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2020年9月 2日 (水)

元が博士論文ゆえに一般人には読みづらい――長澤壮平「早池峰神楽 舞の象徴と社会的実践」

長澤壮平「早池峰神楽 舞の象徴と社会的実践」(岩田書院)を読む。第一部では岩手の岳神楽の式六番について舞の振り付けを言語化して記述し、所作の意味とそれがもたらす力について分析する。が、これは実際に舞ったことがあるか長年鑑賞している人でないと通じないだろう。写真も多数添付されているが、白黒で小さく読み飛ばしてしまった。元は博士論文だから仕方ないが、動画で解説した方が遙かに分かりやすいはずだ。

第二部ではインタビューを交えて岳神楽の身体性や心性が分析される。が、抽象的で具体的に何を言わんとしているのか把握できない。例えば「主観的経験の力動性のパターン」という言葉が出てくるが、これだけを文脈から切り離して取り出したら何を言わんとしているのかさっぱりである。

ちなみに、引用されている他人の論文だけど「身体資源の再配分」という言葉を用いるものがあった。「身体資源の再配分」とは要するに芸能で役をある人に割り振ることなのだ。学問だから厳密に論じなければならないことは分かるが、それにしても分かりにくい。

著者は筑波大出身の宗教社会学者だが、民俗芸能というのは学者間でしか通じない言葉でしか語れないものだろうか。まあ、要するに抽象的な概念を駆使できない僕の頭が悪いということではあるが。

岳神楽でも文化の客体化――文化の客体化とは平たく言うと、文化を本来の文脈から切り離して操作可能なモノとすること――が起きているとする。それは昭和初期に本田安次に「発見」されていらい、学者、行政、観光客といった視線に晒される様になった帰結である。だが、岳神楽の伝承者たちは神事を「やる」、イベントを「見せる」と明らかに別のものとして扱っている。岳神楽の舞台は注連縄で四方を区切ったところに成立するのだが、伝承者たちの内面でも内的統一が成されていると分析している。

また、岳神楽のもたらす心的資源について考察される。心的資源とは抽象的だが、心を動かす、かつ行動の動因となる「良き事」である。インタビューで演者、地元民、地元外の観客の心境が語られる。そこには神楽体験によって「祈り」「喜び」「おそれ」「浄化」「活性化」といったスピリチュアリティ(霊性、精神性)が見いだされるとする。

第10章では「主観的経験の力動性のパターン」が連発するので要約できない。

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