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2021年6月

2021年6月23日 (水)

フレンチセオリーの概論書――岡本裕一朗「フランス現代思想史」

岡本裕一朗「フランス現代思想史」(中公新書)を読む。実存主義は対象外とされているが、それ以降のレヴィ=ストロースに始まる構造主義からポスト構造主義、ポスト構造主義以降の現代思想の概略が示される。

冒頭でソーカル事件について触れている。数式をしばしば援用するのだが、比喩に過ぎず無意味であると看破された事件である。確かに文体の実例として引用された箇所は何を言わんとしているのか理解しかねた。そういう文体だということらしいが。

大学生のときに当時流行っていたニューアカデミズムに触れて、その一端をかじった。法学部だったので法社会学の講義だったが、本国フランスでは既に退潮が始まっていたというのが興味深い。構造主義については橋爪大三郎氏の入門書を読んだことがあるが、構造主義からポスト構造主義に至る過程が読めて勉強になった。

ポストポスト構造主義だけど、共産主義については現在中国の台頭もあり、終わったものとすることはできないだろう。どうなるか不透明だけど、傍観する他ない。

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2021年6月20日 (日)

休筆中だが

神楽の絵日記という神楽ブログを読む。芸北神楽メインに石見神楽少々。管理人のツナ缶さんは漫画家らしい。一般客の目線で書いているので、メモしておこうというのはないけれども、神楽を楽しんでいるのが伝わって来る。残念ながら、現在は休筆中である。

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多義的な読み解き方――廣野由美子『批評理論入門 「フランケンシュタイン」解剖講義』

廣野由美子『批評理論入門 「フランケンシュタイン」解剖講義』(中公新書)を読む。小説「フランケンシュタイン」を題材に小説の技法と批評理論が概説される。フランケンシュタインの怪物が知能が高いという事すら知らなかった。「フランケンシュタイン」は多義的な読み解き方ができる格好の題材ということが明示される。

批評理論では脱構築批評の項が参考になった。構造主義とポスト構造主義の違いが分からなかったからだ。二項対立的な分析に対し、二項対立の間の境界が曖昧になっていく解釈を施すのである。

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2021年6月19日 (土)

タロットカードを買う

「はじめてのタロット占い」を買う。大アルカナ22枚。タロットはいつか欲しいと思っていたのだが、ここ最近アニメ「氷菓」の「愚者のエンドロール」を見て思い出した。モチーフとしても魅力的だ。

昔、姉の家にトランプ占いの本があって、よく占いをして遊んでいた。でも、その本に依ると占いは自分のことを占ってはいけないのだそうだが。

<追記>
実際に占ってみる。愚者の逆位置が三度出た。浅はか。中々に示唆的である。

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2021年6月13日 (日)

生徒たちから収集――常光徹「学校の怪談 口承文芸の研究Ⅰ」

常光徹「学校の怪談 口承文芸の研究Ⅰ」(角川学芸出版)を読む。この本は正月に読もうと思って買ったのだけど、途中で進まなくなって読み終えるまでに六月まで掛かった。なぜ止まったかというと、怖い話、死にまつわる話が苦手だからである。

著者は民俗学者だが、中学校教員の経歴があり、まず学校で生徒たちを対象に収集した怪談が語られる。また、現代の都市伝説についても語られる(※文中では都市伝説とは呼んでいない)。都市伝説は近年になって成立したものだが、同じ構造を持つ話が江戸時代からあって換骨奪胎されたとみられる話もある様だ。

山で遭難した5人の内一人が死ぬ。山小屋に避難するが、眠ると凍死してしまう。、そのため、中央に死体を置き、小屋の四隅に陣取った四人が一人ずつ前進して前の者の肩を叩くという行為を繰り返す(最初に動いたものがその場を離れるため、四人目の前に人はいないはずであるが彼らは回り続ける)といった話が紹介される。江戸時代の話が改変されたものらしい。

後半は東北や北陸で採集した世間話、笑話についても取り上げている。最後は学校の保健室の話(養護教諭が私服の定時制高校から転任してきたが、制服だと表情が読み取りにくいと語る)やクラスの周縁にいるツッパリの思い出が語られる。一見口承文芸と関係なさそうに思えるが、学校という場での抑圧、鬱屈が形を変えて噴出する特異点でもある。

余談。
僕が卒業した小学校でも七不思議があった。どんな内容だったか忘れてしまったが、七つ全部知ると死んでしまうのだそうである。中には「赤字である」といったものもあった。

<追記>
なお、アマビエがアマエビと表記されていた。

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2021年6月12日 (土)

今更掲示板でもないだろう

ホームページに掲示板を設けられないかなと考える。が、ページ数が増えたのでリンクの修正が面倒である。また、掲示板はスパムにはからきし弱く、その対応に追われることになってしまうだろう。労力の割に成果が得られない結果となってしまうことがやる前から見えてしまうのだ。

ブログを続けて久しいが、自己承認欲求は僕にも当然ある。僕の場合はブログやホームページのアクセス解析を見て無聊を慰めているのだけど、本当はコメントも欲しいのである。現在はコメント欄を閉じてしまったのでコメントしようがないのだけど。コメント欄を閉じてしまったのは超長文を投下する人がいたため。その人自身には悪意はないのだけど、扱いに困ってコメント欄そのものを閉じてしまった。

と言っても、コメント欄を開放していたときもコメントは少なかった。本ブログは元々は島根県石見地方の伝説を題材にしていた(現在は神楽に傾いている)のだけど、引用部分で出典の該当部分を原文のままの形で提示している。それがとっつきにくさを感じさせているのではないかと思う。

<追記>
結局、ホームページに掲示板を立てる。ちまちまと各ページ(311ページ)にリンクを貼る。

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2021年6月 7日 (月)

イメージを的確に視覚化している

胸鉏比売 日本の神様辞典やおよろず
https://yaoyoro.net/munasuki.html

胸鉏比売の伝説を取り上げたこんなサイトがある。挿絵は胸鉏比売のイメージを的確に視覚化している。文章担当と作画担当との合作だそうだが、参考文献が日本標準「島根の伝説」「那賀郡誌」とある。お二方とも島根か近隣県在住なのだろうか。日本標準「島根の伝説」は国会図書館にも所蔵されておらず、たぶん島根県内の図書館でしか閲覧できないだろう。「那賀郡誌」はデジタル化されて国会図書館のサイトで閲覧可能だ。

デジタル化された「那賀郡誌」をペラペラとめくってみる。現在図書館で閲覧可能なのは復刻版なのだけど、写真など復刻に際して削られた箇所があるようだ。多分差別問題との絡みであろうが、復刻に際して一部不都合な箇所が削られたとの指摘があった記憶がある。

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2021年6月 4日 (金)

コロナ禍のアンケートあり――「かながわの民俗芸能」第85号

斉藤先生より「かながわの民俗芸能」第85号(神奈川県民俗芸能保存協会)が送られてくる。本号は浦賀の虎踊りにページを割いているが、巻末に2020年に実施したコロナ禍についてのアンケートが資料として添付されている。

芸能の稽古は密になりがちで、公演・奉納だけでなく稽古自体が中止になった団体も多かった。2021年も基本的には同じ傾向だろう。ワクチン接種が行きわたる2020年辺りから徐々に復活してくるといったところだろうか。幸いなことに財政危機を迎えた団体は少なかった。コロナで辞める人も少なかった。ただ、新人募集には多大な影響があった……というところである。

しかし、インフルエンザと同じようにワクチンは毎年接種する様になるのではないか。もう以前の様な日々は戻って来ないかもしれない。

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2021年6月 3日 (木)

世間並みの自我形成――安藤則夫「昔話から見た日本的自我のとらえ方―日本昔話が持つ教育的効果に関する一考察―」

ブログのアクセス解析から遡って、安藤則夫「昔話から見た日本的自我のとらえ方―日本昔話が持つ教育的効果に関する一考察―」という論文を読む。

本論文は昔話の聞き手の子供の立場からその受容の仕方(教訓を得る)を考察したもの。日本昔話では

・お爺さんお婆さんが主人公になることが多い
・禁止を破って罰を与えられる話が多い
・女性を否定的に捉える話が多い
・結婚でのハッピーエンドが少ない
・謙譲の美徳を教える話があること

といった特徴が挙げられるとしている。

主人公がお爺さんお婆さんであることについては、昔は親が働きに出て祖父母が子供の面倒を見ることが多かったからではないかとする。

また、結婚話では男女の愛情よりも金銭的社会的地位を得る話として描かれることが多いとしている。

これらから、日本人の自我の形成には欲求を抑えて世間並みに振舞うことが求められているとしている。この点が能動的な欧米の昔話と異なる点である。

欧米と比べて抑圧的と感じるかもしれないが、例えば大災害時にも暴動を起こさないといった美点も認められるだろう。

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2021年6月 2日 (水)

脳が理解を拒否する――斎藤幸平『人新世の「資本論」』

斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書)を読む。オープンフォーラムで言及されたもの。400ページ近くあり、普通の新書の倍近いボリュームである。その分読むのに時間がかかった。特にマルクスの資本論の解説の辺りで読書スピードが極端に下がった。果たしてこれは妥当なことを言っているのだろうか(長いこともあって僕自身は「資本論」を読んでいない)と脳が理解を拒絶してしまったのだ。

例えばブランドを希少性で説明しているけれど、それは一面的な見方に過ぎないように感じるのである。「このブランドなら安心」ということももブランドにはあるのだ。でなけば、百貨店という業態が今でも存在していることが説明できないだろう。

このままでは気候変動が避けられないと前提し、そのためには脱成長コミュニズムの導入が不可避であると結論づけている。言ってしまえば、これまでのマルクスの解釈は誤りであり、最新の研究成果に基づいているのですと主張している。しかし、墓場を暴いて死体を掘り返すように思える。どうして21世紀の我々が19世紀の人間の思想に左右されねばならないのか。

たとえば柳田国男は「無方法の方法」と批判されるけれども、彼の日本論は驚く程本質を突いていると評される。それに比べてマルクスはどうだろうか。彼の思考が本質を突いていたなら、一億人以上の人々が死に追いやられることはなかったのではないか。

ソ連が崩壊したとき、左派の人たちは「あれは正しくない社会主義だったのです」と弁明した。しかし、歴史上、正しかった社会主義があったためしがないのだ。

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