純文学は読んでいないが読んでみる――栗原裕一郎「村上春樹論の終焉」
栗原裕一郎「村上春樹論の終焉」を読む。村上春樹に関する評論の総括的な論文。僕は村上作品はほとんど全く読んでいない。短編を一本読んだ程度である。平易な表現で深い内容を描写できる作家だなという印象は受けた。評論としては宇野常寛のものを読んだ程度だろうか。
当初、文壇からは敵視されていたらしい。純文学の作家でありながらベストセラーを連発という破格の存在であることも反感を買ったのかもしれない。僕が高校生の頃はまだ文壇に権威があったが今ではどうだろう。認められたら銀座のクラブでちやほやしてもらえるかもしれないが、今や誰でも情報発信できる時代である。最早その程度の狭い世界に過ぎないのではないか。
「筆者は人文社会科学が口走る「理論」とかいうものを一切認めておらず、当然、それに填め込んで作品をどうこうする類の論評は基本的に評価しない。」とある。ちょうどレヴィ=ストロースの『アスディワル武勲詩』やスーリオの『二十万の演劇状況』を読んだところだったのでおっと思う。
僕は長編小説の読解のためにそれらを読んでいるのではないのだが、まあ、娯楽作品には骨格というか構造が必要となる。そこら辺はハリウッドが執拗に追及している。一方、純文学ではそういったテクニックはむしろ忌避される。物語を最小の要素まで還元したとして、そこに残されたものから溢れてしまうものがどうしても出てきてしまうのだ。
元々、そういう物語を最小要素に還元しようという物語構造分析の試みはインド=ヨーロッパ語族という認識を背景に昔話や神話の起源を探るための類話の比較用の手法が源流だ。元から長編小説の読解のためのものではなかったのである。スーリオの著作は明らかに演劇の作劇術由来だが。
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