第12回高校生の神楽甲子園 一日目 演目に異変が
https://www.youtube.com/watch?v=8Vg1MenVrrs&t=0s
第12回高校生の神楽甲子園一日目をYouTubeで視聴する。矢上高校の子持山姥、これは芸北神楽の新舞の演目である。島根県邑智郡矢上は矢上から芸北に神楽が伝わったとの言い伝えがある土地であり、いわば芸北神楽のルーツと言える。その矢上の高校生が新舞を舞うということで、時代の変遷を感じた。
飯南高校の演じた山姥、これも芸北神楽の新舞である。これは背景の文脈が動画だけでは分からないのだが、表面的な事実だけを確認すると、奥出雲の高校がひろしま神楽の演目で神楽甲子園に出場し、日芸選賞を獲ったということになる。
これはこれまで水面下で進行していたものがネット配信で表面化したということである。まあ、中国地方での流行と言っていいだろう。
これは出雲神楽にとっては大きな変化なので、そのうち民俗学者が聞き取り調査に来るかもしれない。
もし、石塚尊俊(※出雲の民俗学者で神楽の権威)が存命だったら卒倒するような事態ではある。
飯南高校神楽愛好会はおそらく普段は出雲神楽を舞う生徒活動と推測される(※はじめは新舞専門のクラブかと思った。その方が話の筋は通るから)。よく言えば、出雲神楽と新舞の両方を舞うマルチなクラブである。
石見神楽の団体が芸北神楽の新舞の演目を舞うというのはちらほら目にする。石見神楽と芸北神楽は同系統だから単にレパートリーを増やしただけとすんなり理解できるのである。
出雲神楽と芸北神楽は別系統である。だから直接の繋がりはなく、そこに何らかのロジックが介在しているはずである。
これも表面的な事実だけを確認すると、出雲神楽を舞う団体が芸北神楽の新舞をレパートリーに取り入れたということである。
出雲神楽と芸北神楽は別系統の神楽である。だからリソースが二分割されることになる。リソースの分散は芸の質低下をもたらす。
一歩引いた視点でみると、新舞が奥出雲に橋頭堡を築いたということである。これから出雲地方に新舞の進出が始まるのではないか。
平成のはじめ頃から郷土芸能を観光に活用するという政策がある。それは現在の観光立国政策でも変わらない。芸能が他所の芸能の影響を受けることはよくあることだが、現在求められるのは「郷土の」芸能をできるだけ昔のままに演じることである。つまり、新しいことは特に求められていないのである。
もちろん新しい試みをしてはならないというルールもない。だから、そこは自己判断でとなる。それはリスクを自分で引き受けるということである(※こうして批判されるのもリスクである)。
将来、観光客が出雲神楽を見にいったら、実際にやっていたのは芸北神楽だったなんてことも起こりうるのである。
まあ、三十年前だったら「馬鹿もん、新舞なんぞ本物の神楽ではないわ!」と説教されて終わりだったろう(※この一文を回避するためにこれまで長々と書いたのである)。
ここから先は説明がないので推測である。
おそらく、これは他校の新舞を見た飯南高校の生徒が感銘を受けて自分たちでも舞いたいとなったということだろう。今回は出雲神楽を封印し、芸北神楽の新舞で神楽甲子園にチャレンジしたということだろう。挑戦は日芸選賞を受賞することで達成された。
しかし、「今回は出雲神楽を封印してひろしま神楽にチャレンジします」とアナウンスしてくれないと一見さんには何が起きているのか分からない。数日間混乱した。
新舞の身体パフォーマンスには若い感性に訴える魅力があるということだろう。だから牛尾三千夫や岩田勝たちは危惧を感じたのだろう。
個人的には出雲神楽には新舞より関東の里神楽の方が親和性が高いと思う。出雲神楽はよく知らないけれど、関東の里神楽は中国地方の神楽とは異なる方向性で神楽を洗練させていっている。
生徒の熱意がバタフライエフェクトを起こして将来的に出雲神楽に変質をもたらす可能性だって考えられる。出雲神楽にとって蟻の一穴となり得るのだ。
これは日芸選賞を獲ってメデタシメデタシで終わる話ではなく、マクロな視点では奥出雲の出雲神楽の芸北神楽化の始まりである。だから、長期的な視点で見守る必要があるのだ。
別系統の神楽が新舞を取り入れた事例は既にあって、安芸十二神祇が新舞を取り入れている。ただ、これは社中の存続のために止むなく新舞を取り入れているという消極的なケースである。普段は新舞を舞って、奉納神楽のときは十二神祇を舞うのだとか。
消極的か積極的かの違いはあるが、出雲神楽でもそうなっていくのではないか。状況に応じて神楽を使い分ける方向に。出雲神楽と新舞が融合することはないだろう。
新舞は観客受けはいいから徐々にレパートリーを増やしていく方向性が予測できる。高校生の時間は限られているから、その分既存の演目が割を食う。いつしか保持演目に変質が起きるとなる可能性もある。
来年以降も、後輩たちが新舞で出場したいと言うことになるかもしれない。先輩たちで既に前例はできているのだから拒む理由はない。
ただ、芸北神楽で出場し続けたら、芸北神楽を舞う高校の一つとして埋没していくことになる。出雲神楽で出場した方がよほど差別化になるのである。
卒業した生徒が大人の社中に所属し、新舞が舞えるのでじゃあ新舞を舞いましょうかとなることも予測できる。こうして少しずつ新舞が出雲地方に浸透していく未来が見える。
芸北地域の観客に芸北神楽をみせる、それは出雲神楽の枠を一つ潰してまでもやるべきことなのか。
生徒たちの意図としては、本場・芸北の観客に自分たちの新舞を見てもらいたかったというところだろう。
逆に芸北地域の人たちにとっては、保守的な出雲の人が新舞を認めてくれたということで嬉しいだろう。
そういう意味では、win-winである。更に今回は日芸選賞を獲得した。
しかし、飯南高校は実質的に出雲枠である。ここら辺の優先順位をどうつけるかという問題である。
こういう場合は本来は原則論で考えるべきである。常識的に考えれば、出雲枠>芸北の観客との交流 の順となる。
神楽の文脈的に、出雲神話という神話の舞台の子孫たちが源頼光の鬼退治を演じても格別な意味は生じない。
そもそも主催者は今回のような事態を想定したポリシーをたてていたのだろうか。神楽甲子園は建前としては全国の多様な神楽の発表の場だろう。
普通に考えれば出雲の高校生に期待されるのは出雲神楽を上演することだろう。
今回の件は芸北神楽には有利に働くから無問題だったのだろう。審査員の日芸の先生は演劇の研究者だから新しい試みと評価したかもしれない。
ぽっと出の出雲の新舞に日芸選賞……主催者の意向が強く働いているとうがった見方をされても否定しきれないのではないか。たとえば一日目には岩手の権現舞が披露されているが、こういった神楽的に遙かに価値の高いものに目もくれていない。
飯南高校は自分たちの好きを優先させた。一方、他の高校は郷土の神楽を実直に演じた。そこら辺もフラットに審査したということかもしれないが、神楽甲子園にはポリシーが欠如している。
ネット配信された回しか見ていないが、日芸選賞は能舞有利で儀式舞不利である。また、新舞の受賞率が高い。能舞と儀式舞は部門を分けた方がいいのではないか。
神楽甲子園は建前はともかく、本音ベースでは、新舞の新舞による新舞のためのイベントだろうから、そこら辺はどうでもいいのかもしれない。
あと、神楽甲子園の審査員には神楽研究者(民俗学者)がいないことも挙げられるだろう。言わば、ブレーキ役がいない。
今回の出場にあたって指導する教師と生徒たちの間では十分な話し合いが持たれたと思われるが、どんなことが話し合われたのか記録しておく必要がある。それは民俗芸能にとって貴重な資料になるだろう。
まあ、飯南高校は同好会だし、出雲の人が自身で選択したことだから、それを尊重するのもありだろう。自分たちは楽しんでやっているのに何で腐すんだよ? と思うかもしれない。ただ、筆者は今回の件でかなり感情が揺さぶられたのである。
生徒たちの中では出雲神楽と新舞は等価なのだろう。だから、どちらを選ぶかは彼ら次第ということになる。
ただ、奥出雲に新舞を広げたいという意思はあるだろう。それは釣り客がブラックバスを川に放流するのと大差ない。
彼らの活動実態は知り得ないので(たとえば総文には出雲神楽で出場しているかもしれない)、うかつな事は言えないが、晴れの舞台に新舞を持ってくるというその一事が出雲神楽の将来的な衰退を暗示している。
宣伝に熱心な芸北神楽は見ようと思えば好きなだけ見られる。一方、出雲神楽はそうではない。その希少価値にすら気づいていないのである。
結局のところ、神楽甲子園に確たるポリシーがないからこうなるのである。
ここで筆者の立ち位置を書いておくと、島根県浜田市出身である。なので八調子石見神楽寄りのスタンスである。芸北神楽の新舞とはさほど違いがないと思っている。そして中学生のときに「本物の神楽は大元神楽のようなものをいうんだ」と怒られたことがある。そのときはそれに反発したが、長い時間が経って今回のような出来事が起きてみると、自分でも予想しなかったことに極めて保守的な見解となった。
さて、ここで新舞に目を転じてみる。
中国地方で暮らしていると気づかないかもしれないが、芸北神楽の新舞は神楽の中では異端なのである。
たとえば出雲神楽だと江戸時代以前から続く400年以上の歴史のある神楽である。出雲流神楽という分類があったように、出雲神楽は中国地方の神楽の中では正統と言っても過言ではないだろう。
対する新舞は戦後の七十数年ほどの歴史しかない。それでも三世代分くらいの歴史はある。
今回の件で、筆者は一部とはいえ、正統が異端に呑み込まれたような印象を受けたのである。
神楽を学問として研究しているのは民俗学である。民俗学者は基本的に古い神楽に価値を見いだしている。特に神仏習合的な要素を残す神楽が高評価される(※広島県だと比婆荒神神楽)。そこに死生観が見られるからだ。
一方で、新しい新舞にはほとんど関心が払われない。ある意味最先端の神楽ではあるのだから注目する人がいてもよさそうなものだが、新舞に関する論文はほとんど読んだことがない。周辺領域で新舞の人気に注目する研究者がいる程度である。
神楽甲子園の審査員に神楽研究者がいないのは、こういった事情と推測される。広島には中国地方の神楽に詳しい研究者がいるが、そういった人材を確保できていない。また、そういった人は新舞や石見神楽を高評価したりしないだろう。
新舞には二面性がある。人気があり、観客動員力があり、観光神楽でも期待される一面と、神楽研究の対象と見なされず、「ショーである」「見世物である」で一刀両断されてしまうはかない一面と。
言わば、人気はあるが権威はない。権威は望んで得られるものではない。
こういった二面性が新舞関係者のコンプレックスとなっていると想像する。だから、彼らは人気をテコに勢力拡大を図るのである。神楽甲子園もその一環である。
安芸高田市は神楽甲子園や大阪公演といった大きなイベントを成功させている。関係者に有能な人がいるのだろう。
新舞の欠点を挙げておく。説話ベースで神話劇でないのである(※一部、神武天皇やヤマトタケル命の演目はあるが)。神話劇を神様に奉納するなら分かるが、源頼光の鬼退治を奉納して意味はあるのだろうか。神様はそんなことは気にしないか。
また、ほとんどの演目がバトル中心の構成で、それ以外の展開がない。たとえば関東の里神楽では男神と女神の連れ舞が見せ場だ。ある一面で表現の幅が狭いのである。
それと新舞からは神楽の呪術性の名残が消え去ってしまっているのである。石見神楽ですら「鍾馗」という演目が悪疫退散の神楽と重視されているように、呪術的思考の名残が未だにある(※芸北神楽の旧舞にも鍾馗はある)。新舞では戦後の創作演目ということもあって、そういった呪術的思考の名残を感じさせる演目がほとんどないのである。「天香具山」には呪術性が見いだせるが、これはあまり演じられていないようである。
呪術的思考自体は現代では排除されるべき思考法だろう。特に医学分野においては。しかし、科学万能の現代においても呪術的思考が完全に消え去ってしまうようなこともないのである。
神楽経験のない筆者には何が神楽を神楽たらしめているのか分からない。たとえば、関東の里神楽では神楽歌と天蓋は無い。が、はじめの住吉三神と締めの山神の舞には神楽らしさを感じる。一方、新舞では神楽歌と天蓋はある。ただ、娯楽に振り切っていて、神事性が薄れているのは確かである。
一方で、強みを挙げると、演劇化されたストーリー性のある劇であるということである。ライブの一回性もあり、繰り返しの鑑賞に耐えるのである。儀式舞だと、ほとんどの人が一度見ればいいかとなってしまうところだ。
また、前述したように、身体パフォーマンス性の高さも挙げられる。
「本物」という言葉は安易に使いたくないのだが、幸いなことに神楽甲子園にも「本物」と評することのできる神楽は出演している。新舞を舞う生徒たちには、自分たちの神楽とどこが違うのか比較してじっくり考えて欲しい。
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