益田市

2025年5月30日 (金)

グラントワに行く 2025.05

益田市のグラントワ(石見美術館)に行き、企画展「石見の祈りと美―未来へつなぐ中世の宝―」を鑑賞する。石見に所縁の中世の仏像、戦国武将の肖像画、雪舟派の画人たち、益田家の家宝といった順で展示されていた。

駐車場から見たグラントワ
駐車場から見たグラントワ
グラントワ裏口

最後の益田家の家宝で刀剣が二本展示されていた。その内の一本は曽我兄弟の仇討ちに所縁の名刀であった。正確には仇討ちされた方だが、その子息(犬坊丸)に頼朝が下賜したものらしい。なので、この刀は弟の処刑の際に用いられた可能性も高い。そういった逸話を背負った名刀を実見することができるとは、と驚かされる。おそらく今回が最初で最後だろう。

刀文が美しいといった類のものではなかったが、鎌倉時代の刀が錆び一つない状態で現存していた。

益田氏はおそらく石見国に赴任した藤原氏の傍流がそのまま浜田市の下府川流域(伊甘郷)に定着して御神本(みかもと)氏を名乗り、その後、益田氏、周布氏、三隅氏、福屋氏と分派していった。三隅氏と福屋氏は滅んだが、益田氏と周布氏は毛利の重臣として存続している。石見は平野が少ない土地柄なのだけど、都に戻っても出世の見込みがないから地方に活路を見出したというところか。

雪舟の新筆とされる屏風も展示されていた。遠近法は用いられていないが、手前の松や岩は太い描線で大胆に描き、後方のものは描線が細く淡くなっている。全体にモノトーンに近い色合いで構成されていて、ワンポイント的に赤が配色されている。鳥は羽毛が細かに描画されておりしっかり観察された上で描かれていることが分かる。

高弟の描いた屏風も展示されていて、こちらは金箔も使っているのか鮮やかだけど、桜だろうか、花が咲いた樹木の描写はまるでノイズリダクションが強くかかった画像のようなタッチだった。それは画像を拡大して分かるもので「塗り絵みたい」と言われたりするのだけど、結果的に似たような効果となっている。

毛利元就の肖像画は画像では見たことがあるはずだけど、実物をみるのは初めて。

奉納された馬の絵画も展示されていた。白馬と黒馬か。日照りの際と長雨の際とで奉納される馬の種類が異なるのだそうだけど、どちらがどちらなのかは忘れた。

大麻山の絵巻も展示されていた。かつてあった尊勝寺の模様が描かれている。現在日本庭園が設けられているのはどの辺りだったのかは判別できなかった。

一旦、トイレ休憩で外に出る。チケットを提示すれば再入場可能とのこと。

それからコレクション展に回る。「石見人 森林太郎、美術ヲ好ム」では森鴎外と親交のあった画家たちの作品が展示されていた。当時はまだ洋画の地位が低く、鴎外は洋画の地位を向上させるべく活発な評論活動を行ったとのこと。

洋の東西の異なる画風を今回同時に鑑賞することができた。

年表をみて気づいたのだが、三十代前半で要職についている。明治の人は若くして出世したというが、鴎外はその典型例であった。

次に「技と美 石見根付の世界」を鑑賞する。素材としては猪の牙が多かった。猪の牙はこんなに大きいのか、これに刺されたら確かに動脈まで傷つけられてしまうと感じた。他にも素材はあって、鯨歯が用いられているものもあった。

細かい細工が施されている。昔、チョコエッグという食玩が流行ったことがあって、チョコレートでコーティングされた卵型のカプセルの中に海洋堂の動物のフィギュアが入っているというものだった。僕も何種類か集めたのだけれど、小さいことに価値を見出すというのか、それに近い趣味性を感じた。

現代根付で蛙の交尾の様を彫った作品の着眼点が面白いなと思った。

最後は「コレクションにみる女性」。石見美術館に収蔵されている女性作家の作品を集めたもの。入口付近に展示されていた作品、メモをとることができず名前は失念したが、デンマークの女性美術家だった。年頃の娘を描いた絵が展示されているのだけど、その顔立ちが少女漫画のそれと似ていると感じた。1914年の作品だけど、およそ50~60年くらい先行していたといった感じだろうか。アールヌーボーか、そういった画風も漫画のルーツの一つなのかもしれない。

この絵はポストカードにして土産物売り場で売ってもいいのではないかと思った。そう思うのは僕くらいかもしれないが。僕は姉がいるので子供の頃から少女漫画は読んでいて抵抗感がないのはある。

見終えて、レストランで休憩する。ランチは11時から14時まで。およそ2500円くらい。地方の小都市のレストランとしては本格的なメニューだった。和牛ステーキは予約が必要とあった。食欲がなかったのでケーキセットを注文する。

グラントワのレストランから見た外側

休憩を含めて三時間ほどの滞在時間であった。平日だったので来場客は少なくじっくり鑑賞できた。雪舟の屏風はちょうど手前に長椅子が置かれていたので、そこに座ってずっと見ていたくもあった(尿意で退場したが)。

益田までは往復80㎞ほど。去年の12月に安彦良和展で訪れた際は引っ越しの疲労感が抜けておらず、翌日以降も数日間何も手につかなかった。今回も帰宅後、ドッと疲れが出た。前回に比べたら回復傾向にはあるけれど、体力がかなり落ちていることは否めない。どこまで戻すことができるか分からないが、ロングドライブが厳しくなっている。

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2025年4月 1日 (火)

新年度となりました

四月一日となり、新年度、令和七年度となりました。確か山陰道の三隅益田道路は今年度に開通予定でした。国道9号線は起伏の大きな道路ですが、開通すると平坦なルートとなり浜田市から益田市まで行くのが少し楽になります。

まあ、年度のいつとは明示されていないので、実質的には来年四月以降かもしれません。グラントワなどには行きやすくなります。

調べたところ、遠田ICで工事が難航していて該当箇所の完成は未定とのことですが、遠田から市街まではさほど距離がないのでかなり改善されることは確かでしょう。

現在進めている『石見の民話』二周目のロールバック作業はノートラブルで進行しても8月くらいまでかかるでしょう。関連書籍の読破が遅れ気味ですので、そちらで手間取るかもしれません。

『石見の民話』三周目は秋くらいから手をつけられたらというところですが、これもどういう風に記事を書けばいいのか、また手探りで進めていくことになりそうです。

……という訳で、といいますか、今乗っている車のナビの画面が劣化してほとんど見えない状態でして、車で出かけてあちこち見て回ることはできないのではないかと考えています。引っ越しで体力を消耗させて疲れやすくなっているという事情もあります。今年は写真撮影はあまりできないと考えています。

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2024年4月19日 (金)

益田市に復活した映画館が取り上げられる

NHK+で「さんいんスペシャル いいいじゅー!!「益田市」」を見る。益田市に映画館を復活させた夫婦が取材される。以前、益田市にも映画館はあったが、2008年に閉館していたとのこと。映画館の場所は駅裏のレジャービル内。益田駅からどういうルートで行くのか分からない。駐車場があるのかも分からない。旦那さんは東京のミニシアターで働いていた。益田市出身の奥さんと益田市に移住することにし、劇場を見て保存状態がよかったため復活を決意したとのこと。開業資金として2000万円が必要だった。クラウドファンディングと銀行からの融資、地元企業の協賛等で賄った。映画館一館の経営が成り立つには人口10万人必要だという。益田市の人口は4万4千人。収入は運営費に消えるという。生活費は音声データ起こしの副業で賄っているとのこと。30人くらい入れば利益が出る水準とのこと。顧客はシニア層が中心。高校生といったハイティーンの層の来場が少ないとのこと。今はオンデマンド配信が中心で、劇場で映画を見る体験をしていないのが大きいようだ。彼らをいかにして振り向かせるか。スクリーンは意外と大きい。相模原市の障がい者施設での大量殺傷事件を取り上げた映画を上映するなど独自の取り組みも行っている。観客と夫妻との会話があり、顧客の意見は随時汲み取っているようだ。

……応援してあげたい気持ちはあるが、諸事情で益田まで映画を見に行くのは難しそうだ。

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2024年1月21日 (日)

益田のVチューバ― 石見かぐら

NHK+で「しまねっとNEWS610」を見る。石見かぐらというVチューバーが紹介される。益田市を拠点にして石見神楽や益田市の情報発信を行っているとのこと。総再生回数25万回。愛称はポン。ポンコツのポンだとか。

プロデューサーは現在は益田には住んでいないが、益田に一年間Iターンした経験のある人が務めている。益田に住んでいるときに石見神楽の魅力に気づいたとのこと。

Vチューバーは芸能人のようなもので運営には数百万円くらいの費用がかかると読んだことがある。現時点では高性能のパソコンがあれば誰でもできるというものではないようだ。長続きさせるコツは中の人を変えないこと。不祥事などで中の人が降板してしまい、人気が激減した事例もあるという。

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2023年11月 4日 (土)

書いている人が同じだから

「石見の姫神伝説」のKENP(Kindle Unlimitedでの既読ページ数)が伸び悩んでいる。10から20ページくらいで離脱されている。冒頭記事は乙子狭姫。たぶん、これはブログで読んだ事があると思われるのだろう。リライトはしているのだが、なにぶん書いている人が同じだから同じ主張になってしまう。

ブログだとカラー写真を何枚も添付しているから、そちらの方がイメージしやすいというのもあるだろう。

ブログに書きためていたものを電子書籍化し、更にペーパーバック化した究極的な目標は図書館に寄贈して蔵書してもらって「ここまでは調べましたよ」と後世に記録を残すことである。

なので、儲けは二の次のつもりではあったのだけど、ここまで無反応だとさすがに寂しいものがある。

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2022年2月 9日 (水)

妾を妬む――小沙夜淵

◆あらすじ

 匹見(ひきみ)の小虫(こむし)に住んでいた斎藤家は七百年以上続いた旧家であるが、その十二代の斎藤治朗左衛門(じろうざえもん)が長者を務めていた時代のこと。

 治朗左衛門は近くから、お楽という人を妻として迎えた。夫婦仲はよく、周りから羨ましがられていたが、跡継ぎが生まれなかった。

 そこでお楽は治朗左衛門と相談して、小沙夜(おさよ)を妾(めかけ)として同居することになった。

 やがて小沙夜に待ち望んだ子供が生まれた。治朗左衛門の愛情は子供を通して自ずと小沙夜に移っていった。そのため、お楽は小沙夜を妬む気持ちが芽生えてきた。悶々とした日々が続き、終いには小沙夜を亡きものにしようと思うようになった。

 ある日、お楽と小沙夜は匹見川の渓谷に遊びに出かけた。小沙夜が淵の水しぶきを眺めていた時、お楽はここぞとばかりに短剣で小沙夜を刺し、すかさず淵に突き落とした。すると小沙夜は激流の中に消えていった。このとき、淵が小沙夜の鮮血で一面朱(あけ)に染まったので、この淵を赤淵と呼ぶようになった。

 良心の呵責にさいなまれたお楽には、その後平穏な日は一日も無かった。ついに錯乱したお楽は赤淵に身を投げた。と、見る間にお楽の姿は竜に変わり、火炎を岸壁に吹きつけて縦につんざき、女陰の形を残して昇天した。後世、この岸壁からたぎり出る水をお楽の滝と呼ぶようになった。

 二人の妻妾を失った治朗左衛門は沈んでいたが、遂に発心して懺悔のため諸国行脚に出かけた。やがて身をはかなんで近くの淵に身を投げて二人の跡を追った。この淵を治朗左衛門淵と呼ぶようになった。

 お楽は昇天の際、火炎を吹きつけて作ったという岸壁の縦皺は世に弁天様と称し、性病にご利益があるとして人々の信仰を集めた。

◆邑智郡の伝説

 邑智郡大和(だいわ)村(現・美郷[みさと町]字村之郷(むらのごう)の角谷(つのたに)川と宮内(みやうち)川との合流地点に蟠竜峡(ばんりゅうきょう)がある。

 付近を治める小笠原氏の家臣に玄太夫宗利(げんだゆうむねとし)という若いが武術に優れた軍師がいた。宗利は女断ちを信条としていたが、主君の小笠原長親(ながちか)は足利軍の撃退に功績があった宗利に愛娘をめとらせた。

 長親の娘は容色に優れていて、宗利は妻を愛したが、数年後、疫病にかかった妻は醜女(しこめ)となってしまった。その様なことがあって、宗利は美しい女中に心を奪われるようになってしまった。

 女中を疎んじた妻は一計を案じた。妻は宗利を誘い、女中を連れて蟠竜峡の遊山を楽しんだ。明鏡台(めいきょうだい)と呼ばれる岩頭で休憩中、妻は女中を下の淵に落とそうと背後から忍び寄った。

 それとは知らずに鬢(びん)のほつれを直そうと手鏡を取り出した女中は、鏡の中に嫉妬の形相で迫り来る奥方を認めた。一瞬、全てを悟った女中は死なばもろともと奥方の着物をつかんだ。二人はそのまま谷底に転落していった。驚いて駆け寄った宗利は二人が竜と化して争いながら落ちていくのを見た。

 涙にくれた宗利は蟇田(がまた)まで帰ると二人を悼んで自害してしまった。二人を呑んだ淵を鏡ヶ淵と呼ぶ。

 宗利の自害した一帯を宗利原といい、宗利の墓もそこにあるが、何度建て直しても常に蟠竜峡の方を向くと伝えられている。

◆余談

 邑智郡の伝説に似たようなあらすじの伝説があった。それは妻が妾を岸壁から突き落とそうとして、妾が妻の袂を掴んで共に落下したという筋立てになっている……と思っていたら角川書店『出雲・石見の伝説』に載っていた。見落としていた。

 旧大和村は美郷町に編入されたようだが、位置関係がよく把握できない。川本町から美郷町に向かう道は江川沿いなのだが、ジャスト一車線ですれ違いできない細い道なのである。何度も通りたい道ではない。むしろ大田市から行った方がよさそうだ。

 小笠原長親は石見小笠原氏の初代である。私が小学生の時の担任に小笠原先生がいて実家が江津のお寺さんだったが、戦争に敗れて仏門に入ったということを又聞きであるが聞いたことがある。

 「小沙夜淵」は宗近の伝説とほぼ同じ話型と言っていいだろう。宗近の伝説は十三世紀末の話とされているから、宗近の伝説の方が先にあったのだろう。それが伝播して匹見町で別の伝説として語られるようになったというところだろうか。

◆参考文献

・『夕陽を招く長者 山陰民話語り部シリーズ一』(民話の会「石見」, ハーベスト出版, 2013)pp.90-91.
・『出雲・石見の伝説 日本の伝説 48』(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.87-88.
・『日本の民話 34 石見篇』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.99-100.

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2022年2月 8日 (火)

米を貰ったばかりに――舟かずきの墓

◆あらすじ

 今から三百年ほど前(二〇二〇年代では三百四十年前)、蛇の久保(じゃのくぼ)に以下のような話が伝わっている。

 蛇の久保は山に囲まれていて、元々作物が獲れる土地ではなかった。ところで、その年はどうしたものか、夏になっても雨が降らず、ときには急に冷えてきて、とりわけ作物が獲れなかった。殊に米は田植えをするときに雨が降らなかったので一粒も獲れないと言ってよい程だった。

 だが、米は毎年決められたように藩に納めなければならなかった。食べる米さえ無いのに納めなくてはならない。百姓たちは困り果てた。

 相談した百姓たちは庄屋に頼んで藩の米を分けてもらう事にした。百姓たちの代表は何度も庄屋に頼んだ。百姓たちの厳しい暮らしを知っていた庄屋は決心して代官に願いに行くことにした。

 代官はまかりならんと断ったが、庄屋は引き下がらなかった。命さえあれば、来年はきっと米を納めると。

 代官は了承したが、美濃(みの)郡一帯が飢饉だから分け前は多くはなかった。

 モミ八斗が貸し与えられた。さっそくモミすりが始まった。誰も長い間米を食べてなかったから、モミすりが始まるが早いか、モミ殻をふいて生米をかじり出した。そのため、分け前の米が段々少なくなっていった。

 この様子をじっと眺めている彦兵衛という老人がいた。飢えのため骨と皮のようになっていた。老人を見た百姓の一人が一握りの米を手ぬぐいに包んでそっと渡した。

 老人が米を貰って帰ろうとすると、分配係の役人が来た。米を見ると、思ったより米が少ない。これは一体どうしたことか。誰か米を盗んだ者がいるのかとなった。

 誰も返事をしないので一人ずつ調べることになった。すると、米を入れた手ぬぐいを腰につけている老人に気がついた。不届きな奴だと老人は代官所の牢屋に入れられてしまた。そこで惨たらしい取り調べを受けた。弱った身体で折檻を受けたので、老人はとうとう死んでしまった。

 あとに残った百姓たちは、こんなことになるなら米をやらねばよかったと老人を哀れんだ。村人たちは老人を丁寧に弔った。

 庄屋が老人はきっと恨んで死んだだろう、あの世でせめて浮かばれるように水舟を被せてやろうと言った。そこで老人の棺の上に木をくり抜いて水をためる水舟を被せることにした。

 それからというもの、彦兵衛の墓を「舟かずきの墓」と呼ぶようになった(かずくは頭に乗せる、被るという意味)。今では立派な石碑を建て、二度とこんな飢饉が無いように老人の霊を祀っている。

◆余談

 大学のときの日本史概論で大飢饉は日本が三百諸国に分かれていたため流通の問題が背景にあったと教わった。江戸時代は気候が寒冷だったととも言うので、不順な天候が背景にあるのかもしれない。

◆参考文献

・『島根の伝説』(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1978)pp.116-121.

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2022年2月 7日 (月)

今日こそ勝つぞ――碁うち天狗

◆あらすじ

 匹見(ひきみ)川を遡って、しばらく行くと、平らな碁盤のような形の岩山がある。この辺りの人はこれを碁盤岳(ごばんだけ)と呼んでいる。また、川の東側の岩山を大天狗(おおてんぐ)、右側の岩山を小天狗(こてんぐ)と言っている。これは昔、大天狗には大天狗様が、小天狗には小天狗様が住んでいたからだ。

 どちらの天狗もこの碁盤岳へ来て、碁を打って遊んでいた。

 碁盤岳の下を流れる匹見川は鮎(あゆ)の獲れる川として有名だった。特に急流で鍛えられた鮎は碁盤のアユと言われ、特別の味であった。

 だが、この辺りは道らしい道はなく、鮎を獲りに行くのは大変なことだった。危ない所ではあったが、村人たちは、この素晴らしい鮎に惹かれて季節になると必ず獲りに来るのである。

 碁盤岳というのは碁盤岩があるから名がついたのである。大天狗の頂上近くに四角い大きな岩が乗りかかっている。遠くから見るとその岩は縦や横に筋が入っていて、ちょうど大きな碁盤の様に見える。これは大天狗様の碁盤である。碁の好きな小天狗様は毎晩のように大天狗様のところに遊びに行っては碁を打っていた。

 大きな碁盤を挟んで大天狗様と小天狗様の碁が始まった。パチリ、パチリと音がする。真夜中を過ぎたとこで勝負あった。また大天狗様が勝ったのである。大天狗様は大笑する。小天狗様は赤い顔を一層赤くして、もう二度と来ない、憶えておけとぷんぷんして帰っていく。

 今夜こそは勝ってやろうと思っていただけに腹立たしく、あたりの岩を力任せに蹴り上げたり、大きな岩をちぎって投げたり、さんざん暴れて小天狗の方へ帰って行くのである。

 ちょうどその頃、匹見の男が鮎を獲っていると、突然もの凄い音がした。男は何事かと暗闇をすかして見上げたが、何も分からなかった。続いて岩が崩れる音がするので、慌てて岩陰に身を隠したが小石一つ落ちてこない。

 あとになって、あの大きな音は小天狗様が碁に負けて、暴れて帰ったのだろうと村人たちは噂した。岩のくずれる音や、石が転がる音がしても一つも落ちてこないのは碁盤岳の上が平らで広いためだろうということになった。

 今でも夜に鮎を釣りに行くと大きな音がするという。やはり小天狗様が負けて帰られるところだろう。

◆余談

 高校二年生の頃、学校のクラブ活動で囲碁クラブに所属していたが、全くの初心者で何も分かっておらず負けてばかりだった。叔父は有段者で囲碁が強いのだが。

◆参考文献

・『島根の伝説』(島根県小・中学校国語教育研究会/編、日本標準、一九七八)三七―四一頁。

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2022年2月 6日 (日)

雪に閉じ込められる――なれあい観音

◆あらすじ

 昔、匹見(ひきみ)町伊源谷の奥に高くそびえている安蔵寺山(あぞうじやま)に禅寺があった。そこで和尚が修行をしていた。

 ある年の冬、雪が降り積もり、寺は雪に閉じ込められてしまった。とうとう食物がなくなったが、何せ高い山から大雪の中を麓の里へ下りることはできない。和尚はもう飢え死にするしかないと覚悟を決めていた。

 そうして何日も物を食べることができず弱り切った身体を休めていたところ、和尚の前に突然一頭の鹿が現れた。

 和尚は鹿に向かって、自分はもう長いこと何も食べていない。済まないがお前の腿(もも)の肉を少し食べさせてもらえないかと言った。すると、鹿はこくりと頷いた。

 和尚は喜んで南無阿弥陀仏と唱えながら鹿の腿肉をもらい、それを煮て食べた。それでようやく命を繋ぐことができた。

 春になって伊源谷辺りでは雪が解けた。その頃になると寺参りの人たちが麓の方から沢山やってきた。

 村の人たちは長い雪の下で和尚さまはさぞかし困っているだろうと思って色々な食べ物を持ってきた。ところが和尚はことのほか元気だった。和尚は鹿の肉を食べて元気であったことを話した。
 皆もひとつその鹿の肉を食べてみないかねと言って戸棚から出してきたものを見ると、鹿の肉はいつの間にか、こけら(木の皮)になってしまっていた。

 和尚はびっくりして、ご本尊の観音さまの前に行って拝んだ。ところが不思議なことに観音さまの腿が切り取られていたようになっていて、そこから血がたらたらと流れていた。

 あの鹿は観音さまだったのか、和尚はそのことに気づいて、余りのもったいなさに涙を流しながら震える手で、はよう、よう、なれあい(早くよくなってください)、なれあい、なれあいと唱えながら、観音さまの腿をさすると、元通りになった。それからは、なれあい観音といって祀られた。

◆余談

 匹見町は今は益田市に編入されているが、行ったことはない。島根県西部にして雪深い地域であると聞く。山葵(わさび)が名産である。

 安蔵寺山は県境に接しない山としては島根県最高峰とのことである。

◆参考文献

・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.159-161.
・「島根のむかし話」(島根県小・中学校国語教育研究会/編著, 日本標準, 1976)pp.227-229.
・『日本の民話 34 石見篇 第一集第二集』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.352-353

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2022年2月 4日 (金)

山伏、鳴神と戦う――うどうど墓

◆あらすじ

 昔、遠田(とおだ)に三五郎(さんごろう)という百姓のせがれがいた。小さいときから身体が大きく力が強かった。家は貧しかったが、真面目に働いていた。

 ところが、ある日の事、仕事先から帰った三五郎は自分はもっと人の為になるようなことがしたいと言い出した。三五郎の父はそんな大口は叩くものではないと諫めたが、三五郎は百姓は大雨が降ると困る。日照りが続いても困る。なんとかならんものかと思うと答えた。

 三五郎は山伏になろうと考えた。山伏になれば不思議な力が授かるという。そうすれば困っている人を助けることができると決めた。

 こっそり家を出た三五郎は別所権現(べっしょごんげん)の森に籠もって修行を始めた。

 厳しい修行が三年続いた。ある秋のこと。この年、益田地方には毎日のように鳴神(なるかみ:かみなり)が荒れ狂い、雨が降り続けた。水が溢れて田畑を押し流し、稲の苗も種ものもみな腐ってしまった。

 三五郎はこんなときこそ百姓たちを救ってやりたかった。だが、今は未だ修行中で鳴神を倒せる力はない。悔しいがどうすることもできなかった。

 やがて、権現さまの秋祭りがやって来た。今年は作物の出来が悪かったので水鳥をお供えした。腹がすいていた三五郎は思わず食べてしまった。

 すると、山伏になろうとする者が腹が減ったからといって、お供えものに手を出すとは何事かという権現さまの声がして三五郎は社を追い出されてしまった。

 自分が悪かった。かくなる上はせめてもの償いになんとしてでも鳴神を倒し長雨を止めさせると三五郎は誓った。

 三五郎は原ヶ溢(はらがえき)と呼ばれる森の中に腰を下ろしていた。すると、天の一角から真っ黒な雲が近づいてきたかと思うと、三五郎の上でぴたりと止まった。そして雲の中から、山伏の姿の者、我は鳴神である。我が森に何をしに来たかという声が響いた。

 三五郎は長雨を止めさせなければ鳴神を退治すると言い返した。三五郎を嘲笑った鳴神は火の玉となって三五郎にぶつかって来た。三五郎は手にした錫杖(鉄の杖)で受け止めた。

 火花が散り、辺りは一瞬、真昼のように明るくなった。次の瞬間、物凄い音と共に三五郎の身体は十間(約十八メートル)も投げ飛ばされていた。

 森の方から聞こえた物凄い音に村人たちは何事かと駆けつけて来た。

 見ると、山伏姿の三五郎が死んでおり、近くには大きな穴がぽっかりと開いていた。三五郎の体内を駆け巡った鳴神が地中深く潜った跡であった。

 三五郎の顔にはかすかな笑いが浮かんでいた。鳴神を退治した手ごたえを感じていたのである。

 それから後、長雨はぴたりと止んだ。久しぶりのお日さまに田畑の作物も息を吹き返した。

 村人たちは三五郎が倒れていた場所に石の塚を建てて村の恩人として祀った。後に森は切り開かれ、広い田に変わったが、その田はいまも三五郎田と呼ばれている。

 この辺りには鴨や山鳥がよく飛んでくる。が、鳥を撃とうとすると、どこからか「うどうど、うどうど……」と囁くような声がして、鳥は逃げてしまうという。

 きっと塚の中の三五郎が権現さまにお供えした水鳥を喰ってしまった申し訳なさから今でも水鳥たちを守っているのだろう。それで三五郎の塚のことをいつしか「うどうど墓」と呼ぶようになった。

◆余談

 遠田八幡宮にはお参りしたことがありますが、別所権現はどこなのか分かりません。遠田周辺は開けて田んぼになっていますが、昔に開拓されたということでしょう。

◆参考文献

・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.64-72.

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