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2022年2月

2022年2月28日 (月)

Amazonで電子書籍をセルフ出版しました その5

AmazonのKDPで拙書「神楽と文芸(各論2):鬼退治」が発売されました。主に石見神楽と芸北神楽の能舞で退治ものを中心にした内容です。価格は250円。アンリミテッド会員なら読み放題です。
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TK1GZ4R/

3/4 17:00から3/7 16:59まで無料キャンペーンを実施しますので、この機会にお求めください。

・はじめに
・滝夜叉姫と如蔵尼
・ぬえと頼政
・鬼が許されない結末――風宮
・八幡と第六天の魔王
・関山
・岩見重太郎と猿神退治
・俵藤太と大百足――三上山
・稲荷山――千箭の悪鬼退治
・快童丸と金太郎――坂田金時と嫗山姥
・戻橋/羅生門
・大江山と伊吹山――酒呑童子
・土蜘蛛(葛城山)
・十羅/日御碕
・9世紀の石見
・(番外編)浦島太郎と神楽
・あとがき

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2022年2月23日 (水)

見学を見合わせる

今日は天皇誕生日。坂戸市で大宮住吉神楽があったが、コロナが落ちついていないので見送った。東京都の感染者がまだ一万人を越えている。オープンエアだから大丈夫そうな気もするのだけど、念のため。

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2022年2月22日 (火)

絶版本がネットで閲覧可能に

国会図書館のサービスで絶版本でデジタル化されたものがネットで閲覧できるようになるとのこと。どういった本が対象になるか分からないが(漫画や商業雑誌は除外されるとのこと)、地方住みの人でも国会図書館を利用できるようになる意義は大きい。

絶版漫画は電子書籍化して売れるから対象から除外してもいいと思うが、雑誌はどうだろう。雑誌も結構デジタル化されているのである。過去の雑誌を読みたいという需要はあると思うが。

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2022年2月20日 (日)

神話学で昔話を読み解く――古川のり子『昔ばなしの謎 あの世とこの世の神話学』

古川のり子『昔ばなしの謎 あの世とこの世の神話学』(角川ソフィア文庫)をよむ。広く知られた昔話を神話学の手法で読み解く本。読んでいると神話と昔話の双方が似たようなモチーフを持つことが指摘される。しかし、昔話の話者が神話に通じていたとも考えにくいので、同じ様な通念があったというところだろうか。

あとがきで「昔話は、神話学、考古学、民俗学、日本文学、心理学など多くの領域で取り扱われることによって、これからも新たな研究成果を生みだしていくことができるだろう。」としている。多少希望のようなものは感じられる。

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2022年2月16日 (水)

やくもが世代交代

特急やくもが24年度に新型車両導入。現行車両は引退。国鉄型特急はJR西ではこれが最後とのこと。

やくもは振り子式の電車で、酔いやすいと言われている。僕自身、子供の頃は酷い車酔いだったが、やくもは何故か平気だった。

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2022年2月13日 (日)

けしからん――しりのないニシ

◆あらすじ

 出雲の国でヤマタノオロチを退治したスサノオ命は石見の国の様子を見るために小浜(こはま)まで来た。

 小浜の近くの笹島(ささじま)には矢を作る際に使う質の良い竹が沢山生えていた。

 スサノオ命は笹島で竹を切って回っていたが、気がつくと潮が満ちていた。

 服が濡れてしまうとスサノオ命は浅瀬づたいに岸の方へ歩いていった。そのうち大波が打ち寄せて、着物の裾を濡らしてしまった。

 岸についたスサノオ命は近くの川で着物を洗うと乾くまで一休みすることにした。砂浜で寝入ってしまった。

 日が沈む頃になってスサノオ命は目を覚ました。今日中に出雲へ帰らないといけないのに、焦ったスサノオ命は干しておいた着物を着ようとした。ところが、風に吹き飛ばされたのか、せっかく干しておいた着物が川の中に浸っていた。

 しまったと思いつつ、着物を引き上げてみると、裾の方にニシ(タニシ)やヒルがびっしり付いていた。

 これはけしからん、立腹したスサノオ命がニシを一つずつ引き離すとニシの尖った尻をねじ切って川の中に捨てた。また、ヒルの口をねじ切って捨てた。

 それからというもの、この辺りのニシは尻尾が切れたようになり、ヒルは人の血を吸わなくなった。

 温泉津(ゆのつ)町の厳島神社の境内に衣更(きさらぎ)神社というお社がある。この社はスサノオ命を祀っていると言われている。

◆余談

 温泉津町の伝説である。この話はどこかで読んだことがあるが、偕成社『島根県の民話』に収録されていたので、追加で収録した。

 私の実家は田んぼを埋め立てた土地に建っているのだが、家の前に溝があって、そこに降りて遊んでいるとヒルが吸い付いていたことがあった。元が田んぼなのでヒルが生き残っていたのだ。

◆参考文献

・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.22-25.

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予知能力――汗かき地蔵

◆あらすじ

 昔、日原(にちはら)の木の口(このくち)の宝泉寺(ほうせんじ)の山門に、背丈が二メートルもある大きな地蔵さまがあった。顔や胸は線香の煙で真っ黒にすすけているが、腰から下の方は白い御影石(みかげいし)で衣のひだもはっきり分かるくらい見事に彫られている。

 ある日、宝泉寺と地蔵さまが脇本(わきもと)へ移ることになった。しかし、地蔵さまは重くて動かすことができない。不思議だと村人は和尚に相談した。

 和尚はお経をあげてお地蔵さまはこの土地が気に入っていらっしゃるようだが、ここは場所が悪いようなので、少し上の方にお移りくださいと地蔵さまに話してみた。

 すると、あれほど重くて動かなかった地蔵さまを軽々と動かし移すことができた。

 この地蔵さまは不思議な力を持つという言い伝えがある。それは村に何か変わったことがある時は、必ず顔に汗をかいて知らされるというものだ。それも首から上だけで大粒の汗がどんどん流れてくるという。

 ある年、村人がお参りしていると、急に地蔵さまの様子が変わってみるみるうちに汗が流れだした。

 村人が一生懸命にお経を唱えると、その内に汗が止まった。後で村人がもの知りに診てもらうと、この先、村に悪い病気が流行るということであった。

 ところが、これを聞いた一人の男がそんな馬鹿なことがあるものか。もしそれが本当なら悪い病を儂(わし)に移してみせよと酒を飲んだ勢いで言ってしまった。

 明くる日、男は朝から起き上がることができず、それから十四、五日も高熱が続きうなされた。地蔵さまが枕元に立たれた。男はこっそり地蔵さまに謝りに行き、こらえてもらった。すると不思議なことに、あれほど高かった熱も下がり、やがて元気になった。

 村人たちはますます地蔵さまを信心するようになった。毎月二十四日には今でも祭りが行われている。

◆余談

 子供の頃は悪い病気が流行ると言われてもピンと来なかった。インフルエンザで高熱を出して嘔吐する事は度々だったが、流行病という意識が無かった。現在はコロナ禍で、悪い流行病は実際にあるのだなと痛感させられている。

◆参考文献

・『夕陽を招く長者 山陰民話語り部シリーズ一』(民話の会「石見」, ハーベスト出版, 2013)pp.122-124.
・『島根の伝説』(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1978)pp.57-60.
・『日本の民話 34 石見篇 第一集第二集』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.372-374

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肉を食ったか食わないか――法師淵

◆あらすじ

 昔、柿木(かきのき)村下須(しもす)の法師淵(ほうしぶち)にお寺があった。その寺に坊さんが一人住んでいた。

 ある時、その坊さんが猟師から何かの肉を貰って食べたという。ところが、それが門徒や信者たちに知れてしまって、坊さんの癖に肉を食うとはとやかましく責めたてられた。

 ところが坊さんは自分は破戒していない。肉食はしていないと言い切った。門徒や信者たちはどうしても承知しない。

 食べた食べないで言い争った末に、坊さんは肉を食べていないことを証拠だてるために、自分が使っている箸を川に流すから、その箸が下流へ順調に流れたら食わなかったことになる。もし、上流へ流れたら、その時は肉食をして戒を破ったことになるので入水自殺をしようという話になった。

 そこで人々は坊さんを川端へ連れていって、石の上から箸を投げた。

 元々、川の水は下へ流れるのが当たり前。ところがどうしたことか、川へ投げられた箸は上へ向かって流れた挙げ句、上の岩に吸い付いてしまった。

 それみろと責め立てられ、坊さんも仕方なく約束どおり死のうと、そのまま岩から身を投げた。その岩は今も「坊主岩」と言われている。そうしていつしかこの淵を「法師淵」と呼ぶようになって、この辺り一帯の地名となった。

 しかし、どうして上へ向かって流れていたか不思議に思うが、よくよく考えたら、これは偶々石の上の処が瀬尻(せじり)で流れが激しい上に、岩が一つ二つあって水が逆流したものなのだ。

◆余談

 ボタン肉、サクラ肉とも言うので、お坊さんたちも実はこっそり肉食していたというような話もあるようだ。お酒は般若湯(はんにゃとう)である。

◆参考文献

・『夕陽を招く長者 山陰民話語り部シリーズ一』(民話の会「石見」, ハーベスト出版, 2013)pp.83-85.
・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)p.121.

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2022年2月12日 (土)

ヤクロシカにゆかりの樹――ケヤキを伐った話

◆あらすじ

 鹿足郡吉賀(よしか)町抜月(ぬくつき)に一本のケヤキの木があった。この木はヤクロウ鹿の骨を埋めた所に生えたもので、伐ってはならないと言い伝えられていた。

 ところが、偉い親方が、あの木が目障りで月和田(つきわだ)が見えない。下の土地に広く陰をするから伐ってしまえと言った。

 そこで木挽(こび)き(木こり)たちが集まって伐りはじめたけれど、明くる朝に行ってみると、伐ったところが元通りになっている。また伐っても明くる朝になれば元通りになっているので、木挽きたちが怖れて、かくかくしかじかなので木を伐ることは止めて下さいと頼んだ。

 すると、親方は見張りを立てさせた。そしてその日もケヤキを伐らせた。夜、見張りが見ていると、白い髪をして白い直垂(ひたたれ)を着た爺さんたちが七人出てきて、何かぶつぶつ言いながらコケラ(木の伐り屑)を拾って引っつけている。それで見張りの者が寂しくなって帰ってしまい、明くる朝見たら木はまた元の様になっていた。

 親方は怒って自分の命令に背くことは認められない。絶対に伐れ。人数をかけてコケラを焼いて木挽きを増やして夜も昼も一時も休まずに手斧(ちょうな)を打ち込めと命令した。

 親方に言われるまま、ケヤキの枝の届かない所までコケラを運んで焼いた。そして三日目に伐り倒した。

 そのとき切り株のところから七人の直垂を着た小人が煙のように出てきて嘆いてどこかへ行ってしまった。

 皆はいよいよ恐ろしくなって身動きが取れなかったが、親方は自分の願いが叶ったと非常に喜んだ。

 ところが、コケラを焼いた人が夜見たら、七人の小人たちがコケラの灰を掬ってはかき回して嘆いている。

 許してつかあさいと言って焼いた人が家の中へ転げ込んだが、それきり具合が悪くなり血を吐いて死んでしまった。

 そして、それから雨が長く降り、上がってから見たら、切り株に芽が一尺くらいも伸びていた。

 木挽きに携わった人はよその村からも集めて三十人くらいいたけれども、皆気がおかしくなったり、苦しんで死んでしまった。

 そして命令した親方は夜も昼も、熱い熱い。わしを冷やせと言って水を飲ませると水が煮え湯のようになり、どうしても冷えなくて七日七夜も苦しむので、年寄りが心配して灰のところでお経をあげ、切り株へは御幣を立ててお祀りした。しかし、親方は熱い熱いと言いながらとうとう死んでしまった。しかも、身は燃えさしのように黒くなっていた。

 だから、いくら権力があっても人がいけないと思ったときにはしてはいけない。お天道さまをまっすぐに見られるように生活しなければならないのだ。

◆余談

 この伝説のケヤキの木はヤクロウ鹿の骨を埋めたところに生えたものだとある。ヤクロウ鹿は八畦(やつぐろ)の鹿とも呼ばれ、過去に吉賀町周辺を荒らし回った悪鹿である。朝廷から武士が派遣され退治されたが、その霊を神として祀ったところ霊験あらたかで良い鹿から吉賀となったという地名説話がある。

◆参考文献

・『夕陽を招く長者 山陰民話語り部シリーズ一』(民話の会「石見」、ハーベスト出版, 2013)pp.96-99.
・『六日市町史 第一巻』(六日市町/編, 六日市町教育委員会, 1981)pp.324-328.
・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.121-122.

ヤクロシカの記事はこちら

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2022年2月11日 (金)

底なしの田――おしも田

◆あらすじ

 昔、今の鹿足(かのあし)郡六日市(むいかいち)町田野原(たのはら)に一枚の田んぼの広さが八丁八反(約一平方キロメートル)もある広い田があった。この田は元々大蛇が池という大きな池だったが、水を抜いて田にしたのだ。

 そのため、底が深く、田植えのときには田下駄(たげた)を履いたり田舟(たぶね)に乗って植えていた。また、田の境には木や竹を立てて目印にしていた。

 ある年のこと、この地方にも田植えをする時期がやってきた。

 おしもは村で評判の働き者だった。この日も朝早くから起き出して独りでこの広い田んぼの田植えをしていた。

 そのとき、朝焼けの空が急に曇ると大粒の雨が降り出してきた。だが、おしもは手を休めず田植えを続けていた。そして、あと一息というところで、どうしたことか、足をとられて、あお向けに倒れてしまった。

 もがけばもがくほど身体は泥沼の様な田んぼに沈んでいく。助けを求めようにも人はいなかった。おしもは遂に底深く沈んでしまった。

 おしもの着ていた蓑(みの)が浮いているのを見て村人たちは騒いだが、遅かった。村中の人達が集まっておしもを弔った。それからこの広い田をおしも田と呼んだ。

◆余談

 山口県の徳佐盆地はもともと湖だったのが、水が抜けて平野になったと聞く。地図で調べてみると、田野原は中国道沿線付近となる。

◆参考文献

・『島根の伝説』(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1978)p.102.
・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.59-60.
・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.122-123.

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2022年2月10日 (木)

殿を撃つ――鉄砲の名人又市

◆あらすじ

 いまから百二、三十年前(二〇二〇年代では百六、七十年前)、江戸時代の末期である。日原(にちはら)の畳(たたみ)に又市(またいち)という男がいた。百姓のせがれであったが、鉄砲が上手く、本職の猟師でさえ鳥一羽獲れぬ日でも又市は山鳥の二、三羽は仕留めてきた。

 どうしてそんなに獲れるのか仲間が尋ねると「風と足じゃいね」とだけ答えるのだった。

 又市の評判はやがて津和野藩主亀井公の耳に入った。そこ頃は日本中が幕府につくか天皇を立てるか二つに分かれて騒がしかった。津和野藩でも鉄砲の上手な者がいれば身分に関係なくかり集めていた。

 又市を連れてこいという言い付けが畳の庄屋に届いた。又市は早速津和野にでかけた。

 今日から三日の間に鳥を百羽とって持ってこい。そうすれば武士に取り立ててやろうという亀井公の仰せだった。

 又市はすぐに益田の横田へ向かった。高津川の西岸に広がる葦原(あしはら)は鳥のねぐらであることを知っていたからである。

 横田について二日めに百羽の鳥を獲ってしまった又市はその日の内に城に持っていった。

 よくぞ獲ってきた。疑う訳ではないが、その腕前を余の前で見せよと亀井公は命じられた。小姓が一本の針をつきたてた針山を三方(さんぽう)に載せて持ってきた。

 この針の穴を十間(約十八メートル)離れたところから打ち抜けと命じられた又市は鉄砲を撃った。針の穴は見事に撃ち抜かれていた。又市はその場で武士に召し抱えられた。

 それから数年が過ぎた。正月の注連飾りがもう少しで取れる日に亀井公は又市を召し出した。久しく腕を見ていないと言うのである。

 亀井公は袂(たもと)から橙(だいだい)を取り出すと、頭の上に載せ、見事撃ち落としてみせよと命じた。

 さすがの又市も驚いた。打ち損じたら殿の命はない。その時は自分の命もないだろう。しかし、主人の命令なので断る訳にいかなかった。

 中庭の中ほどに橙を頭に載せた亀井公が立った。又市は神仏に祈ると撃った。ズドーンと大きな音がした。弾は見事に橙を貫いていた。それを見た又市は膝を折って両手をついた。暇を頂きたいと言うのである。

 亀井公はそんな又市を見て余が悪かった。もう二度とこんなことはさせぬ。どうかいままで通り、余に仕えてくれと謝った。

 津和野藩の鉄砲組が百歩離れたところから標的を撃って技を競った。一番成績の良かった者はその標的に自分の名前を入れ額にして弥栄(やさか)神社に奉納することを許された。

 万延(まんえん)元年(一八六〇年)に奉納された額には水津又市阿成(すいづまたいちむねなり)という名が記されている。この人物が又市であろうと言われているが、本当の事はよく分かっていない。

◆余談

 ウィリアム・テルの伝説を思わせる内容である。津和野藩自体は長州と通じ合っていて戦うことはなかったのだが、鉄砲名人の伝説が残されている訳である。

◆参考文献

・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.106-111.

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2022年2月 9日 (水)

妾を妬む――小沙夜淵

◆あらすじ

 匹見(ひきみ)の小虫(こむし)に住んでいた斎藤家は七百年以上続いた旧家であるが、その十二代の斎藤治朗左衛門(じろうざえもん)が長者を務めていた時代のこと。

 治朗左衛門は近くから、お楽という人を妻として迎えた。夫婦仲はよく、周りから羨ましがられていたが、跡継ぎが生まれなかった。

 そこでお楽は治朗左衛門と相談して、小沙夜(おさよ)を妾(めかけ)として同居することになった。

 やがて小沙夜に待ち望んだ子供が生まれた。治朗左衛門の愛情は子供を通して自ずと小沙夜に移っていった。そのため、お楽は小沙夜を妬む気持ちが芽生えてきた。悶々とした日々が続き、終いには小沙夜を亡きものにしようと思うようになった。

 ある日、お楽と小沙夜は匹見川の渓谷に遊びに出かけた。小沙夜が淵の水しぶきを眺めていた時、お楽はここぞとばかりに短剣で小沙夜を刺し、すかさず淵に突き落とした。すると小沙夜は激流の中に消えていった。このとき、淵が小沙夜の鮮血で一面朱(あけ)に染まったので、この淵を赤淵と呼ぶようになった。

 良心の呵責にさいなまれたお楽には、その後平穏な日は一日も無かった。ついに錯乱したお楽は赤淵に身を投げた。と、見る間にお楽の姿は竜に変わり、火炎を岸壁に吹きつけて縦につんざき、女陰の形を残して昇天した。後世、この岸壁からたぎり出る水をお楽の滝と呼ぶようになった。

 二人の妻妾を失った治朗左衛門は沈んでいたが、遂に発心して懺悔のため諸国行脚に出かけた。やがて身をはかなんで近くの淵に身を投げて二人の跡を追った。この淵を治朗左衛門淵と呼ぶようになった。

 お楽は昇天の際、火炎を吹きつけて作ったという岸壁の縦皺は世に弁天様と称し、性病にご利益があるとして人々の信仰を集めた。

◆邑智郡の伝説

 邑智郡大和(だいわ)村(現・美郷[みさと町]字村之郷(むらのごう)の角谷(つのたに)川と宮内(みやうち)川との合流地点に蟠竜峡(ばんりゅうきょう)がある。

 付近を治める小笠原氏の家臣に玄太夫宗利(げんだゆうむねとし)という若いが武術に優れた軍師がいた。宗利は女断ちを信条としていたが、主君の小笠原長親(ながちか)は足利軍の撃退に功績があった宗利に愛娘をめとらせた。

 長親の娘は容色に優れていて、宗利は妻を愛したが、数年後、疫病にかかった妻は醜女(しこめ)となってしまった。その様なことがあって、宗利は美しい女中に心を奪われるようになってしまった。

 女中を疎んじた妻は一計を案じた。妻は宗利を誘い、女中を連れて蟠竜峡の遊山を楽しんだ。明鏡台(めいきょうだい)と呼ばれる岩頭で休憩中、妻は女中を下の淵に落とそうと背後から忍び寄った。

 それとは知らずに鬢(びん)のほつれを直そうと手鏡を取り出した女中は、鏡の中に嫉妬の形相で迫り来る奥方を認めた。一瞬、全てを悟った女中は死なばもろともと奥方の着物をつかんだ。二人はそのまま谷底に転落していった。驚いて駆け寄った宗利は二人が竜と化して争いながら落ちていくのを見た。

 涙にくれた宗利は蟇田(がまた)まで帰ると二人を悼んで自害してしまった。二人を呑んだ淵を鏡ヶ淵と呼ぶ。

 宗利の自害した一帯を宗利原といい、宗利の墓もそこにあるが、何度建て直しても常に蟠竜峡の方を向くと伝えられている。

◆余談

 邑智郡の伝説に似たようなあらすじの伝説があった。それは妻が妾を岸壁から突き落とそうとして、妾が妻の袂を掴んで共に落下したという筋立てになっている……と思っていたら角川書店『出雲・石見の伝説』に載っていた。見落としていた。

 旧大和村は美郷町に編入されたようだが、位置関係がよく把握できない。川本町から美郷町に向かう道は江川沿いなのだが、ジャスト一車線ですれ違いできない細い道なのである。何度も通りたい道ではない。むしろ大田市から行った方がよさそうだ。

 小笠原長親は石見小笠原氏の初代である。私が小学生の時の担任に小笠原先生がいて実家が江津のお寺さんだったが、戦争に敗れて仏門に入ったということを又聞きであるが聞いたことがある。

 「小沙夜淵」は宗近の伝説とほぼ同じ話型と言っていいだろう。宗近の伝説は十三世紀末の話とされているから、宗近の伝説の方が先にあったのだろう。それが伝播して匹見町で別の伝説として語られるようになったというところだろうか。

◆参考文献

・『夕陽を招く長者 山陰民話語り部シリーズ一』(民話の会「石見」, ハーベスト出版, 2013)pp.90-91.
・『出雲・石見の伝説 日本の伝説 48』(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.87-88.
・『日本の民話 34 石見篇』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.99-100.

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2022年2月 8日 (火)

米を貰ったばかりに――舟かずきの墓

◆あらすじ

 今から三百年ほど前(二〇二〇年代では三百四十年前)、蛇の久保(じゃのくぼ)に以下のような話が伝わっている。

 蛇の久保は山に囲まれていて、元々作物が獲れる土地ではなかった。ところで、その年はどうしたものか、夏になっても雨が降らず、ときには急に冷えてきて、とりわけ作物が獲れなかった。殊に米は田植えをするときに雨が降らなかったので一粒も獲れないと言ってよい程だった。

 だが、米は毎年決められたように藩に納めなければならなかった。食べる米さえ無いのに納めなくてはならない。百姓たちは困り果てた。

 相談した百姓たちは庄屋に頼んで藩の米を分けてもらう事にした。百姓たちの代表は何度も庄屋に頼んだ。百姓たちの厳しい暮らしを知っていた庄屋は決心して代官に願いに行くことにした。

 代官はまかりならんと断ったが、庄屋は引き下がらなかった。命さえあれば、来年はきっと米を納めると。

 代官は了承したが、美濃(みの)郡一帯が飢饉だから分け前は多くはなかった。

 モミ八斗が貸し与えられた。さっそくモミすりが始まった。誰も長い間米を食べてなかったから、モミすりが始まるが早いか、モミ殻をふいて生米をかじり出した。そのため、分け前の米が段々少なくなっていった。

 この様子をじっと眺めている彦兵衛という老人がいた。飢えのため骨と皮のようになっていた。老人を見た百姓の一人が一握りの米を手ぬぐいに包んでそっと渡した。

 老人が米を貰って帰ろうとすると、分配係の役人が来た。米を見ると、思ったより米が少ない。これは一体どうしたことか。誰か米を盗んだ者がいるのかとなった。

 誰も返事をしないので一人ずつ調べることになった。すると、米を入れた手ぬぐいを腰につけている老人に気がついた。不届きな奴だと老人は代官所の牢屋に入れられてしまた。そこで惨たらしい取り調べを受けた。弱った身体で折檻を受けたので、老人はとうとう死んでしまった。

 あとに残った百姓たちは、こんなことになるなら米をやらねばよかったと老人を哀れんだ。村人たちは老人を丁寧に弔った。

 庄屋が老人はきっと恨んで死んだだろう、あの世でせめて浮かばれるように水舟を被せてやろうと言った。そこで老人の棺の上に木をくり抜いて水をためる水舟を被せることにした。

 それからというもの、彦兵衛の墓を「舟かずきの墓」と呼ぶようになった(かずくは頭に乗せる、被るという意味)。今では立派な石碑を建て、二度とこんな飢饉が無いように老人の霊を祀っている。

◆余談

 大学のときの日本史概論で大飢饉は日本が三百諸国に分かれていたため流通の問題が背景にあったと教わった。江戸時代は気候が寒冷だったととも言うので、不順な天候が背景にあるのかもしれない。

◆参考文献

・『島根の伝説』(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1978)pp.116-121.

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2022年2月 7日 (月)

今日こそ勝つぞ――碁うち天狗

◆あらすじ

 匹見(ひきみ)川を遡って、しばらく行くと、平らな碁盤のような形の岩山がある。この辺りの人はこれを碁盤岳(ごばんだけ)と呼んでいる。また、川の東側の岩山を大天狗(おおてんぐ)、右側の岩山を小天狗(こてんぐ)と言っている。これは昔、大天狗には大天狗様が、小天狗には小天狗様が住んでいたからだ。

 どちらの天狗もこの碁盤岳へ来て、碁を打って遊んでいた。

 碁盤岳の下を流れる匹見川は鮎(あゆ)の獲れる川として有名だった。特に急流で鍛えられた鮎は碁盤のアユと言われ、特別の味であった。

 だが、この辺りは道らしい道はなく、鮎を獲りに行くのは大変なことだった。危ない所ではあったが、村人たちは、この素晴らしい鮎に惹かれて季節になると必ず獲りに来るのである。

 碁盤岳というのは碁盤岩があるから名がついたのである。大天狗の頂上近くに四角い大きな岩が乗りかかっている。遠くから見るとその岩は縦や横に筋が入っていて、ちょうど大きな碁盤の様に見える。これは大天狗様の碁盤である。碁の好きな小天狗様は毎晩のように大天狗様のところに遊びに行っては碁を打っていた。

 大きな碁盤を挟んで大天狗様と小天狗様の碁が始まった。パチリ、パチリと音がする。真夜中を過ぎたとこで勝負あった。また大天狗様が勝ったのである。大天狗様は大笑する。小天狗様は赤い顔を一層赤くして、もう二度と来ない、憶えておけとぷんぷんして帰っていく。

 今夜こそは勝ってやろうと思っていただけに腹立たしく、あたりの岩を力任せに蹴り上げたり、大きな岩をちぎって投げたり、さんざん暴れて小天狗の方へ帰って行くのである。

 ちょうどその頃、匹見の男が鮎を獲っていると、突然もの凄い音がした。男は何事かと暗闇をすかして見上げたが、何も分からなかった。続いて岩が崩れる音がするので、慌てて岩陰に身を隠したが小石一つ落ちてこない。

 あとになって、あの大きな音は小天狗様が碁に負けて、暴れて帰ったのだろうと村人たちは噂した。岩のくずれる音や、石が転がる音がしても一つも落ちてこないのは碁盤岳の上が平らで広いためだろうということになった。

 今でも夜に鮎を釣りに行くと大きな音がするという。やはり小天狗様が負けて帰られるところだろう。

◆余談

 高校二年生の頃、学校のクラブ活動で囲碁クラブに所属していたが、全くの初心者で何も分かっておらず負けてばかりだった。叔父は有段者で囲碁が強いのだが。

◆参考文献

・『島根の伝説』(島根県小・中学校国語教育研究会/編、日本標準、一九七八)三七―四一頁。

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2022年2月 6日 (日)

雪に閉じ込められる――なれあい観音

◆あらすじ

 昔、匹見(ひきみ)町伊源谷の奥に高くそびえている安蔵寺山(あぞうじやま)に禅寺があった。そこで和尚が修行をしていた。

 ある年の冬、雪が降り積もり、寺は雪に閉じ込められてしまった。とうとう食物がなくなったが、何せ高い山から大雪の中を麓の里へ下りることはできない。和尚はもう飢え死にするしかないと覚悟を決めていた。

 そうして何日も物を食べることができず弱り切った身体を休めていたところ、和尚の前に突然一頭の鹿が現れた。

 和尚は鹿に向かって、自分はもう長いこと何も食べていない。済まないがお前の腿(もも)の肉を少し食べさせてもらえないかと言った。すると、鹿はこくりと頷いた。

 和尚は喜んで南無阿弥陀仏と唱えながら鹿の腿肉をもらい、それを煮て食べた。それでようやく命を繋ぐことができた。

 春になって伊源谷辺りでは雪が解けた。その頃になると寺参りの人たちが麓の方から沢山やってきた。

 村の人たちは長い雪の下で和尚さまはさぞかし困っているだろうと思って色々な食べ物を持ってきた。ところが和尚はことのほか元気だった。和尚は鹿の肉を食べて元気であったことを話した。
 皆もひとつその鹿の肉を食べてみないかねと言って戸棚から出してきたものを見ると、鹿の肉はいつの間にか、こけら(木の皮)になってしまっていた。

 和尚はびっくりして、ご本尊の観音さまの前に行って拝んだ。ところが不思議なことに観音さまの腿が切り取られていたようになっていて、そこから血がたらたらと流れていた。

 あの鹿は観音さまだったのか、和尚はそのことに気づいて、余りのもったいなさに涙を流しながら震える手で、はよう、よう、なれあい(早くよくなってください)、なれあい、なれあいと唱えながら、観音さまの腿をさすると、元通りになった。それからは、なれあい観音といって祀られた。

◆余談

 匹見町は今は益田市に編入されているが、行ったことはない。島根県西部にして雪深い地域であると聞く。山葵(わさび)が名産である。

 安蔵寺山は県境に接しない山としては島根県最高峰とのことである。

◆参考文献

・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.159-161.
・「島根のむかし話」(島根県小・中学校国語教育研究会/編著, 日本標準, 1976)pp.227-229.
・『日本の民話 34 石見篇 第一集第二集』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.352-353

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2022年2月 5日 (土)

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ハウツーものは初めてなので、売れ行きがどれだけ違うか興味深いです。

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2022年2月 4日 (金)

山伏、鳴神と戦う――うどうど墓

◆あらすじ

 昔、遠田(とおだ)に三五郎(さんごろう)という百姓のせがれがいた。小さいときから身体が大きく力が強かった。家は貧しかったが、真面目に働いていた。

 ところが、ある日の事、仕事先から帰った三五郎は自分はもっと人の為になるようなことがしたいと言い出した。三五郎の父はそんな大口は叩くものではないと諫めたが、三五郎は百姓は大雨が降ると困る。日照りが続いても困る。なんとかならんものかと思うと答えた。

 三五郎は山伏になろうと考えた。山伏になれば不思議な力が授かるという。そうすれば困っている人を助けることができると決めた。

 こっそり家を出た三五郎は別所権現(べっしょごんげん)の森に籠もって修行を始めた。

 厳しい修行が三年続いた。ある秋のこと。この年、益田地方には毎日のように鳴神(なるかみ:かみなり)が荒れ狂い、雨が降り続けた。水が溢れて田畑を押し流し、稲の苗も種ものもみな腐ってしまった。

 三五郎はこんなときこそ百姓たちを救ってやりたかった。だが、今は未だ修行中で鳴神を倒せる力はない。悔しいがどうすることもできなかった。

 やがて、権現さまの秋祭りがやって来た。今年は作物の出来が悪かったので水鳥をお供えした。腹がすいていた三五郎は思わず食べてしまった。

 すると、山伏になろうとする者が腹が減ったからといって、お供えものに手を出すとは何事かという権現さまの声がして三五郎は社を追い出されてしまった。

 自分が悪かった。かくなる上はせめてもの償いになんとしてでも鳴神を倒し長雨を止めさせると三五郎は誓った。

 三五郎は原ヶ溢(はらがえき)と呼ばれる森の中に腰を下ろしていた。すると、天の一角から真っ黒な雲が近づいてきたかと思うと、三五郎の上でぴたりと止まった。そして雲の中から、山伏の姿の者、我は鳴神である。我が森に何をしに来たかという声が響いた。

 三五郎は長雨を止めさせなければ鳴神を退治すると言い返した。三五郎を嘲笑った鳴神は火の玉となって三五郎にぶつかって来た。三五郎は手にした錫杖(鉄の杖)で受け止めた。

 火花が散り、辺りは一瞬、真昼のように明るくなった。次の瞬間、物凄い音と共に三五郎の身体は十間(約十八メートル)も投げ飛ばされていた。

 森の方から聞こえた物凄い音に村人たちは何事かと駆けつけて来た。

 見ると、山伏姿の三五郎が死んでおり、近くには大きな穴がぽっかりと開いていた。三五郎の体内を駆け巡った鳴神が地中深く潜った跡であった。

 三五郎の顔にはかすかな笑いが浮かんでいた。鳴神を退治した手ごたえを感じていたのである。

 それから後、長雨はぴたりと止んだ。久しぶりのお日さまに田畑の作物も息を吹き返した。

 村人たちは三五郎が倒れていた場所に石の塚を建てて村の恩人として祀った。後に森は切り開かれ、広い田に変わったが、その田はいまも三五郎田と呼ばれている。

 この辺りには鴨や山鳥がよく飛んでくる。が、鳥を撃とうとすると、どこからか「うどうど、うどうど……」と囁くような声がして、鳥は逃げてしまうという。

 きっと塚の中の三五郎が権現さまにお供えした水鳥を喰ってしまった申し訳なさから今でも水鳥たちを守っているのだろう。それで三五郎の塚のことをいつしか「うどうど墓」と呼ぶようになった。

◆余談

 遠田八幡宮にはお参りしたことがありますが、別所権現はどこなのか分かりません。遠田周辺は開けて田んぼになっていますが、昔に開拓されたということでしょう。

◆参考文献

・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.64-72.

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2022年2月 3日 (木)

水のましょ――おまんが淵

◆あらすじ

 昔、弥栄(やさか)村の山賀(やまが)に畑の城という長者があった。山賀は山深い里で、田畑は全て山を切り開いて作った段々畑だった。なので、土を耕すにも肥やしを運ぶのにも全て牛に頼らねばならなかった。牛は財産であると同時に無くてはならない働き手であった。

 畑の城の長者の家にも沢山の牛がいた。その牛たちに一日三回水をやるのは下女のおまんの役目であった。

 ところが、年の若いおまんはこの仕事が嫌で嫌でたまらなかった。仕事熱心だが、どうした訳か牛が大嫌いだった。それでも長者のいいつけだから仕方がない。おまんは我慢しながら毎日牛に水をやっていた。

 そんなある夏の日のこと。その日は朝から大変な暑さだった。いつものようにおまんが水桶を持って牛小屋に近づくと、牛たちはよほど喉が渇いていたのか、モオーと鳴き騒いだ。牛たちは喜んでいたのだが、いつもと違う騒がしさにおまんは思わず立ちすくんでしまった。おまんは怖くてそれ以上牛に近づけなかった。

 おまんは一間(約1.8メートル)離れたところから水おけを放り投げてしまった。牛たちは首を伸ばして水を飲もうとしたが届かない。一層鳴き騒いだ。

 そのとき一番大きな牛が柵を壊して逃げ去った。おまんの叫びで下男たちが牛を追った。

 逃げ出した牛は鬼戸(きど)川の淵に着くと水を飲み出した。ところが牛の前足が水ごけで滑った。牛は淵の中に落ちてしまった。深い淵に牛は沈んでしまった。

 その頃、畑の城の屋敷では座り込んでいたおまんがいきなり手桶を持って立ち上がった。「水のましょ。水のましょ。腹一杯水のましょ」と言いながら牛小屋と家の間を行ったり来たりしはじめた。

 長者が怒鳴ってもうつろな目で水のましょと行ったり来たりする。家の者は無理矢理おまんを部屋に連れていって休ませた。すると、おまんは死んだ様に眠ってしまった。

 それから三日目の晩のこと。眠り続けていたおまんがいきなり立ち上がった。仲間の下女が声をかけると、おまんは「おまん、水くれんかいなあ」と自分を呼んでいると答えた。下女達は数人がかりでおまんを押さえつけ寝かしつけた。

 そんなことが毎晩続いたので下女たちは疲れ切ってしまった。その夜もおまんは飛び起きたが、女たちは寝入っていて誰も気づかなかった。おまんは自分の持っている一番立派な着物を着て鬼戸川に向かった。そして牛が沈んだ淵に近づくと「水のましょ。水のましょ。腹一杯水のましょ」と歌うように叫んで淵に身を躍らせてしまった。それから、この淵はおまんが淵と呼ばれるようになった。

 今でも真夏のカンカン照りの日には淵の中から「おまんよ、おまん。水くれんかいなあ」という声が聞こえてくるという。

◆余談

 昔、牛肉の輸入自由化される前だと思いますが、近所でも牛を飼っている家がありました。ある日、普段と道を変え下校していますと、数十メートル離れた先に牛が放し飼いにされていました。それを見た私は身がすくみ上がってしまったのです。恐怖を感じる閾値が低いのです。牛だから噛みつくこともないのですが、怖々とその場を離れました。

◆参考文献

・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.123-128.

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2022年2月 2日 (水)

Kindleアンリミテッドに加入する

Kindle Unlimitedに加入する。Kindleストアで売られている電子書籍出版のハウツー本は玉石混淆で値段なりの価値があるか判断しづらいのだ。ひと月に2~3冊読めば元がとれるから、しばらく試してみる。

Kindle Unlimitedで電子書籍関連の本を幾つか読むが、まさに粗製乱造状態。質を考慮せず、とにかく新刊を出せという本もあったりして、金を払ってまで読むものではない。

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皆殺し――山谷のお延

◆あらすじ

 いまからおよそ四百年ほど昔(二〇二〇年代では四四〇年前)、戦国時代で日本中が乱れ、野盗や海賊がはびこっていた。石見では大蛇丸(おろちまる)という海賊の頭(かしら)が勢力を誇っていた。

 その頃、西山谷(にしやまたに)の里にお延(おのぶ)という娘がいた。十七歳で器量もよく評判の娘であった。

 ところが、その評判が大蛇丸の耳に入ってしまった。大蛇丸はお延を自分の嫁にすると勝手に決めてしまった。

 その年の秋祭りに近いある日のこと、二人の男がお延の家へ大蛇丸からお延への贈り物だと酒樽を担いでやってきた。大蛇丸とは誰かとお延が尋ねると、いずれ分かると言い残して帰っていった。

 夕方、浜から帰って来たお延の母は大蛇丸とは海賊の頭(かしら)だと飛び上がって驚いた。お延も驚いた。二人は考えた末、村長のところへ相談に行った。

 それはお延を嫁に寄こせという意味だと答えた村長はお延を隠すことにした。お延は村の東一里ほどにある島津屋(しまづや)という丘にある洞穴に隠れることになった。

 祭りの日になった。沖に泊まっていた船から一艘の小舟が降ろされ、山谷の浦めざしてやってきた。舟には大蛇丸が乗っていた。

 大蛇丸はお延の家にやってきた。お延の母は家にいないと答えると大蛇丸たちは家捜しをはじめた。お延の母は村長を呼んだ。大蛇丸はお延を隠したのは村長の差し金だなと言ってお延を出さねば西山谷の里を焼き払うぞと脅した。村中の家を探したがお延はいない。浜の網小屋や船の中まで調べたが、お延は見つからない。

 近くの村を探せと命じた大蛇丸が島津屋までやってくると、大蛇丸の刀の鍔に彫り込んである金のニワトリが鳴いた。ニワトリが鳴くと思いが叶うのだ。

 まもなく手下の一人が洞穴を見つけた。大蛇丸が入って見るとお延がいた。だが、お延は舌をかみ切って死んでいた。大蛇丸は怒り狂った。

 西山谷の里に戻った海賊たちは家中に火をつけ逃げ惑う村人たちを手当たり次第に殺した。

 島津屋の小高い丘の畑にお延の墓といわれる石が一つある。また、里人たちの亡骸を葬った谷は死人谷(しびとだに)と呼ばれている。

 お延が死んだ後、この里の沖を通る船が訳もなく動かなくなることがあった。人々はお延の魂が、むごい仕打ちをした大蛇丸に祟ろうと、船を止めて探しているのだと噂し合った。

 漁師たちはお延の魂を慰めるために、西山谷の山上に美延(みのぶ)神社を建てて祀った。

◆余談

 大田市朝山(あさやま)町の伝説です。朝山町では朝倉彦命神社にお参りしたことがありますが、海岸沿いの地域は未訪問です。美延神社という手がかりがありますので、検索しましたがヒットしませんでした。地図で確認すると、朝倉彦命神社の先に神社があるのが確認できました。そこかも知れません。

◆参考文献

・『島根県の民話 県別ふるさとの民話(オンデマンド版)』(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)pp.57-63.

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2022年2月 1日 (火)

金色の魚――文次郎つり場

◆あらすじ

 邇摩(にま)郡(現・大田市)仁摩町の仁万川(にまがわ)が日本海に流れ込む東の方の岩場を「文次郎つり場」と呼んでいる。ここは夏、冬を問わず一年中魚がよく釣れる所である。

 ずっと昔のこと。文次郎という仁万一番の釣り好きの男がいた。文次郎は坂灘(さかなだ)の東のこの辺りが一番好きで、他の者が一匹も釣れないときでも、毎日必ずと言ってよい程魚を沢山釣った。

 秋雨の降るある日のこと。この日はいつもよりよく釣れた。その中に鱗が金色に光る大きな魚が一匹いた。形は鯛に似ているが鯛ではなかった。

 今まで見たこともない魚が釣れたものだと文次郎は家に帰って料理した。食べてみると、美しい色に似合わずまずくて食べられない。家の者にも勧めたが気味悪がって食べなかった。仕方がないので骨も身もみな捨ててしまった。

 翌日、文次郎の家の戸が開かないので近くの人が開けてみると、つり道具はいつもの場所にあるのに文次郎がいない。あちこち探してみたが見当たらない。村中大騒ぎになった。

 三日目の夜、雨は相変わらず降っていた。探し疲れた村人たちが文次郎の家に集まり、探し続けるか止めるか相談していた。すると、そのとき、ホトホトと戸を叩く者がいる、戸を開けてみると文次郎が立っている。どこに行っていたのか村人たちが尋ねても文次郎はただ黙っているだけだった。ただ唇をわなわな震わせるだけである。おかしなことだと誰もが思った。

 文次郎の手を引いて家の中に入れようとすると、酷い熱である。すぐ布団をかけて寝させた。不思議なことに外は雨が降っているのに文次郎の着物は一つも濡れていない。村人たちは気味悪がった。

 四日目の夜、文次郎は急に起き上がって、ふらふらと表に出た。驚いた家の者が跡を追ったが、暗闇に溶け込むように消えてしまった。

 文次郎の死体が岩場の渦巻きにもまれて見つかったのは、そのあくる日の夕方だった。両目がえぐり取られ、身体のあちこちは何ものかに食いちぎられていた。どうしてこんな惨いことになったのか、とうとう分からず仕舞いだった。家の者や事情を知っている者は金の魚の祟りだろうと言って悲しんだ。

 それからというもの、文次郎が釣りをしていた辺りの岩場を「文次郎つり場」と呼ぶようになった。今でもこの場所は魚がよく釣れ、釣り人が集まる場所である。

◆余談

 仁摩町には神楽岡八幡宮にお参りしたことがあるが海の写真は撮っていなかった。仁万川は見たことがないので、文次郎つり場がどの辺りなのか、現状では分からない。

◆参考文献

・『島根の伝説』(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1978)pp.21-24.
・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.72-74.

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