益田市

2022年2月 9日 (水)

妾を妬む――小沙夜淵

◆あらすじ

 匹見(ひきみ)の小虫(こむし)に住んでいた斎藤家は七百年以上続いた旧家であるが、その十二代の斎藤治朗左衛門(じろうざえもん)が長者を務めていた時代のこと。

 治朗左衛門は近くから、お楽という人を妻として迎えた。夫婦仲はよく、周りから羨ましがられていたが、跡継ぎが生まれなかった。

 そこでお楽は治朗左衛門と相談して、小沙夜(おさよ)を妾(めかけ)として同居することになった。

 やがて小沙夜に待ち望んだ子供が生まれた。治朗左衛門の愛情は子供を通して自ずと小沙夜に移っていった。そのため、お楽は小沙夜を妬む気持ちが芽生えてきた。悶々とした日々が続き、終いには小沙夜を亡きものにしようと思うようになった。

 ある日、お楽と小沙夜は匹見川の渓谷に遊びに出かけた。小沙夜が淵の水しぶきを眺めていた時、お楽はここぞとばかりに短剣で小沙夜を刺し、すかさず淵に突き落とした。すると小沙夜は激流の中に消えていった。このとき、淵が小沙夜の鮮血で一面朱(あけ)に染まったので、この淵を赤淵と呼ぶようになった。

 良心の呵責にさいなまれたお楽には、その後平穏な日は一日も無かった。ついに錯乱したお楽は赤淵に身を投げた。と、見る間にお楽の姿は竜に変わり、火炎を岸壁に吹きつけて縦につんざき、女陰の形を残して昇天した。後世、この岸壁からたぎり出る水をお楽の滝と呼ぶようになった。

 二人の妻妾を失った治朗左衛門は沈んでいたが、遂に発心して懺悔のため諸国行脚に出かけた。やがて身をはかなんで近くの淵に身を投げて二人の跡を追った。この淵を治朗左衛門淵と呼ぶようになった。

 お楽は昇天の際、火炎を吹きつけて作ったという岸壁の縦皺は世に弁天様と称し、性病にご利益があるとして人々の信仰を集めた。

◆邑智郡の伝説

 邑智郡大和(だいわ)村(現・美郷[みさと町]字村之郷(むらのごう)の角谷(つのたに)川と宮内(みやうち)川との合流地点に蟠竜峡(ばんりゅうきょう)がある。

 付近を治める小笠原氏の家臣に玄太夫宗利(げんだゆうむねとし)という若いが武術に優れた軍師がいた。宗利は女断ちを信条としていたが、主君の小笠原長親(ながちか)は足利軍の撃退に功績があった宗利に愛娘をめとらせた。

 長親の娘は容色に優れていて、宗利は妻を愛したが、数年後、疫病にかかった妻は醜女(しこめ)となってしまった。その様なことがあって、宗利は美しい女中に心を奪われるようになってしまった。

 女中を疎んじた妻は一計を案じた。妻は宗利を誘い、女中を連れて蟠竜峡の遊山を楽しんだ。明鏡台(めいきょうだい)と呼ばれる岩頭で休憩中、妻は女中を下の淵に落とそうと背後から忍び寄った。

 それとは知らずに鬢(びん)のほつれを直そうと手鏡を取り出した女中は、鏡の中に嫉妬の形相で迫り来る奥方を認めた。一瞬、全てを悟った女中は死なばもろともと奥方の着物をつかんだ。二人はそのまま谷底に転落していった。驚いて駆け寄った宗利は二人が竜と化して争いながら落ちていくのを見た。

 涙にくれた宗利は蟇田(がまた)まで帰ると二人を悼んで自害してしまった。二人を呑んだ淵を鏡ヶ淵と呼ぶ。

 宗利の自害した一帯を宗利原といい、宗利の墓もそこにあるが、何度建て直しても常に蟠竜峡の方を向くと伝えられている。

◆余談

 邑智郡の伝説に似たようなあらすじの伝説があった。それは妻が妾を岸壁から突き落とそうとして、妾が妻の袂を掴んで共に落下したという筋立てになっている……と思っていたら角川書店『出雲・石見の伝説』に載っていた。見落としていた。

 旧大和村は美郷町に編入されたようだが、位置関係がよく把握できない。川本町から美郷町に向かう道は江川沿いなのだが、ジャスト一車線ですれ違いできない細い道なのである。何度も通りたい道ではない。むしろ大田市から行った方がよさそうだ。

 小笠原長親は石見小笠原氏の初代である。私が小学生の時の担任に小笠原先生がいて実家が江津のお寺さんだったが、戦争に敗れて仏門に入ったということを又聞きであるが聞いたことがある。

 「小沙夜淵」は宗近の伝説とほぼ同じ話型と言っていいだろう。宗近の伝説は十三世紀末の話とされているから、宗近の伝説の方が先にあったのだろう。それが伝播して匹見町で別の伝説として語られるようになったというところだろうか。

◆参考文献

・『夕陽を招く長者 山陰民話語り部シリーズ一』(民話の会「石見」, ハーベスト出版, 2013)pp.90-91.
・『出雲・石見の伝説 日本の伝説 48』(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.87-88.
・『日本の民話 34 石見篇』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.99-100.

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2022年2月 8日 (火)

米を貰ったばかりに――舟かずきの墓

◆あらすじ

 今から三百年ほど前(二〇二〇年代では三百四十年前)、蛇の久保(じゃのくぼ)に以下のような話が伝わっている。

 蛇の久保は山に囲まれていて、元々作物が獲れる土地ではなかった。ところで、その年はどうしたものか、夏になっても雨が降らず、ときには急に冷えてきて、とりわけ作物が獲れなかった。殊に米は田植えをするときに雨が降らなかったので一粒も獲れないと言ってよい程だった。

 だが、米は毎年決められたように藩に納めなければならなかった。食べる米さえ無いのに納めなくてはならない。百姓たちは困り果てた。

 相談した百姓たちは庄屋に頼んで藩の米を分けてもらう事にした。百姓たちの代表は何度も庄屋に頼んだ。百姓たちの厳しい暮らしを知っていた庄屋は決心して代官に願いに行くことにした。

 代官はまかりならんと断ったが、庄屋は引き下がらなかった。命さえあれば、来年はきっと米を納めると。

 代官は了承したが、美濃(みの)郡一帯が飢饉だから分け前は多くはなかった。

 モミ八斗が貸し与えられた。さっそくモミすりが始まった。誰も長い間米を食べてなかったから、モミすりが始まるが早いか、モミ殻をふいて生米をかじり出した。そのため、分け前の米が段々少なくなっていった。

 この様子をじっと眺めている彦兵衛という老人がいた。飢えのため骨と皮のようになっていた。老人を見た百姓の一人が一握りの米を手ぬぐいに包んでそっと渡した。

 老人が米を貰って帰ろうとすると、分配係の役人が来た。米を見ると、思ったより米が少ない。これは一体どうしたことか。誰か米を盗んだ者がいるのかとなった。

 誰も返事をしないので一人ずつ調べることになった。すると、米を入れた手ぬぐいを腰につけている老人に気がついた。不届きな奴だと老人は代官所の牢屋に入れられてしまた。そこで惨たらしい取り調べを受けた。弱った身体で折檻を受けたので、老人はとうとう死んでしまった。

 あとに残った百姓たちは、こんなことになるなら米をやらねばよかったと老人を哀れんだ。村人たちは老人を丁寧に弔った。

 庄屋が老人はきっと恨んで死んだだろう、あの世でせめて浮かばれるように水舟を被せてやろうと言った。そこで老人の棺の上に木をくり抜いて水をためる水舟を被せることにした。

 それからというもの、彦兵衛の墓を「舟かずきの墓」と呼ぶようになった(かずくは頭に乗せる、被るという意味)。今では立派な石碑を建て、二度とこんな飢饉が無いように老人の霊を祀っている。

◆余談

 大学のときの日本史概論で大飢饉は日本が三百諸国に分かれていたため流通の問題が背景にあったと教わった。江戸時代は気候が寒冷だったととも言うので、不順な天候が背景にあるのかもしれない。

◆参考文献

・『島根の伝説』(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1978)pp.116-121.

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2022年2月 7日 (月)

今日こそ勝つぞ――碁うち天狗

◆あらすじ

 匹見(ひきみ)川を遡って、しばらく行くと、平らな碁盤のような形の岩山がある。この辺りの人はこれを碁盤岳(ごばんだけ)と呼んでいる。また、川の東側の岩山を大天狗(おおてんぐ)、右側の岩山を小天狗(こてんぐ)と言っている。これは昔、大天狗には大天狗様が、小天狗には小天狗様が住んでいたからだ。

 どちらの天狗もこの碁盤岳へ来て、碁を打って遊んでいた。

 碁盤岳の下を流れる匹見川は鮎(あゆ)の獲れる川として有名だった。特に急流で鍛えられた鮎は碁盤のアユと言われ、特別の味であった。

 だが、この辺りは道らしい道はなく、鮎を獲りに行くのは大変なことだった。危ない所ではあったが、村人たちは、この素晴らしい鮎に惹かれて季節になると必ず獲りに来るのである。

 碁盤岳というのは碁盤岩があるから名がついたのである。大天狗の頂上近くに四角い大きな岩が乗りかかっている。遠くから見るとその岩は縦や横に筋が入っていて、ちょうど大きな碁盤の様に見える。これは大天狗様の碁盤である。碁の好きな小天狗様は毎晩のように大天狗様のところに遊びに行っては碁を打っていた。

 大きな碁盤を挟んで大天狗様と小天狗様の碁が始まった。パチリ、パチリと音がする。真夜中を過ぎたとこで勝負あった。また大天狗様が勝ったのである。大天狗様は大笑する。小天狗様は赤い顔を一層赤くして、もう二度と来ない、憶えておけとぷんぷんして帰っていく。

 今夜こそは勝ってやろうと思っていただけに腹立たしく、あたりの岩を力任せに蹴り上げたり、大きな岩をちぎって投げたり、さんざん暴れて小天狗の方へ帰って行くのである。

 ちょうどその頃、匹見の男が鮎を獲っていると、突然もの凄い音がした。男は何事かと暗闇をすかして見上げたが、何も分からなかった。続いて岩が崩れる音がするので、慌てて岩陰に身を隠したが小石一つ落ちてこない。

 あとになって、あの大きな音は小天狗様が碁に負けて、暴れて帰ったのだろうと村人たちは噂した。岩のくずれる音や、石が転がる音がしても一つも落ちてこないのは碁盤岳の上が平らで広いためだろうということになった。

 今でも夜に鮎を釣りに行くと大きな音がするという。やはり小天狗様が負けて帰られるところだろう。

◆余談

 高校二年生の頃、学校のクラブ活動で囲碁クラブに所属していたが、全くの初心者で何も分かっておらず負けてばかりだった。叔父は有段者で囲碁が強いのだが。

◆参考文献

・『島根の伝説』(島根県小・中学校国語教育研究会/編、日本標準、一九七八)三七―四一頁。

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2022年2月 6日 (日)

雪に閉じ込められる――なれあい観音

◆あらすじ

 昔、匹見(ひきみ)町伊源谷の奥に高くそびえている安蔵寺山(あぞうじやま)に禅寺があった。そこで和尚が修行をしていた。

 ある年の冬、雪が降り積もり、寺は雪に閉じ込められてしまった。とうとう食物がなくなったが、何せ高い山から大雪の中を麓の里へ下りることはできない。和尚はもう飢え死にするしかないと覚悟を決めていた。

 そうして何日も物を食べることができず弱り切った身体を休めていたところ、和尚の前に突然一頭の鹿が現れた。

 和尚は鹿に向かって、自分はもう長いこと何も食べていない。済まないがお前の腿(もも)の肉を少し食べさせてもらえないかと言った。すると、鹿はこくりと頷いた。

 和尚は喜んで南無阿弥陀仏と唱えながら鹿の腿肉をもらい、それを煮て食べた。それでようやく命を繋ぐことができた。

 春になって伊源谷辺りでは雪が解けた。その頃になると寺参りの人たちが麓の方から沢山やってきた。

 村の人たちは長い雪の下で和尚さまはさぞかし困っているだろうと思って色々な食べ物を持ってきた。ところが和尚はことのほか元気だった。和尚は鹿の肉を食べて元気であったことを話した。
 皆もひとつその鹿の肉を食べてみないかねと言って戸棚から出してきたものを見ると、鹿の肉はいつの間にか、こけら(木の皮)になってしまっていた。

 和尚はびっくりして、ご本尊の観音さまの前に行って拝んだ。ところが不思議なことに観音さまの腿が切り取られていたようになっていて、そこから血がたらたらと流れていた。

 あの鹿は観音さまだったのか、和尚はそのことに気づいて、余りのもったいなさに涙を流しながら震える手で、はよう、よう、なれあい(早くよくなってください)、なれあい、なれあいと唱えながら、観音さまの腿をさすると、元通りになった。それからは、なれあい観音といって祀られた。

◆余談

 匹見町は今は益田市に編入されているが、行ったことはない。島根県西部にして雪深い地域であると聞く。山葵(わさび)が名産である。

 安蔵寺山は県境に接しない山としては島根県最高峰とのことである。

◆参考文献

・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.159-161.
・「島根のむかし話」(島根県小・中学校国語教育研究会/編著, 日本標準, 1976)pp.227-229.
・『日本の民話 34 石見篇 第一集第二集』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.352-353

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2022年2月 4日 (金)

山伏、鳴神と戦う――うどうど墓

◆あらすじ

 昔、遠田(とおだ)に三五郎(さんごろう)という百姓のせがれがいた。小さいときから身体が大きく力が強かった。家は貧しかったが、真面目に働いていた。

 ところが、ある日の事、仕事先から帰った三五郎は自分はもっと人の為になるようなことがしたいと言い出した。三五郎の父はそんな大口は叩くものではないと諫めたが、三五郎は百姓は大雨が降ると困る。日照りが続いても困る。なんとかならんものかと思うと答えた。

 三五郎は山伏になろうと考えた。山伏になれば不思議な力が授かるという。そうすれば困っている人を助けることができると決めた。

 こっそり家を出た三五郎は別所権現(べっしょごんげん)の森に籠もって修行を始めた。

 厳しい修行が三年続いた。ある秋のこと。この年、益田地方には毎日のように鳴神(なるかみ:かみなり)が荒れ狂い、雨が降り続けた。水が溢れて田畑を押し流し、稲の苗も種ものもみな腐ってしまった。

 三五郎はこんなときこそ百姓たちを救ってやりたかった。だが、今は未だ修行中で鳴神を倒せる力はない。悔しいがどうすることもできなかった。

 やがて、権現さまの秋祭りがやって来た。今年は作物の出来が悪かったので水鳥をお供えした。腹がすいていた三五郎は思わず食べてしまった。

 すると、山伏になろうとする者が腹が減ったからといって、お供えものに手を出すとは何事かという権現さまの声がして三五郎は社を追い出されてしまった。

 自分が悪かった。かくなる上はせめてもの償いになんとしてでも鳴神を倒し長雨を止めさせると三五郎は誓った。

 三五郎は原ヶ溢(はらがえき)と呼ばれる森の中に腰を下ろしていた。すると、天の一角から真っ黒な雲が近づいてきたかと思うと、三五郎の上でぴたりと止まった。そして雲の中から、山伏の姿の者、我は鳴神である。我が森に何をしに来たかという声が響いた。

 三五郎は長雨を止めさせなければ鳴神を退治すると言い返した。三五郎を嘲笑った鳴神は火の玉となって三五郎にぶつかって来た。三五郎は手にした錫杖(鉄の杖)で受け止めた。

 火花が散り、辺りは一瞬、真昼のように明るくなった。次の瞬間、物凄い音と共に三五郎の身体は十間(約十八メートル)も投げ飛ばされていた。

 森の方から聞こえた物凄い音に村人たちは何事かと駆けつけて来た。

 見ると、山伏姿の三五郎が死んでおり、近くには大きな穴がぽっかりと開いていた。三五郎の体内を駆け巡った鳴神が地中深く潜った跡であった。

 三五郎の顔にはかすかな笑いが浮かんでいた。鳴神を退治した手ごたえを感じていたのである。

 それから後、長雨はぴたりと止んだ。久しぶりのお日さまに田畑の作物も息を吹き返した。

 村人たちは三五郎が倒れていた場所に石の塚を建てて村の恩人として祀った。後に森は切り開かれ、広い田に変わったが、その田はいまも三五郎田と呼ばれている。

 この辺りには鴨や山鳥がよく飛んでくる。が、鳥を撃とうとすると、どこからか「うどうど、うどうど……」と囁くような声がして、鳥は逃げてしまうという。

 きっと塚の中の三五郎が権現さまにお供えした水鳥を喰ってしまった申し訳なさから今でも水鳥たちを守っているのだろう。それで三五郎の塚のことをいつしか「うどうど墓」と呼ぶようになった。

◆余談

 遠田八幡宮にはお参りしたことがありますが、別所権現はどこなのか分かりません。遠田周辺は開けて田んぼになっていますが、昔に開拓されたということでしょう。

◆参考文献

・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.64-72.

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2022年1月24日 (月)

益田で一番のため池――願長堤

◆あらすじ

 昔、川登(かわと)のお寺に願長(がんちょう)という住職がいた。開祖は山口から来た大内氏の家臣であった。

 近所に年頃の娘が住んでいたので、願長は縁談の話を持っていった。相手は山口の江崎の人だった。結納も無事に済み、願長は胸をなで下ろした。

 ところが、娘の気が急に変わり、嫁には行かんと断ってきた。ある日、娘の家の前を通りかかった時、娘は着物の裾をめくり、尻を叩いて願長を馬鹿にして罵った。願長ははらわたが煮えくりかえった。武士の血が騒いだ。その日のうちに隣町の金物屋に行って刃物を買った。そして寺に戻ると、娘をおびき出して殺してしまった。

 それ以来、その周りの土地は作物が育たなくなった。

 このことが津和野のお殿様に知れて、僧でありながら人を殺すとはけしからん。罰として大豆の俵を三里浜まで並べるほど作るか、村全体の田んぼを潤すほどの大きな堤を作るか、どちらかしたら罪を許してやろうといった。

 願長は悪いことをしたのだから、後世に残ることをしようと、大きな堤を作ることにした。そして村人を雇って大工事が始まった。にぎり飯用に毎日一俵の塩が使われた。

 そうして二十七年かけて堤が出来た。そして自分も反省し、皆に感謝した。後に死ぬときに自分は罪人だから墓は建ててくれるなと遺言したので、みすぼらしい墓が作られた。

 こうして罪滅ぼしに作られた池が後に願長堤と言われるようになった。今でも堤の傍らに僧願長頌徳碑が建っている。

◆出典

 この伝説の出典は島根大学昔話研究会『益田の民話』とあります。頌徳碑が建てられたのは昭和八年とあります。総面積四町歩(四ヘクタール)、工期は寛永十年(一六三三年)から万治(まんじ)三年(一六六〇年)までで、二十七年を費やし、人力だけで立派な堤を造り上げた偉業であるとしています。

◆余談

 この話は『夕陽を招く長者』に付属のDVDを視聴していて知りました。益田市の話ですが、どこに堤があるのか分かりません。益田市で最も大きなため池だそうです。関連するWEBサイトでは雁丁堤と表記しています。

 尻を見せたということは着物の裾をまくって見せたということでしょう。伝説では願長が怒っていますが、昔話では裾をまくって尻を見せたところ、鬼が大笑いして危機を逃れるという筋立てになっています。

◆参考文献

・『夕陽を招く長者 山陰民話語り部シリーズ一』(民話の会「石見」, ハーベスト出版, 2013)pp.93-95.
・『昔ばなしの謎 あの世とこの世の神話学』(古川のり子, 角川書店, 2016)

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2021年12月26日 (日)

馬洗いの水――島根県における白米城の伝説

◆あらすじ

 益田市の桂が平(かつらがひら)に横山城があった。今から四百五十年ほど前(二〇二〇年代では四百九十年前)に周防の国の陶(すえ)尾張守が大軍で横山城を攻めた。寄せ手の軍勢は一万の大軍。一方、守る方は千人にも満たない小勢であった。寄せ手は四方から城を攻めたが、堅固な山城はたやすくは落ちなかった。

 五月となった。城の食料はどうにか持ちこたえていたが、水が不足してきた。谷のあちこちや城内に井戸が掘ってあったものの、四月になってから雨がほとんど降らない。加えて五月の日照りは例年になかった。そこで城中では水が少なくて困っていることを敵方に悟られないように気をつかった。

 敵方の見張りの者は水が不足しているようだと報告した。そこで敵方は川をせき止め、谷に見張りを置いた。困ったのは城中の者たちである。

 いっそひと思いに城を出て戦おうという意見も出た。城主の喜島(きじま)備後守は評定(会議)を開いた。誰も名案が無かった。討ち死にするか城を明け渡すか選択を迫られた。そこに若者が自分に考えがあると意見した。若者は敵の見張りに城中に十分な水があると見せるべしと進言した。どのようにするのか問われたが、若者は自信たっぷりで自らの考えを説明した。

 満月の夜、城の広場に馬が四、五頭引き出された。そして水桶になみなみと入った水が馬の背に掛けられた。この様子を窺っていた陶方の見張りは驚いた。見張りの者は急いで帰って報告した。

 あくる朝も馬が水で洗われた。敵方は隠し井戸でもあるのかと驚いた。それから間もなく陶方の軍勢は引き上げた。この暑さでは攻め手の方がやられてしまうと考えたのである。

 実は米を水に見せかけていたのである。若者が述べた案は白い米を馬に掛けて水の様に見せるということだった。横山城は、それ以後も長く無事に続いた……というお話。

◆白米城

 いわゆる白米城の伝説です。日本標準の伝説シリーズで南関東の図書館で所蔵しているものを何冊か読みましたが、白米城の伝説はその多くに掲載されています。益田では横山城の伝説として残されているという訳です。

 伝説の多くでは、仕掛けを敵に見破られて落城するという話型が多いとのことです。益田の伝説では難を逃れる訳で、少数派に属するというところでしょうか。

◆余談

 横山城はどこにあるのか、未訪問です。インターネットの山城を解説したサイトに情報があります。

◆参考文献

・『島根の伝説』(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1978)227―233頁。
・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.109-110, 181-188.

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2021年5月 5日 (水)

女神のキャラクター性

Twitterで「乙子狭姫」もしくは「胸鉏姫」と検索すると画像がヒットする。「ソラとウミのアイダ」というゲームを中心としたメディアミックスで未実装に終わったものの、乙子狭姫と胸鉏比売がキャラクターとして取り込まれていることが分かる。他にも乙子狭姫はカードゲームのキャラクターとしても登場している。「豊熟の女神オトゴサヒメ」とある。背景に赤雁の姿が描かれているので間違いない。乙子狭姫と胸鉏比売のキャラクター性が認められたということだろう。まあ、神社の祭神というより例えば桃太郎やかぐや姫に近い存在なので流用し易いということなのだろう。天豊足柄姫命や櫛代賀姫命だと同じ様にはいかないかもしれない。

乙子狭姫の画像
胸鉏姫の画像
豊熟の女神オトゴサヒメの画像

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2020年12月27日 (日)

構成と語り――胸鉏比売と乙子狭姫の事例より

以下、島根県の伝説に登場する胸鉏比売(むなすきひめ)と乙子狭姫(おとごさひめ)の伝説を取り上げる。両者の伝説を構成的にとらえるとモチーフとモチーフの接続に違和感のある語り口となってしまう事例として分析してみる。

◆胸鉏比売

島根県江津市に田心姫もしくは胸鉏比売の伝説がある。これは石見国の式内社である津門神社にまつわる伝説であるが、下記の様な粗筋である。

神代の昔、今の波子(はし)海岸に箱舟に乗った幼い女の子が流れ着いた。身なりから高貴な家柄の子らしい。翁(おきな)と媼(おうな)が拾い育てることとなった。
姫はすくすくと成長したが、何を訊かれても答えない。どこから来たか問われると東の方向を指すのみ。翁たちの手伝いはせず弓矢の稽古に明け暮れる。
ある日、東の空に狼煙があがったのを見てようやく姫は自分の素性を明かした。幼い頃心が荒々しかったので父である須佐之男命の怒りに触れ流された田心姫(たごりひめ)であった。出雲は十羅という国に攻められて苦戦している。田心姫が戻れば勝つであろうと夢のお告げがあった。姫は出雲を襲う敵と戦うために石見を離れ、出雲に戻る。
それを悲しんだ翁と媼は姫の後を追うが姫は岩陰に隠れて翁たちをやり過ごす。姫を見失った翁と媼は浅利の海岸で力尽き、はかなくなってしまった。出雲に戻った田心姫はたちまちのうちに十羅の賊徒を撃退。十羅刹女の名を賜った。

……というものである。これは日本標準「島根の伝説」に収録された「出雲を救った田心比売」を要約したものであるが、大島幾太郎「那賀郡誌」にほぼ同様の伝説が胸鉏比売の伝説として収録されている。

海岸に漂着した幼い姫を拾って育てるというモチーフはかぐや姫モチーフであると言えるだろう。かぐや姫モチーフの帰結として、姫は出雲へ帰ってしまうのだが、終盤の語り口に特徴がある。姫の跡を追った爺さんと婆さんは浅利の海岸で力尽きて亡くなってしまう。ここで終われば悲しい物語として終わるのであるが、伝説には続きがあり、出雲に戻った姫は賊徒を撃退し十羅刹女の名を賜ったと結ばれているのである。

お爺さんとお婆さんは亡くなってしまいました。一方、姫は賊徒を撃退して出雲は平和になりましたメデタシメデタシとして終わるのである。不思議な語り口である。

爺と婆の死という悲しいモチーフの直後に賊を撃退、平和になってメデタシメデタシという勝利のモチーフを持ってきて終わる。育て親の死のモチーフの次に姫の勝利のモチーフが来るのである。これには違和感を覚えないだろうか。二重の締めくくり方をしているのである。それだけにモチーフとモチーフの接続に違和感をきたしており、構成的に難のある事例である。

考えてみるに、お話の冒頭に出雲に平和をもたらした姫の名を上げ、そこから海岸に漂着するという回想形式風に話を組み立てれば違和感が少ないのではないか。

◆乙子狭姫

次に、島根県益田市の乙子狭姫の伝説を挙げる。これも石見国式内社である佐毘売山神社に所縁の伝説である。伝説は前段と後段からなるが、両方を収録したもので最も手にとり易いと思われるみずうみ書房「日本伝説大系 第十一巻 山陰(鳥取・島根)」を挙げておく。穀物の起源譚として冒頭に収録されている。

仮に前段を「ちび姫さん」、後段を「狭姫と巨人」としておく。粗筋は本によって多少異なるが概ね下記の通りである。

ちび姫さん
ちび姫さんは雁の背に乗るほど小さい。乙子狭姫(おとごさひめ)という名で、古事記に登場するオホゲツヒメ(大宜都比売命)の娘である。この伝承では、新羅のソシモリに住む気の荒い神が、オホゲツヒメの体はいったいどんな仕組みになっているのか(オホゲツヒメの体をなでると作物の種が自由にでる)調べようと、ヒメを斬ってしまう。
息も絶え絶えのオホゲツヒメだが、「幼い(いとけない)お前を残して逝くのは心残りでならない。お前に千年も万年も尽きぬ宝をやろう」と言い残す。
悲しみにくれる狭姫だが、母神の遺骸から五穀の種が芽生えた。赤雁が舞い降り、旅立つことを促す。そこで乙子狭姫は雁に乗って旅立ち、途中、高島や須津の大島に降りようとしたところヤマツミ(山祇)の遣いである鷹や鷲に「我は肉を喰らう故、穀物の種なぞいらん」と断られてしまう。鎌手の亀島で一休みした後、ようやく今の益田市赤雁町の天道山に降り立ち、それから比礼振山に種の里を開いて五穀の種を伝えたという話である。

狭姫と巨人
狭姫はダイダラボッチを思わせる巨人に出くわした。大山祇巨人(ヤマツミ神のことか)という名の巨人に悪意は無いが、動き回る度に大騒動である。狭姫も逃げ惑ったが、何せ小さき体故どうにもならない。
命からがら逃げ帰った狭姫であったが、ある日大穴の中で寝ている巨人に声をかけた。巨人は大山祇巨人の子で“オカミ”という名(“オカミ”は岡見の地名を取り込んだもの)であった。オカミの尊大な態度に狭姫はたじろいでしまうが、直接お目にかかりたい、と強い態度で申し出ると、「我は頭だけが人で体は蛇のようだから人も神も驚いて気を失うであろう、人を驚かすことは悪いことだから見ない方がお互いのためである」と“オカミ”は急に態度を改めてしまう。
“オカミ”は兄の足長土――“あしながつち”とも“あしなづち”とも読む――に会うよう告げた。やはり巨人でうっかりすると踏み殺されかねない。
これでは安らかな国造りはできない、狭姫は考えた。
そんなある日、狭姫は海岸で手長土(てながつち)という女の巨人と出会った。夫はあるかと問うと、「かように手長なれば」と手長土は答えた。手が長いのを恥じる手長土を狭姫は自分も人並み外れたちびだけど種を広める務めがある。手長土には手長土の務めがあると慰めた。
どこかよい土地はないかと赤雁に乗ってあちこち飛び回る狭姫。狭姫は足長土と手長土を娶わせ、巨人共々三瓶山の麓の広い土地に住まわせることにした。脚の長い足長土と手の長い手長土は互いに助け合って仲良く暮らしたという。

前段の「ちび姫さん」は死体化生型の説話形式をとっている。本段では狭姫が間違った所に降りようとして断られ、遂に日本本土に到着するという内容である。こちらは物悲しい雰囲気のお話である。冒頭で登場した心の悪い神が罰されることは無い。スサノオ命がモデルだからそうなるのである。

一方で「狭姫と巨人」では一転、明るいトーンのお話となる。物語的には巨人譚である。巨人の放屁が三瓶山の噴火だというくだりもあり、聞いている子供たちを笑わせようという意図も感じさせる。後段では成長した狭姫が三瓶山に到達し、三瓶の麓を開拓して巨人を住まわせるという話になっている。俯瞰すると、島根県石見地方を西から東に開拓する話となっている。実際の歴史では出雲に近い東部から開拓されたと想像されるので(※式内社も出雲に近い大田市に多い)、そういう意味でも歴史を反映していないお話となっている。

子供向けの民話集では前段の「ちび姫さん」だけを収録したものが多い。後段の「狭姫と巨人」は収録されていないのである。これは前段と後段のトーンの違いに由来するものと思われる。両者を一体のものとして取り扱うと、混然として、やはり違和感をきたすのである。

筆者は双方のトーンの違いから作者は別であると考えている。また、江戸時代の地誌「石見八重葎(やえむぐら)」の乙子の条には狭姫伝説は収録されておらず、狭姫伝説の原型となったと思われる伝説が収録されているので、狭姫伝説の成立は石見八重葎成立(1817年)以降とも考えている。

狭姫伝説は古い書物には収録されておらず、遡れるものの中では「島根評論 第13巻中 第6号(通巻第141号 石中号)」に収録された大賀周太郎「郷土の誉れ」が古いものとなる。実はこの時点で前段と後段が一体のものとして収録されており、それ以上前に遡れないもどかしさを覚えさせるものとなっている。

この物悲しい死体化生型説話と明るい巨人譚の接続も違和感を感じさせる。陰の死体化生型説話と陽の巨人譚、民話集で前段しか収録されないのもむべなるかなというところである。

◆名馬池月

 「まんが日本昔ばなし」で「池月」のタイトルでアニメ化された伝説が類似事例として挙げられる。出典は「鹿児島の伝説(角川書店刊)より」演出:芝山努, 文芸:沖島勲, 美術:千葉秀雄, 作画:藤森雅也。

 鹿児島県指宿市の伝説で、池田湖周辺が舞台となっている。島根の伝説の池月伝説とは内容が異なっている。不気味な池田湖を怖れ、近寄らない人々を余所に子馬の池月と母馬は毎日のように池田湖で泳ぐようになる。その見事さが評判となり都にまで伝わる。源頼朝の命で池月は鎌倉へと送られることとなる。池月と引き離された母馬が池田湖に飛び込むと、大きな渦が母馬を呑み込んでしまったという粗筋。

 最後に鎌倉に送られた池月はその後活躍したことがナレーションで語られる。母馬は湖に姿を消してしまいました。その後、池月は活躍したそうです……と哀しいのかめでたいのかよく分らない締めくくり方をしている。

 物語冒頭で源氏の許で活躍した池月という馬がいたことを紹介し、それから伝説に入っていく構成にすればその辺の違和感は抑えられるのではないか。が、敢えてそういう構成にしたのかもしれない。いずれ出典の「鹿児島の伝説」に収録されたお話を読んでみたいと思う。

◆まとめ

この胸鉏比売と狭姫の伝説から、モチーフ間の接続には接続の仕方によっては違和感を覚えさせる場合があることが分かっただろうか。ここでの事例は、二重の締めくくりと陰陽の型の組み合わせである。その場合、不思議な感触をもたらす語り口となるのである。

「構成と語り」という大仰なタイトルにしたが、これは自分で発掘したネタを題材に自力で何か考えられないかと思っての試論である。ま、所詮この程度である。

◆参考文献
・「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)
・「那賀郡誌(復刻版)」(那賀郡共進会展覧会協賛会/編, 臨川書店, 1986)
・「那賀郡史」(大島幾太郎, 大島韓太郎, 1970)
・「日本伝説大系 第十一巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)

相互リンク「広小路

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2020年9月27日 (日)

これが阿須那手か

浜田駅裏のJUSTで神楽DVDを購入する。選択の決め手となったのは「真榊」という未見の儀式舞と広島の梶矢神楽団の存在。広島の多くの神楽団に影響を与えている団体である。

■神楽DVD「年末太刀納 玄武の舞2019」上巻を見る。久木社中の「真榊」は初めて見る。これだけのために買ったようなものである。20分ほどの儀式舞。六調子の「手草」を改変した演目だが、思ったより奏楽のテンポが速かった。

美川西神楽保存会「熊襲」は女性がヤマトタケル役を務めている。クマソタケルは関東のと違って威厳のある面を着けている。茶利がいるが何をしゃべっているかよく聞こえない。おかめさんも登場。実際に日本酒を飲ませる。激しい舞なのに酔いが回らないのだろうか。クマソタケルはあっさり退治され、むしろその後の茶利との対決の方が長い。茶利、最後は幕の向こうに逃げてしまう。

匹見神楽社中「東大和」を見る。ヤマトタケル命が叔母の倭姫から草薙の太刀を譲り受け、剣の働きで難を逃れる……という筋だと思う。口上が聞き取れなかった。

出羽神楽団「紅葉狩」を見る。邑南町の神樂団。芸北神楽の「紅葉狩」が石見神楽に流入したものと思われる。

■神楽DVD「年末太刀納神楽 玄武の舞2015」下巻を買う。大都神楽団「五郎の王子」を見る。口上がよく聞き取れないのが残念である。

梶矢神楽団「人身御供」は猿神退治。広島の多くの神楽団に影響を与えている団体がゲストとして参加している。これが阿須那手なのかという印象。音声レベルが低くて口上が聞き取れないので主人公の名は分からない。主人公、相手の猩々に刀を奪われてしまうのだけど、猿真似をする習性を利用して見事に剣を取り戻す。

神楽DVD、上府社中の「大江山」を見る。途中で眠くなって半分くらい意識が飛んでいる。後で見直そう。

久木社中の「天神」を見る。道真公と随身が登場する。セリフが聞き取れないのだが、悪役は藤原時平だろうか。随身だけが戦うのでなく、道真公も戦う内容だった。

■神楽DVD「年末太刀納神楽 玄武の舞2015」上巻を見る。梶矢神樂団「鈴鹿山」を見る。田村将軍が目の見えない鬼と戦う。目が見えないので紐を引き合いながら戦う。

大都神楽団の「羅生門」を見る。渡辺綱が他の四天王たちと語らっていて、要するに肝試しで夜の羅生門に行く。そこで鬼(多分、茨木童子)と遭遇、鬼の片腕を切り落とす。すると鬼の親玉(多分、酒呑童子)が綱の養母か叔母に変身して綱に近づく。まんまと腕を取り戻した酒呑童子と茨木童子に四天王が挑むが、身を引いてしまう。今回、悪の勝利ということで、決着は「大江山」に持ち越される。老婆と鬼の演じ分けが見事であった。

久木社中の「羅城門(前篇)」を見る。こちらは渡辺綱が茨木童子の腕を切り落としたところで終わる。

上府社中「神祇太鼓」を見る。振付ありの演奏。掌の上でシャーペンを回すあの要領で片方のバチを回しながら太鼓を叩くのは難しそうだ。

 

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