« 当時は気づかずにスルーしていた | トップページ | 4/12 葛城山(土蜘蛛) »

2020年9月 2日 (水)

元が博士論文ゆえに一般人には読みづらい――長澤壮平「早池峰神楽 舞の象徴と社会的実践」

長澤壮平「早池峰神楽 舞の象徴と社会的実践」(岩田書院)を読む。第一部では岩手の岳神楽の式六番について舞の振り付けを言語化して記述し、所作の意味とそれがもたらす力について分析する。が、これは実際に舞ったことがあるか長年鑑賞している人でないと通じないだろう。写真も多数添付されているが、白黒で小さく読み飛ばしてしまった。元は博士論文だから仕方ないが、動画で解説した方が遙かに分かりやすいはずだ。

第二部ではインタビューを交えて岳神楽の身体性や心性が分析される。が、抽象的で具体的に何を言わんとしているのか把握できない。例えば「主観的経験の力動性のパターン」という言葉が出てくるが、これだけを文脈から切り離して取り出したら何を言わんとしているのかさっぱりである。的確な日本語は無かったのか。

ちなみに、引用されている他人の論文だけど「身体資源の再配分」という言葉を用いるものがあった。「身体資源の再配分」とは要するに芸能で役をある人に割り振ることなのだ。要するに配役である。学問だから厳密に論じなければならないことは分かるが、それにしても分かりにくい。

著者は筑波大出身の宗教社会学者だが、民俗芸能というのは学者間でしか通じない言葉でしか語れないものだろうか。まあ、要するに抽象的な概念を駆使できない僕の頭が悪いということではあるが。

岳神楽でも文化の客体化――文化の客体化とは平たく言うと、文化を本来の文脈から切り離して操作可能なモノとすること――が起きているとする。それは昭和初期に本田安次に「発見」されていらい、学者、行政、観光客といった視線に晒される様になった帰結である。だが、岳神楽の伝承者たちは神事を「やる」、イベントを「見せる」と明らかに別のものとして扱っている。岳神楽の舞台は注連縄で四方を区切ったところに成立するのだが、伝承者たちの内面でも内的統一が成されていると分析している。

また、岳神楽のもたらす心的資源について考察される。心的資源とは抽象的だが、心を動かす、かつ行動の動因となる「良き事」である。インタビューで演者、地元民、地元外の観客の心境が語られる。そこには神楽体験によって「祈り」「喜び」「おそれ」「浄化」「活性化」といったスピリチュアリティ(霊性、精神性)が見いだされるとする。

第10章では「主観的経験の力動性のパターン」が連発するので要約できない。

<追記>
2024年2月3日と4日に横浜市元町中華街のシルクロード舞踏館で岳神楽の公演が催された。鶏舞から権現舞まで基本的な演目が二日間で11演目上演された。

僕は石見神楽を見て育ったので生得的に神楽を田舎のエンタメとして見ている。そういう意味では早池峰神楽に霊的、スピリチュアルな印象は受けなかった。神社でなくホールで見たという点も考慮しなければならないが。

権現さまの頭に神が降りるという解釈は一応知っている。僕自身は霊性というよりプリミティブな方に惹かれたということである。

たとえば、埼玉県久喜市の鷲宮神社の催馬楽神楽「磐戸照開諸神大喜段」では巫女さん二人が鈴を鳴らす場面がある。鈴の音が重なると神秘的な音色になるのである。僕でもそういうのは分かる。

むしろ太鼓や舞の力強さが印象に残った。激しい太鼓の鼓動、激しいビートとリズムに触れることで精神を年に一度リフレッシュさせるのではないかと思った。そう考えると鎮魂論からもそう外れていないはずである。

早池峰神楽は動画で少し見ていたが印象が全く異なった。やはりライブでないと分からないことはある。オースランダーの「ライブネス」はやはり的外れであると感じる。どれだけ高価なホームシアターを組んでも再現できない重低音がある。再現できたら騒音公害になる。

それと、舞の振り付けを言語化し意味を探る方針には無理があるのではないかと思う。早池峰神楽では結界内を東南西北と巡る足取りはないようである。演じ手も足取りは説明できると思うが、手の振り付けに関しては上手く説明できないのではなかろうか。

早池峰神楽は冬場に農家や商家を神楽宿にして巡業する側面も持っており、庶民の娯楽でもあるという観点を欠いてしまうと片手落ちになるのではないか。「崇高」なものとだけ捉えてしまうと認識にずれが生じてしまうような気がする。

……そういう訳で神楽を実見できたので再読したいと思ったのだが、引っ越しの下準備で段ボール箱に入れてしまった。探すのに手間がかかる。

|

« 当時は気づかずにスルーしていた | トップページ | 4/12 葛城山(土蜘蛛) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

神楽」カテゴリの記事