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2020年10月

2020年10月30日 (金)

単行本2巻と3巻は2021年秋発売――佐藤両々「カグラ舞う!」

<追記>
「カグラ舞う!」第三巻は2021年10月29日発売予定。

<追記>
「カグラ舞う!」第二巻は2021年9月30日発売予定。

<追記>
「カグラ舞う!」の単行本2巻と3巻は2021年夏ごろの発売予定と修正された。描きおろし部分が多いので、作業がずれ込んだのだろう。

月刊ヤングキングアワーズ12月号を買う。佐藤両々「カグラ舞う!」とうとう神楽甲子園までたどり着いたのだけど、ここで終幕。ヒロインの神楽は今回はチャンチキ(手打鉦)なので、神楽が舞ったのは「岩戸」での天照大神役だけということになる。ただ、チャンチキは神楽のリズムを身体に叩き込む意味もあるので、手順としては正当である。

ここで終わったら尻切れトンボだよなあと思っていたら、2021年春に単行本2巻と3巻が発売されるとのこと。3巻には描きおろし分がたっぷりとのこと。

突然の打ち切りだけど、温情のある措置といっていいか。

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2020年10月24日 (土)

地元民が読んだらどう感じるか――足立重和「郡上八幡 伝統を生きる 地域社会の語りとリアリティ」

足立重和「郡上八幡 伝統を生きる 地域社会の語りとリアリティ」(新曜社)を読む。岐阜県の郡上八幡を舞台としたモノグラフで、第一部は郡上おどり(盆踊り)、第二部は長良川河口堰反対運動を取り上げたものとなっている。

読後感だが、郡上八幡と著者の足立氏の出会いは果たして幸福なものだったのだろうかと思わないでもない。なにせ「あっ、足立が来た!」である。学問的には面白い結果になっているが、当の郡上八幡の人々がこの本を読むと、どんな読後感を抱くだろうかと考えさせられる皮肉な結果となっているのである。

著者の足立氏は環境社会学者で、大学院生時代に「構築主義の可能性」という論文を書いている。その時点では構築主義に可能性を見出していたようであるが、現在の氏は構築主義に対して醒めた視線である様に見える。

序章で分析視角が提示される。まず社会構造、階層構造、地域権力構造など「構造」に分析のポイントを置く「構造論」を挙げる。著者は構造論は特定の地域や集団の語りそれ自体に注目してこなかった、むしろ語りの背後にある構造のみを重視してきたとする。そこで著者はリアリティはその真偽に関わらず人々の語りを通じて社会的に構築されると命題化する。

一方、構築主義は特定の社会問題などの事実が実在するかどうかを一旦「括弧入れ」「判断停止」し、いかにして対象が人々による言説を通じて認知的に構築されていくかその過程を記述するものであるとして「構築論」と紹介する。が著者は地元民の語りは括弧入れ(脱構築)された真空の中で発せられているのではなく、その語りの前提となる地域社会のコンテクストの中で初めて意味を獲得するとする。

ここで著者はコンテクスト=語り得ぬものとする。そして<いま・ここ>の語りと<あのとき・あそこ>に属するコンテクストとの交錯の中でリアリティを位置づける分析視角を「交錯論」として本書での分析視角とする。

第一部では郡上八幡の郡上おどりが取り上げられる。郡上おどりは国の重要無形民俗文化財に指定されており、また一方で、踊りのシーズンには三十万人もの観光客を集めると言う点で、保存と観光資源化の両立を果たしている好例である。

だが、観光客も踊りに参加する様になった現在、地元の人がその輪に入りにくい状況になっているという地元民の踊り離れの傾向が指摘される。つまり踊りの質が低下し且つ地元民が疎外されているのである。地元の人たちは郡上おどりから昔の「風情」が失われたと語る。風情とは審美的なリアリティである。そしてそれへの対策として観光客向けではない「昔おどり」を催して昔の風情を再現するに至っている。

現在の観光化した郡上おどりと昔おどりが併存する事態となっている。著者の足立氏は二つの郡上おどりが存在すると指摘するのだが、地元の人達はそれを否定するのである。

そもそも、郡上おどりは四百年以上の歴史があるとされているが、実は史料を遡るとそれを裏付けるものは存在しないのである。開府当時の藩主が士農工商の融和を図るために始めたという口碑が残されているだけである。これに対し、地元の郷土史家たちは郡上おどり以前のかけ踊りとの共通性を見出し、そこから郡上おどりの独自性を見出すのである。共通性から独自性を見出すといった転倒が行われているのである。著者の足立氏は郷土史家が郡上おどりの歴史的真正性を担保、管理する存在になっていると指摘する。

文化構築主義では現在の伝統文化は実は近現代に観光資源的に再構築されたもの、つまり虚構であるとする。虚構であるということは当の地元民たちにとっては皮肉な結果となる。そこで、その点を補う意味で文化構築主義の主体性バージョン(文化の客体化)が出てくる。伝統文化に関与する地元民の主体性を評価するという立場である。が、その主体性とは外部から強制されたものではないかと著者は指摘する。

もう一つ、文化コンフリクト論が取り上げられる。コンフリクトとは葛藤である。観光化された伝統文化と、それの「もと」なる伝統文化が葛藤し、互いに真正性を主張し合う。その葛藤こそが文化のバイタリティを生み出し「観光化に対応し祭りを活性化させる原動力」となるとする。著者はこれに対し予定調和的、同調的であると指摘する。

著者はこれらの批判を踏まえて、<いま・ここで>組み上げられるリアリティが<本来あるべき>リアリティ「風情」となり、そのリアリティこそが伝統文化の実現に地元民を動員させると考える。「風情」というリアリティを懐かしむ「ノスタルジック・セルフ」という主体がそこにある。伝統文化の継承はこれらのようなノスタルジックな主体性に裏付けられているとする。

第二部では長良川河口堰の反対運動が取り上げられる。長良川河口堰が完成すると生態系に影響が出ると懸念されており(※実際に長良川を遡上する鮎、サツキマスの数が減少した)、長良川の上流に位置する郡上八幡も無縁ではいられないのである。そこで郡上八幡でも長良川河口堰に反対する運動が組織される。

反対運動がマスコミを巻き込んで成長、全国的に大きな反響を呼ぶ。郡上八幡では町長選に反対派の候補者を擁立しようという動きが出てくるのだが、候補者擁立に賛成派と反対派とに分裂してしまうのである。

これは端的に言えば賛成派の根回し不足によるものである。反対派の人達は賛成派は旧市街地区に住んでいないからと理由をつける。実際には住んでいても、居住歴が短いことをもって区別の根拠とするのである。

では反対派にはいかなるロジックがあるのかというと、反対派には「町衆」という長老格とでも呼ぶべき存在がいて、壮青年たちは町衆に評議を図ってそのフィードバックを得るという手続きで動いている。フィードバックされることによって地元住民の「総意」を得たと措定するのである。それを「密室での根回し」であると賛成派たちは批判するという構図である。

著者の足立氏は市民社会的な全ての成員が平等な立場であるのを水平的な関係とし、郡上八幡の町衆のように経験知の有無で階梯を設ける垂直的な関係があると分析するのである。そしてこの町衆的なシステムを前近代的なものと批判するのでなく、地域のコミュニティにとって積極的な意味を見出すのである。

余談。
「文化コンフリクト」で国会図書館のOPACを検索したが、「異文化コンフリクト」しかヒットしなかった。

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2020年10月22日 (木)

あの神楽はどこの神楽? 鬼滅の刃

録画していた土曜プレミアム「鬼滅の刃 那田蜘蛛山編」を見る。主人公の炭治郎の父が神楽を舞う場面があったが、あれはどこの神楽がモデルなのだろう。

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2020年10月20日 (火)

一間四方の神楽

YouTubeで六調子石見神楽の柳神楽「四剣」を見る。四人の舞手が舞うのだが、天蓋の下、一間四方の中で舞う舞であって、神楽の古態を残していると思われる。

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範列的と連辞的

「範列的」paradigmaticとは言語学や文化人類学などで用いられる概念で、「連辞的」syntagmaticと対概念。鎖状に連続した諸要素のあいだに働く統合的関係を連辞的と呼ぶのに対し、多数の要素が同時並行的に関連しあう系列的選択関係を範列的という。
エドワード・W・サイード「オリエンタリズム」上 340P

文化人類学の本で「範列的」「連辞的」という語句が使用されていたのを思い出す。「オリエンタリズム」の注釈は分かりやすいものなので、メモしておく。

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2020年10月19日 (月)

平易な入門書――ケネス・J・ガーゲン「あなたへの社会構成主義」

ケネス・J・ガーゲン「あなたへの社会構成主義」(東村知子/訳, ナカニシヤ出版)を読み終える。奥付を見ると、初版15刷とあるので売れている本らしい。Amazonでもレビュー数が多かった。

構築主義(社会構成主義)について平易に解説した本。デカルトの「我思う、故に我あり」から始まり、経験主義哲学へと進み、それらの認識論はやがてポストモダン哲学で批判されることになるのだけど、その流れを平易に解説している。

社会構成主義は個人主義な認識論に異を唱え、我々は個であるのではなく、我々を結ぶ関係性の網の目の中にいるとする。そして関係性の中に意味が発生すると考えるのである。つまり、我々を取り巻く現実は社会的に構成されるのだとする。ソシュールの言語学から始まり、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームという理論が援用される。

主観と客観、どちらも絶対的なものではありえないというところか。

観念論的であるけど、では痛みはどう説明するのかという問いにも答えている。別に物体の実在までを否定している訳ではないのだ。

しかし、構築主義的に疑いはじめたらきりがない。どこかで判断停止(エポケー)しなければならないのではないか。

では自分の関心事項である文化構成主義における伝統文化も社会的に構成された想念に過ぎないことになる。極論すると虚構である。人の身体を通して表現される無形文化財の型や様式などは特にそうであろう。文化の真正性の有無について構成された(日本なら日本の、社会での)文脈に基づいて我々は伝統文化について判断していることになる。

著者は心理学者なので心理学に関する言及が多い。社会構成主義なので社会学的なものを期待していたのだけど、それは他の本で補うことになりそうだ。

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2020年10月15日 (木)

紙数が足りない――足立重和、他「構築主義の可能性」

足立重和、他「構築主義の可能性」という論文を国会図書館の遠隔複写サービスで読む。社会学における社会構成主義について、それまでのラベリング理論との論争や理論的課題について論じられたもの。抽象的な議論である上に社会学の知識が無くてあまり理解できなかった。「存在論的ゲリマンダリング」って言われても何のことかピンと来ない。恣意的な存在論というところだろうか。ゲリマンダーについては高校で習った記憶があるが。元は政治学の用語である。難解だけど、それでも上野千鶴子/編「構築主義とは何か」よりはマシだったと思う。

社会構成主義の成り立ちについては限られた紙数に全てを盛り込むことは難しいようだ。僕の頭は高等教育を受け付けなかったから大学院レベルの議論にはついていけないのだけど、やはり具体例が欲しいところである。

ところでなぜこの論文を読んだかというと、著者の足立氏の論文を以前に読んだことがあったからである。それは岐阜の郡上おどりに関する論考だったが、そこでの氏は構築主義(文化構成主義)について醒めた眼差しであるように感じられたのである。「構築主義の可能性」は氏が大学院生のときのものだから、それ以降で心境の変化があったのかもしれない。

文化構成主義でネットをググっても、天理大学のPDFしかヒットしなかった。文化構成主義については社会構成主義ほど難しくない気がするが、この立場をとると伝統文化に本物も偽物もないという結論に至ってしまう。それも何か不自然な解釈の気がするのである。

なお、
社会構成主義(Social Constructionism)
というサイトのページでは

「社会構成主義とは、「社会の様々な事象は人々の頭の中で作り上げられたもの(認知)であり、そを離れて社会は存在しない」とする社会学の立場を表す。」

「こうした見方は極めて哲学的で、分析的アプローチとは合い入れないことから、社会構成主義は社会科学者の間で次第に廃れていくこととなった。」

とある。

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2020年10月13日 (火)

文化財保護法から無形文化遺産保護条約まで――俵木悟「文化財/文化遺産としての民俗芸能 無形文化遺産時代の研究と保護」

俵木悟「文化財/文化遺産としての民俗芸能 無形文化遺産時代の研究と保護」(勉誠出版)を読む。いわゆる民俗芸能は無形文化財に分類される。それは人の身体をもって体現されることで可視化されるものだ。無形の文化財としての保存という観点から文化財保護法、保存会、映像としての記録、アーカイブ化からユネスコの無形文化遺産保護条約までに渡って多面的に論じられている。

日本における文化財保護という制度の骨子は、ある文化の様式(型)に価値を認めて、その様式を可能な限り従前のとおり保存するということにある。

文化財保護法は戦後1950年(昭和25年)に制定され、無形文化財も初めて対象となった。無形文化財の選定基準としては古典芸能(文楽など)の他に民謡、神楽、郷土芸能、民間伝承、行事等が挙げられている。なお、民俗資料も有形文化財に含まれている。

1954年(昭和29年)には文化財保護法は改正され、無形の民俗資料を「記録作成等の措置を講ずべき」ものとして選択の対象とした。一方で無形文化財についても指定制度が導入され、従前の無形文化財は全て一旦選定を解かれた。また重要無形文化財の指定および記録作成等の措置を講ずべき無形文化財の選択とに分けられた。つまり指定と選択との二つの基準に分類される。この選択基準に「民俗芸能」という言葉が初めて用いられている。なぜ指定ではなく選択だったのかだが、民俗芸能は時代に応じて変化するものであり、自然に発生し自然に消滅するという点で指定制度に馴染まないからとされている。また重要無形文化財の指定には保持者つまり体現者(自然人に限る、複数可)を挙げなければならないという制約があった。その点で没個性的な民俗芸能は区別されたのである。

しかし、中央では民俗芸能が記録作成等の措置を講ずべき無形文化財として選択されるのは1970年になってのことだった。なお、この間、地方では無形文化財としての指定が進んでいた。そして地方で無形文化財として指定された民俗芸能が国によって記録作成等の措置を講ずべき無形文化財として選択されていくことになる。

信仰儀礼や行事の文化財指定の要望が神社庁を始めとした民間有志一同から出されるが、文化庁は憲法に定められた信教の自由および公金の支出制限等に抵触するとして難色を示した。そこで信仰儀礼・行事は宗教的意義によってではなく文化的意義によって保護されるべきとの反論が出される。対して文化庁は無形の民俗資料として指定するには制度の改正が必要であり、時代とともに変化する無形の民俗資料の性格からして問題がある(指定は意味がない)と返答する。

1975年、衆議院文教委員会文化財保護に関する小委員会で、無形文化財と民俗資料について本田安次が参考人として意見を述べた。本田安次は全国を隈なくフィールドワークし、一代で民俗芸能研究の基礎を築いた民俗芸能の大家である、

1975年(昭和50年)文化財保護法が改正され民俗資料は民俗文化財と名称を変え、これを有形と無形に分類した上で、双方に指定制度が設けられた。そこで「わが国民の生活の推移の理解のため欠くことのできないもの」という基準が示された。それはコレクション指定的なもので個々のものとしてよりも、それらが一定数集まることによって比較や分類が可能になる、つまり他のものとの比較研究によってその系統や変遷を知ることができるという点に重点が置かれた。また、重要無形民俗文化財については保持者または保持団体の認定制度は採らないこととされた。なお、実際には重要無形文化財についてその保存に当たることが適当と認められる者に対し、保存に要する経費の一部を補助している。

能・歌舞伎・文楽といった舞台芸術はその芸術性が高く評価されているが、一方、民俗芸能の芸術的側面は否定され、もっぱら歴史的価値に重点が置かれている。

民俗芸能の指定基準案には折口信夫の弟子である池田弥三郎の芸能観が色濃く反映されているとしている。曰く、民俗芸能を芸術として見ない、美学の対象としないというものである。

民俗芸能を保存する組織として保存会の存在が挙げられる。保存会の多くは文化財保護法の成立以後に設立されたものである。そして「型の伝承」という無形文化財的な発想から生まれたものであるとする。無形文化財の指定にはその保持者(体現者)が必要であるが、民俗芸能の場合、多数の保持者がいる。また芸能によっては一定期間で演者が変わる性格のものがあることから保存会形式が適当であった。なお、保存会には演者のみならず行政担当者や民俗学者なども属するものである。

映像記録についてはフィルム撮影の時代にはコスト、技術的なハードルが高かったが、ビデオ撮影の普及でコストの低廉化が図れるようになった。現在は2k、4Kといった高解像度映像の記録も可能である(8Kもあるが、2020年時点では4K60pが現実的な上限と考えられる)。なお、映像記録にはありのままの姿ではなく現実のある部分を何らかの意図に基づいて切り取って見せるという限界がある。

企画段階で何のために記録を作成するのか目的を明確にしておくことが重要である。目的とは主に記録保存、伝承・後継者育成、広報・普及などが挙げられる。目的が明確でないと「使えない」映像となる怖れがある。

映像記録のアーカイブ化も必要である。全国的なアーカイブは実現性が低く、分散型のアーカイブが望ましいのではないかとしている。また博物館や図書館への収蔵も望ましい。図書館は全国的にOPACが導入されていて利便性が高い。

また、ユネスコを中心とした国際的な無形文化遺産の保護に関する取り組みも挙げられる。

1970年代にユネスコに対し開発途上国からフォークロアの著作権保護に関する対策の求めがあった。これは先住民の伝統的な治療法や薬学の知識がそれを発見したとする先進国の製薬会社や研究者によって特許申請されるといった問題や、サイモン&ガーファンクルが歌ったアンデスの民俗曲「コンドルは飛んでいく」の大ヒットなどが例として挙げられる。

フォークロアにはその創作がいつ誰によって行われたのか明確でないという匿名性という属性がある。また、フォークロアの創作には常に先例があり独創性の要件を満たすことが難しい。つまり著作権保護に馴染まない性格がフォークロアには認められる。そこで既存の法的保護とは異なる保護のあり方が必要なのだとされた。

また、1972年には世界遺産条約が採択された。有形の文化遺産保護の国際条約が実現したことで、そこに含まれなかった無形の文化遺産をめぐる制度形成の期待が高まった(無形文化遺産が有形のそれの無形版であるという誤解も生まれた)。

ユネスコはその後、WIPO(世界知的所有権機関)と協力してフォークロアの保護について分業体制で取り組みを進めた。

1982年にはフォークロアの定義がなされた。「フォークロア(より広義には、伝統文化)は、文化的・社会的アイデンティティの適切な表現であるというコミュニティの期待を反映した、集団や個人による、集団指向で伝統に基づいた創作である。その規範と価値は、模倣やその他の方法によって口承的に伝えられる」というものである。

1985年にはフォークロアの総体的な保護に関する国際規則は条約ではなく勧告(努力目標)の形をとることが決められた。1988年には「伝統的文化及び民間伝承の保護に関する勧告」が採択された。

1992年にはユネスコは新たに「無形文化遺産」プログラムの作成に取り掛かる。人類学的視点――行為のシステムを探求する――が取り入れられ、型の保護から、そのような文化を生み出し伝えてきた全体的なメカニズムや、それを支える社会関係に議論の焦点が移行していく。プロセスもしくは動態的な分析だ。つまり民俗学的な視点から人類学的な視点に変化している。この頃からフォークロアに代わって無形文化遺産という名称と概念が用いられる様になる(フォークロアには蔑称的なニュアンスがあるとする見方もある)。ちなみに、遅れて世界遺産条約を批准した日本が無形文化遺産保護のパイオニアとして国際的プレゼンスを高めていく。

1998年には人類の口承及び無形遺産の傑作(masterpiece)の宣言にかかる選考基準「たぐいない価値(outstanding value)」等を含む規約が定められた。

この間、スミソニアン会合で1989年勧告は時代遅れの内容と断じられ、伝統文化とフォークロアに関する新しい法的・行政的な保護の手法を開発することが提案された。

2001年にはイタリアのトリノ会議で「無形文化遺産」の定義が採択された。「(無形文化遺産とは)人びとによって伝えられ、開発された知識、技能、創造性、それらが生み出す産物、そしてそれらの存続に必要な資源、空間、その他の社会的及び自然的コンテクストとともにある人びとの学習されたプロセスであり、これらのプロセスは生きているコミュニティに前世代からの継続の感覚をもたらし、文化的アイデンティティにとって重要なものであり、また文化の多様性と人類の創造性を保護するためにも重要なものである。」

2001年にユネスコ総会で採択された「文化的多様性に関する世界宣言」とによって無形文化遺産と文化多様性が政治的に結び付けられた。

2003年10月、ユネスコ総会において無形文化遺産の保護に関する条約は採択された。
条約の締約国が30国を超えた三か月後の2006年4月20日に同条約は発効し、第一回の締約国総会が六月に開催された。

運用は波乱含みで、多くの無形文化遺産を記載する代表一覧表を巡って、一定の価値を保証するリスト方式を要求するグループ(日本が率先した)と、それに反対し、締約国の提案をほぼ尊重してほぼ無条件の登録方式を目指すグループとの対立があった。妥協案として価値評価を極力排除した例示的リストというかたちで代表一覧表の仕組みが実現した。また、最初の選考結果から案件の地理的不均衡が問題となった。、

2010年11月にケニアのナイロビで開催された政府間委員会で実質的な審査件数の上限が設けられた。

2015年からは代表一覧表について六名の締約国からの代表と六名の認定NGOの専門家から構成される単一の評価機関によって事前審査を行う方法に変更された。つまり外部の評価を受け入れる路線変更である。

著者の俵木氏は1990年代末の根本理念の転向が現在の条約の基本姿勢を形成しているのに対して、日本のやり方は専門家と行政の指導による伝統的な型や様式の保護という言わば「それ以前」の対極的な手法を今も保護の理念の中核に置いている(それ自体が悪い訳ではないが)と指摘している。

2005年、世界知的所有権(WIPO)の「知的財産と遺伝資源、伝統的知識及びフォークロアに関する政府間委員会」の会合で中南米やアフリカなどの発展途上国が中心となってフォークロアに関しても許可なく複製や翻案をさせない強い権利を、その文化を生んだ地域や民族に与えるよう要求しているのに対して、先進国側はあくまで既存の法体系に基づき各国別に対応すればよいとの消極的姿勢をとり、対立している。が、日本の民俗学者の反応は鈍い。

遺伝資源、伝統的知識、フォークロアの三つのなかでフォークロアは狭義の伝統的知識と区別され、特に芸術的な表現を指す用語である。その内容は、1.言語的表現、2.音楽的表現、3.身振りによる表現、4.有形の表現に分類される。

日本では1.財産的側面、2.人格権的側面、3.文化財的側面が保護の根拠となるが、各国がそれぞれ自国の文化・慣習に合わせて制度を柔軟に選択し、既存の関連諸領域の制度との整合性をふまえて包括的に保護制度を構築することが望ましいという態度である。創作者を特定できないものには人格権的な保護も与えられないし、そもそもフォークロアは公有(パブリックドメイン)に帰したものであって、その一律な保護は正当な文化的創作活動を阻害する可能性があるゆえに認められないとする。

日本での現実的な対応としては特許庁へ商標登録出願することなどが挙げられる。

日本の民俗学においてはフォークロアは周圏的な分布や系統的理解、つまり比較することによる研究を重視してきたとしている。その点で個々の真正性(オーセンティシィ)を重視する海外のフォークロアの解釈とは異なる態度である。

ここで俵木氏は権利の法的保護は市場経済と法治国家のヘゲモニーに近い立場のものに有利に働くだろうとしている。

ユネスコ世界レポートの報告では文化の多様性を「異文化間の対話を通して最善に管理された文化変化を含むダイナミックなプロセス」と定義している。文化の変化は多様性を脅かすものどころか、多様性を生み出す力としてその理念の中核に位置付けられたとしている。

まとめとして、変化、当事者性、管理が挙げられる。

繰り返しになるが、日本における文化財保護という制度の骨子は、ある文化の様式に価値を認めて、その様式を可能な限り従前のとおり保存するということにある。つまり基本理念として様式の変化(変更)が価値の喪失に繋がるという考えである。ただ、無形文化財の様式は人が体現する「わざ」の集積であり、その現状は上演の度に現れては消えるものである。したがって厳密に現状がそれ以前の状態と同じであることを保証するのは不可能である。

1975年(昭和50年)の法改正で民俗芸能の無形文化財から民俗文化財への移管に伴って、風俗慣習等の従来の無形の民俗文化財のなかにも「特定の型」の存在を認め、その保存にあたる団体を特定することで永続的な保存が可能となるという認識が持ち込まれ指定制度に繋がったのである。

一方で、1989年の勧告では無形文化遺産を「最終産物(end product)と扱ったのに対して、ユネスコのスミソニアン会議では創作や実施に人間が直接携わる行為や過程(process)こそが無形文化遺産と見なされるべきであると無形文化財の定義が決定的に修正された。2009年のユネスコ世界レポートでは文化の多様性を「異文化の対話を通して最善に管理された文化変化を含むダイナミックなプロセス」と定義している。

つまり、伝えられてきた文化が変化することは一律に価値の喪失を意味するのではなく、その変化のプロセスを追い、個々の変化の事例をそれぞれのローカルな文脈の中で理解することが求められるようになるだろうとしている。

当事者性については、日本の文化財保護法における民俗文化財は「我が国民の生活の推移の理解のため欠くことのできないもの」と定義されている。この場合の国民は実体としての国民を意味すると同時に一部特定の者ではないという意味合いを含んでいる。

これに対してユネスコの無形文化遺産保護条約では、その遺産に「関係するコミュニティ、集団、可能であれば個人」が重要な役割を果たすことを強調している。これには無形文化遺産の保護が当初は文化の知的財産権保護の要求から発していた経緯がある。

日本の文化財保護法は国民という不特定多数の権利が担い手という一部特定の者のそれより優先される全体志向に依っている。それに対し、ユネスコの場合、理念上は全体と個の間でどちらが優先されるかを認めていない。

無形文化遺産の考え方は「担い手がその内容を変更したいと望む場合は、それは彼らの権利であり、計画、実行から評価に至る無形遺産の保護活動のすべての過程で担い手のコミュニティーが参加することが不可欠である」というものである。そのプロセスを保護するのが無形文化遺産の保護の考え方である。

遺産の管理という観点については、無形文化遺産保護条約には頻度は低いものの、遺産の「管理」という語が重要な意味(よりいっそう深い関与)で使われている。管理という言葉は日本の文化財保護法でも使用されている。ただ、この場合の管理とは所有者もしくは所有者に代わる者としての管理責任者の手続きに関する条項であり、実質的に当該文化財を管理・処分する者の権利と義務を定めた条項に過ぎない。そしてこの管理に関する条項は無形の文化財には適用されていない。法学的な概念ではない管理については過去から将来へのプロセスを把握するのに役立つのである。

日本の文化財保護法を巡っては所有は私的な性格の強い権利と見なされてきたのに対し、用益は公的に開かれたものと考えられてきた。この二極に対し、管理に焦点を当てることで、その中間領域とも言える「共」的な社会関係によって実際の民俗芸能が伝えられる状況と文化財や文化遺産という制度の接点を見直そうと著者は提案する。

ただ、コモンズの用益的アプローチは民俗芸能の事例に当てはめて考えることは難しい。民俗芸能の大半はそもそも不特定の観客に開かれているとは言いがたい(例えば神社での祭は氏子のためのものである)。言わば「招かれざる客」としての観客の観点から考えるのは無理がある。

一方で管理アプローチは一定のメンバーに権利が限定されるローカル・コモンズに親和的となる。

従来の研究において変化はしばしば文脈依存的あるいは環境決定的に語られてきたが、管理の観点からはそのも主体の判断と不可分である。一見すると様式的には変化していないように見えるものも、それは「変わらない」「変化させない」やり方を選んで体現する主体の働きかけ(管理)の結果である。そしてこのような判断や合意形成のプロセスに正統に参加する人びとの集団こそが、当該民俗芸能の当事者として構成されるのである。

無形遺産保護条約の核心には、このような管理の実践の積み重ねによって文化の多様性が実現されることが期されるという趣意がある。

以下、考察。

無形文化遺産に指定されるには「たぐいない価値(outstanding value)」が必要とされる。それは誰が判定するのか。真正性(オーセンティシティ)の問題だ。当初は締約国の自薦に近い形だったようだが、2015年から外部の審査を受ける形となっている。

無形文化遺産の定義としてスミソニアン会議でプロセス重視という方向性に転換した。これには民俗学的解釈から人類学的解釈へ転換されたという面がある。プロセス重視、つまり変化も多様性を担保するとして認める動態重視的態度だが、これには構築主義的思考が深く関わっていないか。真正性を重視する本質主義的な態度から大きく転換している。しかし構築主義を突き詰めると文化に本物も偽物もない、つまり何でありとなり、議論の方向性によってはカオスな状況となるのではないか。

変化も多様性のあり方の一つとして受け入れる。一方で変化しないことを選択することも可能である。しかし、文化人類学には植民地主義的側面がある。支配する/支配されるという力関係である。西洋列強の植民地支配は全世界を覆った。すなわち旧植民地だった国々には支配の影が色濃く残されている。それをも何の反省も無しに受け入れるというのか。植民地支配自体は覆せない歴史的事実である。しかし、それは随分と西洋列強にとって都合がいい理論なのではないか。

日本の事例で考えると、日本遺産に石見神楽が選ばれた。石見神楽は変化に寛容的な郷土芸能である。その姿勢にはしばしば「ショーである」という批判が投げかけられてきた。変化を多様性の発揮と見るならば、石見神楽には(芸北神楽を含め)飛躍的発展を遂げる可能性すらあることになる。日本遺産がどういうスタンスなのか知らないけれども。

これまで民俗芸能の保存と活用は二項対立的なものとして考えられてきた(文化財保護法と通称おまつり法)。今後は保存/活用と表裏一体のものとして考える契機となるのではないか。

なお、この本は法学書ではないので、文化財保護法という一つの法律が複数の論文によってそれぞれの観点から説明されるものとなっている。その点では要点がばらばらに分散しているという印象もある。

……途中から本の丸写しとなった。大学のレポートだと不可になる(パソコンの普及していない時代だと丸写しでもよかったのだけど)。文化財保護法はまとめるのに前後を参照しつつとなった。

<追記>
例えば佐渡島の鼓童は歌舞伎ともコラボレーションしたり海外公演を行ったりと評価が高いけれど、でも鼓童を国や県の重要無形民俗文化財に指定しようとする動きは考えられない。それは鼓童が昭和の結成であることや昭和の創作和太鼓の流れにある、つまり歴史的要因に帰せられるであろう。鼓童が百年単位の歴史を持ては話は違うだろう。また現状、鼓童側としても特別に保護される理由が無いのである。

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2020年10月11日 (日)

山陰の夏の味覚――ぼべご飯(ぼべ貝の炊き込みご飯)

ぼべ貝は海岸の岩場に張り付いている小さな貝で、ドライバーなどを使って取るものです。山陰の夏の味覚です。写真のぼべご飯は叔母が持ってきてくれたもので、叔母の娘(従姉)の嫁ぎ先から貝をもらったものだとか。ぼべ貝の炊き込みご飯、浜田の夏場の名物料理にできないのでしょうか。

ぼべご飯(ぼべ貝の炊き込みご飯)

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2020年10月 6日 (火)

ステージ上の芸能――橋本裕之「舞台の上の文化 まつり・民俗芸能・博物館」

橋本裕之「舞台の上の文化 まつり・民俗芸能・博物館」(追手門大学出版会)を読む。舞台の上の文化というのは要するにステージ上で演じられる芸能のことだろう。ある民俗音楽学者は芸能が本来の文脈(奉納神楽とか)を離れてステージ上で演じられたら、それは芸能のショー化だと言って厳しく批判した。

民俗芸能には二つの法律が深く関わっている。文化財保護法は戦後に制定された法律だけど、制定当初は民俗芸能は時代に応じて変化するもので保存に馴染まないという理由で指定の対象から外されていた(記録作成の選択対象となっていた)。が、後に保存に馴染まないから無形文化財としての保存が必要だにロジックが切り替わり指定の対象となったのである。

それともう一つ平成初期に制定された通称おまつり法、これは郷土芸能を観光資源として地域おこしに活用する趣旨の法律だ。この法律に民俗学者たちは一斉にネガティブでヒステリックな批判の声を挙げた。前述のステージで演じられる芸能はショーだという批判もその一つである。

この批判は郷土芸能の持つ真正性が損なわれるという点で本質主義的なものである。一方で著者の橋本氏はおまつり法を観光的な文脈で読み解けないかと検討している。芸能の持つ真正性を脱中心化したいとのことである。要するに平成に入った辺りから論じられるようになった構築主義的なスタンスである。なお、著者の橋本氏は構築主義という言葉を用いていない。

民俗芸能的な研究は元を辿ると戦前に刊行された旅行雑誌に行きつくのである。近代に入って鉄道や郵便網が整備され、移動が活発化した。観光と民俗芸能は元々深い関わりがあったのであるが、民俗学者たちはその事実を隠蔽し、旅行雑誌を一段劣るものと見なしたのである。橋本氏のスタンスは原点に回帰する的なニュアンスも含まれる。

私見だが、民俗芸能の保存と活用は二項対立的なものでなく現代では表裏一体のものとしてあるのではないか。

創作和太鼓は近年発足したもので、民俗芸能としての真正性を欠いているのだが、現在では地域おこしの核としても期待されている。

博物館論についても触れられる。初読なので核心的な部分は理解できていないが、博物館には展示者側の意図した見方がある一方、来館者たちは必ずしも展示者の意図とは異なった見方をするものである。そういう意味では屈折した関係である。

田楽の復元に関わった経緯についても語られる。中世の田楽を現代に再現しようという試みである。このときの経験がきっかけで後にNHKの大河ドラマ「義経」の芸能考証として参加することになったそうだ。

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2020年10月 4日 (日)

浜田市の外浦湾(日本遺産)

浜田市の外浦湾は北前船の交易で栄えた港でもあった。見ての通り細長い湾で北風を避ける良港だったのである。往事は遊郭もあったとされる。現在、外浦湾は日本遺産に指定されている。

島根県浜田市の外浦湾
島根県浜田市の外浦湾
島根県浜田市の外浦湾
島根県浜田市の外浦湾とヨット
島根県浜田市の外浦湾とヨット
島根県浜田市の外浦湾
島根県浜田市の外浦湾
島根県浜田市の外浦湾
 島根県浜田市の外浦湾
ここからの写真は向かい岸側から撮ったものです。
向かい岸から見た島根県浜田市の外浦湾
向かい岸から見た島根県浜田市の外浦湾
向かい岸から見た島根県浜田市の外浦湾
向かい岸から見た島根県浜田市の外浦湾
向かい岸から見た島根県浜田市の外浦湾
向かい岸から見た島根県浜田市の外浦湾と三階山
ここから引き返します。
向かい岸から見た島根県浜田市の外浦湾
向かい岸から見た島根県浜田市の外浦湾
向かい岸から見た島根県浜田市の外浦湾・最奥部

子供の頃、母と松原の親戚の家に遊びに行って、帰りに「今日はこっちを通って帰ろう」となったのが外浦湾を知った始めだった。海が間際まで迫っているので怖く思ったことを記憶している。

シグマdp1 Quattroで撮影。

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2020年10月 3日 (土)

折口からストリップまで――橋本裕之「芸能的思考」

橋本裕之「芸能的思考」を読む。橋本氏は民俗芸能だけでなくて演劇学も専攻していて、パフォーマンス論的な論考集となっている。本書の半分はストリップを含む大衆芸能に充てられている。大衆芸能はいわば民俗芸能が対象としてこなかったジャンルである。ストリップは戦後始まったものであるが、温泉に行ったことがきっかけでストリップの世界にのめり込むようになる。ストリップ嬢と親しくなって聞き取りとかする訳である。

僕もストリップは川崎と今は無き渋谷だったかで二度ほど見たことがある。そのときは裸という衣装をまとっているようだなと思わされた。

大衆芸能では他に叶麗子という通天閣の歌姫が取り上げられる。通天閣の劇場で圧倒的な人気を誇る女性演歌歌手。そして僕自身は行ったことがないが、通天閣を取り囲む新世界の沿革が取り上げられる。

もちろん民俗芸能的な論考もあって折口の芸能の発生を解いた論考などが挙げられる。芸能は祭祀から発生したが、祭祀が発達するにつれてやがてそこに招かれざる客が登場する。外から来た見物客である。見る/見られるの関係の発生である。

また柳田の行った山村調査で自分では笑わないで他人を笑わせるといった人はいますかという質問項目を取り上げる。お笑い芸人の発生である。なお、柳田は笑いを優越者が劣位の者に対して行う攻撃的なものと考えていたようだ。笑い合うという状況は等閑視されている訳だ。

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2020年10月 2日 (金)

本館の実績 2020年4月~9月

本館の実績 2020年4月~9月
4月  PV:1173 Visit:829 UU:782
5月  PV:1788 Visit:1224 UU:1123
6月  PV:1536 Visit:1134 UU:1073
7月  PV:1583 Visit:1273 UU:1184
8月  PV:1774 Visit:1414 UU:1317
9月  PV:1823 Visit:1095 UU:1032

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