寝過ごす
国会図書館に行く。今回はダブル盛り蕎麦とお握りを食す。江戸里神楽公演のパンフレットを読む。時間の関係で途中までしか読めなかった。関東の社中でも舞台芸術を意識している団体があることが分かった。
今回は寝不足で眠たかった。帰りの電車であざみ野駅を寝過ごしてしまい、江田駅から帰る。
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国会図書館に行く。今回はダブル盛り蕎麦とお握りを食す。江戸里神楽公演のパンフレットを読む。時間の関係で途中までしか読めなかった。関東の社中でも舞台芸術を意識している団体があることが分かった。
今回は寝不足で眠たかった。帰りの電車であざみ野駅を寝過ごしてしまい、江田駅から帰る。
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◆はじめに
備後東城荒神神楽能本、広島県比婆郡東城町戸宇の栃木家本に収録された「天照大神之山ドリコエ」では天照大神は登場せず、イザナギ命が誕生したばかりの日本国を巡って第六天の魔王に荒神、地神として祀ろうと言って自分の領分にしようとする……というところだろうか。
◆延宝能本
延宝能本の「天照大神之山ドリコエ」に手を入れてみた。詞章の崩れで意味がとれない部分はそのままにしてある。カタカナはひらがなに改めた。
一 抑々(そもそも)御前罷立神(しん)化をば如何なる神(しん)とや思召す 是は天神七代の末(すえ)イザナギノ尊(みこと)とは我事(わかこと)なり 某(それかし)須弥(しゆみ)の半腹(はんぷく)にて三国をつくづく見(みれ)ば 青海(あをうな)原なり 此下(このした)に国(くに)無きやと思い 御鉾(みほこ)を下ろし大海(たいかい)を探りければ 陸地(ろくじ)は近く覚(をほへ)たり 丑寅の隅を見ければ大六天の魔(ま)王住(すみ)ける 彼魔王を謀り 指図を取らばやと存候
二 如何にや魔王 此国を我に得させよ 得さするならば神に荒(こう)神 人間(にんけん)の為には産(うぶ)の神 地にては堅牢地神と崇め 四季上品(じやうぼん)の初尾(を)を参らせんと宣えば さらば(しかれば)魔(ま)王申ける それ思いも寄らぬことなり 此国を我領事せんと思(をもふ)所(ところ)に 余の指図を得させよとは思いも寄らねども 真(まこと)に宣旨の如く 我を地神荒神と崇め給(たまは)ば 某が手をくもで(蜘蛛手か)けち(結か)かへにして墨をつけ 天の杉板(いた)に押(をし)て 世(よ)の指図と定(さだ)め奉らん 去(され)ば魔王謀り指図をしけるは 東西九百九十九里南北五百五十里 辰巳より戌亥へ放かし 丑寅より未申ヱは短き国なり 然るに魔王を止(の)ぞかんために大日本国と名(なつ)く国土をぶねう(武寧か)に守らばやと存候
◆参考文献
・「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」(芸能史研究会/編, 三一書房, 1974)p.172
記事を転載→「広小路」
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◆はじめに
「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」に収録された備後東城荒神神楽能本(広島県比婆郡東城町戸宇の栃木家蔵本)は始めに「皆サン」「鹿嶋」の順で収録されている。「皆サン」は始まりの舞なので、舞台を清める意味合いがあるのかもしれない。「鹿嶋」はこれは鬼が日本に攻めて来たのを迎え撃つ内容で、中国地方に多く見られる鬼退治ものの原型かもしれない。
◆皆サンノノウ
「皆サンノノウ」に手を入れてみた。詞章が崩れて意味がとれない箇所はそのままとした。カタカナはひらがなに改めた。
皆サンノノウ
一 抑々(そもそも)本地姿は虚空蔵 松之尾(まつのを)の明神と者(は)我事なり
●諸神諸仏皆(かい)さん奉(たてまつらん)其為に身体(しんたい)是迄顕れたり
●チワヤフル神も不残(のこらす)聞し召せ みのすゝ河の清(きよき)かいさん
●若(もしも)かいさん掛からん神有(あらは) 松尾ノ明神に届けべし
◆鹿嶋之能
「鹿島之能」に手を入れてみた。詞章が崩れて意味がとれない箇所はそのままとした。カタカナはひらがなに改めた。
鹿嶋之能
一 日之本(ひのもと)なれば照(てるそ)かし あいろ(文色か)の松に影を差す
抑々(そもそも)御前に罷立(まかりたつたる)身(しん)かをば 如何成身(神)とや思召す 是東海道十五ヶ国(こく)之内常陸(ひたち)拾(ちう)六郡之有住(ぐんのあるち)鹿嶋(かしま)之明神とは某(それかし)か事(こと)にて候
○されば鬼国より修羅(しゆら)は気負いをなし 日本に渡(わたり) 彼(かの)要(かなめ)の石を抜き日ノ本ノ衆生をとり伏せんと巧むを 某(それかし)神通以(もって)悟り 夫(それ)法便(神力)之弓(ゆみ)に神通(じんつう)の鏑(かむら)矢(や)をぶつ番(つが)い 修羅をば鬼国に射返し 日本の衆生を安全(ぜん)に守ばやと存(ぞんじ)候
●皆神は出雲の国ヱと急げ供(とも) 住吉鹿嶋(すみよしかしま)は後に残れり
〇常陸成(ひたちなる)あいろこいろの山超(やまこえ)て 東の果ては鹿嶋成(かじまなる)らん
〇風(かぜ)動く 霧ぞ働く波高し あびきが浦に鬼(おに)ぞ見(み)えけり
一 あをう 某(それがし)日本に渡(わた)り 彼要の石を抜き 日本の衆生を取り伏くし 某日本に住せばやと存候
一 あをう 某住せばやと存候
〇かのうまい(叶うまいか)にて候
一 さらば神通比べに参ろう
〇共汝が計らい
一 あをう 行も水居も水 去つては逃(のか)れん弓矢かな 続けや続けや八万鬼の情(勢)
◆参考文献
・「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」(芸能史研究会/編, 三一書房, 1974)p.171
記事を転載→「広小路」
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ブログをhttps化する。このブログはコメント欄を閉じているので、あまり関係なさそうだが。ホームページのcanonical属性を一々置換せねばならなかった。
<追記>
ウェブページのお勧め記事の一覧のリンクも手動でhttpsに修正する。300PVくらいは自分のアクセス。
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「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」に収録された広島県比婆郡東城町戸宇の栃木家蔵本の延宝本と寛文本(荒神神楽能本)を精読する。栃木家本の研究は岩田勝の独壇場であるが、呪術性が強いかと思いきや、実際に読んでみると思っていたのとは違い、エンタメ性に富むものであった。やはり能本なのである。
詞章が崩れて意味がとれない箇所は多いし、確かに「松の能」「目連の能」「身売りの能」等、葬式神楽と関係があると思われる演目もあるけれど、「身売りの能」など読んでいて、この話はこの後どう展開するのだろうと思ったくらいである。岩田勝は栃木家本に呪術性を見い出そうとした。確かにそれは作品の解釈に寄与するが、それはこの豊穣な海の一部でしかなかったのではないか。
大体どこの神楽でも唯一神道流の改作を経た資料しか残っていないところに、この栃木家蔵本は両部神道的な要素が残っていて、その意味では奇跡的に残されていたということができる。
「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」は分厚い本で、普通のコピー機でコピーすると、綴じの部分に大きな影が出来て、その箇所が読めないことがあるので、「備後東城荒神神楽能本集」をコピーしたいなら国会図書館の遠隔複写サービスがいいだろう。
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◆はじめに
広島県比婆郡東城町戸宇の栃木家の蔵本に「垢離の金剛童子」が収録されていた。金剛童子は護法童子の一柱であるが、両部神道的な内容で、神楽が唯一神道化するに従って廃れたと思われる。
謡曲「護法」は陸奥国名取の老女の許を修験僧が訪ねる。名取の老女は紀国の熊野の御山に参詣したいが歳をとって叶わないので、熊野から勧請したと語る。それを見た僧と名取の老女の前に金剛童子が顕現する……という内容である。
◆岩田論文
岩田勝「神楽能における金剛童子」「広島民俗論集」を読む。謡曲「護法」と備後比婆荒神神楽の「金剛童子」との関係を論じたもの。謡曲「護法」を読んでから読むと比較的分かり易かった。
◆延宝本:コリノ金剛童子
延宝本「コリノ金剛童子」に手を入れてみた。詞章が崩れて意味がとれない箇所はそのままにした。カタカナはひらがなに改めた。
コリノ金剛童子
長の村(挊) 越後吉政[花押]
一 抑々(そもそも)御前(をんまえ)に罷立(まかりたつた)る法者(はうしや)をば 何成(いかなる)法者とは思食(をほしめ)す 是は抑(そも)紀野国牟婁(むろ)の郡供えの里闇(さとおと)音無河(をとなしかわ)の川上に住舞(すまい)御座(まします)垢離(こり)の金剛童子之遣わしめの法者とは某(それがし)か事にて候
〇去(されは)某(それがし)千日の垢離(こり)をも取り、垢離の功力(くりき)を以て金剛童子(こんごうとうじ)を舞出し 一目礼(ひとめをかま)ばやと存候
〇熊野成 三之御山(をやま)に隠せとも 他所(よそ)へは聞こえし音無の河
一 熊野成 三(みつ)ノ御山によりきして 四方(よも)の衆生(しゆしやう)を守(まもる)神々
一 神(かん)ノ座(くら)岩に染(そ)み出て掛作り 飛騨の匠が神(かみの)ちかえか
〇去は某(それかし)程無(ほとなく)垢離も達したと存候 金剛童子は是に御身いきなされ候処を一目礼はやと存候
●橋がかり 〇みもすす(身も鈴か)河の河上にみもすゝ河の河上に身こそおりい(降り居か)御座(をはします)
△抑々(そもそも)罷出たる神(しん)をば如何成(いかなる)身(しん)とや見申候 是者紀野国牟婁(むろ)の郡(こうり)音無河の川上に住舞申垢離の金剛童子とは我事(わかこと)なり
〇去は願(くわん)も成就(しやうしゆう)之其為に 真(まこと)の身(しん)是迄(これまて)顕れたり
一(腰を掛けて云)下にも行くや足はや舟のつんなつて 三つばかしはのたくしんたく(托身託か)の二世(にせ)の願も三世(さんぜ)の所も 皆々悉く願成就して また身(しん)体是まで顕れたり
一 舞上るか
◆寛文能本:金剛童子の法者
寛文能本「こんこうとうじのほうしや」に手を入れてみた。詞章が崩れて意味がとれない箇所はそのままにした。カタカナはひらがなに改めた。
金剛童子の法者
一 旅の衣わ鈴懸(すゝかけ)の旅の衣わ鈴懸の 露けき袖や絞るらん
一 抑々(そもそも)御前に罷立る法者をばいかなる法者と見給 是は紀の国牟婁(むろ)の郡音無川(をとなしかわ)の川上に住まい座垢離(こり)の金剛童子の遣わしめの法者とわ某(それかし)が事にて候
一 されば某(それかし)千日の垢離(こり)をも取り程なく垢離も達したと存候 垢離の功力を以て金剛童子を一目拝ばやとそち候
一 熊野なる三の御山に還せども他所ゑは聞くべし音無の河
一 熊野なる三の御山によりき(寄り来か)して 四方(よも)の衆生(しやしやう)を守(まもれ)神かみ
一 神(かん)の座(くら)岩に染め出で掛け作(つくり)飛騨の匠の神のちかへ(誓へか)か
一 されば金剛童子(こんごうとじ)は見行成にて御座候 是にて一目拝まばやと存じ候
◆寛文能本:金剛童子の法者
寛文能本「こんこうとうじのほうしや」に手を入れてみた。詞章が崩れて意味がとれない箇所はそのままにした。カタカナはひらがなに改めた。
金剛童子の身(しん)の云(ゆい)立
一 抑々我は是紀の国牟婁の郡音無川の川上に住まい仕(つかまつ)ぬ垢離の金剛童子(金こうとうし)とわ我事なり
一 願(くわん)の成就の其の為に身体是まで顕れたり
一 下にも行くや葦早舟の綱つても 三葉(みつは)柏の行末守たくしんたく(托身托か)の道は遠きや とりのろうじ(※名取の老女)の子孫に至るまで 二世の願(くわん)と三世の所も皆々悉く 願(くわん)成就して神体是まで顕れたり
◆謡曲「護法」
ワキ:熊野の僧
シテ:名取の老女
ツレ:老女に仕ふるもの
同:護法善神
名取熊野新宮の縁起を叙す。
次第「山又山の行末や、山又山の行末や、雲辺のしるべだろうか」
ワキ詞「これは本山三熊野(みくまの)の客僧でござる。私はこの度松島平泉への志があるので、お暇乞いの為に本宮証誠伝(ほんぐうしようじやうでん)に通夜(おこもり)申したところ、あらたに霊夢を蒙ったので、ただ今陸奥(みちのく)名取の里へと急いでいます」
道行「雲水の、行方も遠い東路(あづまじ)に、行方も遠い東路に、今日思い立つ旅衣、袖の篠懸(すずかけ:修験者が着る直垂と同じ形の麻の衣)露結ぶ、草の枕の夜な夜なに、仮寝の夢をみちのくの、名取の里に着いたことだ。名取の里に着いたことだ」
一声二人「どこでも、崇めば神も宿り木の、御影を頼む心かな」
サシ老女「これは陸奥の名取の老女といって、年久しい巫(みこ)でございます。私は幼(いとけな)い時からも、他生の縁も積もったのでしょうか、神に頼みをかけまくも(心にかけて思う心も、言葉に出して言うことも)、かたじけないことに程遠い、彼の三熊野の御神に仕える心浅からず、身はさくさめの年(若い女)詣(まうで)、遠いのも近い頼みかな」
シテ「そうではあるけれども次第に年老いて、遠い歩みも叶わないので、彼の三熊野を勧請申し、ここをさながら紀の国の」
二人「室の都や音なしの、かわらぬ誓いぞと頼む心ぞ真(まこと)なる」
歌「ここは名を得た陸奥の、ここは名を得た陸奥の、名取の川の川上を、音無川と名づけつつ、梛(なぎ)の葉守(はもり)の神(樹々を守る神)ここに、証誠殿とあがめつつ、年詣で日詣でに、歩みを運ぶ小女子(をとめこ)が、年も古るくなった宮柱、立ち居暇なき宮路かな。立ち居暇なき宮路かな」
ワキ詞「如何にここにいる人に尋ね申すべき事がございます」
ツレ詞「何事でしょう」
ワキ「承り及んだ名取の老女と申すのは、この御事でございますか」
ツレ「左様でございます。これこそ名取の老女にでございます。何の為にお尋ねなさるのです」
ワキ「これは三熊野から出た僧でございますが、老女のお目に掛かって申したい事がございます」
ツレ「暫くお待ちください。その次第を申しましょう。どのように申しましょう。これに三熊野から出た山伏がございますが、お目にかかりたい次第を仰せになっています」
シテ詞「あら、思いもよらない事だ。こちらへと申しなさい」
ツレ「畏まって候。客僧よこちらへお出でになりなさい
シテ「三熊野からの客僧はどこにお入りになった」
ワキ「これにてございます。何とやら卒忽(そこつ)な様にお思いになるでしょうが、夢想の様を申す為にここまで参って来たのです。扨(さて)も(ところで)私はこの度松島平泉への志があるので、お暇乞の為に本宮証誠殿におこもりしたところ、あらたに霊夢を蒙りました。お前は陸奥へ下ったならば言伝すべし。陸奥名取の里に、名取の老女と言って年久しい巫(みこ)がいる。彼の者は若く盛んな時は年詣(としまいり)しなかったけれども、今は年老い行歩(ぎやうぶ:歩行)も叶わないので参る事もない。ゆかしい(何となく懐かしい)とこそ思え。これにあるものを慥(たしか)に届けよと新たに承り、夢から覚めて枕を見れば、なぎの葉に虫食いの御歌があります。有難く思い、ここまで遥々持って参ってきたのです。これこれ御覧なさい」
シテ「有難いとも中々にえぞいはしろ(蝦夷岩城か)の結び松、露の命のながらえて、このような奇特を拝む事の有り難さよ」
詞「老眼で虫食いの文字は定かでない。それで高らかに遊ばされよ」
ワキ詞「ならば読んで聞かせ申しましょう。何々虫食いの御歌は、道遠し年もやうやう老いにけり、思ひおこせよ我も忘れじ」
シテ「何のう道遠し、年もやうやう老いにけり、思ひおこせよ、我も忘れじ」
ワキ詞「実に実にご感涙尤もでございます。そうではありながら、二世の願望が顕れて、うらやましゅうございますぞ」
シテ詞「仰せの如くこれほどまで、受けられ申す神慮なので、崇めても尚有難い、二世の願や三つの御山を」
ワキ「写して祝う神なので」
シテ「ここも熊野のいはだ川」
ワキ「深き心の奥までも」
シテ「受けられ申す神慮とて」
ワキ「思いおこせよ」
シテ「我も忘れまいとは」
地「有難や、有難や、実に末世と云いながら、神の誓いは疑いもなき梛(なぎ)の葉に、見る神歌は有難や」
シテ詞「どのように客僧へ申しましょう。此処(ここ)に三熊野を勧請申してございます。お参りなされよ」
ワキ詞「すぐにお供申しましょう」
シテ「此方(こちら)へお入りなされ。御覧なされ。この御山の有様、何となく本宮に似せたところ、これをば本宮証誠殿と崇め申します。またあれに野原の見えているのを、あはかの里新宮と申します。また、此方(こなた)に三重に瀧の落ちているのを、名にし負う(名高い)飛龍(ひりよう)権現のいらっしゃる那智のお山と崇め申しなされ」
クリ地「それ勧請の神所国家に於いて其の数ありと雖も、取り分け当社の御来歴、旅神(りよじん)を以て専ら説くのです」
シテサシ「もとは摩伽陀(まかだ)国の主として」
地「御代を治め国家を守り、大非(仏の広大な慈悲)の海深くして、萬民無縁の御影を受けて、日月の波静かである」
シテ「そうであるとは申すけれども、尚も和光(わくわう)の御結縁(けちえん)」
地「あまねく天の足曳(あしびき)の、大和の島に移りまして、此の秋津国となし給う」
クセ「処は紀の国や、室(むろ)の郡に宮居して、行人(旅人)征馬(従軍する馬)の歩みを運ぶ志、直(すぐ)なる道と成ったから、四海波静かで、八天塵治まった。中にも本宮や証誠殿と申すのは、本地が弥陀でいらっしゃるので、十方界に示現して光遍く御誓い、頼むべし頼むべしや、程も遥かな陸奥の、東(あづま)の国の奥よりも、南の果(はて)に歩みして、終(つい)には西方(さいはう)の臺(うてな)に坐しないことがどうしてあろうか」
シテ「大悲(仏の広大な慈悲)擁護(おうご)の霞は」
地「熊野山(ゆやさん)の嶺にたなびき、霊験無雙(双)の神明は音無川の河風の、声は萬歳の峯の松の、千年の坂既に六十路(むそじ)に至る陸奥の、名取の老女こればかり、受けられ申す神慮、実に信あれば徳がある。有難し有難き告(つげ)ぞ目出度かった」
ワキ詞「どのように老女へ申しましょう。これほど目出度い神慮でいますので、臨時の幣帛を捧げて、神慮を清(すず)しめ申しなされ」
シテ詞「心得申しました。いでいで(さあさあ)臨時の幣帛を捧げ、神慮を清(すず)しめ申そうと」
ワキ「あまの羽袖(袖を羽に喩える)や白木綿(しらふゆ:白色のゆう)ばな」
シテ「神前に捧げ諸共に、謹上再拝、仰ぎ願わくはさ牡鹿(さおしか)の八つの御耳を振り立て、利生(仏の冥加)の翅(つばさ)を並べ、世界の空に翔りては、一天泰平国土安全諸人快楽(けらく)、福寿円満の恵みを遍く施し給えや。南無三所権現護法善神」
シテ「不思議だな老女が捧げる幣帛の上に化(け)した人が虚空に駆けり、老女の頭(かうべ)を撫でるのは、どのような人でいらっしゃいますか」
護法「事も愚かや権現の御使(おんつかい)護法善神(ごほふぜんしん)よ」
シテ「何権現の御使護法善神とや」
護法「いかにもの事である」
シテ「有難や、目の当たりになる御相好(顔つき)」
地「神は宜禰(きね)の習いを受け」
護法「人は神の徳を知るべきと言って」
地「参(まゐり)の道(だう)には」
護法「迎え護法の先達(修験者の先導者)となり」
地「扨(さ)ても(ところで)また下向の道に帰れば」
護法「国々迄も、送り護法の」
地「災難を去りつつ悪魔を払う送り迎えの護法善神なり。それ我が国は小国であると申すけれども、それ我が国は小国であると申すけれども、太(だい)神光を指し下ろし給う、其の矛のしただりに、大日の文字、顕れたことにより、大日の本国と号して胎金(たいこん:胎蔵界と金剛界)両部の密教である」
護法「なので本よりも、なので本よりも、日本第一りようげん(燎原か)熊野(ゆや)三所現権と顕れて、衆生(生きとし生けるもの)済度(法を説いて人々を迷いから解放し悟りを開かせること)の方便(衆生を導く巧みな手段)を蓄えて、発心(信仰心を起こすこと)の門を出でて、いはだ川の波を分けて、煩悩の垢を濯げば、水のまにまに(ままに)道をつけて、危うきかけぢの谷を走れば、下にも行くか、足早船の、波の打櫂(うちがい)水馴(水に慣れた)竿、下れば差し、上げれば引く、綱でも三葉柏にこのように神託の道は遠い。年を旧(ふ)る名取の老女の子孫に至るまで、二世の願望三世の所望、皆悉く願成就の、神託を新たに告げ知らせて、神託を新たに告げ知らせて、護法は上がりなさったことだ」
◆参考文献
・「謡曲叢書 第一巻」(芳賀矢一、佐佐木信綱/編, 博文館, 1914)※「護法」pp.786-791
・岩田勝「神楽能における金剛童子」「広島民俗論集」(広島民俗学会/編, 渓水社, 1984)pp.134-151
・「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」(芸能史研究会/編, 三一書房, 1974)pp.171-172
・筑土鈴寛「使霊と叙事伝説」「筑土鈴寛著作集第四巻 中世宗教芸文の研究二」(筑土鈴寛, せりか書房, 1996)pp.279-302
記事を転載→「広小路」
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国会図書館に行く。今回はダブル盛り蕎麦といなり寿司を食す。今回は江戸里神楽公演学生実行委員会のパンフレットを読むのが主な目的。主要な部分はコピーしてまだ読んでいない。
<追記>
コピーした部分を読んだが、江戸里神楽公演学生実行委員会という組織は外からは正体不明の組織と映るようである。全貌を把握するには、全パンフレットに目を通した方がいいか。
岩竹美加子/訳「民俗学の政治性―アメリカ民俗学100年目の省察から ニュー・フォークロア双書27」(未来社)の冒頭部分を読む。著作権の関係で半分しかコピーできなかったが、読み返してみると、かなり構築主義を匂わせた構成であった。
川野裕一朗「民俗芸能を取り巻く視線―広島県の観光神楽をいかに理解すべきなのか」「森羅万象のささやき 民俗宗教研究の諸相」の前半部分を読んだが、芸北神楽を評価しようという心意気は立派だが、やはり梶矢手の解釈で変な箇所がある。阿須那系梶矢手というのは石見神楽系としか考えられないからである。
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新宿で「第二回 かながわのお神楽公演」反省会に出席。文教大学の斉藤先生、若手民俗学者のH氏、司会を務めたSさん、Bさんが出席。僕自身は元々単なる観客だったこともあって舞台裏の事情は分からず、発言は少ししかしなかった。
会議の内容はいずれ江戸里神楽公演学生実行委員会のサイトで発表されるだろう。
今回、ポメラの矢印キーが故障で使えなかった。まだ使いたい場面はあるので困る。新型を購入すべきか。
帰りは酒場が居並ぶ思い出横丁を通って帰った。昼間と違って混んでいた。
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◆はじめに
広島県比婆郡東城町戸宇の栃木家に蔵されていた寛文時代の能本に「身ウリ能」が収録されている。出典は御伽草子「さよひめのさうし」だと思われるが、父の菩提を弔い母を生かすため自らを千両で商人に売る姫がいた。姫は父の菩提を弔うため一日の暇を乞う。ところが、商人の目的は奥州の池に住む大蛇が一年に一度人を取って喰うため、その生贄に姫を千両で買ったのだ。いざ大蛇に喰われんとしたその時、姫は一時の暇を得て法華経を読誦する。法華経の功徳によって救済された蛇は姫の母を壺坂の観音、姫を竹生島の弁財天とし、自らを蛇王権現とした……という内容。これも葬儀の際に舞われる神楽だったらしい。途中で商人の目的が大蛇に姫を食わすことだというのが意外な展開であった。
◆寛文本:身ウリ能
※原文に手を入れてみた。一部詞章の崩れで意味がとれない箇所があってそのままとしている(カタカナをひらがなに改めた)。
一 抑々(そもそも)御前に参たる物は何成(いかなる)物とや思召す これは奥州(をうしゆう)のカネタカ(兼高か)と申す商(アキ)人なり それ歳十二三の我が身を売る人あらば買い申さんために国々を尋ね これは大和の国宇陀の郡壺坂宿(ツホサカシュク)に宿を取り それ触状(フレチヤウ)札を立てばやと存じ候 歳十二三の未だ男の肌触れ申さん女人のみを 売る人あらば値小切(ギ)らず買い可申候
姫出で
一 のうのうお札の前に参に候
商人
〇さんて御身は未だ二十歳(ハタチ)にも足らざる身を 何を志して身を売り玉う 詳しく語り玉へ 聞きて買い可申
姫
さん候 我が親は四方に四万の蔵黄金湧く故に金(コカネ)の長者(チヤウヂヤ)と申すなり 長者卅九まで子無くに依つて 長谷の観音(クワンヲン)に百日詣でん申て 四十歳に自らを儲け三歳に父親四十三の歳に死(しゝ)給うに依つて 卅九の申し子四十だりを忌むと申事これなり 然れども万宝失せ貧苦になる事限りなし 生きたる母の身命(シンメウ)もなし 死したれ父の斎(いつは)はんの斎料(ときりやう)も左右に無し ある時に御堂(ミドウ)に尊(タツ)とき生人(シヤウニン)の談義に我が身を売りても親のご菩提を弔(トムロ)うべきと説き玉うを聞く故に 自らが身を自ら売り参らせて 生きたる母親の身命に致し 死したる父のご菩提を弔い申せん為なれば 買い取り賜び玉けれ 商人様
〇商人
其の上は差違なく金千両に買い申すぞ姫君
〇ヒメ
然らば今明(コンメウ)日の暇を賜び給われ しかも明日は父親様の十三年忌なれば御僧頼み弔い申て その後はとにもかくにも御供申べく候
〇商人
それ暇は易き事小町売りの人なれば 哀れにわ存ずれども 甲に焼金(ヤキカネ)の印を仕りて参らせ申ぞや姫君
姫は宿にたち帰り母親の前に参りて 如何に母親様東の蔵の跡にて金を千両見つけて候ほどに 五百両をば御身様の今日や明日やの身命(シンメウ)に参らせ申 又五百両をば明日は父親様の十三年忌なれば 御僧様ましますやと尋ね さて家出(シュユツケ)出で様子申にあらず その後如何に母を様この程の金わ自らが身を商人(アキビト)に売り只今連れられ行き申候程に 厳(イツク)ノ島が関の里にもあるならば 訪れの文(フミ)を参らせ可申 時に母うやさてさて死したる父の御(コ)菩提とて身も売り 生きたる母を振り捨て立出(タチデ)申わ 腹立(ハラタツ)や千両の黄金(コカネ)も欲しがらす(曲) 客も無き次第かな
〇時に商人出金千両に買い申姫に偽りを宣(ノタモ)う
〇母云 さてさて何某(ナニカシ)程なる人の子を売るは買うわとは如何成(イカナル)事ぞや
〇商人 なになに金千両に買い申姫に付 お知られ□(不明)あるまづく候 はやはや親縁子縁を切り玉へとて劔(つるき)を抜いて愛を切るとき 剣ほどチャケな物わ世も有らじ 親子を嫌わで通す月ぞ
〇時に母親は腹立(ハラタツ)やも得た歌にて舞処なり
〇又商人宣う(の玉う) 如何に姫君聞き給へ 御身を高々に買い申事彼の奥州に大(ヲキ)なる池候が これに五色の大蛇あり この国震動し人を取る事限りなし 依つて一年に一度棚祀りを致すが寅年は拙者?(セツチャ)が前なり 我も姫は一人持ちたれども 哀れみを悲しみて御身を千両に買い下すなり 明日は御棚(みたな)に上げ大蛇のカンジ(勘事か)に与え申す ただ一筋に思い切り玉ヱや姫君
〇姫 さん候(ぞうろう)愚かなる仰せかな 父親様のご菩提の為とて 自らが身を自らが売るより初(ソ)めて 如何なる大蛇うにの 餌食になりとも火の中水の中に沈め給(タモ)うとても 老少不定(ロウシヤウフチヤウ)の前世(ゼンセン)の約束ぞ 命惜しむにあらず 急がせ玉や商人
〇時に姫を棚に置き 時に毒蛇姫を呑まんとする時 如何に大蛇生(シヤウ)ある物なら聞き玉へ シヤウリヤを刹那の暇(いとま)を得させよ 父の譲りに法華経一つ玉わり候 これを唱え申すぞ毒蛇
〇蛇(ヂヤ) さん候 法華経と聞けば有難や 返事の暇(ひま)を参らせ申すべし
〇姫袂より法華経を出て 一巻二巻をば諸神諸仏に奉 三の巻四の巻をば父母の御為なり 五巻は自らが身のたへ 六巻は商人に奉 七巻は今(コン)日の聴聞の人々に奉 八巻をば大蛇に授けるぞとてなぎ隠るなり
〇蛇(ヂヤ) この池に住まう事九百九十九年 人を取る事九百九十九人 御身を服し千人に達ずべきと存ずる所に 尊(タツ)時仏に参り会い 御経の功力を以て十六の角もはらりと落ち 蛇体を逃れ 申御経布施に金千両奉 御身の母をば壺坂の観音と祝申べし御身をば後には竹生島(チクフシマ)弁財(ヘサイ)天と祝可申 我をば後ろに蛇王権現と祝玉 商人をばカンヌ王と祝玉へ 先ず先ず只今御身をば 某(ソレガシ)が頭(カシラ)に乗せ申て 元の壺坂えただ一時に居り付申にて候
◆さよひめのさうし
『室町時代物語大成』第六巻に「さよひめのさうし」が収録されている。精読したところ、身ウリ能の直接の出典の様だ。
さよひめのさうし
中頃の事である。大和の国、春日の里に、伊勢屋の長者がいた。七万の宝を持ち、四方に四万の倉を建てて、何事も乏しいことはなかった。
だけれども、男子も女子も、子供が一人もいなかったので、あるとき北の方に四方に四万の倉を建て、黄金の山を七つ、白銀の山を九つ持つ。倉の数は三百八十四つ、二万二千の眷属(けんぞく)がいるけれども、死んで後、黄金の山を誰に譲ればいいのか、男子でも女子でも一人産み給えと仰せになった。
北の方はお聞きになって、自分のその様に思っていました。昔から申し子といっています。本当でしょうか。都で清水の観音が流行っているといいます。いざ参って、子種を設けましょうと仰せになった。
長者はたいそう喜んで、ならば参ろうといって、夫婦で一つの車に乗って、清水寺にお参りした。
音羽の滝で垢離(こり)をとって御灯にお参りして、南無、大悲の観世音、これまで参ったことは別の子細ですが、男子でも女子でも子種を一人授け給えと、限りを尽くして祈った。
一七七日ではご示現なく、二七十四日にもご利生はなかった。三七二十一日でもご無想だったので、百日籠もった。百日目の夜の明け方、ありがたくも観音は長者の夢枕に立って、お前はこの程子種が欲しいと祈ったが、お前に授ける子種は無いぞとおっしゃった。訪ねるところは唐と天竺、我が朝、高麗、契丹国、島の数は六万九千三百四つの島が、治める国は百三十六国を訪ねたけれども、更に無し。
ではあるけれども、あまりに不憫なので、男子は授けまい、女子を一人授けるが、この姫をもうけて七歳の年に、父の長者がむなしくなり、二万二千の眷属共も皆散り散りとなり、湧く泉も泡となり、黄金の山も石となるぞ。親子の者どもは三十五日の内に根気を振り絞る様もあるまい。左様であるけれども、欲しいか、長者よとご示現した。
長者はこの由を受け、それはともかく、男子に限らず一人お授けください、観音さまと申した。
そのとき、観音は御宝殿の内から玉を一つ取り出し、弓手の袂(たもと)に移して、かき消す様にして消え失せた。
長者はたいそう喜んで、七度の垢離をとり、三十三度礼拝し、春日の里へ下向した。
眷属どもは、我劣るまいと瓶子を整えて、迎えに出た。奈良の京で待ち受けて、三日三夜の酒盛りをした。三日三夜が過ぎたら春日の里へ帰った。
ご夢想開きをしようと言って山海の珍味、国土の菓子を整え、七日七夜の酒盛りをして、三月までは神詣でをして、六月には仏を参り、七月の初雷、八月の苦しみ、九月にはお産の屋形を作った。
十月には、七重の屏風、八重の几帳、九重のまん、十重の御簾、十二几帳のその内で、お産の紐を解いた。
取り上げて見れば、玉のような姫だった。
長者はたいそう喜んで、名を観音の賜った姫なので、観音の千手をかたどり、小夜の夜更けに生まれたので、千手さよ姫と名づけた。
寵愛して育てたので、二歳の年は三つ四つの慶喜であり、三歳の年は五つや六つの慶喜であった。程なく七歳になった。
観音はこの次第をご覧になって、長者夫婦が籠もったときに姫が七歳になったら父の長者をむなしくすると約束をしたけれども、これほどの長者を急にむなしくすることは不憫であると、お思いになり、長者夫婦の夢枕に立ち、お護りになったので、一年、二年と経つ程に、姫君は十三歳になった。春の頃、親子三人、一つ処で、あまりの栄華の極まりに長者の口ずさみが悲しかった。
この姫をもうけて七つの歳に父の長者がむなしくなり、湧く泉も泡となり、黄金の山も石となり、二万二千の眷属も皆散り散りになって、残る親子たちは三十五日に根気を振り絞る様もあるまいとおっしゃったが、程なく姫は十三になり、長者の宝は次第に増していき、神や仏に偽りを述べた。まして人間の偽りは苦しくないと仰せになった。
観音はこの次第をお聞きになり、神通だったので憎いとお思いになったか、風邪の病となり、やがてその年の初雷がつき、明ける正月十八日に長者はむなしくなった。
案の如く、湧く泉も泡となり、黄金の山も石となり、二万二千の眷属どもも皆散り散りになり、残された親子たちは三十五日の内に根気を振り絞る様子もなかったので、いたわしいことに、さよ姫は、野辺へ出て、なずなを摘み、谷へ降りてはせりを摘み、一人お持ちになり、母上の世話をした。さよ姫の心の内こそ哀れである。
ある日、つらつらと一間の場所に入り、つくづく物を案じたところ、父の命日は近い。弔う術は更にない。黒髪を売って弔うか、我が身を売って、弔うべきかと案じ煩ったが、途中で心を引き返し、実に案に外れたことだ。黒髪を売っても何にもならない、我が身を売って菩提を弔おうと思い、奈良の京へ出て、我が身を召せと呼ばわったのが悲しい。
人々はこれを見て、いたわしい、この姫君は父の長者の健在だったことは隙間から吹く風も厭うたのだが、長者がむなしくなったので、御身をお売りになるこそ哀れであると涙を流し、皆、袖を絞った。
この頃、奥州より商人が一人上京し、この次第を聞き、急ぎ出発して、のう、いかにも姫は未だ幼く見えるが、なぜ御身を売るのか不思議だと言った。
さよ姫は、この由をお聞きになり、商人よ、語るのでよく聞け。我が身を売ることは全く別の次第であらず。父に先立たれ、命日は近くなったけれども、とるべき術は全く無い。あまりの悲しさに我が身を売って、父の菩提を弔おうと思ったのだ。
商人はこの次第を承知し、それならば、ここから東へ下ることができるかと申した。
いたわしいことに、さよ姫は東を近い所と思い、せめて連れて下るのであれば、東に下ろうと申した。
商人はならば値はいかほどかと問うたので、さよ姫は、この由をお聞きになる、何ほどでも、そなたが推し計らって召されと答えた。
商人は、ならば良き金、三百両で買おうとしたけれども、父の菩提を弔うのあれば、五百両に買い取りましょう、都の姫よと申した。
姫君はこの次第をお聞きになって五百両でも叶うまい、良き金、一千両でお召しあれとおっしゃったので、商人はならば力が及ばずといって千両で請け果たした。
さよ姫はたいそう喜んで、のう、いかにも商人よ、七日の暇を与え給え。ともかく我が身を売ったので、父の菩提を弔い、すぐに供養すべし。
商人は、この次第を聞き、十日の暇を参らせよう、心静かに弔い給え。
姫君はお聞きになって、あら有難い事だ、七日の暇を乞うたところ十日の暇を得たことだと、たいそう喜んで春日の里へお帰りになった。
母上の前に参り、いかに申しましょう、母上、奈良の京へ出たところ、仏心三宝の哀れみで黄金を千両拾いました。それで父上のご供養をしましょうと言って、五百両ずつ分けて母御台に進ぜたところ、母はこの次第をご覧になって、あら嬉しい。子は持つべきものよ、媼(おうな)の身ではあるけれど、父の供養をする事の有り難さよとおっしゃって涙がとまらなかった。
その後、残る五百両で、父の供養をしようと言って、東寺、興福寺の座主たちを招き、七日七夜、供養を行った。
七箇所で説教を引き、寒い者には一重(いちへ)を着せ、飢えた者には食べ物を与え、功徳を施した。
七日七夜も過ぎたので、座主たちは皆寺へ帰った。一日二日と経ち、程なく十日は過ぎた。
商人が思うに、十日の日数は経ったのに、なぜ都の姫は遅く出てくるのか、早くお出であれと言って使いを立たせた。
いたわしいことに、さよ姫は一間の所に入って、涙とともに旅の装束をお着けになった。
傍らには、練り、浮文の綾の一重ね、五つ単衣(ひとへ)を引き添えて、一部の法華経、観音経を水晶の数珠に、三体の護り仏を肌の守りに掛けなさった。
綾の脚絆(きゃはん)に綿の足袋を履き、もの憂き杖をつき、母御台の前に参り、いかが申しましょうか、母上様、千両の黄金を拾ったというのは、母上の前で偽りを申したのです。奥州の商人に我が身を売って、どこへと知らずに下ります。名残りは尽きませんけれども、お暇申しますと言って、涙ながらに出たところ、母御台はご覧になって、桟敷をつんと立ち、さよ姫の袂にとりついて、是は夢か現実か。死んだ親の菩提を弔い、生きた親を振り捨てて、どこへと知らずに下るのか。野の末、山の奥までも私を連れていって欲しいと、天に仰ぎ地に伏して流す涙は焦がれ、お泣きになった。
さよ姫は、この次第をご覧になって、自分もそう思うけれども、叶わぬのが浮世の倣(なら)いです、どこに至っても、上り下りの旅人に手紙を言づてしましょうと言って、涙とともに袂を引き裂いて、泣く泣くお下りになった、その互いの心が哀れである。
いたわしいことに、さよ姫は歩き慣れない旅なので、難所では詩を作り、名所では歌を詠み、心を慰めて下っていると旅のもの憂さに母上の恋しさとやる方のなさを感じた。
夜の寝覚めの余りの事に空を眺め一首詠む。
あととふと、そのたらちねの、ちとせをは、うるにかうそ、なみた成りけり
このように詠じた。
奈良の京から瀬田の橋へは一日と言うけれども、いたわしいことに、さよ姫は行きも習わぬ旅なので三日かかって着いた。
瀬田の橋で、さよ姫は、のう商人、ここから東へは三日下るのか五日下るのかと問うた。
商人はこの由を聞いて、ここから奥州へは七十五日で下るのです。あなたの方に歩くと八十日も九十日もかかりますぞ、都の姫と申した。
姫君は、この次第をお聞きになって、それならば、ここで一日逗留して私も休めて下れとおっしゃった。
その時、商人は腹を立て、眼を開き、角を立て、大きな荒れた声を上げ、奈良の京で十日の暇を取らしたのでさえ、東へ向かうには遅いと思ったのに、これに一日逗留せよとは、いましめよ。聞けば中々腹も立つ。歩めと言うに歩まないならば、鞭(むち)で歩かせようと、紫竹(しちく)の鞭を手にして歩け歩けと責めたので、いたわしいことに、さよ姫は、実にまことに忘れていた。これは、そなたの言う通り、千両で買い取ったので、そなたの杖とは思わなかった。冥土にまします父の杖と思えば、少しも苦しくない。旅の慰みに幾つも打たせてお下りあれ、商人よ、とおっしゃって、いたわしい、さよ姫は瀬田の橋を涙と共に下った。
お通りになるのは、どこどこぞ。雨は降らないけれども、森山か、面影を映すのは、各務(かがみ)の宿、摺針峠(すりはりとうげ)の細道を、心細くもうち過ぎて、美濃と近江の境である三増(みます)峠か、丈くらべ、不破の関屋の久しさより、月も漏れとや、まばらにうち眺め、垂井の宿をうち過ぎて尾張の国に入ったところ、夏は熱田と伏し拝み、三河の国の八つ橋にうち掛かり、蜘蛛手に物を思うだろうと、音に聞こえて尚至る、矢作(やはぎ)の宿をもうち過ぎて、夜はほのぼのと赤坂や、昔は無いか今橋をとどろとどろとうち渡り、高し二村をうち過ぎて、三河の限りの境川、憂いのも辛いのも遠江の田浦を眺める潮見坂、浜名の橋の夕潮に、ささねと上る天(あま)を舟、焦がれて物を思うだろう。そうらの松、馬鹿囃子で名所、名所をうち眺め、上り下りの旅人の、引こうか馬込川、天竜川をもうち過ぎて、恋しい親を見附の国府(こう)、通って物憂い袋井縄手、人に情けを掛川や、小夜の中山、中々に、心細くも通ったことだ。
親の行方を菊川や、神に祈りを金江の宿、夜の間に変わる大井川、波を波立て急がせつつ、四方に海は無いけれど島田と言うこそ怪しいことだ。松に絡まる藤枝のいつも遙かとうち眺め、一夜泊まりの岡部の宿、宇津の山辺の夏の細道うち眺め、彼方此方(かなたこなた)へ蹴って通るは丸子(まりこ)川、手越の里をうち眺め、君を待つかや恋するか、田子の入り海、清見が関、三保の松原うち眺め、はや蒲原(かんばら)にお着きになった。
二ヶ松、生い松、せんほの松、南を遙かに眺めると、甲斐山は満々として、岸に立つ波も高そうだ。何時の三島や浦島か、明けて悔しき箱根山、大井ぞ古井ぞうち過ぎて、鎌倉に入ったところ、八つ七郷をうち眺め、武蔵の国に入ったところ、親の命は忍(おし)の里、武蔵野を辿り辿りと歩み過ぎ、音に聞こえた宇都宮、日光山をば弓手になし、人は迷わず狐川、心細くもうち渡り、白河二所の関にお着きになった。
会津山の麓にある物憂き事は積もるだろうと、雪の村木へうち眺め、楯の郡に着いたところ、歩む磨石(すりいし)四寸の道、声猛し信夫の里に入ったところ、文を通わす文知摺(もちすり)石を指す人も無く、鵲(かささぎ)が多くいる名所をうち過ぎて名取川にお着きになった。
さよ姫は余りのやるせなさに一首詠んだ。
なとり川、せゝにふしけり、うもれ木の、うきたつはかりに、おやそこひしき
この様に詠んで下向したところ、花は坂根と桜が森の匂い懐かし、梅が森を誰が染めたのだろう、衣川。
名所名所を眺め、裾は露、袖は涙にうち濡れ、泣く泣く急ぐところ、商人は宿所に着いたことだ。
矢島はたいそう喜んで、触れるなと触れを回した。都より人身御供を買い下した。祭りの夜を用意せよと言って大人や社人たちに触れを回した。
いたわしいことに、さよ姫は中の庭へ招かれ、七重に注連を引き回された。色々に慰めをとり囃す。
しばらくして矢島のお方が都の姫に見参しようと言って、瓶子(へいじ)を一つ、山海の珍味、国土の菓子を取りそろえて、中の庭へたち出て、さよ姫に見参して、十二三歳になる姫にお酌をさせ、主叶う手は姫に差し、姫叶う手はお方に差し、様々な酒肴を勧めた。
霜もようやく過ぎたので、いかに申そう、都の姫、そなたを遠くこれまで買い下した事は別の子細ではない。
ここをばいかなる所をお思いになる。郷も八、村も八つあるので八郷八村(やごうやむら)と申すのである。
昔から今に至るまで地頭が定まらず、大人の数は七百人、社人の数は五百人、中の地頭と申しては、これより北に当たって縦が七里、横が三里のうるまが池がある。
その池には肌色の大蛇が住み、年に一度、人身御供を供えるのだ。それを供えないと大水を出し、八郷八村を押し流すので、力及ばず人身御供を供えるのだ。
ちょうど今年は晴れた晩に当たるのである。ただ今酌に立った姫は二歳の歳から人身御供に供えようとして養いおいたけれども、幼少より手慣れ美しいので余りに不憫に思い、そなたを買いに都へ遙々上ったのである。
さてそなたはこの事を知ってお下りになるか、知らないで、お下りになるか。知らないで下ったのなら、ただ一筋に思い切り、ご最期も近くなり、念仏の一遍も読み給えと詳しく語り、涙を流した。
さよ姫は、この次第をお聞きになり、都から遙々と物憂い事に違いないが、親の為に身を売ったので、どのようになっても召されよ、我が身はお任せする、とにかく消えるだろうか露の命はとおっしゃった。
その後、お方は帰った。
さよ姫はつくづくと案じ、あら、あさましい事どもや、一人持った母上を都に捨て置き、ここまで遙かに下向して、大蛇の餌食になることもあさましいと言って、袂を顔に押し当てて天に仰ぎ地に伏し、流れる涙は焦がれ、流れた。
流れる涙を押し留め、実に外れたことだ。冥土にまします父上の供養の為だけれど、何を指して嘆くべきか、苦しくないとお思いになり、肌の守りからお経を取り出し、水晶の数珠をさらさらと押しもみ、その日は念仏ばかりであった。
日もようやく暮れたので、大人も社人も矢島の家に集まって、歌い乱舞酒盛りで喜ぶことは限りなかった。
五郷の天も明けたので、今は頃合いも良いぞと言って、寄せ太鼓をとうとうと打った。
いたわしいことに、さよ姫は十二一重を着せ飾り、玉の輿(こし)に乗せられて、大人も社人も一緒に、うるまが池に急いだ。
池の中に帰らずが島といって、小さな島があったが、七重に棚を飾り、七重に注連を引き回し、哀れかな、さよ姫をとってお供えして、大人も社人も散り散りに八郷八村へ跡も見せずに逃げた。
あらいたわしい、さよ姫は四方の景色をご覧になったところ、急に照る日がかき曇り、のう、にわか雨が車軸に降り(大雨となり)、水が夥しく増した。
池の中が動揺して、戌亥の隅から肌色の大蛇が紅のごとき舌を出し、身を振り立てて棚を目指して急いだ。
下の棚に供えた人身御供をとって伏し、さよ姫を後ろに頭(かしら)を置き、身を巻き付けるのが恐ろしい。
さよ姫は、この次第をご覧になって、のう、いかに大蛇よ、そなたも生(しょう)ある物であり、自分も生ある者なので、形こそそなたの餌食に授かるけれども、魂は冥土にまします父上と一つ蓮(はちす)にあるべきだ。
大蛇も心があるなら、しばらく暇を与え給え。父の形見に法華経を賜っているので、守りに掛けて参った。紐を解き、読誦して聞かせよう。
そのとき大蛇は少し舌を引き入れ、頭(かしら)を退け、棚に頭(こうべ)をうち載せ、休んで至る。
さて、肌の守りに掛けた法華経を取り出し遊ばす様は一の巻は父の為、二の巻をば都にいる母上の為、三の巻は商人のため。
さて商人が我を買い取ることで父の菩提を弔ったことは三世の契りもかくやぞ。
四の巻は諸神、諸仏に奉る。一つの罪を許して給え。
五の巻は提婆品、女人の助かる所、一者は不徳、梵天、二者は帝釈、三者は魔王、四者は転輪聖王(てんりんじょうおう)、五者は仏神、雲霞に良いぞ功徳成仏。
八歳の龍女も即身成仏の御経なので、大蛇もこの度、蛇頭の苦患(くげん)を免れ成仏し給えと回向(えこう)ある。
六の巻は八郷八村の大人、社人のため、七の巻は奈良の京よりこれまでの七十五箇所の宿々泊まり泊まりのためぞ。
八の巻は我が身の為、九品(ほん)蓮台へ迎えとらせ給えと法華経をくるくるとひん巻いて、大蛇の頭(こうべ)にはったと投げつけ、早々、徳とって伏せよとおっしゃった。
大蛇はこの次第聞くと、さても殊勝な御経かなと涙を流し、聴聞申し、功力によって十二の角をはらりと落とし、総身の苔も落ちたので、さよ姫にも劣らぬ美人となった。
七度の垢離をとり、三十三度の礼拝を参らせ、あら有難い事、人間の姿に助けられ申したことのめでたさよと拝み申したのは理(ことわり)である。
その後、大蛇の姫は一つ棚へ上がり、物語をし給うた。
いかに申そうか、都の姫、自らをば梵(ぼん)の大蛇とお思いになるか、自分の行方を語って聞かせよう。
そもそも妾(わらわ)の父はこの八郷八村の地頭だったが、人間の倣(なら)いで軽き身に重い病を受け、明日の露と消え給うた。
男子の子とて一人も無し、自らは女子なので、あさましいかな、親の跡を人に盗られて無念が積もってこの池に身を投げ、蛇頭の苦患を引き受けて八郷八村の地頭になる者をば取って伏して、この池に住むこと九百九十九年である。
人を食べることばかり、九百九十九人になり、そなたを食べたなら千人に達すべきところ、このようなめでたい浮世にお逢いして法華経を聴聞した。たちまち蛇頭の苦患を免れ、即身成仏して人間の姿に助けられ申した事の有り難さよと言って、またさよ姫を拝む。
今日から姉妹のご契約を申しつつ、互いに頼み、頼まれ申すべしと言って、袂から九帖奉書の玉を取り出し、いかにのう、都の姫、この玉は飛行自在なので宝を所望すると湧いて出るのである。年が若くなりたければ若くなり申す玉であると言って黄金千両をさし添えてさよ姫に奉った。
その後、大人、社人達は人身御供が上がったか、棚を収めようとして池の端に来て見れば、一人置いた姫君が二人になっているのが不思議だと皆、散り散りに逃げた。
大蛇の姫はご覧になって、どう申そう、社人たちよ、自らをば如何なる物と思うか、この池に住んでいる大蛇であるが、都の姫が法華経を遊ばしたのを聴聞して人間の姿に助けられたのである。
今日から人身御供を供えるよりも、この八郷八村に御所を建て都の姫を土御門(つちみかど)と崇めよ、大人、社人達よとおっしゃった。
大人、社人は承知してたいそう喜び、七度の垢離をとり、三十三度の礼拝をして拝むことこそ新たであれ。
二人の姫を輿に乗せ、矢島の屋形へ帰り申した。
その後、大人も社人も御所の用意をしたので、さよ姫がお聞きになって、どう申そう、姫君、自分は都に母を一人持つが、今一度拝むために都へ送ってくれ給え。
大蛇の姫はお聞きになって、易き事と言って大人を召して輿を立て、女房たち十二人をさし添え、三百余騎のお供と共に都へ送った。
京で送りの者どもは皆返し、さよ姫は春日の里お行きになった。
母御台の前に参り、のう、いかに母御前、商人と伴い奥州へ下ったさよ姫がただ今参りましたぞ。
母上はこの次第をお聞きになり、明けても暮れてもさよ姫恋しやと嘆いていて、両眼をはったと泣きつつ伏し、さよ姫とも、知らずに奥州へ下ったさよ姫か、何しにただ今来たのか。
虎狼、射干(やかん:狐)の化け物か、腫れをとって伏せようとして、その様に変じて来たぞと言って傍にあった杖を取り上げて、さよ姫をお打ちになった。
姫君は、この次第をご覧になって、あら有難い、ただ今参って母上の杖に当たることこそ、何よりも目出度いことだと涙を流された。
その後、袂から九帖奉書の玉を取り出し、両眼を開いて撫でたところ、両眼がはったと開いて、さよ姫をご覧になってたいそう喜び、互いに手を取り組み、嬉しいのも辛いのも先ず涙を流された。見る人はこれを哀れんで袖を絞らぬ人はいなかった。
道すがらの物憂い事、うるまが池での物語を事細かに語りつつ、見る人聞く人たちは奇特なことだと皆、感涙を流した。
その後、さよ姫は父の長者の如く、七万個の宝が満ち、黄金の山も七つ、白銀の山も九つ出来、四方に四万の倉を建て、長者二度はないと申すけれども長者講を請け、親孝行な人なので、末代まで繁盛と栄えた。
そうした間に大蛇の姫も都へ上がり、さよ姫と一つ所に住もうと言って都へ上京した。
さよ姫はこの次第をお聞きになって、たいそう喜び、親子三人、一つ所に住み給い、一期(いちご)の間、思し召すままとなった。
母の長者はその後、八十三歳と申すところ、三河の鳳来寺の峯の薬師(くすし)と現じ給い、衆生を守り、事に子の無い人が申せば叶わぬことは無かった。
さよ姫は百二十歳と申すところ、近江の国の竹生島の弁財天と祝われ、世上を導き福神となったとか。
大蛇の姫は大和の国の壺坂という所に観音と現じ給うた。
この様な不思議の事は上代にも末代にも有難いと覚える。
親孝行の人にも、孝行の無い人にも見せ聞かせよ。綾は死んでもよくよく弔えば有難く見えるべし。
その身も現世安穏、後生先蹤(せんしょう)にあるべし。末世の衆生に見せんがためにこの様に記した。
さよひめのさうし
中頃の事にてや、はんべりける、大和の国、春日の里に、伊勢屋の長者とて、おはします、七万の宝満ち、四方に、四万の倉を建て、何事につけても、乏しき事はなかりけり
されども、男子(なんし)にても、女子にても、子を一人、持たざれば、あるとき、北の方に向かひ
四方に、四万の倉を建て、黄金の山も七つ、白銀(しろかね)の山も九つ、倉の数は、三百八十四つ、二万二千の、眷属を、持ちても、この世ばかり、にてこそあれ
晴れ晴れ夫婦、死しての後、黄金の山をば、誰に譲り、後残せをば、問わせ得さすべし、男子(なんし)にても、女子(によし)にても、一人もうけ給えと、仰せけり
北の方、この由、聞こし召し、自らも左様にこそは、存するなり、昔も、申子と申事こそ候へ、まことやらん、請け給われば、都に、流行らせ給う清水の観音(くわんおん)は元服者(けんふくしや)と請け給わる、いざや、参りて、子種を、申さん、伊勢屋殿と仰せける
長者、斜め(なのめ)に喜び、さらば、参りて申さんと、夫婦ながら、一つ車に、とり乗りて、清水へと、参り給う
音羽の、滝にて 垢離を取り、御灯へ、参らせ給い、そも、はにくち(埴口か)、ちょうちょうと、打ち鳴らし
南無や、大悲の、観世音、わらは、これまで参る事、へち(別か)の子細にて候、男子(なんし)にても、女子(によし)にても、子種を一人、授け給えと、肝胆砕き、祈られけど
一七日にも御示現なく、二七日にも御利生なし、三七日にも、御無想、投げれば、押して、百日、籠もらせ給う、百夜と、滿ずる、暁、かたじけなくも、観音は、長者の夫婦の枕上に、立ち添い給い
汝は、この程、子種欲しいと、祈るか、汝に授けべき、子種は、更に無きぞよ
訪ぬる、ところは、とれどれぞ、唐と、天竺、我朝、きらひ、高麗、けひたん国、島の数は六万九千三百四つの島、治国の数は、一百三十六治国を、訪ぬれども、更に無し
さりながら、あまりに申が、不憫さに、男子(なんし)をば、授けまじ、女子(によし)を一人、授けんが、この姫、もうけて七歳の年、
父の長者が、むなしくなり、二万二千の、眷属共、皆散り散りになり、湧き泉も、泡となり、黄金の山も、石となりの(ママ)
親子の者どもは、三十五日かその内に、ずくべき様も、あるまじきか、左様にあるとも、欲しいか、長者、との御示現なり
長者、この由受け給い、それはともあれ、かくもあれ、男子(なんし)に限らず、一人授けたび給え、観音さまとぞ、申されける
そのとき、観音は御宝殿の内より、玉を一つ、取り出し給い、ちやうこせんの、弓手の袂に移させ給い、かき消す様に、失せ給う
長者、斜め(なのめ)に喜びて、七度の垢離をとり、三十三度の礼拝を参らせ、春日の里へぞ、下向し給いけり
眷属共は、我、劣らじと、瓶子を、整えて、御向かいにぞ、出にけり、奈良の京にて、待ち受けて、三日三夜の、酒盛りなり、三日三夜も、過ぎければ、春日の里へぞ、返らせ給う
御夢想開きをせんやとて、山海の珍物、国土の菓子を、整え、七日七夜の、酒盛りなり、三月までは、神詣で、六月の仏参り、七月の初雷、八月の苦しみ、九月と申には、御産の屋形を、作り給う
十月と申すに、七重の屏風、八重の几帳、九重のまん、十重の御簾、十二几帳の、その内にて、産の紐(ひほ)をぞ、解き給う
取り上げ、見奉れば、玉を延べたる、如くなる姫君にてぞ、おはしける
長者、斜め(なのめ)に喜びて、名をば、観音の賜る姫なれば、観音の、千手をかたどり、小夜ふけ方に、生まれ(むまれ)給えば、千手さよ姫とぞ、つけられける
寵愛して、育て給えば、二歳の年は、三つや四つの慶喜なり、三歳の年は、五つや六つの慶喜なり、程なく、七歳になり給う
観音は、この由御覧じて、この姫申に、籠もりし時、姫が、七歳にならば、父の長者を、むなしくせんと、約束をば、しつれども、かほどの長者を、俄に、むなしくせん事は、不憫なりと、思し召し
長者夫婦の、枕上に立ち添い、護らせ給えば、一年、二年と、せし程に
姫君十三になり給う、春の頃、親子三人、一つ処により、余りの栄華の、極まりに、長者の、口すさみこそ、かなしけれ
この姫もうけて、七つの年、父の長者が、むなしくなり、湧きくる泉も、泡となり、黄金の山も石となり
二万三千の眷属も、皆、散り散りに、成り果てて、残る親子の、者どもは、三十五日かその内に、ずくべき様も、あるまじきと、宣いしが
程なく、姫は十三になり、長者が、宝は、次第に増して行き、神や仏に、偽り事を宣う、まして、人間の、偽りは苦しからぬと仰せける
観音、この由聞こし召し、神通にてましませば、憎しと、思し召し給うか、風の病人(やもうと)、積もり、やがて、その年、初雷つき、明くる正月十八日と申には、長者、むなしくなり
案の如く、湧きくる泉も、泡となり、黄金の山も、石となり、二万二千の眷属ども、皆散り散りになり、残る親子の物ども、三十五日かその内にずくべき様も、あらざれば
いたわしや、さよ姫は、野辺へ出て、なずなをを(ママ)摘み谷へ降りては、せりを摘み、一人持たせ給う、母上をずくし給う、さよ姫の、心の内こそ、哀れなり
ある日の徒然に、一間所へ入り給い、つくづく物を、案じ給うに
父の立ち日は、近くなる、問うべき様は、更に無し、黒髪売りて、問うべきか、身を代(しろ)換えて、問うべきかと、案じ煩い給いしが、中にて、心をひき返し
げにまこと、外れたり、黒髪売りても、不可思議(ふかしき ママ)事もあるまじい、身を代換えて、御菩提(ほたたひ ママ)を、問わやと、思し召し、奈良の京へ、たち出て、我が身を召せと、呼ばわり給うぞ、哀れなり
人々、是を見て、いたわしや、この姫君は、父の長者の、ましますときは、隙間の風をも、厭い給いしが、長者、ましまさねば、御身を売らせ給うこそ、哀れなりとて、涙を流し、皆々、絞り給う
このころ奥州(わうしう)より、商人(あきひと)一人、上りつつ、此の由を聞くよりも、急ぎたち出て、なふ(のう)如何に、姫君、未だ幼く(をそなく ママ)、見え給うか、何しに御身を、売らせ給うぞ、不思議なりとぞ申しける
さよ姫、此の由、聞こし召し、商人(あきひと)、語らば良きに、聞こし召せ、我が身を売る事、まんたく(ママ)、別(へち)の子細にて候らはす
父に、遅れ奉り、立ち日は、近く、なり候へども、とるべき様は、更に無し
あまりの悲しさに、身を代(しろ)換えて、御菩提を、弔(とふら)い奉らんと、存するなり、我が身を、召してたび給え、商人(あきひと)と、宣いけり
商人(あきひと)、此の由承り、その儀にてあるならば、是より、東へも、下らせ給うべきかと申しけり
いたわしや、さよ姫は、東をば、近き、所と思し召し、連れてだにも、お下りあらば、東へも下り申すべし
商人(あき人)、聞いて、さらば値を、如何ほどと、ありければ、さよ姫、この由、聞こし召し、何ほどになりとも、そなたより、推し計らいて、召され候へ
商人(あき人)、さらば、良き金、三百両に、買い申さんとすれども、父の菩提を、問い給えば、五百両に、買い取るべし、都の姫とぞ、申しけり
姫君、此の由聞こし召し、五百両にもかなまし(ママ)、良き金、一千両に、召し給えと、宣えば、商人(あき人)さらば、力及ばずとて、よき金、千両、請け果たす
さよ姫、斜め(なのめ)に喜びて、なふ(のう)如何に商人(あき人)、七日の暇をたび給え、とても我が身を、売り候えば、御菩提を弔い(とふらい)、やがて御供申すべし
商人(あき人)、此の由聞くよりも、十日の暇を参らせする、心静かに、問い給え
姫君は、聞こし召し、あら有りがたの御事や、七日の暇を乞いぬれば、十日の暇を得る事よと、斜め(なのめ)ならず喜び、春日の里へ、返らせ給う
母上の、御前に参り、如何に申さん、母上様、奈良の京と、たち出て候へば、仏心三宝の御哀れみにて、黄金を千両、拾い申して候なり
それを以て、父上様の、御供養(きやうやう)を、申さんとて、五百両ずつ、かけ分けて(はけて)、母御台に、参らせ給えば
母、此の由を御覧じて、あら嬉しの事どもや、子をば持つべき物ぞかし、媼子(をふなこ)の身なれども、父の供養(きやうやう)する事の、有り難さよと、宣いて、御涙、せきあえず
その後、残る五百両にて、父の御供養(きやうやう)をせんとて、大(ママ)東寺、興福寺の座主たちを招じ、七日七夜、御供養(きやうやう)、遊ばし給う
七所にて、説経(せきやう)引き、寒きものには、一重(いちへ)を着せ、飢えたる者には、餌食を与え、功徳、宣教、引かれけり
七日七夜も過ぎければ、皆、座主たちは寺々へ返らせ給う、一日二日と、せし程に、程なく、十日は過ぎにけり
商人(あき人)思いける様は、十日の日数は経ちけるに、何として、都の姫は遅く出させ給うらん、早々御出候えとて、使いをこそは、達ちにけり
いたわしや、さよ姫は、一間所に入り給い、涙とともに、旅の装束、し給いけり
傍には、練り、浮文の綾、一重ね、五つ一重を、ひきせう添いて、一部の法華経、観音経を、皆水晶の、数珠に、三体の守(まほ)り仏を、肌の守り(まほり)に、かけ給う
綾の脚絆に、綿の足袋、四つ緒のはらんつ、履き給い、物憂き丈の、杖をつき、母御台の御前に参り
いかに申さん、母上様、千両の黄金を、拾いて参りて候とは、母上の御前にて、偽りを申して候ぞや
奥州の、商人(あき人)に、身を売りて、いずく知らずに、下り申すなり、名残は、尽くせず候えども、御暇申すとて、涙と共に、出給えば
母御台は御覧じて、至る桟敷を、つんと立ち、さよ姫の袂に、とりつき給い
是は夢かや、現(うつつ)かや、死したる親の、菩提を弔(とふら)い、生きたる親を、振り捨てて、いずく知らずに、下るかや、野の末、山の奥までも、我を連れて行き給えと、天に仰ぎ、地に伏して、流涕(りうてい)焦がれ、泣き給う
さよ姫、此の由御覧じて、自らも、さこそは存じ候えども、叶わぬは、浮世の倣いにて候なり、どこのいずくに、至りとも、上り下りの旅人に、文を言づて申さんとて
涙と、ともに、控える、袂を、引き裂きて、泣く泣く、下らせ給いけり、互いの心ぞ、哀れなり
いたわしや、さよ姫は、歩み習わぬ、旅なれば、難所(なんちよ)にては、詩を作り、名所にては、歌を詠み、万に、心慰みて、下らせ、給う程に、明くる旅の物憂さに、母上の、恋しさ、やる方のう(なふ)ぞ、思し召す
夜の寝覚めの、余りの事に、空を、眺め、一首はんべる
あととふと、そのたらちねの、ちとせをは、うるにかうそ、なみた成りけり
かように詠じ給う
奈良の京より瀬田が橋へは、一日とは申せども、あらいたわしや、さよ姫は、行も習わぬ、旅なられ(ママ)ば、三日にこそは、着き給う
瀬田が橋にて、さよ姫は、のう(なふ)如何に商人(あき人)、是より東へは、三日下り申すかや、五日下り申すかや
商人(あき人)、此の由聞くよりも、是より奥へは、七十五日に下り申すなり、御身の様に、歩まんには、八十日にも九十日も下るべし、都の姫とぞ申しけり
姫君、此の由聞こし召し、その儀にてあるならば、是に一日、逗留召され、姫をも、休めて、お下りあれ、商人(あき人)とこそ、宣いけり
その時、商人(あき人)、腹をたて、大の眼(まなこ)に、角をたて、大き(あふき)に、荒れたる、声を上げ
奈良の京にて、十日の暇、取らするさえ、東へ遅しと、思うに、これに一日、逗留申せと申す事こそ、禁戒(きんくわい ママ)なれ
聞けば中々、腹もたつ、歩めと、言うに、歩まずば、鞭(ふち)にて、歩ませ申さんと、紫竹(しちく)の鞭(ふち)を、手に持ちて、歩め歩めと、責めければ
いたわしや、さよ姫は、げにまこと、忘れたり、これは、そなたの、御通り、千両に、買い取り給いためなれば、そなたの杖とは、存ぜぬなり、冥土にまします、父上の、御杖と存ずれ、少しも苦しく候わず
旅の慰みに、幾つも打たせて、お下りあれ、商人(あき人)と、宣いて、いたわしや、さよ姫は瀬田が橋をば、涙と共に、下らせ給いけり
通らせ給うは、どこどこぞ、雨は降らねど、森山や、面影映すは、各務(かゝみ)の宿、摺針峠(すりはりとうけ)の、細道を、心細くも、うち過ぎて
美濃と近江の境なる、三増(みます)峠や、丈くらべ、不破の関屋の、いた久し、月もれとや、まばらなると、うち眺め、垂井の宿をば、うち過ぎて
尾張の国に、入りぬれば、夏は、熱田と、伏し拝み、三河の国の八つ橋に、うち掛かり、蜘蛛手に物や、思うらんと、音に聞こえて、尚至る、矢作の宿をも、うち過ぎて
夜はほのぼのと、赤坂や、昔は無きかよ、今橋をとどろとどろと、うち渡り、たかし、二村、うち過ぎて、三河を限りの境川、憂きも辛きも、遠江の田浦眺むる、潮見坂、浜名の橋の、夕潮に、ささねと上る、天(あま)を舟、焦がれて物や、思うらん
そうらかまつ、馬鹿囃子(はかはやし)、名所、名所を、うち眺め、上り下りの、旅人の、袖を引かまか、馬込川、天竜川をも、うち過ぎて
恋しき親を、見附の国府(かう)、通りて物憂き、袋井縄手、人に情けを掛川や、小夜の中山、中々に、心細くも、通りけり
親の行へ(ゑ)を、菊川や、神に祈りを、金江の宿、夜の間に変わる、大井川、波を波立て、急かせつつ、四方に海は無けれども、島田と言うこそ、怪しけれ
松に絡まる、藤枝の、いつも遙かと、うち眺め、一夜泊まりの、岡部の宿、宇津の山辺の、蔦の細道、うち眺め、彼方此方へ、蹴りて通るは、丸子(まりこ)川
手越の里を、うち眺め、君を、待つかや、恋するか、田子の入り海、清見が関、三保の松原、うち眺め、はや蒲原(かんはら)にぞ、着き給う
二ヶ松、生い松、せんほの松、南を、遙かに、眺むれば、かひやま、満々として、岸たつ波も高かりし
何時の三島や、浦島か、明けて悔しき、箱根山、大井ぞ、古井ぞ、うち過ぎて、鎌倉に入りぬれば 八つ七郷を、うち眺め
武蔵の国に、入りぬれば、親の命は忍(おし)の里、武蔵野を、辿り辿りと、歩み過ぎ、音に聞こえる宇都宮、日光山をば、弓手に成し、人や迷わず、きつね川、心細くも、うち渡り、白河二所の関にぞ、着き給う
会津山の麓なる、物憂き事は積もるらんと、雪の村木へ、うち眺め、楯の郡に、着きしかば、歩み磨石(すりいし)、四寸の道
声たけした(ママ)、信夫の里にも、入りぬれば、文を通わす、 文知摺(もちすり)石、指す人も無き、鵲(かさゝき)の、多くの名所、うち過ぎて、名取川にぞ、着き給う
さよ姫、余りのやる方無さに、一首はんべる
なとり川、せゝにふしけり、うもれ木の、うきたつはか(りカ)に、おやそこひしき
斯様(かやう)に詠じ、下らせ給いける程に、花は坂根と、桜が森、匂い懐かし、梅(むめ)が森、誰か染めけん、衣川
名所名所を、眺め、裾は露、袖は涙に、うち萎れ、泣く泣く急がせ給う程に、商人(あき人)は、宿所に、着き給う
矢島(やしま)、斜め(なのめ)に、よろかうて、触れなかしをそ、回しける、都より、人身御供(人みこく)を、買い下して候、祭りの夜をい候えとて、大人、社人の方へ、触れをぞ回しける
いたわしや、さよ姫は、中の庭(てい)へ、請じ、七重に、注連を引き回しけり、色々に、慰め、とり囃し申し奉る
しばらくありて、矢島がお方、都の姫に、見参せんとて、瓶子一具、山海の珍物、国土の菓子を、とり添え、中の庭へ、たち出て、さよ姫に、見参して
十二三なる姫に、酌を取らせ、ぬし叶う手は、姫に差し、姫叶う手は、お方に差し、様々、酒(しゆ)をぞ、勧めける
霜も、ようよう、過ぎぬれば、いかに申さん、都の姫、御身を、遠く、これまで、買い下す事、別(へち)の子細にては、候はず
此処をば、いかなる所と、思し召す、郷も八、村も八つ、あるなれば、八郷八村と、申すなり
昔が、今に、至るまで、地頭とては、定まらず、大人の数は七百人、社人の数は五百人、中の地頭と申しては、是より北に当たり、縦が七里、横が三里の、うるまが池とて候なり
その池は、肌色の大蛇が住み、年に一度の、人身御供(こく)を供ゆるなり、それを供え申さねば、水を出し、八郷八村(やかうやむら)を押し流すにより、力及ばず、人身御供(こく)を、供え申すなり
折節、今年は晴れ晴れが晩に、当たり申すなり、ただ今、酌に立ちたる、姫は、二歳の歳より人身御供(こく)に、供えんとて、養いおき候へども、幼少より、手慣れ、美しく候へば、余りに不憫に存じ、御身を買いに、都へはるばる、上り給うなり
さては御身は、この事を知って、下りてましますか、知らいで、下りましますか、知らで下り給うなら、ただ一筋に思し召しきり給いて、御最期も、近くなるに、念仏の一遍も、読首し給えと、詳しく語り、涙を流し申しけり
さよ姫、この由、聞こし召し、都より、遙々と、物憂き事に、遭いぬるも、親の為に、身を売りて候へば、何様に成りとも、召され候へ、身は任せ申すなり、とても消えなん、露の命にて候とこそ、宣いけり
その後、お方は、返りける
さよ姫、つくづくと、案じ、あら、あさましの事ともや、一人持ちたる、母上をば、都に捨て置き、是まで、遙かに、下りつつ、大蛇の、餌(ゑ)にならん事もあさましさやとて
袂を、顔に、押し当てて、天に仰ぎ、地に伏し、流涕焦がれ、流れける
流るる、涙を、押し留め、げにまこと、外れたり、冥土にまします、父上の、御供養(きやうよう)の為なれ、何かをさして、嘆くべし、苦しからぬと、思し召し
肌の守(まほ)りより、御経、とり出し、皆水晶の、数珠、さらさらと、押しもみ、その日は、念仏ばかりなり
日も、ようよう、暮れぬれば、大人も、社人も、矢島が家に、集りて、歌い、乱舞、酒(さかり ママ)盛りにて、喜ぶ事は限りなし
五郷の天も、明けければ、今は、時分も、良きそとて、寄せ太鼓を、とうとうと打つ
いたわしや、さよ姫は、十二一重を、飾り着せ、玉の輿に乗せ、大人も、社人も、諸共に、うるまが池へぞ、急ぎけり
池の中に、返らずが島とて、少しの島、ありけるに、七重(七ちう)に、棚を飾り、七重(なゝへ)に、注連を、引き回し、哀れやな、さよ姫を、とって供え申して、大人も、社人も、散り散りに、八郷八村へ、跡も見せずに、逃げにけり
あらいたわしや、さよ姫は、四方(よも)の景色を御覧ずれば、俄に、照る日も、かき曇り、のう(なふ)しう(驟雨か)の雨が、車軸に降り、水の増すこと、夥しや
池の中、動揺して、戌亥(いぬい)の隅よりも、肌色ばかりの、大蛇、振り立てて、紅の、如くなる、舌を出し、棚を指して、急ぎけり
下の棚に、供えける、身御供(みこく)、取って伏くし、さよ姫後ろに、頭(かしら)を置き、巻きつけるこそ、恐ろしけれ
さよ姫、此の由御覧じて、のう(なふ)如何に大蛇、御身も生(しやう)ある、物にてあり、妾(わらは)も、生(しやう)ある、者にて候へば、形こそ、御身の餌(ゑ)に、授かるとも、魂は、冥土にまします、父上と、一つ蓮(はちす)に、そむ(ママ)べきなり
大蛇も、心、あり給はば、しばらく、暇たび給え、父の形見に、法華経を、賜りて、候ほどに、守り(まほり)に掛けて、参りたり、紐(ひほ)を解き、読首して、聴聞させ、参らすべし
そのとき、大蛇は、少し、舌を引き入れ、頭(かしら)を退け、棚に頭(かうへ)を、うち載せ、休らうて、至りせる
さて、守り(まぼり)に掛け給いし、法華経を、取り出し、遊ばしける様は、一の巻をば、父の御為、二の巻をば、都にまします、母上の御為、三の巻は、商人(あき人)のため
さて、商人(あき人)、我を買い取り給うにより、父の御菩提をも、弔(とふら)い申す事、改めてや、三世の契りも斯くそかし
今生にては、栄華(ゑひくわ)に栄え、来世にては、一つ蓮(はちす)、蓮華に載らんと、回向あり
四の巻は、諸神、諸仏に、奉る、一つの罪を、許して給え
五の巻は、提婆品(たひはほん)、女人の助かる所、一者不徳三(ママ)、梵天のう(なふ)、二者、大釈(帝釈か)、三者魔王、四者転輪聖王(てんりんちやうわう)、五者仏神、雲霞(うんか)に良し、そ功徳成仏
八才の龍女も、即身成仏の御経なれば、大蛇も此の度、蛇頭の苦患(くけん)を、免れて、成仏し給えと、回向ある
六の巻(きき ママ)は、八郷八村の、大人、社人のため、七の巻は、奈良の京より、これまでの、七十五日過所(かそ)の間の、宿々泊まり泊まりの、ためぞかし
八の巻は、我が身のため、九品(ほん)蓮台へ、迎いとらせ給えとて、法華経、くるくるとひん巻いて、大蛇の頭(かうべ)に、はったと投げつけ、早々、徳とって伏せよと、宣いけり
大蛇、此の由聞くよりも、さても、殊勝な、御経かなと、涙を流し
聴聞申し、功力によりて、十二の角、はらりと落とし、総身の苔も、落ちも(ママ)ければ、さよ姫にも劣らぬ、美人となりにけり
七度の垢離をとり、三十三度の、礼拝参らせ、あら有難の御事や、人間の姿に、助けられ申す事の、めでたさよと、拝み申すぞ、理(ことはり)なり
その後、大蛇の姫は、一つ棚へ上がり、物語をぞ、し給いける
いかに申さん、都の姫、自らをば、梵(ほん)の大蛇と、思し召すか、自らが、行へを語りて、聞かせ申さん
そも、妾(はらは)が父は、この八郷八村の、地頭にてましますが、人間の倣い、軽き身に、重き病(やもう)を、受けとりて、明日の露と、消え給う
男子(なんし)の子とては、一人も無し、自らは女子なれば、あさましや、親の跡を、人に取られて、無念と思うが、積もりきて、此の池に身を投げ
蛇頭の苦患を、引き受けて、八郷八村の、地頭になる者をば、取って伏して、此の池に住む事、九百九十九年なり
人を服する事ばかり、九百九十九人なり、御身を服し申すなら、千人に達すべきに
かかる目出度き、浮世に、逢い奉り、法華経を、聴聞申す、たちまち蛇頭の、苦患を、免れ、即身、成仏して、人間の、姿に助けられ申す事の、有り難さよとて、また、さよ姫を拝(かゝ ママ)まるる
今日よりして、姉妹(きやうたひ)の御契約を申しつつ、互いに頼み、頼まれ申すべしとて、袂より、九ちやうほうしよの、玉を取り出し
いかにのう(なふ)、都の姫、この玉と申すは飛行(ひきやう)自在にて候へば、宝の、所望に、思うには、湧きて出申すなり、年が若く、なりたきには、若くなり申す玉にて候なりとて、黄金千両、さし添えて、さよ姫に、奉る
その後、大人、社人達は、身御供(みこく)が、上がりて候か、棚をも収めんとて、池の端へ、来て見れば、一人置きたる姫君が、二人になるこそ、不思議なれとて、皆散り散りに、逃げにけり
大蛇の姫は、御覧じて、如何に申さん、社人たち、自らをば、如何なる物とや、思うらん、この池に、住みける、大蛇にて候が、都の姫、法華経を、遊ばすを、聴聞申して、人間の姿に助けられ候なり
今日よりして、人身御供(こく)を、供え申さんより、此の八郷八村に、御所を建て、都の姫を、土御門(つちみかと)と、崇め申させや、大人、社人たちとぞ、宣いけり
大人、社人は、承り、斜め(なのめ)ならず、うち喜び、七度の垢離をとり、三十三度の礼拝にて、拝む事こそ、新たなれ
二人の姫を、輿に乗せ、矢島が屋形に帰り、いにようがつかう申しけり
その後、大人も、社人も、御所の用意、したりければ、さよ姫は、聞こし召し
いかに申さん、姫君、自らは、都に、母を一人持ちけるが、今一度、拝み申さん程に、都へ、送りてたび給え
大蛇の姫は、聞こし召し、易き御事とて、大人を召して、輿を立て、女房たち十二人さし添え、三百余騎の御供ともにて、都へこそは、おくりける
下らせ給うには、七十五日の、日数なれども、夜昼急がせ給えば、三十五日と申すには、奈良の京へぞ着き給う
京にて、送りの者どもは、みな返し、さよ姫は、春日の里へぞ、行き給う
母御台の御前に参り、のう(なふ)いかに母御前、商人(あき人)と、伴い、奥へ下りた、さよ姫が、ただ今、参りて候ふ(さふらそ ママ)ぞ
母上、此の由聞こし召し、明けても暮れても、さよ姫恋しやと、嘆かせ給(たも)うとて、両眼(かん)、はったと泣きつ伏し、さよ姫とも、知らずして、奥へ下りたさよ姫か、何しにただ今、来るべし
虎狼、射干(やかん)の、化け物か、はれを取りて、伏せんとて、左様に、変じて、来るぞとて、傍なる杖を取り上げて、さよ姫を打たれたり
姫君、この由、御覧じて、あら、有難の御事や、ただ今、参りて、母上の、御杖に、当たることこそ、何より目出とう候へとて、涙をぞ、流されける
その後、袂より、九ちやうほうしよの玉を取り出し、両眼(かん)を、撫で給えば、両眼、はったと、開き給いて
さよ姫を御覧じて、斜め(なのめ)ならずに、喜び給いて、互いに、手を取り組み、嬉しきにも、辛きにも、まず、涙をぞ、流されける、見る人、これを哀れみて、袖を絞らぬ人ぞなし
道すがらの物憂き事、うるまが池にての物語、事細かに、語りつつ、見る人、聞く人、奇特なりとて、皆、感涙をぞ、流しける
その後、さよ姫は、父の長者の如くに、七万個の宝満ち、黄金の山も七つ、白銀の山も九つ出来、四方に四万の倉を建て
長者、二度なしとは申せども、長者講を、請け給い、親孝行なる、人なれば、末繁盛と栄え給う
さるほどに、大蛇の姫も、都へ上り、さよ姫と一つ所に、住まんとて、都へ上り給う
さよ姫、この由、聞こし召し、斜め(なのめ)ならずに、うち喜び、親(ママ)三人、一つ所に、住み給い、一期(いちこ)の間、思し召すままに、なり給う
母の、長者、その後、八十三と申すに、三河の国鳳来寺の、峯の薬師と、あらわれ給い、衆生を、守り(まほり)、殊に、子の無き人、申せば、叶わず(かならす ママ)という事なし
さよ姫は、百二十と申すには、近江の国、竹生島の弁財天(べさひてん)とて、祝われ給い、世上を導き、福神と、ならせ給うとかや
大蛇の姫は、大和の国、壺坂と、申す所に観音と、現れ給う
斯様なる、不思議の事は上代にも末代にも、有難しとぞ、覚えける
親孝行の、人にも、孝行に無き、人にも、見せ聞かせよ、親は死したるとも、よくよく、弔い(とふらい)候はば、有難く見えべし
その身も、現世安穏、後生先蹤(せんしやう)にあるべし、末世の、衆生に、見せんために、斯様に記し申すなり
◆余談
身売りの能は読んでいて、「あ、こういう展開になるのか」となった。意外性というか予想もしていない方向に話が進んで、精読するのが楽しかった。
◆参考文献
・「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」(芸能史研究会/編, 三一書房, 1974)pp.183-184
・「神楽源流考」(岩田勝, 名著出版, 1983)
・『室町時代物語大成 第六』(横山重, 松本隆信/編, 角川書店, 1978)pp.171-186
記事を転載→「広小路」
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梅若能学院会館「招魂」に行く。狂言「寝音曲」独吟「井筒」能「杜若」が演じられる。
「寝音曲」は太郎冠者が主に謡を謡えと命じられるが、あれこれ理屈をつけて断り、酒をしこたま飲んだ後、主の膝枕で謡い、そうでないと調子がでないふりをするが、段々混乱してきて……という内容。
能を鑑賞するのは初めての体験。セリフというか謡は何とか聞き取れたが、囃子方の「いよ~っ」ポン!という囃子に紛れて聞き取れなくなってしまう。隣の席の人は草書体の台本を持ち込んで参照しながら鑑賞していた。
動画で見たときには微動だにしないかの様に見えたが、生で見るとわずかに揺らいでいた。とはいえ、通常の動きからは考えられないくらいの微妙なものである。凄まじい身体能力だ。関東の里神楽の動きが早く思えるほどゆっくりとした所作だった。
文教大学の斉藤先生の勧めでシテの梅若長左衛門氏に挨拶する。まあ座っていきなさいとなる。会場には成城大学の山田先生(民俗学)と境先生(経済学)もいらしていて挨拶する。梅若氏は柳田民俗学の嫡子と言っていい成城大学の御出身とのことで、民俗学に造詣が深く、民俗学を語りはじめると止まらないという印象の方だった。ちなみに、日本の民俗が失われたのは戦後の鳩山一郎内閣の新生活運動の影響によるのだとか。他、柳田国男と折口信夫の確執や大嘗祭(大嘗祭の真実を知る者は天皇陛下と一部の人しかいない)などについて。
歌垣はフリーセックスではなく歌を詠むことによる求愛で応じる/拒否する方も歌で応じる。それで契約関係みたいな状態となり、子供が生まれれば継続、生まれなければ他の相手を探す……といったニュアンスのものだったそうだ。今でも銚子では漁師町なので女の子は高校生になったら家を出て下宿するとのこと。
柳田国男が記述自体は平易だが、結論を書かないので、結局のところ何がいいたいのか分からないという僕の質問に対しては山田先生が評論家の吉本隆明が体液的だと形容したとのこと。岡正雄は柳田国男の自宅に一年間下宿していたが、後に柳田を「一将功成りて万骨枯る」と評したとのこと。
あるとき若手が議論していた際に、重鎮が「柳田先生はそんなことをおっしゃらなかった」とピシャリと制止して、会話は途切れた……という話もあるそうだ。柳田自身、何かを取り上げて考察しようとした若手研究者に「君は考えなくていい。自分が考える」といった趣旨の発言をしたことがあるそうだ。柳田自身は自らを生きるデータベース化しようとしていた様だが、今からみると老害と言っていいかもしれない。
杜若(かきつばた)
シテ:杜若精霊
ワキ:僧
處は:三河
業平杜若の古跡を伊勢物語に依りて述べ。経文の功徳にて花の精まで成仏する事を作れり
ワキ詞「これは諸国一見の僧でございます。私はこの間は都にいて、洛陽の名所旧跡を残りなく一見しました。また是から東国行脚を志しています」
道行「ゆふべゆふべの仮枕、ゆふべゆふべの仮枕、宿は数多く変わったけれども、同じ憂き寐(寝の異体字)の美濃尾張、三河の国に着いたことだ。三河の国に着いたことだ」
詞「お急ぎになる間に、程なく三河の国に着きました。また、ここの沢辺に杜若(かきつばた)の今を盛りと見えます。立より詠(なが)めようと思います。実に光陰とどまらず、春過ぎ夏も来て、草木(さうもく)心なしとは申すけれども、時を忘れぬ花の色、かほよ花(カキツバタの異称)とも申すだろうか。あら美しい杜若かな」
シテ詞「のうのう御僧、何しに此の沢でお休みになっていらっしゃるのか」
ワキ詞「是は諸国一見の者でございますが。杜若の趣きがあるのを詠めています。扨(さて)ここをばいずこと申しますか」
シテ「これこそ三河の国八橋(やつはし)といって、杜若の名所でござます。さすがにこの杜若は名にし負う花の名所(などころ)なので、色もひとしお濃紫(こむらさき)の、おしなべての花のゆかりとも、思いなぞらえずに、とりわけお詠めくださいな。あら、心な(趣きを解することのない)の旅人(りょじん)かな」
ワキ「実に三河の国八橋の杜若は古歌にも読まれたという。いずれの歌人の言の葉だろうと承りたくございます」
シテ「伊勢物語に曰く、ここを八橋と言うのは、水行く河の蜘蛛手(蜘蛛の足の八方に出たように)なので、橋を八つ渡したのです。その沢に杜若のとても趣きがあるように咲き乱れたのを、ある人かきつばたと云う五文字(いつもじ)を句の上(かみ)に置いて、旅の心を詠めと云ったので、からころも着つつなれにし妻しあれば、はるばる来ぬる旅をしぞ思う。これは在原(ありはら)の業平(なりひら)がこの杜若を詠んだ歌です」
ワキ「あら趣きがあることだ、扨(さて)はこれ、東(あづま)の果ての国々までも業平はお下りになったのか」
シテ「こと新しい問事(とひごと)かな。此の八橋のここだけか、猶しも(なお)心の奥深い、名所名所の道すがら」
ワキ「国々ところは多いけれども、とりわけ心の移り行く末にかけて」
シテ「思い渡った八橋の」
ワキ「三河の沢の杜若」
シテ「はるばる来た旅を」
ワキ「思いの色を世に残して」
シテ「主は昔は業平だけれども」
ワキ「かたみの花は」
シテ「今ここに」
地「在原の跡を隔てるな杜若、在原の跡を隔てるな杜若、沢辺の水の浅くなく、契った人も八橋の蜘蛛手に物を思われる。今とても旅人に、昔を語る今日の暮れ、やがて馴れた心かな、やがて馴れた心かな」
シテ詞「いかに申すべき事がございます」
ワキ詞「何事でございます」
シテ「見苦しいけれども、妾(わらわ)の庵(いほり)で一夜をお明かしください」
ワキ「不思議だ賤しい賤(しづ)の臥處(ふしど)より、色も輝く衣(きぬ)を着て、透額(すきびたひ:冠の一種)の冠を着け、これを見よと承る。これはそもそも如何なる事でございますか」
シテ「是こそ此の歌に詠まれた唐衣(からころも)、高子(たかこ)の后の御衣(ぎょい)でございます。また此の冠(かむり)は業平の豊(とよ)の明(あかり)の五節(ごせつ)の舞の冠なので、かたみの冠唐衣、身に添え持っております」
ワキ「冠唐衣(からきぬ)はまず置こう。扨々(さてさて)あなたは如何なる人か」
シテ「誠は私は杜若の精です。植え置いた昔の宿の杜若と詠んだのも女の杜若に、なった謂れの事です。また業平は極楽の歌舞の菩薩の化現なれば、読み置く和歌の言の葉までも、皆法身(ほつしん:宇宙の理法そのものとして捉えられた仏のあり方)説法の妙文(優れた経典)なので、草木(さうもく)までも露の恵の仏果(悟り)の縁を弔うのです」
ワキ「これは末世の奇特(殊勝)かな。正しい非情の草木に言葉を交わす法(のり)の声」
シテ「仏事をなすか業平の、昔男(業平のこと)の舞の姿」
ワキ「これぞ即ち歌舞の菩薩の」
シテ「仮に衆生と業平の」
ワキ「本地寂光(じやくくわう:智慧の光)の都を出て」
シテ「普(あまね)く済度(仏・菩薩が苦海にある衆生を救い出して涅槃に渡らせること)」
ワキ「利生(仏の冥加)の」
シテ「道に」
地「はるばる来た唐衣、はるばる来た唐衣、着つつ舞を奏でよう」
シテ「別れ来た跡の恨みの唐衣」
地「袖を都に返そう」
シテ「抑(そも)此の物語は、如何なる人の何事によって、思いの露の忍ぶ山、忍びて通う道芝の、始めもなく終わりもなし」
シテサシ「昔男(業平)初冠(うひかむり:能で垂纓[すいえい]または巻纓[けんえい]の冠のこと)して奈良の京、春日の里に知る由して狩りにいった」
地「仁明(にんみやう)天皇の御宇(御世)だろうか、とても恐れ多い勅を受けて、大内山(おほうちやま)の春霞、立つや弥生の初めの方、春日の祭の勅使として透額(すきびたい)の冠を許された」
シテ「君の恵みの深い故」
地「殿上での元服の事、当時其の例は稀なので、初冠(うひかむり)とは申すのか」
クセ「そうではあるけれども世の中の、一度(ひとたび)は栄え、一度は衰える理(ことわり)の誠である身の行方。住む所を求めるといって、東の方に行く雲の、伊勢や終わりの海面(うなづら)に立つ波を見て、ますます過ぎた方の恋しさに、羨ましくも帰る波かなと、うち詠め行けば、信濃の浅間(あさま)の嶽(たけ)だろうか、くゆる烟(けぶり)の夕景色」
シテ「扨(さて)こそ信濃の、浅間の嶽に立つ烟」
地「遠近(ちこち)人(あちこちの人)の見るか(いや、そんなことはない)と咎めぬと口ずさみ、猶はるばるの旅衣、三河の国に着いたので、ここぞ名にある八橋の、沢辺に匂う杜若、花紫のゆかりなので、妻はあるかと、思い出た都人(みやこびと)。そうであるところに此の物語、其の品の多い事ながら、とりわけ此の八橋か、三河の水の底なく、契った人の数々に、名を変え品を変えて、人待つ女物(婦人物)病み玉すだれの、光も乱れて飛ぶ蛍の、雲の上まで行くべくは、秋風吹くと仮に現れ、衆生済度の我ぞとは、知るや否や世の人の」
シテ「暗きに行かない有明の」
地「光普(あまね)き月はなく、春か昔の春でない、我が身一つは元の身にして。本覚(衆生に本来備わっている悟りの智慧)真如(普遍的な心理)の身を分け、陰陽の神とは云われたのも、ただ業平のことだろう。このように申す物語、疑わせるな旅人。はるばる来た唐衣、着つつ舞を奏でよう。
シテ「花前(くわぜん)に蝶が舞う紛々たる雪」
地「柳上(りうじやう)に鶯が飛ぶ片々たる金」
シテ「植え置いた、昔の宿のかきつばた」
地「色ばかり昔だったか。色ばかりこそ」
シテ「昔男(業平)の名を留めて、花橘の匂い移る、菖蒲(あやめ)のかづらの」
地「色はいずれ、似るにも似たり杜若花菖蒲(はなあやめ)。梢(こすゑ)に鳴くは」
シテ「蝉の唐衣の」
地「袖白妙の(白い)卯の花の雲が、夜もしらじらと明ける東雲(しのゝめ)の、浅紫の杜若の、花も悟りの心開けて、すわ今こそ草木国土、すわ今こそ草木国土、悉皆(ことごとく)成仏の、御法(みのり)を得て失せたことだ」
井筒(ゐづゝ)
前シテ:里女
後シテ:井筒女
ワキ:僧
處は:大和
季は:九月
伊勢物語なる業平と紀有常の女と契る事、其の他の段をつゞりて合わせて作れり
ワキ詞「これは諸国一見の僧でございます。私は此の程南都七堂に参りました。また是から初瀬に参ろうと考えています。是なる寺を人に尋ねたところ、在原寺(ありはらでら)とか申すので、立ち寄り一見しようかと思います」
狂言「しかじか」
ワキ「さては此の在原寺は古(いにしえ)の業平が紀の有常(ありつね)の息女と夫婦でお住まいになった石上(いそのかみ)でしょう。風ふけば沖つ白浪たつた山と詠じたのも、この処での事でしょう」
歌「昔がたりの跡問えば、其業平の友とせし、紀の有常の常なき世、妹背をかけて弔はん、妹背をかけて弔はん」
シテ次第「暁ごとに閼伽(あか)の水、暁ごとに閼伽(あか)の水、月も心を澄ますだろう」
サシ「そうでなくてさえ物の淋しい秋の夜の、人目稀な古寺の、庭の松風更け過ぎて、月も傾く軒端(のきば)の草、忘れて過ぎた古(いにしえ)を、忍ぶ顔でいつまでか、待つ事なくて永らえよう。実に何事も思い出の、人には残る世の中かな」
歌「唯いつとなく一筋に、頼む仏の御手(みて)の糸、導き給へ法(のり)の声、迷ひをも照らさせ給ふ御誓い、迷ひをも照らさせ給ふ御誓い、げにもと見えて有明の、ゆくへは西の山なれど、ながめは四方(よも)の秋の空、松の声のみきこゆれども、嵐はいづくとも、定めなき世の夢心(ゆめごゝろ)、何の音にか覚めてまし、何の音にか覚めてまし」
ワキ詞「私はこの寺に安らい、心を澄ます折節に、とてもなまめいた女性(にょしょう)が、庭の板井(いたゐ)を掬(むす)びあげ花水(はなみず:仏前に手向ける花と水)とし、ここの塚に回向(えこう:仏事を営んで死者の成仏を祈ること)の気色が見えたのは、如何なる人でいらっしゃるか」
シテ詞「是はこの辺りに住む者です。この寺の本願(本願主:造寺など功徳となる事業の発起人)在原の業平は、世に名を留めた人です。なので其の跡の印もこの塚の陰でしょうか。妾(わらは)も委しくは知りませんが、花水を手向け御跡を弔い参らせております」
ワキ「実に業平の御事は、世に名を留めた人です。そうではありながら、今は遙かに遠い世の、昔語りの跡なのを、しかも女性の御身として、このようにお弔いになる事、其の在原の業平に、きっと故ある御身でしょう」
シテ「故ある身かとお問いになる、其の業平は其の時さえも、昔男と言われた身の、ましてや今は遠い世に、故もゆかりもありはしないでしょう」
ワキ「もっとも仰せはそのような事であるけれども、ここは昔の旧跡で」
シテ「主こそ遠く業平の」
ワキ「あとは残ってさすがに未だ」
シテ「聞こえは𣏓(朽)ちぬ世語りを」
ワキ「語れば今も」
シテ「昔男(業平)の」
地「名ばかりは、在原寺の跡舊(ふ:旧)るびて、在原寺の跡舊るびて、松も老いた塚の草、これこそそれよ亡き跡の、一村すすきの穂に出たのは、いつの名残だろう、草茫々(ばうばう)として露深々と古塚の、誠なるかな古(いにしえ)の、跡懐かしい景色かな、跡懐かしい景色かな」
ワキ詞「猶なお業平の御事を委しく物語ってください」
クリ地「むかし在原の中将、年を経てここに石の上、ふった里も花の春、月の秋といって住んでいたところ」
シテサシ「其の頃は紀の有常の娘と契り、妹背(夫婦)の心浅くなかったところに」
地「また河内の国高安(たかやす)の里に、知る人があって、二道(ふたみち:二人の異性を関係をもつころ)に忍んで通ったところ」
シテ「風ふけば沖つ白波立田山」
地「夜半(よは)にか君が独り行くだろうと、おぼつか波(はっきりしないで気がかりなこと)の夜の道、行方を思う心が解けて、よその契りはかれがれ(枯れ枯れ)です」
シテ「実に情知るうたかた(水の上に浮かぶ泡)の」
地「哀れを述べた理(ことわり)なり」
クセ「むかし此の国に、住む人がいたが、宿を並べて門(かど)の前、井筒によりてうない(髫髪:うなじで束ねた子供の髪)子の、友達かたらって、互いに影を水鏡、面をならべて袖をかけ、心の水も底ひ(極めて深い底)も無く、移る月日も重なって、おとなしく耻(恥の異体字)じがましく互いに今はなった。其の後彼のまめ男(好色の男)、言葉の露の王章(たまずさ:手紙の美称)の、心の花も色そって」
シテ「筒井筒、ゐづゝに掛けたまろ(私)がたけ(丈か)」
地「生えたことだよ、妹(妻)が見ない間にと、詠んで送ったところ、その時女も比べ超し、振分髪(ふりわけがみ:髪を肩までの長さに切り、左右に分けさばいたまま垂らしたもの)も肩過ぎた、君でなくして誰が上げるべきかと、互いに詠んだ故だろうか。筒井筒の女とも、聞こえたのは有常の娘の古い名でしょう」
ロンギ地「実に旧(ふ)るびた物語、聞けば妙なる(言いようもなく美しい)有様で、心を引かれる、お名乗りください」
シテ「誠は私は戀(恋)衣、紀の有常の娘とも、いざ白波の立田山、夜半にまぎれて来ました」
地「不思議かな、さては立田山、色に出る(秘めた恋心が表情に出る)紅葉ばの」
シテ「紀の有常の娘とも」
地「または井筒の女とも」
シテ「恥ずかしながら私であると」
地「言うや注連縄の長い世を、契った年は筒井筒、ゐづゝの陰に隠れたことだ、ゐづゝの陰に隠れたことだ」
ワキ詞「更けゆくか、在原寺の夜の月、在原寺の夜の月、昔を返す衣手に、夢待ち添えて仮枕、苔の莚に臥したことだ、苔の莚に臥したことだ」
後シテ「仇であると名にこそ立てれば桜花、年に稀な人も待っています。このように詠んだのも私なので、人待つ女とも言われました。私は筒井筒の昔から、真弓(弓の美称)槻弓(槻の木で作った丸木の弓)年を経て、今は亡き世に業平の、形見の直衣(なほし:昔の貴族の平常服)身に触れて、はずかしや昔男(業平)にうつり舞」
地「雪をめぐらす花の袖」
シテ「ここに来て、昔へ返す在原の」
地「寺井(てらゐ)に澄んだ月がさやかである、寺井に澄んだ月がさやかである」
シテ「月やあらぬ、春や昔と詠んだのも、いつの頃だろうか。筒井筒」
地「つゝゐづゝ井筒に掛けた」
シテ「まろ(私)のたけ(丈か)」
地「生えたことよ」
シテ「生えたことだよ」
地「そうでありながら見えた昔男(業平)の、冠直衣(かむりなおし)は女とも見えず、男だった業平の面影」
シテ「見れば懐かしい」
地「我ながら懐かしい。亡婦(ばうふ)魄霊(はくれい:魂)の姿は、しぼんだ花の色でなくて、匂いが残って在原の、寺の鐘もほのぼのと、明ければ古寺の、松風や芭蕉葉の、夢も破れて覚めたことだ、夢は破れ明けたことだ」
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埼玉県越谷市のこしがや能楽堂で催された「第七回 梅鉢会」に行く。神楽が上演され、「八上姫(因幡白兎前段)」「天孫降臨」「因幡白兎」を鑑賞する。「八上姫」と「因幡白兎」は未見の演目。
越谷市までは3時間ほど掛かるのだけど、あざみ野駅から田園都市線~半蔵門線~東武線と一本で繋がっているので、寝ている内に着くという感覚で遠い感覚はない。
「八上姫」は八上姫に大国主命の兄の八十神(ここでは三神)が求婚するも断られてしまう。おかめさんが、目隠しをして鈴の音を頼りに姫を捕まえたものが姫をお嫁さんにできると言うのでそうすると、八上姫はそこへやってきた大国主命とすり替わってしまう。大国主命を捉えた八十神は怒り、罰として八十神の荷物を持たせることになる。困り果てた大国主命の許に再び八上姫が現れる……という筋。
梅鉢会・八上姫・八上姫
梅鉢会・八上姫・八上姫に求婚を断られる八十神
梅鉢会・八上姫・目隠しする八十神
梅鉢会・八上姫・目隠しして八上姫を探す八十神
梅鉢会・八上姫・そこへやって来た大国主命
梅鉢会・八上姫・八十神、大国主命を捕まえる
梅鉢会・八上姫・八十神に蹴飛ばされる大国主命
梅鉢会・八上姫・八十神の荷物を持つよう命じられた大国主命
梅鉢会・八上姫・従者のもどきが荷物を背負う
梅鉢会・八上姫・困り果てた大国主命の許に八上姫がやって来る
「天孫降臨」は他の社中と同じ粗筋。ニニギ命が降臨するので、通り道を掃き清めようとしたもどきと猿田彦命が喧嘩を始めてしまう。そこに天鈿女命が現れる。猿田彦命は自分は天孫の道案内をしようとしているのだと答える。ニニギ命が現れ、夫婦となった猿田彦命と天鈿女命は連れ舞を舞う。最後に黒雲を猿田彦命が切り払う……という内容
梅鉢会・天孫降臨・もどきをぶつ猿田彦命
梅鉢会・天孫降臨・連れ舞を舞う猿田彦命と天鈿女命
梅鉢会・八上姫・黒雲をなぎ払う猿田彦命
梅鉢会・天孫降臨・ニニギ命
「因幡白兎」隠岐の島に住む白兎がワニザメをだまして因幡の国へ渡るが、騙されたと知って怒ったワニザメたちに毛皮を剥かれ丸裸となってしまう。そこに八十神が現れる。八十神は塩水を白兎の身体に撒いたので白兎はいよいよ苦しんでしまう。そこに大国主命が通り掛かり、従者のもどきとおかめさんに真水を持ってきて掛けさせ、蒲の穂を身体に撒きつけると身体が元通りとなる(しかし、苦しんでいる白兎を他所に、もどきとおかめさんは物を運ぶときの舞を舞うのだった)。そして八神姫も現れ、大国主命と八上姫は連れ舞を舞う……という粗筋。
梅鉢会・因幡白兎・白兎
梅鉢会・因幡白兎・鰐鮫
梅鉢会・因幡白兎・鰐鮫を飛び越える白兎
梅鉢会・因幡白兎・実はお前たちを騙したのだと白兎
梅鉢会・因幡白兎・怒った鰐鮫に毛皮を剥かれてしまう
梅鉢会・因幡白兎・通りかかった八十神に塩水を撒かれてしまい苦しむ
梅鉢会・因幡白兎・そこへ通りかかった大国主命一行
梅鉢会・因幡白兎・真水をかけて傷を癒す
梅鉢会・因幡白兎・蒲の穂を身につけて傷を癒す
白兎、もどきとおかめに連れられて一旦退場する
梅鉢会・因幡白兎・戻ってきた白兎・大国主命に面会する
梅鉢会・因幡白兎・八上姫もやって来る
梅鉢会・因幡白兎・連れ舞を舞う大国主命と八上姫
梅鉢会・因幡白兎・八上姫と大国主命
梅鉢会・因幡白兎・復活した白兎
「八上姫」の笛が横浜のそれと異なる様に思える。多摩川の東と西で笛が異なるそうで(太鼓は同じだという)、埼玉と神奈川の違いが出たのだろうか。
こしがや能楽堂はオープンエアの会場で晴れていてよかった。普段は写真禁止だと思うが、今回は許可された。写真を撮って見ると日差しによって陰影が生まれていることに気づく。今日は未見の演目が二演目あったのでお得な気分。
子供はいたが、飽きて駆け回っていた。まあ、それも神楽だろう。
こしがや能楽堂
花田苑
こしがや能楽堂は花田苑という公園に併設されていた。花田苑は美しい日本庭園だった。
会が終わって帰りがけに白石信人さんに声をかけられて挨拶する。Facebookだけの繋がりだったがリアルな繋がりとなった。
実は途中までレンズの手ブレ補正を切っていて警告マークが点滅しているのに気づかず写真を撮った。さすがに手ブレ写真量産がと思ったら、ボディ内手振れ補正のおかげか無事だった。
パナソニックGX7mk2+12-35mmF2.8で撮影
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◆はじめに
広島県比婆郡東城町戸宇の栃木家に伝わる寛文年間の能本に収録された「目蓮の能」に手を入れてみた。意味がとれない箇所が幾つかあったので、そこはそのままとした。ご了承願いたい(カタカナはひらがなに改めた)。
木蓮尊者の一人息子が母を成仏させたいと訴えるが、母は八万劫の劫災を経なければならないところ未だ一万劫しか経ていないと断られる。それでも成仏を願い、その心が通じ、神殿を建てて祝うべしと教えられる……という様な内容である。
◆寛文本:目蓮の能
抑々(そもそも)御前に罷立る物(者)は何成物(いかなる者)とや思召す 是は 天竺内フダイ国に田そう(伝相)長者の一人子に羅卜(ラフク)太子とは某(ソレカシ)が事にて候 されば釈尊は天竺バツダイ河の北の面(ツラ) 沙羅双樹(シヤラシヤウシユ)の木(コ)の本(下)に御せボウニ何れの仏 人間 鳥類 畜類 木草に至るまで参候程に 某(ソレガシ)母の青提(シヤウタイ)婦女も参り玉へ 御僧には斎料(トキリヤウ)をも入玉へ 手の内の志をも取り天に上げ玉へと 朝夕に教化(キヤウケ)申せば 宣う様は 聴聞に参りたとて 四方の蔵が八方に成るべきか それ参ず斎料(トキヤウリヤウ)をも入るとて 四方蔵が失せべきかと宣(のた玉)いて 悪人となり それ仏神に憎まれ大リガ八(ヤツ)ニワイマワ母ヒモウワ八万地獄大郎が竈に煮えうき 辛苦を経給(たも)う事を 神通(ジンズウ)を以て悟り候へば 某(ソレガシ)釈尊の御弟子に参りて 母の菩提不如を一度(ヒトタビ)忉利(とうり)天に舞浮かべて 本(元)の姿を一目拝まばやと存じ候
〇諸行無常(ムヤウ)の春る(衍)花とは開けし風是生滅法(シヤウメツボツ)の夏の日に落花(ラツクワ)して生滅滅巳(シヤウメツメツイ)の秋月とわ照らしつれども 寂滅為楽(ヂヤクメツイラク)の冬の雲に隠るこの四つ歌詠む 又地水火風空の五輪の歌 又次に
極楽の明けずの門が何て開く 南無阿弥陀仏(なむわみたふつ)の六の字で開く
〇これは太郎が釜に着いたと存じ候 太郎が釜を破(ワ)れてしばやと存じ候 文(もん)に曰く ヲンベイシラマンタヤソワカ
〇その時太郎が釜を開け給うらん人わ如何なる物やらん
〇さん候(ぞうろう) 木蓮尊者の一人子こ(衍)に羅卜(ラブク)太子とわ某(ソレガシ)事なり されば某(ソレガシ)が母青提(シヤウタイ)婦女 太郎の釜に浮き信仰を経させ玉程に 忉利天に舞い浮かべと存じ候
〇それ思いも寄らん事 汝が母は大業人(こふにん)にて候えば 八万劫災(コウサイ)を経させんと思いし所に 未だ一万劫をも経させいで舞浮かべんとは思いも寄らぬ事なり
〇さん候(ぞうろう) 尤もの義にては候が 法華(ケ)経の一字の梵字(ボジ)は変わるとも 親子の字は変わらんと申す 鬼の目からも泪とよ 是非舞浮かべて玉われの主(アルジ)
〇げに聞けば哀れなり 一字の梵字(ボジ)変わらんとよ 鬼の目からも泪とよとの仰せかや
〇さん候(ぞうろ)
〇然らばヲウゴガタワ(峠か)八間(ケン)に神殿を建て 三方へ御綱(ミツナ)をはえ ゴヲウ(護法か)ヤゴヲウヤと舞遊び玉へ 然らば文を教えべし トクダツサンガイシユノウクケン この文(モン)を以て浮かべ玉へ 然らば我をば前方(ゼンボウ)塔の後戸に伽藍荒神と祝い給へ
〇さん候 仰せの如く崇め申にて候
〇然らば某(それがし)も法楽を一番舞納めばやと存じ候
一 あら目出度の御事や 只今の主の教えの如く 母君青提(シヤウタイ)婦女(ニヨ)をば 忉利天に舞浮かべて 即身成仏(ソクシンチヤウブツ)の姿を拝まばやと存じ候
一 親様の仏なると打ち聞けば 嬉しながらも濡れる袖かな次第に歌数(カス)にて舞出可申
岩田勝は「ゴヲウヤ」を護法やと解釈している。
◆目連の草紙
『室町時代物語大成』第十三巻に「もくれんのさうし」が収録されている。精読したところ、備後東城荒神神楽能本の目連の能の直接の出典ではないようだ。せっかくなので、掲載する。訳がこなれないのはご容赦をば願いたい。
目連の草紙
そもそも、恩愛の奇縁、他人事にして小劫を経たけれども作る事なし。
されば、供養、奉饌(膳部を捧げ奉ること)は如来の勤倹、釈尊はこれ三界の衆生の父として、ことごとく一子のように哀れみ、羨ましいのは、めうしやうこんの邪見なりしを導き、しやうさんけんの二人王子。
なので、昔より今に至るまで、いずれか恩愛の哀れみが深かろう。
なので、昔、天竺に十六の大国あり、その中に千人の国王りんはこれか、かの天法輪王は四時供養の眼(まなこ)である。
四人の王子がいた。第一に浄飯(じょうぼん)王、第二は黒梵王、第三は白梵王、第四は甘露梵王がこれである。
りょうせん城にいらっしゃる大乗釈尊浄飯王の太子であり、知恵無上の阿難尊者と申すのは白梵王の太子である。結局、空寂の旨を達し、神通第一である。目連尊者と申すは甘露梵王の太子である。
かの目連の因位(未だ仏果を得ない菩薩の地位)を奉るに、甘露梵王の后であるクシャナ国の夫人は王子をたいそう哀れんで、宮の内を奉らずして年月を重ねたところ、ある国王が千人の僧を供養して毎日仏事を行い色々布施を奉り、四十二年間行った。
これを伝え聞き、ある時、釈尊から羅漢を招請して天竺の内には何れの人が仏事を優れてなすかと申したところ、いえいえ、隅々とその数あるぞと仰せになった。
その時、梵王はならば毎日懈怠なく四十二年まで務めた仏師がどうして修さないことがあろうかと思われたので、
羅漢曰く、それは仏師、法師は様々であると言うけれど、勝ることはない。
なので、出家すれば、七世の父母も皆成仏し、一度菩提心を起こせば即ち仏である。
いかなる仏師、僧の供養よりも一人の子を僧になす程の善根はない。
まして五人三人の事は更に仁徳の到るところ、仏事にも計り難いと仰せになったので、
夫人は、これをお聞きになって、ならば我が子を一人、哀れんでいる王子が後の闇路(やみち)をも導かれたらと仰せになったので、
羅漢は、めでたい事ぞと言って、十二歳の年に、迎え奉ろう次第を申し、羅漢は帰った。
そうした間に、春が過ぎ、夏も長かったので、月日に関守なく、十二歳になった。
羅漢が参内して、王子を迎えるべき次第を奏聞したので、
后を初めとして王宮の人々はさすがであると申すにも及ばず、朝夕、一所に立ち添い、つかの間も離れることがなかったので、
今を初めの別れ路で名残り惜しいことはいかばかりであったろうか、綾地の袂まで涙に染めた。色はない。
后は遂にすまじき別れか、添い果てるべき浮世ではないので、今の別れは中々後に逢うべき頼みであるといって、泣く泣く出発させた。
王子はこの十二階の春秋、片時も玉体を去らず、玉簾の内を出なかったところ、離れることは物憂くお思いになったけれども、
その様な色を見せたら、いよいよ母のお心は弱るだろうと思って、ほど遠くいたけれども、遂には参って、見参すべきだ。
我はまた仏道を修行すべき道なので、これこそ後世の頼みであれと言って、まことにおとなしく申したので
まめやかに有難く感じて、御門送りの次第か、玉の簾の際まで立ちいて、仰せになったのは、
いかに太子よ、聞き給え、参って後王宮の事を一筋に思い切るべし。学問を心に入れ修行の功を積んで法師になって、袈裟、衣を掛けて見参し給え。
中々、無知文盲で僧形になるのは由々しき罪と申す、その様であるので、ゆめゆめ二度王宮には来るな。
修行が特達したならば王宮に来て恋しい親をも見るべし。
又、しからずば、二度と親子とも思うな、仏法、結縁(けちえん)の為に泣く泣くおっしゃった母のお慈悲こそ哀れである。
そうした内に、王子は山林へ登った。羅漢の許に参り、学問を朝夕暇なく怠らなかった。
ただ起きるにも伏すにもつけて、母の仰せの事だけ耳に留まって、学問をおろそかにするならば、俯仰の身となる事は、この世、後の世にかけて、憂き事だとおっしゃるにも、
又王宮の恋しく思うときにも、どうしても学問を急いで出家ともなってこそと思って、かれこれ、厭わず学問に励んだ。
片枝の導師が数多くいるのは、常に父母の片枝と言って、入り続けているのを見るにつけても、思い出して、
今ひとしお、母の事ばかり恋しく、宮の内のお心を恨んで、思い増す身の鏡だと忍び涙ばかりで袖を濡らした。
繋がぬ日数はや過ぎて、幾たび迎える春秋だろう。四方の山の下で霞みつつ晴れない雨が降って、時を知らせる鐘の音に諸行無常の理を悟り、
寺の尾上に咲く花の風にもろき色を見て、世情滅法の憂き報いを目にし、
軒端の梅の匂いには南殿の桜も今は早く咲くだろうものをと思いつつ、翼を並べる雁の音も故郷へこそ帰るだろうと、彼の行方も羨ましく、
繁る間に漏れ出る有明の月に誘われて訪れて鳴くホトトギスも我が思いを添えよう。憂き時に哀れなり。
秋になれば、いよいよ甚だしく露も涙も争って枕に集まるキリギリス、誰とも分からぬ夕霧に鳴く鹿の声申し、
一群(むら)に吹く風もそよとばかりの訪れは、いつか我は着飾ったが、どうしてか王宮からの訪れのその一節のなかろうと恨めしく思うかな。
よしよし、これも后がお思いになる故もあるだろうと思いつつ時知る顔に秋草で花の咲いたのをご覧になっては、草木、国土、有生なりともい、我諸共に成仏、特達を成し給えと、慈悲の心は深くして、
夜もすがら、静かな床の上に差して、本覚の月の光の隈ない事を喜び、願望を知らずに歌風の形を得た事を喜び、父母の恩に報いんことを願い給い、
四方の梢の下が枯れて、落ち葉が時雨れる冬の世は、雪の光を集めつつ、学問の数を積み給うた。
とにかく、ただ夫人を見る事を急ぎお思いになる故か、稽古を心に入れた。
ひとしお思ったので、百千の学を悟り、今日をこうして信仰の法味ある事をわきまえ、無想無着の法は又、月を指す指の他なので、行く末、いかなる得道をお開きになるかと羅漢も喜ぶ事、限りなし。
そうした間に学問も暇なくして年月を過ごしたところ、十五歳になった。
秋もようよう過ぎゆくままに四方の山に皆錦を成すをご覧になっては古里のはかま(ママ)を思い出して、晴れ、曇り、時雨れる空を眺めては、定めなき世の住み憂き事を思い侘しく思う折節に、
古(いにしえ)の聞き慣れた珍しい者の声がする。とても懐かしく思うままに我が座所へ召し寄せて、王宮を初め、后の方まで尋ねたところ、
この者が申すには、富者は朝夕君の事ばかり面影に立ち添い、恋しくある、
浮世の倣いなので、こうしてむなしく、さてはて、後の闇路もいよいよ迷わぬだろうに、いかがせんとお思いになる折節、心地は普通とは違って、このに三日、煩ったところ、
中々、太子を呼んで、この様な姿を見なければ心苦しいとお思いなるところ、思い嘆くもいたわしいだろうに、この心地が治ってこそと仰せになり、日に添えて呼び給うと申し上げたので、
太子はお聞きになって、胸も塞がり、心苦しい事とお思いになったところ、広く聖経の面を見るに、今日あればといって、明日を知らず、
料峭(らうせう:肌寒い春風)不定のならい、風を待つ間の露の身は病なしといっても、頼むべきでなく、まして御悩み(病)の床に伏したことこそ嘆かしくあった。
急ぎ参り、見参するべきだけれども、今度参るときは僧になってこそと承知したと言って羅漢にこの次第を申したところ、
それ、人の出家するには、数ならぬ者までも必ず親に暇を申すのだ、王宮へ申させて後と仰せだったので
太子がおっしゃるに、后は既に病の床に置かされている。その上、元から僧になって参れとの約束を申したので、更に苦しくあるまいと申したところ
その上はと言って、本尊の前で出家を遂げた。
るてん三かひちう、おんあひのうたん、きおんにうむい、しんしつほうおんしや
と三度、唱えつつ、
五回、八回、十重襟懐(思い)残るところなく保たせ、解脱の衣の上に三衣の袈裟を掛けた。
受戒、転法、衣鉢、皆漏らさず保ち、在りし功徳である。名を目連尊者と名づけた。
やがて、暇を申して、急ぎ王宮へと出で発った。
都にいれば梵王の太子として玉の輿に捧げられ、先払いさせてこその御幸(みゆき)だったところを、
仏法修行の道に入ったので、険しい山を分け越え、岩間を伝う細道で、落ち葉の暮れになり果てて、木の下草の湿り気を分け行く袖を絞るだろう。
王宮に着いて見ると、わずかに三年と思えども、万のことが過去に変わり果て、万民は皆ともに憂いの色を浮かべているのが哀れである。
目連は、如何なることがあるだろうかと心細くお思いになって、南天に参る人を召して、目連が参ったと奏聞すべき次第を申したので、返事は申さずに先ず涙を流した。
ややためらって申す様は、后はこの程、かりそめの病と思いつつ、この心地が軽くならば、君を入らせて見参させようと恋しい事と、思し召し嘆きつつ、
遂にそのまま患って、やがて弱って、その暁の寅の時頃に遂にこの世を去った。
七日後こそ、申そうと思って、はや処を甲(きのえ)に収めさせたと申したのを、
木々も果てず、玉の簾の際に倒れ伏し、天に仰ぎ、地に伏して涙を流すこと限りなし。
寒い夜の凄まじい冬の床に雪を集めて其の光に読経に功を積み、暑い日の盛んな夏の窓には螢を宿人(やどと)として、学問神妙を捨てないことは、
得度して出家をし遂げて、后のお教えを違えずして今一度お目見えし、又、恋しいと三歳(とせ)の程、思ったお姿をも見参しようと思ったところ、今は誰に見えて喜ばせるべきか。
遙かな山を分け登り、険しい道の苦しかったのも、后に見参しようと急ぎつつ、誰を頼りに柴の露も分けて帰るべきと嘆き伏し給う有様は目も当てられぬ事である。
君がいらした時に奉ろうと言って自ら裁ち縫(ぬ)わせた御衣といって奉るのを見るにも、
ここまで深く心にかけてお思いになるに、今一度お目見えしようと契りの程が恨めしくお思いになる。
これはお志の衣なのでと言って形見の衣と名づけて、やがて御身に召した。
さて道の標(しるべ)を召して、泣く泣く収め奉り、早々の野辺へと赴く。さて、目連を誘えば、目連はこの有様を見て、
そうでなくてさえ、野辺の夕べは哀れなのに、思い集まる虫の声、世の憂い物は楠の葉の恨み顔で吹く風の激しい草の露よりも、なお袖の涙こそ抑えがたく落ち勝る。
桔梗は軽やかに色々に匂いつつ、どこへとも分からぬ松が二三本あったのを印にして、小掛にご葬器をついた。
これで泣く泣くお経などを遊ばして、王宮を出た時を限りと思えば、名をこそ、名残をも惜しむべきだったものを、仇となる世の中ばかり憂い物はないだろうと嘆く。
さて、願を明け、泣く泣く亡者の胸に足を遊ばせて、下には諸行無常世情滅法、生滅、寂滅怡楽(じゃくめついらく:生死の苦よりも涅槃の境地を真の楽とする)と書き、回向、発願して、
又、卒塔婆をかき供養すると言って、この卒塔婆と申すのは、三生嘉徳の形は大日如来の三まやきやうなので功徳の力は更に仏智にも計り難い。
されば、卒塔婆が建つのを、上は梵王、帝釈、下は閻魔、十王を呼び、三世の諸仏がお守りになる。
願わくば尊霊、一時頌偈(じゅげ:仏教の審理を現した詩)の功力によって即身成仏するべしと回向して、
野辺の名残は尽きないけれども、泣く泣く都へ帰って後は初七日より四十九日、百か日に至るまで、端正を尽くして供養、報恩の仏事を怠る暇もない。
その後、寺に帰っても、堂々を供養し、経論を読誦、書写することは限りない。我が母、后の宮の草の陰でもご覧じなさらぬまでもと思ったので、いよいよ学問のみ心に掛け給う。
後は寺をも尚、静かでないとして、人の住まぬ山林に入って木の実を拾い、しゆけ積畳を床として、無想の法を悟った。
そうする間に、未だ十七歳で羅漢を越えて、くわんかくいんの長老となった。
二十歳で五百人の大羅漢をも越えて、二十七歳で十大弟子の内に入った。
鷲の峰に通って大慈延命(ゑんみやう)の翼を並べ、叢林に交わって六神通を悟って仏法の伝えを成したので、神通第一の大目連と申したぞ。
尊者は三十七歳でクシャナ城で教法を務めたところ、紫雲、内裏にたなびき、音楽の声が天に響いたと思ったところ、目連は急に死んだ。
一千人の弟子たちが天に仰ぎ、地に伏して嘆いたけれどもその甲斐もなく、神通具足の羅漢でも生死の道は逃れないのか。
さて、目連は羅漢の界にいたけれども、尚も生者必滅の逃れ難いことによって帰らぬ旅に誘われて冥土の道に赴いた心の内はいかばかりか。
およそ、人の死すには十五の相があると言うけれども、まず眼(まなこ)が遮り、出る息の他、入る息も無い。
目を開くと言っても、黒白(こくひやく)もわきまえず、天は地になり地は天に還る心地がして、目の回る事は飛ぶ車の車輪の様であった。
十畳、二十畳の大盤石の斜め上からも泥犂(ないり:地獄)の底へ落ちる姿は世に命を惜しむ程であった。
落ちるのに抗う力も皆尽き果てて、はや、息の切れる境であるか。
人の死生の苦しみは冥々(暗くて見えない)として、東西南北もわきまえず、例えば星の夜の様であった。過度に闇でもなく、又、物の色を見ることも難しかった。
辿り辿り行けども、足に触る物もなく、心細くただ独り迷い行くけれども、娑婆で親しかった従類、眷属、一人も伴う者もなかった。
この様な苦しみが強く逃れ難いのか、されば、ある経には、くわんきやう、隔生即忘(きやくしやうそくまう:生まれ変わる際に前世の記憶を失うこと)と言った。これは、なおも、罪人の災禍だろう物でちう(ママ)になった。
この様にさすらって、初七日の今の時に六道の辻へ出た、万力も尽き、上に臨む折には、あの中の七日、乾飯(かれいい)で肝を少し休めたとか。
この様な道の旅だけれども、目連はさして悲しいとも思わず、梵鐘の内から出て、思いこそ心に乗ると言うべきだったと言って、
広き野を北に向いて歩くと、数々の罪人どもが迷い行く有様こそが言葉にも述べがたい。
ようやく行く程に何十畳と知れず、高く赤い門が建っていた。これは生きとし生けるものの類いが数々入る門であった。
門の前には、頭は童子で首から下は布袴(ほこ)の姿で、三千大世界の有情の軽き重きを見る者だった。
面は柔らかで、月日の影に向かう如しと見たのは仙人だ。
悪人が向かうときは、面が荒れつつ、もの恐ろしく、物言うときは炎(ほむら)で熱鉄の縄を履き出して、罪人の身にまとい作るとき、
獄卒が来て受け取り、十王の御前に参るのだ。目に見え耳に触れる事が憂い数でないと言うことはなかった。
尊者はこの所をも分け過ぎて、連なることもなく行くと、罪人がどれ程と羨んだ。
この道の末に雪の高い山が数あり、この世の雪の寒いのに比べれば、この世の雪の億千万合わせたのよりも尚冷えた。
この山の雪、氷と変じて剣の山となって、悪人の行く時には彼の身を寸々に切り裂いた。
仙人が行く時は剣は変じて中の日の様だ。あるいは貨車に乗って行く者もあり、あるいは死出の山路に迷う者もある。
又、五の鳥がいて、これを五徳の鳥と言う。五大輪をかたどるか。この鳥は三界の衆生の越える山に住んでいる。
この鳥は野にも山にも住まず、人の家にだけ住んで、夜昼の時を告げ知らせて主の心を驚かせ、世の移り易い事を死として、世間の無常をもよおす。
衆生はこれを知らずに、ますます位に上る事をばかり願って、下賤なる者は来るはずのない幸いを求める。
この故に、死んで後、この山を越えるとき、肉体が破れつつ、この鶏の頭(かしら)にかかる、だからこそこの山路を頭坂とも申す。
この山には、空木(うつき)という木があり、この木にホトトギスという鳥がいる。この鳥は死出の山に住む鳥である。死出の田長(たをさ)とも言うのだ。なので、この世でも折に従って悪いところで聞いたので、悪しき験(ため)しとも多くある。
鶏も、その家の主の悪い事があろうとする時は夕鳴きなどと言うことがあり、かねて気をつけ知らせる。
又、水の底にある死人はいかにも深い淵だけれど、上で時を作れば必ず其の下に死人がある。この鳥、何れも世の常ならぬ鳥でこそと覚える。
又、三つ大河がある。金銀銅の三つの橋を渡してある。
神の黄金の橋は諸仏、菩薩のお渡りになる。中の白銀の橋を仙人が渡る。
それほど広い橋だけれども、悪人が渡る故か、渡るのに従って糸の如くに細くなって、中から切れて落ちる時、四者とて、四の者あり。彼は返したとする。
たまたま渡って、向かいに橋詰めに上がれば、三つの姥と言って鬼女がいて罪人の衣装を剥ぎ取り、比蘭樹(ひらんしゆ)という木に掛けて置く。ここでも、皆果てずに各々、尚重い苦しみに当たるとか。
ここに地蔵菩薩の悲願、他人事で結縁の衆生を導き給う。件の目連も同じく従い行く。
こうして、初七日から次第に、秦広(しんくわく)王、初江(しよかう)王、宗帝(そうてい)王の御前に渡されて、五七三十五日、閻魔王の御前に参った。
尊者は見目が暗かったので、獄卒、阿傍(あはう)羅刹が諸々の罪人を抵償(ていしやう:あがない)に引き据え引き据え、罪の軽重を正した。
あるいは、諸悪を作る類いは速やかに悪道へ至らしめる。又、五道転輪する物は、行く水の数よりも多いので、十王や獄卒が暇を求めるのが難しい。
目連がいるのを見て、十王は驚き、座を去って地にひれ伏した。悪鬼の類いは座を去って、勘合(調べ合わせること)すること限りなし。閻魔王が目連におっしゃるには、
我は仏菩薩の化身で仮に垂迹(すいしやく)を遂げようとして罪の裁可を成すところ、衆生、まうこうは年々に奏上して、滅罪の功を知らず。
この因果を思うに、自らもその罪の報いだろうことか、娑婆世界に出世し給うた釈尊の説法を伝える御弟子の中に三界僧形の尊者でいらっしゃるので、七日仏事を積善するために、ここまで請じたのだとおっしゃった。
さて、供養のときにもなったので、同調招魂して、諸天、嘯聚(しやうしゅ:互いに呼び集まること)来集する。
そうした間に目連は説法の床の上で言葉にオウムのさえずりを成し、声に迦陵頻(かれうひん)の色を備えたとき、神秘の法文なので、ねんゆしゆつの中々言葉に述べ難い。
十王を初め、みやうりきし、皆、感涙を流し、諸々の着る紐、邪険の角が折れた。八大獄卒からも、一百三十六地獄の衆生までもが特達を遂げようとお思いになった。
七日の説法が過ぎたので、大王、神官の余りにか、お布施に閻浮檀金(ゑんふたいこん)を車七両参らせた。
このとき、目連が申すには、百万両の黄金も望みなし、我、十五歳で別れた母を見せ給えと申したところ、
この様に尊い上人の母であると言えども、大地獄に堕罪して、重罪の加禄だろう、際を知らず。親は一世の報いである。又、相見ることゆめゆめあるべからずと申したところ、
目連が作務衣の袂をかき合わせて、泣く泣く申したのは、三千世界の有生のいずれが父母を離れて生まれる事があろうか。
今この身の人並みの賛嘆を述べる事は偏(ひとえ)に母の恩でないかと泣く泣く申したので、
閻魔王は、目連が一概に嘆き給うのもいたわしくお思いになったので、みやうくわんを召して、目連の母は何れの地獄にあるかと尋ねたところ、
こつほ地獄、等活地獄、黒縄(こくせう)地獄、衆合、叫喚、阿鼻、大かうせう、これです。
この中の何れかと尋ねたところ、黒縄地獄ですと申した。
目連、憂き住まいながらも、母のいます所と聞いたので、相見る事が嬉しくて、やがて地獄道へと赴いた。
みやうくわん、地獄にも近づいたので、宣旨の使いである。この開き申すに、獄卒、黒金の門をを開くとき、みやうくわんが尊者よ退き給え、炎(ほむら)で焼けてしまうと申したところ、
目連は、我は無想真如の旅である。何物が役立つとおっしゃる内に、扉を開いた。
同じく、五千八百里、焼けて退く。されども、目連は遂に焼けずに、但し袈裟の掛からないところばかりが、御衣が焼けた。
これは十五の歳、后が設けた衣と言って置かせたのを形見の衣として取り分け執心して片時も離さなかった。召された一念の執着の心によって袈裟の外れたところばかり焼けた。これにつけても、袈裟の功徳よ、有難い。
さて、尊者は内に入って見たところ、煙と炎(ほむら)の立つことも目も当てられず、罪人が時々(赤銅の)湯に混じり、見えるばかりである。
これほどまでに凄まじい所をも厭わず、六道の請けの地蔵菩薩が罪人の苦患に代わって浮き沈み給うことこそが尊い。
さて、目連、我が母を見せ給えと言ったので、湯の中から亀甲の紋のある亀を一つ捕りだして参らせたところ、
尊者は、これは何物かとおっしゃったので、これこそ尊者の母でいらっしゃる。
その故は、この地獄で他行(たこう)を経て、その後他の亀に産まれると申したので、ただ夢の心地がした。
とてもの事に亀の甲羅を引き離して、釜の中へうち入れた。これをも我が母と聞いたので、情けがなくした事の心憂さよと涙もせきあえずお思いになる。
その後、獄卒は矛を取って湯の中にあらゆる罪人をこれやこれやと探したけれども、更に何も知れなかった。
そのとき、目連はお思いになって、我が母の胸には葦の星を書いた。いかに変わろうとも星は朽ちないだろうとおっしゃったので、
星を印にして、これぞ母でいらっしゃるかと覚えるといって、矛に刺し貫いて、刺し出す。炭の如くで黒くあさましく更にそれとも見えずに、よろめき歩き近づき給う。
尊者は泣く泣く親は一世の契りと申すけれども、我は神通知恵の力によってこの地獄まで訪ね参る、二度見奉る事の嬉しさよと申し給えば、
蚊の鳴く様な声で、人の命を奪い、山野の獣を殺し、恒河の{鱗|うろくつ}を滅ぼす者、この地獄へは落ちる倣いだけれども、自らは、御身故にこの地獄に落ちたのだ。
その故は一人子でいたので、世の常ならず思った内に、王子として位を譲るべくして在った時、宝を千万の国に積んでも尚、願う心は尽きない。
これ、一心にそなたに与える為である。慳貪(けんとん:貪欲)となって、まず初めには餓鬼道へ落ちた。
その後、そなたは山林に入ったところ、世の中に現れる程の人に学問が優れたので、いかにか嬉しいだろう。
千人の羅漢、五百人の大羅漢も皆死んで、我が太子が独り世にいて、千人の国王、十人の長者、諸々の人に囲繞(いねう)が使わせられ給えと思う。潔く、
浄飯(しやうはん)大王には甥、釈迦仏には従兄弟、天法輪王には孫なので、
古天竺の中には誰か争うべきと思ったので、驕慢の罪が重く、魔界の苦患も逃れない。
諸々の大羅漢を死に給えと思った念力、すなわち五逆罪第一の功となって、この地獄の高い事、計り知れず、鳳凰の翼も陰り難い。広くして虚空の如し。
銅(あかかね)の湯の沸きかえる音、百千の大盤石の高き峰から崩れ落ちるが如し、これにて大苦をば知り給えとおっしゃったので、
目連は涙を流し、この苦しみは、いかにして逃れさせ給うかとおっしゃったところ、
其の時おっしゃる、一大釈尊の聖行(しやうけう)、いずれも愚かでないけれども、一生真如である。
なので、かの法華経を一日の内に、一字一隻一齣(いっせき)を書き供養し給え、それで、もしや、免れることもあるかもしれない。
又、阿含(あこん)経をと言う時に、獄卒が来て、地獄の倣いは刹那も暇ないと言って、矛に刺し貫いて投げ入れた。
浮き沈み、うめき叫ぶ声が、二三ほど聞こえたけれど、後には湯の音ばかりで、声も無い。
尊者はもだえ焦がれたけれども、甲斐無く、阿含経とあったのは書けとだろうか、読めだろうか、せめて、そのお言葉の末を聞き果てて長い別れとなった事よと言って、
声も惜しまず泣きわめいたけれども、報いは限りなので、又見える事は無かった。
さて、こうしてあるべきでなかったので、泣く泣く王宮へ帰った。
さて、目連は閻魔王に暇を申して二度(たひ)娑婆へ帰った。
三月二十五日に冥土に行って、卯月一日の寅の時に生き返った。一千人の弟子はたいそう喜んだ。
この世を早く死んだけれど、さすがにお色もご存じなく、身体も暖かにいらしたのを頼みにして、今日までは七日に当たる。
さて、形見の御衣が焼けたのは、其の時冥土で如何なる事があったのでしょうと尋ねたところ、
次第の様を細かに物語ったので、各々は不審が晴れた。
さて、八千人の羅漢を供養して、はつたひかより瑪瑙(めなう)を取り寄せ、真如妙典を頓写(いそいで書写すること)し、富楼那(ふるな)尊者を導師(たうし)として供養したところ、
時を移さず、紫雲がたなびいて音楽の声がして、迦陵頻(かれうひん)の小羽根にこの大善根の力によって早く諸々の苦しみを免れて速やかに善所へ参るのだという声が虚空に響いたので、
妙境の有り難さも今ひとしおの心で、感涙が抑え難かった。阿含経もすぐさま同じ日に書き供養した。
その後、目連はクシャナ国に帰って、仏説の如く、七月十五日に高い床を掛け、百味の慈悲を整え、万燈会を灯し、三世の諸仏を講じ、過去七世の父母に手向けした。
十万の僧を供養して、彼の夫人の出離を請じ、頓証菩提(とんせうほたひ:修行を経ずにただちに悟ること)と祈ったところ、いよいよ母君は無性の学位に上り給うた。
この旨を述べ、一願の経を世に広めたこの方、末代の衆生を心を一つにして七月十五日を教説に任せて盂蘭盆(うらほん)と名づけ、今に絶えず。
七世の父母ないし一切衆生を弔い、天竺より事が起きた。震旦、漢朝、本朝に至るまで、これを用いる。
かの目連の焼け衣はきうしうこくに渡ったのを(ママ)、多くの衆生を導き給う。
その後、震旦より大朝に渡って、棄教盛りだったのを、
弘法大師が入唐の時、けいかく和尚の弟子(ママ)申して、嵯峨の御門(みかど)の御宝で、比叡山の宝蔵に込められたのを、
よりふち公の御時、平等院の宝蔵に収められて、内の一切経会は三月三日に行われた時、
この御衣を出して、これに結縁の輩は再び親に逢うことありと申して、上は玉の台(うてな)より、下は賤しい柩(とほそ)に至るまで、この経には参るのだ。
我が朝は粟散辺(そくさむへん:粟粒を散らしたように小さい)と申すけれども、仏法流布の所で、このような有り難き重宝とも伝え留めたのこそ、各々、仏の方便だろう。
この世に心を留めることなかれ。快楽不退(けらくふたひ)の国土に生まれんことを願うべし。愚かだろう人の為に形(かた)の如く、記しおく。ゆめゆめ覚知の歴覧(いちいち目を通すこと)に備える事なかれ。
これをご覧になる人は親の供養を致し、大慈悲の心を持つべきだ。
我が身が世に無い後は哀れだけれども、誰かが言わぬ水茎(筆)の跡。
もくれんのさうし
抑も、恩愛の奇縁、たにこと(他人事か)にして小劫(しやうくわう)を経たつれども、作る事なし
されば、供養(けうやう)、奉饌(ほうせん)は如来の勤倹(きんけむ)、釈尊は、これ、三界の、衆生の、父として、一切衆生、ことごとく、一子の如く哀れみ
御羨ましきは明匠(めうしやう)こんの、邪見なりしを導きし、しやうさう(性相か)けんの、二人王子
しかれば、昔より、今に至るまで、いずれか、恩愛の哀れみ、深からん
されば、昔、天竺に、十六の大国あり、その中に千人の、国王りんは、これやかの、天法輪王は、四時供養の眼(まなこ)なり
四人の王子、まします、第一に、浄飯王(しやうほんわう)、第二は、こくほんわう(黒梵王か)、第三は、はくほんわう(白梵王か)、第四はかんろほんわう(甘露梵王)、これなり
りょうせん城に、おわします、大乗釈尊浄飯王の太子なり、知恵無上の、阿難尊者と申すは、白梵王の、太子なり
畢竟、空寂(くうしやく)の、旨を達し、神通第一なり、目連尊者と申すは、甘露梵王の、太子なり
かの、目連の因位(ゐんい)を、奉るに、甘露梵王の后、クシャナ国の夫人、王子を、斜め(なのめ)ならず、哀れみ奉りて
宮の内を、致し奉り給わずして、年月(とし月)を、重ね給いし程に
ある国王、千人の僧を、供養して、毎日に、仏事を行い、色々に、布施を奉り、四十二年ぞ、し給いける
これを伝え聞き、ある時、釈尊より羅漢を一人、請じ奉りて、五天竺の内には、いずれの人か、仏事を、勝れて、して候と、申されければ、いえいえ、かとかと、その数侍るとぞ、仰せられける
其の時、梵王、されば、毎日、懈怠なく、四十二年まで、務めたる仏師、いかでか、修すべきと、覚えられ(おほられ ママ)ければ
羅漢、曰く、それ、仏師、法師、様々なりと言えども、出家の功徳に、勝ることなし
されば、出家すれば、七世の父母(ふも)、みな成仏し、一度、菩提心を起こせば、すなわち、仏なり
いかなる、仏師、僧供養よりも、一人の子を、僧に成したる程の、善根なし
まして、五人三人の事は、更に、仁徳の、到るところ、仏事にも、計り難し、と仰せければ
夫人は、これを聞こし召して、さらば、我が一人、哀れみ奉る王子、後の闇路(やみち)をも、導かればや、と仰せられければ
羅漢は、目出度き御事にこそとて、十二歳の御年、迎え奉るべき由、申させ給いて、羅漢、帰らせ給いける
さる程に、春過ぎ、夏も長けぬれば、月日に関守なくして、十二歳にもなりぬ
羅漢、参内ありて、王子を、迎え申すべき由、奏聞ありければ、
后を、初めて奉りて、王宮の人々は、さすがなりとも申すに及ばず、朝夕、御一所に、立ち添い奉りて、つかの間も、離れ参らする御事ならねば
今を初めの 御別れ路(ち)にて、御名残、いかばかりなりけん、綾地の賤(しつ)の袂まで、涙に染めさせる、色は無し
后、ついには、すまじき、別れかは、添いはつべき浮世ならねば、今の別れは、中々、後に逢うべき、頼みなりとて、心に心を、からかいつつ、泣く泣く、出で発たせ、奉り給いけり
王子、この十二階の、春秋、片時(へんし)も、玉体を、去りたまわず、玉簾の内を、出で給わざりつるに、離れ給はん事、物憂き節に、思い給えども
左様の色を、見え奉り給いなば、いよいよ母の御心、弱りなむと、思い給いて、ほど遠く候へども、ついには参りて、見え奉るべし
我また、仏道を修行すべき、道なれば、これこそ、後世の頼みなれとて、まことに、おとなしやかに、申させ給えば
まめやかに、有難く、覚え給いて、御門(御かと)送りの由にや、玉の簾の際まで、立ち居で、仰せられるは
いかに、太子よ、聞き給え、名残惜しくば、思えども、殊更、仏法修行の、為には、心弱くては、叶わぬ物なり、我も、今は、思い切り侍るべし
あい構えて、羅漢の御許に、参り給いて後、王宮の事を、一筋に、思い切り給うべし、学問心に入り給いて、修行の功積みて、法師になりて、袈裟、衣をかけて、我に見え給え
中々、無知文盲にて僧形に、なりたるは由々しき罪と申すなり、左様におわしまさば、努々(ゆめゆめ)二度(たひ)、王宮に、来たり給うべからず
修行、特達(とくたつ)、おわしまさば、王宮に来たり、恋しき親をも、見給うべし
又しからずば、二度、子供、親とも、思うべからず、仏法、結縁(けちえん)のために、泣く泣く、仰せられける、母の御慈悲の程こそ、哀れなれ
さる程に、王子、山林へぞ、上りける、羅漢の御許に、参り給いて、学問、暇なく、朝夕(てうせき)、怠り給はず
ただ、起き伏しにつけても、母の仰せの事のみ、耳に留まり給いて、学問、愚かにするならば、俯仰(ふけう)の身と、ならん事は、この世、後の世かけて、憂き事なるべしと、おおすにも
又王宮の、恋しく、思うときにも、いかにも、学問を急ぎて、出家の、形とも、なりてこそと思して、かれにつけ、これにつけ、厭いもなく、学問し給いける
片枝の導師、数多おわしけるは、常に、父母(ふも)の片枝とて、いて入り給いけるを、見るにつけても、思い出で給いて
今一入(しほ)、母の御事のみ恋しく、宮の内、御心に、恨み給いて、思い増す身の、鏡なりけりと、忍びの、涙のみぞ、袖を濡らし給いける
繋がぬ日数、はや過ぎて、幾たび迎うる、春秋なるらん、四方の山もと、霞みつつ、晴れやらぬ雨の、降りくりて、時を知らせる(しらさる ママ)、鐘の音に、諸行無常の、理を悟り
寺の尾上に、咲く花の、嵐にもろき、色を見て、世情滅法の、憂き報いを眼(くわん)し
軒端の梅の、匂いには、南殿(なてん)の桜も、今は早、咲くらん物をと、思いつつ、翼を並ぶる、雁が音も、故郷へこそ、帰るらんと、彼が行方もうらやましく
繁るこの間に、漏れ出る、有明の月に、誘われて訪れて鳴く、ほととぎすも、我が思いをや、添えつらん、憂からん時に、哀れなり
秋にもなれば、いとどしく、露も、涙も、争いて、枕に集(すだ)く、きりぎりす、誰とも分かぬ、夕霧に、鳴くなる鹿の、声申し
一群(むら)に、吹く風も、そよとばかりの、訪れは、いつか我は、着飾りしに、などや、王宮よりの、訪れの、その一節の、なかるらんと、恨めしく、思しけるか
よしよし、これも、后、思し召す故も、あるらんと、思い給いつつ、時知り顔に、秋草の、花の咲きけるを、御覧じては、草木、国土、有性(うしやう)なりとも、我諸共に、成仏、特達、成し給えと、慈悲の心、深くして
夜もすがら、静かなる、床の上に差して、本覚の、月の光の、隈なき事を喜び、願望知らずは、歌風の形を得たる事を喜び、父母の恩を、報せんことを、願い給い
四方の梢の、下枯れて、落ち葉、しぐるる、冬の世は、雪の光を、集めつつ、学問の数をぞ積み給いける
とにもかくにも、ただ、夫人(ふにん)を、見奉らん事を、急ぎ、思しめ給う故にや、稽古を心に、入り給いけり
一入(一しほ)、思し給えば、百千の、学を悟り、今日を、斯くしても、信仰の、法味ある事を、わきまえ、無想、無着の、法は又、月を指す指の、他なれば、行く末、如何なる得道(とくたう)を、開き給わぬと、羅漢も、喜び給う事、限りなし
さる程に 学問暇なく、し給いて、年月を過くし給うほどに、御歳十五歳に、なり給いぬ
秋もようよう、過ぎゆくままに、四方(よも)の山、皆、錦を成すを、ご覧じては、ふるさとのはかま(ママ)を、思い出して、晴れ、曇り、時雨るる空を、眺めては、定めなき世の、住み憂き事を、思い侘び奉る、折節
古(いにしへ)、聞き慣れ給う、珍(あやし)しの者の、声、すなり、いと懐かしく、思い給うままに、我が御座所(さところ)へ、召しよせて、王宮を、始め参らせて、后の御方まで、尋ね給えば
この者、申しけるは、富者は、朝夕、君の御事のみ、御面影に、立ち添いて、恋しくこそ、思いはんべれ
浮世の、倣いなれば、かくてむなしく、さてはては、のちの闇路も、いよいよ、迷わぬべきは、いかがせんと、思し召し侍る、折節、御心地、例ならず、この二三日、煩い給いつる程に
中々、太子を、呼び奉りて、斯様の姿を、見えなば、心苦しきことに、思い嘆かんも、いたわしかるべきに、この心地、治りてこそと、仰せはんべりしに、日に添えて、呼ばらせ給いぬると、申しあげたりければ
太子、聞こし召して、御胸も塞がり、御心苦しき事に、思し召し続け給うに、広く、聖経(しやうけう)の面を見るに、今日あればとて、明日を知らず
料峭(らうせう)不定(ふちやう)の倣い、風を待つ間の、露の身は病もうなしとても、頼むべきにあらず、まして、御悩(御なふ)の床に、伏したまうこそ、嘆かしく侍れ
急ぎ参り、見奉るべきなれども、この度、参らんときは、僧になりてこそ、承りしにとて、羅漢に、この由、申させ給えば
それ、人の出家するには、数ならぬものまでも、必ず、親に、暇を申なり、王宮へ、申させ給いて後と、仰せありければ
太子、宣わく、后既に、病もうの床に、置かされ給いぬ、その上、元より、僧になりて、参れと、御約束、申したりしかば、さらに、苦しからじ、申し給えば
その上はとて、本尊の、御前にて、出家を、遂げ給いける
るてん三かひちう、おんあひのうたん、きおんにうむい、しんしつほうおんしゃ
と、三度、唱え給いつつ
五回、八回、十重襟懐(きんかい)、残るところなく、保たせ奉り、解脱の、御衣の上に、三衣の御袈裟を、掛け給う
受戒、転法、衣鉢(ゑはつ)、皆漏らさず、保ち給い、在りし御功徳なり、御名をば、目連尊者と名づけ給う
やがて、暇を、申させ給いて、急ぎ、王宮へとてぞ、出でさせ給いける
都に、おわしまさば、梵王の、太子として、玉の輿に、捧げられ、御先払い、させてこそ、御幸(御かう)なるべきに
仏法修行の道に、入り給いしかは、嶮(さか)しい山を分け越え、岩間を伝う、細道、落ち葉が暮れに、なり果てて、木の下草の、露けさを、分けゆく袖や、絞るらん
既に王宮に着きて、見給うに、わずかに三歳(とせ)と、思えども、万(よろつ)、在りしに変わり果て、百顔万民、皆ともに、憂えの色ぞ、哀れなる
目連は、如何なることの、あるらんと、心細く思して、南天に、参る人を召して、目連が、参りて候と、奏聞すべき由、申されければ、御返事は申さずして、先ず涙をぞ、流しける
ややためらいて、申す様、后は、この程、かりそめの御悩と、思しつつ、この御心地、軽(かろ)くならば、君を入り参らせて、見参らせんと、御恋しき御事に、思し召し嘆きつつ
遂にそのまま、患い給いて、やがて、弱らせ給いつつ、その暁の、寅の時程に、遂に、この世をはかなく、なり給う
やがて、君へも、申すべかりしを、御寺、遙かに、山を隔てましませば、いかで御入の程をも、のちの御事を、述べ奉るべきなれば
一七日のちこそ、申し侍らんと、思い奉りて、はや処(と)を甲(きのへ)に、収め参らせぬと、申すを
木々も、果て給わず、玉の簾の際に、倒れ伏し、天に仰ぎ、地に伏して、流涕□給う事、限りなし
寒夜の、凄まじき、冬の床に、雪を集めて、其の光に、読経に、功積み、署日の、盛んなる、夏の窓には、螢を宿人(やどと)して、学問神妙を、捨てしことは
得して、出家をし遂げて、后の御教えを、違えずして、今一度、見え奉り、又、恋し恋しと三歳(三とせ)か程、思い奉りし、御姿をも、見参らせんとこそ、思いしに、今は誰にか、見えてか喜ばせ奉るべき
遙々の山を、分け登り、嶮(さがし)き道の、苦しかりつるも、后を見参らせんとこそ、急ぎつれ、誰を頼りに、柴の露も、分けて、帰るべきと、嘆き、伏し給う、御有様、目も当てられぬ、御事なり
君、おわしましたらん時、奉らんとて、自ら、裁ち縫わせ給いたる、御衣なりとて、奉るを、見給うにも
斯くまで、深く御心に掛けて、思し召しけるに、今一度、見え奉らざりけん、契りの程、恨めしくぞ、思し召しける
これは、御心ざしの、衣なればとて、形見の衣と名づけ給いて、やがて御身に、召し給う
さて、道の標(しるへ)を、召しくせて(ママ)、泣く泣く、収め奉りし、早々の、野辺へと、赴き給いける、さて、目連を、誘い奉れば、目連、かの有様を、見給いて
さなきだに、野辺の、夕べは、哀れなるに、思いに集(すた)く、虫の声、世の憂き物は、楠の葉の、恨み顔にて、吹く風の、激しき草の、露よりも、尚御袖の、涙こそ、抑え難くも、落ち勝れ
桔梗、軽かや、色々に、匂いつつ、いづくとも分かぬ、松二三本、ありけるを、印にて、小掛けに、御葬器を、つきたり
これにて、泣く泣く、御経など、遊ばして、王宮を、出でし時を、限りと、思わば、名をこそ、御名残をも、惜しみ奉るべかりつる物を、仇なりける、世の中ばかり、憂き物は、なかりけるとぞ、嘆き給う
さて、願を明け給いて、泣く泣く、亡者の御胸に、足を遊ばして、下には、諸行無常、世情滅法、生滅、寂滅怡楽(いらく)と、書き給い、回向、発願(ほつくわん)、し給いて
又、卒塔婆を、かき供養、し給うとて、この卒塔婆と申は、三生(せふ)嘉徳の、形、大日如来の、三まやきやう(夜業か)なれば、功徳の、力は、更に、佛智にも、計り難し
されば、卒塔婆の、建ち給えるを、上は梵王、帝釈、下は閻魔、十王、を呼び、三世の諸佛守(まほ)り給うなる
願わくば、尊霊(そんれい)、一時頌偈(しゆけ)の、功力によて、即身成佛、し給うべしと、回向して
野辺の名残は、尽きねども、泣く泣く、都へ、帰り給いて後は、初七日より、四十九日、百か日に至るまで、端正を尽くして、供養(けうやう)、報恩の、御佛事を、怠り給う、暇もなし
その後、寺に帰り給いても、堂堂(たうたう)を供養し、経論を読首、書写し給う事、限りなし、我が母、后の宮の、草の陰にても、御覧し給はんまでもと、思しければ、いよいよ、学問をのみ、心に掛け給う
後は、寺も尚、静かならずとて、人住まぬ、山林に入りて、木の実を拾い、しゆけ積畳(せきしやう)を床として、無想の法を、悟り給う
さる程に、未だ十七歳にして、羅漢に越えて、くわんかくいんの、長老と、なり給いぬ
廿の御歳、五百人の大羅漢にも、越え給いて、廿七にて、十大弟子の内に、入り給いぬ
鷲の峰に通いて、大慈延命(ゑんみやう)の、翼を並べ、叢林(さうりん)に、交わりて、六神通を悟りて、仏法の伝えを、成し給いしかば、神通第一の、大目連とぞ、申しける
尊者、卅七の御歳、くしな(くしゃなか)城にて、教法を務め給いしに、紫雲、大裏(内裏か)に引き、音楽の声天に、響きけりと、思うに、目連、俄に死し給う
一千人の御弟子、天に仰ぎ、地に伏し、嘆き給えど甲斐ぞなき、神通具足の、羅漢にも、生死(しやうし)の道には、逃れ給わぬにや
さても、目連は、羅漢の界(くわひ ママ)、ましませども、尚、生者必滅の、逃れ難きによて、還らぬ旅に、誘われて、冥土に道に、赴き給う、御心の内、いかばかりなりけん
およそ、人の死するには、十五の相、有りといえども、まず、眼(まなこ)に、さいきりふり(遮りふりか)、出づる息より他、入る息無し
目を開くと言えども、黒白(こくひやく)も、わきまえず、天は地になり、地は天に還る、心地して、目の回る事、飛ぶ車の、輪(りん)の如し
十畳、二十畳の大盤石の、斜め上よりも、泥犂(ないり)の底へ、落ちし落ちしと、する姿は、世に命を、惜しむ程にて、ありける
落ちしと、からかう力も、皆尽き果てて、早、息の切るる、境なるべし
人の死生(ししやう)の、苦しみ、例えば、生きたる牛の皮を剥ぎ、荊棘(けいきよく)の、繁る中へ、追い入りたらんが如しと、ある経の、文(もん)に、見えたり
冥土の倣いに、月日の光も無ければ、冥冥(みやうみやう)として、東西南北、わきまえず、例えば、星の夜の如し、あまりに、闇にもあらず、又、物の色を、見ること難し
辿り辿り、行くとも、足に触る物もなし、心細くただ独り、迷い行けども、娑婆にて、親しかりし従類(しうるい)、眷属、一人も、伴う物もなし
斯様の苦しみの、強い難きにや、されば、ある経には、くわんきやう、隔生即忘(きやくしやうそくまう)隔生即忘と、言いける、これは、尚しも、罪人(さい人)の、災禍ならん物に、ちう(ママ)になり
斯様に、さすらいて、初七日の、今(むま)の時に、六道の辻へは、出るなり、万、力も尽き、上に臨む折には、かの中の七日、餉(かれいい)にて、少しの肝を、休むるとかや
斯様なる道の、旅なれども、目連は、さしも悲しきとも、思さず、梵鐘の、内よりいて、思いこそ、心にのりとも、言うべかりけれとて
広き野を、北へ向きて、歩み給うに、数々の罪人とも、迷いゆく、有様こそ、言の葉にも、述べ難けれ
ようよう、行く程に、何十畳とも知らず、高き門(かと)の、赤きを建てたり、これなん、生きとし生きたる物の類い、数々入り、門なりけり
門の前には、頭(かしら)、童子にて、首より下は、布袴(ほこ)の姿なり、三千大世界の、有情の重き軽きを、見る物なり
面、柔らかにして、月日の影を、向かうが如しと見るは、仙人なり
悪人の、向かうときは、面荒れつつ、物恐ろしくして、物を言うときは、炎(ほむら)にて、熱鉄の、縄を履き出して、罪人の身に、まとい作るとき
獄卒、来たリて受け取り、十王の御前に参るなり、目に見、耳に触るる事、憂き数ならずと、言うことなし
尊者は、この所をも、分け過ぎて、連なることもなく、ゆき給うに、罪人、いかばかり、羨み奉りけん
この道の末に、雪の高き山、その数あり、この世の雪の、寒きに比べば、この世の雪、億千万、合わせたらんよりも、猶(なを)し冷えたり
この山の雪、氷と変じて、剣の山となりて、悪人の行く時には、彼が身を寸々に切り裂く
仙人の、ゆくときは、剣変じて、中の日の如し、あるいは貨車に乗りて、行くもあり、あるいは、死出の山路に、迷うもあり
又、五の鳥あり、五徳の鳥と、これを言う。五大輪を、かたどるにや、この鳥は、三界の、衆生の、越ゆる山に、住むなり
この鳥は、野にも山にも、住まず、人の家にのみ、住みて、夜昼、時を告げ知らせて、主の心を、驚かし、世の移りやすきことを、死として、世間の無常を、もよおしき
衆生は、これをば知らずして、ますます、位に上らん事をのみ、願いて、下賤なるは、来たらざる幸いを求む
この故に、死して後、この山を越ゆるとき、肉叢(しゝむら)破れつつ、この鶏の、頭(かしら)に掛かる、さてこそこの山路をば、頭坂とも、申すなれ
この山に、空木(うつき)と言う、木あり、この木に、ホトトギスという鳥あり、この鳥は、死出の山に住む、鳥なり、死出の田長(たをさ)とも、言うなり、されば、この世にても折に従いて、悪しきところにて、聞きぬれば、悪しき験(ため)しとも、数多あり
鶏も、その家の主の、悪しき事、あらんとする時は、夕鳴きなどと、言うことあり、かねて、気をつけ知らする
又、水の底なる、死人は、如何に深き、淵なれども、上にて、時を作れば、必ず、其の下に、死人あり、この鳥、何れも何れも、世の常ならぬ、鳥にこそと、覚えたり
又、三つとて、大河あり、金銀(こんこん)銅の、三つの橋を渡せり
神の、黄金の、橋は、諸仏、菩薩の、渡り給う、中の、白銀の、橋を、仙人の、渡るなり
さしも、広き、橋なれども、悪人の、渡る故にや、渡るに従いて、糸の如く、細くなりて、中より、切れて、落つるとき、四者とて、四の者、あり、彼、返しきと、するなり
たまたま渡りて、向かいの橋詰に上がれば、三つの姥とて、鬼女あり、罪人の、衣装を、剥ぎ取り、比蘭樹(ひらんしゆ)という木に、掛け置く、ここにても、皆果てずして、各々、尚重き、苦しみに、当たるとかや
ここに、地蔵菩薩の、悲願、たにことにして、結縁の、衆生を、導き給う、件の、目連も、同じく、従い行き給う
かくて、初七日より、次第に、秦広(しんくわく)王、初江(しよかう)王、宗帝(そうてい)王の御前に、渡されて、第五七日、閻魔王の御前に、参り給いぬ
尊者、見めくらし給えば、獄卒、阿傍(あはう)羅刹、諸々の、罪人を、抵償(ていしやう)に、引き据え引き据え、罪の軽重(きやうちう)を、ただしける
あるいは、諸悪を作る、類いは、すみやかに、悪道へ至らしめる(いたしむ ママ)、又、五道転輪する物、ゆく水の、数よりも、多ければ、十王、獄卒、暇を求むるに難し
目連、おわしますを見て、十王、驚き、座を去りて、地にひれ伏し給いけり、悪鬼の類いは、座を去って、勘合(かんかう ママ)すること、限りなし、閻魔王、目連に、宣いけるは
我、仏菩薩の、化身として、仮に、垂迹遂げんとして、罪の裁断を成すに、衆生、まうこうは、年々に、奏上して、滅罪の、功を知らず
この因果を、思うに、自らも、その罪の、報いなるべしや、娑婆世界に、出世し給う、釈尊の、説法を、伝え給う、御弟子の中に、三界僧形の、尊者にて、ましますによて、一七日、仏事を積善(しやくせん)ために、これまで、請し申すなりと、宣いける
さて、供養のときにも、なりしかば、同調招魂して、諸天、嘯聚(しやうしゅ)、らいしゆし給う
さる程に、目連は、説法の、床の、上にして、言葉に、オウムのさえずりをなし、声に迦陵頻(かれうひん)の色を、備えたるとき、念ゆしゆつの神秘の法文なれば、中々、言葉に述べ難し
十王を、初め奉り、みやうりきし、皆、感涙を流し、諸々の着る紐、邪慳(しやけん)の角折れぬし(ママ)、八大地獄よりも、一百卅六地獄の、衆生までも、特達を、遂げぬらんとぞ、思しける
一七日の説法、過ぎぬれば、大王、神官の余りにや、御布施に、閻浮檀金(ゑんふたこん)を、車七両、参らせられたり
そのとき、目連、申されけるは、百万両の黄金も、望みなし、我、十五歳にして、別れ奉りし母を、見せ給えと、申されければ
そのとき、大王、怒りをなして、宣う、冥土の道の、倣いとして、しんそ池の差別(しやへつ)を、なす事なし
斯様に、尊(たつと)き上人の、母なりと言えども、大地獄に、堕罪して、重罪の、加禄ならん、際を知らず、親は一世(せ)の、報いなり、又、相見ん事、ゆめゆめ、あるべからずと、申し給えば
目連、作務衣の袂を、かき合わせ、泣く泣く、申され給いけるは、三千世界の、有生、いずれか、父母(ふも)を離れて、生(む)まるる事あらん
されば、経に曰く、仏も、父母の、報恩は、いかにも、致すべしとぞ、説かれたる
今、この身、人並々の、賛嘆を、述ぶる事、一重に、母の恩に、あらずやと、泣く泣く、申させ給えば
閻魔王、目連、あながちに、嘆き給うも、いたわしく、思し召しければ、みやうくわんを召して、目連の母、何れの地獄に、あるとぞ、尋ね給えば
こつほ地獄、等活(とうくわつ)地獄、黒縄(こくせう)、衆合(しゆくわう)、叫喚(けうくわつ ママ)、阿鼻(あひ)、大かうせう、これなり
この中に、いずれぞと、尋ね給うに、黒縄地獄に候とて(ママ)、申しけり
目連、憂き住まいながらも、母の、おはし所と聞き給えば、相見奉らん事の、うれしくて、やがて、地獄道へぞ、赴き給いける
みやうくわん、地獄にも、近づきければ、宣旨の御使いなり、この(ママ)開きと、申すに、獄卒、黒金の門を、開くとき、みやうくわん、尊者、退き給え、炎(ほむら)に、焼け給うなと申すに
目連、我は、無想真如の旅なり、何物が役立つ(つた ママ)と、宣う程に、扉を開く
同じく、五千八百里、焼けて退く、されども、目連は遂に焼け給はず、但し御袈裟の、掛からぬところばかり、御衣、焼け給いける
これは、十五の御歳、后御設けの衣とて、置かせ給いたりしを、形見の衣とて、とりわけ、執心して、片時も、離し給わず、召されたりける一念の、執着の心によて、袈裟の、外るるところばかり、焼けたりけり、これにつけても、袈裟の功徳ぞ、有難き
さて、尊者は、内に入りて、見給えば、煙(けふり)と炎(ほむら)の、立つことも、目も当てられず、罪人、時々、湯の泡に混じり、見ゆるばかりなり
かほどに、凄まじき、所をも、厭い給わず、六道の請けの、地蔵菩薩、罪人の、苦患に代わりて、浮き沈み給うこそ、尊(たつと)けれ
さて、目連、我が母を見せ給えと、ありしかば、湯の中より、亀甲の紋ある、亀を一、取り出だして、参らするに
尊者、これは何物ぞと、宣えば、これこそ、尊者の母にて、おわしませ
その故は、この地獄にて、他行(たこう)を経て、その後はかの、亀に、生(む)まれ給いぬると、申されければ、ただ夢の心地、し給いける
とてもの御ことに、変わらぬ御姿を、今一目、見せ給えと、泣く泣く、仰せられければ
獄卒、亀を、甲を引き離して、釜の中へ、うち入れたり、これをも、我が母と、聞きしかば、情けなく、しつる事の、心憂さよと、涙もせきあえずぞ、思しける
その後、獄卒、矛を取って、湯の中に、あらゆる罪人を、これやこれやと、探せども、更に、何れとも知らず
そのとき、目連、思し召しいたして、我が母の御胸には、葦の星を、書きたり、いかに変わり給うとも、星は、朽ちずべからずと、仰せられければ
星を、印にて、これぞ、母にて、おわしますらんとぞ、覚ゆるとて、矛に刺し貫きて、刺し出(いた)す、炭の如くに、黒くあさましく、更にそれとも見えずして、よろめき、歩み、近づき給う
尊者、泣く泣く、親は一世の、契りと申せども、我、神通知恵の、力によて、この地獄まで、訪ね参る、二度見奉る事の、嬉しさよと、申し給えば
蚊の鳴く様なる声にて、人の命を奪い、山野の獣を殺し、恒河のうろつくを、滅ぼせる者、この地獄へは、落つる倣いなれども、自らは、御身故に、この地獄には、落つるなり
其の故は一人子にて、おわせしかば、世の常ならず思いし程に、王子として、位を、譲り給うべきにて、ありし時、宝を、千万の国に、積みても尚、願う心は尽きず
これ、一心に、御身に与えん為なり、慳貪(けんとん)となりて、まず初めには、餓鬼道へ、落ちぬ
その後御身、山林に、入り給いしかば、世の中に、洗える(ママ)程の人に、学問、勝れ給わば、如何に嬉しからん
又、哀れ大師、りょうせん城の、主となり、三界第一の、知識として
千人の羅漢、五百の大羅漢も、皆々死にて、我が太子、独り世にいて候て、千人の国王、十人の長者、諸々の人に、囲繞(いねう)が使う、せられ給えかしと、思う(ママ)、深く
浄飯(しやうはん)大王には、甥、釈迦仏には、従兄弟、天法輪王には、孫なりしかば
古天竺の中には、誰か、争いはんべるべきと、思いしかば、驕慢(けうまむ)の罪、重くして、魔界の苦患も、逃れず
諸々の、大羅漢を、死に給えと、思いし、念力、すなわち、五逆罪第一の、功となりて、この地獄、高き事、計りを知らず、鳳凰の翼も、陰り難し、広くして、虚空の如し
銅(あかかね)の湯の、沸きかえる音、百千の、大盤石の、高き峰より、崩れ落つるが如し、これにて、大苦をば、知り給えと、仰せられければ
目連、涙を流し、この苦しみは、いかがして逃れさせ給うべきと、宣えば
其の時、宣う、一大釈尊の、聖行(しやうけう)、何れも、愚かならねども、一生真如なり
しかれば、かの法華経、一日の内に、一字一齣(一せき)を、書き供養し給え、それにや、もし、免るることもや、ありなん
又、阿含(あこん)経をと、言う時に、獄卒来たって、地獄の倣いは、刹那も、暇なきなりとて、矛に刺し貫きて、投げ入れぬ
浮き沈み、おめき叫び給う声の、二三とかほどは聞こえしかども、後には、湯の音ばかりにて、声も無し
尊者は、もだえ焦がれ給えども、甲斐なし、阿含経と、ありつるは、書けとやらん、読めとやらん、せめて、その御言葉の末を、聞き果て奉らで、長き別れ、なりつる事よとて
御声も惜しまず、泣きおめき給えども、報い、限りなれば、又も、見え給う事なし
さて、かくてあるべきにあらねば、泣く泣く、王宮へ帰り給いけり
さて、目連、閻魔王に、暇を申し給いて、二度(たひ)、娑婆へ帰り給う
三月廿五日に、冥土へおわしまして、卯月一日の、寅の時に、生き返らせ給う、一千人の御弟子、御喜び、斜め(なのめ)ならず
この世を、早くしましまししかども、さすがに御色も存知給わず、御身も暖かに、ましまししを、頼みにて、今日までは、一七日に、当たり給う
さて、御衣の形見の、焼けさせ給いしは、其の時冥土にて、いかなる御事の、ましましけんと、尋ね申させ給えば
次第の様、細かに、御物語り、ありけるにぞ、各々、不審は、晴れにける
さても、八千人の羅漢を、供養して奉り、はつたひかより、瑪瑙(めなう)を、取り寄せ給いて、真如妙典を頓写し給い、富楼那(ふるな)尊者を、読師(たうし)として、供養し給うに
時を移さず、紫雲、たなびきて、音楽の声して、迦陵頻(かれうひん)の、小羽根にて、この大善根の、力によて、早く、諸々の、苦しみを、免れて、速やかに、善所へ、参るなりと言う声、虚空に、響きければ
妙境の有り難さも、今一入(しほ)の心地して、感涙、抑え難し、阿含経も、やがて、同じき日、書き供養し給いけり
其の後、目連はクシャナ(くしな)国に、帰り給いて、仏説の如く、七月十五日に、高き床をかき、百味の御慈悲を整え、万燈会を灯し、三世の諸仏を請じ、過去七世の父母(ふも)に、手向け給う
十万の僧を、供養し給いて、彼の夫人の出離請じ、頓証菩提(とんせうほたひ)と、祈り給いしかば、いよいよ、母君、無性の学位に、上り給いける
この旨を、述べ給いて、一願の経を、世に広め給いし、この方、末代の衆生、心を一つにして、七月十五日を、教説に任せて、盂蘭盆(うらほん)となづけ、今に絶えず
七世の父母(ふも)、ないし、一切衆生を、弔(とふら)い、天竺より、事起こりぬ、震旦、漢朝、本朝に、至るまで、これを用いる
かの目連の、焼け衣は、九州国に、渡りしを(ママ)、多くの衆生を、導き給う
その後、震旦(しんたむ)より、大朝に渡って、棄教盛りなりしを
弘法大師、入唐の時、けいかく和尚の御弟子(ママ)申し給いて、嵯峨の御門の、御宝にて、比叡山の、宝蔵に、込められしを
よりふち公の御時、平等院(ひやうとういん)の、宝蔵に、収められて、内の一切経会(きやうゑ)、三月三日に、行わるる時
この御衣を、出だし奉りて、これに結縁の輩は、再び、親に逢うことありと申して、上は、玉の台(うてな)より、下は賎(しつ)の枢(とほそ)に、至るまで、この経には、参るなり
我が朝は、粟散辺(そくさむへん)と申すとも、仏法流布の所にて、かかる有難き、重宝とも、伝え留めたるこそ、各々、仏の、方便なれ
この世に、心を留むることなかれ、快楽不退(けらくふたひ)の国土に、生(しやう)せんことを、願うべし、愚かならん人のために、形(かた)の如く、記しおくなり、ゆめゆめ、覚知の歴覧に、備うる事なかれ
これを御覧せん人は、親の供養(けうやう)を致し、大慈悲の心を、持つべきなり
我が身よに、なからん後は、哀れども、誰か言わねの、水茎の跡
◆参考文献
・「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」(芸能史研究会/編, 三一書房, 1974)pp.187-188
・「中国地方神楽祭文集 伝承文学資料集成 第十六輯」(岩田勝/編著, 三弥井書店, 1990)
・「神楽源流考」(岩田勝, 名著出版, 1983)
・『室町時代物語大成 第十三』(横山重, 松本隆信/編, 角川書店, 1985)pp.147-166
記事を転載→「広小路」
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文教大学の斉藤先生から六月の「第二回 かながわのお神楽公演」の資料を送ってもらう。家元へのインタビュー、神楽師と観客へのアンケート結果が主な内容。公演は演じる側も見る側も概ね満足だったようだ。年齢構成は高く、50代~70代で約八割を占める結果となった。
最終的には元学生スタッフがまとめるのだけど、家元のインタビューをまとめるよう指示されている。
六月の頃は単なる一観客だったのだけど、加藤社中の加藤俊彦さんに斉藤先生を紹介していただき、このようなご縁ができた。僕自身、ボランティアは初の体験なので、資料をよく読まねば。
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