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2019年12月

2019年12月31日 (火)

よいお年を

ちゃんと数えてはいませんが、今年は去年の記録を抜いて最多記事の年でした。多分。一月くらいから神楽に関する記事を書き始めて途中、本質主義/構築主義で中断して四月頃から再開、今に至るという感じです。石見神楽、芸北神楽の能舞を中心に記事を書いてきたのですが、もう終わりは見えています。なので、来年のある時点からは更新ペースが落ちます。

きつかったのは室町時代物語を精読する辺りです。濁点の無いひらがなで記されているので、どう漢字を当ててよいのか頭をひねりました。

それでは。よいお年を。

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備後東城荒神神楽能本――橋弁慶云立(はしべんけいゆいたて)

◆はじめに
 広島県比婆郡東城町戸宇の栃木家蔵本に収録された「橋弁慶云立」は源義経と弁慶の伝説を元にしている。義経が千人切を志す点で古い内容を反映させている。父義朝の供養のため千人切を志す義経の前に弁慶が立ちはだかるが、敗れた弁慶は義経の配下となる……という内容である。

◆寛文本
「はしべんけいゆいたて(橋弁慶云立)」に手を入れてみた。詞章が崩れて意味がとれない箇所はそのままとした。カタカナはひらがなに改めた。

はしべんけいゆいたて

一 抑々(そもそも)源氏(げんし)の安孫(あつそん)に義経が源九郎(げんくろう)とは某(それがし)が事にて候

一 されば父(ちゝ)義朝わ 驕(をご)ぬ平家(驕る平家)子を取られれすらう郎党(ろうとう)に討たれさせ給(たも)うこと 今に思ゑばむね□□(破損:無念か) それ都に出で千人切(せんにんきり)を□□□□(破損)や平家の一門に立ちつずけ□□□(破損)御菩提(こぼたい)を奉(ほう)せんと存じ候 □□□□(破損)ん早九百九十九人斬つたと□□□□(破損)明日は早朝(そうちやう)に供養(くよう)と□□□□(破損)待ち受け切らばやと存じ□□□□(破損)

 弁慶の□□□□(破損)

熊野那智たんのう(湛増か)別当が子に見□□(破損)とは拙者が事なり 某(それがし)をも切らんとの かや

○さん候(ぞうろう) 御身を切り千人に達(た)して辻切(つじきる)供養(くよう)を早□(不明)致さばやと存(そん)じ候

弁慶某(それがし) やら子二年はい六歳兵法(へいほう)比べに其の為にこれまで遥々参りたり□□(不明) 君の御手を存ぜず申て候 命を賜び給え末代を主(しゆ)と頼むべし

一 汝が命(いのち)を切ることわ露塵(つゆちり)よりも易けれども 太刀の下より引き立てゝ末代□□(不明)被官(ひくわん)と結ぶべし

◆参考文献
・「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」(芸能史研究会/編, 三一書房, 1974)p.182

記事を転載→「広小路

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備後東城荒神神楽能本――地神能と鳴神の能(ナル神ノノウ)

◆はじめに
 広島県比婆郡東城町戸宇の栃木家本に蔵書された「地神能」と「鳴神の能」が収録されていた。「地神能」は地神五代の神を取り上げた神楽能、「鳴神の能」は雷を取り上げた神楽能と思われる。台本の最後に記されているので、神楽を締めくくる意味合いがあるのではないかと思われる。

◆延宝本:地神能

地神能に手を入れてみた。詞章の崩れて意味がとれない箇所はそのままとした。カタカナをひらがなに改めた。

十四番ニ地神能
 永野村 越後吉政[花押]

一 朝(あさ)日さす夕(よう)日輝(かかや)く日の本に 身わイザナキの本にこそあれ

●あをそれ神と云(ゆ)うは天地二分の昔より 空寂(くうじやく)円満虚空法界の心また雨の宮地神五代と言えれども 木火土金水青黄赤白黒の五つの色見分ける処 是五体の始めと顕れたり

一 我垂迹(すいしやく)は観世音 太鼓鞨鼓この音(をと)一つ心に此音皆神風の源は伊勢の阿呍(あうん)の二字 又た二人の皷(つずみ)は父母の声 ちわやふるちわやふる神等の儀式ぞ面白(をもしろ)や 真(しん)の身これまで顕れたり

◆延宝本:ナル神ノノウ(鳴神の能)

「ナル神ノノウ」に手を入れてみた。詞章の崩れて意味がとれない箇所はそのままとした。カタカナをひらがなに改めた。

十五番にナル神ノノウ(能)

一 雲の上は花踏み致(ち)して鳴神も 陸地(ろくじ)ヱ降りて社(やしろ)定めん

一 抑々(そもそも)御前に罷立る神かをば如何なる神とや見給う 是は天日天夜に住まいを仕る鳴神の明神とは我が事なり

一 今日の神明にとりなし申さん其為に明神是迄現れたり龍(りう)

一 天日天夜の韓神(からかみ)神楽と申すといかでか是にわ勝るまじ

 永野村井上挊 湯頭越後[花押]

◆参考文献
・「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」(芸能史研究会/編, 三一書房, 1974)p.181

記事を転載→「広小路

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2019年12月30日 (月)

備後東城荒神神楽能本――豊後苧環(豊後尾玉マキ)、をだまきのあど

◆はじめに
 広島県比婆郡東城町戸宇の栃木家蔵の「豊後苧環(おだまき)」は、昔九州は豊後の国に大名がいた。大名には一人姫君がいて西国一の美人だった。嫁にやるなら都の貴族かと思っていたところ、姫の許に夜な夜な通う者がいた。母の尼公が尋ねたところ、身なりは立派だが、どこから来るのか分からないと姫は答えた。それなら、苧環(おだまき)の糸を針に通して衣の下前に刺せばよいと教える。その夜、姫君はそうしたところで夜が明けたので、糸を頼りに追いかけた。豊後と日向の境の姥滝の滝の岩屋に糸は通じていた。岩屋の中に入った姫は一目姿を見たいと願う。見ずに帰れと諭す声の主だったが、姫の懇願により姿を現わす。声の主の正体は大蛇だった。驚いた姫の従者の女房たちは逃げてしまったが、姫は一人残った。そして一首歌う。大蛇は姫の刺した針が喉笛に差し込まれたため、命が間もなく尽きると告げた。そして、姫の胎内に男子が宿っていることを告げ、サイキ(斉木か佐伯か)清法(きよのり)と名乗る様言い残した。男子が生まれて成人した。大名の家は武運長久に恵まれた……というお話。寛文本の「をだまきのあど」もほぼ同じ内容だった。

 糸に針を付けて跡を辿るというのはよくあるパターンだ。

◆延宝本
 「豊後尾玉マキ」に手を入れてみた。詞章が崩れて意味がとれない箇所はそのままにした。カタカナをひらがなに改めた。

十三 豊後尾玉マキ

一 しつやしずしずか苧環(おだまき)繰り戻せ 昔を今に為す由もかな 抑(そもそ)も御前に参たる迎合(あど)を如何なる迎合(あど)とや思召す 豊後の国に時の住い申 藤原の朝臣(あつそん)ときまさ(時政か)とは某(それがし)事に候

一 去(され)ば九州九国に七人の大名(みやう)御座候 中にもコウシユウ(甲州か)殿 ムネタカ殿 モカタ殿 サカタ(坂田か酒田か)殿 高木(タカギ)殿 高(タカ)山殿 アラダイタ殿と申て七人の大名(たいみやう)御座候 中にも豊後の国の住人アラダ(荒田か)と申大名(みやう)は 姫君一人持たせ給が 西国(さいこく)に無き美(び)女の事なれば アラダ思召す様(よう)は 此姫が妻子になる人田舎にては叶(かの)うまじ 都にても一条殿か二条三条五条殿が吉田関白(くわんぱく)花山(くわさん)の家ならでは叶(かの)うまじと思し食すに依つて 姫君も十七八にならせ給ヱ供未定(さたま)る夫(つま)もましまさぞ 然れば寄る寄る者の通いけるに依つて 月の私も指(さし)留まり 七月此の時に有日の雨中の事なるに 母の尼公(にこう)は姫の一間所に出させ給て 姫君に宣う(の玉)様わ 何(いか)に姫が姿はいつもの気色にて更に無し 何国(いづく)の殿原(とのばら)太ミヤウ(大名)にも有か語り給や姫君 と宣(の玉)ば 其時姫君答へ給は 青柳(あをやき)のいと恥づかしき申事にては候へ供 自ら所ヱ寄る寄る者の通いけるは水干(すいかん)の直垂(ひたたれ)に為し打烏帽子(ヱボシ)を召し 金(こかね)作りの太刀を佩き 如何にも位豊かな男(をつと)と見て 夫(それ)子(ね)の刻(こく)に来つて寅の刻に帰り候が それとて屏風(ひやうぶ)障子(しやうじ)も鳴らず東風(こち)吹く由も無し 何国より来て何国へ帰らせ給(たも)うも不知(しらす)候との給(宣へ)ば 其時尼公(にこう)の給(宣う)様は 其儀にて有るならば 苧環(おたまき)の糸を縒り サスネガの針に付け去つて重ねてのよいつ縒り 笑顔(ヱがを)をもてなして 衣(きぬ)の下前にサスガネの針をしつかと縫い銜(くく)み置 其(その)糸を標(しるべ)に尋(だつ)ね給ヱや姫君と念此教(をし)え給て 元の座敷れ錠(じ)を挿して入給ふ それよりも姫君は苧環(をだまき)の糸を縒らせ給が 一首(いつしゆ)詠(ヱい)じ給

苧環(をだまき)の撚る手の程は恥つかしや 巻く手の程を人に知らせじと詠じ給いて さつて(扨てか)重ねての夜(よ)わ 尼公(にこう)の教(をし)えの如(こと)く 夫(おつと)の衣(きぬ)の下前に サスカネの針を縫い銜(くく)め置給 さつて(扨てか)夜もほのぼのと明けければ 女房(にようぼ)達少しの御供にて苧環(をだまき)の糸を標と尋ね給時に詠み給

つまとづる針も生(しやう)有ものならば 早く答えよ右(みき)のサスガネ シズヤシズ標(しるべ)の糸を尋ぬれど 恋しき人に逢う由も無しと暫く糸を繰り給 近く成給時 又詠じ給は此

苧環(をだまき)の標(しるべ)を何処(いつく)と尋ぬるに 豊後(ぶんご)と日向(ひうが)の堺(さかえ)なる者

斯様に詠じ見給ヱば ウバタキ(姥滝か)と云滝を引き回し 岩屋の内ヱ引き入て見へければ 此岩屋の口に参りの給(宣う)様は のうのう如何に岩屋の内へ案内申 苧環(をだまき)の糸を標(しるべ)と尋ね参て候 一目の見参(げんそう)させて賜び給れの 岩屋の内宣(の玉)ヱば 岩屋の内には良い声(ごヱ)して御座(まします)が宣う(の玉)様は のうのう姫君それより御帰り候ヱ 某(それがし)が姿を御身に見せるならば 太(をう)き恐るべきおそむべし 只々それより御帰(かへ)り候ヱや姫君と宣ふ(の玉ふ) 又(まつた)姫君(ひめきみ)宣(の玉)は此間の情けにより遥々参るより染(そめ)てはともあれ斯くもあれ 是非一目の見参(げんそう)をさせて賜び給われと宣(の玉)は 其時岩屋の内うまき揺すりけるが 長(たき)十丈計(はかり)の大蛇出給 扨て(さつて)彼れを見て御供の女房(ほ)達肝魂も無きように此処彼処(こゝかしこ)落逃(をちに)げさせ給 姫君一人残り給て一首詠み給は

恐(をそ)ろしや虎伏す野辺(のべ)は見たらばや 姥滝主(あるぢ)姿恐(をそ)ろしと詠じ給 其時大蛇宣(の玉)給は 如何に姫君御身胎内に男(おのこ)一人宿らせ給が 我今生に有ならば国の主弓取りも為すべきと思(をも)いし所に 今は苧環(をだまき)の糸をサスガネの針に付 衣(きぬ)の下前に差すと思し針を 今は某(それがし)が吭(ふえ)にしつかと刺し込められ 空しくなる事力に及(をよ)ばづ 御身(をんみ)の胎内の男(をのこ)生給は 名字(みやうじ)をばサイキ(斎木か佐伯か) 名乗りをばキヨノリ(清法)と付けられよ 某(それがし)が形見に小太刀(こだち)一振姫君に渡すと宣(の玉)て 一尺一寸の大太刀(だち)を口の内より出だし 姫君に渡し給 又曰く 某(それかし)が吭(ふえ)に刺し込めたる針を抜いて取り給や姫君と宣(の玉)ふ 其時姫君はをぞをぞ寄りて抜いて取り給 そのまゝ大蛇は岩屋の内ヱ入給 其時姫君様々口説き給ふ

是程に限り有身を知らずして 忘れて入れし恋の玉梓(たまづさ)

宿世(しゆくせ)とは末代連れる妻をこそ只一時は夢の戯れ

斯様に様々口説かせ給て元の館ヱ帰らせ給 扨(さつ)て九月には御誕(たん)生ならせ給て 名字をばサイキ(斎木か佐伯か)名乗りをばキヨノリ(清法)と付させ給て 成人(せいじん)ならせ給比は 天下清盛の御時参内(さんだヰ)を為され 豊後(ぶんご)の国の住人にヲガタ(緒方か)の三郎キヨノリ(清法) 元服う成子々孫々に至まで 武運(ぶをん)長久の御家と承る 豊後の苧環(おだまき)の理(ことはり)再拝(さいはい)敬白

一 抑(そもそ)も御前に罷立身をば何なる身とや思召(おほしめ)す 豊後の国の住人に岡田の三郎清法とは某(それがし)が事にて候

一 去(され)ば 某(それかし)明字をばサイキ(斎木か佐伯か)名乗りをば清法 本地姥滝三輪の明神也

◆寛文本
 「をだまきのあど」に手を入れてみた。詞章が崩れて意味がとれない箇所はそのままにした。カタカナをひらがなに改めた。

をだまきのあど(苧環の迎合)

一 抑々(そもそも)御前に立てるせ者(じや)をば如何なる物とや思召(をぼしめ)す これは九州(きをしゆ)豊後(ぶんご)の国苧環(をだまき)の迎合(あと)とは某(それかし)が事にて候

一 されば豊後の国に七人の大明(名)御座候はコウジユ殿(との) ムナタカ殿 サカタ(坂田か酒田か)殿 高(タカ)殿 高(タカ)山 アラダイタ殿 然れば彼のアラダ殿は姫君を持ち給(たも)うが 西国(さいこく)一の美人なり アラタ思召(をぼしめ)すは この姫が妻子に結ぶ物は西国に無し 都にては近衛(このえ)殿一条う二条う殿 九条(ちやう)三条(ちやう)殿 吉田(よしだ)くわさん(家産か 延宝本では関白)の家はそも知らず と思(をも)い居給(たも)うなり 然れば姫君十七八になり給へ(玉へ)ども 定まる夫(つま)もましまさず候か 何処(いづく)より水干(すいかん)の直垂(ひたゝれ)に梨子打(なしうち)烏帽子を召し 金覆輪(きんふくりん)の太刀を佩(は)き 子時に来りては寅の一点(いつてん)に帰(かへ)り候が 屏風(びやうぶ)障子(しやうじ)も揺るがす東風(こち)吹く由もなり されば姫君は月水(すい)留まり その時母の尼公(にこう)に何をか包むべし 其れ水干に直垂梨子打(なしうち)烏帽子に 如何にも位豊かなる男と見え 子の時に来ては 寅の一点(いてん)に何処(いづく)え帰り候も更に知らず候と宣へ(の玉へ)ば 某時母君の仰(をう)せに サスガネの針(はり)に 苧環(をだまき)の糸を付け 其の男の衣(きぬ)(きる)の下前に綴じ込めて 何時(いつ)より笑顔(ヱかお)にもてなして 某の糸を標と尋ね 某申せや姫君(ひめきみ)と仰(をう)せありける さて姫は糸を縁り給う(玉う)時に

一 この糸の巻く手の程わ恥づかしや ませて巻く手を人に知らせじ

一 夕べ刺す針も生(しやう)ある者ならば 妻に返(かゑ)せや右のサスガネ

重ねてよ母君(きみ)の教(をし)えの如(こと)く サス金の針に苧環(をたまき)の糸を付け 衣の下前に縫い込め給を(玉を) さて明くる早朝(そうちやう) はえたの局(つぼね)を供として 糸を繰り行(ゆき)給う(玉う)時 ○歌(うた)口伝(くてん)可有候

一 哀れなり □□□(しゆてん仏)も聞し召せ 恋しき人に会う由(よし)(しよ)もなし

一 これ程に限りある身を知らずして 忘れて入し恋の玉章(つさ)

一 この糸の標を何処(いつく)と尋ぬるに 豊後(ふんご)と日向(ひうが)の境(さかへ)なるもの

一 この君に逢(を)うてことく(如くか)を残さじと 尽くせど別れの刻の今夜

斯様に詠じ尋ね行く程に

一 豊後(ふんご)と日向(ひうが)の境(さかえ)に姥滝(うばた:き脱)とゆう岩屋の遠(おち)に入給う(玉う) 姫君わ岩屋口(くち)に参て宣う(の玉う)様は のゝ恋の間(あいた)の標に尋(たす)ね参り候 一目(ひとめ)見参(げんそう)させて賜び給え岩屋の内 と申ける

○さん候某(それかし)が姿(すかた)を御(をん)身に見せ申さば 大(をう)きに恐れべし それから御帰(かヱ)り候へや

其れわ兎も角もあれ 姫の見参(げんそう)させて賜び玉へ

さ御身に奇縁の結び 胎内(たいない)の内に男(をのこ)一人宿(やと)らせ申 我今生(こんちやう)にあらば国の主弓取(ゆみとり)とも為すべきと思(をも)いしに さす金の針に苧環(をたまき)の糸付け 衣(きぬ)の下前(したまえ)に刺すと思(をも)いし針わ 今わ某(それがし)が吭(ふえ)に刺し留められて はや大蛇の身となれども 空しくなること力(ちから)に及(をよ)ばず その男(をのこ)生(うまれ)給わば(玉わば) 氏(うぢ)をば藤原(ふじわら)名(めう)字をばサイキ(斉木か佐伯か) 名乗(なの)りをば清法(きよのり)と名乗らせ給へ(玉へ) それ形見なりてわとて きね(こか)作(つく)りの三尺一寸の太刀(たち)を口(くち)より出て渡し給う(玉う) 又大蛇仰(をう)せけば かの吭(ふえ)に刺したるさす金の針をたい(出)て給(玉)けれ姫君と宣えば それ丈(たき)十丈(ちやう)ばかりの大蛇なれば 皆(みな)供(とも)の女達わ落(を)ち逃げ給ヱ(玉ヱ)ども 尤も姫君も胆魂(玉し)も無く程の事なれども この間(あいた)の情(なさ)けの故にをずをず寄りてたい(出)て参らせ給(たも)うなり 我より大蛇は岩屋の内に入給う(玉う) 姫君の帰り給う(玉う)事の労しさよ

一 恐(をそ)ろしや 虎(とら)伏す野辺は見たらばや 姥滝(をばたき)主姿(すかた)恐ろし

一 宿世(しくせ)こそ再(ふたゝ)びもをう忘る相とて一度(いちと)退くと再(ふたゝ)び

一 宿世(しくせ)とわ末代(まつだい)連れる妻をこそ 只(たゝ)自(みすか)らわ夢の戯れ

一 しずやしず 標の糸を繰り戻せ 帰りて君に逢うと思(をも)わじ

豊後(ふんご)をだすき是なり 寄せ退け口伝(くでん)可ある

◆平家物語
 豊後のおだまきは平家物語・巻八の緒環(おだまき)が出典と思われる。該当部分を口語訳してみる。

 豊後の国は刑部卿(ぎやうぶきやう)三位(ざんみ)頼輔(よりすけ)卿の国である。子息の頼経(よりつね)朝臣(あつそん)を代官に置かれた。京より頼経の許へ「平家は神にも見放され、君(法皇)にも捨てられて、帝都を出て波の上に漂う落人となった。しかるに、鎮西(九州の別称)の者どもが受け取ってもてなしていることこそ奇怪である(けしからん)。当国においては従うべきでない。心を一つにして味方して追い出すべき」次第を仰せになって遣わされたので、頼経朝臣はこれを当国に住人緒方(をかたの)三郎維義(これよし)に命じた。

 彼の維義は恐ろしい者の子孫であった。例えば豊後の国の山の中にある辺鄙な村に昔女がいた。ある人の一人娘で夫もなかったのだが、女の許に母にも知らせず男が夜な夜な通う内に年月も重なったところで身重になった。母がこれを怪しんで「お前の許へ通う者は何者か」と問うたところ、「来るのは見えるけれど、帰るのは知りません(分かりません)」と言った。「それなら男が帰ろうとする時に印を付けて、行く方向を辿ってみよ」と教えたので、娘は母の教えに従って、朝帰りする男が水色の狩衣を着ていたのに、狩衣の頸かみ(襟の部分)に針を刺して、しずの緒環(おだまき)というものを付けて、経て行く方向をつないで行けば、豊後国の中でも日向の境、優婆岳(うばだけ)という嵩(だけ)の裾(麓)の大きな岩屋の内に繋ぎ入れた。女は岩屋の口に佇んで聞くと、大きな声がしてうめいている。「私はここまで尋ね参りました。見参したい」と言ったところ、「我は人の姿ではない。お前が姿を見て肝魂も身に添うまい。早く帰れ。お前が孕んだ子は男子であろう。弓矢や刀槍をとっては九州と壱岐・対馬に並ぶ者もあるまいぞ」と言った。女が重ねて申したのは「たとえ如何なる姿であっても、この日ごろのよしみを何として忘れられるでしょうか。互いに姿を見もし見せましょう」と言われて「それならば」と言って岩屋の内から臥したときの長さは五、六尺、寝たときの尾から頭の先までは十四、五丈にあろうかと思われる大蛇で、ぐらつきながら出てきた。狩衣の頸かみ(襟元)に刺したと思われる針は、そこで大蛇の喉笛に刺していた。女は是を見て肝魂も身に添わない。引き具した従者十余人は倒れてばたばたとし、わめき叫けんで逃げ去った。女は帰って程なくお産をしたところ、男子であった。母方の祖父太大夫(だいたいふ)が育ててみようと育てたが、未だ十歳にも満たないのに、背は大きく顔は長く、背丈は高かった。七歳で元服させ、母方の祖父を太大夫というので、是を大太(だいた)と名付けた。夏も冬も手足に大きなあかぎれが沢山割れたので、あかがり大太と言われた。件の大蛇は日向の国で崇められる高知尾(たかちを)の明神の神体である。この緒方の三郎はあかがり大太の五代の子孫である。このような恐ろしい者の末裔なので、国司の仰せを院宣と号して、九州と壱岐・対馬に廻状を回したのでしかるべき兵どもが維義(これよし)に随い付いた。

◆能本の呪術性

 岩田勝は備後東城荒神神楽能本を託宣型と悪霊強制型に分類した。「をだまき」は葬式神楽で演じられたとしてもよさそうな内容であるが、これ自体は平家物語が出典でストーリー性のある能本である。それをそのまま託宣型と悪霊強制型に当てはめてしまうのには問題がないだろうか。

◆参考文献
・「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」(芸能史研究会/編, 三一書房, 1974)pp.179-181, 185-186
・「平家物語 2 新編日本古典文学全集46」(市古貞次/校注・訳, 小学館, 1994)pp.110-115

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2019年12月29日 (日)

90年代の大学では

米沢穂信「さよなら妖精」という推理小説を読んでいる。ユーゴスラビアから来た少女をホームステイさせる話なのだけど(作中ではまだユーゴ紛争は起こっていない)途中「わざとでない伝統の創造ですね」というセリフが出る。「さよなら妖精」は2000年代の初め頃に出版された推理小説である。作者の米沢穂信と僕は十歳くらい違うのだけど、米沢の時代、90年代の大学だと「伝統の創造」という用語が教えられていたということになるだろうか。

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備後東城荒神神楽能本――十羅切女

◆はじめに
 広島県比婆郡東城町戸宇の栃木家蔵本の「十羅切女」は、能舞「十羅」「日御碕」「彦張」の古い台本と思われる。須弥山の隅が欠けて大社に流れ着き、それを搗き固めて浮浪山とした。それが黄金の山であるため、ムクリコクリが攻めて来たのを日御碕大明神が三十番神の十羅刹女を率いて退散させた……という内容である。

◆延宝本
「十羅切女」に手を入れてみた。詞章が崩れて意味がとれない箇所はそのままとした。カタカナはひらがなに改めている。

十二番ニ十羅切女
         長の村井上挊 越後
一 海に浮き嶋(しま)搗き留めて 波間の暇に月や取るらん

○抑(そもそ)も御前に罷立る自(みずから)をば如何なる身(しん)とや思召す 是は雲州神戸(かんど)の郡出西(すつさい)の里枕辺(べ)の裏に住居仕る日の御前大明神とは自がことで候

○去ば北山浮浪(ふろう)山と申は 昔甲(きのえ)子歳子日子時に降ったる黄金(こかね)の山にて御座ば 鬼国よりムクリコクリが奪いとらんと巧むを自ら神通を以て悟つて候 黒鉄(くろがね)の弓に黒鉄の鏑(かむら)を番い 三十番神十羅刹女を引き具し 彼の鬼神をば退治せばやと存じ候 一明藍婆(らんば)ニ明に藍婆(らんば)三明曲(こく:曲歯こくしか)四明華歯(けし)五明黒(こく:黒歯こくしか)六明多髪(たほつ)七明無厭(むえん)つく(無厭足か)ハ明持瓔珞(じようらく)九明皇諦(こうたい)十明たつと(奪一切衆生精気だついっさいしゅじょうしょうげか)引き具して 弓掛(かけの)松に引き請けて ムクリコクリをば 只安々と退治て 浮浪山をば北山に立安穏(あんのん)に守護ばやと存候

一 あをう鬼界高麗契丹(けいたん)国けつさはくさ蝦夷が島 一万五千人の鬼の王とは我事なり 何者ぞ 男(をのこ)女(をんな)とも不見たらりちだりと舞遊び 彼弓掛の松に神力を為し給うは そも如何なる者ぞヱつ

○さん候 自ら事を仰せ(をうせ)候か

○鬼 なつかなつかの事にて候

○是は枕辺の浦に住まい仕るみさ(御崎か)太明神とは自事にて候 然れば彼の浮浪山を汝らが鬼国ヱ奪い取らんと巧(たぐ)むを 自ら神通を以て悟り候 黒鉄の弓に黒鉄の鏑(かむら)をぶつがヰ 彼弓掛の松に待請て 汝らを只安々と退治し 黄金の山を安穏に守らばやと存候

○あをうそれ思いも寄らぬ事なり 某(それがし)千艘(ぞう)の船を押寄する所に 天(そら)より大鳥立掛かり羽交(がい)に大石を持ち 千艘の船を海中に打沈めるとも 某(それかし)緩かの波に波の穿沓(うけぐつ)を履き 東西南北ヱさつと駆け渡り 四海の波を立掛立掛 只々北山取らでは叶(かの)うまじ

一 いざ古(いに)しえは大和の国の三輪なれど 今は出雲の素鵞(そが)にこそあれ

一 素鵞の里素鵞より出づる男山を経の嶋は立の板なり

一 御(を)経嶋御前(をまえ)の岸が高ければ 只寄せ掛けよ沖(をき)の白波

一 潮を汲む往古の浦の撓(たわ)む程 月をぞ担う素鵞の里人

一 弓の浜弓に関弦(せきづる)寄り掛けて 矢杉を的にすなそ(よ)嶋かな

一 はらい(祓いか)嶋御前の岸が高しとて 只寄せ掛よ沖(をき)の白波

一 恋しくば訪ねても見よ中臣の祓の奥に社立居(を)り

一 夫(それ)須弥より此の方に浮浪山迚(と)て小金の山有り彼山の戌亥の隅欠げて落ち海中入 日本出雲の国大社之北ノ方に流れ寄り 浮浪山と顕れたり 于時(とき)に天竺われかつ(吾勝か)の尊此の浮浪山を惜しく思し召して 取り返さんとて 鬼界高麗契丹(けいたん)国の軍兵(ぐんぴやう)共を引(き)具して 千艘の船に乗り弓掛けの松ヱ寄せ掛け給

鬼云 をう北山守はとれとれぞ 鹿島 かんどり(香取か) 太神宮 春日住吉 八幡宮 其外の神々勇むとも 拾万八千人の小鬼供 万艘(ぞう)の船を請け 通力自在を魔縁の法を働かば 日本世界は常夜(ちやうや)の闇と成し 此の山取らど叶(かの)うまじ

御崎(みさき) さん候 玉を打つなら千艘万艘の船も小鬼も海中に沈むべし それより鬼国に退(しろぞ)き給え

◆日御碕大明神と十羅刹女
 「十羅切女」は十羅刹女の古い台本と思われるが、既に日御碕大明神が登場している。そしてその三十番神として十羅刹女を引き具しているという構図になっている。なお、大鳥と変じて岩石を落として船を沈めるという件は謡曲「御崎」にある。それからだろう。

◆参考文献
・「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」(芸能史研究会/編, 三一書房, 1974)p.179
・「御崎」「謡曲叢書 第三巻」(芳賀矢一、佐佐木信綱/編, 博文館, 1915)pp.350-354

記事を転載→「広小路

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神楽はチャンチキ――佐藤両々「カグラ舞う!」

月刊ヤングキングアワーズ2月号を買う。佐藤両々「カグラ舞う!」今回は神社の舞殿で練習。虫送りで「葛城山(土蜘蛛)」を舞い、更に神楽甲子園でも舞う予定。神楽はチャンチキ(手打鉦)担当。

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2019年12月28日 (土)

備後東城荒神神楽能本――やとが坂

◆はじめに
 広島県比婆郡東城町戸宇の栃木家蔵本に収録された「やとが坂」は出雲が舞台で八岐大蛇と同じモチーフの内容である。やとが坂の池に住む八頭八尾の竜が毎年一人姫を食べるので、十二人いた姫も乙子(末子)の一人を残すのみとなった。嘆いた翁の前に須佐之男命の遣わしめの法者が日に行き暮れて訪れて……という内容。酒舟を作って大蛇を酔わす他、姫の人形を藻草や硫黄を使って作り、大蛇の腹の中で燃やすという計略が見てとれる。

◆延宝本:やとが坂
 「やとが坂」に手を入れてみた。詞章が崩れて意味がとれない箇所はそのままとした。カタカナをひらがなに改めている。

出雲には神者(は)有供(あれども)錫(すゝ)は無し 土器(かわらけ)錫(スス)で舞をこそ舞え

○抑々(そもそも)御前に罷立る法者をば如何なる社人(しやにん)とや思し食す これは雲州出西(すつさい)の郡(こうり) 高浜浮浪山の麓に座(まし)ます須佐之男(そさのお)の尊の遣わしめの法者と者抑(そも)某(それかし)が事で候

○此程に須佐之男(そさのお)の尊こみいきの由 某(それがし)も額の露を祓はばやと存じ候

○去れば某(それがし)雲州に流され 素鵞(そが)の里に歳を経て流さむ事も無かりしに いぶしか滝と申所に鹿狩(が)りに出候所に ようよう日に行き暮れ候間 見ればあれに灯(とぼ)し火有 あれヱ参一夜の宿を借らばやと存じ 長者の所ヱ付内を見てたそやそや 倉府(そうふ)の内にヱたか有り 幼き姫を中に置き とやせん斯くやと申は翁は何事を申のや 事の子細を語り給え尉(じやう)殿

○翁(をきな)申 さん候 抑(そも)某(それがし)と申は 元は大和国の長者にて候が 今雲州に来て長者程には無けれども四方四万の蔵八万八並みの倉 汲めあどもあども尽きせぬ泉を持候 増してひの(斐のか:くち)口を掛けて取れども見てず んじろの雨はらはらと降るを以て雨(あま)振りの長者と申 何乏しとも思はじとも 此上にやとが坂とて坂有り 是にまその池迚(とて)土(と)口の池有り 彼池に頭八つ尾八つの大蛇が住けるが 某(それが)し十二人(七人か)持ちたる姫を年々(としとし)に十一人まで取れ申て 今一人乙(をと)姫持つて候 是を当年取らるゝ番前にて是を悲しみ候よの

○御尊 扨々(さてさて)聞けば翁尤(もつ)ともの理(ことはり)なり 其の儀にて有なら 其姫を我に得させよ得さするならそさの尾(須佐之男)の尊に申をうくの敵(かたき)を打つて参らせうぞ

○長者 姫が命(いのち)だに有るならば兎にも角にも御尊に任せ申そうにて候

○御前に候御前に候 尊に申

○何事を申候

○去(され)ば某(それがし)素鵞(そが)の里に歳を経て慰むことも無かりしに 鹿狩りヱ出 日に暮れ山里の灯(とぼ)し火を訪ね参候 爰(ここ)に宮殿楼閣(くうれんろうかく)八棟作りに桧皮(ひわだ)葺き 唐(から)の小御所(こごしよ)を立てたる館(やかた)有り 是に宿を取り申候 夜半計に歳は八十余りなる翁有 同く其比成る姥有り 未だ十二三と見し姫を中に置き 悲しみ申を 某(それが)し咎め申ば 翁始め語り申す通り 時に姫を得させよ 得さするならそさの尾(須佐之男)の御尊に申して 其大蛇(をろち)の蛇を打つて参らせうと申て候

○去尊の仰せ(をうせ)を承り 又翁に近付き尊の仰せ(をうせ)を申し渡す

如何に尉(じやう)殿

○さん候

○翁の有様尊に申上候らヱは聞けば 翁尤(もつと)もの次第なり 其姫を尊に奉るならば翁をば足名椎(足なつち) 姥をば手名椎(手なづち) 姫をば稲田姫(いなたひめ)と名を付け 雲州(うんしゆう)島根(しまね)の郡佐陀と云所に劒を以て八重に垣を敷き此歌に曰く 八雲立出雲八重垣妻籠めて 八重垣作るそのの八重垣と三十一字の歌に(言の葉に)掛け 其上に高さ一丈五尺に棚をして 姫に似たる人形を作り棚に上げ 八(やつ)花形の鏡を八参らせ 其下には七尋(ななひろ)三尺の舟を八艘受け 無明(むみやう)の酒を湛え置ならば 大蛇浮き上がり八つの舟に八つ頭を浸し(姫の人形が映るなら 毒[とく]の酒を呑み乾すなら吸い)吸(すい)乾すなら 毒蛇いかに魔縁の物なりとも 無性(むしやう)の酒に酔(え)い山に半(はん) 川に半(はん)伏さんずる所を 討て得させようの仰(をう)せにて候間 尉殿(じやうどの)も姫を連れて悦の舞御舞い候ヱ

○畏まつて候

翁姫を連れ出(て)もうて 愁い無けき尊に姫を渡す

一 姫故に流す涙は雲州のまいのの池にも劣らざりけり

一 みなし子をこの山里に捨て置くぞ 神も仏も憐れみ給ヱ

○如何にや尉(じやう)殿御嘆きは尤もに候ヱ供 姫をば尊に御渡し候ヱ

○畏つて候 姫をば尊に参らせ候間 百五の齢を経させて給われ 兎にも角にも御尊を頼み奉る さらば今日が暇(いとま)ぞ姫 御名残惜(を)しく候

○尊姫を受取悦びの歌舞

一 姫や姫連れて行こやれ諸共に 佐草(さくさ)の里に宮造りして

一 この姫が乙子に生まれて此国の 后となりて事の目出度さよ

一 奏者(そうしや)の尊神(そんじん)舞て出でる

抑々御前に罷立る相者をば何成相者とや思し食す 是は抑(そも)雲州神戸(かんど)の郡出西(すつさい)の里に御座(ましま)すそさのお(須佐之男)の宮の遣わしに相者の尊神とはそうも某(それがし)が事にて候 扨(さつ)ても扨ても尊(みこと)殿は色々の作り事を宣(のたも)うかな 油三石三斗 藻草三石三斗(硫黄)を以て稲田姫に似せて人形を作り 東の山端(ば)に一丈五尺に棚を吊り姫の人形を棚に上げ置(を)くならば 毒蛇来て是を取つて呑ならば 硫黄藻草酒に火が渡り 大蛇の腹燃ゆるなら 山より河川より山ヱとうらんずる所を 只易々と退治せんと仰せにて候 扨(さつ)て毒蛇来たるやら うねうね臭(にを)う霧谷(たつ)て 谷々の水も渦巻(うずまき)上がり ねき太木(たいぼく)も折れ砕け 岩(いわ)岩石(がんぜき)も流れつると覚に候 某(それがし)が調法(ちやうほう)にわなるまじく候 急ぎ御尊に告げ奉らばやと存じ候

一 国常立(くにとこだつ)(霧尊照る)の化身かや たねつの金のあく恵比寿

○蛇曰(いはく) をうそれ尊を示さん其為に八艘八尾の大蛇是迄顕れたり

○尊 汝を示さん其為に誠の身是まで顕れたり 邪魔外道魍魎(もうれう)鬼神毒種(しゆ)毒竜毒畜地類(ちるい)もん錫杖しやうざい(浄罪か)もくとぐがい発菩提心(ほつぼだいしん)とだんだんじんに斬るならば 悪魔も成仏つたつたなるべし

◆参考文献
・「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」(芸能史研究会/編, 三一書房, 1974)pp.177-178

記事を転載→「広小路

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2019年12月27日 (金)

解説神楽

文教大学の斉藤先生から送って頂いた関東の里神楽の解説台本を読み終える。一社中のカバーする演目が全て解説台本化されている。

元々、関東の里神楽は黙劇でセリフが極僅かしかないのだけど、現在ではマイクを使って解説を補助としていることが多い。記紀神話の物語なら大抵知っているので解説が無くともなんとか分かるのだけど、全ての人がそうではないだろう。特に子供。そういう意味では解説神楽化は時代の流れに即した変容であると言えるだろう。

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2019年12月24日 (火)

東北と南アルプスの神楽――久保田裕道「神楽の芸能民俗的研究」

久保田裕道「神楽の芸能民俗的研究」を再び読む。著者は先ず「民族」や「地域」といった概念に帰属意識という心意を見いだす。そして芸能が地域における帰属意識の単位となり得るのではないかと考察する。分析の対象となるのは東北の早池峰神楽と南アルプスの霜月神楽である。

タイトルに「芸能民俗」とある。「民俗芸能」が転倒したような概念だが、その分析にはまず「民俗芸能」の定義が必要であると述べる。

そこで議論の前提として「民族」という概念について考察する。要約すると帰属意識となる。つまり意識が媒介する概念なのだが、この帰属意識は対象範囲を狭めると郷土意識についても見ることができる。

次いでムラをコミュニティと同義なものと考えて論を進める。ムラも各種に分類されるが、ここでは心意の面、ハレとケの双方を含めた民俗から想定しなければならないとする。

更に地域という帰属意識の基盤となる概念を分析する。
・生産の方法とそれに用いる民具
・年中行事
・神社と祭りと民俗芸能
・講などと社会構造・年齢集団の活動 と分類するものと

・水田灌漑
・入会林野・共有林野
・交易圏(流通圏)
・国府祭のような神社祭祀 とする分類、単純化すると、

・経済
・社会
・信仰・儀礼 といった分類を行う立場がある。

そして芸能による帰属意識という観点から地域への帰属意識を探るという方向性に持っていく。民俗芸能の定義には諸説あるが、まとめると下記の様になる。

・人、時、場所といった様々な制約条件を有すること
・伝承者とその民俗社会および享受者との間に共通理解があること
・上記要素を満たした身体表現もしくは道具を使用した操作表現であること

芸能研究は解釈をめぐる問題と機能をめぐる問題とで進められてきた。解釈には伝承的解釈と構造的解釈がある。伝承的解釈が進めば、それは機能に近くなってくる。そして機能は、

・その芸能を成り立たせている機能
・芸能が人々に働きかけるシステム

と分類される。そうした芸能の機能およびその様々な範囲(集団、地域など)の相互関係が帰属対象としての地域を決定するとする。

著者は芸能の研究対象として神楽を選ぶ。神楽は信仰に直結しており、性質がつかみ易いとする。一方で神楽ほど明治期を境に大きな転換を遂げている芸能もないとしている。つまり本来持っていた目的や性格を外れ、その形が変貌しつつある芸能であるとする。その点で神楽に二面性を認め、神楽の持つ本質と属性から地域の帰属対象としての民俗を探ることとする。

まず、東北の山伏神楽について、権現様と呼ばれる獅子頭を奉じる神楽である。代表的なものとして早池峰神楽の岳神楽と大償神楽とが挙げられる。両者は隔年ごとに冬場の巡業を行っていた。巡業のない年は炭焼きをしていたが、炭焼きよりも神楽の方が実入りがいいのだそうである。

大償周辺は耕地面積が少なく、煙草の栽培が大きな収入源であった。また、稲作可能な土地は少なく焼き畑農業も行われていた。巡業の地域はムラとマチに分かれた。経済的に裕福なマチでは現金収入が期待できた。

また、大償神楽では神楽の伝承者が特定の家筋の長男に限られていた。芸能の伝承者と享受者が明確に分かれるのである。

岳神楽と大償神楽の弟子筋の神楽もあるが、巡業はせず、村内の年中行事に携わっていた。またマチで各種伝統芸能が一堂に会す祭礼には出演して芸を磨いていた。ここでは芸能の享受者と伝承者が互換可能であった。

このように山伏神楽は興行型と慣行型に分類される。

南アルプスの湯立神楽では山伏神楽と異なり巡業地域、弟子神楽の形成は見られない。十五~六世紀頃の成立と見られるが背景には御霊信仰も見られる。

大井川・安部川流域の神楽には太々神楽的な要素が見られるとする。これは伊勢の大神楽を元に形成されたものである。太々神楽といっても湯立的な要素を持つものと、現代の仮面劇的なものとに分かれる。

神楽の精神的要素として願果たしが挙げられる。つまり願をかけることであるが「立願」と「願果たし」に分類される。

・宗教者を通じて願をかける。場合によっては舞を奉納する。
・願主自らが湯を浴び、再生することで健康を願う。
・健康に育った子供が自ら舞を奉納して願果たしをする。

もう一つの精神的要素として神送りが挙げられる。神楽で招いた神を送るのである。土地の神を接待するものと土地の神――格の低い精霊を追い出してしまうものとに分けられる。これは疫神を送る神事とも重なる。山間地帯のため稲作の虫送りよりも疫神を送る神事が発達したと考えられる。鎮めの儀式として反閇が行われる。

また、南アルプス圏の神楽に登場する鬼は、出雲流の神楽では悪鬼であるのに対してマレビト的性格を持つとする。禰宜との年齢争いに負けて舞を舞い退散させられるのである。この禰宜を最高神の天白とする説もある。

鎮めの儀式に用いられる面は「火の王」「水の王」が用いられる。

……この本、民俗については詳細に記述されているが、それだけに筆者の実力では要約することが難しい。

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久保田裕道「神楽の芸能民俗的研究」を読み終える。東北の山伏神楽(早池峰神楽)と南アルプス周辺(天竜川、大井川、安倍川流域)の湯立神楽についての研究書。

芸能民俗と民俗芸能とは逆さまの用語を使っている。柳田国男が芸能を民俗として取り扱わなかったこととも関連しているようだ(折口信夫に任せたとも解釈できるが)。

早池峰神楽については大償神楽と岳神楽とが交替で冬場に巡業していたとする。冬場は炭焼きをしていたが、炭焼きより実入りがよいのだとか。

南アルプスの鬼は出雲流神楽の鬼が悪役であるのに対し、そうではなくマレビト的性格を持つとする。反閇を踏んで大地を鎮めたりもするのだ。

また、南アルプス圏の神楽の共通要素として、願果たし、神送り、御霊信仰等を挙げている。

著者は僕より三歳年上のほぼ同世代の人。この本はもともと博士論文として書かれたものだったとのこと。

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2019年12月23日 (月)

神楽甲子園を題材とした漫画――鈴見敦「放課後カグラヴァイブス」

鈴見敦「放課後カグラヴァイブス」1・2巻を読む。神楽甲子園を題材とした作品。そういう意味では「カグラ舞う!」に次ぐ作品。

生まれつき目つきが悪くて不良に絡まれやすい號は何事からも逃走するのがモットーだったが、転校した広島の高校で目力があると神楽部に勧誘され、そこで號は変わっていく……という内容。

作中、足の血豆が潰れてしまうシーンがあったが、剣道と同じ様にすり足なので足の皮が剥けやすいのだろうか。あれは痛いのである。

リアリティの無いのは玉塚神楽団の団長、惣史の父。玉塚神楽団は新舞も旧舞もやるようだが、実態はそこら辺のおっちゃんと変わらずあんな格式ばった人はいないだろう。梶矢神楽団なら別かもしれないが。

芸北神楽が出雲神楽が源流で石見に伝播して石見神楽となり、それが広島県芸北地方に伝播して芸北神楽となったという説明がされているが、どうだろう。石見神楽は大元神楽をルーツとしているが、大元神楽が出雲神楽に源流があるとは言えないはずである。出雲で能楽の様式を取り入れる以前から大元神楽はあっただろう。

「カグラ舞う!」は四コマ漫画なので、芸北神楽の躍動感を表現するのが難しい部分もあるが、「放課後カグラヴァイブス」は普通のコマ割りの漫画なので、芸北神楽の躍動感を表現するのに成功している。

残念ながら2巻10話で連載終了となってしまった。目標の神楽甲子園までたどり着いたのがせめてもの救いだろうか。同じく郷土芸能を題材にした「鬼踊れ!!」は仲間集めの段階で物語が終了してしまった。

分からないのは「ヴァイブス」の意味。英語ではVIBESらしいが、辞書で引くと、雰囲気とか気配といった意味なのである。

作者が関東在住なら関東の里神楽も見て欲しい。芸北神楽とは全然違うことが分かって楽しめるだろう。

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2019年12月22日 (日)

備後東城荒神神楽能本――アダチガ原黒塚

◆はじめに
 広島県比婆郡東城町戸宇の栃木家蔵本の「アダチガ原黒塚」は「黒塚」の古い形態を示す内容だと言えよう。旅の行人が宿を求めるも断られる。宿の女主は女は成仏できないのかと問う。そして行人が祈ったところ黒塚の魔王が現れる……という内容。まだこの段階では金毛九尾の狐と合体していないことが見て取れる。

 岩田勝はこのアダチガ原黒塚を山伏による悪霊強制型の神楽能だと解釈している。後世になって黒塚の結末に九尾の狐伝説が接続され、三浦介、上総介が退治する内容となって、悪霊強制型は失われたとしている。

◆延宝本:安達ヶ原黒塚

 「アダチガ原黒塚」に手を入れてみた。詞章が崩れて意味がとれない箇所はそのままにした。カタカナをひらがなに改めている。

一 身を捨て菩提(ぼだい)を救(もとむ)る行人も 小篠(こざさ)の露に濡るる衣かな

一 旅の衣は鈴懸の露けき袖を絞るらん

〇抑々(そもそも)御前に参たる行人をば如何成(いかなる)山伏(やまぶし)とや思食す 是は南(那)智(ち)の東宮(とうくう)裕慶(ゆうけい)阿闍梨(あじやり)と拙僧(せつそう)が事にて候 夫(それ)山伏者天句の変作(へんさく)か それ天句と申事は父も無母も無し 生始無ければ死る終(を)わりも無しと申伝 みやうぜん(明全か)くわつ(渇か)王金平羅しやく女とげんしやくしき 夫(それ)明王院の御子なり

●頭襟(ときん) 結袈(ゆいけさ) 阿合華厳経法華方等般若涅槃経也 脚半引□畜獣中獅子法螺

●夫(それ)山伏と申は 倶利伽羅(くりから)不動の尊体(そんたい)を顕(あらは)すなり 面(をもて)に分怒(ふんぬ)の相好(そうがう)を出(いだ)し 心(こころ)には慈悲(ぢひ)を一心の構え相道(そうどう)の水(みすを)汲むなり 是如何に世間を廻る時 一切凡夫の煩悩我身に受けん為なり 一つは諸(もろ)々の悪魔蛇心(じやしん)不来(ふらい)の為なり 胸に相道(そうとう)の水とは世間に如何(いか)様の罪人(ざいにん)業人有らば 助け浮かめん為なり 又拙僧が為には 現在娑婆(しゃは)の走るが如く 竹の切株に腰を掛くるが如し 此世なれば未来速やかに成仏と念ずるに依つて 相道(そうとう)の水を汲む慈悲一心を構ゆるとは是なり

●抑々(そもそも)役行者と申は大和の国のきの郡(こうり)しまいの長者の内かんのまくと申人の胎(たい)内に宿り給いて ちわらと申す氏神の縁上にて御誕生(たんしやう)なるに依つて 夫(それ)宵に生給をば宵の行者と申 結い良きままに役行者と申 又星出て生給をば星の行者と申て二人の行者是なり 抑々(そもそも)街(かい)道と申は役行者の六尺二分(ぶん)のひつえを以て踏み開き給ふか 左手(ゆんで)三尺は山伏武士(やまぶしぶし)の道 右手(めて)三尺は人間(にんげん)四方(よも)の衆生の通る道 中二分は諸神諸仏の影向(ようこう)の道と申 夫(それ)に依つて六尺二分の街道とは申也 去(され)ば山伏に十二之道具と申は 先日笠は天蓋を表して八角に作る事は八葉の蓮華を学び天道の働き(日月恐れの為なり)天に十万十千の神を戴く心なり 同く兜巾(ときん)と云(いつぱ) 十二の襞は神代十二代人間には十二因縁を十二天句之胡座どころなり 袈裟(けさ)は三千大地世界と結び掛たり 後に二つの房は日月 左手(ゆんで)二つは弥陀薬師 右手(めて)二つは釈迦太日なり 前に四つは四天王東西南北とも六つの房 続けては六根六色六鏡界六道まんきやうとも申 腰(こし)に指たるは太刀(たち)しば打ち悪魔払 摺り袴の後ろ腰は金剛界 前腰胎蔵界 四つの紐(ひぼ)は四百四病の病を結び鎮める印よう也 又界を挟むこと生死の二つ善悪有無の二つ 立こえは生るる 王の声は死(しぬ)る位なり 引致(ひつしき)は此界を廻る時地神ヱの恐れの為也 脚絆は 袈裟脚絆は山伏の形(なり) 筒脚絆は一切凡夫(ぼんぷ)の脚絆也 黒きに白を付ける事は西王(さいをう)の父東王の母なり 上の紐(ひぼ)を結ぶはあんじし 下の緒を結ぶはけじし 則ち陰陽和合(はごう)の二つなり 夫(それ)八(やつ)目の草鞋(わらんぢ)履くことは八様の峰を踏み開かせ給(たも)うところなり 夫(それ)数珠(じゆず)と申はをとどめ(お留めか)は金剛界 立つ間は胎蔵界 四つの房は四方四周四天下 四つの数とりは地獄(じこく)天蔵長天広目天多(た)門(聞)天 又無色(むしき)界の四天とも云なり 百八の粒は百八の輩(ともがら) 弟子は十善(ぜん)十悪(あく) 手足の廿か 一粒提婆達多(だいばだつた)と申 錫杖(しやくじやう)とは如何にをもん見に九輪(くりん)は天竺須弥(しゆみの)図を表(ひやう)す日本にては五畿内地水火風空の五つか 是は云伝(くてん)有り 四つの耳は一心(ひかし)修行(みなみ)菩(にし)提埋槃(ねはんきたなり)なり 六つの輪は六波羅密眼(げん)耳(に)鼻(び)舌(ぜつ)身意(しんい)心は六つ輪を打ふれば人間の心も涼やかなり 依つて六根清浄なり内に二つの九輪(くりん)は金こうぞう王胎蔵権現しつたい山(さん)こんようざんとて 仏(ほとけ)と米(こめ)の生れたる御山なり 
江刺(ヱさし)の方をばほつぼう王(をう)の三身(さんしん)也 目釘穴は神道仏道鹿島(かしま)の明神なり 柄(ヱ)は真言秘密の錫杖 一尺二寸山伏の錫杖の柄(ヱ)は五尺二分(ぶん)と申供杖(ともつえ)により付持給故に柄は不定(さたまらす)と申 一尺二寸は神代十二代也 五尺二分は五智青黄赤白黒にきの彼岸 又六尺二分とは六地蔵六道六仏とも二分は天地二分と阿呍(あうん)二つ両部の二大日とも 行人残し錫杖夫(それ)あんとうこくとうとうとう 成仏道皆令(りやう)満足とうと三度打振りならん 其後は何様(いかよう)にも鳴らし 去(され)ば山伏に十六の道具 衣は四十二の襞(ひだ)は四十二陰(いん)四十二陽(よう) 衣の心は胎内にての胞衣(ヱな)よその不浄を身に受けん心なり 貝の尾は倶利伽羅(くりから)の化身(けしん) 両頭蛇 人間臍の尾髪の毛一寸二分に切ること薬師の十二神を頭(かしら)に戴く心なり 合力一対両部合てたちかた十是十六善神の行人なり

柴の庵に立より宿借るに借さぬ時山伏読む

一 旅人の習いとて昨日は果(は)てる今日は暮(く)れぬる 情けの風(かぜ)は身にぞ染む 我を助ける人は無し 我を憐れむ人は無し 我が古里の恋しさよ 我が古寺(ふるてら)のゆかしさよう

一 夫(それ)山伏の声振りたてゝ宿借る法は無けれ供 其子細(しさい)は出家とは出(いつ)る家を 行人とは行(をこの)う人を 山伏とは山を探す山に伏すと読むと申 ましてや諸国一間(見)と巡る山伏殊に行人は二人なれば是非宿を借し給へ

一 宿を参らせう間に自(みつから)かふとばし見給うな 臥所を見ば六畜獄(けたもの)の骨あり 又山伏にとろくを駆ける時あれば何物ぞ 是はさんしきいとみのものなり 広めて御目に掛けませ

(舞)女人出る節で云う 女と申は七七三所(しよ)の菩薩の憎み得て(ヱて)成仏と云事なし 暗き夜に灯(とぼ)し火得(ヱ)たると存ずる 尊(たつと)き御僧様に参り相 自浮かべて給へ御僧様

女咎(とが)深(ふか)いは七葉(しちよう)の蓮華(れんげ) 男には八葉(よう)の蓮華と云ことを云なり 次に女は五つ咎(とが)三つの罪と云ことも云なり 七葉(よう)の蓮花逆さまにつぼむに依つて 腹立(はらた)つれば赤成(あかくなる) 物を思へば青成(あおくなる) 笑ヱば白く成 三角成玉(さんかくなるたま)とも云う 此蓮花の許に三寸の池あり 一寸二分の虫住む 忝(かたじけ)なくも月三度の月水は一年に八十四日なり 此不浄により六地を踏めば地神の咎め 山に行けば山神護王の咎め 河に洗えば水神の縛め 下に流れて竜神憎みは重々なり 然れども 是は女人の定(さだまり)事 只三寸の胸の善悪なり 十善十悪迚(と)て廿は無し 十悪を作れば十善捨(すた)るるなり 十善を作れば十悪忘る 十悪とは何(いか)に 身に三ツ咎(とが) 口に四の咎 心に三つの咎是十悪なり 五界とは一殺生(セツシヤウ)とは過(とが)なき生有(しやうある)虫を殺す事 ニに偸盗(ちうとう)とは嘘をゆう事(盗みの事) 三に邪淫(じやいん)とは妻として主(ぬし)有る人を引剥なし二心(ふた心)もつ事 四に妄語とは盗みの事(嘘を云事) 五に飲酒戒(をんじゆかい)とは酒を呑み酔狂(すいきやう)する事なり 弥々(いよいよ)仁義礼智信を能々悟りてみよ先汝に悟らす事有り

一 迷うとは何を言(ゆ)うらん拙さよ 我が心より為せる業(わざ)よ

一 只有の人を見るこそ仏なり 仏を見るは只有の人

一 悟りとわ何を言(ゆ)うらん中々に 南に有るぞ訪(たつ)ねてもみよ

(不思議成宗[むね]に仏を持ちながら 無垢やえそうと云ぞは儚や)

(女人にも五智の姿を打ちながらむ仏と云ぞ拙き)

此心汝が三寸の胸掌(たなこゝろ)を能く保つて姿を変えて参れ 随分(すいぶん)浮かべて取らせうぞや 女人去て里人を訪ね申事もある 口伝多し

行人祈り出(いた)す魔王出て云 あう某(それかし)は神の前に悪逆の仏の前に提婆(大ば) 人間の外道となつて人を獲(と)る事限りなし 汝が様成行人獲つて示さじ其為に黒塚の身是まで顕れたり

黒塚の身示さん其為に行人是まで顕れたり

◆参考文献
・「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」(芸能史研究会/編, 三一書房, 1974)pp.175-177
・「神楽源流考」(岩田勝, 名著出版, 1983)pp.503-513

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2019年12月20日 (金)

新監督

広島カープの新監督に佐々岡氏が就任したことを今更知る。佐々岡氏は浜田商業出身で僕とは高校が違うけど、一つ年上の従姉が同級生だった。しかし、写真を見ると顔つきが全くといっていいほど変わっている。

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2019年12月17日 (火)

音楽家が書いた神楽本――三上敏視「新・神楽と出会う本 歌・楽器・お囃子」

三上敏視「新・神楽と出会う本」を読み終える。全国の神楽を幅広く見て回っている人で、後半では全国50か所の神楽が紹介される。二次元バーコードが添付されていて、スマートホン経由で動画にアクセスできるようになっている。

前半は神楽の基本的な知識について語られるので入門用の本としても読める。音楽家が書いた本だけに、音楽面の記述が充実している。

著者のポリシーとして、神楽歌の無い神楽は神楽と認めないそうだが、関東の里神楽では神楽歌は歌われない(あるにはあるらしいが)。広島県の芸北神楽の新舞もどうだったか。旧舞には台本にあるのだけど、新舞では台本に記述が無かったような気がする。

せり歌というのもあって、お囃子に合わせて観客が歌うのだとか。昔は若い男女の出会いの場ともなっていたそうである。意中の人めがけて恋の歌を歌うのだとか。

後半では全国50か所の神楽が紹介されるのだけど、八調子石見神楽は取り上げられなかった。音楽性については大元神楽の項で触れられている。BPM200に達するとのこと。ロックに近いノリだとし、若者に人気の一因だろうとしている。

芸北神楽に関しては取り上げられなかった。極めて現代的な神楽なので取り上げる意義はあると思うのだが。

他、石見神楽の笛はリコーダーの様に誰でも音が出せるように改良されているとのこと。ヒーロー笛という商標らしい。

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2019年12月15日 (日)

備後東城荒神神楽能本――クラマ天句

◆はじめに
 備後比婆郡戸宇栃木家蔵本の「クラマ天狗」は牛若が父義朝の敵を討つべく鞍馬の大天狗が持つ兵法の巻物から教えを乞い、大天狗に認められるという内容である。鬼一法眼の名も登場する。

 比較のため謡曲「鞍馬天狗」を口語訳してみた。双方同じ内容とは言えず、「クラマ天句」が謡曲「鞍馬天狗」を元にしたとは言い切れないだろう。山路興造「もう一つの猿楽能―修験の持ち伝えた能について―」「芸能史研究」44号によると、山路は備後東城荒神神楽能本(戸宇栃木家蔵本)には能楽大成以前の能の様式が残されていると考えているのである。

◆延宝本
 備後東城荒神神楽能本の「クラマ天句」に手を入れてみた。詞章が崩れて意味がとれない箇所はそのままとした。カタカナをひらがなに改めている。

クラマ天句(てんぐ)

出づる(いつる)ぞなごれ三日月の 出づるぞなごれ三日月の 鞍馬の寺に参り給(たも)う 抑々(そもそも)御前に罷立る臣下をば何(いか)成身とや思召(おほしめ)す 是はそも源氏の朝臣(あつそん)丑若一子(じ)と某(それがし)が事にて候

去ば某し 洗孫(せんぞ)を申は神武天王(皇)より五十六代 政和(せいわ:清和)天王(皇)の末なり さだちか(貞親か)貞純その御子に六孫王常本(つねもと)の御時より 源(みな)もとの家始(はじまる)なり 常本の御子にただの(只野か)まんちう(満仲か) その御子に源の来光(らいくわう)の嫡主頼義(よりちか)とてましませど 是は悪逆不道(ふとう)の人(じん)なれば 御代をば付不給而(つきすたまはして)即(すなはち)来光の御舎弟に河内守よりのぶこう御代を付給(つきたまう)頼信(よりのぶ)の御嫡子伊予守頼義の御子三人 八満太郎義家 賀茂の次郎義宗 新羅三郎義貞 去ば義家の御子六条の判官為義 為義の御子に佐馬の守義朝義朝には八男(なん) 常盤腹には三男 当寺鞍馬ヱ参遮那王(しやなをう)稚子(こ)と某(それがし)が事にて候

去ば父義朝は驕る平家に世を取られ 尾張国長田の庄治(しやうじ)を頼(たのま)せ玉(たまう)ところに 僅かに謀られ 高見が湯殿(との)にて御服召されし事を思えば無念の次第なり 去(され)ば昔大唐(たいとう)の正山(しやうさん)のサウケイが伝えし 八十四巻(くわん)の兵法(へいほう)の巻物を 能(よき)ところ四十ニ巻に約め 叡山に籠め置(おき)て 鞍馬の大天句(たいてんく)奪い取り小天句等に伝ゆる由を聞いて有 鞍馬に参大天句に近づき兵法のにぢつと習取(ならいとり) 父の敵(かたき)を討たばやと存候 夫(それ)平家の大将(じやう)は人王五十代 桓武(くわんむ)天王には八代の末孫(はつそん) 忠(たゝ)森の子息安芸の守清守なり 都西八条の住居(ちうきよ)を構え 相国(しやうこく)入道(にうとう)と申て 一門供(とも)に繁昌(はんしやう)して 嫡子小松重(しけ)盛内大臣 左大所(たいしよ:大将か)二男宗盛 中納言右大所(しよ)三男知盛(とももり) 三位の中条四郎重(しげ)平 蔵人(くらんど)の頭(とう)嫡孫維盛 四位の正正(少将)とて一門の公卿(くぎやう)十六人 天(殿)上人が三十四人 其外能登の守教常 常盛 幸盛何れも諸国の受領(じゆりやう)要所衆都合六十四人なり 彼ら是らが頭(かうべ)をつい通し 父義朝の教用(きやうよう)に報じばやと存候

恐(をそ)ろしや天句風は恐ろしや 吹くかと思えば峯の岩石(がんぜき)落(を)ち崩れ 谷の小木(こぼく)を切る音が 夥しくも聞こえたり

〇あう此山と申は慈覚大師(じがくたいし)の秘終(ひしゆ)として 役(えんの)行者の芳(こけ)の道 魔性(ましやう)ならで住ぬ山 行人(きやうにん)ならで入(いら)ぬ山 汝(なん子[じ])は男子女とも見不(みへす) 又は天魔の類(たくい)にても更に無し 只捕はれものと見て有 実(げ)に実に此山へ分(わけ)入者をばよきまさきりにて打砕くぞ由なし 命が惜しくんば此山疾(と)く疾くさヰばいし給えつ

牛若 抑(そも)此方(こなた)の事を宣う(の給)か
天狗 なつかなかの事ヱ候
牛若 去ば某(それがし)申は源氏の朝臣(あつそん)に丑若一子(いつじ)とは某が事にて候 この程に父吉とも(義朝)は驕る平家に世を取られ 尾張国たがしか湯殿にて御腹を召されん事今に置思(をきをも)へばあら無念の次第なり 昔大唐の正山(しやうさん)のサウケイが伝(つたへ)えし兵法(へいほう)の巻物を 鞍馬の大天句奪い伝る由(よしを)聞いて有けに(実にか)さんにても有なら教(をし)えて給の大天句

天く あう汝(なんぢ)は源氏の朝臣(あつそん)に丑若判官殿で候かよあう 此程に父吉とも(義朝)は驕る平家に世を取れ 尾張国長田に謀られしか湯殿で御腹召されし事あら無念な子細なり 昔大唐正山のサウケイが伝しい兵法の巻物を 叡山にお召を 鞍馬の大天句奪い取り 小天句等より伝吉を聞て有 実(け)にさんにて有なら教えて給と申かや

丑若 さん候 夫(それ)親の敵を打たんと思う者をば 天道も憐れみ給仏神も加護(かこ)し給 又我等も情けを掛可し 夫(それ)兵法(へいほう)兵法(ひやうほう)と云(いつぱ) 三百のしちつしゆなり 先一番の太刀(たち)の手に五方指相(さしやい)八九十 鍔攻(つばぜ)め 水車(みつくるま) えんびえんかいゆをうつばぜめ(鍔攻) 浮き舟 浦の波 込むて 凪ぐて 十文字 八方八崩し 八鼻方(がた)を教ゆるぞ 第二番の秘修(ひしゆ)の手に天な陰(いん) 地は陽 北陰 南陽 此印明(このいんみやう)を能く悟れば 万里が外(ほか)の朗笛(ろうてき)も及ばず滅びん事は疑(うたか)いなし 第三番に疫死(やくじ)用迚(ようとて) 此扇(をうぎ)を以(もつ)て敵の陣(てきのじん)を三度扇げば臆病(おくびやう)風となつて 千騎(き)万騎(まんき)の大敵も七里七里と退くぞ 又返(かや)いて味方の人(じん)を太三度扇げば 生をい(勢)風となる 水(みつ)に相海(そうかい)とは船無くして海の上をゆさりゆさりと歩け供(とも) 水の底にも沈まんぞ 又現(あらは)れんと思には須弥(しゆみ)と長(たき)をも比ぶる 忍(しの)ばんと思へば芥子(けし)の中にも分入なり あらあら是を見ゆるぞ まだも習いたくんば此山に鬼一法見(眼)とて有り 是に近付(ちかづき)習い候へ 某(それかし)は薙刀(なぎなた)の手を一振(ひとふり)伝可申す 其にて打だち押し(をし)給え

一 あう此山にて弟子(でし)を取こと九百九十九人 汝とも二千人 汝ほど成御弟子(みでし)も無し 一の御弟子にして候間(あいだ) 白位(しらい)の法劒(ほうけん)を取らするぞ 畏つて候

一 あら嬉し 鞍馬山じやうしやう(僧正か)が滝(たき)に来て 何(なに)わの事を習(ならい)取るなり

◆鞍馬天狗
 謡曲「鞍馬天狗」を直訳調ながら口語訳してみた。

前シテ:客僧
後シテ:大天狗
子方:牛若丸
ワキ:東谷の僧
狂言:能力
處は山城

鞍馬寺にて花見のありける日、牛若も其席に列せしが、客僧の狼藉するとて人々帰りし跡に、独のこりて、大天狗より兵法の伝授を受くる事を作れり

シテ詞「このように居る者は、鞍馬の奥僧正(そうじやう)が谷に住居する客僧です。さて当山に於いて、花見の由を承り及ぶ間に、立ち超え他所ながら梢を眺めようと思います」
狂言「これは鞍馬の寺にお仕えする者でございます。さて当山で毎年花見がございます。殊に当年は一段と見事でございます。その間東谷へただ今文(ふみ)を持って参りました。どう案内申しましょう。西谷から御使いに参っております。ここに文がございます。御覧なされ」
ワキ詞「何々西谷の花、今を盛りと見えますが、など訪れ(音信)にもあずかりません。一筆啓上させます。古歌(こか)に曰く、けふ見ずはくやしからまし花ざかり。咲きものこらず散りもはじめず。実に趣きがある歌の心、たとえ訪れなくとも、木陰でこそ待つべきを」
地「花咲けば、告げようと言った山里の、使いは来たり馬に鞍、鞍馬の山の雲珠桜(うずざくら)、手折り枝折(しをり)を標(しるべ)で、奥も迷わず咲き続く、木陰に並み居て、いざいざ花を眺めよう」
狂言「どう申しましょう。あれに客僧が渡っております。これは近頃狼藉者でございます。追立てましょう」
ワキ詞「しばらく、さすがにこの御座敷と申すところ、源平両家(りやうか)の童形達が各々ございますに、あのような外人(仲間以外の人)は然るべきでないでしょう。けれども、またこの様に申せば人を選び申すのに似ておりますので、花をば明日(みやうにち)こそご覧なされ。まずまずこの処をばお立ちありましょう」
狂言「いやいやそれは御諚(ごぢやう:貴人の命令)でございますけれど、あの客僧を追ったてましょう」
ワキ「いやただお立ちありましょう」
シテ「遙かに人家を見て花があれば直ちに入る、論ぜず貴賤と親疎をわきまえないこそ、春の習いと聞くものを、浮世に遠い鞍馬寺。本尊(ほぞん)は大非多門天(だいひたもんてん)、慈悲に漏れた人々かな」
牛若「実に花の下(もと)の半日(はんじつ)の客、月の前の一夜の友、それさえ好(よし)みはあるのに、あら痛わしい近く寄って花をご覧なされ」
シテ詞「思いよらずに松虫の、音にさえ立てない深山桜(みやまざくら)を、御訪(おとむら)いの有難さよこの山に」
牛若「ありとも誰か白雲の、立ち交わらねば知る人なし」
シテ「誰をか知る人にしよう高砂の」
牛若「松も昔の」
シテ「友烏(ともがらす)の」
地「御物笑いの種を蒔くか、言の葉茂る恋草(こひぐさ)の老いを隔てるな垣穂(かきほ)の梅。だからこそ花の情けなれ。花に三春(さんしゆん)の約あり。人に一夜を馴れ初めて、後どうなろうか打ち付けに、心空に楢柴(ならしば)の、馴れは勝らず恋の勝る悔しさよ」
シテ詞「どう申しましょう。ただ今の稚児(兒)たちは皆々お帰りになったところ、どうしてお一人でここにいらっしゃいますか」
牛若詞「左様でございます。ただ今の稚児たちは平家の一門、中でも安芸の守清盛の子供たちなので、一寺の賞翫(しやうくわん:愛でもてあそぶこと)の憶え時の花です。自分も同山ではありますが、万事面目ない事どもで、月にも花にも捨てられております」
シテ「あら痛わしい。さすがに和上臈(わじやうらふ:あなた)は常盤の腹で三男、毘沙門の沙の字をかたどり、御名前を沙那王(しやなわう)殿とつけ申す。あら痛わしい御身(あなた)を知れば処も鞍馬の木陰の月」
地「見る人もない山里の桜花、よその散った後にこそ、咲けば咲くべきで、あら痛わしの御事だ」
地「松嵐(しやうらん)花の跡を訪ねて、松嵐花の跡を訪ねて、雪と降り雨となる。哀猿(あいゑん)雲に叫んでは、膓(はらわた)を断つとか。物寂しい景色かな。夕べを残す花の辺り、鐘は聞こえて夜は遅い。奥は鞍馬の山道の花が標(しるべ)である。此方(こなた)へ入らせ給え。ところでこの程お供して、見せ申した名所(などころ)の、ある時は愛宕(あたご)高雄(たかを)の初桜、比良(ひら)や横河(よかは)の遅桜、吉野初瀬の名所(などころ)の、見残す方もあればこそ」
牛若「それにしても、如何なる人でいらっしゃれば、私をお慰めになるのでしょう。御名をお名乗りください」
シテ「今は何をか包むべきか。我はこの山で年を経た大天狗は我である」
地「君に兵法の大事を伝えて平家を滅ぼすべきだ。そうお思いならば、明日(みやうにち)参会(会合に参加する)申すべし。さらばと言って客僧は大僧正が谷を分けて、大僧正が谷を分けて、雲を踏んで飛んでゆく。立つ雲を踏んで飛んでゆく」
牛若「さてさて沙那王の出で立ちには、肌には薄花桜の単衣に顯紋紗(けんもんしゃ:透かし紋のある紗織物)の直垂(ひたたれ)の、露を結んで肩にかけ、白絲(しらいと)の腹巻白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)」
地「たとえば天魔鬼神であっても、さだめし嵐の山桜、華やかな出で立ちかな」
後シテ「そもそも自分は鞍馬の奥僧正が谷に年経て住む大天狗である」
地「まずお供の天狗は誰々か。筑紫には」
シテ「彦山(ひこさん)の豊前坊(ぶぜんぼう)」
地「四州(ししう)には」
シテ「白峯(はくほう)の相模坊(さがみぼう)、大山(だいせん)の伯耆坊(はうきぼう)」
地「飯綱(いづな)の三郎富士太郎、大嶺(おほみね)の前鬼(ぜんき)が一党、葛城高間(かつらぎたかま)、他所までもあるまい、辺土においては」
シテ「比良」
地「横川(よがは)」
シテ「如意(によい)が嶽(たけ)」
地「我慢高雄の峯に住んで、人の為には愛宕山、霞とたなびき雲となって」
シテ「月は鞍馬の僧正が」
地「谷に満ち満ち峯を動かし、嵐木枯らし瀧の音、天狗どうしは夥しい」
シテ詞「いかに沙那王殿。ただ今天狗を参らせたので、稽古の程(際)をなんぼでもお見せしようぞ」
牛若「左様でございます。ただ今小天狗(せうてんぐ)どもが来ましたので、薄手をも切りつけ、稽古の程(際)を見せ申したくはありますが、師匠に叱られ申すかもと思い止まっています」
シテ「あら可愛い人よ。その様に師匠を大事にお思いになるのについて、ある物語があります、語って聞かせ申しましょう。さて漢の高祖の臣下張良という者、黄石公(くわうせきこう)の此の一大事を相伝する。あるとき馬上で行き会ったところ、何としたか左の履(くつ)を落とし、いかに張良あの履を取って履かせよと言う。安からず思ったけれども履を取って履かす。またその後以前の如く馬上で行き当たったところ、今度は左右の履を落とし、やあ如何に張良あの履を取って履かせよと言う。なお安からず思ったけれども、よしよし此の一大事を相伝する上はと思い、落ちた履を押取(おつと)って」
地「張良履を捧げつつ、張良履を捧げつつ、馬上の石公に履かせるのに心とけ、兵法の奥義を伝えた」
シテ「其のごとく和上臈(あなた)も」
地「其のごとく和上臈(あなた)も、さも花やかなご様子で、姿も心も荒天狗を、師匠や坊主と御賞翫(愛でもてあそぶこと)は、いかにも大事を残さず伝えて、平家を討とうとお思いになるかや。優しい志しかな」
地「抑(そもそも)武略の誉れの道、武略の誉れの道、源平藤橘四家(しけ)でもとりわけ、彼の家の水上(みなかみ)は、清和天皇の後胤(末裔)として、あらあら時節を考え来たところ、驕れる平家を西海(さいかい)に追い下し、煙波(えんば:かすんで見えるほど遠くまで波が続いているさま)滄波(そうは)の浮雲(ふうん)に飛行(ひぎやう)の自在を受けて、敵(かたき)を平らげ会稽を雪(そゝ)ごう御身と守るべし。是までなり。お暇申して立ち帰れば、牛若が袂にすがったので、実に名残あり。西海四海の合戦といえども、影と添うて離れず。弓矢の力を添え守るべし。頼めや頼めと夕影暗い、頼めや頼めと夕影鞍馬の、梢に翔(かけ)って失せたことだ。

◆参考文献
・「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」(芸能史研究会/編, 三一書房, 1974)pp.174-175
・「神楽源流考」(岩田勝, 名著出版, 1983)pp.518-532
・山路興造「もう一つの猿楽能―修験の持ち伝えた能について―」「芸能史研究」44号(芸能史研究会, 1974)pp.35-48

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2019年12月11日 (水)

コンプレックスを吐き出す

文教大学の斉藤先生にメールを送る。神楽入門用の記事をWordファイル化して送ったもの。神楽についてあまり知識の無い学生向けの記事になるだろうと思って提案したもの。関東の大学生が主な対象だが、石見神楽や芸北神楽中心の内容となっている。関東の里神楽も出雲流神楽に分類されるので、まあ、なんとかなるだろう。

読み返してみると。「石見神楽はショーである」という批判についてつらつらと考えた内容となっている。多分、新聞記事であったのだと思うが、石見神楽は人気があるが、一部でショーだという批判があるといった書かれ方をしていたことを記憶している。それから中学一年生のときの担任の先生が郷土史家だったのだけど、「本物の神楽は大元神楽の様なものを言うんだ」といった発言をされたことを記憶している。

これらの批判について、どう答えたら良いか分からないままにコンプレックスとなっていたものが一気に噴出したというところである。現在は本質主義と構築主義という学説の対立の存在を知ったので、あのときのあれは多分こういうことだったんだろうなと思いつつ書いた記事である。

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「神楽囃子」CDが届く

「日本の芸能 神楽囃子」CDが届く。なんとかパソコンに取り込んで聴いてみる。うーん、僕にはジャズがどれも同じように聞こえるのだけど、神楽囃子もそうかもしれない。しばらく聴き続けて耳に慣らすしかないか。

早はバトルの場面で掛かる曲だろうか。大拍子が細かくリズムを刻む。ニンバ(仁羽)は組曲の最後に入れられているが、もどきが活躍する場面でもかかりそうである。三番地(さんばら)はモドキのハコビの舞でだろうか。

解説は本田安次なのだけど、「紅葉狩」は近代神楽に分類されている。

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2019年12月 8日 (日)

忘年会

菊名で加藤社中の忘年会に参加させていただく。お座敷芸もあって時代劇の世界に入った様な感覚だった。芸妓さんのデビューもあったりして楽しい時間を過ごさせてもらったのだが、このところ頻尿気味で何度もトイレに行っては……の繰り返して冷や汗ものだった。泌尿器科に行った方がいいか。

芸妓さんは会話が巧いと感じる。初対面の相手も会話を切り返してくれる。三味線は入念にチューニングする様だ。

芸は水平飛行を続けてあるとき、ブンと飛躍するのだそうだ。そこからまた水平飛行を続けて、更にブンと飛躍する。そういう繰り返しだそうだ。

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備後東城荒神神楽能本――八幡宮

◆はじめに
 備後比婆郡東城町戸宇の栃木家蔵本に収められた「八幡」だが、二人の法者に八幡の示現があって八幡の御座所を訪ねる、そこで尉(じょう)と会う……という内容である。

◆延宝能本
「八幡宮」に手を入れてみた。詞章が崩れて意味がとれない箇所はそのままとした。カタカナはひらがなに改めている。

八 八幡宮
 永野村井上挊 神主越後

一 抑々(そもそも)御前に罷立る二人の法者をば如何成(いかなる)法者とや思食 是は抑(そも)壬生忠峯(みぶのたゞみね) いうのた京治(きやうじ)河原とは我ら二人の事にて候

〇我は八幡(はわたを)信(しん)仰申に以(よつて)て 有夜のれい文(もん)曰(いは)く 我を信ぜん輩(ともがら)は野々(のの)末山の奥までも訪ねて参(まいれ)との御示現(じげん)なれば 野々(のの)末山の奥までも訪ね参(まいり)一七日の参籠をも致し 八幡の御座所を礼ばやと存候 辺りに里人や御座(まします)御座 さん候 法者有様を申

翁 いえいえ此尉(じやう)は知らぬ尉(じやう)にて候

時に法者曰く
此山之松の緑の久さと 尉殿の歳の齢(よはい)の久さに 知られん事は世も有らじ 只々教えて給(たまはれ)の尉殿

然らば教え参らせう あれあれ御覧候らへ 是より未申に当つて 雲たなびき霞(かすみ)に移ろい松の一と村見(みへ)けるが 昔異国退治の其時に 小金(こがね)の箱(はこ)を埋(うつ)めたるに依つて 箱崎の山とも申す又は男山(をとこやま)供(とも)申あれこそ八幡の御座(こさ)いれ所にて候 あれにて神通の矢に法便の弓を相添て内殿に籠め 扨(さて)游禽(いうきん)に笛を吹せ たいきん(大禽か)に太鼓を打たせ 音(をん)覚(がく)を奏し給はばやかて八幡は御御生(こみいき)御座(ましまそう)す八幡の御御生(こみいき)候なら此(この)尉をも八幡の後戸(うしろと)に松等の御前と祝い給はれのう八幡の御御生き(みいき)礼(をがみ)申なら八幡の左(ひたり)戸に祝て参せう(よう)にて候

一 水の色八重幡雲を印迚(しるしとて) あれがや八幡の神垣の森

一 千早(ちわや)ふる八重幡雲がたなびきて実質拝む神垣の弓

一 山鳩の泊りは何処(いつく)ぞ八幡山 出井(いでい)の清水(しみつ)若松の枝

一 八幡山中の峠が曇る供(とも) 我氏人(うじひと)に曇り降ろさん

一 此御世(みよ)に出(でる)月弓の八幡山 いざ立寄りて早く拝まん

〇只今の尉殿の母の手(て)が面白(をむ[も]しろ)さに 白金や小金の戸平(とびら)を押開き八幡の身(しんたく)これまで顕れたり

一 天(あま)下がる天下がる 御影(みかげ)のどけき旅の空 月も葛城男山伏してぞ祈るみあい(御合か)の手向け さつさつの笛の声調子を揃えて舞遊ぶ 何段もくれき(暮れきか榑木か)の恐れとて 弓を発し劔(つるき)を納(をさめ) 去って守可(まほるべ)し守可 昔を我国と成(なれ)や そも薙ぎ返すは 千早(ちわや)の袖又一神世を祈り 神代は尽きじ袖と君との道すぐに 風も鳴らさぬ楢の葉も 鳴らさぬ御代も久けれ 揺るがぬ御代こそ目出たけれ

◆参考文献
・「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」(芸能史研究会/編, 三一書房, 1974)pp.173-174

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備後東城荒神神楽能本――天照皇大神岩戸出

◆はじめに
 広島県比婆郡東城町戸宇の栃木家蔵本に収録されている「天照皇大神岩戸出」はこの時代の岩戸神楽である。七番目ということは岩戸神楽自体が目標ではなかったことになる。
 スサノオ命と争った天照大神は岩戸に籠り、神々が神楽を奏してお悦びになった天照大神が岩戸から出てくる……という内容である。

◆延宝本:天照皇大神岩戸出

「天照皇大神岩戸出」に手を入れてみた。詞章の崩れで意味がとれない部分はそのままにした(カタカナをひらがなに改めている)。

七 天照皇大神岩戸出

一 抑々(そもそも)御前に罷立尊法者は イザナギの遣わし目の尊とは某(それがし)がことにて候 天照太神ソサノ尾(スサノオ)の尊 御争いの段去(さて)太神岩戸に閉(とじ)籠り給うて 尊たち神楽を始(はじめ)て 太神悦(よろこび)有て岩戸を開き 日月の光四方に輝き 目出度所を舞納候

●神楽始り土唐(唐土)のほぐと云(いう)人白蓋(びつかい)を作(つくり)飾り 六十六人の尊法者太鼓(こ)は天満天神 笛はいしば(石破、石場、石庭か)の明神 杓拍子(しやくひやうし)はぎをんぎ女舞人は御子(みこ)社人法者

一 さいはいや 高原(たかまかはら)に入(いる)月(つき)を舞(まい)ぞ出(いだ)す目度(めてた)かりける

一 しやくざい(借財か)と尊天こん太(たい) 大日尊瑞祥(づいしやう)悔過(けか)慈眼(じげん)大神宮と開たり

扨(さて)日輪月輪舞出す 何も口伝有り

一 ちわやふる(千早ふる)岩戸と前の神楽にて 明けて尊の面(をもて)白さよ

一 甕(みか)の戸は 早開けにけり久方の 嬉しく思(おぼ)せ戸隠し(とかくし)の神

一 只今の祇神(神祇)神楽舞の手が面白(をもしろ)さに 岩戸を開みほこそ(顕れたり)

一 また倶利迦羅(くりから)岳(たき)頂き祀るや岳(たき)祀りの明神なり

一 天の雲切り更け行く月の光と共に葦原を薙ぎ払え

◆参考文献
・「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」(芸能史研究会/編, 三一書房, 1974)p.173

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2019年12月 7日 (土)

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Amazonで江戸神楽若山流家元 若山胤雄社中「神楽囃子」CDを買う。関東の里神楽の解説を読んでいて、ここはサガリハとかハヤとか書かれているのだけど、曲を知らないから想像できなかった。これである程度分かるようになるかもしれない。ただ、残念なのは乱拍子が収録されていないことだ。

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2019年12月 2日 (月)

妖艶な美女――佐藤両々「カグラ舞う!」

月間ヤングキングアワーズを1月号を買う。佐藤両々「カグラ舞う!」今回は瞳が素面で化粧をすると妖艶な美女になるというお話。しかし、瞳は素面だと引っ込み思案になるのだった。


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2019年12月 1日 (日)

備後東城荒神神楽能本――正徳太子(聖徳太子)

◆はじめに
 広島県比婆郡東城町戸宇の栃木家蔵本に収録された「正徳太子」は仏法の守護者である聖徳太子を扱っている。そのため、日本古来の風習を重視した物部守屋は太子と対立する敵となっている。この辺、唯一神道に塗り替えられていない当時の状勢がよく分かる。

 某(それがし)は聖徳太子であるが、仏法を守護しようと思ったところ、物部守屋という悪逆の臣が障礙を為すので、退治しようと思う……といった内容である。

◆延宝本:正徳太子
 「正徳太子」に手を入れてみた。詞章の崩れで意味がとれない部分はそのままとした。カタカナをひらがなに改めている。

正(聖)徳太子
 永野村 越後


●抑々(そもそも)御前罷立神(しん)化をば何成身とや思食(をほしめす) 是はそも仁王三十ニ代用明天王の其末(すへに) 正徳太子とは某(それかし)が事にて候

●去は某し仏法初所(さいしょ)の天王寺を立て 法仏を広め四(よ)方の衆生穏やかに守護せんと存所(ぞんするところ)に 守屋大臣(もりやのだいじん)とゆいし悪逆(あくきやく)出来(しゆつたい)し 仏法に障碍(しやうげ)を為す(し) 日本を魔法(まはう)に為さんと巧むを 某神通以覚有(それかしじんつうもつてさとつてあり)如何に守屋の大臣悪逆を巧むとも 某神通の矢に法便の弓を以て守屋の大臣を退治し 日本の衆生を穏やかに守護さばやと存じ候

●去ば守屋の大(たい)臣は四十ニ才(さい)の春(はる)の此(ころ)より 某(それかし)十六才(さい)の秋此(あきのころ)より待請(まちうけ) 守屋の大臣の情(せい:勢)は八万騎(ぎ) 某(それかし)が方(かた)は六万騎にて (あいただか申ころはい)過ぎにしえんじ(遠邇か)二年の此相戦いけれども(庚午の年 ならふ二月に)今だ勝負(しやうぶ)は見(みへ)ざりけり 秋の末にも成ければ 守屋(もりや)の大臣音に聞へし河内の国いなぐら(稲倉か)が城(じやう)に閉(とじ)こもり給う 某は信濃国善光寺(しなののくにぜんくわうち)であり 生如来真(いきによらいじき)にごじゅでん(御受殿か)の勘文あり

●夫(それ)仏の法使を以昭示(しやうし)せんと あそうきこう(騎行か)を経ても ちやうし(懲治か)せんとす

●(にうた)阿耨多羅三藐(あのくたらさんみやく)三菩提の仏様 我勝つ末に明が有せよ

●勘文あり 一日しやうよう(逍遥か)むそく(無足か)じが(自我か)経 七日太くどぐ(功徳か)がじ衆生信むけん(無限か)如(によ)のうさいどき不後(ふご)と見(みる)時は 一日の逍遥(しやうよう)を止むる事なし 言わんにや七日の太功徳をや 我衆生を保つに心の間も無し 汝よく済度せん あに守(まほら)ざらんと 此文の心を以て守屋の大臣を只安々と退治し 四方の衆生を守護せばやと存候

●古(いにしえ)を伝えて聞(きく)も 今見(いまみる)も 守屋は太子のさ渡りと成る

●住吉の松の庭こそはふ(富屠か)れ 正徳太子の御世ぞ久(ひさし)く

◆参考文献
・「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」(芸能史研究会/編, 三一書房, 1974)pp.172-173

記事を転載→「広小路

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備後東城荒神神楽能本――天神

◆はじめに
 広島県比婆郡東城町戸宇の栃木家蔵本に「天神」が収録されていた。菅原道真のことであるが、伴大納言との因縁を記している。実際には伴大納言は道真が二十代の頃に応天門の変を起こして流罪となっている。本来のライバルである藤原時平の名は見られない。この台本は天神に関する古いものに属すると思われるので、元々から時平ではなく伴大納言を相手としていたことになるか。

 某(それがし)は天神であるが、伴大納言の訴訟によって筑紫の国の大宰府に追いやられた。上洛を遂げて仇を雪ごう……といった内容である。

◆延宝本:天神
 「天神」に手を入れてみた。詞章の崩れで意味がとれない部分はそのままとしている。カタカナをひらがなに改めた。


長の村井上挊 越後

一 雪に越路(こちじ)の白(しら)山や 雪に越路の白山や 松風いつく(何処か)なるらん

●我屋(わかや)を出(いて)てさんしかば 落つる涙は白しんこう 万治(ばんぢ)は皆夢の如し よりよりひざう(秘蔵か)を仰ぐべし

●我屋を出てさんしかば 落つる泪(なみた)は北南地(ほくなんち) さんしよ(三所か)は夢の如くなりけり

〇我屋を出(いて)て其後に 戻り来(こ)ん帰り来ん供云(ゆい)難し 定し事が定めなければ

〇抑々(そもそも)御前に罷立る神(しん)化をば 何成(いかなる)身とや思召す 是月光(くわつくわう)の都に本地如来(によらい)天満天神とは 某(それがし)が事にて候

一 去者(されば)某さしたる事も無かりしに 飯代内官(ばんだいなごん:伴大納言か)の訴訟(そしやう)により九州筑前(ちくぜん)の国大宰府(ださいふ)の郡(こうり) 安楽寺(あんらくぢ)の御元(みもと)まで流されて 憂き辛苦を経る事誰(たれ)故ぞ 大内言(なごん)故と(今に)思(おもへ)無念なり 上楽(洛)を遂(とげ)北野の天神と祝(いはゝ)ればやと存じ候

 春の日の徒然に 拾二之歌(うた)を詠(えいじ)ばやと存候 扨(さて)十二歌子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥に付(つけ)て読可(よむべし)

一 梅(うめ)は飛ぶ 桜(さくら)は枯れる世中(よのなか)に 何迚(なにとて)松は連れなかるらん

一 こち吹かば 匂い起(をご)せや梅の花 北野(きたの)に我(われ)があらん限りは

一 何国(いつく)にも梅だに有(あら)ば我と知(し)れ 必(かなら)ず立たる社(やしろ)なくとも

一 吹風(ふくかせ)に心を許すな梅花(うめのはな) 松には風の吹かぬ間(ま)もなし

〇 去(され)ば奈良の当代寺(とうだいじ:東大寺か)の橋(はし)の建立(こんりう)に太内言(たいなごん)登(のぼらん)事(こと)は世も有らじ 都五条橋詰待請(みやここしやうはしづめまちうけ) 羽(は)白の矢をうつ番(つが)い 念力岩をも通すとや 右の会稽(くわいけい)を雪がばやと存候

◆参考文献
・「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」(芸能史研究会/編, 三一書房, 1974)p.172

記事を転載→「広小路

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