邑智郡

2018年3月31日 (土)

JR三江線、廃止される

JR三江線、3月31日で88年の歴史に幕
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12198-010455/

JR三江線が三月末でその歴史に幕を閉じた。100㎞を超える鉄道線の廃止は本州では初とのことである。2016年夏に三江線に乗って三次まで往復した。朝4時起きで、車窓の風景をデジカメで録画しながらの旅となったのだけど、後で見返してみると、居眠りでカメラが揺れていた。江川沿いを走るので車窓の風景は綺麗なのだけど、満員ではろくに風景も楽しめないだろう。三次から引き返す途中でJR川本駅で一時間半ほどの時間があって駅の外に出る。喫茶店があってよい雰囲気だった。これからは三江線で下車した人が立ち寄ることも無くなる。

JR三江線の列車

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2017年3月 5日 (日)

来春、廃線とのこと――JR三江線

朝日新聞の報道で来春JR三江線が廃線になると知る。いつか来ると思っていたが、決まると速いものだなと感じる。
実は昨年の夏の帰省時に一日開けて三江線に乗った。朝4時起きで浜田駅を出る。デジカメで車窓の風景を撮りながら乗っていたのだけど、眠気でうとうとしてカメラの構図がズレては戻しズレては戻しを繰り返す。
最初はキヤノンPowershot SX130ISで動画を撮影していたのだけど、ファイル容量の制限か一回当たり十分程しか撮れず、駅間の風景が途切れてしまうこともあった。エネループが劣化していたため、浜原駅からPowershot G16に機材を変える。
それで三次駅に到着する。三次駅ではしばらく待って、石見川本駅行きの鈍行で引き返す。途中、石見川本駅で一時間半くらいの待ち時間があって、街に繰り出す。時間があるようで無いので、Cafe' du Soleil というカフェで一服する。ここは気持ちのいい店だった。
気づいたところでは、乗客の多くは僕と同じくカメラを構えた旅行客だった。
石見川本駅を出て江津駅に着く。しばらくして快速がやってくるのでそれに乗って浜田に引き返す。石見神楽トレイン。
そうして録画した動画なのだけど、まだ全部見返していない。どこまで見たか忘れてしまった。今となっては貴重な映像で、Youtubeにアップロードできなくもないだけど、うちの回線は未だにADSLで10分程度の動画をアップロードするのに数時間かかってしまう。
キハ120系車内・JR三次駅にて
JR石見川本駅
JR石見川本駅
キハ120系・JR石見川本駅にて撮影
キハ120系
JR三江線車内から見た江川
JR三江線車内から見た江川

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2017年1月15日 (日)

国造りの仮住まい――志都の岩屋

大汝少彦名のいましけむ 志都の石屋は 幾代経ぬらむ
 万葉集に「志都乃石室」と詠まれたとされる場所が島根県には二か所存在する。大田市静間町の静之窟と邑南町にある志都岩屋神社である。

◆志都岩屋神社

 邑南町の志都岩屋神社の本殿裏には鏡岩と呼ばれる巨岩があり、古くからの巨石信仰が窺われる。
邑智郡邑南町の志都岩屋神社・鳥居
志都岩屋神社・拝殿
志都岩屋神社・本殿と巨岩
志都岩屋神社・ご由緒
志都岩屋神社・萬葉歌副碑
 2018年に志都岩屋神社の裏山を登った。体力不足で古志都岩屋までしか行けなかった。次回はもっと上まで行ってみたい。
邑南郡邑南町・古志都岩屋
古志都岩屋

◆静之窟

 大田市静間町の静之窟は海岸にできた岩窟(海食洞)。以前は人が入ることができたようだが、現在は崩落の危険ありということで立ち入りは禁止されている。
大田市静間町の静之窟
静之窟・石碑
静之窟と鳥居

◆静間神社

 大田市静間町にある静間神社は静之窟との所縁が深いようだ。
大田市静間町の静間神社・拝殿
静間神社・拝殿と本殿
静間神社・ご由緒
 静間神社は、第五十八代光孝天皇の御代、仁和二年(八八六年)二月八日に創建されました。昔は魚津の静ノ窟に鎮座していましたが、明暦二年魚津■(?)の前に遷座し、さらに延宝二年(一六七四年)六月二十七日、現在地に遷し祀られました。
 大己貴命、少彦名命の二柱の神は、農民に鋤、鍬を与え、水稲の種子をまいて、田作りの方法を教えられました。また、人間の病気はもとより、家畜の病気治療にも当たられた神々として、今の世でも日本各地で、病める人たちの深い信仰を集めています。
 とご由緒にある。元は静之窟に鎮座していたが、後に現在地に遷座したとのこと。
 大国主命と少彦名命が「志都乃石室」を国造りを行なうための仮住まいとされたというが、考えるに、大田市静間の方が出雲に近くそれらしいか。

◆よいところも悪いところも

 むかし、オオアナムチ命がスクナヒコナ命に話しかけた。
「われわれのつくった国は、良くできたと言っていいだろうか」
「うまくいったところも――スクナヒコナ命が答えた――あれば、うまくいかなかったところもある」
 この話には、どうやらふかい趣があるらしい。その後、スクナヒコナ命は[出雲の]熊野の[山]崎に行き、とうとう常世郷(とこよのくに)にまっすぐに行った。またはいう、淡島に行って、粟の茎によじのぼったら、はじかれて常世郷に行ってしまった、と。
「<原本現代訳>日本書紀(上)」58P
 国造りには上手くいったところと上手くいかなかったところがある。この文章を読んで、昔、竹下元首相が過去の植民地支配に関して「良いことも悪いこともあった」と述べて物議を醸したことを思い出した。竹下首相は上記の言い伝えを念頭に置いていたのかもしれない。
 戦前の日本人は威張っていたらしいが、別に苛烈な支配をした訳ではない。日本の領土だったところは韓国にしても台湾にしても旧満州にしても栄えている。国民皆教育が大きかったのだろう。

◆余談

 邑南町の志都岩屋神社の裏山である弥山は登山コースになっているが、訪問当時、酷い足首捻挫で登るのをあきらめた。
邑南町の志都岩屋神社・弥山の登山コース
 大田市静間町の静之窟に行こうとしたのだが、静之窟周辺には駐車場が無く、近所の住宅の人に「ここは駐車場がありません」と怒られた。次回行くときはどうしよう。
<追記>
 大田市静間町の静之窟だが、坂はきついが静間神社から歩いていける距離だった。静間神社前に車を停めていった。
 邑南町の志都岩屋神社は、浜田道・大朝ICから国道261号線を旧瑞穂町方面に向かって走る。県道6号線に入る。そこから更に右折する(※6号線を進む)。神社前に鳥居と看板があるので、鳥居をくぐる。しばらく進むと神社の方向を示した杭がある。民家があり狭いが、そこを上がると駐車スペースがある。
 静間神社は国道9号線から静間方面へ入る道、県道287号線に入って、静間小学校方面へと曲がる。そのまま道なりに進むと、「静間神社」と書かれた標識があるので、そちらに曲がる。しばらく進むと静間神社がある。神社前に車を停めるスペースがある。神社から道を下ると静之窟(しずのいわや)へ行ける。歩いていける距離(※岩屋周辺には駐車スペースがない)

◆参考文献

・「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」(谷川健一/編, 白水社, 1985)pp.169-170
・「<原本現代訳>日本書紀(上)」(山田宗睦/訳, ニュートンプレス, 1992)
記事を転載 →「広小路

 

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最初の四隅突出型墳丘墓――順庵原一号古墳

邑智郡邑南町瑞穂にある順庵原一号古墳は四隅突出型墳丘墓として初めに発見されたもの。弥生時代後期(1~2世紀頃)のものとされている。その後、出雲地方で四隅突出型墳丘墓の発見が相次ぎ、全国的に注目されることとなった、その一号墳である。
順庵原一号古墳
順庵原一号古墳
順庵原一号古墳・解説
四隅部が突出し、葺石で覆われているのが特徴か。規模的に出雲弥生の森・西谷墳墓群でも一号墓と対比できるか。
西谷墳墓群・一号墓
西谷墳墓群・一号墓
西谷墳墓群・一号墓
また、横浜市にある方形周溝墓とも形がよく似ている。四隅突出型墳丘墓では墓の四隅を掘ることはしていないが、四隅部はそこから祭祀のため墓に立ち入ったのだろうか。
横浜市の歳勝土遺跡の方形周溝墓
横浜市の歳勝土遺跡の方形周溝墓
横浜市の大塚遺跡
横浜市の大塚遺跡
横浜市の大塚遺跡

◆余談


瑞穂町にある瑞穂ハンザケ自然館を見物、駐車場に車を置いて道路を南下、順庵原の交差点(信号か?)近くにある。

順庵原方面へ向かう道
順庵原方面へ向かう道

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ノアの洪水の死者――瑞穂ハンザケ自然館

邑智郡邑南町の瑞穂ハンザケ自然館では体長一メートルを超えるオオサンショウウオが飼育されている。
オオサンショウウオ2匹
他、瑞穂町周辺の自然を示した剥製などが展示されている。その中にオオサンショウウオの化石(模型か?)が興味深く展示されていた。
オオサンショウウオの化石
ノアの洪水の死者・解説
1726年、ショイツェルはドイツのエニンゲンにある3000万年前(大三紀中新世)の地層から、オオサンショウウオの化石を発見しました。しかし、彼はそれをノアの洪水で死んだ罪人の骨と考え、化石に「洪水の証拠となる哀れな人」と名付けて発表しました。
旧約聖書にノアの洪水は記されているが、ドイツもその被害を蒙ったと考えたのだろうか。
最大クラスのオオサンショウウオの模型
最大クラスのオオサンショウウオの模型
瑞穂ハンザケ自然館
瑞穂ハンザケ自然館
瑞穂ハンザケ自然館

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2012年12月29日 (土)

清流――邑智郡邑南町

邑智郡邑南町の井原川 邑智郡邑南町の雲井山と井原川

邑智郡邑南町の雲井山と井原川

邑智郡邑南町(旧石見町)井原にて撮影。井原川だと思います。清流が印象的です。

二枚目と三枚目に写っている山は雲井山。麓に天蔵寺というお寺があり、かつては山城だったそうです。

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2008年12月23日 (火)

金の茶釜と白南天

 「岡見のむかしばなし」(岡見地区生涯学習推進委員会事務局, 2000)という本に収録された「金の茶釜」(文・藤川美穂子 絵・野上良宜)という昔話。簡単なメモを元に起こしてみる。なのでかなり違っている可能性高し。

 三隅町岡見の茶臼山にはその昔、城があった。だが、その城は落城してしまったという。
 それから大分経ったある日のこと。
 老人が茶臼山に出かけたところ、あちこちを掘り返している三人組の男がいた。
 不審に思って離れたところから彼らの様子を伺うことにした。
 やがて男たちは酒盛りをはじめた。すると酒に酔った若者が、
「茶釜が埋められたところには目印に白南天が植えてあるげな」
 うっかり口を滑らせてしまった。
 どうやら落城した際、宝物を埋めたらしい。
 それを聞いた老人は男たちが去った後、茶臼山に白南天の花が咲いていないか隈なく見て回ったが、白南天はどこにもなかった……というお話。

茶臼山城跡登山道案内図
浜田市三隅町の茶臼山・登山口
茶臼山・登山口
茶臼山・登山口。海老谷桜と同じ道沿いにある。

 地図で確認すると茶臼山は岡見から南へ下ったところにある山。それほど高い山ではないようだ。広辞苑を引くと、南天(ナンテン)は「メギ科の常緑低木。暖地に自生するが生花の材料・庭木として植栽」とある。白南天はその名のとおり白い実を結ぶ。石見地方の植生上、どうなのだろう。

 「金の茶釜 白南天」で検索すると、目印を白南天とするのは全国に伝播した話のようだ。広島市のサイトで似たような話が紹介されている。

武田山の歴史を知る -銀山城落城秘話(伝承)-

 乙子狭姫の伝説ではオホゲツヒメが狭姫に「千年も万年も尽きぬ宝をやろう」と五穀の種を渡す。宝物とはそういうものかもしれない。

◆唐音の白南天――益田市鎌手

 「島根県益田市民話集」(島根大学教育学部国語研究室/編, 島根大学昔話研究会, 1991)に「156唐音の地名の由来」という昔話が収録されている。
 唐音(からおと)という名前がついている処には必ず金が埋めてあるという言い伝えがあるとを紹介している。目印に白南天を植えたというくだりは同じで、数百~数千年前のことだから分かるはずもないが、歴史家が一度訪ねてきたことがあるとしている。
 実際に歴史家が訪れたとは思えず、話に信憑性をもたせるためだろう。

島根県益田市の唐音海岸
益田市鎌手町の唐音の蛇岩。睡蓮の公園が近くにある。

◆雲井城の馬場と白椿――邑智郡邑南町

 「島根県邑智郡石見町民話集 2『妖怪譚』その他」(島根大学教育学部国語研究室/編, 島根大学教育学部国語研究室, 1986)には雲井城という山城の伝説がいくつか収録されている。「240雲井城の馬場・白椿」という伝説(137P)では、雲井城の馬場だったとされるところに金が埋められており、目印として白椿が植えられたという言い伝えである。ただし、白椿を見た者がいるかどうかは分からないとしている。昔の人は金を埋めるときに必ず上へ目印となる木を植えたと結んでいる。

◆参考文献

・「岡見のむかしばなし」(岡見地区生涯学習推進委員会, 2000)
・「島根県邑智郡石見町民話集 2『妖怪譚』その他」(島根大学教育学部国語研究室/編, 島根大学教育学部国語研究室, 1986)p.137
・「島根県益田市民話集」(島根大学教育学部国語研究室/編, 島根大学昔話研究会, 1991)p.95

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

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2008年11月24日 (月)

雲と蜘蛛――山城にまつわる伝説

◆山城の伝説

 「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)に収録されていた「雲とクモ」という伝説(36P)。

 島根県邑智郡邑南町(旧石見町)にある雲井山。標高430メートルほど。山城があったという伝説がある。蜘蛛が雲を吐いて敵を惑わせる守りの固い城だったが、沢に水を汲みにいった娘が姿を消すことが度々あった。老人たちが引き止めたにも関わらず、人々は蜘蛛を殺してしまう。結果、守るものがなくなった山城は落城したという話。

http://iwami.web.fc2.com/ibara.htm
島根県邑南町(旧:石見町)の城 ←こちらのサイトで雲井城が紹介されていた。

 石見町の要衝地で山頂に遺構が残されているそうだが、登山道は整備されていないとのこと。蜘蛛の伝説も紹介されている。地図上に記されていないのは山頂まで登る道がないからなのだろう。

島根県邑智郡邑南町の雲井山
雲井山
島根県邑智郡邑南町の天蔵寺
天蔵寺

 夏にドライブしたとき、その山とは知らずに通り過ぎていた。地図で確認すると、邑南町にはいくつか山城跡が記されているが雲井山にはない。

 記憶では蜘蛛が吐いたのは霧だと思っていた。読み返すと、雲を吐いたと記されている。蜘蛛と雲を引っ掛けた伝説でもある。夏にドライブしたときは雨だった。雲井山ではなく火室山(標高652メートル)もしくは冠山(標高859メートル)だと思うが、ちょうど山頂あたりに雲が掛かっているのを見た。蜘蛛が吐いたのが霧やもやではなく雲としたのはそうしたイメージからかもしれない。

雲井山と清流
清流

◆類話

 「島根県邑智郡石見町民話集 2『妖怪譚』その他」(島根大学教育学部国語研究室/編, 島根大学教育学部国語研究室, 1986)に雲井城の伝説がいくつか収録されていた(74-78P)。雲井山の山麓には天蔵寺川と岩井谷川と二つの川があり、どちらが伝説の舞台かはっきりとは分からない。
 類話の中には「天蔵寺」という寺院の他、「天蔵(あまくら)谷」「天蔵川」「天蔵谷」「雲井淵」という地名が見受けられるので、天蔵寺川側かもしれない。未確認。

◆蜘蛛淵伝説

 蜘蛛に関して似た話も収録されている。
 蜘蛛淵のほとりで一服しようとキセルを吸ったとき、大きな蜘蛛ではないが、足許に来ては、はばき(脚絆)もしくは草履にえぎ(蜘蛛の糸)を引っかけて淵の水の中へ入っていった。何度も繰り返すので、これはおかしいと蜘蛛の糸を傍らの木の株にかけ直した。蜘蛛は気づかずに糸を掛け続けていたが、しばらく後、太くなった糸がピーンと伸び引き締まった。すると、木が淵に引きずり込まれてしまったという話。

◆アニメ

 アニメ「まんが日本昔ばなし」で放送された「浄蓮の滝の女郎ぐも」(出典:岸なみ「未来社刊より」, 演出:若林常夫, 文芸:沖島勲, 美術:門屋達郎, 作画:若林常夫)の回がほぼ同じ内容だった。舞台は天城山中の浄蓮の滝(静岡県伊豆市湯ヶ島)。蜘蛛が木こりの足に糸を掛け、それを切り株に移すと、切り株が滝壺に引きずり込まれるくだりはほぼ同様である。
 このエピソードでは木こりが二人登場、一人はそのまま逃げ去る。もう一人は斧を追って滝壺に飛び込む。と、水中に女人(蜘蛛の化身)が現れ、浄蓮の滝の古木は斬ってはならない。約束を守るなら斧は返すが、決して他言してはならない。もし、誰かに話せばお前の命を奪うと言って姿を消す。無事帰った木こりだが、あるとき酒に酔ってふと漏らしてしまう。と、たちまちのうちに木こりは倒れ絶命してしまったという粗筋となっている。

◆蟹が迫城の竜――江津市渡津町

 「江津市誌 下巻」(江津市誌編纂委員会/編, 江津市, 1982)第10章口承文芸の節に「蟹が迫城の竜(渡津)」という昔話が収録されている。話の筋は上記伝説とほぼ同じだが、ここでは雄と雌の竜が霧を城に張りつけていたとされている。あるとき雄の竜が城の姫を呑んでしまったため、城兵によって射殺される。雌の竜だけでは城を全部隠すことはできず落城。雌の竜は江川へ逃げてしまった。そのため水の涸れることのない池だったが、ただの堤になってしまったという内容。

◆余談

 昔読んで印象に残っていたのだが、はて、どの本に収録されていたのかと思っていた。通読していなかったため見落としていた。それはともかく、やはり「島根の伝説」は暗い話が多いと再認識。
 城郭ファンにとって山城の遺構を探すのも楽しみの一つだそうだが、僕がやると遭難するオチだろう。ちなみに横浜市の茅ヶ崎城址公園は市営地下鉄・センター南駅から5分少々で中世の城郭の遺構をお手軽に観察することが可能。
 小学生のとき担任だったO先生、確か江津のお寺さんの出だった。又聞きなのだが、ご先祖は戦に敗れて仏門に入ったとのことで、邑智郡の歴史と深い関わり合いがあるのではないかと思う。

 学生だった頃、はじめて上京して一月か二月が過ぎた。快晴の日が続いて、日本晴れとはこういうことかと実感した。無論山陰でも快晴の日はあるけど、関東に比べればやはり天気の変わりやすさはあると思う。
 日本海側の空は雲が低く流れていく印象。雲の高さが違う。関東では空の高みに雲がある。個人的には関東の青空に解放感を覚えたが、人によっては山陰の低く垂れ込めた雲に圧迫感を感じるのだろうか。
 正月に帰省時、朝目ざめると薄暗いまま。何時だろうと思って時計をみると7時を過ぎている。少年時代の記憶をたぐり寄せる。冬の朝は日が昇るのが遅いこともあるが、曇り空で薄暗さがしばらく続く。関東だと朝6時台でかなり明るくなるので違いを認識。
 山陰の気候を疎ましく思う人もいる。暗いイメージを嫌う人もいる。実は少年時代はピンとこなかったのだが、山陰から外に出てようやく気づいた次第。

◆参考文献

・「江津市誌 下巻」(江津市誌編纂委員会/編, 江津市, 1982)
・「島根県邑智郡石見町民話集 2『妖怪譚』その他」(島根大学教育学部国語研究室/編, 島根大学教育学部国語研究室, 1986)pp.74-78
・「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)p.36
・「伝承怪異譚――語りのなかの妖怪たち(三弥井民俗選書)」(田中瑩一, 三弥井書店, 2010)pp.149-158

・邑智郷の言葉
記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

 

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2008年11月16日 (日)

島根における名馬池月伝説

◆洗足池

 東京都大田区南千束の洗足池公園。周囲約1.2キロメートルほどの公園。日蓮上人が足を洗ったという伝承があり、勝海舟ゆかりの地でもある。

東京都大田区南千束の洗足池公園
千束八幡神社
池月発祥伝説の由来
洗足池。千束八幡神社と池月伝説

 池のほとりにある千束八幡神社に池月という名馬の伝説がある。再起を図り洗足郷で陣を構えた源頼朝の前に一頭の野生馬が現れた。捕らえたところ、青い毛並みに白い斑点が池の水面に映る月影を思わせたので池月と名づけられた。その後、源義経が宇治川の戦いで木曽義仲を攻めた。宇治川先陣争い、佐々木高綱に下賜された池月は梶原景季操る麿墨と先陣を競い、見事勝ったとされている。

池月の絵馬
池月像

◆島根に残る池月伝説

 池月の伝説は全国に伝播したようだが、島根県にも伝説が残されている。現在の雲南市掛合町の龍頭滝(りゅうずがたき)に母馬を亡くした子馬がいた。子馬は水面に映る己の姿を母馬と思い滝壷に飛びこむことを繰り返す。やがて子馬は泳ぎの得意な馬へと成長した。

 邑智郡邑南町阿須那(あすな)(※旧羽須美村)の牛馬市に出されたその馬だが、都賀本郷で江川にさしかかった。雪解けで江川は増水していた。いかだに馬を乗せて渡そうとしたとき、馬は川に飛びこむと、増水した急な流れをものともせず向こう岸まで渡ってしまった。馬はかつてない高値で阿須那の博労に落札、その後、馬は阿須那城主に売り渡されたという(「島根の伝説」島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)。

邑智郡邑南町阿須那の賀茂神社
阿須那・賀茂神社と池月を繋いだとされる枯木
阿須那・賀茂神社と池月を繋いだとされる枯木
賀茂神社の神馬図
賀茂神社の神馬図
賀茂神社の文化財・解説
神馬図
江川・江津市松川町付近
江川・江津市松川町付近
江川とカヌーをする人

江川。江津市松川町付近で撮影。池月が泳いだとされるのはもっと上流ですが、とりあえず。アンテナ塔の建っている山は島ノ星山。カヌーを楽しむ人も。

 「随筆 石見物語」(木村晩翠, 白想社, 1993)にも池月の伝説が収録されている(93-94P)。買い手の博労が指を六本だしたので持ち主は六百文と思い承諾したところ、買い手の博労はこの馬は名馬の相があるので六百両でもまだ安いと言った。果たせるかな、鎌倉に引き出され頼朝に買い上げられた馬は宇治川先陣の誉れを残した、とある。
 「石見物語」では名馬池月の伝説は阿須那の他、邇摩郡馬路村、隠岐国に残っているが、話の筋が大同小異でいずれが真の出生地であるか不明であると結んでいる(94P)。

 「日本伝説大系 第十一巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)にも池月の伝説が収録されている(187-192P)。馬路の伝説の他、類話として隠岐、邇摩郡、邑智郡などのものも収録されている。逃げた池月に「駄駄」と声をかけると立ち止まったという。

 広く日本各地に伝播した伝説、島根県では邑南町阿須那(旧羽須美村)の賀茂神社に池月を繋いだとされる柏の木(現在は枯れている)が残されているとか。龍頭滝は奥出雲。

◆鹿児島県指宿市・池田湖の池月――まんが日本昔ばなし

 「まんが日本昔ばなし」では「池月」のタイトルでアニメ化されていた [※鹿児島の伝説(角川書店刊)より, 演出:芝山努, 文芸:沖島勲, 美術:千葉秀雄, 作画:藤森雅也]。
 鹿児島県指宿市の伝説で、池田湖周辺が舞台となっている。島根の伝説とは内容が異なっている。不気味な池田湖を怖れ、近寄らない人々を余所に子馬の池月と母馬は毎日のように池田湖で泳ぐようになる。その見事さが評判となり都にまで伝わる。源頼朝の命で池月は鎌倉へと送られることとなる。池月と引き離された母馬が池田湖に飛び込むと、大きな渦が母馬を呑み込んでしまったという粗筋。
 最後に鎌倉に送られた池月はその後活躍したことがナレーションで語られる。母馬は湖に姿を消してしまいました。その後、池月は活躍したそうです……と哀しいのかめでたいのかよく分らない締めくくり方をしている。
 物語冒頭で源氏の許で活躍した池月という馬がいたことを紹介し、それから伝説に入っていく構成にすればその辺の違和感は抑えられるのではないか。が、敢えてそういう構成にしたのかもしれない。いずれ出典の「鹿児島の伝説」に収録されたお話を読んでみたいと思う。

◆余談

 「日本伝説大系」の目次をみると、池月はなぜか妖怪の項目に分類されていた。

 「島根の伝説」のあとがきで
「この深さ、広さなら、馬がいくらでもとびこめますね。」と、同行の人も納得しました。大きくて広い滝つぼでした。(254P)
とあったので永く島根独自の伝説と思い込んでいた。で、疑うことなく今に至った次第。インターネットで検索して全国に広く伝播していることを知る。知らぬは我が身ばかりなりけり。

 邑智郡に池月酒造という蔵本がある。

池月酒造
池月酒造
誉池月・特別本醸造
誉池月・特別本醸造

「誉 池月」という銘柄。日本酒には全然詳しくなく、ピンからキリまで落差が激しいという程度の認識だが(普段は剣菱をときたま飲む程度)、これなら自信をもってお薦めできるのではないか。偶々近所のスーパーに在庫があったが、余所を覗いてみると置いてないようで浜田市内にはあまり出荷されていないか? バイヤーさん、GJ!

◆参考文献

・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.64-65, pp.89-90
・「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)pp.198-202
・「随筆 石見物語(復刻版)」(木村晩翠, 白想社, 1993)pp.93-94
・「日本伝説大系 第十一巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)pp.187-192

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

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2008年3月16日 (日)

いわがみさん――天豊足柄姫命

◆はじめに

 浜田警察署の隣に石神社という神社がある。浜田藩歴代藩主を偲ぶ石碑が神社の裏にあるが(亀山神社)、ここの祭神は天豊足柄姫命(あめのとよたらしからひめのみこと)という石見を開き、衣食の道を授けたとされる女神である。「いわがみさん」と地元では呼ばれているそうだ。
 「トヨタラシ」は豊かに足らすという意味。江戸時代の文献では「トヨタリ」と読んでいるので、どこかの時点で変わったようだ。「カラ」は唐、韓の「カラ」とする説や「栖」の誤写(タラスと読むか)という説がある。

島根県浜田市の石神社
石神社・石碑
石神社・碑文の解説

 碑文で石と化したという伝説に触れている。信じがたいと内容には言及していない。調べてみると、伝説の変遷がうかがえた。祟りをなす岩を神が剣で叩き切った、それで祟りが止んだという説話が、岩が大蛇と化し、天豊足柄姫命と思しき女神が登場するように変化していく。更に時代が下ると、女神自身が大蛇退治に乗り出すという勇壮な女神像へと変化し、新作神楽の題材ともなっている。

◆石神社

 石碑によると、天豊足柄姫命神社は式内社だが中世以降衰えていたのを明治期に現在の形に復興。江戸時代の地誌「石見八重葎」を読むと、浜田藩時代は藩士の屋敷内にあったようだ。
碑文の解説
石神は石見の天豊足柄姫命を御祀りしてある神でありその伝によると神が石と化した事は根拠がなくて信ずる事が出来ない推測する処では神は石見国をお開きになって民に功徳を与えられたので民はその徳をお慕い尊んで御殿を造ってお祭りしたものであったその位式内にのっているのを観ると当時の御殿がいかに大きくしかもお祭りが厳粛で栄えたことを知る中古以来禍乱が相続いてお祭りも出来ず廃れたことが数百年明治の世になって藩を廃し県が置かれ信寛この地方を治める事になって朝廷に敬神の念あるを申し上げ石神の由縁のある処となってその後復興に萌え茲に新しく御殿を造ってお祭りをし県社とすることを議り県民をして末永く尊崇するようにしむけた
この事をしるす為に石に刻みつけた
碑文の解説。
「岩上は今の石神にて岡田氏の邸やかて其舘の跡ならんと想はる。此の邸内に式内の石見天豊足柄姫命神社あり今は懸社にて郷社を兼ぬ是は穀麻に就て大麻三宮と同時に祀られ給ふ」
「濱田鑑」(藤井宗雄, 安達共栄堂, 1905)p.7
 ※大麻三宮は大麻山神社と大祭天石門彦社(三宮神社)。

 この三社について、「神祇全書 第5輯」(思文閣, 1971)に収録された藤井宗雄「石見国式内神社在所考」から引用。
大麻山神社
 祭神天日鷲命にて、天石門彦神社と由緒ありて、同時に祀られ賜ひし社なるべし。在所は室谷村にて、大麻山といふ是なり、

石見天豊足柄姫命神社
 石見は地名なり、祭神世襲足媛命といふは採らず、是は天石門彦神社の攝社ともいふべき社にて、彼神に由緒ある神に坐す、在所淺井村にて、濱田郭内に鎭座す、世に石神と稱する社なり、

大祭天石門彦神社
 祭神は天石門別命にて、手力男神と同神なり、此所に祀られ給ふは、大麻山神社と共に、穀麻に由緒ありてなり、在所は黑川村にて、世に三宮という社なり、
「神祇全書 第5輯」(同)pp.347-348
 藤井宗雄は明治期に活躍した浜田出身の国学者。

◆伝説

 戦前のものであるが「島根評論 第4巻上 第6号(通巻第33号)」(島根評論社, 1936)所収の「石見に頒布せる石神について」(千代延尚壽,)が網羅的で、ほとんど言い尽くされているのではないか(2-13P)。島根県立図書館・郷土資料室で閲覧可能。

 邑智郡邑南町の龍岩神社の伝承も紹介されている。姫の名はないが、龍岩神社に掲示された由緒書(「古時抜粋」からとある。おそらく「浜田古時抜粋」かと)では天豊足柄姫命と明示されている。

島根県邑智郡の龍岩神社
龍岩神社・ご由緒(古事抜粋)
横から見た龍岩
正面から見た龍岩
龍岩神社と古事抜粋(由緒書)、および龍岩(※クリックすると画像が拡大します)。確かに蛇の頭のよう。

 碑文の「石と化した」という件は「石見海底の伊久里」という本で引用・紹介されてる。
浜田古事抜粋に曰、八束水臣津野命あもりましゝ時、ひとりの姫神[御名ハ石見天豊足柄姫命]あらはれて、告げていはく、此国ニ八色石あり。山をから山となし。川を乾川となし。蛇と化て、常に来て民をなやますと、命国蒼生の為に之を亡さばやと、おもほして、姫神のたつきのまにまに(※くりかえし)、其所に到り、其石を二段に切たまへば、其首、飛去て邑智の郡龍石となり、其尾は裂て、這行美濃郡角石となる。是より国に禍なしとて、姫神いたく喜悦て、やがて吾廬にいざなひて種々に、もてなしつ。かれ命いなみあへで廬にやどりて、夜明て見たまへば、其姫神忽然にかはりて、一の磐となりき。命訝しくおもほして、此はあやしきいはみつる哉と、のりたまひき。かれいはみといふと。
独酔園独醒「石見海底能伊久里」(『石見国名所和歌集成』収録, 工藤忠孝/編, 石見地方未刊資料研究会, 1977)p.53
 おおざっぱに訳すと……八束水臣津野命(出雲風土記に登場する神)が天下ったとき、ひとりの姫神が、八色石のため石見の国の山は枯れ川は干上がり、蛇を化して民を悩ましていると告げた。命は国と青民草のためにこれを亡ぼそうと思し召し、姫神の手引きのままに赴き、八色石を二段に斬ると、その首は飛んで邑智郡の龍岩となり、その尾は美濃郡の角石となった。これで災いがなくなったと姫神は喜び八束水臣津野命をもてなした。命はどうにも否むことができず、庵に宿をとったが、夜が明けると姫は忽然として一つの磐となっていた。命は訝しくお思いになって、これは不思議な岩を見たことだなあとおっしゃった……という内容。「いはみつる哉」を石見の語源とした地名説話的なものか。姫の名を石見の語源とする説もある。
「(前半省略)
 命訝しくおもほして、此はあやしきいはみつる哉と、のりたまひき、かれいはみといふ龍石といへるは、邑智郡に八色石村といふ駅ありて、その所の荘屋野田鹿作が家の上なる山に、八色の石のあなるを、やがて神体として祭れるなん龍石なりき。其祭れる事の基を聞くに、此石ともすれば、人に祟りて、えならぬ。蒼生の歎ともかくも、しのびがたかりしを、公のきこしめして、素佐嗚尊を祭りそへたまひしより、祟らずなりしとかや。
三月三日祭日也。上ること八丁、岩の形よく観に、うへも蛇の頭の如し。山を下て、鳥居の前なる田中に一つの岩のあなるをば切まゝ時たばしりし血の、化れりし也といふ。また一丁上て川中に夫婦石とて二つあなる、是も血の飛散て化りしと語伝えたり。」
龍岩神社由緒書の後半部分。

 「石見八重葎」でも同様の伝説が収録されている。
又有説に邑智郡神稲の郷雲州の八岐大蛇の末葉出て山ハ枯山となし、川ハ干川となして、民を苦む故大穴持命、是を三段(キタ)に切給ふ。頭同郡邑智郡之内八色石村へ飛て、人馬を苦む。依て村民須佐能男命を祭りて鎮之ハ其霊八色の石となり、須佐能男尊と一所に祭り込、八色大明神と申スよし、村老人の傳にいへり。此所より石見と申由。(以下略)。
(「角鄣経石見八重葎」石見地方未刊行資料刊行会/編, 石見地方未刊行資料刊行会, 1999)pp.5-6
 と、八岐大蛇と関連づけされている。ここでは姫神が石と化したという記述はない。石と化したという結末は後に挿入された可能性もありえるか。

 ちなみに、鹿足郡の奇鹿神社にまつわる八畔鹿の伝説でも八岐大蛇と関連づける内容のものもあり、共通性が見受けられる。

 「那賀郡誌(復刻版)」(那賀郡共進会展覽会協賛會/編, 臨川書店, 1986)に掲載されたものでは、
 茲に又石見にては、石見天豊足柄姫命によりて、開拓豊足(ひらきたら)され、民皆皷腹せる時荒ぶる神あり、東西呼應蜿蜒(えんえん)長蛇の形となりて民(中略)を襲ふ。今ぞ危急といふ秋、姫神出雲朝廷より八束水臣津野命(やつかみづをみつぬのみこと)の來援を得大に撃つて之を三分し遂に衰亡に終らしめきといふ。かくて凱旋(かちいくさ)の宴(さかもり)に八束水臣津野命以下の將士を慰勞(ねぎらひ)し、夜姫はみまかりて、石となりたまひぬと傳ふ。
 (略)
 姫命の身は、まかり給ひぬとも、其功績は常磐堅岩に石となりて傳はるべし(71P)。
 これを大ざっぱに要約すると、天豊足柄姫命によって石見の国は開き豊かに満ち足りた。腹鼓を打つように民は平和を謳歌していたが、そのとき荒ぶる神が現れ東西に呼応、蜿蜒たる長大な蛇と化して石見を襲った。今ぞ危急の秋、天豊足柄姫命は出雲の国・八束水臣津野命の救援を受けてこれを迎え撃ち、大蛇を三つに断ち切って滅ぼした。その労をねぎらう宴が催されたその夜、天豊足柄姫命はみまかって石となってしまった。姫はお亡くなりになったながらも、その功績は盤石のものとなって伝わるだろう……という筋になっている。

 「那賀郡誌」が執筆された大正時代まで下ると、石見の気風に合わせてか勇壮な筋立てとなっている。

 新作神楽としてこの伝承が取り上げられていて、そこでは姫は大蛇の瘴気に当って亡くなり、石と化して見守るという筋となっているそうだ。

 「石見に頒布せる石神について」では更に原型に近い話も紹介されていて、祟りをなす岩をスサノオ命が断ち割り、その結果祟りが止む、というものである(8P)。「昔、淺井の岩神社の境内に……」とある。現在は殿町だが、「那賀郡誌」に「石見天豊足柄姫命(郡内濱田町淺井式内神社祭神)」とあるので石神社のことだろう(68P)。

 「石見海底能伊久里」では後段で、
こにも猶三段に切たまひき、とあるに付て、大士三段の中、尾と首の伝はありて、中身の伝なきは浜田の城山に祟石とて、人さはれば、必祟、石のあなる。是其中身の化れるにやと。[古田殿、此城を築れし中ニ、かにかく、人に祟りてせんすべなかりを宮柱たてゝいつきまつりしより祟止しとかや。されど其程ハいまだ古学といふ事のいさゝかも開けざりし頃なれば、たゞ祟るを恐るるのみニて、かゝる古の謂をしらざりしことあぢきなき事なれ。殊に祭主も観音寺といふ禅寺也とかや。こもほいない。]
独酔園独醒「石見海底能伊久里」(同)p.53
 おおざっぱに訳すと……ここにもやはり三段に切り給うたとあるのについて、大士(※すぐれた人)曰く、三段の中、尾と首の言伝えはあって中身の言伝えがないのは、浜田の城山に祟石といって人が触ると必ずや祟る石があるという。これはその中身の化けたものか。[古田殿、この城を築かれた中、いろいろと人に祟ってなす術がなかったのを宮柱を建て潔斎し祭ってから祟りは止んだとか。だが、その頃は未だ古学(※儒学)が少しも開化していなかった頃なので、ただ祟るのを恐れるだけで、かような古の謂れを知らなかったことは味気ない事だろう。その上祭り主も観音寺という禅寺だとか。これも本来の趣旨ではない(※本意ない)。
社後の石神は概五千年の昔し穴門國たりし時に恠(※怪の俗字)石あり迦杼田命こを八束水臣津野命に訴ふ命これを阿麻杼命久麻杼命に令て八段に割裂しめ給き故れ其地を石見と謂ふとあり其石いまも現然たり阿麻杼と濱田と音通ふ
(「濱田鑑」藤井宗雄著, 安達共栄堂, 1905)p.8
「濱田鑑」では神の名が一部異なっている。杼はドと読むようだ。

 邑智郡の龍石や美濃郡の角石だけでなく、浜田城・亀山(浜田城創建以前は鴨山)にも祟る石の伝承があったようだ。ただし、江戸時代初期くらいまで遡るのはともかく、神社創建時代からこのような石の伝説があったとまでは言えないだろう。姫神の荒御魂という見方もできるかもしれない。
 思うに、石の祟りとされる出来事があって、須佐能男命もしくは八束水臣津野命を祀ったところ、祟りが止んだ。そこから神が石を切ったという伝説となったのではないか(というか龍岩神社の由緒書の後段に書いてあります)。

第1回浜田城周辺整備検討会
城山の下の広場に大きな岩があるが、これは元々は石神神社にあった信仰の岩なので、大切にしてほしい。
 浜田市のサイトに上記のようなコメントがある。具体的にどこの岩か分からないが、もしかすると祟る石とはこの岩のことなのかもしれない。現在も本殿裏に砕けたような岩があるが、元々はこちらの岩のことなのかもしれない。

◆大祭天石門彦社

 同じく市内相生町にある大祭天石門彦社(浜田川を遡ったところ、バイパス出入口付近)。三宮神社(さんくうじんじゃ)とも。
 祭神の手力男命、天石門別命は天の岩戸、天孫降臨に縁の神。また、諏訪から建御名方命を勧請している。

島根県浜田市の三宮神社・拝殿
三宮神社・本殿
三宮神社・ご由緒
三宮神社・特殊神事について
大祭天石門彦神社(三宮神社とも)。
詳しい社伝は焼失したが、贄狩祭神事に特徴があるとのこと。
三宮神社・本殿裏の巨岩
三宮神社・本殿と烏帽子岩
烏帽子岩
本殿が修築中で本殿裏の巨岩が見やすくなっています。写真右は烏帽子岩。

 天石門別命の別名は櫛石窓命・豊石窓命。天孫降臨の際ニニギ命に従ったとされる。御門(みかど)を守る神(「日本神名辞典」神社新報社, 2001)とされる(24-25P)。

◆世襲足媛命

国立国会図書館・近代デジタルライブラリーで江戸~明治期の資料が閲覧できる。
・伴信友「神名帳考証」
・鈴鹿連胤「神社覈録(かくろく)」
・栗田寛「神祇志料」
 天豊足柄姫命を世襲足媛命に比定する説が通説か有力説のようだ。

 世襲足媛命は天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)の母。天足彦国押人命は浜田市下府町の伊甘神社の祭神である。
 石央から石西にかけて春日族系(小野族や櫛代族など)の祖霊を祀った神社が多くある。氏族の祖に当たる天足彦国押人命が解釈の基準となっているのだろう。櫛色天蘿箇彦命や櫛代賀姫命もそうだ。

 浜田出身の藤井宗雄が「祭神は世襲足媛命といふは採らず」としているのが興味深い。
 「石見に頒布せる石神について」では誣言としているが天石門彦命の后神としているものもある(6P)。天石門別命の「別(わけ)」は上代の天皇の名にも見受けられる。

◆斉明天皇

 そもそも、天豊足(あめのとよたらし)は斉明天皇(皇極天皇)のおくり名が天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)であることに由来するのではないか。なので、斉明天皇の時代まで遡れるだろう。

◆石見八重葎

 江戸時代の地誌・石見八重葎では石神社の祭神は豊岩窓命、櫛岩窓命としている。
式内正五位上
石見豊足柄姫命 [但し高八尺、廻り壱丈六尺]
    豊岩窓[※旧字体。しょうへん爿]命
 祭神 櫛岩窓[※旧字体。しょうへん爿]命  岡田御氏境内ニ有り
    太玉命ノ御子也
  本居ノ作神代正語ニハ天ノ石戸別神
  又櫛石真門神、又ノ名豊石真門神
丹波多記(紀)郡石窓神社鎮座 宇多御代寛平四壬子十ニ月昌泰[※異字か]二年己未二月授位云 豊岩窓ハ陰神ニテ又ノ御名ハ豊足柄姫命ナリ。此地在山陵石見守護神故称セリト鎮座記ニ曰リ。又諸臣姓傳ニモ祥(詳)ナリ。神形丈余ノ盤ニテ世俗岩神明神ト云。此櫛岩窓御神又ノ名天石戸別命(ト)モ云。古事記ニ見ヘタリ。右ニ名 人皇七代孝霊天皇ノ御神号此子孫ヲ石神朝臣ト云、其後大水口宿祢ト御改又此御方ヨリ六世ノ孫采女朝臣ト申タテマツル。委ハ新撰姓氏録ニ見ヘタリ。(以下略)

(「角鄣経石見八重葎」(同, 1999)p.94
 同じ頁で「(前略)此豊岩窓命を丹波より奉観(勧)請是に依テ表向ハ石見豊足柄姫命と延喜式にハ出ル。」(同 94P)とある。この段は後述する七条村(金城町)の伝説として語られているようだ。

 「太玉命ノ御子也」とあり、大麻山神社や大祭天石門彦社との関係がそれとなく示されている。

◆三代実録

 日本三代実録の清和天皇・貞観十六年(874年)に、
八日癸巳。石見國上言。石神二自出雲國來。是日。並授從五位下。
(「國史大系 第4卷 日本三代實録」黒板勝美/編, 吉川弘文館, 2000)p.349
 と石神の記述がある。これを天豊足柄姫命と解釈する説もあるようだ(「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)p.871。

◆旧島根県史

 旧「島根縣史」では「石神は畢竟一代の御靈代に過ぎずして祭神は天豊足柄姫命なり」と論じているとのこと(「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」p.871。天豊足柄姫命は天豊足柄姫命ということか。

◆七条村と孝霊天皇

 「石見八重葎」では下記のような伝承も記されている。
石見郷之内
 七条村
抑七条村と号以所ハ昔考(※原文ママ)霊天皇此里を帝都にせんとひらき七条迄調、今二条不足に付留り玉ふ故名とす。此天皇陵ハ今吉野にあり。然共実は濱田浅井村の岩神則此御神なり。
高弐百六拾壱石五斗
東上來原村、南ハ長見村、西ハ細谷村、北は伊木村隣り。民業農事を勤。
「角鄣経石見八重葎」(同)p.108
 孝霊天皇はいわゆる欠史八代の天皇。後世の創作だろう。
 孝霊天皇の母は押姫で天足彦国押人命の娘。

 石見を開いたという石見は石見国というより石見郷か。「那賀郡誌」によると石見(いはみ)郷を「石見、濱田、長濱、三階の一部」周布(主不)郷を「周布、大内、漁山、三階の一部、大麻の東部、井野の一部」としている(91-92P)。浜田川流域から周布川流域、大麻山周辺となる。

◆伊甘神社

島根県浜田市の伊甘神社・拝殿
伊甘神社・ご由緒

 「石見八重葎」伊甘神社の条では祭神を御衣織姫命で天豊足柄姫の妹としている。
式内正五位
 伊甘神社 [除地三石 社司(略)]
清和ノ御宇貞観三年辛巳五月五日鎮座即授位。本朝水土記ニ曰、伊甘ハ川ノ名ナリ。豊足柄姫妹御衣織(ミゾオリ)姫命
「角鄣経石見八重葎」(同)p.109
 孝霊天皇や御衣織姫命は俗説の類か。面白いので残しておく。

◆染羽天石勝神社

 益田市染羽町の染羽天石勝神社。ここも岩石への自然信仰が石神信仰となったものだ。

島根県益田市の染羽天石勝神社・鳥居
染羽天石勝神社・神門
染羽天石勝神社・本殿
染羽天石勝神社・ご由緒
益田東高校のグラウンド奥に鎮座。
注連岩
注連岩と祠
右写真は注連岩(しめいわ)。湧き水で岩肌が濡れている。

◆余談

 石神社の碑文の解説に「復興に萌え」とある。これは「萌え」の現代的用法最古の事例で……というのは冗談で心に萌(きざ)すというニュアンス。碑文には「可興復」の字はあるが、「萌」はないようだ。

 「那賀郡誌」で天豊足柄姫命は石見を開いた神として取り上げられている。豊饒をもたらし充足させることで諍いを鎮め融和を図るという思想が――島国的なものかもしれないが、根底にあるのかもしれない。

 龍岩神社に行ってみたが、400段以上の階段を一気に上るかたちになるので脚が痛くなった。蜂なのか大きな虫にまとわりつかれる。雨で傘をさしていたので、それで防ぐ。虫も警戒しているだけで攻撃まではしてこなかった。
 訪問時は雨で気づかなかったが神社裏から湧き水が出ているそうだ。階段のかなり上の方にカエルがいたので、どうして山頂近くまで上がってきたのだろうと思っていた。

◆参考文献(五〇音順)

・「石見国名所和歌集成(※『石見海底の伊久里』収録)」(工藤忠孝/編, 石見地方未刊資料研究会, 1977)
・「角川日本地名大辞典 32 島根県」(角川書店, 1979)
・「口語訳 古事記 完全版」(三浦佑之, 文芸春秋, 2002)
・「國史大系 第4巻 日本三代實録」(黒板勝美/編, 吉川弘文館, 2000)
・「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」(式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)
・「島根の神々」(島根県神社庁, 福間秀文堂, 1987)
・「島根評論 第4巻上 第6号(通巻第33号)」(島根評論社, 1936)pp.2-13
・「神祇全書 第5輯 ※藤井宗雄『石見国式内神社在所考』所収」(思文閣, 1971)
・「神社辞典 」(白井永二,土岐昌訓/編, 東京堂出版, 1979)
・「那賀郡誌(復刻版)」(那賀郡共進会展覽会協賛會/編, 臨川書店, 1986)pp.65-74
・「那賀郡史」(大島幾太郎, 大島韓太郎, 1970)pp.120-121
・「角鄣経石見八重葎」(編集・発行者 石見地方未刊行資料刊行会, 1999)
・「日本神祇由来事典 」(川口謙二/編著, 柏書房 , 1993)
・「日本神名辞典」(神社新報社, 2001)
・「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」(谷川健一/編, 白水社, 1985)
・「濱田鑑」(藤井宗雄, 安達共栄堂, 1905)pp.7-8

※「濱田鑑」「石見海底の伊久理」は島根県立図書館に所蔵。
 「石見海底の伊久理」は県の支援で活字化されている。

国立国会図書館・近代デジタルライブラリー
・伴信友「神名帳考証」
・鈴鹿連胤「神社覈録(かくろく)」
・栗田寛「神祇志料」

藤井宗雄「濱田鑑」も収録されており、閲覧可能です。

国際日本文化研究センター 怪異・妖怪伝承データベース
こちらに「石(イシ)」として分類されている。

出典の「旅と伝説」(9巻8号/通巻104号)は国会図書館に所蔵されている。
欠巻のようだ。

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

 

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