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2019年7月14日 (日)

神功皇后と「武内」

◆はじめに
 石見神楽の演目「武内」は神功皇后と武内宿祢が住吉の神から潮干る珠と潮満つ珠をを授かって新羅の賊を成敗する内容である。

 神功皇后は石見神楽の演目「塵輪」に登場する仲哀天皇の后で応神天皇の母である。仲哀天皇は宝の国を授けようという神託を信じず、それ故に神の怒りに触れて亡くなったとされている。一説には熊襲征伐中に流れ矢に当たって崩じたともいい、こちらの方が実情に近いのではないかと思わせる。

 仲哀天皇の死後、神功皇后は朝鮮半島への進出を決行する。当時の半島は「財(たから)の国」だったのですな。それで日本には叶わないと見た高句麗、百済、新羅の三国が日本に貢物を送ってくる様になったというのが「武の内」の粗筋である。実際、広開土王碑にあったように高句麗とは朝鮮半島の支配権を巡ってライバル関係にあったと思われる。後年、隋に圧迫された高句麗が日本に使者を送ってきたという話も日本書紀に記されている。

◆動画
 「塵輪」はしばしば上演されるが「武の内」は見たことないなと思ってYouTubeを検索したらヒットした。演じる団体もあるようだ。

 YouTubeで後野社中の「武の内」を視聴。海神楽とあるので国分海岸で催された神楽だろう。口上はよく聞き取れなかった。オープンエアだし、神楽はお酒を飲みながら、おしゃべりしながら観るものなので口上が聞き取れないのはやむを得ない。武内宿祢は老人として描かれていた。壮年だと神功皇后との関係を疑われるか。住吉の神から潮干る珠と潮満つ珠を授けられるのだけど、天蓋に吊るして効果を演出していた。

 出雲神楽・唐川神楽の「三韓」を視聴する。同じ題材でも石見神楽とは全く異なる内容だった。武内の臣は神功皇后の手を引いて舞台を巡る。神功皇后はどことなく挙動不審だ。武内の臣が三韓の王たちと押し合いへし合いして、最後に三韓の王がばたっと倒れ伏す。やられたと思ったら立ち上がるのが笑いどころ。それを何度か繰り返して降参する。

◆関東の里神楽
 2019年3月、東京の間宮社中の「八幡山黒尉(やわたやまこくじょう)」を見る。神功皇后が新羅に出兵するに当たり、河で魚を釣って戦況を占う。釣れたのが鮎だった。魚へんに占と書いて鮎である。いざ出陣しようとしたところに墨之江大神(すみのえのおおかみ:黒尉)が現れ、神功皇后はひれ伏す。産気づいたので身体に石を当てて出陣する……という内容。関東の里神楽は基本黙劇でセリフはない。またゆったりとした動作で写真に撮ると分かるが一つ一つのポーズが決まっている。

八幡山黒尉:神功皇后
八幡山黒尉:神功皇后
八幡山黒尉:神功皇后と武内宿祢
八幡山黒尉:神功皇后と武内宿祢
八幡山黒尉:神功皇后
八幡山黒尉:神功皇后
八幡山黒尉:釣りで占いをする神功皇后
八幡山黒尉:釣りで占いをする神功皇后
八幡山黒尉:墨之江大神(黒尉)が登場
八幡山黒尉:墨之江大神(黒尉)が登場
八幡山黒尉:産気づく神功皇后
八幡山黒尉:産気づく神功皇后

◆日本書紀
 日本書紀では神功皇后の三韓征伐は下記の様に描かれている。直訳調であるが現代語訳してみた。

 九年の春二月に足仲彦天皇(仲哀天皇)は筑紫(つくし)の橿日宮(かしひのみや)でお亡くなりになった。その時皇后は天皇が神の教えに従わず早くお亡くなりになったことを嘆き悲しんで思うに、祟る神を知って財宝(たから)の国を求めようと欲した。これを以て群臣(まへつきみたち)と百寮(もものつかさ)に命じて罪を祓え過ちを改めて更に斎宮(いつきのみや)を小山田邑(むら)に作らせた。

 三月の壬申(じんしん)の朔(一日)に、皇后は吉日を選んで斎宮に入り、自ら神主となり、ただちに武内宿祢に命じて琴を弾かさせ、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)を召して審判者(さには)とした。よって多くの幣を高く積み、琴の前後に置き、祈願して曰く「先日、天皇にお教えになったのは誰の神か。願わくばその名を知りたい」と申した。七日七夜が経って、たちまち答えて曰く「神風の伊勢国の百(もも)伝う度逢県(わたらひのあがた)の拆鈴五十鈴宮(さくすずいすずのみや)にいます神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきたかきいつのみたまあまざかるむかつひめのみこと)なり」とおっしゃった。また問うて「この神を除いて他にいらっしゃるか」と申した。答えて曰く「幡萩穂(はたすきほ:旗のように風になびくすすき)の様に出た我は尾田の吾田節(あがたふし)の淡郡(あはのこおり)にいらっしゃる神があり」とおっしゃった。問うて「またありますか」と申した。答えて曰く「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりびこいつのことしろのかみ)がいる」とおっしゃった。問うて「またいらっしゃいますか」と申した。ここで審判者(さにわ)が申すに「ちょうど今答えず、また後でおっしゃることがありますか」と申した。ただちに答えて曰く「日向国(ひむかのくに)の橘小渡(たちばなのをど)の水底にいらして水草や海藻も若くに出でます神、名は表筒男(うはつつのを)・中筒男(なかつつのを)・底筒男(そこつつのお)の神がいる」とおっしゃった。問うて「また他にありますか」と申し、答えて曰く「あるともないとも知らず」とおっしゃり、遂にまた他に神ありとおっしゃられなかった。そうして神の言葉を得て教えのままに祭った。そうして後に吉備臣(きびおみ)が祖鴨別(おやかもわけ)を遣わして、熊襲国を討たせた。未だ浹辰(せふしん:12日)の経たずに、自ずから従った。また荷持田村(のとりたのふれ)、荷持、ここでは能登利(のとり)と云う。に羽白熊鷲(はしろくまわし)という者がいて、その人となりは強く猛々しく、また身に翼があって空を飛び翔ることができた。これを以て皇命に従わず、常に人民を略奪していた。

 戊子(ぼし:十七日)に皇后は熊鷲を討とうと欲して、橿日宮(かしひのみや)から松峡宮(まつをのみや)に遷(うつ)った。そのとき飄風(つむじかぜ)がたちまち起きて、御笠が吹き落とされた。そこで当時の人はそこを名づけて御笠(みかさ)と言う。

 辛卯(しんばう:二十日)に層増岐野(そそきの)に至って、ただちに兵を挙げて羽白熊鷲を討って滅ぼした。側近の者に語って「熊鷲を取ることができて、我が心は安らかだ」とおっしゃった。そこで、そこを名づけて安(やす)と言う。

 丙申(へいしん:二十五日)に山門県(やまとのあがた)に移って、ただちに土蜘蛛の田油津媛(たぶらつひめ)を誅殺した。その時、田油津媛の兄の夏羽(なつは)、軍勢を興して迎えた。そうしたところ、妹(おと)が殺されたと聞いて逃げた。

 夏四月の壬寅(じんいん)の朔の甲辰(こうしん:三日)に北火前国(きたのかたひのみちのくちのくに:肥前国)の松浦県(まつらのあがた)に至って、玉島里(たましまのさと)の小川のほとりで食事を召された。ここで皇后は針を曲げて釣針を作って、米粒を取って餌にして、釣針を投げ祈って曰く「朕、西方の財(たから)の国を求めようと思う。もし事を成すことができるなら河の魚よ釣針を食え」とおっしゃった。よって竿を挙げて、たちまち鮎を獲た。その時皇后が「珍しい物だ」とおっしゃった。希見、ここでは梅豆邏志(めづらし)と言う。そこで当時の人はそこを名づけて梅豆羅国(めづらのくに)と言う。ちょうど今松浦を謂うのは訛ったのである。これを以てその国の女人(をみな)が四月の上旬毎に釣針を川の中に投げて鮎を捕ることが今に至るまで絶えない。ただし男夫(をのこ)だけは釣るといっても、魚を獲ることができない。

 既に皇后は神の教えの効験あることをお知りになって、また神祇を祀って、自ら西方を討とうと欲し、ここに神田(みとしろ)を定めて田を耕した。その時、儺河(なのかわ)の水を引き、神田を潤そうと欲し、溝を掘って迹驚岡(とどろきのおか)に至ったところ、巨岩が塞いで溝を掘ることができなかった。皇后は武内宿祢を召して、剣と鏡を捧げて祈祷して溝を通すことをお求めになった。たちまちその時落雷があってその岩を蹴り裂いて水を通させた。そこで、当時の人はその溝を名づけて裂田溝(さくたのうなて)と言う。皇后は還って橿日浦(かしひのうら)に至って、髪(みぐし)を解いて海に臨んで曰く「自分は神祇の教えを被り、皇祖の霊(みたまのふゆ)を頼り、蒼海を渡って自ら西方を討とうと思う。ここを以て、たった今、頭を海水で濯(すす)ぐ。もし効験があるなら、髪よ自ずから分かれて二つになれ」とおっしゃった。ただちに海に入れて洗(すす)ぐと、髪は自ずと分かれた。皇后はそこで髪を結い分けて鬟(みづら)になさった。よって群臣に語って曰く「それ戦を興して諸々の者を動かすのは国の大事である。安いのも危ういのも、勝つのも敗れるのも、必ずここにある。ちょうど今討つ所がある。事を群臣に授けた(付託した)。もし事が成就しなければ罪は群臣にはない。これは大層痛い。自分は手弱女(たおやめ)で、また未熟で愚かである。そうではあるけれども、暫く丈夫(ますらお)の姿を借りて、強引に雄大な計略(ををしきはかりこと)を興そう。上は神祇(あまつかみくにつかみ)の霊(みたまのふゆ)を被り、下は群臣(まえつきみたち)の助けによって兵士たちを振るい起こして高き浪を渡り、船を整えて財土(たからのくに)を求めよう。もし事が成就したなら群臣共に軍功があって、事が成就しなかったら、自分独りに罪があろう。既に心を決している。それ共に議論せよ」とおっしゃった。郡臣は皆「皇后は天(あめ)の下の為に宗廟社稷(国家)を安らかにさせる所以(ゆえ)を計っておられます。また、罪は臣下に至らずとおっしゃる。謹んで命令を承ります」と申した。

 秋九月の庚午(かうご)の朔の己卯(きぼう:十日)に諸々の国に命令して船舶を集め兵士を訓練した。その時兵士たちの集まりが悪かった。皇后曰く「きっと神の御心であろう」とおっしゃり。ただちに大三輪社(おほみわのやしろ)を立てて刀と鉾を奉ると、兵士たちは自ずと集まった。ここに吾瓮海人烏摩呂(あへのあまをまろ)に西の海に出て国があるかと視察させた。還って曰く「国は見えませんでした」と申した。また、磯鹿海人名草(しかのあまなぐさ)を遣わして観察させたところ、数日して還って曰く「西北に山がありました。雲が横たわっています。考えてみるに、国があるのでしょうか」と申した。ここに吉日を占って、出発しようとするにはまだ日があった。その時皇后は自ら斧と鉞(まさかり)を取って全軍に命令して曰く「金の鼓が節度を失い、旌旗(せいき:標識の軍旗)が錯乱すれば、士卒は整わず、財を貪り欲深くなって私心を抱き妻を思う心があれば、必ずや敵に捕らえられるだろう。その敵が少なくとも侮るな。敵が強くとも怖れるな。そこで犯し暴力を振るう物を許すな。自ら服従した者を殺すな。遂に戦に勝ったならば必ずや恩賞があろう。背いて逃げるならば自ずから罪があろう」とおっしゃった。既に神の教えることがあって曰く「和魂(にぎみたま)御身に従って御命を守り、荒魂(あらみたま)は先鋒として軍船を導こう」とおっしゃった。和魂、ここでは珥岐瀰多摩(ニキミタマ)と云う。荒魂はここでは阿邏瀰多摩(あらみたま)と云う。ただちに、神の教えを獲て拝礼して、よって依網吾彦男垂見(よさみのあびこをたるみ)を祝祭の神主とした。その時、たまたま皇后の臨月に当たっていた。皇后は石を取って腰に差しはさみ、祈って曰く「事を終えて還る日に、ここで産まれ給え」とおっしゃった。その石はちょうど今伊都県(いとのあがた)の道のほとりにある、さるほどに、たちまち荒魂を軍勢の先鋒として、和魂を請じて王の船の鎮守とした。

 冬十月の己亥(きがい)の朔の辛丑(しんちう:三日)に和珥津(わにつ)から出発した。その時神風を起こし、海神は浪を挙げ、海中の大魚(おふを)が悉く浮かんで船を助けた。たちまち大風が順風に吹き、帆船は波に従い、梶や楫(かい)を労せずして、たちまち新羅に至った。ただちに神祇が悉くお助けになったかということを知った。新羅王(しらきのこにしき)、ここに怖気づきわなないて成す術がなかった。そこで諸々の人を集めて曰く「新羅の建国以来、未だかつて海水が国に押しあがることを聞かない。考えてみるに、天運が尽きて国が海となろうとするか」と言った。この言葉が終わらない間に、軍船が海に満ちて軍標となる旗が日に輝き、鼓や笛が音を鳴らし、山と川は悉く震えた。新羅王、遥かに望んで、非常な兵士がまさに己(おの)が国を滅ぼそうとすると思い、怖気づいて心惑った。、ちょうど今醒めて曰く「自分が聞くに東に神の国がある。日本(やまと)と謂う。また聖王(ひじりのきみ)がいて天皇(すめらみこと)ということを。必ずやその神の国の軍隊だろう。どうして兵を挙げて防ぐことができようか(できない)」と言った。ただちに白旗を上げて自ら服従し、白い組紐で自らを縛り、地図と戸籍を封印して御船の前に降伏した。よって叩頭して曰く「今から後、長く乾坤(あめつち)と共に従って飼部(みまかい)となりましょう。それ船の梶を乾かすことなく、春と秋に馬の櫛と馬の鞭を献上しましょう。また海の遠いのを厭わず年毎に男女の調(みつき)を奉りましょう」と申した。ただちに重ねて曰く「東から出る日が更に西から出ない様に、また阿利那礼河(ありなれがわ)が逆流して逆さまに流れ、河の石が登って星辰(あまつほし)となるに至る場合を除いて、特に春秋の朝貢を欠き怠って馬の櫛と鞭の貢物を廃せば、天神地祇よ共に罪に処し給え」と申す。その時ある人が「新羅王を殺しましょう」と言った。ここで皇后の曰く「初めに神の教えを承って、金銀(くがねしろかね)の国を授けんとして、また全軍に号令して『自ら服従した者を殺すな』と言った。ただ今既に財国(たからのくに)を獲た。また人も自ずから降伏した。殺すのは性質の悪いことだ」とおっしゃった。ただちにその縛(ばく)を解いて飼部(みまかひ)とした。遂にその国の中に入って、重宝(たから)の府庫(くら)を封印し、地図と戸籍と文書を収めた。そこで皇后の突いた御矛を新羅王の門に立て、後の世の印とした。そこでその矛は今もなお新羅王の門に立っている。ここに新羅王の波沙寐錦(はさむきぬ)はただちに微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質として、これによって、金(くがね)、銀(しろかね)、彩色(うるわしきいろ:彩りの美しい宝物)と綾(あやきぬ)、羅(うすきぬ)、縑絹(かとりのきぬ)をもたらして、八十叟の船に載せて官軍に従わせた。これを以て新羅王は常に八十叟の船で調(みつき)を日本国(やまとのくに)に奉った。ここに高麗(こま)・百済(くだら)の二つの国の王(こにしき)は新羅が地図と戸籍を納めて日本国(やまとのくに)に降伏したと聞いて、密かに日本の軍勢を伺わせ、ただちに勝てまいと知って自ら営舎の外に来て、叩頭して誠意をもって曰く「今から後、長く西蕃(せいばん)と称して、朝貢することを断ちません」と申した。そこで、よって内官家(うちつみやけ:海外の貢納国)を定めた。これがいわゆる三韓(みつのからくに)である。皇后は新羅からご帰還しなさった。

 十二月の戊戌(ぼしゆつ)の朔の辛亥(十四日)に誉田天皇(ほむたのすめらみこと)を筑紫にお生みになった。そこで当時の人は、その産んだ所を名づけて宇瀰(うみ)と言う。

◆太平記
 「太平記」巻40に「神功皇后高麗を攻め給ふ事」という一節がある。神功皇后が潮干珠と潮満珠を使ったという記述はこれによるものと「校訂石見神楽台本」は指摘している。

 そもそも大元三百万騎の蒙古どもが一時に滅んだことは、全く我が国の武勇ではないのである。ただ日本の大小の天神地祇と宗廟(祖先のみたまや)の目に見えない助力によったのではないかと神威を尊ばない者はなかった。昔仲哀天皇は天子の文武の徳で高麗の三韓を攻めさせたが、戦いは有利ではなく帰ったのを神功皇后がこれは智略と武略の足らないところであるといって、唐朝へ戦の師への謝礼として砂金三千両を渡され、履道翁(りどうおう)が三巻の秘書を伝えられた。これは黄石公(くわうせきこう)が五日目の(鶏の鳴く)早朝に渭水(ゐすい)の橋の上で張良に授けた書物である。

 (朝鮮半島を攻める)ことが既に定まって後、軍議のために皇后が諸々の天神地祇を招請したところ、日本秋津洲(あきつしま)の大小の天神地祇と冥界にある仏とが皆、勅請に従って来た。そうだけれど、海底に跡を垂れる安曇弥(あとめ)の磯良(いそら)だけはお召しに応じなかった。これはどんな訳があるのかと、神を集めて庭で火を焚き、榊の枝に青和幣(あおにぎて:麻で作った青みがかった幣)と白和幣とを取り掛けて、風俗歌や催馬楽(さいばら:古代歌謡)などを歌った。梅枝(うめがえ)・桜人(さくらびと)・石川(いしかは)・葦垣(あしがき)・夏引(なつひき)の糸・飛鳥井(あすかゐ)の糸・貫川(ぬきかは)・真金吹(まがねふく)・差櫛(さしぐし)・浅水(あさうづ)の橋など、呂律(りよりつ)の音楽を奏で、本末(上の句と下の句)の順序を変えて数回歌わせたところ、磯良は感じ入り耐えかねて、神遊びの庭に参った。その姿かたちを御覧になると、石花(せっか:カキ)や細螺(したたみ:巻貝)・藻に棲む虫が幾つも手足五体に取り付いて人の形ではなかった。神たちは怪しんで「どうしてこのような姿になったのか」と尋ねられたところ、磯良は「自分は青海原の鱗(うろくづ:魚類)に利益を与えようしたために海中に久しく住んでいた内に、この姿かたちになりました。このような姿で恐れ多い神たちの御前へ参ることの余りの恥ずかしさに今まで参りかねていたのを感々融々(かんかんゆうゆう:ゆったりのびのびした)とした律雅(上品な律の調べ)の声に恥を忘れ身をも顧みず参ったのです」と答えた。すぐに磯良をお使いとして竜宮の宝である旱珠(かんじゅ:干珠)と満珠(まんじゅ)とを借り召されて、一巻の秘書を智謀として両顆の明珠(二つのすばらしい珠)を武備として敵国へお発ちになった。

 この時八幡(応神天皇)は母后の胎内にいて数か月だったので、后の腹は大きくなって。鎧の引き合わせ(鎧の胴の右脇で前後を引き締めて合わせるところ)が開いたので、高良明神(かうらのみやうじん)の計らいとして、鎧の脇立(鎧の胴の右脇の空洞に当ててふさぐもの)を初めてしたのだとか。諏訪明神と住吉明神とを副将軍と裨将軍(副将軍)として三韓に押し寄せ、二つの珠の威力で蒙古を退治されたので、新羅・百済・高麗等の王と臣は悉く降参したので、皇后の弓の上側の筈(はず)で「三韓の諸王は我が日本の犬である」岩の上に書きつけて、ご帰朝された。これから高麗も我が国に従って、長年貢物を奉った。古(いにしえ)に呉服(くれはとり)という綾織りで王仁(わうにん)という才人が我が国に来たのも、その貢物に伴っていた。大紋の高麗縁(こうらいべり:高麗錦の畳の縁)もその貢物の箱の縁だと聞く。

◆羽白熊鷲
 「塵輪」のバリエーションらしいが、神功皇后に退治されたとされている羽白熊鷲を題材にした演目が芸北神楽にあるとのこと。ブログ「斉藤裕子でごじゃるよ~」の情報。塵輪との連想は翼があり自在に空を飛ぶことができたという記述からだろうか。

◆余談
 おくり名に「タラシ」と付く天皇や后は後の世の創造であるという説があり、オキナガタラシヒメこと神功皇后も想像上の人物であるということになる。まあ、応神天皇の正統性を示すために創られた話なのかもしれない。

 武内宿祢は五代の天皇に仕えた長命の家臣ということになっている。これは武内一族の者が代々の天皇に仕えたのを一人の人格に集約したものだろう。ちなみに、蘇我氏は武内宿祢の子孫であるとされている。
 神功皇后が神意を占うのに武内宿祢に琴を弾かせている。ここでは武内宿祢が神がからせる者で神功皇后が神がかる者となっている。審判者(さには)は別にいる。

◆参考文献
・「古事記 新編日本古典文学全集1」(山口佳紀, 神野志隆光/校注・訳, 小学館, 1997)
・「日本書紀1 新編日本古典文学全集2」(小島憲之, 直木孝次郎, 西宮一民, 蔵中進, 毛利正守/校注・訳, 小学館, 1994)
・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)pp.149-157
・「神楽新考」(岩田勝, 名著出版, 1992)pp.284-293

記事を転載→「広小路

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