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2019年6月

2019年6月30日 (日)

伝説から昔話へ――渡廊下の寄附

◆はじめに
 「まんが日本昔ばなし」で「渡廊下の寄附」がアニメ化されている。出典:大庭良美(未来社刊)よりとあるので、未来社「石見の民話 第二集」である。島根の昔話として紹介されている。演出:あがわさち、文芸:沖島勲、美術:阿部幸次、作画:塚田洋子。

◆アニメのあらすじ
 昔、ある村に分限者(お金持ち)がいた。あるとき村の橋が壊れたので和尚が橋を建て替える寄附を募る手紙を出した。手紙を読んだ分限者だったが、村でどんな災難があっても、びた一文出したことがなかった。今度も持ち合わせがないといって使いの小僧を帰した。村人たちはなけなしの金をはたいて橋や道の修理をしていた。こんな分限者にお寺の和尚は何とかしなければと考えていた。ある雨の日、和尚は本堂と母屋を結ぶ渡り廊下を作ることを思いつく。分限者に手紙を書くが、分限者は生憎持ち合わせがないといって使いの小僧を帰した。そこで和尚は分限者の許に直接赴いた。人間、一生に一度はよい事をしないと地獄に堕ちると告げる。強かな分限者も和尚のこの言葉には堪えた。寄附は幾らと訊くと、和尚は一両と答えた。分限者は寄附というと五、六十両くらいを思い浮かべていたので、和尚の申し出に乗って一両だけ渡した。こうしてお寺の渡り廊下が建てられた。和尚は分限者の功徳だと言う。それから間もなく、分限者は急な病で死んでしまった。けちだとは言っても分限者なので葬儀は盛大に行われた。幸い天気もよく野辺送りも滞りなく行われていた。ところが途中まで来たところで晴れていた空が急に黒雲に覆われた。と、なにやら得体の知れない黒雲が行列の頭上を飛び交いはじめた。黒雲の中から巨大な手が現れて、分限者の棺を取ってしまおうとした。和尚は「待て、廊下、渡り廊下」と叫んだ。和尚が大声で二度叫んだところ、どうしたことか黒雲は動きを止めた。手は分限者の棺を元に戻した。そして黒雲は去っていき、空は晴れ渡った。和尚はあれは火車といって強欲な人が死ぬと死体を地獄に運びとって喰う魔物だといった。分限者は強欲だったが、生前に良い行いを一つだけしていた。それが渡り廊下の寄附だ。火車もそれを忘れていたので、それを教えたのだと言った。和尚は生前、分限者に良い行いをさせるために渡り廊下の寄附を無理やりさせたのだ。こうして分限者の野辺送りはおだやかに行われた。

◆未来社「石見の民話」
 「石見の民話 第二集」の粗筋は下記の通りである。

 あるところに分限者がいた。とてもケチでお寺の寄附なども色々言い訳をして中々出さなかった。檀那寺の方丈は何とかして功徳を積ませないと死んでから罪に落ちると考え、近頃の寺の渡り廊下が痛んで歩くのに危ないようになったので寄附をして欲しいといった。分限者は寄附というと五両も十両もいると考えて嫌な顔をしたが、和尚が一両もあれば充分だと答えたので、喜んで一両出した。

 ところがそれから間もなく分限者は急病で亡くなってしまった。葬式の日は何と言っても分限者だということで大勢の人が来た。幸い天気もよく、坊さんもお経をあげ焼香した。すると急に空がかき曇り、真っ黒い雲が棺を狙って舞い降りてきた。檀那寺の方丈は鉄の如意を振りかぶって「廊下、廊下」と大きな声で叫んで黒雲めがけて投げつけた。すると黒雲は直ちに天上へと舞い上がり、空はもとのように晴れた。

 黒雲は火車で、棺の中の死体をさらうために来たのだった。火車は強欲な人が死ぬと死体をとって喰う魔物だ。居合わせた他の坊さんたちは方丈の「廊下廊下」という一喝の威力に驚いた。方丈は、分限者が強欲で死んだら火車に取られるようなことになってはいけないと思い、渡り廊下の寄附をさせてその功徳で救ったのだと教えた。

◆火車
 アニメでは巨大な手として描かれていたが、Wikipediaの該当項目を読むと猫の妖怪、または猫又だとされている。

山形県では昔、ある裕福な男が死んだときにカシャ猫(火車)が現れて亡骸を奪おうとしたが、清源寺の和尚により追い払われたと伝えられる。そのとき残された尻尾とされるものが魔除けとして長谷観音堂に奉納されており、毎年正月に公開される[16]。この話はまんが日本昔ばなしで「渡り廊下の寄付」の元とされ妖怪火車として登場している。

とある。「まんが日本昔ばなし」でアニメ化されたのは石見の昔話であるが、原典は山形県の伝説だとしている。どうして山形県の伝説が島根県石見地方にまで伝わったのだろうか。単純に考えると、書承ということになるが、「石見の民話」の原話としては「佐々木義雄昔話集」が挙げられている。おそらく昔話を百話レベルで記憶していた人の語りを昔話として採録した本だろう。口承でも相当数の昔話を継承していた人だと思われる。

国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースで火車を検索すると、30件ヒットする。山形県の事例は登録されていないようだが、全国的にも人気のある妖怪だと言えるのではないか。

◆参考文献
・「石見の民話 第二集」(大庭良美/編著, 未来社, 1978)pp.304-305

記事を転載→「広小路

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罪一等減じられる――若狭部豊見

◆入植してきた人々
 寺井実郎「三隅地方の神話と伝説」に「若狭部豊見の悲運」という伝説が収録されている。三隅の青浦に若狭地方から来た漁民たちが入植していた。彼らを統率するのが若狭部という人達だった。若狭部豊見の代に土田の漁民が青浦の若狭部に反逆するようになった。些細な争いが積み重なって、遂に人殺しの罪に問われたという話である。

 漁の見張りに小舟に乗った豊見だったが、三艘の小舟が自分の舟めがけて接近してくる。その内の一艘に乗った若者が豊見の舟に飛び移ると斬りつけてきた。応戦した豊見は船竿で若者を殴り殺してしまった。豊見は罪に問われることになった。絞首刑のところを罪一等減じられて対馬に流罪となった。

 その後、罪を許された豊見は青浦に戻ったが、あと少しで青浦に着くという段階で海が荒れてきた。が、豊見は近くの港に避難することをせず、そのまま青浦に向かった。時化の海で舟は岸壁に叩きつけられて豊見は死んでしまった……という内容。

日本三代実録を確認すると、貞観十六年十月に

石見國人若枝部豊見闘敺殺人。當絞刑。勅冝減死一等並處遠流。

とある。原典だと十月十九日以後の話のようだが「三隅地方の神話と伝説」では十月十六日としている。罪を一等減じられるとあるので、情状酌量の余地があったということだろう。

その後、豊見の死を知った妻は、

「婦悲歎遣る方なく、謂へらく、我死して霊となり、以て海上難に逢ふ人を救い後人を救い後人の悲を免れしめんと。乃ち海に投じて死せり」

となったことが記載されている。これは日本三代実録のどこに載っているか分からなかった。

その後二人の霊を慰めるために青浦に観音像を立てた。それから後は暗夜でシケの時は青浦にある観音崎に燐火が見えるという……とある。

◆余談
 三隅の青浦には若狭から、松原は越後から、須津や土田や大谷は能登から来た者がそれぞれ住み着いたとある。古代から人は動いていたということが知れる。

◆参考文献
・「三隅地方の神話と伝説」(寺井実郎/編, 三隅時報社, 1960)pp.27-30
・「日本三代実録 後編」(黒坂勝美, 国史大系編修会/編, 吉川弘文館, 1973)p.352

記事を転載→「広小路

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2019年6月29日 (土)

機械には文脈が読み取れない――西垣通「こころの情報学」

西垣通「こころの情報学」(ちくま新書)を読む。著者は僕が大学生だったとき、母校の教養課程の理系科目の講師を務めていらっしゃった人。教職課程とバッティングしたので、最初の一回しか講義を聴いていない。著書を読むのは初めてなのだけど、なぜか今に至るまで名前を記憶している。

情報学の本だけど、情報とは生命の誕生から生じたとしている。機械に心は宿るのかといったテーマをオートポイエーシス理論やアフォーダンス理論を援用して解説している。……と言ってもうまく説明できないのだが。アフォーダンス理論はフロー理論の本で紹介された記憶がある。

この先生も機械には文脈を読み取ることができないとの立場をとる。人が幾つかの文脈で判断するのと比べて、機械が判断の対象とする文脈は無数にあり、結果その計算で他のことが何もできなくなるのだとか。

<追記>
併せて西垣通『集合知とは何か ネット時代の「知」のゆくえ』を読む。認知心理学だったか、ラディカル構成主義という学説があるそうで、赤ん坊の認識に関するものなのだけど、構成主義(構築主義)が流行っていることが伺える。

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シネマ歌舞伎を観る

「シネマ歌舞伎 鷺娘/日高川入相花王」を観る。歌舞伎を観るのは実は初めて。客席は年配の方たちで満員で、二列目の前よりな席しか取れなかった。日高川入相花王はまるで人形浄瑠璃のように黒子が付いて演技する。鷺娘は紙吹雪をこれでもかと撒いて玉三郎の衣装早替えを支援する。鷺娘/日高川入相花王とも坂東玉三郎主演の演目なのだけど、大画面でアップで見ると、玉三郎の皺まで見えてしまうのだった。

プロの歌舞伎役者が演じているのだから当然なのだが、全く無駄のない所作。審美的な面でいうと無駄のない動きが美しさに繋がっているのだろうかと愚考している。

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2019年6月28日 (金)

次は源頼光もの――佐藤両々「カグラ舞う!」

ヤングキングアワーズ8月号を買う。佐藤両々「カグラ舞う!」今回、虫送りで舞う演目が決まる。源頼光が主人公の演目である。芸北神楽の新舞は源頼光の鬼退治ものが好んで取り上げられていて、戻橋、山姥、葛城山(土蜘蛛)、大江山三段がえしとある。神祇とは関係ない演目が多いのも芸北神楽の新舞の特徴だ。

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2019年6月23日 (日)

18世紀半ばの神楽史料が見つかる

Facebookを閲覧していると、江津市で18世紀半ばの神楽史料が見つかったとの新聞記事が。当時は石見地方でも将軍舞が舞われていたとのこと。「竹生島」は謡曲由来だろうか。一方、天神、八幡など現在につながる演目も記載されているとのこと。

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おこぜと山の神と手草祭文

◆おこぜと山の神の昔話

 角川書店「日本昔話大成」第10巻におこぜと山の神に関する昔話が収録されている。このおこぜの話は古い神楽にも取り入れられていて人間の誕生の由来とその生まれることで汚れた場を清めたという内容、つまり場を清める神楽という意味を持っていた。

 昔、竜宮の乙姫さまがケンプを食べて、海のものではない味だったので、これは美味しい、取ってまいれとオコゼの次郎に命令した。オコゼの次郎は山を越え谷を越え、ようやくケンプの木を見つけたが、それを王大神山の神が見とがめる。山の神はオコゼを殺そうとしたので、オコゼは山の神は年をとっても独り身だ。竜宮の乙姫さまも妙齢だが独り身だ。私が二人の仲を取り持ちましょうと言い逃れる。オコゼは乙姫さまをらんごの浜へ遊びに誘う。そこで山鳥を見た乙姫さまはあの山鳥を捕まえろとオコゼに命じる。オコゼは山鳥を捕まえて乙姫さまに渡した。すると乙姫さまの体の調子が狂って懐妊してしまった。山鳥は器量の悪い山の神が変じたものだったのである。仕方がないので乙姫さまは山の神の所へお嫁にいった……という話。

 大昔、山の神がいた。山の神は不器量だったので嫁がいなかった。あるとき美しい鳥に変化して海辺で遊んでいたところ、乙姫さまが抱きかかえた。乙姫さまは懐妊し、九万九千の人間が生まれた。ところが産湯をつかうのに困って、芋ころ籠に入れて水の中で揺すったので、身体に不具合を持つ人間も生まれた。そして粟や稗(ひえ)を食べさせて人間の数が増えた……というお話。

◆手草祭文
 広島県比婆郡(現・庄原市)東条町戸宇の栃木家に蔵されていた慶安時代の能本に手草(たぐさ)祭文が収録されている。主人公は宝蔵太子となっているが、おこぜと山の神のモチーフが取り入れられている。そして龍女姫のお産で穢れたので、七日七夜の神楽を修して清めるという流れになっている。

 昔の山之御主をば荒平明神と申す。中比の山之神をば藤平明神と申す。今の山之御主を社九山(せん)の主山之御神と申す。
 宝蔵太子の本地を尋ねると、父がくん王、母が貴船明神である。
 正月三日に誕生したのを藤王御前と申す。使わしめをば千日童子と申す。本地は虚空蔵菩薩で垂迹垂れて天大将軍と申す。
 十三日に誕生したのを藤右御前と申す。使わしめをば一童二童と申す。本地は馬頭観音で垂迹垂れて中代将軍と申す。
 二十三日に誕生したのを藤松御前と申す。使わしめをばわくおう童子と申す。本地は毘沙門つち王で垂迹垂れて地大将軍と申す。
 宝蔵太子の由来を尋ねると、須弥山から丑寅の方向に忉利(とうり)山と村山と二つの山がある。谷に七社あり、こぜんの木の元の壇社が宝蔵太子の社である。
 宝蔵太子は四十二歳になったが、未だ定まった妻がいなかった。龍宮の使わしめの女房の中に十五夜殿という絵の上手な女房がいて、その女房が書いた絵姿女房が風に舞って太子の膝元に落ちてきた。絵姿女房の龍女姫に太子は心を奪われてしまった。早速手紙を書いて龍宮に届けたが返事はなかった。六度まで届けたが返事はなかった。
 七度目の文を書いたけれども、龍女姫は龍宮の王に遠慮して返事を出さなかった。宝蔵太子は恋の病に臥してしまった。
 龍宮の十二人の使いの女房がいて、その中におこじ(おこぜ)の前がいた。おこじの前は太子の恋の病を聞いて、太子の許にやってきた。
 おこじの前は七月七日おつとの渚こうごの浜に龍女姫が浜遊びにおいでになる。そのとき太子はきん長という鳥に変じて菩提主の一の枝に止まれ、そのとき龍宮から十二丁の輿が出てくるから、その中の網代の輿の物見に止まれと助言した。
 そこで宝蔵太子はきん長という鳥に変じて、こうごの浜の菩提主の枝にとまって待っていたところ、おこじの前がやあ、美しい鳥がいますと声をかけ、輿の中に導いた。その鳥は宝蔵太子だった。
 そのとき七日間の日限の約束をして太子は九山に帰った。龍女姫は龍宮に帰って龍宮の王に事の次第を話したところ、王は大層喜んで、十二の輿に数万人のお供をつけて九山に送った。懐妊した龍女姫はつわりとなり、山に三十三の畜類、川に三十三の魚類、海に三十三の鱗のつわりとなった。産屋にいかなる宮殿楼閣を建てようとしたが、龍女姫は必要ない、ただ茅(ちがや)の蓆(むしろ)を七枚半編みなさいと告げた。蓆を編んだところ、二枚の上に二千人、五枚の上に五千人、半分の上に五百人の御子を一夜の内に設けた。
 その産声に天地が穢れたといって諸天がとがめた。清めようといって大ごが峠に八間の神殿を建て、七千五百本の幣を立て四方に注連縄を引き、天上には白蓋(びゃっかい)を置き、下には万畳を敷き、大太鼓を据えて、六十六人の巫女と法者に七日七夜の神楽を舞わせた……という内容。

※これは手草祭文に私独自の解釈で漢字を当てたものです。間違っている箇所が多々あるものと思われますのでご注意ください。

戸宇栃木家蔵慶安四年手草祭文

手草之大事

一 手草葉のその古(いにしえ)は知らねども 神の社は伊勢とこそ聞け

一 手草葉に結い垂(しで)つけて舞払 所堅めに参るなりけり

一 阿波の国鳴門が瀬戸に神立ちて 手草板葉は是にまします

一 そもそも山は父 川は母 海は男の嶋とかや 三つの御門(みかど)を押し開き 今こそようこふ(影向)おわしますなり

一 抑(そも)四天の舞台(ふたい)に花立てて 悪事の枝を撒い散らし 福の枝をば盛り遊ぶなり

一 抑(そも)つくし野草が滝と申には 昼空へ咲いたる葉は結い柴と申 夜下へ咲いたる葉は逆(さか)し葉と申 今と譜代は申(もふ)そべきままに 竹の葉などと申なり 竹の葉に神付ものと知りたらば 駒には食(はま)せし撫でて早沿ふ

一 抑(そも)昔之山之御主をば荒平の明神(めうちん)と申 中比之山之神をば藤平(とうひら)の明神と奉申 今之山之御主を社九山(千)之主山之御神と奉なり

一 されば宝蔵(ほうぞう)太子之御本地を詳しく尋奉に、父をばくん王と申奉る 母をば木ふねえ(貴船か)大明神と祝い奉るなり

一されば正月三日に御誕生(たんちやう)なり給いしをば 藤王御前と奉申使わしめをば千目童子と申 本地虚空蔵菩薩にてましませば垂迹現れて天大将軍(ちやうぐん)三代の明けん(冥見か)と祝い奉るなり

一 十三日に御誕生(たんぢやう)なり給いしをば藤右御前と申奉る 使わしめをば一童二童と奉申 本地を馬頭(ばとう)観音にてましますば 垂迹現れて 中代将軍(ちやうぐん)三宝太蔵と奉申なり

一 廿三日に御誕生(たんぢやう)なり給いしをば 藤松御前と奉申 使わしめをばわく王童子と申なり 本地毘沙門つち王とてましませば 垂迹現れて 地大将軍(ちやうぐん)山之御神と奉申なり

一 然者宝蔵太子之由来を尋奉に 須弥山(しうみせん)より丑寅に当たつて忉利(とうり)山ひ村山とて 二つの山あり 此山に堅固としたる谷あり此谷に中宮とて七社之社御座 此山に七本之植木(うゑき)あり 中にもこぜん(胡髯か)と結いし木あり 此木之元の社壇社(こそ) 宝蔵太子の社なりける 舞切り

されば宝蔵太子し(衍)御年四十ニ歳になり給ゑ共 未だ定まる妻もましまさず されば龍宮(りうくう)二十二人之使わしめの女房あり 中にも十五夜殿と申し 絵(ゑ)の上手(ぢやうす)にてましませば 我(わが)し憂きとは思得共(おもえども) あまりつ慈しくましませば 紅梅の檀紙(だんし)に竹之薄様(うすよう)引思 花園に盛り参らせ 花に戯れ遊ばせ給ゑば 何(いず)れが花 何(いず)れが絵女房共見へざりけり 姿を見れば春の花 形を見れば秋の月 十原十(とお)の結いをも瑠璃を延べたる如くなり

されば俄かに風吹き来て 龍女姫をば虚空(こくう)にふき上げ 何国へ(ゑ)も行くかと思(おもい)し 水(みな)紅(くれない)の扇(あおき)を三間開き 第三度仰がせ給えば お膝の上に折居御座す 袖の下を御覧じ給えば 龍宮の乙姫に龍(りう)女姫是なりと書きつけましましは是社(こそ)恋とはなり給(たも)うなり

其時玉梓(たますさ)を成りまつらせんと思し召し、紅梅の檀紙(だんし)に竹の薄様(うすよう)引く重 大坂山の鹿が撒き筆取出し こうろぎ色なる墨擦り流し 筆染めて思召す言の葉(事之は)を 打はゑ打はゑ遊(あす)ばして 松皮斐紙(ひし)に出し止め 山方ように押し納 南風にまかせて龍宮(りうくう)へ(ゑ)と届け給へ共 御返事更にましまさず

書いては届け書いては届け六度迄届け給ゑ共 然(しか)くの返事は更になし

其時七度目の文を参らせんと思食 七度目の文の文章(ぶんしやう)こそ面白けれ 吹く風の便り嬉しき水ぐきの 後は恥ずかしく(はすか敷)は思ゑ共 相隔たりての事なれば 思いやる小夜春小夜春と 程は雲井に益荒(ますら)方 自ら人故(ゆゑ)に身に憂き宮の増鏡 かけて入相突くすぐ(く)と 枕のなんだ床の塵 払い萌ゑん我袖のきりさ蓆(むしろ)の一人寝は 野寺の鉄(鐘か)の入相(いりやい)の 心尽きぬか花の色 袖を並べて思うには 鮑(あおび)の貝の方(片)思い 羅天(らてん)の月の明け方に 吹き来る方みを見るからに 袖にても書集めたる 藻塩(もちお)草 君の見るのも恥ずかしや 此文煙と御成し候へとかき集め給ゑて 龍宮(りうぐう)へ(ゑ)届き給へど 龍(りう)女姫 龍宮(りうぐう)の王に憚りお仕なし候て 御返事更にましまさず

一 其時宝蔵太子は恋の病に臥し転(まろ)び給(たも)う されば龍宮(りうぐう)十二人の使わしめの女房あり 中にもおこじ(おこし)の舞(前)と申すは此模様(もよ)を聞し召し やら労わしや宝蔵太子は恋の病(やもう)に沈み給(たも)うと承る 安からいで 恋を止めて参らせんと思食 龍宮(りうぐう)を忍び出で 九山に移り宝蔵太子の枕上に立ち添い宣う様は 自らと申は龍宮(りうぐう)のおこじの前(まい)にて候が 宝蔵太子は恋の病に沈み給(たも)うと承る 自ら恋を止めて参らせんがために 遥々参りて候と宣ゑば 宝蔵太子は大に喜び かつぱ(かつは)と起き上がり給(たも)うなり

いかに宝蔵太子承れ 龍(りう)女乙姫と申せしは 七月七日の日おつとの渚こうごの浜へ浜遊びに出で給わろうすぞよ 其時宝蔵太子は 金鳥(きん長)と云し翼に返(変)じて おつとの渚こうごの浜の菩提主の木の一の枝(ゑた)に御待候へや

其時龍宮(りうくう)大王から十二丁の輿出てくるならば 中に網代(あじろ)の輿に目を掛けて 輿の物見に止まり給ゑや 其時自ら進み出で 御取合申べし 由をばこう社(こそ)受けば給われ 舞切

一 其時宝蔵太子は 金鳥(きん長)と言(ゆ)う翼に変じ おつとの渚こうごの浜の菩提(ほ大)主の木之一之枝(ゑた)に御待候へば 十二丁の輿出(い)で来るなり 中にも網代(あしろ)の輿に目を掛けて 輿の物見に止まり給へば 其時おこじ(おこち)舞(前)は進みいで やら慈しき鳥にてましましたる こしの内より合わし給え(たま得)と宣えば 輿の内より合わし給ゑば 鳥ではなくして宝蔵太子にておわしますなり

一 其時七日の間に日限の約束を召され候て 太子は九山に移り給ゑば 龍(りう)女姫龍宮に御帰(かや)り合つて 龍宮(りうぐう)の王に此由を語り給えば 王は大に喜び給いて 十二丁の輿 数万人之人に御供申 九山に移し給ゑば 一日二日一月二月一年二年と送留めされ候へば つわり猶社(こそ)召されけれ 山に三十三の畜類 川に三十三の魚類 海に三十三の鱗(うろくす) 九十九しらのつわり猶こそ召されけれ されば御産の紐(ひぼ)にも近付給いて 産屋と乞い給(たも)う 如何なる宮殿(くうでん)楼閣 八つ棟造りの唐の小御所(こごしょ)も奉らせんかと宣え(得)ば いやいや八つ棟造りの小御所も所望に候わず 自らには茅(ちかや)の薦(こも)を七枚半編ませ給われ候へと宣えば、其時茅(ちがや)の薦を七枚半編ませ祭らせ給へば 二枚が上に弐千人 五枚が上に五千人 半之上に五百人 七千五百の御子をば只一夜の間に設け給うなりけり

一 されば一人ならぬ産声(うぶごゑ)に 天地も穢れたりとて 諸天な大(おゝい)に咎め給(たも)う 夫易き間之事にてまします 清めて参らせんとて 大ごが峠(たわ)に八間に神(かう)殿を打 平三尺に打 綱をば得(ゑ) 七千五百本の幣を佩き立て 四方に千道(ちぢ)の御注連(みしめ)を引 空には白蓋(ひやつかい)百六の玉の幡 紺青(こんぞう)横山霧霞 下は万畳(ばんぢやう)八重畳み、大え太鼓をかき据え 六十六人の巫女(みこ)と法者(ほうしや)を撫で据えて 七日七夜の間韓神(からかみ)神楽と奉申なり

一 さて社(こそ) 衆罪(しゆざい)の露は結べ共、智恵(ちゑ)の日は消ゑ易き物 峯高くして万(満)月の影落とす 谷深くして法華(法花)読誦(どくぢう)の御寵かすかなり 峯の霧不払 木末(小すゑ:梢)の嵐を散らし申 二つが如く 謹言(きんごん)上に申奉なり
 慶安四年辛卯□□(破損)下旬書之
  戸宇村官□(不明)
 栃木山城之守

◆改変された手草祭文

 岩田勝「神楽源流考」によると、江戸時代初期には手草祭文は上記のような内容だったが、時代が下り、詞章が神道流に改訂されて、天岩戸神話的な内容に改変されたとのこと。

 牛尾三千夫「神楽と神がかり」に収録された大元神楽の詞章を確認したが、手草は神楽歌のみしか記載されていない。なお、大元神楽には「手草の先」つまり、手草の次に舞われる演目として「山の大王」があり、そこでは手草の舞につられて出てきた山の神を祝詞司(のっとじ)がコミカルにもてなす内容となっている。

 八調子石見神楽では「手草」が「真榊」に改訂されている。こちらも「中央黄龍」と五龍王を連想させる字句は入っているが、物語的な内容ではない。

◆いざなぎ流祭文

 土佐のいざなぎ流の祭文も以下に掲示する。

 龍宮の乙姫様が食べたものが美味しかったので、おこぜの三郎に取りに行かせる。そのとき、山王神大代神宮を驚かせて叱られてしまう。おこぜの三郎はどこにあるのか教えて欲しいと願う。乙姫様は正月二十日に砂浜で遊びなさると告げて許しを得る。おこぜの三郎は龍宮に帰って不思議な鳥がいることを告げる。乙姫様はその鳥と戯れる。その鳥は山王神大代神宮が変化したものだった。乙姫様は懐妊する。山王神大代神宮は巨旦長者に一夜の宿を求めるが断られる。巨旦長者の嫁が巨旦は悪人だから、自分の父の将民将来(蘇民将来)に泊めてもらえと告げる。将民将来は山王神大代神宮に宿を貸す。食べるものがないので山王神大代神宮は米を三つぶ出す。それを八合の水で炊くと八合の飯となった。乙姫様のお産の紐が解ける。第一が祇園牛頭天皇、第二が天形星、第三が住吉大明神である。それから四百四病の神が生まれる。山王神大代神宮は将民将来に熟れた栗を取らせる。山王神大代神宮は巨旦長者の嫁を除いて、大夫千人、山伏千人、出家千人を含め巨旦長者を殺す……といった内容。

 意味が取りづらいので上手く要約できていないが、おこぜと山の神の話に蘇民将来の話が接続されている。以下、本文を示す。

※これはいざなぎ流の祭文に私独自の解釈で漢字を当てたものです。方言が多く、詞章の崩れも多いと見られます。間違っている箇所も多々あるものと思われますのでご注意ください。

 安永九歳
御神道けいこ本
山王神大神宮さいもん
 日浦込村 神子十太夫
(子正月十日・詞章・根須惣太夫様)

龍宮(りうぐん)海龍(かいりう)を立ぐん世界の前なる盤古(ばんご)が玉、龍宮(りうぐん)乙姫さま、折入ようご遊ばせ賜(た)び給う、龍宮(りうぐん)世界の前(まゑ)なる盤古(ばんごう)の如くのより上がる如くなり、龍宮(りうぐん)乙姫様、一つ取り上げて食べてみ給ゑ、よく美味(むま)きものにて、を己します、をこぜの太郎、止めてみよとありければ、川己せい本、訪ねに参らせこころ(ぞ歟)、高き山ゑ上がらせ給て、せい本御覧ずれば、東山口、西山口、中や阿口、御崎の御山にてぞ揃(そら)う、此の山に己たらせたもて、よくよく見給ゑば、山王神大代神宮様の昼寝をなされてをわします、其の御時にしし(椎)の神木、樫の神木、取りた、山の神の、節取たる、御山にて己します、此山の神大代神宮さま、昼寝をなされ候、其の御時、をこぜの三郎(さむろ)、しの(椎歟)神木、枝折り候、其御時、山王神大代神宮をどかせたもて(驚かせ給うて歟)、大けな叱りをなさる、其御時、をこぜの申されよ己 己れら、龍宮(りうぐん)世界の、をこぜにてぞらう(候歟)、龍宮(りうぐん)世界の前なる盤古が玉、乙姫さま、ご覧遊ばされた候ゑば、をこぜの三郎(さむろ)、不思議なるもの、流れてくる、訪ねてみよとありければ、訪ねに参りた、枝、折りぞらう(候)ところ、許いて賜(た)び給ゑ、とありければ、許したて参ろにも、し(椎)の神木、ここの葉(木の葉歟)の、散るも、惜しきものにて、をわします。されば、許いて賜(た)び給ゑば、龍宮(りうぐん)世界に己、正月廿日に己、よくよく、不思議な、砂己の阿ぞひ(遊びか)と申し、阿ぞび(遊びか)がぞらう(候)、よよくよよく、五色の花、飾り立て、面白き、ふちよ(婦女か)の 砂己の阿ぞび(遊びか)が空宇(候)、此の阿ぞび(遊びか)に 御出でなされ候(そら)ゑ とありければ、そこで、山の神大代神宮様、それに靡き、されば正月廿日に御出でなされるとの、御約束をまします、そこで七房、房中を、盗み取りたるところ、許したまう、をこぜの三郎(さむろ)、龍宮(りうぐん)館へ帰(かや)らせ給う、龍宮(りうぐん)乙姫、し(椎)の枝折り、さし阿げぞらう(候)、これ己、何と申ものぞとありければ、をこぜが ゆ己れように己、東山口、西山口、中山口、御崎の御(者)に(仁)てそらう(候)、山王神大代神宮の 節取りたる 御山で候(そら)ゑど し(椎)の神木、節取りたる山に而そらう(候)、ここの御山から、谷(た仁)の如くに流れいでてそらう(候)、又、おこぜが申されよに己、乙姫様も、正月廿日の 盤古が浜の 砂輪の遊びに 参らせぞらえ(候え)、とありければ、乙姫様も、参らせそらう(候)、其の御時に、龍宮(りうぐん)世界の前なる磯鼻を、見給ゑば、不思議なる酉が、いち己、止まりてそらう(候) をこぜに、出で来いとありければ、己れらがててままになる酉で候(そら)己ぬ、そこで乙姫様、立ち寄りて、ご覧ぞらゑば(候えば)、右(にぎ)、左八重、さざん九度の、ほろほろ、うて上ぐる、をこぜのさむろ(三郎)、ただなき酉にては、それ己ぬ、羽交(はがい)を見れば、十二さん吹きて(ふきり歟)、を己します、をこぜが申されよふ己、奥山せい本、山の神大代神宮様が、山鳥と変化をなされて御出でなされぞゑ(そう)ば、龍宮(りうぐん)乙姫様、龍宮(りうぐん)館ゑ帰(かや)らせまたう(給う)、く己きの、うとろ舟を、作らせ給ゑ、乙姫、く己の木の、うとろ舟に乗せ流せば、川せい本より、流れいく、東山口、西山口、中山口、山の御前に、上がらせ給ゑば、山王神大代神宮様、折居りようご(ようごう)、遊ばれそら(候)ゑば、流され人壱人、上がらせぞらう(候)、山の神の取上、よくご覧すれば、龍宮(りうぐん)乙姫にてを己します。己れら、杉屋の手にて、そら(そう)己ぬ、山王神大代神宮のをせに(をうせ:仰せ歟)己、打飯(たはん)仕ぞらゑ(候ゑ)とありければ、打飯(たはん)仕ろにも、打飯(たはん)袋が、ござそら(候)己ぬ 山王神大代神宮 覆いを 御とりどりの絵で、乙姫、白ハン袋、黒ハン袋、青(阿を)ハン袋、十二さん袋、乙姫に己たす、そこで 打飯、始め立て参る、山王神大代神宮、ことと置く、立て参る、手の内、貰い奉り、東こ巨旦(こたん)舘(やうか)ゑ(へ)、参りて、手の内を、賜(た)び給ゑとありければ、手の内、やることも 、ならん、殿仰せなり、されば己れが、ひがい(梭貝か鰉か)きくれたが、一夜の宿、貸し給ゑ、とありければ、宿も、得貸し不申とをせなり(仰せなり歟)、巨旦(こたん)長者(ちよざ)の、嫁のい己れよに輪、を欠くも、裏ゑま己れ、とありければ、くみちやして奏上、御客僧(をかくぞ)に己、この所に宿とるな、巨旦長者(ちよざ)己、大悪人にてそらう(候)、此ゟ(より)西ゑ当たりて、将民と申己、我が、親にてぞらう(候)、将民宅かと、訪ね行け、一里の内外ゑ(ないく己い歟)、参りて、将民が宅かと、訪ねてみれば、されば、将民がか宅と己、此の所にて、そらう(候)、旅人にて、を己しますが、一夜の宿、貸し給ゑとありければ、宿貸す己、易きことに、候ゑども、ここの所に己、五穀を、作らぬ所、食ぶるものが候己ぬ、食ぶる物いるまいと 直ぐに、やり取り候ゑば 将民が所の、穏婆(おんば)の、ゆ己れよに己、五穀、候己ず、よめし(ようめし歟、夜飯)、炊いて上る、事ならず、山の神大代神宮様の、大(をゝ)たる、笈(をい)の、蓋開けて、米三つづ、取出だし、よめし(夜飯)、炊いてくれとありければ、受取て、ご覧候ゑば、この三つづの米が、炊かれるものか、とありければ、そもすな(そう申すなカ)、炊いてみよ、七度(たび)洗いて、水八合入て、叩き立て参れば(炊き立て参ればカ)、三つづの米が八合に増え生きて、さて福神(ふくじん)な、お斯くや、よう(夕)飯奏上候(ぞら:そうら)ゑば、夜の子丑の刻稲荷(ゑなり)行けば、此れの嫁御様、塩梅己るござろうぞ、されば、一昨日の、巳午の刻□(からカ)、塩梅己るござろぞ、夜の子丑の刻に、御産(ござん)の紐(ひぼ)が、解けいく、四百しべを(しべう:四病)の病(やまい)の神、巨旦(ごたん)上候(ぞらう)、引き上げ、親将民が所のお婆、臼中ゑ引き上、親となる、山の神の仰せ(をセ:ををセ)に己、先づ、一番に、引き上げる己、祇園牛頭天皇と、名を連れ候(そらう)、二番に、引き上る己、天けしやう(天形星)殿と名をつける、三番目に引き上る住吉大明神、と名を付ける、その、残りた、御子己、目ない神、御手ない神、鼻ない神、口なき神、背ななき神、腹なき神、手なき神、足なき神、悉く、名を付けて、四百しべの(べうの:四病)、病(やまい)の神と、名を付くる、将民が申(も)され様(よ)に己、負(を)ぶい、炊かねばならぬが、五穀が候(そうら)己すして、負(を)ぶい、炊かねばならぬが、五穀が候己ずして、負(を)ぶい、炊くことならず、大神の仰せ(をせ)に己、将民将来(蘇民将来)、一昨日の巳丑の刻(ごく)に、東東方(とぼ)山に、栗を三合三才撒いたそうな、此栗が熟れたぞ、刈りて来い、負(を)ぶいに炊く、己れが、を一昨日の、巳午(みむま)の刻に、撒いたる栗が、生えも す(する)ものか熟れもするものか、将民、ぞもな(そう申な歟)、己れが宿己、七十五日 掛け様(やう)、宿将民将来(蘇民将来)が、東山ゑ、見に参らせ候(そうろ) 刈り取り候ゑて、いりあ栗にして、負(を)ぶいに、交(か)いに、炊き候(そらう)、人間(にんげ)の、負(を)ぶいに己、栗を炊かぬと申すも、その因縁、山神の仰せ(をせ)に(仁)己、東巨旦長者(ちよざ)が、舘ゑ、四百しボ(しべう:四病)をの、山の神を入て、殺いてやらねばならん、将民将来(蘇民将来)、見てこい、巨旦長者(ちよざ)の舘、見給ゑば、太夫千人、山伏千人、しうけ(出家か)が千人、三千人揃ゑて、屋のご祈祷(きと)なされる、しし蜂と、へげん(変化か)をなして、入り奉ば、さはらと、広まり、奉る、三千人、凪ぎ干スごとく、巨旦長者(ちよざ)の、嫁を、水取として壱人、助けてくれとありければ、将民が此にて候(ぞらう)、助けて、とらすると、かんまんぼろんと言(ゆ)、肌守(まぶ)りを掛きて、掛け差して、門に吉上、梵字の札打ち止むるも、その因縁で、を己します、ただ今今日の、此の山王神の祭文の、功力よて(によって歟)、恐(をぞ)れを成すな、七段、七福、ぞこぞこ、めつきう(滅却か)す、祝詞(のりんと)、行ない参らせ候(そろ)
 安永九年
  子ノ正月十二日うつし〆
 日浦込ノ千太夫

◆御伽草子
 参考までに御伽草子の「をこぜ」を掲示する。山の神がおこぜの姫さまに一目惚れしてしまい、カワウソが仲を取り持つという粗筋である。

 山桜は自分が住む辺りの眺めなので珍しくはない。春のうららかな季節は浜辺こそが実に見どころの多いことだ。女波(男波の間に打ち寄せる低い波)と男波(高く勢いよく打ち寄せる波)が互いにうち交わし、岸の玉のような藻を洗うところに千鳥が浮き沈んで鳴く声もなおさらである。沖を行く舟の風がのどかで帆をかけて走る、歌を歌う声がかすかに聞こえて、なんとはなく見るのも、とても趣きが深いことだ。塩を焼く煙が空に横たわるのは、誰の恋路に靡くのだろうか。向こうの山から柴という物を刈って運ぶのに、花を手折ってさし添えたのは、情趣を解さないはずの海人(あま)の技で、優しくも思えるかな。山の奥では見慣れないことも多い。山の神が集まって色々の興に乗じて一首詠んだ。趣がありそうだけども、心ばかりはこうであろうか。

 柴木とる海人の心も春なれやかざす桜の袖はやさしも

とうち詠んで、あそこここをうろうろと迷い行く

 ここに、おこぜの姫といって魚(うを)の中では類ない優者(やさもの:しとやかで美しい人)である。顔つきはかながしら、赤めばるとか言うものに似て骨が高く眼(まなこ)が大きく口が広く見えるが、十二単衣を着て、数多の魚を伴って波の上に浮かび出でつつ、春の遊びをなさる。和琴をかき鳴らして歌を歌う声を聞くと、ほっそりしているがひどく訛って

 ひく網の 目ごとにもろき わが涙 かからざりせば かからじと 後は悔しき 漁師舟かも

と歌いつつ、琴を弾く爪の音も高く聞こえた。山の神はつくづくと立ちながら聞いて、おこぜの姿をみるよりも早く物思いの種となって、せめてその辺りへ近づいてもと思ったけれども、水泳の心得を知らないので、これも叶わず、浜辺にうずくまって、こちらに来るように手招きすれば、「ああ、憂いことだ。見ている人がいる」といって水底へと入って行った。

 それにしても、山の神は、衣の裾を引くのがちらと見得たおこぜの君のお姿を今一度見たいと思って立ち浮かれ、明け暮れてもその方で伺っているけれども、二度と出てこないので、日もようやく西に傾いたので、しおしおとして山の方へとたち返って、昔の在原業平の様に起きもせず寝もせず夜を明かして、これの面影が忘れられず、胸が一杯で、悩ましい心地で木の実や榧(かや)の実などを取り食うけれども、喉へも入らず、ただ恋しさが勝る草の露と消えようかと思うけれども死にもせず、こうしてその夜も明けたところ、また浜辺の道に立ち出でて、もしやと思う心を頼りにして、もしやおこぜの君が浮き上がるのではないかと沖の方を見やるけれども、白波が打ち寄せて、おこぜの君は影も見えない。山の神は涙を浮かべて枝を折って道しるべとして、うつらうつらとまた住処に立ち帰り、どれほどであろう玉すだれの隙間から漏れ来る便りもあれよ、せめて思いの程を知らせて、死んだ後までこうとまで思い出したら、来世の罪も少しは軽くもなるだろうものを、山に棲む物は水の案内を少しも知らず、また水に棲む仲間は山のことは勝手不案内なので、語らって寄ることもならず、どうしようと、大きな息をついて思案する。いやはや、腹筋もよじれて他所から見てもおかしい。なので、「都の内、因幡堂の庇(ひさし)の端にある鬼瓦は古里の妻の顔に似て都だけれども旅なので恋しい」といってさめざめと泣く人の心まで思い出して、一人笑う。

 こうしたところへ川獺(カワウソ)が来たところ、山の神が申すことには「いかに貴殿は水泳の心得を知っていらっしゃる。かくかくしかじかのことがあります。手紙を一つ遣わしますので届けてくだされ」と言った。カワウソは聞いて「そのおこぜは極めて見目が悪くございます。眼が大きく骨が高く口が広く色は赤い。さすがに山の神がこれらをお思いするとおっしゃいましても、人聞きが悪く思われるのもおこがましいことです」と申したところ、山の神は「いや、それはあなたの偏見か。女の目には鈴を張れということもあって、目の大きいのは美女の相です。骨が高いのは貴人の相です。口の広いのは智恵賢い印です。どこにも隔てのない君なので、誰に見せようとも、心を迷わさないことがどうして無いでしょうか。そのように悪く噂するのは世の習いですぞ」と言って思い入った有様、まこと、縁があればあばたもえくぼに見える習いかなとおかしさは限りない。「ならば、お手紙を書き給え。伝えて参りましょう」と言ったので、山の神は嬉しさを中々言葉で尽くせない。手紙を書こうとすると、硯も筆もない。ただ木の皮を引きむいて思う言葉を書いた。「さてさて思いも寄らない事ながら、一筆とりましょう。いつぞや、ひそかに浜辺に出て春の海面を眺めていたところ、波の上のお遊びと見えて、和琴をかき鳴らし歌を詠まれたお姿をよそから見て、花ならば梅桜がたおやかで、糸柳の風に見られる風情は一層鮮やかに奥ゆかしく見えました。我が身は深い山の木々の埋もれ木で朽ち果てていくのに力もありません。思った末の残りなので、君の身の上をどうしましょうか。せめて手が触れた印としてお返事を下されば、うれしく思います」と書いて、奥に

 かながしらめばるの泳ぐ波の上見るにつけてもをこぜ恋しき

と詠んで、カワウソに渡した。

 かくてカワウソはますますおかしくて笑いたくなりつつも浜辺に立ち出でて海の底へつぶつぶと泳いでいって、おこぜの姫に対面してかくかくしかじかと語ったところ、おこぜはこれをお聞きになって、思いも寄らない事かなと言ってお顔をとても赤くして、手にも取らなかった。カワウソは「あらつれないことだ。藻に棲む虫の割れた殻と濡らす袂のその下にも、情けは世に住む身の上になくてどうしましょうか。楢柴の仮の宿の契りでさえ思いを晴らす習いですぞ。ましてや、これは常ならぬ事で、後は契りの底深く恋に沈んだその心を、どうしてむなしく過ごしましょうか。塩を焼く海人(あま)の煙でさえ思わぬ方向に靡きましょう、春の柳が風吹けば必ず靡く枝ごとに、乱れた心の哀れさを少しは思召されよ」などと様々に申したので、おこぜの君はつくづくと顔をしかめ、さすがに石や木ではないので、例の赤ら顔で恥ずかしくあったけれども、「さても思いも寄らない筆跡、お心の程もとても哀れに思いますけれども、ただほんのひと時の言の葉、上辺だけ情けをかけられましても、憂き世の習いとはいいますけれども、秋になって草々が枯れた時は真葛が原(葛の生えている原)に風が立って、恨み顔でしょうけれども、そうは言いますものの、慣れて後はどうしましょう、とにかく、この事をお許しになって昔から見なかった(逢わなかった)とお思いになるのがましでしょう。今の思いに比べればと申すこともあるので、術もないでしょうか。また、自分は青柳のような糸、そなたは春風でいらっしゃると心に決めます」と言って

 思ひあらば玉藻の蔭に寝もしなむひじきものには波をしつつも

とうち詠んでカワウソに渡したので、喜んで立ち帰り、山の神に見せたところ、まず嬉し泣きに泣いて涙を流し、急ぎ開いてみたところ、我が身を青柳の糸とし、君は春風と吹くというのは、靡いたということだろう。「ならば、今宵、おこぜの君の許へ参るべし。いっそのこと、貴方が道しるべとなってください」とおっしゃった。「容易いことです。お供しましょう」と言う。

 こうしたところに、タコの入道がこの事を伝え聞いて、「さて、無念の次第だなあ。自分もおこぜの許に度々手紙をやったけれども手にも取らなかった。遺恨と思うところに文武のどちらでもない山の神の方へ靡こうと返事をすることが心のどかでない。自分は法師の身なのでと侮ってこのように易々と靡くとは。イカの入道はいないか。押し寄せておこぜの姫を踏み殺せ」と八手を広げ、さわさわと這いまわって大声で叫んだ。

 イカの入道は傍にいたが、申すことに「同じならば、ご一門を召し集めて、その後で決心し給え」と申したので「そうだ」と言って、アシダコ、手長ダコ、クモダコ、ハリダコ、イヒダコ、コトウダコ、アヲリイカにスルメの次郎、いずれも一家(いつけ)の親族(しぞく)なので言うには及ばず、他家の人々、大名小名によらず集まった。

 おこぜの君は、このことを伝え聞いて、このままここに居るよりは山の奥にでも隠れようと思いつつ、波の上に浮き上がってアカメバル、カナガシラを伴って山の奥に入ったところ、その時、山の神がカワウソを供にして例の浜辺に出でた。細い道ではったと行き合った。山の神はあまりの嬉しさに前後をわきまえず「起こせておこぜに山道で行き合いました。山の奥は海の上、カワウソはおこぜです」などとわななき言い散らして、それからうち連れて自分の住処に立ち帰り、比翼連理の語らいをなした。世の中の人が言うに、必要以上にものを見て喜ぶのを「山の神におこぜを見せたような事だ」と言い伝える。

◆まんが日本昔ばなし

 アニメ「まんが日本昔ばなし」でもおこぜの昔話が取り上げられている。「おこぜのトゲ」というタイトルで、出典は辺見じゅん(角川書店刊)、スタッフは演出:やすみ哲夫、文芸:沖島勲、美術:柴田千佳子、作画:古宇田文男という顔ぶれ。

 竜宮城のお姫さまが重い病にかかった。海の魚たちは集って相談したが、山の神の桃が病に効くという話になった。ところが山の神は恐ろしい姿だったので、誰もしり込みして行こうとしない。そこで醜いオコゼをおだてて桃を取りに行かせる。オコゼは川を遡って桃の木に辿り着くが、そこには山の神がいた。こっそり桃を盗もうとしたオコゼだったが、山の神に見とがめられてしまう。慌てて事情を説明したオコゼだったが、山の神はならばお姫さまを自分の嫁にしろと言う。姫の命には代えられないと承諾したオコゼだった。オコゼは桃を竜宮城に持ち帰ったが、桃には秘密があった。桃を食べたお姫さまは病から回復したが、その代わりに身重になってしまう。竜宮の両親は怒ってお姫さまを追放してしまう。やむなく山の神のところへ行ったお姫さまとオコゼだった。山の神は喜ぶ。お産が始まった。お姫さまは三日三晩子を産み続け、四百四人の子供を産んだ。オコゼがあやそうとするが、オコゼのトゲには毒があって、足を刺せば足が悪くなり、腹を刺せば腹が悪くなった。あまりの子供の多さに苛立った山の神は四百四人の子供たちを追放する。それで子供たちは人間の里へと散らばっていった。こうして人間の世界には四百四の病が生じた。女嫌いになった山の神は山奥の社に閉じ籠ってしまった。今でも女人が山の社に近づくと山の神が怒るという。その後、お姫さまとオコゼは赦されて竜宮城に帰ったという。

 ここではオコゼのトゲの毒が人間の四百四の病気の源となったという由来譚となっている。その点ではいざなぎ流祭文と共通している。

◆余談
 いざなぎ流祭文は難解でテキストに起こすのも苦労した。己の読み方が統一されていないようにも思え、その部分は意味がとれない。

◆参考文献

・「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」(芸能史研究会/編, 三一書房, 1974)pp.190-193
・吉村淑甫「いざなぎ流神道祭文集(二)―山王大代神宮祭文―」「土佐民俗」第十一号(土佐民俗学会, 1966)pp.33-38
・「御伽草子集 日本古典文学全集36」(大島建彦/校注・訳, 小学館, 1974)※「をこぜ」pp.475-485
・小松和彦『「いざなぎの祭文」と「山の神祭文」―いざなぎ流祭文の背景と考察―』「修験道の美術・芸能・文学Ⅱ 山岳宗教史研究叢書15」(五来重/編, 名著出版, 1981)pp.353-415
・岩田勝「宝蔵太子と龍女姫―山の神祭文と手草祭文の意図するもの―」「神楽源流考」(名著出版, 1983)pp.206-228
・柳田国男「山の神とヲコゼ」「柳田国男全集 第八巻 民間伝承論」(筑摩書房, 1998)pp.557-620
・「神楽と神がかり」(牛尾三千夫, 名著出版, 1985)p.176
・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)pp.3-5

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鍾馗と神農

◆石見神楽「鍾馗」
 石見神楽の演目に「鍾馗」という演目がある。鍾馗が疫神を退治するというシンプルなストーリーだが、石見神楽で「鍾馗」は重視されてきた。ベテランしか鍾馗役を舞えない曲であり、戦中は出征する者に舞わせていたという話もあるそうだ。

 鍾馗とは元々は中国の科挙で進士に落第してしまった鍾馗が世を儚んで自殺した。それを手厚く葬ったところ、その後、病を得た唐の玄宗皇帝の夢に現れ病を癒したという説話から来ている。

唐の開元年中、玄宗皇帝がおこりを病んでねてゐると、夢に一小鬼があらはれ、楊貴妃の繡香嚢と玉笛とを盗まうとした。又一大鬼が出て、破帽を頂き藍袍を着、角帯を結び朝服をはいて、忽ち小鬼をくらつてしまつた。帝が名を問ふと、身は終南山の進士鍾馗であるといつた。夢からさめ病もいえたので、画人呉道子にその像を描かせた、といふ故事にもとづき、志那で疫鬼を退け魔を除くと信ぜられてゐる神。
「校訂石見神楽台本」(89P)

 石見神楽「鍾馗」では須佐之男命と鍾馗が同一視されている。両者を繋ぐのは備後国風土記逸文に記載された蘇民将来の伝説である。これで茅の輪と鍾馗が結びつくのである。

◆備後国風土記逸文
 備後国風土記に曰く
疫隈(えのくま)の国つ社。
 昔、北の海にいらした武塔(むた)の神が、南の海にいる神の娘に通っていたところ、日が暮れた。そこに蘇民将来という者が二人いた。兄の蘇民将来はとても貧しかった。弟の将来は富み賑わっていて屋形と倉で百もあった。宿を借りようとしたが、惜しんで貸さなかった。兄の将来は貸してあげた。粟柄で編んだのを座とし、粟ご飯でもてなした。
 さて武塔の神が出ていらして後に、何年か経って、八柱の御子を率いての帰り来ておっしゃることに「自分は将来の為に報おう。お前の子や孫が家にいるか」とお問いになった。蘇民将来が答えて申すに「我が娘と妻がおります」と申し上げた。そこで武塔の神はおっしゃった。「茅の輪を作って腰の上に着けさせよ」とおっしゃった。お言葉のままに着けたところ、その夜に蘇民の娘一人残して、他は皆殺し滅ぼしてしまった。そしておっしゃることに「自分は速須佐之雄(はやすさのを)の神であるぞ。後世に疫病が発生したら、お前たちは蘇民将来の子孫と言って茅の輪を作って腰に着けている人は免れるだろう」とおっしゃった。

 この伝説については鎌倉時代の偽作とする説と古風土記とする説と両方あるようだ。蘇民将来という名が上古の日本人の名とも思えないが、注釈では中国の蘇州(江蘇省)から渡来した民の意かとしている。

◆ぐじる鍾馗
 ところで、平安末期の『辟邪絵(へきじゃえ)』第四段には「瞻部州(せんぶしゅう)の間に鍾馗(しょうき)と名づくるものあり。もろもろの疫鬼をとらえてその目をぐじり、体を破りてこれを棄つ。かるかゆへに、ひと新歳に家を鎮するには、これが形(かた)を描きてその戸におす」とある。疫鬼の眼をえぐることは、唐宋の諸書に見える中国の古い鍾馗画の伝統であり、『辟邪絵』も直接にはそこから学んだに相違ないのだが、より広くめくばりすれば、神秘の力をもって敵の目を、ある種の恐怖感からえぐり取ることは、世界の歴史や民俗にかなりの普遍性をもつ。
 これは災いをもたらす視線(邪視)を避ける方法として、効果的だと考えられていたのであり、死体を分割して捨てる行為とあわせ、災いをなす存在(疫神・邪神・謀反人など)の復活を阻止する呪法だった。柳田国男は「敵人の首を斫(き)り骸を割きて之を土中に埋むるは、即ち我々が名づけて蚩尤(しゆう)伝説と呼ばんとするものなり」と述べ、いわゆる十三塚(死者供養・境界標識・修法壇として築かれた一三の列塚)性格究明の鍵と見なしたようだ。
「酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化」(高橋昌明, 中央公論新社, 2005)103P

 神楽の鍾馗は茅の輪で疫神を確保するけれど、伝説に登場する鍾馗は疫神の眼をぐじり、身をずたずたにするとされている。疫神にとって恐ろしい神である。

◆動画
 YouTubeで江津市の谷住郷神楽社中の「鍾馗」を視聴する。序盤はゆったりとしたテンポで舞い、疫神が登場した辺りから八調子らしくなる。茅の輪に捕らわれた疫神の舞が見どころか。

◆疫病鎮静祈願神楽
 2020年3月22日(日)、世界中で新型コロナウイルスが蔓延する状況下で島根県益田市の久城社中が益田市内の櫛代賀姫神社に於いて「鍾馗」の無観客奉納を行い、YouTubeでライブ配信、約2,000人が動画を鑑賞した。疫病鎮静を祈願してのものである。普段は娯楽に徹している石見神楽だが、こういう奉納ができる一面も見せた。

疫病鎮静祈願神楽 無観客ライブ配信 「鐘馗」
https://www.youtube.com/watch?v=bSR2lex3VCM

◆謡曲「鍾馗」
 旅人の前に現れた鍾馗が執心を翻して国土の守りとなろうと誓ったことを奏聞して欲しいと告げる。そして現じた鍾馗が宮中の鬼神を退治する。謡曲「鍾馗」では鍾馗は進士に落第したのではなく、及第して間もなく亡くなったとされている。

前シテ:鍾馗
後シテ:鍾馗の霊
ワキ:旅人
処は:唐土
季は:九月

玄宗本紀、詠鍾馗徳詩等によつて作る。

ワキ「これは唐土(もろこし)終南山(しゆうなんざん)の麓に住む者です。さて自分は奏聞すべき事があるので、ただ今帝都に赴いています。
道行「終南山をたち出でて、野草の露を分け行けば、遠い村に煙が満ち、人家の多い眺望の、海路を遥かに過ぎれば、釣の小舟も返る波、寄る程もない眺めかな。眺めかな」
シテ「のう、あそこにいる旅人に申すべき事があります」
ワキ詞「何事でございます」
シテ「自分は昔誓願した子細があるため、悪鬼を滅ぼし国土を守ろうと誓いました。君主が徳のある人ならば、宮中に現じ奇瑞をなすべしと、この事を奏してください」
ワキ「是は不思議な事かな。さてさて貴方は如何なる人か」
シテ「今は何をか(隠し)包むべき。我は鍾馗という進士(しんじ)ですが、及第したときに亡くなってしまいました。自分は(己の)執心を翻し、後世になお望みがあります」
ワキ「実に鍾馗の事は世に知れ渡っている進士であるが、その亡霊ですか」
シテ「中々なりと夕暮れの」
ワキ「荒涼とした」
ワキ「折からに」
地「草蟲露に声しおれ、声しおれ、尋ねると形はなく、老松既に風絶えて、問えども松は答えず。実に何事も思い絶えようとする色も香も、終には添わぬ花紅葉、いつをいつとか定めよう、いつをかいつと定めよう」
クセ「一生は風の前の雲、夢の間に散じ易く、三界は水の上の泡、光の前に消えようとする。綺らん殿の内には有為(さまざまの因縁によって生じた現象)の悲しみを告げ、翡翠の帳(ちやう)の内には有漏(煩悩のある状態)の願力が有るとか。栄花は是、春の花。昨日は盛んなれども、今日は衰える腕力の、秋の光、朝(あした)に増し、夕べに減るとか。春去り秋来たって花が散り葉が落ちる。時が移り顔つきが変わって、楽しみは既に去って、悲しみが早く来た」
シテ「朝顔の花の上の露よりも」
地「儚い物は蜻蛉(かげろう)の、有るか無いかの心地がして、世を秋風がうち靡き、群れいる田の鶴が鳴いて、四手(しで)田長(たをさ)の一声も、誰が黄泉の路を知らせよう。哀れな人界(にんかい)を、いつかは離れ果てるだろう」
ワキ詞「是は不思議な事かな。急いで帝都に赴きつつ、委しく奏聞すべきです。暫くお待ちなさい」
シテ「なんとしても見えた夢の中、誠の姿を顕そうと」
ワキ「言うより早く」
シテ「顔色が変わって」
地「伝え聞く仏在世の浄藏(じやうざう)浄眼(じやうげん)の様に、その高さ七多羅樹(しつたらじゆ)、虚空に上がっては座らせ、地に入っては火炎を放って、水を踏むこと陸地の如くで、さらさらと走り去って、形はさながら山彦の声ばかりして失せにけり。失せにけり」
ワキ歌「苔のむしろに法(のり)を述べ、さも荒涼とした山陰の、嵐と共に声立てて、此の妙経を読誦する、読誦する」
後シテ「鬼神に横道なし(鬼は道に外れた行為はしない)と言うが、みだりに騒がしいのは何ぞ、汝は我が心を知らずや、国土を守る誓いあり」
地「宝剣光り、凄まじく、日月影疎かに、松にまとう嵐は梢を払うかのようで、悪鬼の乱れ恐れ去って、まこと鍾馗の精霊である」
ロンギ地「有難い事かな。そもそも君道を守ろうとする其の誓願の誓いは如何なる謂れだろう」
シテ「鍾馗及第のときに自分と滅んだ(自殺した)悪心を翻す一念発起、菩提心であろう」
地「実に誠実な誓いだと言って、国土を鎮め別けて実に」
シテ「禁裏雲井の楼閣の」
地「ここやかしこに遍く満ち」
シテ「あるいは玉殿」
地「廊下の下、御階(みはし:階段)の下(もと)までも、剣を潜めて忍び忍びに求めれば、案の如く、鬼神は通力失せ、顕れ出れば忽ちにずたずたに切り放って、目の当たりにした勢いは、ただこの剣の威光となって、天にかがやき地に普(あまね)く治まる国土となる事も、実に有難い誓いかな、誓いかな」

◆謡曲「皇帝」
 老人が玄宗皇帝の前に現れて、自分は死後贈官された鍾馗大臣であると名乗り、楊貴妃の病を癒したければ枕元に明王鏡を置くべしと告げる。鏡を置いたところ、鬼神の姿が鏡に映った。鍾馗が現れて鬼神をずたずたにして、楊貴妃の病も癒された。

前シテ:老翁
後シテ:鍾馗
ツレ:楊貴妃
同 :鬼神
ワキ:玄宗皇帝
ツレ:大臣
処は:唐土

玄宗皇帝の寵愛たゞならざりし楊貴妃病みしが、鍾馗大臣の亡霊明王鏡に姿をうつして病魔を退治する事を作れり。

ワキサシ「春は春遊(しゆんいう)に入って夜は夜を専らとして、後宮の佳麗な(美女)三千人、三千の寵愛が一身にあり。このように類ない楊貴妃の紅色、芙蓉(美人のたとえ)の紅色をかえて未央(びやう)宮の柳の力もない」
地「ただ弱々と伏柴の露の命のいかばかりか。心を尽くした春の夜の、春の夜の、木の間に(浮かぶ)月も朧(おぼろ)で、雲のかかるところに帰る雁がねも、我が如くに鳴き渡る。霞の内の樺桜(かばざくら)、一重に惜しい姿かな」
シテ詞「どのように奏聞申すべき事だろう」
ワキ詞「不思議や宮中が静まり、もの寂しくなり、心を澄ませるその時に、階段の下(もと)に来たのを見れば、さも不思議な老人である。そもそも汝はいかなる者か」
シテ「是は伯父(はくぶ)の時代に鍾馗という者でしたが、及第が叶わない事を嘆き、御橋(みはし)で頭(こうべ)を砕き、身を空しくした者の亡霊がここまで参りました」
ワキ「実にそのような事を聞いたことがある。そのまま都の中(うち)に収め、贈官されたその大臣の亡霊は何のため、ただ今ここに来たのか」
シテ「実によくお知りなさっていらっしゃいます。贈官のみならず緑の位袍まで死体に被せた旧恩に、今このように君の寵愛なさる楊貴妃の病を平らげて奇特を見せしめましょう。なので、件(くだん)の明王鏡を枕許に置いたら必ず姿を顕しましょうと直奏固く申し上げ、申し上げ、我は通力を起こしつつ楊貴妃の花の姿、誘う風を静めようと、申しきれないで階段の下(もと)に失せたことよ、失せたことよ」」
ワキ詞「いかに楊貴妃。今日はいつしか曇る日の、暮れる夕べも朧月夜の、晴れない心はどうしたことか」
貴妃「まことに衣を取り枕を推す力もなく、苦しい心に急きかねています。涙の露の玉鬘、このような姿は恥ずかしいことであります」
ワキ「変わるに変わる物ならば、苦しみを見るべきかと、力を添えて木綿四手(ゆふしで)の」
貴妃「髪をも上げず」
ワキ「ひれ伏すや」
地「翠翹金雀(すゐげうきんじゃく)とりどりに、頭に差した花も移ろうか、枕波(しんぱ)の斜紅の世に類ない姿かな。実に春雨の風に従う海棠(かいどう)の眠れる花の如くである」
クセ「そうしたところで、明皇(めいくわう)、栄花を極め世を保ち、色を重んじなさる故に類ない楊貴妃にこのような契りを込めて年月の、春の宵いの短いのを苦しんで、日高くして起き出て、朝の政(まつりごと)も絶え絶えで、移る方もなかったけれども」
ワキ「世の中は逃れ難い」
地「思わぬ障り有明の、月の都の舞楽まで学び残す術もなく、秘曲を伝えた笛竹の、寿なれや此の契り、天長く地久しくして尽きる時もあるまい」
ワキ詞「実に今思い出した。かの老人の教えの様に明王鏡を取り出し枕元に置くべきだ」
大臣「勅諚ご尤もですと、月卿(月に例えた公卿)雲客(殿上人)一同が、明王鏡を取り出して、枕に近い几帳に立て添えて置きました」
地「かくて暮れゆく雲の足、雲の足。漂う風も冷え冷えとして、身の毛もよだつこの時に、不思議かな鬼神の姿が映ったぞ」
地「九華(きうくわ)の帳を押し除けて、押し除けて、彼の枕により竹(海岸などに流れ着いた竹)の笛を押っ取り差し上げて、勇み喜ぶ表情が鏡に映り見えれば、帝は是を叡覧なさって、さては病鬼よ逃さないぞと剣を抜いてお立ちになったところ、天の上がり地に下り、飛行(ひぎやう)自在を顕して帝に向かい怒ったので、剣を振り上げ切ったところ、御殿の柱にたち隠れて、姿も見せずに失せた」
ワキ「不思議だ。曇る空が晴れて、宮中が光り輝いて」
地「鳴動することこそ恐ろしい」
後シテ「そもそも、自分は武徳年中に贈官された鍾馗大臣の精霊である」
詞「扨(さて)もこの君が寵愛なさる楊貴妃の病を平らげようと通力で奇瑞を見せた。南無天形星王我剣降鬼(なむてんぎやうしやうわうがけんかうき)と秘文を唱え、駒に乗り、虚空を翔って参内したものである」
地「悪鬼は是見てから、驚き騒ぎ、彼の真木柱に隠れたのを鍾馗の精霊馬より降り立ち、鋭い剣を引っ提げて袂をかざして、明王鏡に向かえば、鬼神の姿は隠れもしない」
鬼神「鬼神は通力自在も失せて」
地「鬼神は通力自在も失せて、起きつ転びつ走り出したのを追い詰めたところ、御殿を飛び降り、六宮の階段に走り上がったのを逃さずと引き下ろし、鋭い剣を振り上げてずたずたに切り放し、庭に投げ捨てて、忽ちに楊貴妃も無事で、なおこの君の恵みを仰ぎ、守りの神となるべしと玉体を拝み拝んで姿も夢となった」

◆芸北神楽の神農
「神農(しんのう)」

「この曲目は石見かぐらの曲目の中にも見えないもので、芸北地方でも他の地域にはおそらく伝えられていないのではないかと思われ、美土里町内でも本郷地区だけ、近年まで実演されたが、現在ではほとんど消滅の状態にある曲目である。この曲の台本は明治四十二年の新井本に載っている。なぜ本郷地区にだけあるのか、その理由は現在のところわかっていない。」(65P)

 小彦名命が登場して名乗る。自分はかつて異国では神農皇帝と名乗り、諸々の木草をなめて一薬を知り、万民を病から守っていた。このたび宇宙から悪女が一人病魔となって飛びきて諸民を悩ませているので、如何なるものか尋ねようとしている。
 鬼女が登場する。小彦名命は鬼女に外(と)つ国(くに)に去るか、さもなくば十種(とくさ)の神器(かんだから)を以て成敗すると告げる。
 戦いとなる。小彦名命が勝って嬉し舞を舞う。

 小彦名命は薬を日本に伝えた神様だから、鍾馗と通底するものがあるか。小彦名命の身体は掌大なので、病魔も小さいに違いない。

◆余談
 病気によって変えられた世界史というジャンルもあり、古来から疫病は人を悩ましてきた。疫病でも最も恐れられたのは天然痘だろう。天然痘は牛痘によって根絶したのだけれど、浜田市にはジェンナーの顕彰碑とジェンナー像がある。

◆参考文献
・「謡曲大觀 第三巻」(佐成謙太郎, 明治書院, 1931)※「鍾馗」pp.1449-1459,
・「謡曲叢書 第二巻」(芳賀矢一、佐佐木信綱/編, 博文館, 1915)※「鍾馗」pp236-239
・「謡曲叢書 第一巻」(芳賀矢一、佐佐木信綱/編, 博文館, 1914)※「皇帝」pp.653-657
・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)pp.86-90
・「かぐら台本集」(佐々木順三, 佐々木敬文, 2016)

記事を転載→「広小路

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2019年6月16日 (日)

「第二回 かながわのお神楽」公演を鑑賞に行く

「第二回 かながわのお神楽」公演を見にいく。第一回は10年前だったそうだ。10年後と言わずに定期的に開催して欲しい。演目は
垣澤社中「御祝儀三舞~寿式三番叟と寿獅子と大黒天~」(厚木市酒井)
萩原社中「紅葉狩」(横浜市鶴見区)
佐相社中「八雲神詠」(横浜市港北区)
横越社中「天孫降臨と山神の舞」(横浜市神奈川区)
埼玉からの観客が意外と多かったそうだ。

御祝儀三舞・寿式三番叟
御祝儀三舞・寿式三番叟
御祝儀三舞・寿式三番叟
御祝儀三舞・寿式三番叟
御祝儀三舞・寿式三番叟
御祝儀三舞・寿式三番叟
御祝儀三舞・寿獅子
御祝儀三舞・寿獅子
御祝儀三舞・大黒天
御祝儀三舞・大黒天
御祝儀三舞・令和記念
御祝儀三舞・令和記念
紅葉狩・平維茂
紅葉狩・平維茂
紅葉狩・酒を勧められる平維茂
紅葉狩・酒を勧められる平維茂
紅葉狩・鬼女・更科姫と酔いつぶれた維茂
紅葉狩・鬼女・更科姫と酔いつぶれた維茂
紅葉狩・酔いつぶれた維茂と山神
酔いつぶれた維茂と山神
紅葉狩・鬼女と戦う平維茂
紅葉狩・鬼女と戦う平維茂
八雲神詠・櫛稲田姫
八雲神詠・櫛稲田姫
八雲神詠・足名槌
八雲神詠・足名槌
八雲神詠・手名槌
八雲神詠・手名槌
八雲神詠・大蛇
八雲神詠・大蛇
八雲神詠・大蛇
八雲神詠・大蛇
八雲神詠・酔いつぶれた大蛇
八雲神詠・酔いつぶれた大蛇
八雲神詠・須佐之男命と酔いつぶれた大蛇
八雲神詠・須佐之男命と酔いつぶれた大蛇
八雲神詠・須佐之男命に退治される大蛇
八雲神詠・須佐之男命に退治される大蛇
八雲神詠・天叢雲剣を手にした須佐之男命
八雲神詠・天叢雲剣を手にした須佐之男命
八雲神詠・須佐之男命
八雲神詠・須佐之男命
天孫降臨・猿田毘古命
天孫降臨・猿田毘古命
天孫降臨・猿田毘古命と争うモドキ
天孫降臨・猿田毘古命と争うモドキ
天孫降臨・天宇受売命
天孫降臨・天宇受売命
天孫降臨・左から思金命・ニニギ命・布刀玉命
天孫降臨・左から思金命・ニニギ命・布刀玉命
天孫降臨・猿田毘古命と天宇受売命の連舞
天孫降臨・猿田毘古命と天宇受売命の連舞

天孫降臨・猿田毘古命の雲切
天孫降臨・猿田毘古命の雲切
山神の舞・猿田毘古命
山神の舞・猿田毘古命

文教大学だったか大学の先生が挨拶する。チケット代二千円で神楽を見に来る人は10万人に一人だとか。そのうち寝ないで最後まで見る人は3分の1だとのこと。

神楽は時代に応じて変化する生き物であり、本物の奉納神楽と違ってステージで舞われるがデモンストレーションではなく本物の神楽と思って欲しいとのこと。

加藤社中の家元である加藤俊彦さんに遭遇する。笛の工房を紹介してもらう。出雲の方にも顧客がいるとのこと。

桜木町には何度も行っているが、横浜にぎわい座芸能ホールに入るのは初めて。

今回もデジカメのEVFを覗きっぱなしで肉眼で見るのと半々くらいだった。ファインダー越しに見ると、直接見たという感じがしない。が、記憶は薄れてしまうから写真には撮っておきたいと二律背反である。

<追記>
「第二回 かながわのお神楽」、パンフレットが充実していて、すぐには読み切れない程のボリュームがあるるのだけど、パラパラとめくると以下のような内容があった。草間範子「覚書・神楽公演の課題と可能性」からの一文である。文末に学生スタッフ(当時)とあった。大学生でこれだけ書ければ優秀だろう。僕には書けないし、それでも現時点のレベルに達するまでに三年掛かっている。ちなみに、パンフレット、通販するらしい。

観客論
 次に公演当日に関係を結ぶこととなる観客である。観客が神楽公演に対して求めるものは何だっただろうか。質の良い神楽、わかりやすい解説、幅広い情報の提示、これらによる興行的な充実には務めてきた。観客が集まり満足してもらえた。公演が評価され良かった。これに止まらず、加えて神楽公演と観客との関係性を論ずる必要があった。
 例えばまず観客には、日本の伝統文化を鑑賞するのであるから、伝統文化について振り返りたい、という気持ちがあるのだろう。自ら有する、しかし今は薄れている、かつて神社で眺めた神楽の記憶を取り返して再確認したい。これにより、あらためて自らの文化として再び領有化したい、という気持ちがある。
 神楽から離れて久しい人々が集い、曖昧に有していた記憶を再確認する。そして、確かに自分達にはこういう時代があった、と元より有していたはずの文化を皆で共有し、領有化する。これは「取り戻した」感覚を観客に強く与える。
 その実、自分だけでは曖昧な印象しか持ち合わせていなかった文化だからこそ、態々劇場に出向いて再確認するのである。ここまでして領有化を目指す人々にとって、神楽は本当に、かつては手にしていた文化だったのだろうか。劇場での神楽鑑賞が初めての神楽文化の領有化となるのではないか
 それにも関わらず、大部分の観客は「取り戻した」感覚をもって神楽を受け入れる。観客は公演の成否を決する集団ではなく、個々の求めに応じて神楽に接する存在である。ここに着目することができれば、より効果的に観客へのアプローチを行うことが可能になったのではないか。とにかく公演の成功を気にかけた当時の実行委員会には、観客論という視点の欠如があった。(71P)

400人くらいの中規模のホールであるが、劇場はほぼ満員であった。ただ、アラフィフの自分が若い世代と言えるような年齢構成であった。子供や少年がいないのである。「観客論」にあるように、神楽を見る動機というのは、子供の頃に見た神楽を大人になった今もう一度見たいという願望である。僕の場合は子供の頃に見たのは島根県の石見神楽であるが、できれば関東の里神楽も見たい、更には全国の神楽も見たいと願望が膨れていく。

そういう意味では、やはり神楽は何をおいても子供に見せないといけないのだ。幼い子供は騒ぐから今回のような劇場では排除されるべき存在であるかもしれない。先日、横浜市天王町の橘樹神社で加藤社中の里神楽を鑑賞したが、とにかく観客が少ないのである。上演が始まると人が寄って来るが、上演が終わると潮が引いたようにいなくなってしまう。中には神楽に興味を示す子もいるが、少数派である。特に、神社のお祭りなので中学生くらいの少年少女は大勢来ているはずである。その彼らが神楽を見ようと思わないのだ。

神社への奉納神楽は天気次第な一面がある。特に六月の例大祭の時期だと梅雨と重なってしまう。空調の効いたホールで神楽を鑑賞することにも、快適な環境で神楽を鑑賞できる面があって一概に否定できない。また、劇場だと照明が自由に操れるのもメリットの一つだろう。音響は効果音を入れるという演出も考えられなくもないが、そこまでする社中は今のところ無い。

神楽を見にくるのは10万人に一人という笑い話からしても関東地方は神楽の不毛地帯であるとは言える。伝統芸能に限っても能や歌舞伎など、他に見るべきものが沢山あるのだ。それらの中からわざわざ神楽を選んでもらう、集客に費やす苦労は並大抵のものではないだろう。そういう意味では島根県石見地方や広島県の芸北地方は他に娯楽がなかったこともあって、田舎のエンタメとして受け入れられている状況にあると言えるだろう。

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2019年6月15日 (土)

橋弁慶――弁慶と牛若丸

◆はじめに
 芸北神楽の旧舞に「橋弁慶」という演目がある。神祇とは関係ないし、校訂石見神楽台本にも未収録の演目なので、明治時代以降に創作された演目ではないかと思われる。

 ところで、五条大橋での牛若丸と弁慶の出会いはよく知られたお話だけど、出典は何だろうと思ってググってみた。すると、明治時代に巌谷小波の「日本昔噺」に収録された話がそうであるというページがあった。だが、謡曲「橋弁慶」を当たってみると、これに五条大橋の出会いが描かれているのである。謡曲だから本説があるかもしれない。一方、橋弁慶の注釈では「牛若弁慶五条の橋にて主従の縁を結ぶ物語を義経記に依りて作れり」(118P)とある。だが、義経記では五条の天神となっている。また、幼い牛若丸の時代ではない。なお、御伽草子に「橋弁慶」があるので、それが本説かもしれない。

◆芸北神楽の旧舞「橋弁慶」
 「考訂 芸北神楽台本Ⅱ」に橋弁慶が収録されている。

 比叡山の西塔の傍らに住む武蔵坊弁慶は、都で自分に叶う者は無いと自負している。五条の橋に出た弁慶は源氏の遺児である牛若丸と遭遇する。太刀を自分に渡す様に要求する弁慶だが、牛若丸は拒む。戦いとなった。鞍馬山で会得した秘術を使い、飛鳥のごとく動き回る牛若丸に弁慶は薙刀を取られて降参する。弁慶は牛若丸と主従の関係を結ぶ。源氏の再興を期した牛若丸であった。

◆動画
 YouTubeで大塚神楽団の「橋弁慶」を視聴する。旧舞だが八調子だった。始めは遮那王と鞍馬の天狗の特訓シーンからである。次に五条大橋で弁慶の登場シーンとなる。弁慶役を演じている人はかなりの長身だ。舞のテンポはゆったりとしていて、この場面は六調子かもしれない。最後は遮那王と弁慶の対決シーンとなり、再び八調子となる。

 石見神楽亀山社中の「五条橋」を視聴。「橋弁慶」とほぼ同じ展開だった。録音レベルの違いもあるのだろうけれど、八調子でも激しいリズムではなく軽快なリズムだった。弁慶が舞う場面ではゆったりとしたテンポで六調子に近い印象だった。

◆謡曲「橋弁慶」
 武蔵坊弁慶は五條の天神に参って満願の日だったが、従者に奇特な子供が出ると制止される。一度は外出を止めにすることを考えた弁慶だったが、このままでは名が廃ると五條まで出かける。五條の大橋で牛若と弁慶が遭遇する。戦いとなった二人だが、牛若の身軽さに弁慶は降参し、主従の関係を結ぶこととなる。「昨日五條の橋を通ったところ、十二三ばかりの幼い者が小太刀で切って廻ったのは、さながら蝶や鳥の如くでした」という件は義経の千人斬りを現わしているらしい。

シテ:西塔弁慶
トモ:従者
子方:源牛若
処は:京都
季は:六月

牛若弁慶五條の橋にて主従の縁を結ぶ物語を、義経記に依りて作れり。

シテ詞「是は西塔の傍らに住む武蔵坊弁慶である。我宿願の子細あって、五條の天神へ丑(うし)の時詣でをしている。今日が満願の日なので、ただ今参ろうと思うなり。如何に誰かいるか」
トモ詞「御前におります」
シテ「五條の天神へ参るぞ。その分心得よ」
トモ「畏まって候。又申しべきことがございます。昨日五條の橋を通ったところ、十二三ばかりの幼い者が小太刀で切って廻ったのは、さながら蝶や鳥の如くでした。先々今夜の御物詣では、(彼の者を)お思いになってお止めください」
シテ「言語道断の事を申す者だな。たとえ天魔鬼神であっても大勢には叶うまい。押っ取り込めて討ってしまおう」
トモ「押っ取り込めれば不思議に外れ、敵(かたき)を手元に寄せ付けません」
シテ「手近く寄れば」
トモ「目にも」
シテ「見えず」
地「神変奇特不思議な、不思議な化性(けしやう)の者に寄せ合わせて、巧妙に御身を討つだろう。都が広いと言っても、これ程の者はいないだろう。実に奇特な者である」
シテ詞「それならば今夜は思いとどまろう。いや弁慶ほどの者が聞き逃げは無念である。今夜夜更けに橋に行き、化性の物を平らげよう」
地「夕べ程なく暮れ方の、暮れ方の、雲の様子も引きかえて、風凄まじく更ける夜を遅しとばかりに待っていた。待っていた」
牛若「さても牛若は母の仰せが重要なので、明ければ寺へ上るべし。今宵ばかりの名残りなので、五條の橋にたち出でて、川波添えて忽ちに月の光を待つべしと」
一声「夕波の様子はそれは夜風の、夕べ程なき秋の風」
地「面白い様子かな、様子かな。そぞろに浮き立つ我が心。波も玉散る白露の、夕顔の花の色、五條の橋の橋板を、とどろとどろと踏み鳴らし、音も静かに更ける夜に、通る人を待っているぞ」
シテ詞「既にこの夜も明け方の、山塔の鐘も杉の間の雲の光り輝く月の夜に、着た鎧は黒革で、おどしに縅(おど)せる大鎧。草摺長(草摺を長く垂れている)に着なしつつ、元よる好む大長刀、真ん中取って身に寄せて、ゆらりゆらりと出た有様は、如何なる天魔鬼神であっても面を向けることができないであろうと、我が身ながらもの頼もしくて、手に立つ敵(かたき)の恋しさよ」
牛若「川風もはや更け過ぎる橋の面(おも)に、通る人もないぞと言ってもの寂しく休らえば」
シテ「弁慶かくとも白波の、立ち寄り渡る橋板を、さも荒々しく踏み鳴らせば」
牛若「牛若彼を見るよりも、あっ嬉しや人が来るぞと、薄衣なおも引き被り、傍らに寄り添い佇めば」
シテ「弁慶彼を見つけつつ、言葉をかけようと思ったけれども、見れば女の姿である。自分は出家の身なので、思い患いながら過ぎていく」
牛若「牛若彼をからかって見んと、行き違い様に長刀の柄元をはっしと蹴り上げれば」
シテ「さあ、痴れ者よ見物してくれんと」
地「長刀をすぐに取り直し取り直し、さあ見物しよう手並みの程をと切って掛かれば、牛若は少しも騒がず立ち直って、薄衣引き退けつつ、静々と太刀を抜き放って、つつ支えたる長刀の切っ先に太刀を打ちあわせ、詰めつつ開きつつ戦うが、何としたことか、手元に牛若が寄ると見えたのが、たたみ重ねて打つ太刀に、さしもの弁慶も合わせかねて、橋げたを二三間(げん)後ろを下がって肝を消した。あら物々しいあれ程の、あれ程の、小性(こしやう)一人を切ればと言って、(この)腕前でどうして(打ち)洩らすべきかと、長刀の柄を長く押っ取り延べて、走り掛かってちょうと切れば、背けて右に飛び違う。取り直して裾を薙ぎ払えば躍り上がって足も溜めない。宙を払えば頭を地に付け、千々(ちぢ)に戦う大長刀、打ち落とされて力なく、組もうと近寄れば切り払う。すがろうとするも手段がない。しかたなくて弁慶は奇代(きたい)なる子供かなと言って呆れ果てて立った」
ロンギ地「不思議や御身は誰なのか、まだ幼い姿で、このように勇ましくていらっしゃいますか。詳しく名乗ってください」
牛若「今は何を(隠し)包もうか。我は源牛若」
地「義朝の御子か」
牛若「さて汝は」
地「西塔の武蔵弁慶ですと互いに名乗り合い、名乗り合い、降参申しましょう御免あれ。子供の御事、我は出家。位も氏も勇ましさも、よき主なので頼みます。粗忽にお思いになるかもしれません。しかしながら、これまた三世の奇縁の始めです。今から後は主従だぞと。契約堅く申しつつ、薄衣被ってて、弁慶も長刀を身に寄せて九條の御所へと参ったぞ」

◆義経記
 「義経記」巻第一を読むが、牛若時代には武蔵坊弁慶との出会いはなかった。遮那王となってからも無い。巻二で義経は鬼一法眼から兵法を学び、巻三になってようやく弁慶との出会いがある。

 弁慶は宝というものは千揃えるものだと考えた。金のない弁慶は夜の都で他人の太刀を奪うことにする。しばらくする、都に背丈一丈もある天狗が人の太刀を取ると噂になった。

 数えてみると太刀が九百九十九本になっていたので、弁慶は五条の天神に参詣して、千本目の太刀を願った。明け方になって堀川小路を南に下って行くと、笛の音が聞こえてきた。見ると見事な太刀を佩いた立派な男だったので、弁慶は男を呼び止めて太刀を寄こせと脅した。義経は少しも臆せず、欲しければ取ってみせろと言ったので、弁慶は飛び掛かった。六韜を学んだ義経は九尺もある築地に飛び移って弁慶を翻弄する。義経は今後他人の太刀を取るのは止せと告げる。弁慶は目的を果たせなかった。

 あくる日、弁慶は昨日の男はきっと清水寺に参詣しているに違いないと思ってやって来た。むなしく時間が過ぎて行ったが、夜になると、また義経の笛の音が聞こえてきた。弁慶と再度対峙した義経は太刀が欲しくば取れと挑発する。弁慶が掛かった。義経は弁慶が薙ぎ払った薙刀の上を飛び越えた。義経は観音に年来の願いがあるからと言って姿を消す。義経は弁慶を生け捕りにして家来にしようと考えた。

 義経は清水寺で経を読みはじめた。ただ、義経は女房の装束だったので、義経自身か判断がつきかねていた。そこで弁慶は稚児か女房かと問うが、義経は答えない。義経と悟った弁慶は義経の経を奪うと、ともに甲乙の声でお経を読みはじめた。義経が帰ろうとすると、弁慶は義経の太刀がどうしても欲しいと言う、義経が先祖伝来の刀なのでと断ると、弁慶は太刀を抜いた。義経も羽織っていた被衣(かずき)を脱いだ。

 義経と弁慶の三度目の戦いは清水寺の舞台で行われた。大勢の見物人が寄ってきた。やがて弁慶が劣勢となった。義経は弁慶を峰打ちにした。弁慶は降参した。義経は弁慶を山科に連れて帰った。

 以後、弁慶は義経に臣従した。都では九朗義経武蔵坊を配下として平家を狙っているという噂がたった。人が六波羅へ訴えたので、義経は奥州へ下ることにした。木曽義仲と会った義経は上野(こうずけ)国の伊勢の三郎の所へ行き、そこから義盛がお供をして平泉へと下った。

 ……といった粗筋である。五条は五条でも橋ではなく天神である。また、義経と弁慶の戦いは三度に及んでいる。「義経記 新編日本古典文学全集62」の注によると元は義経が義朝の弔いのため千人斬りの願を立て、それを弁慶が退治しようとして打ち負かされるという筋だったとのこと。

◆牛若丸
 巌谷小波「日本昔噺」に収録された「牛若丸」を読む。牛若丸誕生の前後から話が始められていて、隠れていた常盤御前が母を人質に取られたため、やむなく三人の男子を清盛に差しだす。最も幼い牛若丸は鞍馬の寺に預けられるが、大天狗に稽古をつけられ尋常ではない身のこなしを体得する。一方、九百九十九本の太刀を奪った弁慶が千本目の太刀を手に入れようとする。そのことを聞きつけた牛若丸が五条の橋に出向いて二人は対峙する。牛若丸の身のこなしに降参した弁慶は牛若丸の従者となる……といった粗筋。

◆室町時代物語

 角川書店「室町時代物語大成 第十」に収録された橋弁慶を精読する。この版では、義経が父の菩提を弔うため平家千人斬りを企てる粗筋となっている。

橋弁慶

 御曹司(おんぞうし)は鞍馬の寺にいたが、十四歳の春につくづく物を案じたところ、今年ははや父義朝の十三年忌だ。我が世ならば堂塔を建立し菩提を弔うが、そうではないので弔うこともできない。げに誠、都で知られた五条の橋は六波羅から都への行き来の道と聞いた。その橋に出て平家の奴らを千人斬りして父を供養しようと思った。

 唐衣(からきぬ)の直垂(ひたたれ)に萌黄(もえぎ)の腹巻を着て唐紅(からくれない)の小袖(こそで)に大口の袴(はかま)を着けて、わざと足駄(あした)を履いた。御腰のものを弓手(ゆんで:左手)の脇に忍ばせて、源氏重代のともきり丸を脇挟み、薄衣を取って髪に掛け、鞍馬の山を夜半に紛れて忍び出て、七周り、八町坂、憂き世を巡る車坂、悪魔を祓う法灯坂、妻戸(中庭などに出入りする戸)の脇ではないけれども駆け兼坂をうち過ぎて、色には出ないけれども紅葉坂、長者にはならないけれど小福(こふく)坂、名残り惜しくも市原野に立ち止まって、みぞろ池、今朝幡枝(はたゑた)を立ち出でて一条室町をうち過ぎて五条の橋に着いたところ、げに誠、この願は仇(かたき)の平家を討つための願なので、初めの者を斬って、ここかしこに忍んで平家の軍兵どもが知らずに都へ出れば、つつと出て、はたと斬り、つつと出てはちょうと斬り、三日三夜で平家方の軍兵を七百人ほど討った。

 この事があちこちで聞こえたので、五条の橋で変化(へむげ)の物が道ゆく人を取ると世間の知るところとなった。六波羅には前代未聞の不思議だとして、今のこの橋は通る人が無くなった。

 御曹司はご覧になって、悔しいかな、仇を千人斬ろうと思ったけれども、気配を悟られて今はこの橋を通らないのも仕方ない。千人に斬り足そうと思い、波濤(はとう)の男女(なんにょ)はこれを知らずに都へ上がる者たちを一人二人と斬る内に七日七夜で九百九十九人まで斬られた。千人ばかりの死骸を河原に重ねたのは小山をついた如くであった。

 さて千人に満ちる折に御曹司は今や遅しと待っていたところ、ここに比叡山の西塔で育った武蔵坊(むさしぼう)弁慶という法武者が独り参り、七生までの郎党(らうとう)主君の契約を結んだ。

 弁慶の由来を詳しく尋ねると、熊野の別当湛増(たんそう)は何につけても乏しい事はなかったが、跡を継ぐ子が無かったので、三の御山の大権現に参り、申し子を祈念した。

 ある夜、御台所(みだいどころ:妻)の夢想に、黒鉄(くろかね)の丸かせを御台の弓手の袂に賜ると、夢想を新たに被って、着帯(ちゃくたい:妊婦が岩田帯を締めること)となったが、十ヶ月を経ても誕生しなかった。

 こうして日数を経て三年三ヶ月でようやく子が誕生して、胎内を降りるや否や、池の水際(みぎわ)に立ち寄って浮かび手水(てうづ)に身を清め、母の御前に参り、頭(かうべ)を地に着け、いかに母上、この程自分は心苦しく、この重恩(ちうおん)においては、誠に以て奉仕し難いですと申したので、人々はこの次第を聞いて稀代(きたい)不思議の事かなと驚き騒いだ。

 中でも別当湛増はよもや我が子ではあるまい、ただ天魔の変化かと言って腰の刀をするりと抜き、介錯せんとしたのを、人々は別当の袖(そで)にすがり着き、しばし静まり給え、言葉をしゃべるのも道理です。母上の胎内に三十三月いたので、それだけ不審も役(えき)もないといって押し留めたので、さすがの別当も(御台と)恩愛の仲なので、刀を鞘に差した。こうなっては如何なる後難も出来(しゅったい)せんと侍どもに仰せになって山深くに捨てた。

 さて、その後、二十日ばかり経ったので、別当は件(くだん)の侍を呼び、以前の嬰児(みとりこ)はもう虎狼野干(やかん)の餌食になっただろう、見てこい、供養しようと言ったので、承知して山奥に分け入ってみたところ、虎狼野干と戯れていた。

 侍どもを見ると何故お前達は自分を父の許へ連れて帰らないのだと言ったので、侍たちはこれを見て、誠か、これはただ事でないぞとおめき叫んで逃げた。

 別当にこの次第を申し上げたところ、ただちに命をとったはずのものをここまで放置したならば、変化の物ともなり、大勢の人々を苦悩させることも考え得ると果てしなく後悔した。

 ちょうどその頃、三十六人の公家大臣の中に五条の大納言が裕福に暮らしていたけれど、跡を継ぐ子がなく、これも三の御山に参って、申し子を祈願したところ、ここから山奥にある嬰児を拾い求めて汝(なんじ)の養子とせよと夢想を受けた。

 そこで山奥に尋ね入り、かの幼き者を拾い取り、都に上がって、その名を若(にゃく)一殿と名づけた。

 その稚児は七歳の春に比叡山の法印を頼んで学問しに登った。法印は一字を教えれば千字万字と悟りをなし、学問は人より優れていた。

 されど、この稚児はややもすれば根本中堂(こんほんちうたう)に出入りして木像に傷をつけ、衆徒(しゆと)たちと喧嘩口論ばかりしていた。これこそかの若一若殿(わかとの)の仕業だぞと恨みは数知れなかった。

 ある時、三千坊の衆徒たちはこの山に若一稚児がいるならば、我々は山を開くことも辞さぬと法印に申し上げたので、法印も力及ばず若一稚児を放出することに決まった。

 若一稚児は承り、あら悔しい、この山を俗の姿で出んことの無念さよと思い、根本中堂に参り、自身、髪を剃って何と戒名をつけるべきか案じ暮らしていたが、げに誠、父大納言の弁の字と師匠の法印の慶の字を象(かたど)ろうとして弁慶と名づけたが、袈裟も衣も無く、きらら坂の吹き上げの松の辺りで御山へ上がる法師と一人行き会った。見たところ、甲の衣に甲の袈裟で、するすると立ち寄って、どう申し上げればいいか、御坊、あなたの袈裟を我に与えよと言ったところ、この法師が聞いておかしな事を言うものだとカラカラと笑って通った。

 弁慶はきっと見て、大の眼(まなこ)に角(かと)を立て、出家をはたと睨んで、まこと、そなたの袈裟衣を我に与えないならば、手並みの程を見せようとして拳を握ったところ、坊主は何か思ったのか、いやいやこの方は音に聞こえた若一稚児であろう、ここで荒事をなしても悪かろうと思い、袈裟衣を脱いだ。

 弁慶はたいそう喜んで、自分も替わりを参らせようと自分の着ていた小袖を法師に着せ、我が身は袈裟と衣を着けて、天晴(あっぱ)れ法師、良き法師と身もそぞろに褒めて、都へ下り大納言にお目見えして、その後は嵯峨野(さがの)の方にいたけれども悪行(あくきやう)ばかりしていた。

 この弁慶は比叡山にいた時、十六谷を走り回って衆徒たちの剃刀(かみそり)を七段の手間(たま:手の指の間)に盗みとって、三条の小鍛冶に七尺五寸の大長刀を打たせた。嵯峨野の原でも長刀の兵法を稽古すると言って、ある日は里の山人を斬り、また上下万民(はんみん)の者を厭わず長刀を振るってみせようと人を斬ることが数知れなかった。

 そんな頃、都の五条の橋で千人斬りがされている次第を弁慶はつぶさに聞いて、これは無念な次第かな、この世の内に弁慶がいる内はこんな歓待はさせまいものをと言って、一つの間につつと入って、黒革縅(おどし)の大鎧(よろい)、草摺をさっくと着て、上帯(うはおび)を結って、ちょうと締め、一尺八寸の打ち刀を十文字に差したまま、三尺八寸の厳物(いかもの)作りの太刀を佩(は)いて、上に衣を着るままで、例の長刀を杖に突き、嵯峨野を出立して五条の橋へと急いだ。

 道ならば三町ばかりの彼方から五条河原を見渡すと、千人ばかりの死骸を河原面(おもて)に積んだのは、小山をついた様であった。さしもの清い鴨川も紅の水が流れていた。

 弁慶が思うに、あれ程の人数(にんしゅ)を滅ぼす者なら只者ではあるまい。渡り合っては悪かろう、退くべきだと思い、長刀を肩に打ちかけて嵯峨野を指して帰ったが、途中で案じるに、まこと忘れていた。名にし負う弁慶が多くの死骸に驚き、敵(かたき)に後ろを見せたと言うなら後日の難儀だと思い、また取って返し、五条の橋に着いたので、長刀の石突(いしづき)で橋の板をとうとう突き鳴らし、声音を張り上げて、この程、ここで存外(そんぐはい)の振る舞いをどうしても心得ず、たとえ天魔の変化だとしてもお出であれ、手並みの程を見せようと、ここやかしこを尋ねたけれども辺りに人はいなかった。

 されど、ここに弓手の擬宝珠(きほうし)の脇に十四五の小身者(身分の低い人)が衣(きぬ)を被(かず)き伏していた。衣の内を見た所、頬と眉に薄化粧(けしやう)をしていた。翡翠(ひすい)のかんざしを揺り割けて、さながら女の如くであったので、弁慶は、我は清僧(せいそう)の身として、何者であっても女と見えた者に言葉を掛けるのは如何なものかと思い、長刀の石突を御曹司の召した足駄の歯ににこやかに当て、去らぬ様に掛け通った。

 御曹司がご覧になって姿を見ると沙門(修行僧)であった。助けようとお思いになったけれども、あまりの振る舞い、さらば手並みを見せんと被いた衣をさっと下ろせば、下は武者の出で立ちであった。

 どこに隠していたのか、ともきり丸を鞘から抜き、面(おもて)も降らずに打ち掛かった。弁慶も長刀を佩いて並んだ。

 それ長刀の斬る手には込む手、凪(な)ぐ手、開く手、後ろを斬るは中斬り、闇討ち、捨て刀、大事の秘所の手を一つも残らず使った。

 君はこの次第をご覧になって面白い手を使うと心を静め、見た。されど、弓手を斬れば虚空に舞い上がり、見えつ隠れつさながら化生(けしやう)の如くで、ややもすれば、弁慶は討たれてしまう様に見えた。

 物々しい、あれ程の小童(こわつは)一人従えさせられない悔しさで長刀の石突をおっとり伸ばして、また斬ってかかるが、どうかしたのか、大長刀を打ち落とされてあきれ果てて立ち尽くした。

 弁慶はあまりの不思議さんい言葉を掛けてみようと思い、不思議なお方、いかなる人ならば、これ程までに健気でいらっしゃるかと申したところ。

 御曹司はお聞きになって、今は何を隠そうか、我は源義朝の八男、牛若丸とは自分のことだ。君は如何なる者かと訊いた。

 弁慶は頭(かうへ)を地に付けて、今までは誰かと思っていたところ、さては牛若丸殿でしたかと(以下欠落)

 衣を引き被いて太刀を被き、鞍馬の山へとお供申し、東光坊(とうくはうはう)に送り届け、その後また嵯峨野に帰り、行いを澄ましていた。

 この人々の心中は、上下万民、おしなべて感じ入らない人はなかった。

※以下は角川書店「室町時代物語大成 第九」に収録された「橋弁慶」に私が独自で漢字を当てたものです。「室町時代物語大成」には注釈も現代語訳も無く、原文がドンと載っているだけなので、間違っている箇所も多々あるかと思われますのでご注意ください。

はしへんけい

さる程に御曹司(さうし)は鞍馬の寺にましますが、御年十四の春の此、つくづく物を案じ給ふに、今年ははや父義朝の十三年忌と覚えたり。

我世か代にてあるならば、堂塔(たうたう)をも建立(こむりう)し、父の菩提(ほたひ)を問ふべけれ共、世になし物の事なれば菩提(ほたひ)を問はん風情もなし。

げに誠、忘れたり。都に聞こえし五条が橋と申せしは敵(かたき)平家の奴原(やつはら)か、六波羅よりも都への行(ゆ)き来の道と聞ひて有、あの橋に罷り出、敵(かたき)平家の奴原を千人斬りして、父の供養(けうやう)に奉(ほう)せばやと思し召し、

腹に唐衣(からきぬ)の直垂(ひたゝれ)に、萌黄匂ひの腹巻を着込めにし、唐紅(からくれない)の御小袖に下に大口(袴)召され、わざと足駄(あした)を召されつつ、

こんねんとうの御腰のものを弓手の脇に忍ばせて、源氏重代、ともきり丸(まる)を脇挟み、薄衣取つて髪にかけ、

鞍馬の山を夜半に紛れて忍び出、七周り、八町坂、憂き世を巡る車坂、悪魔を払ふほうとう(法灯か)坂、妻戸の脇にてあらねども駆け兼坂を打過て、

色には出でねと紅葉坂、長者(ちゃうしや)にならねど小福(こふく)坂、名残り惜しくも市原(いちはら)野に立ち留まりて、見ぞろ池、今朝幡枝(はたゑた)を立出でて、一条室町うち過ぎて、五条が橋にも着きしかば、


げに誠、此願(くはん)は敵(かたき)平家の奴原を討たんがための願(くはん)なれば、序の者を斬りて無役とて、ここかしこに忍び居て、

敵(かたき)平家の軍兵(くんひやう)共が、これをば知らず、都へ出づれば、つつと出ては、はたと斬り、つつと出でてはちょう(ちやう)と斬り、三日三夜と申には平家方の軍兵を七百余人ぞ討ち給ふ。

既に此事、諸方に聞こえければ、五条が橋にて変化(へむげ)の物が住まゐして道ゆき人を取り失ひ斯界も更に見やさぬ也。

別して、六波羅には前代未聞の不思議なりとて、今は此橋、通る人とて更に無し。

御曹司は御覧して、こは口惜しき次第かな、敵(かたき)平家の奴原を千人斬らんと思へ共、色を悟られて、今は此の橋を通らねば詮もなし。

序の者成共、千人に斬り足さばやと思し召し、御国(おむこく)波濤(はたう)の上下男女(なんによ)、これをば知らで、都へ上る輩(ともから)を一人二人と斬る程に七日七夜と申には、以上九百九十九人までこそ斬られけれ。

千人ばかりの死骸を河原面(おもて)に重ねたるは小山を撞(つ)いたる如く也。

さても千人に満する折、御曹司は今や遅しと待給ふところに、

ここに叡山、西塔、北谷にて育ちたる武蔵坊(むさしはう)弁慶といふ法武者一人参り合い、七生までの郎党(らうとう)主君(しゆくん)の契約を仕りたる。

此武蔵が由来(ゆらひ)を詳しく尋ぬるに、例へば熊野の別当(へつたう)湛増(たんそう)は何につけても乏しき事は無けれ共、末(すゑ)の養子を持たざれば、則ち三の御山の大権現(こんけん)に参り、申子をぞ召されける。

ある夜、御台の御夢想(むさう)に、黒鉄(くろかね)の丸かせを御台の弓手の袂に給はると、夢想新たに被(かうふ)りて、御着帯(ちやくたい)の御身となり、十月経て共、誕生(たんしやう)せず。

かくて日数を経る程に三月(マゝ)と申には、やうやう此子誕生(たむしやう)して、

胎内を降るゝや否やに、池の水際に立ち寄りて浮かび手水(てうづ)に身を清め、母の御前に参り、頭(かうへ)を地に付け言ふ様は、

いかに母上、此程我故に心苦しくましますらん。此重恩(ちうおん)に於ひては、誠に以て奉(ほう)し難しと申しければ、

人々、此由聞よりも稀代(きたい)不思議の事かなと驚き騒ぐ折節に、

中にも別当(へつたう)湛増(たんそう)はよも我子にてはあらじ、ただ天魔波旬(はしゆん)の変化かとて、腰の刀をするりと抜き、既に介せんとし給ふを、

人々、御袖にすがり着き、しばし、静まり給へとよ、物をの給ふも理(ことはり)也。母上の胎内(たいなひ)に三十三月まします若なれば、さのみ不審も無役とて押し止めたりければ、

さすが別当(へつたう)も恩愛の仲なれば、刀を鞘に差し給ふ。かくては如何なる後難(こうなむ)も、出来なんと侍(さふらひ)共に仰(おほ)せつけ、奥深山へぞ捨てられける。

さてその後、廿日ばかりも経ちぬれば、別当(へつたう)湛増(たんそう)は件の侍(さふらひ)共を召されつつ、

如何に汝ら承れ。以前の嬰児(みとり子)ははや虎狼野干(こらうやかん)に取られつらん、見て参れ、供養(けうやうせん)と有りければ、

承りて、奥山中に分け入て、見ければ、虎狼野干を供として遊び戯れ、居たりける。

侍共を見るよりも何とて吾殿(わどの)はらは我を父の許へ連れて帰らぬぞと言ひければ

兵(つわもの)共はこれを見て、誠や、これはただ事にてはなきぞとて、おめき叫んで逃げたりけり。

別当(へつたう)に此由申上ぐれば、別当聞し召されて当座に命(めい)を止めんものを此までかくて置くならば、いかなる変化の物とも成、多くの人に悩みを掛けんは、案(あむ)の内たるべしと、後悔(こうくはひ)し給う事、限りなし。

折節、その比都に三十六人の公家(くけ)大臣(大しん)のその中に五条のへんしん(弁信か)大納言と申せしは、家豊かにして住み給へど、これも末(すゑ)を継ぎ給ふべき御子もなし。

これも三のお山に参り、申子をし給ふに、是より奥山中にある嬰児(みとりこ)を拾ひ求めて汝が養子(やうし)にせよとの夢想を被りて、

奥山中に尋ね入り、かの幼きものを拾ひ取り、都に上り、その名を若(にやく)一殿と名づけつゝ、囲繞(いねう)恰好(かつこう)為されけり

かの稚児、七歳の春の頃、比叡山(ひゑいさん)のけいしん(慶信か)法印を頼みつつ、学問に登らるゝ

けいしん法印、一字を教へ給へば、千字万字に悟りを成し、学問は人に優れけり。

され共此稚児、やゝともすれば根本中堂(こんほんちうたう)にたち出で、絵像木像(もくさう)に傷をつけ、

さては山中の稚児、衆徒(しゆと)たちと喧嘩(けむか)口論、暇も無し、これこそ彼の若一若殿(わかとの)の仕業(しはさ)なれとて、人の恨みは数知らず。

ある時、三千坊(はう)の衆徒(しゆと)たちは此山に若一稚児があるならば、我々山を開かんとけいしん法印に申上げられければ

けい(マゝ)法印も力及ばずして若一稚児を出だざるべきに定まりけり。

若一稚児は承り、あら、口惜しや、我此山を俗の姿にて出でなん事の無念さよと思ひ、根本中堂(こんほんちうたう)に参り、自身(ぢしん)、髪剃りて何と戒名を申べきぞと案じ暮らして居たりけるが、

げに誠に父へんしん大納言の弁の字と師匠、けいしん法印(ほうゐん)の慶の字を象らんとして、さて、弁慶と名をついて、この上は、袈裟、衣もなふて□(はカ)

きらゝ坂、吹き上げの松の辺にて御山へ上る法師一人行逢うた、見れば甲の衣に甲の袈裟、弁慶、甲ぞと思ひつつ

するすると立ち寄つて、いかにや申さん、御坊(はう)、御身の袈裟衣、我に得さすべしと有りければ、

此法師聞ひて可笑しき事を言ふものかなと、からからと笑つて通る。

弁慶、きつと見て、大の眼(まなこ)に角(かと)を立て、出家(しゆつけ)をはたと睨んで、げにげに御身、袈裟衣を我に得させぬものならば、手並みの程を見せんとて、拳を握り言ひければ、

坊主(はうす)、心に思ふ様(やう)、いやいや此者は音に聞きつる若一稚児にてあるらんに、此処にて事をし致して悪しかりなんと思ひ、袈裟衣を脱ぎにけり。

弁慶、斜(なの)めに喜ふて、我も替はりを参らせんとて、己が着たりし小袖を此法師に着せ、我が身は袈裟と衣を着しつつ、天晴(あつはれ)法師、良ひ法師とそぞろに身を褒め、

都に下り、へんしん大納言の御目にかかり、その後は嵯峨野の方にありとは言へ共、悪行(あくきやう)のみぞ作りける。

しやうとく、この弁慶、叡山にありし時、十六谷(たに)を走り回って、衆徒(しゆと)たちの剃刀を七段が手間(たま)盗みとって、三条の小鍛冶むねちかに七尺五寸の大長刀(なきなた)を打たせつつ、

嵯峨野の原にても、長刀の兵法を稽古するとて、ある日は里の山人を斬り、又は上下万民(はんみん)の者を嫌わず長刀振ってみせんとて、人を斬ること数知らず。

掛かりし時の折節、都五条が橋にて千人斬りのある由を弁慶、つぶさに承りて、こは無念なる次第かな、此世の内に弁慶があらむ程は斯様の歓待(くはんたい)さすまじきものをと言ふままに、

一間(ま)所につつと入り、黒革縅(おとし)の大鎧(よろひ)、草摺(くさすり)中にさつくと着、上帯(うはおひ)結って、ちょう(ちやう)と締め、

一尺八寸(すむ)の打ち刀、十文字に差すままに、三尺八寸の厳物(いか物)作りの太刀(たち)佩いて、上に衣を着るまゝに、例の長刀杖に突き、嵯峨野を立ち出で、五条が橋へと急ぎける。

道ならば三町計こなたより、五条河原を見渡せば、千人ばかりの死骸を河原面(おもて)に積んだるは、小山を撞(つ)いたる如く也。さしもの(に)清き鴨川も水(みな)紅(くれなゐ)にぞ流れける。

弁慶、心に思ふ様(やう)、あれ程の人数(にんしゆ)をなむな(難無か)滅ぼす物ならば、只者にては世もあらじ、渡し(マゝ)合うては悪しかりなん、退くところと思ひ、

長刀、肩に打ちかけて嵯峨野を指ひて帰りけるが、道にて案じける様(やう)は、

げに誠忘れたり。名にし負ふたる弁慶が多くの死骸に驚き、敵(かたき)に後ろを見せたりなんと言ふならば、後難也と思ひ、

また取つて返し、五条が橋に着きしかば、長刀の石突にて橋の板をとうとうと突き鳴らし、大の声音を差し上げて、

此程、此許(こゝもと)にて存外(そんぐはい)の振る舞い、何より以て心得られず、譬ひ、天魔波旬(はしゆん)の変化なりとも御出であれ、手並みの程を見せんとて

こゝや、彼処(かしこ)を尋ぬれども辺りに人は無かりけり。

されども、こゝに弓手の擬宝珠(きほうし)の脇に十四五の小身(せうしん)、衣(きぬ)被(かづ)き伏してあり。衣(きぬ)の内を見てあれば、頬眉に薄化粧(けしやう)歯先取つては金黒(かねくろ)なり。

翡翠のかんざし、揺り割けて、さながら女(をんな)の如く也ければ、弁慶、心に思ふ様(やう)。

我は清僧(せいそう)の身として、何者にてもあれ、女と見えつる物に言葉を掛くるは如何なりと思ひ、長刀の石突を御曹司の召したりける足駄(あした)の歯に莞爾と当て、去らぬ躰にて掛け通る。

御曹司は御覧して姿を見れば沙門なり。助けばやと思し召しけれ共、あまりに振る舞い気づくは非なり、さらば、手並みを見せんとて、被(かづ)いた衣(きぬ)をさつと下ろせば、下は武者にぞ出で立ちける。

何処(いつく)にか持ちたりけん、ともきり丸の鞘発し、面(おもて)も振らず掛かりける。弁慶も長刀佩(は)ひとて、並ぶたり、手を砕きそ(マゝ)使いける。

それ長刀の斬つ手には、込む手、凪ぐ手、開く手、後ろを斬るは中斬り、たつたく闇討ち、捨て刀、随分大事の秘所(ひしよ)の手を一つも残さず使いける。

君は此由御覧して面白き手をや使ふと心を静め、見給へども

されども弓手(ゆんて)を斬れば馬手(めて)に走り、馬手に合えば弓手に切れ、裾を払えば虚空に舞い上がり、見ゑつ隠れつ、さながら化性(けしやう)の如くにて、やや共すれば、弁慶は討たれつ可(ひよ)うぞ見えにける。

物々しやな、あれ程の小童(こわつは)一人従へざる口惜しさよとて、

長刀の石突、押つ取り延べ、又斬って掛かるが、如何はしたりけん。大長刀を打ち落とされて呆れ果ててぞ立ちたりける。

弁慶、あまりの不思議さに言葉を掛けてみばやと思ひ、不思議や御身は如何なる人なれば、かほど健気にましますぞと申ければ、

御曹司は聞し召し、今は何をか包むべき、我は源義朝の八男、牛若丸とは我事也。御身は如何なる者ぞとよ、

弁慶、頭(かうへ)を地につけて今までは誰やの人ぞと思ひしに、さては牛若殿にてましま(以下欠落)

衣(きぬ)引き被(かづ)け、太刀を□担ぎ、鞍馬の山へと御供申、東光坊(とうくはうはう)に送り届け、その後又、嵯峨野に帰り、行なひ澄まして居たりける。

此人々の心中は、上下万民、をしなべて、感ぜぬ人はなかりけり。

◆余談
 弁慶は島根県出雲地方でも伝説を残している。それによると異常出生譚の人だった。つまり英雄色が濃い人物なのである。果たして史実の弁慶と関わりがあったかは定かではないが、尋常でない力をもった僧侶の伝説が島根にあるということは確かである。

◆参考文献
・「謡曲叢書 第三巻」(芳賀矢一、佐佐木信綱/編, 博文館, 1915)※「橋弁慶」pp.118-121
・「考訂 芸北神楽台本Ⅱ 旧舞の里山県郡西部編」(佐々木浩, 加計印刷, 2011)pp.166-170
・「義経記」(岡見正雄/校注, 岩波書店, 1992)
・「義経記 新編日本古典文学全集62」(梶原正昭/校注・訳, 小学館, 2000)
・「日本昔噺」第4巻(巌谷小波/編, 臨川書店, 1971)※「牛若丸」pp.1-39
・「説話文学研究叢書 第一巻 国民伝説類聚 前輯」(黒田彰, 湯谷祐三/編, クレス出版, 2004)pp.402-411

記事を転載→「広小路

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壇浦と船弁慶

◆はじめに
 芸北神楽の新舞に「壇浦」という演目がある。源義経が静御前と別れ、弁慶と逃避行中に平知盛の亡霊と遭遇するという内容である。この出典は謡曲「船弁慶」だろう。はじめ「義経記」かと思ったのだが、「義経記」には知盛の亡霊と遭遇するという件は無いようである。ブログ「斉藤裕子でごじゃるよ~」を読んでいるときに、偶々船弁慶に触れた記事があり、それで確認した次第。

◆芸北神楽の新舞
「壇浦」
 清和天皇の後裔であり、源義朝の末子である源九郎判官義経は平氏の一族を一の谷、屋島と攻め破り、壇浦まで追いつめた。一方、平知盛(たいらのとももり)と能登守教経(のとのかみのりつね)は壇浦で義経めがけ一騎打ちを試みる。知盛も教経も討ち取られた。知盛の魂魄はこの世に留まって霊鬼となる。
 一方、義経は兄頼朝の不興を買い、追われる身となり、摂津国大物浦(だいもつうら)に差し掛かる。
 釣太郎が登場、大物浦で釣りをしていたところ、にわかに空が黒雲で覆われたので急ぎ帰る。
 知盛の霊鬼が現れる。霊鬼は義経に災いをもたらさんとする。が、武蔵坊弁慶が法華教の法力で、静御前は石清水八幡のご神徳に請い、義経に加勢する。義経は霊鬼と激しい立ち合いとなり、霊鬼は去る。
 義経は静御前と別れ、弁慶を連れ吉野目指して去る。

◆動画
 YouTubeで今吉田神楽団の「壇ノ浦」を視聴する。35分の競演大会仕様なので茶利の登場場面はなかった。序盤の立ち合いは平知盛と教経が登場。後半は知盛の亡霊だけが鬼となって登場した。最後は義経が形見の鏡を静御前に渡して終わる内容だった。

◆謡曲「船弁慶」

 平家を打倒した後、追われる身となった義経と弁慶は摂津の国は尼崎の大物浦に辿り着いたが、静御前と涙の別れを告げて出航する。海が荒れて平家の亡霊が出た。義経は長刀(なぎなた)で応戦するが、弁慶は経文を唱えて悪霊を退散させる……という粗筋。

前シテ:静
後シテ:平知盛
子方:判官義経
ワキ:弁慶
ツレ:義経従者
狂言:船頭
処は:摂津
季は:十一月

義経大物の浦より舟に乗る事を前段とし、静の離別をのぶるを主とせり。後段は船上にて、知盛の幽霊に逢ふことを作れり。

ワキツレ「今日思い立つ旅衣、今日思い立つ旅衣、帰洛をいつと定めよう」
詞「斯様の者は、西塔(さいたふ)の傍らに住まいする武蔵坊弁慶でござる。さて、我が主の判官殿は頼朝の代官として平家を滅ぼし、兄弟の仲日月のごとくあるべきを、言い甲斐のない者の讒言(ざんげん)により仲違いされた事、返す返すも口惜しい次第である。されども我が主は親兄(しんきやう)の礼を重んじ、ひとまず都をお開きになって、西国の方へ下向され、御身に誤りなき通りをお嘆きだろう為に、今日の夜更けに淀からお船に召され、津の国尼崎大物(だいもつ)の浦へとお急ぎである」
ワキツレサシ「頃は文治の初め頃、頼朝義経不和の次第、既に決まったことで力なく」
判官「判官都をあちらこちらへと、道狭くならぬその先に、西国の方へと志し」
ワキツレ「まだ夜深くも雲の浮かぶ月、出るも惜しい都の名残、先年平家追悼の都を出るには引きかえて、ただ十余人すごすごと、さも疎からぬ友舟の」
歌「上り下るや雲水の、身は定めなき習いかな。世の中の、人は何とも石清水、人は何とも石清水、澄み濁るのをば神は知るだろうかと、高い御影を伏し拝み、行けば程なく旅心、潮(うしお)も波も共に引く大物の浦に着いたことだ、着いたことだ」
ワキ詞「お急ぎになる程に、ここははや大物の浦に到着しました。自分には知る者がいますので、お宿の事を申しつけましょう。如何にこの屋形の主が渡るのか」
狂言「誰が入りなさるのか」
ワキ「いや武蔵でござる」
狂言「さて只今は何のためにお出でになった」
ワキ「さよう、我が君をここまでお供してきました。お宿をお願い仕る」
狂言「ならば奥の間へお通りなさい。ご用心の事はお心安くお思いなされ」
ワキ「如何に申し上げましょう・恐れ多い事でありますけれども、まさしく静(しづか)御前はお供と見え申します。今のそのときに何とはやろうか似合わない様子でありますので、天晴、ここからお返しなさいよと思います」
判官「ともかく弁慶図らってくれ」
ワキ「畏まって候。ならば静のお宿へ参って申すべしでしょう」
ワキ詞「如何にこの屋形の内に静が渡ったのか。主からのお使いに武蔵が参じて申しましょう」
シテ詞「あら、武蔵殿とは思いもよらないことです。何のためのお使いでしょう」
ワキ「さよう、只今参ったのは外でもありません、我が主の言いつけで、ここまでのお参り返す返すも神妙に思っていらっしゃいます。そうではあるけれど、只今は何とはなく似合わないようですので、これから都へお帰りなさいとの事です」
シテ「これは思いもよらない仰せです。どこまでもお供をとこそ思っていたのに、頼りにしても頼りないのは人の心です。あら何ともないかな」
ワキ「さて、お返事をば如何申しましょう」
シテ「自らお供し、君の大事になるならば留まるべきです」
ワキ「あら、大げさな。ただお留まりになるのが肝要でございます」
シテ「よくよく物を案じるに、是は武蔵殿のお計らいと思うので、妾が参って直にお返事を申しましょう」
ワキ「それはともかくも、さればお参りなされ」
ワキ詞「如何に申し上げましょう。静御前がお参りです」
判官「どうした静。この度思わずも落人となり、落ち下る所に、ここまで遥々来た志し、返す返すも神妙です。しかしながら、遥々の波濤をしのぎ下ることはしかるべし、まずこの度は都に上って時節を待ち給え」
シテ「さてはまことに我が君のお言いつけでしょうか。無関係の武蔵殿を恨むことが恥ずかしいです。返す返すの面目ないことです」
ワキ「いやいや、これは苦しくない。ただ世人の噂を思いなさったことでしょう。お心変わりしたと思いなさるなと涙を流し申した」
シテ「いや、とにかくに物の数でない御身には恨みもないけれど、これは舟路の門出ですので」
地「波風も静を留めるかと、波風も静を留めるかと、涙を流し言うし、神に誓って変わるまいと契ったことも定めかな。実に別れより勝って惜しい命だことです。君に二度(ふたたび)逢おうと思う行く末ぞ」
判官「どうした弁慶。静に酒(しゆ)を勧めなさい」
ワキ「畏まって候。実に実にこれは門出の行く末千代ぞとの菊の盃、静にこそ勧めました」
シテ「妾(わらわ)は君とのお別れをやる方なくかき暮れて涙にむせぶばかりです」
ワキ「いやいや、これは苦しくありません。旅の舟路の門出の和歌、ただ一さしと勧めれば」
シテ「そのとき静は立ち上がり、時の調子をたちまちに渡し場の郵便船は風鎮まって出る」
地「波頭の向こうの配流される所は日が晴れて見える」
ワキ「ここに烏帽子があります。お召しあれ」
シテ「立ち舞うべくもない身の」
地「袖うち振るのも恥ずかしい」
シテサシ「伝え聞く陶朱公は勾踐を伴い」
地「会稽山に籠っていて種々の智略を巡らし、終に呉王を滅ぼして勾踐の本意を達したとか」
クセ「しかるに勾踐は、二度(ふたたび)代を執り会稽の恥を雪いだのも陶朱公を成すとか。されば越の臣下で、政(まつりごと)を身に任せ、功名富み貴く、心のままであろうを功なり名をとげて身を退くのは天の道と心得て、小船に棹さして、五湖の遠島を愉しもう」
シテ「かかる例(ためし)も有明の」
地「月の都をふり捨てて、西海の波濤に赴き、御身の咎のない次第を嘆きなされば頼朝も、終には靡く青柳の、枝を連ねる御契り、どうして朽ち果てるべきでしょうか」
地「ただ頼め」
シテ「ただ頼め、湿地(しめぢ)が原のさしもぐさ」
地「我、世の中にあろう限りは」
シテ「かく尊詠の偽りなければ」
地「かく尊詠の偽りなければ、やがて御代に出る船の」
歌「船人ども、はや友綱を疾く疾くと勧め申せば、判官も、旅の宿りをお出でになれば」
シテ「静は泣く泣く」
地「烏帽子直垂脱ぎ捨てて、涙にむせぶ御別れ、見る目も哀れである。哀れである」
ワキ「静の心中を察しました。すぐに船を出しましょう」
ツレ「いかに申しましょう」
ワキ「何事か」
ツレ「主からの言いつけでは、今日は海風荒いので、ご逗留とおっしゃっています」
ワキ「何とご逗留とおっしゃるか」
ツレ「左様でございます」
ワキ「これは推量するに、静に名残惜しさがあってのご逗留と思います。まずご思案なさって御覧なされ。今此処で御身に斯様なことは、御運も尽きたと思われます。その上先年渡辺福島を出た時はもっての外の大風でしたのに、主は船を出され、平家を滅ぼしなさったこと、今と同じことですぞ。急いで船を出すべきです」
ツレ「実に道理にかなったことです。敵(かたき)と夕波のどちらも」
ワキ「たち騒ぎつつ船人ども」
地「えいやえいやと夕汐に、つれて船を出した」
ワキ「あら笑止。風向きが変わりました。あの武庫山下ろし弓弦羽が嶽から吹き下ろす嵐に、この船の陸地に着くべき様もない。皆々心中にご祈念給え」
ツレ「いかに武蔵殿。この船には妖(あやかし)が付いています」
ワキ「ああ、暫く。そのような事は船中では申さぬ事だ。あら不思議かな。海上を見れば西国で滅んだ平家の一門が各々浮かび出たぞ。このような時節を伺って恨みをなすのも道理です」
判官「いかに弁慶」
ワキ「御前におります」
判官「今更驚くべきではない。たとえ悪霊が恨みをなすと言っても、そもそも何事があろうか。悪逆無道のその積もり、神明仏陀の冥威に背き、天命で沈んだ平氏の一類」
地「帝をはじめたてまつり、一門が月卿雲霞の如く波に浮かんで見えるぞ」
後シテ「そもそもこれは桓武天皇九代の後胤、平の知盛(とももり)の幽霊である」
詞「あら珍しや。いかに義経、思いもよらぬ浦浪の」
地「声をしるべに出た船の、声をしるべに出た船の」
シテ「知盛が沈んだその有様に」
地「また義経をも海に沈めんと、夕波に浮かぶ長刀執り直し、巴波の紋あたりを払い、潮を蹴り立て悪風を吹きかけ、眼(まなこ)もくらみ心も乱れて前後を忘れるばかりなり」
判官「その時義経少しも騒がず」
地「その時義経少しも騒がず、打ち物を抜いて持ち、現(うつつ)の人に向かう様に言葉を交わし戦えば、弁慶押し隔て、打ち物技にては叶うまいと、数珠をさらさらと押し揉んで、東方降三世(とうばうがうざんぜ)、南方軍茶利夜叉(なんぱうぐだりやしや)、西方大威徳(さいはうだいゐとく)、北方金剛夜叉明王(ほくばうこんがうやしやみやうわう)、中央大聖不動明王(ちゆうだいしやうふどうみやうわう)の索(さつく:綱)にかけて祈り祈られ悪霊次第に遠ざかれば、弁慶船人と力を合わせ、御船を漕ぎのけて波打ち際に寄せれば、なお怨霊が慕い来るのを追っ払い祈り退けて、また引く汐に揺られ流れ、また引く汐に揺られ流れて、跡は白波となったぞ」

◆平家物語
 平知盛と教経の描写を平家物語からピックアップしてみた。

 新中納言知盛(とももり)は船の舳先に立って「戦は今日を限りとする。各々がた、一歩たりとも退く気持ちがあってはならぬ。天竺、震旦、我が朝に並びなき名将勇士といえども運命が尽きてしまえばいかんともしがたい。そうではあるが、東国の奴らに弱気を見せるな。今となっては命を惜しむべき時ではない。これだけが知盛が思うことである」とおっしゃれば、飛騨の三郎左衛門景経(かげつね)「仰せを承れ、侍ども」と申した。

 新中納言(知盛)、大臣殿の前に参って申されることに「今日は侍どもも士気旺盛に見えます。きっと奮戦力闘いたすものと思われます。その中で阿波の民部成能(しげよし)だけが心変わりしたのでしょうか。闘志がないように見えます。奴の首を跳ねたいものです」と申されると、大臣(宗盛)は「どうして明白な証拠もなく首を跳ねることができよう、成能を呼べ」と言ってお呼びになった。

中納言(知盛)は「ああ、あやつの首を跳ねてくれよう」とお思いになったけれども、大臣殿の許しがないので、切らなかった。

三町の内の者は射外さず、三町余り沖に浮かんだ新中納言(知盛)の船を射越して、白箆(しらの)の大矢を一つ波の上に射浮かべた。

新中納言、この矢を取り寄せて見たところ、白箆(しらの)に鵠(こう)の羽で矧(は)いた矢の十三束三伏あったが、沓巻(くつまき)の上に一束おいて「三浦の和田の小太郎義盛」と漆で書いた。

 新中納言知盛、帝のお召し船に参って「女房たち、見苦しい者どもは皆海に沈め給え」とおっしゃったので、女房たちは「この世の中は如何に如何に」と言った。新中納言、全く騒がぬ躰(てい)で「戦は最早これまでです。今日より後は珍しい東男をご覧になることになりましょう」とうち笑ったので「この期に及んで何というご冗談をおっしゃいます」とわめき叫んだ。

 能登の前司教経(のりつね)は矢種が尽き、「今は最後」と思ったので、赤地の錦の直垂に緋縅(ひおどし)の鎧を着て、源氏の船に乗り移り、白柄の長刀(なぎなた)を短く持って薙いだので、多くの兵が滅んだ。新中納言が見て、お使いをやって「無益な殺生よ。罪作りなことをなさるな。そうしたからとて大した相手でもなし」とおっしゃったので、(教経)「さてが、この言葉、大将軍に組めと言うのだな」と言って、その後は源氏の船に乗り移り、乗り移り、押し分け押し分け、九朗判官を探した。

 思い通りに義経を尋ねあてて、喜び打ってかかる。判官は「叶わない」と思われたか、長刀を脇にかき挟み、一丈ばかりゆらと跳び、味方の船にお逃げになった。能登殿は心は勇猛だけれども、早業(敏捷さ)は劣っていたのだろう。続いて越えられなかった。判官をじっと睨んで「これ程までに武運が尽きてしまったからには」と言って、長刀を海へ投げ入れ、兜も脱いで海へ入り、鎧の裾をかなぐり捨て、ざんばら髪で立ち、「我と思わん者は教経を生け捕り鎌倉へ連れていけ。兵衛佐(ひやうゑのすけ:頼朝)に言いたいことがある。寄れや、寄れや」と言ったけれども寄る者はなかった。

 ここに土佐の国の住人、安芸の郡を知行する安芸の大領の子で大領太郎実光(さねみつ)といって、三十人力があった。弟の安芸の次郎も劣らぬ強か者であった。主に劣らぬ郎等一人がいた。兄の太郎、判官の前に進み出て言うには、「能登殿に寄りつく者がいないのは残念ですので、組み奉ろうと思います、それにつきましては、土佐に残した二歳になる幼い者を不憫にお目をかけて頂きとうございます」と申したので、判官、「殊勝にもよくぞ申した。子孫においては気遣い無用」とおっしゃったので、安芸の太郎主従三人は小船に乗り、能登殿(教経)の船に移り、錣を傾け、肩を並べてうち向かった。能登の前司、先に進んだ郎等を「憎い奴かな」といって海にざんぶと蹴り入れた。太郎を左の脇に挟み、次郎を右の脇に挟み、一締め締めて「さあ貴様ら、それでは。貴様らは我が冥途の旅の供をせよ」とて生年二十六で遂に海へと入った。

 新中納言(知盛)はこれを見て、伊賀の平内左衛門家長を呼んで「もはや見届けねばならぬことは全て見届けた。生きていたとて何になろう」とおっしゃったところ、平内左衛門は「これまでの主従の固い約束を背きはいたしませぬ」と言って寄って、鎧を二領着せて自分の身も二領着て手を取り組んで海に入った。平生「一緒に死のう」と契った侍どもも二十人余り、皆手を取り組み海へと入った。

◆余談
 「平家物語」は児童向けのものを読んだきりだが、こうして最期の場面を読むと迫力があった。知盛も教経も見事な死にざまである。道連れにされた太郎と次郎が可哀想ではあるが。

◆参考文献
・「謡曲叢書 第三巻」(芳賀矢一、佐佐木信綱/編, 博文館, 1915)※「船辨慶」pp.272-277
・「かぐら台本集」(佐々木順三, 佐々木敬文, 2016)
・「新潮日本古典集成 第四七回 平家物語 下」(水原一/校注, 新潮社, 1981)
※「壇の浦」「早鞆」
・錦仁「義経と弁慶―秋田の鈴木三郎説話を視座に―」「在地伝承の世界【東日本】講座日本の伝承文学 第七巻」(徳田和夫, 菊地仁, 錦仁, 三弥井書店, 1999)pp.115-131

記事を転載→「広小路

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2019年6月12日 (水)

民俗から文化へ――岩本通弥/編「ふるさと資源化と民俗学」

「ふるさと資源化と民俗学」(岩本通弥/編, 吉川弘文館)を読み終える。タイトルにあるように、郷土の伝統芸能が地域おこしに活用され観光資源化されつつある。海外ではフォークロリズム(フォークロアまがい)という概念を用いて分析されてきた課題だけれども、現代日本でもフォークロリズムが浸透しつつある。

それらの動きの背景には農業が深く関わっている。民俗行事と農業というのは元々関係が深いものだけど、WTOによる関税引き下げ圧力で、国内農家を保護する既存の政策が見直されていることとも深い関わり合いがある。農水省はグリーンツーリズムといった新しい観光形態で農家の民宿経営を支援する保護策を打ち出している。が、小学生の体験学習で独自のノウハウを積み重ねている地域ではグリーンツーリズムに敢えて参加しないという方向性を選んでいるようだ。

また、ユネスコの世界遺産条約も加盟の影響も大きいようだ。世界遺産といっても、その保護自体は日本の国内法、文化財保護法等で守られており、白川郷の事例を挙げて、世界遺産化した現状に対する分析が行われている。

元々、文化という言葉は文化住宅といった用語でもそうであるように「進んだ、進歩した」というニュアンスが込められていた。明治時代以降の日本は西洋文化を取り入れることで文化化を推し進めてきた訳であるが、戦後になって見直しがされる。文化が西洋化されても心理面で豊かになっていないという現実である。そこで地方に残る伝統文化が見直されてきたという流れの様だ。

これらの政策の転換の背景には農水省の意向や、神道系の保守系圧力団体の意向が深く関わっていると指摘がされている。

後半に入ると、本書の姿勢が明確になる。本質主義の限界を指摘し、構築主義的な文化観となっていく。

民俗学はこれまで一国民俗学として日本の民俗を統一的に把握しようとしてきたことが指摘されている。しかし、実際には一国の括りで括れない程の多様性が日本の民俗にはあるのではないかという観点が提供される。

中西裕二「複数の民俗論、そして複数の日本論へ」では、白川琢磨の九州の神楽研究を例として挙げ、宮崎県の高千穂神楽を取り上げる。高千穂神楽は神楽の本場であるが、一面では観光神楽化して多くの観光客を受け入れている。高千穂神楽というと岩戸神楽のイメージであるが、実は歴史を振り返ると、岩戸神楽が現在の編成となったのは十九世紀に入ってからのことだとしている。

僕自身、本田安次の「日本の伝統芸能」に収録された九州の神楽の詞章を読んだことがあるが、それらは江戸時代に神道流に改作されたものであった。なので、明治以降だということはないと思う。

白川琢磨は宗教人類学者で、神道流に改作される以前の神楽の姿を捉えるには神道の知識だけでは追いつかない面もあるので、今後の課題としたい。

こういった十九世紀に再編成された神楽という見方自体が構築主義的である。構築主義は文化はその都度再構成/再創造されるものとの解釈である。とすると、それを推し進めると文化に本物も偽物もないことになり、何でもありになってしまう。それもまた困った話である。

川森博司「中央と地方の入り組んだ関係―地方人から見た柳田民俗学―」では岡正雄が柳田民俗学を「一将功なって万骨枯るの学問」と評した。一国民俗学の立場からこうした知の中央集権システムを構築した面があるのだけど、川森は地方で民俗を収集していた人たちは地方の知識人層であり、民俗学の外に生業があったとして、「万骨枯る」という見方に修正を施している。

民俗学の黎明期にはコンピュータやデータベースは存在しなかった。カードによる分類法などはあっただろう。現代的な視点で捉えると、柳田は自らを人間データベース化しようとしていたのではないか。

また、文化の客体化という用語がしっくり来るようになる。文化が本来の文脈から切り離されることで、文化が客体化、もっと推し進めれば商品化されるのだという解釈らしい。

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2019年6月 9日 (日)

台湾から見た日本

横浜天王町の橘樹神社の例大祭で催された奉納神楽を撮影する。隣の席の人は台湾から旅行で来た方で、日本語が堪能で、日本に何度か旅行に来ているとのこと。台湾より日本の方が安定していると見えるらしい。中国との関係もあるようだ。台北では不動産価格が高くて(収入を全部当てても30年くらいかかるとのこと)手に入れるのが困難だそうだ。台湾にも兵役あるとのこと。

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橘樹神社の横浜神代神楽を鑑賞 2019.06 その2

横浜市天王町の橘樹神社の例大祭二日目。寝過ごして11時20分頃に入ったので、最初の囃子は聞き逃した。獅子舞はおかめさんとの合わせ技だった。それから巫女舞。巫女さん姉妹の二人舞。それから「天孫降臨」と剣舞(タイトルが分からない)、「菩比の上使」「餅撒き」等が上演された。合間に獅子舞や囃子を挟んでの上演だった。

橘樹神社の奉納神楽・巫女舞
橘樹神社の奉納神楽・巫女舞

橘樹神社の奉納神楽・天孫降臨・猿田彦命
天孫降臨・猿田彦命

天孫降臨・モドキが登場。偉い神様がお通りになるので道を清め払おうとする
天孫降臨・モドキが登場。偉い神様がお通りになるので道を清め払おうとする

天孫降臨・モドキが猿田彦命と諍いを起こす
天孫降臨・モドキが猿田彦命と諍いを起こす

天孫降臨・天鈿女命登場
天孫降臨・天鈿女命登場

天孫降臨・ニニギ命登場
天孫降臨・ニニギ命登場

天孫降臨・ニニギ命に対面する猿田彦命
天孫降臨・ニニギ命に対面する猿田彦命

天孫降臨・ニニギ命・天鈿女命・猿田彦命のそろい踏み
天孫降臨・ニニギ命・天鈿女命・猿田彦命のそろい踏み

天孫降臨・天鈿女命と猿田彦命
天孫降臨・天鈿女命と猿田彦命
天孫降臨・猿田彦命が剣で雲を切り払う
天孫降臨・猿田彦命が剣で雲を切り払う

剣舞(演目名分からず)
剣舞(演目名分からず)

橘樹神社の奉納神楽・獅子舞・おかめが獅子を舞う
獅子舞・おかめが獅子を舞う

獅子舞
獅子舞

菩比の上使・建御名方命登場
菩比の上使・建御名方命登場

菩比の上使・建御名方命の従者のモドキ登場
菩比の上使・建御名方命の従者のモドキ登場

菩比の上使・天菩比神(天穂日命)登場
菩比の上使・天菩比神(天穂日命)

菩比の上使・天菩比神が建御名方命に国譲りを迫る
菩比の上使・天菩比神が建御名方命に国譲りを迫る

菩比の上使・酒好きな天菩比神が建御名方命に酒を勧められて飲んでしまう
菩比の上使・酒好きな天菩比神が建御名方命に酒を勧められて飲んでしまう

菩比の上使・天菩比神は酒に酔ってつぶれてしまう
菩比の上使・天菩比神は酒に酔ってつぶれてしまう

菩比の上使・酔いつぶれた天菩比神をモドキが襲撃しようとする
菩比の上使・酔いつぶれた天菩比神をモドキが襲撃しようとする

菩比の上使・酔いから覚めた天菩比神、建御名方命と斬り合いになる
菩比の上使・酔いから覚めた天菩比神、建御名方命と斬り合いになる

菩比の上使・敗れた天菩比神、建御名方命に降参する
菩比の上使・敗れた天菩比神、建御名方命に降参する

菩比の上使・使いに失敗し、嘆く天菩比神
菩比の上使・使いに失敗し、嘆く天菩比神

菩比の上使・国譲り阻止に成功した建御名方命
菩比の上使・国譲り阻止に成功した建御名方命

菩比の上使・最後に酒を飲んで退場するモドキ
菩比の上使・最後に酒を飲んで退場するモドキ

餅撒き・山の神が餅と福銭を撒く
餅撒き・山の神が餅と福銭を撒く

床をドンと強く踏む所作があったので、あれは反閇ですかと尋ねたところ、そうではなくて、神楽殿の床下は空洞なので、強く踏んで重低音を響かせるという意図とのこと。「言いつけの場」と「菩比の上使」はマイクで補足しながらの上演となった。衣装の着付けに時間がかかるらしく演目間の合間は長かった。

「天孫降臨」は猿田彦命がモドキとチャンバラをしたり、天鈿女命と対峙したりで、ニニギ命を迎え入れる内容。「菩比の上使」は天下った天菩比神(天穂日命)が建御名方命に国譲りするよう申し入れるが、建御名方命に酒を飲まされてしまって、降参するという筋立てだった。いずれの演目にもモドキが登場した。

横浜の神代神楽では大太鼓がリードせず、締め太鼓がリードする。そういうのを良しとするらしい。

夕方からは雨が降り初め、長袖でも肌寒かった。今回も休憩の間に舞台裏に入れてもらう。

課題としては、雨ということもあって観客が少なかった。演目がはじまると人が集まってくるのだけど、終わると潮が引くようにいなくなってしまう。興味を示す子供もいたが、石見地方の子供が神楽のお囃子を聞くと落ち着きがなくなると言われるのに比べると大人しかった。

写真を撮っていて気づいたのだが、デジカメの背面液晶で神楽を鑑賞している自分に気づく。肉眼で見るのとはやはり違うのだ。写真を撮らないと記憶がすぐに薄れてしまうし、ここら辺、写真を趣味とする者(メモ帳レベルだけどね)のジレンマである。

写真はニコンP7100とパナソニックGX7mk2+35-100mmで撮影。P7100は発表当時からレスポンスが悪い、AFが遅いと指摘されていたが、獅子舞のような動きものを撮るのにはちと厳しかった。パナソニックGX7mk2はレスポンスもAFも速く、今時のミラーレスといった印象だった。ただ、獅子舞は動きが速く、秒5コマくらいで連射しないと追いつかないようだ。

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2019年6月 8日 (土)

橘樹神社の横浜神代神楽を鑑賞 2019.06 その1

横浜市天王町の橘樹神社の例大祭に行く。神楽が奉納されていて「三番叟」「巫女舞」「神逐蓑笠」の三演目+お囃子&獅子舞を見る。「神逐蓑笠」は「言いつけの場」「五穀本願」「素尊勘当」の三場から成っていた。「五穀本願」はスサノオ命が保食神の種を臭いと斬ってしまう筋立て。「素尊勘当」は天照大神から勘当されたスサノオ命が蓑と笠を着けて放逐されるという粗筋だが貴重な演目とのこと。

橘樹神社の奉納神楽・三番叟
三番叟

橘樹神社の奉納神楽・巫女舞
巫女舞

橘樹神社の奉納神楽・神逐蓑笠・言いつけの場・天照大神
神逐蓑笠・言いつけの場・天照大神

橘樹神社の奉納神楽・神逐蓑笠・言いつけの場・天児屋命
神逐蓑笠・言いつけの場・天児屋命

橘樹神社の奉納神楽・神逐蓑笠・言いつけの場・素戔嗚命
橘樹神社の奉納神楽・神逐蓑笠・言いつけの場・素戔嗚命

「言いつけの場」では天照大神が素戔嗚命に五穀の種を保食神から受け取るように命令する。

橘樹神社の奉納神楽・神逐蓑笠・五穀本現・保食神
橘樹神社の奉納神楽・神逐蓑笠・五穀本現・保食神

橘樹神社の奉納神楽・神逐蓑笠・五穀本現・保食神の従者のモドキ
橘樹神社の奉納神楽・神逐蓑笠・五穀本現・保食神の従者のモドキ

橘樹神社の奉納神楽・神逐蓑笠・五穀本現・素戔嗚命
橘樹神社の奉納神楽・神逐蓑笠・五穀本現・素戔嗚命

橘樹神社の奉納神楽・神逐蓑笠・五穀本現・保食神の種が臭いと怒って、素戔嗚命が保食神を斬ってしまう
神逐蓑笠・五穀本現・保食神の種が臭いと怒って、素戔嗚命が保食神を斬ってしまう

橘樹神社の奉納神楽・神逐蓑笠・素尊勘当・天照大神に素戔嗚命の暴虐を訴える保食神
橘樹神社の奉納神楽・神逐蓑笠・素尊勘当・天照大神に素戔嗚命の暴虐を訴える保食神

橘樹神社の奉納神楽・神逐蓑笠・素尊勘当・素戔嗚命
橘樹神社の奉納神楽・神逐蓑笠・素尊勘当・素戔嗚命

橘樹神社の奉納神楽・神逐蓑笠・素尊勘当・素戔嗚命と対峙する天照大神
橘樹神社の奉納神楽・神逐蓑笠・素尊勘当・素戔嗚命と対峙する天照大神

橘樹神社の奉納神楽・神逐蓑笠・素尊勘当・素戔嗚命を制止する天児屋命
神逐蓑笠・素尊勘当・素戔嗚命を制止する天児屋命

神逐蓑笠・素尊勘当・素戔嗚命に怒りをぶつける天照大神
神逐蓑笠・素尊勘当・素戔嗚命に怒りをぶつける天照大神

神逐蓑笠・素尊勘当・蓑と笠を着て追いやられることになった素戔嗚命
神逐蓑笠・素尊勘当・蓑と笠を着て追いやられることになった素戔嗚命

家元の加藤俊彦さんに声を掛けて頂く。島根県出身と答えると答えると「神楽甲子園って本当にあるんですか?」と訊かれた(笑)。加藤さんは「カグラ舞う!」のコラムを執筆されている方。

昼間は曇っていたが熱かった。夕方から晩にかけては半そででは肌寒いくらいだった。梅雨入りしたが、幸い雨はパラパラと降った程度だった。神輿の時間帯に合わせるため、演じられなかった演目もあるが、神楽殿で舞われる奉納神楽であり、特に夜神楽は雰囲気があってよかった。

誤算だったのは一眼レフ(オリンパスE-520)が故障したこと。ちょうど退役させることを考えていて、もう少しもってくれるとよかったのだが。電源を小まめに消して要所要所だけ撮るやり方ならミラーレスでもバッテリーが持った。

写真はパナソニックGX7mk2+35-100mmで撮影。

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2019年6月 7日 (金)

品川神社の太々神社を鑑賞 2019.06

品川神社の例大祭に行く。午後7時過ぎから太々神楽が二座奉納された。最初は清めの舞なので多分四方拝の舞だと思う。二座目は稲荷の舞で、今回は季節的に稲の苗を植える仕草が取り入れられていた。

四方拝の舞

稲荷の舞

品川神社の神輿

品川神社の獅子頭

GX7mk2+35-100mmで撮影。シャッタースピードを1/125秒で設定していたら光量不足で暗くなった。トーンカーブ補正で対応。

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2019年6月 4日 (火)

ファン、地域、製作者のトライアングル――山村高淑「アニメ・マンガで地域振興~まちのファンを生むコンテンツツーリズム開発法~」

山村高淑「アニメ・マンガで地域振興~まちのファンを生むコンテンツツーリズム開発法~」を読む。近年、アニメの背景にロケハンされた風景が描かれることが増えてきた。それを元に実際のロケ地に足を運ぶ新型の観光が勢いを増しつつあるというのが本書のテーマ。コンテンツツーリズムというと映画やドラマも含まれるけれど、本書ではアニメ・マンガに限定して論述している。

アニメでコンテンツツーリズムが成功した事例として先ず取り上げられるのが境港市の水木しげるロードである。「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する妖怪たちのブロンズ像が商店街にずらりと並べられているのだけど、これで境港市は大いに活性化した。

ところで鬼太郎が題材となっているのだけど、鬼太郎は何度もアニメ化された非常に息の長い(繰り返しのアニメ化に耐えうる)国民的人気番組である。そういう意味では成功は半ば必然かもしれない。

以降、本書では「らき☆すた」「サマーウォーズ」「戦国BASARA」を題材として進んでいく。特に「らき☆すた」の鷲宮町(現・埼玉県久喜市)が好んで取り上げられるのだけど、「らき☆すた」の場合、主に首都圏や関西圏などを中心に放送された全国ネットではない深夜アニメである。そういう意味で必ずしも国民的人気作品でない新作でもアニメツーリズムは可能であるという事例となっている。

本書では、コンテンツを、その地域に付与されている物語性と定義する。魅力的なコンテンツ(物語性)を持つ地域に人が集まるとするのである。これは物語マーケティングの面からみても首肯できる。物語化することで理解が容易になるのだ。

インターネットの発達で観光客自身が情報をブログ、SNS、ホームページなどで情報発信できるようになり、従来観光業が担っていた情報発信の役割に変化が訪れた。ネット上の仮想空間で人々が結びつきはじめたのである。本書では江戸時代にあった連という組織――俳諧など趣味人の緩い繋がりを例に挙げて、今再びそのような同好の士の緩い繋がりが生まれつつあるとしている。

鷲宮町では関東最古の神社である鷲宮神社がアニメ化の素材となったのだけど、例えば鎌倉の様な従来型の観光資源を持たない地域でも、コンテンツが充実し、それを発信できさえずれば人々が惹きつける可能性があるとする。

鷲宮の事例ではアニメ放映中にロケ地が鷲宮町であることがアニメ雑誌や同人誌によって明かされ、実際に訪れるファンが増えた。当初、鷲宮町ではアニメ効果で観光客が増えていることに気づいておらず、それを察知して商工会議所が中心となって動き、アニメの著作権者である製作委員会(角川書店が窓口)とコンタクトを取り、土産物やイベントの企画が動き始めたという流れだそうだ。

ファン、地域、製作者の三者が理想的な関係を作り上げたことが報告されている。その中ではキーマンとなる人達の存在が指摘されている。キーマンとなるべき人材がいないから自分たちでは上手くいかないと考えるのでなく、思い切ってアニメに理解のある若手に任せてみることも提言されている。

ちなみに、鷲宮町で発行された特別住民票には「らき☆すた」のキャラが鷲宮神社の土師一流催馬楽神楽を舞っている姿が描かれているとのこと。

 

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2019年6月 1日 (土)

中心と周辺、ヴァルネラビリティ――「地域メディアが地域を変える」(河井孝仁, 遊橋裕泰/編, 日本経済評論社)

「地域メディアが地域を変える」(河井孝仁, 遊橋裕泰/編, 日本経済評論社)を読む。地域活性化に地域メディアを活用しようという本である。モバイル社会研究所というNTTの系列の研究所が企画した本。

地域活性化が成功した際によく語られるのが「キーパーソンは誰々だ」「誰々さんがいたから成功した」というフレーズである。本書ではスーパー地域職人と呼んでいるが、そういうスーパーマンがいないと活性化は成功しないのだろうか、いないとしたら登場するまで待たねばならないのかといった疑問が湧いてくる。

本書では解決策として地域情報アーキテクチャを提案する。2009年の発刊であるからだが、Web2.0という今ではいささか古くなった概念を援用して、地域SNS、ブログ、地域ポータルサイトなどを提案するのである。

 地域情報アーキテクチャの「信頼を与える力、誘引する力、(共通のことば、目的を基礎に)翻訳する力」を基礎として、地域職人が行う地域活性化を図る「しごと」を本章では「発火」と名づける。
 また、地域職人による「発火」が行われて、「信頼を与える力、誘引する力、(共通のことば、目的を基礎に)翻訳する力」という潜在力を持つ地域情報アーキテクチャが機能し、地域活性化を可能とする集合知の形成利用が行われるとも考える。(21-22P)

事例として地域情報のアーカイブの制作にPopCorn、PushCornといったツールを活用したことや、富山市の商店街のポータルサイト(iモール富山)の制作・運営といった事例が挙げられている。富山市の事例は個人の一代芸であるともしているが、iモールは他の中堅都市にも広がりを見せている。

また、ヴァルネラビリティという概念を重視する。誘発性という訳語を当てているが、弱点、脆弱性といった意味を持つ言葉である。たとえば、地域SNSの子育てコミュニティの中心メンバーは子育て中の女性が中心となる。そこではリアル社会では中心から外れた周縁部に属する女性たちが中心となるのである。周縁が活性化されることによって中心が刺激される効果が見られるのである。そこに周縁から中心へと位置をずらす力を見るのである。

地域活性化に繋がる存在として「よそもの・わかもの・ばかもの」が挙げられているが、これも、ヴァルネラビリティと関わる言葉である。

こういったIT技術の活用による周辺から中心への人材の活用、地域職人の発火といった合わせ技で地域の活性化を図るとしている。


……数年前に「サクラクエスト」というアニメが放映された。富山県のとある市に手違いで観光大使(国王)として赴任したヒロインが地域活性化のために一年間奮闘するという物語である。設定では観光来客数が年間数万人という規模の観光の目玉が無い地域で(モデルとなった市には世界遺産があるなど、有力な観光地である)たった一年で目立った成果が出るはずもなく、劇的な幕切れとはならなかった。が、テーマがテーマだけに毎週見てしまった。特に面白いという訳でもなくつまらなくもない平凡な出来なのだけど、ネットで配信されているので、興味のある人は見てみればいいんじゃないかと思う。

 

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