知らなかったらドツボにはまりかねないが――スマートIC化
中国道、三月から四月にかけてスマートIC化が進む予定らしい。ETCの普及率は95%に達しているそうで、そういう流れになるのは必然なのだろう。当面どこかに出かける予定もないけど。
広島など中国地方の高速道路料金所10カ所がETC専用に 3月から順次
https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/789411
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中国道、三月から四月にかけてスマートIC化が進む予定らしい。ETCの普及率は95%に達しているそうで、そういう流れになるのは必然なのだろう。当面どこかに出かける予定もないけど。
広島など中国地方の高速道路料金所10カ所がETC専用に 3月から順次
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◆あらすじ
昔、日原(にちはら)の木の口(このくち)の宝泉寺(ほうせんじ)の山門に、背丈が二メートルもある大きな地蔵さまがあった。顔や胸は線香の煙で真っ黒にすすけているが、腰から下の方は白い御影石(みかげいし)で衣のひだもはっきり分かるくらい見事に彫られている。
ある日、宝泉寺と地蔵さまが脇本(わきもと)へ移ることになった。しかし、地蔵さまは重くて動かすことができない。不思議だと村人は和尚に相談した。
和尚はお経をあげてお地蔵さまはこの土地が気に入っていらっしゃるようだが、ここは場所が悪いようなので、少し上の方にお移りくださいと地蔵さまに話してみた。
すると、あれほど重くて動かなかった地蔵さまを軽々と動かし移すことができた。
この地蔵さまは不思議な力を持つという言い伝えがある。それは村に何か変わったことがある時は、必ず顔に汗をかいて知らされるというものだ。それも首から上だけで大粒の汗がどんどん流れてくるという。
ある年、村人がお参りしていると、急に地蔵さまの様子が変わってみるみるうちに汗が流れだした。
村人が一生懸命にお経を唱えると、その内に汗が止まった。後で村人がもの知りに診てもらうと、この先、村に悪い病気が流行るということであった。
ところが、これを聞いた一人の男がそんな馬鹿なことがあるものか。もしそれが本当なら悪い病を儂(わし)に移してみせよと酒を飲んだ勢いで言ってしまった。
明くる日、男は朝から起き上がることができず、それから十四、五日も高熱が続きうなされた。地蔵さまが枕元に立たれた。男はこっそり地蔵さまに謝りに行き、こらえてもらった。すると不思議なことに、あれほど高かった熱も下がり、やがて元気になった。
村人たちはますます地蔵さまを信心するようになった。毎月二十四日には今でも祭りが行われている。
◆余談
子供の頃は悪い病気が流行ると言われてもピンと来なかった。インフルエンザで高熱を出して嘔吐する事は度々だったが、流行病という意識が無かった。現在はコロナ禍で、悪い流行病は実際にあるのだなと痛感させられている。
◆参考文献
・『夕陽を招く長者 山陰民話語り部シリーズ一』(民話の会「石見」, ハーベスト出版, 2013)pp.122-124.
・『島根の伝説』(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1978)pp.57-60.
・『日本の民話 34 石見篇 第一集第二集』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.372-374
記事を転載→「広小路」
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◆あらすじ
昔、柿木(かきのき)村下須(しもす)の法師淵(ほうしぶち)にお寺があった。その寺に坊さんが一人住んでいた。
ある時、その坊さんが猟師から何かの肉を貰って食べたという。ところが、それが門徒や信者たちに知れてしまって、坊さんの癖に肉を食うとはとやかましく責めたてられた。
ところが坊さんは自分は破戒していない。肉食はしていないと言い切った。門徒や信者たちはどうしても承知しない。
食べた食べないで言い争った末に、坊さんは肉を食べていないことを証拠だてるために、自分が使っている箸を川に流すから、その箸が下流へ順調に流れたら食わなかったことになる。もし、上流へ流れたら、その時は肉食をして戒を破ったことになるので入水自殺をしようという話になった。
そこで人々は坊さんを川端へ連れていって、石の上から箸を投げた。
元々、川の水は下へ流れるのが当たり前。ところがどうしたことか、川へ投げられた箸は上へ向かって流れた挙げ句、上の岩に吸い付いてしまった。
それみろと責め立てられ、坊さんも仕方なく約束どおり死のうと、そのまま岩から身を投げた。その岩は今も「坊主岩」と言われている。そうしていつしかこの淵を「法師淵」と呼ぶようになって、この辺り一帯の地名となった。
しかし、どうして上へ向かって流れていたか不思議に思うが、よくよく考えたら、これは偶々石の上の処が瀬尻(せじり)で流れが激しい上に、岩が一つ二つあって水が逆流したものなのだ。
◆余談
ボタン肉、サクラ肉とも言うので、お坊さんたちも実はこっそり肉食していたというような話もあるようだ。お酒は般若湯(はんにゃとう)である。
◆参考文献
・『夕陽を招く長者 山陰民話語り部シリーズ一』(民話の会「石見」, ハーベスト出版, 2013)pp.83-85.
・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)p.121.
記事を転載→「広小路」
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◆あらすじ
鹿足郡吉賀(よしか)町抜月(ぬくつき)に一本のケヤキの木があった。この木はヤクロウ鹿の骨を埋めた所に生えたもので、伐ってはならないと言い伝えられていた。
ところが、偉い親方が、あの木が目障りで月和田(つきわだ)が見えない。下の土地に広く陰をするから伐ってしまえと言った。
そこで木挽(こび)き(木こり)たちが集まって伐りはじめたけれど、明くる朝に行ってみると、伐ったところが元通りになっている。また伐っても明くる朝になれば元通りになっているので、木挽きたちが怖れて、かくかくしかじかなので木を伐ることは止めて下さいと頼んだ。
すると、親方は見張りを立てさせた。そしてその日もケヤキを伐らせた。夜、見張りが見ていると、白い髪をして白い直垂(ひたたれ)を着た爺さんたちが七人出てきて、何かぶつぶつ言いながらコケラ(木の伐り屑)を拾って引っつけている。それで見張りの者が寂しくなって帰ってしまい、明くる朝見たら木はまた元の様になっていた。
親方は怒って自分の命令に背くことは認められない。絶対に伐れ。人数をかけてコケラを焼いて木挽きを増やして夜も昼も一時も休まずに手斧(ちょうな)を打ち込めと命令した。
親方に言われるまま、ケヤキの枝の届かない所までコケラを運んで焼いた。そして三日目に伐り倒した。
そのとき切り株のところから七人の直垂を着た小人が煙のように出てきて嘆いてどこかへ行ってしまった。
皆はいよいよ恐ろしくなって身動きが取れなかったが、親方は自分の願いが叶ったと非常に喜んだ。
ところが、コケラを焼いた人が夜見たら、七人の小人たちがコケラの灰を掬ってはかき回して嘆いている。
許してつかあさいと言って焼いた人が家の中へ転げ込んだが、それきり具合が悪くなり血を吐いて死んでしまった。
そして、それから雨が長く降り、上がってから見たら、切り株に芽が一尺くらいも伸びていた。
木挽きに携わった人はよその村からも集めて三十人くらいいたけれども、皆気がおかしくなったり、苦しんで死んでしまった。
そして命令した親方は夜も昼も、熱い熱い。わしを冷やせと言って水を飲ませると水が煮え湯のようになり、どうしても冷えなくて七日七夜も苦しむので、年寄りが心配して灰のところでお経をあげ、切り株へは御幣を立ててお祀りした。しかし、親方は熱い熱いと言いながらとうとう死んでしまった。しかも、身は燃えさしのように黒くなっていた。
だから、いくら権力があっても人がいけないと思ったときにはしてはいけない。お天道さまをまっすぐに見られるように生活しなければならないのだ。
◆余談
この伝説のケヤキの木はヤクロウ鹿の骨を埋めたところに生えたものだとある。ヤクロウ鹿は八畦(やつぐろ)の鹿とも呼ばれ、過去に吉賀町周辺を荒らし回った悪鹿である。朝廷から武士が派遣され退治されたが、その霊を神として祀ったところ霊験あらたかで良い鹿から吉賀となったという地名説話がある。
◆参考文献
・『夕陽を招く長者 山陰民話語り部シリーズ一』(民話の会「石見」、ハーベスト出版, 2013)pp.96-99.
・『六日市町史 第一巻』(六日市町/編, 六日市町教育委員会, 1981)pp.324-328.
・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.121-122.
ヤクロシカの記事はこちら
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◆あらすじ
昔、今の鹿足(かのあし)郡六日市(むいかいち)町田野原(たのはら)に一枚の田んぼの広さが八丁八反(約一平方キロメートル)もある広い田があった。この田は元々大蛇が池という大きな池だったが、水を抜いて田にしたのだ。
そのため、底が深く、田植えのときには田下駄(たげた)を履いたり田舟(たぶね)に乗って植えていた。また、田の境には木や竹を立てて目印にしていた。
ある年のこと、この地方にも田植えをする時期がやってきた。
おしもは村で評判の働き者だった。この日も朝早くから起き出して独りでこの広い田んぼの田植えをしていた。
そのとき、朝焼けの空が急に曇ると大粒の雨が降り出してきた。だが、おしもは手を休めず田植えを続けていた。そして、あと一息というところで、どうしたことか、足をとられて、あお向けに倒れてしまった。
もがけばもがくほど身体は泥沼の様な田んぼに沈んでいく。助けを求めようにも人はいなかった。おしもは遂に底深く沈んでしまった。
おしもの着ていた蓑(みの)が浮いているのを見て村人たちは騒いだが、遅かった。村中の人達が集まっておしもを弔った。それからこの広い田をおしも田と呼んだ。
◆余談
山口県の徳佐盆地はもともと湖だったのが、水が抜けて平野になったと聞く。地図で調べてみると、田野原は中国道沿線付近となる。
◆参考文献
・『島根の伝説』(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1978)p.102.
・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.59-60.
・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.122-123.
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◆あらすじ
いまから百二、三十年前(二〇二〇年代では百六、七十年前)、江戸時代の末期である。日原(にちはら)の畳(たたみ)に又市(またいち)という男がいた。百姓のせがれであったが、鉄砲が上手く、本職の猟師でさえ鳥一羽獲れぬ日でも又市は山鳥の二、三羽は仕留めてきた。
どうしてそんなに獲れるのか仲間が尋ねると「風と足じゃいね」とだけ答えるのだった。
又市の評判はやがて津和野藩主亀井公の耳に入った。そこ頃は日本中が幕府につくか天皇を立てるか二つに分かれて騒がしかった。津和野藩でも鉄砲の上手な者がいれば身分に関係なくかり集めていた。
又市を連れてこいという言い付けが畳の庄屋に届いた。又市は早速津和野にでかけた。
今日から三日の間に鳥を百羽とって持ってこい。そうすれば武士に取り立ててやろうという亀井公の仰せだった。
又市はすぐに益田の横田へ向かった。高津川の西岸に広がる葦原(あしはら)は鳥のねぐらであることを知っていたからである。
横田について二日めに百羽の鳥を獲ってしまった又市はその日の内に城に持っていった。
よくぞ獲ってきた。疑う訳ではないが、その腕前を余の前で見せよと亀井公は命じられた。小姓が一本の針をつきたてた針山を三方(さんぽう)に載せて持ってきた。
この針の穴を十間(約十八メートル)離れたところから打ち抜けと命じられた又市は鉄砲を撃った。針の穴は見事に撃ち抜かれていた。又市はその場で武士に召し抱えられた。
それから数年が過ぎた。正月の注連飾りがもう少しで取れる日に亀井公は又市を召し出した。久しく腕を見ていないと言うのである。
亀井公は袂(たもと)から橙(だいだい)を取り出すと、頭の上に載せ、見事撃ち落としてみせよと命じた。
さすがの又市も驚いた。打ち損じたら殿の命はない。その時は自分の命もないだろう。しかし、主人の命令なので断る訳にいかなかった。
中庭の中ほどに橙を頭に載せた亀井公が立った。又市は神仏に祈ると撃った。ズドーンと大きな音がした。弾は見事に橙を貫いていた。それを見た又市は膝を折って両手をついた。暇を頂きたいと言うのである。
亀井公はそんな又市を見て余が悪かった。もう二度とこんなことはさせぬ。どうかいままで通り、余に仕えてくれと謝った。
津和野藩の鉄砲組が百歩離れたところから標的を撃って技を競った。一番成績の良かった者はその標的に自分の名前を入れ額にして弥栄(やさか)神社に奉納することを許された。
万延(まんえん)元年(一八六〇年)に奉納された額には水津又市阿成(すいづまたいちむねなり)という名が記されている。この人物が又市であろうと言われているが、本当の事はよく分かっていない。
◆余談
ウィリアム・テルの伝説を思わせる内容である。津和野藩自体は長州と通じ合っていて戦うことはなかったのだが、鉄砲名人の伝説が残されている訳である。
◆参考文献
・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.106-111.
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銘菓物語(源氏巻)
江戸・元禄時代、赤穂の浅野内匠頭の刃傷が起きる前のことです。当時の津和野藩主、亀井茲親が勅使接待役を命じられ、吉良上野介に教示を依頼しましたが、浅野同様、数々の非礼を受け藩主を怒らせました。それを知った国家老多胡外記は早速、吉良家に進物を贈りつけ、ことなきを得ました。
その時の進物の一つが「源氏巻」です。小判を下に敷きその上に竹皮で包んだ源氏巻をのせたという言い伝えがあります。津和野を救ったといわれる縁起の良いお菓子です。
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この地方の地形を見ると、吉賀川と支流はちょうど八岐である。したがって、洪水や野獣の暴威によって、昔は農耕の妨げとなっていたことをこの話は示すもので、まさに八岐大蛇の神話と非常によく似た構造を持っている。
「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(同)p.122
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