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2019年7月14日 (日)

ヤマトタケル命/四道将軍

◆はじめに
 古事記と日本書紀に登場するヤマトタケル命の神話は好んで神楽の神話劇として取り上げられている。

◆関東の里神楽
 2019年3月に催された江戸里神楽を観る会で「日高見蜘蛛(ひたかみのくも)」という演目が上演された。「目黒大神(めぐろのおおかみ)」という演目と「日高見蜘蛛」を合わせた内容となっているとのこと。

 粗筋は、景行天皇から東国平定を命じられた日本武尊が足柄山を越えて武蔵国の国常立尊(くにとこたちのみこと)を祀る社を訪れる。そこで武運長久を祈願し、北へと向かう。陸奥国の山中に入ると霧がかかり日本武尊は道にはぐれてしまう。すると大きな毒蜘蛛が現れ、日本武尊は毒牙にかかり倒れてしまう。しかし野狐(国常立尊の化身)が現れ、日本武尊は息を吹き返す。野狐は日本武尊に神鏡を渡し「ただちに日高見蜘蛛を打つべし」と命じる。国常立尊から授かった神鏡と草薙剣の徳によって日本武尊は無事に日高見蜘蛛を退治する……という内容。パンフレットの解説より。この内容はヤマトタケル命の神話には見られないストーリーであり創作色が濃いものと思われる。

日高見蜘蛛:巫女による榊の舞
日高見蜘蛛:巫女による榊の舞
日高見蜘蛛:日本武尊
日高見蜘蛛:日本武尊
日高見蜘蛛:毒牙にかかる日本武尊
日高見蜘蛛:毒牙にかかる日本武尊
日高見蜘蛛:野狐によって救出される日本武尊
日高見蜘蛛:野狐によって救出される日本武尊
日高見蜘蛛:野狐から神鏡を授かる日本武尊
日高見蜘蛛:野狐から神鏡を授かる日本武尊
日高見蜘蛛:毒蜘蛛
日高見蜘蛛:毒蜘蛛
日高見蜘蛛:毒蜘蛛とのバトル
日高見蜘蛛:毒蜘蛛とのバトル
日高見蜘蛛:毒蜘蛛の妖術
日高見蜘蛛:毒蜘蛛の妖術
日高見蜘蛛:毒蜘蛛を仕留める日本武尊
日高見蜘蛛:毒蜘蛛を仕留める日本武尊

◆石見神楽と芸北神楽
 神話の時系列順に紹介すると、石見神楽の演目に「熊襲」、芸北神楽の旧舞で「熊襲征伐」という演目がある。日本童男(おぐな)命が勅命を受け熊襲建(くまそたける)を討つことを宣言する。日本童男命は叔母の倭(やまと)姫命のお召し物を借り受け、少女の姿に扮して熊襲建の祝宴に紛れ込む。日本童男の姿を認めた熊襲建(くまそたける)が童男命を自分の傍に侍らせる。日本童男命は酒の酌をする振りをして熊襲建に斬りつける。倒された熊襲建から日本武尊の名を与えられた日本童男命は以後日本武尊と名乗る……という粗筋である。

次に芸北神楽の新舞「日本武尊(やまとたけるのみこと)」でヤマトタケル命の熊襲征伐が語られる。

「日本武尊」
 人皇十二代、景行天皇の御代、小碓命(おうすのみこと)は筑紫にいる熊襲の頭である川上帥(かわかみたける)を成敗する様命じられる。
 川上帥は手下の五十猛とともに勅命を奉ぜず朝貢をおこたり欲しいままにしていた。その日は館の新築の祝いで宴が催された日だった。小碓命は女装して宴に忍び込む。
 一夜の宿を求めた女を川上帥は受け入れる。宴が始まった。川上帥と五十猛は酒に酔って伏してしまった。女装していた小碓命は剣で切りつける。戦いとなった。五十猛は討たれた。川上帥も倒れたが、しばしの余裕をもらい、小碓命を海内(かいだい)一の勇者なので、日本武尊と名乗るべしと言い残す。小碓命はとどめを刺した。

◆関東の里神楽~日代之宮
 2019年10月に五反田の雉子神社で萩原社中の「日代之宮(ひじろのみや)」を見た。大碓命と小碓命(ヤマトタケル命の前の名)が呼ばれ、熊襲征伐に行けと父の景行天皇から命じられる。が、大碓命は拒んでしまい、景行天皇から打擲を受け、鍬と蓑を渡され追放される。一方、小碓命はこれは大事だと思ったものの、熊襲征伐を引き受け、景行天皇から剣と衣を授かるという内容。他の演目だったら、言いつけの場と呼ばれるだろう。「熊襲征伐」に繋がる演目である。

萩原社中・日代之宮・景行天皇登場
萩原社中・日代之宮・景行天皇登場
萩原社中・日代之宮・主人を探すもどき
萩原社中・日代之宮・主人を探すもどき
萩原社中・日代之宮・大碓命登場
萩原社中・日代之宮・大碓命登場
萩原社中・日代之宮・大碓命、景行天皇に拝謁する
萩原社中・日代之宮・大碓命、景行天皇に拝謁する
萩原社中・日代之宮・景行天皇、熊襲征伐を拒んだ大碓命を打擲する
萩原社中・日代之宮・景行天皇、熊襲征伐を拒んだ大碓命を打擲する
萩原社中・日代之宮・小碓命登場
萩原社中・日代之宮・小碓命登場
萩原社中・日代之宮・小碓命、景行天皇より熊襲征伐を命じられる
萩原社中・日代之宮・小碓命、景行天皇より熊襲征伐を命じられる
萩原社中・日代之宮・もどきが剣と衣を用意する
萩原社中・日代之宮・もどきが剣と衣を用意する
萩原社中・日代之宮・剣を捧げ持つ景行天皇
萩原社中・日代之宮・剣を捧げ持つ景行天皇
萩原社中・日代之宮・大碓命の衣を強引に脱がす景行天皇
萩原社中・日代之宮・大碓命の衣を強引に脱がす景行天皇
萩原社中・日代之宮・景行天皇、大碓命に鍬と蓑を与える
萩原社中・日代之宮・景行天皇、大碓命に鍬と蓑を与える
萩原社中・日代之宮・剣を拝領する小碓命
萩原社中・日代之宮・剣を拝領する小碓命
萩原社中・日代之宮・大碓命に蓑を着せる小碓命
萩原社中・日代之宮・大碓命に蓑を着せる小碓命
萩原社中・日代之宮・衣を被いて出発する小碓命
萩原社中・日代之宮・衣を被いて出発する小碓命

◆関東の里神楽~熊襲征伐
 2019年8月に横浜市港北区大豆戸町の八杉神社で加藤社中の「熊襲征伐」を見る機会があった。石見神楽の様に勇壮な内容ではなく、モドキが登場する滑稽な内容といった方が近かった。途中、川上武が身体が臭いと言われ身を清める場面ではドリフの「威勢のいい銭湯」コントのような展開となる。日本武尊は小学校低学年の女児が演じていた。

熊襲武登場
熊襲武登場
部下のモドキと熊襲武
部下のモドキと熊襲武
熊襲武、男に酌をしてもらっても美味くない
熊襲武、男に酌をしてもらっても美味くない
美女を探し求めるモドキ
美女を探し求めるモドキ
椅子に座ろうとしてずっこける熊襲武
椅子に座ろうとしてずっこける熊襲武
部下のモドキに身を清められる熊襲武
部下のモドキに無理やり無理やり身を清められる熊襲武
ひげを剃ってもらう熊襲武
ひげを剃ってもらう熊襲武
髪を洗ってもらう熊襲武
髪を洗ってもらう熊襲武
乙女に扮装した日本武尊を連れて帰る熊襲武
乙女に扮装した日本武尊を連れて帰る熊襲武
乙女に扮した日本武尊に酌をしてもらう熊襲武
乙女に扮した日本武尊に酌をしてもらう熊襲武
酔い伏した熊襲猛を見て日本武尊、立ち上がる
酔い伏した熊襲猛を見て日本武尊、立ち上がる
剣を抜く日本武尊
剣を抜く日本武尊
斬り合いになる日本武尊と熊襲武
斬り合いになる日本武尊と熊襲武
降参する熊襲武
降参する熊襲武
動かなくなった熊襲武
動かなくなった熊襲武
熊襲武、モドキに連れられて退場する
熊襲武、モドキに連れられて退場

◆熊襲征伐
 ヤマトタケル命の熊襲征伐は古事記では以下のように語られている

 天皇の女性を奪った兄を小碓命(をうすのみこと)は殺してしまう。その荒々しさを恐れた天皇は小碓命に熊襲征伐を命じる。

 ここに(景行)天皇はその御子の猛々しく荒い心を恐れておっしゃった。「西の方に熊曾(くまそ)建(たける)が二人いる。これは(朝廷に)従わず秩序から外れた者達だ。そこで、その人達を討ち取れ」と告げて遣わした。この時に当たって、その髪を額に結った。そうして小碓命はその叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)のお召し物を賜って剣を懐に入れ出発した。

 さて、熊曾建の家に至って見たところ、その家の周囲を軍勢が三重に囲み、室(むろ:家の奥に設けた寝室などとした所)を作っていた。ここに「お住まいが完成した宴をしよう」と大声で騒いで、食物を備えていた。そこで、その傍らを遊びながら行って、その宴の日を待った。

 そうして、その宴の日に臨んで、乙女の髪の如く、その結った髪をくし梳(けず)って垂れ、叔母(倭比売)のお召し物を着て、乙女の姿となって、女人の中に交わり立って、その室(むろ)の内に入って坐した。熊曾建の兄弟二人、その乙女を見て愛でて、自分の傍に侍らせて盛んに遊んだ。さて、宴がたけなわとなった時に臨んで、懐から剣を出して、熊曾の衣の首を取って剣をその胸から刺し通した時に、その弟の建(たける)は見て恐れて逃げ出た。ただちに、その室のはしごの元に追って、弟建の背を取って剣を尻から刺し通した。

 そうしてその熊曾建が申して「その刀を動かさないでください。私は申すことがあります」と言った。そうして暫く許して押し伏せた。ここに申して「あなたは誰か」と言った。そうして「自分は巻向の日代宮(ひしろのみや)にいて大八島国(おおやしまくに)をお治めになる大帯日子淤斯呂和気天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)の御子で名を倭男具那王(やまとをぐなのみこ)だ。おのれら熊曾建二人、(朝廷に)従わず秩序から外れているとお聞きになって、おのれらを取り殺せと御告げになって遣わせたのだ」とお告げになった。そうしてその熊曾建が「まことにその通りです。西の方に、我ら二人をおいて猛々しく強い人はいない。されども、大倭国(おほやまとのくに)に我ら二人に増して猛々しい男がいました。これを以て、自分はお名前を奉りましょう。今から後は倭建(やまとたける)の御子と称するべきです」と申した。この事を申し終わると、すなわち熟した瓜の如く振り割いて殺した。そこで、その時からお名前を称えて倭建命と謂う。こうして還り上るときに、山の神、河の神と穴戸神を言葉で説いて秩序に従わせ参り上った。

……ヤマトタケル命は少女の姿に扮して熊襲猛に近づくのだけど、そこには少女のようなたおやかな姿と裏腹の荒々しい性格が描かれていて、それ故に父の景行天皇に疎んじられて諸国征伐に赴くことになる。ちなみに日本書紀ではヤマトタケル命の身長を一丈としているから当時としては巨漢であったことになる。これと少女の姿に扮するという矛盾したような展開となるのである。

 ちなみに日本書紀では出雲建のエピソードは語られない。崇神天皇の時代に吉備津彦と武渟川別(たけぬなかわわけ)が出雲振根を誅殺したとあるからだろう。剣を偽物と取り換えて殺すエピソードなどが同一である。

◆東国平定
 さて、熊襲と出雲を平らげたヤマトタケル命だが、都に戻ると、すぐ父の景行天皇から東国征伐するように命じられる。父は自分に死ねと言っているのではないかと思ったヤマトタケル命は伊勢に参って叔母の倭比売に心情を漏らす。倭比売は草なぎ剣を与え、火急の際には袋を開けよと助言した。

 石見神楽の演目に「日本武尊」という演目がある。まず日本武尊が登場し、東国が乱れていること、そしてそれを平定しに行くことを宣言する。吉備武彦と大伴の武日の連を連れ、伊勢神宮に参り、叔母の倭比売から天村雲剣と火打ち石の入った袋を授かる(袋は火急の事態になったときに開けよと念を押される)。駿河の国では兄ぎしと弟ぎしが武力ではとても日本武尊に叶わない。謀(はかりごと)を以て日本武尊を討つべしと賊首(ひとこのかみ)に相談する。賊首は駿河の野に大鹿が現れ害をなしている。それを退治して欲しいと乞い、日本武尊が野に入ったところを八方から火をかけ焼き殺してしまう計略を立てる。果して、日本武尊が野に入ったところを四方から火をかけられるが、天村雲剣がひとりでに抜け、草を薙ぎ払い、倭比売から預かった袋に入っていた火打ち石で迎え火をつけて難を逃れることができた。これより後は天村雲剣を草薙の剣と名づけて熱田神宮に納めた……という様な粗筋である。

 日本武尊の口上は日本書紀の景行天皇の台詞に由来するが長いので多少省略する。

 秋七月の癸未(きび)の朔で戊戌(ぼしゅつ:十日)に天皇は居並ぶ卿(きみたち)に命じて「ちょうど今東国(あづまのくに)が平安でない、荒ぶる神が数多起こる。また蝦夷(えみし)が悉く叛逆してしばしば人民(おほみたから)から掠める。誰を遣わしてその乱れたのを平らげよう」とおっしゃった。(中略)ただちに天皇は斧鉞(ふえつ)を取って日本武尊に授けて「朕が聞くことには、その東夷(あづまのひな)は性暴強で凌犯を主となす。村に長(おさ)無く、邑(むら)に首長がいない。各々境を貪って並びに相掠める。また山に邪神(あしきかみ)がいて郊(の)に心がねじ曲がった者がいる。衢(ちまた:分かれ道)を遮り、道を塞ぎ、多く人を苦しめる。其の東夷(あづまのひな)の中で蝦夷は最も強い。男女の区別なく居て、父と子のけじめが無い。冬は穴に寝、夏は巣に住む。毛皮を着て、血を飲み兄弟で互いに疑っている。山に登ることは飛ぶ鳥の如くで敵を見ては必ず報復する。これを以て矢を髻(たぶさ:髪をたぐり上げて房のように束ねたところ)に隠して刀を衣の中に佩いて、あるいは郎党を集めて辺境を侵し、あるいは農耕と養蚕を伺って人民を掠める。討てば草に隠れ、追えば山に入るという。そこで古くからこの方、未だ王化に従わない。ちょうど今朕はお前の人となりを見るに、身体は高く大きく容姿は端正である。力はよく鼎(かなえ)を上げ、猛々しいことは稲光の如くである。向かうところ敵なく、攻めれば必ず勝つ。形は我が子であるが、まさしく神人(かみ)であることを知った。これはまことに天の朕が賢くなく、また国の乱れるを憐れんで天の日嗣(天皇の位)を治め宗廟(くにいへ)を絶えずあらしめる(絶えないようにする)か。またこの天下は即ち汝の天下である。自分の位は即ちお前の位である。願わくは、深く謀り遠慮して、心がねじ曲がっているのを探り背くのを伺い、威を以て示し、徳を以て手懐け、兵士たちを煩わさずに自ずから臣従させよ。すなわち言葉巧みに荒ぶる神を整え、武力を振るって心のねじ曲がった鬼を攘却せよ」とおっしゃった。

 日本書紀では下記の通りである(神楽は日本書紀を出典としている)。

 この年に、日本武尊は初めて駿河に至った。その所の賊が偽って従い欺いて「この野に大鹿が甚だ多いのです。息は朝霧の如くで足は茂った林のようです。お出でになって狩ってください」と言う。日本武尊、その言葉を信じ野に入って狩りをした。賊は王を殺そうという心があって(王とは日本武尊を謂う)火をつけて野を焼いた。王は欺かれたとお知りになって、忽ち火打ち石で火を着けて迎え火を着けて難を逃れることができた(一説に曰く、王の佩いた剣藂雲(もらくも)、自ずと抜けて王の傍らの草を薙ぎ払う。これによって免れることができた。その剣を名づけて草薙という。藂雲、此処には茂羅玖毛」(もらくも)と云う)王はすんでのところで欺かれるところだったおっしゃった。ただちに悉くその賊たちを焼き滅ぼした。そこで、その所を名づけて焼津(やきつ)という。

ちなみに古事記ではヤマトタケル命の単独行動であるが、日本書紀では吉備武彦(きびのたけひこ)と大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)が連れ従っている。


◆新編伊吹山
 芸北神楽の「新編 伊吹山」では海を渡るヤマトタケル命と伊吹山で道に迷う姿が描かれる。

「新編 伊吹山」
 人皇十二代の景行天皇に仕える音丸(おとまる)は東日本の征伐を終えた日本武尊に、近江国伊吹山に鬼神がたち籠もったのでこれを成敗すべく由を申すべく、日本武尊を待つ。
 日本武尊は東国に向かう船が相模国走水(はしりみず)で海難に逢い、妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)が海神の犠牲となって入水したのを悲しく思っていた。
 東国からの帰り道で日本武尊は音丸に会う。音丸は伊吹山の鬼神(大蛇ともいう)を成敗すべしとの勅命を伝えた。
 伊吹山に入った日本武尊は鬼神と戦う。鬼神は大蛇となった。大蛇に巻き込まれ危機一髪のところを弟橘姫が救う。大蛇を退治した日本武尊だったが、大蛇の毒に当てられて余命幾ばくもなかった。日本武尊の魂は弟橘姫の神霊に導かれ、天津神、白鳥の宮めざして昇天した。

◆関東の里神楽~伊吹山
 2019年9月に千束八幡神社で岡部社中の「伊吹山」を見ることができた。前半はモドキが登場し、宮簀媛(みやずひめ)との連舞もある明るい内容だが、後半、宮簀媛に草薙剣を渡してからは日本武尊は病を得、伊吹山の白猪との戦いに苦戦し、最後は白鳥となって昇天するという内容である。

宮簀媛
宮簀媛
日本武尊
日本武尊
モドキ、酒を用意する
モドキ、酒を用意する
日本武尊と宮簀媛の連舞
日本武尊と宮簀媛の連舞
日本武尊と宮簀媛の連舞
日本武尊と宮簀媛の連舞
日本武尊を引き留める宮簀媛
日本武尊を引き留める宮簀媛
宮簀媛に草薙剣を渡す日本武尊
宮簀媛に草薙剣を渡す日本武尊
伊吹山の白猪
伊吹山の白猪
病を得た日本武尊
病を得た日本武尊
白猪に襲われる日本武尊
白猪に襲われる日本武尊
白猪に苦戦する日本武尊
白猪に苦戦する日本武尊
宮簀媛と再会した日本武尊
宮簀媛と再会した日本武尊
しかし、日本武尊は死に瀕していた
しかし、日本武尊は死に瀕していた
白鳥と化した日本武尊
白鳥と化した日本武尊

◆伊吹山
 日本書紀では下記の通りである。

 冬十月の壬子(じんし)の朔の癸丑(きちゅう:二日)に、日本武尊は出発した。

 戊午(ぼご:七日)に回り道をして伊勢神宮(いせのかむみや)を拝んだ。よって倭姫命に暇を乞うて曰く「たった今天皇の命を被って、東の方へ行って、諸々の叛逆する者どもを誅殺しようとしています。そこで暇乞いします」と申したところ、ここに倭姫命は草薙剣を取って日本武尊に授けて曰く「慎んで怠るな」とおっしゃった。

 古事記では倭比売がヤマトタケル命に火打ち石の入った袋を授ける場面が描かれている。

 (前略)、倭比売命、草那芸剣(くさなぎのつるぎ)を賜い、また袋を賜って「もし火急の事があるならば、この袋の口を解きなさい」とおっしゃった。

 日本書紀に戻る。

 また相模(さがむ)に進んで、上総(かみつかさ)に行こうと思い、海を臨んで言上げ(言葉に出して特に言い立てる)して「これ小さい海だけだ。飛び越えて渡ることができよう」とおっしゃった。すぐに海中に至り、暴風がたちまち起こって、王の船は漂って渡るべくもなかった。時に王に従う妾(おみな)がいて弟橘媛(おとたちばなひめ)と言った。穂積氏忍山宿祢(ほづみのうじのおしやまのすくね)の娘である。王に申して「たった今風が起こり波が速く船が沈もうとしています。これは必ずや海神の心によるものです。願わくば賤しい我が身を以て王の命に代えて海に入りましょう」と入った。申すことが終わって、ただちに波を押し分けて入った。暴風はただちに止み、船岸に着くことができた。そこで時の人はその海を名づけて馳水(はしりみず)と言う。

 古事記では下記のような描写がされている。

 海に入ろうとする時に菅(すが)の畳八重、皮の畳八重、絁(きぬ)の畳八重で波の上に敷いて、その上に座った。

 日本書紀に戻る。

 ここに近江(あふみ)の胆吹山(いぶきのやま:伊吹山)に荒ぶる神がいるとお聞きになって、ただちに剣を抜いて宮生簀媛(みやずひめ)の家に置いて素手でお出でになった。胆吹山に至ると、山の神は大蛇に化けて道をさまたげた。ここに日本武尊、主神が蛇に化けたということを知らないで「この大蛇は荒ぶる神の使いであろう。もはや主神を殺すことができれば、その使いをどうして求めるに足ろうか」とおっしゃった。よって蛇を跨いで更にお出でになった。その時山の神は雲を起こし、雹を降らせた。峰に霧がかかり谷は暗く、行くべき道も無かった。そこで退くことも進むこともできなくなって、踏んでいく所も分からなかった。そうではあるが、霧をしのぎ強行し、確かに僅かに(かろうじて)出でることができた。なお、心は惑って酔った如くであった。よって麓の泉のほとりにおいでになって、ただちにその水を飲んで醒めた(判断を失っていたのが戻った)。そこでその泉を名づけて居醒泉(ゐさめがゐ)と言う。日本武尊、ここに初めて病んだ。そうしてようやく起って尾張に還った。

 時に(亡くなった)日本武尊は白鳥に変じて陵から出て大和国を指して飛んだ。

 ……古事記ではヤマトタケル命は旅の途中で亡くなるが、日本書紀では一旦都に帰ってから亡くなっているという違いもある。

◆四道将軍

 日本書紀には崇神天皇が天皇が四道将軍を各地に派遣したとの記述がある。四道将軍のエピソードはヤマトタケル命の神話の元の一つともなったと言われているとのこと。

 芸北神楽に「四道将軍」という演目がある。崇神天皇の腹違いの兄である武埴安彦王が謀反を起こし大和の国を乗っ取ろうとする。崇神天皇はようやく国内の災害を治めたが、遠国は教化していない。四方の国に将軍を遣わそうとする。崇神天皇は大彦命を越の国に派遣しようとする。そうしたところ山城の国で乙女が崇神天皇の危機を告げる歌を詠んだので大彦命は都に帰り、帝に奏上する。そこで崇神天皇は武埴安彦を討つことにする。彦国葺命も勅命を受ける。武埴安彦と対峙した大彦命は戦うが勝負がつかない。そこで矢合わせ(戦の勝敗を占う)をすることにする。武埴安彦の矢は外れ、彦国葺命の矢が武埴安彦に当たる。武埴安彦の手下も討ち取られる。

 日本書紀では下記の通り。

 十年の秋七月の丙戌(へいしゅつ)の朔の己酉(きゆう:二十四日)に群卿たちに仰せになった。曰く「民を導く本(もと)と教化するにあり。たった今既に神祇を敬って災いは皆尽きた。されども、遠い国の人々は未だなお臣従していない。これは未だ王化に習わないだけである。それ群卿と選んで四方に遣わし、朕の教化を知らしめよ」とおっしゃった。

 九月の丙戌の朔の甲午(九日)に大彦命(おほびとみころ)を北陸(くぬがのみち)に遣わし、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海(うみつみち)に遣わし、吉備津彦を西道(にしのみち)に遣わし、丹波道主命(たにはみちぬしのみこと)を丹波(たには)に使わせた。よって仰せになって曰く「もし教えを受けない者があれば、兵を挙げて討て」とおっしゃった。既に共に印綬(いんじゅ)を授けて将軍(いくさのきみ)となした。

 壬子(じんし:二十七日)に大彦命は和珥坂(わにのさか)の上に到った。その時少女(をとめ)がいて歌を詠んで(一説に大彦命は山背(やましろ)の平坂(ひらさか)に到る。そのとき道端に童女(わらわめ)がいて歌を詠んで)

 御間城入彦(みまきいりひこ)はや 己が命(を)を 弑(し)せむと 窃(ぬす)まく知らに 姫遊びすも(一説に 大き門(と)より 窺ひて 殺さむと すらくを知らに 姫遊びすも)

 御間城入彦は自分の命をこっそり奪おうとするのを知らずに女と戯れていることだ。

と言った。ここに大彦命は怪しんで童女に問うて曰く「お前が言ったのは何のことか」と言った。答えて曰く「何も言っていません。歌謡で諷刺したのです」と言った。ただちに重ねて先ほどの歌を詠み、たちまち見えなくなった。大彦はただちに返って現状を詳しく奏上した。ここに天皇の大叔母の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が聡明で賢く、未来のことを能く知ることができた。ただちに歌の前兆をお知りになって天皇に「これは武埴安彦(たけはにやすひこ)が帝を傾けようとする印でしょう。自分が聞くに、武埴安彦の妻の吾田媛(あたひめ)、密かに来て倭(やまと)の香山(かぐやま)の土(はに)を取って領巾(ひれ)の端に包んで、呪って曰く『これは倭国の物実(ものしろ)』と申し、ただちに帰ったと(物実、此処には望能志呂(ものしろ)と言う)。これを以て有事が起きると知りました。すみやかに図らねば必ずや遅れをとりましょう」と申し上げた。

 ここに更に諸々の将軍(いくさのきみ)を留めて協議された。未だ幾ばくもなくて、武埴安彦は妻の吾田媛ともくろんで帝を傾けようとして兵を起こして忽ちに至った。各々道を分けて夫(せ)は山背(やましろ)から、婦(め)は大坂から共に入り、都(帝京)を襲おうとした。そのとき天皇は五十狭芹彦命(いさせりびこのみこと:吉備津彦命)を遣わして吾田媛の兵を討たせた。ただちに大坂にて遮り、皆大いに破って吾田媛を殺して悉くその兵卒を斬った。また大彦と和珥臣(わにのおみ)の遠祖彦国葺(ひこくにぶく)とを遣わして、山背に向かって埴安彦を討たせた。ここに忌瓮(いはひべ:神聖な瓶)で和珥(わに)の武すきの坂の上に据えて、ただちに精兵を率いて進んで那羅山(ならやま)に登って戦場に出発した。そのとき官軍は多く集まって草木を踏みならした。よってその山を名づけて那羅山と言う(蹢跙はここでは布瀰那羅須(フミナラス)と言う)。更に那羅山を避けて進み、輪韓河(わからがは)に到って埴安彦と河を挟んで集まり、各々互いに挑み合った。そこで当時の人は改めてその河を名づけて挑河(いどみがは)と言う。ちょうど今泉河(いづみがは)と言うのは訛ったのである。埴安彦は臨んで、彦国葺に問うて曰く{何のためにお前は兵を起こして来たのか」と言う。答えて曰く「お前は天に逆らって道に外れている。王室を傾けようとしている。そこで、正義の兵を挙げてお前が逆らうのを討とうとする。これは天皇の命令である」と言う。ここに各々先に射ることを争う。武埴安彦、先に彦国葺を射た。当てることはできなかった。その後で彦国葺が埴安彦を射た。胸に当てて殺した。その兵士たちは悉く怯えて退いた。ただちに追って河の北で破った。首を斬ることは半数を超えた。屍が多いに溢れた。そこでそこを名づけて羽振苑(はふりその)と言う。またその兵卒は怯えて逃げ、屎(くそ)が褌(はかま)から漏れた。そなわち鎧を脱ぎ捨てて逃げた。免れることができまいと知り、叩頭していった「我君(あぎ)」と言った。そこで当時の人はその鎧を脱いだ処を名づけて伽和羅(かわら)と言い、褌から尿が垂れたところを屎褌(くそばかま)と言う。ちょうど今樟葉(くすば)と言うのは訛ったのである。また頭を叩きつけて助命を乞うた処を名づけて我君(あぎ)と言う(叩頭、ここでは廼務(のむ)と言う)。

◆動画
 琴庄神楽団の「熊襲」を見る。神が三人。鬼も三人という構成だった。上河内神楽団の「日本武尊」を見る。神は一人、川上梟帥(かわかみたける)は兄弟二人だった。

 左鐙社中の「日本武尊」を見る。草薙の剣の由来を語るエピソード。兄ぎしと弟ぎしは茶利でユーモラスなトークを繰り広げる。賊首(ひとこのかみ)が剣を二本持ってきて兄ぎしと弟ぎしに渡すが一本は傘だった。「今日は雨だけぇちょうどいい」と笑いを取る。火に巻かれる演出はドライアイスで行っていた。最後の場面で兄ぎしと弟ぎしは退治されるが、賊首は退治されない(登場しない)。

 上河内神楽団の「新編 伊吹山」を見る。荒れる海はドライアイスで表現されていた。弟橘姫の入水の場面では蛇胴を使った龍神が登場した。伊吹山の場面では猪や大蛇ではなく鬼神二体が登場し、それを成敗する粗筋となっていた。

◆余談
 横溢するパワーを秘めたヤマトタケル命は父である景行天皇に恐れられ、西国を平定すると息をつく間もなく東国平定に派遣される。古事記では父は自分に死ねと言っているのだと、ヤマトタケル命の心情が語られる。ゆえに日本書紀よりも命の悲劇性がクローズアップされる。

◆参考文献
・「古事記 新編日本古典文学全集1」(山口佳紀, 神野志隆光/校注・訳, 小学館, 1997)
・「日本書紀1 新編日本古典文学全集2」(小島憲之, 直木孝次郎, 西宮一民, 蔵中進, 毛利正守/校注・訳, 小学館, 1994)
・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)pp.95-107
・「かぐら台本集」(佐々木順三, 佐々木敬文, 2016)
・「考訂 芸北神楽台本Ⅱ 旧舞の里山県郡西部編」(佐々木浩, 2011)pp.128-135
・「古事記講義」(三浦佑之, 文藝春秋, 2007)
・平川静「日本武尊」「在地伝承の世界【東日本】講座日本の伝承文学 第七巻」(徳田和夫, 菊地仁, 錦仁, 三弥井書店, 1999)pp.46-61

記事を転載→「広小路

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