書籍・雑誌

2024年6月24日 (月)

初心者向け公式マニュアル――樋口耕一、中村康則、周景龍『動かして学ぶ! はじめてのテキストマイニング フリー・ソフトウェアを用いた自由記述の計量テキスト分析』

樋口耕一、中村康則、周景龍『動かして学ぶ! はじめてのテキストマイニング フリー・ソフトウェアを用いた自由記述の計量テキスト分析』を読む。KH Corderの公式マニュアル。初心者向けに分かりやすく書かれていたので助かった。

気づいたのは無償版だと共起ネットワークと対応分析機能を使用する際にはコーディング・ルールを記述したファイルを読み込ませることが必須であること。このマニュアルの画面ではファイル指定する箇所が見当たらないので無償版と有償版とで若干仕様が異なるのかもしれない。

テキストマイニングを上手く実施するにはコーディング・ルールの設定が重要になってくるが、これといった解決法はない。抽出語リストをじっくり観察して設定する他なさそうである。

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2024年6月22日 (土)

浜田駅裏のジャストも閉店に

浜田駅裏のジャスト(ジュンテンドー系列)も閉店になるとの報が。僕自身、電子書籍にシフトしてから書店の前を通りかかってもスルーすることが増えた。困るのはネット通販を使えなさそうな中高生か。浜田では唯一の書店とは書いてなかったのでゆめタウン辺りにまだあるのかもしれないが。

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2024年6月 2日 (日)

概要を把握する――川上成年『テキストマイニングでできる特許データ分析入門 図で解説! KH CoderとJ-PlatPatで特許データを分析してみよう。』

川上成年『テキストマイニングでできる特許データ分析入門 図で解説! KH CoderとJ-PlatPatで特許データを分析してみよう。』をKindle Unlimitedで読む。これでKH Coderの大まかなイメージは掴めた。KH Coderでは対応分析と共起ネットワークがよく利用されるようだが、ある程度解像度を高めることができた。最後の応用編では共起ネットワーク図をベースにPower Pointなどのツールで描画した独自の概念図が提示される。僕はこういう概念図を作成するのが不得手なので、上手く取り入れられないか。

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2024年5月31日 (金)

文化資本の実践例――広島の文化的催しをしゃぶり尽くす

今頃になって「文化資本」という言葉があることを知る。本来は個人の学歴や教養を指すようだが、Xでは美術館や博物館といった文化的インフラというニュアンスで語られているようだ。

酒井小言「音楽、映画、美術、舞台、食事、文学、観光についての体験感想文集」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054888469610

僕が知っている実践例として上記のエッセイがある。広島市在住の著者(※元は都民らしい)が主に広島市の文化について克明に綴ったもの。「広島は実はこんな文化的な街だったのか」と思うほど、広島市の文化的施設、催しをしゃぶり尽くしている。

かなり幅広い教養の持ち主で、執筆にはかなり手間がかかるはずだが、ほぼ毎日更新している驚異的な人。著者さんのバックボーンについては僕が読んだ範囲では文中で明らかにされていないので、どのようにして身につけたかは不明。

既に3000話近くある。ガラホで読んでいたのだけど、あるとき履歴が消えてどこまで読んだか分からなくなってしまった。幸い、システムには履歴が残っていたので再読は可能だが、もう追いつけないくらいに進んでいる。

……と書いていて、ふと第一話を読んでみたら、履歴が上書きされてしまった。本当にどこまで読んだか分からなくなってしまった。こういう失敗をときどきやらかす。

 

これだけのインプットとアウトプットを日々継続しているのだから、他に割ける時間は限られてくると思う。たとえば、気づいた限りではテレビドラマに関する記述はない。また、他の作品を読んだところ、純文学というか文芸志向が強くサブカル的なジャンルには興味がないようだ。

純文学に関しては大手出版社は小説投稿サイトから作品を発掘することをしていない。僕は純文学系のコンクールに投稿したことがないので実情はよく知らないが、今でも編集者の目利きによって作品を選んでいるはずである。

カクヨムのような小説投稿サイトは基本的には娯楽小説を投稿するためのサイトなのである。なぜ発表媒体として小説投稿サイトを選んだのかという問題もある。別にブログでもよかったはずなのである。

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2024年5月16日 (木)

シンギュラリティは既に来ている? 野口悠紀雄『生成AI革命 社会は根底から変わる』

野口悠紀雄『生成AI革命 社会は根底から変わる』を読む。ホワイトカラーとブルーカラーとを合わせた数字だが、生成AIによって平均して約25%の業務が代替されるとのこと。知的労働の方が影響が大きく技能労働に関しては影響度は低くなる。

まあ、紙の伝票がいきなり消える訳ではないので、今すぐ全ての事務処理がAIに代替されてしまうとまではならないだろう。

本書では考察の対象とされていないが、クリエイティブな職種でもイラストレーターが無断学習され被害に遭っていると話題になっている。創造性が発揮される分野でも安泰という訳でもないのだ。

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2024年5月14日 (火)

本紀だけでも読破したい

ちくま学芸文庫の史記、電子書籍版を買う。史記については司馬遼太郎の『項羽と劉邦』や横山光輝の漫画で全く知らないでもなかったのだが、これまで中々購入に踏み切れなかった。電子書籍だとかなりハードルが下がる。まあ、全巻読破できるとは思っていないのだが、第一巻の本紀だけでも読みたいとは思っている。

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2024年3月31日 (日)

理解できないのは書いてあることが間違っているからという可能性もある

「神楽と文芸(総論)」だと思うが、八藤後先生曰く分からないとのこと。専門が違うと書き手が当然のごとくに使用している用語が伝わらないということだと思う。だが、分からないにはもう一つの可能性があって、それは書いてあることが間違っているから分からないということもあり得る。

僕は高校生のときに強いストレスがかかったことがあり、それ以降、脳内のロジック回路に変調をきたしたと感じている。僕の書くものに癖があるのはそのためである。自分でも変だなと思うけど自分では直せないのだ。

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2024年3月29日 (金)

ようやく純文学に手を出す

村上春樹『ノルウェイの森』を買う。この期に及んでようやく純文学に手を出す。他、菊池良『芥川賞ぜんぶ読む』小谷野敦『芥川賞の偏差値』を買う。これらは通読するつもりはなくて単に受賞作のリストとして買ったもの。Amazonで「芥川賞」と検索してもまともにヒットしないから。

若い頃から芥川賞くらいは読んでおかねばとは思っていたのだが、読まないまま年を取ってしまった。とにかく知識が足りないと思っていたのでフィクションよりノンフィクションを優先していたから。それと、他人の不幸にまで興味はないというのも本音である。

小谷野敦『芥川賞の偏差値』、田辺聖子の項を読んだら評価が低かった。自分には理解できないと。僕自身、受賞作は読んでいないが、確か直木賞の話もあったとかで芥川賞的作品ではなかったのかもしれない。おせいさんの面白さは関西人特有のユーモアだと思う。短編だが「ジョゼと虎と魚たち」は実写およびアニメ映画化されそれぞれにファンがついている。

『ノルウェイの森』をちょっと読んでみるが、感傷的な描写には特に感情移入できない。やはり自分はフィクションには向いていないのかもしれない。

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2024年3月28日 (木)

つまるところコミュ力――斎藤環『承認をめぐる病』

斎藤環『承認をめぐる病』を読む。多岐に渡る内容なので要約は難しい。主題としては「承認」と「キャラ」だろうか。現代の中学校や高校では自然とクラスの中でキャラづけがされてそれを演じることが求められてしまう。ペルソナの仮面が外せなくなってしまうといったところだろうか。それがスクールカースト化につながっていると指摘する。

日本でもスクールカーストってリアルに存在するの? という驚きがある。僕の時代でも外向的なタイプと内向的なタイプとで自然と分かれてはいたが。公立の中学だと多様な生徒が集まるが、高校は偏差値である程度輪切りにされているだろう。割と近いもの同士なはずなのにと思う。

著者は熱心にテレビ版エヴァンゲリオンに言及されるのでエヴァ直撃世代なのかと思って奥付を確認すると庵野監督と同世代の人だった。まあ、症例として典型的な事例が三つ揃った稀有な事例なのだろう。『シン・エヴァンゲリヲン』に関しては著者の望む話の落とし方ではなかったかもしれない。

ポストモダンに関する議論は見直す必要があると思う。ここ二十年ほど新自由主義という新たな大きな物語が世界を席巻しているはずなのだ。大きな物語が消失したというのは冷戦崩壊直後のわずかな期間に過ぎないはずだ。

あと、サブカル評論家としての東浩紀の議論、彼はメタフィクショナルな構造を持つ作品だけを好んで称賛する傾向があるので、そこから漏れてしまう時代を象徴する重要作品も出てきてしまっていることは指摘しておくべきかもしれない。

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2024年3月27日 (水)

純文学は読んでいないが読んでみる――栗原裕一郎「村上春樹論の終焉」

栗原裕一郎「村上春樹論の終焉」を読む。村上春樹に関する評論の総括的な論文。僕は村上作品はほとんど全く読んでいない。短編を一本読んだ程度である。平易な表現で深い内容を描写できる作家だなという印象は受けた。評論としては宇野常寛のものを読んだ程度だろうか。

当初、文壇からは敵視されていたらしい。純文学の作家でありながらベストセラーを連発という破格の存在であることも反感を買ったのかもしれない。僕が高校生の頃はまだ文壇に権威があったが今ではどうだろう。認められたら銀座のクラブでちやほやしてもらえるかもしれないが、今や誰でも情報発信できる時代である。最早その程度の狭い世界に過ぎないのではないか。

「筆者は人文社会科学が口走る「理論」とかいうものを一切認めておらず、当然、それに填め込んで作品をどうこうする類の論評は基本的に評価しない。」とある。ちょうどレヴィ=ストロースの『アスディワル武勲詩』やスーリオの『二十万の演劇状況』を読んだところだったのでおっと思う。

僕は長編小説の読解のためにそれらを読んでいるのではないのだが、まあ、娯楽作品には骨格というか構造が必要となる。そこら辺はハリウッドが執拗に追及している。一方、純文学ではそういったテクニックはむしろ忌避される。物語を最小の要素まで還元したとして、そこに残されたものから溢れてしまうものがどうしても出てきてしまうのだ。

元々、そういう物語を最小要素に還元しようという物語構造分析の試みはインド=ヨーロッパ語族という認識を背景に昔話や神話の起源を探るための類話の比較用の手法が源流だ。元から長編小説の読解のためのものではなかったのである。スーリオの著作は明らかに演劇の作劇術由来だが。

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