咥え面の秘密――佐藤両々「カグラ舞う!」
ヤングキングアワーズ11月号を買う。佐藤両々「カグラ舞う!」今回は以前セリフでだけ登場したライゴ(頼護)が登場する。神楽の母方の従兄。広島の神楽の面の早替え、咥え面でやっていることが明らかにされる。しかし、それだと演技中、ずっと咥えていなくてはならなくて息ができないのではないかと思うのだが、どうだろう?
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ヤングキングアワーズ11月号を買う。佐藤両々「カグラ舞う!」今回は以前セリフでだけ登場したライゴ(頼護)が登場する。神楽の母方の従兄。広島の神楽の面の早替え、咥え面でやっていることが明らかにされる。しかし、それだと演技中、ずっと咥えていなくてはならなくて息ができないのではないかと思うのだが、どうだろう?
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◆はじめに
「校訂石見神楽台本」六調子の部に「関山」という演目がある。天竺、唐を経て日本へ渡ってきた悪僧を日本の大天狗が引き裂くという内容である。提婆の流れを汲むとあるので、生きたまま地獄に堕ちたという提婆達多(だいばだった)のことだろう。その悪行に通じているということか。仏教の外道に対して修験道の優位を訴えるといった内容だろうか。
◆関山
校訂石見神楽台本に収録された(六調子)「関山」を口語訳してみた。
僧「抑(そもそ)も是は三界(欲界、色界、無色界)無庵の修行でござる。私は天竺に生まれ提婆(だいば)の流れを学び大唐を経巡り普く三千世界(世界全体)を尋ねたけれども法力行力手に立つ(相手となるに十分な)者が一人もいない、今日本へ渡って来てあらゆる天神地祇を従え靡かせ一度この国を我が道学の奴(しもべ)と成そうと思い立ち先ずこの関山に来て摩道(ママ)のものを退け去り我が存念(考え)を達せようと思い暫くここに止まってこの山の有様を伺い見るべし」
舞 ここに天狗が化生出る
大天狗「あそこに見えるのは何者ぞ」
僧「おお我は三千世界(全世界)無庵の修行であるが幼い時から天竺提婆の流れを慕い行力法力功績を積み三千世界(全世界)に手に立つ(相手となるに十分な)者が一人もいない。今ここ日本に渡って来て普く天神地祇を押し随えさせ一度国を覆そうと思い立ったのである。お前は私に随うならば長く我が奴(しもべ)としよう。否と言ったらたちどころに我が行力の秘術で一命を失わせてくれよう。どうだ」
大天狗「あら可笑しいかな、抑(そもそ)もこの日本という国は神明(神)の御国でお前如き邪法の輩は一時も足を止める国ではない。我こそは天津神の狗となって一天四海(四方の海)を飛行しお前ごとき悪心欲心高慢我意(わがまま)の者どもをばたちどころに引き裂いてくれる事を我が業(務め)とする所である。汝の一命惜しくば早く心を翻し今まで学んだ外法を捨て清潔な神国の教えに基づくならば見逃してくれよう。さもなくば、ただ今お前の運命を止めてくれよう」
僧「さてさて面白い面白い。いざ、これからは我が行法の力で一戦し勝負を決してくれよう」
舞 大天狗、僧を裂殺する
切「あら有難いあら有難い実に神国の威徳で悪心慢心ただちに身を八つに引き裂き捨て喜悦の眉を開きつつ虚空に飛行し失せたことだ」
◆余談
「関山」に関しては資料がほとんどなく、書けることもほとんどない。牛尾三千夫「神楽と神がかり」の大元神楽台本に収録されているので古くからあった演目であることは想像がつく。
◆参考文献
・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)pp.202-203
・「神楽と神がかり」(牛尾三千夫, 名著出版, 1985)p.184
記事を転載→「広小路」
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◆はじめに
八幡といえば応神天皇がまず挙げられるけれど、記紀を読むに、応神天皇の時代は安定していて天皇自身にこれといった武功がある訳ではない。されども、母である神功皇后の胎内にいたときに三韓征伐が行われたとされているから、生まれながらの軍神であると言えるかもしれない。
◆八幡
校訂石見神楽台本に収録された「八幡」の台本を口語訳してみた。
歌「弓矢とる人を守りの八幡(やはた)山誓ひは深き石清水かな」
「石清水いまも流れの末たえず濁りなき世や君を守らん」
「箱崎にしるしに植ゑし松なれば幾千代までも栄え久しき」
「八幡山前の外山(とやま)が曇るともわが氏人に曇りおろさじ」
「八幡をば都と拝む西は海東は渚(なぎさ)思ひ松原」
「万代(よろづよ)と祈り治むるこの村に悪魔は寄せじさよにふらせうや」
神「自らは九州豊前(ぶぜん)の国、宇佐の宮に斎(いは)われた八幡麻呂(やはたまろ)という神である。この度異国から第六天の悪魔王が飛び来て、人種(だね)を滅ぼすので、私が一度(ひとたび)この者を退治せねばと思うのだ」
(神舞う。鬼ばやしになって鬼が出る)
鬼「そこに立ち向かった神はどのような神でいらっしゃるか」
神「我はこれ、九州豊前の国、宇佐の宮に斎われた八幡麻呂という神である。お前はどのような者であるか」
鬼「おお我はこれ、中天竺(てんじく)他化自在天(たけじざいてん)の主(あるじ)、第六天の悪魔王とは自分の事である」
神「お前は麻呂の教えに従って外つ国(とつくに)へ退くか、さもなくば、この神通(じんつう)の弓に方便(ほうべん)の矢をかけ、ただ今お前の一命打ち取らん」
鬼「いかに八幡の守護ありといっても、三界(欲界、色界、無色界、つまり宇宙全体)無辺(限りのない)の煙となって、立ちかけ立ちかけ、生き血を吸わないでおくものか」
(立ち合い。鬼を退治して、神が喜びの舞を舞う)
◆かぐら台本集
佐々木順三『かぐら台本集』旧舞の部に収録された「八幡」では下記の様な粗筋となっている。
誉田別(ほんだわけ)命に仕える門守(かども)りが登場、この頃、空他化自在天(たけじざいてん)が飛び来て日に千人、夜に千人の氏人をとり喰らうため、誉田別命が成敗することになったと語る。誉田別命が登場、くわの弓に四方の矢を取りそろえて防ごうと思うと述べる。魔王が登場する。魔王は誉田別命に汝は何者か問う。誉田別命が応える。魔王は自分は八万四千の鬼の大将なので、ここまで来たからには主上の命をとらないで帰るものかと応える。誉田別命はくわの弓と四方の矢で魔王の身命を討ち取らんと応える。勝負となる。魔王が調伏される。誉田別命の嬉し舞。門守りもこれで天下泰平と喜んで帰る。
八幡神社への奉納には必ずこの曲を取り上げることになっているとある。
◆矢旗(やはた)
考訂芸北神楽台本に収録された矢旗を口語訳してみた。
誉田別命(ほんだわけのみこと)「そもそもこれは大和の国、豊別(とよわか)れの宮に天下り、天(あま)が下を支配する誉田別命とは自分のことである。さては寒露着(秋分から半月頃の衣装)、汗衫(かんさん:かざみ。古代の汗取りの服)の皇神(すめかみ:皇祖)の詔(みことのり)で、橿国(かしくに)の御原(みはら)(橿原)に立つかぎり青雲おり白々とたなびき生じるところ、刻々と八十(やそ)の国の八十までも事寄(ことよ)ざす(委任する)。いま伊勢の天照大神の勅諭があって、母の胎内にあったことから異国を言向けた(言葉の力で服従させた)が、我が国に障害となり、綾比呂(あやひろ)の織姫まで少しも服従せず、そうしたところに異国の賊らが共々筑紫に来て災いをなした。よって彼(か)のものを退治しようと思うのだ」
髄神(ずいしん)「畏まってそうろう。主君(きみ)におかれましては陸地(くがち)にあってはやく軍の采配をなされるべきでございます。某(それがし)は船で見届けることとして、水軍の駆け引きを致しましょう」
(舞、ひと奏[かな]で)
大魔王「そこに立ち向かう神はどのような神でいらっしゃるか」
誉田別命「自分は白旗(しらはた)矢旗(やはた)の二柱の神である。そのように咎めるものは何者ぞ」
大魔王「おお我はこれ、日本征伐のためにこの国に言向け(言葉で服従させようとする)した大魔王とは自分のことである」
誉田別命「お前たち、旗を巻いて従え。従わないならば、この方便の弓にかむる矢を添え、ただ今お前の一命打ち取るなり」
大魔王「旗を巻いて従えとは、あら面白いことを申すかな。いかに白幡、矢旗の神であるといっても、自分は数多の眷属を引き連れて、今一度(ひとたび)この神国を魔国(まこく)となさないでおくものか」
(両者激しく立ち合い手下ども打ち取られる)
誉田別命「もし大魔王、確かに聞け。お前の眷属どもは打ち取った。早々に覚悟せよ」
大魔王「あら残念なり無念なり。我が眷族は打ち取られたか。かくなる上は我が妖術をもってお前たちをただ今打ち取ってくれようぞ。いざ立ち合い勝負を決しよう」
(両者は激しく立ち合い大魔王打ち取られる。歓びの舞、ひと奏で)
◆本朝神社考
「本朝神社考」の「八幡」の項の最後に八幡の伝説が記されている。
縁起に曰く、筑前筥崎(はこざき)に八幡宮有り。昔、白幡四・赤幡四、天より此に降る。故に八幡と名づく。松を植えて標(しるし)となす。今に至りて猶ほ在り。
「日本庶民生活史料集成 第26巻 神社縁起」88-91P
◆動画
浜田市金城町の追原社中の「八幡」をYouTubeで視聴。神と鬼の一騎打ちであった。大体台本の通りに進行した。
三谷神楽団の「矢旗」をYouTubeで視聴。旧舞だが八調子だった。神と鬼、二対二の戦いであった。「考訂 芸北神楽台本」に収録された「矢旗」は三谷神楽団のものなのでオリジナルを見たことになる。
◆大六天神社
さいたま市浦和の調神社を訪問した際、近所に第六天神社という小さなお社があることに気づいた。ご由緒を読むと、神世七代における第六代の面足命(おもたるのみこと)と吾屋惶根命(あやかしねのみこと)を祀るとあった。一方、Wikipediaで第六天神社の項を読むと、元は第六天魔王(他化自在天)を祀ったものが明治の神仏分離の際に祭神が変更されたとある。明治期に合祀されることなく残ったものだろう。第六天神社は関東地方に幾つかあるそうだ。
◆参考文献
・「古事記 新編日本古典文学全集1」(山口佳紀, 神野志隆光/校注・訳, 小学館, 1997)
・「日本書紀1 新編日本古典文学全集2」(小島憲之, 直木孝次郎, 西宮一民, 蔵中進, 毛利正守/校注・訳, 小学館, 1994)
・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)pp.11-15
・「考訂 芸北神楽台本Ⅱ 旧舞の里山県郡西部編」(佐々木浩, 2011)pp.195-200
・「日本庶民生活史料集成 第26巻 神社縁起」(三一書房, 1983)※「本朝神社考」収録, 「八幡」pp.88-91
・「かぐら台本集」(佐々木順三, 佐々木敬文, 2016)
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◆はじめに
風宮は鬼退治ものの演目であるが、鬼が許されない結末で、現在ではあまり舞われない演目である。2016年に高津社中が島根県立大学で上演している。その他、2019年には益田市の種神楽保存会が八調子に改作して上演しているとのこと。
◆風宮
校訂石見神楽台本に収録された(六調子)風宮を口語訳してみた。
抑(そもそ)もこれは勢州大神宮の摂社に祝われた風神級長津彦命(しなつひこのみこと)という神である。なので蒙古の国から多くの賊徒が数千艘の兵船(軍艦)を催し(集めて)我が国を窺う次第、時の天子から勅願を受けただ今かけ向かってこれを防ごうと思うのである。
舞
鬼「あれに立ち向ったのはどのような神でござるか」
神「おお我はこれ伊勢国の風神科長津彦命である。お前はどのような者であるか」
鬼「おお我はこれ蒙古の国の大王である。そうしたところ、この度お前たちが住む大日本の神国を一戦で攻め崩し我が国の奴(しもべ)とせんが為甲冑兵船(軍艦)を催し(集めて)ただ今ここまで来た。いでいで(さあさあ)夫(そ)れは乗り掛けてお前を始め一々に手捕りにせんことの嬉しさよ」
舞 爰(ここ)で大風が起こり賊の船が悉く覆る体
鬼「どのように申そうか」
神「何事か」
鬼「それゆえ神国へ来て神軍とは知りながら分けて太神の神徳激しく忽ち大風吹き起こり数千艘の舟(船)が悉く覆り乱れしかる浅ましい躰と相成った。今から長く日本へ敵心をなすまい、なので命ばかりはただただお助けくだされ」
神「いやだとお前が言うのは愚か、この度の軍に打ち勝ち賊徒を悉く退治したので今から長く我が社に宮号(一家を立てた皇族に賜る家名)を送り風宮と尊敬しようと勅命によって馳せ向かったので命を助ける事思いもよらない」
◆鬼が許されない結末
風宮は鬼が許されない結末であるが、蒙古の大王が登場するところから、元寇を題材としていると見られる。実際の元寇では宋兵は許されたが、蒙古兵と高麗兵は全て斬られたそうなので、そういう史実に基づいているのかもしれない。
鬼が許される結末の神楽としては「道がえし」という演目がある。高千穂に去り、そこで米を食い物となせと鬼を降参させる内容である。基本的には鬼が退治される筋立てのものが先にあり、それから鬼が許される結末の筋立てが生じたと考えるのが自然だろうか。
牛尾三千夫「神楽と神がかり」にも「風宮」は収録されており、大元神楽でも「風宮」が舞われていることが分かる。
◆動画
YouTubeで「石見神楽 風宮」で検索してみるがヒットしなかった。以前見たような記憶があるのだが、あれは何だったのだろうか。現在では石見地方でもあまり演じられることがない演目なので動画がアップロードされることもないのだろう。
◆八幡愚童訓
「八幡愚童訓 甲」から蒙古軍の戦いぶりを描いた箇所をピックアップしてみた。
然る処に十一月廿日、蒙古船より下り馬に乗り、旗を上て責懸る。日本の大将には小弐入道覚恵が孫纔(わずかに)十二三の者、箭合の為とて小鏑を射たりしに、蒙古一度に訧(どっ)と咲(わら)ふ。太鼓を叩銅鑼を打ち、紙砲鉄砲を放し時を作る。其の声唱立(おびたたし)さに、日本の馬共驚て進退ならず。馬をこそ扱ひしが、敵に向んと云う事を忘る。蒙古が矢は雖短、矢の根に毒を塗りたれば、中る程の者毒気に負ずと云事なし。数万人矢鋒を調へ如雨降射ける上、鉾長柄物具の罅間(あきま)を差て外さず、一面に立並びて、寄る者あれば中を引退き、両方の端を廻合て取籠て、無残所討れける。能振舞て死をば、腹を開て肝を取て是を飲む。自元牛馬を美食(物)にする者なれば、被射殺たる馬をば喰らひて飽満り。甲は軽し馬には能乗る、力は強し命は不資(たばわず)、強盛勇猛にして自在無窮に馳行。大将軍は高き所に居り上りて、引べきには逃鼓を打ち、懸べきには責鼓を叩くに随て振舞ひ、逃る時は鉄放を飛して暗く成し、鳴音闇(ひゞき)高れば、心を迷し肝をつぶ(やまいだれに色)し、目眩耳鳴て、亡然として東西を不弁。
日本の戦の如く、相互名乗り合て、高名不覚は一人宛の勝負と思ふ処、此合戦は大勢一度に寄合て、足手の動(はたら)く処に我も我もと取付て押殺し、虜(いけどり)けり。是故懸入程の日本人漏者こそ無りけり。誠なる哉、「教ず民を戦むる 是を謂ふと棄と」在る本文、今ぞ思ひ被知ける。其中に松浦党多く討れぬ。(中略)
「八幡愚童訓」「寺社縁起」184-185P弘安四年の夏比、蒙古人、大唐・高麗以下の国々共の兵を駈具(かりぐし)て、十万七(八)千八百四(余)艘の大船に数千万人乗連て襲来す。其中に高麗の兵船五百艘は壱岐・対馬より上り、見る者をば打殺す。人民堪難て、妻子を引具し深山へ逃入処に、赤子の泣声を聞付ても押寄ければ、片時の命も惜ければにや、褊(さしも)愛する緑子を我と泣々害しつゝ、
世の中に最惜(いとおし)き物は子也けり 其に増るは我身也けり
と詠じける。人の愛(すさみ)ぞ思出らるゝ。是よりして、高麗の船は宗像の沖による。蒙古・大唐の船共は対馬に寄ず、壱岐の嶋に着。其より筥崎の前なる能古・志賀二の嶋に着にけり。是を見て高麗の船共、宗像より押出て、蒙古の船と一所による。今度は一定勝つべく、居住すべき料とて世路の具足、耕作の為とて鋤鍬までも持せたりけり。
「八幡愚童訓」「寺社縁起」189-190P
※カタカナはひらがなに改めた。
◆余談
元寇を題材とした読み物として「八幡愚童訓」がある。読んでみると、元寇の戦闘に関する描写は案外少なかった。だが、大音響で馬が怖気づいたり、合戦の際に名乗りを上げない等、後世に影響を与えたと思われる描写もある。
元寇に関する描写の一部を引用したが、文字コードに無いと思われる漢字も幾つかあって面倒だった。
◆参考文献
・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)pp.198-199
・「神楽と神がかり」(牛尾三千夫, 名著出版, 1985)p.182
・「寺社縁起 日本思想大系20」(桜井徳太郎, 萩原龍夫, 宮田登/校注, 岩波書店, 1975)※八幡愚童訓 甲乙所収
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厚木市愛甲の熊野神社の奉納神楽を見る。垣澤社中によるもの。夕方5時半ぎりぎりに現地に入る。ちょうどこれから神楽がはじまるところだった。演目は御祝儀三舞、日向之阿波岐原身禊祓(ひゅうがのあわぎはらみそぎはらい)から現れ、天之磐扉の三演目。令和元年にちなんで目出度い演目を選んだとのこと。
御祝儀三舞(寿式二人三番叟付五人囃子・寿獅子舞・大黒舞)は三番叟が二人登場する。禊祓は身を清めたイザナギ命から三貴神が誕生するバージョン。イザナギ命の舞が激しい。天之磐扉は天の岩戸神話を神楽化したもの。この演目はモドキが登場しない。手力男命が見栄を切りまくるのを楽しむ演目だろうか。
垣澤社中・寿式二人三番叟付五人囃子
垣澤社中・寿獅子舞・令和記念「おめでとうございます」
垣澤社中・大黒舞・福銭を撒く大黒様
垣澤社中・御祝儀三舞
垣澤社中・禊祓・身を清めるイザナギ命
垣澤社中・禊祓・禊ぎによって誕生した天照大神・月読命・須佐之男命
垣澤社中・天之磐扉・天鈿女命の舞
垣澤社中・天之磐扉・岩戸をこじ開けた手力男命
垣澤社中・天之磐扉・復活した天照大神
垣澤社中・天之磐扉・見栄を切る手力男命
文教大学の斉藤修平先生によると、天之磐扉は相模原の番田神代神楽とは異なるとのことだったが、お囃子でよく聞こえず。僕自身は大太鼓の叩き方が控えめなくらいしか違いが分からなかった。
今回は夕方からということもあり盛況だった。舞を真似する子供もいた。演目と演目の間は坊中太鼓保存会と上愛甲囃子保存会が合同で囃子を奏して間をつないでいた。次々と太鼓を叩く人が入れ替わっていくのだけれど、太鼓を叩く人は爽快だったろうと思う。
帰りしな、女性に声をかけられる。twitterで写真を投稿している方ですか? と訊かれたのでそうだと答える。SNSがリアルで接点を生むとは思ってもみなかった。いつも楽しみにしているとのことで励みになる。しかし、どうやって僕を識別したのだろう。カメラマンは他に大勢いたし、僕の特徴というと、パナソニックGX7mk2+35-100㎜F2.8を首からぶら下げているくらいか。しかし、twitterでは文字数の制限から使用機材までは書いてないはずだし、以前別の会場でご一緒した方にも見えなかった。謎である。
驚いたのは町田の乗降人数の多さ。相武の国境において交通の要衝だということが分かった。愛甲石田は横浜から案外近い。ただ、小田急線の各駅停車は本厚木までである。愛甲石田駅はその一つ先。急行が停まるので不便な思いはしない。
<追記>
Facebookのアカウントを伝えて相互に承認したのだけど、その女性は学生さんで神楽について卒論を書いているとのことだった。僕自身は卒論を書いたことがなく、原稿用紙100枚くらいのボリュームに圧倒されてしまう。
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「パフォーマンス研究 : 演劇と文化人類学の出会うところ」(リチャード・シェクナー, 高橋雄一郎/訳, 人文書院, 1998)を読み終える。
パフォーマンスというと演劇におけるパフォーマンスなどが狭義の意味でそうである。一方で、広義にとると、我々は日常生活において家庭では家庭人として、職場では職業人としてパフォームしているということになり、パフォーマンスは極めて広範囲な領域をカバーするのである。
また、演劇においては上演だけをパフォーマンスとするのではなく、稽古、上演、上演後のクールダウンに至るまで全ての過程がパフォーマンスだとしている。
演技と儀式に関する論考。演技も通過儀礼も<私>から<私でないもの>へと円環的に変化していくという点で共通しているとする。ギリシャ悲劇を手本として発展してきた西洋演劇に対して東洋の演劇を研究することで新風を吹き込もうとしている。
演技の場合、円環的にまた元の<私>にクールダウンされるのであるが、通過儀礼の場合は子供から大人の成員として変化を遂げることとなる。また、西洋の演劇ではクール・ダウンの方法論が確立されていないとしている。
インドのラーマーヤナの劇を大きく取り上げていて、日本の能についても触れられている。ラーマーヤナの劇は数十日にもおよぶ長大な内容を複数の劇場で移動しながら上演するという形式で、数万人もの観客がそれに従って移動するのである。一種の巡礼に近い。西洋演劇は三幕構成法によって物語のうねりが作られているが、インドの劇はそれとは異なり複数の筋が絡まり合いながら進行していく。
インドのラーマーヤナの事例の次はジャワ島の影絵劇(ワヤン)についてだった。オランダの植民地支配が長く続いた土地で(オランダ人はジャワ人に広く教育を施さなかった)、オランダの影響を受けて古典への回帰が図られたが(規範的期待)、シェクナーはそれは白人から見た古典としてお墨付きを与えるもので、構築主義的観点から異論を述べている。
最後の章では、トランス状態に入ることを目的とした研究者のワークショップの事例が紹介される。その宗教の内面を信じるのではなく、あくまで体のポーズ等にトランス状態に入り易い姿勢があるとのこと。トランス状態に入ることで一種の神秘体験をすることになる。神秘体験を経ることでそれまでの自分とは異なる自分となる。ただし、ここではそれは宗教的信仰とは結び付かない。
巻末の訳者あとがきでパフォーマンス理論について触れられていた。以前は演劇というと大学の文学部で学ぶもので、それも戯曲の解釈が中心だったという。その限界を超えたところでパフォーマンス理論は発展してきた。また、英国のカルチュラル・スタディーズと結びつき、内容を深化させてきた。ジェンダー理論などもそうである。東洋の演劇には植民地主義による支配-被支配の問題があるとしている(ポストコロニアル)。故にその内容は体制転覆的でもあるという。いわば既存の価値観を破壊的に乗り越えるのである。そういう点では日本では受け入れ難いのかもしれない。僕が感じたところだと、1980年代頃から盛んになってきた構築主義が根底にある。そういう意味では何でもありなのである。
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◆はじめに
石見神楽の演目「恵比須」は奉納神楽で舞われるだけでなく、目出度い席でも舞われる演目だ。その恵比須だが、校訂石見神楽台本を読むと、口上があった。普段舞われるときは省略されていることが多いのではないかと思うが、結構なボリュームの口上がある。内容は出雲の美保神社を尋ねた大人(たいじん)が美保神社の宮人から当社の由緒を聞き、後半、恵比須神が顕現するというものである。このパターンは謡曲ではよくあるもののようだけれど、生憎と知識がないため、何ものというのかは分からない。
両谷社中・恵比須さま登場
両谷社中・これから釣をする恵比須さま
両谷社中・うまい棒を撒く恵比須さま
両谷社中・見事、鯛を釣り上げた恵比須さま
校訂石見神楽台本の注釈に、八調子の恵比須は出雲の事代主命で、六調子の恵比須は蛭子神であると出自が分かれていた。八調子に改正した時に変更されたのだろうが、なぜ事代主命に変更されたのだろう。出雲と石見、同じ山陰というところからくる親近感だろうか。
◆実演
2018年夏の帰省時に、浜田市の三宮神社で催されている夜神楽の定期公演で「恵比須」を見た。三隅の両谷社中のもの。両谷社中の恵比須さんは掌を口元に当ててウププと笑いを表現しているのが可愛らしかった。
◆恵比須(八調子)
「恵比須」の台本を口語訳してみた。
出掛「国を始めて急ぐには 国を始めて急ぐには 四方(よも)こそ静かに釣すなり」
(大人舞あり)
歌「八雲たつ出雲の国に隠(かく)り事知らせる神の宮ぞ貴き」
歌「隔り事知らしたまへる大神の御子にぞおはする美保の御神は」
歌「み吉野の御狩の時に現はれていたつきませし事代の神」
歌「美保の崎恵比須神の大前を拝(をろが)みまつる今日の嬉しさ」
大人(たいじん)「自分は未だ杵築の宮(出雲大社)に詣でたことがないので、この度思い立って大宮の参り、またよい序(ついで)なので、美保の御崎にも参詣しようと思います」
歌「はるばると参り来にける宮人に頼りてきかん神の伝へを」
大人「急いだので美保の御崎に着いたので、この処の宮人に頼って、当社のご神伝を承りたく思います。もしもし当社の宮人、お出でくだされ」
宮人「宮人宮人とお尋ねなさるのは、どこからどこへお通りのお方でしょう」
大人「私は始めて当社に参詣した旅人でございます。なにとぞ当社のご神伝を聞きたいので、詳しく物語りしてください」
宮人「当社にお仕えしておりますが、詳しい事は中々に語り尽くし難いものです。そうは言うものの、当社のご神伝をざっと申し述べますので、大人殿はそこにお座りになってお聞きくだされ」
大人「承って候」
宮人「そもそも当社に鎮座する恵比須の大神と申すのは津美波八重事代主(つみはやえことしろぬし)の命でございまして。杵築の大社に鎮座する大国主命の御子でございます。大国主命がこの豊葦原の中つ国をご支配なされた時、八重事代主の命は百八十もの神の尾と先となって天下の政(まつりごと)をお知らせになった功績(いさお)の尊い神でございます。また釣り漁(すなどり)をお好みになって、杵築の里からこの美保の御崎に通い、釣り猟の業(わざ)をお始めになりました。また商いの道をお教えになった。これによって猟人(れうど)商人(あきうど)の祖神と斎(いつき)祭られる次第を聞いております」
大人「左様でございますか」
宮人「さて大国主命は顕露事(あらはごと:現世に行われる全ての事)を皇孫の命(ニニギ命にお譲りになり、杵築の宮に鎮座して隠り世(幽界)の事をお執りになる、これによって事代主の命もともに、この美保の御崎に鎮座して隠り世の事をお執りになりました。この二柱の大神は顕(うつ)し世(現世)に功績をお立てになり、仕事を終えて隠り世(幽界)の事をお執りになるので、天の下の人民(おほみたから)の家毎に恵比須大黒と申して斎(いつ)き祭り、またこの神は商いの道をもお始めになった神なので、浦毎に猟恵比須の神と斎き、専ら尊敬し差し上げることでございます。さてこの大神は顕(うつ)し世(現世)にいらした時にこのように釣り漁(すなど)りをお好みになったので、隠り世(幽界)にお入りになって後、今も折々波風が静かな時は磯辺に現れ釣りをなさる事があって、顕(うつ)し世(現世)の人もお姿を拝(をろが)み祭る事があると聞きますので、大人殿は遥々ご参詣の事なので、当浦に二三日もご滞留なさって、釣りをなさるお姿を静々と拝みなされませ」
大人「畏まって候」
大人「嬉しいかな、いざさらば、この宮の辺に旅居(旅先で泊まること)して、神のお姿を拝みましょう」
掛歌「八雲たつ出雲の国や美保の崎恵比須の宮と人に知らせん」
(ここで恵比須現れ舞う。大人もついて舞う)
恵比須「我はこれ、大国主命の御子と生まれ出で、青人草(あをひとぐさ:人民)を加護しようと、この浦に止まったり」
大人「実に実に聞けば有難や。青人草を恵みます神の心の尊さよ」
(大人入って、恵比須の舞あり。鬼ばやし。)
◆恵比須(六調子)
「恵比須」の台本を口語訳してみた。
神主「国を始めて急ぐには四方こそ静かなるらん
このような者は雲州蘇我の里御歳の宮の神主でございます。私はこの程不思議な霊夢を蒙り(見た)ので西宮蛭児(兒)明神へ参ろうと思います」
「私は頼む。蓬が島へ急ぐには国々迫る春の日も光り和らぐ西の海蛭児の宮に着いたことだ」
「急いだので蛭児明神へ着きました。暫くここで休み里人をも近づけ当社の次第を詳しく尋ねようと思います。もしもし里人よ入りなさい」
「里人とお尋ねになったのはどの国からお出でになったお人でしょう」
神主「抑(そもそ)も自分は雲州御歳の社の神主で当社へ始めて参詣する者でございます。もし当社の宮人でいらっしゃるなら当社の次第とご神秘などを委しく物語ってください」
里「さようでございます。この所に住んでおり当社にお仕え申すけれども元来身分が貧しく学問を修める暇もなく委しいことは存じません、併せて古人の語り伝えた山の端をざっと申しますので先ずそなたも暫くそれにお座りになってください。そもそもこの西の宮蛭児明神と申すのは中殿は蛭児命東殿は大己貴命西伝は㕝(こと)八十神です。これを西の宮の三所と申します。倩(つらつ)ら惟(おもいみ)るに神代巻に曰く諾册(なぎなみ)の二尊が列国(くにつち)山河草木をお生みになった。次に一女三男の神をお生みになった。一女は天照大神次男月読命両神は御徳勝れ光りが甚だしいため天上(あめ)に上げなさった日神月神がこれである。三男蛭児四男素戔嗚尊なり。中でも蛭児命は三歳になるまで脚が立たず天の盤櫲樟(くす)船に乗せて風のままに放ち捨てたと見える。爰(ここ)の奥理を考えるにこの神は蛭の様で骨がない故に脚が立たない様に聞こえるけれども全くそのようではなく、惣じて神明(神)に限らず人民に至るまで智仁勇の三つの徳が無くては国家を治めることが難しい。そうしたところ、この神は物を恵むのに仁徳だけ厚く智勇の徳が疎く国家を治めることはできないとお思いになり海上の事をお授けになったと見えます。この御船は摂津国西の宮の浦に着き長くここに留まってある時は浦に出て釣を垂れ楽しんでいらっしゃる。今恵比須と申すのがこれである。この神は仁徳が厚く物をお恵みになる神なので、浦では浦恵比須、家内では棚ゑびす、商人は商ゑびすと所々に尊敬するのがこの謂れである。すなわちここへ蛭児命が降臨しようとする間にゆるゆると神のお姿を拝みなされ」
神主「嬉しいかな。いざさらば。この宮かげに旅居(旅で泊まる)して風も嘯く寅の刻神の告げをも待って見よう。神の告げをも待って見よう」
神「津の国やむしおの里や須麻の浦蛭児の宮と人に知らせよう。
我はこれ伊弉諾(いざなぎ)伊弉册(いざなみ)の子と生まれ蒼海原を譲られ青人草(人民)を加護しようとこの浦に止まったのである」
神主「謂れを聞くと有難い。人間万民様々に諸願成就なるでしょうか」
神「そもそも祈れ祈れただ正直正路(本道)を先として祈ればどうして聞かないことがあろうか」
神主「実に実に聞けば尊い和光の仁(めぐみ)ます鏡」
神「千早振(ちはやふる)神の遊びを今爰(ここ)に青海原の風もなく糸を打ちはえて魚を釣ろうよ」
舞
切「自現而(しこう)して神徳有難く、自現而して神徳有難く福禄(幸い)が普く西の海深い仁徳(みのり)は有明の月諸共に照り渡る、神徳福徳智恵の海願いも満ちる西の海恵比須の加護こそありがたい」
◆三葛神楽
匹見町の三葛神楽の恵比須では大黒が登場し、恵比須に別れを告げるという内容であるため、目出度い席で恵比須を舞うことはないとブログ「長州住保頼塩焼」にあった。
恵比須「そもそも我は是、出雲の国の杵築の宮に住む事代主命とは我が事である。この釣竿に釣り糸を携え目出度く鯛を釣り上げようと思う」
※鯛釣り舞い
恵比須「暫く岩陰に身を潜め、沖の白波に魚(うお)の寄せ来るのを待ち受けよう」
※大黒登場し、舞う
恵比須「そこに見えるのは父大黒ではありませんか」
大黒「父大黒である。それに見えるのは我が子きよ。事代主ではないか」
恵比須「あなたの被った頭巾はどのような」
大黒「某(それがし)の被った頭巾は人々の繁栄をとくべき頭巾である」
恵比寿「あなたの携えた槌(つち)はどのような」
大黒「某が携えた槌は宝を降らす槌である」
大黒「この豊葦原の中つ国を天の神に献上するか否か、ここまでやってきた」
恵比須「この豊葦原の中つ国を天の神に献上して然るべきと思います」
大黒「某が神役ならば華どり仕ろう」
恵比須「畏まって候」
※舞い
恵比須「さらば、これより、いそいそとお別れ申そう」
◆関東の大黒天
関東の里神楽では大黒天が福を撒くようである。「敬神愛国」という演目があるのだけど、奉納神楽鑑賞時は神社の祭り進行上の都合で上演されなかった。
番田神代神楽・御祝儀三舞・福銭を撒く大黒天
◆敬神愛国
2019年10月に五反田の雉子神社で萩原社中の「敬神愛国」を見た。恵比寿さまと大黒さまが登場する舞なので短い演目かと思ったら、もどきが大活躍して一時間を超える熱演となった。
舞台は美保関。まず恵比寿さまが登場し、もどきが釣り竿を渡す。このとき扇に乗せて釣り竿を渡すのだけど、扇を裏返してしまい、竿を落としてしまうという滑稽な場面である。次に大黒さまが登場し、大黒さまと恵比寿さまそれぞれに従者のもどきがついている。二人のもどきが顔を見合わせ、互いに笑い合う。大黒さまの従者のもどき、口が尖がっていると恵比寿さまに笑われ、口を切り落とせ命じられる。慌てて拒否するもどき。恵比寿さまと大黒さまがお酒を飲む。この際、お酒を運ぶもどきの舞がある。それから、恵比寿さまが釣りをしたいが海が荒れているから、海を鎮めよと命じられたもどきが幣を持って祈祷する。もどきが烏帽子を斜めに被ってしまう。この際も二人のもどきがいて、一人のもどきが幣にぶつかってしまう。それから海を鎮める舞を舞うのだけど、一人のもどきが舞を真似て踊る。ようやく海が静まったので、恵比寿さまが釣りをする。何回か失敗した後で鯛を釣り上げる。今度はもどき二人が鯛を調理する。鯛に串を刺して焼く。その串を抜いてもどきが串の味見をする。それから大黒さまと恵比寿さまに鯛を献上、鯛を食す。その後で大黒さまが福を撒く舞を舞う……で終了。
萩原社中・敬神愛国・恵比寿さま登場
萩原社中・敬神愛国・従者のもどきが釣り竿を渡す
萩原社中・敬神愛国・大黒さま登場
萩原社中・敬神愛国・互いの顔を見て笑い合うもどき二人
萩原社中・敬神愛国・恵比寿さまに拝謁した大黒さまの従者のもどき、口が尖がっていると笑われる
恵比寿さまに笑われ、首を傾げるもどき
萩原社中・敬神愛国・もどき、酒を用意する
萩原社中・敬神愛国・大黒さま、酒を飲む
萩原社中・敬神愛国・恵比寿さま、酒を飲む
萩原社中・敬神愛国・恵比寿さまに海を鎮めよと命じられたもどき、幣を振って祈祷する
萩原社中・敬神愛国・振った幣がもう一人のもどきにぶつかってしまう
萩原社中・敬神愛国・何しやがると仕返しされる
萩原社中・敬神愛国・もどき、今度は後ろに立つ
萩原社中・敬神愛国・もどき、今度は幣を自分の額にぶつけてしまう
萩原社中・敬神愛国・もどき、荒波を鎮める舞を舞う。もう一人が真似する
萩原社中・敬神愛国・もどき、今度は一人で舞う
萩原社中・敬神愛国・もどき、荒波が静まったと恵比寿さまに報告する
萩原社中・敬神愛国・釣り竿と鈴を持った恵比寿さま
萩原社中・敬神愛国・恵比寿さま、釣りをする
萩原社中・敬神愛国・恵比寿さま、鯛を釣る
萩原社中・敬神愛国・釣った鯛をもどきが調理する
萩原社中・敬神愛国・鯛に打った串を舐めて味見をするもどきを、もう一人のもどきがたしなめる
萩原社中・敬神愛国・焼き上がった鯛を大黒さまが食す
萩原社中・敬神愛国・今度は恵比寿さまが鯛を食す
萩原社中・敬神愛国・大黒さまが立ちあがり舞を舞う
萩原社中・敬神愛国・大黒さま、福を撒く
◆戸田小浜の衣毘須神社
JR戸田小浜駅から歩いて10分ほどの海岸に衣毘須神社がある。この辺りの日本海は美しい景色である。東山魁夷が日本画のモデルとしたことでも知られている。
戸田小浜・衣比須神社
衣比須神社から見た日本海
◆余談
子供の頃、恵比須さんにお菓子を貰った記憶が無いのである。神楽鑑賞といっても共演大会で見ていたからかもしれない。何回かは近所の神社に行っているはずなのだが、いずれも記憶にない。2018年夏に鑑賞した両谷社中の恵比須ではうまい棒をくれた。
◆参考文献
・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)pp.116-122, 193-195
・「三葛神楽 (島根県古代文化センター調査研究報告書 21) 」(島根県古代文化センター/編, 島根県古代文化センター, 2004)
・「第二回かながわのお神楽公演解説プログラム」(馬場綾音, 江戸里神楽公演学生実行委員会, 第二回かながわのお神楽公演実行委員会, 2019)
記事を転載→「広小路」
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国会図書館に行く。今回はダブル盛り蕎麦とおにぎりを食す。日本庶民文化史料集成は二冊両方とも借りて「複写」マークのない方を利用すればいいと後で気づく。
シェクナー「パフォーマンス研究」は141Pまで読む。演技と儀式に関する論考。ギリシャ悲劇を手本として発展してきた西洋演劇に対して東洋の演劇を研究することで新風を吹き込もうとしている。
演技も通過儀礼も<私>から<私でないもの>へと円環的に変化していくという点で共通しているとする。演技の場合、円環的にまた元の<私>にクールダウンされるのであるが、通過儀礼の場合は子供から大人の成員として変化を遂げることとなる。
インドのラーマーヤナの劇を大きく取り上げていて、日本の能についても触れられている。ラーマーヤナの劇は数十日にもおよぶ長大な内容を複数の劇場で移動しながら上演するという形式で、数万人もの観客がそれに従って移動するのである。西洋演劇は三幕構成法によって物語のうねりが作られているが、インドの劇はそれとは異なり複数の筋が絡まり合いながら進行していく。
この本、amazonではプレミアム価格となっている。
ちなみにラーマーヤナのヒロインをスィータとしているが、日本ではシータと表記されることが多いようである。「天空の城ラピュタ」のヒロイン・シータのネーミングもラーマーヤナからだろうか。
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相模原市の亀ヶ池八幡宮の番田神代神楽、亀山社中の奉納神楽を鑑賞する。「寿式三番叟」から「ご祝儀三舞(ざんまい)」へと移り、三番叟、大黒様、獅子舞が登場する。次は「天の岩戸」。「天の岩戸」を観るのは初めて。鑑賞歴が短いからだけど、初見の演目は得をした気になる。天児屋根命ではなく思金神が登場する。暗闇の中を探る様にして登場する。太玉命は座っているだけ。天鈿女命が舞う。手力男命、上手、下手、中央と三度挑戦して岩戸を開けるのに成功する。
亀山社中・三番叟
亀山社中・三番叟
亀山社中・大黒天
亀山社中・ご祝儀三舞・令和記念・おめでとうございます
亀山社中・天の岩戸・太玉命
亀山社中・天の岩戸・天鈿女命
亀山社中・天の岩戸・思金命
亀山社中・天の岩戸・天鈿女命の舞
亀山社中・天の岩戸・手力男命
亀山社中・天の岩戸・暗闇の中、天鈿女命に手引きされる手力男命
亀山社中・天の岩戸・岩戸に跳ね返される手力男命
亀山社中・天の岩戸・手力男命、小川の水を飲むと力がみなぎってくる
亀山社中・天の岩戸・岩戸をこじ開けようとする手力男命
亀山社中・天の岩戸・岩戸をこじ開けた手力男命
亀山社中・天の岩戸・天照大神
横浜の里神楽と比べると、大太鼓。締め太鼓、笛の構成は同じだが、相模原では横浜より強めに大太鼓を叩いているだろうか。
午後一時半頃現地に入ったのだけど、既に小学生の奉納剣道は終わっていた。隣のカメラマンに声を掛けられる。神楽を撮りに来たとのこと。奉納剣道の話をしたら、息子が中学で剣道を教えているとかで、そっちの方が良かったとのこと。ニコンのフルサイズカメラを使っていたので、どんなレンズを使っているのか訊く。80-400㎜とのこと。昼間はいいと思うが夜神楽だと二段くらい暗くなると思うのでどうなのだろうか。それはいいのだが、寿式三番叟~ご祝儀三舞が終わったら帰ってしまった。まだ続きがあると喉から出かけたけど声が出なかった。
今回は観客がいた。天の岩戸よりむしろ寿式三番叟の方が観客が多かった。寿式三番叟~ご祝儀三舞が終わった後で、時間が空いたので、その間に観客が帰ってしまったのだ。
天の岩戸の後で四ツ谷お囃子保存会のお囃子が上演される。白狐?が登場、その後獅子舞となる。「獅子がキ〇タマの虱を取っていますと」うら若い女性のアナウンスがあり、会場が笑いに包まれる。その後、ひょっとことおかめが登場する。ひょっとこが寝ている獅子を起こしてしまう。そこでカメラのバッテリーが切れてしまい。バッテリーを交換している間にひょっとことおかめさんは退場してしまっていた。
四ツ谷お囃子保存会・お囃子・白狐?
四ツ谷お囃子保存会・獅子舞・かんたまがきゆい
四ツ谷お囃子保存会・獅子舞・寝ている獅子にひょっとことおかめがちょっかいをかける
パナソニックGX7mk2+35-100㎜F2.8で撮影。
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◆はじめに
浦島太郎はよく知られた日本の昔話であるが、関東の里神楽(神代神楽)で神楽化されていた。2017年8月に横浜市天王町の橘樹神社で加藤社中による「浦島太郎」が上演された。関東の里神楽は基本黙劇であるが、マイクで解説しながら演じられた。
橘樹神社・加藤社中・浦島太郎、亀はモドキ
橘樹神社・加藤社中・乙姫
橘樹神社・加藤社中・浦島太郎と乙姫の連舞
橘樹神社・加藤社中・故郷に戻ってきた浦島太郎
橘樹神社・加藤社中・老人となった浦島太郎
橘樹神社・加藤社中・去っていく浦島太郎
◆巌谷小波の浦島太郎
巌谷小波が書いた浦島太郎が現在流通している浦島太郎の物語の基礎となるようだ。また、このストーリーは戦前の国定教科書にも採用され、浦島太郎の物語の定着に大きく貢献している。
浦島太郎はある日、子亀が子供たちにいじめられているのを見て、子亀を買い取って解放してやる。それからしばらく後、海に出て釣をしていた太郎の許に子亀がやってくる。子亀は先日のお礼に太郎を竜宮に連れて行くと言う。浦島太郎を乗せるほどに大きくなった亀は太郎を竜宮につれていく。竜宮では乙姫様が太郎を迎える。歓迎の宴がはじまった。見たこともない世界で太郎は大いに楽しんでいたが、三日ほどして、自分は父母を残してきたことを思い出す。乙姫に暇を申して帰る太郎だった。乙姫様は太郎に玉手箱を与える。決して開けてはならないと言い添えて。地上に戻った太郎だったが、既に七百年が経過していた。困り果てた太郎は、こんなときに玉手箱を開けたらどうにかなるかもしれないと思いつき、蓋を開ける。すると箱から煙が出て来て浦島太郎は老人となって、足腰も立たなくなってしまった。めでたしめでたし。
◆浦島太郎の文学史
三浦佑之「浦島太郎の文学史 恋愛小説の発生」(五柳書院)を読む。浦島太郎は民間伝承に起源を持つ口承文芸ではなく、中国の神仙小説に影響を受けた文学であるという内容の本。
我々が現在知る浦島太郎は巌谷小波の日本昔噺のものをベースにしていて、それが国定教科書に採用されることで普及したとのことである。
中世の御伽草子から巌谷小波の浦島太郎には、亀を解放してそのお礼に竜宮に招かれるという放生譚と報恩譚が見られるが、古代の浦島子にはそれは見られないとのことである。
◆論文
浦島太郎に関する論文を幾つか読んだ。浦島太郎の物語は大まかに分けて古代、中世、近代と分類される。風土記逸文や万葉集などの古代の浦嶋子の話では亀を助けるという報恩譚の要素は無く、中世の御伽草子になって見られるようになる。また、亀と浦島太郎の異種婚姻譚でもあるが、近代になって亀と乙姫の人格が分けられるようになって婚姻譚の要素は消滅したと指摘している。武笠俊一「玉匣から玉手箱へ―浦島伝承史考―」「人文論叢」は元々は婚姻破綻譚だったとしている。また、近代の浦島太郎は亀を助けて龍宮へ行くものの、結末として玉手箱を開けることによる老化という点で報恩譚ではなくアンチ報恩譚であると武笠は指摘している。
また、牧野陽子「海界(うなさか)の風景~ハーンとチェンバレン それぞれの浦島伝説~(一)~(三)」ではラフカディオ・ハーンが浦島太郎の物語を気に入っており、万葉集の歌を暗誦する程だったとしている。
◆ものぐさ精神分析
岸田秀「ものぐさ精神分析」では浦島太郎を、
浦島太郎が龍宮城で時間の流れを感じなかったのも同じ理由からで、すべてが満足されるユートピアには時間はない。龍宮城にも四季はあるが、春夏秋冬はそれぞれ部屋の四方の壁の窓に景色として同時に映っているのであって、季節から季節への時間の流れはない(蛇足ながらつけ加えると、海の底にある龍宮城は人間が何ら欲望の不満を知らなかった胎児のときにいた子宮のシンボルである。海は羊水である。浦島を乗せる亀は浦島自身のペニスを表している。その頭がペニスの亀頭に似てい、陸へやってきてまた海に戻る亀は子宮外にあって、ときおり子宮へ、少なくとも子宮への通路たる膣へ戻るペニスのシンボルでなくて何であろうか)浦島が時間を知るのは、乙姫の願いを振り切って現実の世界に帰り、その言いつけにそむいて玉手箱をあけたときである(玉手箱は乙姫の性器のシンボルである)。浦島は、もはや龍宮城にいないのに龍宮城の乙姫を性的に求めたのであった。それは挫折せざるを得ない欲望であり、挫折せざるを得ない欲望をもったとき、浦島は時間の中に組みこまれたのであった。浦島太郎の物語は、性的欲望に仮託された子宮復帰願望の物語であり、われわれが時間をもったのは二度とふたたび帰れない母の子宮に帰りたいというむなしい願望を断ち切れない存在、いいかえれば、ゆきて返らぬ昔の夢をいつまでも追いつづける存在だからであることを暗示している。ちなみに言えば、確かに見知った家や道はあるのだが、誰ひとり知る人のいない、なじめない土地で、玉手箱をあけて老い果てた浦島の姿は、母の子宮内の楽園から軽率にもこの世にとび出してきて、確かに現実の世界ではあるのだが、何だか変だ、どこか間違っていると居心地わるく場違いな感じを抱きながら老いてゆくわれわれの姿であり、どうして乙姫に乞われるままに龍宮城にとどまらなかったかという浦島の嘆きは、どうして何の不安もなかった子宮内の生活を、ものを思わなかった幼い日々をあとに残してきてしまったかというわれわれの嘆きである。(197-198P)
としている。龍宮は子宮であり、浦島太郎の物語は子宮へ回帰する物語の暗喩なのであるとしている。
◆リュティの昔話論
マックス・リュティ「ヨーロッパの昔話 その形と本質」では、
伝説のなかでだれかが百年、あるいはそれ以上の年月のあいだ眠っていたとすると、あるいは地下の国で過ごしたりすると、人間界へもどってくるときにこっぱみじんに砕け散ってしまったり、しわだらけにちぢまって非常な老人または老婆となってしまう。しかし、それは彼が人間界から離れた時間に気づかされてはじめて起きることである。すなわち、そのときになってはじめて、経過した時間全体をいちどきに意識し、かのまったくべつな状態、つまり人間の法則以外のものが支配しているあの状態のなかではけっして体験することのできなかったものを、精神的にも肉体的にも、一瞬のうちに体験するのである――すなわち時間の力を。(56P)
このような例を挙げると、日本の昔話では浦島太郎が例として直ぐに思いつく。浦島太郎の場合は玉手箱が時間をとどめる働きをしているけれど、決して開けるなという禁止を破ることで、地上で経過した時間が一気に浦島太郎に襲い掛かる。日本の昔話は外国の伝説に近いと言われることがあるようだけれども、その一例がここに記されている。
◆御伽草子
「御伽草子」の「浦嶋太郎」を直訳調ながら現代語訳してみた。
浦嶋太郎
昔、丹後の国に浦嶋というものがいて、その子に浦嶋太郎と申して、年齢は二十四五の男子がいた。海の魚類を獲るのに明け暮れ、父母を養っていたが、ある日、することもなくて退屈していたところに釣をしようと言って外出した。浦々島々、入江入江、到らないところはなく、釣をして貝を拾い、みるめ(海藻)を刈るなどしているところに、ゑしまが磯という所で亀を一匹つり上げた。浦嶋太郎はこの亀に言うに「お前は生ある物の中でも鶴は千年、亀は万年といって長命のものだ。ただちにここで命を断とうとする事は気の毒なので助ける。常にこの恩を思い出すべし」と言って、この亀を元の海に返した。
こうして浦嶋太郎はその日は(日が)暮れて帰った。また次の日浦の方へ出て釣をしようと思い見たところ、遥かな海上に小舟が一艘浮かんでいた。怪しんで休んで見たところ、次第に太郎が立ったところに着いた。浦嶋太郎が「あなたはどのような人でいらっしゃるのか、このような恐ろしい海上にただ一人乗って入ったのでしょう」と申したところ、女房は「ある所へ都合よく出る船がありましたので(それに乗ったところ)折から波風が荒く、人が大勢海の中へ跳ね入りましたところを、情け深い人が自分をこのはしけ舟に乗せて放したのです。悲しく思い鬼の島へ行くのではと行くべき方向も分からないその時に、ただ今人に逢い参ったのです。この世のものではないご縁でこそあります。なので虎も狼も人を縁としたのです」といってさめざめと泣いた。浦嶋太郎もさすがに岩や木(木石)ではないので、可哀想と思って綱をとって引き寄せた。さて、女房が申すには「ああ、我らを本国へ送ってくださいませ。ここで棄てられましたら私はどこへ行きどうなりましょう。捨てられましたら、海上でのもの思いも同じことです」とかき口説きさめざめと泣いたので、浦嶋太郎も可哀想と思い、同じ船に乗り沖の方へ漕ぎ出した。かの女房の教えに従って、はるか十日あまりの船路を送り、ふるさとに着いた。
さて、船から上がり、どのような所だろうと思ったところ、銀(しろがね)の築地を建てて、金(こがね)の瓦を並べて門を建て、どんな(素晴らしい)天上の住いでも、これにはどうして勝るであろうか。この女房の住処は言葉に及ばず、中々(とても)申し尽くすことができない。さて、女房は「一本の樹の陰に宿り、同じ河の流れを汲むことも、全てこれ他生の縁です。ましてや遥かの波路を遥々と送ってくださった事は偏に他生の縁ですので、何の苦しいことがありましょう。私は夫婦の契りを成して、同じところで明るく(楽しく)暮らしましょう」と細々と語った。浦嶋太郎は「ともかく仰せのとおりに従いましょう」と申した。さて偕老同穴(生きては共に老い、死しては同じ穴に葬られる、夫婦が仲むつまじく連れそうこと)の語らいも浅くなく(深く)、天にあれば比翼の鳥、地にあれば連理の枝となろうと、互いに鴛鴦(ゑんわう:オシドリ)の契りは深く、楽しく暮らした。
さて、女房は「これは龍宮城という所です。この所に四方に四季の草木を現わしました。入りなさいませ、見せて差し上げましょう」と申して、連れて出た。まず東の戸を開けてみれば、春の景色と思えて、梅や桜が咲き乱れ、柳の糸も春風に(なびき)、なびく霞(かすみ)の内からも、鶯の(鳴く声の)音の軒近く、いずれの梢も花が咲いていた。南の正面を見れば、夏の景色と見えて、春を隔てた垣根には卯の花か、まず咲いていた。池の蓮は露をかけて、汀(みぎは)は涼しいさざ波で、水鳥が数多遊んでいた。木々の梢も茂りつつ、空に鳴く蝉の声、夕立ちが過ぎた雲間から声たて通るホトトギスが鳴いて夏と知らせた。西は秋と見えて四方の梢も紅葉となって、籬(ませ)(竹で作った目の粗い垣)の内にある白菊や霧がたちこめる野辺の末、萩が露を分け分けて、声がものすごい鹿の音に、秋だと知られた。さてまた北を眺めたところ冬の景色と見えて、四方の梢も冬枯れて、枯葉に置いた初霜や山々やただ白妙(白い色)の雪に埋もれる谷の戸に、心細くも炭竈(すみがま)の煙に現れる賤しい仕業(が立つのによって炭焼きの業をしていることがはっきり知られる)の景色かな。
かくて面白い事と共に心を慰め、栄華に誇り、明るく(楽しく)暮らし、年月を経る程に三年に程なくなった。浦嶋太郎は「自分に三十日の暇(いとま)を与えてください。故郷の父母を見捨てて軽々しく出て三年を送りましたので、父母の事を気がかりに思いますので、合って安心して参上しましょう」と申したところ、女房は「三年の程は鴛鴦(ゑんわう:オシドリ)の衾(ふすま)の下に比翼の契りをなして、片時でさえ見えさせませんでしたので、こうだろうか、ああだろうかと心を揉んでいましたのに、今別れましたら、またいつの世にか逢えましょうか。(夫婦は)二世の縁と申すので、たとえこの世で夢幻の契りであっても、必ず来世では、一つの蓮の縁と生まれてください」とさめざめと泣いた。また、女房が「今は何をか包みましょうか。自分はこの龍宮城の亀ですが、ゑしま磯であなたに命を助けられました。その御恩に報いようとして、このように夫婦となりました。またこれは自分の形見に御覧なさい」と申して左の脇から美しい箱を一つ取り出して「決してこの箱を開けてはなりません」と言って渡した。會者定離(ゑしやぢやうり:会う者は必ず離れる)の習いと言って会う者には必ず分かれるとは知りながら、留め難くてこうなのか、
日数(かず)へてかさねし夜半の旅衣たち別れつゝいつかきて見ん
浦嶋返歌
別れ行(ゆ)くうはの空なるから衣ちぎり深くは又もきて見ん
さて、浦嶋太郎は互いに名残を惜しみつつ、こうしていつまでも居るべきことでないから、形見の箱を持って、故郷へと帰った。忘れもしない来し方行く末の事を思い続けて遥かの波路を替えるといって、浦島太郎はこのように、
かりそめに契りし人のおもかげを忘れもやらぬ身をいかゞせん
さて浦嶋は故郷へ帰ってみたところ、人の跡は絶え果てて、虎が伏す野辺となっていた。浦嶋はこれを見て、これはどうした事だと思い、ある傍らを見ると、柴の庵があるので立ち寄って「もの言いましょう」と言ったところ、内から八十ばかりの翁が出て来て「誰でいらっしゃるか」と申したので、浦嶋は「この所に浦嶋の行方は分からないか」と申したところ、翁は「いかなる人でしたら、浦嶋の行方を尋ねるのでしょう。不思議です。その浦嶋とやらは、はや七百年以前の事と申し伝えています」と申したので、太郎は大いに驚いて、これはいかなる事かと、その謂れをありのままに語ったところ、翁も不思議な思いで涙を流して「あれに見える古い塚、古い石塔がその人の墓所と申し伝えております」と指をさして教えた。太郎は泣く泣く草深い露の多い野辺をかき分け、古い塚に参り、涙をながし、このように
かりそめに出(で)にし跡を来て見れば虎伏す野辺となるぞ悲しき
さて浦嶋太郎は一本の松の木陰に立ち寄り、呆れ果てていた。太郎が思うに、亀が与えた形見の箱を決して開けるなと言ったけれども、今はどうしようか(仕方がない)開けてみよう、見るのが悔しかった。この箱を開けてみれば、中から紫の雲が三筋上った。これを見たところ、二十四五の年齢も忽ち変わり果ててしまった。
さて浦嶋は鶴になって虚空に飛び上がった。そもそもこの浦嶋の年を亀が計らいとして箱の中に畳み入れたものだ。そうであるから七百年の年齢を保ったのだ。明けてみるなと言ったのを開けてみるのこそつまらないことであった。
君にあふ夜(よ)は浦嶋が玉手箱(たまてばこ)あけてくやしきわが涙かな
と歌にも詠まれている。生(命)ある物はいずれも情けを知らないということはない。いわんや人間の身として恩を見て恩を知らないのは木石に例える。情け深い夫婦は二世の契りと申すが、まことに有難い事かな。浦島は鶴になり、蓬莱の山に遊んだ。亀は甲羅に三せきの祝いを備え、万(よろず)代を経るのだ。さてこそ目出度い様(ためし)に鶴亀こそを申すのだ。ただ人には情けあれ、情けのある人は行く末目出度き次第を申し伝える。その後浦嶋太郎は丹後の国に浦嶋の明神と顕れ、衆生を済度した。亀も同じ所に神と顕れ夫婦の明神となった。めでいたい例(ためし)だ。
◆風土記
丹後国風土記逸文が浦島伝説の古い出典の一つである。
雄略天皇の御代、筒川の村に住む嶼子は魚釣りをしていたけれど一匹も釣れなかった。五色の亀を釣った。不思議だと思って寝たところ、亀は美貌の乙女となった。どうして来たのか問うと、天上の仙界から来た。親しく話をしたいと答えた。乙女は常世の国まで嶼子に舟を漕がせた。現世と異界の間で嶼子を眠らせ、そして常世の世界へとたどり着いた。見事な宮殿があった。
進んでいくと大きな邸宅の門の前に来た。七人の童子(スバル星)と八人の童子(アメフリ星)が嶼子を亀比売の夫だといった。乙女の両親が出て来て挨拶を交わし、楽しい宴がはじまった。宴が終わると、嶼子と乙女は夫婦の交わりをした。
嶼子は故郷を忘れ常世の世界で三年ほどを過ごした。俄かに故郷を偲ぶ心が湧いてきた。乙女がこの頃様子がおかしいと聞くと、嶼子は故郷が恋しくなったといった。乙女は悲しんだ。
乙女と別れ、帰り道についた嶼子だった。乙女は玉の様な櫛を入れる箱を渡し、再会したいなら箱を決して開けてはならないと告げた。現世と異界の間で眠り、たちまち故郷に戻ってきた。
故郷に帰ると嶼子が出てから既に三百年が経過した。困り果てた嶼子は思わず箱を開けてしまった。香しい煙が空をめがけて立ち上った。それで嶼子は乙女と二度と再会できないと悟った。
……玉手箱を開けるモチーフは既に描写されているが、その代償として急激に歳をとってしまうという件は無い。
風土記の浦島伝説を直訳調ながら現代語訳してみた。
筒川(つつかは)の嶼子(しまこ)(水江[みづのえ]の浦の嶼子)
(丹後の国の風土記に曰う)
与謝(よさ)の郡(こほり)
日置(ひおき)の里
この里に筒川の村がある。ここの人民で日下(※合字)部(くさかべ)の首(おびと)らの先祖で名を筒川の嶼子という人がいた。人となり、容貌は優れ、雅なことは類が無かった。これが所謂水江の浦の嶼子という人である。これは旧宰(もとつみこともち:元の国守)である伊預部(いよべ)の馬養(うまかい)の連(むらじ)が記したことに矛盾や齟齬をきたすところはない。そこで、所以の概ねを述べようとする。
長谷(はつせ)の朝倉の宮で天(あめ)の下を治める(雄略)天皇の御代に嶼子は独り小さな舟に乗り海中で浮かび出て釣をした。三日三夜を経たけれども魚は一匹も得られなかった。たちまち五色の亀を得た(釣った)。心に不思議だと思い、舟の中に置きただちに寝たところ、たちまち婦人(をみな)となった。その容貌は麗しく、また並ぶ人はいなかった。
嶼子は「実家は遥かに遠く、海面には人もいないのに、どのようにして来たのか」と問うた。女娘(をとめ:乙女)がほほ笑んで「雅な男が独り海に浮かんでいた。近く語ろうという思いに勝てず風と雲と共に来ました」と答えた。嶼子はまた「風と雲はどこから来たのか」と問うた。乙女は「天の上の仙人です。願わくば、疑わないで。愛しみの語らいをどうぞ」と答えた。ここで嶼子は神の乙女と知り、恐れ疑う心を静めた。乙女は語って曰く「私の心は天地と共に終わり、日月と共に極まらんとすることです。ただ、あなたはどうですか。否か諾か心を先ず先にはっきりさせなさい」と言う。嶼子は答えて「また言うことはありません。何を怠りましょう」と言った。乙女は曰く「あなたは棹をさしなさい(漕ぎなさい)蓬山(常世の国)に行きましょう」と言った。嶼子は従って行った。乙女は(嶼子を)眠らせて(この世と異界との間で目をつぶらせた)、ただちに不意の間に(一瞬で)海中の雄大な島に至った。その土は玉を敷いた様であった。高殿(うてな)は明るく映え、楼堂は照り輝いていた。目に見えず、耳も聞こえなかった(見たことも聞いたこともなかった)。
手を携えて行くと、ある大きな宅の門に到った。乙女は「あなたはしばらくここで立っていなさい」と言って門を開いて中に入った。ただちに七人の童子が来て互いに語って「これは亀比売(ひめ)の夫だ」と言った。また八人の童子が来て「これは亀比売の夫だ」と言った。ここで乙女の名を亀比売と知った。ただちに乙女が出て来た。嶼子は童子たちの事を語った。乙女は「その七人の童子はスバル星です。この八人の童子はアメフリ星です。怪しまないように」と言った。即座に前に立って導き内に進み入れた。乙女の父母が諸共に迎えて、拝んで(挨拶を交わして)座についた。ここに人間と仙都(常世)の違いを説明し、人と神の偶然の出会いの親しい交わりを語った。ただちに百もの品々の美味を勧めた。兄弟姉妹たちは盃を捧げて酌み交わした。隣の里の幼女たちも紅顔で交歓した。仙界の歌は遥かに響き、神の舞はくねりながら踊った(なまめかしかった)それ、宴の様は人の世に万倍も(格段に)勝っていた。ここに(仙界では)日の暮れるのを知らなかった(分からなかった)。ただ、黄昏時に諸々の仙人たちが次第に退出し散らし、則ち乙女独りが留まった。肩を並べ袖を合わせて夫婦の交わりをした。
ときに嶼子は古里を忘れ仙都(常世)に遊び、既に三年ほど経ていた。にわかに国を偲ぶ心を起こし、独り両親に恋い焦がれた。そこで、悲しみがしきりに起こり、嘆きは日に日に増した。乙女が問うて「この頃私の夫の容貌を見ますと世の常と異なっています。願わくば、その思いを聞かせてください」と言った。答えて曰く「古(いにしえ)の人が言ったことに、凡人は故郷を偲び、死んだ狐は山を頭とする(山に頭を向ける)と言います。私は虚構の話だと思っていましたが、今はこれが真実だと知りました」と言った。乙女は問うて曰く「あなたは帰ろうとするのですか」と言った。嶼子は答えて曰く「私は近頃、父母と離れて遠く神仙の世界に入りました。人恋しさに忍びず(耐え切れず)、ただちに戯言(あさはかなこと)を申します(口走ってしまいました)。願わくば、しばし元の故郷へ帰って父母に会いたいと望むのです」と言った。乙女は涙をぬぐい嘆いて曰く「心は金や石に等しく共に万歳(よろずとせ:永遠)を契ったのに、どうして故郷を顧みて(仙界を)一時に捨てようとするのですか」と言った。ただちに携わって徘徊し(思案に暮れ)、語らい悲しんだ。
遂に袂を翻して別れ、別れの路に就こうとした。ここに乙女の父母や親族はただ別れを悲しんで送った。乙女は玉の様な櫛を入れる箱を授け、語って曰く「君は遂に私を捨てずに帰り尋ねようと思うならば、櫛を入れる箱を堅くして、ゆめゆめ開き見てはなりません」と言った。ただちに互いに分かれて舟に乗り、ただちに眠らせ、忽ちに元の故郷の筒川郷に到った。乃ち村里は目を見張るに、人も物も遷り変わり、依る次第もなかった(とりつく島もなかった)。
ここで里の人に問うて曰く「水江の浦の嶼子の家族は今どこにいるのですか」と言った。里の人は答えて「あなたはどこの人ですか。昔の人を訪ねたのですか。私が古老たちに聞くに『前の時代に水江の浦の嶼子という人がいた。独り海に遊んで再び帰って来なかった』と言い、今三百年を経たところ、どうして俄かにこれを問うのですか(急にこんな話を持ち出すのですか)」と言った。ただちに空虚(虚ろ)な心を抱いて、故郷を巡った(探し回った)けれども、一人の肉親(片親)にも会わなかった。既にひと月を経た。そこで玉の様な櫛を入れる箱をかき撫でて神の乙女を愛でた。ここに嶼子は先の約束を忘れ急に(発作的に)箱を開けた。乃ち忽ちに良き蘭の香りが風と雲と共に翻って蒼天に飛んでいった。嶼子はただちに約束を違え、帰ってまた会う事が難しいのを知った(悟った)。首を廻らせて佇み、涙にむせんで徘徊した。
ここに涙をぬぐって歌って曰く
常世辺(とこよべ)に 雲立ち渡る 水江(みずのえ)の 浦嶋の子が 言(こと)もち渡る
神の乙女が遥かに飛び良い声で歌って曰く
倭辺(やまとべ)に 風吹き上げて 雲離れ 退(そ)きをりともよ 我(わ)を忘らすな
嶼子がまた恋しさに勝てず歌って曰く
子等(こら)に恋ひ 朝戸(あさと)を開き 我が居れば 常世(とこよ)の浜の 波の音(と)聞こゆ
後の時代の人が追加で歌って曰く
水江の 浦嶋の子が 玉匣(たまくしげ)開けずありせば またも会はましを
常世辺に 雲立ち渡る 多由女 雲は継がめど 我そかなしき
◆日本書紀
雄略天皇の時代、二十二年に浦島子の記事が掲載されている。
秋七月に、丹波国余社郡(よぎのこほり)管川(つつかは)の人水江(みづのえの)浦島子(うらのしまこ)が舟に乗って釣をし、とうとう大亀を得た。たちまち乙女に成った。ここで浦島子は愛でて妻にし、互いに従って海に入り、蓬莱山(とこよのくに)に到り、仙人たちに巡り合う。この話は別巻にあり。
◆万葉集
万葉集にも浦島子を詠んだ歌がある。
水江(みづのえ)の浦島子(うらのしまこ)を詠む一首 并せて短歌
春の日の 霞(かす)める時に 墨吉(すみのえ)の 岸に出(い)で居て 釣舟の とをらふ見れば 古(いにしえ)の ことそ思ほゆる 水江の 浦島子が 鰹(かつを)釣り 鯛(たい)釣り誇り 七日(なぬか)まで 家にも来ずて 海界(うなさか)を 過ぎて漕ぎ行(ゆ)くに 海神(わたつみ)の 神の娘子(をとめ)に たまさかに い漕ぎ向かひ 相とぶらひ 言(こと)成りしかば かき結び 常世(とこよ)に至り 海神の 神の宮の 内の重(へ)の 妙(たへ)なる殿に 携はり 二人入り居て 老いもせず 死にもせずして 永き世に ありけるものを 世の中の 愚か人の 我妹子(わぎもこ)に 告(の)りて語らく しましくは 家に帰りて 父母に 事も語らひ 明日のごと 我は来なむと 言ひければ 妹(いも)が言へらく 常世辺(とこよへ)に また帰り来て 今のごと 逢はむとならば この櫛笥(くしげ) 開くなゆめと そこらくに 堅めしことを 墨吉に 帰り来りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて 怪しみと そこに思はく 家ゆ出でて 三年(みとせ)の間(あひだ)に 垣もなく 家も失せめやと この箱を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉櫛笥(たまくしげ) 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り 臥(こ)いまろび 足ずりしつつ たちまちに 心消失(けう)せぬ 若かりし 肌も皺(しわ)みぬ 黒かりし 髪も白けぬ ゆなゆなは 息さへ絶えて 後遂に 命死にける 水江の 浦島子が 家所(いへどころ)見ゆ
反歌
常世辺に 住むべきものを 剣太刀 汝(な)が心から おそやこの君
◆余談
関東の里神楽を観たのは橘樹神社の浦島太郎が初めてだったのだけど、昔話が題材でもいいんだと思わされた。関東の里神楽では他に桃太郎や因幡の白兎なども演目化されているようだ。
浦島太郎は昔話なので、それほど難しくはないかなと考えていたのだけど、古典の様々な文献で語られており、また浦島太郎に関する論文もかなりあったので、案外手間取った。
◆参考文献
・「御伽草子」(市古貞次/校注, 岩波書店, 1958)pp.337-345
・「風土記 新編日本古典文学全集5」(秋本吉郎/校注・訳, 小学館, 1997)pp.472-483
・「日本書紀2 新編日本古典文学全集3」(小島憲之, 直木孝次郎, 西宮一民, 蔵中進, 毛利正守/校注・訳, 小学館, 1996)p.207
・「萬葉集2 新編日本古典文学全集7」(小島憲之, 木下正俊, 東野治之/校注・訳, 小学館, 1995)pp.414-417
・「日本民族伝説全集」第九巻(藤澤衛彦, 河出書房, 1956)pp.163-174
・「柳田国男全集」第二十一巻(柳田国男, 筑摩書房, 1997)※「海上の道」所収。「海神宮考」pp.416-451
・「日本昔噺」第三冊(巌谷小波/編著, 臨川書店, 1981)
・「浦島太郎の文学史 恋愛小説の発生」(三浦佑之, 五柳書院, 1989)
・「ものぐさ精神分析」(岸田秀, 青土社, 1977)pp.194-202
・牧野陽子「海界(うなさか)の風景~ハーンとチェンバレン それぞれの浦島伝説~(一)」「成城大学経済研究」第191号(成城大学, 2011)pp.1-23
・牧野陽子「海界の風景~ハーンとチェンバレン それぞれの浦島伝説~(二)」「成城大学経済研究」第192号(成城大学, 2011)pp.1-30
・牧野陽子「海界の風景~ハーンとチェンバレン それぞれの浦島伝説~(三)」「成城大学経済研究」第193号(成城大学, 2011)pp.1-31
・坂田千鶴子「龍王の娘たち」「東邦学誌」第32巻第1号(東邦学園大学, 東邦学園短期大学, 2003)pp.71-78
・武笠俊一「玉匣から玉手箱へ―浦島伝承史考―」「人文論叢 三重大学人文学部文化学科研究紀要」第24号(三重大学人文学部, 2007)pp.75-84
・秋谷治「浦島太郎――怪婚譚の流れ」「国文学:解釈と教材の研究」22(16)(320)(學燈社, 1977)pp.102-103
・日高昭二『「お伽草紙」論――心性としてのテクスト』「国文学:解釈と教材の研究」36(4)525(學燈社, 1991)pp.76-83
・下澤清子「浦島説話の変遷」「奈良教育大学国文:研究と教育(4)」(奈良教育大学国文学会/編, 1980)pp.27-37
・「ヨーロッパの昔話 その形と本質」(マックス・リュティ, 岩波書店, 2017)
・「群書類従・第九輯 文筆部・消息部)』(塙保己一/編, 続群書類従完成会, 1932)※巻第百三十五 続浦嶋子伝記 pp.327-333
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国会図書館に行く。今回はダブル盛り蕎麦を食す。シェクナー「パフォーマンス研究」を閲覧するが、36P辺りで止まってしまった。パフォーマンス理論はどうも合わないようだ。日本三代実録が書棚にあったので手に取る。読んだのでなく字面を追っただけだが、ざっと目を通す。残念ながら若狭部豊見に関する記述は一つしか見つけられなかった。とすると、出典はなんなのだろう。
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東急池上線の洗足池駅から徒歩5分の千束八幡神社で催された岡部社中の奉納神楽を鑑賞した。「巫女舞?」「御禊(みそぎ)三番叟」「稲荷山(千箭[ちのり]の悪鬼退治)」「伊吹山(伊吹山の白猪退治の物語)」「山神(清めの舞)」が上演された。「日代(ひよ)の宮(日本武尊の物語」はスケジュールの都合で上演されなかった。
岡部社中・巫女舞?
岡部社中・御禊・イザナギ命
岡部社中・御禊・底筒男命
岡部社中・三番叟
岡部社中・稲荷山
岡部社中・稲荷山
岡部社中・稲荷山・もどき
岡部社中・伊吹山・もどきの酒の舞
岡部社中・伊吹山・草薙剣を渡すヤマトタケル命
岡部社中・伊吹山・白猪に苦戦するヤマトタケル命
岡部社中・伊吹山・白鳥となったヤマトタケル命
岡部社中・山神
千束八幡神社・奉納神楽・当日の観客
11時半頃現地に入ったのだが、奉納神楽は午後2時からとのことで暇をつぶさなくてはならなくなった。12時頃に巫女舞(着面なので女性が演じているのでないかもしれないが)が演じられたのでそれを鑑賞して、池周辺をぶらぶらする。上演途中で雨が降り傘を差したのだが、傘に泥がついてしまい、それがカメラのレンズまで汚した。どうやってクリーニングしよう。屋根付きの休憩所があったので、疲労はなかった。午後1時45分頃から「御禊」と「稲荷山」が上演された。
御禊は社中の人手が足りないということで翁三柱が登場するのでなく、黒尉(底筒男命)だけの登場となった。稲荷山は悪鬼退治の演目と解説しているが、鬼自体は登場しなかった。黙劇でマイクによる解説はないから細かいストーリーは分からなかった。それから神輿の宮入りで時間が経って夕方となり、台風が近いのと雨がポツポツと降ってきたので残るべきか帰るべきか迷う。結局最後まで観て帰る。「伊吹山」は後半シリアスな展開となるが、前半はモドキの舞があってむしろ明るい内容だった。
途中で、締め太鼓を担当している方(先日の水天宮平沼神社の横越社中で締め太鼓を担当された方)に呼び止められて少しだけ話をした。多摩川の東と西とではお囃子が違うのだそうだ。太鼓は同じだけど、笛が異なるとのこと。
関東の里神楽のお約束も少しだけ分かってきた。お酒を飲むパートではもどきかおかめさんの酒の舞があるのだ。
終演は19時半頃になった。まだ雨脚もそれほど強くなく、鉄道も減便しているものの動いていたので無事自宅まで帰りつく。今回は観客用の椅子がなくて終盤は脚が痛かった。
観客はまずまずいた。子供も見ていた。しかし、関東の里神楽も面白いけれど、演目と演目の間に一時間くらい掛かってしまうのが難点である。それで観客が帰ってしまうのだ。着付けに時間が掛かるらしい。石見神楽だと切れ目なく上演するスタイルなのだけど、それは団員の人数に余裕があってのことだろう。
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◆はじめに
六調子石見神楽の演目「佐陀」は肥後国阿蘇の宮の神主が出雲国の佐陀大社を参詣、神社の由緒を聞き、後半で龍神が顕現して龍蛇を捧げるという内容である。謡曲にはご当地紹介ものとでもいうのか、名所旧跡に詣でた者の前に神仏が顕現するというパターンのものがあり、目出度い内容となっている。調べてみると神能(かみのう)とある。ここでは石見神楽の「佐陀」と謡曲「大社」をその事例として比較してみた。
◆佐陀
校訂石見神楽台本の「佐陀」を口語訳してみた。
ツレ「国を始めて立ち出る雲も長閑(のどけ)き気色かな」
詞「かような者は九州肥後国阿蘇の宮の神主でございます。自分(某)は未だ出雲を見ていませんので、この度思いたち出雲へと志しました。またよい次いでなので同国佐陀の社へも参詣しようと思います」
ツレ「旅の衣はなお立ち重ね行く道の舟路遥かに石見潟暫し休む所もなく、杵築(きづき)御崎も打ち過ぎて佐陀の社に着いたことです」
詞「お急ぎになったのではや佐陀の社に着きました。ここに暫く休んで宮人をも近づけ当社のご神秘を委しく尋ねようと思います」
舞
シテ「千剣振る神代の昔現れて佐陀の社と人に知らせましょう」
舞
ツレ「ここにいる老人に尋ねるべきことがございます」
シテ「老人というのはこの人の事か何事ですか」
ツレ「自分(某)は九州肥後国から当社へ初めて参詣した者でございます。もし宮人でいらっしゃるならば当社のご神秘をお聞かせくださいな」
シテ「それ当社のご神秘と言うのは住吉の祭来神位の事でございますが、抑(そもそ)も天上にあっては日神月神、地においては佐陀三社の大神と申して天下を守り国土を守護していらします、第一伊弉諾(イザナギ)伊弉册(イザナミ)尊左は素戔嗚(すさのお)尊右は瓊々杵(ににぎ)尊これを佐陀三社と申し差し上げております。また加賀の久計止という所があり此處(ここ)で天照大神がお生まれになった云い伝え即ちその時お呑みになったお乳の流れと申す清い水があり、これを汲み上げて呑む人は老いず死せず不老不死の薬となる、また爰(ここ)に常夏の橘という物があり、これらをこそご神秘と申すのです」
ツレ「とてもの事で神無月の事を物語ってください」
シテ「あら事々しい(おおげさな)お尋ねですな。餘国(余国:他の国)では神無月と申すけれども当国では神有月と申します、これこそ深い理(ことわり)があり密かに語り申しましょうと云い捨てて(内はやし)やがて老人は鳥居の方に立ち紛れ姿は見えなくなってしまいました」
ツレ「嬉しいかな、いざさらばこの宮かげに旅居(旅で泊まること)して、風もうそ吹く寅の刻神の告げをも待って見ましょう」
内はやし「俄かに御殿が振動して玉の簾の内からの金色の光さす神体ここまで顕れたことです」
中老「外玉垣や外玉垣や現れ出た神の姿これこそ千代の初めかな」
内はやし「不思議かな黒雲が覆い掛かり俄かに雨風騒ぎたち虚空に音楽が聞こえますが、龍神がここまで顕れたことです」
舞
内はやし「その時龍神は五色の龍蛇を捧げ上げたので太神がこれをお受け取りになり宝の御蔵へお納めになりましたので、忽ち龍神は立ち来る波を蹴立て蹴立て海中にぞお入りになったことです」
◆大社
参考までに謡曲「大社(おほやしろ)」を口語訳してみた。
前シテ:宮人
ツレ:同
後シテ:杵築大神
ツレ:天女
同:龍神
ワキ:臣下
處は出雲
世間に神無月と称(とな)ふる十月を。出雲にては神々の集まり給ふ月とて神有月と称へ。厳重なる神事あり。此時参り合ひて奇特を目撃する事を作れり
ワキ「誓い数多の神祭、神祭、出雲の国を尋ねましょう」
詞「そもそも是は今上天皇に仕える臣下です。扨(さ)ても出雲の国に於いて、今月は神有月と言って諸神が来臨し、御神事さまざまの次第を承ったところに、この度参詣しました」
道行「朝が立ちますと、旅の衣が遥々と、旅の衣が遥々と行方に時雨れる雲霧の、山また山を越え過ぎて、神有月もその名の通りで、出雲の国に着いたことです、着いたことです」
シテツレ一声「八雲立つ、出雲八重垣妻こめし、宮路に運ぶ歩みかな」
ツレ「尾上(おのへ)の松の梢(こずえ)まで」
二人「神風を誘う声でしょう」
シテサシ「実に濁りけがれた世の人間と生まれて来たけれども誓いがあります」
ツレ「神に仕える身ですので、漏れぬ恵みに被って、心のままの春秋を送り迎えて年月の、尽きせぬ世々を頼みにするのです」
歌「いざ歩みを運びましょう、運びましょう。どちらにか神の宿らない影でしょう、影でしょう。嶺も尾上も松杉も、山河海村野田(さんかいかいそんやでん)、残る方もなく神の居ます、御影を受けて隔てない宮人多い行き来かな、行き来かな」
ワキ詞「私は出雲の国の大社(おほやしろ)に参り、案内をお尋ねしようと思った所に宮人が沢山来ました。どのように方々に申すべきでしょう」
シテ詞「これはこの辺りでは見慣れない事です。どちらからご参詣にいらしたのですか」
ワキ「左様でございます。私は朝廷にて暇のない身ですが、当国で今月は神有月といって、諸神が残らず来臨する地と承知しましたので、この度、主上にお暇を申し上げて遥々参詣したのです」
シテ「神と君との実に有り難いことです」
ワキ「隔てのない世の験(しるし)といって」
シテ「歩みを運ぶこの神の」
ワキ「恵みは普く」
シテ「月影も」
地「神の世を思い出雲の宮柱、宮柱を太く堅固に建てて敷島(日本)の大和から島根まで、動かぬ国は久しく。実に紅(くれなゐ)も深くなっていく梢から、時雨れて渡る深山辺(みやまべ)の、里も冬たつ気色かな、気色かな」
ワキ詞「不案内の事ですので、当社の神秘を詳しく物語ってください」
地クリ「そもそも出雲の国の大社(おほやしろ)は三十八社を勧請した地です」
シテサシ「そうしたところ五人の王子がいらします」
地「第一はあじかの大明神と顕現します。山王権現がこれです」
シテ「第二には湊の大明神」
地「九州宗像(むなたか)の明神と顕現します。第三は伊奈佐(いなさ)の速玉(はやたま)の神(しん)。常陸(ひたち)鹿島の明神だとか」
クセ「第四には鳥屋(とや)の大明神。信濃の諏訪(すわ)の明神とたちまち顕現なさいます。第五には出雲路の大明神。伊予の三島の明神と顕現しなさる御誓い、実に曇りのない長月(九月)かな。月の晦日(みそか)に取り分けて」
シテ「住吉一所が来臨します」
地「残りの神々は十月一日の寅の時に悉く来臨しますので、様々色々の神遊び(神楽)を今も絶やさぬ此宮居、語るのも中々愚かな誓いでしょう」
ロンギ地「実に有り難い物語、物語。末世ながらも隔てのない、神の威光はあらたかです」
シテ「中々なれば年々に、今日の今宵の神遊び(神楽)」
地「その役々も」
シテ「数々に」
地「荒ぶる神達の歌舞の袖、引くや御注連(みしめ)の名は誰と、白木綿(しらふゆ)隠れる玉垣に、立ち寄ると見えましたが、神のお告げと言い捨てて、社殿に入ったことです、社殿の内に入ったことです」
地「時雨れる空も雲が晴れて、月も輝く玉の御殿に光を添える気色かな」
天女「我はこれ、出雲の御崎に垂迹し、仏法王法を守る神、本地十羅刹女(じふらせつによ)の化現(神仏が姿を変えてこの世に現れたこと)である」
地「容顔美麗の女体の神、容顔美麗の女体の神、光も輝く袂(たもと)のかんざし、かんざしも匂う袂を返す、夜遊びの舞楽は面白いことです」
地「実に類いない舞の袖、舞の袖、靡くか雲間の絶え間から、諸神は残らず現れ、舞楽を奏し神前に飛行し、早く姿を現わし給えと夕べの月も雲晴れて、光も朱(あけ)の玉垣輝き、神体が現れていらっしゃいます」
ロンギ地「実に貴い顔つきで、目の当たりにした神徳を受けるも君の恵みかな」
シテ「とても夜遊びの神祭。委しくいざ顕し、彼の客人(まれびと)を慰めましょう」
地「扨(さ)て神楽の役々は」
シテ「住吉鹿島」
地「諏訪熱田、その他三千世界の諸神は、ここに来臨します。とりどりの小忌衣(おみごろも)の袖、返す返すも面白く」
地「舞楽も今は時が過ぎて、更けゆく空も時雨れる雲の、沖から疾風(はやて)が吹き立つ波は海龍王の出現ですか」
龍神「そもそもこれは、海龍王とは私の事である。扨(さ)ても毎年龍宮から黄金の箱に小龍を入れ、神前に捧げるのだ」
地「龍神がたちまち顕れて、顕れて、波を払い潮(うしほ)を退け、河に上がり、御箱(みはこ)を据え置き、神前を拝み渇仰(かつがう)(人の徳を仰ぎ慕うことを、喉が渇いた者が水を求めるのに例えた語)します。その時龍神が御箱の蓋をたちまち開き、小龍を取り出し、ただちに神前に捧げ、海陸ともに治まる御代の、実に有り難い恵みかな」
シテ「四海安全に国治まり」
地「四海安全に国治まって、五穀成就福寿円満に、いよいよ君を守るべしと。木綿(ゆふ)四手(しで)(垂)の数々、神々とりどりに御前(みさき)を払い、神あげの御山(みやま)に上がれば、龍神が平地に波浪を起こし、逆巻く潮に引かれて行けば、諸神は虚空にあまねく満ちて、実に新たな神は社内、社内、龍神は海中に入ったことです」
……十羅刹女が登場するが、これは仏教に言う十柱の羅刹女ではなく、スサノオ命が龍神の娘と契って生まれた子である……とする解釈が山陰地方にはある。
◆余談
YouTubeで「石見神楽 佐陀」と検索してみたがヒットしなかった。現在では舞われることの少ない演目のようである。それでは、おそらくこの演目のルーツは出雲神楽にあるからと「出雲神楽 佐陀」で検索してみたが「佐陀神能」がヒットして、望む検索結果は得られなかった。牛尾三千夫「神楽と神がかり」には「佐陀」の口上台本が収録されているので、大元神楽では現在でも舞われているかもしれない。
◆参考文献
・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)pp.200-202
・「謡曲叢書 第一巻」(芳賀矢一、佐佐木信綱/編, 博文館, 1914)※「大社」pp.339-343
・「神楽と神がかり」(牛尾三千夫, 名著出版, 1985)pp.162-164
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国会図書館に行く。今回はダブル盛りそばとお握りを食す。国会図書館のコピー機は高機能で「日本庶民文化史料集成」第一巻は綴じの部分も普通にコピーできた。前回は「複写」と書かれたシールが貼ってあって特殊なコピー機で撮らないと、で、一回当たり30枚までという制約を聞いていたので、まあ普通にコピーできてよかった。帰りがけ、日枝神社にお参りし、公邸と官邸の前を通ってみる。近所のセブンイレブンで縮小コピーする。
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相鉄線平沼橋駅から徒歩1分、水天宮平沼神社における横越社中の奉納神楽を鑑賞に行く。朝、便秘でうんうん唸っている内に時間が過ぎて午前の部を見逃す。それから文教大学の斉藤修平先生と顔を合わせる。関東の里神楽もGHQの統制を受けていたとのこと。首都圏なのだから考えてみれば当たり前の事なのだけど、それで何か制約を受けることがあったのだろうか。
蒔田杉山神社は横浜市営地下鉄ブルーライン蒔田駅から降りて、すぐ近くにあるらしい。幼稚園を併設しているとのこと。
ボランティアの方たちが写真と動画の撮影に来ていた。カメラはおそらくニコンのフルサイズ一眼レフ。レンズは何を使っているのか訊いてみればよかった。
神楽を見物していると、外人さんに写真を撮ってくれと頼まれる。実はスマホで写真を撮ったことがないので、ボタンアイコンにタッチするだけなのだけど、焦った。無事撮れているといいのだが。
平日のお祭りだけど、観客はいて、特に夕方は盛況だった。子供もいた。ここら辺、他所の神社とどこが違うのか考えてみたが分からなかった。小学校の近くにタワーマンションがあるらしく、横浜駅から数百メートルしか離れていないのに沿線人口は多いようだ。「神楽みたい」「まだ時間があるから」といった会話が何度か聞こえて来た。
今回は「山海交易」と「天孫降臨」が舞われた。「山海交易」和合の場は神輿の時間帯と重なって、喚声で何がなんだかよく分からないくらいだったが、奏者の方たちは冷静に演奏していた。「山海交易」だと「龍宮の場」が見せ所があって一番面白いのではないか。
横越社中・山海交易・取り替えの場
横越社中・山海交易・けんかの場・山幸彦が無くした黄金の針を海に潜って探そうとするが、波にさらわれてしまう
横越社中・山海交易・龍宮の場・兄である海幸彦の仕打ちを思い出して涙ぐむ山幸彦
横越社中・山海交易・和合の場・取り戻した黄金の針を中々返そうとしない山幸彦
横越社中・天孫降臨・猿田彦命と天鈿女命との連れ舞
水天宮平沼神社・横越社中による奉納神楽・今回は昼間から観客がいた
前の席の女性三人組が社中に入門したいとのことで斉藤先生が仲介していた。僕自身は神楽を見ていても、あれなら自分にもできると思ったことは一度もない。
過去の恥ずかしい話をすると、高校の柔道の授業で型をやって、それをビデオに撮った。それを再生して皆でみたのだけど、僕の型は関節の油のきれたロボットの様で失笑を買ってしまった。そんな訳で自分が舞台で演じることなど考えることすらできない。笑わせるというより笑われるである。それにもし舞台に上がったら、頭の中が真っ白になって練習してきたことが全部飛んでしまうだろう。
関東の里神楽の魅力は笛だろうか。幅広く聞いた訳ではないが、加藤俊彦さんの笛は一級品だと思う。裏音を多用する奏法は西洋音楽ではないのではないか。ゆったりとした所作の美しさもそう。もどきの滑稽な仕草も魅力的である。もどきがいると雰囲気が明るくなる。
今回は疲れた。9時間くらいあった内、演じられる時は大体立っていたから。カメラGX7mk2+35-100㎜F2.8も700gくらいなのだけど首から外すと楽に感じた。
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8月31日と9月1日に催された大豆戸町の八杉神社における加藤社中の奉納神楽を鑑賞してきた。
(一日目)
JR菊名駅から徒歩10分、大豆戸町の八杉神社の奉納神楽を鑑賞しに行く。加藤社中。「天孫降臨」「巫女舞」「棒縛り」「熊襲征伐」の四演目が上演された。途中にお囃子や獅子舞を挟む。天気は晴れだったが木陰があったので左程暑い思いはしなかった。
加藤社中・天孫降臨
加藤社中・巫女舞
加藤社中・棒縛り
加藤社中・熊襲征伐
加藤社中・連獅子
お囃子で高齢の方が締め太鼓を叩いていたので誰だろうと思っていたら、師匠筋の方だそうで90歳を超える年齢の方だった。自分では中々立ち上がれないくらい足腰は弱っているのだが、芸は身体に刻まれているのだ。
「棒縛り」は狂言や歌舞伎で演じられるものを神楽化したとのこと。酒をくすねる者がいるので主が太郎冠者に次郎冠者を見張る様命じるのだが……という内容。実は太郎冠者も次郎冠者も酒をくすねていたという結末が楽しい。「熊襲征伐」は川上武の手下のモドキ二人のの舞が楽しかった。途中からドリフの「威勢のいい風呂屋」コントみたいな展開になる。モドキの一人は女性が演じているようだ。ヤマトタケルは巫女舞を演じた児童だったと思う。直面で演じた。
神楽終了後、明日のリハーサルということでフラダンスが私服姿で上演された。のんびりとしていている。その後は小学生のダンス。最近の小学生は自分たちの時代と違って高度なダンスを踊るのだなという印象。虫の乱入で隊列が乱れる。
昼間は観客がいなくて、実は親子連れは大勢来ていたのだけど、皆、消防車を模した電動カートに乗って満足して帰ってしまっていた。やはり夜になってからでないと観客が集まらないようだ。実は価値のある伝統芸能が昼間から演じられているということが案外知られていないのだろうか。音響の搬入が一時間遅れたのことで予定されていた「敬神愛国」は舞われなかった。
特に動き回っていた訳ではないのだけど、帰宅の路につくと疲労感があった。立っている時間の方が長かったからだろう。
(二日目)
大豆戸町の八杉神社の奉納神楽二日目。ちなみに八杉の杉は杉山神社だとのこと。「三番叟」「巫女舞」「神剣幽助」「巫女舞」「菩比の上使」「天の返し矢」が演じられる。「神剣幽助」は帝から刀を打つよう命じられたが相方がいない三条宗光が稲荷大神の助力を得て名刀・小狐丸を打つという内容。能の「小鍛冶」が元らしい。
加藤社中・三番叟
加藤社中・巫女舞
加藤社中・神剣幽助
加藤社中・菩比の上使
加藤社中・天の返し矢
加藤社中・大黒様の福撒き
「菩比の上使」は六月に橘樹神社の例大祭で見たが、写真に撮ると、最後の呆然とした天菩比の表情が異なっていた。「天の返し矢」は昨年、相模原の亀ヶ池八幡宮で見たが、最後の返し矢の命中位置が異なっており、同じ演目でも印象が違うのだなという印象。最後は大黒様が福を撒いて終了となった。
モドキが主人を探していない。そうだ、先に屋敷に帰っているのに違いないというのは一つの様式なのだと気づく。
神楽終了後は演芸大会となった。まず加藤社中の巫女舞から始まって、小学生のジャズダンス、フラダンス、日本舞踊、カラオケなどが演じられる。
カメラで撮影していたら、氏子の方にビールを御馳走になる。体力ありますね、とのこと。体力は無いが、今回はキレートレモンが効いたのかもしれない。クエン酸の補給にいいのだ。
今回も日中は観客がいなくて、神楽が終わる六時半頃から観客が集まりだした。神楽に興味を示す子もいたけれど、最後まで見ることはなく帰ってしまった。子供の興味が持続しないのは仕方ないが、親御さんが子供に神楽を見せるという慣習がなく、実にもったいない話である。
島根や広島等神楽が盛んな地域出身の関東在住者も少なくはないし、関東の里神楽に対する潜在的な需要はあるのではないかと思うのだ。
帰りに食べたタンタン麺が辛くて(普通)、食べきれないかと思った。
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◆はじめに
芸北神楽の旧舞で「大楠公(だいなんこう)」という楠木正成を題材とした演目がある。校訂石見神楽台本には収録されていないので、明治期以降の創作台本と思われる。太平記の世界を神楽化したもので、後醍醐天皇に仕える忠臣・楠木正成の湊川の戦いの模様が神楽化されている。
◆背景とあらすじ
後醍醐天皇は密かに討幕を謀っていたが、六波羅探題に察知される。多くの公家・仏僧が処罰された。その後再び討幕を志した後醍醐天皇だが、再度発覚してしまい笠置山に逃れるも捕らえられてしまう。後醍醐天皇は廃位され隠岐に流された。
隠岐から脱出した後醍醐天皇に呼応して各地で挙兵した中に楠正成もいた。正成は籠城戦で敵を寄せ付けず大活躍する。関東から鎮圧に派遣された足利尊氏は後醍醐天皇側に付き、六波羅を滅ぼす。また新田義貞がときの執権・北条高時を滅ぼした。
後醍醐天皇による親政が始まったが、天皇は所領安堵せず武士たちは混乱する。護良(もりなが)親王が捕らえられ獄死した事件などをきっかけとして後醍醐天皇は鎌倉に入った足利尊氏が独自の動きを見せるのに対抗して討伐の勅命を下す。新田義貞の軍勢が尊氏を危機に陥れるが、尊氏は間一髪で逃れる。上洛した尊氏だったが、今度は新田義貞や楠正成の反撃に遭い九州に逃れる。
一度は足利尊氏を九州に敗走させた後醍醐天皇と新田義貞だったが、建武の新政は長続きせず、九州を平定して体勢を立て直した尊氏が大軍を率いて上洛してきた。対する官軍だが、楠正成が天皇に比叡山に皇居を移して防戦するべきだと訴えた。一時は「戦のことは武士に任せよう」とそれで方針が決まりかけたが、一年に二度まで比叡山に引き籠もると帝位が軽んじられるとの宰相の空理空論に天皇は傾いてしまう。これは自分に死ねという勅命だと感じた正成は同意する。桜井の宿で正成は息子の十一歳になる正行(まさつら)に別れの言葉を残す(※成長した正行は後醍醐天皇の為に戦って死す)。兵庫に下向し新田義貞と対面した正成は義貞と対話する。そして海と陸から尊氏の大軍(五十万騎)が兵庫に迫ってきた。正成は七百騎で湊川に陣を張る。
攻め寄せる大軍に対して正成と弟の正季(まさすえ)は縦横無尽に戦ったけれど、六時間が経過して疲れ果て、手勢も七百騎が七十騎まで減った。逃れようと思えば逃れられたのだけど、京を出てから生きて帰るまいと心に決めていたので、在家の村に入って、「七度まで人間界に生まれ変わって朝敵を滅ぼす」と誓って、兄弟が互いに刺し違えて死んだ。一族郎党も後を追って自害した。古今東西、正成ほどの忠臣はいなかった。仁智勇を兼ね備えた忠臣が自害してしまったことに一部の才ある者は密かに眉をひそめた。
◆動画
YouTubeで津浪神楽団の「大楠公」を見る。競演大会で優勝したときのものとある。まず楠正成と弟の正季が出て舞い、それから正成の息子の正行が登場する。別れの言葉を述べた後正行は退場する。それから正成と正季が舞って退場する。次に足利軍の武士が二名登場して舞う。それから正成と正季が入ってきて立ち合いになる。正成と正季が勝利を収めるが疲れ果てた旨を口上で述べて舞ってから退場する。
◆桜井宿での別れ
滋賀県蒲生郡日野町の馬見岡綿向神社にお参りしたとき、境内に楠正成親子の桜井宿での別れの像があった。元々は小学校に置かれていたものだけど、戦後、GHQの占領政策で報国思想が危険視され移され、そのままとなったものだと解説してあった。
馬見岡綿向神社・桜井宿での別れ像
馬見岡綿向神社・桜井宿での別れ像
馬見岡綿向神社・桜井宿での別れ像・解説
馬見岡綿向神社・本殿
馬見岡綿向神社・本殿
◆太平記
太平記で該当部分を直訳調ながら現代語訳してみた。
楠正成兄弟兵庫下向の事
こうしたところ、将軍・佐兵衛督(さひやうゑのかみ)は大勢力で上洛した間に、要害の地で防戦するために兵庫へ撤退する次第を新田義貞が早馬を進上させて奏聞されたところ、主上(しゅしゃう:帝)は大騒ぎなさって、楠正成をお召になって「急ぎ兵庫へ馳せ下り、義貞と力を合わせるべし」と仰せ下された。正成が畏まって奏聞するに「足利尊氏(たかうぢ)は九州の勢力を率いて上洛するならば、定めし雲霞(うんか)の如くでありましょう。味方の疲れた小勢力で大敵に掛け合わせ、尋常の如くに合戦を致したならば、我らがきっと打ち負けると思います。ぜひとも義貞をも京都へ召されて以前のように山門(比叡山)へ行幸してください。正成も河内(かはち)へ下って退出し、畿内の兵で道々をさし塞ぎ、両方から京都を攻め退けるならば、敵は次第に疲れて(勢いが)落ち、味方は日に日に馳せ集るでしょう。その時になって義貞は大勢力で、山門から寄せられて正成は搦(から)め手で河内より攻め上がったならば、朝敵を一戦で滅ぼす事も思案の内です。義貞も間違いなくこのように思案を巡らせているでしょうけれども、路地で一戦もしないのはなんとも不甲斐ないと人に思われるのを恥じて、兵庫では支えられたと思います。合戦は最後の勝ちこそが肝要でございます。よくよく叡慮(天皇の思慮)なさって、評定を定めるべきでございましょう」と申したところ、「実に戦争の事は兵に譲る(任せる)」と重ねて諸卿の詮議があったところに、坊門宰相(ぼうもんのさいしやう)清忠(きよただ)が進んで申すことに「正成が申すところは理由があると言えども、征伐のために指し下された節刀使(せつとし)が未だに戦っていない間に帝都を放棄して一年の内に二度まで山門へ臨幸されることは、一つには帝位が軽いのに似ています(軽んじられます)。また、官軍も道理を失うところです。例え尊氏が九州勢を率いて上洛するといえども、昨年の春の(関東)八か国を従えて上洛するときの軍勢にはよもや勝らないでしょう。戦いの始めから敵軍敗北の時に至るまで、味方が小勢だといえども、毎度大敵を攻め靡かせたことは、これは全く武略の勝(すぐ)れたところによるのではありません。ただ帝の運が天に叶っていたところなので、今度もまた何の子細があるでしょうか。時を移さずに楠を下されるべきかと存じます」と申されたので、帝は実にとお思いになり、重ねて正成に退出し下るべき次第を仰せになったので、正成は「この上はそのように別段異議を申すには及ばない。さては討ち死に仕れとの勅命だろう」と言って、その日即座に正成は五百余騎で都を発って兵庫へと下った。
楠正成はこれを最後と思い定めたので、嫡子正行(まさつら)が十一歳で父の供をしていたのを桜井の宿から河内へ帰し遣わすと言って、泣く泣く家庭の教えを遺したのは「獅子は子を産んで三日を経たとき、高い岸壁から母がこれを投げたのを、その獅子の自ずから現れる天賦の器量があれば、教えないのに宙から身を翻して死ぬことはないと言う。ましてやお前は既に十歳を過ぎた。(私の)一言が耳に止まるならば、私の戒律(教え)に背くことをするな。今度の合戦で天下の安否(無事かどうか)と思う間、今生でお前の顔を見ることはこれが最後だと思う。正成が討ち死にしたと聞いたならば、天下は必ず(足利)将軍の代となると心得るべし。そうとは言えども、一度の命を助けるがために多年の忠烈を失って、降参不義の振舞いを致すことはあってはならない。一族若党の一人でも生き残っているうちは、金剛山(こんがうせん:葛城山)に引き籠もって、敵が寄せて来たならば、命を兵刀(へいじん)に落とし、名を後代に遺すべし。これをお前の孝行と思うべし」と涙をぬぐって言い含め、帝から賜った菊の銘を入れた刀を形見に見よと言って取らせつつ、各々東西に別れた。その有様を見た武士どもは皆感涙を流した。昔の百里奚(はくりけい)は(秦の)穆公(ぼくこう)が晋の国を討とうとした時、戦の不利を鑑みて、その将孟明視(まうめいし)に向かって今を限りの別れを悲しんだ。今の楠正成は大敵が関西(くわんさい:都の西)に攻め近づくと聞いて、国が必ず亡びる事を憂えて、その子の幼い正行を留め置いて、亡き後までの義を勧めた。彼は晋代の良弼(助けとなる立派な補佐の臣)、これは我が朝の忠臣、長い年月を隔てるといえども、前聖(百里奚)も後聖(楠正成)は道を同じくし、有り難い忠臣かなと感じない者はいなかった。
そうする内に正成は兵庫に到着した。義貞はただちに対面して天皇の思慮の趣旨を尋ねて問われたところ、正成が奏上した旨と勅命の様子を子細に申したところ、義貞は「まこと、敗軍の小勢で、時機を得た大敵と戦う事は、叶うべきではないけれども、去年関東の合戦に打ち負けて上洛した時、路地で互いに支えなかったことを、他人の口を弄ぶことを免れることができなかった(人に嘲られた)。それだけでなく、今度関西(都の西)に下されて、攻めかかった城を一つも落としてない内に、却って敵の大勢力なのを聞いて、一支えもせずに京都まで引き退くことは余りに不甲斐なく思うので、戦いの勝負を見ず(勝負はさておき)、一戦に忠義を勧めよう(忠義を示そう)と思うだけである」と仰せになったので、正成は「『衆愚が喧々諤々しても一人の賢者の唯唯諾諾に及ばない』と申しますので、道理を知らない人の謗(そし)りをば必ずしもお心にかけられるべきではありません。ただ戦うべきところを見ては進んで、叶うまいところを知っては退くのを良将を申します。『虎を素手で打ったり黄河を徒歩で渡って死んでも悔いの無い者には与しない』と孔子も子路(しろ)を諫めております。その上、元弘(げんこう)の始めには平相州(北条高時)の猛威を一時にて砕かれ、今年の春は尊氏卿を九州へ追い下されたことは、帝のご運とは申しますが、偏に(新田義貞の)ご計略の武徳によった故ではありませんか。合戦の方途においては誰が軽んじましょうか。とりわけ今度の御沙汰の次第は一々その道理に叶ってこそと思いなされませ」と申したので、義貞はまことに顔色が良くなって、夜もすがらの物語に数杯の興を添えられた。後で思い合わせれば、これが正成の最後だったと哀れなことであった。
そうする間に明くる五月二十五日辰(たつ)の刻に、沖の霞の晴れ間からほのかに見えた船があった。漁から帰る漁夫の小舟か淡路の瀬戸の渡り船かと航路を遥かに見渡せば、そうではなくて、取舵(とりかぢ)、面舵(おもかぢ)をしきりに抜いて(左右の舷から梶が沢山出ている)、垣盾(かいだて)を並べ櫓(やぐら)を建てて、大旗・小旗打ち立てた数万の兵船が順風を得たと帆を挙げて、遠く煙った様なはっきりしない大洋の水面を十四、五里ほど連なって漕ぎ、船のへりをきしませて船首と船尾を並べたので、海上はたちまち陸地となって、帆影に見える山もなかった。ああ夥しい、呉と魏が天下を争った赤壁(せきへき)の戦い、大元が宋朝を滅ぼした黄河の兵もこれにはよもや及ぶまいと目を驚かせて見たところに、鹿松の岳(さか)、鵯越(ひよどりごえ)・須磨の上野から、二引両(ふたひきりょう:足利氏の家紋)の大旗を真っ先に進めて、家々の旗は六、七百本を山下風(やまおろし)に飛揚して、片々としたその陰に雲霞の(如き)兵士が轡(くつわ:馬の口にかませる道具)を並べて寄せて来た。海上の兵、陸地の軍勢は思ったよりも夥しく、聞きしに勝ったので、官軍は味方を顧みて嫌気がさした。そうではあるけれども、義貞も正成も大敵を見ては欺き、小敵を見ても侮らない、世祖光武帝の心の底を移して得た勇者なので、機会を失った顔色は少しもなくて、まず和田の岬・小松原へうち出て静かに手分けをした(部隊の配置をした)。一方へは脇屋義助を大将として、(新田氏の)末流となる一族二十三人、その勢五千余騎は経嶋(きやうのしま)へ向かった。一方へは大館(おほだち)左馬助を大将として、相従う一族十六人、その勢三千余騎が灯路堂(とうろだう)の南の浜に控えた。楠判官(はうぐわん)正成はわざと他の勢力を混ぜず七百余騎、湊川(みなとがは)の宿の西に陣を張って、徒歩(かち)の敵に相向かった。新田左中将義貞は、惣大将でいらしたので諸将の命令を司って(指揮して)その勢二万五千騎、和田の岬に油を塗った天幕を張り、旗を立てて控えられた。
そうする間に海上の船は帆を下ろして磯近くまで漕ぎ寄せたので、徒歩の勢も旗を進めて互いに近づいた。両陣が互いに近づいたので、まず沖の船から太鼓を鳴らし、鬨(とき)の声を揚げれば、陸の搦め手の五十万騎が請け取って同じく声を合わせた。その声が三度になったので、官軍はまた五万騎で盾の板と箙(えびら:矢を入れて背負う道具)を叩いて鬨(とき)の声を合わせた。敵味方の鬨(とき)の声は南は淡路の絵嶋(えじま)、鳴戸(なると)の沖、西は播磨路・須磨の浦、東は摂津国(つのくに)生田の森、四方三百里に響き渡って、天維(天柱)もたちまち地に落ち、坤軸(地)軸もここに折れて傾くかと怪しむ程に聞こえた。
楠正成兄弟以下湊川にて自害の事
楠判官正成は弟の七郎正季(まさすゑ)に向かって「敵は前後を遮って、味方は陣の隘路を隔てている(その間が隔たった)。今は免れない(運命だ)と思う。いざ、まず前の敵を一散らし追いまくって後ろの敵と戦おう」と申したので、正季は「そう思います」と賛同して七百余騎を前後に従え、大勢の中へ駆け入った。左兵衛督(さひょうゑのかみ)の兵士たちも菊水の紋(楠氏の家紋)を見て、良い敵だと思ったので、取り囲んでこれを討とうとしたけれども、正成と正季は東西に割って通り、南北へ追い靡き、良い敵を見ると馳せ並んで組んでは(馬から)落とし、合わぬ(不足な)敵と思ったのは一太刀打って駆け散らした。正成と正季は七度合って七度離れた。その志は偏に直義(ただよし)に近づけば組んで討とうと思うところにあった。
なので左兵衛督の五十万騎は楠の七百騎に駆け散らされて須磨の上野へ退却した。大将左兵衛督の乗った馬は鏃(やじり)を蹄(ひづめ)に踏み立てて、右の足を引きずっている間に楠の兵たちが攻め近づいてきて、既に撃たれたと見えたところに、薬師寺十郎ただ一騎が返し合わせて、馬から飛び降りて、二尺五寸の小長刀(こなぎなた)の石突(いしづき:柄の先端)を取り伸ばして、掛かる馬の首(のたてがみの左右の部分)と、むながいづくし(馬の胸に当てて両端を鞍に結ぶ紐)を突いては跳ね落とし跳ね落とし、七、八騎ほど切って落としたその隙に直義は馬を乗り換えて遥かに落ち延びた。
左兵衛督の兵は楠に追いまくられ、退却したところに畠山(はたけやま)修理大夫(すりのだいぶ)・高(こう)・上杉の人々が六千騎で湊川の東へ駆け出て、楠の跡を追い切ろうとして取り巻いた(包囲した)。楠兄弟は取って返し、この軍勢に馳せ違って(交差して)組んで(馬から)落ちて討たれるものあって、人馬の息を継がさせず、三時(六時間)ばかりの戦いに十六度まで揉み合った。なので、その軍勢は次第に減じて僅かに七十余騎になった。この軍勢でも打ち破って落ち延びれば落ち延びたであろうものを、楠は京都を発ってから生きて帰るまいと思い定めた事なので、一歩に退こうとはせず、戦うべき手段の限り戦って、時機は既に(もはや)疲れたので、湊川の北に当たる在家の一村がある中へと走って入り、腹を切ろうと弟の正季に申すに「そもそも最後の一念(臨終のときのわずかな心の持ち様)によって善悪の生を曳く(来世に極楽へ行くか地獄に堕ちるかが決まる)と言う。九界(十界のうち仏界を除いたもの)の中の何れがそなたの願いであるか。直接そこに到るべし」と問うたので、正季はからからと笑って「ただ七生(しちしやう)までも同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばと思います」と申したので、正成も快さげな顔色で「罪業(ざいごふ)深き悪念(救われない考え)だけれども、自分もそのように思う。いざさらば同じく生(しやう)を替えて、この本懐を遂げよう」と契って、兄弟ともに刺し違えて同じ枕に伏した(同じところに倒れ伏した)ので、橋本八郎正員(まさかず)・宇佐美・神宮寺を始めとして、中軸の一族十六人、相従う兵士五十余人は思い思いに並んで一度に腹を切った。菊池七郎武朝(たけとも)は兄の肥前守の使いで須磨口の合戦の模様を見に来たが、正成が腹を切るところに行き合って、ここを見捨てて何処へ帰るべきと言って、諸共に腹をかき切って同じ枕に伏した。
元弘からこの方、有難くもこの君(帝)に恃まれ参らせて(信頼されて)忠義を尽くし戦功に誇る者は幾千万いたか。しかるに、この乱は不慮に出てきて後、仁義を知らぬ者は朝廷の御恩を棄てて敵に属し、勇気のない者は賤しくも死を免れようとして殺戮の刑に遭い、智恵なき者は時代の変化を弁えずに道理に背く事ばかり多かったのを、智仁勇(ちじんゆう)の三徳を兼ね備えて、死を善い道に守った(人としての正しい死に方を守った)者は古くから今日に至るまで、この正成ほどの者はなかったところ、逃れる所を逃れず兄弟ともに自害して死に失せたことこそ、聖主(帝)が再び国を失い、逆臣が邪(よこしま)に威勢を振るうであろうその前兆だとして、才ある人は密かに眉をひそめた。
◆現代語訳太平記
「太平記 上 新装版日本古典文庫14」(山崎正和/訳, 河出書房新社)を読み終える。巻末に司馬遼太郎の解説がついている。太平記には後の朱子学に連なる宋学の大義名分論の影響があり(後醍醐天皇がその体現者)、それは太平記が受容されていき、幕末に入って勤王志士たちを支えるイデオロギーの源泉の一つとなっていったことが語られている。南朝正統論であり、ゆえに楠正成は忠臣であり続けるのだと。
要するに、後醍醐天皇が序列ナンバーワンなのだから、ゆえに問答無用で正しいのであるという理屈である。
「太平記 下 新装版日本古典文庫15」(山崎正和/訳, 河出書房新社)を読み終える。石見の三角(三隅)氏は武将の名を列挙する場面で触れられたが、実際の戦闘の場面では登場しなかった。訳されている巻二十六以降で活躍が描かれているかもしれない。
太平記は僕が子供の頃親しんでいた児童向け文学全集には収められていなかったので長らく読んでいなかったのだが、こうして読んで、昔、日本史の概論を読んでしっくりこなかった空白部分が埋められるかのような印象である。訳されているのは巻二十六までなので、収録されていない巻もあるはずだが、楠正行の死までを扱っており本筋は完了したというところだろうか。この後、足利尊氏兄弟は不和となるはずだが、そこはまた別の話か。
◆参考文献
・「考訂 芸北神楽台本Ⅱ 旧舞の里山県郡西部編」(佐々木浩, 2011)pp.212-222
・「太平記2 新編日本古典文学全集55」(長谷川端/校注・訳, 小学館, 1996)
・「太平記 下 新装版日本古典文庫15」(山崎正和/訳, 河出書房新社, 1988)
・「太平記 上 新装版日本古典文庫14」(山崎正和/訳, 河出書房新社, 1988)
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