大田市

2019年4月 6日 (土)

オーバーキャパシティをマネジメントする――アレックス・カー、清野由美「観光亡国論」

アレックス・カー、清野由美「観光亡国論」(中公新書ラクレ)を読む。日本のインバウンド(要するに訪日外国人客数)は2011年の622万人から2017年は2869万人と右肩上がりで、東京オリンピックで4000万人達成も夢ではなくなってきた。著者はこれを第二の開国と呼んでいる。

インバウンドの消費額は4兆4162億円にも達し、トヨタの過去最高益の1.5倍もの数字になっている。長らく日本を支えてきた製造業に匹敵する21世紀の産業となるポテンシャルを秘めているのである。

一方で京都や富士山ではオーバーキャパシティによる観光公害が目立ち始めている。バルセロナやフィレンツェといった外国の観光先進地では「オーバーツーリズム(観光過剰)」「ツーリズモフォビア(観光恐怖症)」といった造語で以て語られる様になっているとしている。そこで筆者は適切なマネージメントとコントロールを提言する。

が、民泊新法では全国一律の規制となっており、地域の実情による規制となっていないなどの指摘がなされている。

世界の趨勢として観光地と駐車場を離れた位置に置き、観光客に歩かせる(動線の設定として途中には商店街があって消費を見込む)形態が主流になっているとする。日本だと大田市の石見銀山が長距離歩かせるということで一部で不評らしいが(実際、一通り見ようとすると7~8kmは歩くことになる)、むしろ強くアピールすべきだとしている。

実は大型観光バスによるツアー客の一か所当たりの滞在時間は短く、地元に落とす金額も微々たるものらしい。それよりも少数の観光客に長期滞在してもらう方が効率がよいとする。が、行政の発想の転換が遅れ、観光地化というと大型駐車場やバイパスの整備といった方向性になってしまうとしている。

他、昔のままに伝えている文化の化石化、生きているようで生きていない文化を「ゾンビ化」、時代に合わせて柔軟に変化しているが、文化の核心への理解がなく、本質とは異なるモンスター化してしまうのを「フランケンシュタイン化」と呼んでいるとこと等が面白かった。

タイトルは観光亡国となっているが、これは増え過ぎた観光客に対する適切なコントロールとマネジメントを欠いたらという仮定の話であり、フランスの様に更なる観光客の増加もあり得ないではないとしている。

著者は日本の古民家を改装して宿泊施設として提供する活動で実績のある人。200ページほどの分量であり、一日で読めた。

|

2017年9月19日 (火)

蛤姫――島根県石見地方における蛤女房の類話

◆はじめに

 石見の姫シリーズも終盤に差し掛かった。今回は大田市大森町の昔話を取り上げてみる。

◆粗筋

 昔、一人の若い漁師がいて、毎日海へ出て魚をとって、それを町に持っていって売って暮らしていた。ある日、いつものように舟で海へ出て魚を釣ったが、どうしたことか一尾も掛からない。もう一度釣ってみて掛からなかったら今日はやめにしようと思って、最後の糸を投げ込んだ。
 しばらくすると手ごたえがあるので、上げようとしたが中々重くて上がらない。やっとのことで引き上げてみると、大きな魚だと思いの他、見たこともないような珍しい蛤(はまぐり)だった。びっくりした漁師が見惚れていると、蛤が二つに割れて中から綺麗な女の子が出てきた。
 漁師はたいそう喜んで家へ連れて帰って、蛤から生まれたので蛤姫と名づけて大切に育てた。
 姫は大きくなるにつれてますます美しくなった。姫はそれだけでなく機を織ることが大変上手で、その織った反物は何とも言えない美しさであった。漁師はそれからは魚を獲ることをやめて、反物を町で売って沢山儲け、楽しく暮らしていた。
 姫は機を織ることが上手であるだけでなく、その機を織る音が美しい音楽のようだった。その音がとても綺麗なので、姫の機を織る様子を見ようと、話を聞き伝えて大勢の人が漁師の家に押し掛けたが、姫は何故か一室に閉じこもって戸を固く閉め、機を織る姿は誰にも見せなかった。
 ある日、漁師はいつもの通り織物をもって町へ出かけた。ある一軒の大きな家の前に差し掛かると呼び止められ、反物を沢山のお金で買い取ってもらった。こんな美しい織物は得難い。よい物を買わしてくれた、お礼に座敷まで上がってくれと言って漁師を座敷へ通して沢山のご馳走やお酒でもてなした。漁師はよい気分になって酔いつぶれてしまった。
 家では蛤姫が一室でとんとんからり、とんからりと機を織っていた。すると近所の人達がやって来て、今日は幸い漁師もまだ帰っていないから、どうして機を織っているのか戸を開けてみようではないかと相談して、部屋へそっと忍び寄ると、いきなり戸を開けて覗きこんだ。
 蛤姫はびっくりして「ああ、この機を織る姿を人に見られたら、私はここにいることはできません。さらばです。元の蛤の中へ帰ります」と言って消えてしまった。

 蛤姫という可愛らしい姫が機を織る話である。特徴としては、この話は大田市でも海岸部のものではなく、大森町(石見銀山)で採録された話であるということだ。

◆蛤女房

 蛤姫は蛤女房の一類話だろう。「日本昔話大成 第2巻 本格昔話 一」に収録された蛤女房の類話を要約してみる。

 あるところに貧乏な男がいた。あるとき一人の娘がやって来て、嫁にしてくれと頼む。あなたのような美人は私の様な者には不釣り合いだと断ろうとするが、娘は古女房の様にかいがいしく世話をした。そんなことが続く内に二人は夫婦となった。
 ところが、あそこの嫁は鍋にまたがって小便をするという噂がたった。そこである日、男は外出するふりをして、こっそり覗き見した。果たして嫁は鍋にまたがって小便をした。
 男は何をしているかと嫁を咎めたが、嫁は男に命を助けてもらったお礼に、こうして契って美味しい汁ものをこしらえていたが、もうここにはいられないと言って貝の姿に戻って海に飛び込んだ。それから男は世帯を持ち崩してしまったという。

 世間一般に流布している蛤の昔話はこの蛤女房のパターンである。「日本昔話大成」を見ても蛤女房の話は全国に分布している。

◆蛤の草紙

 「御伽草子」に「蛤の草紙」という説話が収録されている。要約すると、

 天竺の摩訶陀(まかだ)国に、しじらと言う貧乏な男がいた。母と二人で暮らしていたが、その頃天竺は酷い飢饉が起きていた。しじらは母を養うため漁に出た。ある日、釣り糸を垂れでも魚が全く釣れなかった。母を養うために殺生した報いかと思い、母が待ちわびているだろうと思ったところ、糸に獲物が掛かった。釣り上げてみると美しい蛤だった。しじらは蛤を海に返した。そして釣り場を変えたところ、また同じ蛤が掛かった。再び海に返し、釣り場を変えたところ、また同じ蛤が掛かった。三度も掛かるということは前世・現世・来世の三世の縁かと思い、今度は舟に引き上げた。すると蛤が大きくなり、中から歳十七、八の美しい女人が現れた。
 女人はしじらの家へ連れていって一緒に暮らしたいと頼む。しじらは自分の家は普通の家と違って粗末なものだからと断り、妻を得ては母をぞんざいに扱ってしまうだろうから駄目だと答えた。それでも女人がせめて一夜の宿だけでもと頼んだところ、しじらは母の承諾を得て、ようやく女人を家に招き入れた。しじらの母は女人を見て有難いことだといって二人が夫婦になることを承諾した。
 女人は麻で糸を縒り合わせて、機で布を織った。その音は妙なるものであった。女人はしじらに機屋を立てて欲しいと願う。しじらが機屋を立てると、機を織っている間は決して覗いてはならぬと言いつける。十二か月が経って、布が織り上がった。女人はその布を鹿野苑(ろくやおん)の市に持っていって、金三千貫で売れとしじらに告げた。
 しじらが市に行ったところ、布は中々売れず、しじらはあきらめかけた。と、そこに馬に乗って三十三人の供を連れた身なりの良い老人が現れた。布を見た老人はこの布を買おうと言った。
 しじらは老人の館に招かれたが、その館は見たこともないような壮麗な館だった。老人がしじらに酒を勧めた。しじらは七杯飲んだ。
 布を売って家に戻り、事の次第を話そうとしたところ、女人が全て知っていた。これは只の者ではないとしじらは思った。が、女人は急に暇乞いをした。自分は童男童女身(どうなんどうにょしん)という観音に仕える者だ。しじらが親孝行なので、やって来たのだと答えた。布を売って得た三千貫で一生暮らすとよい。しじらが飲んだ酒は一杯で一千歳の寿命を得る。七杯飲んだので七千歳の寿命を得た。これからは金にも恵まれ身分も高くなるだろうと言い残して、虚空に去った。

 機を織るところを見てはならないという禁止はあるが、しじらは言いつけを守ったので七千年の寿命と三千貫の大金を得ている。ただし、結局は女人と分かれることになる。

◆零落した昔話

 柳田国男は「昔話と文学」の「蛤女房・魚女房」という論文で蛤女房について考察している。御伽草子の「蛤の草紙」が蛤女房の原話であるか否かについては保留している。が、柳田は蛤女房を零落した昔話であると言っている。小便をするのが汚らしいということだろう。

 「日本昔話大成 第2巻 本格昔話 一」で蛤女房が小便をするのでなく機を織る類話も収録されている。それによると、島根県大田市の蛤姫の話と山形県最上郡の話とが挙げられている。山形県の話は、
 母と息子が魚をとって暮らしている。息子は毎日浜辺に行く。ある日、蛤がかかる。蛤の中から子供が生まれ、お姫様になる。家に伴う。村人が神様が宿ったと米を持ってお詣りする。麻糸が欲しいと望むと村人が麻糸を持って来る。そこで機織りをしりっぱな反物にする。町に売りに行き三千両の大金を得る。お姫様は毎日浜に来る息子へのお礼だと告げて、ふたたび海に帰っていく。
とあり、これは機織りするところを決して見るなという禁止も破っていないし、麻の糸で反物を織る、金三千両で売ること等から、蛤の草紙を原型とした昔話であることが分かる。蛤の草紙から蛤女房へという図式が浮かんでくる。

 一方、島根県大田市の話は、
 漁夫が魚釣りに行って蛤を釣り上げる。蛤が二つに割れ女が生まれ蛤姫と名づける。あとは鶴女房の形式をとる。
とある。大田市の場合、機織りするところを決して見るなという禁止を破っている。蛤が機を織っている点では山形県のお話と一致するけれど、大田市の昔話の場合、禁止を破ってしまうのである。

◆艶笑話

 柳田は蛤女房を笑話として位置づけている。美味しい出汁の効いた汁だと思ったら、実は蛤の嫁の小便だったという、ある種の艶笑話である。そもそも貝は女性器の暗喩だろう。

 艶笑話であるからには子供にそのままの内容で伝えるのははばかられたのかもしれない。そこで、大田市の場合、蛤女房の導入部を踏襲しつつ、後半のパートは鶴女房に準じた形にして蛤姫として子供向けにしたのかもしれない。蛤女房から鶴女房のパターンへという変遷が見てとれるが、蛤の草紙へ先祖返りしたという解釈も可能だろうか。

◆蛤の草紙の訳

 参考までに、粗い訳だが訳してみる。

 天竺の摩訶陀国に、しじらという貧乏な人がいた。父には早く死なれ、母と二人で暮らしていた。その頃、天竺では飢饉が起きて、人々が餓死することが甚だしかった。しじらは母を養うため小舟で漁に出た。ある日漁に出て、釣り糸を垂らしたところ、一向に釣れなかった。魚を獲って母を養った報いだろうかと思い、母が待ちかねているだろうと案じた。すると釣り竿にも心があったのか、何かが掛かった。それ、と思って釣り上げたところ、それは美しい蛤だった。しじらはこれは如何なることだろう、何の役に立つか(立つまい)と思って海に投げ入れた。ここには魚はいない、西の海へ舟を漕いでいき、釣り糸を垂れたところ、また同じ蛤を釣り上げた。これは不思議なことだと思い、また海へ放した。それから北の海へ行き、釣り糸を垂れたところ、また同じ蛤が掛かった。これは稀代の不思議なことだ。一度ならず二度ならず三度まで釣り上げた。かりそめながらも前世・現世・来世の三代の契りを得たかと思い、今度は取り上げて舟の中へ投げ入れた。また、釣り糸を垂れたところ、例の蛤が急に大きくなった。不思議なことだと思って海へ投げ入れようとしたところ、蛤の中から金色の光が三筋さした。これは如何なることぞと思い、驚き、肝をつぶして遠ざかった。この蛤の貝殻が二つに開き、中から十七、八歳くらいの容顔美麗な女人が現れた。

 しじらは手水を使いつつ「これほど美しい女人が海から上がったことの不思議さよ。もしかしたら龍女ではないか。貧しい男の舟に上がったのはもったいないことだ。住処へ帰りたまえ」と言った。女人は「来る方も行く方も知らず、行く末も知らないので、そなたの家へ連れて行っておくれ。互いに生計を営んで、憂きこの世で暮らそう」と言った。しじらが言った。恐ろしいことで思いも寄らぬことだ。私はもう四十歳になったけれども、未だに妻を持たず、その訳は六十歳を過ぎた母がいるので、もしも女房として連れ帰れば、心もおろそかになって母をぞんざいに扱ってしまうだろう。母への義に背くことを思えば、妻を持つことは思いも寄らないことだ」と、とんでもないと断れば、女人は「思いやりのない人ですね。ものの成り行きをよく聞きなさい。袖をすり合わせるのも他生の縁と聞く。この船に近づいたかいもなく、帰れと言うのは情けないことだ」と思いつめた様子で涙にむせんだ。しじらはこれを見て、そうならば、せめて陸(おか)へ降ろそうとして水際に着くと、舟から女人を急いで降ろした。「私はここまでお届けします。なので、お暇しましょう」と言ったところ、女人はしじらの袖にすがりついて嘆いた。「せめて、そなたの家まで連れて行って一夜の明けるまで過ごさせておくれ。夜が明けたらどこへでも足に任せて行こう」と。しじらは「我々の家は、ただ世間一般の家ではなく、まことに卑しい男の寝屋でして、目も当てられない所なので、置くところもないのです。普通の座敷に置くことは畏れ多いので、家を造りましょう。お待ちあれ」と言った。女人は「如何なる金銀財宝でこしらえた家であろうと、他所の家には行きたくない。そなたの住処ならば行こう」と言ったので、「ならば、少しお待ちあれ。先ず我々の家に行って、母に伺いを立てて、お迎えに上がりましょう」と言ってしじらは家に帰って母にこのことを申し上げたところ、母は甚だ喜んで「急いで座敷を清めて、こちらへ迎えましょう」と言ったので、しじらは喜んで、急いで海の傍へ迎えに行った。女人は待ちかねていた。しじらは「裸足では脚が痛いでしょう、この卑しい男の背に負いましょう」と言ったところ、女人は喜んで、背負われた。さて、我が家へ着いたところ、しじらの母が出て見て、あら畏れ多いことだ、これぞ天人というのだと言って、自分の居るところでは如何なものかと、急いで棚を作り、自分より高く置き奉って限りなく尊んだ。

 しじらの母は「畏れ多いことだけれども、どうしてしじらの妻になられる人でいらっしゃらないはずがありましょうか。しじらも早四十歳になりましたが、未だに妻も持たず、子の一人もいないことを明けても暮れても寂しく思っておりました。わが身ははや六十を過ぎ、明日をも知れぬ身で、このことばかり案じております。ああ、似合わしい妻がいて欲しい」と言った。女人は「私は来し方も知らず、元より行方も知らぬ身なので、如何様にでもしじらと一緒に置かせ給え。私は人の知らない営みをして一緒に憂き世を渡りましょうと言ったので、しじらの母は一通りでなく喜んで「ならば」と言ってしじらにこのことを言ったので、しじらは元より親孝行の人なので、「とにかく母のお計らいのままに」と返事した。天竺も人の好奇心の強いところなので「しじらの所に不思議な降ってきた人が来た。いざ参って拝もう」と言って、僧侶も普通の人も供米を包んで参った。そして白米が三石六斗、一日の内に集まった。そのとき女人は「私は素姓が確かな者なので、麻と申すものがあればくれ」と言ったので、その次の日は麻を持って参った。しじらは目出度いことがあって、前の日から集まった米で母と暮らしていけることはなんと嬉しいことだと喜んだ。また、この女人は密かに大量に糸をよった。そのうち、錘(つむ)が欲しいと言ったので、しじらは尋ね求めて差し上げた。この麻を紡ぐ音が物珍しく聞こえた。よくよく聞いて文字に写してみると、南無常住仏と響き、糸を縒るときには南無常住法と響き、巻くときには阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)と巻く。手がいを取るときには南無妙と響いた。二十五か月紡ぎ出したところ、さて機の道具が欲しいといったので、拵えてみよとしたところ、それを見て言うことに、普通の機の道具ではよくないのだ。私の機の道具は普通のではないと言って本を出した。好みの様に拵えたところ、女人は喜んで「一人でどうして巻き立てられましょうか」と言った。そこに示現神通力者がやがて心得て、どうして悪いことが起きようか、一度も見たことない人が二人来て一夜の宿を借りた。

 これをはじめとして、しじらの母は不思議なことだと言って、ますます崇めた。しじらはこの機が立ってから母の心が慰められたことが嬉しく、いつよりも心安く過ごし、この頃は心労も感じず、天竺の飢饉が甚だしいけれど、我々の心安くあることが嬉しいと言って、母の足を自分の額の上に載せて寝させた。そのとき、しじらの傍に寝かせた女人がしじらになぜ泣くのか尋ねた。しじらは、母が若いときは太っていて足を額に寝かせると重かったが、歳をとったので次第に身体も細くなって、殊の外軽くなったので、泣くより他ない」と語った。女人はそれを聴いて、まことにうらやましい心ぞ。いかなる仏の恵もどうしてないことがないだろうか。これほど親孝行の人は世に珍しい」とて、やがて物語を語りはじめた。

 「例えば、越(えつ)の鳥は南の枝に巣をかけるというが、親の育みを思い、巣を立てて、一緒に立つときに、四鳥(しちょう)の別れと言って母子の別れを知らない妄執の雲に隔たれるけれども、親孝行の鳥は生まれた木の枝に日に一度ずつ来て羽根を休めるのを母鳥は、これこそ我が子だと喜ぶと語ってしじらを慰めた。孝行の鳥の霊験は、何とか捕まえたいと網を掛けたけれども取られることはあるまい。まして、人間として生を受けて、親に従わない人はこの世では禍(わざわい)を請け、七つの災難や過失にあって、その身の思うことは叶うものではない。親孝行の人には天から福が授けられ、七難即滅七福即生(しちなんそくめつしちふくそくしょう)といって、何事も思う事がその日のうちに叶うものだ。多くの人々に愛されて自ずから現世の生では上に向かって悟りの道を求め、安穏安楽な気分を受け、極楽浄土の蓮の台を指して、東方薬師の浄土、西方阿弥陀の浄土で諸仏の上の浄土に近づき、自ずから示現神通力の身となって、観音を念ずればと唱えさせることは疑いないと語った。息の匂いはこの世のものでない香りがして、満ち満ちて夜昼の境もない。

 いざ機を織ろうとして、しじらに、この家は布幅が狭くて織れまい。傍に機屋を造ってくれと言ったので、しじらは急いで皮のついたままの材木で機屋を造った。その時、女人が言う事には、機を織っている間は、こちらへ人を入れてはならないとのことなので、しじらは分かったと言って、母にこのことを語った。その夕暮れに、若い女が一人、いずこからとも知れず来て宿を借りた。女人はすぐに機屋を貸した。しじらの母が「この機屋に人を入れるなとおっしゃったが、どうして宿を貸したのでしょう」と言ったので、女人はこの人は差し支えないと言って二人で機を織る音は珍しい。

 妙法蓮華経観世音菩薩普門品(みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼん)第二十五の菩薩が玉のような機を織った。まことに法華経の一の巻から八の巻に至るまで二十八品(ほん)を悉く織りいれるお声が耳に聞こえて有難く、夜昼の区別もなく十二カ月の間に織り出した。女人が「今織り出した」と言って碁盤のように厚さ六寸、広さ二尺四方に畳んで、しじらに「明日、摩訶陀国の鹿野苑(ろくやおん)の市に持って行って売りなさい」と言った。しじらが値段はいかほどにと問うと、「金三千貫で売りなさい」と言ったので、「不思議なことだ。近頃売り買いする布は普通の安いものだが、これは並外れて値段が高い」と可笑し気に言ったところ、女人は、ただ普通の布ではない。我々が織る布は間違いなく鹿野苑の市で価値の分かる人がいるだろう。値段は限ってはならない。さあ、市も立つだろう、行き給え」と言ったので、しじらがその布を持って行くと、鹿野苑の市で「これは如何なるものだろうか」と笑い、不審そうに見る人もいた。一日待って回ったけれども、誰も取って見る人すらいない。しじらは、ならば知らないことをして、このような物を市へ出し、人の笑い草になることは無念だと言って持って帰ろうとしたところに、道で齢六十余りの老人で鬢(びん)と髭(ひげ)は白く、その身なりは人に優れ、葦毛(あしげ)の馬に乗り、三十三人の供がいる人に会った。この馬に乗った老人がお前はどこの者かと問うたので、私はしじらと申す者ですが、鹿野苑へ布を売りに行ったところ、買い主がいなくて持ち帰るところですと答えた。「お前は聞き及んだ者だ。その布を見ようと言ったので、馬の上へ布を差し上げた。三十三人の人がこの布を広げたところ、長さは三十三尋あった。近頃珍しい布だな。私が買おう。値段はどれ程だと老人が言ったので「金銭三千貫で売りましょう」と言ったところ、「あら安い布だ」と言って、「ならば我々の所へ来い」と言って、しじらも誘って、そこから南の方へ行く。高い軒が遠く広がり、雲にかかるほどそびえ立つ門があった。見ると、瑪瑙(めのう)の礎(いしずえ)に水晶の珠を柱として、瑠璃(るり)の垂木、瑪瑙(めのう)で屋根を葺いて、目を驚かせるばかりであった。門の内へ入って見れば、この世のものとも思えない香りが漂い、花が降り、音楽が天に満ち満ちて、心も若く齢も久しくある心地がして、帰ることを忘れてしまった。馬に乗った老人は縁の際まで乗りつけて降り、内へ入って、金銭三千貫、三人で持って出てきた。こんな力の強い人もいるかと思うと、しじらは恐ろしくなった。さて、「今の布売りをこちらへ呼べ」といって座敷に上げた。しじらは足が震えて心も乱れて身の置きどころもなかった。階段を上がり、細長い部屋に上がった。心はさながら薄氷を踏むがごとしであった。さて、老人は酒を呑ませよと言ったので、元よりしじらは上戸なので、一杯飲んでみれば、甘露の味わいが満ち満ちて言葉にならない美味い酒だった。どれほどでも飲めるけれど、七杯より多く飲んではならないと老人が言ったので、七杯呑んだ。さて、「金銭三千貫をこれから送ろう」といって、恐ろしげな人を三人呼び出した。名を声聞身得度者(しょうもんじんとくどしゃ)、毘沙門身得度者(びしゃもんじんとくどしゃ)、婆羅門身得度者(ばらもんじんとくどしゃ)と言った。この三人に仰せつけて三千貫の金銭をただ一度でしじらの家を来させたので、その時、しじらがお暇しましょう言ったところ、老人が言うには、「今呑んだ七徳保寿(しちとくほうじゅ)の酒は観音の浄土にある酒だ。一杯呑めば一千年の寿命を保つ。ましてや、お前は七杯呑んだから七千年の寿命を保つだろう。この後はものを食べずとも欲しくもあるまい。寒く思うこともあるまい。これぞ親孝行の印よ」と言って立ち上がって雲の上に乗って行ったところ、五色の光が差して、南の天に上がったかと思えば、しじらは家へ帰っていたのだった。

 女人に語ろうとしたところ、その時の有様を言わぬ先に、少しも違わずに女人が語ったので、しじらは、これは神通を悟る化身ぞと思ったところ、女人がならば私はお暇しようと言った。しじらの母が聞いて、「嘆かわしいことかな。この程思いの他な人を迎えて、しじらと共に嬉しく思い、譬えようもなかったのに、このように仰せになるとは、あら情けないことだ」と言って、天を仰ぎ地に臥して嘆くことは限りもなかった。女人は「このように長々と居ることならば、如何なることもしても稼ぎ出して、後の形見として見せ、また過ぎた過去のことを忘れるように思ったけれども、我々の仕事はこの布を織り出して金銭三千貫で売らしめたが、特別なことと思ってはならない。これで一生暮らせ。これもひたすらにしじらの親孝行の印である。南方補陀落(ふだらく)世界の観音の浄土より使いとして来た。今は何を包み隠そうか。私は童男童女身(どうなんどうにょしん)と言う観音に仕える者である。布売りにいった所は南方補陀落世界の観音の浄土である。これから後は七千歳の寿命である。これは七徳保寿の酒を七杯呑んだからである。これより後は、いよいよ金もあり身分も高くなって仏神三宝の加護があるだろう。あの酒をいただく時に三人出て酌をした者こそ、われわれと肩を並べる人である。名を声聞身得度者、毘沙門身得度者、婆羅門身得度者と申す。これもひたすらに親孝行の徳によって、紛れもなくこのように憐れみ給うたことだ。さらば」と言って、しじらの家を出立し、門で暇乞いしたことは四鳥の別れの如くであった。名残惜しいと言って南の空に上がるかと見れば、白雲に乗って上がった。虚空に音楽が響き、この世のものとも思われぬ香りが四方に漂い、花が降り、諸々の菩薩たちが迎えに来た。しじらは途方に暮れて佇んでいたが、何と思っても、再び逢うことはできないので、思いきりつつ、親子は家へ帰った。それから、金もあり身分も高くなって、親を心安く養った。さて、しじらは自ずから成仏得道(じょうぶつとくどう)の縁を受け、仏果を得て煩悩を逃れる縁を受け、仏の位となり、七千年目には天に上がった。そのとき紫雲がたなびいて、この世のものとも思われぬ香りが四方に満ち満ちて、花が降り、不老不死の風が吹いて、音楽も止むこともなく、二十五の菩薩、三十三の童子、二十八部衆、三千仏、みな色めき、十六の天童、四天、五大尊、みなみな虚空に満ち満ちた。

 これはひたすらに親孝行の印である。後々でも、この草紙を読んで親孝行であれば、このように富み栄えて現世と来世の願いはたちどころに叶うであろう。まず現世では、七難即滅し、さしつかえも無く、衆人に愛されて、末代まで繁盛であるだろう。後の世では必ず成仏を得ること疑いない。ひたすらに親孝行で、この草紙を他人にも読み聞かせるべし。読み聞かせるべし。

◆余談

 見るなと言われたら見たくなるのが人情だが、蛤の草紙では見るなの禁止を破らなかったパターンの話を見ることができる。が、結局別れは訪れるのである。

 正体がバレたら居られなくなる、昔話の定型であるが、なぜそうなのかについては昔話の一つの謎かもしれない。

◆参考文献

・「日本の民話 34 石見篇 第一集第二集」(大庭良美/編, 未来社, 1978)
・「日本昔話大成 第2巻 本格昔話 一」(関敬吾, 角川書店, 1978)
・「御伽草紙集」(大島建彦/校注・訳, 小学館, 1974)
・柳田国男「蛤女房・魚女房」「昔話と文学」(柳田国男, KADOKAWA, 2013)

記事を転載 →「広小路

 

|

2017年3月18日 (土)

物部神社と「生きている出雲王朝」

◆物部神社と出雲牽制

島根県大田市の物部神社・拝殿
折居田のお腰掛岩・ご由緒
折居田のお腰掛岩
むかし物部神社の御祭神字摩志麻遅命(うましまじのみこと)が白い鶴に乗ってこの川合に天降られました。そのところを鶴降山(つるぶやま)といいます。鶴降山から国見をなされたところ、八百山(やおやま)(神社の後山)が大和国の天の香具山(あまのかぐやま)によく似ているので、八百山の麓にお住まいなさることになりました。このとき鶴降山から白い鶴に乗って降りられたところを折居田(おりいでん)といいます。
 折居田には御祭神が腰を掛けたという大きな岩があり、また、むかしから大きくもならず枯れもしないといい伝えのある一本の桜の樹がありました。
ここから東へ六百メートルくらいのところにあって、石碑が建ててあります。
近くには清らかな泉もあり。十種神宝(とくさのかんだから)を祀る石上布瑠神社(いそのかみふるじんじゃ)もあります。
 昭和五十六年の秋、道路の拡張工事のためお腰掛岩(こしかけいわ)と桜の樹を境内に移して伝説とともに永久に保存することになりました。
 御祭神が白い鶴に乗って天降りなされたという伝説によって、物部神社の御神紋は「日負鶴(ひおいづる)」となっています。
 大田市川合町の物部神社は石見国一の宮。ご祭神で物部氏の祖神である字摩志麻遅命(うましまじのみこと)が鶴に乗って降臨したという言い伝えが残されている。
物部神社の鶴像
物部神社の鶴像
物部神社裏山の御神墓
物部神社裏山の御神墓
 古代、出雲の牽制・監視のため物部氏が入植したという説があるが史的証拠に乏しいとされている。
 ところで、司馬遼太郎の「歴史の中の日本」という随筆集に「生きている出雲王朝」という随筆があり、その中で物部神社が取り上げられている。
 この神社も、いまでこそ、神社という名がついているが、上古はただの宗教施設として建てられたものではなく、出雲への監視のために設けられた軍事施設であった。その時代は、前記の天穂日命などのころよりもずっとくだり崇神朝か、もしくはそれ以後であったか。とにかく、出雲監視のために物部氏の軍勢が大和から派遣され、ここに駐屯した。神社の社伝では、封印された出雲大社の兵器庫のカギをここであずかっていたという。出雲からそのカギをぬすみに来た者があり、物議をかもしたこともあったという。(27-28P)
 とある。これは興味深い記述だ。出雲牽制のためというところまでは他の書物でも見るのだけど、出雲大社の兵器庫のカギを預かっていたという記述は他では読んだことはない。司馬遼太郎といえば日本を代表する歴史作家でいい加減なことを書くとは思えないし、もし間違いがあれば物部神社からクレームがついたことだろう。

◆生きている出雲王朝

 ただ、この「生きている出雲王朝」という随筆自体謎めいているのである。まず出雲大社の社家を名乗るW氏が登場する。W氏は産経新聞でそれなりの地位を得ていた人物らしいが、この人が自分は大国主命の末裔であると告白するのである。いわば出雲は天孫族に簒奪されたのだと。
出雲大社・拝殿
出雲大社・本殿前
出雲大社
 W氏は現代の語り部である。司馬は「生物学者がアフリカ海岸で化石魚を発見したときのそれに似ていた」(11P)と驚きを記している。W氏が少年の頃から伝えられた口伝には明かしてよいものと秘さねばならないものとに分かれるらしい。どこまで司馬遼太郎に語ったかまでは触れられていないが、司馬は「生きている出雲王朝」を出雲族によって治められていた第一次王朝と天孫によって統治された第二次王朝とに分けて論じている。
 「生きている出雲王朝」が発表されたのは昭和三十六年の中央公論上だった。当時は出雲の考古学研究が進んでいなかったため、古代出雲は神話上の存在としか見なされていなかったが、その後、荒神谷遺跡や四隅突出型墳丘墓などの発見によって、山陰から北陸地方にかけて日本海を通じてつながる独自の文化圏があったことが分かってきた。
出雲弥生の森公園の西谷墳墓群・4号墓
出雲弥生の森公園の西谷墳墓群・4号墓
西谷墳墓群・3号墓
西谷墳墓群・3号墓
西谷墳墓群・3号墓
西谷墳墓群・2号墓
西谷墳墓群・2号墓
 日本書紀と異なり古事記では出雲の国譲り神話を語っている。葦原の中つ国の支配者となるために国譲りという儀式が必要だったということだろう。それが何を意味するのかは分からない。そしてそれが古代において既に神話となり、無視できないものだったということだろう。日本海沿岸にまたがる文化圏と瀬戸内海を沿岸、内海とする文化圏――大和に連なる連合があったはずであるが、瀬戸内沿岸の方が生産力は高いはずで初めから大和の方が優位にたっていたのではないか。それでもなお国譲りとして語らざるを得なかった、その理由は何なのだろうか。
 ネットで調べたところ、「生きている出雲王朝」発表当時、出雲では強い反発があったらしい。支配者が交替して既に千数百年にもなるのだから無理もない。今もなお出雲国造の子孫が出雲大社の宮司を主宰していることに歴史の積み重ねが窺える。
 物部神社は石見と出雲の国境に近く、出雲監視のために置かれたと考えるのには魅力がある。古代になにがあったのか分からないが、司馬遼太郎も出雲と石見の気質の違いや仲違いについて触れている。

◆富家口伝

 吉田大洋「謎の出雲帝国 天孫族に虐殺された出雲神族の屈辱と怨念の歴史」(新装版)が復刊されていることを知る。これは著者の吉田大洋が「生きている出雲王朝」に登場するW氏こと元産経新聞の富當雄氏に直接取材して書いた本とのことである。
 だが、吉田の持論は古事記がシュメール語で読めるという、正直トンデモ説と見なす他ないものであった。また、富氏に取材した部分と吉田独自の持論が混じって、区別がつけ難い。
 「謎の出雲帝国」のレビューを読んで斎木雲州という人が「出雲と蘇我王国」「出雲と大和のあけぼの」という本を出版していることを知る。斎木氏は富氏の子息で、これは「謎の出雲帝国」の誤りを正すために書かれた本であるとのこと。島根県立図書館に所蔵されているので、興味のある人はこちらを読んでみるといいと思う。出雲は主王と副王の並立する政権で、主王が大穴持、副王が少名彦と呼ばれていたことなどが挙げられている。
 紀元前3世紀、秦の始皇帝の不老不死の薬を探してくるべしという命を受けた徐福が出雲にやってくる。この徐福がスサノオとされている。徐福は当時の王であった八千矛と事代主を幽閉、謀殺してしまうというもの。この事件がきっかけで出雲王家の分家筋は奈良に移住、カツラギ王国を建てたとのこと。
 二度目に来日した徐福は、今度は北九州に定着、ホアカリ/ニギハヤヒという和名で呼ばれる。そして物部氏の祖となった……などという流れである。
 日本にやって来たのは徐福だけではなく、新羅の王子である天日矛もそうである。但馬に入った天日矛はそこを開拓して亡くなったが、後継勢力が播磨を巡って出雲と争ったとしている。天日矛の子孫である神功皇后は自らに新羅の継承権があると考え、海を渡り、新羅、百済、高句麗を従えた。
 その後、出雲は砂鉄を巡り、自らと同系統のキビツヒコ率いる吉備に攻められたりしたとのこと。
 文中ではなぜか触れられていないが、神武天皇に抵抗した長髄彦(ナガスネヒコ)は登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれている。つまり富氏の系譜に連なるのである。出雲系の王が奈良を支配していたということになるだろうか。
 富家口伝は興味深くもあるが、結局は真実性を担保するものが何も存在しないのがネックである。富家文書というのがあって出雲大社で地位があったことは確認できるが、それは口伝には触れていないのである。四隅突出型墳丘墓の山陰から北陸にまたがる分布や荒神谷遺跡の出土物などで、弥生時代後期に出雲を中心とした王権があったのは間違いないが、それ以上のことは知り得ないのである。

◆参考文献

・司馬遼太郎「生きている出雲王朝」「歴史の中の日本」(司馬遼太郎, 中央公論社, 1994)所収 ※初出は「中央公論」昭和三十六年三月号
・「島根の神々」(島根県神社庁, 福間秀文堂, 1987)
・「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」(式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)
・「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」(谷川健一/編, 白水社, 1985)
・「謎の出雲帝国 天孫族に虐殺された出雲神族の屈辱と怨念の歴史(新装版)」(吉田大洋, ヒカルランド, 2018)
・「出雲と蘇我王国 : 大社と向家文書」(斎木雲州, 大元出版, 2012)
・「出雲と大和のあけぼの : 丹後風土記の世界」(斎木雲州, 大元出版, 2007)
・「お伽話とモデル : 変貌する史話」(斎木雲州, 大元出版, 2008)
・「古事記の編集室 : 安万侶と人麿たち」(斎木雲州, 大元出版, 2011)
記事を転載 →「広小路

|

2017年1月15日 (日)

国造りの仮住まい――志都の岩屋

大汝少彦名のいましけむ 志都の石屋は 幾代経ぬらむ
 万葉集に「志都乃石室」と詠まれたとされる場所が島根県には二か所存在する。大田市静間町の静之窟と邑南町にある志都岩屋神社である。

◆志都岩屋神社

 邑南町の志都岩屋神社の本殿裏には鏡岩と呼ばれる巨岩があり、古くからの巨石信仰が窺われる。
邑智郡邑南町の志都岩屋神社・鳥居
志都岩屋神社・拝殿
志都岩屋神社・本殿と巨岩
志都岩屋神社・ご由緒
志都岩屋神社・萬葉歌副碑
 2018年に志都岩屋神社の裏山を登った。体力不足で古志都岩屋までしか行けなかった。次回はもっと上まで行ってみたい。
邑南郡邑南町・古志都岩屋
古志都岩屋

◆静之窟

 大田市静間町の静之窟は海岸にできた岩窟(海食洞)。以前は人が入ることができたようだが、現在は崩落の危険ありということで立ち入りは禁止されている。
大田市静間町の静之窟
静之窟・石碑
静之窟と鳥居

◆静間神社

 大田市静間町にある静間神社は静之窟との所縁が深いようだ。
大田市静間町の静間神社・拝殿
静間神社・拝殿と本殿
静間神社・ご由緒
 静間神社は、第五十八代光孝天皇の御代、仁和二年(八八六年)二月八日に創建されました。昔は魚津の静ノ窟に鎮座していましたが、明暦二年魚津■(?)の前に遷座し、さらに延宝二年(一六七四年)六月二十七日、現在地に遷し祀られました。
 大己貴命、少彦名命の二柱の神は、農民に鋤、鍬を与え、水稲の種子をまいて、田作りの方法を教えられました。また、人間の病気はもとより、家畜の病気治療にも当たられた神々として、今の世でも日本各地で、病める人たちの深い信仰を集めています。
 とご由緒にある。元は静之窟に鎮座していたが、後に現在地に遷座したとのこと。
 大国主命と少彦名命が「志都乃石室」を国造りを行なうための仮住まいとされたというが、考えるに、大田市静間の方が出雲に近くそれらしいか。

◆よいところも悪いところも

 むかし、オオアナムチ命がスクナヒコナ命に話しかけた。
「われわれのつくった国は、良くできたと言っていいだろうか」
「うまくいったところも――スクナヒコナ命が答えた――あれば、うまくいかなかったところもある」
 この話には、どうやらふかい趣があるらしい。その後、スクナヒコナ命は[出雲の]熊野の[山]崎に行き、とうとう常世郷(とこよのくに)にまっすぐに行った。またはいう、淡島に行って、粟の茎によじのぼったら、はじかれて常世郷に行ってしまった、と。
「<原本現代訳>日本書紀(上)」58P
 国造りには上手くいったところと上手くいかなかったところがある。この文章を読んで、昔、竹下元首相が過去の植民地支配に関して「良いことも悪いこともあった」と述べて物議を醸したことを思い出した。竹下首相は上記の言い伝えを念頭に置いていたのかもしれない。
 戦前の日本人は威張っていたらしいが、別に苛烈な支配をした訳ではない。日本の領土だったところは韓国にしても台湾にしても旧満州にしても栄えている。国民皆教育が大きかったのだろう。

◆余談

 邑南町の志都岩屋神社の裏山である弥山は登山コースになっているが、訪問当時、酷い足首捻挫で登るのをあきらめた。
邑南町の志都岩屋神社・弥山の登山コース
 大田市静間町の静之窟に行こうとしたのだが、静之窟周辺には駐車場が無く、近所の住宅の人に「ここは駐車場がありません」と怒られた。次回行くときはどうしよう。
<追記>
 大田市静間町の静之窟だが、坂はきついが静間神社から歩いていける距離だった。静間神社前に車を停めていった。
 邑南町の志都岩屋神社は、浜田道・大朝ICから国道261号線を旧瑞穂町方面に向かって走る。県道6号線に入る。そこから更に右折する(※6号線を進む)。神社前に鳥居と看板があるので、鳥居をくぐる。しばらく進むと神社の方向を示した杭がある。民家があり狭いが、そこを上がると駐車スペースがある。
 静間神社は国道9号線から静間方面へ入る道、県道287号線に入って、静間小学校方面へと曲がる。そのまま道なりに進むと、「静間神社」と書かれた標識があるので、そちらに曲がる。しばらく進むと静間神社がある。神社前に車を停めるスペースがある。神社から道を下ると静之窟(しずのいわや)へ行ける。歩いていける距離(※岩屋周辺には駐車スペースがない)

◆参考文献

・「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」(谷川健一/編, 白水社, 1985)pp.169-170
・「<原本現代訳>日本書紀(上)」(山田宗睦/訳, ニュートンプレス, 1992)
記事を転載 →「広小路

 

|

2017年1月14日 (土)

城上神社の亀石――大田市石見銀山

◆はじめに

 石見銀山(大田市大森町)の城上神社の境内に亀石と呼ばれる岩がある。

島根県大田市の石見銀山の城上神社
城上神社の亀石
亀石の伝説

◆亀石の伝説

 その昔、延喜年間(一〇〇〇年くらい前)城上神社が仁摩町馬路の城上山に有った時、海防の神と崇められ崇敬者から珍しい貝の化石の有る石と海亀の姿の石を奉納して海の安全を祈った。
 永享年間当神社を愛宕山へ遷座したときはこの二つの石は運ばれたが、その後、天正年代現在地に遷座したときに亀石を運ぶことを忘れられた。
 亀石は「自分の甲(亀甲)は、城上神社の紋所だ、行かなければ」と山を下ったが、自らの重さに山の麓の川底へ沈んでしまってどうすることも出来なくなった。
 それからは、その川岸を通ると川の中から不思議な音が聞こえるようになった。
静かな夜だとちょうど小豆をとぐような音に聞こえた。物好きな人々で道端まで上げてみたら亀の形をした石であった。それからは小豆石の名で大正年代まで道端に置かれた。
 この石が或る夜、敬神家である田中某氏の夢の中に出て事の次第を打ち明けて、某氏は早速そのことを宮司に告げて、此処に落ち着くことになった。(城上神社伝記より)

◆城上神社

 城上神社は延喜式内社だが、元は仁摩町馬路に鎮座していたものを十五世紀に大内氏が愛宕山に遷座、その後十六世紀になって毛利氏が現在地に遷座したとのこと。

城上神社・鳥居
城上神社・ご由緒

 主祭神は大物主命。大国主命の幸魂奇魂であり、同一視される。大三輪の神である。

 拝殿内の天井絵が「鳴き龍」で、柏手を打つと天井が共鳴するとのこと。訪問時は気づかず試さなかった。

城上神社・鳴き龍

◆余談

 石見銀山・大森町内にはバスで行けるが、訪問時は世界遺産センターの駐車場に車を停め、遊歩道経由で歩いて町内に向かった。遊歩道なので照明がなく、暗くなると道が見えなくなるので明るいうちに引き返さないといけないが、町内まで約1.5キロメートル、20分ほどの道程なので歩いていけないことはない。城上神社から龍源寺間歩まで約3キロ。石見銀山を往復すると合計約9~10キロメートルほど歩くことになるだろうか、ゴルフをプレイするのと同じ程度に歩くことになる。

◆参考文献

・「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」(式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)
・「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」(谷川健一/編, 白水社, 1985)

記事を転載 →「広小路

|

2017年1月 7日 (土)

城を守った鶴と山吹城――石見銀山の伝説

◆はじめに

 大田市大森町にある石見銀山は世界有数の銀山である。十六世紀になると銀山を巡って山口の大内氏、広島の毛利氏、島根の尼子氏などが争った。

◆あらすじ

 大森銀山の近くには尼子氏が守る山吹城があった。この山は要害山とも呼ばれ、天然の要害の地であった。この山吹城にいつからか一羽の鶴が住み着いた。鶴は可愛がられ、人懐こくなっていた。
 ある年のこと、毛利氏が銀山を奪おうとして大勢で山吹城を攻めた。しかし天然の要害でもある山吹城は容易には落ちなかった。戦いは長期戦になり、毛利氏は尼子方の疲れるのを待っていた。
 五月五日のことである。城の高い松の木のてっぺんに一羽の鶴がとまっていて、その鶴が羽ばたく度に城が高くなったり低くなったりした。城を守ろうとする鶴に毛利方は驚きざわめいた。
 城を攻め落とそうとしていた毛利方は不気味になってしまい右往左往した。困った毛利方は毛利軍中で一番の弓の名人を呼び寄せて鶴を射ることにした。弓の名人は二、三人がかりでようやく引けるような弓を引き絞った。
 矢は狙いを過たずに鶴に命中した。それが合図となって毛利方が攻め上り、とうとう城を落としてしまった。
 その後、五月五日の節句の日に山吹山に登ると、刀で切り合う音や武士の争う声が聞こえるようになったという。そしてその声や音を聞いた者は生きて山から帰れなかったという。
 命をかけて城を守ろうとした鶴は手厚く葬られたということだが、どこに墓があるか分からないとのことである。

 石見銀山の支配権を巡って多くの戦国大名たちが争った。この伝説は十六世紀の話らしい。石見銀山から算出した銀は世界を巡り、世界経済に大きな影響を及ぼした。この伝説は銀山を守る山城にまつわる伝説である。

標識・山吹城跡へ
山吹城跡・登山道
山吹城跡登山口・解説
山吹城・休役所跡
山吹城跡・登山道
山吹城跡・登山道
山吹城跡・登山道・階段
山吹城跡・本丸跡への階段
山吹城・本丸跡・史跡・山吹城址・石碑
山吹城・解説
山吹城・解説
山吹城・解説
山吹城・解説
山吹城・長い階段を下りる
長い階段を下りる
石見銀山の模型
山吹城の模型

◆余談

 落城した五月五日に城に登ってはならないというのは実際現地で言い伝えられているらしい。

 石見銀山を訪れた際に山吹城に登った。途中から長い階段が続き、足の筋肉が痛んでヘトヘトになる。途中、通り雨にも降られて慌ててデジカメをリュックにしまった。足場の悪い処もあり高所恐怖症なので頂上につくとロクに見物しないままに下山した。もうそれだけで体力を使い果たしてしまい、龍源寺間歩や佐比売山神社に行くつもりが途中で引き返してしまった。夏場で汗だくだくとなり、蚊にも悩まされた。真夏に山城に登るのは控えた方がいいのかもしれない。

◆参考文献

・「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1978)pp.25-27
・「それぽっちり物語 石見銀山昔話伝説集」(大崎雪枝, 1976)pp.11-14

記事を転載 →「広小路

 

| | トラックバック (0)

牛鬼と影ワニ

◆はじめに

 大庭良美「石見の民話 ―その特色と面白さ―」(「郷土石見」8号)に「うしおに」「影ワニ」が紹介されている。
 次に同じ石見でも地域によって特色のあることである。石見は日本海に沿った海岸線と中国山地の細長い国である。東部の海岸には「うしおに」「影ワニ」といった海の怪物がいるが、これから西にはいない。
 「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」でも大田から江津にかけての牛鬼伝説が収録されている。

◆牛鬼

 波路浦に一人の漁師がいた。ある日漁に出たが、その日は大漁だった。喜んで帰ろうとすると、海の中から大きな牛の様な怪物が「魚をくれ」と叫ぶのに出くわした。恐ろしくなった漁師は魚を投げてやったが、またしても怪物は「魚をくれ」と叫ぶ。そこで少しづつ魚を投げてやった。そうして港へつくと、急いで家に戻ったところ、怪物は家にまで押しかけて来て「魚をくれ」と叫んだ。困った漁師が「では家の中へ入れ」と言うと、怪物は「お前はお仏飯を食べているから中には入れん」と言って去っていった。これは昔から言われている牛鬼だろうという話になった。

◆濡れ女

 昔、大田の染物屋の主が魚釣りをしていると、魚がよく釣れた。こんなときは濡れ女と牛鬼が出るという言い伝えがあり、それを思い出して帰ろうとすると、濡れ女が出て「赤ん坊を抱いて欲しい」と言って差し出した。前だれで抱くと石の様に重いので、赤ん坊ともども投げ捨てて逃げ帰った。そこである家に飛び込むと、「もう少しだったのに、逃して残念だった」と牛鬼は言い残して去った。

◆アニメ

 牛鬼伝説は「まんが日本昔ばなし」でアニメ化されている。演出:芝山努、脚本:沖島勲、美術:亀谷三良、作画:海谷敏久。

 昔、浅利に侍夫婦がいた。元は名のある武士に仕えていたが、今は浅利で読み書きを漁民の子供たちに教えて暮らしていた。ある日米が底をついた。侍は家に伝わる刀を売ってしまおうと考えたが、妻が制止する。そこで米を借りに浅利の村へいくと漁民たちが牛鬼に船が襲われた、退治して欲しいと頼まれる。どうせ思い過ごしだろうと侍は引き受けてしまう。嫌なことを引き受けてしまったと侍は釣りに出かける。その日は魚がよく釣れた。そうしていると日が暮れた。すると赤子を抱いた女が現れ「この子に一尾恵んで欲しい」という。魚を渡すと赤子は生のままあっという間に食べ尽くし「もう一尾恵んで欲しい」と繰り返す。魚が尽きると、今度は腰に挿した脇差を食べてしまった。ようやく侍は女と赤子が人でないと気づくが、女は赤子を侍に抱かせると海に飛び込んでしまう。すると海の中から牛鬼が現れた。女は牛鬼だった。気づくと赤子は石になっていた。と、侍の家にあった刀がカタカタと揺れ始め飛んでいった。間一髪、飛んできた刀が牛鬼の眉間に刺さり、牛鬼は海へと沈んでいった。

 ……という内容。クレジットでは大庭良美・未来社刊とあり「石見の民話」らしいのだが、「石見の民話」に類話は収録されていない。「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」には類話が収録されており、刀が飛んで牛鬼を退治するというモチーフは確認される。

浅利富士と浅利海岸と風車
浅利海岸と風車
浅利町の海岸

 貉工房のまんが日本昔話データベースによると、「牛鬼」の放送年月日は平成1年5月20日。「日本伝説大系」は昭和五十九年発行なので、「日本伝説大系」の方が先となる。もしもアニメ「牛鬼」の方がかなり先だったら、アニメオリジナルの話の展開が牛鬼伝説に影響を及ぼしたかもしれない。しかし、脚本家の沖島氏は既に亡くなっている……などと妄想したのだが、さすがにそれはなかった。

◆影ワニ

 温泉津の辺りでは鮫のことをワニという。影ワニがいるという。船が海を走っていると、海に映った船乗りの影を影ワニが呑んでしまう。影を呑まれた船乗りは死んでしまうという。もしも影ワニに見つかったときは、むしろでも板でも海に投げて自分の影を隠さなければいけないという。
 あるとき、ある漁師が影を影ワニに呑まれそうになって、逆に影ワニを撃ち殺してしまった。ところが、その漁師は足に刺さった魚の骨で出来た傷が原因で死んでしまったが、その魚の骨は影ワニのものだという。

◆アニメ

 影ワニ伝説も「まんが日本昔ばなし」でアニメ化されている。演出:白梅進、脚本:沖島勲、美術:門屋達郎、作画:白梅進。

 昔々、石見の国の温泉津辺りでは鮫のことをワニと呼んでいた。ある嵐の晩、村の衆が村長を囲んで酒を飲んでいると影ワニの話になった。海の凪いだ日は船乗りの影が海に映ると、その影を影ワニが食べてしまう。すると船乗りは死んでしまう。だから海の凪いだ日には漁には出てはいけないと村長が諭す。
 その話を迷信だと鼻で笑ったゴンゾウという漁師がいた。この中で誰か影ワニに遭ったものはいるかと訊くと誰も答えない。それは影ワニに遭った者は助からないからだと村長が宥めるのも無視する。
 嵐が去った翌日は海が凪いでいたが、村人たちは村長の言いつけを守り、浜で魚やワカメを干していた。漁師は村長たちが制止するのも聞かず、船を海に漕ぎ出した。村長は影ワニに出会ったら、むしろでも板でも海に投げ込んで自分の影を消すのだと声をかける。
 漁をはじめると、面白いように魚が釣れる。夢中になっていると海の中から大きな影が現れた。影ワニが漁師の体をかじると、そこから血が噴き出た。慌てた漁師は釣った魚を海に捨てはじめた。魚を投げ尽くすと、船底にむしろがあった。村長の言葉を思い出した漁師はむしろを海に投げ入れた。ところが影ワニは去ろうとせず、むしろを食いちぎりはじめた。意識朦朧となった漁師だったが、日が暮れて影が海に溶け込んでしまうと影ワニはついに立ち去った。九死に一生を得た漁師はそれからは村長の言いつけを守り、二度と凪いだ日には漁に出なかった。

◆参考文献

・「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)pp.222-231
・「日本の民話 34 石見篇」(大庭良美/編著, 未来社, 1978)pp.32-38
・大庭良美「石見の民話 ―その特色と面白さ―」(雑誌「郷土石見」8号, 石見郷土研究懇話会, 1979)pp.58-71
・平賀英一郎「牛鬼考」「山陰民俗」第55号(山陰民俗学会, 1991)pp.1-14
・「伝承怪異譚――語りのなかの妖怪たち(三弥井民俗選書)」(田中瑩一, 三弥井書店, 2010)pp.203-214

記事を転載 →「広小路

 

|

解釈が分かれる――山邊八代姫命

◆はじめに

 大田市には久利町久利と大代町新屋に山邊八代姫命神社があり、共に式内論社とされている。久利町の方が有力。玄松子の記憶という式内社を取り上げたサイトによると、祭神の解釈が幾つかに分かれているようだ。

大田市久利町久利の山邊八代姫命神社・神社前の道路
山邊八代姫命神社
階段から見上げた山邊八代姫命神社
山邊八代姫命神社・拝殿
山邊八代姫命神社・拝殿
山邊八代姫命神社・ご由緒
久利町久利の山邊八代姫命神社
大田市大代町新屋の山邊八代姫命神社
階段から見上げた山邊八代姫命神社・鳥居と拝殿
山邊八代姫命神社・拝殿
山邊八代姫命神社・拝殿
大代町新屋の山邊八代姫命神社

◆祭神の解釈

 現在のご祭神は天照大神だが山邊八代姫命の解釈が
・単に氏神とするもの
・大己貴命の后神とするもの
・武田折命
 などと分かれるようだ。
社号から、山邊八代姫命であることは明らかだが、山邊八代姫命とはどなたなのかという点で異なるようだ。
 久利町の山邊八代姫命神社の由緒書きでは「山辺八代姫命と申すのは、天照大神の別名で」としている。思うに山邊八代姫命は太陽を祀る巫女で、その神格が天照大神に吸収されたのではなかろうか。

◆二つの社

 神社が久利町久利と大代町八代に分かれているのは、朝山晧「石見國式社考」によると

けれども傳ふる所によれば、この社はもと大江高山の嶺上にありしものだが、山高峻にして登山に不便であつたので、西麓も氏子は里宮を作つて次第に御鎭座地を改めた。八代村新屋の御社が即ちその最終の御鎭座地で、これを前者とする。ところが大江高山の東麓にゐた氏子はいよいよ峻険を越えねばならぬこととなつたので、これは東麓に里宮を作つた。而して此もまた轉々御鎮座地を移して遂に安濃郡久利にまで移つてしまつた。というやうに傳へている。
朝山晧「石見國式社考」(三) 雑誌「神光」第十号所収 48p.


ということの様だ。
 藤井宗雄「石見国式内神社在所考」によると、
祭神はくさぐさあれど信がたし、是は大己貴神の后神ならむ、在所は鬼村といふに在りしが、いつの頃か久利村に移すといへり。小社にはあれど、慶長十三年戊申年三月の棟札あり、元禄年中なるも同銘なり、今の社地はいさゝかにて疑へるもあれど、風土記に姫社とある、正しく是にあたり、其外大己貴神にも由縁ありて此あたりならでは、得あらずおぼゆればなり、類社新屋村の高山といふにあり、是は享保六丑年十月の棟札に、始て山邊八代姫命神社と見えしかど、尚寶暦の頃までも、高山明神と称したり、外に據とすべき事もなく、社は山腹にありて樹木生茂りたるが、彼の山邊の二字と好景とに心ひかれて、誰も此處ならむといへど、無稽の論といふべし。
とある。

◆余談

大代町八代の山邊八代姫命神社は本殿が簡略化されているというのか省略されているのか分からないが、
実は参拝時には気付かなかったが、どうやら、僕が参拝した社殿は拝殿だけらしく、本殿は、山腹にあるらしい。
と玄松子の記憶にある。

山邊八代姫命神社・省略された本殿

◆参考文献

・「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」(式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)pp.839-845
・「神祇全書 第5輯 ※藤井宗雄『石見国式内神社在所考』所収」(思文閣, 1971)
・朝山晧「石見國式社考」(三) 雑誌「神光」第十号所収 48p.

記事を転載 →「広小路

 

|

2016年2月21日 (日)

神上の浜と神別れの坂――五十猛命と大屋津姫命と抓津姫命

◆神上の浜

 島根県大田市五十猛町には須佐之男命が渡来、上陸したという伝説がある。和田珍味本店から見下ろす浜辺が神上(しんじょう)の浜と呼ばれており、ここから須佐之男命と息子の五十猛命(いたける、いそたけるのみこと)が上陸したとされる。

和田珍味本店の神上の浜案内図
和田珍味本店から見た神上の浜
大田市五十猛町の神上の浜
神島
神上の浜より神島を望む
神島
神上の浜

 古事記に登場する大屋毘古神は五十猛命と同一視される。

 猛(たける)の名を持つ神様で、荒々しい印象があるが、日本書紀の一書によると、日本に上陸した五十猛命は日本の各地に木々を植え青々とした大地とした優しい神のイメージがある。

◆韓神新羅神社

 大田市五十猛町の大浦漁港のある入江の西側に韓神新羅神社がある。日本書紀の一書では、新羅から須佐之男命が渡来したという伝説とは逆に、日本から新羅に出かけていく舟を作るための木を生み出す神話も採録されている。
社伝によると、須佐之男命が五十猛命と大屋津姫命・抓津(つまつ)姫命を連れて新羅国に天降り、そこから埴舟に乗って日本に帰るとき、大浦海岸近くの神島に上陸、さらに須佐之男命のみがここに社を作って留まったが、のちに姫神二柱をも併せ祀ったという。
「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」170P
韓神新羅神社・鳥居と拝殿
韓神新羅神社・拝殿
韓神新羅神社・拝殿
韓神新羅神社・ご由緒
スサノヲ神話のあるこの大浦地区には「グロ」という特殊な正月の伝統行事がある。千木と呼ばれる大竹を立て周りに木や、竹や、むしろで円形の仮屋をつくり、その中で火にあたり餅などを焼いて食べると病気をせず豊漁になるという言い伝えがあり、今も守り伝えられている。
標識・グロ国指定重要無形民俗文化財

◆神別れの坂

 JR五十猛駅から西に数百メートル、国道9号線と旧道が交わる交差点に神別れの坂を記念した石碑がある。兄の五十猛命と妹の大屋津姫命(おおやつひめのみこと)、抓津姫命(つまつひめのみこと)とここで別れたという伝説がある。五十猛命は最終的に紀の国に入ったと日本書紀にある。

神別れの坂・国道9号線と旧道が交わる交差点
神別れの坂
神別れの坂
交差点付近の石碑
神別れの坂・石碑
神別れの坂・石碑

 大屋津姫命と抓津姫命とは樹木の神、林業の神とされている。機織りの神様ともある。

 Wikipedia「オオヤツヒメ・ツマツヒメ」の項目によると、「五十猛命と共に素盞嗚尊の命により全国の山々に木種を撒き、紀の国(現在の和歌山県)に戻って住んだとされる。」ともある。日本書紀の記述だと大屋津姫命と抓津姫命も紀の国に入ったと解釈ができるようだ。実際、和歌山県和歌山市に大屋都姫神社がある。

◆神社

 JR五十猛駅から東南に数百メートルのところに五十猛神社がある。五十猛神社は五十猛命と応神天皇を祀り、大屋津姫命と抓津姫命を配祀する。
社伝によると、須佐之男命が五十猛命・大屋津姫命・抓津姫命と朝鮮半島からの帰途、この地に上陸、五十猛命はここに残って木種を播き殖産につとめ、湊の宮山に祀られたという。また須佐之男命は大浦に留まって韓神新羅神社に祀られ、湊の近くの坂(神別れ坂)で須佐之男命と分かれた姫神二柱はそれぞれ造林や機織などの業をひろめ、大屋津姫命は大屋の大屋津姫命神社に、抓津姫命は川合の物部神社の境外社漢女(からめ)神社に祀られたという。
「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」171P
島根県大田市の五十猛神社・鳥居と拝殿
五十猛神社・拝殿
横から見た五十猛神社
五十猛神社に入る入口
 また、県道289号線を南下していくと大屋町に大屋姫命神社があった。
大屋姫命神社・鳥居
大屋姫命神社・鳥居
階段から見上げた大屋姫命神社
斜め横から見た大屋姫命神社
 抓津姫命を祀る漢女神社(からめじんじゃ)は物部神社の境外社としてあるとのこと。

◆余談

 県道289号線もジャスト一車線の区間が長く、ドライブしていて対向車が来ないか緊張した。一部拡幅工事が行われている区間もあった。

兄と妹が分かれるというロマンチックな伝説である。同じ兄妹でも古代だし、同母と異母妹で感情が異なるのではないだろうか。

 2016年夏に物部神社にお参りしたが、漢女神社はどこか分からなかった。

◆参考文献

・「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」(谷川健一/編, 白水社, 1985)pp.170-171

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

 

|

よずくの里と水上神社

◆水上神社

水上神社は島根県大田市温泉津町の式内社である。

島根県大田市温泉津町の水上神社・鳥居と拝殿
階段から見上げた水上神社・拝殿
水上神社・ご由緒
水上神社
 当神社は延喜式内社であり、御祭神は上津綿津美神と上筒男神二柱の海を司る神様が奉斎されております。
 何故海辺でもないこの地にお鎮りなされたのか。伝説によると神代の昔二柱の大神様を始め大勢日本海に船を乗り入れられましたが暴風雨で海上は大荒れとなり、漂着の地が日祖の殿島であったと伝えられております。
 それ以来暫くの間日祖から小浜の浜辺などで製塩や稲作の技法を教えられ、さらに奥地に進まれ上村、飯原を通って、この西田の地に辿り着かれそこに聳える、水上山の姿が気に入られここにお鎮りになりました。
 今日の「よずくはで」はその名残りであり西田や周辺の人々に漁網を干すやり方を取り入れた稲はでの作り方を指導されました。
 秋の稲の収穫期になると「秋の風物詩」として「よずくの里」を訪ねる人は今も絶えません。
ご祭神は上津綿津美神と上筒男神とある。上津綿津美神はワダツミ神、上筒男神は住吉三神の一柱だろう。
然るに伊弉諾神日向の橋の小戸に滌し玉ふ時に坐せる神數多と御子等と共に、御舟にて温泉津日祖浦殿島に上陸し給ひ、小高き所に登り、伊弉諾神其地に鎭座し給ふ。故に地名日祖といふ。祓戸になる神たちとその地にて別れ給ひしにより、其地を今に神別坂といふ。祓戸に生る神たちは、それより小濱村に移り給ふ。時に日暮に及びければ、假りに宿り給ふ。その地を今に假り屋、又假り谷といふ家あり。それより飯原村に至り、饗上げ給ふ故に飯原と云ふ。同村のうちにてこの里に鎭座しては如何といふに、イヤイヤと宣ふ。その地を今にイヤといふ。夫より西田村に至り水上山に二神鎭座し給ふ。これすなはち水上神社なり。
「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」852-853P

◆祭神

wikipedia「ワタツミ」の項によると、イザナギ、イザナミ二神の間に生まれたのがオオワタツミ(大綿津見神・大海神)であり、イザナギ命が黄泉の国から帰って禊をした際生まれたのがソコツワタツミ(底津綿津見神)、ナカツワタツミ(中津綿津見神)、ウワツワタツミ(上津綿津見神)の三神とのことで、総称して綿津見神と呼んでいるとのこと。

この時、ソコツツノオノミコト(底筒男命)、ナカツツノオノミコト(中筒男命)、ウワツツノオノミコト(表筒男命)の住吉三神(住吉大神)も一緒に誕生している。上筒男神は表筒男命のことか。

◆稲はで

よずくはでは稲はでの一種。「よずく」とはフクロウとのこと。刈り取った稲穂をぶら下げて乾燥させる。

横からみた水上神社
銀山街道・よずくの里と張り紙が
こちらのサイトによると、木を三角錐状に立てる方法で、材料が少なくて済み、面積も狭く、短時間で組み立てることができ、風で倒れる心配がほとんど無いとのこと。

◆余談

行ったときは湯里方面から入ったが、道がジャスト一車線しかない道で不安に感じつつドライブした。後で地図を確認すると、石見福光方面から整備された道路が伸びていることに気づいた。

水上神社前の道路
地図で確認したが、水上山がどの山なのか確認できなかった。神社のある辺りでしょう。

 

標識・西田ヨズクハデこれより4㎞先
湯里・霹靂神社近くで撮影。「これより4km先」とある。ここからだと、県道201号線を南下することになる。車幅がジャスト一車線なので要注意。

「よずくはで」の写真はない。できればいつか撮影したいと思うが、機会があるだろうか。秋になると稲はではよく見かけ、よじ登って遊んだりしたが、浜田市内では田んぼがほとんどなくなり、見かけることもなくなった。

◆参考文献

・「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」(式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)pp.850-853

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

 

|