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2022年10月14日 (金)

八畔の鹿――モチーフ分析

◆あらすじ

 昔、人皇四十二代文武(もんむ)天皇の御代に筑紫(ちくし)の国に悪い鹿がいた。足は八本あり、赤い毛は一尺以上もあり、眼は鏡の様に輝き、口は裂けて箕(み)の様であった。竜や虎の様に天を駆け地を走り、鳥や獣や人間までとって食った。これを八足八畔(やくろ)の鹿といった。そのため人々は恐ろしくて田畑も作れなくなった。このことが朝廷へ聞こえて朝廷では藤原実方、藤原為方の二人に鹿を退治するように命じた。二人は江熊太郎という北面の武士の中でも最も武勇の優れた侍を連れて筑紫へ下った。江熊は深い山の中へ分け入って鹿を探し、退治しようとしたが、なかなか退治することができない。鹿は小倉から山口へ渡り、長門の国、周防の国へ入り、都濃郡鹿野の庄を通って石見の国の奥にある志賀の庄の大岡山に向かった。そして大岡山の西側の三つ岩に立て籠もった。太郎はこれを追って田少の金五郎岩に迫り毒矢を放った。矢はあやまたず悪鹿に当たった。鹿が竜になって金五郎岩に取りすがるところを、江熊は次の矢で射止めた。すると四方を雲霧が覆い、天地が激しく揺れ動き、この悪気に触れて江熊は死んでしまった。実方、為方はこれを聞いて駆けつけ、悪鹿の死骸を調べて埋めた。角は落として死骸は田の畦(あぜ)に埋めた。鹿の姿を写して名目を記して祭礼をし、墨の余りをそこの滝に流した。それで墨流れといって黒い墨の筋が岩に残っている。また、鹿は柚(ゆず)の木の下で解いたので、ここでは柚の木が生えないと言う。村の人たちは勇士江熊太郎の霊を金五郎岩に祀った。これを荒神明神と言う。また、鹿の霊を神に祀った。この社を鹿大明神と言って、立戸と七日市にある。立戸の鹿大明神は後に八幡宮に合祀されたが、八幡宮には社宝として八畔鹿の角がある。鹿大明神は霊験あらたかで、村人の願い事を叶えるので、はじめ悪鹿(あしか)といったのを吉鹿(よしか)と言う様になった。それからこの地方を吉鹿と言う様になった。

◆モチーフ分析

・文武天皇の御代に筑紫の国に八本足の悪い鹿がいた
・鳥や獣は人間までとって食った
・八足八畔の鹿という
・悪鹿を恐れた人々は田畑も作れなくなった
・朝廷では藤原実方、藤原為方の二人に鹿を退治するように命じた
・江熊太郎という北面の武士を連れて筑紫へ下った
・江熊は山の中へ分け入って鹿を探し退治しようとしたが、なかなか退治することができなかった
・鹿は小倉から長門、周防の国に入り、石見の国の志賀の庄の大岡山へ向かった
・鹿は大岡山の三つ岩に立て籠もった
・太郎は鹿を追って金五郎岩に迫り毒矢を放った
・毒矢はあやまたず悪鹿に当たった
・鹿が竜になって金五郎岩に取りすがったところを江熊は次の矢で射止めた
・四方を雲霧が覆い、天地が激しく揺れ動き、悪気に触れて江熊は死んでしまった
・実方、為方はこれを聞いて駆けつけ、悪鹿の死骸を調べて埋めた
・角は落として死骸は田の畦に埋めた
・鹿の姿を写して名目を記して祭礼をし、墨の余りを滝に流した
・鹿は柚の木の下で解体したので、ここでは柚の木が生えない
・村人たちは江熊太郎の霊を金五郎岩に祀った
・また鹿の霊を神に祀った
・鹿大明神は霊験あらたかだったので、悪鹿を改め吉鹿と言う様になった

 形態素解析すると、
名詞:鹿 江熊 岩 八 国 太郎 退治 金五郎 大岡 実方 木 柚 死骸 毒矢 為方 筑紫 藤原 霊 あや ここ こと これ ところ 三つ 下 中 二人 人々 人間 余り 北面 吉鹿 名目 周防 四方 墨 大明神 天地 姿 小倉 山 庄 御代 志賀 悪気 文武天皇 朝廷 村人 次 武士 滝 獣 田 田畑 畔 畦 矢 石見 神 祭礼 竜 角 解体 足 長門 雲霧 霊験 鳥
動詞:いう する 埋める 祀る いる できる とる なる まつ 下る 作る 入る 写す 分け入る 取りすがる 向かう 命じる 射止める 当たる 恐れる 探す 揺れ動く 改める 放つ 死ぬ 流す 生える 立て籠もる 聞く 落とす 覆う 触れる 言う 記す 調べる 迫る 追う 連れる 食う 駆けつける
形容詞:悪い 激しい
形容動詞:あらたか
副詞:なかなか また
接頭辞:悪

 八畔鹿/江熊太郎/藤原実方/藤原為方といった構図です。抽象化すると、妖怪/武士/公家です。八畔鹿―退治―江熊太郎という図式です。また、悪鹿―八畔鹿―吉鹿ともできるでしょうか。

 筑紫の国から石見の国に入った[逃亡]悪鹿[妖怪]を北面の武士の江熊太郎が追った[追跡]。江熊は金五郎岩で悪鹿を射止めた[退治]。が、天地が震動し[鳴動]、悪気が発生[触穢]、江熊は死んでしまった[死亡]。その後、鹿を神として祀ったところ霊験あらたかであった[祭祀]。

 悪鹿を見事射止めた江熊太郎だったが、その悪気に触れて死んでしまった……という内容です。

 発想の飛躍は八畔の鹿自体でしょうか。八足―鹿―(食う)―鳥/獣といった図式です。

 奇鹿神社は七日市と旧柿木村にあります。

◆参考文献
・『日本の民話 34 石見篇』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.346-347.

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