中村茂子「奥三河の花祭り 明治以後の変遷と継承」(岩田書院)を読む。タイトル通り、奥三河の花祭りの明治維新以後の変遷を取り上げた論考集。明治維新後の神仏判然令で花祭も多大な影響を受けたことが語られる。
早川孝太郎が奥三河のフィールドワークをしていた時代には、明治期の変革について事情を記憶する人が残っていたらしいが、早川はそれについてはあまり書き残していないのだとか。
花祭は神道花と仏花とに二分されるとのこと。この内、神道花が神仏判然令以降に神道流の改訂が行われたものとなる。仏教的な段が天の岩戸神話や大蛇退治、また天孫降臨の猿田彦命に改変されたのである。地元の神職らによって改訂が進められたのだけど、中には改訂を拒否する地区もあったとのことである。
事例として「花のほんげん(本元)」「花のほんげ(本華)」「花の次第」が挙げられる。花のほんげんは大神楽や花祭の根本精神とでも呼ぶものであって、「この祭文の詞章内容は、一度でも大神楽や花祭りに参詣して、花の御串を寄進したことがあるすべての者は、恐ろしい三途の川を無事に渡り、閻魔大王や浄玻璃(じょうはり)の鏡を無事に通過して、極楽浄土の曼荼羅堂へ納まることができ、御仏の手にゆだねられるというものである。」(37P)という重要な祭文であった。この祭文が神仏判然令以降は読み上げられなくなっていった。昭和十年代まで読み上げていた地域もあったとのことである。仏花の地域では戦時中も戦死者の極楽往生を願って読み上げられていたとのことである。
また、花祭はしばしば警察の干渉を受けたが、呪術的儀礼を排除することで祭りの存続を保証したとのことである。呪術的とは神がかりになる段のことだろう。
奥三河は明治維新後、幾らかの曲折を経て林業を振興するようになっていたが、戦後、林業が衰え、またダム建設で集落が水没する等もあり、過疎化が進行、祭りが廃絶していったとしている。
興味深かったのは、マサカリを持った榊鬼の解釈について、山を切り開いた土地に住民が住み着くことを祭りの実行を条件に山見鬼が許すというものである。正確には「山見鬼の鉞(マサカリ)による呪法(山の神が支配する土地に人々が山を切り開いて暮らすことを、祭りの実行を条件に許可する意味を持つ)」(44P)というものである。
著者は花祭り研究者の武井正弘の死についても触れている。武井は東京大学法学部を卒業したが、法律には興味を抱けなかったらしく、編集者として活動後、四十代になってから花祭りの研究に身を投じている。武井は残された資料から花祭りや大神楽の全貌を描き出すことに専念していたが、志半ばで亡くなってしまった。武井の死で花祭り研究は打撃を受けた。