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2020年12月

2020年12月31日 (木)

よいお年を 2020.12

今年はコロナ禍で明け暮れた一年でした。一月には神楽を見て帰省もしたのですが、二月からは情報伝達の遅い私もコロナのニュースを読むようになりました。一年近く経ってコロナの姿が明らかになってきましたが、明らかに感染すると損という難しい病気でした。春先はマスクが調達できなくて困りました。

今年は奉納神楽のほとんどが中止となり、二月以降、神楽は見ていません。わずかに開催される神楽もあったのですが行きませんでした。冬になって状況が悪くなった今思うと、やっぱり小康状態の内に行っておけばよかったかなと思います。

今年は図書館もほとんど行っていません。国会図書館の遠隔複写サービスで済ませました。

ホームページの更新履歴欄を見ると「天岩戸」の記事を書いたのは今年の三月でした。神楽の記事も一通り書いたのですが、2008年に立ち上げて、ここまで来るのに12年掛かったことになります。

ココログプラスにしてブログを分割したのが2010年5月だったので、今年で10周年でしたが、忘れていました。

それでは、よいお年を。

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2020年12月27日 (日)

構成と語り――胸鉏比売と乙子狭姫の事例より

以下、島根県の伝説に登場する胸鉏比売(むなすきひめ)と乙子狭姫(おとごさひめ)の伝説を取り上げる。両者の伝説を構成的にとらえるとモチーフとモチーフの接続に違和感のある語り口となってしまう事例として分析してみる。

◆胸鉏比売

島根県江津市に田心姫もしくは胸鉏比売の伝説がある。これは石見国の式内社である津門神社にまつわる伝説であるが、下記の様な粗筋である。

神代の昔、今の波子(はし)海岸に箱舟に乗った幼い女の子が流れ着いた。身なりから高貴な家柄の子らしい。翁(おきな)と媼(おうな)が拾い育てることとなった。
姫はすくすくと成長したが、何を訊かれても答えない。どこから来たか問われると東の方向を指すのみ。翁たちの手伝いはせず弓矢の稽古に明け暮れる。
ある日、東の空に狼煙があがったのを見てようやく姫は自分の素性を明かした。幼い頃心が荒々しかったので父である須佐之男命の怒りに触れ流された田心姫(たごりひめ)であった。出雲は十羅という国に攻められて苦戦している。田心姫が戻れば勝つであろうと夢のお告げがあった。姫は出雲を襲う敵と戦うために石見を離れ、出雲に戻る。
それを悲しんだ翁と媼は姫の後を追うが姫は岩陰に隠れて翁たちをやり過ごす。姫を見失った翁と媼は浅利の海岸で力尽き、はかなくなってしまった。出雲に戻った田心姫はたちまちのうちに十羅の賊徒を撃退。十羅刹女の名を賜った。

……というものである。これは日本標準「島根の伝説」に収録された「出雲を救った田心比売」を要約したものであるが、大島幾太郎「那賀郡誌」にほぼ同様の伝説が胸鉏比売の伝説として収録されている。

海岸に漂着した幼い姫を拾って育てるというモチーフはかぐや姫モチーフであると言えるだろう。かぐや姫モチーフの帰結として、姫は出雲へ帰ってしまうのだが、終盤の語り口に特徴がある。姫の跡を追った爺さんと婆さんは浅利の海岸で力尽きて亡くなってしまう。ここで終われば悲しい物語として終わるのであるが、伝説には続きがあり、出雲に戻った姫は賊徒を撃退し十羅刹女の名を賜ったと結ばれているのである。

お爺さんとお婆さんは亡くなってしまいました。一方、姫は賊徒を撃退して出雲は平和になりましたメデタシメデタシとして終わるのである。不思議な語り口である。

爺と婆の死という悲しいモチーフの直後に賊を撃退、平和になってメデタシメデタシという勝利のモチーフを持ってきて終わる。育て親の死のモチーフの次に姫の勝利のモチーフが来るのである。これには違和感を覚えないだろうか。二重の締めくくり方をしているのである。それだけにモチーフとモチーフの接続に違和感をきたしており、構成的に難のある事例である。

考えてみるに、お話の冒頭に出雲に平和をもたらした姫の名を上げ、そこから海岸に漂着するという回想形式風に話を組み立てれば違和感が少ないのではないか。

◆乙子狭姫

次に、島根県益田市の乙子狭姫の伝説を挙げる。これも石見国式内社である佐毘売山神社に所縁の伝説である。伝説は前段と後段からなるが、両方を収録したもので最も手にとり易いと思われるみずうみ書房「日本伝説大系 第十一巻 山陰(鳥取・島根)」を挙げておく。穀物の起源譚として冒頭に収録されている。

仮に前段を「ちび姫さん」、後段を「狭姫と巨人」としておく。粗筋は本によって多少異なるが概ね下記の通りである。

ちび姫さん
ちび姫さんは雁の背に乗るほど小さい。乙子狭姫(おとごさひめ)という名で、古事記に登場するオホゲツヒメ(大宜都比売命)の娘である。この伝承では、新羅のソシモリに住む気の荒い神が、オホゲツヒメの体はいったいどんな仕組みになっているのか(オホゲツヒメの体をなでると作物の種が自由にでる)調べようと、ヒメを斬ってしまう。
息も絶え絶えのオホゲツヒメだが、「幼い(いとけない)お前を残して逝くのは心残りでならない。お前に千年も万年も尽きぬ宝をやろう」と言い残す。
悲しみにくれる狭姫だが、母神の遺骸から五穀の種が芽生えた。赤雁が舞い降り、旅立つことを促す。そこで乙子狭姫は雁に乗って旅立ち、途中、高島や須津の大島に降りようとしたところヤマツミ(山祇)の遣いである鷹や鷲に「我は肉を喰らう故、穀物の種なぞいらん」と断られてしまう。鎌手の亀島で一休みした後、ようやく今の益田市赤雁町の天道山に降り立ち、それから比礼振山に種の里を開いて五穀の種を伝えたという話である。

狭姫と巨人
狭姫はダイダラボッチを思わせる巨人に出くわした。大山祇巨人(ヤマツミ神のことか)という名の巨人に悪意は無いが、動き回る度に大騒動である。狭姫も逃げ惑ったが、何せ小さき体故どうにもならない。
命からがら逃げ帰った狭姫であったが、ある日大穴の中で寝ている巨人に声をかけた。巨人は大山祇巨人の子で“オカミ”という名(“オカミ”は岡見の地名を取り込んだもの)であった。オカミの尊大な態度に狭姫はたじろいでしまうが、直接お目にかかりたい、と強い態度で申し出ると、「我は頭だけが人で体は蛇のようだから人も神も驚いて気を失うであろう、人を驚かすことは悪いことだから見ない方がお互いのためである」と“オカミ”は急に態度を改めてしまう。
“オカミ”は兄の足長土――“あしながつち”とも“あしなづち”とも読む――に会うよう告げた。やはり巨人でうっかりすると踏み殺されかねない。
これでは安らかな国造りはできない、狭姫は考えた。
そんなある日、狭姫は海岸で手長土(てながつち)という女の巨人と出会った。夫はあるかと問うと、「かように手長なれば」と手長土は答えた。手が長いのを恥じる手長土を狭姫は自分も人並み外れたちびだけど種を広める務めがある。手長土には手長土の務めがあると慰めた。
どこかよい土地はないかと赤雁に乗ってあちこち飛び回る狭姫。狭姫は足長土と手長土を娶わせ、巨人共々三瓶山の麓の広い土地に住まわせることにした。脚の長い足長土と手の長い手長土は互いに助け合って仲良く暮らしたという。

前段の「ちび姫さん」は死体化生型の説話形式をとっている。本段では狭姫が間違った所に降りようとして断られ、遂に日本本土に到着するという内容である。こちらは物悲しい雰囲気のお話である。冒頭で登場した心の悪い神が罰されることは無い。スサノオ命がモデルだからそうなるのである。

一方で「狭姫と巨人」では一転、明るいトーンのお話となる。物語的には巨人譚である。巨人の放屁が三瓶山の噴火だというくだりもあり、聞いている子供たちを笑わせようという意図も感じさせる。後段では成長した狭姫が三瓶山に到達し、三瓶の麓を開拓して巨人を住まわせるという話になっている。俯瞰すると、島根県石見地方を西から東に開拓する話となっている。実際の歴史では出雲に近い東部から開拓されたと想像されるので(※式内社も出雲に近い大田市に多い)、そういう意味でも歴史を反映していないお話となっている。

子供向けの民話集では前段の「ちび姫さん」だけを収録したものが多い。後段の「狭姫と巨人」は収録されていないのである。これは前段と後段のトーンの違いに由来するものと思われる。両者を一体のものとして取り扱うと、混然として、やはり違和感をきたすのである。

筆者は双方のトーンの違いから作者は別であると考えている。また、江戸時代の地誌「石見八重葎(やえむぐら)」の乙子の条には狭姫伝説は収録されておらず、狭姫伝説の原型となったと思われる伝説が収録されているので、狭姫伝説の成立は石見八重葎成立(1817年)以降とも考えている。

狭姫伝説は古い書物には収録されておらず、遡れるものの中では「島根評論 第13巻中 第6号(通巻第141号 石中号)」に収録された大賀周太郎「郷土の誉れ」が古いものとなる。実はこの時点で前段と後段が一体のものとして収録されており、それ以上前に遡れないもどかしさを覚えさせるものとなっている。

この物悲しい死体化生型説話と明るい巨人譚の接続も違和感を感じさせる。陰の死体化生型説話と陽の巨人譚、民話集で前段しか収録されないのもむべなるかなというところである。

◆名馬池月

 「まんが日本昔ばなし」で「池月」のタイトルでアニメ化された伝説が類似事例として挙げられる。出典は「鹿児島の伝説(角川書店刊)より」演出:芝山努, 文芸:沖島勲, 美術:千葉秀雄, 作画:藤森雅也。

 鹿児島県指宿市の伝説で、池田湖周辺が舞台となっている。島根の伝説の池月伝説とは内容が異なっている。不気味な池田湖を怖れ、近寄らない人々を余所に子馬の池月と母馬は毎日のように池田湖で泳ぐようになる。その見事さが評判となり都にまで伝わる。源頼朝の命で池月は鎌倉へと送られることとなる。池月と引き離された母馬が池田湖に飛び込むと、大きな渦が母馬を呑み込んでしまったという粗筋。

 最後に鎌倉に送られた池月はその後活躍したことがナレーションで語られる。母馬は湖に姿を消してしまいました。その後、池月は活躍したそうです……と哀しいのかめでたいのかよく分らない締めくくり方をしている。

 物語冒頭で源氏の許で活躍した池月という馬がいたことを紹介し、それから伝説に入っていく構成にすればその辺の違和感は抑えられるのではないか。が、敢えてそういう構成にしたのかもしれない。いずれ出典の「鹿児島の伝説」に収録されたお話を読んでみたいと思う。

◆まとめ

この胸鉏比売と狭姫の伝説から、モチーフ間の接続には接続の仕方によっては違和感を覚えさせる場合があることが分かっただろうか。ここでの事例は、二重の締めくくりと陰陽の型の組み合わせである。その場合、不思議な感触をもたらす語り口となるのである。

「構成と語り」という大仰なタイトルにしたが、これは自分で発掘したネタを題材に自力で何か考えられないかと思っての試論である。ま、所詮この程度である。

◆参考文献
・「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)
・「那賀郡誌(復刻版)」(那賀郡共進会展覧会協賛会/編, 臨川書店, 1986)
・「那賀郡史」(大島幾太郎, 大島韓太郎, 1970)
・「日本伝説大系 第十一巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)

相互リンク「広小路

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2020年12月26日 (土)

私とニフティ(お題記事)

私がニフティに加入したのは、アップルのパフォーマというオールインワンのデスクトップPCを買ってから一年ほどした頃でした。義兄の勧めでパソコン通信を始めたのです。当時のサービスはニフティサーブのフォーラムという掲示板群と電子メールでした。この頃はモデムの回線が遅くて、ダウンロードする文字が読めなくもない時代でした。当時、ニフティサーブの掲示板は最盛期でしたが、私自身は発言することはありませんでした。

時代の潮流はパソコン通信からインターネットの掲示板に移って、パソコン通信は低調になっていきました。また、ホームページで自分で情報発信する時代となっていました。遅ればせながら、2002年にホームページ作成講座に通って、infowebで自分のホームページを立ち上げました。

当時頭にあったのは会社の先輩から言われた「君も何か趣味を持ちなよ」という助言でした。ですが、当時の私は読書や音楽鑑賞する趣味はあったのですが、受動的なもので能動的に情報発信する趣味は無かったのでした。ホームページも内容のない空虚なものでした。

そんな中、2003年11月にココログというブログサービスがスタートしました。当時はまだブログは目新しく他社に先駆けたサービスだったと思います。ホームページの様にHTMLやネットワークの知識が無くても自力で情報発信できる画期的なサービスでした。私も早速ブログを始めたのですが、大して書くこともなく徒然日記のようなものでした。ブログのタイトルが「薄味」なのは濃い記事を書けないからという自虐からです。とはいえ他人の日記を覗くのは結構楽しい体験でした。

今ではブログとは何かにテーマを絞って書くものとコンセプトが明確になっていて、またそうしないとアクセスが稼げない状況ですが、当時はブログが手軽な情報発信手段として活発に使われていました。

2006年夏に実家に帰省した際、日本標準「島根の伝説」という小学生のとき課題図書として買った本が残されていることに気づきました。この本は島根県の伝説を収録した本ですが、暗くユニークな作風の本でした。この本に収録されている伝説の地を実際に訪れ、写真を撮って図書館に通い関連する資料を集めて考察する記事を何本か書いたのでした。

そうすると次第にアクセスが増えていきました。コンセプトを島根県石見地方の伝説に明確化したのが功を奏したのだと思います。また、当時はアクセス解析でどんなキーワードで来たのか分かりましたから、随分と参考になりました。

記事もたまってきたので、2010年5月にココログプラスに変更してブログを分割、メインブログで島根の伝説を扱うことにしました。

残念なのは、ブログの写真はコンデジで撮っていて画質は良くはありませんでした。ミラーレス一眼を買ったのが2012年冬ですから、伝説の地を巡るのと画質の良いカメラを携行する時期がズレてしまったのです。

現在は島根県石見地方の伝説はほぼ書き終わって、神楽の記事が中心となっています。また、写真ブログで島根県石見地方の神社とその狛犬の写真を掲示するようにしました。こちらはポツポツとアクセスはあるのですが、記事一覧から複数の記事を読むといった導線は確立できていません。

現在では「島根県の伝説、昔話」「神社、狛犬、神楽」「写真、デジカメ」というジャンルにまたがったブログ運営を行っています。アクセスは一日あたり30~40PVというところなので、中の下くらいの位置にいるのではないかと思います。

要望を一つ。ココログにはウェブページという機能があって、例えば目次のページを作るといったことが可能なのですが、実際にはアクセスがありません。そこで、ブログのヘッダーにウェブページへのリンクを張れるようにしたテンプレートを開発できないでしょうか。

ブログはログ形式なので体系性がありません。必然的に直帰率が高くなります。その点ではホームページの方が自由度があります。目次のウェブページへのリンクが目立つ場所にあれば、また状況も変わるのではないかと思います。

後、アクセス解析なんですけど、msnbotというマイクロソフトのクローラーのアクセスが計上されています。無視できない数字なので弾くよう対策をとっていただけないでしょうか。

大学生の頃、田辺聖子さんのエッセイが好きで、現在アニメ映画「ジョゼと虎と魚たち」が公開中ですが、一生に一冊エッセイ本を書いてみたいと思っていました。その願望と自己顕示欲はブログで満たされることになったのでした。

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2020年12月25日 (金)

ユビキタス――河野眞「フォークロリズムから見た今日の民俗文化」

河野眞「フォークロリズムから見た今日の民俗文化」(創土社)を読む。フォークロリズムの嚆矢となるモーザーの論文を翻訳した著者の手になる本である。

平易に記述されているのだが、難読漢字/熟語が時折顔を出す。漢和辞典が手元にないので読み飛ばしてしまった。学者向けの論文だったらルビはいらないのだろうけど、書籍化されたら一般人や学生が手に取るようにもなるのだから、日常で用いない言葉には最低限ルビを振っておいて欲しかった。後、誤字脱字が結構あった。

フォークロリズムというのは神楽で例えれば、神社での奉納という本来の文脈を離れて、劇場のステージで舞う場合などを指す。本来の意義に加えて第二義的な意味が生じたものである。これをセカンドハンドと呼んでいる。

フォークロリズム概念の提唱者のモーザーは元々実証主義的な歴史民俗学者であり、彼がバウジンガーの「科学技術世界のなかの民俗文化」に刺激されて、フォークロリズムという概念を民俗学にもたらしたこと等が記されている。

フォークロリズム概念のもう一人の立役者であるバウジンガーはフォークロリズムの遍在を指摘している。すなわちユビキタス性である。

なぜフォークロリズムはセカンドハンドであるにも関わらず人を惹きつけるのかという疑問が湧いたのだが、それに対する回答は無かった。それともバウジンガーの言う内的エキゾチシズムだろうか。観光学的な観点から言うと、観光客の望むものを観光に適した利便性で提供しているからというところだろうか。アトラクションという言葉が用いられまる。ただ、それでは民俗学としての答えとは言えないと思う。

論考の部ではハイネが日本民俗学で高く評価されていることへの再考を促している。柳田が渡欧時にハイネの著作に触れたのが由来だそうだが、その当時既にハイネの民俗観は乗り越えられて新しい世代が生じていたとしている。柳田は既に持論を確立させており、欧米の最新の理論には関心が無かったのだろうと考察している。

モーザーの論文はドイツでキリスト教以前の上古から続くと思われていた伝統が文献等で実証的に研究すると実は近世近代に生まれたものが多いとしている。そういう意味ではホブズボウムの「創られた伝統」に先行するものではないか。

また、バウジンガーがフォークロリズムについて各国に送ったアンケートについても新たに訳出、収録されている。そういう意味で資料集としても読める本である。

なお、あとがきによると、河野氏と日本民俗学会との関係は必ずしも良好であるとは言えないようだ。「学術性に欠ける」という批判が向けられたそうだ。学術性がどういうものかよく分からないが、文系学問でそういうことがあるのだろうか。

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2020年12月13日 (日)

マクロ的視点で――佐藤郁哉「現代演劇のフィールドワーク 芸術生産の文化社会学」

佐藤郁哉「現代演劇のフィールドワーク 芸術生産の文化社会学」を読む。現代演劇をフィールドとした民族誌。フィールドワークに8年かけたとのことだが、その労力に見合う内容だと思う。演劇のことはほとんど何も知らないのだけど興味深く読めた。日経・経済図書文化賞を受賞したそうだが、むべなるかなというところだ。

日本における現代演劇は公教育に取り入れられることもなく、ときには政府の弾圧の対象ともなってきたという不幸な歴史があるが、そういった脆弱な制度と社会のねじれについて考察されている。

フィールドワークは小劇場系の劇団に制作として入ることで行われたとのことなので、そういったミクロ的視点からのものかと予想していたが、実際にはマクロ的視点からのものだった。

第一章では小劇場演劇のサクセスストーリーが語られる。元はアングラ(アンダーグラウンド)と呼ばれた前衛劇だったが、次第に政治色思想色が薄まり、80年代に入るとポップな感性の芝居を上演する小劇場演劇が人気を集める様になった。100~200人収容規模の小ホールで演じられる小劇場演劇には三千人の壁、四千人の壁と呼ばれた観客動員数の壁があったが、それを超え数万人規模の動員数を達成する劇団が登場するようになった。それらの劇団では中ホールである紀伊国屋ホールでの上演をもって小劇場すごろくの上がりと呼ばれるようになった。

そのようなサクセスストーリーに対して商業主義化だという批判が行われるようになった。それはアングラから出発した小劇場演劇が組織維持のために利潤を追求する資本主義的な行動原理へと変節したというものである。これには大衆社会論が裏打ちされており、大衆化され自ら文化を生み出す力を喪失した大衆に提供されるレディメイドの均質化された画一的、紋切り型の大衆文化(マス・カルチャー)であるという批判である。が、それは何ら具体的な実証データに基づかない現実の姿とはかけ離れた図式であるとする。

80年代にはそれまで男性層が中心だった小劇場演劇の顧客層が若い女性層へと変貌する。が、それは6万~7万人といった小規模であり、大衆消費市場(マス・マーケット)と言うにはほど遠い状態であったとする。

また、商業主義という利潤追求の姿勢はむしろ芝居で食えるようにするという方針からきたものであったと指摘する。

80年代にはチケットぴあのシステムが稼働し、それを積極的に活用してチケット販売を効率化するようになった。

結果的に小劇場演劇のサクセスストーリーはその次となるべき新たな物語を描くことなく、ブームは沈静化した。一方で、俳優の中にはマスメディアに出演して知名度を上げる者も出てきた。

第二章では、90年代に入ると、文化行政ブームが起き、政府や自治体、企業のメセナ事業といった助成が始まり、劇団の経営基盤を支えることとなったと指摘する。文化行政ブームは「文化の時代」と「地方の時代」という二つのキーワードを流布するものであった。政府系の助成として芸術文化振興基金が設けられ、芸術に対する本格的な助成が始まった。

全国で公立ホールが建設ラッシュとなったが、その多くは多目的ホールの箱もの行政であり、多目的とは中途半端の裏返しでもあった。また、それを支えるマネジメントの人材は芸術に対して特別に訓練されたことのない公務員たちであり、しかも数年で異動してしまうといった有様だった。そのような中で専用ホールの建設も見られるようになり、芸術監督が業界から起用される事例も出てきた。1997年には新国立劇場が開場した。

「文化の時代」と「地方の時代」というキーワードと併せて「心の豊かさ」「文化の発信」が強調されるようになった。が、物から心へとという論法は根拠薄弱であると指摘する。衣食足りて礼節を知るという論法だと貧しい社会では文化への欲求は希薄とであるという論理になるからである。

90年代はまた産業の空洞化が起き、経済のソフト化が謳われるようになった時代でもある。

第三章では日本においては近代演劇は体系的に取り込まれた訳ではなく、その結果、業界的なスタンダードが存在せず、横断的な視野が存在しないタコつぼ状態だったとする。が、その演劇界に変化が訪れる。やがて演劇界、演劇人という自覚が生まれてくるのである。50年代には新劇団協議会といった業界団体が設立される様になってきた。ただ、当初のそれは職業的なギルドといった性格ではなく、親睦会的な存在であったとする。新国立劇場演劇部門の芸術監督の選定の不透明さを巡り、演劇業界の中から批判が起きる。が、新劇団協議会は法人化で忙殺されており、その批判に十分に応えることができなかったとしている。他、日本劇作家協会などが発足している。日本劇作家協会は劇作料、上演料の最低水準の設定など成果を見せる。

第四章では劇団制に代わるシステムが模索される。米国ではプロデューサーが劇作家、演出家と組んで、公演の都度、俳優や技術スタッフを集めるプロデューサー制が敷かれていると指摘する。日本の場合、劇団が俳優や技術スタッフを丸抱えし、徒弟制的な仕組みで劇の内製化を図ってきたのだが、それに代わる道筋が示される。それは俳優や技術スタッフの養成システムの未確立もあって一朝一夕で成るものではない。

現在ではプロデューサー公演も増えてきている。固定メンバーによる舞台とは異なり、出自を異にする俳優、スタッフが集うことによる相乗効果が見込まれるが、実際には新顔同士がかみ合わないままに幕が開いてしまい、そのまま終わるといったことも少なくないとも指摘される。

第五章では演劇人の職業化、プロ化が語られる。プロといっても職人、名人的な工芸化(クラフト化)といった方向性もある。芸術の場合は既成概念を打ち破る天才が求められるとする。

第六章では結論が述べられる。芸術とは体制の庇護を受けるものでありながら、反体制的な批判を含むものがしばしば生み出されるというパラドキシカルな存在である。芸術は科学などに比べて弱い制度であり、特に演劇はこれまでの沿革上、脆弱な制度と社会とのねじれが存在するとする。自立と依存のパラドックスに対する解決策が求められるとする。それは報酬システムの確立と専門化で達成される。

日本では欧米と比べ、現代演劇が産業化の基盤を確立し得ないままにマスメディアが発達してしまったとする。そのため舞台よりも映画やテレビなどへの出演の方が優先される傾向が見られる。舞台がステータスではないのである。

日本の演劇界が個人の才能や突然変異を点で終わらせることのない肥沃な土壌へと変わっていくためには脆弱な制度を強化することが求められる……としている。

本書では報酬システムを四つに分類する。

・独立型報酬システム。
 大学などの研究機関、特に基礎科学の分野。芸術の分野では、フランスのロイヤル・アカデミー、スターリン時代のソビエト連邦の芸術界など。
・半独立型報酬システム。
 芸術の分野では現代美術界。
・サブカルチャー型報酬システム。
 特定地域におけるマルディグラなどの民族・民衆芸能のパフォーマンスや世代限定のサブカルチャーなど。芸術の分野では黒人ジャズ。
・異種文化混合型報酬システム。
 エンタテイメント産業。

本書に図示された劇団の系譜を見ると、小山内薫の系譜は残っているのだけど、島村抱月の系譜は残っていないのである。これは抱月がスペイン風邪で亡くなってしまったことも影響していると思われる。

<追記>
「比較社会・入門 グローバル時代の<教養>」(苅谷剛彦/編)の第三章「芸術 アートはビジネスになりうるか」(佐藤郁哉)を読む。「商業主義」というキーワードに興味があったので。ここでは日米の演劇シーンを取り上げる。商業主義は芸術性/商業主義という二項対立で用いられることが多いだろうか。

実験的・前衛的な小劇団が経営の安定化を図ろうとすると、観客動員数の増大、つまりチケット収入を増やす方向に向く。しかし、それは演劇の実験性、前衛性を損なう方向に作用する。そういった小劇場のジレンマをいかに解決するかだが、米国ではNPO法人化して助成金を得るという方向で収入を多角化、解決しているとのこと。日本でもNPO法人の設立が盛んとなり、また文化芸術に関する助成金が増える傾向にある。ただ、日本の場合、欧米の様なノウハウがなく模倣するだけといった事態にもなっていると分析する。

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2020年12月 7日 (月)

越境する民族誌――山下晋司『観光人類学の挑戦 「新しい地球」の生き方』

山下晋司『観光人類学の挑戦 「新しい地球」の生き方』(講談社)を読む。観光人類学を謳っているが、海外留学する日本人女性や国際結婚と子供の国籍問題なども取り上げていて応用人類学的な側面も見られる本である。本書で取り上げられる統計データは2008年頃までのもので、それ以降の「観光立国」的なインバウンドの急激な伸びについては範囲外である。

グローバル化を象徴するキーワードとして「リゾーム(根茎)」を挙げている。現代は人の国境を超えたトランスナショナルな移動が増え、その結果ネットワークと結節点を結ぶ地下茎的な複雑な社会になっているとしている。本書ではその越境的な民族誌を書くことが主目的となっている。

ここで文化の観光資源化が取り上げられる。資源化とは、本来のコンテクスト、目的において「資源である」ものを、それとは別のコンテクスト、目的において使用することによって生じると定義している。誰が、誰のために、何を、何のために、文化を資源化するかという問題が生じてくる。

世界遺産についてもヘリテージツーリズムとして取り上げられる。バリの芸能は観光資源化され、更に国家的制度に組み込まれるようになっている。そのため、芸能が学校制度等で標準化されていると指摘している。岐阜県白川郷は世界遺産化で来訪客が倍増したが、訪問客は平均45分ほどの滞在に終わり、地元に金が落ちてこないと指摘される。中国雲南省麗江では古城地区から元の住人のナシ族が出ていくようになって住民の入替りが起きていると指摘している。

マレーシアのサバのエコツーリズムが取り上げられる。サバは元はアマゾンに次ぐ規模の熱帯雨林が広がっていたが、プランテーション化や材木の切り出しなどで、大きくその面積を減らした。そこで林業に代わる産業としてエコツーリズムに目をつけた。日本人の観光客も多いが、実はサバの材木の主な輸出先が日本であって、そうした意味では先進国が収奪した後の観光に日本人がやって来ていると言う図式にもなっている。

パラオは過去に日本の統治を受けた歴史がある。戦前、南洋と呼ばれたミクロネシア諸島は日本にとって開発の手を入れるべき土地だった。そのため日本型のオリエンタリズムが見られると指摘している。そのため第二次大戦の慰霊での訪問も多い。若者たちはそれには頓着せず、ダイビングを楽しんでいる。パラオでは日本人が伝えた彫刻が土産物として売られているとのこと。

またロングステイについても取り上げられている。退職者が第二の人生を物価の安い海外で暮らすことを指したものである。温暖な気候の海外の方がより質の高い暮らしが送れると考えるのである。現地では日本人会も結成されている。

日本でも近年、未来の超高齢化社会に備えて移民1000万人計画がぶち上げられたりしている。反対意見も根強いのでどうなるか見通しは立たないが、著者は多文化主義を受け入れるべきと提言している。世界は混じり合い、かつ混じり合わないというアンビヴァレントな枠組みを生きるのである。

「消滅の語り」「生成の語り」論も読んでみたかったのだが、それには触れられていなかった。

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2020年12月 5日 (土)

国会図書館の食堂が閉店

国会図書館の食堂が閉店となったと知る。10月の話だが今まで知らずにいた。食堂で働く人たちにとっては安定した職場だったと思うのだが、コロナ禍での影響を被った形となった。書籍の閲覧申込をしてから本が出てくるまで約30分かかるので、その間に食事を摂るようにしていたのだが、食堂が無くなってしまった。なお、弁当の販売は続けられるとのこと。

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2020年12月 4日 (金)

放送大学の教材――宮田登「民俗学」

宮田登「民俗学」(講談社学術文庫)電子書籍版を読む。これまで神楽関連本や口承文芸の本は読んできたが、本体である民俗学についてまとまった書物を読むのは初めてである。なんでも放送大学の教材として利用されたものだそうである。

1. 民俗学の成立と発達
2. 日本民俗学の先達たち
3. 常民と常民性
4. ハレとケそしてケガレ
5. ムラとイエ
6. 稲作と畑作
7. 山民と海民
8. 女性と子供
9. 老人の文化
10. 交際と贈答
11. 盆と正月
12. カミとヒト
13. 妖怪と幽霊
14. 仏教と民俗
15.都市の民俗

といった章立てである。

学生の頃から民俗学にはさほど魅力を感じていなかった。ハレとケといった概念は法社会学の講義で聴いたが、その程度である。高校生のときに模試で柳田国男の文章が出題されたことがあり、面白いと思ったが、それ以上は追及しなかった。

神楽や口承文芸はいわば民俗学の周縁分野なのだけど、このことに気づいていたら、民俗学を見る目が違っていただろう。

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2020年12月 3日 (木)

参与観察を行って民族誌を書く――佐藤郁哉「フィールドワークの技法 問いを育てる、仮説をきたえる」

佐藤郁哉「フィールドワークの技法 問いを育てる、仮説をきたえる」(新曜社)を読む。タイトルの通り、フィールドワーク(参与観察)を行って民族誌(エスノグラフィー)をまとめていく過程について論じたもの。ですます調で書かれていて、読み易さに配慮されている。

幾つかの参与観察が実体験に基づいて語られる。修士時代に行った東北の少年矯正施設での参与観察では東北大学の学閥が施設長の許可を得る上で役立ったことが挙げられている。博士課程で行った京都での暴走族の参与観察では、暴走族のたむろしている付近をうろつくことで接触の機会を得るといった体当たり式の参与観察が行われている。大学に職を得て以降では、プロの劇団に制作マネージャーとして入り、大学での仕事の合間をぬいながら参与観察したこと、そして観察の途中で理論構築の隘路にはまり、仕切り直しして民族誌を出版するまで結局8年かかったことなどが記されている。失敗談についても触れられており、そういう点で意識に引っ掛かり易くもなっている。

フィールドノーツ(複数形)をつけていく段階では、まず先行研究をリサーチして調査する上での問いを立てること、未来の民族誌の章立てを考えることからはじまる。その次に実際に参与観察に入ると、まず現場メモを取り、それを清書することになる。この記述が難物である。僕自身はフィールドワークを行ったことはないが、多分、箇条書きの貧相なメモしか取れないだろう。

フィールドノーツの内容がある程度たまってきたら、仮説を立てて中間報告を行うべきことが提示される。このとき仮説と実際のデータとの間に乖離が生じていることがままある。本書では分離エラーと表現されている。こうなると論文の締め切りに追われることになってしまう。そこで本書では漸次構造化法という手法が提示される。問題設定、データ収集と分析、民族誌の執筆を並行的に行うものである。こうすることでフィールドノーツが分厚い記述となっていくとしている。そういう意味では事前の入念なリサーチがまず求められると言っていいだろう。

具体的なフィールドノーツの整理の仕方、構造化に関しては佐藤郁哉「質的データ分析法 原理・方法・実践」を併せて読むといいだろう。

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