大田市

2022年9月 4日 (日)

世界の一割を産出――「ブラタモリ」石見銀山編

NHKプラス「ブラタモリ」石見銀山編を見る。銀山のある仙ノ山は凝灰岩でできており、火山灰などが積もった山だそうだ。柔らかい凝灰岩の山に銀を含んだ熱水が浸透した。その柔らかさ故に鉱脈自体は細かったものの掘り進めやすかったとのこと。

僕は石見銀山には三回ほど行ったが、温泉津にはまだ行ったことが無い。

<追記>
大森の町並みは窓枠をサッシから木製のものへと変えたとのこと。利便性よりも観光地としての見た目を優先させた訳だ。

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2022年6月18日 (土)

蛇島――モチーフ分析

◆あらすじ

 昔、温泉津の釜野の辺りに長者がいた。長者には美しい娘がいた。多くの若者たちは誰でもその娘を欲しいと思った。ところが近くに山の主と言われる大蛇がいた。大蛇も娘を欲しいと思って何度も長者に申し込んだが、長者は承知しなかった。

 蛇の頼みがあまりにしつこかったので、長者も断りきれなくなって、それでは釜野の沖にあの島を八回巻け。巻くことができたら娘を嫁にやろう。その代わり、巻くことができなかったら、この土地から出ていってもらうと言った。
 大蛇は大喜びで沖に出て島を巻きはじめた。そうして七巻き半まで巻いたが、どうしても後の半分ほどが足りない。大蛇は必死にぐいぐい締め付けたが、どうしても八回にならなかった。

 大蛇はくやし涙を流しながら長者との約束を守って、海を渡ってどこへともなく立ち去った。

 そのとき蛇が締め付けた跡が島に残った。それで蛇島と言うようになった。
◆モチーフ分析

・温泉津の釜野に長者がいる
・長者には美しい娘がいる
・多くの若者が娘に求婚したいと思う
・近所の山の主である蛇が求婚する
・断りきれなくなった長者は条件を出す
・蛇は実行する。島を身体で巻くが七巻き半しか巻けない
・どうしても八回巻けない
・あきらめた大蛇は約束を守って去る
・蛇が巻いた跡がついた島は蛇島と呼ばれる様になる

 要約しますと、蛇の<求婚>から<条件の提示>、実行するも<条件未達>。求婚を諦めて<去る>という内容です。条件の提示に当たっては長者に知恵が働いたか明確にされていません。<求婚>と<条件の未達>が、この話の骨子です。

 見方を変えると、<嫁>の欠落を埋めるべく求婚しますが、条件未達で欠落は埋め合わされません。更に失敗したときの条件として、その土地を去ることになるのです。

◆参考文献
・『日本の民話 34 石見篇』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.19-20.

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2022年2月13日 (日)

けしからん――しりのないニシ

◆あらすじ

 出雲の国でヤマタノオロチを退治したスサノオ命は石見の国の様子を見るために小浜(こはま)まで来た。

 小浜の近くの笹島(ささじま)には矢を作る際に使う質の良い竹が沢山生えていた。

 スサノオ命は笹島で竹を切って回っていたが、気がつくと潮が満ちていた。

 服が濡れてしまうとスサノオ命は浅瀬づたいに岸の方へ歩いていった。そのうち大波が打ち寄せて、着物の裾を濡らしてしまった。

 岸についたスサノオ命は近くの川で着物を洗うと乾くまで一休みすることにした。砂浜で寝入ってしまった。

 日が沈む頃になってスサノオ命は目を覚ました。今日中に出雲へ帰らないといけないのに、焦ったスサノオ命は干しておいた着物を着ようとした。ところが、風に吹き飛ばされたのか、せっかく干しておいた着物が川の中に浸っていた。

 しまったと思いつつ、着物を引き上げてみると、裾の方にニシ(タニシ)やヒルがびっしり付いていた。

 これはけしからん、立腹したスサノオ命がニシを一つずつ引き離すとニシの尖った尻をねじ切って川の中に捨てた。また、ヒルの口をねじ切って捨てた。

 それからというもの、この辺りのニシは尻尾が切れたようになり、ヒルは人の血を吸わなくなった。

 温泉津(ゆのつ)町の厳島神社の境内に衣更(きさらぎ)神社というお社がある。この社はスサノオ命を祀っていると言われている。

◆余談

 温泉津町の伝説である。この話はどこかで読んだことがあるが、偕成社『島根県の民話』に収録されていたので、追加で収録した。

 私の実家は田んぼを埋め立てた土地に建っているのだが、家の前に溝があって、そこに降りて遊んでいるとヒルが吸い付いていたことがあった。元が田んぼなのでヒルが生き残っていたのだ。

◆参考文献

・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.22-25.

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2022年2月 2日 (水)

皆殺し――山谷のお延

◆あらすじ

 いまからおよそ四百年ほど昔(二〇二〇年代では四四〇年前)、戦国時代で日本中が乱れ、野盗や海賊がはびこっていた。石見では大蛇丸(おろちまる)という海賊の頭(かしら)が勢力を誇っていた。

 その頃、西山谷(にしやまたに)の里にお延(おのぶ)という娘がいた。十七歳で器量もよく評判の娘であった。

 ところが、その評判が大蛇丸の耳に入ってしまった。大蛇丸はお延を自分の嫁にすると勝手に決めてしまった。

 その年の秋祭りに近いある日のこと、二人の男がお延の家へ大蛇丸からお延への贈り物だと酒樽を担いでやってきた。大蛇丸とは誰かとお延が尋ねると、いずれ分かると言い残して帰っていった。

 夕方、浜から帰って来たお延の母は大蛇丸とは海賊の頭(かしら)だと飛び上がって驚いた。お延も驚いた。二人は考えた末、村長のところへ相談に行った。

 それはお延を嫁に寄こせという意味だと答えた村長はお延を隠すことにした。お延は村の東一里ほどにある島津屋(しまづや)という丘にある洞穴に隠れることになった。

 祭りの日になった。沖に泊まっていた船から一艘の小舟が降ろされ、山谷の浦めざしてやってきた。舟には大蛇丸が乗っていた。

 大蛇丸はお延の家にやってきた。お延の母は家にいないと答えると大蛇丸たちは家捜しをはじめた。お延の母は村長を呼んだ。大蛇丸はお延を隠したのは村長の差し金だなと言ってお延を出さねば西山谷の里を焼き払うぞと脅した。村中の家を探したがお延はいない。浜の網小屋や船の中まで調べたが、お延は見つからない。

 近くの村を探せと命じた大蛇丸が島津屋までやってくると、大蛇丸の刀の鍔に彫り込んである金のニワトリが鳴いた。ニワトリが鳴くと思いが叶うのだ。

 まもなく手下の一人が洞穴を見つけた。大蛇丸が入って見るとお延がいた。だが、お延は舌をかみ切って死んでいた。大蛇丸は怒り狂った。

 西山谷の里に戻った海賊たちは家中に火をつけ逃げ惑う村人たちを手当たり次第に殺した。

 島津屋の小高い丘の畑にお延の墓といわれる石が一つある。また、里人たちの亡骸を葬った谷は死人谷(しびとだに)と呼ばれている。

 お延が死んだ後、この里の沖を通る船が訳もなく動かなくなることがあった。人々はお延の魂が、むごい仕打ちをした大蛇丸に祟ろうと、船を止めて探しているのだと噂し合った。

 漁師たちはお延の魂を慰めるために、西山谷の山上に美延(みのぶ)神社を建てて祀った。

◆余談

 大田市朝山(あさやま)町の伝説です。朝山町では朝倉彦命神社にお参りしたことがありますが、海岸沿いの地域は未訪問です。美延神社という手がかりがありますので、検索しましたがヒットしませんでした。地図で確認すると、朝倉彦命神社の先に神社があるのが確認できました。そこかも知れません。

◆参考文献

・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.57-63.

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2022年2月 1日 (火)

金色の魚――文次郎つり場

◆あらすじ

 邇摩(にま)郡(現・大田市)仁摩町の仁万川(にまがわ)が日本海に流れ込む東の方の岩場を「文次郎つり場」と呼んでいる。ここは夏、冬を問わず一年中魚がよく釣れる所である。

 ずっと昔のこと。文次郎という仁万一番の釣り好きの男がいた。文次郎は坂灘(さかなだ)の東のこの辺りが一番好きで、他の者が一匹も釣れないときでも、毎日必ずと言ってよい程魚を沢山釣った。

 秋雨の降るある日のこと。この日はいつもよりよく釣れた。その中に鱗が金色に光る大きな魚が一匹いた。形は鯛に似ているが鯛ではなかった。

 今まで見たこともない魚が釣れたものだと文次郎は家に帰って料理した。食べてみると、美しい色に似合わずまずくて食べられない。家の者にも勧めたが気味悪がって食べなかった。仕方がないので骨も身もみな捨ててしまった。

 翌日、文次郎の家の戸が開かないので近くの人が開けてみると、つり道具はいつもの場所にあるのに文次郎がいない。あちこち探してみたが見当たらない。村中大騒ぎになった。

 三日目の夜、雨は相変わらず降っていた。探し疲れた村人たちが文次郎の家に集まり、探し続けるか止めるか相談していた。すると、そのとき、ホトホトと戸を叩く者がいる、戸を開けてみると文次郎が立っている。どこに行っていたのか村人たちが尋ねても文次郎はただ黙っているだけだった。ただ唇をわなわな震わせるだけである。おかしなことだと誰もが思った。

 文次郎の手を引いて家の中に入れようとすると、酷い熱である。すぐ布団をかけて寝させた。不思議なことに外は雨が降っているのに文次郎の着物は一つも濡れていない。村人たちは気味悪がった。

 四日目の夜、文次郎は急に起き上がって、ふらふらと表に出た。驚いた家の者が跡を追ったが、暗闇に溶け込むように消えてしまった。

 文次郎の死体が岩場の渦巻きにもまれて見つかったのは、そのあくる日の夕方だった。両目がえぐり取られ、身体のあちこちは何ものかに食いちぎられていた。どうしてこんな惨いことになったのか、とうとう分からず仕舞いだった。家の者や事情を知っている者は金の魚の祟りだろうと言って悲しんだ。

 それからというもの、文次郎が釣りをしていた辺りの岩場を「文次郎つり場」と呼ぶようになった。今でもこの場所は魚がよく釣れ、釣り人が集まる場所である。

◆余談

 仁摩町には神楽岡八幡宮にお参りしたことがあるが海の写真は撮っていなかった。仁万川は見たことがないので、文次郎つり場がどの辺りなのか、現状では分からない。

◆参考文献

・『島根の伝説』(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1978)pp.21-24.
・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.72-74.

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2021年7月24日 (土)

朝倉彦命神社と大飯彦命神社

◆はじめに

 島根県石見地方には「彦」の名のつく神社がまだある。大田市朝山町朝倉の朝倉彦命神社と江津市松川町の大飯彦命神社である。

大田市・朝倉彦命神社
大田市・朝倉彦命神社

"江津市・大飯彦命神社

◆神社と祭神

 明治時代に活躍した国学者である藤井宗雄は「石見国式内社在所考」では、朝倉彦命神社について、「彦命」は後世の人が付け加えたものと考え、祭神は土佐国土佐郡朝倉神社と同一神としている。これに対し、「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」では、これについて、式内社の考証が祭神を中央や遠隔地の有名神と関係づけることで事足れりとした一例として批判している。朝倉彦命神社なのだから朝倉彦でいいじゃないかと考えるのである。

 大飯彦命神社について「石見国式内社在所考」では「彦命」の二字は三代実録に無いと指摘している。祭神は大飯寮の竈神八座の中たる大御食神としている。「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」では祭神を大背飯三熊大人命としている。「石見八重葎」でこの神名は雲州飯石郡三熊谷に降臨したことによる。またの名を伊毘志都幣之命としていることについて触れている。天穂日命の子であることから出雲系の神と解釈するのである。

 日本書紀の国譲り神話では出雲に派遣された天穂日命は三年経っても帰ってこず、またその子の大背飯三熊大人を派遣したところ、父に従って帰らなかったとしている。

◆余談

 朝倉彦命神社は国道9号線を進み、富山入口の交差点で曲がり、すぐに右折する。するとその先が神社である。訪問時はちょっと先まで行ってUターンして、神社の境内脇に車を停めた。

 大飯彦命神社は国道9号線、江川を渡ったところで県道261号線に入り南下する。採石場を過ぎて、最初の集落が目的地である。左折して集落に入ると細い道となる。適当なところに車を停めて歩いた。神社にいく参道には猪除けの鉄の柵が張られているので、紐を解いて中に入った。訪問時は前日の雨の影響か土砂崩れを起こしていた。

◆参考文献

* 『式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4』(式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)pp.804-806, pp.874-876
* 藤井宗雄「石見国式内神社在所考」『神祇全書 第5輯』(思文閣, 1971)p.340, p.348

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2021年7月19日 (月)

苅田比古と苅田比売

◆はじめに

 大田市久手町の苅田神社のご祭神は苅田比古と苅田比売である。田を刈る。つまり農業神でペアの神なのだ。また倉稲魂神(稲荷大明神)も併せて祀っている。
苅田神社

 久手町にはかつて波根湖があったが、昭和の時代に干拓され田んぼとなっている。苅田神社はもとは波根湖南岸の神谷山に社殿があったが、集落が海岸寄りに移り、旧社地が湿潤地だったので参詣に不便であるとして現在地に遷されたとのこと。神谷山には烏帽子端(えぼしばな)という大巌石があったそうだ。

 若狭国に苅田比古神社・苅田比賣神社があるそうだが、当社との関係は明らかではない。

◆在所考

 明治時代に活躍した国学者である藤井宗雄の記した「石見国式内社在所考」によると、苅田比古と苅田比売は刈田首(おびと)の祖神と解釈している。また、苅田神社は波根西村と大田南村とに二社あったことが分かる。

 「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」では、旧安濃郡内では苅田、刺鹿、新具蘇、野井といった開拓と農業に関係の深い神社が多く分布しているとしている。

◆口碑伝説

 苅田比古と苅田比売にまつわるお話は残されていないのだが、「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」では次のような口碑伝説を挙げている。

1. ご神体は木像で菅丞相、つまり菅原道真の一刀刻みと伝えられている。

2. 当地方の習俗として、江戸時代頃盛んにご神体盗みが行われた。

3. 「神谷明神は雷より恐ろしい」と言われ、波根浦・立神岩の下を通う舟に穢れのある者が乗り込んだ場合は神谷明神の眼光に射すくめられて、たちまち転覆した。

4. 波根湖(現在は干拓地)の東に大津という集落がある。ここに大津屋という豪族がいた。いつの時代にか、いかなる理由でか、この家系は断絶したが、苅田神社の旧祭日の八月二十日夜半午前二時ごろ必ず怪火が大津上空に現れて神谷山へ往来する。これは大津屋の怨霊が神谷明神にお詫びに参るためと言われ、大津屋火と呼んでいる。

◆余談

 神社の近くに天然記念物の珪化木があるが、訪問時、どこにあるのか分からず訪問できなかった。

苅田神社から見た波根

 神谷は何と読むのか確定できなかった。神谷明神のまたの名が神田明神とあるので「かんや」ではないかと考える。

◆参考文献

・『式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4』(式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)pp.795-799
・藤井宗雄「石見国式内神社在所考」『神祇全書 第5輯』(思文閣, 1971)pp.339-340

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2020年9月17日 (木)

夕市廃止だと鮮度が維持できない――島根県大田市の魚卸売市場

大田市の魚卸売市場が夕市を廃止して朝市に統一するとのニュースを知る。卸売市場が長年赤字続きだからというのがその理由。漁師さんたちにとっては早朝漁に出かけて夕方に戻ってきて、夕市で魚を売る。その魚は仲買人たちに買い付けられ、水揚げから約10時間で関西市場に届くという仕組みだったそうだ。夕市が廃止されると10時間が30時間かかることになり鮮度の問題が出てくるとのことだった。朝市まで保存するため、箱に氷を詰める作業も必要になったとのこと。コストの負担は漁師さん達である。

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2019年4月 6日 (土)

オーバーキャパシティをマネジメントする――アレックス・カー、清野由美「観光亡国論」

アレックス・カー、清野由美「観光亡国論」(中公新書ラクレ)を読む。日本のインバウンド(要するに訪日外国人客数)は2011年の622万人から2017年は2869万人と右肩上がりで、東京オリンピックで4000万人達成も夢ではなくなってきた。著者はこれを第二の開国と呼んでいる。

インバウンドの消費額は4兆4162億円にも達し、トヨタの過去最高益の1.5倍もの数字になっている。長らく日本を支えてきた製造業に匹敵する21世紀の産業となるポテンシャルを秘めているのである。

一方で京都や富士山ではオーバーキャパシティによる観光公害が目立ち始めている。バルセロナやフィレンツェといった外国の観光先進地では「オーバーツーリズム(観光過剰)」「ツーリズモフォビア(観光恐怖症)」といった造語で以て語られる様になっているとしている。そこで筆者は適切なマネージメントとコントロールを提言する。

が、民泊新法では全国一律の規制となっており、地域の実情による規制となっていないなどの指摘がなされている。

世界の趨勢として観光地と駐車場を離れた位置に置き、観光客に歩かせる(動線の設定として途中には商店街があって消費を見込む)形態が主流になっているとする。日本だと大田市の石見銀山が長距離歩かせるということで一部で不評らしいが(実際、一通り見ようとすると7~8kmは歩くことになる)、むしろ強くアピールすべきだとしている。

実は大型観光バスによるツアー客の一か所当たりの滞在時間は短く、地元に落とす金額も微々たるものらしい。それよりも少数の観光客に長期滞在してもらう方が効率がよいとする。が、行政の発想の転換が遅れ、観光地化というと大型駐車場やバイパスの整備といった方向性になってしまうとしている。

他、昔のままに伝えている文化の化石化、生きているようで生きていない文化を「ゾンビ化」、時代に合わせて柔軟に変化しているが、文化の核心への理解がなく、本質とは異なるモンスター化してしまうのを「フランケンシュタイン化」と呼んでいるとこと等が面白かった。

タイトルは観光亡国となっているが、これは増え過ぎた観光客に対する適切なコントロールとマネジメントを欠いたらという仮定の話であり、フランスの様に更なる観光客の増加もあり得ないではないとしている。

著者は日本の古民家を改装して宿泊施設として提供する活動で実績のある人。200ページほどの分量であり、一日で読めた。

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2017年9月19日 (火)

蛤姫――島根県石見地方における蛤女房の類話

◆はじめに

 石見の姫シリーズも終盤に差し掛かった。今回は大田市大森町の昔話を取り上げてみる。

◆粗筋

 昔、一人の若い漁師がいて、毎日海へ出て魚をとって、それを町に持っていって売って暮らしていた。ある日、いつものように舟で海へ出て魚を釣ったが、どうしたことか一尾も掛からない。もう一度釣ってみて掛からなかったら今日はやめにしようと思って、最後の糸を投げ込んだ。
 しばらくすると手ごたえがあるので、上げようとしたが中々重くて上がらない。やっとのことで引き上げてみると、大きな魚だと思いの他、見たこともないような珍しい蛤(はまぐり)だった。びっくりした漁師が見惚れていると、蛤が二つに割れて中から綺麗な女の子が出てきた。
 漁師はたいそう喜んで家へ連れて帰って、蛤から生まれたので蛤姫と名づけて大切に育てた。
 姫は大きくなるにつれてますます美しくなった。姫はそれだけでなく機を織ることが大変上手で、その織った反物は何とも言えない美しさであった。漁師はそれからは魚を獲ることをやめて、反物を町で売って沢山儲け、楽しく暮らしていた。
 姫は機を織ることが上手であるだけでなく、その機を織る音が美しい音楽のようだった。その音がとても綺麗なので、姫の機を織る様子を見ようと、話を聞き伝えて大勢の人が漁師の家に押し掛けたが、姫は何故か一室に閉じこもって戸を固く閉め、機を織る姿は誰にも見せなかった。
 ある日、漁師はいつもの通り織物をもって町へ出かけた。ある一軒の大きな家の前に差し掛かると呼び止められ、反物を沢山のお金で買い取ってもらった。こんな美しい織物は得難い。よい物を買わしてくれた、お礼に座敷まで上がってくれと言って漁師を座敷へ通して沢山のご馳走やお酒でもてなした。漁師はよい気分になって酔いつぶれてしまった。
 家では蛤姫が一室でとんとんからり、とんからりと機を織っていた。すると近所の人達がやって来て、今日は幸い漁師もまだ帰っていないから、どうして機を織っているのか戸を開けてみようではないかと相談して、部屋へそっと忍び寄ると、いきなり戸を開けて覗きこんだ。
 蛤姫はびっくりして「ああ、この機を織る姿を人に見られたら、私はここにいることはできません。さらばです。元の蛤の中へ帰ります」と言って消えてしまった。

 蛤姫という可愛らしい姫が機を織る話である。特徴としては、この話は大田市でも海岸部のものではなく、大森町(石見銀山)で採録された話であるということだ。

◆蛤女房

 蛤姫は蛤女房の一類話だろう。「日本昔話大成 第2巻 本格昔話 一」に収録された蛤女房の類話を要約してみる。

 あるところに貧乏な男がいた。あるとき一人の娘がやって来て、嫁にしてくれと頼む。あなたのような美人は私の様な者には不釣り合いだと断ろうとするが、娘は古女房の様にかいがいしく世話をした。そんなことが続く内に二人は夫婦となった。
 ところが、あそこの嫁は鍋にまたがって小便をするという噂がたった。そこである日、男は外出するふりをして、こっそり覗き見した。果たして嫁は鍋にまたがって小便をした。
 男は何をしているかと嫁を咎めたが、嫁は男に命を助けてもらったお礼に、こうして契って美味しい汁ものをこしらえていたが、もうここにはいられないと言って貝の姿に戻って海に飛び込んだ。それから男は世帯を持ち崩してしまったという。

 世間一般に流布している蛤の昔話はこの蛤女房のパターンである。「日本昔話大成」を見ても蛤女房の話は全国に分布している。

◆蛤の草紙

 「御伽草子」に「蛤の草紙」という説話が収録されている。要約すると、

 天竺の摩訶陀(まかだ)国に、しじらと言う貧乏な男がいた。母と二人で暮らしていたが、その頃天竺は酷い飢饉が起きていた。しじらは母を養うため漁に出た。ある日、釣り糸を垂れでも魚が全く釣れなかった。母を養うために殺生した報いかと思い、母が待ちわびているだろうと思ったところ、糸に獲物が掛かった。釣り上げてみると美しい蛤だった。しじらは蛤を海に返した。そして釣り場を変えたところ、また同じ蛤が掛かった。再び海に返し、釣り場を変えたところ、また同じ蛤が掛かった。三度も掛かるということは前世・現世・来世の三世の縁かと思い、今度は舟に引き上げた。すると蛤が大きくなり、中から歳十七、八の美しい女人が現れた。
 女人はしじらの家へ連れていって一緒に暮らしたいと頼む。しじらは自分の家は普通の家と違って粗末なものだからと断り、妻を得ては母をぞんざいに扱ってしまうだろうから駄目だと答えた。それでも女人がせめて一夜の宿だけでもと頼んだところ、しじらは母の承諾を得て、ようやく女人を家に招き入れた。しじらの母は女人を見て有難いことだといって二人が夫婦になることを承諾した。
 女人は麻で糸を縒り合わせて、機で布を織った。その音は妙なるものであった。女人はしじらに機屋を立てて欲しいと願う。しじらが機屋を立てると、機を織っている間は決して覗いてはならぬと言いつける。十二か月が経って、布が織り上がった。女人はその布を鹿野苑(ろくやおん)の市に持っていって、金三千貫で売れとしじらに告げた。
 しじらが市に行ったところ、布は中々売れず、しじらはあきらめかけた。と、そこに馬に乗って三十三人の供を連れた身なりの良い老人が現れた。布を見た老人はこの布を買おうと言った。
 しじらは老人の館に招かれたが、その館は見たこともないような壮麗な館だった。老人がしじらに酒を勧めた。しじらは七杯飲んだ。
 布を売って家に戻り、事の次第を話そうとしたところ、女人が全て知っていた。これは只の者ではないとしじらは思った。が、女人は急に暇乞いをした。自分は童男童女身(どうなんどうにょしん)という観音に仕える者だ。しじらが親孝行なので、やって来たのだと答えた。布を売って得た三千貫で一生暮らすとよい。しじらが飲んだ酒は一杯で一千歳の寿命を得る。七杯飲んだので七千歳の寿命を得た。これからは金にも恵まれ身分も高くなるだろうと言い残して、虚空に去った。

 機を織るところを見てはならないという禁止はあるが、しじらは言いつけを守ったので七千年の寿命と三千貫の大金を得ている。ただし、結局は女人と分かれることになる。

◆零落した昔話

 柳田国男は「昔話と文学」の「蛤女房・魚女房」という論文で蛤女房について考察している。御伽草子の「蛤の草紙」が蛤女房の原話であるか否かについては保留している。が、柳田は蛤女房を零落した昔話であると言っている。小便をするのが汚らしいということだろう。

 「日本昔話大成 第2巻 本格昔話 一」で蛤女房が小便をするのでなく機を織る類話も収録されている。それによると、島根県大田市の蛤姫の話と山形県最上郡の話とが挙げられている。山形県の話は、
 母と息子が魚をとって暮らしている。息子は毎日浜辺に行く。ある日、蛤がかかる。蛤の中から子供が生まれ、お姫様になる。家に伴う。村人が神様が宿ったと米を持ってお詣りする。麻糸が欲しいと望むと村人が麻糸を持って来る。そこで機織りをしりっぱな反物にする。町に売りに行き三千両の大金を得る。お姫様は毎日浜に来る息子へのお礼だと告げて、ふたたび海に帰っていく。
とあり、これは機織りするところを決して見るなという禁止も破っていないし、麻の糸で反物を織る、金三千両で売ること等から、蛤の草紙を原型とした昔話であることが分かる。蛤の草紙から蛤女房へという図式が浮かんでくる。

 一方、島根県大田市の話は、
 漁夫が魚釣りに行って蛤を釣り上げる。蛤が二つに割れ女が生まれ蛤姫と名づける。あとは鶴女房の形式をとる。
とある。大田市の場合、機織りするところを決して見るなという禁止を破っている。蛤が機を織っている点では山形県のお話と一致するけれど、大田市の昔話の場合、禁止を破ってしまうのである。

◆艶笑話

 柳田は蛤女房を笑話として位置づけている。美味しい出汁の効いた汁だと思ったら、実は蛤の嫁の小便だったという、ある種の艶笑話である。そもそも貝は女性器の暗喩だろう。

 艶笑話であるからには子供にそのままの内容で伝えるのははばかられたのかもしれない。そこで、大田市の場合、蛤女房の導入部を踏襲しつつ、後半のパートは鶴女房に準じた形にして蛤姫として子供向けにしたのかもしれない。蛤女房から鶴女房のパターンへという変遷が見てとれるが、蛤の草紙へ先祖返りしたという解釈も可能だろうか。

◆蛤の草紙の訳

 参考までに、粗い訳だが訳してみる。

 天竺の摩訶陀国に、しじらという貧乏な人がいた。父には早く死なれ、母と二人で暮らしていた。その頃、天竺では飢饉が起きて、人々が餓死することが甚だしかった。しじらは母を養うため小舟で漁に出た。ある日漁に出て、釣り糸を垂らしたところ、一向に釣れなかった。魚を獲って母を養った報いだろうかと思い、母が待ちかねているだろうと案じた。すると釣り竿にも心があったのか、何かが掛かった。それ、と思って釣り上げたところ、それは美しい蛤だった。しじらはこれは如何なることだろう、何の役に立つか(立つまい)と思って海に投げ入れた。ここには魚はいない、西の海へ舟を漕いでいき、釣り糸を垂れたところ、また同じ蛤を釣り上げた。これは不思議なことだと思い、また海へ放した。それから北の海へ行き、釣り糸を垂れたところ、また同じ蛤が掛かった。これは稀代の不思議なことだ。一度ならず二度ならず三度まで釣り上げた。かりそめながらも前世・現世・来世の三代の契りを得たかと思い、今度は取り上げて舟の中へ投げ入れた。また、釣り糸を垂れたところ、例の蛤が急に大きくなった。不思議なことだと思って海へ投げ入れようとしたところ、蛤の中から金色の光が三筋さした。これは如何なることぞと思い、驚き、肝をつぶして遠ざかった。この蛤の貝殻が二つに開き、中から十七、八歳くらいの容顔美麗な女人が現れた。

 しじらは手水を使いつつ「これほど美しい女人が海から上がったことの不思議さよ。もしかしたら龍女ではないか。貧しい男の舟に上がったのはもったいないことだ。住処へ帰りたまえ」と言った。女人は「来る方も行く方も知らず、行く末も知らないので、そなたの家へ連れて行っておくれ。互いに生計を営んで、憂きこの世で暮らそう」と言った。しじらが言った。恐ろしいことで思いも寄らぬことだ。私はもう四十歳になったけれども、未だに妻を持たず、その訳は六十歳を過ぎた母がいるので、もしも女房として連れ帰れば、心もおろそかになって母をぞんざいに扱ってしまうだろう。母への義に背くことを思えば、妻を持つことは思いも寄らないことだ」と、とんでもないと断れば、女人は「思いやりのない人ですね。ものの成り行きをよく聞きなさい。袖をすり合わせるのも他生の縁と聞く。この船に近づいたかいもなく、帰れと言うのは情けないことだ」と思いつめた様子で涙にむせんだ。しじらはこれを見て、そうならば、せめて陸(おか)へ降ろそうとして水際に着くと、舟から女人を急いで降ろした。「私はここまでお届けします。なので、お暇しましょう」と言ったところ、女人はしじらの袖にすがりついて嘆いた。「せめて、そなたの家まで連れて行って一夜の明けるまで過ごさせておくれ。夜が明けたらどこへでも足に任せて行こう」と。しじらは「我々の家は、ただ世間一般の家ではなく、まことに卑しい男の寝屋でして、目も当てられない所なので、置くところもないのです。普通の座敷に置くことは畏れ多いので、家を造りましょう。お待ちあれ」と言った。女人は「如何なる金銀財宝でこしらえた家であろうと、他所の家には行きたくない。そなたの住処ならば行こう」と言ったので、「ならば、少しお待ちあれ。先ず我々の家に行って、母に伺いを立てて、お迎えに上がりましょう」と言ってしじらは家に帰って母にこのことを申し上げたところ、母は甚だ喜んで「急いで座敷を清めて、こちらへ迎えましょう」と言ったので、しじらは喜んで、急いで海の傍へ迎えに行った。女人は待ちかねていた。しじらは「裸足では脚が痛いでしょう、この卑しい男の背に負いましょう」と言ったところ、女人は喜んで、背負われた。さて、我が家へ着いたところ、しじらの母が出て見て、あら畏れ多いことだ、これぞ天人というのだと言って、自分の居るところでは如何なものかと、急いで棚を作り、自分より高く置き奉って限りなく尊んだ。

 しじらの母は「畏れ多いことだけれども、どうしてしじらの妻になられる人でいらっしゃらないはずがありましょうか。しじらも早四十歳になりましたが、未だに妻も持たず、子の一人もいないことを明けても暮れても寂しく思っておりました。わが身ははや六十を過ぎ、明日をも知れぬ身で、このことばかり案じております。ああ、似合わしい妻がいて欲しい」と言った。女人は「私は来し方も知らず、元より行方も知らぬ身なので、如何様にでもしじらと一緒に置かせ給え。私は人の知らない営みをして一緒に憂き世を渡りましょうと言ったので、しじらの母は一通りでなく喜んで「ならば」と言ってしじらにこのことを言ったので、しじらは元より親孝行の人なので、「とにかく母のお計らいのままに」と返事した。天竺も人の好奇心の強いところなので「しじらの所に不思議な降ってきた人が来た。いざ参って拝もう」と言って、僧侶も普通の人も供米を包んで参った。そして白米が三石六斗、一日の内に集まった。そのとき女人は「私は素姓が確かな者なので、麻と申すものがあればくれ」と言ったので、その次の日は麻を持って参った。しじらは目出度いことがあって、前の日から集まった米で母と暮らしていけることはなんと嬉しいことだと喜んだ。また、この女人は密かに大量に糸をよった。そのうち、錘(つむ)が欲しいと言ったので、しじらは尋ね求めて差し上げた。この麻を紡ぐ音が物珍しく聞こえた。よくよく聞いて文字に写してみると、南無常住仏と響き、糸を縒るときには南無常住法と響き、巻くときには阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)と巻く。手がいを取るときには南無妙と響いた。二十五か月紡ぎ出したところ、さて機の道具が欲しいといったので、拵えてみよとしたところ、それを見て言うことに、普通の機の道具ではよくないのだ。私の機の道具は普通のではないと言って本を出した。好みの様に拵えたところ、女人は喜んで「一人でどうして巻き立てられましょうか」と言った。そこに示現神通力者がやがて心得て、どうして悪いことが起きようか、一度も見たことない人が二人来て一夜の宿を借りた。

 これをはじめとして、しじらの母は不思議なことだと言って、ますます崇めた。しじらはこの機が立ってから母の心が慰められたことが嬉しく、いつよりも心安く過ごし、この頃は心労も感じず、天竺の飢饉が甚だしいけれど、我々の心安くあることが嬉しいと言って、母の足を自分の額の上に載せて寝させた。そのとき、しじらの傍に寝かせた女人がしじらになぜ泣くのか尋ねた。しじらは、母が若いときは太っていて足を額に寝かせると重かったが、歳をとったので次第に身体も細くなって、殊の外軽くなったので、泣くより他ない」と語った。女人はそれを聴いて、まことにうらやましい心ぞ。いかなる仏の恵もどうしてないことがないだろうか。これほど親孝行の人は世に珍しい」とて、やがて物語を語りはじめた。

 「例えば、越(えつ)の鳥は南の枝に巣をかけるというが、親の育みを思い、巣を立てて、一緒に立つときに、四鳥(しちょう)の別れと言って母子の別れを知らない妄執の雲に隔たれるけれども、親孝行の鳥は生まれた木の枝に日に一度ずつ来て羽根を休めるのを母鳥は、これこそ我が子だと喜ぶと語ってしじらを慰めた。孝行の鳥の霊験は、何とか捕まえたいと網を掛けたけれども取られることはあるまい。まして、人間として生を受けて、親に従わない人はこの世では禍(わざわい)を請け、七つの災難や過失にあって、その身の思うことは叶うものではない。親孝行の人には天から福が授けられ、七難即滅七福即生(しちなんそくめつしちふくそくしょう)といって、何事も思う事がその日のうちに叶うものだ。多くの人々に愛されて自ずから現世の生では上に向かって悟りの道を求め、安穏安楽な気分を受け、極楽浄土の蓮の台を指して、東方薬師の浄土、西方阿弥陀の浄土で諸仏の上の浄土に近づき、自ずから示現神通力の身となって、観音を念ずればと唱えさせることは疑いないと語った。息の匂いはこの世のものでない香りがして、満ち満ちて夜昼の境もない。

 いざ機を織ろうとして、しじらに、この家は布幅が狭くて織れまい。傍に機屋を造ってくれと言ったので、しじらは急いで皮のついたままの材木で機屋を造った。その時、女人が言う事には、機を織っている間は、こちらへ人を入れてはならないとのことなので、しじらは分かったと言って、母にこのことを語った。その夕暮れに、若い女が一人、いずこからとも知れず来て宿を借りた。女人はすぐに機屋を貸した。しじらの母が「この機屋に人を入れるなとおっしゃったが、どうして宿を貸したのでしょう」と言ったので、女人はこの人は差し支えないと言って二人で機を織る音は珍しい。

 妙法蓮華経観世音菩薩普門品(みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼん)第二十五の菩薩が玉のような機を織った。まことに法華経の一の巻から八の巻に至るまで二十八品(ほん)を悉く織りいれるお声が耳に聞こえて有難く、夜昼の区別もなく十二カ月の間に織り出した。女人が「今織り出した」と言って碁盤のように厚さ六寸、広さ二尺四方に畳んで、しじらに「明日、摩訶陀国の鹿野苑(ろくやおん)の市に持って行って売りなさい」と言った。しじらが値段はいかほどにと問うと、「金三千貫で売りなさい」と言ったので、「不思議なことだ。近頃売り買いする布は普通の安いものだが、これは並外れて値段が高い」と可笑し気に言ったところ、女人は、ただ普通の布ではない。我々が織る布は間違いなく鹿野苑の市で価値の分かる人がいるだろう。値段は限ってはならない。さあ、市も立つだろう、行き給え」と言ったので、しじらがその布を持って行くと、鹿野苑の市で「これは如何なるものだろうか」と笑い、不審そうに見る人もいた。一日待って回ったけれども、誰も取って見る人すらいない。しじらは、ならば知らないことをして、このような物を市へ出し、人の笑い草になることは無念だと言って持って帰ろうとしたところに、道で齢六十余りの老人で鬢(びん)と髭(ひげ)は白く、その身なりは人に優れ、葦毛(あしげ)の馬に乗り、三十三人の供がいる人に会った。この馬に乗った老人がお前はどこの者かと問うたので、私はしじらと申す者ですが、鹿野苑へ布を売りに行ったところ、買い主がいなくて持ち帰るところですと答えた。「お前は聞き及んだ者だ。その布を見ようと言ったので、馬の上へ布を差し上げた。三十三人の人がこの布を広げたところ、長さは三十三尋あった。近頃珍しい布だな。私が買おう。値段はどれ程だと老人が言ったので「金銭三千貫で売りましょう」と言ったところ、「あら安い布だ」と言って、「ならば我々の所へ来い」と言って、しじらも誘って、そこから南の方へ行く。高い軒が遠く広がり、雲にかかるほどそびえ立つ門があった。見ると、瑪瑙(めのう)の礎(いしずえ)に水晶の珠を柱として、瑠璃(るり)の垂木、瑪瑙(めのう)で屋根を葺いて、目を驚かせるばかりであった。門の内へ入って見れば、この世のものとも思えない香りが漂い、花が降り、音楽が天に満ち満ちて、心も若く齢も久しくある心地がして、帰ることを忘れてしまった。馬に乗った老人は縁の際まで乗りつけて降り、内へ入って、金銭三千貫、三人で持って出てきた。こんな力の強い人もいるかと思うと、しじらは恐ろしくなった。さて、「今の布売りをこちらへ呼べ」といって座敷に上げた。しじらは足が震えて心も乱れて身の置きどころもなかった。階段を上がり、細長い部屋に上がった。心はさながら薄氷を踏むがごとしであった。さて、老人は酒を呑ませよと言ったので、元よりしじらは上戸なので、一杯飲んでみれば、甘露の味わいが満ち満ちて言葉にならない美味い酒だった。どれほどでも飲めるけれど、七杯より多く飲んではならないと老人が言ったので、七杯呑んだ。さて、「金銭三千貫をこれから送ろう」といって、恐ろしげな人を三人呼び出した。名を声聞身得度者(しょうもんじんとくどしゃ)、毘沙門身得度者(びしゃもんじんとくどしゃ)、婆羅門身得度者(ばらもんじんとくどしゃ)と言った。この三人に仰せつけて三千貫の金銭をただ一度でしじらの家を来させたので、その時、しじらがお暇しましょう言ったところ、老人が言うには、「今呑んだ七徳保寿(しちとくほうじゅ)の酒は観音の浄土にある酒だ。一杯呑めば一千年の寿命を保つ。ましてや、お前は七杯呑んだから七千年の寿命を保つだろう。この後はものを食べずとも欲しくもあるまい。寒く思うこともあるまい。これぞ親孝行の印よ」と言って立ち上がって雲の上に乗って行ったところ、五色の光が差して、南の天に上がったかと思えば、しじらは家へ帰っていたのだった。

 女人に語ろうとしたところ、その時の有様を言わぬ先に、少しも違わずに女人が語ったので、しじらは、これは神通を悟る化身ぞと思ったところ、女人がならば私はお暇しようと言った。しじらの母が聞いて、「嘆かわしいことかな。この程思いの他な人を迎えて、しじらと共に嬉しく思い、譬えようもなかったのに、このように仰せになるとは、あら情けないことだ」と言って、天を仰ぎ地に臥して嘆くことは限りもなかった。女人は「このように長々と居ることならば、如何なることもしても稼ぎ出して、後の形見として見せ、また過ぎた過去のことを忘れるように思ったけれども、我々の仕事はこの布を織り出して金銭三千貫で売らしめたが、特別なことと思ってはならない。これで一生暮らせ。これもひたすらにしじらの親孝行の印である。南方補陀落(ふだらく)世界の観音の浄土より使いとして来た。今は何を包み隠そうか。私は童男童女身(どうなんどうにょしん)と言う観音に仕える者である。布売りにいった所は南方補陀落世界の観音の浄土である。これから後は七千歳の寿命である。これは七徳保寿の酒を七杯呑んだからである。これより後は、いよいよ金もあり身分も高くなって仏神三宝の加護があるだろう。あの酒をいただく時に三人出て酌をした者こそ、われわれと肩を並べる人である。名を声聞身得度者、毘沙門身得度者、婆羅門身得度者と申す。これもひたすらに親孝行の徳によって、紛れもなくこのように憐れみ給うたことだ。さらば」と言って、しじらの家を出立し、門で暇乞いしたことは四鳥の別れの如くであった。名残惜しいと言って南の空に上がるかと見れば、白雲に乗って上がった。虚空に音楽が響き、この世のものとも思われぬ香りが四方に漂い、花が降り、諸々の菩薩たちが迎えに来た。しじらは途方に暮れて佇んでいたが、何と思っても、再び逢うことはできないので、思いきりつつ、親子は家へ帰った。それから、金もあり身分も高くなって、親を心安く養った。さて、しじらは自ずから成仏得道(じょうぶつとくどう)の縁を受け、仏果を得て煩悩を逃れる縁を受け、仏の位となり、七千年目には天に上がった。そのとき紫雲がたなびいて、この世のものとも思われぬ香りが四方に満ち満ちて、花が降り、不老不死の風が吹いて、音楽も止むこともなく、二十五の菩薩、三十三の童子、二十八部衆、三千仏、みな色めき、十六の天童、四天、五大尊、みなみな虚空に満ち満ちた。

 これはひたすらに親孝行の印である。後々でも、この草紙を読んで親孝行であれば、このように富み栄えて現世と来世の願いはたちどころに叶うであろう。まず現世では、七難即滅し、さしつかえも無く、衆人に愛されて、末代まで繁盛であるだろう。後の世では必ず成仏を得ること疑いない。ひたすらに親孝行で、この草紙を他人にも読み聞かせるべし。読み聞かせるべし。

◆余談

 見るなと言われたら見たくなるのが人情だが、蛤の草紙では見るなの禁止を破らなかったパターンの話を見ることができる。が、結局別れは訪れるのである。

 正体がバレたら居られなくなる、昔話の定型であるが、なぜそうなのかについては昔話の一つの謎かもしれない。

◆参考文献

・「日本の民話 34 石見篇 第一集第二集」(大庭良美/編, 未来社, 1978)
・「日本昔話大成 第2巻 本格昔話 一」(関敬吾, 角川書店, 1978)
・「御伽草紙集」(大島建彦/校注・訳, 小学館, 1974)
・柳田国男「蛤女房・魚女房」「昔話と文学」(柳田国男, KADOKAWA, 2013)

記事を転載 →「広小路

 

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