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2019年5月26日 (日)

鈴鹿山――田村三代記を読む

◆はじめに
 「田村三代記」は征夷大将軍・坂上田村麻呂の祖父・父・子の三代にまたがる奥浄瑠璃であり、仙台藩、南部藩領で盛行した。「仙台叢書 復刻版 第十二巻」に収録された「田村三代記」を読んだが、祖父・父の代の物語は割愛されていて、子である田村将軍・利仁と立烏帽子にまつわる鬼退治伝説となっている。

 「田村の草子」「鈴鹿の草子」と比べて、特に子の田村将軍・利仁の代についてだが「鈴鹿の草子」とほぼ粗筋である。大きな違いは「田村の草子」「鈴鹿の草子」に登場する鈴鹿の御前(立烏帽子)の出自が天界の天女であるのに対し、「田村三代記」の立烏帽子は第四天の魔王の娘であることだ。つまり、魔性の物なのである。その日本を魔国となさんと企む魔性の物と田村将軍が結ばれて鬼退治をするという物語となっているのである。

 反面で「鈴鹿の草子」のように俊宗と会えない鈴鹿の御前が恨み事をいう、その葛藤は「田村三代記」には見られない。

◆田村三代記・あらすじ
※以下の粗筋は「田村三代記:御国浄瑠璃」の版から起こしたものである。

 人皇五十一代平城天皇の御代に丹波の国と播磨の国の境に大きな星が一つ天下り光輝くことあたかも白昼のごとくであった。そこで天文の博士を召して占わせたところ、これは吉事であるとなった。この星は砕けて隕石となって降り、中から三歳ばかりの麗しい童子が誕生した。この童子を連れて帰って参内し、養育した。この童子は七歳で書を読み文字を書いた。また笛の名手であった。十歳のとき利春(としはる)と改名した。十五歳のとき帝が利春を召し、先帝の命日に天人を天下らせ舞楽を奏せよと命じたところ、利春は天人の舞楽は天竺梵天王の大庭でなければ奏せないと断った。怒った帝は利春を流刑に処す。

 流された利春は心を慰めるために笛を吹く。すると笛の音に惹かれた女が現れた。夜な夜な利春の許に通ってくる。身分の低い水仕だと名乗っているが容顔美麗であり、いつしか二人は契りを結んだ。懐胎した女は利春の許に留まるようになる。女は出産には三年三月必要だと答える。産屋を建て、百日百夜経つまでは中を覗くなと言い残して女は中に籠る。

 九十九夜になった日、利春は待ちきれずに産屋を覗いてしまう。すると、中には二十尋もある大蛇がいた。明けた百日目に女は赤子を抱いて利春の許を訪れる。正体を見られた女は古巣の池に帰ると言い残して消える。鏑矢を乳房とせよと言い残したので、矢羽根を吸わせたところ、笑顔となった。赤子は大蛇丸と名づけられた。大蛇丸が七歳になった頃、利春は赦され、都に戻る。

 大蛇丸が十歳になった頃、大和の国と山城の国の境の今瀬が淵に棲む悪龍が人々に害をなした。十歳ながら武勇に優れた大蛇丸に悪龍退治の宣旨が下される。百騎余りの手勢を率いて大蛇丸は出発する。

 淵に着いた大蛇丸だったが、悪龍の恐ろしさに手勢の者が怖れをなしてしまう。ところが大蛇丸は動じず、母の形見の神通の矢で龍の眉間を射ぬき、龍を退治する。都に帰って参内した大蛇丸は帝の御感甚だしく、中納言に任じられ、利光の名を賜った。

 利光が退治した悪龍は利光の母の大蛇であり、利光に武功を立てさせるために悪龍と変じたものである。その身は滅んだが、心は天に登り八幡神として現したという。

 第五十二代嵯峨天皇の御代に奥州で反乱が起きた。そこで中納言の利光が召されて将軍として反乱の鎮圧に当たることになった。千騎の手勢を率いた利光は奥州に向けて出立する。大蛇の腹に三年三月宿った大蛇丸の成長した利光の威光に大名小名たちは恭順し、反乱は収まる。

 都への土産物を持って帰るという話となった。奥州には珍しい物がないというので、七ツ森という森で狩りを催して動物の皮を持って帰ることになった。狩りが実施された。多数の犠牲を出しながら、大きな狒々と荒熊を狩った。亡くなった者には弔い金を渡し、利光は帰城した。

 九門屋という長者に悪玉という醜女が水仕として仕えていた。悪玉は実は公家の娘であったが、信濃詣でに出た際に山賊に襲われて身売りされたものであった。肌を許さないため観音に祈ったところ、醜女と変じた。これでは売り物にならないと転々とした挙句に九問屋に身を寄せることになったのである。その悪玉に利春が目を留めた。利春の眼には本来の美麗な女として映っていたのである。悪玉と契った利春だったが、都に連れ帰る訳にもいかず、形見として神通の鏑矢を与える。

 懐妊した悪玉だったが、三年経っても出産しなかった。これは尋常の者を身ごもったのではない、化性の物だと考えた。化け物が生まれては家の名誉に関わると思い長者は悪玉に暇を与える。行く当てもなく悪玉は放逐される。

 見かねた在所の者に産屋を建ててもらい、三年三月が経って悪玉は出産した。それを知った九門屋が子を捨てて奉公せよと命じる。悪玉は赤子を捨てようとするが果たせず、赤子諸共に河に身投げしようとするが、どこからともなく待てという塩釜明神の声がして思いとどまる。

 玉のような赤子を見た長者は考えを改めて我が子として育てることにする。悪玉から赤子を取り上げた長者は悪玉に決して母と名乗るなと誓言させる。赤子は千熊丸(せんぐままる)と名づけられた。

 千熊丸は十三歳に成長した。弓馬の道に優れた千熊丸だったが、八幡宮の流鏑馬の射手を務めさせて欲しいと別当に願いでるが、別当は千熊丸が悪玉という身分の低い水仕から生まれた素性も知れない子であるとして断る。屈辱を受けた千熊丸であったが、その場は堪え、悪玉の許に行く。悪玉から父が将軍であること、そして母の身の上を聞き出した千熊丸は神通の鏑矢を渡され都へ出立する。

 長い旅を経て都に到着した千熊丸は、利光の館へと赴き、蹴鞠の腕を見せて利光の関心を誘う。怪力を見せつけて利光に仕えることになった千熊丸であったが、千熊丸が只者ではないと見て取った利光は、千熊丸に逆心があるのではないかと疑う。そこで人喰い馬の世話をさせるが、千熊丸は馬を手なずける。いよいよ怪しんだ利光は千熊丸に食事をさせ、その最中に弓で射殺そうとする。が、千熊丸は何事もなかった様に箸で矢を受け止める。観念した利光に千熊丸は形見の神通の鏑矢を見せる。我が子だと利光は認める。

 内裏に参内した千熊丸は坂上田村麿利仁(としひと)の名を賜る。そして悪玉を利光の正妻として、奥州から召し出す。元の美麗な姿に戻った悪玉は都へ入り、田村御前と名を変えた。


※以下の粗筋は「仙台叢書 復刻版 第十二巻」の版から起こしたものである。

 仁明天皇の御代に異変が起きた。毬のような光るものが昼夜を問わず飛び回り、光と遭遇したものは皆、金品財宝を奪われた。帝は公卿と大臣を召されて詮議なさったが、とにかく博士を召して占わせた。

 第四天の魔王の娘である立烏帽子が伊勢の国の鈴鹿山に天下り、日本を魔国となそうとしているとしていると占う。そこで田村将軍利仁が召され、急ぎ立烏帽子の成敗をするよう宣旨が下った。

 利仁は神仏に祈念し、総勢二万騎を連れて都を出て鈴鹿山へ押し寄せる。鈴鹿山を包囲した軍勢だったが、立烏帽子の居所はさっぱり見つからない。ただ時間だけが過ぎていった。利仁は父の言葉を思い出す。魔性の者を尋ねるときは、大勢で尋ねてはならない。必ず主従二人か三人かで尋ねるべしと。利仁は軍兵を差し戻し、自分独りで鈴鹿山の陣地に籠る。それから三年経ったけれども立烏帽子に逢うことはなかった。

 利仁は神仏に祈念する。すると毬のような光るものが現れた。光はこの上に登れ。されば恋しき人に逢うべしといって消える。今まで見つからなかった細い道があった。その道を行くと立烏帽子の館があった。四方に四季を映す庭園があり、極楽浄土もかくやあらんという見事なものであった。

 利仁は立烏帽子の姿を見かける。歳の頃二八(十六歳)ばかりの美麗な女房であった。利仁は立烏帽子と親しくしたいと思ったが、何のためにここまで来たのだと考え直し、そはや丸という剣を立烏帽子に投げつける。立烏帽子も大通連の剣で応戦、斬り合ったが決着がつかなかった。

 呆然とした利仁の前に立烏帽子が忽然として現れた。自分を討とうとしても中々叶わないことだ。我は天竺の第四天魔王の娘で、将軍の先祖も知っている。利仁公三代は日本の悪魔を鎮めんがために観音が再来したものである。目には見えないはずの自分の姿が利仁公に見られた事は悔しいことだ。自分は日本を魔国となさんがために天下ったが、女の身ゆえ相応の夫がなくては叶わない。奥州に大嶽丸という鬼がいて、妻にせよと文を送ったが一向に返事が来ない。これは利仁公にとっては幸いである。かくなる上は悪心を翻し、善心で利仁公に馴れ初めよう。共に日本の悪魔を鎮めようではないか。

 利仁は従わなければ殺されると思い、かくなる上は立烏帽子に従って時節を伺い八つ裂きにしてくれようと考えた。それで、立烏帽子に承諾の意を伝える。喜んだ立烏帽子は利仁をもてなす。やがて比翼の契りを結び、三年暮らす内に正林という姫君が生まれた。子供が生まれたといっても利仁は油断しなかった。利仁は渡り鳥に文を託して、内裏へと送った。内裏では利仁の無事を知って、喜んだ。利仁は来る十五日に立烏帽子を連れて参内するから、そのときに立烏帽子を捕らえて八つ裂きにせよと書いていた。

 立烏帽子は通力で利仁の心を見抜いていた。お心を許しても討たんとするは何事かと言う。しかし、約束を果たせなくては夫の恥であるとして利仁の参内に同行する。神通の車で利仁と立烏帽子は参内する。利仁は立烏帽子を伴って帝に拝謁する。立烏帽子は来月になれば鬼神退治の宣旨が下るから協力しようと言う。

 九月になって利仁は参内した。近江の国の釜染が原に悪者の高丸という鬼神が住み着いて民に害をなしている。成敗せよと宣旨が下った。利仁は二万騎の軍勢を連れて出立する。

 釜染が原で高丸と対峙した利仁は戦いを始める。戦いは利仁が優位で高丸は常陸の国の鹿島に逃げる。それからあちこち逃げ回り、とうとう唐土と日本の境のちくらか沖へと逃げ込んだ。海では手が出せない。二万騎あった手勢も二百騎にまで減った。

 一旦、都に引き揚げることにした利仁だったが、伊勢の国に立ち寄ったところで、枕許に立烏帽子が現れる。高丸は築らが沖、大りんが窟に籠っている。自分が加勢して高丸を易々と討たせようと言う。

 兵を都に引き揚げさせた利仁と立烏帽子は神通の車に乗って築が沖へと赴く。そこには岩屋があった。利仁があそこからどうやって敵をおびき寄せるのだと問うと、立烏帽子は天から十二の星を招いて妙なる音楽を奏でさせた。高丸の末の娘がこれに関心を示した。高丸は自分たちをおびき寄せる田村殿の計略だと諭すが、娘の可愛さに負けて岩戸を開いてしまう。そこで利仁は神通の矢で高丸を射る。大通連、小通連、釼明連、そはや丸の四本の剣で鬼たちの首を残らず討ち取った。利仁は高丸の塚を築かせた。

 伊勢の国に戻った利仁と立烏帽子だったが、立烏帽子が予言する。自分は始め日本を魔国と成そうとして大嶽丸に文を送ったが、返事がないので利仁公を夫とした。夫と組んで高丸を退治したことを大嶽丸は憎んでいる。必ずや自分を攫いにくるだとうと。まず、帝に高丸討伐を奏聞すべし。大嶽丸は高丸の倍強い鬼だが、自分の計略で易々と討たせてやろうと。

 大嶽丸がやってきた。我に背き田村に味方するとは何事か。我に従わないなら微塵にしてくれよう。立烏帽子は、背く気はない。共に陸奥の国へ下るべしといって、大嶽丸に攫われていった。

 利仁に陸奥の国の桐山(もしくは霧山)に棲む大嶽丸を討伐せよとの宣旨が下された。まず利仁は神社仏閣に参拝して戦勝を祈念した。利仁は陸奥の国まで長い道のりを進んでいった。

 立烏帽子は利仁がやって来たことを通力で知り、迎える。達谷が窟に入った利仁と立烏帽子だったが、そこに大嶽丸が帰ってくる。賤しき者の死骸を見れば自分の大望が邪魔される。自分は立烏帽子に溺れ三明六通を失った。これから神通を改め、都へ上って帝を微塵にしてくれようと言う。それから窟を抜け出して桐山に籠った。桐山に三日籠れば三明六通を得るので急げと立烏帽子が言う。大嶽丸は箟嶽山のきりんが窟に逃れた。

 利仁は神仏に祈念する。大嶽丸が出てきた。四本の剣を投げつけて大嶽丸の首は打ち落とされた。が、その首が利仁の手の甲に喰らいついた。大嶽丸の死体を麓の村まで運んだ後、伊勢の国に戻った利仁と立烏帽子だったが、立烏帽子が自分は今年二十五歳になった。寿命だと告げる。泣く泣く立烏帽子と別れた利仁は都に上って帝に大嶽丸成敗の由奏上する。

 再び伊勢の国に戻った利仁だったが、立烏帽子は死の床についていた。再会した利仁と立烏帽子だったが、立烏帽子はそのまま亡くなってしまう。嘆き悲しんだ利仁だったが、夢で冥途に迷い込む。田村は未だ死んでおらず、引き返せと言われるが、利仁は夫婦は二世の契りだと言って聞かない。そこで今年死んだ小松の前という二十五歳の女がいたのでその身体を身代りとすることになった。夢は覚めた。すると立烏帽子の館は消え、娘の正林を抱いたまま眠っていた。

 利仁は都に上って大通連と小通連の剣を献上した。すると帝の宣旨で近江の国から小松の前親子がやって来た。小松の前は利仁の妻となり二世の契りとなった。その後、田村将軍はあちこちの悪魔を退治して九十六歳で大往生して田村大明神と呼ばれた。小松の前は百十三歳で大往生して清龍権現となった。正林は九十三歳まで生きて地蔵菩薩となった。田村大明神、清龍権現、地蔵菩薩が現れ衆生を済度した。

◆伝説の武人たちの合体
 「田村三代記」では子の田村将軍の名が利仁となっている。これは伝説の中で坂上田村麻呂が同じく平安時代の著名な武人である藤原利仁と結びついたということらしい。

 祖父の利春は星から生まれた異常出生譚の人であるが、英雄らしい活躍はしない。異類婚姻譚で血筋を次代の利光に繋ぐのみである。

 また、「田村三代記:御国浄瑠璃」では父の利光の代では唐土への遠征が語られていない。「東北の田村語り」の粗筋が参照した他の版ではあるようである。むしろ母の悪玉の物語の色が濃い。

 また、利仁(千熊丸)も母の胎内に三年三月いた異常出生譚の者となっている。これは「田村の草子」「鈴鹿の草子」と異なるところである。

◆余談
 「田村三代記」をテキストに起こすか考えたが、実際に読んでみると旧字体で、フォントの線が太くて判読が難しい漢字が少なからずあったので止めにする。

「田村三代記」の内容は「仙台叢書 復刻版 第十二巻」に収められたものよりも「田村三代記:御国浄瑠璃」の方が平易であった。「田村三代記:御国浄瑠璃」はデジタルライブラリー化されたもので、書籍であった「仙台叢書」の方を優先したのである。

◆参考文献
・「仙台叢書 復刻版 第十二巻」(平重道/解題, 宝文堂, 1972)※「田村三代記」pp.479-504
・「田村三代記:御国浄瑠璃」(小倉博/編, 仙台郷土研究会出版部, 1940)pp.1-70
・「東北の田村語り」(阿部幹男, 三弥井書店, 2004)pp.9-55
・内藤正敏『鬼の物語になった古代東北侵略―「田村三代記」と「田村の草子」』「東北学」9(赤坂憲雄/編, 東北芸術工科大学東北文化研究センター, 2003)pp.338-364
・福田晃「奥浄瑠璃『田村三代記』の古層」「口承文芸研究」第二十七号(日本口承文藝学會, 2004)pp.1-33
・小林幸夫「大蛇の裔・田村将軍―鈴鹿山立烏帽子伝承と巫覡―」「講座日本の伝承文学 第七巻 在地伝承の世界【東日本】」(徳田和夫, 菊地仁, 錦仁/編, 三弥井書店, 1999)pp.62-83

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記事を転載→「広小路

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