地元民が読んだらどう感じるか――足立重和「郡上八幡 伝統を生きる 地域社会の語りとリアリティ」
足立重和「郡上八幡 伝統を生きる 地域社会の語りとリアリティ」(新曜社)を読む。岐阜県の郡上八幡を舞台としたモノグラフで、第一部は郡上おどり(盆踊り)、第二部は長良川河口堰反対運動を取り上げたものとなっている。
読後感だが、郡上八幡と著者の足立氏の出会いは果たして幸福なものだったのだろうかと思わないでもない。なにせ「あっ、足立が来た!」である。学問的には面白い結果になっているが、当の郡上八幡の人々がこの本を読むと、どんな読後感を抱くだろうかと考えさせられる皮肉な結果となっているのである。
著者の足立氏は環境社会学者で、大学院生時代に「構築主義の可能性」という論文を書いている。その時点では構築主義に可能性を見出していたようであるが、現在の氏は構築主義に対して醒めた視線である様に見える。
序章で分析視角が提示される。まず社会構造、階層構造、地域権力構造など「構造」に分析のポイントを置く「構造論」を挙げる。著者は構造論は特定の地域や集団の語りそれ自体に注目してこなかった、むしろ語りの背後にある構造のみを重視してきたとする。そこで著者はリアリティはその真偽に関わらず人々の語りを通じて社会的に構築されると命題化する。
一方、構築主義は特定の社会問題などの事実が実在するかどうかを一旦「括弧入れ」「判断停止」し、いかにして対象が人々による言説を通じて認知的に構築されていくかその過程を記述するものであるとして「構築論」と紹介する。が著者は地元民の語りは括弧入れ(脱構築)された真空の中で発せられているのではなく、その語りの前提となる地域社会のコンテクストの中で初めて意味を獲得するとする。
ここで著者はコンテクスト=語り得ぬものとする。そして<いま・ここ>の語りと<あのとき・あそこ>に属するコンテクストとの交錯の中でリアリティを位置づける分析視角を「交錯論」として本書での分析視角とする。
第一部では郡上八幡の郡上おどりが取り上げられる。郡上おどりは国の重要無形民俗文化財に指定されており、また一方で、踊りのシーズンには三十万人もの観光客を集めると言う点で、保存と観光資源化の両立を果たしている好例である。
だが、観光客も踊りに参加する様になった現在、地元の人がその輪に入りにくい状況になっているという地元民の踊り離れの傾向が指摘される。つまり踊りの質が低下し且つ地元民が疎外されているのである。地元の人たちは郡上おどりから昔の「風情」が失われたと語る。風情とは審美的なリアリティである。そしてそれへの対策として観光客向けではない「昔おどり」を催して昔の風情を再現するに至っている。
現在の観光化した郡上おどりと昔おどりが併存する事態となっている。著者の足立氏は二つの郡上おどりが存在すると指摘するのだが、地元の人達はそれを否定するのである。
そもそも、郡上おどりは四百年以上の歴史があるとされているが、実は史料を遡るとそれを裏付けるものは存在しないのである。開府当時の藩主が士農工商の融和を図るために始めたという口碑が残されているだけである。これに対し、地元の郷土史家たちは郡上おどり以前のかけ踊りとの共通性を見出し、そこから郡上おどりの独自性を見出すのである。共通性から独自性を見出すといった転倒が行われているのである。著者の足立氏は郷土史家が郡上おどりの歴史的真正性を担保、管理する存在になっていると指摘する。
文化構築主義では現在の伝統文化は実は近現代に観光資源的に再構築されたもの、つまり虚構であるとする。虚構であるということは当の地元民たちにとっては皮肉な結果となる。そこで、その点を補う意味で文化構築主義の主体性バージョン(文化の客体化)が出てくる。伝統文化に関与する地元民の主体性を評価するという立場である。が、その主体性とは外部から強制されたものではないかと著者は指摘する。
もう一つ、文化コンフリクト論が取り上げられる。コンフリクトとは葛藤である。観光化された伝統文化と、それの「もと」なる伝統文化が葛藤し、互いに真正性を主張し合う。その葛藤こそが文化のバイタリティを生み出し「観光化に対応し祭りを活性化させる原動力」となるとする。著者はこれに対し予定調和的、同調的であると指摘する。
著者はこれらの批判を踏まえて、<いま・ここで>組み上げられるリアリティが<本来あるべき>リアリティ「風情」となり、そのリアリティこそが伝統文化の実現に地元民を動員させると考える。「風情」というリアリティを懐かしむ「ノスタルジック・セルフ」という主体がそこにある。伝統文化の継承はこれらのようなノスタルジックな主体性に裏付けられているとする。
第二部では長良川河口堰の反対運動が取り上げられる。長良川河口堰が完成すると生態系に影響が出ると懸念されており(※実際に長良川を遡上する鮎、サツキマスの数が減少した)、長良川の上流に位置する郡上八幡も無縁ではいられないのである。そこで郡上八幡でも長良川河口堰に反対する運動が組織される。
反対運動がマスコミを巻き込んで成長、全国的に大きな反響を呼ぶ。郡上八幡では町長選に反対派の候補者を擁立しようという動きが出てくるのだが、候補者擁立に賛成派と反対派とに分裂してしまうのである。
これは端的に言えば賛成派の根回し不足によるものである。反対派の人達は賛成派は旧市街地区に住んでいないからと理由をつける。実際には住んでいても、居住歴が短いことをもって区別の根拠とするのである。
では反対派にはいかなるロジックがあるのかというと、反対派には「町衆」という長老格とでも呼ぶべき存在がいて、壮青年たちは町衆に評議を図ってそのフィードバックを得るという手続きで動いている。フィードバックされることによって地元住民の「総意」を得たと措定するのである。それを「密室での根回し」であると賛成派たちは批判するという構図である。
著者の足立氏は市民社会的な全ての成員が平等な立場であるのを水平的な関係とし、郡上八幡の町衆のように経験知の有無で階梯を設ける垂直的な関係があると分析するのである。そしてこの町衆的なシステムを前近代的なものと批判するのでなく、地域のコミュニティにとって積極的な意味を見出すのである。
余談。
「文化コンフリクト」で国会図書館のOPACを検索したが、「異文化コンフリクト」しかヒットしなかった。
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 朝刊も配送停止(2025.01.14)
- 描写に異様に傾いた文体――バルザック「サラジーヌ」(2025.01.13)
- マウント合戦に終始するご時世ですが――岸政彦『ブルデュー「ディスタンクシオン」100分de名著』(2025.01.06)
- ご紋はどこなのか未だに分からない(2024.12.28)
- 利用者登録を行う(2024.12.20)
「歴史・地理・民俗」カテゴリの記事
- バ美肉のバーチャル人類学(2024.04.15)
- 社会学は役にたたない学問か(2024.01.19)
- アドレス見当たらず(2023.10.01)
- どんど焼きに行く 2023.01(2023.01.14)
- 民俗芸能は生活世界再構築の核となり得るか(2022.10.28)
「本質主義/構築主義」カテゴリの記事
- 地元民が読んだらどう感じるか――足立重和「郡上八幡 伝統を生きる 地域社会の語りとリアリティ」(2020.10.24)
- 平易な入門書――ケネス・J・ガーゲン「あなたへの社会構成主義」(2020.10.19)
- 紙数が足りない――足立重和、他「構築主義の可能性」(2020.10.15)
- ステージ上の芸能――橋本裕之「舞台の上の文化 まつり・民俗芸能・博物館」(2020.10.06)
- 当時は気づかずにスルーしていた(2020.08.29)