大田市

2022年10月 5日 (水)

「戦国武将が欲しがった石見銀山」を視聴する

よみうりカルチャー・島根を学ぶオンデマンド講座「戦国武将が欲しがった石見銀山」を観る。大内氏・尼子氏・毛利氏の銀山を巡る争いが解説される。講師は小和田哲男氏。

大内氏:守護大名から戦国大名化
尼子氏:守護代から戦国大名化
毛利氏:国人一揆から戦国大名化

とそれぞれが異なるルートを辿って戦国大名化したとのこと。

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2022年9月 4日 (日)

世界の一割を産出――「ブラタモリ」石見銀山編

NHKプラス「ブラタモリ」石見銀山編を見る。銀山のある仙ノ山は凝灰岩でできており、火山灰などが積もった山だそうだ。柔らかい凝灰岩の山に銀を含んだ熱水が浸透した。その柔らかさ故に鉱脈自体は細かったものの掘り進めやすかったとのこと。

僕は石見銀山には三回ほど行ったが、温泉津にはまだ行ったことが無い。

<追記>
大森の町並みは窓枠をサッシから木製のものへと変えたとのこと。利便性よりも観光地としての見た目を優先させた訳だ。

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2022年6月18日 (土)

蛇島――モチーフ分析

◆あらすじ

 昔、温泉津の釜野の辺りに長者がいた。長者には美しい娘がいた。多くの若者たちは誰でもその娘を欲しいと思った。ところが近くに山の主と言われる大蛇がいた。大蛇も娘を欲しいと思って何度も長者に申し込んだが、長者は承知しなかった。

 蛇の頼みがあまりにしつこかったので、長者も断りきれなくなって、それでは釜野の沖の島を八回巻け。巻くことができたら娘を嫁にやろう。その代わり、巻くことができなかったら、この土地から出ていってもらうと言った。
 大蛇は大喜びで沖に出て島を巻きはじめた。そうして七巻き半まで巻いたが、どうしても後の半分ほどが足りない。大蛇は必死にぐいぐい締め付けたが、どうしても八回にならなかった。

 大蛇はくやし涙を流しながら長者との約束を守って、海を渡ってどこへともなく立ち去った。

 そのとき蛇が締め付けた跡が島に残った。それで蛇島と言うようになった。

◆モチーフ分析

・温泉津の釜野に長者がいる
・長者には美しい娘がいる
・多くの若者が娘に求婚したいと思う
・近所の山の主である蛇が求婚する
・断りきれなくなった長者は条件を出す
・蛇は実行する。島を身体で巻くが七巻き半しか巻けない
・どうしても八回巻けない
・あきらめた大蛇は約束を守って去る
・蛇が巻いた跡がついた島は蛇島と呼ばれる様になる

 形態素解析すると、
名詞:蛇 長者 娘 島 求婚 七 八 半 多く 大蛇 実行 山 条件 温泉津 約束 若者 蛇島 跡 身体 近所 釜野
動詞:巻く いる あきらめる する つく 出す 去る 呼ぶ 守る 思う 断る
形容詞:美しい
形容動詞:主
副詞:どう

 蛇/娘/長者の構図です。蛇/島の構図でもあります。蛇―(巻く)―島の図式です。

 釜野の長者には美しい娘がいて[美女の存在]、多くの若者たちが求婚したいと思う[求婚の願い]。近所の山の主である蛇が求婚する[求婚]。断りきれなくなった長者は釜野の沖の島を八回巻けと条件を出す[条件の提示]。蛇はどうやっても七回り半しか巻けない[条件の未達]。あきらめた蛇は約束を守って去った[退去]。

 どうやっても七回り半しか島を巻けなかった蛇は約束を守って退去した……という内容です。

 発想の飛躍は、蛇に島を八回巻けと条件を出すところでしょうか。蛇―(巻く)―島の図式です。実際にやってみると七回り半しか巻けず条件が達成できません。

 要約しますと、蛇の<求婚>から<条件の提示>、実行するも<条件未達>。求婚を諦めて<去る>という内容です。条件の提示に当たっては長者に知恵が働いたか明確にされていません。<求婚>と<条件の未達>が、この話の骨子です。

 見方を変えると、<嫁>の欠落を埋めるべく求婚しますが、条件未達で欠落は埋め合わされません。更に失敗したときの条件として、その土地を去ることになるのです。

◆参考文献
・『日本の民話 34 石見篇』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.19-20.

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2022年2月13日 (日)

けしからん――しりのないニシ

◆あらすじ

 出雲の国でヤマタノオロチを退治したスサノオ命は石見の国の様子を見るために小浜(こはま)まで来た。

 小浜の近くの笹島(ささじま)には矢を作る際に使う質の良い竹が沢山生えていた。

 スサノオ命は笹島で竹を切って回っていたが、気がつくと潮が満ちていた。

 服が濡れてしまうとスサノオ命は浅瀬づたいに岸の方へ歩いていった。そのうち大波が打ち寄せて、着物の裾を濡らしてしまった。

 岸についたスサノオ命は近くの川で着物を洗うと乾くまで一休みすることにした。砂浜で寝入ってしまった。

 日が沈む頃になってスサノオ命は目を覚ました。今日中に出雲へ帰らないといけないのに、焦ったスサノオ命は干しておいた着物を着ようとした。ところが、風に吹き飛ばされたのか、せっかく干しておいた着物が川の中に浸っていた。

 しまったと思いつつ、着物を引き上げてみると、裾の方にニシ(タニシ)やヒルがびっしり付いていた。

 これはけしからん、立腹したスサノオ命がニシを一つずつ引き離すとニシの尖った尻をねじ切って川の中に捨てた。また、ヒルの口をねじ切って捨てた。

 それからというもの、この辺りのニシは尻尾が切れたようになり、ヒルは人の血を吸わなくなった。

 温泉津(ゆのつ)町の厳島神社の境内に衣更(きさらぎ)神社というお社がある。この社はスサノオ命を祀っていると言われている。

◆余談

 温泉津町の伝説である。この話はどこかで読んだことがあるが、偕成社『島根県の民話』に収録されていたので、追加で収録した。

 私の実家は田んぼを埋め立てた土地に建っているのだが、家の前に溝があって、そこに降りて遊んでいるとヒルが吸い付いていたことがあった。元が田んぼなのでヒルが生き残っていたのだ。

◆参考文献

・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.22-25.

記事を転載→「広小路

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2022年2月 2日 (水)

皆殺し――山谷のお延

◆あらすじ

 いまからおよそ四百年ほど昔(二〇二〇年代では四四〇年前)、戦国時代で日本中が乱れ、野盗や海賊がはびこっていた。石見では大蛇丸(おろちまる)という海賊の頭(かしら)が勢力を誇っていた。

 その頃、西山谷(にしやまたに)の里にお延(おのぶ)という娘がいた。十七歳で器量もよく評判の娘であった。

 ところが、その評判が大蛇丸の耳に入ってしまった。大蛇丸はお延を自分の嫁にすると勝手に決めてしまった。

 その年の秋祭りに近いある日のこと、二人の男がお延の家へ大蛇丸からお延への贈り物だと酒樽を担いでやってきた。大蛇丸とは誰かとお延が尋ねると、いずれ分かると言い残して帰っていった。

 夕方、浜から帰って来たお延の母は大蛇丸とは海賊の頭(かしら)だと飛び上がって驚いた。お延も驚いた。二人は考えた末、村長のところへ相談に行った。

 それはお延を嫁に寄こせという意味だと答えた村長はお延を隠すことにした。お延は村の東一里ほどにある島津屋(しまづや)という丘にある洞穴に隠れることになった。

 祭りの日になった。沖に泊まっていた船から一艘の小舟が降ろされ、山谷の浦めざしてやってきた。舟には大蛇丸が乗っていた。

 大蛇丸はお延の家にやってきた。お延の母は家にいないと答えると大蛇丸たちは家捜しをはじめた。お延の母は村長を呼んだ。大蛇丸はお延を隠したのは村長の差し金だなと言ってお延を出さねば西山谷の里を焼き払うぞと脅した。村中の家を探したがお延はいない。浜の網小屋や船の中まで調べたが、お延は見つからない。

 近くの村を探せと命じた大蛇丸が島津屋までやってくると、大蛇丸の刀の鍔に彫り込んである金のニワトリが鳴いた。ニワトリが鳴くと思いが叶うのだ。

 まもなく手下の一人が洞穴を見つけた。大蛇丸が入って見るとお延がいた。だが、お延は舌をかみ切って死んでいた。大蛇丸は怒り狂った。

 西山谷の里に戻った海賊たちは家中に火をつけ逃げ惑う村人たちを手当たり次第に殺した。

 島津屋の小高い丘の畑にお延の墓といわれる石が一つある。また、里人たちの亡骸を葬った谷は死人谷(しびとだに)と呼ばれている。

 お延が死んだ後、この里の沖を通る船が訳もなく動かなくなることがあった。人々はお延の魂が、むごい仕打ちをした大蛇丸に祟ろうと、船を止めて探しているのだと噂し合った。

 漁師たちはお延の魂を慰めるために、西山谷の山上に美延(みのぶ)神社を建てて祀った。

◆余談

 大田市朝山(あさやま)町の伝説です。朝山町では朝倉彦命神社にお参りしたことがありますが、海岸沿いの地域は未訪問です。美延神社という手がかりがありますので、検索しましたがヒットしませんでした。地図で確認すると、朝倉彦命神社の先に神社があるのが確認できました。そこかも知れません。

◆参考文献

・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.57-63.

記事を転載→「広小路

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2022年2月 1日 (火)

金色の魚――文次郎つり場

◆あらすじ

 邇摩(にま)郡(現・大田市)仁摩町の仁万川(にまがわ)が日本海に流れ込む東の方の岩場を「文次郎つり場」と呼んでいる。ここは夏、冬を問わず一年中魚がよく釣れる所である。

 ずっと昔のこと。文次郎という仁万一番の釣り好きの男がいた。文次郎は坂灘(さかなだ)の東のこの辺りが一番好きで、他の者が一匹も釣れないときでも、毎日必ずと言ってよい程魚を沢山釣った。

 秋雨の降るある日のこと。この日はいつもよりよく釣れた。その中に鱗が金色に光る大きな魚が一匹いた。形は鯛に似ているが鯛ではなかった。

 今まで見たこともない魚が釣れたものだと文次郎は家に帰って料理した。食べてみると、美しい色に似合わずまずくて食べられない。家の者にも勧めたが気味悪がって食べなかった。仕方がないので骨も身もみな捨ててしまった。

 翌日、文次郎の家の戸が開かないので近くの人が開けてみると、つり道具はいつもの場所にあるのに文次郎がいない。あちこち探してみたが見当たらない。村中大騒ぎになった。

 三日目の夜、雨は相変わらず降っていた。探し疲れた村人たちが文次郎の家に集まり、探し続けるか止めるか相談していた。すると、そのとき、ホトホトと戸を叩く者がいる、戸を開けてみると文次郎が立っている。どこに行っていたのか村人たちが尋ねても文次郎はただ黙っているだけだった。ただ唇をわなわな震わせるだけである。おかしなことだと誰もが思った。

 文次郎の手を引いて家の中に入れようとすると、酷い熱である。すぐ布団をかけて寝させた。不思議なことに外は雨が降っているのに文次郎の着物は一つも濡れていない。村人たちは気味悪がった。

 四日目の夜、文次郎は急に起き上がって、ふらふらと表に出た。驚いた家の者が跡を追ったが、暗闇に溶け込むように消えてしまった。

 文次郎の死体が岩場の渦巻きにもまれて見つかったのは、そのあくる日の夕方だった。両目がえぐり取られ、身体のあちこちは何ものかに食いちぎられていた。どうしてこんな惨いことになったのか、とうとう分からず仕舞いだった。家の者や事情を知っている者は金の魚の祟りだろうと言って悲しんだ。

 それからというもの、文次郎が釣りをしていた辺りの岩場を「文次郎つり場」と呼ぶようになった。今でもこの場所は魚がよく釣れ、釣り人が集まる場所である。

◆余談

 仁摩町には神楽岡八幡宮にお参りしたことがあるが海の写真は撮っていなかった。仁万川は見たことがないので、文次郎つり場がどの辺りなのか、現状では分からない。

◆参考文献

・『島根の伝説』(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1978)pp.21-24.
・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.72-74.

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2021年7月24日 (土)

朝倉彦命神社と大飯彦命神社

◆はじめに

 島根県石見地方には「彦」の名のつく神社がまだある。大田市朝山町朝倉の朝倉彦命神社と江津市松川町の大飯彦命神社である。

大田市・朝倉彦命神社
大田市・朝倉彦命神社

"江津市・大飯彦命神社

◆神社と祭神

 明治時代に活躍した国学者である藤井宗雄は「石見国式内社在所考」では、朝倉彦命神社について、「彦命」は後世の人が付け加えたものと考え、祭神は土佐国土佐郡朝倉神社と同一神としている。これに対し、「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」では、これについて、式内社の考証が祭神を中央や遠隔地の有名神と関係づけることで事足れりとした一例として批判している。朝倉彦命神社なのだから朝倉彦でいいじゃないかと考えるのである。

 大飯彦命神社について「石見国式内社在所考」では「彦命」の二字は三代実録に無いと指摘している。祭神は大飯寮の竈神八座の中たる大御食神としている。「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」では祭神を大背飯三熊大人命としている。「石見八重葎」でこの神名は雲州飯石郡三熊谷に降臨したことによる。またの名を伊毘志都幣之命としていることについて触れている。天穂日命の子であることから出雲系の神と解釈するのである。

 日本書紀の国譲り神話では出雲に派遣された天穂日命は三年経っても帰ってこず、またその子の大背飯三熊大人を派遣したところ、父に従って帰らなかったとしている。

◆余談

 朝倉彦命神社は国道9号線を進み、富山入口の交差点で曲がり、すぐに右折する。するとその先が神社である。訪問時はちょっと先まで行ってUターンして、神社の境内脇に車を停めた。

 大飯彦命神社は国道9号線、江川を渡ったところで県道261号線に入り南下する。採石場を過ぎて、最初の集落が目的地である。左折して集落に入ると細い道となる。適当なところに車を停めて歩いた。神社にいく参道には猪除けの鉄の柵が張られているので、紐を解いて中に入った。訪問時は前日の雨の影響か土砂崩れを起こしていた。

◆参考文献

* 『式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4』(式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)pp.804-806, pp.874-876
* 藤井宗雄「石見国式内神社在所考」『神祇全書 第5輯』(思文閣, 1971)p.340, p.348

記事の転載先→「広小路

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2021年7月19日 (月)

苅田比古と苅田比売

◆はじめに

 大田市久手町の苅田神社のご祭神は苅田比古と苅田比売である。田を刈る。つまり農業神でペアの神なのだ。また倉稲魂神(稲荷大明神)も併せて祀っている。
苅田神社

 久手町にはかつて波根湖があったが、昭和の時代に干拓され田んぼとなっている。苅田神社はもとは波根湖南岸の神谷山に社殿があったが、集落が海岸寄りに移り、旧社地が湿潤地だったので参詣に不便であるとして現在地に遷されたとのこと。神谷山には烏帽子端(えぼしばな)という大巌石があったそうだ。

 若狭国に苅田比古神社・苅田比賣神社があるそうだが、当社との関係は明らかではない。

◆在所考

 明治時代に活躍した国学者である藤井宗雄の記した「石見国式内社在所考」によると、苅田比古と苅田比売は刈田首(おびと)の祖神と解釈している。また、苅田神社は波根西村と大田南村とに二社あったことが分かる。

 「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」では、旧安濃郡内では苅田、刺鹿、新具蘇、野井といった開拓と農業に関係の深い神社が多く分布しているとしている。

◆口碑伝説

 苅田比古と苅田比売にまつわるお話は残されていないのだが、「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」では次のような口碑伝説を挙げている。

1. ご神体は木像で菅丞相、つまり菅原道真の一刀刻みと伝えられている。

2. 当地方の習俗として、江戸時代頃盛んにご神体盗みが行われた。

3. 「神谷明神は雷より恐ろしい」と言われ、波根浦・立神岩の下を通う舟に穢れのある者が乗り込んだ場合は神谷明神の眼光に射すくめられて、たちまち転覆した。

4. 波根湖(現在は干拓地)の東に大津という集落がある。ここに大津屋という豪族がいた。いつの時代にか、いかなる理由でか、この家系は断絶したが、苅田神社の旧祭日の八月二十日夜半午前二時ごろ必ず怪火が大津上空に現れて神谷山へ往来する。これは大津屋の怨霊が神谷明神にお詫びに参るためと言われ、大津屋火と呼んでいる。

◆余談

 神社の近くに天然記念物の珪化木があるが、訪問時、どこにあるのか分からず訪問できなかった。

苅田神社から見た波根

 神谷は何と読むのか確定できなかった。神谷明神のまたの名が神田明神とあるので「かんや」ではないかと考える。

◆参考文献

・『式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4』(式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)pp.795-799
・藤井宗雄「石見国式内神社在所考」『神祇全書 第5輯』(思文閣, 1971)pp.339-340

記事を転載→「広小路

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2020年9月17日 (木)

夕市廃止だと鮮度が維持できない――島根県大田市の魚卸売市場

大田市の魚卸売市場が夕市を廃止して朝市に統一するとのニュースを知る。卸売市場が長年赤字続きだからというのがその理由。漁師さんたちにとっては早朝漁に出かけて夕方に戻ってきて、夕市で魚を売る。その魚は仲買人たちに買い付けられ、水揚げから約10時間で関西市場に届くという仕組みだったそうだ。夕市が廃止されると10時間が30時間かかることになり鮮度の問題が出てくるとのことだった。朝市まで保存するため、箱に氷を詰める作業も必要になったとのこと。コストの負担は漁師さん達である。

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2019年4月 6日 (土)

オーバーキャパシティをマネジメントする――アレックス・カー、清野由美「観光亡国論」

アレックス・カー、清野由美「観光亡国論」(中公新書ラクレ)を読む。日本のインバウンド(要するに訪日外国人客数)は2011年の622万人から2017年は2869万人と右肩上がりで、東京オリンピックで4000万人達成も夢ではなくなってきた。著者はこれを第二の開国と呼んでいる。

インバウンドの消費額は4兆4162億円にも達し、トヨタの過去最高益の1.5倍もの数字になっている。長らく日本を支えてきた製造業に匹敵する21世紀の産業となるポテンシャルを秘めているのである。

一方で京都や富士山ではオーバーキャパシティによる観光公害が目立ち始めている。バルセロナやフィレンツェといった外国の観光先進地では「オーバーツーリズム(観光過剰)」「ツーリズモフォビア(観光恐怖症)」といった造語で以て語られる様になっているとしている。そこで筆者は適切なマネージメントとコントロールを提言する。

が、民泊新法では全国一律の規制となっており、地域の実情による規制となっていないなどの指摘がなされている。

世界の趨勢として観光地と駐車場を離れた位置に置き、観光客に歩かせる(動線の設定として途中には商店街があって消費を見込む)形態が主流になっているとする。日本だと大田市の石見銀山が長距離歩かせるということで一部で不評らしいが(実際、一通り見ようとすると7~8kmは歩くことになる)、むしろ強くアピールすべきだとしている。

実は大型観光バスによるツアー客の一か所当たりの滞在時間は短く、地元に落とす金額も微々たるものらしい。それよりも少数の観光客に長期滞在してもらう方が効率がよいとする。が、行政の発想の転換が遅れ、観光地化というと大型駐車場やバイパスの整備といった方向性になってしまうとしている。

他、昔のままに伝えている文化の化石化、生きているようで生きていない文化を「ゾンビ化」、時代に合わせて柔軟に変化しているが、文化の核心への理解がなく、本質とは異なるモンスター化してしまうのを「フランケンシュタイン化」と呼んでいるとこと等が面白かった。

タイトルは観光亡国となっているが、これは増え過ぎた観光客に対する適切なコントロールとマネジメントを欠いたらという仮定の話であり、フランスの様に更なる観光客の増加もあり得ないではないとしている。

著者は日本の古民家を改装して宿泊施設として提供する活動で実績のある人。200ページほどの分量であり、一日で読めた。

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