石州浜田藩における神棚降ろし運動――『新編物語藩史』
『新編物語藩史』浜田藩「本多氏の入封」に「浜田宗門争い」という項がある。松平周防守から本多氏に領主が交替した時代、宝暦とあるが、蓮如の九世孫である仰誓(こうぜい)という真宗の僧侶が石見・安芸を訪れた。これは異安心という真宗への対抗説を糾弾するためだったとある。仰誓は市木村の浄泉寺の住職となり芸石に専修念仏を広めた。信徒たちは他宗や神道への論難を加え始めた。神棚降ろしも行われ、あるいは在来の神祭を廃するよう弁難した。これに対し浜田藩の他宗から異論が起こり九ヶ寺の住職が連名で領主に訴えた。が、宗論に対しては藩も裁きを容易に下せなかった。しびれを切らした九ヶ寺側は幕府に直訴する動きを見せた。藩は直訴のための出府を禁じたが明和四年(1767)、幕府に直訴するに至った。幕府から九ヶ寺に対しては真宗を切支丹呼ばわりしないこと、真宗に対しては他宗他門を誹謗すべからずとの措置が下った。真宗側は寛大に処置されたと見なし却って傍若無人の振舞いとなった。後、再び松平周防守に領主が交替、詳細が報告され寺社奉行が真宗を処罰して浜田宗門争いはひと段落した……とある。
といった次第で浜田藩でも神棚降ろしの運動が行われていたことが確認できた。芸北と石見とで風土にそれほど違いがあるとも思えないのだけど、神楽ではルーツを同じくしつつかなりの違いをみせている。
市木村は現在の旧瑞穂町か。大元神信仰にも干渉しようとしたことになるかもしれない。その試みは石見ではうまくいかなかったようだ。
<追記>
福間光超「近世末期の神仏関係―浜田藩における専修念仏の展開をめぐって―」『竜谷史壇』通号52を読む。浜田宗門争いに関する論文であった。読んでいて気づいたのだけど、石見と芸北とでは気候風土は似通っているのだけど、何か異なる点はなかっただろうかと考えていた。浜田藩と津和野藩は国学が盛行していた土地柄だった。本居宣長の高弟がいた関係で今でも浜田市と松坂市との間に交流がある。安芸国だと現在の広島市といった都市部ではやはり盛行していただろうけれど、芸北ではどうだったのか。
長沢村や浅井村といった記述が見られる。つまり浜田市街地でも大元神の信仰があったことが窺える。ただ、大元神楽や藁蛇の儀式があったかまでは分からない。他、宝珠院や観音寺といった寺院名も記載されていた。
真宗――神祇――他宗といった構図で、階層間の対立も反映されている節もある。真宗は農民を取り込んでいたようだ。
神棚降ろし運動は天照大神の護符を否定しているので安芸にも伊勢神道の系譜が入っていたことは想像に難くない。ただ、安芸の場合、芸轍という有力な学僧集団がいたことが特筆され、石見と事情を異にしている。
◆参考文献
・『新編物語藩史』第9巻(新人物往来社, 1976)pp.269-271.
※浜田藩の章の執筆者は矢富熊一郎。
・福間光超「近世末期の神仏関係―浜田藩における専修念仏の展開をめぐって―」『竜谷史壇』通号52(龍谷史学会/編, 龍谷史学会, 1964)pp.27-44.
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