世界民俗学という構想――島村恭則「民俗学(Vernacular Studies)とは何か」
島村恭則「民俗学(Vernacular Studies)とは何か」という論文をアクセス解析を遡って偶々見つける。欧米を中心に発展した文化人類学は植民地の支配する-支配される関係を背後にはらんでいるのだけど、この論文では覇権的と定義している。覇権というとヘゲモニーだろうか。一方、(自国の国民が自国の)民俗を論じる民俗学は対覇権主義的としている。文化人類学と民俗学は隣接する学問分野だけど、覇権主義的、対覇権主義的な違いがあるとの主張である。
大月隆寛が「民俗学という不幸」で民俗学の立場を理論構築等において文化人類学に劣位のものとしてコンプレックスを表明していたことを思い出す。
また、太田好信「トランスポジションの思想」では非西欧出身の研究者は出身国のインフォーマント(情報提供者)として期待されていて、理論構築からは疎外されていると指摘していたことを思い出す。
日本に於いては柳田国男が民俗学を発展させたが、柳田自身は民俗学を社会変動論(欧米産の近代化論のあてはめとは異なる内発的発展論)として構想していたと指摘している。ただ、柳田以降の研究者は「民俗」そのもの探求――本質主義的なといっていいだろうか――が主流になったとする。
1990年代に入って日本でもこの流れから脱却する動向が見られるようになったとする。「民俗」を研究する学問から「民俗」で研究する学問への転換と論じている。
世界的には一部の国でフォークロアという語を忌避する動きがあり、フォークロアに代替する語としてヴァナキュラーが用いられるようになってきたとする。土着のといったニュアンスだろうか。その中で日本は「ネイティブ・フォークロア」研究としての民俗学が確立している国だとしている。
柳田に戻ると、一国民俗学が世界的に発展し、やがて世界民俗学が成立すると論じているという。それは1920年代から1930年代にかけてのものであり、当時としては帝国主義の時代であり、机上の空論にすぎなかったが、時代が下り、各植民地が独立を果たして数十年が経過した現代ではネイティブが自国の民俗を語る世界民俗学の可能性が開けてきたと考察する。それはポスト・コロニアルで西洋中心主義的な学問体系に変化を促すものである。現代における「グローバル・ヴァナキュラー・スタディーズ」としている。「グローカル」という造語を用いる研究者もいるようだ。
なお、興味深いことに注釈で「メトロポリスの一現象である、アカデミックな『カルチュラル・スタディーズ』には(中略)、メトロポリスの言語に基礎を置いた、現在主義的で、個人的な政治信条以上のものがない」とスピヴァクという学者が指摘している。
<追記>
島村恭則「フォークロア研究とは何か」「日本民俗学」278号を読む。抽象的な議論に終始するので、ピンとこない点も多いが、この中で印象に残ったのは、ドロシー・ノイズが提唱する「ハンブル・セオリー」である。
ノイズは、フォークロア研究が開拓すべき「理論」とは、社会学や人類学や心理学が構築するような大理論(グランド・セオリー Grand Theory)ではなく、ハンブル・セオリー(Humble Theory 謙虚な理論)だという。グランド・セオリーは、グランド・セオリー自身のために「人間の本性、社会の本質などの巨大な対象を構築してしまう」。それに対して「大学の親密なる他者」としてのフォークロア研究は、「グランド・セオリーとローカルな解釈の『なかば』にあって、グランド・セオリーを批判する位置にあり、そこに立ち上がる理論が「ハンブル・セオリー」だというのである[ノイズ ニ〇一一]。(19P)
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