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2019年8月

2019年8月31日 (土)

今回は着付け――佐藤両々「カグラ舞う!」

ヤングキングアワーズ10月号を買う。佐藤両々「カグラ舞う!」今回は着付けの回。瞳の胸が大きいことが明らかとなる。他、新登場キャラあり。セリフにだけ登場していたライゴか。

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2019年8月25日 (日)

新羅三郎義光と金沢の巻

◆はじめに
 芸北神楽の旧舞に「新羅三郎義光」「金沢の巻」という演目がある。校定石見神楽台本には収録されていないので、明治期以降の創作演目であると思われる。内容はどちらもほぼ変わらず、後三年の役の源義家・義光兄弟を題材にした作品である。

◆あらすじ
 源義光は兄の義家が陸奥守・鎮守府将軍に任ぜられ、清原家衡(いえひら)、武衡(たけひら)の起こした反乱を鎮圧しに東北に赴いたが苦戦している事を知り、それを助けんがために官職を辞して東北に向かう。途中、義光の笙の師匠だった豊原時元の子・時秋が自分を追って来たことを知る。時秋は父の時元から伝授されていなかった笙の秘曲を求めていた。義光は時秋に秘曲の伝授を行う。その後、兄の許に到着した義光は加勢、清原家衡・武衡と戦って打ち破るという内容である。

◆動画
 YouTubeで宮乃木神楽団の「新羅三郎」を視聴。まず新羅三郎義光が登場し舞う。それから豊原時秋が登場して笙の秘曲の伝授を行う。実際に笙を奏する。それから兄の義家に対面し二人で舞う。二人は一旦退場し、清原家衡と武衡が登場し舞う。義光と義家が再登場し最後に立ち会いとなって家衡と武衡が退場し、喜びの舞を舞う……という流れ。

◆背景~前九年の役
 陸奥の豪族だった安倍氏が現在の岩手県南部である陸奥国の奥六郡に郡司として勢力を張り、やがて南下して境界の衣川を侵すようになった。そこで、国守の藤原朝臣登任(なりとう)の率いる軍と衝突した。安倍氏の俘囚軍は精強で登任側が破れてしまう。そこで朝廷は清和源氏の棟梁である源頼義を派遣する。一旦は頼義に服したものの――安倍頼良から頼時(よりとき)に改名している――源頼義の部下が殺される事件が発生した。そして安倍頼時の長男、安部貞任(さだとう)に下手人の嫌疑がかけられ、反発した安倍一族が蜂起した。安倍頼時は味方が反旗を翻したのを説得しようとして流れ矢に当たって死んでしまう。頼時の跡は息子の貞任が継いだ。源頼義は決戦を挑むが冬場で大打撃を被ってしまう(当時は刈取りの終わった秋に戦争をしていた)。そこで源頼義は出羽の豪族清原氏に援軍を求める。なかなか応じなかった清原氏だが、ようやく応じると一万の大軍を引き連れて参戦する。ようやく安倍貞任を打ち破った。厨川柵に籠った貞任だが、柵が落ちて安倍氏は滅びる。

 このとき頼時の娘で安倍氏側の参謀であった藤原経清(俵藤太藤原秀郷の子孫)の妻だった女性は清原武則の子武貞に与えられ、その連れ子が清原清衡となる。

 安倍氏を討つのに大活躍した清原武則は鎮守府将軍に任ぜられ出羽と陸奥にまたがる大豪族となった。源頼義の貢献度は低いと朝廷に見なされたのである。

◆背景~後三年の役
 清原氏は武貞の子、長男の真衡(さねひら)、次男の清衡、三男の家衡(武貞と再婚した清衡の母との間に生まれた)の三兄弟の時代に移っていた。真衡が家督を継いだが増長していたとされる。祝賀の席で義理の叔父の吉彦秀武を囲碁に熱中し無視してしまう。憤った秀武は蜂起する。真衡に反感を抱く次男の清衡と家衡が呼応する。その時、新任の陸奥守源義家(源頼義の長男)が赴任してきた。真衡と組んだ義家だが、清衡と家衡は和睦する寸前で家臣の諫言で方針転換し戦となる。が、そこで真衡が病で亡くなってしまった。そのため清衡と家衡は義家に降伏した。清衡には成衡という養子がいたが(平氏の出自で源頼義の血を引く娘を嫁にしている)、成衡は家督を継ぐことができず、奥六郡を二分し南側の穀倉地帯を清衡に、北側を家衡に与えた。義家はわざと清衡と家衡を同じ所に住まわせる。待遇を不満に思った家衡は清衡に不意打ちを仕掛ける。清衡は妻子を失う。かろうじて逃れた清衡は義家と組んで家衡を討つ。沼柵に籠った家衡だったが、大雪で義家の軍は戦意を失ってしまう。兄・義家の苦戦を聞いた新羅三郎義光が官職を辞して下向して義家の軍に加わった。一方、家衡側には叔父の武衡が加勢した。武衡の勧めで家衡は金沢柵に拠点を移す。なお、叔父の吉彦秀武は義家側につく。金沢柵は要害の地で中々攻め落とせない。そこで兵糧を断って包囲戦となった。飢えに苦しんだ家衡側は投降を申し入れるが、決裂した。秀武の発案で城から出てくる者は女子供でも殺された。最後の決戦となり、金沢柵は落ちた。女子供まで皆殺しにされた。武衡は捕まり助命を求めるが斬首された。家衡は逃亡したが見つかり斬首された。

 勝利を得た源義家だが、朝廷はこの戦いを義家の私的な闘争と見なした。結果的に生き残った清衡が実父の姓の藤原を名乗り、奥州藤原氏の開祖となった。

◆源義光
 石清水八幡で元服した八幡太郎義家、加茂神社で元服した加茂二郎義綱と同様に、現大津市の新羅明神で元服したことから新羅三郎義光と称した。三人は同母で仲が良かったとされる。

 兄の苦戦を知った義光は暇乞いをするが、義家の私闘と見なされて許されなかった。そこで官職を辞して、義家の救援に向かう。

 義光は笙を豊原時元から習っており、大食(たあじい)調(トルコ調)の秘曲を伝授されていた。時元は嗣子時秋が幼かったため、この秘曲を伝授しないままにこの世を去った。

 寛治元年(一〇八七)秋、京を出た義光は近江国で自分を追ってくる男に遭遇した。時秋であった。帰京するように勧めたが聞かずに跡を追い、遂に坂東に入る足柄山まで来た。これから先は関所があるから戻る様にと諭しても帰らなかった。事情を察した義光は時秋に笙の秘曲の伝授を行った。伝授が終わり、義光は自分は戦地に赴くから生還は難しいが、時秋は都に帰って豊原家の音楽の道を全うする様に諭して時秋を帰京させた。

五十代になった義光は常陸介となり受領の職にありついた。そこで義光は地元の豪族と結んで佐竹郷に勢力を築いた。任期後、帰国した義光だが嫡男の義業を残し孫の昌義が土着し佐竹氏を名乗る。次に、甲斐守に任ぜられた義光は甲斐国に赴任し、そこでも勢力を築く。三男の義清が武田冠者を名乗り(※武田は常陸の地名)、甲斐国に配流された結果だが、そこに土着するのである。甲斐武田氏の起こりである。また、小笠原氏も義清から起こっている。

 義家の家督を継いだのは四男の義忠だった。天仁二年(一一〇九)二月に義忠が郎党の刃傷沙汰で殺されてしまう。背後には源氏の棟梁の座を伺っていた義光がいたとされている。義光は決して清廉潔白な人ではなかったのである。結果的に義光は源氏の棟梁にはなれなかった。義家の指示で義忠の跡は義家の次男義親の六男為義が義忠の養嗣子というかたちで家督を継いだのである。

◆十訓抄
 十訓抄に源義光の人となりを示すエピソードが載っている。六条顕季が義光と東国の荘園を巡って争った際、道理は顕季側にあったが、白河院の採決が中々つかず、問いただしたところ、「顕季には領国もあり、官職もある。荘園を一つ譲っても事欠かないだろう。義光は荒い心の武士だから、訴訟に負けると何をするか分からない:といって諭した。そこで顕季は荘園を譲る証文を義光に与えたところ、義光は臣従を誓って退出した。それからは顕季がどこへ外出するのにも義光の配下が護衛についた。もし道理の通りにしていたら、害意を向けられるところだったと思ったというようなエピソードである。

 六条修理(すり)太夫(だいぶ)顕季(あきすゑ)卿は東国に知行地があった。館(たて)の三郎義光(源義光)が妨げ争った。大夫に正しい道理があったので、(白河)院に申した。「かれこれ言うことなく、彼の妨害をお止めになるだろう」と思ったところ、すぐには決着がつかなかったので、心許なく思った。

 白河院の許に参上したところ、静かな時に近くへ召し寄せて、「お前が訴え申す東国の庄の事は、今まで決着しないので無念だと思う」と仰せになったので、畏まったところ度々問うたので、自分に道理のある次第をほのめかしたのをお聞きになって「申すところはもっともであるが、私が思うに、あの荘園は譲って、あの者に与えよ」と仰せになったので、思わず怪しいと思って、しばし物を申さずにいたところ、「顕季の身にはあの荘園がなくとも事欠くまい。領有する国もあり、官職もある。言わば、この荘園は何ほどにもない。義光はその荘園に命を懸けた次第を申した。義光がかわいいのではない。顕季がかわいいのである。義光は荒くれた武士の様な者。無慈悲な者だ。心穏やかでないままに、夜、夜中にも、大路(おほち)を通るのにも、いかなる悪行をもしようと思い立ったならば、己(そなた)のために(にとって)忌まわしい大事ではないか。身体がどうこうならんのも、左様なことにあって情けない話として噂されるだろう。道理に任せて言おうにも(是非を明らかにしようとする場合も)、かわいく思う、かわいく思わないのけじめを分けて定めるにも(区別して事柄の是非を決めようとする場合でも)沙汰に及ぶ程のことだけれども(処置を指示することのできることであるが)、これを思うに、今まで事を決着させなかったのだ」と仰せになったので、顕季は畏まって喜んで、涙を流して退出した。

 家に行き着くや、ただちに義光を「申すべきことがある」と呼び寄せたところ「人をあれこれ混乱させてまごつかせる殿が、何事でお呼びになったのか」と言いながら参上したので、出て会って「あの荘園の事を申そうと思って都合を聞かせたのだ。この事は道理の至るところは申したけれども、よくよく考えたところ、自分にとってこの荘園がなくとも事欠くことは無い。そなたはこの荘園をひたすら頼りにしているとのことなので、まことに気の毒にと申そうと思って聞いたのだ」といって所有権を譲る証文を書いて取らせたところ、義光はかしこまって、侍所に立ち寄って、畳紙(折りたたんで懐に入れている紙)に実名を書いて奉って(服属して)退出した。

 その後、いかにも臣下らしく振舞って昼などに参って仕えることは無かったけれども外出があったときは全て、何と聞こえたのだろう、思いもよらず、人が知らない時も、鎧を着た者が五六人がいないことは無かった(五六人がいつも従っていた)。「誰か」と問うと、「館刑部(たてのぎょうぶ)殿に従事する兵士です」と言って、どこへ行くのにも身から離れなかった。

 これを聞くにつけても、(義光が)悪く思ったなら、恐ろしさで胸が潰れて、白河院のご恩が有り難く思い知られるのにつけても「賢明にも譲り与えたことだ」と申した。

 このような例を聞くに、人から頼みに思われる人は、一旦つらいことがあっても、恨みを先立てず、取り扱いを考え巡らせるべしとなった。

……とある。

◆参考文献
・「考訂 芸北神楽台本Ⅱ 旧舞の里山県郡西部編」(佐々木浩, 2011)
・「清和源氏の全家系2―奥羽戦乱と東国源氏―」(奥富敬之, 新人物往来社, 1988)
・「古代東北の覇者 史実の中の安倍・清原・藤原氏」(新野直吉, 中央公論社, 1974)

記事を転載→「広小路

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仇討ものの代表的存在――曽我兄弟

◆はじめに
 曽我兄弟は日本の仇討ものを代表する作品である。Wikipediaで石見神楽の項目を読んでいて、曽我兄弟が演目の一つとして列挙されていることに気づく。神楽の台本集には収録されていないのだが、創作演目としてあるのだろう。YouTubeで「曽我兄弟」がアップロードされていた。

◆動画
 YouTubeで上河内神楽団の「曽我兄弟」を視聴する。まず工藤佑経ら三名が登場する。曽我兄弟は台本がないので細かいストーリー、配役などが分からない。それから工藤佑経らが退場して、十郎と五郎が登場、母と別れの対面をする。それから十郎と五郎が退場して再び工藤佑経らが登場し、鷹狩りで泊まる場面となる。そして十郎と五郎が登場して果し合いとなる。工藤佑経が討たれて退場する。喜びの舞となる。一名誰か不明。

◆曽我兄弟物語~あらすじ~

 河竹繁俊「曽我兄弟物語」は曽我兄弟をベースとして子供向けに再話した物語となっている。また歌舞伎などでよく知られている名場面なども盛り込まれている様である。

 平家の勢いが盛んな時代、伊豆に配流された源頼朝を慰めるために伊東で狩りをすることになった。伊東の領主・伊東祐親(すけちか)が主催することとなった。狩りは七日間続いた。余興に相撲が始まった。俣野五郎が二十一人抜きする。誰か相手はいないかとなったところで河津三郎祐泰(すけやす)が名乗りを上げる。勝負の結果。河津が俣野を投げ飛ばす。もう一番とるが再び河野が勝つ。周囲が不穏な空気となる。このとき伊東祐親の命を狙おうとしていたものがいた。祐親の甥の工藤祐経(すけつね)の腹心、大見(おおみ)の小藤太(ことうだ)・八幡(やわた)の三郎だった。祐経は祐親に領地を奪われたこと、妻(伊東祐親の娘)を奪われたことを恨んでいた。

 待ち伏せした大見と八幡の二人は柏が峠で河津三郎祐泰と遭遇する。息子も討ってやろうと弓矢を浴びせる。矢は河津のももに命中した。伊東祐親も狙われるが、狙いはそれた。河津は工藤こそが自分を狙ったのだと言って息を引き取った。

 河津には男の子が二人いた。兄が一万(いちまん)で五歳、弟の箱王(はこおう)は三つだった。母の満江(みつえ)は四十九日の法事の後で男子を生む。御房(おんぼう)と名づけられた赤ん坊は亡くなった河津の弟の伊東九郎祐清(すけきよ)に子供がなかったので、そこに引き取られることになった。満江は身内の曽我太郎祐信(すけのぶ)と再婚することになり、一万と箱王は曽我の姓を名乗ることになった。

 伊東祐親は息子の祐清に命じて大見と八幡を討った。伊東祐親には娘が四人いた。工藤祐経の妻となったものは二番目の娘であったが、取り戻して他へ娶せていた。三番目の娘が頼朝と恋仲になった。やがて千鶴御前(せんつるごぜん)という男子が生まれた。千鶴御前が三つになった年、京都に行っていた祐親が戻ってきた。頼朝が父だと知った祐親は平氏の威光を恐れ、千鶴御前を殺した。頼朝と娘の間は割かれた。頼朝の許に九郎祐清が訪れて、父の祐親が頼朝を討とうとしていると告げる。そこで頼朝は密かに北条の領地内へ移った。頼朝はそこで北条時政の娘である朝日御前と結ばれた。

 頼朝は相模国の石橋山で挙兵した。北条四郎時政が駆けつけた。が、大庭景親(おおばかげちか)を初めとした軍勢に頼朝の軍は破れてしまう。主従七騎となった頼朝はかろうじて難を逃れ、伊豆の海岸から安房(あわ)国へと逃れた。安房国に到着した頼朝は、源氏の人々に味方されて、安房・上総(かずさ)・下総(しもうさ)・武蔵・相模国を手中に収め、鎌倉に本拠を構えた。伊東祐親は平家方として立った。伊東に留まれなくなった祐親は一族と船で逃れるが、捕らえられてしまい、斬首された。共に捕らわれた九郎祐清は頼朝に危機を告げたとして助命されるが、源氏方には加わらず平家方に属した。その後、北陸道の戦いで討死している。

 富士川を挟んで対峙した源氏と平家だったが、夜中に水鳥の羽音に驚いて平家の軍勢は京都へ逃げ帰った。その後は破竹の勢いで源氏が攻め、平家は滅ぼされて源氏の世の中となった。

 一万が九つ、箱王が七つになった年、工藤祐経が頼朝に伊東祐親の孫である一万と箱王の存在を告げ口する。幼い子供だが後顧の憂いを無くすため、死罪が申し渡される。曽我太郎はやむなく二人を引き渡す。由比ガ浜に引き出された一万と箱王だったが、畠山重忠(はたけやましげただ)の諫言で頼朝は考えを改め、間一髪で一万と箱王は助命された。

 十三歳になった一万は元服して十郎祐成(すけなり)と名乗った。箱王は十一歳だったが、箱根権現の別当の許に稚児として預けられることになった。

 箱王が十四歳になったとき、頼朝が箱根権現に参拝した。頼朝の近習である工藤祐経がお供をした。箱王は工藤と対面するが、工藤には隙が無く討ち取ることは叶わなかった。箱王は工藤から赤木柄の短刀を受け取る。

 十七歳になった箱王は別当に呼ばれ、京へ上って受戒せよと告げられる。いよいよ坊主になる時となったのだが、箱王は意を決して箱根を抜け出し、兄の十郎の許に行った。兄とともに敵討ちがしたいという箱王の願いに折れ、北条時政の許に赴いて元服した。元服した箱王は曽我の五郎時致(ときむね)と名乗った。元服した五郎は母と再会するが、母から勘当されてしまう。五郎は兄・十郎の許に身を寄せることになった。

 十郎・五郎の兄弟には弟の御房と姉の他に小次郎という異父兄弟がいた。十郎は小次郎に敵討ちの計画を打ち上げるが、小次郎は反対した。小次郎は母の満江の許に行き、口外してしまう。母は十郎に敵討ちを思いとどまるように説得する。

 十郎は大磯の虎御前という娘と相思相愛だった。そんなある日、五郎は伊東から鎌倉へ行く工藤祐経が通りかかったのを見つけた。十郎と五郎の兄弟は馬に乗って跡を追ったが、警戒が厳重で打つ手がなかった。跡を追うのを断念した二人は三浦へ行った。そこで従兄弟の三浦義村(よしむら)と出会った。十郎は顔立ちが整っていて、従兄弟の娘が十郎との結婚を望んでいた。が、十郎にはその気がなかった。親同士の話で娘は義村の妻とされてしまった。が、娘が十郎に手紙を書いたことが知れてしまった。それで義村は十郎を恨む様になった。

 義村のおじに三浦別当という人がいて、片貝(かたかい)という娘を召し使っていた。別当の奥方は片貝を憎らしく思っていた。そこで奥方は片貝を十郎と娶せようとした。が、十郎には虎御前がいたから、その気は無かった。一方、その縁談をしった三浦の家来の若い衆はけしからん話だとして十郎に迫った。が、片貝を連れている訳でもなく、疑いは晴れた。

 虎御前は配流された公家の娘で大磯で奉公していた。虎御前の養母が虎を金持ちの侍と娶せようとしたので、十郎は虎を連れて出る。十郎の貧しい住居で共に住むことになった。

 鎌倉幕府の世となり、太平の世となった。頼朝は久しぶりに狩りをすることを命じた。場所は信濃(しなの)国の浅間山と決まった。曽我から浅間山までは遠く、乗り換えの馬が調達できない。十郎と五郎は変装し、雑色(ぞうしき:雑役をつとめる者)の中に紛れ込み、宿場町で工藤を狙うことにした。入間の宿で兄弟は工藤の屋形まで辿り着いたが、客の供の若い衆が馬の番をしていた。気づかれた兄弟はその場を誤魔化し離れる。畠山重忠に行き合ってしまうが、事情を察した畠山は酒と兵糧を添えて兄弟を見逃す。

 碓井峠を過ぎ、碓井の宿で十郎と五郎は再び屋形巡りを始めるが、梶原景季(かげすえ:梶原景時の息子)と出くわしてしまった。和田の衆だと名乗るが違うと言われて包囲される。そこに和田義盛(よしもり)が通りかかった。和田は二人は自分の身内だといって助けた。

 浅間山の麓の三原野で大規模な狩りが始まった。工藤を見つけることはできずに狩りは終わってしまった。頼朝は下野(しもつけ)の那須野で引き続いて狩りを行うことを命じる。那須野では遠くに工藤の姿を認めたが、勢子姿のため馬も弓矢もなく機会を失ってしまった。

 鎌倉に帰った源頼朝は梶原景時に命じて富士山の裾野で狩りを行うことを告げさせた。富士の裾野は曽我から遠くないため、馬も一匹ずつあれば足りるのだ。出発の日が近づいたある日、三浦義村の異父兄にあたるいとこの三浦与一に加勢を頼んだ。与一はいまの世の中で敵討ちは無理だと告げる。憤った五郎は与一を罵倒する。立腹した与一は二人の計画を頼朝に告げようと決心した。鎌倉へ行く途中、与一は和田義盛と出会った。事情を知った義盛は与一を制止する。与一も考え直した。

 十郎は大磯に戻った虎御前に別れを告げようと考える。五郎は化粧坂(けわいざか)の少将という娘の許に向かった。戻った五郎は梶原景季に声を掛けられるが、急ぎの用があるといって断る。実は梶原も化粧坂の娘に懸想していたのだ。立腹した梶原が追って来た。物陰に隠れた五郎は梶原の勢をやり過ごす。

 虎御前と再会した十郎だったが、大磯の宿を通りかかった和田義盛が虎御前に酌をさせたいと所望する。虎御前は中々現れず、和田は機嫌を損じる。虎御前と共に和田の前に出向いた十郎だったが、和田が虎に思う人に思いざしをする様に命じた。虎は十郎に盃を差した。十郎は辞退するが、和田が認めたので三杯飲んだ。たわむれの盃を主人の和田を差し置いて、三度まで飲んだので場は白けた。そこへ異変を予感した五郎が乗り込んでくる。ただならぬ様子に和田の息子の朝比奈は五郎を中へ招き入れようとするが、五郎は草摺り(腰の垂れ)を引きちぎられても動かなかった。盃を差された五郎は飲み干す。それで五郎と十郎と虎は席を立った。

 十郎と五郎の兄弟は母へ別れを告げにいった。五郎は勘当の身なので満江は中々許そうとしなかったが、十郎は親不孝者とわざと怒って五郎の首を斬ると言い出し、慌てた満江はようやく五郎を許した。親子三人は盃を交わし、舞を舞う。兄弟は別れの歌を詠んだ。

 足柄山と箱根山への分かれ道に来た十郎と五郎の兄弟は箱根権現へ行って別当に別れを告げることにした。途中、兄弟は姉婿の二の宮太郎義実(よしざね)と遭遇する。箱根権現に到着した兄弟は戦勝祈願をする。別当の行実(ぎょうじつ)法師は快く兄弟を迎える。別当は兄弟の本心を見抜いていた。別当は兄弟に微塵丸・友切丸という名刀を授ける。

 富士の裾野の巻狩(まきがり)が催された。射手・勢子合わせて三万人を超えたという。新田(にたん)の四郎忠常(ただつね)は矢傷を負った猪の背に飛び乗り、暴れる猪を仕留めるという手柄を立てる。

 頼朝から警戒を厳しくするよう工藤から伝えられた梶原景季が曽我兄弟を呼び、二人に屋形の留守番を命じた。兄弟は隙を伺っては狩場で工藤をつけ狙っていた。ひそかに裾野を巡っていると、工藤に追い立てられた鹿が飛び出してきた。十郎と五郎は馬に乗って跡を追った。弓矢の狙いを定めたとき、十郎の馬が木の根につまづいて倒れてしまった。五郎も馬を止めた。その隙に工藤は遠く離れてしまった。それからは工藤の姿を認めることもなく時が過ぎていった。兄弟の姿を認めた畠山重忠が二人に歌を詠んで明日一日で狩りが終わることをそれとなく告げる。二人は夜討ちを決めた。

 工藤の屋形を探っていた十郎は工藤の家臣に呼び止められ、曽我の十郎であることが見破られる。そこに虎御前の仲間の喜瀬川(きせがわ)の亀鶴(かめづる)が出てきた。亀鶴は十郎の大望を察して手引きする。虎御前の手紙だと言って工藤の屋形の柄図面を亀鶴から受け取る。

 座敷に通った十郎を工藤祐経が迎えた。工藤は息子の犬坊丸を紹介する。工藤は兄弟の祖父の伊東祐親が自分の領地を奪ったのだ、源氏の世が来て、領地は祐経の許に帰ってきたのだと言う。そして大藤内成景(おおとうないなりかげ)という侍が工藤の下につき、出世する道を勧める。十郎は祐経の前で乱拍子の舞いを舞う。その舞を見た大藤内は工藤に今夜は寝所を変えるように進言する。それを化粧坂の少将が聞いていた。

 五郎の許に戻った十郎は屋形の絵図面を見せて計画を練る。それから畠山と和田に別れの挨拶をする。和田の発言を梶原景季が聞きつけ、和田は必死で弁明する。十郎と五郎はそれまでいた仮屋を引き払う。そこへ梶原景季の勢が駆けつけるが、もぬけの殻だった。

 別れの手紙を書いた兄弟は使用人の鬼王(おにおう)と団三郎(どうざぶろう)に曽我に帰って母の世話をするように伝えた。一度は切腹しようとした鬼王と団三郎だったが、兄弟が押しとどめる。鬼王と団三郎を使いとして出した兄弟だった。

 警固の目をくぐり抜けた十郎と五郎で偽名を使ったが、ある警固の者が二人をその者だと言って通してくれた。

 工藤の屋形は静かだった。亀鶴が番所の者に酒を飲ませて酔いつぶさせていた。寝所は空だった。あきらめかけた兄弟だったが、亀鶴が手引きをする。寝ていた工藤を起こして十郎と五郎は工藤を斬った。

 とどめを刺した兄弟は大音声(だいおんじょう)で仇を討ったと呼ばわった。工藤の屋形の者は番所の人々が集まってきた。斬り合いとなった。兄弟は十人ほど斬った。十郎は新田四郎忠常と斬り合い手傷を負ってしまう。十郎の太刀が折れて、新田が左膝を斬ったのだ。立てなくなった十郎を新田が斬った。五郎は堀某(なにがし)と斬り合うが、堀は頼朝の屋形へと逃げた。頼朝の屋形に乗り込んだ五郎は女装していた御所の五郎丸という頼朝の小姓に取り押さえられた。

 翌朝、ご座所の前に召しだされた五郎を頼朝が直接問いただすことにした。五郎は堂々と頼朝も祖父・伊東祐親にとって敵だったと述べる。頼朝は平家は朝敵だったと答える。十郎の首が持ち出され、最後の対面となった。五郎の刀が友切丸だと気づいた頼朝は箱根権現の別当から受け取ったかと質問する。が、別当は咎めないと言う。工藤の息子の犬坊丸が五郎を打つ。頼朝は死罪を取りやめて家臣として仕える様に命じるが、五郎は断った。頼朝は曽我地方の別所二百町を兄弟の死後の弔い料として母満江に与えた。五郎は首を討たれ死を遂げた。

 曽我兄弟の使用人である鬼王と団三郎は母の満江の許に遺品を持って帰ってきた。世を儚んだ満江は水を断って死のうとするが、身内の人に説かれて止めた。箱根権現の別当が満江の許を尋ねてきた。尼となった虎御前が尋ねてきた。満江と虎御前は箱根へ向かった。法事は厳かに行われた。虎御前は兄弟が敵討ちをした富士の裾野の現場へと赴く。鎌倉へ戻った虎御前は化粧坂の少将と会う。それから虎御前は信濃の善光寺で二年間尼としての修行を積んだ。それから諸国を巡って大磯へ帰ると高麗寺山の奥に庵を結んだ。母の満江と二宮の姉が訪ねてきた。虎御前は五郎も弔っていた。鬼王と団三郎のその後は、坊さんになったとも伝えられるが、真偽はよく分からない。

◆日本標準「神奈川の伝説」

 日本標準「神奈川の伝説」に「曽我兄弟」という伝説が収録されている。小田原市/中郡大磯町の伝説とされている。

 鎌倉時代、今の大磯町の山下というところに長者がいた。子供のない長者は近くの虎池弁財天(とらがいけべんざいてん)に願をかけた。そんなある日の事、夢の中に弁財天が現れた。願いをかなえてやろうと弁財天は言った。目覚めると、きれいな石が一つ置いてあった。喜んだ長者は石を仏間に置いてお祀りした。やがて一人の女の子が生まれた。虎池弁財天にちなんで虎という名をつけた。不思議なことに、小さな石は虎の成長とともに少しずつ大きくなった。

 一方、伊豆の伊東の辺りを治める河津祐泰という武将がいた。祐泰には一万と筥王(はこおう)という二人の男の子がいた。しかし、領地の争いから祐泰は工藤祐経という武将に殺されてしまった。一万と筥王の母、満江御前(まんこうごぜん)は二人を連れて曽我祐信という武将の許へ嫁いだ。一万と筥王はここで成長し、曽我十郎、曽我五郎と呼ばれるようになった。兄弟は小さいときから敵討ちを念願としていた。

 兄弟は若者へと成長したが、工藤祐経はいつも大勢の家来に囲まれ、仇を討つ機会が無かった。このことが山下長者の耳に入った。ある日、兄弟は長者の家に招かれ、虎と逢った。兄十郎は虎に心を奪われてしまった。それから十郎は長者の家に通うようになった。この事を知った工藤祐経が先に手を打ち、大勢の追手を長者の家に差し向けた。不意を突かれ、入口を破られて追手たちは屋敷に侵入した。追手たちは十郎を探し、遂に奥の一間に十郎がいると分かった。追手は十郎に矢を射かけ、槍を投げた。十郎を確かに刀に掛けたことを見届けて引き揚げていった。

 ところが、夜が明けると十郎は無事だった。そして不思議なことにあの石が転がり出ており、石には一面に矢の跡、刀の跡があって傷だらけになっていた。この石は十郎の身代り石とも虎子石(とらごいし)とも呼ばれ、今でも大磯の延台寺(えんだいじ)に安置してある。長者の家で十郎が襲われたことを聞いた五郎が馬を駆けさせて転んだところを馬ころがしと言う。

 十郎と五郎はその後、富士の裾野の牧狩のときに工藤祐経を見事に討ち果たし、父の仇をとった。しかし、十郎はそのとき相手の家来に殺され、五郎は捕らえられて首を刎ねられた。そして虎は尼になって諸国を巡り、大磯に戻ってからは高麗山(こまやま)の麓に庵を結んで末永く兄弟の霊を弔った。

◆吾妻鏡

 曾中野敬次郎「曽我兄弟 小田原文庫」によると、我兄弟の敵討ちの様子は「吾妻鏡」の健久四年(1193)五月二十八日の条に記録されている。

 廿八日、癸巳、小雨降ル、以後霄ル、子ノ刻、故伊東次郎祐親法師ノ孫子、曾我十郎祐成、同五郎時致、富士ノ神野ノ御旅舘ニ推参致シ、工藤左衛門尉祐経ヲ殺戮ス、又備前国住人吉備津宮ノ王藤内ナル者有リ、平家ノ家人瀬尾太郎兼保ニ与スルニ依テ囚人ト為リ、召シ置カルルノ処、祐経ニ属シ誤リ無キノ由ヲ謝シ申スノ間、去ル廿九日本領ヲ返給セラレ帰国ス、而シテ猶ホ祐経ノ志ニ報ン為ニ、途中ヨリ更に還り来リ、祐経ニ盃酒ヲ勧メ、合宿談話ノ処、同ジク誅セラレシナリ

 爰ニ祐経、王藤内等ノ交会セラル所ノ遊女ノ手越ノ少将、黄瀬川ノ亀菊等叫喚ス、此ノ上、祐成兄弟父ノ敵ヲ討ツノ由、高声ヲ発ス、之レに依テ諸人騒動ス、仔細ヲ知ラズト雖モ、宿侍ノ輩皆悉ク走リ出ス、雷雨鼓ヲ撃チ、暗夜灯ヲ失フ、殊ニ東西ノ間ニ迷イ、祐成等ノ為メニ多ク疵ヲ被ル、謂フ所ノ平子野右馬允、愛甲三郎、吉香小次郎、加藤太、海野小太郎、岡部弥三郎、原三郎、堀藤太、臼杵八郎ナリ、殺戮ヲ被ルハ宇田五郎以下ナリ、十郎祐成ハ新田四郎忠常ニ合シ討タレ畢ル、五郎ハ御前ヲ差シテ奔参ス、将軍御剣ヲ取テ之レニ向イ給ハント欲ス、而シテ左近将監能直之レヲ抑留シ奉ル、此ノ間に小舎人童ノ五郎丸、曾我五郎ヲ搦メ得タリ、仍テ大見小平次ニ召シ預ケラル、其ノ後ニ静謐トナル、義盛、景時仰ヲ奉リテ祐経ノ死骸ヲ見知ス云々(原文は漢文)
中野敬次郎「曽我兄弟 小田原文庫」6P

 亀鶴(吾妻鏡では亀菊)は物語では曽我兄弟の手引きをしたことになっているけれど、史実では阿鼻叫喚状態だったと記されている。女でなくともそうなるだろう。可哀想なのは王藤内である。本領復活を工藤祐経の手によって取りなしてもらったお礼にいたところに曽我兄弟の夜討ちがあったのだから。「暗夜灯ヲ失フ」とあるので暗闇で戦ったことになる。

◆兄弟を巡る人々

 曽我兄弟の祖父の伊東祐親であるが、中野敬次郎「曽我兄弟 小田原文庫」によると、狩野の庄に住んだ工藤家次(狩野四郎太夫)が後年に狩野の庄を子の茂光(狩野大介)に譲って、自らは伊東庄に移り住んだ。伊東氏の第二代のは家次の長子祐家が継ぐべきだったが、父に先立って死んだので、次子の伊東次郎祐継が相続した、そして兄祐家の遺子祐親は、祖父家次が次子として養って河津の庄を与え、河津次郎祐親と名乗らせた。

 祐親は伊東氏の嫡流であった。家次は祐親を次子として養ったとき、祐親に対して、幼い祐親を後見して伊東氏の所領を管理し、祐親が成人の暁には全てを祐親に伝領されるように定めておいたのであるが、祐継は守らず、祐親に譲らなかった。そこで祐親は嫡流ながらも、叔父の横領に遭った。そこで折を見て伊東氏の本領回復を狙っていた。

 祐継が死んで状勢が変わった。その子祐経が幼少だったので、祐親は祐経の後見となった。そこで自分の娘の万劫御前を祐経の妻とし夫婦を上洛させて平家に仕えさせおき、留守中の機会に伊東の本領を奪ってしまい伊東次郎祐親となった。そこで祐経は工藤を名乗った。

 祐経は京都にいて故郷の事情を知らなかったが、成長して祐親の行為を知って六波羅の平氏に訴えたが訴訟に破れてしまった。所領を確保した祐親はその上万劫御前を祐経から奪い返し、相模の武士土肥実平の嫡子遠平に嫁がせた……とある。

 曽我兄弟の母の名は万劫御前もしくは満江御前とかかれ「まんこうごぜん」と読む。ところが万劫御前はもう一人いて、伊東祐親の娘で兄弟の父河津三郎祐泰の妹である。先述したように、工藤祐経の妻だった人で、後に祐経と離別させられ土肥の豪族土井実平の嫡男小早川遠平に再嫁した女性である。なので、曽我兄弟の母を後世、万劫御前というのはこの女性と混同されたのではないかという説もあるとのこと。

 曽我兄弟には二人の兄弟がいるが、いずれも非業の死を遂げている。京の小次郎は万劫御前は最初の夫との間に生まれた子である。

 「吾妻鑑」の建久四年八月二〇日の条に

 廿日、甲虎、故曾我十郎祐成ノ一腹ノ兄弟、京ノ小次郎誅セラル。参州ニ縁座ス云々
中野敬次郎「曽我兄弟 小田原文庫」42P

 将軍源頼朝の弟三河守範頼が将軍家に謀反とされたことで誅殺されたが、小次郎は範頼の家臣だったため、謀叛に組したということで誅殺されたとのこと。

 次に弟、「曽我兄弟物語」では御房と呼ばれる弟だが、曽我兄弟と父も母も同じであった。実父の喪中に誕生した因縁の者で、現世との縁も薄かろうと山に捨てるという意見が出たが伊東祐親の次男で祐泰の弟にあたる伊東九郎祐清が引き取り、御房丸と名づけて育てた。その後、祐清の妻が平賀武蔵守義信に再嫁したとき御房丸も引き取られた。が、平賀の家を出て僧侶となって律師房と称した。

 曽我兄弟の仇討ちの直後に故工藤祐経の妻子から、十郎、五郎にはもう一人弟がいるから処置して欲しいと嘆願されたので、果たして兄弟の仇討ち計画に参加していたか否か問いただすため、平賀義信に訊いたところ、梟首されるという風聞を聞き、自害してしまう。頼朝は律師房を誅殺する意志はなく、ただ兄弟の仇討計画に同意していたか否か問うものだったとされている。

 建久四年七月二日の条に

 二日、丙寅、武蔵守義信、養子ノ僧(律師ト号ス)ヲ召シ進ム、去夜参着ス、是レ曾我十郎祐成ノ弟ナリ、日来、越後国久我窮山ニ在ルノ間、参上今ニ延引スト云々、而シテ今日、梟首セラル可キノ由ヲ聞イテ、甘繩ノ辺ニ於テ、念仏読経ノ後、自殺スト云々、景時此ノ旨を啓ス、将軍家ハナハダ悔歎サレ給フ、本ヨリ之ヲ誅スベキノ志ニアラズ、タダ兄ニ同意セシカ否カヲ、召聞ナサレン許リナリ云々
中野敬次郎「曽我兄弟 小田原文庫」48P

 執権北条氏も曽我兄弟と縁が深い。初代執権北条時政の前妻が兄弟の父方の伯母で、祖父伊東祐親の娘で、兄弟の父祐泰の妹である。この婦人が政子を生んでいる。なので将軍頼朝夫人政子は曽我兄弟と血の繋がった従姉妹となる。兄弟が連れ立って鎌倉の北条時政の館を訪問して、五郎の元服のときに北条時政は烏帽子親となっている。

 十郎祐成の愛人である虎御前については建久四年六月一日の条に登場する。

 一日、丙申、曾我十郎祐成ノ妾大磯遊女、虎と号ス、之ヲ召シ出サルト雖モ、口状ノ如キハ、ソノ咎(トガメ)無キノ間、放還セラル
中野敬次郎「曽我兄弟 小田原文庫」59P

 六月十八日の条にも記録が見える。

 十八日、癸丑、故曾我十郎ノ妾、大磯ノ虎、除髪セズト雖モ、黒衣ノ袈裟ヲ着ス、亡夫ノ三七日ノ忌辰ヲ迎エ、筥根山別当行実坊ニ於テ、仏事ヲ修シ、和宇ノ諷誦文を捧ゲ、葦毛ノ馬一疋ヲ引シ、唱導施物等ヲ為ス、件ノ馬ハ、祐成ノ最期ニ虎ニ与フル所ナリ、則チ今日出家ヲ遂ゲ、信濃国善光寺ニ赴ク、時ニ年十九歳ナリ、聞クモノ緇素悲涙ヲ拭ハザルハナシト云々
中野敬次郎「曽我兄弟 小田原文庫」60P

◆曾我物語
 曾我物語・巻九の一部を現代語訳してみた。

 こうして、十郎が申すに「もはや甚だしく(夜が)更けただろう。万事皆準備を済ませた。いざ討ち入ろう」と言ったので、五郎が聞いて「沙汰(裁断)には及ばない(言うまでもない)」といって、緩みなく身支度した。

 十郎は白い布で褌を締め、白い脇を深く欠いた帷子(かたびら:単衣)に黄色い大口袴をばらばらに(何か所も)割いて、下には大磯の虎が着替えた綾の小袖、上には千鳥が点々と飛び交う文様の直垂(ひたたれ)に襷を挙げつつ、一寸斑(いっすんまだら:白と色を約一寸ずつに交互に配しただんだら染めの烏帽子の懸緒)の烏帽子の緒を強く締め、赤銅作り(装飾品を赤銅で作ったもの)の太刀で長めのと箱根の別当の許から得た黒鞘巻(さやまき:鍔のない短刀)を差していた。五郎も同じく白い布で褌を締め、白地の帷子で脇深く欠いたのに、白い大口袴をばらばらに割いて、下には浅黄の小袖を着て、上には貲布(さいみ:折り目の粗い麻布)の直垂に蝶を所々に書いたのを、しゃんと着こなし、玉襷を挙げ、遠雁金(空を遠く飛ぶ雁の姿をかたどった文様)の付いた紺の袴の括りを結び、これも一寸斑の烏帽子の緒を強く締め、箱根の別当から賜った兵庫鎖の太刀に、先年に権現の御前で敵(かたき)の左衛門尉の手から得た赤木の柄に銅金を施した刺刀(短刀)を差した。

 各々がこの様に準備して、太刀を抜いて肩にうち掛け、手に小松明をうち振って、声高に話しながら行った。既に討ち入ろうとするときに十郎が申したのは「やあ、殿。傾城(遊女)どももいるぞ。罪作りに女に手出しするな」。五郎が聞いて「誰でもそれを存じて(分かって)おります」と言ってうち入って小松明をうち振って見回したところ、左衛門尉も王藤内(おうとうない)もいなかった。郎党たちは或いは狩りのお供で疲れ弱り、或いは酒に酔って前後不覚だったので、音を立てる者はいなかった。

 兄弟は火を振り挙げて呆然として立った。十郎が「まことにそういうこともあろう。侍所が近いので頼朝公の宿直(とのい:宮中や役所などに宿泊して警戒すること)に参ったのであろう」と踊り降りるままに、侍所の縁側の上につっと上り、妻戸の枢(くるる:戸の桟から敷居に差し込んで戸を動かないようにする木片)を取ってえいやっと引いたところ、上(かみ)の懸鉄(かけがね:戸や障子につけて、もう一方の金物の穴にかけて締りとする鍵)が掛かり、荒々しく惹かれてぱっと欠けた。足を揃えてつっと入り、火をうち振って見回したところ、奥の間の布障子(白布を張って墨絵などを描いた襖障子)の端に畳を重ねて、左衛門尉と手越(てごし)の少将と枕を並べて伏していた(枕を並べて横になっていた)。また、横になっている足元の方の蔀(しとみ:板の両面あるいは一面に格子を組んで柱の間に入れて長押から吊り、上に跳ね上げて開くようにしたもの)の端に、これも畳を重ねて王藤内と黄瀬川の亀鶴とが伏していた。

 兄弟はこれを見て、火を振り捨てて飛んで掛かったところで、十郎は五郎の袂を控えて「そなたは王藤内にかかれ。左衛門尉は祐成に任せなさい」と言ったので、五郎は「あら、思慮の浅い仰せかな長年日頃、心を尽くしたのは王藤内のためだろうか。左衛門尉をこそ一太刀ずつも打とう。王藤内は逃げれば逃すべし。情けなくおっしゃるか」と言って、異口同音に寄せた。遊女を衣(きぬ)に押し巻き付けて、畳より下に押し落として、五郎は枕の方へ立ち回ったところ、十郎は足許の方に立った。

 あれほど果報目出度い祐経(すけつね)も無明(真理に暗い無知)の酒に酔っていたので前後も知らず伏していた(寝ていた)。五郎が申すに「これほど容易なものを、長年心を尽くしたことよ。親の敵(かたき)に会うことは優曇華(うどんげ:滅多にない機会に出会うことの喩え)に譬えている。また、三千年に一度、花が咲き実がなる西王母(せいわうぼ:中国西方の崑崙山に住むとされた女神)の園の桃とか。思いの外に容易だ」と躍り跳ねて喜んだ。十郎は「ただ、寝入っているのが無念だ。同じなら、起こして討とう」と言って、太刀を押し取り直して、肩の辺りを強かに刺して、「やあ、殿。工藤左衛門尉。これほど大事の敵を持ちながら、見苦しくも寝入ったものかな。起きよ」と言ったので、肩を刺されて目を見開きつつ、しばらく瞻(み)ていたが、側の太刀をば取って起き上がろうとするところを十郎が躍り懸って強かに打つ。五郎もまた躍り懸ってはっしと打つ。早くも、二人で二太刀ずつ切った。

 王藤内は太刀の音に驚いて起き上がりつつ、「夜中の戯れはぶしつけであるぞ。曾我の者どもと見た。後日の裁判の時争いはすまいぞ(言い逃れはできないぞ)と言うところを「沙汰に及ばず(言うまでもない)」と言って、十郎が躍り懸って打つ太刀に、左の肩から右の乳の下へ打ち懸けられ、うつむきになりながら這うところを五郎が両の股を簡単に切って落とした。

 兄弟は形式通りにし済ませて出たが、五郎が立ち返って申すに「誠に、留めを刺さなかった(息の根を止めなかった)」と言ったので、十郎が聞いて、「何としても、留めということはつまびらかでないことにとって言う作法だ」。五郎は「いやいや、全然そうではない。敵(かたき)を討った(際の)道理だ。後日、実検(事態を目の当たりに調査してしかるべき結論を下すこと)の時に『慌てて留めを刺さなかった』と沙汰となるかもしれないから」と言って、立ち返りつつ、拳も刀も通れ通れと三度ほど刺したところ、あまりに強く刺されて口と(喉と)一つになった。後日、「口を裂かれた」と沙汰があった。

……とある。工藤祐経は遊女と寝入っていて、寝込みを襲われたため反撃する暇もなく、あえなく散ったというところである。

◆十番斬
 「国民伝説類聚」に曽我伝説の一つとして「曽我物語」から「十番斬」が収録されていたので、口語訳してみる。

 そうしたところ、夜討ちの時、恐ろしさに声も立てなかった二人の君共が「御所の中に狼藉人がいて祐経も討たれた。往藤内も討たれた」と声々に呼ばわったので、鎧・甲(かぶと)・弓矢・太刀、馬よ、鞍よとひしめき慌てる程に、具足一領に二三人取り付いて引き合う者もいた。繋馬(綱でつなぎとめた馬)に乗りながら打ち煽る者もいた。某(それがし)彼某(かれがし:名を知らない人)と罵る音はただ六種震動(仏が説法をする時の瑞祥として、六通りの大地の震動。すなわち、動・起・涌・覚または撃・震・吼)にも劣らない。梢があって武者が一人出て来て申すには「何物であらば我が君の御前で、かかる狼藉を致すのか。名乗れ」と言った。十郎は打ち向かって「以前名乗ったのできっと聞いているだろう。こう言う者は如何なる者か」「是は武蔵国の住人大楽の平馬之允(へいうまのすけ)」と名乗る。祐成が聞いて「薫猶(くんゆ)は入る者を同じくせず、梟鸞(けうらん)は翼を交えず(善いものと悪臭は混ぜず、凶鳥と吉鳥は処を一にしない)。我らに逢ってこのようなことは身分不相応である。これこそ曾我の者共よ。敵(かたき)を討って出るぞ。止めよ」と言って追いかけた。馬之允は言葉には似ずかいふって逃げたが、押付の板(よろいの背の最上部、肩上の下、逆板の上にある板)の外れに肩甲骨にかけて打ち込まれ、太刀を杖に突いて引き退く。二番にこれらの姉聟「横山黨(党)愛甲(あいきやうふの)三郎」と名乗って押し寄せた。五郎が打ち對(対:むか)い言ったのは「紫燕(しゑん)は柳の枝に戯れ、白鷺は蓼花(れうくわ:たで)の陰に遊ぶ。このような鳥類までも、己の友にこそ交われ、御分(そなた)達相手には不足だけれども、人を選ぶべきではない。時致の手並みの程を見よ」と言って紅(あけ)に染まった友切を真っ向に差し挿し、雷電の如く飛んで懸った。叶わないと思ったのか、少し怯んだ処を進み懸って討ったところ、五郎の太刀を受け外し、弓手(ゆんで:左手)の小腕(こがいな)を打ち落とされて引き退く。三番に駿河国の住人岡部三郎、十郎に走り向かって、左の手の中指二つを討ち落とされて逃げたが、御所の御番の内に走り入って「敵は二人以外にはありません。さあさあ騒ぎなさるな」と言って高名の御意にあずかった。四番に遠江国の住人原小次郎が斬られて引き退いた。五番に「御所の黒弥五」と名乗り押し寄せ、十郎に追い立てられて小鬢を斬られて引き退いた。六番に伊勢国の住人加藤弥太郎が攻めて来て、五郎の太刀を受け外し、二の腕を落とされて引き退いた。七番に駿河国の住人船越八郎が押し寄せ、十郎に高股(ももの上部)を斬られて引き退いた。八番に「信濃国の住人海野小太郎行氏」と名乗って五郎と渡り合い、暫し戦ったが、どうしたのか、首を討ち落とされて二十七歳で失せた。十番に日向国の住人臼杵(うすきの)八郎が押し寄せ、五郎に渡り合い、真っ向から割られて失せた。この次に、「安房国の住人安西(あんざいの)弥七郎」と名乗って「敵はどこにいるのか」と言って立ったが、十郎が打ち向かって「人々は優しくも面も振らないで討死したのは見たのか。愚人は銅(あかがね)を以て鏡とする。君子は友を以て鏡とする。引くな」と言って討ち合った。弥七もさる者である、「左右に及ぶか」と言い敢えずに飛んで掛かった。十郎は足を踏み違い、側目(脇から見る)に懸けてちょうと打つ。肩先から高紐の端(はづれ)へ切っ先を打ち込まれ、引き退くとは見えたが、それもその夜に死んだ。

 ちょうどその時五月二十八日の夜だったので、闇さは闇く、降る雨は車軸の様であった。「敵はどこにいるのか」と走り廻る所を、小柴垣に立ち隠れて出たのをちょうと斬っては陰に引き籠もり、向かう者をばはたと斬る。斬られて引き退く者を後陣に受け取って味方討ちする所もあった。二人の者共が呼ばわったのは、武蔵・相模の逸(はや)者共は如何に。これも重代(先祖代々)これも重代と思う太刀と刀の鉄(かね)の程を見せよ。敵(かたき)は十人あり、二十人ありと後日に沙汰するな、我ら兄弟だけだぞ。火を出せ、その明かりで名乗り合おう。酷い者共かな」と呼ばわったので、御厩(おんうまや)の舎人(とねり)時武と云う者が傘(からかさ)に火を付けて投げ出した。これを見て屋形屋形から我劣らじと雑人が蓑笠に火を付けて投げ出した。二千軒の屋形から松明を出したので、萬燈会(まんどうゑ)の様で、白昼にも似ていた。彼等二人が素肌で敵に逢おうと走り廻る有様は、小鷹が鳥に逢った様であった。こうした処に「武蔵国の住人新開(しんがい)荒四郎」と名乗り懸けて、進み出て申すには「敵は何十人あろうが、某(それがし)一人を超えようか。出で合えや。対面しよう」と言った。十郎が打ち向かって「優しく聞こえる者かな。大将に代わって仕える者は、必ずその陣を破るとは文選の詞であろうか。引くな」と言って飛んで懸った。言葉は主の恥を知らず、「御免あれ」とて逃げたのを十郎はしきりに追いかけた。余りに逃げ所が無く、小柴垣を破って、高這(四つん這い)で逃げた。次に甲斐国の住人市河党に別当次郎が進み出て申すには「如何なる痴れ者であれば、君主の御前でこのような狼藉を致すのか。名乗れ、聞こう」と言う。五郎が申すに「事新しい男の問い様かな。曾我の冠者原が親の敵を討って出たと幾度も言うべきか。臆して耳が潰れたか。親の敵は陣の口を嫌わない。扨(さ)ても(そのままで)この様に申すのは誰か、聞こう」と言う。「これは甲斐国の住人市河党の別当太夫が次男、別当次郎定光」と答えた。五郎が聞いて「そなたは盗人よ。御坂片山(みさかかたやまか?)のつるばんどうに籠っていて、京鎌倉に献上する年貢御物の兵士(ひやうじ)の少ないのを遠矢(遠くのものを矢で射る)で追い落とし、片山里の下種(身分の低い)人の立ち逢わないのを夜討ちなどにして物を取る様を知っているけれども、恥ある武士(さぶらひ)に寄り合い、晴れの戦をしようとする事はどうして知ることができよう。今時致に逢って習え、教えよう」と言って踴(おど)り懸って打つ太刀に、股の上部を斬られて引き退いた。これらを始めとして、兄弟二人が手に懸けて、五十余人が斬られた。手傷を負う者は三百八十余人である。数々出た松明も一度に消えて元の闇となった。人が大勢いたけれども、この人の気色を見て、此処や彼処(かしこ)に群立(むらだ)って寄せる者は無かった。

◆謡曲「十番切」

 曽我兄弟の仇討を描いた謡曲は「赤澤曾我」「切兼曾我」「元服曾我」「小袖曾我」「伏木曾我」「夜討曾我」等いくつか存在するが、その中で「十番切」を選んでみた。

シテ:曾我十郎
ツレ:曾我五郎
ツレ(女):二宮
ツレ:新開荒次郎
ツレ:新田四郎
處は:駿河
季は:五月

曾我物語によって作る。彼等兄弟にて当夜十余人を斬りし事記されてあれば、かく名づけしなり。

サシ女「これは二の宮と申す女でございます。さても(ところで)曾我兄弟の人々は親の敵を討とうとして、幼少竹馬の昔から野に臥し山に臥し、心を尽くしたけれども、終(つい)に願いも空しく過ごしました。今日御狩場(みかりば)のお供に紛れ、狙うお心の内、推し量らせて、妾(わらわ)も遁(のが)れぬ中なので、宮仕えの隙を窺い、人々を導き出そうとして、忍んでここまで参りました」
地「どこにいるかとあちこちと尋ね行く、心の内が痛わしい」
二人カゝル「兄弟はこのようなことも知らずに、仮屋の前に佇めば」
女「さればこそ(思ったように)こちらけと、さて国々の武士の幕の内を詳しく数えさせ、あれこそは人々の尋ねる人の幕だぞといって、懇ろに数え、命が目出度くあったので、またこそお目にかかろう」
地「涙と共に立ち別れ、涙と共に立ち別れ、稲葉の山の峰に生える松と聞けば今一度帰り来ようと約束し、また御前へと出たことだ。御前へと出たことだ」
十郎詞「こうして兄弟の人々は二の宮の教によって祐経の仮屋に忍び入り」
地「年月(長年)の妄執、今宵こそ晴らせ時致といって、思う敵(かたき)を討ったことだ」
五郎詞「その時々に至り立ち帰り、さあ祐経(すけつね)確かに聞け、箱根山にて我に得させた(与えた)この太刀、ただ今返すぞ受け取れといって、心もとに差し当てて、踊り上がって打ったところ、果報はなはだしい祐経も二つになって失せたことだ」
地「宿直(とのゐ)の人々慌て騒ぎ、宿直の人々慌て騒ぎ、すわ夜討ちは曾我兄弟だぞ、起きて出会えという声に弓よ長刀太刀よ刀と前後を失い上を下へと返したことだ」
地「そうではあるけれども、御前の人々は、御前の人々は、我も我もと切って出て、面も振らず懸ったので、本より兄弟は命も惜しまず切って出て、兄弟の手に掛けて、矢庭(やにわ)に(たちどころに)三騎討ったのを、すかさず追い詰め懸ったところ、今は命限りの切り死にと仁王立ちで立ち並べば、御前の武士は合い兼ねて、その間遥かに引いたことだ」
新開「このような所に、新開(しんかい)と名乗って」
地「祐成に討って掛かったところ、得たりや会うと散々に畳みかけられ叶わないと思ったのだろう、小柴垣(こしばがき)を押し破って、後這(しりばい)しつつ遁れ入ったので、時致は遁さじと、御前をも憚らず、逃げゆく敵を目に懸けて、跡を慕って追って行く。
新田詞「そうした処に新田の四郎忠綱(ただつな)は、君の仰せに随い、仮屋の前後を警固していたが、見れば十郎祐成、血刀振るってまっしぐらに打ち入ったのを」
地「留めんと思い打ち合ったが、無斬(むざん)や祐成は、宵から疲れた事なので、新手に責め立てられ、受太刀(うけだち:受身の太刀)になって弱っていくのを畳みかけて打ち伏せつつ、太刀を押し払い鞘に差し、心静かに立ち帰る」
クセ「無斬なるかな祐成は、臥した枕から、どうだ忠綱、自分も遁れぬ中なので、他人の見る目が恥ずかしい、早々と討ち取って、後の世を弔ってくれ給え。時致はこうだとも知らずに便りを失ったのだろうか。死出の山、三途の川も一所にと誓った事も徒(いたづら)に、はやこれまでだ首を打て。南無阿弥陀仏と合掌する」
キリ地「移れば変わる世の習い、今日この頃も膝を組み、互いに隔てのない仲だけれども、武士の儚さよ。切らずには叶わず輪廻の絆、南無阿弥陀仏と首打ち落とし取り持って、御所へと参ったことだ。御所へと参ったことだ」

◆余談
 小学館・新編日本古典文学全集に「曽我物語」が収録されていたのだけど、気づかなかった。

◆参考文献
・「曽我兄弟 小田原文庫」(中野敬次郎, 名著出版, 1979)
・「曽我兄弟物語 日本古典物語全集14」(河竹繁俊, 岩崎書店, 1975)
・「神奈川の伝説」(相模民俗学会/編, 日本標準, 1980)
・二本松康宏「曽我兄弟―駿河国小林郷への示現をめぐって―」「在地伝承の世界【東日本】 講座日本の伝承文学 第七巻」(徳田和夫, 菊地仁, 錦仁, 三弥井書店, 1999)pp.148-163
・「謡曲叢書 第二巻」(芳賀矢一、佐佐木信綱/編, 博文館, 1915)※「十番切」pp.176-178
・「説話文学研究叢書 第一巻 国民伝説類聚 前輯」(黒田彰, 湯谷祐三/編, クレス出版, 2004)pp.446-465
・「吾妻鏡(三) 岩波文庫」(龍簫, 岩波書店, 1940)pp.91-99
・「現代語訳 吾妻鏡6 富士の巻狩」(五味文彦, 本郷和人/編, 吉川弘文館, 2009)pp.17-23
・「曾我物語 新編日本古典文学全集53」(梶原正昭, 大津雄一, 野中哲照/校注・訳, 小学館, 2002)pp.302-306

記事を転載→「広小路

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日程を間違える

天王町の橘樹神社に行く。しかし、天王町ビール祭りは24日(土)に催されていたらしく、境内は閑散としていた。事前に嫌な予感がしてネットで調べたのだが、お祭りなので土日の二日間やるのだろうと勘違いしていた。加藤社中の新作神楽が上演される予定だったので痛い勘違いとなった。

横浜市天王町・橘樹神社・拝殿

横浜市天王町・橘樹神社・神楽殿

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2019年8月18日 (日)

東神奈川熊野神社の奉納神楽を鑑賞 2019.08

東神奈川の熊野神社に行く。横越社中の奉納神楽があった。11時くらいに入るつもりだったのが、11時20分くらいに遅れた。「禊祓」を途中から見る。今回は住吉三神(翁)が舞う内容。加藤社中の加藤俊彦さんから神社裏の戦争で半分焼けた樹の存在を教えてもらう。

その後、文教大学の斉藤先生とお茶をする。「第二回かながわのお神楽」公演のパンフレットについての話など。草間さんという女性は優秀だねという話になる。島根の方では人気社中とかあるの? と訊かれたのでありますと答えると、そうかあ(いいなあ)というリアクションだった。神楽の本物、偽物という話になったときは、そういう議論はあまり生産性がないとのことだった。現実の方がスピードが速いとのこと。他、益田のグラントワに行かれたとのこと。黙劇の場合、マイクで補足することがあるのだけど、演者がマイクに合わせてしまうこともあるらしい。また、公式には30演目保持しているとする団体でも、長年舞っていない演目は思い出す必要があるとのこと。

「山海交易 言いつけの場」に遅れて入る。今回、二演目補完できた。横越社中の夏のセットリストは「山海交易」だそうで、今後の奉納神楽に行くか迷う。今回は前回写真撮影した演目なので、できるだけファインダーを見ずに肉眼で見る様に務める。時間の関係で「山海交易 和合の場」はパスされた。最後に横越社中の定番「天孫降臨」が舞われて、それから餅撒きとなる。「天孫降臨」はニニギ命が登場しないバージョンだった。僕にしては珍しく餅を三つ拾う。

禊祓:上筒男命、中筒男命、底筒男命の三神
禊祓:上筒男命、中筒男命、底筒男命の三神
山海交易・言いつけの場:山幸彦、ニニギ命、海幸彦の三神
山海交易・言いつけの場:山幸彦、ニニギ命、海幸彦の三神
山海交易:ニニギ命
山海交易:ニニギ命
山海交易・龍宮の場:豊玉姫
山海交易・龍宮の場:豊玉姫
山海交易・龍宮の場:おかめさん
山海交易・龍宮の場:おかめさん
熊野神社・神輿の宮入
熊野神社・神輿の宮入
熊野神社・境外の屋台
熊野神社・境外の屋台

パナソニックGX7mk2+35‐100㎜で撮影。

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2019年8月17日 (土)

現在では舞われていない過去の演目――竹生島

◆はじめに
 2019年に江津市で18世紀半ばの神楽史料が発見された。多鳩神社のもので、将軍舞や竹生島など、現在の石見地方では舞われていない演目が記録されていたとのこと。このうち「竹生島」は謡曲の「竹生島」が元ではないかと思われる。天皇にお暇を申して竹生島詣でをした廷臣の前に弁財天や竜神が現れ、この世を寿(ことほ)ぐという目出度い内容である。

◆謡曲「竹生島」

ワキ:廷臣
ワキツレ:廷臣(二人)
ツレ:女
シテ:老人
アイ:社人
後ツレ:弁財天
後シテ:竜神

弁財天として、また竜神として、衆生済度の姿を示し、理想の世界である延喜帝の時代を神仏が守護したということによって、この世をことほぐ。

 (真の次第)
ワキ/ワキツレ(次第)「竹に生まれる鶯(うぐいす)の、竹に生まれる鶯の、竹生島詣でを急ごう」
ワキ「(名のり)そもそもこれは延喜の聖主(聖徳ある君主)に仕える臣下である。さても(ところで)江州(がうしう)竹生島の明神は霊神であるので、君主にお暇を申して、ただいま竹生島に参詣しました」
ワキ/ワキツレ{<上歌>四の宮や、河原の宮居(神が座すること)末早く、河原の宮居末早く、名も走り井(湧き出る清水)の水の月、曇らぬ御代に逢う逢坂の、関の宮居を伏し拝み、山越え近い志賀の里、鳰(にほ)の浦にも着いたことだ、鳰の浦にも着いたことだ」
ワキ「<着きゼリフ>急ぐ間に鳰の浦に着きました。あれを見ると釣舟が来ました。便船(都合よく出る船)を乞おう(乗せてもらおう)と思います」
ワキツレ「そうしてよいと思います」
 (一声)
シテ「<サシ>面白い。頃は弥生(三月)の半ばなので、波もうららか(穏やか)で湖の面(おも)」
シテ/ツレ「霞み渡る朝ぼらけ(あけぼの)」
シテ「<一セイ>のどかに通う舟の道」
シテ/ツレ「憂い(つらい)仕事に従っているけれど、憂くはない心かな」
シテ「<サシ>これはこの浦里に住み馴れて、明け暮れ運ぶ鱗(うろくず:魚類)の」
シテ/ツレ「数を尽くして身一つを助けよう(養おう)とすると詫び人(侘しく暮らす人)が隙(ひま)も波間に明け暮れて、この世を渡ることこそ物憂い(つらい)ことだ」
シテ/ツレ「<下歌>よしよし同じ仕事ながら、この世に越えた(風光明媚な)この湖の」
シテ/ツレ「<上歌>名所(などころ)の多い数々に、名所の多い数々に、浦と山にかけて眺めれば、志賀の都の花園、昔ながらの長等(ながら)の山桜、真野の入江の舟を大声で呼び、さあさし寄せて問おう、さあさし寄せて問おう」
ワキ「もしもし、ここの舟に便船(都合のよい舟)を申そう(乗せてもらおう)」
シテ「これは渡りの舟とお思いになったのですか。ご覧なさい釣舟でございます」
ワキ「こちらも釣舟と見えたので都合の良い舟と申したのだ。私は竹生島に初めて参詣する者である。誓いの(弘誓の)舟に(だから)乗るべきである」
シテ「実にこの所は霊地で、歩みを運ぶ人をとかく(色々)申せば、お心に違(たが)い(背き)、また神の意も図ることが難しいのです」
ツレ「ならばお舟を参らせよう」
ワキ「嬉しい、さては誓いの(弘誓の)舟(に乗ることができるのも)、法(のり)の力(仏法の功徳)と思ったことだ」
シテ「今日は殊更のどかで、心に掛かる(気がかりな)風もありません」
地謡「<下歌>名はささ波か、志賀の浦にお立ちになったのは、都の人か労しいことだ。お舟にお乗りになって、浦々を眺めなさいませ」
地謡「<上歌>所は海の上、所は湖の上、国は近江(あふみ)の入江に近い、山々の春だからか、花はさながら白雪が降るか残るか時を知らぬ、山(比叡山)は都の富士だろうか、なお冴えかえる春の日に、比良の嶺おろしが吹くとしても、沖を漕ぐ舟はよもや尽きまい。旅の習いの思わずに雲居の他所(何の縁も無い)に見た人も、同じ舟に慣れ衣、浦を隔てて行く程に竹生島も見えたことだ」
シテ「緑の樹々の影が沈んで」
地謡「(水中の)魚が木に登る気色(様子)がある。月は海上に浮かんでは、兎も波を走るか、面白い島の気色だ」
シテ「舟が着きました。お上がりください。この尉(じよう:老人)が道案内申しましょう。これこそが弁財天でございます。よくよくご祈念なさいませ」
ワキ「承って及んだ(聞き及んだ)よりもいや勝って有難いことです。不思議かなこの所は、女人結界(女人禁制)と聞いていましたが、あそこにいる女人はどうして参られたのか」
シテ「それは(物を)知らない人の申すことです。かたじけなくも(恐れ多くも)九生如来(きうしやうによらい)のご再誕なので、ことに女人こそ参るべきです」
ツレ「いや、それほどでもないものを」
地謡「<上歌>弁財天は女体で、弁財天は女体で、その神徳もあらたかである、天女と現じなさったので、女人だといっても隔てない、ただ(物を)知らぬ人の言葉である」
地謡「<クセ>(弁財天が)このような悲願を起こして(立てて)正覚(最高の悟り)を得て年久しい。獅子通王(ししつうわう)の古(いにしえ)から利生(りしやう:仏が衆生に利益を与えること)は更に怠っていません」
シテ「実に実にこれほども疑いも」
地謡「荒磯島の松陰を、頼りに寄せる海人(漁師)の小舟、自分は人間でないといって、社壇の扉を押し開き、御殿にお入になれば、翁も水中に入るかと見えたが白波の、立ち帰り我はこの湖(うみ)の主だぞと言い捨ててまた波にお入りになった。
アイ「(常座で)このような者は、江州(がうしう)竹生島の天女に仕える者でございます。さて、国々に霊験あらたかな天女は数多いらっしゃるけれども、中でも隠れない(広く知れ渡っている)のは安芸の厳島、天の川、箕面、江の島、この竹生島、いずれも隠れないとは申すけれども、とりわけ当島の天女と申すのは、隠れもしない霊験あらたかな事ですので、国々在々所々から信仰し、参って下向する人々は夥しい事でございます。それについて当今(今上天皇)にお仕え申した臣下殿、今日は当社へご参詣ですので、我らも罷り出で、お礼を申そうと存じます。どのようにお礼申しましょう。これは当島の天女に仕え申す者でございますが、ただ今のご参詣目出度くてございます。さて当社へ初めてご参詣のお方へは御宝物を拝ませて申しますが、そのようなお望みがございませんか」
ワキ「実に聞き及んだお宝物でございます。拝ませてください」
アイ「畏まって候。やれやれ一段(一層)のご機嫌に申し上げた。急いでお宝物を拝ませようと思う。これは御蔵(みくら)の鍵です。これは天女の朝夕看経なされる(経をお読みになる)数珠でございます。ちと(しばらく)ありがたいものと思って尊重しなさい。皆さんも尊重なさい。さて、またこれは二股の竹といって当島一の宝物でございます。よくよく拝みなされ。まずお宝物はこれまででございます。さて、当島の神秘において、岩飛(いはとび)と申すことがありますが、これをお目にかけましょうか。ただし何とございましょうぞ」
ワキ「それならば岩飛飛んで見せ給え」
アイ「畏まって候。さあさあ岩飛を始めようといって、さあさあ岩飛始めようといって巌の上に走り上がって、東を見れば日輪月輪が照り輝いて、西を見れば入日を招き、危なさそうな巌の上から、危なさそうな巌の上から水底にずんぶと入ったことだ。ハハア、クッサメクッサメ」
 (出端)
地謡「御殿がしきりに鳴動して日月光り輝いて、山の端に出たごとくで、現れ給うのが恐れ多い」
ツレ「そもそもこれは、この島に住んで衆生を守る、弁財天とは私の事である」
地謡「その時虚空に音楽が聞こえ、その時虚空に音楽が聞こえ、花が降り下る、春の夜の月に輝く乙女の袂を返す返すも(本当に)面白い」
 (天女ノ舞)
地謡「夜遊(夜の神事)の舞楽も、夜遊の舞楽も時過ぎて、月が澄みわたった湖の水面に波風がしきりに鳴動して、下界の竜神が現れたことだ」
 (早笛)
地謡「竜神が湖上に出現して、竜神が湖上に出現して、光も輝く金銀珠玉をかの稀人(まれびと:客人、ここではワキの廷臣)に捧げる気色(様子)有り難いことだ。奇特(殊勝)かな」
 (舞働)
シテ「もとより衆生済度の誓い」
地謡「もとより衆生済度の誓い、様々なので、あるいは天女の形となって現じ、有縁の(仏を信仰する)衆生の諸々の願いを叶え、または下界の竜神となって国土を鎮め、誓いを現わし、天女は宮中にお入りになったので、竜神はただちに湖水に飛行(ひぎやう)して、波を蹴立て、水を返して、天地に群がる大蛇の形、天地にむらがる大蛇の形は竜宮に飛んで入ったことだ」

◆余談
 出典として「謡曲叢書」に収録されたものを参照しようと思ったのだけど、謡曲叢書の該当箇所が欠損(というか元から無いように思われる)していたので、小学館の新編日本古典文学全集を使う。こちらは注釈も詳細で現代語訳もあるので、それを参照しながらの作業となった。

◆参考文献
・「謡曲集1 新編日本古典文学全集58」(小山弘志, 佐藤健一郎, 小学館, 1997)※「竹生島」pp.67-76

記事を転載→「竹生島

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大元の神――天地開闢

◆はじめに
 記紀神話の天地開闢は神楽化されていない。渾沌から秩序が生まれたとする始原の物語なので神楽化しようがないとも言える。古事記で最初に登場する神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)である。この神は誕生してすぐに身を隠してしまうが、始原の神として、中世では仏教の梵天王と習合していたとされる。広辞苑では中国の天帝思想に影響を受けたもので、北極星のことであるという解釈もされていた。

 日本書紀では始原の神は国常立尊であるが、大元神社のご祭神でもある。原初の神だから大元なのだろうか。ちなみに島根県石見地方の大元神は国常立尊とは異なるようだ。

◆古事記
 古事記の該当部分を直訳調ながらも現代語訳してみた。

 天地(あめつち)が初めて現れた時に、高天原になった神の名は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。次に神産巣日神(かみむすひのかみ)、この三柱の神は、ともに独り神となって身を隠した。

 次に国が稚(わか)く、浮いた脂の様で、水母(くらげ)のように漂っていた時に、葦牙(あしかび:葦の若芽)の様に萌え出る物によってなった神の名は宇摩志阿市斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)。次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)。この二柱の神もまた、ともに独り神となって身を隠した。

 上の件(くだり)の五柱の神は別天(ことあま)つ神ぞ。

 次に成った神の名は国之常立神(くにのとこたちのかみ)。次に豊雲野神(とよくものかみ)。このニ柱の神もまた、独り神となって身を隠した。

 次に成った神の名は宇比地邇神(うひぢにのかみ)。次に妹須比智邇神(いもすひちにのかみ)。次に角杙神(つのぐひのかみ)。次に妹活杙神(いもいくぐひのかみ)<二柱>。次に意富斗能地神(おほとのぢのかみ)、次に妹大斗乃弁神(おほとのべのかみ)。次に於母陀流神(おもだるのかみ)。次に妹阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)。次に伊耶那岐神(いざなぎのかみ)。次に妹伊耶那美神(いざなみのかみ)。

 上の件の、国之常立神より以下、伊耶那美神より以前は併せて神世七代(かむよななよ)という<上の二柱の独り神は各々一代と云う。次に並べる十柱の神は、各々二柱の神を合わせて一代と云う)。

◆日本書紀
 日本書紀では該当部分は以下の如くである。

 古(いにしえ)に天地未だ分かれず、陰陽(めを)も分かれず、渾沌(こんとん)として鶏卵の様に溟(めい:暗い)涬(けい:広い)暗く広く、(物事が生まれる)兆しを含んでいた。その清らかで明るい気が棚引いて天(あめ)となり、重く濁ったものは滞って地(つち)となるのに至って清く澄んだ気が手で丸めるごとく合うことは易く、重く濁ったものが凝(ぎよう)竭(けつ:尽きる)凝固して固まるのは難しかった。そこで、天が先ずなって後地が定まった。そうしてのちに神聖がその中に生まれた。

 そこで曰く、開闢の初めに洲(くに)や壌(つち)が浮かび漂うことは、例えば遊ぶ魚が水の上に浮かぶ様なものである。時に天地の中に一つ物が生った。葦牙(あしかび:葦の若芽)の如く、たちまち神と為った。国常立尊(くにとこたちのみこと)と号す。至貴(しき)を尊(そん)といい、自余(じよ)を命(めい)という。並びに美挙等(みこと)と読む。下皆これに倣へ。次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)。次に豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)。凡て三柱の神である。天の道、陽の道が独りでに化す。この故にこの純粋な男を成すという。

 次に神あり。埿土煑尊(うひぢにのみこと)、埿土、ここでは于毘尼(うひぢ)と云う。沙土煑尊(すひぢにのみこと)沙土、ここでは須毘尼(すひぢ)と云う。又は埿土根尊(うひぢねのみこと)。沙土根尊(すひぢねのみこと)と申す。次に神あり。大戸之道尊(おほとのぢのみこと。一書に曰く、大戸之辺(おほとのべ)と云う。大苫辺尊(おほとまべのみこと)。または大戸摩彦尊(おほとまひこのみこと)・大戸摩姫尊(おほとまひめのみこと)と申し、または大富道尊(おほとみぢのみこと)・大富辺尊(おほとみべのみこと)と申す。次に神あり。面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)。または吾屋惶根尊(あやかしこねのみこと)と申し、または忌橿城尊(いみかしきのみこと)と申し、または青橿城根尊(あおかしきねのみこと)と申し、または吾屋橿城尊(あやかしきのみこと)と申す。次に神あり。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみみこと)。

◆葦牙
 始原の天之御中主神の誕生という件は後の世になって挿入されたものかもしれない。神々を体系づける意図が感じられるからだ。渾沌から秩序へという流れも中国の思想の影響を感じさせる。その中でも、特に葦牙(あしかび:葦の若芽)が萌え出づるようにして神が誕生したという件は古くからの神観念としてあったものではなかろうか。葦原の中つ国にふさわしい神の誕生である。

◆余談
 学生の頃、青土社のシク教に関する本を読んだことがある。インドでターバンを巻いている人たちがシク教徒だとのことである。通読したのではないのだけれど、シク教はイスラム教とヒンドゥー教の影響を受けた一神教であるが、その唯一神には人格の様なものはなく、むしろ宇宙の根本原理、究極原理であるといった成り立ちの神であったように記憶している。
 神道の天之御中主神、国常立尊も始原の神として、一神教的な解釈を施せば、宇宙の根本原理、究極原理であるといった見方も可能であるかもしれない(※あくまで個人的な解釈です)。

◆参考文献
・「古事記 新編日本古典文学全集1」(山口佳紀, 神野志隆光/校注・訳, 小学館, 1997)
・「日本書紀1 新編日本古典文学全集2」(小島憲之, 直木孝次郎, 西宮一民, 蔵中進, 毛利正守/校注・訳, 小学館, 1994)
・「古事記講義」(三浦佑之, 文藝春秋, 2007)
・「中世神話」(山本ひろ子, 岩波書店, 1998)

記事を転載→「広小路

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2019年8月16日 (金)

国定教科書の産物――三浦佑之「浦島太郎の文学史」

三浦佑之「浦島太郎の文学史 恋愛小説の発生」(五柳書院)を読む。浦島太郎は民間伝承に起源を持つ口承文芸ではなく、中国の神仙小説に影響を受けた文学であるという内容の本。

我々が現在知る浦島太郎は巌谷小波の日本昔噺のものをベースにしていて、それが国定教科書に採用されることで普及したとのことである。

中世の御伽草子から巌谷小波の浦島太郎には、亀を解放してそのお礼に竜宮に招かれるという放生譚と報恩譚が見られるが、古代の浦島子にはそれは見られないとのことである。

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平易かつ難解な文章

柳田国男「海上の道」の一部分を読む。竜宮に関する考察。それにしても柳田の文章は記述自体は平易だけれど、結局何が言いたいのかさっぱり分からない。そういう意味では難文だと思う。

<追記>
評論家の吉本隆明は柳田の文章を体液的だと評したとのこと。

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2019年8月10日 (土)

禊祓:イザナギ命と三貴神誕生

◆はじめに
 黄泉の国から戻ったイザナギ命は汚れた身体を川で洗い清めた。そのときに様々な神々が生まれた。底筒之男と中筒之男命と上筒之男命は住吉三神である。そして右目、左目、鼻を洗ったときに成ったのが天照大神と月読命と須佐之男命の三貴神である。

◆神楽
 石見神楽ではこの三貴神誕生を題材にした神楽は無い。一方で関東の里神楽では「禊祓(みそぎはらい)」という演目でこの題材を扱っている。2018年3月に江戸里神楽を観る会で間宮社中が演じた「禊払」はイザナギ命が身を清めて天照大神と月読命と須佐之男命の三貴神が誕生するという内容である。本来は三柱の翁(底筒之男と中筒之男命と上筒之男命)が誕生する展開だそうだが、舞台で上演するに当たって一部内容を改変した(※過去にも事例あり)ものだとのことである。

禊祓:イザナギ命の禊ぎ
禊祓:イザナギ命の禊ぎ
三貴神の誕生
三貴神の誕生
禊祓:父であるイザナギ命に対面する三貴神
禊祓:父であるイザナギ命に対面する三貴神
禊祓:天照大神
禊祓:天照大神
禊祓:月読命
禊祓:月読命
禊祓:スサノオ命
禊祓:スサノオ命

◆禊祓
 2019年8月に東神奈川の熊野神社で「禊祓」を見た。住吉三神が登場する本来の展開。イザナギ命が場を清めた後に上筒男神・中筒男神・底筒男神が登場、上筒男神が剣の舞、中筒男神が奉幣の舞、底筒男神が扇の舞を見せる。

禊祓・イザナギ命
禊祓・イザナギ命
禊祓・底筒男神・中筒男神・上筒男神
禊祓・底筒男神・中筒男神・上筒男神
禊祓・上筒男神の剣の舞
禊祓・上筒男神の剣の舞
禊祓・中筒男神の奉幣の舞
禊祓・中筒男神の奉幣の舞
禊祓・底筒男神の扇の舞
禊祓・底筒男神の扇の舞

◆古事記
 古事記の該当部分を直訳調ながら現代語訳してみた。

 これを以て伊耶那伎(いざなぎ)大神がおっしゃるに「自分はなんとまあきたない国に到ったものだ。そこで、自分は身体の禊(みそ)ぎををしよう」と言って、筑紫の日向の橘の小門(をど)のあはき原に到着して川で身を清めた。そこで投げ捨てた杖から成った神の名は衝立船戸神(つきたつふなとかみ)。次に投げ捨てた帯に成った神の名は道之長乳歯神(みちのながちはのかみ)。次に投げ捨てた袋になった神の名は時量師神(ときはからしのかみ)。次に投げ捨てた衣装に成った神の名は和豆良比能宇斯能神(わずらひのうしのかみ)。次に投げ捨てた袴に成った神の名は道俣神(ちまたかみ)。次に投げ捨てた冠に成った神の名は飽咋之宇斯能神(あきぐひのうしのかみ)。次に投げ捨てた左手の手纏(たまき:腕飾り)に成った神の名は奥疎神(おきざかるのかみ)。次に奥津那芸佐毘古神(おきつなぎさびこのかみ)、次に奥津甲斐弁羅神(おきつかひべらのかみ)。次に投げ捨てた右手の手纏に成った神の名は辺疎神(へざかるのかみ)。次に辺津那芸佐毘古神(へつなぎさびこのかみ)。次に辺津甲斐弁羅神(へつかひべらのかみ)。

 右の件(くだり)の、船戸神より以下、辺津甲斐弁羅神より以前の十二柱の神は身に着けたものを脱いだことによって生んだ神だ。

 ここで「上(かみ)の瀬は流れが速い。下(しも)の瀬は流れが弱い」と仰せになって、初めて中の瀬に飛び込んで濯いだ時に成った神の名は八十禍津日神(やそまがつひのかみ)。次に大禍津日神(おほまがつひのかみ)。この二柱の神はそのしきりに穢れた国に到った時に汚れて(身を濯いだこと)によって成った神だ。次にその禍(まがこと)を直そうとして成った神の名は神直毘神(かむなほびのかみ)。次に伊豆能売(いづのめ)<併せて三柱の神だ>。次に水底で濯いだ時に成った神の名は底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)。次に底筒之男(そこつつのをのみこと)。中に濯いだ時に成った神の名は中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)。次に中筒之男命(なかつつをのみこと)。水上で濯いだ時に成った神の名は上津綿津見神(うえつわたつみのかみ)。次に上筒之男命(うはつつのをのみこと)。この三柱の綿津見神は阿曇連(あづみのむらじ)らの祖先神として祭り仕える神だ。そこで阿曇連らはその綿津見神の子である宇都志日金析命(うつしひかなさくのみこと)の子孫だ。その底筒之男と中筒之男命と上筒之男命の三柱は墨江(すみのえ)の三前(みまえ)の大神だ。

 ここで左目を洗ったときに成った神の名は天照大神(あまてらすおほみかみ)。次に右目を洗ったときに成った神の名は月読命(つくよみみこと)。次に鼻を洗ったときになった神の名は建速須佐之男命。

 右の件の八十禍津日神より以下、速須佐之男命より以前の十柱の神を身体を濯いだことによって生んだものだ。

 この時に伊耶那伎命は大いに喜んで「自分は子を産んで生んで、最後に三柱の貴い子を得た」と仰せになって、ただちにその首飾りの玉の緒をゆらゆらとさせて天照大神に賜って「お前は高天原を統治せよ」と命じた。そこで、その首飾りの珠の名は御倉板挙之神(みくらたなのかみ)と謂う。次に月読命に仰せになって「お前は夜之食国(よるのをすくに)を知らせ」と命じた。次に建速須佐之男命に仰せになって「お前は海原を統治せよ」と命じた。

 そこで各々が依って賜った命令のままに統治する中で、速須佐之男命は命令された国を治めずに八つの拳のほどもある鬚(ひげ)がみぞおちの辺りまで生えるのに至るまで泣き叫んでいた。その泣く状況は青々とした山を枯れ山の如くに泣き枯らして、河と海は悉く泣き乾されてしまった。そのため悪い神の声が五月頃にむらがるハエの様に満ちて、数多の物の災いが悉く起きた。そこで伊耶那伎命は速須佐之男命に「どうしてお前は命令した国を治めずに泣き騒ぐのか」と仰せになった。そうして答えて「自分は母の国の根之堅州国(ねのかたすくに)に行こうと思うので泣くのです」と申した。そうして伊耶那伎大神は大いに怒って「ならば、お前はこの国に住むべきでない」と仰せになって、神やらいに追放した。そこで、その伊耶那伎命大神は近江(淡海)の多賀(たが)にいらっしゃる。

◆日本書紀
 日本書紀の正伝では三貴神はイザナギ命とイザナミ命との間に生まれたことになっている。一書に曰くでイザナギ命が身体を清めたときに三貴神が誕生したとしている。

 次に海を生む。次に川を生む。次に山を生む。次に木の祖である句句廼馳(くくのち)を生む。次に草(かや)の祖である草野姫(かやのひめ)を生む。または野槌(のつち)を申す。既に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)は協議して曰く「我らは既に大八州国(おほやしまくに)と山川草木とを生んだ。どうして天下(あめのした)の主たる者を生まないことがあろうか」と仰せになった。ここに共に日神(ひのかみ)をお生みになった。大日孁貴(おほひるめのむち)と申す。大日孁貴、ここでは於保比屢咩能武智(オホヒルメノムチ)と云う。屢、音は力丁反(りょくていはん)。一書に曰く天照大神(あまてらすおほかみ)と云う。一書に曰く、天照大日孁尊(あまてらすおほひるめのみこと)と云う。この御子は光麗しく、国の内を悉く照らした。そこで二柱の神は喜んで曰く「我が子は多いといえども、未だこのような霊妙な巫女はいなかった。長くこの国と留めるべきではない。まさに速やかに天に送って授けて天上の事を以てすべし(天上を統治すべし)」と仰せになった。このときに天地の間は未だ遠くなかった。そこで天の御柱を以て天上に挙げ奉った。次に月神をお生みになった。一書に曰く、月弓尊(つくゆみのみこと)、月夜見尊(つきよみのみこと)、月読尊(つくよみのみこと)と云う。その光は太陽に次いだ。以て日に並べて統治させるべし。そこで、また天に送った。次に蛭子(ひるこ)をお生みになった。既に三歳になったといえどもなお足が立たなかった。そこで、天磐櫲樟船(あまのいはくすぶね)に載せて風のままに捨てなさった。次に素戔嗚尊(すさのをのみこと)をお生みになった。一書に曰く、神素戔嗚尊(かむすさのをのみこと)、速素戔嗚尊(はやすさのをのみこと)と云う。この神は勇悍(ようかん:勇ましく気が荒々しい)で、普通なら忍びないことをする残忍な性質であった。また常に泣く事で仕業としていた。そこで国内の人民を多く夭逝させ、また青々とした山を枯れ山に変えさせた。そこで、その父母の二柱の神は素戔嗚尊に命じて「お前は甚だしく無道である。よって天下(あめのした)に君臨するべきでない。元から遠く根の国へ罷りこせ」と仰せになり、遂に追放した。

 一書に曰く、伊弉諾尊が曰く「自分は天下を統治する珍しく貴い子を生みたいと思う」と仰せになって、ただちに左手の白銅鏡(ますみのかがみ)を持ったときにただちに化生した神がいた。これを大日孁尊と申す。右の手に白銅鏡を持ったときに化生した神がいた。これを月弓尊と申す。また首を廻らせて振り返って見たちょうどそのときに、ただちに化生した神がいた。これを素戔嗚尊と申す。そこで大日孁尊と月弓尊とは共に性質が麗しかった。そこで天地に臨ましめた。素戔嗚尊はその性質が損ない害することを好むものだった。そこで下して根の国を統治させた。珍、ここでは于図(ウズ)と云う。顧眄之間、ここでは美屢摩沙可梨爾(ミルマサカリニ)と云う。

◆参考文献
・「古事記 新編日本古典文学全集1」(山口佳紀, 神野志隆光/校注・訳, 小学館, 1997)
・「日本書紀1 新編日本古典文学全集2」(小島憲之, 直木孝次郎, 西宮一民, 蔵中進, 毛利正守/校注・訳, 小学館, 1994)
・「古事記講義」(三浦佑之, 文藝春秋, 2007)

記事を転載→「広小路

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黄泉醜女とイザナギ命の逃走

◆はじめに
 黄泉の国に赴いたイザナギ命の逃走劇は石見神楽では神楽化されていないが、関東の里神楽では「黄泉醜女」という演目がある。また、動画投稿サイトYouTubeで検索したところ、山口県岩国市の神楽で「黄泉醜女」という演目がアップロードされていた。

◆イザナギ命の逃走
 妻のイザナミ命が亡くなってしまったが、妻に会いたいと思ったイザナギ命は黄泉(よみ)の国へと向かう。そうしてイザナミ命と再会したのだが、イザナミ命は自分は既に黄泉の国の食物を食べてしまった。が、帰ろうと思うので黄泉の国の神と話す。しばらく待っていよと告げる。待ちきれなくなったイザナギ命が櫛の埴火を灯してみたところ、イザナミ命の身体には蛆が湧いて、雷神たちがその上にいた。驚いたイザナギ命は逃げ出す。「恥をかかされた」と怒ったイザナミ命は黄泉醜女(よもつしこめ)に後を追わせる。髪飾りを投げると山ぶどうとなったので、醜女がそれを食べている隙に逃げた。また、右のみづらに差した櫛の歯を投げると竹の子となった。これも竹の子を食べている隙に逃げた。その後、雷神と黄泉の国の軍勢が追って来た。黄泉(よもつ)ひさ坂の麓まで逃げて来たところで、そこに生えていた桃の木の実を三つとって投げたところ、雷神と軍勢は逃げた。その後、イザナミ命が追って来た。イザナギ命は巨大な岩で黄泉ひら坂の出口を塞いで相対して離別の言葉を述べた。イザナミ命は「これからは一日に千人殺しましょう」と言ったので、イザナギ命は「それならば一日に千五百人生まれることにしよう」と言った。それでこの世では一日に千人死んで、千五百人が誕生することになった……というお話。

◆動画
 YouTubeで山口県岩国市錦町の上沼田神楽保存会の「黄泉醜女」を見る。山代神楽共演大会とあった。まず女神が登場して舞う。それから男神が登場して連れ舞する。それから女神が退場し、男神が一人で舞う。男神が退場し、着物を被った女神が登場する。女神は面を付け替え鬼女となる。その様子を男神が覗いている。気づいた鬼女は鬼女(黄泉醜女)を三人呼び、鬼女が男神を取り囲む。男神は剣を抜いて対抗する。鬼女三人が斬られて退場すると、女神の変じた鬼女が登場する。鬼女と男神の立ち回りとなる。鬼女はくもを投げる。そうして戦った後に鬼女は退場し、男神が舞う。ドライアイスを使った演出もなされていた。

 山口県の神楽には石見神楽の影響を受けたものも存在するとのことで、山代神楽とあったが、この能舞は石見神楽の影響を受けた演目かもしれない。

◆関東の里神楽
 「伝統と革新」を掲げる垣澤社中の新作神楽で「IZANAMI」byカミクラナノメというものがある。垣澤社中三代目家元の娘さんが、自分で演奏し、打ち込んだ音源を元に舞が披露される。

 イザナギ命と離縁したイザナミ命が黄泉の国から解放されて地上に戻ってくる。そして自分が生み為した世界や森羅万象の神々のために幸の舞を授ける……という内容。お神楽というよりは創作舞踊という印象だった。舞は順調に進んだが、最後にクモを投げるところが失敗したとのこと。

垣澤社中・IZANAMI
垣澤社中・IZANAMI
垣澤社中・IZANAMI
IZANAMI

◆古事記
 古事記の該当部分を直訳調ながら訳してみた。

 ここにその妻の伊耶那美命を見たいと欲して黄泉国(よもつくに)に追っていった。そうして御殿から戸を閉じて出迎えたときに伊耶那岐命が語って曰く「愛しい我が妻の命(みこと)よ、私とあなたで作った国は未だに作り終わっていない。そこで還るべし」と仰せになった。そうして伊耶那美命が答えて曰く「悔しいことです。(あなたが)速く来なかったので自分は黄泉戸喫(よもつへぐひ:黄泉国の食べ物を食べること)をしてしまいました。そうではあるけれども、愛しい我が夫の来ていらっしゃることは、恐れ多いことなので、還ろうと思う。しばらく黄泉神(よもつかみ:黄泉国の神)と相談しましょう。私を決して見ないように」とこのように申して、その御殿の内に還っていったその間が、実に長くて、待つことが難しかった。そこで、左のみづらに刺した湯津々間櫛(ゆつつまくし:神聖な頭部の側面に差す櫛)の男柱(をばしら)を一つ取り欠けて、火を一つ灯して入ってみたところ、蛆(うじ)がたかってゴロゴロうごめき、頭には大雷(おほいかづち)が居て、胸には火雷(ほのいかづち)が居て、腹には黒雷(くろいかづち)が居て、女陰には析雷(さくいかづち)が居て、左の手には若雷(わかいかづち)が居て、右の手には土雷(つちいかづち)が居て、左の足には鳴雷(なるいかづち)が居て、右の足には伏雷(ふすいかづち)が居て、併せて八(や)くさの雷(いかづち)の神が成っていた。

 ここで伊耶那岐命は恐れて逃げ還る時にその妻の伊耶那美命が曰く「自分に恥をかかせた」と言って、ただちに予母都志許売(よもつしこめ:黄泉の国の醜悪な女)を遣わして追わせた。そうして伊耶那岐命が黒いかずら(髪飾り)を取って投げうつと、たちまち山ぶどうが生った。(黄泉醜女が)これを拾って食べる間に逃げていった。また、その右のかずらに差した湯津々間櫛の歯をを引き欠けて投げうつと、たちまち竹の子が生えた。醜女がこれ引き抜いて食う間に逃げていった。また、後でその八くさの雷神に千五百の(大勢の)黄泉の国の兵士を添えて追わさせた。そうして腰に帯びた十拳(とつか)の剣(つるぎ)を抜いて後ろ手に振りながら逃げて来た。なおも追った。黄泉(よもつ)ひら坂の坂の下に到ったときに、その坂の下にある桃の実を三つ取って待って撃ったところ、(軍勢は)悉く坂を返っていった。そうして伊耶那岐命は桃の実に「お前は私を助けたように葦原の中つ国にあらゆる現世に生きる青民草(人民)が苦しい瀬に落ちて悩むときに助けるべし」と告げて、名を賜って意富加牟豆美命(おほかむづみのみこと)と名づけた。

 この後、その妻の伊耶那美命が自ら追って来た。そうして千人がかりで引くほどの巨大な岩でその黄泉ひら坂に引いて塞ぎ、その岩を中に置いて各々が立ち向かって離別の言葉を述べたときに伊耶那美命が「愛しい我が夫の命(みこと)よ、こうするならば、あなたの国の青民草(人民)を一日に千人縊り殺しましょう」と言った。そうして伊耶那岐命が「愛しい我が妻の命(みこと)よ、お前がそうするならば、自分は一日に千五百人の産屋(うぶや)を建てよう」と仰せになった。これを以て(現世では)一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まれるのだ。そこで、その伊耶那美命を名づけて黄泉津大神(よもつおほかみ)と謂う。また曰く、その追いついたのを以て道敷大神(ちしきのおほかみ)と名づけた。また、その黄泉坂(よもつさか)を塞いだ岩は道返之大神(ちがへしのおほかみ)を名づけた。また、塞がり鎮座する黄泉戸大神(よもつとのおほかみ)と謂う。そこで、そのいわゆる黄泉ひら坂は今、出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)と謂う。

◆日本書紀
 日本書紀の異伝では次のような件がある。直訳調ではあるが訳してみた。

<第十>一書に曰く(中略)その妻と泉平坂(よもつひらさか)で互いに(決別のために)戦うに至って、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が曰く「はじめは親族の為に悲しみ、また忍んだことは、これ私が意気地がないからだ」とおっしゃった。時に泉守道者(よもつちもりひと:黄泉の国の入口を守る人)が「(伊弉冉命の)お言葉があります。曰く『私はあなたとすっかり国を生みました。どのようにしてまた生きることを求めるのですか。私はこの国(黄泉国)に留まります。共に去ることはできません』とおっしゃいました」と申した。この時に菊理媛神(くくりひめのかみ)も申すことがあった。伊弉諾命はお聞きになって褒めてただちに退去した。(後略)

……菊理媛が何を言ったのか不明だが、伊弉諾尊を納得させる内容であったようだ。
◆参考文献
・「古事記 新編日本古典文学全集1」(山口佳紀, 神野志隆光/校注・訳, 小学館, 1997)
・「日本書紀1 新編日本古典文学全集2」(小島憲之, 直木孝次郎, 西宮一民, 蔵中進, 毛利正守/校注・訳, 小学館, 1994)
・「古事記講義」(三浦佑之, 文藝春秋, 2007)

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2019年8月 5日 (月)

松見町の八幡神社の神楽を見学 2019.08

松見町の八幡神社(JR横浜線大口駅から徒歩10分)に神楽を見にいく。午後一時半頃入る。ネットで調べた情報だと午後二時からだったのだけど、実は午前中からやっていて「山海交易 言いつけの場」を見逃す。

「山海交易」と「天孫降臨」が舞われる。「山海交易」は海幸彦の釣り針が黄金の針であること、豊玉彦(龍神)とワダツミ神が別人格であること、ワダツミ神と赤目鯛とのバトルで黄金の針を取り戻すこと、最後に玉の内一つを海幸彦に授けて仲直りするといったところが原典との相違点。天孫降臨は最後に猿田彦命が舞台を払い清めて神楽終了となった。

横越社中・山海交易:海幸彦と山幸彦
横越社中・山海交易:海幸彦と山幸彦
山海交易:釣り針が無いことに気づく海幸彦
山海交易:釣り針が無いことに気づく海幸彦
山海交易:豊玉姫
山海交易:豊玉姫
山海交易:海幸彦、山幸彦に戦いを挑むも、二つの玉の威力でたじたじとなる
山海交易:海幸彦、山幸彦に戦いを挑むも、二つの玉の威力でたじたじとなる
天孫降臨:猿田彦登場
天孫降臨:猿田彦命登場
天孫降臨:モドキと猿田彦命との諍い
天孫降臨:モドキと猿田彦命との諍い
天孫降臨:猿田彦命と天鈿女命との連舞
天孫降臨:猿田彦命と天鈿女命との連舞
山神の舞:最後に猿田彦命が舞台を払い清めて終了
山神の舞:最後に猿田彦命が舞台を払い清めて終了

加藤社中の加藤俊彦さんがいらして声をかけて頂く。加藤社中の女性の方たち、僕の顔を覚えていてくれた。文教大学の斉藤先生を紹介して頂く。観客の中には外国人もいて、米国人で普段は英会話の先生をやっているそうだが、能楽をやっているとのことで普通の日本人より伝統芸能に詳しいことになる。能楽も見ようと思ってるんですけどと言ったら、退屈ですよと言われる。

加藤さんは横越社中の出身だそうで笛と締め太鼓を担当されていた。また佐相社中も横越社中から分かれたとのこと。土師流とあるので聞いてみたら、埼玉県久喜市の鷲宮神社の土師一流催馬楽神楽がこの辺りの神楽の源流とのこと。六角橋囃子も有名らしい。

加藤さんに笛の音が裏返るのはどう呼ぶのですかと聞いてみる。「ひい」「ひき」と聞こえたのだけど、ちょうど囃子が流れていてうまく聞き取れなかった。

例外はあるかもしれないが、五郎王子の神楽は関東の里神楽にはないようだ。すると修験僧が神楽を伝えたという中国地方の神楽とはルーツが異なるのかもしれない。まあ、五行神楽は口上による問答合戦に魅力があるらしいので、黙劇である関東の里神楽とは相性が悪いかもしれない。

真夏の炎天下での開催で熱中症にならないかなと思っていたのだけど、境内には木陰があって案外暑い思いはしなかった。

午後から神楽を観始めたのだけど、最初は観客が少なくて焦る。夕方から人が増え始め、夏祭りらしい雰囲気になった。

今回は神楽を見ている子供がいた。あまり見てなかったような気もするけど、囃子に身を浸すだけでいいと思う。

惜しいのは、演目と演目の間に時間が掛かって、せっかく鑑賞していた観客の人たちが席を立ってしまうことである。演目が始まればまた戻ってくるのだけど、人は入替ってしまう。合間にはお囃子が演奏されたり、獅子舞が演じられたりで退屈はしなかった。

思うに天王町の橘樹神社は境内が細長くて、屋台のあるスペースと神楽殿の間が離れているのが集客面で響いているのかもしれない。

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2019年8月 3日 (土)

あら、いい男――イザナギ命とイザナミ命の国生み

◆鷲宮神社の土師一流催馬楽神楽
 島根県の石見神楽ではイザナギ命とイザナミ命との国生みを題材とした演目は存在しない。関東で埼玉県久喜市の鷲宮神社の土師(はじ)一流催馬楽(さいばら)神楽に「八洲起源浮橋事之段(やしまきげんうきはしわざのまい)」という国生みを表現した演目がある。ただし、これは演劇化されたものではなくストーリー性はない。神の仕草を表現した儀式舞という形になる。

八洲起源浮橋事之段
八洲起源浮橋事之段
八洲起源浮橋事之段:イザナギ命
八洲起源浮橋事之段:イザナギ命
八洲起源浮橋事之段:イザナミ命
八洲起源浮橋事之段:イザナミ命
八洲起源浮橋事之段:イザナギ命とイザナミ命
八洲起源浮橋事之段:イザナギ命とイザナミ命

◆あらすじ
 イザナギ命とイザナミ命の兄妹は天の沼矛(ぬぼこ)で海の潮をかき回した。すると矛の先に滴った潮が固まって島になった。この島をオノゴロ島という。オノゴロ島に天下って、天の御柱を巡って子を生み成そうとなった。イザナギ命とイザナミ命は柱の周りを巡って出会ったところで、イザナミ命が「あら立派な男子」と先に言ってそれからイザナギ命が「あら素敵な乙女」と言った。女が先に言ったので国生みは上手くいかず、蛭子(ひるこ)と淡島が生まれた。蛭子は船に載せて流してしまった。やり直すことにして、今度はイザナギ命が先に「あら素敵な乙女」と言ったので国生みは成功して日本を形づくる幾つもの島が生まれた。それから神を生んだ。様坐な神々が誕生した。最後に火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ:火の神)を生んだ。火の神を生んだことでイザナミ命は病の床につき、嘔吐物や糞尿からも神が生まれた。そうしてイザナミ命は亡くなってしまった。それを嘆いたイザナギ命の涙からは泣沢女神(なきさわめのかみ)が生じた。イザナギ命は迦具土神を斬り殺してしまう。するとその血から様々な神々が生まれ、また死体からも様々な神々が生じた。

◆古事記
 古事記の該当部分を直訳調ながら現代語訳してみた。

 ここに天つ神は諸々の命令をして、伊耶那岐命(いざなぎのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)の二柱の神に「この漂える国を繕い固めなせ」と仰せになって、天(あめ)の沼矛(ぬほこ)を賜って、命令された。そこで、二柱の神は天の浮橋に立ってその沼矛を差し下ろしてかきまわしたところ、潮をカラカラとかき鳴らして引き上げたときに、その矛の末端から垂れ落ちた潮は重なり積もって島となった。これが淤能碁呂島(おのごろしま)だ。

 その島に天下って天(あめ)の御柱(みはしら)を発見した。ここで、その妻の伊耶那美命に問うて曰く「お前の身はどのようにして成っている」と言ったところ、答えて「私の身は成り成りて成り合わぬ処が一か所あります」と申した。そうして伊耶那岐命は「私の身は成り成りて成り余った処が一か所ある。そこで、この我が身の成り余ったところで、お前の身の成り合わない処を刺し塞いで国土(くに)を生みなそうと思う。生むのはどうか」と仰せになったところ、伊耶那美命は「それなら良いでしょう」と言った。そうして伊耶那岐命は「ならば、私とお前とでこの天の御柱を行き巡り逢って寝所で交わろう」と仰せになった。こうして契ってただちに「お前は右から回り給え。私は左から巡って逢おう」と仰せになった。契り終わって回った時に、伊耶那美命が「なんと立派な男子でしょう」と言い、後で伊耶那岐命が「なんと素敵な乙女だろう」と言った。各々が言い終わった後で、その妹に告げて曰く「女性が先に言ったのは良くないことだ」と言った。そうだけれども婚姻の場所を興して生んだ子は水蛭子(ひるこ)だった。この子は葦船に入れて流し去った。次に淡島(あはしま)を生んだ。これもまた子の内に入れなかった。

 ここで二柱の神は協議して曰く「今自分が産んだ子は良くない。なお天つ神の御所(みところ)に申すべきです」と言って、ただちに共に参上し、天つ神の命令を請うた。そうして天つ神の命令でふとまに占って「女人が先に言ったのが良くない。また還って降って改めて言え」と仰せになった。そこでそうして返って降って、更にその天の御柱をゆき巡ることは先の如くであった。

 ここで伊耶那岐命が先に「なんと素敵な乙女だろう」と言って、後で伊耶那美命が「なんと立派な男子でしょう」と言って、このように言い終わって交合して生んだ子は淡路之穂之狭別島(あはじのほのさわけのしま)だ。次に伊予之二名島(いよのふたなのしま)を生んだ。この島は身は一つで顔が四つあり。顔ごとに名があった。そこで伊予国(いよのくに)は愛比売(えひめ)と謂い、讃岐国(さぬきのくに)は飯依比古(いいよりひこ)と謂い、粟国(あはのくに)は大宜都比売(おほげつひめ)と謂い、土佐国(とさのくに)は建依別(たけよりわけ)と謂う。次に隠岐之三子島(おきのみつごのしま)を生んだ。またの名は天之忍許呂別(あめのおしころわけ)。次に筑紫島(つくしのしま)を生んだ。この島もまた身は一つで顔が四つあった。顔ごとに名があった。そこで筑紫国(つくしのくに)は白日別(しらひわけ)と謂い、豊国(とよくに)は豊日別(とよひわけ)と謂い、肥国(ひのくに)建日向豊久士比泥別(たけむかひとよくじひねわけ)と謂い、熊曾国(くまそのくに)は建日別(たけひわけ)と謂う。次に伊岐島(いきのしま)を生んだ。またの名は天比登都柱(あまひとつはしら)と謂う。次に津島(つしま:対馬)を生んだ。またの名は天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)と謂う。次に佐渡島(さどのしま)を生んだ。次に大倭豊秋津島(おほやまととよあきづしま)を生んだ。そこで、この八つの島を先ず生んだことによって大八島国(おほやしまくに)と謂う。

 そうして後に還っていたときに吉備児島(きびのこしま)を生んだ。またの名は建日方別(たけひわけ)と謂う。次に小豆島(あづきしま)を生んだ。またの名は大野手比売(おほのてひめ)と謂う。次に大島(おほしま)を生んだ。またの名は大多麻流別(おほたまるわけ)と謂う。次に女島(をみなしま)を生んだ。またの名は天一根(あまひとつね)と謂う。次に知訶島(ちかのしま)を生んだ。またの名は天之忍男(あめのおしを)と謂う。次に両児島(ふたごのしま)を生んだ。またの名は天両屋(あめのふたや)と謂う。<吉備児島より天両屋島に至るまでは併せて六つの島だ>。

 既に国を生み終わって更に神を生んだ。生んだ神の名は大事忍男神(おほことおしのかみ)。次に石土毘古神(いはつちびこのかみ)を生んだ。次に石巣比売神(いはすひめのかみ)を生んだ。次に大戸日別神(おほとひわけのかみ)を生んだ。次に天之吹男神(あめのふきおのかみ)を生んだ。次に大屋毘古(おほやびこのかみ)を生んだ。次に風木津別之忍男神(かざもくつわけのおしをのかみ)を生んだ。次に海の神、名は大綿津見神(おほわたつみのかみ)を生んだ。次に水戸(みなと)の神、名は速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)を生んだ。次に妹速秋津比売神(いもはやあきつひめのかみ)<大事忍男神から秋津比売神に至るまでは併せて十柱の神だ>。

 この速秋津日子神・速秋津比売神の二柱の神が河と海によって分け持って生んだ神の名は沫那芸神(あわなぎのかみ)。次に沫那美神(あわなみのかみ)。次に頬那芸神(つらなぎのかみ)。次に頬那美神(つらなみのかみ)。次に天之水分神(あめのみくまりのかみ)。次に、国之水分神(くにのみくまりのかみ)。次に天之久比奢母智神(あめのくひざもちのかみ)。次に国之久比奢母智神(くにのくひざもちのかみ)<沫那芸神から国之久比奢母智神に至るまでは、併せて八柱の神だ>。

 次に風の神、名は志那都比古神(しなつひこのかみ)を生んだ。次に木の神で名は久々能智神(くくのちのかみ)を生んだ。次に山の神で名は大山都見神(おほやまつみかみ)を生んだ。次に野の神で名は鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)を生んだ。またの名は野椎神(のづちのかみ)と謂う<志那都比古神から野椎に至るまでは、併せて四柱の神だ>。

 この大山津見神・野椎神の二柱の山野によって分け持って生んだ神の名は天之狭土神(あめのさづちのかみ)。次に国之狭土神(くにのさづちのかみ)。次に天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)。次に国之狭霧神(くにのさぎりのかみ)。次に天闇戸神(あめのくらとのかみ)。次に国之闇戸神(くにのくらとのかみ)。次に大戸或子神(おほとまとひこのかみ)。次に大戸或女神(おほとまとひめのかみ)<天之狭土神から大戸或女神に至るまでは併せて八柱の神だ>。

 次に生んだ神の名は鳥之石楠船神(とりのいはくすふねのかみ)。またの名は天鳥船(あめのとりふね)と謂う。次に大宜都比売神(おほげつひめのかみ)を生んだ。次に火之夜芸速男神(ひのやぎはやをのかみ)を生んだ。またの名は火之炫毘古神(ひのかかびこのかみ)と謂い、またの名は火之迦具土神と謂う。この子を生んだことによって、(伊耶那美命は)女陰を焼いて病み伏した。嘔吐物から成った神の名は金山毘古神(かなやまびこのかみ)。次に金山毘売る神(かなやまひめのかみ)。次に糞から成った神の名は波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ)。次に波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ)。次に尿から成った神の名は弥都波能売神(みつはのめのかみ)。次に和久産巣日神(わくむすひのかみ)。この神の子は豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)と謂う。そこで伊耶那美命は火の神を生んだことによって遂に神避(かむさ)られた(お隠れになった)<天鳥船から豊宇気毘売神に至るまでは、併せて八柱の神だ>。

 凡そ伊耶那岐・伊耶那美の二柱の神の共に生んだ島は十四島だ。また神は三十五柱の神だ<これは伊耶那美神の未だ亡くなっていないその前に生んだものだ。但し、意能碁呂島(おのごろしま)だけは生んだのではない。また蛭子と淡島は子の例に入れない>。

 そこでそうして伊耶那岐命は「愛しい我が妹の命(みこと)よ、子の一つに変わろうと謂うのか」と仰せになって、ただちに枕元へ腹這いになり、足元に腹這って泣いたときにその涙から成った神は香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木本(このもと)に鎮座する名は泣沢女神(なきさはめのかみ)だ。そこで、そこでその神避(かむさ)った伊耶那美神は出雲国(いづものくに)と伯耆国(ははきのくに)の境の比婆之山(ひばのやま)に葬った。

 ここで伊耶那岐命は腰に帯びていた十拳の剣(とつかのつるぎ:十の握り拳ほどもあるおおきな剣)でその子迦具土神の首を切った。その刀の切っ先についた血は湯都石村(ゆついはむら:神聖な石の群れ)に走りついて成った神の名は石析神(いはさくのかみ)。次に根析神(ねさくのかみ)。次に石筒之男(いはつつのをのかみ)<三柱の神>。次に刀の本(もと)に付いた土もまた湯都石村に走りついて成った神の名は甕速日神(みかはやひのかみ)。次に樋速日神(ひはやひのかみ)。次に建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)。またの名は建布都神(たけふつのかみ)。またの名は豊布都神(とよふつのかみ)<三柱の神>。次に刀の柄に集まった血は手の指の間から漏れ出て成った神の名は闇淤加美神(くらおかみのかみ)。次に闇御津羽神(くらみつはのかみ)。

 上の件の石析神から以下、闇御津羽神より以前、併せて八柱の神は御刀によって生まれた神だ。

 殺された迦具土の頭に成った神の名は正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ)。次に胸に成った神の名は淤縢山津見神(おどやまつみのかみ)。次に腹に成った神の名は奥山津見神(おくやまつみのかみ)。次に男陰に成った神の名は闇山津見神(くらやまつみのかみ)。次に左手に成った神の名は志芸山津見神(しぎやまつみのかみ)。次に右手に成った神の名は羽山津見神(はやまつみのかみ)。次に左足に成った神の名は原山津見神(はらやまつみのかみ)。次に右の足に成った神の名は戸山津見神(とやまつみのかみ)<正鹿山津見神から戸山津見神に至るまでは併せて八柱の神だ>。そこで斬った刀の名は天之尾羽張(あめのをはばり)と謂う。またの名は伊都之尾羽張(いつのをはばり)と謂う。

◆日本書紀
 日本書紀の正伝の国生みではイザナミ命が先に「ああ、いい男」と言ってしまうが、そこで蛭子や淡島は生まれず、イザナギ命が「男が先に言うべきだ」とやり直す展開となっている。

 ただちにオノゴロ島を国の中央の柱として、柱、ここでは美簸旨邏(ミハシラ)と云う。陽神(男神)が左から巡って、陰神(女神)は右より巡った。国の柱を分かれて巡って、同じく一つの側で会った。そのとき陰神が先に唱えて曰く「ああうれしい。美しい男に逢ったことだ」と仰せになった。小男、ここでは烏等弧(ヲトコ)と云う。陽神は喜ばずに曰く「自分はこれ男子である。理(ことわり)として先に唱えるべきだ。どうして婦人が道理に反して先に言葉を発するか。事は全くよろしくない。そこで改めて巡るべきだ」と仰せになった。ここで二柱の神は返ってまた互いに逢った。今度は陽神が先に唱えて曰く「ああうれしい。美しい乙女に逢ったことだ」と仰せになった。少女、ここでは烏等呼(ヲトメ)と云う。よって陰神に問うて「あなたの身に何が成ったところが有るか」と仰せになった。「私のの身に一つの女性であることの根源となる処があります」と仰せになった。陽神は曰く「自分の身にも男性であることの根源となる処が有る。我が身の元の処であなたの身の元の処に合わせようと思う」と仰せになった。ここに陰陽が初めて交合して夫婦となった。

◆参考文献
・「古事記 新編日本古典文学全集1」(山口佳紀, 神野志隆光/校注・訳, 小学館, 1997)
・「日本書紀1 新編日本古典文学全集2」(小島憲之, 直木孝次郎, 西宮一民, 蔵中進, 毛利正守/校注・訳, 小学館, 1994)
・「古事記講義」(三浦佑之, 文藝春秋, 2007)

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海幸山幸と神楽

 ◆関東の太々神楽
 記紀のいわゆる海幸山幸神話は石見神楽では演目化されていないが、関東の太々神楽で「幸替の舞」として演目化されていた。太々神楽なので演劇化はされていない。儀式舞的なものに海幸山幸の物語が織り込まれている。

品川神社の太々神楽「幸替の舞」:山幸
品川神社の太々神楽「幸替の舞」:山幸
幸替の舞:海神から塩満玉を受け取る
幸替の舞:海神から塩満玉を受け取る
幸替の舞:山幸が攻めるも塩満玉の力で跳ね返される
幸替の舞:山幸が攻めるも塩満玉の力で跳ね返される
幸替の舞:降参した山幸
幸替の舞:降参した山幸

◆関東の里神楽
 2019年8月第一週の日曜日に横浜市松見町の八幡神社で横越社中の「山海交易」を鑑賞。「山海交易」は「言いつけの場」「取り替えの場」「喧嘩の場」「龍宮の場」「和合の場」と全部演じると四時間以上かかる大作だった。

 「山海交易」は海幸彦の釣り針が黄金の針であること、豊玉彦(龍神)とワダツミ神が別人格であること、ワダツミ神と赤目鯛とのバトルで黄金の針を取り戻すこと、最後に玉の内一つを海幸彦に授けて仲直りするといったところが原典との相違点。

山海交易・言いつけの場:山幸彦・ニニギ命・海幸彦
山海交易・言いつけの場:山幸彦・ニニギ命・海幸彦
山海交易:取り替えの場:弓矢と釣り竿を交換した海幸彦と山幸彦
山海交易:取り替えの場:弓矢と釣り竿を交換した海幸彦と山幸彦
山海交易:喧嘩の場:海で釣りをするも、赤目鯛に黄金の釣り針を取られてしまう山幸彦
山海交易:喧嘩の場:海で釣りをするも、赤目鯛に黄金の釣り針を取られてしまう山幸彦
山海交易:喧嘩の場:黄金の釣り針が失われていることに気づく従者のモドキ
山海交易:喧嘩の場:黄金の釣り針が失われていることに気づく従者のモドキ
山海交易:喧嘩の場:釣り針を無くしたのを知られまいと仮病を使う山幸彦
山海交易:喧嘩の場:釣り針を無くしたのを知られまいと仮病を使う山幸彦
山海交易:喧嘩の場:黄金の釣り針が失われたことに気づいた海幸彦
山海交易:喧嘩の場:黄金の釣り針が失われたことに気づいた海幸彦
山海交易:喧嘩の場:自分の剣を差し出して何とか事を収めようとする山幸彦だが海幸彦は聞かない
山海交易:喧嘩の場:自分の剣を差し出して何とか事を収めようとする山幸彦だが海幸彦は聞かない
困り果てたところに塩椎神が現れて山幸彦を龍宮へと導く
困り果てたところに塩椎神が現れて山幸彦を龍宮へと導く
山海交易:龍宮の場:豊玉彦(龍神)登場
山海交易:龍宮の場:豊玉彦(龍神)登場
山海交易:龍宮の場:豊玉姫登場
山海交易:龍宮の場:豊玉姫登場
山海交易:龍宮の場:山幸彦、竜宮の従者であるおかめさんから水を恵んでもらう
山海交易:龍宮の場:山幸彦、竜宮の従者であるおかめさんから水を恵んでもらう
山海交易:龍宮の場:豊玉彦に事情を話す山幸彦
山海交易:龍宮の場:豊玉彦に事情を話す山幸彦
山海交易:龍宮の場:ワダツミ神登場
山海交易:龍宮の場:ワダツミ神登場
山海交易:龍宮の場:海のあらゆる魚を探して黄金の釣り針を探す
山海交易:龍宮の場:海のあらゆる魚を探して黄金の釣り針を探す
山海交易:龍宮の場:赤目鯛登場
山海交易:龍宮の場:赤目鯛登場
山海交易:龍宮の場:ワダツミ神と赤目鯛のバトル
山海交易:龍宮の場:ワダツミ神と赤目鯛のバトル
山海交易:龍宮の場:ワダツミ神と赤目鯛のバトル
山海交易:龍宮の場:ワダツミ神と赤目鯛のバトル
山海交易:龍宮の場:山幸彦、汐満玉と汐乾玉を授かる
山海交易:龍宮の場:山幸彦、汐満玉と汐乾玉を授かる
山海交易:和合の場:山幸彦、黄金の針を海幸彦に渡そうとするが、中々渡さない
山海交易:和合の場:山幸彦、黄金の針を海幸彦に渡そうとするが、中々渡さない
山海交易:和合の場:汐満玉で海幸彦を溺れさせる山幸彦
山海交易:和合の場:汐満玉で海幸彦を溺れさせる山幸彦
山海交易:龍宮の場:降参する海幸彦
山海交易:龍宮の場:降参する海幸彦
山海交易:和合の場:山幸彦、玉の一つを海幸彦に与える
山海交易:和合の場:山幸彦、玉の一つを海幸彦に与える
山海交易:和合の場:仲直りした海幸彦と山幸彦
山海交易:和合の場:仲直りした海幸彦と山幸彦
山海交易:和合の場:山幸彦、勝利のポーズ
山海交易:和合の場:山幸彦、勝利のポーズ

◆あらすじ
 海幸(火照命:ほでりのみこと)は海の魚を、山幸(火遠理命:ほおりのみこと)は山の獣を狩って暮らしていた。あるとき兄弟は互いの狩りの道具を交換した。そうして火遠理命が釣りをしたところ、一匹も釣れずに釣り針を無くしてしまった。火遠理命は自分の剣を鋳潰して沢山の釣り針を作ったが、兄の火照命は元の釣り針がよいと受け取らなかった。困り果てた火遠理命が海岸に佇んでいると、塩椎神(しおつちのかみ)が海の向こうの海神の宮殿に行くことを教えた。塩椎神の作った舟で旅立った火遠理命は果たして宮殿に辿りついた。そうして井戸の傍らの桂の木の上に登っていると、水を汲みにきた下女が命の姿を見て、海神の娘の豊玉姫に知らせた。豊玉姫はとても麗しい青年がやって来たと父の神であるワダツミ神に知らせた。火遠理命と豊玉姫は結婚した。

 三年が経ったある日、火遠理命はここにやって来た訳を思い出して大きなため息をついた。それを見た豊玉姫が父の海神に告げた。海神がなぜ嘆いているのか訊いたので、火遠理命は事情をつぶさに話した。海神が海の魚を悉く呼びだすと、チヌが喉に魚の骨が引っかかって物が食べられないと訴えた。果して失った釣り針であった。海神は釣り針を兄に返すときに呪詛する様に教えた。

 火遠理命が故郷へ帰ることとなってワニが送ることになった。一尋(ひろ)ワニは自分なら一日で送ることができるといった。果してその通り一日で到着した。故郷に帰ってからの火遠理命は海神に教えられた通りに釣り針に呪いの言葉を掛けて兄に返した。それから兄の火照命は段々と貧しくなり、遂に攻めて来た。火遠理命は海神から授かった潮満玉と潮干玉を使って火照命を降参させた。火照命は弟の火遠理命に臣従した。

◆古事記
 古事記の該当部分を直訳調ながらも現代語訳してみる。

 そこで、火照命(ほでりのみこと)は海佐知毘古(うみさちびこ:海の獲物を得る男)として、ひれの大きな魚(大きな魚)、ひれの小さな魚(小さな魚)を獲り、火遠理命(ほをりのみこと)は山佐知毘古(やまさちびこ:山の獲物を得る男)として、毛の粗い獲物、毛の柔らかい獲物(様々な獣)を獲っていた。そうして火遠理命がその兄(の火照命)に「各々獲物を捕る道具を交換して使ってみたい」と言って三度請うたけれども(火照命は)許さなかった。そうではあるけれども、遂にやっと交換することができた。そうして火遠理命は海の獲物を得る道具で魚を釣ったが全く一匹の魚も釣れなかった。また、その釣り針を海に失ってしまった。ここで、その兄の火照命は、その釣り針を乞うて曰く「山の獲物を得る道具も、自分の道具、海の獲物を得る道具も自分の道具(自分の道具でなくてはうまく得られない)。今は各々の道具を返そう」と言ったときに、その弟の火遠理命が答えて曰く「自分の釣り針は魚を釣っていたが、一匹の魚も釣れずに、遂に海に失ってしまった」と言った。そうだけれども、その兄は強引に乞い徴収した。そこで、弟が佩(は)いている十拳(とつか)の剣(つるぎ)を破って、五百の(数多くの)釣り針を作って償ったけれども取らなかった。また、千もの釣り針を作って償ったけれども、(兄は)受け取らずに「何と言ってもその正真正銘元の釣り針を得たい」と言った。

 ここで、その弟(火遠理命)は泣いて憂えて海辺にいたときに、塩椎神(しほつちのかみ:潮流を司る神)が来て問うて「虚空津日高(そらつひたか:日を仰ぎ見る如く貴い、中空なる神)が泣き憂えている理由は何か」と言った。答えて「自分は兄と道具を交換してその釣り針を失ってしまいました。ここで(兄が)その釣り針を乞うために数多の釣り針で償ったけれども受けずに『やはり正真正銘元の釣り針が欲しい』と言った。そこで泣き憂えているのです」と言った。そうして塩椎神は曰く「私があなたの為に善い計略を為しましょう」と言ってたちまち無間勝間(まなしかつま:編んだ竹と竹との間が堅く締って隙間がない)の小舟を造って、その舟に載せて教えて曰く「自分がその舟を押し流したなら、暫く(そのままに)行きなさい。具合のよい潮路があります。ただちにその道に乗って行けば、鱗の様にずらりと建物の並んだ宮殿(があります)、それ綿津見神(わたつみのかみ)の宮です。その神の門に到ったら、傍らの井戸の上に神聖な桂の木があるでしょう。そこで、その木の上にいれば、その海の神の娘が見つけて互いに謀ってくれるでしょう」と言った。

 そこで、教えのままに少し行くと、十分にその言葉の様だった(その言葉通りであった)。ただちにその桂の木に登っていた。そうして、海の神の娘の豊玉毘売(とよたまびめ)の下女が美麗な器を持って水を汲もうとした時に、井戸に光があった。仰ぎ見ると、麗しい青年がいた。とても不思議に思った。そうして火遠理命はその下女に「水が欲しい」と乞うた。

 下女はただちに水を汲んで、玉のような器に入れて奉った。そうして水を飲まずに首の玉を解いて口に含んでその器に吐き入れた。ここで、その玉は器について、下女は玉を離すことができなかった。そこで玉を着けながら豊玉毘売命に進上した。

 そうして、(豊玉毘売は)その玉を見て、下女に問うて「もしや誰か門の外にいるのですか」と言った。答えて「人がいて、我らの井戸の上の桂の木の上にいます。とても麗しい青年です。我らが王に増してとても貴いのです。そこで、その人が水を乞うたので、水を奉ったところ、水を飲まずにこの玉を吐き入れました。これは離すことができません。そこで入れながら持って来て献上しました」と言った。そうして、豊玉毘売命は不思議に思って出て見て、ただちに(火遠理命の姿を)見て愛でて目配せして、その父に曰く「我らの門に麗しい人がいます」と言った。そうして海の神自ら出て見て曰く「この人は天津日高(あまつひたか)の御子、虚空津日高(そらつひたか:日を仰ぎ見る如く貴い、中空なる神)だ」と言って、ただちに内に連れて入り、アシカの皮の畳を八重(幾重にも)敷いて、また絹の畳を幾重にもその上に敷き、その上で座らせて、数多くの物を載せる台に物を供えて、食事をとらせて(服属して)、ただちにその娘の豊玉毘売と結婚させた。そこで三年に至るまでその国に住んだ。

 ここで火遠理命はその最初の出来事を思って、大いに一度嘆いた(ため息をついた)。そこで豊玉毘売命は火遠理命の嘆きを聞いて父に「三年住んでも、常には嘆くことは無かったのに、今夜は大きくため息を一つつきました。もしかして何か理由があるのでしょうか」と申した。そこで豊玉毘売の父の大神は、その婿に問うて「今朝、我が娘が語ったのを聞いたところ、『三年いましたけれども、常には嘆くことは無かったのみ、今夜大きくため息をついた』と言った。もしかして理由があるのか。また、ここに到った理由は」と言った。そうして、その大神にその兄の失せた釣り針を徴発された状況をつぶさに語った。

 これを聞いて、海の神は悉く海の大小の魚を召し集めて問うて「もしかしてこの釣り針を取った魚がいるか」と言った。そこで諸々の魚が「この頃はチヌ(赤海鯽魚:たひ)が『喉に(魚の)骨が刺さって物を食べることができません』と憂えて言いました。そこできっとこれを取りましょう」と申した。ここでチヌの喉を探ったところ、釣り針があった。ただちに取り出して清め洗って火遠理命に献上したときに、その綿津見大神が教えて「この釣り針を持ってそなたの兄に与えるときに言う事は『この釣り針はぼんやりの釣り針、猛り狂う釣り針、貧しい釣り針、役立たずの釣り針』と言って後ろ手で渡せ。そうしてそなたの兄が高地に田を作ったならば、そなたは低地に田を営め。そなたの兄が低地に田を作ったならば、そなたは高地に田を作れ。そうしたら、自分は水を司るので、三年の間、そなたの兄は貧しくなるだろう。もしそなたの兄がそうなる事を恨んで攻め戦うならば塩盈珠(しほみちのたま)を出して溺れさせよ。もしそれが憂えて(許しを)請うならば、塩乾珠(しほひのたま)を出して生かせ。このように悩み苦しめよ」と言って、塩盈珠と塩乾珠を併せて二つ授けて、たちまち悉くワニ(鮫)を召し集め、「今、天津日高の御子、虚空津日高(そらつひたか)、上の国に出ようとしている。誰か幾日かで送り届けて復命するか」と問うた。そこで、各々身体の長さに応じて日数を申す中で、一尋(ひとひろ)のワニが「自分が一日で送ってただちに還りましょう」と申した。そこでそうしてその一尋ワニに「ならばお前が送り奉れ。もし海の真ん中を渡るときは(火遠理命を)恐れ畏まらせることのないように」と告げて送り出した。そこで、約束通りに一日で送り奉った。そのワニが返ろうとした時に、腰に帯びた紐小刀を解いて、その首に着けて送り返した。そこでその一尋ワニは今では佐比持神(さひもちのかみ)と謂う。

 これを以て、つぶさに海の神の教えた通りにその釣り針を(兄の火照命に)与えた。そこで、それより後は段々いよいよ貧しくなって、更に(先に釣り針を強引に求めた以上に)荒い心を起こして攻めて来た。攻めようとするときには塩盈珠(しほみちのたま)を出して溺れさせた、そして憂えて(許しを)請えば塩乾珠(しほひのたま)を出して救った。このように悩み苦しめさせた時にぬかずいて「自分は今から後、あなたの昼夜の守護人として仕え奉りましょう」と申した。そこで、今に至るまでその溺れた時の種々の仕草を絶えずにお仕えしているのだ。

◆日本書紀
 日本書紀の一部を訳してみる。

 兄の火闌降命(ほのすそりのみこと)は元から海の幸を得、幸、ここでは左知サチと云う。弟の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は元から山の幸を得ていた。はじめ、兄弟二人が互いに語らって「試しに易幸(さちがえ)しよう」とおっしゃり、とうとう互いに交換した。各々はその幸を得なかった(獲物を獲ることができなかった)。

 時に兄の火闌降命は既に悩まされて、ただちに自ら従って「今から後、私はあなたの俳優(わざおぎ)の民となりましょう。願わくば生かし給え」と申した。

 俳優(わざおぎ)とは滑稽な所作をして神や人を楽しませる人と注にある。日本書紀の方がこの箇所については分かり易い。

◆余談
 火遠理命の父のニニギ命は山を司る大山祇神の娘コノハナサクヤヒメと結婚して子供を残した。子の火遠理命は海を司る綿津見大神の娘豊玉姫と結婚して子孫を残した。山と海の支配権を得ることで、皇室の権威権力は盤石のものとなったのである。

 火遠理命の子で神武天皇の父であるウガヤフキアエズ命は母の豊玉姫の妹である玉依毘売(たまよりびめ)と結婚するのであり。叔母と甥の結婚である。もしかしたら玉依毘売と豊玉姫とは腹違いの姉妹であるかもしれない。そうすると歳が離れていても不自然ではないのだが、それにしても姉さん女房である。

 海幸山幸の神話は子供の頃から親しんだものであるが、単独で絵本化されてもいる。

 古事記の神代篇の最後の部分にあたる神話だが、なぜかこの海幸山幸の神話の部分だけ原始的というか文明が後退しているかのような印象がある。元々古くからあった説話が神話に取り込まれたものだろうか。

 塩満玉はもしかしたら南海トラフ地震のメタファーかもしれない。海沿いに暮らす海幸が津波の被害で弱体化してしまうことが語られているのかもしれない。

◆参考文献
・「古事記 新編日本古典文学全集1」(山口佳紀, 神野志隆光/校注・訳, 小学館, 1997)
・「日本書紀1 新編日本古典文学全集2」(小島憲之, 直木孝次郎, 西宮一民, 蔵中進, 毛利正守/校注・訳, 小学館, 1994)
・「古事記講義」(三浦佑之, 文藝春秋, 2007)

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2019年8月 1日 (木)

次はチャンチキ――佐藤両々「カグラ舞う!」

月刊ヤングキングアワーズ9月号を買う。佐藤両々「カグラ舞う!」今回配役が決まる。神楽は手打鉦(チャンチキ)。楽なポジションだとされているけれど、現実だと数年間は手打鉦をやってリズムを身体に刻み込むのだとか。

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