擬死再生のモチーフ――山﨑一司「花祭りの起源 死・地獄・再生の大神楽」
山﨑一司「花祭りの起源 死・地獄・再生の大神楽」(岩田書院)を読む。奥三河の花祭の原型で、七日七夜に渡って催された――準備まで含めると三十日くらいかかったとされる――大神楽(おおかぐら)の実像がどのようなものであったか考察した論考。
大神楽を行うには米二十五俵、金百両もの負担を要したとのこと。百両は現在の貨幣価値に置き換えると一千万円くらいらしい。それだけの費用の負担があるので、大神楽は二十年に一度の豊作の年にしか行われないものだった。大神楽が催されると決まった際は村中神楽の噂話でもちきりだったらしい。
三遠南信地域に神楽を持ち込んだのは修験道の山伏たちであった。修験道の本山は熊野にあったが、承久の変(1221)によって熊野修験団は崩壊、全国各地の霊山に離散した山伏たちがやがて土着し、神楽を伝えたとする。神楽は修験道の教理を文盲の民衆たちにも分かるよう視覚的聴覚的に表現したものであった。
大神楽は湯立神楽の系統に分類されるが、本田安次は三遠南信の霜月神楽を伊勢流神楽と分類した。が、著者によると伊勢信仰が入る前から大神楽は実修されていたとしている。
著者は大神楽の実像がどのようなものであったか、「御神楽日記」(1581)「神楽叓」(1656)「神楽順達之次第」(1872)といった大神楽の式次第を記した文書によって追っていく。大神楽の式次第は百番にも及ぶ長大なものであった。
大神楽の次第で最も重視されたのは「生れ清まり」と「浄土入り」だった。
「生れ清まり」は生れる子と清められる子のことを言う。生子(うまれご)は各家庭で子孫の誕生を大神楽の神仏に祈願する。そして成就の暁に大神楽で願果たきをして神の子(神子[かんご])として終生の加護を願う。「清まり」では神子になったものが十三歳の成人を迎えた後の大神楽において成長の無事を神仏に感謝し、それまでの成長過程におけるケガレを祓い清め、生命力の再生を願うものだったとする。
祭場(山)を造って祢宜・巫女とそのお供の爺婆を登場させ、観客の前で性交を演じるといったことも行われる。妊娠・出産・産湯などの過程を演じて見せることで、村の子が神の子として生成されたことが示される。
山見鬼とはこの造立された山を偵察しに来る鬼である。山を見るから山見鬼なのである。
「浄土入り」の舞台は白山であるが、どのような構造であったのか確かな史料は伝わっていないとする。白山は地獄を模したもので、死に装束に身を固めた神子たちが三途の川を渡り地獄入りして鬼に責め苦を受ける。それを山見鬼たちが救出してケガレは祓い清められ、神子たちは新たな自身に再生するという次第である。擬死再生のモチーフがそこに見られる。
七日七夜に渡って実修された大神楽が現在では一日一夜の花祭に編成されているので、失伝した次第が多いのかと予想していたが、実際には内容の失われた次第はあまり無くて、花祭に継承されている次第が多いようだ。
現在では花祭を行う集落が限界集落化していて、伝承の継承が危惧されているとのこと。
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