邑智郡

2021年12月18日 (土)

刀鍛冶の秘伝――手ぼう正宗

◆はじめに

 日本標準『島根の伝説』に名刀正宗にちなんだ刀鍛冶の伝説が残っている。刀鍛冶の秘伝を巡るお話である。

◆あらすじ

 今からおよそ六百六十年前(※2020年代では七百年前)のことである。相模の国の住人である岡崎五郎正宗(まさむね)が邑智郡に住む高弟の出羽(いずは)正綱(まさつな)の許を訪ねていた。正綱は出羽正宗の名が与えられる程の刀鍛冶であった。

 出羽正宗の弟子が邑智郡羽須美(はすみ)村の宇都井にいるのを聞きつけた五郎正宗は孫弟子の仕事ぶりを見るためにわざわざ訪れた。

 孫弟子は刀を仕上げるときの湯加減を知りたいと願っていた。それは刀鍛冶の秘密であった。ある日のこと、数日前から打ち続けていた太刀がいよいよ出来上がる日である、仕事場の四方には注連縄が張られ、辺りは塩で清められた。孫弟子が向こう槌(づち)を取った。刀身に小槌が触れると赤い火花が散った。

 最後の締めを終え、作業は終わった。そのとき、よろめいた向こう槌の孫弟子は「あっ」と叫んで、今まさに打ち終わった刀身をつけようとする湯の中へ右手を突っ込んだ。

 孫弟子のたくらみを悟った五郎正宗は火箸を炉に入れ、ふいごを二、三回動かしたかと思うと、赤くなった火箸を取り出し、孫弟子の右の手首を挟んだ。

 孫弟子は余りの痛さに気絶してしまった。気がついたときは布団の上であった。右手に巻かれた白い布は見るも痛々しいものであった。が、刀鍛冶の秘密である焼き入れのときの湯加減を身体で覚えたのであった。

 右手首の火傷の傷口が元で、右手は遂に使えなくなってしまったが、孫弟子はひるまなかった。左手で槌を持って刀が打てるように何年も修練した、そして長い間かかって、遂に左手を利き腕の様に使いこなせるようになった。

 人々は正宗流の名刀を作る孫弟子に感嘆して「手ぼう正宗」だと褒め称えた。手ぼうとは棒の様になった手という意味である。

 この孫弟子が刀鍛冶をしていた跡は今でも残っている。また剣が池という刀にちなんだ池の跡も残っている。

◆余談

 旧羽須美村の伝説です。この伝説は関連する写真が無かったので記事にしていなかったのですが、魅力的な伝説なので取り上げました。石見地方はたたら製鉄が盛んな土地柄で、刀鍛冶も多くいました。例えば、浜田市の長浜刀が知られています。

◆参考文献

・『島根の伝説』(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1978)pp.222-226.

記事を転載→「広小路

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2018年3月31日 (土)

JR三江線、廃止される

JR三江線、3月31日で88年の歴史に幕
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12198-010455/

JR三江線が三月末でその歴史に幕を閉じた。100㎞を超える鉄道線の廃止は本州では初とのことである。2016年夏に三江線に乗って三次まで往復した。朝4時起きで、車窓の風景をデジカメで録画しながらの旅となったのだけど、後で見返してみると、居眠りでカメラが揺れていた。江川沿いを走るので車窓の風景は綺麗なのだけど、満員ではろくに風景も楽しめないだろう。三次から引き返す途中でJR川本駅で一時間半ほどの時間があって駅の外に出る。喫茶店があってよい雰囲気だった。これからは三江線で下車した人が立ち寄ることも無くなる。

JR三江線の列車

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2017年3月 5日 (日)

来春、廃線とのこと――JR三江線

朝日新聞の報道で来春JR三江線が廃線になると知る。いつか来ると思っていたが、決まると速いものだなと感じる。
実は昨年の夏の帰省時に一日開けて三江線に乗った。朝4時起きで浜田駅を出る。デジカメで車窓の風景を撮りながら乗っていたのだけど、眠気でうとうとしてカメラの構図がズレては戻しズレては戻しを繰り返す。
最初はキヤノンPowershot SX130ISで動画を撮影していたのだけど、ファイル容量の制限か一回当たり十分程しか撮れず、駅間の風景が途切れてしまうこともあった。エネループが劣化していたため、浜原駅からPowershot G16に機材を変える。
それで三次駅に到着する。三次駅ではしばらく待って、石見川本駅行きの鈍行で引き返す。途中、石見川本駅で一時間半くらいの待ち時間があって、街に繰り出す。時間があるようで無いので、Cafe' du Soleil というカフェで一服する。ここは気持ちのいい店だった。
気づいたところでは、乗客の多くは僕と同じくカメラを構えた旅行客だった。
石見川本駅を出て江津駅に着く。しばらくして快速がやってくるのでそれに乗って浜田に引き返す。石見神楽トレイン。
そうして録画した動画なのだけど、まだ全部見返していない。どこまで見たか忘れてしまった。今となっては貴重な映像で、Youtubeにアップロードできなくもないだけど、うちの回線は未だにADSLで10分程度の動画をアップロードするのに数時間かかってしまう。
キハ120系車内・JR三次駅にて
JR石見川本駅
JR石見川本駅
キハ120系・JR石見川本駅にて撮影
キハ120系
JR三江線車内から見た江川
JR三江線車内から見た江川

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2017年1月15日 (日)

国造りの仮住まい――志都の岩屋

大汝少彦名のいましけむ 志都の石屋は 幾代経ぬらむ
 万葉集に「志都乃石室」と詠まれたとされる場所が島根県には二か所存在する。大田市静間町の静之窟と邑南町にある志都岩屋神社である。

◆志都岩屋神社

 邑南町の志都岩屋神社の本殿裏には鏡岩と呼ばれる巨岩があり、古くからの巨石信仰が窺われる。
邑智郡邑南町の志都岩屋神社・鳥居
志都岩屋神社・拝殿
志都岩屋神社・本殿と巨岩
志都岩屋神社・ご由緒
志都岩屋神社・萬葉歌副碑
 2018年に志都岩屋神社の裏山を登った。体力不足で古志都岩屋までしか行けなかった。次回はもっと上まで行ってみたい。
邑南郡邑南町・古志都岩屋
古志都岩屋

◆静之窟

 大田市静間町の静之窟は海岸にできた岩窟(海食洞)。以前は人が入ることができたようだが、現在は崩落の危険ありということで立ち入りは禁止されている。
大田市静間町の静之窟
静之窟・石碑
静之窟と鳥居

◆静間神社

 大田市静間町にある静間神社は静之窟との所縁が深いようだ。
大田市静間町の静間神社・拝殿
静間神社・拝殿と本殿
静間神社・ご由緒
 静間神社は、第五十八代光孝天皇の御代、仁和二年(八八六年)二月八日に創建されました。昔は魚津の静ノ窟に鎮座していましたが、明暦二年魚津■(?)の前に遷座し、さらに延宝二年(一六七四年)六月二十七日、現在地に遷し祀られました。
 大己貴命、少彦名命の二柱の神は、農民に鋤、鍬を与え、水稲の種子をまいて、田作りの方法を教えられました。また、人間の病気はもとより、家畜の病気治療にも当たられた神々として、今の世でも日本各地で、病める人たちの深い信仰を集めています。
 とご由緒にある。元は静之窟に鎮座していたが、後に現在地に遷座したとのこと。
 大国主命と少彦名命が「志都乃石室」を国造りを行なうための仮住まいとされたというが、考えるに、大田市静間の方が出雲に近くそれらしいか。

◆よいところも悪いところも

 むかし、オオアナムチ命がスクナヒコナ命に話しかけた。
「われわれのつくった国は、良くできたと言っていいだろうか」
「うまくいったところも――スクナヒコナ命が答えた――あれば、うまくいかなかったところもある」
 この話には、どうやらふかい趣があるらしい。その後、スクナヒコナ命は[出雲の]熊野の[山]崎に行き、とうとう常世郷(とこよのくに)にまっすぐに行った。またはいう、淡島に行って、粟の茎によじのぼったら、はじかれて常世郷に行ってしまった、と。
「<原本現代訳>日本書紀(上)」58P
 国造りには上手くいったところと上手くいかなかったところがある。この文章を読んで、昔、竹下元首相が過去の植民地支配に関して「良いことも悪いこともあった」と述べて物議を醸したことを思い出した。竹下首相は上記の言い伝えを念頭に置いていたのかもしれない。
 戦前の日本人は威張っていたらしいが、別に苛烈な支配をした訳ではない。日本の領土だったところは韓国にしても台湾にしても旧満州にしても栄えている。国民皆教育が大きかったのだろう。

◆余談

 邑南町の志都岩屋神社の裏山である弥山は登山コースになっているが、訪問当時、酷い足首捻挫で登るのをあきらめた。
邑南町の志都岩屋神社・弥山の登山コース
 大田市静間町の静之窟に行こうとしたのだが、静之窟周辺には駐車場が無く、近所の住宅の人に「ここは駐車場がありません」と怒られた。次回行くときはどうしよう。
<追記>
 大田市静間町の静之窟だが、坂はきついが静間神社から歩いていける距離だった。静間神社前に車を停めていった。
 邑南町の志都岩屋神社は、浜田道・大朝ICから国道261号線を旧瑞穂町方面に向かって走る。県道6号線に入る。そこから更に右折する(※6号線を進む)。神社前に鳥居と看板があるので、鳥居をくぐる。しばらく進むと神社の方向を示した杭がある。民家があり狭いが、そこを上がると駐車スペースがある。
 静間神社は国道9号線から静間方面へ入る道、県道287号線に入って、静間小学校方面へと曲がる。そのまま道なりに進むと、「静間神社」と書かれた標識があるので、そちらに曲がる。しばらく進むと静間神社がある。神社前に車を停めるスペースがある。神社から道を下ると静之窟(しずのいわや)へ行ける。歩いていける距離(※岩屋周辺には駐車スペースがない)

◆参考文献

・「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」(谷川健一/編, 白水社, 1985)pp.169-170
・「<原本現代訳>日本書紀(上)」(山田宗睦/訳, ニュートンプレス, 1992)
記事を転載 →「広小路

 

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最初の四隅突出型墳丘墓――順庵原一号古墳

邑智郡邑南町瑞穂にある順庵原一号古墳は四隅突出型墳丘墓として初めに発見されたもの。弥生時代後期(1~2世紀頃)のものとされている。その後、出雲地方で四隅突出型墳丘墓の発見が相次ぎ、全国的に注目されることとなった、その一号墳である。
順庵原一号古墳
順庵原一号古墳
順庵原一号古墳・解説
四隅部が突出し、葺石で覆われているのが特徴か。規模的に出雲弥生の森・西谷墳墓群でも一号墓と対比できるか。
西谷墳墓群・一号墓
西谷墳墓群・一号墓
西谷墳墓群・一号墓
また、横浜市にある方形周溝墓とも形がよく似ている。四隅突出型墳丘墓では墓の四隅を掘ることはしていないが、四隅部はそこから祭祀のため墓に立ち入ったのだろうか。
横浜市の歳勝土遺跡の方形周溝墓
横浜市の歳勝土遺跡の方形周溝墓
横浜市の大塚遺跡
横浜市の大塚遺跡
横浜市の大塚遺跡

◆余談


瑞穂町にある瑞穂ハンザケ自然館を見物、駐車場に車を置いて道路を南下、順庵原の交差点(信号か?)近くにある。

順庵原方面へ向かう道
順庵原方面へ向かう道

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ノアの洪水の死者――瑞穂ハンザケ自然館

邑智郡邑南町の瑞穂ハンザケ自然館では体長一メートルを超えるオオサンショウウオが飼育されている。
オオサンショウウオ2匹
他、瑞穂町周辺の自然を示した剥製などが展示されている。その中にオオサンショウウオの化石(模型か?)が興味深く展示されていた。
オオサンショウウオの化石
ノアの洪水の死者・解説
1726年、ショイツェルはドイツのエニンゲンにある3000万年前(大三紀中新世)の地層から、オオサンショウウオの化石を発見しました。しかし、彼はそれをノアの洪水で死んだ罪人の骨と考え、化石に「洪水の証拠となる哀れな人」と名付けて発表しました。
旧約聖書にノアの洪水は記されているが、ドイツもその被害を蒙ったと考えたのだろうか。
最大クラスのオオサンショウウオの模型
最大クラスのオオサンショウウオの模型
瑞穂ハンザケ自然館
瑞穂ハンザケ自然館
瑞穂ハンザケ自然館

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2012年12月29日 (土)

清流――邑智郡邑南町

邑智郡邑南町の井原川 邑智郡邑南町の雲井山と井原川

邑智郡邑南町の雲井山と井原川

邑智郡邑南町(旧石見町)井原にて撮影。井原川だと思います。清流が印象的です。

二枚目と三枚目に写っている山は雲井山。麓に天蔵寺というお寺があり、かつては山城だったそうです。

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2008年12月23日 (火)

金の茶釜と白南天

 「岡見のむかしばなし」(岡見地区生涯学習推進委員会事務局, 2000)という本に収録された「金の茶釜」(文・藤川美穂子/絵・野上良宜)という昔話。簡単なメモを元に起こしてみる。なのでかなり違っている可能性高し。

 三隅町岡見の茶臼山にはその昔、城があった。だが、その城は落城してしまったという。
 それから大分経ったある日のこと。
 老人が茶臼山に出かけたところ、あちこちを掘り返している三人組の男がいた。
 不審に思って離れたところから彼らの様子を伺うことにした。
 やがて男たちは酒盛りをはじめた。すると酒に酔った若者が、
「茶釜が埋められたところには目印に白南天が植えてあるげな」
 うっかり口を滑らせてしまった。
 どうやら落城した際、宝物を埋めたらしい。
 それを聞いた老人は男たちが去った後、茶臼山に白南天の花が咲いていないか隈なく見て回ったが、白南天はどこにもなかった……というお話。

茶臼山城跡登山道案内図
浜田市三隅町の茶臼山・登山口
茶臼山・登山口
茶臼山・登山口。海老谷桜と同じ道沿いにある。

浜田市三隅町・海老谷桜
浜田市三隅町・海老谷桜・倒木
浜田市三隅町・海老谷桜・解説

 地図で確認すると茶臼山は岡見から南へ下ったところにある山。それほど高い山ではないようだ。広辞苑を引くと、南天(ナンテン)は「メギ科の常緑低木。暖地に自生するが生花の材料・庭木として植栽」とある。白南天はその名のとおり白い実を結ぶ。石見地方の植生上、どうなのだろう。
 「金の茶釜 白南天」で検索すると、目印を白南天とするのは全国に伝播した話のようだ。広島市のサイトで似たような話が紹介されている。

武田山の歴史を知る -銀山城落城秘話(伝承)-

 乙子狭姫の伝説ではオホゲツヒメが狭姫に「千年も万年も尽きぬ宝をやろう」と五穀の種を渡す。宝物とはそういうものかもしれない。

◆唐音の白南天――益田市鎌手

 「島根県益田市民話集」(島根大学教育学部国語研究室/編, 島根大学昔話研究会, 1991)に「156唐音の地名の由来」という昔話が収録されている。
 唐音(からおと)という名前がついている処には必ず金が埋めてあるという言い伝えがあるとを紹介している。目印に白南天を植えたというくだりは同じで、数百~数千年前のことだから分かるはずもないが、歴史家が一度訪ねてきたことがあるとしている。
 実際に歴史家が訪れたとは思えず、話に信憑性をもたせるためだろう。

島根県益田市の唐音海岸
益田市鎌手町の唐音の蛇岩。睡蓮の公園が近くにある。

◆雲井城の馬場と白椿――邑智郡邑南町

 「島根県邑智郡石見町民話集 2『妖怪譚』その他」(島根大学教育学部国語研究室/編, 島根大学教育学部国語研究室, 1986)には雲井城という山城の伝説がいくつか収録されている。「240雲井城の馬場・白椿」という伝説(137P)では、雲井城の馬場だったとされるところに金が埋められており、目印として白椿が植えられたという言い伝えである。ただし、白椿を見た者がいるかどうかは分からないとしている。昔の人は金を埋めるときに必ず上へ目印となる木を植えたと結んでいる。

◆参考文献

・「岡見のむかしばなし」(岡見地区生涯学習推進委員会, 2000)
・「島根県邑智郡石見町民話集 2『妖怪譚』その他」(島根大学教育学部国語研究室/編, 島根大学教育学部国語研究室, 1986)p.137
・「島根県益田市民話集」(島根大学教育学部国語研究室/編, 島根大学昔話研究会, 1991)p.95

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

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2008年11月24日 (月)

雲と蜘蛛――山城にまつわる伝説

◆山城の伝説

 「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)に収録されていた「雲とクモ」という伝説(36P)。

 島根県邑智郡邑南町(旧石見町)にある雲井山。標高430メートルほど。山城があったという伝説がある。

 戦国の世の話。井原(いはら)に雲井(くもい)城という山城があった。山が急で攻めにくく、その上、雲と蜘蛛(くも)が出てどこに城があるやら道があるやら迷ってしまう。また、蜘蛛は粘り強い糸で敵兵の身体を巻いてしまう。その隙に城中の兵が斬りこんでくるので、どうしても城は落ちなかった。

 雲井城の下を流れている川は大事な飲み水であった。ところが、水を汲みに降りる娘が時々消えることがある。これはこの山の蜘蛛が娘をさらっていくからだった。これには城中の兵も村人たちも困ってしまった。

 蜘蛛を退治しようと若者が言った。老人は蜘蛛と雲には深い関わりがあると制止した。が、若者はそれを聴かずに蜘蛛を皆殺してしまった。

 果たして敵が攻めてきたとき、雲は湧いてこなかった。寄せ手の兵はこのときばかりと攻め寄せたので城はとうとう落ちてしまった。

http://iwami.web.fc2.com/ibara.htm

島根県邑南町(旧:石見町)の城 ←こちらのサイトで雲井城が紹介されていた。

 石見町の要衝地で山頂に遺構が残されているそうだが、登山道は整備されていないとのこと。蜘蛛の伝説も紹介されている。地図上に記されていないのは山頂まで登る道がないからなのだろう。

島根県邑智郡邑南町の雲井山
雲井山
島根県邑智郡邑南町の天蔵寺
天蔵寺

 夏にドライブしたとき、その山とは知らずに通り過ぎていた。地図で確認すると、邑南町にはいくつか山城跡が記されているが雲井山にはない。

 記憶では蜘蛛が吐いたのは霧だと思っていた。読み返すと、雲を吐いたと記されている。蜘蛛と雲を引っ掛けた伝説でもある。夏にドライブしたときは雨だった。雲井山ではなく火室山(標高652メートル)もしくは冠山(標高859メートル)だと思うが、ちょうど山頂あたりに雲が掛かっているのを見た。蜘蛛が吐いたのが霧やもやではなく雲としたのはそうしたイメージからかもしれない。

雲井山と清流
清流

◆類話

 「島根県邑智郡石見町民話集 2『妖怪譚』その他」(島根大学教育学部国語研究室/編, 島根大学教育学部国語研究室, 1986)に雲井城の伝説がいくつか収録されていた(74-78P)。雲井山の山麓には天蔵寺川と岩井谷川と二つの川があり、どちらが伝説の舞台かはっきりとは分からない。
 類話の中には「天蔵寺」という寺院の他、「天蔵(あまくら)谷」「天蔵川」「天蔵谷」「雲井淵」という地名が見受けられるので、天蔵寺川側かもしれない。未確認。

◆蜘蛛淵伝説

 蜘蛛に関して似た話も収録されている。
 蜘蛛淵のほとりで一服しようとキセルを吸ったとき、大きな蜘蛛ではないが、足許に来ては、はばき(脚絆)もしくは草履にえぎ(蜘蛛の糸)を引っかけて淵の水の中へ入っていった。何度も繰り返すので、これはおかしいと蜘蛛の糸を傍らの木の株にかけ直した。蜘蛛は気づかずに糸を掛け続けていたが、しばらく後、太くなった糸がピーンと伸び引き締まった。すると、木が淵に引きずり込まれてしまったという話。

 日本標準『島根の伝説』に「千八尋渕(せんやひろぶち)と長九郎(ちょうくろう)」というタイトルで類話が収録されている。

◆アニメ

 アニメ「まんが日本昔ばなし」で放送された「浄蓮の滝の女郎ぐも」(出典:岸なみ「未来社刊より」, 演出:若林常夫, 文芸:沖島勲, 美術:門屋達郎, 作画:若林常夫)の回がほぼ同じ内容だった。舞台は天城山中の浄蓮の滝(静岡県伊豆市湯ヶ島)。蜘蛛が木こりの足に糸を掛け、それを切り株に移すと、切り株が滝壺に引きずり込まれるくだりはほぼ同様である。
 このエピソードでは木こりが二人登場、一人はそのまま逃げ去る。もう一人は斧を追って滝壺に飛び込む。と、水中に女人(蜘蛛の化身)が現れ、浄蓮の滝の古木は斬ってはならない。約束を守るなら斧は返すが、決して他言してはならない。もし、誰かに話せばお前の命を奪うと言って姿を消す。無事帰った木こりだが、あるとき酒に酔ってふと漏らしてしまう。と、たちまちのうちに木こりは倒れ絶命してしまったという粗筋となっている。

◆蟹が迫城の竜――江津市渡津町

 「江津市誌 下巻」(江津市誌編纂委員会/編, 江津市, 1982)第10章口承文芸の節に「蟹が迫城の竜(渡津)」という昔話が収録されている。話の筋は上記伝説とほぼ同じだが、ここでは雄と雌の竜が霧を城に張りつけていたとされている。あるとき雄の竜が城の姫を呑んでしまったため、城兵によって射殺される。雌の竜だけでは城を全部隠すことはできず落城。雌の竜は江川へ逃げてしまった。そのため水の涸れることのない池だったが、ただの堤になってしまったという内容。

◆余談

 昔読んで印象に残っていたのだが、はて、どの本に収録されていたのかと思っていた。通読していなかったため見落としていた。それはともかく、やはり「島根の伝説」は暗い話が多いと再認識。
 城郭ファンにとって山城の遺構を探すのも楽しみの一つだそうだが、僕がやると遭難するオチだろう。ちなみに横浜市の茅ヶ崎城址公園は市営地下鉄・センター南駅から5分少々で中世の城郭の遺構をお手軽に観察することが可能。
 小学生のとき担任だったO先生、確か江津のお寺さんの出だった。又聞きなのだが、ご先祖は戦に敗れて仏門に入ったとのことで、邑智郡の歴史と深い関わり合いがあるのではないかと思う。

 学生だった頃、はじめて上京して一月か二月が過ぎた。快晴の日が続いて、日本晴れとはこういうことかと実感した。無論山陰でも快晴の日はあるけど、関東に比べればやはり天気の変わりやすさはあると思う。
 日本海側の空は雲が低く流れていく印象。雲の高さが違う。関東では空の高みに雲がある。個人的には関東の青空に解放感を覚えたが、人によっては山陰の低く垂れ込めた雲に圧迫感を感じるのだろうか。
 正月に帰省時、朝目ざめると薄暗いまま。何時だろうと思って時計をみると7時を過ぎている。少年時代の記憶をたぐり寄せる。冬の朝は日が昇るのが遅いこともあるが、曇り空で薄暗さがしばらく続く。関東だと朝6時台でかなり明るくなるので違いを認識。
 山陰の気候を疎ましく思う人もいる。暗いイメージを嫌う人もいる。実は少年時代はピンとこなかったのだが、山陰から外に出てようやく気づいた次第。

◆参考文献

・「江津市誌 下巻」(江津市誌編纂委員会/編, 江津市, 1982)
・「島根県邑智郡石見町民話集 2『妖怪譚』その他」(島根大学教育学部国語研究室/編, 島根大学教育学部国語研究室, 1986)pp.74-78
・「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)p.36, 143.
・「伝承怪異譚――語りのなかの妖怪たち(三弥井民俗選書)」(田中瑩一, 三弥井書店, 2010)pp.149-158
・『日本の民話 34 石見篇』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.366-368.

・邑智郷の言葉
記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

 

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2008年11月16日 (日)

島根における名馬池月伝説

◆洗足池

 東京都大田区南千束の洗足池公園。周囲約1.2キロメートルほどの公園。日蓮上人が足を洗ったという伝承があり、勝海舟ゆかりの地でもある。

東京都大田区南千束の洗足池公園
千束八幡神社
池月発祥伝説の由来
洗足池。千束八幡神社と池月伝説

 池のほとりにある千束八幡神社に池月という名馬の伝説がある。再起を図り洗足郷で陣を構えた源頼朝の前に一頭の野生馬が現れた。捕らえたところ、青い毛並みに白い斑点が池の水面に映る月影を思わせたので池月と名づけられた。その後、源義経が宇治川の戦いで木曽義仲を攻めた。宇治川先陣争い、佐々木高綱に下賜された池月は梶原景季操る麿墨と先陣を競い、見事勝ったとされている。

池月の絵馬
池月像

◆島根に残る池月伝説

 池月の伝説は全国に伝播したようだが、島根県にも伝説が残されている。現在の雲南市掛合町の龍頭滝(りゅうずがたき)に母馬を亡くした子馬がいた。子馬は水面に映る己の姿を母馬と思い滝壷に飛びこむことを繰り返す。やがて子馬は泳ぎの得意な馬へと成長した。

 邑智郡邑南町阿須那(あすな)(※旧羽須美村)の牛馬市に出されたその馬だが、都賀本郷で江川にさしかかった。雪解けで江川は増水していた。いかだに馬を乗せて渡そうとしたとき、馬は川に飛びこむと、増水した急な流れをものともせず向こう岸まで渡ってしまった。馬はかつてない高値で阿須那の博労に落札、その後、馬は阿須那城主に売り渡されたという(「島根の伝説」島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)。

邑智郡邑南町阿須那の賀茂神社
阿須那・賀茂神社と池月を繋いだとされる枯木
阿須那・賀茂神社と池月を繋いだとされる枯木
賀茂神社の神馬図
賀茂神社の神馬図
賀茂神社の文化財・解説
神馬図
江川・江津市松川町付近
江川・江津市松川町付近
江川とカヌーをする人

江川。江津市松川町付近で撮影。池月が泳いだとされるのはもっと上流ですが、とりあえず。アンテナ塔の建っている山は島ノ星山。カヌーを楽しむ人も。

 「随筆 石見物語」(木村晩翠, 白想社, 1993)にも池月の伝説が収録されている(93-94P)。買い手の博労が指を六本だしたので持ち主は六百文と思い承諾したところ、買い手の博労はこの馬は名馬の相があるので六百両でもまだ安いと言った。果たせるかな、鎌倉に引き出され頼朝に買い上げられた馬は宇治川先陣の誉れを残した、とある。
 「石見物語」では名馬池月の伝説は阿須那の他、邇摩郡馬路村、隠岐国に残っているが、話の筋が大同小異でいずれが真の出生地であるか不明であると結んでいる(94P)。

 「日本伝説大系 第十一巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)にも池月の伝説が収録されている(187-192P)。馬路の伝説の他、類話として隠岐、邇摩郡、邑智郡などのものも収録されている。逃げた池月に「駄駄」と声をかけると立ち止まったという。

 広く日本各地に伝播した伝説、島根県では邑南町阿須那(旧羽須美村)の賀茂神社に池月を繋いだとされる柏の木(現在は枯れている)が残されているとか。龍頭滝は奥出雲。

◆鹿児島県指宿市・池田湖の池月――まんが日本昔ばなし

 「まんが日本昔ばなし」では「池月」のタイトルでアニメ化されていた [※鹿児島の伝説(角川書店刊)より, 演出:芝山努, 文芸:沖島勲, 美術:千葉秀雄, 作画:藤森雅也]。
 鹿児島県指宿市の伝説で、池田湖周辺が舞台となっている。島根の伝説とは内容が異なっている。不気味な池田湖を怖れ、近寄らない人々を余所に子馬の池月と母馬は毎日のように池田湖で泳ぐようになる。その見事さが評判となり都にまで伝わる。源頼朝の命で池月は鎌倉へと送られることとなる。池月と引き離された母馬が池田湖に飛び込むと、大きな渦が母馬を呑み込んでしまったという粗筋。
 最後に鎌倉に送られた池月はその後活躍したことがナレーションで語られる。母馬は湖に姿を消してしまいました。その後、池月は活躍したそうです……と哀しいのかめでたいのかよく分らない締めくくり方をしている。
 物語冒頭で源氏の許で活躍した池月という馬がいたことを紹介し、それから伝説に入っていく構成にすればその辺の違和感は抑えられるのではないか。が、敢えてそういう構成にしたのかもしれない。いずれ出典の「鹿児島の伝説」に収録されたお話を読んでみたいと思う。

◆鹿児島の伝説

 角川書店「鹿児島の伝説 日本の伝説11」に池月の伝説が収録されている。「まんが日本昔ばなし」の原作である。

 指宿(いぶすき)と開聞(かいもん)の境目にある池田湖は九州一の湖だ。この湖では不思議なことばかり起きる。日照りが長く続いて、里の者は天を仰いでは嘆いているのみ、湖の水がどんどん増えて近くの田んぼや畑を水浸しにしてしまう。百日もそんな状態が続いて、やがてじりじりと水が退いていく。風もない穏やかな日なのに突然湖に大きな波がたってゴーゴーと一日湖は鳴り続ける。この底の知れない深い湖の底には竜がひそんでいて湖の不思議な出来事はみな竜の仕業だというのだ。本当に竜を見た者もいた。のっぴきならない用事ができて湖の側を通らなければならない場合はアビラウンケンソワカと呪文を唱えながらおっかなびっくりで急いで通るのだった。里人は恐れて池田湖には寄りつかなかった。人間だけでない。山に囲まれた湖なのに水鳥の浮かんでいるのも見かけなかった。人にも鳥にも恐れられた湖だった。

 ところが、この湖を恐れないものがいた。二頭の馬だった。雪より白い馬だった。開聞の牧場で育った馬だったが、岡越え、峠を越えて駆けてくると、不気味に静まりかえった湖の中に水しぶきをたてて飛び込むのだった。この馬は母と子の親子の馬だった。湖に飛び込むと、頭をついと水の上に出し、タテガミをふりふり、彼方の岸めがけて一直線に泳いでいくのだった。二頭の白馬は毎日湖にやって来て、こちら岸から向こう岸へ、向こう岸からこちら岸へと往復するのだった。こちら岸に泳ぎつくと、二頭の白馬は肩を並べて、いかにも睦まじそうに水際の草を食べるのだった。牧場の岡の上に二頭並んで立っている姿はほれぼれするほど美しくみごとなものだった。里の人々は遠い昔にヤマサチ命が竜宮から連れ帰った竜馬の子孫だと噂するのだった。

 この噂が遠い鎌倉まで聞こえた。頼朝公はその噂を聞くと、噂の白馬を手に入れたいと思った。子供の白馬を差し出すようにとの命が開聞の長の許に届けられた。開聞の里人は頼朝公の命を受けて、この上ない名誉と大喜びだ。早速その日の内に白馬をつれて鎌倉に旅立つことにした。子馬を連れて池田湖の見える辺りまでやって来ると、高いいななき声をあげて母馬が走ってきた。子馬の手綱を持っている男に近づくと、いきなり噛みつき蹴飛ばして荒れ狂う。驚いた牧夫たちは必死になって母馬を押さえつけた。その隙に子馬を連れた者たちはとっとと走った。母馬は去って行く子馬を見つめてヒヒンといなないた。峠の彼方に子馬が消えていってしまうまで、いななき続けた。それきり母馬は草も食べなくなってしまった。牧場の岡の上に朝から晩まで立ち尽くして子馬の去った峠をじっと見つめるのだった。思い出したように悲しげないななき声を立てるのだった。何日もそんな日が続いた。さすがに里人は哀れに思った。子馬に別れて七日目のことだった。母馬は池田湖に駆けていって湖に飛び込んで泳ぎだした。湖心までいくと、ぐるぐる激しく輪を描いて泳いだ。白馬の周りに大きな渦ができた。母馬はその渦に巻き込まれるように湖深く沈んでいった。それきり二度と再び母馬は姿を表すことはなかった。鎌倉に着いた子馬は頼朝公からひどく可愛がられ、池月と名づけられた。宇治川の合戦の折、佐々木四郎高綱が白馬に乗って一番乗りの手柄を立てた。あのときの白馬は、この池月だったのだ。

◆余談

 「日本伝説大系」の目次をみると、池月はなぜか妖怪の項目に分類されていた。

 「島根の伝説」のあとがきで
「この深さ、広さなら、馬がいくらでもとびこめますね。」と、同行の人も納得しました。大きくて広い滝つぼでした。(254P)
とあったので永く島根独自の伝説と思い込んでいた。で、疑うことなく今に至った次第。インターネットで検索して全国に広く伝播していることを知る。知らぬは我が身ばかりなりけり。

 邑智郡に池月酒造という蔵本がある。

池月酒造
池月酒造
誉池月・特別本醸造
誉池月・特別本醸造

「誉 池月」という銘柄。日本酒には全然詳しくなく、ピンからキリまで落差が激しいという程度の認識だが(普段は剣菱をときたま飲む程度)、これなら自信をもってお薦めできるのではないか。偶々近所のスーパーに在庫があったが、余所を覗いてみると置いてないようで浜田市内にはあまり出荷されていないか? バイヤーさん、GJ!

◆参考文献

・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.64-65, pp.89-90
・「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)pp.198-202
・「随筆 石見物語(復刻版)」(木村晩翠, 白想社, 1993)pp.93-94
・「日本伝説大系 第十一巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)pp.187-192
・『日本の民話 34 石見篇』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.91-92.
・『鹿児島の伝説 日本の伝説11』(椋鳩十, 有馬英子, 角川書店, 1976)p.95, pp.162-166.

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

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