「砂時計」の作者だったとは……
漫画のドラマ化が不評で炎上して対応に追われた少女漫画家が自殺したというニュースがあったが、その芦原妃名子さんは「砂時計」の作者だったと知る。島根県ともご縁のあった方だった。「砂時計」はドラマ化、映画化もされた。少女が母の自殺というトラウマを克服するストーリーだったが、まさか原作者ご自身があんな結果になってしまうとは。
| 固定リンク
漫画のドラマ化が不評で炎上して対応に追われた少女漫画家が自殺したというニュースがあったが、その芦原妃名子さんは「砂時計」の作者だったと知る。島根県ともご縁のあった方だった。「砂時計」はドラマ化、映画化もされた。少女が母の自殺というトラウマを克服するストーリーだったが、まさか原作者ご自身があんな結果になってしまうとは。
| 固定リンク
NHK+で「しまねっとNEWS610」を見る。五十猛の民俗行事グロが取り上げられる。2021年にコロナ禍で中止となっていたのが復活したとのこと。韓神新羅神社にはお参りしたことがあり大浦漁港には行ったことがあるが、グロの映像を見るのは初めて。竹で骨組みを組み笹で周囲を覆い、筵で屋根を覆う。なぜグロと呼ぶのかは知らない。
| 固定リンク
大田市の書店が閉店するというニュースがXで流れてきた。大田市にお住まいの人はこれからはネット通販に頼ることになるか。わざわざ出雲市まで買いにいかないだろう。
そうはいうものの、僕自身、本屋にはめっきり足を運ばなくなった。紙の本を増やせないという事情もあるが、電子書籍で大抵の場合は事足りるからである。
雑誌についてはタブレット端末(※8インチでHDの解像度)やパソコン(FHD)でも小さくて読みづらいとは感じるので紙の優位性はまだあるかもしれない。ただ、雑誌はいずれ処分してしまうので、電子書籍の方が後々残しやすいかもしれない(※電子書籍は所有権ではないので何らかの事情で読めなくなるリスクもあるが)。
<追記>
閉店する店はジュンテンドー系列の店だった。浜田市にも駅裏、医療センターの近くにある。浜田もいつそうなるか分からないということでもある。
<追記>
僕の場合、電子書籍を利用するようになって読書量が増えた。紙の本だと保管スペース等の問題で心理的にブレーキがかかっていたのだが、電子書籍なら実体はないから保管スペースは気にしなくていい。固定レイアウトの本は電子書籍だと読みづらい場合があるのだけど、小説や新書、漫画の類なら電子書籍リーダーで問題なく読める。
| 固定リンク
よみカルの「世界遺産・石見銀山を学ぶ[オンデマンド講座]徳川家康と石見銀山」というWEB講座を見る。
「1.江戸初期の石見銀山」では最盛期に現在価値で175億円相当もの銀を産出していたと推定している。銀山では10歳くらいから下働きをはじめ手子(てご)と呼ばれたそうだ。今でもてごをしてくれ(手伝ってくれ)という方言に残っている。30歳になると病気のない者はいないという過酷な労働環境だったようだ。
「2.石見銀山奉行、大久保長安という人物」では初代・銀山奉行の大久保長安(ながやす)の話が語られる。長安の元では安原伝兵衛(安原備中)という山師や宗岡佐渡(元は毛利氏の家臣だった)といった部下が活躍したと語られる。銀山には行ったことがあるが、大久保長安の墓はどこにあるか分からなかった記憶がある。
「3.石見銀山のその後」では天下の総奉行と呼ばれた長安だったが、死後、不正蓄財を咎められ、七人の息子が全て切腹させられる等して大久保家は断絶してしまう。石見銀山には次の奉行が任命され、安原備中、宗岡佐渡たち実務家たちにまでは累は及ばなかった……という内容である。江戸時代では民政に貢献した人材には高い石高が与えられていない。よくて小大名、大抵は旗本といった処遇だったとのこと。
| 固定リンク
よみうりカルチャー・島根を学ぶオンデマンド講座「戦国武将が欲しがった石見銀山」を観る。大内氏・尼子氏・毛利氏の銀山を巡る争いが解説される。講師は小和田哲男氏。
大内氏:守護大名から戦国大名化
尼子氏:守護代から戦国大名化
毛利氏:国人一揆から戦国大名化
とそれぞれが異なるルートを辿って戦国大名化したとのこと。
| 固定リンク
NHKプラス「ブラタモリ」石見銀山編を見る。銀山のある仙ノ山は凝灰岩でできており、火山灰などが積もった山だそうだ。柔らかい凝灰岩の山に銀を含んだ熱水が浸透した。その柔らかさ故に鉱脈自体は細かったものの掘り進めやすかったとのこと。
僕は石見銀山には三回ほど行ったが、温泉津にはまだ行ったことが無い。
<追記>
大森の町並みは窓枠をサッシから木製のものへと変えたとのこと。利便性よりも観光地としての見た目を優先させた訳だ。
| 固定リンク
◆あらすじ
昔、温泉津の釜野の辺りに長者がいた。長者には美しい娘がいた。多くの若者たちは誰でもその娘を欲しいと思った。ところが近くに山の主と言われる大蛇がいた。大蛇も娘を欲しいと思って何度も長者に申し込んだが、長者は承知しなかった。
蛇の頼みがあまりにしつこかったので、長者も断りきれなくなって、それでは釜野の沖の島を八回巻け。巻くことができたら娘を嫁にやろう。その代わり、巻くことができなかったら、この土地から出ていってもらうと言った。
大蛇は大喜びで沖に出て島を巻きはじめた。そうして七巻き半まで巻いたが、どうしても後の半分ほどが足りない。大蛇は必死にぐいぐい締め付けたが、どうしても八回にならなかった。
大蛇はくやし涙を流しながら長者との約束を守って、海を渡ってどこへともなく立ち去った。
そのとき蛇が締め付けた跡が島に残った。それで蛇島と言うようになった。
◆モチーフ分析
・温泉津の釜野に長者がいる
・長者には美しい娘がいる
・多くの若者が娘に求婚したいと思う
・近所の山の主である蛇が求婚する
・断りきれなくなった長者は条件を出す
・蛇は実行する。島を身体で巻くが七巻き半しか巻けない
・どうしても八回巻けない
・あきらめた大蛇は約束を守って去る
・蛇が巻いた跡がついた島は蛇島と呼ばれる様になる
形態素解析すると、
名詞:蛇 長者 娘 島 求婚 七 八 半 多く 大蛇 実行 山 条件 温泉津 約束 若者 蛇島 跡 身体 近所 釜野
動詞:巻く いる あきらめる する つく 出す 去る 呼ぶ 守る 思う 断る
形容詞:美しい
形容動詞:主
副詞:どう
蛇/娘/長者の構図です。蛇/島の構図でもあります。蛇―(巻く)―島の図式です。
釜野の長者には美しい娘がいて[美女の存在]、多くの若者たちが求婚したいと思う[求婚の願い]。近所の山の主である蛇が求婚する[求婚]。断りきれなくなった長者は釜野の沖の島を八回巻けと条件を出す[条件の提示]。蛇はどうやっても七回り半しか巻けない[条件の未達]。あきらめた蛇は約束を守って去った[退去]。
どうやっても七回り半しか島を巻けなかった蛇は約束を守って退去した……という内容です。
発想の飛躍は、蛇に島を八回巻けと条件を出すところでしょうか。蛇―(巻く)―島の図式です。実際にやってみると七回り半しか巻けず条件が達成できません。
要約しますと、蛇の<求婚>から<条件の提示>、実行するも<条件未達>。求婚を諦めて<去る>という内容です。条件の提示に当たっては長者に知恵が働いたか明確にされていません。<求婚>と<条件の未達>が、この話の骨子です。
見方を変えると、<嫁>の欠落を埋めるべく求婚しますが、条件未達で欠落は埋め合わされません。更に失敗したときの条件として、その土地を去ることになるのです。
◆参考文献
・『日本の民話 34 石見篇』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.19-20.
| 固定リンク
◆あらすじ
出雲の国でヤマタノオロチを退治したスサノオ命は石見の国の様子を見るために小浜(こはま)まで来た。
小浜の近くの笹島(ささじま)には矢を作る際に使う質の良い竹が沢山生えていた。
スサノオ命は笹島で竹を切って回っていたが、気がつくと潮が満ちていた。
服が濡れてしまうとスサノオ命は浅瀬づたいに岸の方へ歩いていった。そのうち大波が打ち寄せて、着物の裾を濡らしてしまった。
岸についたスサノオ命は近くの川で着物を洗うと乾くまで一休みすることにした。砂浜で寝入ってしまった。
日が沈む頃になってスサノオ命は目を覚ました。今日中に出雲へ帰らないといけないのに、焦ったスサノオ命は干しておいた着物を着ようとした。ところが、風に吹き飛ばされたのか、せっかく干しておいた着物が川の中に浸っていた。
しまったと思いつつ、着物を引き上げてみると、裾の方にニシ(タニシ)やヒルがびっしり付いていた。
これはけしからん、立腹したスサノオ命がニシを一つずつ引き離すとニシの尖った尻をねじ切って川の中に捨てた。また、ヒルの口をねじ切って捨てた。
それからというもの、この辺りのニシは尻尾が切れたようになり、ヒルは人の血を吸わなくなった。
温泉津(ゆのつ)町の厳島神社の境内に衣更(きさらぎ)神社というお社がある。この社はスサノオ命を祀っていると言われている。
◆余談
温泉津町の伝説である。この話はどこかで読んだことがあるが、偕成社『島根県の民話』に収録されていたので、追加で収録した。
私の実家は田んぼを埋め立てた土地に建っているのだが、家の前に溝があって、そこに降りて遊んでいるとヒルが吸い付いていたことがあった。元が田んぼなのでヒルが生き残っていたのだ。
◆参考文献
・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.22-25.
記事を転載→「広小路」
| 固定リンク
◆あらすじ
いまからおよそ四百年ほど昔(二〇二〇年代では四四〇年前)、戦国時代で日本中が乱れ、野盗や海賊がはびこっていた。石見では大蛇丸(おろちまる)という海賊の頭(かしら)が勢力を誇っていた。
その頃、西山谷(にしやまたに)の里にお延(おのぶ)という娘がいた。十七歳で器量もよく評判の娘であった。
ところが、その評判が大蛇丸の耳に入ってしまった。大蛇丸はお延を自分の嫁にすると勝手に決めてしまった。
その年の秋祭りに近いある日のこと、二人の男がお延の家へ大蛇丸からお延への贈り物だと酒樽を担いでやってきた。大蛇丸とは誰かとお延が尋ねると、いずれ分かると言い残して帰っていった。
夕方、浜から帰って来たお延の母は大蛇丸とは海賊の頭(かしら)だと飛び上がって驚いた。お延も驚いた。二人は考えた末、村長のところへ相談に行った。
それはお延を嫁に寄こせという意味だと答えた村長はお延を隠すことにした。お延は村の東一里ほどにある島津屋(しまづや)という丘にある洞穴に隠れることになった。
祭りの日になった。沖に泊まっていた船から一艘の小舟が降ろされ、山谷の浦めざしてやってきた。舟には大蛇丸が乗っていた。
大蛇丸はお延の家にやってきた。お延の母は家にいないと答えると大蛇丸たちは家捜しをはじめた。お延の母は村長を呼んだ。大蛇丸はお延を隠したのは村長の差し金だなと言ってお延を出さねば西山谷の里を焼き払うぞと脅した。村中の家を探したがお延はいない。浜の網小屋や船の中まで調べたが、お延は見つからない。
近くの村を探せと命じた大蛇丸が島津屋までやってくると、大蛇丸の刀の鍔に彫り込んである金のニワトリが鳴いた。ニワトリが鳴くと思いが叶うのだ。
まもなく手下の一人が洞穴を見つけた。大蛇丸が入って見るとお延がいた。だが、お延は舌をかみ切って死んでいた。大蛇丸は怒り狂った。
西山谷の里に戻った海賊たちは家中に火をつけ逃げ惑う村人たちを手当たり次第に殺した。
島津屋の小高い丘の畑にお延の墓といわれる石が一つある。また、里人たちの亡骸を葬った谷は死人谷(しびとだに)と呼ばれている。
お延が死んだ後、この里の沖を通る船が訳もなく動かなくなることがあった。人々はお延の魂が、むごい仕打ちをした大蛇丸に祟ろうと、船を止めて探しているのだと噂し合った。
漁師たちはお延の魂を慰めるために、西山谷の山上に美延(みのぶ)神社を建てて祀った。
◆余談
大田市朝山(あさやま)町の伝説です。朝山町では朝倉彦命神社にお参りしたことがありますが、海岸沿いの地域は未訪問です。美延神社という手がかりがありますので、検索しましたがヒットしませんでした。地図で確認すると、朝倉彦命神社の先に神社があるのが確認できました。そこかも知れません。
◆参考文献
・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.57-63.
記事を転載→「広小路」
| 固定リンク
◆あらすじ
邇摩(にま)郡(現・大田市)仁摩町の仁万川(にまがわ)が日本海に流れ込む東の方の岩場を「文次郎つり場」と呼んでいる。ここは夏、冬を問わず一年中魚がよく釣れる所である。
ずっと昔のこと。文次郎という仁万一番の釣り好きの男がいた。文次郎は坂灘(さかなだ)の東のこの辺りが一番好きで、他の者が一匹も釣れないときでも、毎日必ずと言ってよい程魚を沢山釣った。
秋雨の降るある日のこと。この日はいつもよりよく釣れた。その中に鱗が金色に光る大きな魚が一匹いた。形は鯛に似ているが鯛ではなかった。
今まで見たこともない魚が釣れたものだと文次郎は家に帰って料理した。食べてみると、美しい色に似合わずまずくて食べられない。家の者にも勧めたが気味悪がって食べなかった。仕方がないので骨も身もみな捨ててしまった。
翌日、文次郎の家の戸が開かないので近くの人が開けてみると、つり道具はいつもの場所にあるのに文次郎がいない。あちこち探してみたが見当たらない。村中大騒ぎになった。
三日目の夜、雨は相変わらず降っていた。探し疲れた村人たちが文次郎の家に集まり、探し続けるか止めるか相談していた。すると、そのとき、ホトホトと戸を叩く者がいる、戸を開けてみると文次郎が立っている。どこに行っていたのか村人たちが尋ねても文次郎はただ黙っているだけだった。ただ唇をわなわな震わせるだけである。おかしなことだと誰もが思った。
文次郎の手を引いて家の中に入れようとすると、酷い熱である。すぐ布団をかけて寝させた。不思議なことに外は雨が降っているのに文次郎の着物は一つも濡れていない。村人たちは気味悪がった。
四日目の夜、文次郎は急に起き上がって、ふらふらと表に出た。驚いた家の者が跡を追ったが、暗闇に溶け込むように消えてしまった。
文次郎の死体が岩場の渦巻きにもまれて見つかったのは、そのあくる日の夕方だった。両目がえぐり取られ、身体のあちこちは何ものかに食いちぎられていた。どうしてこんな惨いことになったのか、とうとう分からず仕舞いだった。家の者や事情を知っている者は金の魚の祟りだろうと言って悲しんだ。
それからというもの、文次郎が釣りをしていた辺りの岩場を「文次郎つり場」と呼ぶようになった。今でもこの場所は魚がよく釣れ、釣り人が集まる場所である。
◆余談
仁摩町には神楽岡八幡宮にお参りしたことがあるが海の写真は撮っていなかった。仁万川は見たことがないので、文次郎つり場がどの辺りなのか、現状では分からない。
◆参考文献
・『島根の伝説』(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1978)pp.21-24.
・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.72-74.
記事を転載→「広小路」
| 固定リンク