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2020年8月

2020年8月29日 (土)

当時は気づかずにスルーしていた

パソコンのフォルダを眺めていて、足立重和「ノスタルジーを通じた伝統文化の継承―岐阜県郡上八幡市八幡町の郡上おどりの事例から―」というPDFがあるのに気づく。ネットサーフィンしていたときに目を留めたものであり、ファイルのプロパティを見ると、2014年に保存したものらしい。

この論文に文化構成主義というキーワードが登場するのだ。つまり構築主義である。僕が構築主義という言葉を意識したのは2018年くらいだから、その4年前に目にしていたことになる。PDFファイルをローカルに保存したのだから、何か思うことがあったに違いない。しかし、そのときの僕は文化構成主義という言葉を遡って調べることをしなかったらしい。興味を覚えつつもスルーしてしまっているのだ。

著者は構築主義と観光との関わりで、観光化された伝統文化は再構築された伝統として虚構であると皮肉っている。そして観光に携わる地域住民の主体性の発揮についても懐疑的な見方をしているところが特徴である。

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2020年8月28日 (金)

今月は休載

月刊ヤングキングアワーズ10月号を買う。佐藤両々「カグラ舞う!」今月は休載であった。

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コピーが届く

国会図書館で遠隔複写サービスに申し込んでいたのが届いた。コンビニで支払いを済ませる。時間はちょっと掛かるけど、自分で複写カウンターに持っていくより樂である。

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2020年8月23日 (日)

今年はコロナ禍で帰省できず 2020.08

今年の夏はコロナ禍で帰省できなかった。コロナがいつになったら収束するのか不明であり、先の見通しは立たない。

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2020年8月22日 (土)

注文解約メールが来る

紀伊国屋書店から注文解約のメールが来る。中村茂子「奥三河の花祭」という本。出版社に在庫が無かった様だ。Amazonマーケットプレイスで出品されているけれど、値段的に手が出ない。ぼったくり価格。横浜市立図書館に所蔵されているので、それを借りるか。図書館でクラスターが発生した事実はなさそうだけど、図書館内部にあまり滞在しない様に注意喚起されている。

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2020年8月15日 (土)

誰も何となくは分かっている――橋本陽介「ナラトロジー入門 プロップからジュネットまでの物語論」

橋本陽介「ナラトロジー入門 プロップからジュネットまでの物語論」(水声社)を読む。要するに物語論である。ロシアのプロップはロシアの魔法昔話が31の機能に分解されると指摘した。それは関数で物語を標記するような構想だったが、後の構造主義に影響を与えた。一方、ソシュールの言語学が人類学者レヴィ=ストロースに影響を与え構造主義が誕生した。構造主義ではバルトやジュネットらが物語論を推し進めた……というような内容である。

本の最初の方は成程と思いながら読んだのだけど、途中から「こんなことは何となく分かっていれば十分で、どうでもいい」という気分になった。もちろん、皆が何となく理解していることを学問的に解きほぐすのは大事なことでもあるのだけど。

本書は日本人が日本人向けにナラトロジーについて書き下ろしたものであり、西洋の言語と日本語の文法が違うことによる時制や視点の違いなどについて詳述されている。物語を形式/内容の二元論で語り勝ちだが、一元論的な記述を試みるのである。

ちなみに、ソシュールは日本では丸山圭三郎の研究が有名だけど、意味するものと意味されるもの、例えば、犬とはワンと鳴く四つ足の雑食性動物であるというのは事の始めから一対一の対応関係であると考えがちだけれども、実はそうではなく、言葉が混沌に満ちた世界を分節するのであると考えるのである。虹と言えば日本では七色であるけれど、外国では六色だったり三色だったりするのがそれである。

レヴィ=ストロースは例えば婚姻を女性の交換と捉える。

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2020年8月10日 (月)

91人も

島根県松江市で高校生を含む91人が新型コロナ感染、クラスター発生の速報を見て驚く。文教大学の斉藤先生に情報を貰っているのだけど、今年の神奈川の奉納神楽はほぼ全滅で練習再開もままならないとのこと。松江市は部活動で感染したのだろうか。こうなると部活動も行えない。島根県で91人はかなり大きな数字だ。

続報によると、感染者の多くはサッカー部で寮生活をしているとのこと。七月末には大阪に遠征したらしい。野球も強豪なので部員が多いだろう。更に広がるおそれもある。

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2020年8月 8日 (土)

モチーフ素にまで分解する――アラン・ダンデス他「フォークロアの理論 歴史地理的方法を超えて」

アラン・ダンデス他「フォークロアの理論 歴史地理的方法を超えて」(荒木博之/編訳, 法政大学出版局)を読む。民俗学者によるフォークロア(民俗)に関する論考。

まずフォークロアの定義からして難儀である。フォーク(民衆)とはとなると例えば日本では柳田国男の常民という概念が当てられるだろう。柳田が考えた当時は本百姓を指していたらしいけれど、英訳するとコモン・ピープルで時代によってその指すものが変化してしまうのである。農民とすると都市民が外れてしまう。また、無文字社会に暮らす人々も対象外となってしまう。ロア(伝承)についても同様である。口承で伝えられるものというニュアンスがあって、説話、ことわざ、音楽、習俗など色々あるけれども、例えば日本では民具も対象である。かなり広い内容を含んだものとなってしまうのである。

サブタイトルの「歴史地理的方法を超えて」というのは、フォークテール(民間説話)に関するフィンランド学派の歴史地理的手法を指している。フィンランド学派は民間説話を採集するに当たって、そのバリエーションを比較しモチーフを抽出、その説話がどのように伝播したか後付け、遡及してその原型を探る立場にある。水面の波紋が同心円状に拡がるように、説話も自動的に広がると考えるのである。

これに対して、フォン=シドウという学者は説話を持ち運ぶのはトラディターと呼ばれる一部の語りに長けた人たちであるとし、トラディターによって持ち運ばれた説話がその地域に根付いたのをオイコタイプと呼ぶのである。

民話を分析する単位としてモチーフが用いられる。モチーフとは、フォークロア(民俗学)において、お話を分析したその小単位である。話型はモチーフが幾つか集合して成立する単位と言える。単一のモチーフから成る話型もある。

ダンデスはモチーフには可変な要素と不変の要素が混在して、物語分分析の最少単位ではあり得ないと指摘する。

ダンデスはプロップの昔話の形態論を持ち出す。そしてプロップが昔話の機能(ファンクション)と定義したところをモチーフ素と呼び直して分析するのである。これは言語学における音声と音素との連想から来ているようである。昔話からモチーフを取り出して分析する手法があるけれど、モチーフは物語の最少の単位ではないと考え、それに代わるものとしてモチーフ素を提案するのである。

たとえば、昔話に登場するのがキツネであってもタヌキであっても入れ替え可能、つまり可変だが、人を「化かす」という点では不変なのである。この不変の構成要素を物語の機能(ファンクション)もしくはモチーフ素と呼ぶのである。

プロップは文法においては動詞が機能(ファンクション)となると考察している。ただ、意訳に意訳を重ねる場合もあるとのことである。

このように説話に関する論文が多いので、昔話や伝説が好きな自分にとっても興味深い内容だった。ただ、翻訳ものというのは書いてある文字は読めるが、内容が頭に入ってこない。それは僕自身の理解力が高くないからであるけれど。

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2020年8月 6日 (木)

舞の形態学――井上隆弘「霜月神楽の祝祭学」

井上隆弘「霜月神楽の祝祭学」(岩田書院)を読む。奥三河の花祭など三信遠の湯立神楽を取り上げた論考。

本書の特徴として第一部では舞の形態学とでも言えばいいのか、舞の所作や足取りを図にプロットして、そこから分節され構造化されてくる舞台の空間秩序(コスモロジー)を分析している。舞台は初めから舞台としてあるのではなく、舞によって分節されていくのだというのが著者の主張。またこの所作にはこんな意味があるといったアプリオリ(先験的)な分析は行わず、あくまで舞の形態から意味(本質)を見出そうとしている。但し、詞章についてはその限りでない。また適宜、南九州の椎葉神楽や島根県隠岐の島の隠岐神楽などと比較参照している。

基本出不精で花祭には行ったことがないのだけど、これは実際に舞ったことのある人でないと理解できないと思う。反閇(へんばい)についてはYouTubeで榊鬼がステップを踏むのを視聴したことがある。

成城大学の俵木悟氏は「身体と社会の結節点としての民俗芸能」「日本民俗学」252号で本書を取り上げ、井上氏の行った舞の構造把握は分節された瞬間、歴史的に固定されたものとなってしまっているが、実際には舞もその時代時代に応じて変化しているのではないかと評している。

最終章では岩田勝の「神楽源流考」を取り上げ、悪霊鎮送説(神楽を託宣型と悪霊強制型に分類する)に対して批判を試みている。「神楽源流考」が1983年の発刊で本書が2004年だから、まともな批判が出てくるまでに20年を要したことになる。

湯立神楽は湯を神に献上することで清め祓うという意味が、霜月神楽には霜月(旧暦十一月)という冬至に近い時季に太陽の再生を願うという意味があり、概ね折口の神座鎮魂論(善神を身体に付着させることで生命の更新を図るとする説)で説明可能だけれど、著者は更に死霊鎮めや破邪の意義をもそこに見出しているのである。そういう点では岩田説を批判的に踏襲しているのである。

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