益田市

2020年3月22日 (日)

久城社中の疫病鎮静祈願神楽「鐘馗」奉納を見る

YouTubeライブ動画で久城社中の疫病鎮静祈願神楽「鐘馗」奉納を見る。途中でうとうとしだして危なかった。今回、なぜかYouTubeのライブ動画一覧には表示されず、『疫病鎮静祈願神楽「鐘馗」』と検索すると行けた。僕自身はFacebookのページからアドレスを辿っていった。斉藤先生をはじめとした何人かの人に情報を伝えていたのだが、Facebookの情報とは書かなかった。見られなかった可能性が高い。

疫病鎮静祈願神楽 無観客ライブ配信 「鐘馗」
https://www.youtube.com/watch?v=bSR2lex3VCM

普段は娯楽に徹している石見神楽だが、こういう奉納ができる一面もあるというところだろうか。

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2020年2月22日 (土)

益田廿日市道路は実現するか

国交省中国地方整備局管区の地域高規格道路指定路線図というものがあって、その中で益田廿日市道路というルートが候補として検討されていることを知る。実現すれば広島方面へのアクセスが良くなる。と言っても、あくまで候補なので、僕が生きている間に事業化されることはないだろう。

https://www.cgr.mlit.go.jp/chiki/doyroj/chikou/chikou.htm
https://www.cgr.mlit.go.jp/chiki/doyroj/chikou/dourozu.pdf

この図で意外なのは、智頭ー美作間を結ぶ道路が計画されていないことである。鳥取から岡山方面への利便性が高まると思うのだが。郡家中山道路は山陰道を二重化するということだろうか。江府三次道路は米子から三次方面へ出るのに便利な道路である。既に調査に入っている区間もある様だ。

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2020年2月12日 (水)

額田部そでめでは

「島根県益田市の続日本書紀」というキーワードでアクセスがある。続日本書紀は続日本紀の誤りだろう。サヒメのページにアクセスがあったのだけど、考えるに、これは額田部そでめを検索したいのではないか。ちなみに検索エンジンはBingである。Googleでも検索してみたが、額田部そでめはヒットしなかった。

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2019年5月26日 (日)

益田氏に関する創作演目

YouTubeで久城社中の「禅道鬼」を視聴。益田氏に関する物語らしい。粗筋が分からないのでググったのだが、ブログ「斉藤裕子でごじゃるよ~」によると、僧侶は雪舟とのこと。益田越中守兼尭(かねたか)が謀反を起こした大内道頓教幸(どうとんのりゆき)を改心させるという筋らしい。緩急が利いていて、速いテンポ一辺倒でないところが特徴だろう。

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2019年3月28日 (木)

無事舞い終えると吉

東京は永田町で石見神楽「十羅」を観た。十羅は激しい舞で無事舞い終わると吉である……といった記述を読んだ記憶があるのだが、出典が分からなくなってしまった。益田市立図書館の郷土資料コーナーの蔵書のはずだけど、探しても見当たらなかったことを記憶している。

僕が見た回では彦羽の神登場時に後ろの幕が倒れるというハプニングがあった。なので、今回の舞は吉とはいかないだろう。

くるりと回転する十羅刹女
くるりと回転する十羅刹女

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2019年3月23日 (土)

「益田市社中_東京公演」を鑑賞 201903

国会図書館に行く。その後、永田町のNagatacho GRiD 6F Atticで催された「益田市社中_東京公演」を鑑賞する。

まずイベントを開催したTABICAというサイトを運営するガイアックスという会社と益田市の提携の調印式が行われた。益田市は「ひとづくり」をテーマに挙げている。その後トークセッションに入った。僕の席は益田市長の後ろ。シェアリングエコノミーと観光というテーマだったのだけど、観光でシェアリングというと民泊などが挙げられるだろうか。全日空の研究員さんとオンパク(温泊)の理事の方が登壇する。

TABICAが提供している商材の内容から察するに益田市で小規模の体験型ツアーの企画をということらしい。ホスト役の人にも楽しんでもらう狙いがあるそうだ。ちなみに、全日空の研究員さんによると益田は魚が美味しい(田吾作という店があるらしい)とのこと。インバウンド、一回目は首都東京を訪問するのだけど、二回目以降は行ったことのない地方をという狙いがあるとのこと。

その後、久城社中と久々茂保存会の代表の方と益田市長が登壇して「益田市の着地型観光の鍵“石見神楽”」がテーマのトークセッションに入る。石見神楽はマシな方だと思うが、後継者難について語られる。益田には二十社中あるとのこと。石見地方全体では二百団体。久城社中は既に体験型ツアーの実績があるとのこと。神楽教室があって最後は焼肉パーティで締めたらしい。

それから神楽の実演に入る。演目は「十羅」「塵輪」「大蛇」の三演目。十羅は益田でないと中々見られない演目なので今回鑑賞できてよかった。「十羅」は途中、後ろの幕が倒れるアクシデントがあったけれど、滞りなく続けられた。櫂をこぐ所作は見られなかった。「塵輪」は生で見るのは40年ぶりくらいだろうか。身体を斜めにしてくるりと一回転する独特の高速旋回の所作は無かった。「大蛇」は四頭だて。白がラスボスかと思ったら、最初に退場した。紫がラスボスだった。
「十羅」、十羅刹女、登場
十羅刹女、登場
十羅刹女と彦羽の神
十羅刹女と彦羽の神
十羅刹女と彦羽の神、立ち合い
十羅刹女と彦羽の神、立ち合い
十羅刹女、勝利
十羅刹女、勝利
「塵輪」、仲哀天皇と高麻呂
「塵輪」、仲哀天皇と高麻呂
塵輪、二頭の鬼
塵輪、二頭の鬼
神と鬼の立ち合い
神と鬼の立ち合い
「大蛇」、須佐之男命、登場
「大蛇」、須佐之男命、登場
オロチのフォーメーション
オロチのフォーメーション
オロチ、児童に接近
オロチ、児童に接近
オロチの首を刈る
オロチの首を刈る
ちなみに益田市長は滋賀県出身で結婚を機に益田に移住されたとのこと。
ステージ・囃子方
Panasonic GX7mk2+12-35mmF2.8で撮影。一眼レフのシャッター音は太鼓の音でかき消されるのだけど、基本的にはミラーレスで無音撮影した方が周囲の迷惑にはならないだろう。反省として、石見神楽は動きが速いので速いシャッタースピードで撮った方が良かった。また、秒2コマで連射していたのだが、高速旋回を捉え切れていなかった。撮影枚数が無駄に増えるのもどうかなと思ったけれど、石見神楽だと秒5コマで連射した方が良さそうだ。
益田市で体験型ツアーというと、乙子狭姫の伝説の所縁の地を訪ねる等はできないのだろうか。佐毘売山神社に行く道は細く、駐車場も2~3台くらいしか停めるスペースがないが。天道山のある赤雁の里交流館では体験型農業を実施している。唐音にいって高島を眺めるのもいいだろう。鎌手大浜も亀島も眺めの良い土地である。益田市には独自の魅力的な伝説があること、そして伝説の舞台を訪ねるという楽しみ方があることを知って欲しいのだ。

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2018年12月24日 (月)

益田市鎌手大浜の10年間

いつ撮ったのかはっきり覚えていないが、約10年前に撮った益田市鎌手大浜の雄島と雌島。

益田市鎌手大浜の雄島と雌島

益田市鎌手大浜の雄島と雌島

以下は今年の夏に撮った雄島と雌島である。

益田市鎌手大浜の雄島と雌島

益田市鎌手大浜の雄島と雌島

益田市鎌手大浜の雄島と雌島

10年前に撮ったときは200万画素のコンデジで撮っていて、今年撮ったのは1600万画素のミラーレス。画質は新しい方がいいのだけれども、雄島と雌島の間にテトラポッドが埋設されている。これがこの10年での大きな変化。雄島と雌島は光の加減でいい具合に撮れ、写真の被写体としていいと思っていたのだけど、テトラポッドという余計な夾雑物が写り込むことになった。安全性確保のために仕方ないのだろうけれど、写真を撮るという一点では残念である。

雄島と雌島は櫛代賀姫命と櫛色天蘿箇彦命が逢引きするという伝説の舞台でもある。

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2018年7月 1日 (日)

競技かるたと島根県

益田高校に競技かるた部があることを知る。強豪らしい。柿本人麻呂終焉の地なのだから、和歌は盛んだろう。島根で競技かるたをやっているとすれば松江、出雲くらいだろうかと考えていたら間違っていた。江津はどうなのだろう。調べてみると、松江、出雲、益田で行われている。

なんでも、益田の大会には西は佐賀から、東は新潟から参加があるとのこと。佐賀は新山口で乗換で想像できるが、新潟の場合、どういうルートなのか分からない。上越新幹線で一旦東京に出た方が速いだろうか。広島からバスは出ていたか。もしかしたら、広島空港まで行き、そこからはレンタカーか。いずれにしても半日以上移動に費やすかたちとなる。

競技かるたは漫画「ちはやふる」がアニメ化、映画化もされ、この上ない宣伝となった。部活ストーリーとしてよく出来ているし、競技かるたを描いた作品で「ちはやふる」を超える作品は最早でないだろう。

僕自身は百人一首には縁がない。坊主めくりをやったことがある程度である。そもそも反射神経が鈍いのだから、かるたには向いていない。高校で下の学年が夏休みの課題で百人一首を憶えることというのを聞いて、大変だと思いつつ(当時、分からない言葉は一字一句、辞書で引いていた)、うらやましくも感じたのである。

 

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2017年8月 8日 (火)

半導体の好適地?

東芝が岩手にメモリーの新工場を建設とのニュースを読む。島根県益田市なんかだと高津川という清流があって(良質の水資源)があって、萩石見空港があるので、半導体工場の立地に好適地だと思うのだが、実際のところどうなのだろうか。

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2017年1月22日 (日)

江津と益田の違い――柿本人麻呂の伝説

◆はじめに

 「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」に柿本人麻呂の伝説が収録されている。主なものは江津市と益田市のものとなる。

江津市――人麿は大和に生まれ、幼い時に父に死別した。母に連れられて石見国美濃郡小野郷(現、益田市)の身よりを頼って来た。人麿は長ずると語部になり、天武天皇の御代、国史記定の事が行われ、諸国の語部が朝廷に召された時に人麿も出仕した。しかし、記憶していた出雲石見の伝説で、朝廷の怒りに触れ、語部をやめることになった。だが抜群の才が惜しまれて、草壁皇子の舎人となった。皇子が二十八歳で亡くなると、自ら進んで石見国府の役人として帰ってきた。江津とはゆかりが深く、朝集使として上京の際、石見でめとった妻・依羅娘子に送られ、高角山で別れを惜しんで詠んだ歌はよく知られている。この依羅娘子は『石見八重葎』によると「人麻呂が都野津本郷の井上道益という医師の娘の歌才を愛でて、都に召しつれよさみのむらじの養女として、よさみのおとめと名づけ、内室とし、都野津に仮寓した」とあり、都野津の仮寓近くに人麿夫婦を祀った柿本神社がある。(『江津のはなし』)
「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」65P

益田市――歌聖柿本人麻呂は同地に生まれ、少年時代を送り、晩年再び石見の国府に留まり、高津の鴨山にその生涯を閉じたと伝えられている。綾部家はもと大和に居住し、柿本氏に仕えていた。柿本氏が石見に下った時、従って美濃郡小野郷戸田(現、益田市戸田町)に住み、代々語家(やからや)と称していた。柿本某は語家の女を寵愛して、一男子を得た。それが柿本人麻呂であったという。「綾部氏家系」に「綾部は其先、出づる所詳ならず。初め大和に住し、柿本に仕へ、氏の石見に下らるるに際し、陪従して美濃郡小野に住し、一世に語家と称し、柿本氏に仕ふ。柿本某語家の女を嬖幸(いこう)して一男を挙げられ、其児幼にして、父を喪へるを以て、語家これを養育したりき。これ柿本朝臣人麻呂なり」と記されている。人麻呂の死後、その出生を記念するため、今日の戸田柿本神社が建造されたと言われている。一方、同家では、人麻呂の死後、彼の死没地の鴨山から遺髪を奉じて帰り、同家の側に埋め、墓を建てた。この墓は綾部家の前にあり、方三メートルくらいの土壇を盛り、周囲には石の柵をめぐらしている。さらに壇上の礎石の上に、高さ約一メートル、幅三十センチの自然石を墓標として据えている。なお、人麻呂が石見にいる時に、石見の産鉄と石見半紙の生産を奨励したとも伝えられているという。(『益田市誌』上巻)
「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」67P

◆柿本氏

 柿本氏は人皇第五代孝昭天皇の皇子の天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)の後裔である。大和に住んでいたが後に石見に移り戸田郷小野に住んだと「綾部氏柿本人麿譜」にある。これは柿本氏と小野氏が同族であったことから縁故を頼ったものだろうとしている。

 祖先の天足彦国押人命は浜田市下府町の伊甘神社の祭神として祀られている。石見地方には春日族や同系の櫛代族、小野族などが移り住んだとされており、小野の戸田町には小野族の祖神を祀る小野神社がある。

◆出生

 江津の伝承では人麻呂は大和に生まれ、幼いときに父と死別して母と共に石見国の美濃郡小野郷の身よりを頼ってきたとあり、益田市の伝承と食い違っている。いずれにせよ、幼少期を石見国で過ごしたとされているようだ。

 益田市の伝承では、綾部氏は大和に住んでいたが、仕えていた柿本氏が石見国に下るのに付き従って小野郷に移り住み、語家(やからや)と称したとある。人麻呂の母は綾部氏の女で、人麻呂の父が寵愛して人麻呂を授かったとしている。「嬖」は貴人から特にかわいがられる身分の低い女の意(広辞苑)。

 柿本社旧記では、ある時綾部家の後ろの庭園にあった柿の木の下に七、八歳の神童が忽然と出現したとする。どこから来たかと問うと、自分には父も母もないので生死を知らず、ただ敷島の道を知るのみと答えたという。そこで綾部氏が養育することとなったという。

 これは父の柿本氏が皇孫の出であることに対し、母の身分が離れていたために柿の木の下に忽然と出現したという言い伝えとなったものであろうとしている。

◆語り部

 江津市の伝承では、長じた人麻呂は語り部になり、朝廷に出仕したとある。しかし、記憶していた出雲石見の伝説が朝廷の怒りに触れたため語り部をやめたとされ、ただ、抜群の才が惜しまれたため、草壁皇子の舎人となったとある。若い頃から才気煥発で知られていたことが分かる。

 皇子が亡くなると、自ら進んで石見国府の役人として帰ってきたとある。この頃の国府は現浜田市下府町の伊甘郷にあったのではなく、都野津の辺りにあったようだ。人麻呂は在任中、砂鉄洗いを勧めたり、紙を漉くことを教えたとされる。殖産興業に努めた先人という扱いである。

◆女性

 人麻呂が愛した女性に依羅娘子(よさみのおとめ)と石見娘子(いわみのおとめ)の二人がいたとされる。また、二人は同一人物であったする説もあるようだ。

 依羅娘子は恵良媛のことだが、石見八重葎によると、人麻呂が都野津本郷の井上道駅益という医師の娘の歌才を愛で、都に召しつれ、依羅連(よさみのむらじ)の養女として依羅娘子と名づけ内室とし、都野津に仮の住いを設けたとしている。

島根県江津市の高角山公園・依羅娘子像
依羅娘子像

 これとは正反対の史料もあり、人麻呂は石見の掾(じょう)、国司の三等官として任じられたのが石見と関係を持つはじめであったとする。依羅娘子は都に残されて、現地で石見娘子という愛人を得たとしている。しかし、「柿本朝臣人麿が石見国より妻に別れ上り来る時の歌」とあるので、どうだろうか。

◆角の里

 角の里、角の浦で江津市と益田市の解釈が分かれるようだ。江津市の伝承では都野を角の里、角の浦としており、島の星山を高角山としている。一方で、益田市では美濃郡高津の高角山としている。

島根県江津市波子町大崎鼻灯台から見た角の浦

江津市の高角山(島の星山)

石見相聞歌の世界・解説図

◆終焉の地

 人麻呂は四十代で亡くなったとするものや七十代で亡くなったとするものがある。鴨山をどこに比定するかだが、益田市の高角山とするものや邑智郡美里町の鴨山だとする説の他、浜田市の亀山(浜田城が建つ以前は鴨山と呼ばれていた)とする説もある。

 人麻呂の死後、社が建立されたのが、益田市沖の鴨島だった。が、鴨嶋は万寿三年の大地震で海中に没したとされている。延宝年間に津和野藩主・亀井公が現在地に遷座した。

島根県益田市の柿本神社

柿本神社・拝殿

柿本神社楼門由緒

柿本神社由緒

鴨島(鴨山)遺跡海底調査状況・解説

 また、小野郷戸田では人麻呂の出生を記念するため戸田柿本神社が建立されたとされている。

島根県益田市の戸田柿本神社

戸田柿本神社・拝殿

戸田柿本神社・ご由緒

ひとまろの里・案内図

戸田柿本神社近くの遺髪塚

遺髪塚

◆安来市の伝説

 他、安来市の伝説があって、人麻呂が京都から任地の石見に向かう途中、岩礁に船が当たり溺死したとするものがある。安来にも人麻呂の墓と伝えられるものがあるようだ。

◆菅原道真の出生伝説

 北野天神縁起に、

 菅原院とは菅相公(是善)の家である。相公は生前の当初、相公の家の南の庭に五、六歳ばかりの幼い小児が遊んでいたのを見たところ、容貌、姿形が只の人でないと思いながら「君はどこの家の子か。どうして来て遊んでいるのか」と問うた。稚児は答えるに「さしたる定めた居所もなく、父もなく母もいません。相公を父としたいと思います」とおっしゃったので、相公は大いに喜んで、かき抱いて撫でて次第にくわしく研究させたところ、天才が日に日に新たとなった。これを菅贈大相国と申すらしいと日記にある。

 戸田柿本神社の柿本人麻呂の伝説と似ている。菅公の伝説の影響か。

◆余談

 江津市の島の星山を登っていくと、ゴルフ場があり、近くに高角山公園がある。そこに人丸神社が鎮座している。

 

高角山公園・入口

高角山公園・入口はたかつのグランドゴルフ場が目印

島根県江津市の人丸神社・鳥居

人丸神社

 益田市の戸田柿本神社は国道9号線の戸田の辺りに看板が立っているので、そこを曲がる。JR山陰本線・戸田小浜駅から歩いていけなくもない。近くには小野神社もある。

戸田柿本神社へ向かう道

 人麻呂公ゆかりの歌は一部しか知らないが、依羅娘子の「な思ひと 君は言へども 逢はむ時 いつと知りてか 我が恋ざらむ」が好きである。

◆参考文献

・「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)pp.64-70
・「日本思想大系 20 寺社縁起(※八幡愚童訓 甲乙および諸山縁起、北野天神縁起所収)」(桜井徳太郎, 萩原龍夫, 宮田登/校注, 岩波書店, 1975)

記事を転載 →「広小路

 

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