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2019年5月31日 (金)

換喩と隠喩の混同―ー橋本和也「観光人類学の戦略 文化の売り方・売られ方」

橋本和也「観光人類学の戦略 文化の売り方・売られ方」(世界思想社)を読み終える。この本では観光の定義を狭くとる。巡礼とは文脈が異なるとして区別するのだ。アニメの聖地巡礼ではない。本物の巡礼である。巡礼・参詣には通過儀礼といった側面が強いが、観光にはそれはないからだ。

本書では観光を「異境において、よく知られているものを、ほんの少し、一時的な楽しみとして売買すること」と定義する。そして「一時的な楽しみ」を「本来の文脈から切り離され、集められて、新たな『観光文化』を形成するもの」と定義する。

民俗学にフォークロリズム(フォークロアまがい)という概念があって、民俗の現代的な傾向として取り上げられているのだけど、なぜ人はまがいもので満足するのだろうと考えていた。観光学的にいえば、例えまがいものであっても顧客の望むものを提供しているからだろうけれど、それは民俗学的な答えではないと思っていた。

観光人類学の橋本説では、よく知られてさえいえれば「本物/まがいもの」どちらであっても構わないのである。観光とは既によく知られているものを観光する個人が再発見することであり、本来の文脈から切り離されたものであっても一時的な楽しみとして消費するというのである。

フォークロリズムという概念があるとして、顧客だって本物とまがいものの区別くらいつくだろうと思っていたが、別に一時的な楽しみとして消費するのだから、まがいものであっても一向に構わないのである。

神楽で例えると、本来の神楽は神社のお祭りで奉納される奉納神楽だ。一方、それが観光に資するためにステージで舞われるようになると、それは本来の文脈から切り離された観光神楽となる。民俗学者はこの観光神楽に強く反発し無視してきたのだけど、見直しを迫られるかもしれない。地域活性化という名目で再構成/再創造された神楽で、ステージに特化した演出がなされているが、それらも視野に入ってくるのである。

同じような混乱をもたらす議論として、「観光化」によって自らの文化を対外的に紹介する機会を得、自らの文化に「誇り」を感じるようになったという「主体化」に関する議論がある。しかしそこで、誇りを感じるのは、自らが新たに従事するようになった「観光業」に対してなのか、それとも「自文化」に対してなのかを明確にしなければならない。自文化が評価されることに誇りを感じても、観光にたずさわる自分を誇りにする例は少ない。民族のアイデンティティに関する問題と観光に関する問題を混同することは観光研究にとっては大きなマイナスになる。(286P)

平成の時代辺りから本質主義が批判されて構築主義的解釈が優勢になってきた。今伝統と思われているものは実は近代になって誕生した創られた伝統である。ないしは観光上の必要から再構成/再創造された伝統にすぎないということになると、創られた伝統、つまりまがいものという見方になってしまう。その批判を回避するために、その再構成/再創造された伝統に携わる地域の人々の主体性をそこに見るべきだという論調がある。創られた伝統であっても、地域の人々が主体的に関わっているのだから、それは敢えて指摘するべきでないといったモラルに関する問題ともされている。こういう傾向に対する反論である。

「AはBを表す」と言うとき、搬送体(A)とメッセージ(B)が同じ文脈に属しているか、まったく別の文脈に属しているかによって、換喩的関係か隠喩的関係かの違いとなる。(中略)「真正性」についての議論も実は、この換喩と隠喩との混同に関する議論に他ならない。(中略)これらの事例はすべて、一部を提示して全体を表そうとする「換喩」の試みであった。しかし、本来の文脈から離れて観光の文脈に置かれたときには、すべてが「隠喩」の関係となる。当事者はそれを「換喩」的関係であり、「真正」だと主張する。一方それを批判する側は、それは単なる「隠喩」的関係であり、本質的で「真正」な関係はなく、自分勝手な類似性を見ているだけであると主張していることになる。別々の文脈に属するものを「換喩」だと主張するところにあいまい性が、文脈の混同が見られるのである。本来の文脈から離れた時点で「隠喩」になっているのだが、当事者にはどこで本来の文脈を離れたかが判然としない。そして反対者やライバルからは本来の姿ではない、「真正性」を欠いていると批判されるのである。(中略)一方、観光者は「まがいもの」か否かに頓着せず、そこに提示されているものを金を払って見に来るだけなのである。(173-174P)

文化が文脈に沿ったものであれば換喩的関係であり「真正」であるとなるが、本来の文脈から離れ観光の文脈に置かれたときには「隠喩」の関係となる。別々の文脈に属するものを「換喩」だと主張するところにあいまい性が、文脈の混同が見られるとしている。この議論は僕自身、理解しているとは言えないので、ここまでにしておく。直接書跡に当たって欲しい。

著者には観光の定義を広くとることで散漫になったという反省があり、観光の定義をここで見られる限定的なものにした。そこでは民俗学が問題にしている課題に一つの観点を与えるものとなっている。

 

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