。現在はコロナ禍で、悪い流行病は実際にあるのだなと痛感させられている。

◆参考文献

・『夕陽を招く長者 山陰民話語り部シリーズ一』(民話の会「石見」, ハーベスト出版, 2013)pp.122-124.
・『島根の伝説』(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1978)pp.57-60.

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肉を食ったか食わないか――法師淵

◆あらすじ

 昔、柿木(かきのき)村下須(しもす)の法師淵(ほうしぶち)にお寺があった。その寺に坊さんが一人住んでいた。

 ある時、その坊さんが猟師から何かの肉を貰って食べたという。ところが、それが門徒や信者たちに知れてしまって、坊さんの癖に肉を食うとはとやかましく責めたてられた。

 ところが坊さんは自分は破戒していない。肉食はしていないと言い切った。門徒や信者たちはどうしても承知しない。

 食べた食べないで言い争った末に、坊さんは肉を食べていないことを証拠だてるために、自分が使っている箸を川に流すから、その箸が下流へ順調に流れたら食わなかったことになる。もし、上流へ流れたら、その時は肉食をして戒を破ったことになるので入水自殺をしようという話になった。

 そこで人々は坊さんを川端へ連れていって、石の上から箸を投げた。

 元々、川の水は下へ流れるのが当たり前。ところがどうしたことか、川へ投げられた箸は上へ向かって流れた挙げ句、上の岩に吸い付いてしまった。

 それみろと責め立てられ、坊さんも仕方なく約束どおり死のうと、そのまま岩から身を投げた。その岩は今も「坊主岩」と言われている。そうしていつしかこの淵を「法師淵」と呼ぶようになって、この辺り一帯の地名となった。

 しかし、どうして上へ向かって流れていたか不思議に思うが、よくよく考えたら、これは偶々石の上の処が瀬尻(せじり)で流れが激しい上に、岩が一つ二つあって水が逆流したものなのだ。

◆余談

 ボタン肉、サクラ肉とも言うので、お坊さんたちも実はこっそり肉食していたというような話もあるようだ。お酒は般若湯(はんにゃとう)である。

◆参考文献

・『夕陽を招く長者 山陰民話語り部シリーズ一』(民話の会「石見」, ハーベスト出版, 2013)pp.83-85.
・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)p.121.

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2022年2月12日 (土)

ヤクロシカにゆかりの樹――ケヤキを伐った話

◆あらすじ

 鹿足郡吉賀(よしか)町抜月(ぬくつき)に一本のケヤキの木があった。この木はヤクロウ鹿の骨を埋めた所に生えたもので、伐ってはならないと言い伝えられていた。

 ところが、偉い親方が、あの木が目障りで月和田(つきわだ)が見えない。下の土地に広く陰をするから伐ってしまえと言った。

 そこで木挽(こび)き(木こり)たちが集まって伐りはじめたけれど、明くる朝に行ってみると、伐ったところが元通りになっている。また伐っても明くる朝になれば元通りになっているので、木挽きたちが怖れて、かくかくしかじかなので木を伐ることは止めて下さいと頼んだ。

 すると、親方は見張りを立てさせた。そしてその日もケヤキを伐らせた。夜、見張りが見ていると、白い髪をして白い直垂(ひたたれ)を着た爺さんたちが七人出てきて、何かぶつぶつ言いながらコケラ(木の伐り屑)を拾って引っつけている。それで見張りの者が寂しくなって帰ってしまい、明くる朝見たら木はまた元の様になっていた。

 親方は怒って自分の命令に背くことは認められない。絶対に伐れ。人数をかけてコケラを焼いて木挽きを増やして夜も昼も一時も休まずに手斧(ちょうな)を打ち込めと命令した。

 親方に言われるまま、ケヤキの枝の届かない所までコケラを運んで焼いた。そして三日目に伐り倒した。

 そのとき切り株のところから七人の直垂を着た小人が煙のように出てきて嘆いてどこかへ行ってしまった。

 皆はいよいよ恐ろしくなって身動きが取れなかったが、親方は自分の願いが叶ったと非常に喜んだ。

 ところが、コケラを焼いた人が夜見たら、七人の小人たちがコケラの灰を掬ってはかき回して嘆いている。

 許してつかあさいと言って焼いた人が家の中へ転げ込んだが、それきり具合が悪くなり血を吐いて死んでしまった。

 そして、それから雨が長く降り、上がってから見たら、切り株に芽が一尺くらいも伸びていた。

 木挽きに携わった人はよその村からも集めて三十人くらいいたけれども、皆気がおかしくなったり、苦しんで死んでしまった。

 そして命令した親方は夜も昼も、熱い熱い。わしを冷やせと言って水を飲ませると水が煮え湯のようになり、どうしても冷えなくて七日七夜も苦しむので、年寄りが心配して灰のところでお経をあげ、切り株へは御幣を立ててお祀りした。しかし、親方は熱い熱いと言いながらとうとう死んでしまった。しかも、身は燃えさしのように黒くなっていた。

 だから、いくら権力があっても人がいけないと思ったときにはしてはいけない。お天道さまをまっすぐに見られるように生活しなければならないのだ。

◆余談

 この伝説のケヤキの木はヤクロウ鹿の骨を埋めたところに生えたものだとある。ヤクロウ鹿は八畦(やつぐろ)の鹿とも呼ばれ、過去に吉賀町周辺を荒らし回った悪鹿である。朝廷から武士が派遣され退治されたが、その霊を神として祀ったところ霊験あらたかで良い鹿から吉賀となったという地名説話がある。

◆参考文献

・『夕陽を招く長者 山陰民話語り部シリーズ一』(民話の会「石見」、ハーベスト出版, 2013)pp.96-99.
・『六日市町史 第一巻』(六日市町/編, 六日市町教育委員会, 1981)pp.324-328.
・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.121-122.

ヤクロシカの記事はこちら

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2022年2月11日 (金)

底なしの田――おしも田

◆あらすじ

 昔、今の鹿足(かのあし)郡六日市(むいかいち)町田野原(たのはら)に一枚の田んぼの広さが八丁八反(約一平方キロメートル)もある広い田があった。この田は元々大蛇が池という大きな池だったが、水を抜いて田にしたのだ。

 そのため、底が深く、田植えのときには田下駄(たげた)を履いたり田舟(たぶね)に乗って植えていた。また、田の境には木や竹を立てて目印にしていた。

 ある年のこと、この地方にも田植えをする時期がやってきた。

 おしもは村で評判の働き者だった。この日も朝早くから起き出して独りでこの広い田んぼの田植えをしていた。

 そのとき、朝焼けの空が急に曇ると大粒の雨が降り出してきた。だが、おしもは手を休めず田植えを続けていた。そして、あと一息というところで、どうしたことか、足をとられて、あお向けに倒れてしまった。

 もがけばもがくほど身体は泥沼の様な田んぼに沈んでいく。助けを求めようにも人はいなかった。おしもは遂に底深く沈んでしまった。

 おしもの着ていた蓑(みの)が浮いているのを見て村人たちは騒いだが、遅かった。村中の人達が集まっておしもを弔った。それからこの広い田をおしも田と呼んだ。

◆余談

 山口県の徳佐盆地はもともと湖だったのが、水が抜けて平野になったと聞く。地図で調べてみると、田野原は中国道沿線付近となる。

◆参考文献

・『島根の伝説』(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1978)p.102.
・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.59-60.
・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.122-123.

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2022年2月10日 (木)

殿を撃つ――鉄砲の名人又市

◆あらすじ

 いまから百二、三十年前(二〇二〇年代では百六、七十年前)、江戸時代の末期である。日原(にちはら)の畳(たたみ)に又市(またいち)という男がいた。百姓のせがれであったが、鉄砲が上手く、本職の猟師でさえ鳥一羽獲れぬ日でも又市は山鳥の二、三羽は仕留めてきた。

 どうしてそんなに獲れるのか仲間が尋ねると「風と足じゃいね」とだけ答えるのだった。

 又市の評判はやがて津和野藩主亀井公の耳に入った。そこ頃は日本中が幕府につくか天皇を立てるか二つに分かれて騒がしかった。津和野藩でも鉄砲の上手な者がいれば身分に関係なくかり集めていた。

 又市を連れてこいという言い付けが畳の庄屋に届いた。又市は早速津和野にでかけた。

 今日から三日の間に鳥を百羽とって持ってこい。そうすれば武士に取り立ててやろうという亀井公の仰せだった。

 又市はすぐに益田の横田へ向かった。高津川の西岸に広がる葦原(あしはら)は鳥のねぐらであることを知っていたからである。

 横田について二日めに百羽の鳥を獲ってしまった又市はその日の内に城に持っていった。

 よくぞ獲ってきた。疑う訳ではないが、その腕前を余の前で見せよと亀井公は命じられた。小姓が一本の針をつきたてた針山を三方(さんぽう)に載せて持ってきた。

 この針の穴を十間(約十八メートル)離れたところから打ち抜けと命じられた又市は鉄砲を撃った。針の穴は見事に撃ち抜かれていた。又市はその場で武士に召し抱えられた。

 それから数年が過ぎた。正月の注連飾りがもう少しで取れる日に亀井公は又市を召し出した。久しく腕を見ていないと言うのである。

 亀井公は袂(たもと)から橙(だいだい)を取り出すと、頭の上に載せ、見事撃ち落としてみせよと命じた。

 さすがの又市も驚いた。打ち損じたら殿の命はない。その時は自分の命もないだろう。しかし、主人の命令なので断る訳にいかなかった。

 中庭の中ほどに橙を頭に載せた亀井公が立った。又市は神仏に祈ると撃った。ズドーンと大きな音がした。弾は見事に橙を貫いていた。それを見た又市は膝を折って両手をついた。暇を頂きたいと言うのである。

 亀井公はそんな又市を見て余が悪かった。もう二度とこんなことはさせぬ。どうかいままで通り、余に仕えてくれと謝った。

 津和野藩の鉄砲組が百歩離れたところから標的を撃って技を競った。一番成績の良かった者はその標的に自分の名前を入れ額にして弥栄(やさか)神社に奉納することを許された。

 万延(まんえん)元年(一八六〇年)に奉納された額には水津又市阿成(すいづまたいちむねなり)という名が記されている。この人物が又市であろうと言われているが、本当の事はよく分かっていない。

◆余談

 ウィリアム・テルの伝説を思わせる内容である。津和野藩自体は長州と通じ合っていて戦うことはなかったのだが、鉄砲名人の伝説が残されている訳である。

◆参考文献

・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.106-111.

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2020年10月20日 (火)

一間四方の神楽

YouTubeで六調子石見神楽の柳神楽「四剣」を見る。四人の舞手が舞うのだが、天蓋の下、一間四方の中で舞う舞であって、神楽の古態を残していると思われる。

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2015年8月21日 (金)

源氏巻と元禄赤穂事件

◆はじめに

 津和野の銘菓・源氏巻に次のような物語が添えられている。
銘菓物語(源氏巻)
 江戸・元禄時代、赤穂の浅野内匠頭の刃傷が起きる前のことです。当時の津和野藩主、亀井茲親が勅使接待役を命じられ、吉良上野介に教示を依頼しましたが、浅野同様、数々の非礼を受け藩主を怒らせました。それを知った国家老多胡外記は早速、吉良家に進物を贈りつけ、ことなきを得ました。
 その時の進物の一つが「源氏巻」です。小判を下に敷きその上に竹皮で包んだ源氏巻をのせたという言い伝えがあります。津和野を救ったといわれる縁起の良いお菓子です。

◆浅野内匠頭、乱心

 元禄十四年、西暦だと一七〇一年三月十四日、江戸城松の廊下で浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に刃傷に及ぶ事件が発生した。浅野内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家はお取り潰しとなった。

 では、浅野内匠頭はどうして刃傷沙汰に及んだのか? 松の廊下で勅使饗応役――朝廷からの使者をもてなす役目の浅野内匠頭が脇差しを抜き、この間の遺恨覚えたるかと言い放つと、指南役の吉良上野介に斬りつけたという事実は分かっているが、その動機は諸説紛々、定かでない。

 取り調べに対しても浅野内匠頭は明言していない。どうして刃傷沙汰に及んだのかは忠臣蔵の肝と言える。明確な答えが出ないということは、浅野内匠頭は錯乱していたのかもしれない。

◆余談

 それにしても、吉良上野介はやはり悪役なのだろうか。悪役の方がドラマ的には面白いのは確かだけど。帰省の土産でもらった源氏巻の箱に書かれていた秘話を読んでそう思う。

松の大廊下跡・解説
松の大廊下跡・標識
皇居東御苑・松の大廊下跡
皇居東御苑・松の大廊下跡
皇居東御苑にて撮影

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2009年12月27日 (日)

ヤクロシカ――八畔鹿

◆八畔鹿伝説

 「塵輪」に関する論文を読んでいて鹿足郡吉賀町に八畔鹿(やつぐろのしか, やくろしか)という悪鹿の伝承があることを知る。吉賀町の地名説話(良鹿から吉賀)でもある。山を隔てた岩国市の二鹿神社にもほぼ同じ内容の伝承が残されているそうだ。

鹿足郡吉賀町柿木村の奇鹿神社
鹿足郡吉賀町柿木村木部谷・奇鹿神社
鹿足郡吉賀町七日市の奇鹿神社
七日市の奇鹿神社・拝殿
七日市の奇鹿神社・ご由緒
鹿足郡吉賀町七日市・奇鹿神社

 「六日市町史 第1巻」(六日市町/編, 六日市町教育委員会, 1981)の第二章第七節「鹿伝説と鹿大明神」で八畔鹿の伝説が紹介されている(324-328P)。幾つかバリエーションがあるそうだが、「吉賀記」という江戸時代の地方誌に収録されたものを中心にした内容である。

◆粗筋

 第42代文武天皇の代(在位697~707年)に九州は筑紫の国で悪鹿の害が横行した。その鹿は足が八つあり、その角は八又に分かれている。赤毛は一尺余り、眼は鏡のように輝き、天を駆け地を走り、鳥や獣を喰らい、人々の命を奪った。八畔鹿(やつぐろのしか)といい、庶民は怖れ農事を止めてしまった。
 幾ばくもなく天皇の御耳に入り、藤原為実、藤原為方へ猛獣退治の宣旨を下された。北面の強士・江熊太郎を引き連れ進発、深山幽谷に入り悪鹿を追った。
 悪鹿は小倉から防長へ渡り、彼部(かべ)郡鹿野庄を過ぎ、石州奥の吉賀庄鹿足河内大鹿(おおか)山に馳せ籠もり大鹿山の西面の三ツ岩に蛇がとぐろを巻くようにして居座った(蟠留した)。
 江熊太郎は屈せずに金五郎岩に迫り、毒矢を射ると悪鹿に当たった。悪鹿は直ちに飛龍のかたちとなって江熊目がけて金五郎岩に迫った。江熊太郎は次の矢で悪鹿を射止めた。
 この鹿は天下の央獣で、忽ち四方に雲と霧を起こして天を覆い、天地は震動した。江熊太郎はこの悪しき働きによって倒れてしまい、亡くなってしまった。
 よって防州山口の藤原両卿へ悪鹿を訴え挙げて骸骨を曳き出した。特に両足は日に向かい悪鹿の形勢を点検し、兵たちの名目を記し件の悪鹿を墓に埋めた。直ちに八畔(八また)の角を落として骸骨をこちらの田と畦に封じた。この鹿の古墳を後世の人は七福神に祭る。抜舞にあり。
 また、悪鹿を解体した所を骸崩(からだくずし)と言う。また、両卿は悪鹿を描かせ訳を記し余った墨をこちらがわの滝に流した。今墨流れといってことごとく滝の水が黒い。また、柚子の木の元で悪鹿を郷の民たちが解体した。よって後世ここに柚子の木が生じないと言う。
 郷の民は江熊太郎を神に祭り荒人明神と祝し、また鹿の霊を神として祭った。
 魂を神として祀ったところ霊験あらたかで、悪鹿を賀して吉賀と号し荘名となった。

 鹿は古来、霊獣とされていたそうで(もちろん害獣でもあるが)、勅命で退治される悪鹿の伝説は異彩を放っている。

 「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)でもこの伝説が紹介されている(121-122P)。ここでは八畔鹿は八岐大蛇の化身とされている。文武天皇の代という時代設定は同じであるが、鹿を討つのが藤原両郷と江熊三郎となっている。
 また、大鹿山は柿木村の大鹿山、あるいは六日市町立戸(たちど)の大岡山とされている。

 なお、文武天皇の在位は697~707年で飛鳥時代の天皇。「六日市町史」では藤原為実は藤原定家の曾孫で鎌倉時代の人。北面の武士は白河院の時代で平安末期と解説している。

◆八岐大蛇伝説との関わり

 この地方の地形を見ると、吉賀川と支流はちょうど八岐である。したがって、洪水や野獣の暴威によって、昔は農耕の妨げとなっていたことをこの話は示すもので、まさに八岐大蛇の神話と非常によく似た構造を持っている。
「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(同)p.122
 とある。邑智郡邑南町の八色石伝説も大蛇は八岐大蛇の末葉という解釈があり、似た側面がある。
抜月橋
抜月橋から見た高津川
抜月橋と高津川

◆神楽

 「抜月神楽 島根県古代文化センター調査研究報告書 11」(島根県古代文化センター/編, 島根県古代文化センター, 2002)に「八久呂鹿(やぐろじか)」の口上台本が収録されている(94-95P)。この演目では悪鬼とされているようだが、やはり八岐大蛇の一族と名乗る。他、石見の国の長野四郎が登場する。

◆水上論文

 水上論文が主に考察しているのは播磨の「伊佐々王」という悪鹿伝説。
 「塵輪」の水上論文は先ず八畔鹿伝説を枕にして「塵」の字の語源(鹿のたてる土煙)の連想から塵輪の考察へという構成となっている。

◆奇鹿神社

・鹿足郡吉賀町柿木村木部谷・奇鹿神社
 国道187号線・津和野街道。木部谷橋の近くに東へ木部谷村へと入る道がある。道なりに進むと神社がある。

・鹿足郡吉賀町七日市・奇鹿神社
 神社は国道187号線・津和野街道に面している。抜月橋付近。
 訪問時は一旦七日市の中心街に入り、七日市小学校近くの道路脇に車を停めた。

◆類話:まんが日本昔ばなし

 八畔鹿そのものの伝説ではないが、「奇しき色の大鹿(くしきいろのおおしか)」というタイトルで九州の民話がアニメ化されている(演出・作画:辻伸一, 文芸:沖島勲, 美術:下道一範)。出典は「比江島重孝(未来社刊)より」とクレジットされていて、宮崎県のお話のようだ。
 九州のとある山国。長者の娘が美しいと評判を呼び、娘を一目見たさに大勢の男がやってくる。が、あるときから娘は姿を見せなくなった。とある若者は娘が重い病で伏せっていると知る。それからまもなく若者は大雨で増水した川に流されてしまう。滝に落ちかけたところを奇しき色の大鹿が若者を救った。若者はこのことは決して誰にも漏らさぬと鹿に約束する。が、奇しき大鹿の生き血を飲めば長者の娘の病が治ると知った若者は鹿の居場所を長者に知らせてしまう。長者は鹿を撃ちに出かける。が、ここを教えたのは誰か? のという鹿の問いに若者は自分が知らせたと白状する。長者は鹿を撃たずに引き返した。その後、娘の病はすっかり良くなったが、若者は己を恥じたのか姿を消してしまった……という粗筋。
 悪鹿ではないが、奇しき色に輝く大鹿という点は共通している。

◆余談

 鹿足郡を代表する伝説のはずで、知らなかったのは不覚。結局「出雲・石見の伝説」の古本を購入。
 八つ足の姿は北欧神話の神馬スレイプニルを想起させるかもしれない。
 連想したのは手塚治虫の漫画「ブラックジャック」の一エピソード。牡鹿の脳を腹部に移植するが、サイボーグ化した鹿の脳が異常に発達、凶暴化したため銃殺するという筋だった。おそらく「子鹿物語」を下敷きにしたものだ。
 兵庫県播磨地方には数年間住んでいたことがあるのだが、伝説の類は読んでいなかった。今もしていないのだが、自分の住んでいる地域の歴史や伝説を調べることも必要だと感じた。

◆参考文献

・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.121-122
・「抜月神楽 島根県古代文化センター調査研究報告書 11」(島根県古代文化センター/編, 島根県古代文化センター, 2002)pp.94-95
・「六日市町史 第1巻」(六日市町/編, 六日市町教育委員会, 1981)pp.324-328

・水上勲『播磨の巨鹿「伊佐々王」の原像を追って―中国山地の「悪鹿」伝承考―」(帝塚山大学人文科学部紀要 第十六号, 2004)pp.31-45
・水上勲「《塵輪》《牛鬼》伝説考―「新羅」来襲伝説と瀬戸内の妖怪伝承―」「帝塚山大学人文科学部紀要」第十八号(帝塚山大学人文科学部紀、二〇〇五)一九―三七頁。
伝説「ヤクロシカにゆかりの樹――ケヤキを伐った話」はこちら

記事の転載先 →「広小路

 

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