ポストモダン的認識の枠組みは果たして正しいのか――宇野常寛「リトル・ピープルの時代」
宇野常寛「リトル・ピープルの時代」を読む。この批評家さんは純文学からサブカルチャーまで幅広く物語を摂取して明快に論じているのが売りだと思う。ただ、議論の前提にあるのがポストモダン的な認識なのである。例えば東浩紀の批評に強く影響されている。
読んでいて思うのだけど、ポストモダン的な認識は当たっていないのではないかと思うのである。インターネット以前/以後の方が実態に即しているのではないか。
ポストモダンの本、リオタールの著作を読んで理解できなかったのだけど、リオタールはポストモダンを明快に論じている訳ではない。高度情報化社会の到来を予言したりはしていない。
例えばポストモダンでは大きな物語(イデオロギー等)が消失し、無数の小さな物語が乱立すると解釈されている。サブカルチャーの二次創作を取り上げれば、そういうことにはなるだろう。ただ、それも著作権という掌の上で踊っているに過ぎない。宣伝になるから見逃されているだけである。
大きな物語が死んだと言えるだろうか。冷戦の終結で唯物史観は退潮したが、今でもしぶとく残っている。フランクフルト学派の議論がポリティカル・コレクトネスに影響しているとのことである。
また、現在では新自由主義/グローバリズムという大きな物語が厳然としてあるのではないかと思う。かつては「いい大学に入っていい企業に就職すれば将来安泰」という図式があったが、現在では「弱肉強食ですよ。自己責任ですよ」という図式がとって代わっていると見ることができるのではないか。
「リトル・ピープルの時代」は国民国家をビッグ・ブラザーと見なし、1960年代末、政治の季節と共に死んだとしている。が、リアルな世界ではGoogleこそがビッグ・ブラザーではないだろうか。我々は自ら進んで情報をネット企業に差し出しているのである。「リトル・ピープルの時代」が刊行されたのは2010年代初頭であるが、2020年代の現在、中国の監視社会はビッグ・ブラザー的ではないだろうか。ロシア≒プーチンではないだろうか。
ポストモダン的な認識の枠組みに強引に当てはめて論じているように見えるのである。間違った前提の上で幾ら議論を積み重ねたところで、それは砂上の楼閣に過ぎない。思考の柔軟性に欠ける批評家という印象。
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