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2020年9月

2020年9月30日 (水)

次回、クライマックス――佐藤両々「カグラ舞う!」

月刊ヤングキングアワーズ11月号を買う。佐藤両々「カグラ舞う!」練習も一段落し、いよいよ神楽甲子園に向けてスタンバイというところまでくる。なお、次回クライマックスとあるので、次号が最終回だろうか。なかなか二巻が出ないので不思議に思っていたのだが、二巻構成で終わりというところだろうか。

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2020年9月28日 (月)

復興に奔走する――橋本裕之「震災と芸能 地域再生の原動力」

橋本裕之「震災と芸能 地域再生の原動力」を読む。2015年に初版が出ており、東日本大震災から四年が経過した頃に出版されたものとなる。著者の橋本氏が民俗芸能という無形文化財の分野で復興に奔走した様子が描かれている。民俗芸能は不要不急のものではなく、地域に暮らす人たちの生活のよりどころなのである。

郷土芸能の復興には三つのステージがあって、第一段階は太鼓や衣装など道具類の調達、第二段階は練習できる場所(仮設でも)の確保、そして第三段階が郷土芸能に携わる人たちの雇用の場の確保となっている。

事例として鵜鳥神楽などが挙げられる。鵜鳥神楽は岩手県沿岸部に点在する宿を巡業して回るのが特徴であるが、津波で宿となる家屋が流されたため、巡業できない事態となった。そこで家屋の残った(風呂は壊れていたが)有志が宿として名乗りを挙げ、神楽実施に及んだもの。鵜鳥神楽は芸術面でも優れているが、地元の人たちに深く信仰されている、そういう意味では娯楽的な面も併せ持つ神楽であるとのこと。

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2020年9月27日 (日)

これが阿須那手か

浜田駅裏のJUSTで神楽DVDを購入する。選択の決め手となったのは「真榊」という未見の儀式舞と広島の梶矢神楽団の存在。広島の多くの神楽団に影響を与えている団体である。

■神楽DVD「年末太刀納 玄武の舞2019」上巻を見る。久木社中の「真榊」は初めて見る。これだけのために買ったようなものである。20分ほどの儀式舞。六調子の「手草」を改変した演目だが、思ったより奏楽のテンポが速かった。

美川西神楽保存会「熊襲」は女性がヤマトタケル役を務めている。クマソタケルは関東のと違って威厳のある面を着けている。茶利がいるが何をしゃべっているかよく聞こえない。おかめさんも登場。実際に日本酒を飲ませる。激しい舞なのに酔いが回らないのだろうか。クマソタケルはあっさり退治され、むしろその後の茶利との対決の方が長い。茶利、最後は幕の向こうに逃げてしまう。

匹見神楽社中「東大和」を見る。ヤマトタケル命が叔母の倭姫から草薙の太刀を譲り受け、剣の働きで難を逃れる……という筋だと思う。口上が聞き取れなかった。

出羽神楽団「紅葉狩」を見る。邑南町の神樂団。芸北神楽の「紅葉狩」が石見神楽に流入したものと思われる。

■神楽DVD「年末太刀納神楽 玄武の舞2015」下巻を買う。大都神楽団「五郎の王子」を見る。口上がよく聞き取れないのが残念である。

梶矢神楽団「人身御供」は猿神退治。広島の多くの神楽団に影響を与えている団体がゲストとして参加している。これが阿須那手なのかという印象。音声レベルが低くて口上が聞き取れないので主人公の名は分からない。主人公、相手の猩々に刀を奪われてしまうのだけど、猿真似をする習性を利用して見事に剣を取り戻す。

神楽DVD、上府社中の「大江山」を見る。途中で眠くなって半分くらい意識が飛んでいる。後で見直そう。

久木社中の「天神」を見る。道真公と随身が登場する。セリフが聞き取れないのだが、悪役は藤原時平だろうか。随身だけが戦うのでなく、道真公も戦う内容だった。

■神楽DVD「年末太刀納神楽 玄武の舞2015」上巻を見る。梶矢神樂団「鈴鹿山」を見る。田村将軍が目の見えない鬼と戦う。目が見えないので紐を引き合いながら戦う。

大都神楽団の「羅生門」を見る。渡辺綱が他の四天王たちと語らっていて、要するに肝試しで夜の羅生門に行く。そこで鬼(多分、茨木童子)と遭遇、鬼の片腕を切り落とす。すると鬼の親玉(多分、酒呑童子)が綱の養母か叔母に変身して綱に近づく。まんまと腕を取り戻した酒呑童子と茨木童子に四天王が挑むが、身を引いてしまう。今回、悪の勝利ということで、決着は「大江山」に持ち越される。老婆と鬼の演じ分けが見事であった。

久木社中の「羅城門(前篇)」を見る。こちらは渡辺綱が茨木童子の腕を切り落としたところで終わる。

上府社中「神祇太鼓」を見る。振付ありの演奏。掌の上でシャーペンを回すあの要領で片方のバチを回しながら太鼓を叩くのは難しそうだ。

 

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2020年9月23日 (水)

急遽、帰省 2020.09

昼1時半ののぞみ35号で広島まで行く。滋賀在住の姉から実家の電話機が壊れたかもしれないから行ってくれと頼まれて。コロナ禍の影響か室内は空いていて、窓側の席が取れた。窓側の席なのでシグマdp1 Quattroで車窓の風景を写真に撮りながら時間を潰した。ところで、なぜのぞみ号は新山口に停車しないのだろうか。広島駅で一時間ほどバスを待った後、18時20分の浜田行きに乗る。広島バスセンターの近くに原爆ドームがあることに気づく。今回、頻尿は無かった。夜9時過ぎに実家に着く。電話機の異常はなかった。結局、母の耳が遠くなっているだけだった(それも困ったことなのだが)。

ノートパソコンの再起動を繰り返す。ようやく最新の状態になった。メモリは4GB積んでいるのだが、どうやらHDDの仮想メモリを頻繁に読みに行っているらしい。メモリ増設が必要だ。

午後から外出。長沢神社から外浦湾を経由して金刀比羅神社、厳島神社、浜田護国神社、浜田城、石神社、出雲大社浜田分祠を経由して行く。途中の公園に橋本明治の像あり。かなり疲れた。
浜田城の石垣

長沢の服部タイヨーはキヌヤに変わっていた。店の中はスペース的にゆとりをもって陳列されている印象。鮮魚コーナーを覗いてみたが、服部時代の方が魚が多彩であった。キヌヤだとサクになっている身が多かったが、服部時代は丸のままの魚が多かった。港町だけど、魚が捌けない人が増えているのかもしれない。服部タイヨーはDIY店でもあり薬コーナーなどもあったのだけど、その点では不便になった。

松原の叔母が訪ねてくる。母と姉不在だったので応対する。ぼべご飯を貰う。
ぼべ貝の炊き込みご飯

駅裏のJUSTで石見神楽のDVDを買う。演目を見るに、石見神楽にも芸北神楽の新舞が浸透してきたようだ。朝日町商店街を歩く。地球堂(模型店)は現在でも営業していた。

鏡山から見た浜田市街
地球堂模型店

珍しく朝4時に起きたので一本速い特急で帰ることにする。朝6時11分のスーパーまつかぜ4号に乗って出雲市駅へ。そこで一時間ほど待った後でゆったりやくも10号に乗って岡山へ行く。それからのぞみ22号に乗って新横浜まで帰る。連休中だが車内には空きがあった。サンドイッチを注文する。1420円ですと言われて随分高くなったなと思ったら420円に修正される。
JR西・ゆったりやくも

できれば益田のグラントワに行きたかったが、横浜はコロナが流行している地域なので諦めた。なお、公式サイトによると、現在首都圏からの来客制限は解除されている。

帰って撮った写真を確認する。シグマdp1 Quattroは順光だと良い写真が撮れる。逆光だとレンズフードが必要かもしれない。

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2020年9月17日 (木)

夕市廃止だと鮮度が維持できない――島根県大田市の魚卸売市場

大田市の魚卸売市場が夕市を廃止して朝市に統一するとのニュースを知る。卸売市場が長年赤字続きだからというのがその理由。漁師さんたちにとっては早朝漁に出かけて夕方に戻ってきて、夕市で魚を売る。その魚は仲買人たちに買い付けられ、水揚げから約10時間で関西市場に届くという仕組みだったそうだ。夕市が廃止されると10時間が30時間かかることになり鮮度の問題が出てくるとのことだった。朝市まで保存するため、箱に氷を詰める作業も必要になったとのこと。コストの負担は漁師さん達である。

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2020年9月11日 (金)

4/12 葛城山(土蜘蛛)

ひろしま神楽再開プロジェクトでYoutubeにアップロードされた神楽動画を見終えたが、なぜか「葛城山(土蜘蛛)」が被っている。12演目中4演目である。各神楽団、得意の演目をということなのだろうけれど、演目の被りは調整して欲しいものである。

http://support.npo-hiroshima.jp/

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2020年9月 2日 (水)

元が博士論文ゆえに一般人には読みづらい――長澤壮平「早池峰神楽 舞の象徴と社会的実践」

長澤壮平「早池峰神楽 舞の象徴と社会的実践」(岩田書院)を読む。第一部では岩手の岳神楽の式六番について舞の振り付けを言語化して記述し、所作の意味とそれがもたらす力について分析する。が、これは実際に舞ったことがあるか長年鑑賞している人でないと通じないだろう。写真も多数添付されているが、白黒で小さく読み飛ばしてしまった。元は博士論文だから仕方ないが、動画で解説した方が遙かに分かりやすいはずだ。

第二部ではインタビューを交えて岳神楽の身体性や心性が分析される。が、抽象的で具体的に何を言わんとしているのか把握できない。例えば「主観的経験の力動性のパターン」という言葉が出てくるが、これだけを文脈から切り離して取り出したら何を言わんとしているのかさっぱりである。

ちなみに、引用されている他人の論文だけど「身体資源の再配分」という言葉を用いるものがあった。「身体資源の再配分」とは要するに芸能で役をある人に割り振ることなのだ。学問だから厳密に論じなければならないことは分かるが、それにしても分かりにくい。

著者は筑波大出身の宗教社会学者だが、民俗芸能というのは学者間でしか通じない言葉でしか語れないものだろうか。まあ、要するに抽象的な概念を駆使できない僕の頭が悪いということではあるが。

岳神楽でも文化の客体化――文化の客体化とは平たく言うと、文化を本来の文脈から切り離して操作可能なモノとすること――が起きているとする。それは昭和初期に本田安次に「発見」されていらい、学者、行政、観光客といった視線に晒される様になった帰結である。だが、岳神楽の伝承者たちは神事を「やる」、イベントを「見せる」と明らかに別のものとして扱っている。岳神楽の舞台は注連縄で四方を区切ったところに成立するのだが、伝承者たちの内面でも内的統一が成されていると分析している。

また、岳神楽のもたらす心的資源について考察される。心的資源とは抽象的だが、心を動かす、かつ行動の動因となる「良き事」である。インタビューで演者、地元民、地元外の観客の心境が語られる。そこには神楽体験によって「祈り」「喜び」「おそれ」「浄化」「活性化」といったスピリチュアリティ(霊性、精神性)が見いだされるとする。

第10章では「主観的経験の力動性のパターン」が連発するので要約できない。

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