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2020年11月21日 (土)

神なき都市の祝祭――矢島妙子『「よさこい系」祭りの都市民俗学』

矢島妙子『「よさこい系」祭りの都市民俗学』(岩田書院)を読み終える。以前に読んだ大月隆寛「民俗学という不幸」で過激な都市民俗学批判があり、都市民俗学とはとっくの昔に終わったジャンルだと思っていた。が、1990年代に入って、札幌のYOSAKOIソーランが言わば神なき都市の祝祭として観客動員数200万人を達成、その後も全国各地にヨサコイ系の祭りが生まれるなど、むしろこの時期になってようやく都市民俗学的な題材が登場したというところだろうか。

都市の伝承母体の事例としてヨサコイのチームが挙げられる。ヨサコイ自体、鳴子を使い、地域の民謡を取り入れればOKという緩い制約だが、そのチームも地縁、血縁、社縁に限らず選択縁からも人を集めている。脱退も自由で(他の社会学的な研究によると3年で辞める人が多いらしい)、その点からでも自由な枠組みである。

本書では事例として屯田兵が開拓した地域の地元チームが取り上げられる。札幌のYOSAKOIにはニシン漁をモチーフとした踊りが多いが、この地域のチームは開拓の歴史を踊りに反映させている。その地域に住む人達が屯田兵の子孫かというと違うのだが、地域の歴史として、そのリアリティを受け入れているのである。

制約の緩いヨサコイ系自体は開放系だが、開放だけだと発散してしまう。そこでルールとして地域性を取り上げることで、地元へと凝縮させるのである。本書ではオーセンティシティを「らしさ」と訳すが、「らしさ」に留まらずリアリティが観客から求められているのである。

またフォークロリズムの観点からもヨサコイ系が取り上げられる。フォークロリズムをここではセカンドハンド、セコハンとしているが、実は高知のよさこい踊り自体、徳島の阿波踊りのセカンドハンドではなかろうか。

何々をフォークロリズムだと言うことは簡単だが、では、なぜそのセカンドハンドが観客を惹きつけるのか観光学的理由づけによらずして明らかにして欲しいものだ。YOSAKOIソーランがフォークロリズムだとして、それはノスタルジーでは説明できないのだ。

YOSAKOIソーランの動画を見たのだが、率直に言って現代的なダンスであり、「これって民俗学で取り上げるべきものだろうか?」と思ってしまった。ただ、一人の学生が高知のよさこい踊りに感激して創始されたものであるというエピソード、観客動員数200万を超える大成功事例であり、更に全国にヨサコイ系の踊りが広がっていることから、研究の対象にしない手はない。そういう意味で都市民俗学の出番がやってきたというところだろうか。

余談。
香山リカがぷちナショナリズムの事例としてYOSAKOIソーランを挙げているらしいことを知る。しかし、基本的には大都市といえどローカルな祭りであるヨサコイ系を一足飛びにナショナリズムに結び付けてしまうのは早計に過ぎるのではなかろうか。

 

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