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2019年5月

2019年5月31日 (金)

換喩と隠喩の混同―ー橋本和也「観光人類学の戦略 文化の売り方・売られ方」

橋本和也「観光人類学の戦略 文化の売り方・売られ方」(世界思想社)を読み終える。この本では観光の定義を狭くとる。巡礼とは文脈が異なるとして区別するのだ。アニメの聖地巡礼ではない。本物の巡礼である。巡礼・参詣には通過儀礼といった側面が強いが、観光にはそれはないからだ。

本書では観光を「異境において、よく知られているものを、ほんの少し、一時的な楽しみとして売買すること」と定義する。そして「一時的な楽しみ」を「本来の文脈から切り離され、集められて、新たな『観光文化』を形成するもの」と定義する。

民俗学にフォークロリズム(フォークロアまがい)という概念があって、民俗の現代的な傾向として取り上げられているのだけど、なぜ人はまがいもので満足するのだろうと考えていた。観光学的にいえば、例えまがいものであっても顧客の望むものを提供しているからだろうけれど、それは民俗学的な答えではないと思っていた。

観光人類学の橋本説では、よく知られてさえいえれば「本物/まがいもの」どちらであっても構わないのである。観光とは既によく知られているものを観光する個人が再発見することであり、本来の文脈から切り離されたものであっても一時的な楽しみとして消費するというのである。

フォークロリズムという概念があるとして、顧客だって本物とまがいものの区別くらいつくだろうと思っていたが、別に一時的な楽しみとして消費するのだから、まがいものであっても一向に構わないのである。

神楽で例えると、本来の神楽は神社のお祭りで奉納される奉納神楽だ。一方、それが観光に資するためにステージで舞われるようになると、それは本来の文脈から切り離された観光神楽となる。民俗学者はこの観光神楽に強く反発し無視してきたのだけど、見直しを迫られるかもしれない。地域活性化という名目で再構成/再創造された神楽で、ステージに特化した演出がなされているが、それらも視野に入ってくるのである。

同じような混乱をもたらす議論として、「観光化」によって自らの文化を対外的に紹介する機会を得、自らの文化に「誇り」を感じるようになったという「主体化」に関する議論がある。しかしそこで、誇りを感じるのは、自らが新たに従事するようになった「観光業」に対してなのか、それとも「自文化」に対してなのかを明確にしなければならない。自文化が評価されることに誇りを感じても、観光にたずさわる自分を誇りにする例は少ない。民族のアイデンティティに関する問題と観光に関する問題を混同することは観光研究にとっては大きなマイナスになる。(286P)

平成の時代辺りから本質主義が批判されて構築主義的解釈が優勢になってきた。今伝統と思われているものは実は近代になって誕生した創られた伝統である。ないしは観光上の必要から再構成/再創造された伝統にすぎないということになると、創られた伝統、つまりまがいものという見方になってしまう。その批判を回避するために、その再構成/再創造された伝統に携わる地域の人々の主体性をそこに見るべきだという論調がある。創られた伝統であっても、地域の人々が主体的に関わっているのだから、それは敢えて指摘するべきでないといったモラルに関する問題ともされている。こういう傾向に対する反論である。

「AはBを表す」と言うとき、搬送体(A)とメッセージ(B)が同じ文脈に属しているか、まったく別の文脈に属しているかによって、換喩的関係か隠喩的関係かの違いとなる。(中略)「真正性」についての議論も実は、この換喩と隠喩との混同に関する議論に他ならない。(中略)これらの事例はすべて、一部を提示して全体を表そうとする「換喩」の試みであった。しかし、本来の文脈から離れて観光の文脈に置かれたときには、すべてが「隠喩」の関係となる。当事者はそれを「換喩」的関係であり、「真正」だと主張する。一方それを批判する側は、それは単なる「隠喩」的関係であり、本質的で「真正」な関係はなく、自分勝手な類似性を見ているだけであると主張していることになる。別々の文脈に属するものを「換喩」だと主張するところにあいまい性が、文脈の混同が見られるのである。本来の文脈から離れた時点で「隠喩」になっているのだが、当事者にはどこで本来の文脈を離れたかが判然としない。そして反対者やライバルからは本来の姿ではない、「真正性」を欠いていると批判されるのである。(中略)一方、観光者は「まがいもの」か否かに頓着せず、そこに提示されているものを金を払って見に来るだけなのである。(173-174P)

文化が文脈に沿ったものであれば換喩的関係であり「真正」であるとなるが、本来の文脈から離れ観光の文脈に置かれたときには「隠喩」の関係となる。別々の文脈に属するものを「換喩」だと主張するところにあいまい性が、文脈の混同が見られるとしている。この議論は僕自身、理解しているとは言えないので、ここまでにしておく。直接書跡に当たって欲しい。

著者には観光の定義を広くとることで散漫になったという反省があり、観光の定義をここで見られる限定的なものにした。そこでは民俗学が問題にしている課題に一つの観点を与えるものとなっている。

 

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2019年5月30日 (木)

次は虫送り――佐藤両々「カグラ舞う!」

ヤングキングアワーズ7月号を買う。佐藤両々「カグラ舞う!」今回は虫送りの話題。虫送り、僕も知らずググった。要するに、農薬がある現代だとそれほど深刻でもないのだけど、昔は鯨油を流して対策していたらしい。

「こっちの神楽は神事でのーてショーじゃてよう言われるけど
 まあ否定はせんよ」

というセリフがある。これについては今では本質主義/構築主義の知識を少々つけたので以前とは多少異なる見方をしているのだけど、本質主義は現実から目を逸らしているとも言えるし、構築主義だと結果的に何でもありとなって、それも違うだろうとなる。でも本当に、関東の太々神楽を観ると全くの別物だと思う。

でも、いきなり関東の太々神楽を見せて、学問的にも貴重なものですからと言い添えても、普段神楽に馴染のない人からしたら舞台をぐるぐる回っているだけにしか見えないかもしれない。

そういう意味では演劇化してストーリー性があるから理解が容易になっているのである。儀式舞が軽視されがちではあるけれど、観光神楽の文脈ではやむを得ないだろう。

テンポの速い八調子を忌み嫌うのも一面では間違いである。要は緩急であるし、他の地域にないテンポの速さは8ビートのロックなどとの音楽性とも一面で通じ合うだろう。8ビートが世界を席巻したことも考えるべきだろう。

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2019年5月26日 (日)

芸北神楽の新舞で最も創作色が濃い「鈴鹿山」と田村三代の物語

◆はじめに
 芸北神楽の新舞に「鈴鹿山」という演目がある。征夷大将軍の坂上田村麻呂が鈴鹿山の鬼を成敗するという粗筋である。

 この「鈴鹿山」の粗筋を出典候補と思われる「田村の草子」「鈴鹿の草子」「田村三代記」の粗筋と比較してみたが、全くといってよいほど符合しないのである。奥浄瑠璃の「田村三代記」だと、舞台が鈴鹿山という以外は全く不一致なのである。それでは謡曲「田村」かと思ったが、これも鈴鹿山の鬼神を成敗するという件以外は符合しない。

 芸北神楽の創作演目である新舞は茶利の登場場面以外は基本的に出典から大きく外れることはない。おそらく「鈴鹿山」の台本は、佐々木順三が手掛けた創作演目の中でも最も創作色の濃いものだろう。

 旧舞の「鈴子山」も粗筋が符合しない。これも創作色が濃いのではないかと思われる。

 「鈴鹿山」の作者の佐々木順三は地元の小学校か中学校の校長を務めていた人だったか、地方の教養人なのである。だから「田村の草子」「鈴鹿の草子」「田村三代記」等を知らなかったということはないだろう。

 粗筋を追っていくと「田村の草子」「鈴鹿の草子」「田村三代記」と変遷していく中で、「鈴鹿山の鬼」というモチーフが「鈴鹿山の鈴鹿の御前(立烏帽子)」という風に変わっていくのである。なので、原点にあった「鈴鹿山の鬼退治」という観点から敢えて採用しなかったとも考えられる。佐々木順三は既に亡くなっているので、あくまで推測に過ぎないが。

 「田村の草子」「鈴鹿の草子」「田村三代記」と粗筋が一致しないということは、逆に言えば神楽の演目「鈴鹿山」をこれら草子類の粗筋に沿った内容に改変する余地も残されているのではないか。

◆神楽のあらすじ

新舞「鈴鹿山」あらすじ
 桓武天皇に仕える鎮守府将軍・坂上田村麻呂は摂州鈴鹿山の鬼を退治すべく、鈴鹿山に向かっていた。
 和田翁とあやめ姫が登場。鈴鹿山の鬼があやめ姫を狙っているため、山積権現(やまづみごんげん)に姫を逃そうとした。そこに鬼の手下である夜叉丸(やしゃまる)が現れ、和田翁を殺し、あやめ姫を奪う。
 そこに坂上田村麻呂が現れた。田村麻呂に打ち伏せられた夜叉丸は改心、田村麻呂の家臣となる。
 田村麻呂と計略を練った夜叉丸はあやめ姫と連れて鬼の首領である犬神丸(いぬがみまる)の許へと連れていく。酒宴が開かれた。酔った犬神丸に夜叉丸が切りつけた。田村麻呂が現れた。犬神丸は大悪鬼となって戦ったが、田村麻呂に討ち取られた。

旧舞「鈴子山」あらすじ
 田村将軍坂上是成(これなり ※田村麻呂か)は摂州鈴子山に籠もった鬼を退治せよとの勅命を被る。
 鈴子山に入った是成は里人に会い、鬼とは長屋という長者の家に鬼丸という子がいて、寺子屋に通う際、憎まれて額に鬼という字を書かれて、我鬼なれば、数多の諸民をとり喰らわんと悪鬼に変じたということを聞かされる。
 鬼の岩屋に入った是成は鬼と対決する。目の見えない鬼は帯の端と端を持って戦う。鬼は討ち取られた。

◆動画
 YouTubeで山王神楽団の「鈴鹿山」を鑑賞。基本的にはオリジナルの台本に沿った内容だった。夜叉丸ともう一人手下が出た。もう一人は斬られて退場する。鬼は二体出た。二対二の戦いとするためだろう。ザイだったか、鬼の持つ棒に火薬を仕込んで火花を吹かせていた。

 DVD「玄武の舞 2015」下巻で梶矢神楽団の「鈴鹿山」を見る。旧舞の内容。石見神楽の共演大会にゲスト出演したもの。広島県の神楽団に大きな影響を及ぼしている神楽団であり、見て「これが阿須那手か」と思わされた。

 YouTubeで出雲神楽・唐川神楽の「田村」を見る。鈴鹿の御前に相当する人物が姫っぽい衣装を着ているのだが、翁面である。ネット上の解説によると里人らしい。鬼と翁との杖のやり取りで会場が沸く。そして田村将軍と鬼との押し合いへし合い。鬼がばたっと倒れ伏す。最後は田村将軍と鬼とが相撲をとって終わりとなる。

◆田村の草子
 角川書店「室町時代物語大成」に収録されていた「田村の草子」を精読した。坂上田村麻呂の一族三代に関する英雄譚である。

◆田村の草子・あらすじ

 俊祐(としすけ)の将軍には心に叶う妻がおらず子供がいなかった。五十歳を過ぎて都に移り住んだ俊祐だが、秋のあるとき、素性の知れぬ美しい女性と出会う。女性が魔性の者でも構わないと思った俊祐は女性と和歌を詠み交わす。契りを結んだ俊祐だが、やがて女性が懐妊した。女性はお産には三年かかると言った。三十六町にも及ぶ壮麗な産屋を建てさせた俊祐だが、女性は八日目になるまで覗いてはならないと言う。七日目に待ちかねた俊祐がこっそり覗くと、そこには大蛇が赤子と共にいた。女性はますたか池の大蛇だった。女性は八日を過ぎたならばこの赤子を日本の主にもしたものをと言う。しかし天下の大将軍としようと予言する。赤子には日龍丸と名づけられた。

 日龍丸が三歳のときに俊祐が亡くなった。七歳となってとき、宣旨が下り、近江の国のみなれ川の大蛇を退治せよと仰せだった。日龍丸は幼くして大役を任されたことを嘆く。五百騎の兵を従えて近江の国に向かう日龍丸だったが、大蛇は目に見えず、やがて日龍丸は十三歳となった。川の水を干して大蛇の姿を見せ給えと神仏に祈った日龍丸だったが、祈りが通じて大蛇が現れた。大蛇は日龍丸の伯父だと名乗った。たちまちの内に大蛇を滅ぼした日龍丸だった。宣旨が下り、日龍丸は将軍の宣旨を受け、俊仁(としひと)と名乗る。

 十七歳になった俊仁は妻が欲しいと思った。堀川の中納言に照日の御前という天下一の美人がいることを知った。乳母の左近助の伝手を頼り、俊仁は姫に文を届ける。返事を渋った幼い姫だったが、将軍の手紙だからと返事を書く。便りは重なり、やがて契りを結んだが、それを知った帝が歌合せの名目で姫を召し上げてしまい、俊仁は伊豆に配流されてしまう。

 近江の国の瀬田の橋を渡った俊仁だったが、自身が退治した大蛇の魂魄に自分は流人となって下るから都に上って好きにしろと言い捨てる。すると都では人が数多く失われるようになった。恐れた人々は家に閉じ籠った。帝が天文博士に尋ねたところ、俊仁将軍を都に戻さねば鎮まらないだろうと奏聞した。それで俊仁に赦免の綸旨が下った。俊仁が再び瀬田の橋を通ったところ、大蛇は鎮まり洛中は静かになった。帝は感嘆して照日の前を下された。再び契りを結んだ俊仁との間には娘が二人生まれた。

 ある時、内裏で管弦の遊びをしていたところ、強風が吹いて照日の前を天に吹き上げてしまった。俊仁は嘆くが夢に三人の童子が現れ、姫の居場所を知りたければ天狗に訊けと告げる。神仏のお告げと悟った俊仁は愛宕山に向かう。愛宕山では老僧が俊仁を迎える。老僧は自分たちは知らないが、帰り道に不思議の事があるだろうと告げる。大きなふし木の橋を通ったところ、俊仁の母の妹だという大蛇が現れる。妻を攫ったのは陸奥の国のあくる王という鬼だと大蛇は告げる。成仏できないと言う大蛇を俊仁は弔う。

 鞍馬に籠った俊仁は一振りの剣を得る。俊仁は陸奥の国へと出発する。妻子を失った人は他にもいた。彼らを連れ、俊仁は陸奥の国へと向かう。陸奥の国、初瀬の郡の田村の郷に着いた俊仁だった。俊仁は身分の低い女と一夜の契りを交わす。俊仁は自分の形見として一本の鏑矢を与える。

 鬼の城に近づいた俊仁は門番の少女に事情を尋ねる。鬼は越前へ行ったと答える。龍の駒に乗って内側に入るべしと言われた俊仁だったが、門は盤石の如しで中に入れず。鞍馬の神仏に祈ったところ、門が開いた。門の内側には大勢の女性がいた。見たところ、三条北の方と照日の前がいなかった。三条北の方は二、三日前に鬼の餌食となってしまったという。読経の声が聞こえたので探したところ、照日の前がいた。明日には喰われてしまう運命だと言う。

 鬼たちが帰ってきた。鬼と対峙した俊仁だが、その眼は日月の如しで鬼たちを恐れさせた。俊仁が多聞天から授かった剣を投げたところ、鬼達の首は皆落ちてしまった。攫われた男女は国へと送り返された。

 鬼達を従えた俊仁は都へと上った。一方、田村の郷で一夜の情けを掛けた女性が懐妊し、男子を産んだ。男子はふせりという名づけられた。ふせりは賢く学問が上達したが、ある時、鳥や獣にも父母がいるのに、どうして自分には父がいないのか母に尋ねた。母は涙を流し、ふせりの父は将軍だと告げた。形見の鏑矢を受け取ったふせりは都に上る。蹴鞠で将軍の眼に止まったふせりだったが、形見の鏑矢を見せたところ、さては我が子だとなり、名を改めて田村丸となり、元服して坂上の俊宗となった。

 俊仁が五十五歳のとき、唐土に攻め込んで従えようと考えた。関白を通して奏聞したところ、止めるに及ばずとのことで、俊仁は三千叟の船に五十万騎を従えて旅だった。渡海した印として神通の鏑矢を射たところ七日七夜鳴り響き、唐の人達は皆驚いた。凡夫の力では叶わない、仏力に頼るべしとなった。恵果和尚が不動明王と矜羯羅(こんから)、制多迦(せいたか)を引き連れて防ごうとした。

 俊仁と対峙した不動は降魔の利剣(鋭い剣)を持って立ち向かうが、劣勢であった。不動は金剛童子を日本へ派遣した。不動も刹那に日本に渡り毘沙門天と多聞天に、もし自分を勝たせてくれるなら、日本の仏法の守り神となろうと誓った。それで毘沙門は俊仁の加護を止めた。加護を失った俊仁の剣は折れ、組打ちとなるが、不動の利剣が俊仁の首をはねた。将軍を失った三千叟の船は日本へと戻った。俊宗は俊仁の死骸を納め、都へと上がった。

 年月が経った。大和の国の奈良坂山にりょうせん(りょうぜん)という化性の者が現れ、都への貢物を奪い取り、更に多くの人命を奪った。俊宗に従えよとの宣旨が下った。五百騎の軍兵を連れて俊宗は奈良坂山に向かった。計略を立て、濡らした小袖を木の枝に掛けておいたところ、丈二丈あまりの法師が現れた。俊宗と対峙したりょうせんは手並みの程を見んとした。金つぶてを三度投げ打ったりょうせんだったが、俊宗は扇と鐙でそれを防いだ。手立てを失ったりょうせんを俊宗は神通の鏑矢で射た。飛行自在のりょうせんは七日七夜飛んで逃げ回った。七日目に入り俊宗に降参したが、帝の判断で獄門となった。

 二年ほど経って、今度は伊勢の国の鈴鹿山に大嶽丸という鬼神が現れて民を悩ました。帝が俊宗に宣旨を下した。承った俊宗は三万騎の兵を連れて鈴鹿山へと赴く。大嶽丸は飛行自在の鬼神で、火の雨を降らせ、雷を落とす、決着がつかず数年が経過した。

 鈴鹿山に天女が天下った。名を鈴鹿御前という。大嶽丸は鈴鹿御前に恋をし、美しい童子の姿となって、契りを結ぼうとしていたが、通力でその事を知った鈴鹿御前はなびかなかった。

 俊宗は何としても勝負を決せんと諸天に祈った。すると夢の中に老人が現れて、鈴鹿御前の謀りごとによらないと大嶽丸を討つことは叶わないと告げた。有難く思った俊宗は三万の兵を都へ返し、ただ一人で鈴鹿山に向かった。

 夕暮れとなった。二八(十六)歳くらいの女が現れた。これを見た俊宗は鬼神の変化かと思い剣を隠した。女は鬼の居場所を知りたければ、ここにしばらく留まれと歌を詠んだ。

 恋煩いとなった俊宗だったが女の行方は知れなかった。神仏に祈った俊宗は、垣間見た面影が忘れられない。目に見えぬ鬼はあるならあれ、と歌を詠んだ。すると鈴鹿御前がやって来た。契りを結んだ俊宗と御前だった。

 鈴鹿御前は自分の計略で大嶽丸を討たせようと言った。山々を超えて大きな岩穴に辿りついた。その中に入ると大嶽丸の宮殿があった。庭は四季の姿を映していた。奥に大嶽丸が住む館があった。鏑矢を射ようと思った俊宗だったが、鈴鹿御前が制止する。大とうれん、小とうれん、けんみょうれんという三本の剣がある限りは大嶽丸が討たれることはないのだ。

 日が暮れた。鈴鹿御前の許に通ってきた大嶽丸だったが、鈴鹿御前が初めて返歌をした。御前は言葉巧みに大嶽丸の大とうれんと小とうれんの剣を預かった。そのまま大嶽丸は住処へと帰った。けんみょうれんの剣は天竺へ行っているという。

 酒を飲んで酔った鬼たちは伏せてしまった。今だと鈴鹿御前が声をかける。俊宗が名乗りを上げると、童子の姿だった大嶽丸が十丈もある鬼の姿となった。鬼は剣と鉾を三百ばかりも俊宗に投げつけた。が、俊宗は悉く払いのけた。俊宗が神通の矢を射ると、千万の矢先となって手下の鬼達を襲った。磐石へと変化した大嶽丸だったが、俊宗が剣を投げつけると、たちまち首が落とされた。鬼の首を持ち返った俊宗は伊賀の国を賜った。

 俊宗と鈴鹿御前の間には一人の姫君が誕生した。名をしょうりん(正林)と言う。都が恋しくなった俊宗だったが、それを知った鈴鹿御前が心変わりしたかと恨んだ。俊宗は共に上京して一緒に住もうと答えたが、鈴鹿御前は自分は鈴鹿山の守護神だから離れられないと言った。近江の国に高丸という悪鬼が出るから都へ上れと告げる。

 上京した俊宗は帝のもてなしを受けた。その内に高丸という悪鬼が出たと報告があった。俊宗は十六万騎を連れ近江の国へと下った。高丸の城に押し寄せた俊宗は我こそは田村将軍藤原俊宗であると名乗る。火界の印を結んだ俊宗は火炎を高丸の城に投げつける。城は焼け、高丸は信濃の国へと逃げた。高丸は唐土と日本の境に岩穴をくりぬいて城としたので攻められなかった。

 鈴鹿御前は凡夫の力では叶わないと告げた。兵を都に返し、俊宗と鈴鹿の御前は神通の車で高丸の居場所へと向かう。高丸は岩戸を閉じて引き籠ったが、鈴鹿御前が二十五の菩薩を呼んで音楽を流したところ、高丸の娘がこれを聴いて戸を僅かに開けさせた。音楽があまりに素晴らしかったので戸を大きく開けてしまった。俊宗は神通の鏑矢で高丸の眉間を射た。

 都に上って顕彰された俊宗は鈴鹿に下った。すると、けんみょうれんの剣が天竺に残っていたため、大嶽丸が復活すると告げた。大嶽丸は陸奥の国の桐山(もしくは霧山)に立て籠もるだろうと告げ、都に上って良い馬を求めよと言った。

 都に上った俊宗は翁から天下の名馬を得た。その速さは刹那で鈴鹿に到着する程であった。

 月日が経って大嶽丸が陸奥の国で復活した。俊宗に帝の宣旨が下った。俊宗は鈴鹿御前の助言で五百騎の兵を陸奥の国へと向かわせた。その間、俊宗は鈴鹿御前と遊んだ。兵たちが桐山に到着する頃を見計らって俊宗は出立した。刹那に桐山に到着した俊宗だった。

 鬼神は山を掘り、磐石を扉として固く守っていた。搦め手から回った俊宗が門番の鬼を捕らえると、大嶽丸はいなかった。蝦夷が嶋にいると言う。

 急に空が曇り、黒雲の中から声がした。田村殿ではないか。鈴鹿山で自分を討ったと思っただろうが、天竺に魂を一つ残していたのだと俊宗を嘲笑った。

 俊宗は大とうれん、小とうれんの剣に加えてけんみょうれんの剣が揃ったと答える。大嶽丸は腹を立て、三面鬼に命じて大石を雨の如くに降らせたけれども、俊宗には当たらなかった。俊宗は神通の鏑矢で三面鬼を討った。

 腹を据えかねた大嶽丸は俊宗に飛び掛かった。大嶽丸の首が落とされた。首はなおも飛び回って俊宗の兜に食らいついた。首はそのまま死んだ。残りの鬼たちは獄門にかけられた。大嶽丸の首は宇治の宝蔵に納められた。

 再び俊宗は鈴鹿御前と暮らしていたが、鈴鹿御前は病を得て、それが重くなった。鈴鹿御前は自分は仮にこの世に生まれてきた。この世での縁が尽きたので亡くなるのだ。いかなる祈祷も効かないと告げて亡くなった。

 俊宗は嘆き悲しんだ。あまりの嘆きに一七(七)日目に死んでしまった。冥界に行った俊宗は倶生神(ぐしょうしん)を呼び、自分は田村将軍である。主に会わせて欲しいと言う。倶生神は怒るが、俊宗を引き立てようとした鬼を蹴飛ばしたので、肝を冷やしてしまった。

 俊宗は十王に会った。十王は俊宗は非業(ひごう)の死なので急いで現世に帰れと言う。鈴鹿の御前を返してくれと俊宗は火界の印を結んで暴れる。閻魔王が鈴鹿御前を返すように獄卒に言ったが、鈴鹿御前の肉体は失われていると答えた。そこで、御前と同じ時に生まれた女が死んだのを身代りとさせた。だが、この身代りは鈴鹿御前の姿に劣っていた。俊宗は腹を立てて元のようにしてくれと言った。そこで第三の冥官が浄瑠璃世界の宝尺の薬で元の御前を取り戻した。

 俊宗は三年の暇を与えられた。冥途の三年は娑婆の四十五年に相当する。こうして俊宗と鈴鹿御前は二世の契りを結んだ。

 俊宗は観音の化身であり、鈴鹿御前は弁財天である。末代まで伝えるために清水寺を建立し大同寺と称した。田村党の繁栄は仏法のお蔭である。この草子を読んだ人は観音を信じるべし。

◆英雄譚としての田村の草子
 祖父の俊祐のエピソードは異類婚姻譚であり、更に父の俊仁が異常出征譚の人物であり、幼くして大蛇を退治する。また、妻を攫った鬼を退治する。そして唐土を従えんと討って出て不動明王と争うも通力が失せて破れるなど英雄譚の色が濃い様に思える。息子の田村丸、俊宗は父である俊仁が身分の低い女と一夜の契りを交わして誕生した子であり、異常出生譚ではない。また、鈴鹿御前と結ばれることでその加護を得るといった要素が強い。また、都に仇なす鬼を退治するといった面から見ると、動員数こそ数万騎という規模であるが、日本を守護する将軍という軍事面よりむしろ警察に近いのではないか。

 俊宗が自分は藤原俊仁の嫡子、藤原俊宗であると名乗る場面があるが、これは藤原利仁であろうか。武人の藤原利仁と坂上田村麻呂が結びつくのである。

 また、大嶽丸の館の庭は四方がそれぞれ四季の風景を現すものとなっており、鬼の館の庭園という面で、大江山の酒呑童子伝説ともひき比べられるものとなっている。

 あくる王の城の内部では人肉が鮨とされている陰惨な描写があるが、大江山の酒呑童子の伝説の影響が見られる。

 最後に鈴鹿御前が亡くなってしまい、俊宗は御前を冥界から取返しに行くが、俊宗は地獄の獄卒たちを相手に暴れ、御前を四十五年の期限で取り返すことに成功するのである。一般的には取り返す寸前で失敗してしまうというパターンだが、田村の草子では死者を取り返すことに成功しているのである。

◆鈴鹿の草子
 角川書店「室町時代物語大成」に収録されていた「鈴鹿の草子」を精読した。

 「田村の草子」と比較すると、基本的な流れは同じだが、後半、田村殿(俊宗)の代になってから違いが目立ってくる。「田村の草子」では無かった展開として、俊宗が鈴鹿の御前(立烏帽子)と剣を投げ合って戦い、結果、互いに認め合って結ばれるという流れとなっている。また「田村の草子」では一度成敗した大嶽丸だが魂が一つ天竺に残っていて復活するのだが、「鈴鹿の草子」では先ず鈴鹿の御前が大嶽の魂を抜いてしまい、一度倒しただけで終わる異なる展開となっている。一方で「鈴鹿の草子」の大嶽は高丸が千人かかっても叶わない大物とされている。

 俊宗と鈴鹿の御前との関係から、成立は「田村の草子」の方が早かったのではないかと考えられる。

◆鈴鹿の草子・あらすじ
※「鈴鹿の草子」の粗筋は父・俊人の代までは「田村の草子」とほぼ同じだが、後半、三代目の俊宗の代になって違いを見せはじめる。

 俊祐という源氏の将軍がいた。心に叶う人がいなかったので長年独身であった。寂しく思っていた俊祐だが、あるとき若い女房が虫の声を聞くと貴方への想いが募っていきますと和歌を詠んだのを聞いた。それを聞いた俊祐は誰とは知らないけれども、恋しいことですと返歌する。

 若く美しい女房と出会った俊祐は女房と契る。すると女房は懐妊した。喜んだ俊祐だったが、女房は出産までに三年かかると言う。巨大な産所を建てて、女房はその中に籠る。七日間は中を覗くな。八日目になったらよいと言い残す。待ちきれない俊祐は七日目に産所を覗いてしまう。すると中には大蛇がいて赤子を抱いていた。

 驚いた俊祐だったが、八日目に女房が赤子を抱いて出てくる。女房は俊祐に八日目に見たならば日本の主ともなしたが、七日で見てしまった。されど天下の大将軍となるだろうと告げて消えた。子供は日龍と名づけられた。その後、俊祐は日龍が三歳の年に亡くなってしまう。

 七歳になった日龍に武蔵国のみなれ川に棲む大蛇を退治せよとの宣旨が下される。日龍は父母の無いまま、幼くして勅命を被った我が身を嘆くが、乳母が日龍の父も幼くして大蛇を退治したと勇気づける。

 武蔵国に赴いた日龍だが、手勢を失ってしまう。大蛇を退治できないまま数年が過ぎた。ある時日龍は神仏に祈り、川の水を干すよう願った。すると川が干上がり大蛇が姿を現した。大蛇は自分の妹が日龍の母だと告げる。日龍は大蛇を神通の鏑矢で退治する。

 日龍は十六歳で将軍となり、俊人と名乗った。あるとき鳥が空を飛ぶのを見て、鳥や獣ですら夫婦であるのに自分は独り身だと思った。その頃、中納言の娘に照日の御前という美しい姫君がいることを知る。俊人は文を送って照日の御前と心を通わす。契りを結んだ二人だったが、帝がこの次第を聞き、照日の御前を召し上げてしまう。そして俊人は伊豆の国へ流罪となった。

 近江の国の瀬田の橋を渡った俊人はみなせ川で退治した大蛇の魂魄に好きにせよと言い残す。それから都では大蛇の被害が出る様になった。天文博士がこれは俊人の仕業だと奏上した。

 照日の御前を伊豆の国へ下し、赦された俊人は上洛する。大蛇の被害は止んだ。それから年月が重なり、俊人は照日の御前との間に二人の姫君をもうけた。

 ある時内裏にいた照日の御前が魔性の物に攫われてしまった。俊人は悲嘆に暮れる。俊人の夢に翁と姥と三人の童子が現れ、愛宕山の天狗に訊けば何か分かるかもしれないと告げる。

 愛宕山に向かった俊人は、老僧から自分達は知らない。詳しいことは朽木に訊けと言われる。朽木と対面した俊人は、陸奥の国の悪路王が人々を攫ったと教えられる。朽木は俊人の母の兄弟であった。朽木は成仏できないので俊人に供養してくれる様頼む。俊人は戻って供養する。また、鞍馬に参って毘沙門天に祈る。七日目、目覚めると枕許に多聞天の剣が刺さっていた。

 陸奥の国へ軍勢を率いて出発した俊人だったが、田村の郷で身分の低い女を抱く。子供が生まれることを予感した俊人は、形見として鏑矢を置いていく。

 悪路王の城を囲んだ俊人だったが、門番の娘に問うと、鬼たちは越前の国へ行っていると答えた。城の中に入った俊人達は攫われた人たちと再会する。照日の御前もいた。

 鬼が帰ってきた。睨み合いとなったが、俊人の眼力が勝って、鬼たちを怖気づかせた。俊人が剣を投げると、鬼たちの首を次々と打ち落とした。悪路王を退治して都へ引き揚げた俊人だった。

 俊人が身分の低い女に産ませた子がいた。名をふせや丸と言う。ふせや丸はなぜ自分には父がいないのかと母に問う。母の示唆で形見の鏑矢を手にしたふせや丸は都へと向かう。

 蹴鞠の腕の程を見せたふせや丸は関心を示した俊人に形見の鏑矢を見せる。我が子だと悟った俊人はふせや丸をもてなす。九歳になったふせや丸は朝日と名を改める。試練が与えられた朝日だったが、何事もなかったかのように済ませてみせた(俊人に矢で射られるが、箸で矢を受け止める)。十一歳になった朝日は日龍と名乗る。再び試練が与えられたが、無事乗り越え(俊人に剣を投げつけられるが、懐に収まる)、十三歳で元服、俊宗と名乗った。

 俊人は末代までの伝えとして、唐の国を従えようと考える。帝の裁許を得た俊人は十万叟の船で大海に乗り出す。自分が来た証として、俊人は火界の印を結び、唐の国に火の雨を七日間降らせた。

 凡夫の力では叶わないと見た恵果和尚は仏力にすがる。不動明王が俊人の前に立ち塞がるが、俊人が優勢であった。叶わないと見た不動明王は金剛童子を日本に遣わして毘沙門天にこのままでは唐の国が破れてしまい、仏法が衰えてしまうと訴えた。が、毘沙門天は耳を貸さない。

 そこで不動明王が俊人が失われたら日本を守護しようと約束する。それで毘沙門天の気が変わる。劣勢となった俊人は不動の船に乗り移って組打ちとなるが、飛んで来た剣が俊人の首を打ち落とした。

 父の死を知った俊宗は博多の港へと下り、形見を以て上京、父の菩提を弔った。

 十五歳となった俊宗だったが、大和の国の奈良坂山に赴いて金つぶてという法師を退治するよう宣旨が下された。三つのつぶてを投げる金つぶてだったが、ことごとく俊宗に打ち落とされてしまう。俊宗は金つぶてを降参させた。都に連れ帰った俊人だったが、帝の判断で金つぶては獄門となった。

 俊宗は将軍となった。そして年月が経ったあるとき、俊宗は伊勢の国の鈴鹿山に現れた鈴鹿の御前(立烏帽子)を成敗するよう宣旨が下された。鈴鹿の御前は目には見えなかったので、何ともしようがなく、時間が過ぎた。神仏に祈った俊宗だったが、あるとき道が開けて、鈴鹿の御前の館へと迷いこんだ。鈴鹿御前の館は四季の姿を映した庭園がある極楽の如きものだった。

 館のうちに若く美しい女房がいた。鈴鹿の御前と悟った俊宗は何の報いでこれ程に美しい女房を敵としなくてはならないのかと思う。それでも俊宗は剣を抜いて鈴鹿の御前に投げつける。応戦した鈴鹿の御前も剣を投げ、戦いとなったが、決着がつかなかった。鈴鹿の御前は自分には大とうれん、小とうれん、小みょうれんの三本の剣があるので討たれることは無いと言った。

 互いに認め合った二人は結ばれる。やがて鈴鹿の御前は懐妊して一人の姫君が生まれた。

 姫君が三歳になった俊宗は都が恋しくなる。それを通力で知った鈴鹿の御前は心変わりしたかと恨めし気に言う。俊宗はこれまでの事情をしたためて、文を都へ送る。神通の車に乗って参内した俊宗と鈴鹿の御前だった。

 鈴鹿の御前は近江の国の蒲生山に高丸という鬼が現れて人々に害を成すことを予言する。果して、そうなり、俊宗は近江の国へ向かう。俊宗は高丸の城に火の雨を降らせて、鬼たちを攻撃する。戦い負けた高丸は駿河の国、武蔵の国、相模の国と逃げ回る。最後に海の中の嶋に逃げ込んだ。海の中では手が出しようがなく、俊宗の軍勢も多くが討たれてしまった。

 軍勢を調えるため都へ上洛しようとした俊宗は途中、鈴鹿山に立ち寄る。そこで事情を悟った鈴鹿の御前と会う。鈴鹿の御前は自分の許に帰ってこない俊宗を恨めしく思うが、協力する。

 二人だけで高丸を討つことになった。鈴鹿の御前と俊宗は四本の剣を投げて八十人の鬼を首を打ち落とす。残り七人となった高丸だったが、岩屋に閉じ籠ってしまう。鈴鹿の御前が空から十二の星を招いて妙なる音楽を奏でる。

 それを聞きつけた高丸の末の娘がもっと聞きたいといって岩戸を開けさせてしまう。神通の鏑矢で俊宗は高丸を射る。高丸親子を退治した俊宗だった。

 再び、鈴鹿の御前が予言する。陸奥の国のきり山が岳に大嶽という強力な鬼が現れると。大嶽は高丸が千人いても打ち勝つことができないほど強大であるという。

 鈴鹿の御前はわざと大嶽に攫われてしまう。そして、三年の間に大嶽の魂を抜いてしまう。

 大嶽を討てと宣旨を受けた俊宗は陸奥の国へ向かう。鈴鹿の御前に手引きされた俊宗は大嶽の城内を見て回る。打出の小槌など様々の宝物があった。

 大嶽が唐の国の姫君を攫って帰ってきた。四本の剣を投げた俊宗と鈴鹿の御前の勢いに手下の鬼たちは逃げ出す。ただ一人になった大嶽の首を打ち落とす。大嶽の首は俊宗の兜に食らいついてきたが、鈴鹿の御前がとどめを刺してそのまま死んでしまった。

 大嶽の首を持って上洛した俊宗だった。大嶽の首は宝蔵に納められることになった。

 鈴鹿の御前は二十五歳となった自分の死期が近いことを俊宗に告げる。都から帰った俊宗だったが、既に鈴鹿の御前は病の床に臥していた。俊宗と最後の言葉を交わした鈴鹿の御前は亡くなってしまう。

 鈴鹿の御前の死を嘆き悲しんだ俊宗だったが、自分もそのまま死んでしまった。冥途へ旅立った俊宗だったが、倶生神に鈴鹿の御前を返せと狼藉を働く。俊宗は非業の死だったので、元の世界に戻されることになったが、鈴鹿の御前は既に肉体が失われていた。そこで、御前と同じ年に生まれた女の身体を身代りとして復活させる。

 が、復活した鈴鹿の御前は以前とは似ても似つかない姿だった。俊宗は腹を立てる。そこで不死の薬を使って元の姿以上に美しくした。三年の暇(現世では六年)の暇を与えられた俊宗と鈴鹿の御前だった。

 もしも鈴鹿の御前がいなかったら、日本は鬼の世界となっていた。よく心得て鈴鹿へ参るべし。

◆鈴鹿の御前の葛藤
 「鈴鹿の草子」では「田村の草子」に比べて、鈴鹿御前が俊宗に恨み言をいうことが多い。それだけ二人が引き離されることに葛藤を抱いている。「田村の草子」と違って、「鈴鹿の草子」では俊宗と鈴鹿の御前が先ず戦って互いを認め合うという展開となっている。

 「田村の草子」では鬼の住処に四季の景色を映す庭園があったが、「鈴鹿の草子」では鈴鹿御前の館の庭となっている。四季の景色を映す庭園というモチーフは鬼や尋常ではない物のものとして描かれるようだ。

 また、「鈴鹿の草子」と「田村の草子」では大嶽という鬼との戦いの経過が異なる。「田村の草子」では大とうれん、小とうれん、けんみょうれんの剣を持つのは大嶽である。大嶽丸を一度は退治するものの、天竺にけんみょうれんの剣を預けていたため、大嶽丸は復活し、再度俊宗と戦う。一方、「鈴鹿の草子」では三本の剣を持つのは鈴鹿の御前となっている。そして大嶽に攫われた鈴鹿の御前が大嶽の魂を抜いてしまうため、俊宗と大嶽の戦いは一度きりとなっている。

◆田村三代記
 「田村三代記」は征夷大将軍・坂上田村麻呂の祖父・父・子の三代にまたがる奥浄瑠璃であり、仙台藩、南部藩領で盛行した。「仙台叢書 復刻版 第十二巻」に収録された「田村三代記」を読んだが、祖父・父の代の物語は割愛されていて、子である田村将軍・利仁と立烏帽子にまつわる鬼退治伝説となっている。

 「田村の草子」「鈴鹿の草子」と比べて、特に子の田村将軍・利仁の代についてだが「鈴鹿の草子」とほぼ粗筋である。大きな違いは「田村の草子」「鈴鹿の草子」に登場する鈴鹿の御前(立烏帽子)の出自が天界の天女であるのに対し、「田村三代記」の立烏帽子は第四天の魔王の娘であることだ。つまり、魔性の物なのである。その日本を魔国となさんと企む魔性の物と田村将軍が結ばれて鬼退治をするという物語となっているのである。

 反面で「鈴鹿の草子」のように俊宗と会えない鈴鹿の御前が恨み事をいう、その葛藤は「田村三代記」には見られない。

◆田村三代記・あらすじ
※以下の粗筋は「田村三代記:御国浄瑠璃」の版から起こしたものである。

 人皇五十一代平城天皇の御代に丹波の国と播磨の国の境に大きな星が一つ天下り光輝くことあたかも白昼のごとくであった。そこで天文の博士を召して占わせたところ、これは吉事であるとなった。この星は砕けて隕石となって降り、中から三歳ばかりの麗しい童子が誕生した。この童子を連れて帰って参内し、養育した。この童子は七歳で書を読み文字を書いた。また笛の名手であった。十歳のとき利春(としはる)と改名した。十五歳のとき帝が利春を召し、先帝の命日に天人を天下らせ舞楽を奏せよと命じたところ、利春は天人の舞楽は天竺梵天王の大庭でなければ奏せないと断った。怒った帝は利春を流刑に処す。

 流された利春は心を慰めるために笛を吹く。すると笛の音に惹かれた女が現れた。夜な夜な利春の許に通ってくる。身分の低い水仕だと名乗っているが容顔美麗であり、いつしか二人は契りを結んだ。懐胎した女は利春の許に留まるようになる。女は出産には三年三月必要だと答える。産屋を建て、百日百夜経つまでは中を覗くなと言い残して女は中に籠る。

 九十九夜になった日、利春は待ちきれずに産屋を覗いてしまう。すると、中には二十尋もある大蛇がいた。明けた百日目に女は赤子を抱いて利春の許を訪れる。正体を見られた女は古巣の池に帰ると言い残して消える。鏑矢を乳房とせよと言い残したので、矢羽根を吸わせたところ、笑顔となった。赤子は大蛇丸と名づけられた。大蛇丸が七歳になった頃、利春は赦され、都に戻る。

 大蛇丸が十歳になった頃、大和の国と山城の国の境の今瀬が淵に棲む悪龍が人々に害をなした。十歳ながら武勇に優れた大蛇丸に悪龍退治の宣旨が下される。百騎余りの手勢を率いて大蛇丸は出発する。

 淵に着いた大蛇丸だったが、悪龍の恐ろしさに手勢の者が怖れをなしてしまう。ところが大蛇丸は動じず、母の形見の神通の矢で龍の眉間を射ぬき、龍を退治する。都に帰って参内した大蛇丸は帝の御感甚だしく、中納言に任じられ、利光の名を賜った。

 利光が退治した悪龍は利光の母の大蛇であり、利光に武功を立てさせるために悪龍と変じたものである。その身は滅んだが、心は天に登り八幡神として現したという。

 第五十二代嵯峨天皇の御代に奥州で反乱が起きた。そこで中納言の利光が召されて将軍として反乱の鎮圧に当たることになった。千騎の手勢を率いた利光は奥州に向けて出立する。大蛇の腹に三年三月宿った大蛇丸の成長した利光の威光に大名小名たちは恭順し、反乱は収まる。

 都への土産物を持って帰るという話となった。奥州には珍しい物がないというので、七ツ森という森で狩りを催して動物の皮を持って帰ることになった。狩りが実施された。多数の犠牲を出しながら、大きな狒々と荒熊を狩った。亡くなった者には弔い金を渡し、利光は帰城した。

 九門屋という長者に悪玉という醜女が水仕として仕えていた。悪玉は実は公家の娘であったが、信濃詣でに出た際に山賊に襲われて身売りされたものであった。肌を許さないため観音に祈ったところ、醜女と変じた。これでは売り物にならないと転々とした挙句に九問屋に身を寄せることになったのである。その悪玉に利春が目を留めた。利春の眼には本来の美麗な女として映っていたのである。悪玉と契った利春だったが、都に連れ帰る訳にもいかず、形見として神通の鏑矢を与える。

 懐妊した悪玉だったが、三年経っても出産しなかった。これは尋常の者を身ごもったのではない、化性の物だと長者は考えた。化け物が生まれては家の名誉に関わると思い長者は悪玉に暇を与える。行く当てもなく悪玉は放逐される。

 見かねた在所の者に産屋を建ててもらい、三年三月が経って悪玉は出産した。それを知った九門屋が子を捨てて奉公せよと命じる。悪玉は赤子を捨てようとするが果たせず、赤子諸共に河に身投げしようとするが、どこからともなく待てという塩釜明神の声がして思いとどまる。

 玉のような赤子を見た長者は考えを改めて我が子として育てることにする。悪玉から赤子を取り上げた長者は悪玉に決して母と名乗るなと誓言させる。赤子は千熊丸(せんぐままる)と名づけられた。

 千熊丸は十三歳に成長した。弓馬の道に優れた千熊丸だったが、八幡宮の流鏑馬の射手を務めさせて欲しいと別当に願いでるが、別当は千熊丸が悪玉という身分の低い水仕から生まれた素性も知れない子であるとして断る。屈辱を受けた千熊丸であったが、その場は堪え、悪玉の許に行く。悪玉から父が将軍であること、そして母の身の上を聞き出した千熊丸は神通の鏑矢を渡され都へ出立する。

 長い旅を経て都に到着した千熊丸は、利光の館へと赴き、蹴鞠の腕を見せて利光の関心を誘う。怪力を見せつけて利光に仕えることになった千熊丸であったが、千熊丸が只者ではないと見て取った利光は、千熊丸に逆心があるのではないかと疑う。そこで人喰い馬の世話をさせるが、千熊丸は馬を手なずける。いよいよ怪しんだ利光は千熊丸に食事をさせ、その最中に弓で射殺そうとする。が、千熊丸は何事もなかった様に箸で矢を受け止める。観念した利光に千熊丸は形見の神通の鏑矢を見せる。我が子だと利光は認める。

 内裏に参内した千熊丸は坂上田村麿利仁(としひと)の名を賜る。そして悪玉を利光の正妻として、奥州から召し出す。元の美麗な姿に戻った悪玉は都へ入り、田村御前と名を変えた。


※以下の粗筋は「仙台叢書 復刻版 第十二巻」の版から起こしたものである。

 仁明天皇の御代に異変が起きた。毬のような光るものが昼夜を問わず飛び回り、光と遭遇したものは皆、金品財宝を奪われた。帝は公卿と大臣を召されて詮議なさったが、とにかく博士を召して占わせた。

 第四天の魔王の娘である立烏帽子が伊勢の国の鈴鹿山に天下り、日本を魔国となそうとしているとしていると占う。そこで田村将軍利仁が召され、急ぎ立烏帽子の成敗をするよう宣旨が下った。

 利仁は神仏に祈念し、総勢二万騎を連れて都を出て鈴鹿山へ押し寄せる。鈴鹿山を包囲した軍勢だったが、立烏帽子の居所はさっぱり見つからない。ただ時間だけが過ぎていった。利仁は父の言葉を思い出す。魔性の者を尋ねるときは、大勢で尋ねてはならない。必ず主従二人か三人かで尋ねるべしと。利仁は軍兵を差し戻し、自分独りで鈴鹿山の陣地に籠る。それから三年経ったけれども立烏帽子に逢うことはなかった。

 利仁は神仏に祈念する。すると毬のような光るものが現れた。光はこの上に登れ。されば恋しき人に逢うべしといって消える。今まで見つからなかった細い道があった。その道を行くと立烏帽子の館があった。四方に四季を映す庭園があり、極楽浄土もかくやあらんという見事なものであった。

 利仁は立烏帽子の姿を見かける。歳の頃二八(十六歳)ばかりの美麗な女房であった。利仁は立烏帽子と親しくしたいと思ったが、何のためにここまで来たのだと考え直し、そはや丸という剣を立烏帽子に投げつける。立烏帽子も大通連の剣で応戦、斬り合ったが決着がつかなかった。

 呆然とした利仁の前に立烏帽子が忽然として現れた。自分を討とうとしても中々叶わないことだ。我は天竺の第四天魔王の娘で、将軍の先祖も知っている。利仁公三代は日本の悪魔を鎮めんがために観音が再来したものである。目には見えないはずの自分の姿が利仁公に見られた事は悔しいことだ。自分は日本を魔国となさんがために天下ったが、女の身ゆえ相応の夫がなくては叶わない。奥州に大嶽丸という鬼がいて、妻にせよと文を送ったが一向に返事が来ない。これは利仁公にとっては幸いである。かくなる上は悪心を翻し、善心で利仁公に馴れ初めよう。共に日本の悪魔を鎮めようではないか。

 利仁は従わなければ殺されると思い、かくなる上は立烏帽子に従って時節を伺い八つ裂きにしてくれようと考えた。それで、立烏帽子に承諾の意を伝える。喜んだ立烏帽子は利仁をもてなす。やがて比翼の契りを結び、三年暮らす内に正林という姫君が生まれた。子供が生まれたといっても利仁は油断しなかった。利仁は渡り鳥に文を託して、内裏へと送った。内裏では利仁の無事を知って、喜んだ。利仁は来る十五日に立烏帽子を連れて参内するから、そのときに立烏帽子を捕らえて八つ裂きにせよと書いていた。

 立烏帽子は通力で利仁の心を見抜いていた。お心を許しても討たんとするは何事かと言う。しかし、約束を果たせなくては夫の恥であるとして利仁の参内に同行する。神通の車で利仁と立烏帽子は参内する。利仁は立烏帽子を伴って帝に拝謁する。立烏帽子は来月になれば鬼神退治の宣旨が下るから協力しようと言う。

 九月になって利仁は参内した。近江の国の釜染が原に悪者の高丸という鬼神が住み着いて民に害をなしている。成敗せよと宣旨が下った。利仁は二万騎の軍勢を連れて出立する。

 釜染が原で高丸と対峙した利仁は戦いを始める。戦いは利仁が優位で高丸は常陸の国の鹿島に逃げる。それからあちこち逃げ回り、とうとう唐土と日本の境のちくらか沖へと逃げ込んだ。海では手が出せない。二万騎あった手勢も二百騎にまで減った。

 一旦、都に引き揚げることにした利仁だったが、伊勢の国に立ち寄ったところで、枕許に立烏帽子が現れる。高丸は築らが沖、大りんが窟に籠っている。自分が加勢して高丸を易々と討たせようと言う。

 兵を都に引き揚げさせた利仁と立烏帽子は神通の車に乗って築が沖へと赴く。そこには岩屋があった。利仁があそこからどうやって敵をおびき寄せるのだと問うと、立烏帽子は天から十二の星を招いて妙なる音楽を奏でさせた。高丸の末の娘がこれに関心を示した。高丸は自分たちをおびき寄せる田村殿の計略だと諭すが、娘の可愛さに負けて岩戸を開いてしまう。そこで利仁は神通の矢で高丸を射る。大通連、小通連、釼明連、そはや丸の四本の剣で鬼たちの首を残らず討ち取った。利仁は高丸の塚を築かせた。

 伊勢の国に戻った利仁と立烏帽子だったが、立烏帽子が予言する。自分は始め日本を魔国と成そうとして大嶽丸に文を送ったが、返事がないので利仁公を夫とした。夫と組んで高丸を退治したことを大嶽丸は憎んでいる。必ずや自分を攫いにくるだとうと。まず、帝に高丸討伐を奏聞すべし。大嶽丸は高丸の倍強い鬼だが、自分の計略で易々と討たせてやろうと。

 大嶽丸がやってきた。我に背き田村に味方するとは何事か。我に従わないなら微塵にしてくれよう。立烏帽子は、背く気はない。共に陸奥の国へ下るべしといって、大嶽丸に攫われていった。

 利仁に陸奥の国の桐山(もしくは霧山)に棲む大嶽丸を討伐せよとの宣旨が下された。まず利仁は神社仏閣に参拝して戦勝を祈念した。利仁は陸奥の国まで長い道のりを進んでいった。

 立烏帽子は利仁がやって来たことを通力で知り、迎える。達谷が窟に入った利仁と立烏帽子だったが、そこに大嶽丸が帰ってくる。賤しき者の死骸を見れば自分の大望が邪魔される。自分は立烏帽子に溺れ三明六通を失った。これから神通を改め、都へ上って帝を微塵にしてくれようと言う。それから窟を抜け出して桐山に籠った。桐山に三日籠れば三明六通を得るので急げと立烏帽子が言う。大嶽丸は箟嶽山のきりんが窟に逃れた。

 利仁は神仏に祈念する。大嶽丸が出てきた。四本の剣を投げつけて大嶽丸の首は打ち落とされた。が、その首が利仁の手の甲に喰らいついた。大嶽丸の死体を麓の村まで運んだ後、伊勢の国に戻った利仁と立烏帽子だったが、立烏帽子が自分は今年二十五歳になった。寿命だと告げる。泣く泣く立烏帽子と別れた利仁は都に上って帝に大嶽丸成敗の由奏上する。

 再び伊勢の国に戻った利仁だったが、立烏帽子は死の床についていた。再会した利仁と立烏帽子だったが、立烏帽子はそのまま亡くなってしまう。嘆き悲しんだ利仁だったが、夢で冥途に迷い込む。田村は未だ死んでおらず、引き返せと言われるが、利仁は夫婦は二世の契りだと言って聞かない。そこで今年死んだ小松の前という二十五歳の女がいたのでその身体を身代りとすることになった。夢は覚めた。すると立烏帽子の館は消え、娘の正林を抱いたまま眠っていた。

 利仁は都に上って大通連と小通連の剣を献上した。すると帝の宣旨で近江の国から小松の前親子がやって来た。小松の前は利仁の妻となり二世の契りとなった。その後、田村将軍はあちこちの悪魔を退治して九十六歳で大往生して田村大明神と呼ばれた。小松の前は百十三歳で大往生して清龍権現となった。正林は九十三歳まで生きて地蔵菩薩となった。田村大明神、清龍権現、地蔵菩薩が現れ衆生を済度した。

◆伝説の武人たちの合体
 「田村三代記」では子の田村将軍の名が利仁となっている。これは伝説の中で坂上田村麻呂が同じく平安時代の著名な武人である藤原利仁と結びついたということらしい。

 祖父の利春は星から生まれた異常出生譚の人であるが、英雄らしい活躍はしない。異類婚姻譚で血筋を次代の利光に繋ぐのみである。

 また、「田村三代記:御国浄瑠璃」では父の利光の代では唐土への遠征が語られていない。「東北の田村語り」の粗筋が参照した他の版ではあるようである。むしろ母の悪玉の物語の色が濃い。

 また、利仁(千熊丸)も母の胎内に三年三月いた異常出生譚の者となっている。これは「田村の草子」「鈴鹿の草子」と異なるところである。

◆謡曲「田村」
 謡曲「田村」では、東国から来た僧が清水寺に参詣する。僧は美しい玉箒を持った若い花守に語りかける。花守は清水寺の縁起を語る。清水寺は坂上田村丸の発願によると語る。後半、田村丸の亡霊が現れて鈴鹿山の鬼神退治を語る。

前シテ:花守童子
後シテ:坂上田村丸
ワキ:旅僧
処は:京都
季は:三月

清水寺にて田村丸の幽霊旅僧にあひて観音の仏徳をのべ、わが軍功の様を物語る事を作れり。

ワキ次第「鄙(ひな)の都路隔て来て、隔て来て、九重の春に急ごう」
詞「是は東国方より出立した僧でござる。自分はいまだ都を見たことがないところ、この春思い立ちました」
道行「頃もはや弥生半ばの春の空、春の空、影も長閑にめぐる日の、霞むそちらは音羽山、瀧の響きも静かで清水寺に着いたことだ。着いたことだ」
詞「急ぐ程に、これは都の清水寺と申すとか、ここの桜が盛りと見える。人を待って詳しく尋ねようと思う」
シテ一声「おのずと春の手向けとなったことです。地主権現の花盛り」
サシ「それ花の名所は多いけれども、大非の光の色が沿う故か、この寺の地主(ぢしゆ)の桜に勝るものはない。されば大慈大悲の春の花にか、十悪(十の罪悪)の里に香ばしく、三十三身の秋の月、五濁(五つの悪い現象:劫濁・衆生濁・煩悩濁・見濁・命濁)の水に影が清らかだ」
歌「ちはやふる神の御庭の雪か、白妙に雲も霞も埋もれて、埋もれて、いずれ桜の梢と見渡せば八重一重、実に九重の春の空、四方(よも)の山並み自ずから時だと見える気色かな、気色かな」
ワキ詞「いかにしてここにいる人に尋ねるべきだろうか」
シテ詞「私の事ですか。何事でしょう」
ワキ「見れば美しい玉箒を持って、木陰を清めなさるのはもしや花守でいらっしゃるか」
シテ「左様でございます。自分はこの地主権現に仕える者です。いつも花の頃は木陰を清めますから、花守と申しましょう。また宮つ子(神主)と申しましょうか。どこに由縁のある方でしょう」
ワキ「実に由縁ありそうに見えます。先ずこの寺のご来歴を詳しく教えてください」
シテ「そもそも当寺清水寺(せいすゐじ)というのは、大同二年の創始で、坂上田村丸の発願です。昔大和の国の小島寺という処にゲンシンという沙門(修行する僧)が正身(しやうじん)の観音を拝もうと誓ったところ、あるとき木津川(こつがは)の川上から金色の光が差したのを尋ねて登ってみたところ一人の老翁がいました。かの翁は立って曰く、自分は行叡居士(ぎやうえこじ)という。汝は一人の施主を待って大伽藍を建立すべしと言って東を指して飛び去りました。されば行叡居士と言うのは、観音薩埵(さつた)の再誕した姿、又、施主を待てとあったのは、坂上田村丸のことです」
地「今もその、名が流れた清水の清水の、深き誓いの数々に、千手の御手のとりどり、様々の誓い普(あまね)くて、国土万民を漏らさず、大非の影こそありがたいことです。まこと安楽世界から今この娑婆に姿を現わして、我等の為の観音、仰ぐのも愚かだろうか、愚かだろうか」
ワキ詞「たいそう面白い人に参ってあったことかな。又、見え渡ったところは皆名所でしょうか。お教えください」
シテ詞「左様でございます。皆名所でございます。お尋ねください。お教えしましょう」
ワキ「まず南に当たって塔婆の見えているのは、どのような所でしょう」
シテ「あれこそ歌に歌われた中山清閑寺。今熊野まで見えています」
ワキ「また北に当たって入相(いりあい)の鐘の聞こえるのは、どのような寺でしょうか」
シテ「あれは上みぬ鷲尾(わしのを)寺です。御覧ください。音羽の山の嶺から出た月が輝いて、この地主(ぢしゆ)の桜に映る景色。まずまずこれこそを御覧なされ」
ワキ「実に暇(を申すの)が惜しまれます。こと心無い(情趣を解する心がない)春のひと時」
シテ「実に惜しむべきです」
ワキ「惜しむべきでしょうか」
シテワキ「春霄(しゆんせう)一刻値千金、花に清香月に陰」
シテ「千金にも代え難いとは実にこの時か」
地「あらあら面白い地主の花の景色かな。桜の木の間に漏れる月の、雪の降る夜嵐の、誘う花と連れて散る心でしょうか」
クセ「さぞ名の知られた花の都の春の空、実に時めく粧い、青楊の陰は緑で風がのどかな音羽の瀧の白糸の繰り返し返しても面白くありがたいことです。地主権現の花の色も殊なり」
シテ「ただ頼め、標茅(しめぢ)が原のさしも草」
地「自分がこの世にいる限りのご請願。濁るまい清水を、緑も差すか青柳の、まこと枯れた木だとても、花桜木の粧(よそほ)ひ、どこの春も押しなべて、のどかな影は有明の、天も花に酔ったか。面白い春の頃かな。あら面白い春の頃かな」
ロンギ地「まこと景色を見るからに、旅人であろう装いの、その名はいかなる人だろう」
シテ「どのようにとも、いざその名も白雪の跡を惜しめばこの寺に帰る方向をご覧なさい」
地「帰るかどこに蘆垣(あしがき)の、間近なところかあちらこちらか」
シテ「方便(たづき:方便)に知らない山の中に」
地「覚束なく思えば、我が行く方を見よと言って、地主権現の前から下ると見えたが、下り馳せて坂の上の田村堂の軒を見張るか、月のむら戸を押し開けて内に入ったことだ。内陣(本堂で本尊を安置する部分)にお入りになったことだ」
ワキ歌「一晩中、散るか桜の影に居て、影に居て、花も妙なる法(のり)の場(には)、迷わぬ月の夜とともに、このお経を読誦する、読誦する」
後シテ「あら有難いお経かな。清水寺の瀧の波、まこと一河の流れを汲んで、他生(前世と来世)の縁ある旅人に、言葉を交わす夜に聞こえる声の読誦、これぞ即ち大慈大悲の観音擁護の結ぶ縁だ」
ワキ「不思議かな花の光に輝いて、男体の人が見えるのは、いかなる人でいらっしゃるか」
シテ「今は何をか包み隠そうか。人皇五十一代、平城天皇の御代にあった坂上田村丸である。東夷を平らげ、悪魔を鎮め、天下泰平の忠勤だったのは即ち清水寺の仏力による」
地サシ「しかるに帝の宣旨には伊勢の国の鈴鹿の悪魔を鎮め都鄙を安全になすべしとの仰せによって軍兵を調え、赴く時節に至ってこの観音の仏前に参り祈念をいたし立願した」
シテ「不思議の瑞験あらたなれば」
地「歓喜微笑(くわんぎみせう)の頼みを含んで、急ぎ凶徒にうち立った」
クセ「普天の下、卒土の内、どこが王地でないだろうか。やがて名を知られた関の戸を差さずに逢坂の山を越えれば浦波の粟津の森やかげろうの石山寺を伏し拝み、これも清水の一仏と頼みはあひに近江路や、勢田の長橋ふみならし、駒も足並みや勇むらん」
シテ「既に伊勢路の山近く」
地「弓馬の道の先駆けんと、褐色見せたる梅の枝の花も紅葉も色めいて猛き心は粗金(あらがね)の、土も木も我が大君の神国に、もとより観音の御誓い、仏力といい神力も猶数々の丈夫(ますらお)が待つを知らでさ牡鹿(をしか)の鈴鹿の禊ぎせし世々までも思えば嘉例(目出度い先例)なるべし」
地「さるほどに山河を動かす鬼神の声、天に響き地に満ちて万木青山が動揺した」
シテ詞「いかに鬼神も確かに聞け。昔もそのような例(ためし)があった。千方(ちかた)という逆臣に仕えた鬼も王位を背く天罰で、千方を捨てればたちまち滅び失せたぞ。ましてや間近い鈴鹿山」
地「ふりさけ見れば伊勢の海、あのあの松原群だち来たって、鬼神は黒雲鉄火を降らせつつ、数千騎に身を変じて山の如く見えたところに」
シテ「あれを見よ。不思議やな」
地「あれを見よ。不思議やな。味方の軍兵の旗の上に千手観音が光を放って虚空に飛行し、千の御手ごとに大非の弓には智恵の矢をはめて、一度放せば千の矢先、雨あられと降りかかって鬼神の上に乱れ落ちれば、ことごとく矢先に掛かって鬼神は討たれたことだ。ありがたい、ありがたや。誠に咒咀諸毒薬、念彼(ねんぴ)観音の力を合わせて、すなわち還着於本人(げんぢやくおほんにん)の敵(かたき)は滅びた。これこそ観音の力である」

◆謡曲「鈴鹿」
 謡曲「鈴鹿」も坂上田村麻呂を題材としていた。が、これは読むに「田村の草子」「鈴鹿の草子」の後に成立したものと思われる。

シテ:高丸
ワキ:田村将軍
ツレ:鈴鹿姫
立衆:従者
トモ:従者
処は:鈴鹿山

田村丸鈴鹿山の鬼神を退治する事を作る。田村の曲は田村の死後田村堂に祭られたる縁をかり来つて過去の事を語り、本曲は田村が現在の立場として作為せり。

立衆「勇み行く、驛(うまや)づたいの鈴鹿山。夜の超えるべき山路かな」
ワキ「そもそも坂上田村丸とは自分の事である。さて、勢州鈴鹿山に化性の鬼女籠り居て、関はないけれど安全ではない」
立「帝からの宣旨には勢州鈴鹿の鬼神を平らげよと」
ワキ「田村に仰せ下された以上、たとえ如何なる天魔鬼神であっても、朝敵となってこの国にどうして跡をとどめることができようか」
立「勇み騒ぐ武士(もののふ)の」
ワキ「心は猛き」
立「梓弓」
歌「八声の鳥も告げ渡る、告げ渡る、夜とともに行けば逢坂の、関を過ぎれば近江路か。ここは川瀬か勢田(せた)の橋、とどろとどろと鳴る神も、雲より雨が漏る山や、三上が嶽を目にかけて渡るや野洲の川風の、跡白川をうち過ぎて鈴鹿山にも着いたことだ、着いたことだ」
女「山は遠くて雲が行く客の跡を埋め、松は寒くて風は旅人の夢を破る。あら物凄い景色かな」
ワキ詞「誰かいないか」
トモ「御前におります」
ワキ「あれに見えた女を連れて来たまえ」
トモ「畏まって候。どう申したものか、大将の前にお参りくだされ」
女「いやはばかります」
トモ「はばかることは少しもありません。ただお参りくだされ」
ワキ「いかに女、貴方は此の辺りの者ですか」
女「左様でございます。ここに住む鈴鹿姫でございます」
ワキ詞「さては承った鈴鹿姫であったか。貴方はよく知られた人と聞きます。坂上の田村ですが、この山に赤頭(あかがしら)の四郎将軍という鬼神を平らげよとの勅諚(ちよくぢやう)によって、この山に分け入ったのです。この事を平に頼みましょう。彼の者を討たせて給え」
女「お安い事です」
ワキ「偖(さて)もいつもこの山にいるのですか」
女「左様でございます。いつも此の山におりますが、陸奥(みちのく)の安達が原に、また珍しい鬼女を伴い通っております。(夜が)明けたら必ずお帰りなさい。私も恨む子細があるので、田村殿を平に頼むべしと、頼もしく言ったので」
地「田村大いに喜んで、喜んで、また思い立つ唐衣、日も暮れ夜になったので、明日を遅しと松の根の、明ける空を待ち居たるぞ、待ち居たるぞ」
シテサシ「萬山に雲尽きて人家が稀な境涯だ。安達が原の客人をあがめてもてなそうと、諸国の鬼神は酒を湛えて、高丸をはじめて饗宴をなす。不思議かな、この中(うち)に」
地「この中に、鈴鹿御前はお見えにならず、もしや移ったか我が心、色めく鬼のきたない草のに交じるか女郎花(をみなへし)のくねる故の遅参か。遅くとも、遅くとも色には出まい薄紅葉をかざし連れて、松の風の声を上げて囃そう。この声を上げて囃そう」
シテ「面白い」
地「面白い、紅葉重ねの衣の袖、色めくは秋萩の、花の唐錦、立つ間も惜しい客人の、お慰みの饗宴に、歌を歌い舞を舞い、歌舞の菩薩の声々に囃していざ遊ぼう。面白いことだ」
ワキ「土も木も我が大君の国なので、どこが鬼の住処であろうか」
シテ詞「萬山に雲尽きて人家稀な岩頭に軍兵の数多見えるのは、そもどこの何者か」
ワキ「是はよく知られた坂上田村だが、勅命に応じて来たぞ。今日を最後と思うべし」
シテ「何、高丸を討とうというか」
ワキ「中々の事だ」
シテ「あらずとよ。高丸は王城のちさん(池山か)に住みながら、勅命を背く程なのに、通力自在の高丸を討手とは不届きである」
ワキ詞「いかに勢いありと言っても、朝敵ならば滅ぶべし。早く攻め入れや兵士たちよと田村が大声で呼びかければ」
地「数多の兵士が一同に、一同に、我も我もと賢(さか)しい岩頭を伝い上がって、隙間もなく掛かった」
シテ「しこんしとつくは是だな」
地「是だな。譬えば夏の虫の火に入り、己の身を焦がす。道理を知れよ田村丸と言って、手ごろの斧を引っ提げ、邪慳(じゃけん)の眼(まなこ)を開いて大勢に切ってかかれば、その勢いに恐れつつ、数万の軍兵は岩頭(がんとう)より転げ落ち、前後を失い力も尽きて、遥かに退いたぞ」
ワキ「田村は是を見て」
地「是を見て、余すまいと言って剣を抜いて、高丸に掛かったところ、物々しいかな田村丸と言って斧を振り上げ投げかければ、蝶鳥の様に飛び違った。また打ち掛ければ受け流し、高丸は田村の武芸に比べる勢いも、かんせい(喚声か)りき(利器か)も更に勝劣は見えなかった。その時鈴鹿の御前は、鈴鹿の御前は味方の様に前に進み、戦う風情でもてなして、高丸に剣を投げかけた」
シテ「これは安心できないことかな、鈴鹿姫」
地「鈴鹿姫、謀ったかと斧を振り上げ鈴鹿に掛かれば、又後ろから田村が切る。田村に掛かれば鈴鹿が切る。手に互いに暇なく攻められて、さしもの猛き高丸だけれども、今は弱って見えた。眷属よ眷属よと大声で呼んだけれども、逃げ去って見えない。あれほどに契った鈴鹿の御前も敵(かたき)となることが無念だ、無念だ。さあ物見せんと大手を広げて掛かろうとするけれども、目も暮れ肝も消え足もよろよろと長夜(ちやうや)の闇の眠りの内に夢の浮橋を渡る様に危なく見えたが、終に鶺鴒(せきれい)を転び落ちたのを田村が立ち寄って頸を打って都へと言って帰った。

◆余談
 原文に漢字を当てるのにあたって、基本的に口承である神楽の詞章と違って、崩れて意味がとれない箇所はあまり無かった。しかし、角川書店「室町時代物語大成」シリーズは注釈も現代語訳もなく、ドンと原文だけを載せているから、素人の自分にとって精読することは、かなり難儀なことであった。脳みその奥、小脳の辺りの疲労感が濃い。

 手間をかけた挙句に、出典の候補と思われた作品と粗筋が全くといってよいほど符合しないのは予想外なことであった。物語としては興味深いので元はとれている。

◆参考文献
・「室町時代物語大成 第九」(横山重, 松本隆信/編, 角川書店, 1981)※「田村の草子」pp.81-109
・金子恵里子『歴史民俗博物館「田村の草子」翻刻と解題』「専修国文」第八二号(専修大学日本語日本文学会, 2008)pp.63-107
・「室町時代物語大成 第七」(横山重, 松本隆信/編, 角川書店, 1979)※「鈴鹿の草子」pp.461-497
・「東北の田村語り」(阿部幹男, 三弥井書店, 2004)pp.9-55
・「仙台叢書 復刻版 第十二巻」(平重道/解題, 宝文堂, 1972)※「田村三代記」pp.479-504
・「田村三代記:御国浄瑠璃」(小倉博/編, 仙台郷土研究会出版部, 1940)pp.1-70
・「謡曲叢書 第二巻」(芳賀矢一、佐佐木信綱/編, 博文館, 1915)※「鈴鹿」pp.258-261, 「田村」pp.545-551
・「東北の田村語り」(阿部幹男, 三弥井書店, 2004)pp.9-55
・内藤正敏『鬼の物語になった古代東北侵略―「田村三代記」と「田村の草子」』「東北学」9(赤坂憲雄/編, 東北芸術工科大学東北文化研究センター, 2003)pp.338-364
・福田晃「奥浄瑠璃『田村三代記』の古層」「口承文芸研究」第二十七号(日本口承文藝学會, 2004)pp.1-33
・小林幸夫「大蛇の裔・田村将軍―鈴鹿山立烏帽子伝承と巫覡―」「講座日本の伝承文学 第七巻 在地伝承の世界【東日本】」(徳田和夫, 菊地仁, 錦仁/編, 三弥井書店, 1999)pp.62-83

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◆はじめに
 「田村三代記」は征夷大将軍・坂上田村麻呂の祖父・父・子の三代にまたがる奥浄瑠璃であり、仙台藩、南部藩領で盛行した。「仙台叢書 復刻版 第十二巻」に収録された「田村三代記」を読んだが、祖父・父の代の物語は割愛されていて、子である田村将軍・利仁と立烏帽子にまつわる鬼退治伝説となっている。

 「田村の草子」「鈴鹿の草子」と比べて、特に子の田村将軍・利仁の代についてだが「鈴鹿の草子」とほぼ粗筋である。大きな違いは「田村の草子」「鈴鹿の草子」に登場する鈴鹿の御前(立烏帽子)の出自が天界の天女であるのに対し、「田村三代記」の立烏帽子は第四天の魔王の娘であることだ。つまり、魔性の物なのである。その日本を魔国となさんと企む魔性の物と田村将軍が結ばれて鬼退治をするという物語となっているのである。

 反面で「鈴鹿の草子」のように俊宗と会えない鈴鹿の御前が恨み事をいう、その葛藤は「田村三代記」には見られない。

◆田村三代記・あらすじ
※以下の粗筋は「田村三代記:御国浄瑠璃」の版から起こしたものである。

 人皇五十一代平城天皇の御代に丹波の国と播磨の国の境に大きな星が一つ天下り光輝くことあたかも白昼のごとくであった。そこで天文の博士を召して占わせたところ、これは吉事であるとなった。この星は砕けて隕石となって降り、中から三歳ばかりの麗しい童子が誕生した。この童子を連れて帰って参内し、養育した。この童子は七歳で書を読み文字を書いた。また笛の名手であった。十歳のとき利春(としはる)と改名した。十五歳のとき帝が利春を召し、先帝の命日に天人を天下らせ舞楽を奏せよと命じたところ、利春は天人の舞楽は天竺梵天王の大庭でなければ奏せないと断った。怒った帝は利春を流刑に処す。

 流された利春は心を慰めるために笛を吹く。すると笛の音に惹かれた女が現れた。夜な夜な利春の許に通ってくる。身分の低い水仕だと名乗っているが容顔美麗であり、いつしか二人は契りを結んだ。懐胎した女は利春の許に留まるようになる。女は出産には三年三月必要だと答える。産屋を建て、百日百夜経つまでは中を覗くなと言い残して女は中に籠る。

 九十九夜になった日、利春は待ちきれずに産屋を覗いてしまう。すると、中には二十尋もある大蛇がいた。明けた百日目に女は赤子を抱いて利春の許を訪れる。正体を見られた女は古巣の池に帰ると言い残して消える。鏑矢を乳房とせよと言い残したので、矢羽根を吸わせたところ、笑顔となった。赤子は大蛇丸と名づけられた。大蛇丸が七歳になった頃、利春は赦され、都に戻る。

 大蛇丸が十歳になった頃、大和の国と山城の国の境の今瀬が淵に棲む悪龍が人々に害をなした。十歳ながら武勇に優れた大蛇丸に悪龍退治の宣旨が下される。百騎余りの手勢を率いて大蛇丸は出発する。

 淵に着いた大蛇丸だったが、悪龍の恐ろしさに手勢の者が怖れをなしてしまう。ところが大蛇丸は動じず、母の形見の神通の矢で龍の眉間を射ぬき、龍を退治する。都に帰って参内した大蛇丸は帝の御感甚だしく、中納言に任じられ、利光の名を賜った。

 利光が退治した悪龍は利光の母の大蛇であり、利光に武功を立てさせるために悪龍と変じたものである。その身は滅んだが、心は天に登り八幡神として現したという。

 第五十二代嵯峨天皇の御代に奥州で反乱が起きた。そこで中納言の利光が召されて将軍として反乱の鎮圧に当たることになった。千騎の手勢を率いた利光は奥州に向けて出立する。大蛇の腹に三年三月宿った大蛇丸の成長した利光の威光に大名小名たちは恭順し、反乱は収まる。

 都への土産物を持って帰るという話となった。奥州には珍しい物がないというので、七ツ森という森で狩りを催して動物の皮を持って帰ることになった。狩りが実施された。多数の犠牲を出しながら、大きな狒々と荒熊を狩った。亡くなった者には弔い金を渡し、利光は帰城した。

 九門屋という長者に悪玉という醜女が水仕として仕えていた。悪玉は実は公家の娘であったが、信濃詣でに出た際に山賊に襲われて身売りされたものであった。肌を許さないため観音に祈ったところ、醜女と変じた。これでは売り物にならないと転々とした挙句に九問屋に身を寄せることになったのである。その悪玉に利春が目を留めた。利春の眼には本来の美麗な女として映っていたのである。悪玉と契った利春だったが、都に連れ帰る訳にもいかず、形見として神通の鏑矢を与える。

 懐妊した悪玉だったが、三年経っても出産しなかった。これは尋常の者を身ごもったのではない、化性の物だと考えた。化け物が生まれては家の名誉に関わると思い長者は悪玉に暇を与える。行く当てもなく悪玉は放逐される。

 見かねた在所の者に産屋を建ててもらい、三年三月が経って悪玉は出産した。それを知った九門屋が子を捨てて奉公せよと命じる。悪玉は赤子を捨てようとするが果たせず、赤子諸共に河に身投げしようとするが、どこからともなく待てという塩釜明神の声がして思いとどまる。

 玉のような赤子を見た長者は考えを改めて我が子として育てることにする。悪玉から赤子を取り上げた長者は悪玉に決して母と名乗るなと誓言させる。赤子は千熊丸(せんぐままる)と名づけられた。

 千熊丸は十三歳に成長した。弓馬の道に優れた千熊丸だったが、八幡宮の流鏑馬の射手を務めさせて欲しいと別当に願いでるが、別当は千熊丸が悪玉という身分の低い水仕から生まれた素性も知れない子であるとして断る。屈辱を受けた千熊丸であったが、その場は堪え、悪玉の許に行く。悪玉から父が将軍であること、そして母の身の上を聞き出した千熊丸は神通の鏑矢を渡され都へ出立する。

 長い旅を経て都に到着した千熊丸は、利光の館へと赴き、蹴鞠の腕を見せて利光の関心を誘う。怪力を見せつけて利光に仕えることになった千熊丸であったが、千熊丸が只者ではないと見て取った利光は、千熊丸に逆心があるのではないかと疑う。そこで人喰い馬の世話をさせるが、千熊丸は馬を手なずける。いよいよ怪しんだ利光は千熊丸に食事をさせ、その最中に弓で射殺そうとする。が、千熊丸は何事もなかった様に箸で矢を受け止める。観念した利光に千熊丸は形見の神通の鏑矢を見せる。我が子だと利光は認める。

 内裏に参内した千熊丸は坂上田村麿利仁(としひと)の名を賜る。そして悪玉を利光の正妻として、奥州から召し出す。元の美麗な姿に戻った悪玉は都へ入り、田村御前と名を変えた。


※以下の粗筋は「仙台叢書 復刻版 第十二巻」の版から起こしたものである。

 仁明天皇の御代に異変が起きた。毬のような光るものが昼夜を問わず飛び回り、光と遭遇したものは皆、金品財宝を奪われた。帝は公卿と大臣を召されて詮議なさったが、とにかく博士を召して占わせた。

 第四天の魔王の娘である立烏帽子が伊勢の国の鈴鹿山に天下り、日本を魔国となそうとしているとしていると占う。そこで田村将軍利仁が召され、急ぎ立烏帽子の成敗をするよう宣旨が下った。

 利仁は神仏に祈念し、総勢二万騎を連れて都を出て鈴鹿山へ押し寄せる。鈴鹿山を包囲した軍勢だったが、立烏帽子の居所はさっぱり見つからない。ただ時間だけが過ぎていった。利仁は父の言葉を思い出す。魔性の者を尋ねるときは、大勢で尋ねてはならない。必ず主従二人か三人かで尋ねるべしと。利仁は軍兵を差し戻し、自分独りで鈴鹿山の陣地に籠る。それから三年経ったけれども立烏帽子に逢うことはなかった。

 利仁は神仏に祈念する。すると毬のような光るものが現れた。光はこの上に登れ。されば恋しき人に逢うべしといって消える。今まで見つからなかった細い道があった。その道を行くと立烏帽子の館があった。四方に四季を映す庭園があり、極楽浄土もかくやあらんという見事なものであった。

 利仁は立烏帽子の姿を見かける。歳の頃二八(十六歳)ばかりの美麗な女房であった。利仁は立烏帽子と親しくしたいと思ったが、何のためにここまで来たのだと考え直し、そはや丸という剣を立烏帽子に投げつける。立烏帽子も大通連の剣で応戦、斬り合ったが決着がつかなかった。

 呆然とした利仁の前に立烏帽子が忽然として現れた。自分を討とうとしても中々叶わないことだ。我は天竺の第四天魔王の娘で、将軍の先祖も知っている。利仁公三代は日本の悪魔を鎮めんがために観音が再来したものである。目には見えないはずの自分の姿が利仁公に見られた事は悔しいことだ。自分は日本を魔国となさんがために天下ったが、女の身ゆえ相応の夫がなくては叶わない。奥州に大嶽丸という鬼がいて、妻にせよと文を送ったが一向に返事が来ない。これは利仁公にとっては幸いである。かくなる上は悪心を翻し、善心で利仁公に馴れ初めよう。共に日本の悪魔を鎮めようではないか。

 利仁は従わなければ殺されると思い、かくなる上は立烏帽子に従って時節を伺い八つ裂きにしてくれようと考えた。それで、立烏帽子に承諾の意を伝える。喜んだ立烏帽子は利仁をもてなす。やがて比翼の契りを結び、三年暮らす内に正林という姫君が生まれた。子供が生まれたといっても利仁は油断しなかった。利仁は渡り鳥に文を託して、内裏へと送った。内裏では利仁の無事を知って、喜んだ。利仁は来る十五日に立烏帽子を連れて参内するから、そのときに立烏帽子を捕らえて八つ裂きにせよと書いていた。

 立烏帽子は通力で利仁の心を見抜いていた。お心を許しても討たんとするは何事かと言う。しかし、約束を果たせなくては夫の恥であるとして利仁の参内に同行する。神通の車で利仁と立烏帽子は参内する。利仁は立烏帽子を伴って帝に拝謁する。立烏帽子は来月になれば鬼神退治の宣旨が下るから協力しようと言う。

 九月になって利仁は参内した。近江の国の釜染が原に悪者の高丸という鬼神が住み着いて民に害をなしている。成敗せよと宣旨が下った。利仁は二万騎の軍勢を連れて出立する。

 釜染が原で高丸と対峙した利仁は戦いを始める。戦いは利仁が優位で高丸は常陸の国の鹿島に逃げる。それからあちこち逃げ回り、とうとう唐土と日本の境のちくらか沖へと逃げ込んだ。海では手が出せない。二万騎あった手勢も二百騎にまで減った。

 一旦、都に引き揚げることにした利仁だったが、伊勢の国に立ち寄ったところで、枕許に立烏帽子が現れる。高丸は築らが沖、大りんが窟に籠っている。自分が加勢して高丸を易々と討たせようと言う。

 兵を都に引き揚げさせた利仁と立烏帽子は神通の車に乗って築が沖へと赴く。そこには岩屋があった。利仁があそこからどうやって敵をおびき寄せるのだと問うと、立烏帽子は天から十二の星を招いて妙なる音楽を奏でさせた。高丸の末の娘がこれに関心を示した。高丸は自分たちをおびき寄せる田村殿の計略だと諭すが、娘の可愛さに負けて岩戸を開いてしまう。そこで利仁は神通の矢で高丸を射る。大通連、小通連、釼明連、そはや丸の四本の剣で鬼たちの首を残らず討ち取った。利仁は高丸の塚を築かせた。

 伊勢の国に戻った利仁と立烏帽子だったが、立烏帽子が予言する。自分は始め日本を魔国と成そうとして大嶽丸に文を送ったが、返事がないので利仁公を夫とした。夫と組んで高丸を退治したことを大嶽丸は憎んでいる。必ずや自分を攫いにくるだとうと。まず、帝に高丸討伐を奏聞すべし。大嶽丸は高丸の倍強い鬼だが、自分の計略で易々と討たせてやろうと。

 大嶽丸がやってきた。我に背き田村に味方するとは何事か。我に従わないなら微塵にしてくれよう。立烏帽子は、背く気はない。共に陸奥の国へ下るべしといって、大嶽丸に攫われていった。

 利仁に陸奥の国の桐山(もしくは霧山)に棲む大嶽丸を討伐せよとの宣旨が下された。まず利仁は神社仏閣に参拝して戦勝を祈念した。利仁は陸奥の国まで長い道のりを進んでいった。

 立烏帽子は利仁がやって来たことを通力で知り、迎える。達谷が窟に入った利仁と立烏帽子だったが、そこに大嶽丸が帰ってくる。賤しき者の死骸を見れば自分の大望が邪魔される。自分は立烏帽子に溺れ三明六通を失った。これから神通を改め、都へ上って帝を微塵にしてくれようと言う。それから窟を抜け出して桐山に籠った。桐山に三日籠れば三明六通を得るので急げと立烏帽子が言う。大嶽丸は箟嶽山のきりんが窟に逃れた。

 利仁は神仏に祈念する。大嶽丸が出てきた。四本の剣を投げつけて大嶽丸の首は打ち落とされた。が、その首が利仁の手の甲に喰らいついた。大嶽丸の死体を麓の村まで運んだ後、伊勢の国に戻った利仁と立烏帽子だったが、立烏帽子が自分は今年二十五歳になった。寿命だと告げる。泣く泣く立烏帽子と別れた利仁は都に上って帝に大嶽丸成敗の由奏上する。

 再び伊勢の国に戻った利仁だったが、立烏帽子は死の床についていた。再会した利仁と立烏帽子だったが、立烏帽子はそのまま亡くなってしまう。嘆き悲しんだ利仁だったが、夢で冥途に迷い込む。田村は未だ死んでおらず、引き返せと言われるが、利仁は夫婦は二世の契りだと言って聞かない。そこで今年死んだ小松の前という二十五歳の女がいたのでその身体を身代りとすることになった。夢は覚めた。すると立烏帽子の館は消え、娘の正林を抱いたまま眠っていた。

 利仁は都に上って大通連と小通連の剣を献上した。すると帝の宣旨で近江の国から小松の前親子がやって来た。小松の前は利仁の妻となり二世の契りとなった。その後、田村将軍はあちこちの悪魔を退治して九十六歳で大往生して田村大明神と呼ばれた。小松の前は百十三歳で大往生して清龍権現となった。正林は九十三歳まで生きて地蔵菩薩となった。田村大明神、清龍権現、地蔵菩薩が現れ衆生を済度した。

◆伝説の武人たちの合体
 「田村三代記」では子の田村将軍の名が利仁となっている。これは伝説の中で坂上田村麻呂が同じく平安時代の著名な武人である藤原利仁と結びついたということらしい。

 祖父の利春は星から生まれた異常出生譚の人であるが、英雄らしい活躍はしない。異類婚姻譚で血筋を次代の利光に繋ぐのみである。

 また、「田村三代記:御国浄瑠璃」では父の利光の代では唐土への遠征が語られていない。「東北の田村語り」の粗筋が参照した他の版ではあるようである。むしろ母の悪玉の物語の色が濃い。

 また、利仁(千熊丸)も母の胎内に三年三月いた異常出生譚の者となっている。これは「田村の草子」「鈴鹿の草子」と異なるところである。

◆余談
 「田村三代記」をテキストに起こすか考えたが、実際に読んでみると旧字体で、フォントの線が太くて判読が難しい漢字が少なからずあったので止めにする。

「田村三代記」の内容は「仙台叢書 復刻版 第十二巻」に収められたものよりも「田村三代記:御国浄瑠璃」の方が平易であった。「田村三代記:御国浄瑠璃」はデジタルライブラリー化されたもので、書籍であった「仙台叢書」の方を優先したのである。

◆参考文献
・「仙台叢書 復刻版 第十二巻」(平重道/解題, 宝文堂, 1972)※「田村三代記」pp.479-504
・「田村三代記:御国浄瑠璃」(小倉博/編, 仙台郷土研究会出版部, 1940)pp.1-70
・「東北の田村語り」(阿部幹男, 三弥井書店, 2004)pp.9-55
・内藤正敏『鬼の物語になった古代東北侵略―「田村三代記」と「田村の草子」』「東北学」9(赤坂憲雄/編, 東北芸術工科大学東北文化研究センター, 2003)pp.338-364
・福田晃「奥浄瑠璃『田村三代記』の古層」「口承文芸研究」第二十七号(日本口承文藝学會, 2004)pp.1-33
・小林幸夫「大蛇の裔・田村将軍―鈴鹿山立烏帽子伝承と巫覡―」「講座日本の伝承文学 第七巻 在地伝承の世界【東日本】」(徳田和夫, 菊地仁, 錦仁/編, 三弥井書店, 1999)pp.62-83

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鈴鹿山――鈴鹿の草子を精読する

◆はじめに
 角川書店「室町時代物語大成」に収録されていた「鈴鹿の草子」を精読した。坂上田村麻呂の一族に関する英雄譚である。

 「田村の草子」と比較すると、基本的な流れは同じだが、後半、田村殿(俊宗)の代になってから違いが目立ってくる。「田村の草子」では無かった展開として、俊宗が鈴鹿の御前(立烏帽子)と剣を投げ合って戦い、結果、互いに認め合って結ばれるという流れとなっている。また「田村の草子」では一度成敗した大嶽丸だが魂が一つ天竺に残っていて復活するのだが、「鈴鹿の草子」では先ず鈴鹿の御前が大嶽の魂を抜いてしまい、一度倒しただけで終わる異なる展開となっている。一方で「鈴鹿の草子」の大嶽は高丸が千人かかっても叶わない大物としてされている。

 俊宗と鈴鹿の御前との関係から、成立は「田村の草子」の方が早かったのではないかと考えられる。

◆鈴鹿の草子・あらすじ
※「鈴鹿の草子」の粗筋は父・俊人の代までは「田村の草子」とほぼ同じだが、後半、三代目の俊宗の代になって違いを見せはじめる。

 俊祐という源氏の将軍がいた。心に叶う人がいなかったので長年独身であった。寂しく思っていた俊祐だが、あるとき若い女房が虫の声を聞くと貴方への想いが募っていきますと和歌を詠んだのを聞いた。それを聞いた俊祐は誰とは知らないけれども、恋しいことですと返歌する。

 若く美しい女房と出会った俊祐は女房と契る。すると女房は懐妊した。喜んだ俊祐だったが、女房は出産までに三年かかると言う。巨大な産所を建てて、女房はその中に籠る。七日間は中を覗くな。八日目になったらよいと言い残す。待ちきれない俊祐は七日目に産所を覗いてしまう。すると中には大蛇がいて赤子を抱いていた。

 驚いた俊祐だったが、八日目に女房が赤子を抱いて出てくる。女房は俊祐に八日目に見たならば日本の主ともなしたが、七日で見てしまった。されど天下の大将軍となるだろうと告げて消えた。子供は日龍と名づけられた。その後、俊祐は日龍が三歳の年に亡くなってしまう。

 七歳になった日龍に武蔵国のみなれ川に棲む大蛇を退治せよとの宣旨が下される。日龍は父母の無いまま、幼くして勅命を被った我が身を嘆くが、乳母が日龍の父も幼くして大蛇を退治したと勇気づける。

 武蔵国に赴いた日龍だが、手勢を失ってしまう。大蛇を退治できないまま数年が過ぎた。ある時日龍は神仏に祈り、川の水を干すよう願った。すると川が干上がり大蛇が姿を現した。大蛇は自分の妹が日龍の母だと告げる。日龍は大蛇を神通の鏑矢で退治する。

 日龍は十六歳で将軍となり、俊人と名乗った。あるとき鳥が空を飛ぶのを見て、鳥や獣ですら夫婦であるのに自分は独り身だと思った。その頃、中納言の娘に照日の御前という美しい姫君がいることを知る。俊人は文を送って照日の御前と心を通わす。契りを結んだ二人だったが、帝がこの次第を聞き、照日の御前を召し上げてしまう。そして俊人は伊豆の国へ流罪となった。

 近江の国の瀬田の橋を渡った俊人はみなせ川で退治した大蛇の魂魄に好きにせよと言い残す。それから都では大蛇の被害が出る様になった。天文博士がこれは俊人の仕業だと奏上した。

 照日の御前を伊豆の国へ下し、赦された俊人は上洛する。大蛇の被害は止んだ。それから年月が重なり、俊人は照日の御前との間に二人の姫君をもうけた。

 ある時内裏にいた照日の御前が魔性の物に攫われてしまった。俊人は悲嘆に暮れる。俊人の夢に翁と姥と三人の童子が現れ、愛宕山の天狗に訊けば何か分かるかもしれないと告げる。

 愛宕山に向かった俊人は、老僧から自分達は知らない。詳しいことは朽木に訊けと言われる。朽木と対面した俊人は、陸奥の国の悪路王が人々を攫ったと教えられる。朽木は俊人の母の兄弟であった。朽木は成仏できないので俊人に供養してくれる様頼む。俊人は戻って供養する。また、鞍馬に参って毘沙門天に祈る。七日目、目覚めると枕許に多聞天の剣が刺さっていた。

 陸奥の国へ軍勢を率いて出発した俊人だったが、田村の郷で身分の低い女を抱く。子供が生まれることを予感した俊人は、形見として鏑矢を置いていく。

 悪路王の城を囲んだ俊人だったが、門番の娘に問うと、鬼たちは越前の国へ行っていると答えた。城の中に入った俊人達は攫われた人たちと再会する。照日の御前もいた。

 鬼が帰ってきた。睨み合いとなったが、俊人の眼力が勝って、鬼たちを怖気づかせた。俊人が剣を投げると、鬼たちの首を次々と打ち落とした。悪路王を退治して都へ引き揚げた俊人だった。

 俊人が身分の低い女に産ませた子がいた。名をふせや丸と言う。ふせや丸はなぜ自分には父がいないのかと母に問う。母の示唆で形見の鏑矢を手にしたふせや丸は都へと向かう。

 蹴鞠の腕の程を見せたふせや丸は関心を示した俊人に形見の鏑矢を見せる。我が子だと悟った俊人はふせや丸をもてなす。九歳になったふせや丸は朝日と名を改める。試練が与えられた朝日だったが、何事もなかったかのように済ませてみせた(俊人に矢で射られるが、箸で矢を受け止める)。十一歳になった朝日は日龍と名乗る。再び試練が与えられたが、無事乗り越え(俊人に剣を投げつけられるが、懐に収まる)、十三歳で元服、俊宗と名乗った。

 俊人は末代までの伝えとして、唐の国を従えようと考える。帝の裁許を得た俊人は十万叟の船で大海に乗り出す。自分が来た証として、俊人は火界の印を結び、唐の国に火の雨を七日間降らせた。

 凡夫の力では叶わないと見た恵果和尚は仏力にすがる。不動明王が俊人の前に立ち塞がるが、俊人が優勢であった。叶わないと見た不動明王は金剛童子を日本に遣わして毘沙門天にこのままでは唐の国が破れてしまい、仏法が衰えてしまうと訴えた。が、毘沙門天は耳を貸さない。

 そこで不動明王が俊人が失われたら日本を守護しようと約束する。それで毘沙門天の気が変わる。劣勢となった俊人は不動の船に乗り移って組打ちとなるが、飛んで来た剣が俊人の首を打ち落とした。

 父の死を知った俊宗は博多の港へと下り、形見を以て上京、父の菩提を弔った。

 十五歳となった俊宗だったが、大和の国の奈良坂山に赴いて金つぶてという法師を退治するよう宣旨が下された。三つのつぶてを投げる金つぶてだったが、ことごとく俊宗に打ち落とされてしまう。俊宗は金つぶてを降参させた。都に連れ帰った俊人だったが、帝の判断で金つぶては獄門となった。

 俊宗は将軍となった。そして年月が経ったあるとき、俊宗は伊勢の国の鈴鹿山に現れた鈴鹿の御前(立烏帽子)を成敗するよう宣旨が下された。鈴鹿の御前は目には見えなかったので、何ともしようがなく、時間が過ぎた。神仏に祈った俊宗だったが、あるとき道が開けて、鈴鹿の御前の館へと迷いこんだ。鈴鹿御前の館は四季の姿を映した庭園がある極楽の如きものだった。

 館のうちに若く美しい女房がいた。鈴鹿の御前と悟った俊宗は何の報いでこれ程に美しい女房を敵としなくてはならないのかと思う。それでも俊宗は剣を抜いて鈴鹿の御前に投げつける。応戦した鈴鹿の御前も剣を投げ、戦いとなったが、決着がつかなかった。鈴鹿の御前は自分には大とうれん、小とうれん、そうみょうれんの三本の剣があるので討たれることは無いと言った。

 互いに認め合った二人は結ばれる。やがて鈴鹿の御前は懐妊して一人の姫君(しょうりゅう)が生まれた。

 姫君が三歳になった俊宗は都が恋しくなる。それを通力で知った鈴鹿の御前は心変わりしたかと恨めし気に言う。俊宗はこれまでの事情をしたためて、文を都へ送る。神通の車に乗って参内した俊宗と鈴鹿の御前だった。

 鈴鹿の御前は近江の国の蒲生山に高丸という鬼が現れて人々に害を成すことを予言する。果して、そうなり、俊宗は近江の国へ向かう。俊宗は高丸の城に火の雨を降らせて、鬼たちを攻撃する。戦い負けた高丸は駿河の国、武蔵の国、相模の国と逃げ回る。最後に海の中の嶋に逃げ込んだ。海の中では手が出しようがなく、俊宗の軍勢も多くが討たれてしまった。

 軍勢を調えるため都へ上洛しようとした俊宗は途中、鈴鹿山に立ち寄る。そこで事情を悟った鈴鹿の御前と会う。鈴鹿の御前は自分の許に帰ってこない俊宗を恨めしく思うが、協力する。

 二人だけで高丸を討つことになった。鈴鹿の御前と俊宗は四本の剣を投げて八十人の鬼を首を打ち落とす。残り七人となった高丸だったが、岩屋に閉じ籠ってしまう。鈴鹿の御前が空から十二の星を招いて妙なる音楽を奏でる。

 それを聞きつけた高丸の末の娘がもっと聞きたいといって岩戸を開けさせてしまう。神通の鏑矢で俊宗は高丸を射る。高丸親子を退治した俊宗だった。

 再び、鈴鹿の御前が予言する。陸奥の国のきり山が岳に大嶽という強力な鬼が現れると。大嶽は高丸が千人いても打ち勝つことができないほど強大であるという。

 鈴鹿の御前はわざと大嶽に攫われてしまう。そして、三年の間に大嶽の魂を抜いてしまう。

 大嶽を討てと宣旨を受けた俊宗は陸奥の国へ向かう。鈴鹿の御前に手引きされた俊宗は大嶽の城内を見て回る。打出の小槌など様々の宝物があった。

 大嶽が唐の国の姫君を攫って帰ってきた。四本の剣を投げた俊宗と鈴鹿の御前の勢いに手下の鬼たちは逃げ出す。ただ一人になった大嶽の首を打ち落とす。大嶽の首は俊宗の兜に食らいついてきたが、鈴鹿の御前がとどめを刺してそのまま死んでしまった。

 大嶽の首を持って上洛した俊宗だった。大嶽の首は宝蔵に納められることになった。

 鈴鹿の御前は二十五歳となった自分の死期が近いことを俊宗に告げる。都から帰った俊宗だったが、既に鈴鹿の御前は病の床に臥していた。俊宗と最後の言葉を交わした鈴鹿の御前は亡くなってしまう。

 鈴鹿の御前の死を嘆き悲しんだ俊宗だったが、自分もそのまま死んでしまった。冥途へ旅立った俊宗だったが、倶生神に鈴鹿の御前を返せと狼藉を働く。俊宗は非業の死だったので、元の世界に戻されることになったが、鈴鹿の御前は既に肉体が失われていた。そこで、御前と同じ年に生まれた女の身体を身代りとして復活させる。

 が、復活した鈴鹿の御前は以前とは似ても似つかない姿だった。俊宗は腹を立てる。そこで不死の薬を使って元の姿以上に美しくした。三年の暇(現世では六年)の暇を与えられた俊宗と鈴鹿の御前だった。

 もしも鈴鹿の御前がいなかったら、日本は鬼の世界となっていた。よく心得て鈴鹿へ参るべし。

◆鈴鹿の御前の葛藤
 「鈴鹿の草子」では「田村の草子」に比べて、鈴鹿御前が俊宗に恨み言をいうことが多い。それだけ二人が引き離されることに葛藤を抱いている。「田村の草子」と違って、「鈴鹿の草子」では俊宗と鈴鹿の御前が先ず戦って互いを認め合うという展開となっている。

 「田村の草子」では鬼の住処に四季の景色を映す庭園があったが、「鈴鹿の草子」では鈴鹿御前の館の庭となっている。四季の景色を映す庭園というモチーフは鬼や尋常ではない物のものとして描かれるようだ。

 また、「鈴鹿の草子」と「田村の草子」では大嶽という鬼との戦いの経過が異なる。「田村の草子」では大とうれん、小とうれん、けんみょうれんの剣を持つのは大嶽である。大嶽丸を一度は退治するものの、天竺にけんみょうれんの剣を預けていたため、大嶽丸は復活し、再度俊宗と戦う。一方、「鈴鹿の草子」では三本の剣を持つのは鈴鹿の御前となっている。そして大嶽に攫われた鈴鹿の御前が大嶽の魂を抜いてしまうため、俊宗と大嶽の戦いは一度きりとなっている。


◆鈴鹿の草子
※これは角川書店「室町時代物語大成 第七」に収録された「鈴鹿の草子」に私が独自で漢字を当てたものです。「室町時代物語大成」には注釈も現代語訳も無く、原文がドンと載っているだけなので、間違っている箇所も多々あるかと思われますのでご注意ください。
すゝかのさうし

日本(ほん)、我が朝(わかてう)に、としゆう(俊祐か)と申、源氏(けんし)の将軍(しやうくん)一人おわします。

御心(こゝろ)に叶ふ人、ましまさねば、たゞ独り、御居(い)りあり、伏屋(ふせや)の御徒然、いと寂しくぞ、思し召しける。

九月中頃(なかころ)なるに、南面(みなみおもて)に立ち出でて、四方の景色を眺(なか)め給へば、草は絞るゝ花の色、鹿の鳴く音(ね)も、誠に我が身の上と悲しみ嘆き給ひつゝ、いづくとも知らざるに、斯くぞ聞こえける。

 草むらに 鳴く虫の音を 聞くからに いとゞ思ひや 勝りゆくらん

と言ふを聞き給へば、若き女房(ねうはう)の声(こゑ)なり、あさましく胸うち騒ぎ、妖しく思ひて斯くなん、

 ほのぼのと 明くる明日の 東雲(しのゝめ)に 誰(たれ)とも知らぬ 人ぞ恋しき

と眺(なか)めつゝ、見給へば、歳の頃廿ばかりと覚(おほ)えて、たゞ人とも見ずして、御物語り有りけるか、それより契りを籠め給ひける。

さる程に、我が御所へ具(く)し奉り、連理(れんち[りカ])の語らひ深く、片時も離れ給ふこともなく、契り給ふ程に

女房(ねうはう)、たゞならず、艶めき給へば、俊祐、我五十に余りまで(ママ)、子といふ物のなかりつるにとて斜(なの)めならず、喜び給ふ。

さる程に、七月の患ひ、八月の苦しみ、十月と申に御産所(さんしよ)をこしらえ給へば、

この女房(ねうはう)仰せられける様(やう)、十月と申せ共、産い(はカ)有べからず。三年と言わんとき産すべし。産の所は、岨(そわ)へ三十六町あるべしと宣へば

番匠(ばんじやう)共を集めつつ、程なく三年が間(あひた)に柱門(ちうもん)を建て、楼門(ろうもん)に組み上げ、御産所(さんしよ)出できければ

女房(ねうはう)仰せられけるは、我が産したらん所ゑは七日より内には通ふべからずとて高き所に登(のほ)り給(たも)ふ。

俊祐、片時も離るゝ事を悲しみ給へば、七日にもなりぬれば、今は何か苦しかるべきとて、楼門の上に登(のほ)り給ひて、物の隙(ひま)より見給へば、

節丈(だけ)の恐ろしき大蛇の極めて背中に諸々の草生い茂る、苔むしてあるが、美しき幼(おさあ)ひ物を引き回して眠(ねふ)り至る。

月日の如くに輝きつるは、則ち、二の眼なる。かゝる高き楼門なれば、佛神(ふつしん)三宝(ほう)も現じ給(たも)ふらんとて、やがて、降り給ひぬ。

八日にもなりぬれば、三ばかりなる幼(おさあ)ひ者を抱(いた)きて女房(ねうはう)降り給ひぬ、則ち若君(わかきみ)にてぞおはします。

その後(のち)北の方、宣ひけるは、将軍(しやうくん)この若君を八日に当たりて見たらば、日本の主(あるし)とも成して奉るべきに、八日も待たせ給はで、我が有様を御覧しつれば、天下の大将軍(しやうくん)と成し奉るべし。

人の子は親のつけたる名をこそは呼べ、若君(わかきみ)をば日龍(りう)と呼ぶべしとて、涙を流し仰せられけるは、

日龍(りう)殿の三歳の時は、父は儚(はかな)くなり給(たも)ふべし。七歳と申さんとき、王(わう)より宣旨(せんし)を被(かうふ)り給ふべし。

妾(わらは)は近江(あふみ)の国、ますたの池の大蛇(しや)なり、しかるに、宣旨の仰(おほ)せに従ひ、この年月、なれ奉るなり。

御名残(なこり)惜しくば、思ひ奉れども、今は暇申とて、かき消す様に失せ給(たも)ふ。

俊祐、たゞ呆れ果てゝおわします。

斯様に恐ろしき大蛇(しや)なれども三歳(とせ)が程、契(ちき)りも忘れがたく、御涙、堰(せ)きあへさせ給わず。

せめての、せん方なさに、生(む)まれて幾程もましまさぬ若君(わかきみ)に向かひて、汝が母は何方(いつかた)へ行(ゆ)き給ふぞと問ひ給えば、

天に向かひて、あ、とばかり、さして音もし給わず、俊祐は哀れに思し召しける。

月日に関守(せきもり)据へざれば、三年と申にわ、日龍(りやう:ママ)は十二三の気色して見ゑ給ふ。

俊祐、人知れず嬉しく見給ひながら、遂に儚くなりたまふ。日龍(りう)殿(との)の悲しみ、限(かき)りなし。

さる程に、七歳になりぬれば、御上より宣旨(せんし)を被(かうふ)り給(たも)う様(やう)、

武蔵の国、みなれ川という川に、みつくしのたけという大蛇(しや)あり、年毎(としこと)に人を失ふ。国の患(わつら)ひ、これなり。急ぎ討ちて参らせよといふ宣旨を被(かうふ)り給へば、

日龍(りう)は涙を流して、我、そも、如何なる報いにて、生(む)まれて、やがて母失せぬ。三にて父に別れ、七歳にて、かゝる宣旨(せんち)を被(かうふ)り候ぞと宣えば、

乳母(めのと)申けるは、若君(わかきみ)の父にて渡らせ給ひし人は越前(ゑちせん)の国、なとりかわ(名取川か)と言ふところに長さ十丈(ちやう)の大蛇(しや)を殺し給ひしかば、世の中の人々、これを聞き、舌を振りけるとこそ承り候。

若君(わかきみ)は既に七歳にならせ給へば、斯様(かやう)の宣旨(せんし)を被(かうふ)り給ふ事こそ目出度(めてた)けれとて、君の宝とて、弓に鏑矢、取り具して奉る。

ときに、日龍(りう)は少しも騒ぎ給はずして、既(すて)に軍兵(くんひやう)を揃へ、武蔵の国へ赴き給へば、日数(かす)も経(ふ)りぬれば、武蔵のみなれ川にも着き給ふ。

御覧ずれば、道の程十丈(ちやう)ばかり有、池の岩高くして、落つる滝の音、いと凄まじくして、しばし、これを見給へば、色々の綾錦、数(かす)多(おほ)し。

これを見給ひ、日龍は宣ひける様(やう)、あれ見給へ、魔王(まわう)の物、流(なか)れてみゑ候ぞと、仰(おほ)せられければ、無窮(むくう)の宝、なれける(ママ)、よく(翼か)に散らしたるものは、これを取つて近く攻寄る。

我が国はこれ、みもすそ川の御流(なか)れ、忝(かたしけな)くも、十全(せん)の御位の宣旨(せんし)を知らさるか、

こつてんわう(天王:天皇か)の二代のそつし(卒士か)、とししけ(俊重か)の将軍(しやうくん)に、孫(まこ)、日龍(りう)と申す少年(しやうねん)、七歳也。宣旨(せんし)に任せて来たりたり。大蛇(しや)、出でよ出でよ、もの申べしと宣へば、

軍兵(くんひやう)ども、皆々、池の中へぞ入(い)りにける。何かわ少し溜まるべき、皆々、底の水屑(みくつ)となりにけり。

さて、年は経(ふ)れども、近づく人ぞなかりける。大蛇、滅ほすこと難し。

そのとき日龍(りう)は申されけるは、神は九全(せん)の御位、王(わう)は十全(せん)の御位なれば、この秋津国に跡を垂れ給(たも)う神はいかでか、十全をば背き給(たも)ふべし。

山にわ、さんし(暫時か)王法(わう:ママ:ほう)おわしまさん。この界の水上(みなかみ)利きして、水(みつ)干しく候と祈念し給へば、誠に神も恵(めく)みを垂れ給へば、界の水(みつ)、干にけり。

さる程に大蛇、二つ出で来て申様(やう)、汝が為には我は伯父ぞかし。汝が母にて有りしは、我が為には妹なり。近江(あふみ)の水うみ(湖)に、歳を経(ふ)る大蛇(しや)、汝にわ母なり。

我は既に山川に年を経て六千歳、この川に住て、二万(ママ)五百年、汝は僅(わつ)かに七歳ぞかし。我を敵にして何かわすべきと、口より炎(ほのを)を吹き出(いた)し、申ければ、

さすがに哀れに思し召し、その時日龍(りう)は角(つの)の槻弓(つきゆみ)に神通(しんつう)の鏑矢(かふらや)を取って番(つか)ひ、よっぴき(よつひき)放ち給へば、

この大蛇、命、やがて止め給(たも)ふ、その後、東西(とうさい)、患(わすら)ひもなく静(しつ)かなり。

さる程に、日龍(りう)殿の十六にて、俊人(とし人)の将軍(しやうくん)とぞ申ける。

俊人、有夕暮(ゆふく)れに、縁(ゑん)に立ち出で、世の中を見暮らし給(たも)ふ。折節、鳥の一つがい(つかひ)、飛ぶを御覧じて、いかなれば、あの鳥類(てうるい)、獣(けた物)までも夫婦といふ事のあるに、我に何とて寝覚め寂(さひ)しく悲しかるらん。

哀れ、人もがなと思し召さるゝ折節、その頃中納言(ちうなこん)とておわしける、世の中に並びなき姫君(ひめきみ)一人おわしける。されば父母のもてなし給(たも)ふ事、限りなし。

御名をば、照(てる)日の御前(せん)と申、この俊人、聞き給ひて参らせ給へば、遂に下紐(したひほ)解け、忍び通ひ給ふ。

さて、この姫君の次第(したひ)なく、渡らせ給(たも)ふを御門(かと)、聞し召し、雲の上(うへ)の真白(ましろ)いに、常は御袖(そて)の乾(かは)く間もなし、忍びの玉梓(つさ)、通ひけれども、終に照日わ御返事も無し。

御門、怪しく思(おほ)し召して、俊人、都の外(ほか)へ流(なか)せとて、伊豆(いつ)の国へぞ流(なか)され給(たも)ふ。

俊人は、こは、そも、何事ぞや、君の御遣ひに命を捨て、恐ろしき物を滅ぼし、世の中を静(しづ)むるに、何事の咎(とか)あるやらん。姫君(ひめきみ)の御事に、いとゞ思ひは深かりける。

さる程に、俊人、我都を出でば、都はあれよと御心に祈念して、出で給(たも)ふ程に

瀬田(せた)の橋を通り給ふとて、橋を打ち叩き、仰(おほ)せられけるは、俊(とし)人は都になき身ぞや、一歳(とせ)、みなせ川にて取りて上りし大蛇(しや)の魂はこの界にもあるらん。

今、都へ乱れ入りて、悪事(あくし)をすべし、蛇神(しやしん)は七へん(片か)の魂、有とこそ聞け、疾く疾く都へ乱れ入べしとて、板を強く踏み、伊豆の国へぞ下(くた)り給(たも)ふ。

俊人流されて廿一日と申に、大蛇(しや)の御頭(おかしら)八有が出できたりて、都の内の人を噛み喰らふ事、夥(おひたゞ)し。

天文の博士、座主(さす)の巫女を召して鎮(しつ)められけれども叶はず、上下(しやうけ)の人、怖じ恐れて天下の患(わつら)ひとなる。

ある博士の申は、これは伊豆(いつ)の国へ流され給(たも)ふ俊人の故なりと申。

さては、この人の故(ゆゑ)なり、さらば、元の如(こと)く、返(かへ)せとて照日(てるひ)の御前(こせん)を伊豆(いつ)の国へぞ下されける。俊人は召せともお返事をだにも宣わず、照日の御前は伊豆(いつ)の国へぞ着き給(たも)ふ。

俊人の、元より思ひ給(たも)ふ事なれば、照日(てるひ)の御前(せん)を見つけ奉り、喜び給(たも)ふ事、限(かき)りなし。又、御門(かと)より重ねて召しあり。その時、俊人、都へ上り給(たも)ふ。

瀬田の橋を通り給(たも)ふとて、我は都へ上るなり、悪事(あくし)を止(とゝ)めて、元の如く(ことく)、鎮(しつ)まり給へとかき口説(くと)き宣へば、大蛇(しや)、元の如く、鎮(しつ)まりて、かめ(瓶か)の中へぞ入(い)りにけり。

俊人、都へ上(のほ)り給ひて、元の如く、御二所(ふたところ)住み給ひける。

年(とし)月重なり給へば、照日(てるひ)の御前(せん)、たゞならずして、姫君一人出でき給(たも)ふ。二人の姫君(ひめきみ)、いつき傅(かしつ)き給ふ。

さる程に、俊人は内裏(大り)へ参りの御後に、北の方、徒然のあまりに南面の縁(ゑん)に御入(い)り有ところを、如何なる魔縁(まゑん)の者か、来たりけん、空へ、この北の方を取りて出でぬ。

急ぎ、俊人の御方へ申せば、俊人これを聞き、急ぎ東西を鎮(しつ)め給へとも、その験(しるし)も無かりけり。

一日二日も過ぎぬれば、この思ひに、伏し沈(しつ)み、悲しみの涙、堰(せ)きあへず、思ひのあまりに、俊人新たにおわします神に参り給ひて、今一度(と)、この行方(ゆくゑ)を知らせ賜(た)び給へと祈誓(きせい)申させ給へども、その甲斐もましまさず。

余りに慰む方も無くて、ゆふけ(夕餉か)の浦をぞ問はせ給ひける。

都を東(ひんかし)へ問ひければ、年の程八十余りの翁と七十ばかりの姥(うは)として申しけるは、何事も前世(せんせ)の事と言ひながら、俊人の将軍(しやうくん)の仲、羨ましからず、この北の方故(ゆゑ)に伊豆(いつ)の国へも流され給ひぬ。

又、この間(あひた)は、はや一所に住み給へば、如何なる魔縁(まゑん)の物来たりて、この北の方を取り奉るに、俊人の御もの思ひ、哀れ(あはれ)の御事や。

我等が仲ほど目出度(めてた)き事は無し。逢ひ初めて離るゝ事も無し。俊人廿四、北の方廿一より逢ひ初めて、僅(わつ)かに仲三年こそ、おわしませ。たゞ今掛かる事、嘆き給(たも)ふ、いたわしさよと、姥申ければ、翁申様(やう)、悲しみは、楽しみの始(はし)めなりと申けり。

又、三てう(町か条か)大とみ(富か)を通り給へば、幼(おさあ)ひ者、申けるは、日本秋津国には三の日の如(こと)くして神業(かみわさ)繁(しけ)き、世の中に弓矢の計(はか)が事、優れて目出度(めてたた:ママ)き国なり。

されども、俊人の北の方を、もの(ママ)取られて、おかしさよと申ければ、

中なる幼(おさあ)い者の申事、人間界(にんけんかい)に生(しやう)を受けて、誰(たれ)が生死(しやうし)を離れざらん。生老病死(しやうらうひやうし)の苦をば離れ難(かた)し。いはんや、人間(にんけん)の間(あひた)に、いかでか掛かるべき。

俊人、非業(ひこう)の悩みとかやの有なれば、日本にわ天空、魔王(まわう)の多(おほ)ければ、左様(さやう)の物や取りつらん。凡夫(ほんぶ)はいかでか知るべきと言へば、

今一人の幼(おそな:ママ)き物、げにげに(けにけに)言ふなり。天狗歌うは愛宕(あたこ)の山。太郎坊(はう)、東(ひんかし)山には三郎二郎。

又、鬼ならば、近江(あふみ)の国には、あこし(ママ)の高丸(たかまる)。陸奥の国にはきり山(桐山もしくは霧山)が岳(たけ)、それさなくば、同じき国になる、かゞさんの悪路(あくろ)王(わう)か、取り奉らんと申しければ、

俊人、喜びて愛宕(あたこ)の山に登り給ひぬ。きやうくらい坊(はう)にもの申さんと宣へば、答ふる物も、なかりけり。

やゝありて、三間(けん)四面(めん)の光たう(灯か)、出できたり。その中に歳八十ばかりなる老僧(らうそう)まします。まぶたの膝(ひさ)まで下がりたるか、二人引き開けられ、何事を仰せ有ぞと申せば、

俊人、おこがましき申事にて候へども、過ぎし二月に人を物に取られて候なり。もし御寺の内に左様(さやう)の事や有らんと宣へば、

寺の内にも曇りなく見れども、候わず、東(ひんかし)山の三郎坊(はう)が許にも左様(さやう)の事はあらじと思ひ候へどもと申ければ

俊人、東(ひんかし)山に行きて、三郎坊(はう)にこの由を宣へば、三郎坊(はう)申けるは、これにわ、左様の(さやう)の事は更になし。

こその二月に人が十人ばかり取られたる中に、由々しき女房(ねうはう)、おわし候しか、さては、御辺の女房にておわしける、詳しき事は朽木(くちき)に御尋(たつ)ね候へとて、かき消すように失せ給(たも)ふ。

急ぎ、俊人帰(かへ)られければ五丈(ぢやう)ばかりなる朽木ありけるを、上ざまに強かに蹴(け)させ給ひて、物申さんと宣へば、

この朽木、しばし揺るぎて、首を一丈(ぢやう)ばかり持ち上げて、いかなる事ぞとよ、人に蹴られたることは未だなし。

汝は未だ知らぬは理なり、我こそ、汝(なんち)がためには、母、近江(あふみ)の国の大蛇(しや)なるが、汝が父に契(ちき)りを込め、

汝(なんち)を孕みし時、楼門を開け七日見へからずと申たりしに、汝が父、七日を待たず見給(たも)ふにより、我、その時帰(かえ)りたり。

汝が夫妻は今天にもつかず、地にもつかず、六(むつ)の国、峨峨山(かゝさん)という所に悪路王(わう)が取りて有なり、今廿日と言はんに、合ひ給(たも)うべし、鞍馬の毘沙門(ひしやもん)に参り、よくよく申て、多聞天の御力にて悪路王(わう)を討つべき也。

相構へて構へて、我は邪道(しやたう)の苦しみ暇なし。善根(せんこん)を成し、我に賜(た)び給へとて、かき消す様(やう)に失せにけり。

俊人、涙を流し、我を哀れに思ひ給(たも)ふとて、やがて、鞍馬の毘沙門(ひしやもん)へ参り、俊人、鞍馬の御計らひに、夫妻の方へ知らせ給へと祈念し給ひける。

七日と申暁、多聞天の持ち給ひたる剣を賜ひたるとて示現(しけん)を被(かうふ)りて、うち驚(おとろ)きて見給へば、新たに多聞天王(たもむてんわう)の御剣(つるき)、枕に立ちたり。

これを急ぎ賜つて都へ帰り、軍兵(くんひやう)を卒して急ぎ給(たも)ふ。

七月中頃なれば、賤の女(しつのめ)か、早稲(わさ)田の鳴子引き鳴らしてありけるを、俊人御覧してあれば、髪は空様(そらさま)へ生い成して、黒き髪もなし。己は女なるかと御問ひ有ければ、あうと申。

世の習ひの儚さわ、御下紐(したひほ)解け給ふ。俊人、神通の人なれば御子の有べきを兼ねて知らせ給ひて、これを印にて我を訪(たつ)ねよとて、上(うは)差しの鏑矢を一つ賜(た)びにけり。

これより方(かた)山はいか程有ぞと人に問ひ給へば、これよりニ三十里は鬼の住処にて候、更に人通はずと申、やうやう、急ぎ給(たも)ふ程に、峨峨山(かゝさん)へぞおわします。

見給へば、悪路王が城(しやう)の有様、黒鉄(くろかね)の築地(ついち)を付き、高さは四十二丈(ぢやう)に付きたりける。

俊人、東(ひんがし)の方(はう)を見給へば、年の程、廿四五ばかりなる女房、涙(なみた)を流して申様(やう)、我はこれ都にて、みのゝせんし(美濃の前司)と申物の娘なり。

十三の歳より、鬼に取られて候が、今年三年、馬(むま)飼いの女房と名づけられて、門の守(まほ)る也。都の人と見参らせて候へば、懐かしくこそ候へ。

これは鬼神の城(しやう)なり。凡夫(ほんふ)の来たらぬ所なり。道に迷ひ給(たも)ふか、急ぎ鬼の無き間(ま)に帰(かへ)らせ給へと仰せられければ、

さて、鬼はいづくへぞと問ひ給へば、越前(ゑちぜん)へとて昨日より罷りて候と宣へば、

俊人、如何にして門の内へ入り候ぞと宣えば、

これに地獄王(ちこくわう)と申、馬(むま)に乗りて、父鬼(ちゝおに)入りて門を内より開きて、残る鬼共(とも)をば入れ候なりと申せば、

俊人、嬉しさ限りなく思(おほ)し召して、まさしくこれぞ多聞天の御告げなりとて、喜び給ひける。

俊人はこの地獄王(ちこくわう)を取りて乗り、築地(ついち)の内へ入(い)らんとし給へば、門の内にへは入(い)らずして、鬼の居たる越前(ゑちせん)へとて行(ゆ)く。

俊人は怒りを成し給ひて、剣(つるき)を抜き、畜生(ちくしやう)なりとも、龍(りう)は馬(むま)の王(わう)なり。又、俊人もニ双(にさう)を悟れる者なり。たゞ今命止めんと宣へば、引き返して門を開かんとし給へば、更に開かず。

そのとき、俊人、都の方を伏し拝み、祈念し給へば、その時、この門、開(あ)きにけり。

人々を入れて、彼方(あなた)此方(こなた)を見給へば、女房四五人の声(こゑ)して、都の恋(こい)しやと嘆(なけ)きけり。さればこそとて、走り入りて見給へば、都の人にてぞ、おわしける。

さる程に、この女房の中にも俊人の北の方はましまさず、こゝかしこに尋(たつ)ね給へば、傍らに由々しき女房の声(こゑ)して泣く音(をと)あり。

怪しくて立ち寄りて聞き給へば、俊人の北の方なり。嬉しさに胸うち騒ぎ、簾内(みすうち)開けて入(い)り給へば、北の方、呆れたる様にて如何なる事ぞと宣へば、

俊人宣ひけるは、命を捨てゝ、これまで参りたるに、如何にとだにも承り候わぬは、悪しく参りて候やと宣へば、

やゝ久しくありて、北の方、嬉しさにも涙(なみた)先立(さきた)ち候ぞ、この世にては、相見奉らむ事とも更に思ひ寄らず、又憂き目を見せさせ給わん事こそ悲しけれと、かき暮れてこそ泣き給ふ。

俊人、これまで参る志(こゝろさし)と、たゞ泣くより他の事ぞ無き、さりながら、御心安く思(おほ)し召すべし。

さて、鬼の来るときわ、何と候やらんと尋ね給へば、

鬼の来るときは晴れたる空かき曇り、雨ふり風吹き、騒がしく、雲居に物語りの声(こゑ)有て夥(おひたゞ)しき躰にて候と、語(かたり)も果て給わぬに、はや世間の曇り、風吹き騒ぐ。

十人の女房たちは今を最期(さいこ)と悪路王(あくろわう)をぞ待ち給ひける。

必至(ひつし)の時ばかるなるに、虚空に物語(かたり)の声(こゑ)して、この悪路王(わう)、申様(やう)、この女房どもは何方(いつかた)へ行(ゆ)きけん。又地獄王(ちこくわう)は何とて鳴きやらんと申ければ、

鬼共、大の眼(まなこ)を見い出し睨みける。女房(にうはう)達は皆々伏し給(たも)ふ。

されども、俊人、多聞天王(たもんてんわう)と祈念し給(たも)ふ事なれば、俊人の眼(まなこ)の光、俄かに日月の如(こと)くになりて、鬼共を睨み給へば、鬼共、こは如何なる事やらんとて慌(あは)て騒ぐ。

俊人に睨まれて、鬼共、血の涙(なみた)を流しつゝ、何処(いつく)も暗闇となりければ、

その時、俊人、剣(けん)を抜き給ひて、鬼の中へ投げさせ給へば、空へ舞い上がりて、鬼の首を一度に打ち落としけり。

悪路王(わう)が首は天に舞い上がりて、七日回りて、魔王(まわう)の剣(けん)を持ちて俊人を討たむとて、しばし喚(おめ)きけり。

やゝありて首は地にこそ落ちにけり。俊人は鬼の首、骸を灰に焼きて持たせ給(たも)ふ。

そうして、女房は六十人ばかりなり。皆々連れて都へ上り給(たも)う。道より、田舎の女房(にうはう)は暇申て、我がふるさとへ帰りける。

さる程に、俊人、都へ帰り、北の方諸共に相具して、俊人廿五まで天下の将軍(しやうくん)にて、我十一代(たい)になる。

末(すゑ)の世、継ぐべき子のなき事こそ悲しけれ。姫君二人おわしけれども、男子(なんし)の無き事を悲しみ給へける。

かくて、俊人、悪路王(わう)を攻めておはせしとき、田村といふ所にて召されし賤の女(しつのめ)が腹に若君(わかきみ)一人おわしける。御名をば、ふせや丸(まる)とぞ申ける。母、育(はこく)み奉る。

有とき、ふせや丸、母に向かひて、如何にや、我ははや、既(すて)に七歳になるまで父といふ事おわしまさぬ事こそ、不思議(ふしき)なれと仰(おほ)せられければ、

母、うち笑い、汝(なんち)が父といふ物は無し。尋(たつ)ね給(たも)ふとても、何にし給ふべきと言えば、

何とて、隠させ給(たも)ふらん、かゝる田舎に住まひして、数ならぬ御身、たゞ一人見(のみカ)年月を送り給(たも)ふに、稀に逢う世の試せしは親が知らせて有べき、伝へ聞きても見給へ、神佛の麗門(れいもん)を引きて押し給へと、涙を流して嘆き給へば、

汝(なんち)が父と出づし人の国には、これより東(ひんがし)に谷峰三越ゑて、あひほう山の腰に、小(こ)松三本が下にありと詳しく教ゑ給ひければ、

教への如く、行(ゆ)きて見給(たも)ふに、いぬかれ(射抜かれか)といふ鳥の羽にて佩(は)きたる鏑矢(かふらや)有。これを取りて宿へ帰りぬ。

母に向かいて宣ひけるは、この羽にて佩きたる矢は国の大将(しやう)こそ持つと母に宣ひければ

その時、母申様(やう)、一歳(とせ)、谷山に悪路王(あくろわう)といふ魔王(まわう)の物を攻めにおわします大将軍(しやうくん)こそ汝(なんち)が父ぞと教へけり。

世に嬉し気(け)にて、この年月(としつき)、母の浅ましげなるところにて育(はこく)みしを、立ち出でて行(ゆ)き給へば、母の嘆き、悲しみの涙、堰きあへず。

ふせや丸、七歳と申に、二月、田村の郷(かう)を立ち出でて、三年三月と申に、都に上り、父の俊人の築地(ついち)に立ち給(たも)ふ。

俊人、御徒然の夕暮れに毬を遊ばしけるが、かゝりの外へ毬の出でけるを内へ蹴入れさせ給ひければ、如何なる物の仕業にと、御尋(たつ)ねありければ、件(くたん)の鏑矢(かふらや)を参らせられければ、

俊人、御覧じて、此方(こなた)へ召せとて、近く召されて事の子細を尋ね給へば、母の申たりし事を有りのまゝに語り給へば、

俊人、聞し召して、然(さ)ることも有りとて、へちに御所(しよ)を建て、置き申てもてなし給(たも)ふ事限(かき)りなし。

あしたこと(明日事か朝事か)に、ふせや丸、着給ひける絹の裾、濡れければ、人々怪しく思ひて、密かに見給へば、桂川(かつらかわ)の広き所へおわしまして、彼方(あなた)此方(こなた)ゑ、三度(と)づつ、越え(こゑ)給ふとて、裾を濡らし給いけり。

この由、俊人、聞し召して、誠に我が子にてあるやらんとて、九の歳より朝日の御前(せん)とて(ママ)申ける。

有時、朝(あさ)日殿の御心を見んと思し召し、父御前、弓に鏑矢(かふらや)を差し佩け、よっぴきて(よつひきて)朝日殿、朝(あした)の御飯を聞し召し、召さるゝ所を居させ給へば、

ちっとも(ちつとも)騒がずして、御箸にて彼の矢を挟みて側に置き給(たも)ふ。

俊人は、これを御覧して、いよいよ喜び給いける。

さて、朝日(あさひ)殿(との)の御年、十一になり給(たも)ふ。俊人の幼(おさな)名をば日龍(りう)と申したればとて、朝日殿をも日龍(りう)殿(との)とぞ申ける。

かゝりける所に、ある朝(あした)、俊人、剣(つるき)を抜きて日龍殿(りうとの)に向かひて宣わく、この剣(つるき)を投げんぞ、受けてみよと宣へば、

日龍(りう)殿、心の内に思われけるは、我、蛇神(しやしん)の跡を持つべき身ならば、この剣を袂に収まるべし。又持つまじき身ならば、我が命を取らむべしと祈念し給へば、左右(さう)なく左の袂に収まりける。

斯様に目出度(めてた)き人なれば、御喜び限りなし。十三の御年、元服(けんふく)させ給いて、いなせの五郎俊宗(としむね)とぞ申ける。

俊人、仰せられけるは、我既(すて)に、末(すゑ)に早なりぬ。何事をしてか、末代(まつたい)の伝ゑにすべきと御心の内に思(おほ)し召し、日本は僅(わつ)かに島の国なり。唐土(たうと)を従(したか)へばやと思し召し、

末代(まつたい)までの形見にとて、暇を伺ひ、君に参(まいり)、守(まほ)り奉る事久し、命をば唐土(たうと)に捨て、名をば我が国に留めんと思ひ、君の御許されを被(かうふ)り、唐土(たうと)を従(したか)へ候はゞ、

我、如何様にもなり候はゞ、子にて候、俊宗に仰(おほ)せつけられ候べしと申されければ、

御門の御返事にわ、思ひたち給(たも)ふ事、しんひやう(信憑か)なりと有りしかば、俊人喜び給ひて、やがて博多へ発ち給(たも)ふ。

十万四叟の船を揃へ、軍兵(くんひやう)を乗せ、既(すて)に唐土(たうと)へ渡らんとし給(たも)ふ。

俊人、思(おほ)し召す様(やう)、我、唐土(たうと)ゑ渡らぬ先に奇特を致さんとて、多聞天を念じ奉り、火界(くわかい)の印を結び、唐国(からこく)へ投げられけは(ママ)

さる程に、唐土(たうと)には火の雨、七日降りけり。上下怪しみを成して、天の博士、占い申けるは、日本の将軍(しやうくん)、唐国(からこく)を従(したか)ゑんとて渡る。

さる程に、如何すべき、日本は弓矢の謀り事賢し。容易く勝負(せうふ)を決せん事難し。されば、如何すべき。佛(ほとけ)の力ならでは叶ひ難しと申せば、

その頃、恵果(けいくわ)しやう(上か尚か)と申人おわしけり、このたん(壇か)のつき、これを行い奉る程に、

俊人は十万四叟の船をこしらえ、渡り給(たも)ふ程に、不動明王(ふとうみやうわう)、十はうの金剛(かんかう)、十万のけい童子(たうし)を卒して相向ひ給(たも)ふ。

俊人、立ち出で宣ひけるは、そもそも、如何なる僧にておわしますぞ。戦の門出(かどい)でに、法師の出で合い給(たも)ふぞ。急ぎ、その船、退(しりそ)き給へと宣へば、

不動、申されけるは、例えば、俊人、迎へ奉らんがために恵果(けいくわ)しやう、御遣ひに、これまで参りたり。退(しりそ)き給へと散々に戦ふところに、不動、剣(けん)を抜き、投げ給(たも)ふ。

俊人は鞍馬の毘沙門(ひしやもん)の持ち給ひける剣(けん)を抜きて、合わせ給(たも)ふ。散々に戦いけるが、俊人の剣(けん)は光増しけり。不動の剣(けん)は光劣りければ、

こけい(呉景か)宣ひけるは、霊魂(れいこん)から日本に渡り、鞍馬の毘沙門(ひしやもん)に参り、申参ずる様(やう)は

こけいこそ凡夫(ほんふ)の俊人に負けて、胎蔵界(たいさうかい)の佛(ほとけ)力(りき)も優れて、誰か佛力(ふつりき)を仰(あふ)ぎ候べき、俊人が怪力を失い給へと申遣わす。

金剛(かんかう)、参りて、多聞天にこの由を申給へども、更に御返事もなし。

金剛(かんかう)童子(とうし)参り、かく申給へば、さらば、こけい参らんとて、不動急ぎ鞍馬へ参り、こけいこそ参りて候へ。しかるべくは俊人、利器(りき、力か)を失いて賜(た)び給へ。こけい負けなば、胎蔵界(たいさうかい)の威徳も廃るなりと仰(おほ)せあり。

多聞天、そのとき御返事は、我が国はこれ、しんまいの領(りやう)なり。新たにして佛たち、恵(めくみ)を去る事なし。いかでか我が国のけんしん天王(てんわう)の守(まふ)りをば背き候べきと仰せられければ

我、かうふく(降伏か光復か)の姿にて守(まほ)るべし。更に唐土(たうと)の人を贔屓するにあらず。こけい、負けなば、我三つに還らん事、疑(うたか)いなし。たゞ、道理(たうり)を曲げて利器(力か)を止めて賜(た)び候へと申されれば、

まことに俊人失せなば、日本の守(まほ)るべき由、仰せられ候へば、疾く疾く俊人を討たせ給へと宣へける。不動、御喜び限りなし。

かゝりければ、ときの程に、俊人の御剣(つるき)は光も劣りぬ。やがて、三に折れて霊鷲山(りやうしゆせん)へぞ参りける。

さる程に、風、四方(はう)より吹きて、船の有様、たちまちに覆(くつかへ)す。十万四叟(さう)の船は軍兵(くんひやう)も何方(いづち)へか失せぬらん。

かゝりければ、俊人、今を限りと思ひ給ひて、不動の御船に乗り移り、こけいを取って押さえ、船端(ふなはた)に押し当てて、沓の鼻にて三度蹴給ひて、かい掴んで海へ投げ給へば、剣、飛び来たりて、俊人の御首を打ち落とす。

首をば、不動、取り給ひて、唐土(たうと)へ帰り、恵果(けいくわ)しやうの五七日行なひ給ひける壇(たん)の上に置かれける。

さて、俊人の御船ばかりは、人に印見せんためにやありけん、八重の潮路(しほち)を分け過(すき)て、博多の津にぞ着きにける。

さて、俊宗(としむね)、父の御事を聞き給ひて、急ぎ博多ゑ下りつゝ、父の形見を拾い取りて、泣く泣く都へ上り、御跡を懇ろに弔(とふら)ひ申されけり。

さて、年(とし)月を経(ふ)る程に、いなせの五郎俊宗(としむね)、十五と申に、大和(やまと)の国、奈良坂(ならさか)山と言ふところに金礫(かなつぶて)といふ物ありて、人の持ちたる物を取る。それのみならず、都へ参る御年貢(ねんく)を留めける。

御門(かと)、この由聞し召し、いなせの五郎俊宗、これを急ぎ討ちて参らせよと仰(おほ)せありければ、やがて、百余騎の勢を賜りて、奈良坂の麓へ向かわれけり。

さる程に、色良き染(そめ)物を集めて華やかに拵ゑて、わざと奈良坂山の峠(たうけ)に、これをとり出だしてぞ、置かれけり。

さる程に、金礫(かなつふて)を待ち給へども、見ゑざりける。遥かに程経て、丈の程、二丈ばかりなる法師の極めて眼の深さ、見ゑぬ程なり。

遥かの谷より出で来たりて、高き所に登りて申様(やう)、

あら珍しや、この山に住まいして五六年が程ありつれども、斯様の物を隠さずして通りつる事未だ無し。

いかなる御年貢(ねんく)、御物をも、この山を通(とを)るとては、物に包み隠してこそ、通(とを)りつるにも、我は神通(しんつう)の物にして、賢(さか)し致してこそ、取りしに、志(こゝろさし)もなくて取らせんならば、言ふに及ばず。

さなくば、御門(かと)へ参る物なりとも、先ず(まつ)、はつ(初か筈か)を参らせよ。さなくば、件(くたん)の金礫(かなつふて)を取り出だして汝が命を止めんと大音(おん)上げて申しければ、

俊宗、騒がぬ躰にて宣ふ様(やう)、忝(かたしけな)くも御門の御物なり、いかでか止むべき。その気ならば、神通の鏑矢を取らすべしと宣へば、

金礫(かなつふて)申けるは、こはいかに、稀代(きたい)の事を言ふ物かな。事々しや、さこそあらめ。

我が先祖はとて王(わう)より十一代、せんさい王(わう)より四代、相伝して持ちたる金礫(かなつふて)、三郎つぶて参らせん。

金(かね)の重さは三千両(りやう)、角は四百六十あり、響く声(こゑ)は千頭(せんつ)の牛の一度に吠ゆるが如し、これを受け取り給へ。俊宗とて差し上げければ、俊宗、ちっとも(ちつとも)騒がずして打ち落とす。

その時金礫(かなつふて)申しけるは、こはいかに、三郎二郎つぶてを参らせんとて投げければ、このつぶての響く声は雷電の岩を崩(くつ)すがごとし、これも扇(あふぎ)を持ちて打ち落とす。

こはいかなる事、世の中にも、かゝる曲者はあり。かゝる無念の事なし。その気ならば、只今命を失わんとて、太郎つぶてを参らせんと、

このつぶては何事ありとも、埋(うつ)まじきけれども、余りに吾殿(わとの)が憎ければ投ぐるなり。確かに受け取り給へとて投げければ、鐙(あふみ)の鼻にて蹴落とし給ひける。

これをみてこんざう(勤操か)法師、今は叶わじとや思ひけん、方々へ落ちゆけば、如何にあの法師、何処(いつく)へ行(ゆ)くやらん、手並みの程見せんとて、

角の槻弓(つきゆみ)に神通(しんつう)の鏑矢(かふらや)を以て引き放ち給へば、こんさう坊(はう)が左の耳に離れずして七日まで鳴り回る。

余りの悲しさに元の有りつる所へ上がり申けるは、いかなる、みやうし(苗字か)のいるやなれば、斯くはあるらん。

物にわ当たらずして、かゝる事の悲しさよとて、谷に下り、峰に登ること数(かす)を知らず。

こんさう坊(はう)を召し取り、五百余騎の馬(むま)の先に立たせけり。

やがて、この由、御門(かと)へ申ければ、やがて斬るべき由、仰(おほ)せ下されければ、首を斬りて奈良坂(ならさか)山の峠(たうけ)に掛けられけり、その後は国の騒(さは)ぎ患(わつら)ひもなし。

たゞ今の御恩に、天下の将軍(しやうくん)に宣旨下されける。

かくて、年(とし)月を経(ふ)る程に、又有時、御門(かと)より宣旨(せんし)なる様(やう)は、伊勢の国、鈴鹿(すゝか)山といふ所に立烏帽子(たてゑほし)来て、目にも見ゑずして、不思議(ふしき)の物あり。御門(かと)ゑ参る物を止め、狼藉(らうせき)を致す。これを討つべき由、仰(おほ)せ下さる。

やがて、五百四騎の軍兵(くんひやう)を賜って、伊勢の国、鈴鹿山へぞ向かはれけり。この山に着き給ひて、この許かや、かの許か、こゝかしこを探し給へども、その印(しるし)、更に無し。

武士(ふし)ども、四方(はう)を固めて守(まほ)り給へども、鈴鹿の山、通る物は鳥の如(こと)く飛び連れて空に上がりて失せにけり。

これ程、狩りけれども手にもたまらず、かくて中一年も過ぎけれども、なかりければ、各々皆嘆きけり。

俊宗は屍(かはね)をこの山に晒すとも、彼の立烏帽子(たてゑぼし)を見ずして都へ二度(たひ)帰(かゑ)る事あるべからず、かゝる宣旨(せんし)を賜りて、討ちまて(ママ)こそ無くとも、せめて姿をだに見ずして、都へ帰(かゑ)る事、あるべからず。

たゞ上りなば、人々、物笑いにならんずらん、面々は疾く都へ上り給ひける(マゝ)。

俊宗は、我が御身一人、すごすごと山に泊まり給へば、物寂しき御有様、人跡(しんせき)絶ゑて、人も無し。時々事問ふ物とては峰に来伝ふ猿の声(こゑ)、松吹く風の音(おと)ばかり。

さる程に、あるとき清き水(みつ)にて御身を雪ぎ、高き所に登り、都の方(かた)を伏し拝み給ひて

南無帰命頂礼(なむきみやうちやうらい)、八幡大菩薩(ほさつ)、この山のさんしん(三神か)、こおう(五王か)を始め奉り、哀れと御納受(なうしゆう)垂れ給へと、

深く祈誓、申給ひて、礼(らい)し給へば、この三年が間見ざりつる、こまつ原(はら)こそ出で来けり。

これは祈念の験(しるし)やらんと思ひて、嬉しさに分け入りて見給へば、池あり。

その中に、島に廿四五町(ちやう)ばかりに、五色の波立ちて、水際(みきは)に蓮(はちす)の花開き、極楽浄土(こくらくしゃうと)も斯くやらんと覚えて面白し、しんし(神事か)とうし(有時か)を現したり。

池には反り橋を渡し、橋の許に行(ゆ)き給へば、白金(しろかね)にて築地(ついち)を付き、十二の門を建てたりける門の内を差し入りて見給へば、黄金(こかね)の砂金(いさこ)を庭に敷き、四方(はう)には四季の花を現したり。

東(ひんがし)を御覧ずれば、春の景色と見ゑたり。籬(まかき)の隙(ひま)より御覧ずれば、子の日(ねのひ)の松(まつ)に鶯(うくひす)のさえずりて有りければ、都にも斯くやらんと流石(さすか)に恋(こい)しく思(おほ)し召しける。

又、南の方(かた)を御覧ずれば樹々(きゝ)の梢(木すゑ)も押しなべて、青はじまりの梢(こすゑ)にわ、山時鳥(ほとゝきす)の我待つ声(こゑ)、初音の都に訪れて羨まし。沢辺(さわへ)の蛍も飛び迷ひ、空蝉の声(こゑ)も流石(さすか)心に哀れなり。

又、西の方(かた)を御覧ずれば、秋の景色とうち見ゑて、七夕星(たなはたほし)の天の川に物思ふ。萩(はき)野の露(つゆ)散り散りに、鹿の声(こゑ)、枕(まくら)に呻(すた)く、虫の音も己々の声(こゑ)つけて、峰の松風(まつかせ)、谷の水(みつ)音、いと哀れに心細さは限りなし。

さて又、北の方(かた)を御覧ずれば、冬の景色にうち見えて、木々(きゝ)の梢(木すゑ)も白妙(しろたゑ)の、雪の朝(あした)の風情(ふせい)して、心、言葉も及ばず。哀れにのみ御覧ずる。

籬(まかき)の隙(ひま)より御覧(らん)ずれば、御所(しよ)の有様、黄金(こかね)の柱建て並べ、瑪瑙(めなう)を以て天井(てんしやう)とし、玉の床にわ錦の褥(しとね)お敷き、簾(すたれ)には瓔珞(やうらく)を掛けたりけり。

さて、内を御覧ずれば、歳の程、十七八ばかりなる女房の辺りも輝くばかり、この世の人にも見ゑざりけり。

田村殿、これを御覧じて、俊宗は如何なる罪の報いにて斯様(かやう)の美しき女房(にうはう)を敵(かたき)にわ持つ身となるらん。

たとえ何と我が身はなる共、この女房に近づき会はゞやと思(おほ)し召されけり。

さる程に、田村殿、思(おほ)し召し(ママ)様(やう)、心弱くて悪しかりなんと思し召し、鈴鹿の御前(せん)の心をも見んとや、思(おほ)し召しけん、剣を抜きて、鈴鹿の御前(せん)の御髪(くし)の上に投げ給えば、

そのとき、鈴鹿の御前(せん)、ちっとも(ちつとも)騒がず、いつの間にか有りけん、側に立てて置かれける。琴を弾き、音に聞こゆる立烏帽子(たてゑぼし)に、金輪(こんりん)状(しやう)の直垂(ひたゝれ)に御鎧、高紐(たかひほ)強く締め給ひて、

さんたい(三代か)くけん(具現か)の小手を差し、しやうらん(上覧か)美麗(ひれい)の脛当てに、ちけん(示現)とうみやう(灯明)の御刀、三(しやく)尺一寸のいかもの(如何物)造りの太刀を抜き、

帳台(ちやうたい)の外(ほか)へ投げ出だし、田村の御剣(つるき)に鈴鹿の御剣(つるき)と行き合ひて、斬り様、上(うゑ)になり下になり、戦ひける程に

何(なに)とかしたりけん、田村殿の御剣(つるき)は鈴鹿の剣(つるき)に負けて、黄金(こかね)の鼠(ねすみ)になりて御簾の外へ食い出(ゐ)だす。

黄金(こかね)の鼠(ねすみ)負けて、烏と現(けん)じ、頭(かしら)白きが七つになりて、鈴鹿の御髪(くし)の上に飛び掛かり鳴きければ、

鈴鹿は難(むつか)しやと思はれけん、紅蓮(くれん)妙(みやう)の隠れ印を結ひて、我が身にかけ給ひて、御心を静(しつ)めて宣(のたも)ふ様(脱文カ)

又、田村殿、雉(きし)と現じて入り給へば、鷹となりて追い出し(いたし)給(たも)ふ。

そのとき鈴鹿、宣ふ様(やう)、いかに田村殿、我は人に見ゑじと思ゑば、見ゑざりつれども、余りに神佛(かみほとけ)に念じて我を見給(たも)ふか、愛おしさに斯くは現じ給ひたり、よくよく見給へ。

されども情けなく剣(つるき)を抜き、投げ給(たも)ふこそ、中々あさましけれ、さりながら、昔よりして我が姿(すかた)見たる物、よもあらじ。

さても、田村殿は由々しき名を上げて、御門(かと)の御意に入(い)らんと思ひ給ふとも、この世にては努々(ゆめゆめ)あるまじ。

殿は男なれども、騒速(そはや)の剣(つるき)ばかりなり。妾(わらは)は女人なれども剣(つるき)三あり。討たれて奉らん事、いと難し。

又、殿を討ち奉らん事、いと易し。大通連(とうれん)と申剣(つるき)を出だし、御首(くひ)を討たん事、いと易し。さりながら、殿をば討ち奉る事有まじ、疾く疾く都へ上り給へと鈴鹿の御前(せん)、申給へば、

田村殿、仰(おほ)せにわ、俊宗は都へ帰(かゑ)る事あらじ。その上(うへ)、俊宗の心の内をば、いかでか知り給(たも)ふべきと宣へば、

鈴鹿、うち笑ひ給ひて、宣ふ様(やう)、殿の御心の内、よくよく知りたり。

妾が姿を御覧じて、先の世にいかなる罪を作りて、かゝる敵(かたき)を討つべきと生(むま)るらん事の悲しさよ。喩ひ、如何なる物なりとも近づかばやと思し召ししかども、

又、邪険(しやけん)の御心に翻(ひるかへ)し、妾(わらは)を討ち取りて御門(かと)へと参らせ、名を後代(こうたい)に上げばやと思(おほ)し召して、剣(つるき)を抜きて妾(わらは)に投げかけ給(たも)ふらん。

三千大千世界(三せん大せんせかい)を見るに、御身は逢い給(たも)ふべき契なしと細々と宣へば、

田村殿、喜び給ひて、剣(つるき)を互ひに止めつゝ御一緒におわしまして、田村殿は琵琶(ひは)を弾き、鈴鹿の御前は琴を遊ばし給(たも)ふ。それより一つに語らひ、細やかにありけり。

さる程に、俊宗は明かし暮らし給(たも)ふ程に、鈴鹿の御前はたゞならず、成り給ふ。

月日に関守据へざれば、明くる春にもなりぬれば、玉の如(こと)くなる姫君一人出でき給(たも)ふ。御名をば、しやうりう(小龍か)殿とぞ申ける。

さる程に、姫君の御年、三歳になり給(たも)ふ御年の八月の中の七日に、田村殿、縁(ゑん)に立ち出で、都の方、恋しく思し召して、風の便りもがなと思(おほ)し召す折節に、

雁がね、訪(おとつ)れて通るを、霞の内に立ち籠めて、露わに斯くは鈴鹿も見給(たも)ふべしと思し召して、文(ふみ)を懐に遊ばす様(やう)、

鈴鹿の立烏帽子(たてゑほし)を討ちて参らせよとの宣旨を被(かうふ)り、三年鈴鹿山に籠りしかども、物の姿をだにも見ざりしに、やうやう近づきて、あまつさへ、子をもうけて(まふけて)こそ候へ

討つべしとは思ひ候わねども、宣旨をいかで背き参らせ候べき。

来(らい)八月十五夜に謀りて参るべし。そのとき勢を揃へて討ち取り給えへば

と遊ばして、雁がねに言付け給へば、

鳥も心あり(ママ)物とて、内裏(大り)の総門に落としたりければ、大臣、見つけ給ひて御門(かと)へ参らせ給ふ。御喜び限りなし。

田村(たむら)、未だこの世にありけるこそ目出度(めてた)けれ。武士(物のふ)に近づくだにもあるに、あまつさゑ、子を設(まふ)けたる事の不思議(ふしき)さよ。さらば、軍兵(くむひやう)を用意(よおひ)して待てとて、一万余騎の兵(つわ物)どもを揃ゑ、待ち給(たも)ふ程に、

やうやう、その日も近づきければ、田村殿、鈴鹿の御前(せん)に向かひて宣ふ様(やう)、これは面白き事は、さる事にて候へども、かゝる山深きところに、さのみはいかで住み給ふべき。

我、この山に入りて既に六年になり候、今はいかでか敵(かたき)と思(おほ)し召すべき。都へ上り給ひて、立つとき、所おも拝み給ふべしと宣へば

鈴鹿の御前(せん)、御返事はなくて、たゞ涙をのみ咽(むせ)び給ひて、宣(のたも)ふ様は、逢うは別れの始めなり。何おか宣ふらん。自ら(身つから)をこれにて命を失はんとも惜しむべきにあらず。

その上、忝(かたしけな)くも、親は一世の契(ちき)り、夫妻は二世の契(ちき)りとこそ聞け、御身を自ら(身つから)、この四五年が間の契(ちき)り浅からず。比翼の鳥とも、れんち(ママ:連理か)の枝(ゑた)とも契(ちき)りを籠むるなり。

情けなしとよ、俊宗は天下の大将軍(しやうくん)と生(む)まるゝ自ら(身つから)はこれ、上界(しやうかい)の天女なり、訓辞(くんし)に示現(しけん)なし、綸言(りんけん)、汗の如し、出でて帰らず

情けなしとよ。御身は過(すき)し八月、縁(ゑん)に立ち給ひて都恋しと思(おほ)し召して、風の便りもあらまほしく思(おほ)し召し候ところに、

雁がねの雲の上に渡るを見て、露わに書かば、妾が見んとて、御懐の内にて文を遊ばして、雁がねに御言伝(ことつて)候しを、自ら(身つから)が見てこそ候へ。

その文は内裏(大り)に参り着きて候、御心安く思し召すべし、大臣見つけ御門(かと)の御目にかけ給へば、御門(かと)、御喜び限りなし。

田村はこの世に無きと思ひければ、武士(もののふ)に近づきて、子をさゑ設(まふ)けたる事の不思議(ふしき)さよ、とて御沙汰にて候なり。

我を討たんとひしめく景色、これにわ候へども、詳しく見候、さりながら、殿にいかでか空(そら)言をさせ申べき、しやうりう(小龍か)一人候なれば、良くておはしまさん事こそ聞かまほしく候へ。

これにて、自ら(身つから)が命を失わんと思(おほ)し召し候とも、ちとも厭ひ申まし、自ら(身つから)は神通(しんつう)の物にて、討たれう、討たれしは我がまゝにて候。

田村殿、名を後代に挙げたくば、自ら(身つから)は、如何様にもなれかし。内裏(大り)へ参らんと仰(おほ)せありければ、田村殿、流石(さすか)に恥づかしく思(おほ)し召しける。

はや八月十五夜にもなりぬれば、御二所(ふたところ)、神通(しんつう)の車に乗り給ひて都へ飛びて行(ゆ)き給(たも)ふ。

内裏(大り)西の門に飛び着き給(たも)ふ、御覧ずれば、数万騎(すまんき)の兵(つわ物)とも、暇なく待ちかけたり、夥しくぞ、見ゑにけり。

さて、鈴鹿はなんてん(南天か)たい(台か)の床にぞおわします。田村殿は天井(てんしやう)に畏まり給(たも)ふ。そのとき御門(かと)、御覧して、この女房に俊宗が思ひつきたるも道理(たうり)なりと見給ふ。

さて、鈴鹿の女房(ねうはう)申されけるは、我何事を過ごしたる咎(とか)によりて御敵(かたき)と思(おほ)し召し候や、御門は十全の王(わう)にましませども、人界(にんかい)の卑しき御身なり。

妾(わらわ)わ、甲斐なき様(やう)に候へども、流石(さすか)に上界の天人(てんにん)なり。位も君には勝り奉りて候なり。

我を討たせ給(たも)ふべきにて候はば、早々討たせ給へ。鈴鹿まで人を賜らん事は、よき御大事(たいし)にて候と、かき口説き、涙を流し宣へば、

御門(かと)、あまりの御事に、ともかくも御返事はなくて、つくづくと守(まほ)りた(ママ)給ひてける。

鈴鹿の御前(せん)、田村殿に宣(のたも)ふ様(やう)、男女(おとこおんな)の仲は今に始(はし)めぬ事なれども、しやうりう(小龍か)一人候へば、常に尋ね給ひて、御訪(おとつ)れ給ふべし。

さりながら、今廿一日と申さんとき、あふみ(近江)の国、蒲生(かまふ)山といふ所にあくし(悪事か)の高丸(たかまる)といふ魔王(まわう)の物、討ちて参らせよと宣旨を被(かふぶ)り給(たも)ふべしとて、うち口説き給へば、互ひに涙汲(くみ)ておわしけり。

さらば、暇申てとて、左(ひたり)の御手を上げ給ひて天を招き給ふと見給へば、白き蝶(てう)となりて内裏(大り)の内を飛び出で、愛宕山を指して行(ゆ)く。

田村殿は、我が許の御所へ帰り給(たも)ふ。宣旨なれば、斯く儚き事の悲しさよとて深く沈み給ひける。

さて日数(かす)ゆけば、さる程に、中廿ニ日と申に、少しも違(たか)わず、近江(あふみ)の国の蒲生(かまう)山の腹に、あくし(悪事か)の高(たか)丸といふ魔王(まわう)、日本の従へてと申なり。

これを討ちて参らせよと申、宣旨を被(かうふ)り給ひて、やがて十万余騎の軍兵(くんひやう)を賜りて、近江(あふみ)の国へぞ向われける。

さて、押し寄せて御覧ずれば、高丸が城(しやう)の躰、神佛(かみほとけ)なりとも左右(さう)なく、破る(やふる)べしとも覚(おほ)えず、築地(ついち)を四十町に付きたり。如何にしてか入(い)るべき様(やう)もなかりけり。

そのとき田村殿はしやくわん(赭顔か)の印を結びて投げ給へば、火の雨となりて七日が間(あひた)焼きまわる。鬼はあまりに堪えかねて、木を以て人形(かた)に作りて、夜は戦はせ、昼は己が戦ひける。

終(つゐ)にあくし(悪事か)の高丸は戦ひまけて、駿河の国、冨士(ふし)の岳へ退きて行(ゆ)く。

それへも攻めてゆく程に、武蔵の国、秩父(ちゝふ)の岳に籠りけり。

それへも続きて攻め給へば、相模(さかみ)の国、足柄(あしから)山、白(しら)河(かわ)の関(せき)、那須(なす)の岳までも、攻められて、今は叶はじとや思ひけん、又、海の面、七日退きて嶋(しま)あり、それへ閉ぢ籠りけり。

そのとき、田村殿、御勢(せい)も皆討たれぬ。僅(わつ)かに三百余騎にぞなり給ふ。

そのとき田村殿、仰(おほ)せありけるは、如何すべき。いざや都へ上りて勢(せい)を集めて船を用意(よおい)して、又攻めんとて、都を指して上り給ふ。

伊勢の国、鈴鹿の山の麓に着き給ふ。田村殿、これより鈴鹿山近き所なり。定めて俊宗、恨めしく思ひ給ふらん。放心(はうしん)し給へ、面々とありしかば、

神通(しんつう)の鈴鹿の女房(にうはう)なれば、聞かぬ様(やう)にて斯く仰(おほ)せあるを曇りなく聞きて、鈴鹿の女房、思はれけるは、恨めしく思われける。

田村殿を敵(かたき)と思はば、我都へ上り、御門(かと)の見参(けんさん)に入べきか、しやうりう(小龍か)を捨てさせ給ふ事こそ、聞かまほしけれ。

又、しやうしんしやう(正真正か)の習ひ、我、如何にもなりなば、田村殿おわしませばしやうりう(小龍か)姫を、さりとも見捨て給わじと、頼もしく思ひ奉り、我を斯く隔て給ふ事、恨めしけれども、

さりながらのあくし(悪事か)の高丸、化性(けしやう)の物なり。凡夫(ほんふ)の身として、攻め給わん事候はゞ、田村殿は必ず討たれ給ふべし。

殿こそ、斯く御心、変わり給ふとも、自ら(身つから)行(ゆ)き、かの高丸を討ちてしやうりう(小龍か)諸共に育てばやと思われける。

この嶋へ下らば、十五日の暇なり、討ちて参らせんとて、大とうれん(通連)、せうとうれん(小通連)、さうみょうれん(小明連か)とて三つの剣(つるき)を取り持ちて、

神通(しんつう)の車に乗りて、鈴鹿の舘(たち)飛びて麓なる、まるの宿(しゆく)にぞ着き給ふ。

三百余騎の兵(つわもの)ども、用心(ようしん)しける中を、押し分け押し分け通り給ひて、人の目に見ゑ給わねば、咎むる者こそなかりける。田村殿、い給ひたる所へおわしましける。

田村殿は傍(そは)なる御剣(つるき)を抜きかけて、枕(まくら)許にぞ置き給(たも)ふ。

何とて、妾(わらは)程の敵(かたき)を持ち給ふ人の打ち解けておわしまし候やと有りしかば、田村殿、置き直り給ひ、御傍(そは)に置かれたる御剣(つるき)を取り給へば、

如何に殿は斯くあさましき事をばし給ふ。あくし(悪事か)の高(たか)丸を攻めかねさせ給ふを見参らせ候へば、もろ共に討ちて参らせんとて参りたり。恨めしくも斯様にし給ふ物かなと宣へば、

田村殿、聞し召して、いつぞや、都へ謀(たはか)り、上(のほ)せ参らせし御事、かれこれ、俊宗が事をこそ無念と思し召し候やらんと御恥づかしくて候と、御涙くみておわしませば、鈴鹿の女房も古(いにしへ)の恨みに御袖絞り給ひける。

さる程に、夜(よ)もほのぼのと明けゆけば、鈴鹿、申されけるは、皆々都へ上(のほ)せ給へ。殿と妾(わらは)と二人だに候はゞ、高丸討たん事、いと易しとて、

兵(つわもの)どもをば、都へ返し、我は二人、神通(しんつう)の車に乗りて、けさう(仮相か)の時ばかりに飛び、をゝ(ママ)未(ひつし)の時に外の浜にぞ着き給ふ。

さる程に、あくし(悪事か)の高(たか)丸、良きしやう(仕様か)にあるとて、打ち解けて昼寝して有りしが、何(なに)となく空を見れば、高丸申様(やう)、あはや、東(ひんかし)の雲の西へ険しく行(ゆ)くは田村が鈴鹿を語らひて、我を攻めに来ると覚えたり。

何とも、攻め易からじ。但し、鈴鹿の御前こそ射伏(いふ)せけれ、鬼共、よくよく防げと言ひければ、田村殿の乗り給ふ車を、中天(ちうてん)に上がる所を八十人の鬼共が一度(と)に、磯を吹き出だして、車を天にぞ吹き上げたる。

その時、田村殿の剣(つるき)と鈴鹿の御剣(つるき)と四の剣(つるき)を天地に投げ給へば、八十人の鬼の首をたちまちに打ち落とす。

さる程に高丸、親子ともに七人にぞなりにける。それより日本と唐土(たうと)の境なる、しゆかはらの東(ひんがし)なる秩父(ちゝふ)の岩屋に引き籠もり、せきしろと言ふ谷のやり戸を引き立てゝ

たとえたしやうくわうこう(他生か多少か、煌煌か皓皓か)は降るとも、田村殿にわ討たれじとぞ申ける。

さる程に田村殿、天地に有りつる程こそ、攻めつれ、今は海の底へ入(い)りぬれば、力及ばずいらせ給へ、帰(かゑ)らんと宣へば、

鈴鹿の仰せにわ、大将軍(しやうくん)の仰(おほ)せとも覚えず(ぬ)事かな。妾(わらは)、討つまじと申とも、進め給わんするか、たゞ、帰(かへ)らんと承るこそ甲斐(かひ)なけれ。

我、飛行(ひきやう)自在(しさい)の徳を得(ゑ)たり、賺(すか)し致して討ちてみせ申さんとて、

紅の扇(あふき)を上げて招き給へば、空より十二の星を招(しやう)じ下(くた)し、雲の上(うへ)に舞台(ふたい)を組み、しやかうほくうの東(ひんがし)にわ、秩父(ちゝふ)の岩屋にて三時ばかりぞ遊び給ふ。

その時、あくし(悪事か)の高丸が乙娘、きはた御せんと申か、父に向かひて申様(やう)、我、天竺に在りしとき、天人(てんにん)の舞を見たりしか、これ程面白き事なし、あれをちと見ばやと言ひければ、

高(たか)丸、申けるは、あれは誠の舞にて非ず、我等を討たん謀(はかり事)ぞ、努々(ゆめゆめ)叶ふまじと申ければ、

重ねて申様(やう)、露わにて見ばこそ、悪しからめ、谷のやり戸を細目に開けて見ばやと申しければ、さらばとて五分(ふん)ばかりぞ開けて見ける。あまりの面白さに一寸ばかり開けて見ける。

さる程に、鈴鹿宣ふ様(やう)、あれ見給へ、田村殿、高丸が左の眼(まなこ)差し出だしたり、我討ちてみせ申さんとて、

放した給ふと見ゑしかば、高丸(たかまる)が首(くひ)の骨、少しもたまらず射落とす。

すなわち剣を投げ給へば、七人が首、刺し貫(つなぬ:ママ)き天を指して舞い上がる。

そのとき田村殿、御喜びありて、高丸(たかまる)が首(くひ)計り取りて都へ上らんと申給ふとき、鈴鹿申す様(やう)

如何すべき、高(たか)丸を討ちて、はや心安く、添ひ奉らんと思ひつれども、又、離れて奉らん事こそ、返す返す悲しけれ。

今までは、斯くとも申さず。その故(ゆゑ)は、六(むつ)の国にきり山が岳(たけ)と申す処に大嶽(たけ)と言ふ鬼の候が、この三年が間(あひた)、我に心を掛け候へども、更に聞き入れ候わず候。

日本(ほん)にては、人々近づく事あるまじきと思ひ候へども、この大嶽(たけ)、我を取りに来(きた)るなり。

その故(ゆゑ)は稲妻(いなつま)の様(やう)に見へ、大嶽(たけ)、明日は定めて取りに来たるべし、殿は疾く疾く都へ御上り候へ。我は大嶽(たけ)取られでは、叶ふまじ、疾く疾く都へ御上り候へと有りしかば、

田村殿、誠にその気あるならば、一所にてとにもかくにもなり候はんと宣へば、

鈴鹿、宣ふ様(やう)、我、大嶽(たけ)に取られんと申も、殿を思ふ故(ゆゑ)なり、今三年と申さんにわ、この大嶽(たけ)を討ちて参らせよ宣旨(せんぢ)を被(かうふ)り給ふべし。

この鬼と申は、高(たか)丸が千人集めたりとも、この鬼には、しかし百年二百年(ねん)攻め給ふとも、千万の剣(つるき)を持ちて攻め給ふとも、叶ふまじければ、取られて行(ゆ)かんと思ふは、別(へち)の子細にあらず。

大嶽(たけ)が心を三年が内に誑(たふら)かし、魂を抜きて、殿に易々と討たせ申さんと宣ひければ、

そのとき田村(むら)殿は、たゞかき暮れて、泣き給(たも)ふ。

さて有べきにあらねば、田村(むら)殿は都へ上り給ひける。高(たか)丸が首(くひ)を都へ持ち、御門(かと)へ見参(けんさん)に入れ給(たも)ふ。

急ぎ、詮議(せんき)あるべしとて、やがて宣旨(せんし)をあり、いよいよ田村(たむら)殿、良き将軍(しやうくん)とて、仰(あふ)がぬ人はなかりけり。

さて、六の国、きり山が岳に鬼あり。我が朝(てう)を魔王(まわう)の住処となさんとす。急ぎ、これを討ちて参らせよと宣旨なり。

田村(たむら)殿は、かねて拵え給へば、子細なしとて了承(りやうしやう)申。騒速(そはや)の剣(つるき)を佩き、龍馬(りうむま)にきんふくりん(金覆輪か金輻輪か)の鞍を置き、うちて出で給(たも)ふ。

御供と仰(おほ)せを被(かうふ)りたれば、霞(かすみ)のけんたい(賢台か)と宣ふ御大将(しやう)と行(ゆ)く。

そのとき、龍(りう)を空にひき向け給へば、空に上がりて、程なく六の国、きり山が岳(たけ)、雲の釣殿(つりとの)に着き給(たも)ふ。

鈴鹿女房(ねうはう)、折節、昼寝しておわしけるか、魂は中央(ちうわう)にありて遊びけるか、田村殿を御覧じて急ぎ天下り給ひて、田村殿(たむらとの)を招じ(しやうし)申されけり。

さて、門に差し入りて、扉(とひら)を御覧ずれば、鈴鹿の御前の御手にて

 恋みても 人のこゝろは けふはまた うき世にのこる かたみなりけり

斯様(やう)の事を御覧するに、いとゞ昔恋しく覚(おほ)え給ふ。

あなたこなたを御覧し給えへば、黒鉄(くろかね)の築地(ついち)を付き回しけり。

その景色を見給へば、鈴鹿の御前、はや、涙汲て、などやこのニ三年の間(あひた)、鈴鹿の姫君(ひめきみ)の方へは、御訪(おとつ)れも、し給わざらん。これへの又風(かせ)の便りをも下回ざるやとて、御涙、堰きあへず、恨み給へば、

田村殿は斯様(かやう)の所ゑは容易く人の来たるべきかとて、鈴鹿へは、さらに心に暇なくて申さず候、我も御恋しさは限(かき)りなし。それをば思(おほ)し召し御やり候へ。

又、斯様(かやう)のふしきなる所へ参り、今一度(と)会い奉らん為なりとて、さめざめと泣き給(たも)ふ。御物かたりども、やゝありて、さて大嶽(たけ)は如何にと問ひ給へば、

一の魂ははや抜きて候、御心安く討たせ奉らん。大嶽(たけ)は城(しやう)の上(うへ)に候なり、三月の中の午(むま)の日、天下(くた)り候なり。

そのとき珍(めつら)しき、会式(ゑしき)せんとて、午(むま)のとき、いて候はゞ(マゝ)、

大唐(たいたう)の姫君(ひめきみ)、けいたん(契丹か)国(こく)の姫君(ひめきみ)、その中に、見目良からんを取らんとて出でし、明日の未(ひつし)の時はこれへ来るべしと宣へば、

田村(むら)殿(との)、仰(おほ)せにわ、後の世の物語(かたり)に、あはれ(天晴か)大嶽(たけ)が住む所を見たく候と宣へば、

易き事なりとて、大嶽(たけ)が住むところを見せ申されければ、綾錦、隠れ蓑、隠れ笠、はこんしやうの鎧(よろひ)、打出の小槌などの様なる物どもを拵ゑて置きたり。

又、有ところを見れば、この年(とし)月取りたる人の死骨(しこつ)どもを積み置きたり。あさましき事、限りなし。

さて、鬼の帰(かゑ)る時にもなりぬれば、四方(はう)に剣(つるき)を立て並べ、神通(しんつう)の槻弓(つきゆみ)を張り、大嶽(たけ)を待ち給ふ所に、雲なき空、かき曇り、雷(いかつち)しげくなり、雨風(あめかせ)もの騒がしくしければ、

田村(むら)殿は高き櫓(やくら)の上(うゑ)に見給へば、大唐(たう)の姫君(ひめきみ)かと思しくて、鬼六人が、先に立てゝ、己は光を差し、けんしゃうきうの剣(つるき)を持ちて来たりけるが、申様(やう)

不思議(ふしき)や、人間(けん)の声(こゑ)のするはとて見ければ、さればこそと思ひて、伴の鬼とも申様(やう)、我等が敵(かたき)、葦毛(あしけ)なる馬(むま)のあるは、如何様、田村殿といふ曲者が来たりたると覚えたりとて

門の辺り、近く寄りて聞けば、内に田村(たむら)殿声(こゑ)しける。又聞けば、花瞼(くわけん)の声(こゑ)しける。

大嶽(たけ)これを聞き、腹をたて、申様(やう)、我が許へ来たり、斯様(かやう)の事あるべきこそ覚(おほ)えね。凡夫(ほんぶ)がおのれおのれと大嶽(たけ)が喚(おめ)く声(こゑ)、門も破(やふ)れ、築地(ついち)も崩(くつ)れ、内ゑ大嶽(たけ)入(い)りぬ。

姿を見れば、丈は四十丈(ちやう)ばかりもあるらんと覚(おほ)ゑたり、眼(まなこ)の数(かす)は七十ニ、面の数は六十なり。天地を動かして五色(しき)の息を吹き出だしける。

大嶽(たけ)、余りに腹をたて、田村(むら)、取って組み伏せよ、我がものどもと下知(けち)しければ、

田村(たむら)、静々(しつしつ)と宣ひけるは、音にも聞くらん今は目にもみよ。鬼共、無残なり。日本我が朝(てう)はみもすそ川の御流れ、十全(せん)の君の御遣ひなり。

いかで、狼藉(らうせき)をば申ぞ、己が命を助けむとも、助けじとも我がまゝなりと宣へば、

大嶽(たけ)、これを嘲笑(あさわら)ひ申けるは、日本に王(わう)のあるとかや、僅(わつ)かに嶋(しま)の辺(ほとり)に、何が王(わう)と定(さた)むらん。

天竺(てんちく)にわ、童(わらは)が主(しゆ)のさ大天に、二体の王子(おうち)、せんさい王(わう)、又、父鬼の王(わう)、五十王(わう)とておわします。

天竺(てんちく)にもん王(わう)の位に勝る事なし、唐土(たうと)は七御門(かと、ちく(ママ)さん国(粟散国か)なるゆわやわつか(僅かか)の秋津国を領(りやうする物をば王(わう)とは誰か言はん。

事々しや、命を助けおけばこそ、かゝる事をば言へ。いざや、微塵(みちん)になさんとして、大嶽(たけ)を先として、六人の鬼ども、喚(おめ)き掛かるとき、

田村殿、剣(つるき)に過ちすなと御言葉(ことは)ありければ、四方(はう)よる四の剣(つるき)、切っ先を揃へて来たりける。

これを鬼ども見て、こは如何にせん。命ありてこそ大嶽(たけ)殿にも仕へけめとて逃げぬれば、

大とうれん、左に続き、小とうれん、天地に入て攻むる。はや、御剣(つるき)、空より下りて攻めければ、終(つゐ)に鬼ども失せにけり。

大嶽(たけ)、たゞ一人になりて、こゝかしこ、逃げければ、剣(つるき)、追うてかゝる。あまりに攻められて、天地を破(やふ)つて入(い)らんとすれば、又地神(ちぢん)、下より攻められければ、せん方なくて、六十二の面、三百八十の口の鬼ども、ただ一度に落ち失せにけり。

大嶽(たけ)が首(くひ)をば天竺へ上りて、くた(ママ)の王(わう)に申下して、田村(むら)を討つべしと申ければ、

鈴鹿、これを聞し召して、あの首(くひ)、たゞ今落ちかゝり候わんとするぞ、過ちし給(たも)うなとて、鎧、三両(りやう)、兜(かふと)十枚重ねて着せ奉る。

案のごとく、首、空より喚(おめ)きかゝる。ひしひしと噛みつきける。

そのとき鈴鹿、けんみやうれんの剣(つるき)を持ちて、とどめを刺し給ふ。それよりして、兜にクワガタ(くわかた)と言ふもの始まりける。

さる程に、田村殿、鬼ども皆焼き失いて、大嶽(たけ)ばかりが首を持ち給ひて都へ上り給(たも)ふ。鈴鹿諸共に上(のほ)らん事を喜び給ふところに、鈴鹿、仰(おほ)せありけるは、

自ら、しやうりう(小龍か)諸共に育てゝ、世にあらんと思へばしやうしむしやう(常時無常か)の習ひにて、我死なん事、月日を定めたけり。

鈴鹿の山を持つ者は、下の果報(くわほう)の物は十二年を過ごし、中の果報(くわほう)の物は十六年を過ごし、上の果報(くわほう)の物は廿五を限りにて候。

されば我は上の果報(くわほう)の物にて、今年、自ら(身つから)は廿五になり候。されば、いかに御心苦しく思し召し候はん事、いたわしく候。

この八月十五日に、無常(むしやう)の風に誘われて、たゞ独りこそ行(ゆ)かんとて、御袖を絞(しほ)り給(たも)ふ。

生(しやう)を受けて、死する事、定(さた)まれる事なれど、御愛の道、夫妻の契(ちき)り、今に始めぬ事なり。夫妻は二世の契(ちき)りと申せば、必ず一蓮(はちす)の縁(ゑん)とならんと、御袖を絞(しほ)り給ひつゝ、

構えて、自らこそ、斯様(かやう)になるとも鈴鹿ゑおわしまして、姫君(ひめきみ)を御覧ぜよ。世に思ふ事は、姫君(ひめきみ)の事ばかりなりとて、御袖に余る涙、よそ(余所か)の袖(そて)まで朽ち果つべし。

田村殿はたゞ諸共に鈴鹿へ行きて、ともかくもなり給わんを、見奉らんと宣へば、

何しに、さのみ嘆き給ふらん。大嶽(たけ)が首を御門(みかと)ゑ見参に入れずして、鈴鹿へおわしまさん事、努々(ゆめゆめ)あるまじ。若姫君(きみ)の、せめて十五と申さんまで永らえたくこそ候へとて泣き給ふ。

斯くあるべきにあらざれば、都へ御上(のほ)りありて、鈴鹿へ急ぎおわしませとて、鈴鹿の御前は我がふるさとへとて、神通(しんつう)の車に乗り給ふ。

田村殿は大嶽が首(くひ)を取りて都へ上り給ひける。

さて、御門(かと)、首を実見(じつけん)あり、様々の恩賞(おんしやう)を行われけり。大嶽(たけ)が首(くひ)をば末代のためにとて、宝蔵(ほうさう)に込められけり。

田村殿、急いで鈴鹿へ下り給ひぬ。門を差し入(い)り給ふより、人の泣く声(こゑ)すれば、胸うち騒ぎて、急ぎ入(い)りて見給へば、七日と申ける。姫君(ひめきみ)の枕許に立ち寄り、悲しみ給ふ。

田村殿、おわしまして、働かさでおけと仰(おほ)せ候つると申、田村殿、いよいよ夢の心地して、嘆き給ふ事限りなし。

さて、田村殿、御手を取りて、胸に押し当て、今一度(と)物仰(おほ)せ候へ、何とて、御約束を御違(ちか)へ候ぞと嘆き給へば、

やゝありて、さも苦し気なるいそ(ママ)を付き、今一度(と)見ゑ奉らんとてこそ、斯様(かやう)にて候なれ、大とうれん、小とうれんをば、殿に奉る。けんみやうれんをば、姫君(ひめきみ)に賜(た)び候へ。

我、飛行(ひきやう)自在(しさい)の如くと申は、このけんみやうれんを朝日に当てゝ、見候へば、三千大千世界(せんせかい)を眼(まなこ)の前(まへ)に見るなり。

鈴鹿のしやうりう(小龍か)、保つべきにて候、返す返す世の末(すゑ)にも、愛おしくあらせ給へ。姫君(ひめきみ)、我に劣らぬ神通(しんつう)の物なり。

さらば暇申して、失せ給(たも)ふ、姿も変わり果て給ひぬ。田村殿御嘆(なけ)き、せん方なくおわします。

さる程(ほと)に、七日と申に、田村(たむら)殿、この思ひにやありけん、終(つゐ)に儚くなり給えば、姫君(ひめきみ)も一かたならむ思ひにや、これも左右(さう)なく見ゑ給(たも)ふ。

大将(しやう)に付けて候ける倶生神(くしやうしん)を始(はし)めとして、如何なる事かと怪しめれば、門を引きてみ給へば、伊勢の国、鈴鹿山といふ所に、女人成業(ちやうごう)、限(かき)りありて、廿五と申に、命、終わり候なり。

これ、上界(しやうかい)の天人(てんにん)なり。仮に縁(ゑん)深くして、娑婆に出でたりしを召さるれば、男女(おとこおんな)の習ひにて、かりそめに縁(ゑん)を結びたるか、思ひに死に候、その焔(ほむら)、火となりてたいしやくたう(帝釈堂か)も焼け候と申けり。

さる程(ほと)に、田村殿、非業(ひこう)の物なり。疾くして娑婆へ返(かへ)せと、閻魔王(ゑんまわう)、獄卒(こくそつ)に仰(おほ)せありて、急ぎ返(かへ)されければ、

田村殿、申されけるは、我一人、娑婆へ帰(かへ)りても何かせん、同じくは、鈴鹿諸共に返(かゑ)し給へとて御手を合はせて悲しみ給へば、

この女房(にうはう)は成業(ぢやうごう)の物なり、御辺ばかり疾く疾く帰れと閻魔王(ゑんまわう)宣へば、

田村殿、そのとき腹をたて、獄卒(こくそつ)の中を押し分けて行(ゆ)き給ひて、この田村殿と申も、たゞ人にてもなし、大とうれんと申も、文珠(もんしゆ)の智剣(ちけん)なり、かの剣(つるき)の怪力に、獄卒(こくそつ)、いと(マゝ)かすべきと大しゃくたう(帝釈堂か)は燃ゑければ、

閻魔王(ゑんまわう)、倶生神(くしやうしん)、大(おほ)きに騒(さは)ぎて、たいしやくたう(帝釈堂か)滅びなば、冥途の界(甲斐か)、何あるべき、さらば、三年が暇を賜(た)びて、田村も女房(ねうほう)も娑婆へ返(かゑ)すと閻魔王(ゑんまわう)仰(おほ)せありければ、

倶生神(くしやうしん)申様(やう)、この天女(てんによ)はこれへ参りても既(すて)に遥かになり、今は身体もよもあらじ。田村こそ非業(ひこう)の死になれば、返さるへ□と申せば、

ただ急ぎ返(かゑ)すべき、女人もたゞ物にてもなし。上界(しやうかい)の天人なり。

されば、一歳の同じ年生(む)まれたる近江(あふみ)の国の、とうかいと言ふところにあるに、急ぎ急ぎ鈴鹿を入れ替えよと宣ひければ、

田村(たむら)殿、元の如くの姿にてもなし、あさまし気にて候と有りしかば、閻魔王(ゑんまわう)、不死の薬を賜りて、ほんのな(本の名か)を美しくありけり、冥途(めいと)の三年と申は、娑婆の六年に当たるなり。

田村殿も、娑婆へ帰り、鈴鹿の女房(にうはう)諸共に、鈴鹿の御所(しよ)に立ち返り、都へ上り給ひて、

その内に姫君(ひめきみ)は数多になり給ひて、永く将軍(しやうくん)と仰(あふ)がれ給ひぬ。

鈴鹿の姫君(ひめきみ)も、永く鈴鹿の主とぞ言はれ給ひける。

衆生済度(しゆしやうさいと)の御方便(はうべん)なりければ、鈴鹿を信ぜん人は必ず、成就し給ふべし。

もし鈴鹿、御いり候わずは、日本は鬼の世界となるべし。この事、よくよく御聞き候て、鈴鹿へ御参り有べく候。あなかしこかしこ。

 如本書之なり。

◆余談
 ひらがな成分多めの原文だったので漢字を当てるのに苦労した。フリガナが多いのは元のイメージに近づけようとしたつもり。

◆参考文献
・「室町時代物語大成 第七」(横山重, 松本隆信/編, 角川書店, 1979)※「鈴鹿の草子」pp.461-497
・福田晃「奥浄瑠璃『田村三代記』の古層」「口承文芸研究」第二十七号(日本口承文藝学會, 2004)pp.1-33

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◆はじめに

 角川書店「室町時代物語大成」に収録されていた「田村の草子」を精読した。坂上田村麻呂の一族三代に関する英雄譚である。

◆田村の草子・あらすじ

 俊祐(としすけ)の将軍には心に叶う妻がおらず子供がいなかった。五十歳を過ぎて都に移り住んだ俊祐だが、秋のあるとき、素性の知れぬ美しい女性と出会う。女性が魔性の者でも構わないと思った俊祐は女性と和歌を詠み交わす。契りを結んだ俊祐だが、やがて女性が懐妊した。女性はお産には三年かかると言った。三十六町にも及ぶ壮麗な産屋を建てさせた俊祐だが、女性は八日目になるまで覗いてはならないと言う。七日目に待ちかねた俊祐がこっそり覗くと、そこには大蛇が赤子と共にいた。女性はますたか池の大蛇だった。女性は八日を過ぎたならばこの赤子を日本の主にもしたものをと言う。しかし天下の大将軍としようと予言する。赤子には日龍丸と名づけられた。

 日龍丸が三歳のときに俊祐が亡くなった。七歳となってとき、宣旨が下り、近江の国のみなれ川の大蛇を退治せよと仰せだった。日龍丸は幼くして大役を任されたことを嘆く。五百騎の兵を従えて近江の国に向かう日龍丸だったが、大蛇は目に見えず、やがて日龍丸は十三歳となった。川の水を干して大蛇の姿を見せ給えと神仏に祈った日龍丸だったが、祈りが通じて大蛇が現れた。大蛇は日龍丸の伯父だと名乗った。たちまちの内に大蛇を滅ぼした日龍丸だった。宣旨が下り、日龍丸は将軍の宣旨を受け、俊仁(としひと)と名乗る。

 十七歳になった俊仁は妻が欲しいと思った。堀川の中納言に照日の御前という天下一の美人がいることを知った。乳母の左近助の伝手を頼り、俊仁は姫に文を届ける。返事を渋った幼い姫だったが、将軍の手紙だからと返事を書く。便りは重なり、やがて契りを結んだが、それを知った帝が歌合せの名目で姫を召し上げてしまい、俊仁は伊豆に配流されてしまう。

 近江の国の瀬田の橋を渡った俊仁だったが、自身が退治した大蛇の魂魄に自分は流人となって下るから都に上って好きにしろと言い捨てる。すると都では人が数多く失われるようになった。恐れた人々は家に閉じ籠った。帝が天文博士に尋ねたところ、俊仁将軍を都に戻さねば鎮まらないだろうと奏聞した。それで俊仁に赦免の綸旨が下った。俊仁が再び瀬田の橋を通ったところ、大蛇は鎮まり洛中は静かになった。帝は感嘆して照日の前を下された。再び契りを結んだ俊仁との間には娘が二人生まれた。

 ある時、内裏で管弦の遊びをしていたところ、強風が吹いて照日の前を天に吹き上げてしまった。俊仁は嘆くが夢に三人の童子が現れ、姫の居場所を知りたければ天狗に訊けと告げる。神仏のお告げと悟った俊仁は愛宕山に向かう。愛宕山では老僧が俊仁を迎える。老僧は自分たちは知らないが、帰り道に不思議の事があるだろうと告げる。大きなふし木の橋を通ったところ、俊仁の母の妹だという大蛇が現れる。妻を攫ったのは陸奥の国のあくる王という鬼だと大蛇は告げる。成仏できないと言う大蛇を俊仁は弔う。

 鞍馬に籠った俊仁は一振りの剣を得る。俊仁は陸奥の国へと出発する。妻子を失った人は他にもいた。彼らを連れ、俊仁は陸奥の国へと向かう。陸奥の国、初瀬の郡の田村の郷に着いた俊仁だった。俊仁は身分の低い女と一夜の契りを交わす。俊仁は自分の形見として一本の鏑矢を与える。

 鬼の城に近づいた俊仁は門番の少女に事情を尋ねる。鬼は越前へ行ったと答える。龍の駒に乗って内側に入るべしと言われた俊仁だったが、門は盤石の如しで中に入れず。鞍馬の神仏に祈ったところ、門が開いた。門の内側には大勢の女性がいた。見たところ、三条北の方と照日の前がいなかった。三条北の方は二、三日前に鬼の餌食となってしまったという。読経の声が聞こえたので探したところ、照日の前がいた。明日には喰われてしまう運命だと言う。

 鬼たちが帰ってきた。鬼と対峙した俊仁だが、その眼は日月の如しで鬼たちを恐れさせた。俊仁が多聞天から授かった剣を投げたところ、鬼達の首は皆落ちてしまった。攫われた男女は国へと送り返された。

 鬼達を従えた俊仁は都へと上った。一方、田村の郷で一夜の情けを掛けた女性が懐妊し、男子を産んだ。男子はふせりという名づけられた。ふせりは賢く学問が上達したが、ある時、鳥や獣にも父母がいるのに、どうして自分には父がいないのか母に尋ねた。母は涙を流し、ふせりの父は将軍だと告げた。形見の鏑矢を受け取ったふせりは都に上る。蹴鞠で将軍の眼に止まったふせりだったが、形見の鏑矢を見せたところ、さては我が子だとなり、名を改めて田村丸となり、元服して坂上の俊宗となった。

 俊仁が五十五歳のとき、唐土に攻め込んで従えようと考えた。関白を通して奏聞したところ、止めるに及ばずとのことで、俊仁は三千叟の船に五十万騎を従えて旅だった。渡海した印として神通の鏑矢を射たところ七日七夜鳴り響き、唐の人達は皆驚いた。凡夫の力では叶わない、仏力に頼るべしとなった。恵果和尚が不動明王と矜羯羅(こんから)、制多迦(せいたか)を引き連れて防ごうとした。

 俊仁と対峙した不動は降魔の利剣(鋭い剣)を持って立ち向かうが、劣勢であった。不動は金剛童子を日本へ派遣した。不動も刹那に日本に渡り毘沙門天と多聞天に、もし自分を勝たせてくれるなら、日本の仏法の守り神となろうと誓った。それで毘沙門は俊仁の加護を止めた。加護を失った俊仁の剣は折れ、組打ちとなるが、不動の利剣が俊仁の首をはねた。将軍を失った三千叟の船は日本へと戻った。俊宗は俊仁の死骸を納め、都へと上がった。

 年月が経った。大和の国の奈良坂山にりょうせん(りょうぜん)という化性の者が現れ、都への貢物を奪い取り、更に多くの人命を奪った。俊宗に従えよとの宣旨が下った。五百騎の軍兵を連れて俊宗は奈良坂山に向かった。計略を立て、濡らした小袖を木の枝に掛けておいたところ、丈二丈あまりの法師が現れた。俊宗と対峙したりょうせんは手並みの程を見んとした。金つぶてを三度投げ打ったりょうせんだったが、俊宗は扇と鐙でそれを防いだ。手立てを失ったりょうせんを俊宗は神通の鏑矢で射た。飛行自在のりょうせんは七日七夜飛んで逃げ回った。七日目に入り俊宗に降参したが、帝の判断で獄門となった。

 二年ほど経って、今度は伊勢の国の鈴鹿山に大嶽丸という鬼神が現れて民を悩ました。帝が俊宗に宣旨を下した。承った俊宗は三万騎の兵を連れて鈴鹿山へと赴く。大嶽丸は飛行自在の鬼神で、火の雨を降らせ、雷を落とす、決着がつかず数年が経過した。

 鈴鹿山に天女が天下った。名を鈴鹿御前という。大嶽丸は鈴鹿御前に恋をし、美しい童子の姿となって、契りを結ぼうとしていたが、通力でその事を知った鈴鹿御前はなびかなかった。

 俊宗は何としても勝負を決せんと諸天に祈った。すると夢の中に老人が現れて、鈴鹿御前の謀りごとによらないと大嶽丸を討つことは叶わないと告げた。有難く思った俊宗は三万の兵を都へ返し、ただ一人で鈴鹿山に向かった。

 夕暮れとなった。二八(十六)歳くらいの女が現れた。これを見た俊宗は鬼神の変化かと思い剣を隠した。女は鬼の居場所を知りたければ、ここにしばらく留まれと歌を詠んだ。

 恋煩いとなった俊宗だったが女の行方は知れなかった。神仏に祈った俊宗は、垣間見た面影が忘れられない。目に見えぬ鬼はあるならあれ、と歌を詠んだ。すると鈴鹿御前がやって来た。契りを結んだ俊宗と御前だった。

 鈴鹿御前は自分の計略で大嶽丸を討たせようと言った。山々を超えて大きな岩穴に辿りついた。その中に入ると大嶽丸の宮殿があった。庭は四季の姿を映していた。奥に大嶽丸が住む館があった。鏑矢を射ようと思った俊宗だったが、鈴鹿御前が制止する。大とうれん、小とうれん、けんみょうれんという三本の剣がある限りは大嶽丸が討たれることはないのだ。

 日が暮れた。鈴鹿御前の許に通ってきた大嶽丸だったが、鈴鹿御前が初めて返歌をした。御前は言葉巧みに大嶽丸の大とうれんと小とうれんの剣を預かった。そのまま大嶽丸は住処へと帰った。けんみょうれんの剣は天竺へ行っているという。

 酒を飲んで酔った鬼たちは伏せてしまった。今だと鈴鹿御前が声をかける。俊宗が名乗りを上げると、童子の姿だった大嶽丸が十丈もある鬼の姿となった。鬼は剣と鉾を三百ばかりも俊宗に投げつけた。が、俊宗は悉く払いのけた。俊宗が神通の矢を射ると、千万の矢先となって手下の鬼達を襲った。磐石へと変化した大嶽丸だったが、俊宗が剣を投げつけると、たちまち首が落とされた。鬼の首を持ち返った俊宗は伊賀の国を賜った。

 俊宗と鈴鹿御前の間には一人の姫君が誕生した。名をしょうりん(正林)と言う。都が恋しくなった俊宗だったが、それを知った鈴鹿御前が心変わりしたかと恨んだ。俊宗は共に上京して一緒に住もうと答えたが、鈴鹿御前は自分は鈴鹿山の守護神だから離れられないと言った。近江の国に高丸という悪鬼が出るから都へ上れと告げる。

 上京した俊宗は帝のもてなしを受けた。その内に高丸という悪鬼が出たと報告があった。俊宗は十六万騎を連れ近江の国へと下った。高丸の城に押し寄せた俊宗は我こそは田村将軍藤原俊宗であると名乗る。火界の印を結んだ俊宗は火炎を高丸の城に投げつける。城は焼け、高丸は信濃の国へと逃げた。高丸は唐土と日本の境に岩穴をくりぬいて城としたので攻められなかった。

 鈴鹿御前は凡夫の力では叶わないと告げた。兵を都に返し、俊宗と鈴鹿の御前は神通の車で高丸の居場所へと向かう。高丸は岩戸を閉じて引き籠ったが、鈴鹿御前が二十五の菩薩を呼んで音楽を流したところ、高丸の娘がこれを聴いて戸を僅かに開けさせた。音楽があまりに素晴らしかったので戸を大きく開けてしまった。俊宗は神通の鏑矢で高丸の眉間を射た。

 都に上って顕彰された俊宗は鈴鹿に下った。すると、けんみょうれんの剣が天竺に残っていたため、大嶽丸が復活すると告げた。大嶽丸は陸奥の国の桐山(もしくは霧山)に立て籠もるだろうと告げ、都に上って良い馬を求めよと言った。

 都に上った俊宗は翁から天下の名馬を得た。その速さは刹那で鈴鹿に到着する程であった。

 月日が経って大嶽丸が陸奥の国で復活した。俊宗に帝の宣旨が下った。俊宗は鈴鹿御前の助言で五百騎の兵を陸奥の国へと向かわせた。その間、俊宗は鈴鹿御前と遊んだ。兵たちが桐山に到着する頃を見計らって俊宗は出立した。刹那に桐山に到着した俊宗だった。

 鬼神は山を掘り、磐石を扉として固く守っていた。搦め手から回った俊宗が門番の鬼を捕らえると、大嶽丸はいなかった。蝦夷が嶋にいると言う。

 急に空が曇り、黒雲の中から声がした。田村殿ではないか。鈴鹿山で自分を討ったと思っただろうが、天竺に魂を一つ残していたのだと俊宗を嘲笑った。

 俊宗は大とうれん、小とうれんの剣に加えてけんみょうれんの剣が揃ったと答える。大嶽丸は腹を立て、三面鬼に命じて大石を雨の如くに降らせたけれども、俊宗には当たらなかった。俊宗は神通の鏑矢で三面鬼を討った。

 腹を据えかねた大嶽丸は俊宗に飛び掛かった。大嶽丸の首が落とされた。首はなおも飛び回って俊宗の兜に食らいついた。首はそのまま死んだ。残りの鬼たちは獄門にかけられた。大嶽丸の首は宇治の宝蔵に納められた。

 再び俊宗は鈴鹿御前と暮らしていたが、鈴鹿御前は病を得て、それが重くなった。鈴鹿御前は自分は仮にこの世に生まれてきた。この世での縁が尽きたので亡くなるのだ。いかなる祈祷も効かないと告げて亡くなった。

 俊宗は嘆き悲しんだ。あまりの嘆きに一七(七)日目に死んでしまった。冥界に行った俊宗は倶生神(ぐしょうしん)を呼び、自分は田村将軍である。主に会わせて欲しいと言う。倶生神は怒るが、俊宗を引き立てようとした鬼を蹴飛ばしたので、肝を冷やしてしまった。

 俊宗は十王に会った。十王は俊宗は非業(ひごう)の死なので急いで現世に帰れと言う。鈴鹿の御前を返してくれと俊宗は火界の印を結んで暴れる。閻魔王が鈴鹿御前を返すように獄卒に言ったが、鈴鹿御前の肉体は失われていると答えた。そこで、御前と同じ時に生まれた女が死んだのを身代りとさせた。だが、この身代りは鈴鹿御前の姿に劣っていた。俊宗は腹を立てて元のようにしてくれと言った。そこで第三の冥官が浄瑠璃世界の宝尺の薬で元の御前を取り戻した。

 俊宗は三年の暇を与えられた。冥途の三年は娑婆の四十五年に相当する。こうして俊宗と鈴鹿御前は二世の契りを結んだ。

 俊宗は観音の化身であり、鈴鹿御前は弁財天である。末代まで伝えるために清水寺を建立し大同寺と称した。田村党の繁栄は仏法のお蔭である。この草子を読んだ人は観音を信じるべし。

◆英雄譚としての田村の草子

 祖父の俊祐のエピソードは異類婚姻譚であり、更に父の俊仁が異常出征譚の人物であり、幼くして大蛇を退治する。また、妻を攫った鬼を退治する。そして唐土を従えんと討って出て不動明王と争うも通力が失せて破れるなど英雄譚の色が濃い様に思える。息子の田村丸、俊宗は父である俊仁が身分の低い女と一夜の契りを交わして誕生した子であり、異常出生譚ではない。また、鈴鹿御前と結ばれることでその加護を得るといった要素が強い。また、都に仇なす鬼を退治するといった面から見ると、動員数こそ数万騎という規模であるが、日本を守護する将軍という軍事面よりむしろ警察に近いのではないか。

 俊宗が自分は藤原俊仁の嫡子、藤原俊宗であると名乗る場面があるが、これは藤原利仁であろうか。武人の藤原利仁と坂上田村麻呂が結びつくのである。

 また、大嶽丸の館の庭は四方がそれぞれ四季の風景を現すものとなっており、鬼の館の庭園という面で、大江山の酒呑童子伝説ともひき比べられるものとなっている。

 あくる王の城の内部では人肉が鮨とされている陰惨な描写があるが、大江山の酒呑童子の伝説の影響が見られる。

 最後に鈴鹿御前が亡くなってしまい、俊宗は御前を冥界から取返しに行くが、俊宗は地獄の獄卒たちを相手に暴れ、御前を四十五年の期限で取り返すことに成功するのである。一般的には取り返す寸前で失敗してしまうというパターンだが、田村の草子では死者を取り返すことに成功しているのである。

◆田村の草子

※これは角川書店「室町時代物語大成 第九」に収録された「田村の草子」に私が独自で漢字を当てたものです。「室町時代物語大成」には注釈も現代語訳も無く、原文がドンと載っているだけなので、間違っている箇所も多々あるかと思われますのでご注意ください。

たむらのさうし 上

日本我朝始まりて、天神七代地神五代は扨(さて)置きぬ。仁王の御代と成て、度々の将軍、家を継がせ給ふ。

中にも俊重将軍の御子にとしすけ(俊祐の将軍と)と申奉るは、春は花の許にて日を暮し、秋は月の前にて夜を明かし、詩歌管弦(くはんけん)に心をかけ、色を好み、しゆえんらつふ[らんふ](酒宴乱舞か)を旨として、おはしける。

され共、御心に叶ふ御台所ましまさずとて、十六の御年より五十に及ばせ給ふ迄、四百六十四人を送り給ふ。されば御子一人もましまさず。

俊祐、思し召しけるは、五十に傾き、喩ひ七十の齢を保つ共、今廿余年の春秋、幾程かあらん、過にし方を思へば、たゞ夢のごとし。

我、一人の子なくして、いかにも成なん後、跡に留まり一度の香花をも供えて俊祐が菩提を誰か弔ひ申べき。

かゝる田舎(てんしや)の住ゐなればこそ、心に叶ふ負債もなけれ、都へ上り尋ねばやと思し召し、急ぎ上洛し給ひて、五条辺りに住ませ給ふ。

御門此よし、叡覧ましまし、都を守護せんための上洛ぞやと御感斜めならず

かくて、秋も暮れゆくに、さかの(坂野か)の方へ御遊覧に出給へば、野山の色も勝り、草の陰も侘しき、虫の声、折知り顔(かほ)ぞ哀なる。

かゝりける所に、いづくより来るとも知らず、いと美しき女のいざよふ月に打ち向かひ、詠む言の葉ぞ哀なる。

 草むらに 鳴く虫の音を 聞くからに いとゞ思ひの 勝りこそすれ

と連ねて、打ちしほれたる有様、絵に描くとも、筆も及難く、柳の糸の春風に靡き、芙蓉の紅(くれなゐ)の雨を負ひたるもかくやと思ひけるに、付き従ふ人もなく、ただ一人、ほれぼれと立給ふ。

こはいかに、天魔鬼神の我を謀らんと計らふらんと、心強く立ざるべくと(べくは)思へ共、色に惹かるゝ心なれば、行くべき方を、白雲の立ち迷ひ給ひけるか。

よし如何なる魔縁(まゑん)の変化にても語らひ行かばやと思し召し、かく詠み給ふ。

 哀れなり 我も(もしくは、なれも)人待つ 虫の声 同じ思ひか いざ比べなん

と打ち眺めつゝ、袂にすがり給へば

意は木ならぬ様にて、同じ車にて帰り給ひ、比翼の契をなし給ふに、程なく懐妊(くわいにん)し給ふ。俊祐、大きに喜び給ひて、我既に五十になるまで、子といふものなかりつるに、かゝる事こそ嬉しけれとて、いよいよかしづき給ふ。

かくて、月日重なるまゝに、御産の用意有ければ、女房仰せられけるは、未だ十月にては有べからず、三(二)年と言はん正月に誕生成べし。

産屋の高さは三十六丈、百八十本の柱を立て、四百八十人の繁昌(はんじやう)を以て二年が内に作り致すべしとの給ひければ、仰のごとく、三十六町(てう)の楼門をぞ組み上げける。

去程に(にナシ)、産(さん)屋に入給ふとき、殿に向かひ、我産屋に入て七日より内に人通ふべからず。八日にならば、かならず参るべしとて、楼門の内へ入給ふ。

将軍、今一日待たん事、千年を経(ふ)る心地しければ、待かねて七日目に立ち覗き給へば、内には大木の松三本、榊七本、生ひ出たり、光明赫奕(かくやく)として、日月のごとし

いかなる事やらんと怪しく思ひて見給ふに、百尋余りの大蛇なるか、二つの角の間に三歳計なる美しき子を乗せて紅の舌を出して、舐(ねぶ)り合いしてこそ遊びけれ、日月と見えつるは眼(まなこ)なり。

俊祐、思召けるは、かゝる恐ろしき事こそ、覚(おほえ)ね、いか様(やう)、天魔の入替りたるらん、其儀ならば、焼き打ちにせん等、思召患ひ給ふに、

八日と申に、在りし姿にて、慈(いつく)しき我が君を抱き参らせて、楼門より降り給ひて仰けるは、七日を過ぐ(直ぐか)して御覧さぶらはゞ、日本の主となし奉るべしと思ひつれ共、我本体を御覧じたる間、叶わず。

されども、天下の大将軍と成し奉り候べし、此若君をば、にちりう丸(日龍丸か)と申べし、若君、三歳の年、俊祐死し給ふべし、七歳の年、御門より大事の宣旨を被るべし。

我はますたか池の大蛇也、諸天宣旨の仰に従ひ、仮にも妹背の語らひをなしつる也、暇申て、さらばとてかき消す様に失せにけり。

斯様(かやう)に恐ろしき大蛇とは知り給へ共、三歳(とせ)が間、慣れし名残の惜しき事、喩えん方もなくて、たゞ涙にむせび立ち給ふ。

あまりの懐かしさに、生まれ給ふわか君に汝が母はいづくへ行きぬるぞとの給へば、天に向かふて、あれあれと計ぞ言ひける。

かくて年月を過行程に、日龍(りう)殿、三歳と申せし時、俊祐、儚くならせ給ひけり、元より越したる事なれ共、さしあたりたる別の悲しさ申計なし、日龍殿も嘆きながら、日数を繰りける程に、

七歳と申に、宣旨下り、近江の国みなれ川と云所に、くらみつ、くらへのすけとて二つの大蛇有、昔より西へ通る者を取り喰らう間、人跡絶えて通ひ路(ぢ)無し、急ぎ彼を滅ぼして参らせよとの宣旨也。

日龍涙を流し、の給ひけるは、恨めしかりける憂き世かな。生まれて十日に経ちて母に別かれ(別れて)、三歳と申に父に遅れ、又七歳にて斯様の宣旨を被(かふふ)る事よと仰られければ、

御乳母(めのと)申けるは、君の御父は五歳にて越前の国けい(気比か)の津にて長さ六丈の蛇(しや)を抱かせ給ひぬ。されば万民舌を振りけるとこそ承れ、君は既に七歳に成給へば何の子細の候べき。

是は先祖の御宝とて(御たらしとて)、角の槻弓(つきゆみ)に神通の鏑矢、取り添えて奉る。日龍殿、弓押し張り、引き給ふに、少も障る方なし。五百余騎の軍兵を揃えて、みなれ河へぞ下られける。

彼所へ着き給ひて、淵の辺りを御覧しければ、綾羅錦繍(れうら、きんしう)の類、多く無かれけり。日龍仰せけるは、是見給へ人々、我を謀らんため、斯様の謀(はかりこと)也。

構えて皆々、目を欠くべからずとて、淵の端(はた)へ立ち寄り、大音あげて、いかに此所の大蛇、確かに聞け、我はみもすそ川の流れ、天津彦根の御末(すゑ)、十前の君の仰に従ひ、日龍、これまで向かふたり、急ぎ出て対面仕べしとの給へば、

川浪高く、立上がり、風凄まじく吹ければ、五百余騎の軍兵、水の泡の消(きゆ)るごとくに一度にはらりと死したりけり。

目に見えぬ敵(かたき)なれば、如何にして滅ぼさん共、弁えずして日龍一人、河の汀
(みきは)を駆け巡りて年月を繰りける程に、七歳より十三の年まで心を尽くしけるが、

あまりの事に佛神に祈りけるは、日本の主、十前の君の宣旨にて候、願はくば、この川の水上を止めて(てナシ)水を干し、大蛇の形を見せ給へと肝胆を砕きて念じければ、

誠に佛神の恵みを垂れ給ふにや、水上(みなかみ)より横切りて、三里が間、白河原となりて百尋計なる大蛇二つ現れて、日龍に申けるは、汝知らずや、我は汝がためには伯父也、汝が母、ますたか池の大蛇は、我ためには妹也。

我此川に住む事、二千五百年、汝、僅か十三にて我に敵(てき)をなさん事、及び難し。出で出で微塵になさんとて、口より火炎を吹き出しければ、山も川も一度に熱鉄(ねつてつ)の海とぞなりける。

されども日龍、少も騒がず、角の槻弓、神通の鏑矢にて散々に射給へば、たちまち大蛇滅びけり、やがて首を貫き、雲に乗りて都へ上り給ふ。

御門、叡覧ましまして、将軍の宣旨を受け、俊仁(としひと)将軍とぞ申しける。

かくて俊仁、十七の御時、ある夕暮れの徒然に、霞の内に雁の一連(つら)行を見給ひて思召けるは、空を駆ける翼まで夫婦の語らひを成す、我十七まで妻と云う物の無きこそ、悲しけれ、由有人もかな、言ひ寄りて語らふべしと思召けるに、

其此、天下に時めき給ふ、堀河の中納言たかとを(高藤か)の姫君、照日の御前と申て、天下一の美人なるを風の便りに聞き初め給ひて、わくる方なき御物思ひの浅からざりしを、乳母(めのと)の左近助、諫め参らせければ、いと恥づかしき事ながら、かくて思ひし積まんも罪深くこそとて、有のまゝに語り給へば、

左近助縒(よ)り掛け、承り、某(それかし)、堀川殿に言ひ寄るべき伝手こそ侍れ、先ず(つ)御文を遣はして、御覧さふらへと申しければ、綠の(のナシ)薄様に

 伝え聞く、風の便りの 忘られて 思ひ消えなん 事ぞ悲しき

と遊ばして、遣わされれば、少将の局(つほね)とて、姫君の乳母(めのと)の有けるに、言ひ寄り、将軍の御文、参らせければ

稚(いはけな)し御心にて、手にも取給はで、顔打赤めておはしけるに、少将の局、御硯持て参り、

天下の大将軍の御文なるに、ともかくも一筆の御返事なくては叶ふまじとて、責め奉れども、引かづき、御答(いら)へもなし。

乳母(めのと)心憂く思ひ、母上に此由、しかじかと申ければ、誠に幼(おさあ)い人の心こそ、恨めしけれ。他所に聞く事ならば、いか計羨むべきぞや、急ぎ急ぎ御返事と、責め給へば

力なく起き直り給ひて、傍らに打向いて、紅葉重ねの薄様に

 いかにして 人の言葉を 頼むべき 相見て後は 変わる習ひに

と書て、引き結びて 置き給ふ(置き給ふを)

少将(せうしやう)取りて、左近助が許へ遣わしければ 縒(よ)り掛け喜び、やがて将軍へ御返事とて参らせければ

俊仁、嬉しくも、恋の闇路の道しるべせし物かなとて、左近の将監(しやうけん)にそ、なされける

扨(さて)此後、度々御文重なり、忍び忍び御契り浅からざりしに、御門、此由聞し召し、御哥合にことよせて召あげられ、それより返し給はずして、俊仁をば伊豆(いつ)の国へ流させ給ふ。

俊仁、口惜しく思ひながら、力なく、遠流(をんる)の道に赴き給ふ、心の程こそ哀れなる(哀れなれ)。

さる程に、近江(あふみ)の国、瀬田の橋を渡るとて、橋板荒く踏み鳴らし、俊仁こそ、只今流人となりて東国に下るなれ、みなれ川にて殺せし大蛇共の魂魄あらば、都に上り、心のまゝにせよと言ひ捨て下り給ふ。

さる程に、其此都の辺りにて人多く失せて、行かた知らず成にけり。日の暮るれば、門戸を閉ぢて声を立る事もなし、昼は行交ふ道絶えて浅茅(あさぢ)が原とぞ成りにける。

天文博士に仰て、考へ給ふに、俊仁将軍を召返し給はずば、鎮まるまじ御旨(きよし)、奏聞申ければ、やがて赦免の綸旨下り、二度上洛(帰洛)し給ひて

又瀬田の橋を通(とを)るとて、俊仁こそ赦免の綸旨を給て、只今上るなれ、大蛇共、都辺りに叶うまじとて、其日、都に着き給ふに(にナシ)、洛中、静かになり、万民喜びの色を成す。

御門、御感ましまして、頓而(やかて)、照日の前を下されて、比翼のち契(契)をなし給ひ、姫君二人出で来て給ひて、斎(いつ)き傅(かしつ)き給ふに、

ある時、俊仁参内おはしけるに、折節内裏には、管弦(くはんけん)の御遊(ゆふ)有けるを、聴聞(ちやうもん)しておはしける間に、土風荒く吹落ちて、照日の前を天に吹き上げたり。

此由将軍へ申遣はしければ、急ぎ我が屋に帰、こはいかなる事やらんと、嘆き給へ共、甲斐もなし、あまりの悲しさに、せめては夢になり共、今一度(たひ)見参らせばやとて少まどろみ給へば、

年の程、十二三計の童、三人連れて行けるが、先なる童の言ひけるは(はナシ)、それ日本は粟散(そくさん)辺地の小国なりと(たりと)言え共、神国たる故に、人の心、素直にして長久なり。

然共、慢心の心あれば、天魔の災ひありと言ひ伝へけるこそ、誠に不思議なれ、俊仁将軍は弓矢の誉れ、世に優れ、鬼(おに)神も恐れ従ふ程の人なるに、

此程、寵愛(てふあひ)の妻を土風に取られて嘆き悲しむと也、あれ程の武将(ふしやう)として言ひ甲斐なき事よとて笑ひければ、

中なる童も、誠に海山を逆(さか)しても、取返さずして、生ける甲斐もなき事よと、言へば、

後なる者の曰く、それはさる事なれども、行方(ゆくゑ)を知らずはいかがせん。さりながら、俊仁程の者が、天句共を捕らえて問ふならば、恐れて有所云べきものをとて、笑ひける声に夢覚めて(夢は覚めて)、辺りを見れば人も無し

扨(さて)は佛神の御告げぞと有難く思ひ、八幡大菩薩に起請申、先ず(まつ)愛宕山に登り、

きやうくわう坊は内におはしますか、天下の(のナシ)大将軍俊仁、是まで参りたりと仰ければ、刹那が間に、宮殿(くうてん)、楼閣、玉の台(うてな)に至る。

やゝありて、八十余りなる老僧、弟子どもに手を引かれて蹌踉(よろほ)ひ出て、何の御用にて御出候とて、膝の上まで掛かりたる、まぶたを弟子に引開けさせけるを(をナシ)、

俊仁、是まで参事、余の儀にあらず。某(それかし)女にて候ものを、此程、失ひて候、定て知ろしめさるべし、御弟子の中にも候ならば、返し賜(た)び候へ、何様行末を(行方を)御存候べし、教えて給はれと仰せければ、

きやうくわう坊、聞きて、是は思ひも寄らぬ事を承候、弟子共の中にも候はず、東山の三郎坊が方にも候はず(候はず候)、但是より御帰り候はんする道にふし木の有べし、是ぞ教え申べし、くわしく御尋あれと言ひ捨て、かき消す様に失せければ、

急ぎ帰、見給ふに、申つる如く、谷川に打渡して、大なるふし木の橋あり、立より、荒けなく踏み鳴らし、如何に汝に物問はんと仰せければ、

しばらくあつて、此木動くかと見えて、頭出で来(いてき)、首を三間ばかり持ち上げて、人に物問ふとて、去事やある、教しと(教へじと)思へども、汝が母は我が為には妹なれば教ゆるぞ。

吾殿(わとの)は女を失ひて(なふて)尋るよな、それは此辺には有べからず、陸奥の国、高(たか)山のあくるわう(あくる王)という鬼が取たるなり。

凡夫の力にては叶ひ難し、鞍馬の大非(ひ)多聞天の御力を頼み奉りて、かの鬼神を従へ、諸人(にん)の憂ひを(脱文アルカ)

御身が母、ますたか池の主なりしが、仮に人界(かい)に生れたる、縁に惹かれて成佛せり、我は未だ業因深くして赦身(しやしん)の思ひ尽きせず。

我ために善根を成し、邪道(しやたう)の苦しびを助け給へと言う言葉は残り、形は消えて失せたりけり。

俊仁哀れに思し召し、一万部の法花経を読み、千石千貫を千人の僧に引給へば、其功力(くりき)にて、やがて成佛して不思議の事ども多かりけり。

かくて俊仁は鞍馬へ参り、三七日籠り給ひて、まんするとら(満ずる寅か)の一天に甲冑を帯(たい)して几帳(きちやう)を打開け、汝如何に遅きぞと諫め給ふに、打驚きて見れば、枕に剣を立て有けり。

さては諸願成就、有難く思ひて、急ぎ陸奥の国へぞ下り給ふ。

其此、妻子を失ふ人、数を知らず、中にも二条大将殿御姫君、三条の中納言殿北の御方、みのゝせんし(美濃の前司)、河内判官、斯くの如くの人々は喩ひ千尋(ちいろ)の底までなり共、有か(在処)とだにも聞かば尋ねんと思召す折節なれば、

或ひは、郎党を下し、又は自ら下る人もあり、思ひ思ひの出立、華やかにこそ見えたりけれ。

さる程に、日数(かす)積もりて、陸奥の国、初瀬(はつせ)の郡、田村の郷に着き給ふ。

頃は七月下旬の事成に、賤の女(しつのめ)の、早稲田(わさ田)に隠る、鳴子(なるこ)なば、惹かるゝ心、浅からで一夜の情けを掛け給ひて、

もし忘形見もあるならば、是を印に尋ねこよとて、上ざしの鏑矢一、給はりて立出給ふ。

さる程に彼のあくる王か、城郭、近づきければ、駒駆け寄せ見給へば、銅(あかゝね)の築地を突き回し(て)、黒鉄(くろかね)の門を四方に立て、番を厳しく固めたり。

東面の門前に忍び寄りて見れば、年の程十五六計なる女童(わらは)の打しほれて涙にむせび、門外に佇みたるを、己(をのれ)は何者ぞと問ひ給へば、

是はみのゝせんし(美濃の前司)が娘にて候(さぶら)ふが、十三にて此所に囚われ、三歳(とせ)が間、門守りの(のナシ)女と定められて候とて、さめざめと泣く

俊仁、聞き給ひて、せんしも来たりたるぞ来りたるぞ、都へ具して行くべしとて、先御台所の御事を問ひ給ふに、詳しくは知り候はず、但、二三日以前までは、御声の聞こえたると申。

俊仁心許なく思召、鬼は内に有かと問ひ給ふ。此程、越前の方へ参りたると申。

扨(さて)此門の内へは何としても入と仰せければ、あれに候龍(りう)の駒に乗りて内へ入、門を開きて眷属共をば入れ候と申ければ、

彼龍に乗、入(い)らんとし給へども、門の内へは入らずして、北の方へ行、俊仁、剣(つるぎ)を抜き、汝命惜しくば内へ入(い)るべし、さなくば、たちまち命を止むべしとの給へば、恐れて内へぞ入(い)りにける。

扨(さて)彼の門を開かんとすれば、大磐石(はんしやく)共を重ねたるごとくにて少も揺るがず、其時、鞍馬の方を伏し拝み、願はくば、御力を添えて賜び給へと念じ給へば、開きけり。

やがて内へ入、見給ふに、女の声、数多して泣きける、立ち寄り見給ふに、三条北の方と俊仁の御台所はおはしまず、如何に成り行き給ふぞと御尋ありければ、

中納言殿北の方、二三日先に鬼の餌食となり給ひぬとて、首ばかり取り出しければ、

これは夢かや、三歳(みとせ)の程さへ永らへて、今日この此、むなしくなり給ふ事の悲しさよとて、伏し転(まろ)び泣き給ふ。

俊仁、いよいよむ(心)許なく思召、尋ねられければ、昨日までこれより奥に御経の声、聞こえつるが、何とならせ給ふやらん、知らずと言ふ。

覚束なくて、多くの戸を開け見給えば、かすかなる所に押し込められておはしけるが、御目を見合て、呆れ果て、いかにいかにと計なり。

やゝ有て(てナシ)仰けるは、何としても是までは御入候ぞや、先ず(まつ)今生にて、見々えぬる事こそ嬉しけれ。我、明日は鬼の餌食となるべし。一筋に後世菩提を頼み奉るべし。鬼の帰らぬ先に疾く疾く御帰りあれとて、涙にむせび給ふ。

俊仁、是まで尋参るも、同じ道にとこそ思ひつるに、いかで帰り候べき。扨(さて)鬼共、帰る時に印はいかゞ候と問ひ給へば、隈なき空もかき曇り、震動雷電夥しく、車軸の雨降りて(てナシ)里の内より(七里の内より)鬼の声聞こえ候とぞ、の給ひける。

さて何時に帰り候はんずる、明日の今(むま)の刻に帰らんと申つると仰られければ、其間に鬼共の住処(すみか)見んとて残りの人々語らひ、こゝかしこ御覧ずれば、大成桶共、多く並べ置きたり。

見れば、数多の人を取て、鮨にして置きける、又傍らを見れば、十四五の稚児、合式(かつしき)を串刺しにしてあり。

又、尼法師の首を二三百、数珠の如く繋ぎ、軒の下に掛け並べたり、かれを見、これを見るに恐ろしとも中々申は愚か也。

かくて、時刻移れば、俄に空かき曇り、雷震動して光りもの、飛び違い、鬼の声、山を崩す如し、残の人々はたゞ生きたる心地なし、俊仁は鬼の帰るを待給ふ。

あくる王、我宿近くなれば、門守りの女は無きか、我留守に何者なれば来るぞ、たゞ手な掛けそ、睨み殺せとて、千八百の眼の光、火炎(くわゑん)の飛ぶ如く也。

され共、俊仁の頭(かうへ)の上には日月、天下り給ひて、俊仁の眼となりて睨み給へば、鬼共、睨み負けて血の涙を流しける。

其時、多聞天より給はりたる剣(つるき)を投げ給へば、鬼の首は皆悉く落ちたりけり。此時、人々力付、俊仁を伏し拝み給ふ。

扨(さて)取られたる男女、思ひ思ひの古里へ、送り返されける、万民の喜ぶ事限りなし。中にも三条中納言殿御嘆き、思ひやられて哀也。

かくて、将軍は思ひのまゝに鬼神を従へ給ひて都に上り、年月を送り給ふ程に、陸奥の国にて一夜の情けをかけ給ふ賤の女(しつのめ)(のナシ)の腹に男子一人出できけり、名をば(はナシ)、ふせり殿と申。

此子、九歳の(五歳の)年より、辺りの山寺にて学問させけるに、一を十をと(をナシ)悟りけるが、十歳の年、つくづくと(とナシ)案じけるは、人間のみならず鳥類畜類までも父母あり。我が父はいづくにあるぞと母に問いければ、

母、涙を流し、汝が父こそは当国の鬼神を従え給ひつる俊仁将軍なれと、有のまゝにかたり、件の鏑矢取出し見せれば、

其儀ならば、都に上り父と対面せんとて廿日あまりの道なれ共、夜を日に継ぎ、三日に都に着き、将軍の御門の前に休らふ。

折節、俊仁、鞠を遊ばしけるが、篝(かゝり)の外へ切れけるを、ふせり殿、さらりと流し、思ひのまゝ蹴巡りて、元の如く、蹴(け)こまれたり、俊仁御覧して、何者ぞと問ひ給へ共、答えず。

如何様、鞠は優れたりと思召、如何なる者やと仰せければ、返事にも及ばず、腰よしも(よりも)鏑矢を(をナシ)抜き出し、将軍の御前に置かれたり。

俊仁、是を御覧じて、扨(さて)は我が子なりと嬉しく思召、様々の御もてなしにて、先ず(まつ)御名を改めて田村丸とぞ申ける。

器量(きりやう)事柄、人に優れ、御力はいか程あるとも限りなし。やがて御元服(けんふく)ありて、いなせの五郎坂上の俊宗(としむね)と申ける。

さる程に、俊仁五十五の御時、つくづく思し召しけるは、それ日本は僅か(わつか)の国なり、唐土(たうど)に渡りて、切り従へ、末代まで名を残さばやと思ひ、時の関白みつたかして奏聞申されければ、

誠に思ひ立たる事、止(とゞむ)るに及ばずと仰致されける。

俊仁喜び、三千叟の船に五十万騎打ち乗、神通のものゝ具帯して(ものゝ帯して)、二月の末に打つ立給ふか、

某(それかし)程の者が渡らんに、先ず(まつ)其印無くては叶ふまじとて、神通の鏑矢一、射給へば、其矢、みやうじゆう(命終か)の津に留まり、七日七夜響き渡れば、

人皆驚き騒ぎ、れい門(もん)を引かせらるゝに、博士、考えて曰く、日本の将軍、此国を従へんとて来る也。日本は粟散(そくさん)の小国なれ共、人の知恵深ふて、心孝也。

其上、神国として、弓矢の謀(はかりこと)を得たり、いかでか凡夫(ほんぶ)の力にて防ぐべし。佛力ならで、頼み方なし。

恵果(けいくわ)和尚、百千万の不動明王、矜羯羅(こんから)、制多迦(せいたか)引具して、みやうじゆうの津にて防ぎ給ふ。

俊仁、御覧じて、如何にや、汝、何者ぞ。我矢先にはとても叶うまじ。速やかに引き退(しりそ)くべしと仰せける。

不動の給う様(やう)、汝小国の臣として大国を従へん事、思ひも寄らず、急ぎ本朝に帰るべしとて、降魔(こうま)の利剣(りけん)の光を放つて、振り給ふ。

俊仁も神通の剣を抜き、戦ひ給ふが、不動の利剣、戦い負けて、次第次第に退きけり。

不動、叶はじと思ひ、金剛童子(こんかうとうじ)を日本へ遣はして、鞍馬の毘沙門へ申されけるは、

俊仁、唐土を従へんとて寄せ候、大方は防ぎ候へ共、叶ひ難く候、願はくは、此度の合戦に俊仁か、いりき(怪力か)を落とし、我に力を添へて賜(た)び給へと宣へば、

多聞、仰せられけるは、いかでか、日本の大将に不覚をばかゝせ候べき、疾く疾く帰り給へと仰せければ、俊仁の御力はいよいよ勝り、剣(つるき)の光輝きけり。

不動、叶はじとて、刹那が間に又身つから(自ら)鞍馬へ御越し成て(有りて)仰せけるは、全く此国を敵(かたき)と思ふには非ず、この度、俊仁に負けぬるものならば、佛力廃りて信ずる者、薄くなり、

いよいよ、邪道(しやたう)鬼神、力を得て衆生三津に還らん事、疑ひ有べからず、願はくは、俊仁怪力を落として賜び給へと仰せければ、

多聞天の御返事に、此国は佛法盛んにして、佛神、力を添え給ふ。然るを、日本の賢臣、帝王の守(まほ)りをば、いかでか失い候べきやと仰せければ、

不動、重ねて宣はく、喩ひ俊仁、失ひ候とも、我、日本に渡り、俊仁が如く王法を守り、佛法繁盛(はんじやう)の国となすべしと、の給ひければ、

其時、比沙門、俊仁が替りに日本の守護して衆生を助け給はんとの仰せこそ嬉しけれ、其儀ならば、急ぎ御帰りありて俊仁討ち給ふべしと有しかば

不動、大儀に(大きに)喜び、帰り給ひて、又戦ひ給ふ程に、俊仁の剣の光り劣り、不動の利剣に戦ひ負けて三つに折れて霊山(りやうぜん)へこそ舞い上がりけれ。

その時、俊仁、無念に思ひ、不動の船に乗移り、ひつ組んで、上を下に返し給ふ程に、利剣落ちかゝりて俊仁の首を打ち落とせば、不動、首を取りて矜羯羅(こんから)、制多迦(せいたか)も打連れ打連れ、唐土へ帰り給ふ。

三千叟の船共は波に揺られ、風に放されて、居付く共なく、揺られ行くこそ悲しけれ。その中に将軍の死骸のある船は人に知らせんためにや、八重の潮路を分けて博多の浦に着きける。

俊宗は此由聞し召し、急ぎ下り給ひて、彼御死骸を取り収め、様々の御弔いありて泣く泣く都へ上り給ひて、年月を繰り給ふに、

大和国、奈良坂(ならさか)山に金飛礫(かなつぶて)を打つりやうせんという化性のもの出きて、都へ参る貢物を道にて奪ひ取、多くの人の命を断つ事(断つ此事)、天下の嘆きならずや。

急ぎ俊宗に参むかふて(まむかふて)従えよとの宣旨下りければ、俊宗承、五百余騎の軍兵を引具して、奈良坂山へ向かはれけるが、

謀(はかりごと)に、色良き小袖数多、こつ川にて濡らしたる躰にして、木々の枝に掛け並べて置き、りやうせんを今や今やと待ち給ふ。

しばらくありて、丈二丈余りの法師の、まかふ(抹額か)ら高く、頬骨いかり、誠に恐ろしき有様にて、高き所に駆け上がりて

あら珍しや、此山を通るとて、斯様なる物を飾りて見せたるは、此法師を謀らんためか、よしよし、其儀ならば手並みの程を見すべし、なをも、良き物のあらば、残さず出だすべしとて、躍り上がり笑ひける。

俊宗、駒駆け寄せての給ふ様(やう)、是は御門へ参る御物なり、我命のあらん限りは取らゝる事有まじぞと仰せられければ

ぎこは(きこ[旗鼓か騎虎か]は)なる、くわし(華侈か)やめかな。事々しくは思へども、あまり、華奢(くわしや)めが言葉の憎ければ、金飛礫(かなつぶて)を以て、たゞ一つの勝負にせん。

三郎礫(つふて)と名づけて、金目(かねめ)は三百両、角の数は百八十三、受けてみよと言うまゝに肘を上げ、一振り振って打ければ、天地響き鳴神のごとし。

され共、俊宗騒がずして、扇にて打ち落とし給へば、又、次郎礫取出し、打ちけるをも同じ勝手に打落とし給へば、りやうせん、興ざめ顔にて立けるか。

さりとも、太郎礫に於きては、山を盾に付く共、微塵になさん物をとて、金(かね)は六百両、角は数を知らず、唐土(もろこし)に五百年、高麗(かうらい)国に五百年、日本の地に住事八十年、此山には、たゞ三歳(とせ)也。

万(よろつ)の宝を取る事も、皆、此礫の威徳なり、あたら、小賢しき童を殺さんも無残なれ共、口のさがなき故に只今暇取らするぞ、念佛申せと言うまゝに

馬手(めて)の足を強く踏み、ゑいやと打ちければ、百千の雷の一度に落つるかと覚えて肝魂も身に添わず、五百余騎の兵(つはもの)は皆ひれ伏して、音もせず、たゞ暗闇にこそなりたりけれ。

され共、俊宗、少も騒がず、馬立て直し、一違い違ふて、響き渡る金礫(かなつふて)を、鐙の鼻にて蹴落とし給へば、世間鳴り静まり、元の如く晴れたりけり。

りやうせんも頼みたる礫は三つながら打ち落とされ、今は力を失ひ、言ひ過ごしたる口を抱えて元の山に立忍ばんと足早に歩みける。

俊宗、駒駆け寄せ、いかに御坊、手並みは見申たるに然したる風情もなし、但、御坊の礫程こそなくとも、三代相伝して持たる鏑矢一筋、見参に入れては有べきとて、神通の鏑にて射給ふに、

りやうせん坊が耳の根、三寸退きて鳴り渡りたる、元より飛行自在(ひぎやうしさい)の者なれば、七日七夜、海山駆けて逃げけれ共、更に離るゝ事なし。俊宗は春日山に陣を取り、りやうせん坊を待ち給ふ。

七日目に帰り、俊宗の御前に参り、手を合、申けるは、如何なる精兵(せいひやう)と申とも、五町十町(ちやう)にて岩石(かんせき)、鉄壁(てつへき)は通すなど承て候へ、今日まで七日が間、海に入ば海に入、山に登れば山に登り、耳の根に離れず候。

いかなる御弓ぞや、今日よりして悪事すべからず、命を御助け候はゞ、御郎等と罷りなり申さんと泣く泣く申ければ、

俊宗、聞し召し、叡慮(えいりょ)測り難し、先戒めて参るべしとて、黒鉄(くろかね)の鎖繩にて括り、五百余騎が中に取籠、都に帰り給へば、御門叡覧ましまして、御感は申計なし。

りやうせんは船岡(ふなをか)山にて斬り、首を八十人して(八人して)欠き、獄門の前に掛けて行きの者に見せ給ふ。

頓而(やかて)、俊宗は十七にて、将軍司さ給り、陸奥の国初瀬の郡に越前を添えて下され、栄華に誇り給ひけり。

たむらのさうし 下

掛かりける所に、歳二年ありて、伊勢の国、鈴鹿山に大嶽(おほたけ)丸とて鬼神出き、行き交ふ一を悩まし、貢物も絶え絶え也。

御門此由、聞し召し、俊宗に仰付、急ぎ滅ぼすべしとの宣旨也、将軍畏まって、宣旨承、軍兵を召し寄せ、三万余騎にて打つ立、鈴鹿の山へ押し寄する。

大嶽丸は飛行自在(ひきやうしさい)の者なれば、此由を聞きて、峰の黒雲に立まぎれ、火の雨を降らせ、雷電、暇もなく風凄まじく吹て、攻寄るべき様無くして、年月を繰り給ふ。

又此山陰(かけ)に(にナシ)天女、天下りておはします。名をば鈴鹿御前と申ける。大嶽丸、鈴鹿御前に心を悩まし、ある時は美しき童子となり、又ある時は公卿、殿上人に変じて

様々の謀(はかりこと)を巡らし、一夜の契りを籠めばやと心を砕き、あくかれ(憧れか、悪枯れか)けれども、鈴鹿、通力にて知り給ふ故(上)、更に靡き給はず。

かくて俊宗は、いかにもして敵(かたき)のあり所を確かに知りて攻め入、勝負(せうぶ)を決せばやと思ひ、諸天に祈りをかけ給へば、ある夜の暁、夢ともなく現(うつゝ)ともなく、老人来たり給ひて

此山の鬼を従へんと思はゞ、此辺に鈴鹿御前とて、天女のおはしますを頼むべし。此謀(はかりこと)ならでは大嶽丸を(をナシ)討つ事、成り難しと教へて立去り給ふと御覧して、夢は覚めたりけり。

俊宗、有難く思し召し、先三万余騎の兵(つはもの)を都へ返し給ひて、たゞ一人、鈴鹿山に立ち忍ばせ給ふが

夕暮れの月、ほのかにさし移り、草葉の露も置き纏(まと)ひ、虫の声々、哀れを添え、ふる(ママ)の秋を思ひ出し、草の枕に打ち傾(かたふ)き給ふに、

年の程、二八ばかりなる女、玉のかんざしに金銀の瓔珞(やうらく)かけ、唐錦の水干に紅(くれなゐ)の袴、踏みしだきて忽然と来たり給ふ。

俊宗、これは彼の鬼の謀りて我心を引き見るにこそと思ひ、剣を膝の下に隠し、さらぬ躰にて見給へば

 目に見えぬ 鬼の住処を 知るべくは 我が有る方に しばし留まれ

と打ち眺めて、かき消すごとく失せにけり

俊宗、こは有難き、御告げぞと思ひ、大神宮を始め奉り、神々を伏し拝み給ふ。され共、その行方(ゑ)を知らず、されば尋ぬべき(知らざれば、尋ぬべき)方も無くて、

たゞ呆然として、大嶽丸が事は打忘れ、現(うつつ)に見えつる人の思かけ(面影)、身に添ひて、時の間も忘られて、恋路の闇に迷ひ給ふか。

せめて端々、夢の便りもがなと、まどろみ、上の空なる物思ひに、沈み果てなん事も、たゞ是、鬼の謀らふらんに思いきらんと、

又、神々を伏し拝み、願はくば、此悪念を忘れて鬼神を従へさせ賜び給へ、諸天諸佛の中にも大慈大非の御誓ひこそ有難けれど、肝胆を砕き、祈りて、心を澄まし給へども

猶、忘もやらぬ(忘やらぬ)面影の立ち添ひて、露の命も頼み少なき有様にて、かく口ずさみ給ふ。

 垣間見し 面影こそは 忘られね 目に見ぬ鬼は さも有らば有れ

と打ち眺めて、たゞ呆然として居給ふに

有し人の来り、疾く疾く我が方へ、御入候べしと語らい行て、比翼の契り、浅からず、来る共去るともなく月日を送けるが、

有夜の睦言に、我は此山に狩りに来りて(てナシ)三歳(とせ)なり、御身、此山の鬼神を従え給はんとて、来たり給ふ共、叶ひ難し。我力を添え奉らん為に、仮に此界に下る也。

彼大嶽丸、我に契りを籠めんとて、様々言ひ寄る也。我謀(はかりこと)にて、容易く討たせ申べし。御心安く思ひ、ひたすらに頼み給へ、さらば我が跡を慕ひ給へと有しかば(思召せと仰せければ、俊宗嬉しく思ひ、ひたすらに頼み給ふ。さらば我が跡を慕ひ給へと有りしかば)、

山々、峰々と辿り超えて見給へば、大き成岩穴有、此内に入、見給へば、満々たる霞の内に黄金(こかね)の甍(いらか)あり、金銀(こんごん)瑠璃の砂金(いさこ)を敷き、黒鉄の門を過ぎ行けば白金(しろがね)の門有。

猶し過行は、金銀の反り橋を掛けたり、誠に極楽世界といふ共、是にはいかで勝るべき

庭に四季の躰を現し、先ず(まつ)東は春の景色にて、出る日影ものどかなり。谷の戸(と)開くる、鶯(うくいす)の声も高根の雪溶けて、垣根の梅の数(かつ)散れば、桜は遅しと咲き続く、雉(きし)の山吹、色深く、藤波寄する。松が枝(え)も緑の空に立続き、

南面は夏の夜の明け方近き、ほとゝぎす鳴き行山は茂り合い、岩角削る滝つ瀬の波も涼しき夕暮に飛び交ふ蛍、かすかにて雨(あま)の戸叩く、水鶏(くゐな)鳥も明ぼのやな(柳か)を惜しむらん。

扨(さて)又西は秋風の末葉の露の散る影に、所々のむら紅葉の色(むら紅葉彩る野辺の)、野辺の虫の声、知らるゝ(哀れ知らるゝ)夜も急(きふ)の、露に満たるゝ、糸萩(いとはき)の花紫の藤袴、桔梗、刈茅(かるかや)、女郎花(をみなへし)、今を盛りと見えたりけり。

北は冬の景色にて、尾上(おのへ)の松の梢(こすゑ)までも降り埋みたる雪の日に、速(すみや)く煙り、ほのかにて、池の氷の偏るに使わぬ鴛鴦(をし)の立ち騒ぐ、羽風も寒き暁は独りぬる身や浮かるらん。

又巽(たつみ)の方を見れば、色々の鳥の羽根にて葺き分けたる館(やかた)百計並びたり。其内を見れば、玉の床に錦の褥(しとね)を敷き、七宝(しつほう)の格子(かうし)の内には、玉の簪(かんさし)掛けたる、女房数多並み居て、琵琶琴調べ、或ひは、碁、双六に心を寄せたるもあり。

それより奥を見るに、大嶽丸か、住ける所と思しくて、黄金の扉に白金の柱にて、一旦高く作り、氷の如くなる剣鉾を隙間も無く立並べ、黒鉄の弓、胡(やな)ぐゐは数を知らず。

俊宗思召けるは、只今よき折節也、鏑矢一つ射ばやと思召けるが、先鈴鹿御前に問ひ給へば、しばらく待給ふべし。只今事の出で来るならば、眷属共に取籠られ、御命有まじ。

それを如何にと申に、此鬼は大通連(とうれん)、小通連(とうれん)、顕明連(けんみやうれん)とて、三つの剣有。此剣共を帯する内には、日本が寄て(寄りて)攻むる共、討たるゝ事は有まじ。

大嶽丸、我に契りを籠めんと度々言ひ語らへ共、終に靡く事なし。定て又、今夜も訪れ来るべし、さあらば、請じ入、睦ましげにもてなし、三つの剣を預りて、取べし。

其後来たらん時、易々と討ち給へ。先只今は帰給ふべしとて、打連れ立て、帰り給ふ。

案の如く日暮れければ、大嶽丸は美しき童子となり、鈴鹿御前の御枕に立ち寄りて(御枕元に立ち寄り)

 岩ならず まくらなりとも 朽ちやせん 夜々の涙の 露の積もれば

と詠み、袂を顔に押し当てゝ、泣きける。

鈴鹿御前はかねて巧(たく)みし事なれば、返し

 朽ち果てん まくらは誰に 劣らめや 人こそ知らね 絶えぬ涙を

と詠み給へば、大嶽丸、是を聞き、こはいかに千束(ちつか)に文の重なる迄、一度の御返事だに無かりつるに、只今の人の言葉の嬉しさよ

誠成かな、目に見えぬ鬼神をも哀れと思はせ、男女の中をも和らげ、猛き武士(ものゝふ)の心をも慰むるは哥なり、我哥の道を知らずしては、いかに此君と契りなん、天晴(あつはれ)、哥詠もかなと(哥詠みかなと)そゞろに我身を褒めたりけり。

さて鈴鹿御前の、側近く寄り伏し、此程尽くせし心の程を、哀み給ふにや、只今の言の葉こそ、有難けれと(とて)涙を流しければ

鈴鹿御前、我も岩木ならねば、いか計思ひつるぞや、構えて、見捨て給ふべからずと、打解け顔に仰せければ、大嶽丸も何か心を残すべき、来し方、行末の事、言ひ語らひけるが

明ぼの(曙)作る鳥の声(鳥の声に驚き)、置き別れ行、絹々の袖を控え仰られけるは、斯様成事、申につけて、おこがましき事ながら、此程、俊宗とやらん云者、我に文を(をナシ)通はしけれ共、手にも取らず

御身に斯く慣れぬると聞くならば、如何なる憂き目にや遭わすべき、心細く思ふ也、御身の剣(つるぎ)を我に預け給えかしと仰せければ

誠に去事有、其俊宗と言ふこ華奢(くわしや)めは、由有る曲者にて、我等をも狙ふと聞こえ候(聞て候)。

さりながら、此剣(つるき)共の有らん程は、御心安く思召て、御枕に立給へとて、大通連(とうれん)、小通連(とうれん)、二つの剣(つるき/けん)を抜き出して

扨(さて)、此剣(つるき)と申は、天竺、摩掲陀(マガダ)国にて、阿修羅王日本の佛法、盛ん也、急ぎ魔道に引入よとの御使に、某(それかし)、眷属共を具して参る時、此三つの剣(つるき)を給る事、後代までの面目なれば身を離す事なし。

然るを、一夜の情けにほだされて、鈴鹿御前に参らせて、御枕神に立給へとて、また夜を籠て立迷ふ、黒雲に打乗て、鬼の住処に帰りける。

かくて俊宗は此由を聞し召し、たゞ是佛神の御計らひ成とて、いよいよ観念(くはんねん)し給ふ。かくて夜も明ければ、急ぎ御用意有べしとて、先二つの(のナシ)剣(けん)を参らする。

今一つの顕明連(けんみやうれん)と言ふ剣は大嶽丸が叔父に三面鬼(めんき)という鬼が預かりしが、此程天竺へ参り候ぞや。

又今夜は鬼共に酒を勧めて飲ませよと、瓶子(へいち)を送りて候間、皆眷属共は酔い伏し候べし、御心安く思召て、討ち給へとて、鈴鹿は雲に乗て、立ち隠れ給ふ。

さる程に、大嶽丸、是をば夢にも知らずして日の暮るゝを待ちかねて来り、御前は何処(いつく)におはすぞと連中指して入ければ

俊宗、立向給ひて、鈴鹿御前と申は何者ぞ、定而(さだめて)大嶽丸と言ふ曲者か。

汝知らずや、我は是、日本の御門に仕え奉る田村大将軍俊宗とは我事也。十七にて、大和国奈良坂山に金礫のりやうせんと云、化性の物を従え、大将軍司を給り、御門を守護し申事、異国までも其隠れ無し。

それに、なんぞ、目(ま)の前にて大悪を成す事、誰(た)が許しけるぞとの給へば、

大嶽丸は今迄美しき童子成しが、見る見る丈十丈ばかり成、鬼神となり、日月の如くなる眼を見出し、俊宗を睨みけるが、

天地を響かし、大音上げて、汝は、粟散(そくさん)国の御門の臣下として何程の事の有べきぞ、手並みの程を見せんとて、氷の如くなる剣鉾を三百計投げ掛くる。

され共、俊宗の味方には千手観音(くはんおん)と鞍馬の大非(ひ)多聞天、両脇に立給ひて、将軍の上に落ちかゝる鉾を払ひ給ふ。鬼神は怒りを成し、数千鬼(き)に身をなし、大山の動くごとし。

され共、田村、騒ぎ給はず。神通の鏑矢、射給へば、千万の矢先となり、鬼神の頭(かうへ)に落ちかゝれば、或ひは討たれ、痛手を負ひ、四方へ散り散りになりにけり。

され共、大嶽丸は微塵となり、磐石(はんしやく)と変化、しばらく打たれざれば、俊宗、剣を投げ給へば、首はたちまち打落とされ、雲霞(うんか)の如く見えたる眷属も皆消え消えと成にけり。

其後、鬼の首共をそう車(操車か)に積み、都に上せ給ふ、御門叡覧ましまして、伊賀の国を給はり、いよいよ栄え給ふ。

され共、俊宗は鈴鹿御前の情け深くおはしければ、頓而(やかて)御下り有て、明し暮らし給ふ程に、姫君一人出き給ひて、御名をばしやうりん(正林か)女と申て、いつきかしづき給ふ。

され共都遠き所なれば、折節は都の事思召して、何迄(いつまで)かゝる鄙(ひな)の住ゐならん、忍び都に上らばやと思召ければ、

鈴鹿御前、是を恨み給ひて、元より我は下界の人間にあらず、何事も御心に思ひ給ふ事を我知らぬ事なし。さしも、二(ふた)世とこそ契りつるに、早くも変わりたる御心かなと涙にむせび給へば

田村、聞し召し、いざとよ、心の替るは候(さふら)はず、されども、此所に角て(かくてか)永らへ候へば、君の御恵みも薄くなり、又は郎党共の思はん程も計り難し、同じくは、都へ御供申て住まばやとこそ、思ひ候(さふら)へと仰せられければ、

その御言葉も理なれ共、去ながら、我は此山の守護神となり、都を守り申べし、急ぎ御上り候へ、御心こそ替りたり共、我は正林(しやうりん)と申姫が候上は、弓矢の守り神となるべし。

さあらば、此暮れには近江の国に悪事(あくし)の高(たか)丸出て、世の妨げを成すべし、さあらば田村に又従えよとの宣旨下るべし、内々御心にかけ、御用意あれと仰せければ、

田村、聞し召し、こは恨めしき御事かな。諸々共に上り、都の住ゐもがなとこそ思ひつるに、いかで見捨て参らすべきと仰せける。

鈴鹿、聞し召し、先々此度は我にまかせて御上り候て、やがて又下り給へと有しかば、力なく、俊宗上洛有て、先ず(まつ)参内なされければ

御門叡感(ゑいかん)有て、管弦(くはんけん)、乱舞(らんふ)、御哥合、様々の御もてなし成上(なるうへ)、公卿天上人、とりどりの御慰めに、更に夜昼かけて、御暇もなし。

角て、弥生(やよひ)の末より、神無月の初此まで、御遊覧有ける所に、鈴鹿仰せし如く、近江の国に高丸(たかまる)という鬼出きて、行きの者を失ふ事数を知らず。急ぎ討つて下さるべしとて、在々所々より申来る。

此由、奏聞申ければ、たまたま将軍の在京なり、此年月の辛苦(しんく)をも慰めんと思ひつるに、幾程もなくて、かゝる事こそ恨めしけれ、さりながら、誰に仰付られん者なしと仰せければ

俊宗は時の面目、是に過じと喜び、御請を申罷立て、鈴鹿へ此由申さばやと思し召すが、いやいや、通力にて疾く知り給ふべき物を時移りては悪しかりなんと思召、

十六万騎の兵を引具して、高丸城(じやう)に押し寄せ、内の有様、見給ふに、石の築地(つゐち)を高く突き回し、黒鉄の門を差し固めて、攻め入べき様も無し。

俊宗、門前に駒駆け据ゑ、確かに聞け、只今汝が討手に向ふたる者をいか成者とか思ふらん、異国までも隠れなき、藤原の俊仁(藤原利仁か)の嫡子に、田村将軍藤原(ふちはら)の俊宗なり。

手並みの程は定而(さだめて)聞きこそは及ぶらんに、なにとて罷出て、降参(かうさん)して命を継ぎ(つき)、己(をのれ)が本国へ帰らぬぞとの給へば、城(しやう)にはなりを鎮めて音もせず。

俊宗、腹をたて、鈴鹿御前の伝へ給ふ火界(くわかい)の印を結びて城(しやう)の内へ投げ給へば、火炎(くわゑん)と成て焼け上がる。高丸は雲に乗て、信濃の国ふせやか岳へ落ち行ける

田村、続いて攻められければ、駿河の国、冨士(ふし)の岳へ落ち行ける。これをも頓而(やかて)攻め落され、外の浜に落ち行けるが、是をも攻め付けられて、唐土日本の境に岩をくり抜き、城として引籠ければ、

陸(ろく)地に続く程は攻めけるが、海上の事なれば、いかゞせん、先引とり、兵船を調、重て寄せんとて引き給ふが、十六万騎の兵(つはもの)、爰かしこにて討たれ、やうやう二万騎計になり。

都へ上り給ふとて、鈴鹿の坂の下、まかりの宿に着き給へば、鈴鹿御前、出向、何とて只今陣を引給ふぞと仰せける。

俊宗、聞し召、其御事にて候、罷向ふ時も御暇乞ひに参らばやと存候へ共、至極移りなんと思ひ、罷通り候也。

高丸をば随分攻め候へ共、今は海中に岩をくり抜きて引き籠り候間、船を調へん為に、先、都へ上り候、其上、人数多討たれ候、此由申上、頓而(やかて)又打よせ候べしと仰せければ、

鈴鹿、聞し召し、舟も兵も(舟も軍兵[くんひやう]も)、如何程集め給ふ共、凡夫(ほんぶ)の力に叶ふべからず。兵(つはもの)共をば、急、都へ上せ給ふべし、妾(わらは)は(はナシ)参り、謀り出し、易々と討たせ申さんとて、神通の車に乗、たゞ二人、刹那が間に外の浜に着き給ふ。

高丸は折節、昼寝して居たりつるが、かっぱ(かつは)と起き(をき)、例の田村が又来るぞ、用心せよと云うまゝに、岩戸を立て、ひき籠る。

其時鈴鹿は左の手を指上、天を招き給へば、十二の星、廿五の菩薩、天下り給ひて、微妙(みめう)の音楽(をんかく)を揃へ、彼岩屋の上にて(てナシ)舞遊び給へば

高丸が寵愛(てふあひ)の娘、是を聞、あら面白の音楽(をんかく)や、天竺にありし時は度々聞きけれ共、か程の楽(かく)は未だ聞かず、哀見ばやとこそ甘へけれ。

高丸、申様<誠の楽と思ふべからず。田村と鈴鹿、我を謀り出ださんとて、する事ぞかし。構えて見る事、無益(むやく)なりと言えば、

娘、重て申様(やう)、露わにも出て見てはこそ悪しからめ、戸を細目に開けて見候に、何の子細の有べきと言ひければ、力無く、岩屋(いはや)の戸を三寸計、開けて覗きければ、

二十五の菩薩(ほさつ)、てんとうし(天童子か)、集まりて、殊に妙なる音楽(をんかく)を揃へ、舞ひ給へば、あまりの面白さに開くるとは思はねども、広々と開きければ

鈴鹿、田村にあれ遊ばせとの給ふ。俊宗、黒鉄の弓に神通の鏑矢、打ち番(つか)ひ、しばし固めて放ち給へば、雷の如くに鳴り渡り、高丸が眉間を射砕き、腰骨欠けて、後ろなる石に貫かれける(つな[ママ]ぬかれける)

其時、剣(つるき)を投げ給へば、高丸親子、七人が首を打落とし、八人づつ(つゝ)の人足に持たせて都へ上り給ひければ、勲功勧賞(くんかうけじやう)、思ひのまゝに頂戴して、又鈴鹿へ下り給ふ。

御前は喜びの神酒(みき)を勧め(勧めて)、夜もすがら管弦(くわんけん)して明かし暮らさせ給ふか、ある時、鈴鹿仰せけるは、一歳(とせ)、大嶽丸が顕明連(けんみやうれん)の剣を取残せし故に、魂魄(こんはく)残て(残り)天竺へ帰り

又日本へ渡り、陸奥の国、きり山かたけ(霧山が岳か桐山が岳か)に立て籠もりて世の妨げをなすべきとの吹奏(すいさう)有、急ぎ都に上り、よき馬を求め給へと仰せければ、

頓而(やかて)上洛(しやうらく)して、馬を尋給ふ所に、五条の傍らに住荒らしたる館有、立寄見れば、二百歳にも及たる翁、馬屋(むまや)の前に眠(ねふ)り居たり。

又世の常の馬五つ計、一つにしたる程の馬を金鎖にて八方に繋ぎたるが、百日にも馬草(まくさ)くれたり共見えず、引立るとも、一足も(もナシ)行くべきとも見えず。

俊宗、此馬、売るべきかと仰せければ、翁、嘲笑ひ、何の用に此馬(むま)飼ひ給ふべき、欲しくば、価(あたひ)は要るべからず、引かせ給えと言ふ。

俊宗、うれしく思召、明日引かせ申さんとて帰給ひて、彼の翁に百石百貫に色よき小袖を添へて下し賜ぶ(たふ)。翁、大きに喜びけるとなり。

扨(さて)其馬を飼ひ給ふに、世中に並びなき名馬にて、俊宗乗り給へば、山を駆けり、海を渡るも同じ平地の如し。不思議に思召、鈴鹿へ行(ゆ)かんと思ひ、乗出し給へば、刹那が間に着き給ふ。

鈴鹿御前は御覧じて、あっぱれ(あつはれ)御馬候、是に召されて陸奥(むつ)の国、きり山かたけを御覧しをかれ候、大嶽丸が来り候とも、駒の足立(あした)ちを知らせ給はゞ、たゞ、一かせん(火戦か)の勝負ぞと仰せられければ、

頓而(やかて)、此駒に打乗て、東を指して打ち給ふに、片時の間にきり山辺りを駆け回り、元の所に帰給ふ。

かくて月日を過し給へば、案の如く、大嶽丸がしんはく(こんはく:魂魄)、元の如くに成て、きり山か峰に居(ゐ)て、人を取事、数限りなし、此由奏聞申ければ、廿万騎の軍兵を田村将軍に付け給ひて、急、打つ立つ(うつたつ)べしとの宣旨なり。

俊宗、畏而承、此由鈴鹿に(鈴鹿に此由)語り給へば、人数(人じゆ)は左様に入るべからず、たゞ、御手勢計、つれ給ふべしとて、皆人々をば返し給ひて、五百余騎の手勢計、召し連れ給ふ。

都より、きり山迄は三十五日の道なるを、軍兵共をば先に立て、俊宗は鈴鹿御前と酒宴(しゆゑん)、管弦(くはんけん)、様々の御遊びにて、七月の末(すゑ)より八月半迄、夜と共の御游、様々なりしか。

都を出て、三十四日と申に、鈴鹿を出る。御前は飛行(ひきやう)の車に召す。俊宗は、彼駒に打ち乗り、片時の間にきり山の麓に着き給ふに、軍兵共は、未だ二時(ふた時)ばかり後に着きける。

去程に、鬼神は山を掘り抜き、口に大磐石(はんしゃく)を扉(戸ひら)として、攻め入べき様は無し。され共、田村はかねて案内は知る也、搦め(からめ)手に回り、攻め入て見給えば、大嶽丸は無かりけり。

門守りの鬼、一人出、何者なれば、我に案内も言はで通るらん、物見せんとて黒鉄の棒(はう)にて打たんとすれば、俊宗、扇にて打落とし、憎き物の振る舞ひかなとて先縛(いまし)めて引出す。

扨(さて)、大嶽はいづくに有ぞと問ひ給へば、八大王と申は我等が衆(しう)の主成か、蝦夷(ゑそ)が嶋におはします。御見舞ひのために昨日(きのふ)御越候程に、頓而(やかて)帰り給はんと申せば、

俄に空曇り、神なり(雷)して、黒雲一群(むら)の中より鬼の声、凄まじくて、あら珍しや、田村殿、久敷程の見参也、一歳(とせ)、伊勢の鈴鹿山にして、御身は某(それかし)を(をナシ)討ち止めたりと思ふらん。

我は其比(そのころ)、天竺に用有て玉しゐ(魂か)一つ残し置て帰る也、それを我本躰と思ふらん、人間の知恵(ちゑ)の浅ましさよと笑ひければ、

田村、聞給ひて、それは然(さ)る事も有べし。汝が剣(つるき)は如何にと仰せければ、是こそ顕明連(けんみやうれん)よとて指上る。

俊宗、御覧じて、嬉しゝ嬉しゝ、二つの剣(つるぎ)は給はりて日本の宝と成し、今一つの剣を取残し、心に掛かり思ひしに、是迄の持参、何より満足なりとの給へば、

大嶽丸、腹を立、あの童(わっぱ:わつは)に物な言わせそ、三面鬼は無きかと言えば、面(つら)の三つ有、赤き鬼、踊り出て、大石を雨の降る程打けれ共、一つも当たらず。

其時俊宗、例の大弓に鏑矢番(つか)ひ、しばし固めて放ち給へば、三面鬼が真っ向(まつかう)射砕かれ、明日の露と消えにけり。

大嶽、腹を据ゑかね、手取にせんとて、半町計、一飛びに飛んでかゝるを飛び違えて、斬り給へば、首は前に落ちけるが、其まゝ天へ舞ひ上がる。

鈴鹿御前は御覧じて、此首只今落ちかゝるべし、用心あれとて鎧兜(よろひかふと)を重て着給ふに、二時計有て鳴り渡り、田村の兜の天辺(てへん)に喰らひ付、

俊宗、兜を脱ぎ、御覧するに其まゝ首は死にける。

残りの眷属共には繩(なは)を掛け、引き上り、皆斬つて獄門に掛けられける。又、大嶽丸が首は末代の伝へにとて、宇治の宝蔵(ほうさう)に納、千本の(千もとの)大頭と申て、今の世迄も、神輿の先に渡るは、此大嶽丸が首也。

去程に、将軍の御威光(いくわう)、弥々(いよいよ)勝りける。角て、俊宗鈴鹿御前と猶浅からぬ中と成給ひけるが、鈴鹿御前、たゞ風の心地(ち)と仰せられしか、次第におもらせ給ふ。俊宗心憂く思召、様々の御祈りあれば

鈴鹿、此由聞し召し、我は仮に此界に生まるゝ也、此世の化縁(けゑん)尽きたれば、いかに祈り給ふ共、甲斐(かひ)あるまじ、暇申て、田村殿、正林(しやうりん)を愛おしみ給へと言ひ捨て、空しく成給ふ。

俊宗の御嘆き、中々申計なし、あまり悲しみ給ひて、一七日に当たる日、焦がれ死にゝ、死に給ふか。

頓而(やかて)、冥途に行給ひて、倶生神(くしやうじん)を呼び、汝は十王の下人か、さらば、我、娑婆(しやは)の田村大将軍俊宗也。汝が主に対面したき由、申べしとの給へば、

倶生神、大きに怒り、娑婆にては何者にてもあれかし、今我等に左様の事を言はん者、無限へ打落すべしとて

黒き鬼と赤き鬼が引き立てんとしけるを高足(あし)だにてコロコロと踏み倒し、我云事、聞きまじきかと仰せければ、倶生神は肝を消し、たゞ呆れ果てたる計也。

やゝ有て、起き上がり、是非の子細もなく、十王の前に逃げて行、此由かくと申ければ、十王出給ふ。

其時俊宗、我妻、七日以前に身まかり候、急返し給るべしと宣えば、それは寵幸(てうこう)限あれば叶まじ、汝は非業(ひこう)也、急帰れと仰せければ、

寵幸(てうこう)なればこそ、返して賜(た)べとは申候へ、非業なれば言ひ分はなし、返し給はずは、狼藉(らうせき)の有べしとて、火界(くわかひ)の印を結、投げ給へば、大しやくてん(帝釈天か)焼け上る。その時、大通連(とうれん)を抜き給ひて駆け回り給ふ。

此大通連(とうれん)は文珠(もんじゆ)の化身なれば、十王も倶生神(くしやうしん)もいかで容易く思ふべき、閻魔(ゑんま)王は獄卒(ごくそつ)を召し、彼者を返せと仰せければ、

獄卒(こくそつ)申けるは、寵幸(てうこう)の者也、其上はや、身体も候はず、如何はせんと申ければ、鈴鹿と同じ時に生れたる女、美濃の国、とふかい(東海か)と云所に有、彼に取替よと仰せければ(仰せられければ)、

獄卒承って、彼からに取かへて、田村の前に出しけるが、有しより姿も変はり、形劣りければ、

俊宗、腹を立、本の如くに成して賜(た)び給へと仰せければ、

第三の冥官(みやうくはん)を御使にて、東方(はう)浄瑠璃(じやうるり)世界の医王(いわう)宝尺(ほうしやく)の薬を勧め給へば、尚其昔より慈(いつく)しく成らせ給ひけるとかや。

扨(さて)大しゃく(帝釈か)、の給ふは、今より後、三年の暇(いとま)を取らするなりぞと宣ひける。冥途の三年は娑婆の四十五年也。扨(さて)こそ、田村将軍と鈴鹿御前の御契は二世の縁とは申なれ、有難かりき験(ためし)也。

扨(さて)も此大将軍は観音の(誠は観音の)化身にてましませば、衆生済度(さいと)の方辺に仮に人間と現れ給ふ。

又鈴鹿御前は竹生嶋の弁財天女なるが、篤きしやしん(社人か)を助け、佛道に入給ふべきとて、様々に変化給ふも御慈悲深き事なり。

さて末代の験(ためし)には、清水寺の御建立(こんりう)、大同二年に成就(じやうじゆ)して、大同寺と申せしが、水の水上(みなかみ)清くして流れの末(すゑ)も、久方の空ものどかに、巡る日の、かけ清水の寺とし(御寺とし)、改めて、

猶此寺の坂上なる田村党(たう)の、軒端(のきは)の松の深み取り千代万代(よろつよ)の掛け締めて貴賤薫修(くんしゆ)する事、佛法繁盛の故なり。

此草子(さうし)見給はん人々はいよいよ観音を信じ給ふべし。

(彰考館古活字版ニハ、巻末ニ次ノ和歌ガアル)

 草も木も 我が大王(おほきみ)の 国なれば いづくか鬼の 住処おほ(マゝ)のなるべき

◆余談
 坂上田村麻呂に関する伝説は初めて読んだが面白かった。日本と言う枠組みを超え、唐の国、天竺と話が広がっていく。その中で祖父―父―子と三代の英雄譚が繰り広げられるのが興味深い。精読に手間をかけた元はとれた。

◆参考文献
・「室町時代物語大成 第九」(横山重, 松本隆信/編, 角川書店, 1981)※「田村の草子」pp.81-109
・金子恵里子『歴史民俗博物館「田村の草子」翻刻と解題』「専修国文」第八二号(専修大学日本語日本文学会, 2008)pp.63-107
・内藤正敏『鬼の物語になった古代東北侵略―「田村三代記」と「田村の草子」』「東北学」9(赤坂憲雄/編, 東北芸術工科大学東北文化研究センター, 2003)pp.338-364
・福田晃「奥浄瑠璃『田村三代記』の古層」「口承文芸研究」第二十七号(日本口承文藝学會, 2004)pp.1-33
・「説話文学研究叢書 第一巻 国民伝説類聚 前輯」(黒田彰, 湯谷祐三/編, クレス出版, 2004)pp.212-224

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 鈴鹿山――鈴鹿の草子を精読する
 鈴鹿山――田村三代記を読む

記事を転載→「広小路

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益田氏に関する創作演目

YouTubeで久城社中の「禅道鬼」を視聴。益田氏に関する物語らしい。粗筋が分からないのでググったのだが、ブログ「斉藤裕子でごじゃるよ~」によると、僧侶は雪舟とのこと。益田越中守兼尭(かねたか)が謀反を起こした大内道頓教幸(どうとんのりゆき)を改心させるという筋らしい。緩急が利いていて、速いテンポ一辺倒でないところが特徴だろう。

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2019年5月24日 (金)

多分、埼玉郡なのだが

帰りがけに都筑図書館に寄る。新編武蔵風土記稿で調神社を探すが見つからなかった。浦和なので、多分、埼玉郡だと思うのだが。昔の地名までは分からないので探すのが難しい。

浦和は足立郡だった。見つかったのだけど、文字が小さくて判読できない。

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2019年5月20日 (月)

どういうストーリーなのだろう――石見神楽、日本遺産認定

石見神楽が日本遺産に認定されたと知る。日本遺産って何だろうと思って文化庁のサイトを閲覧するが分かったようで分からなかった。

日本遺産のポータルサイトを閲覧。

・地域に点在する文化財の把握とストーリーによるパッケージ化
・地域全体としての一体的な整備・活用
・国内外への積極的かつ戦略的・効果的な発信

地域の有形・無形の文化財をパッケージ化することで点から面として把握できるようにする。パッケージ化に当たってはストーリー化して理解の容易化を図るということの様だ。国内外に情報発信するとあるので、観光に資するものという方向性の様だ。保存だけでは地域の魅力が十分に伝わらないとしている。

石見神楽の様に複数の自治体が絡むものはシリアル型と呼ばれる様だ。なお、日御碕神社で出雲神楽の定期公演が催されることが決まったとのこと。

<神々や鬼たちが躍動する神話の世界 ~石見地域で伝承される神楽~>
 島根県西部、石見地域一円に根付く神楽は、地域の伝統芸能でありながらも、時代の変化を受容し発展を続けてきた。その厳かさと華やかさは、人の心を惹きつけて離さない。神へささげる神楽を大切にしながら、現在は地域のイベントなどで年間を通じて盛んに舞われ、週末になればどこからか神楽囃子が聞こえてくる。老若男女、観る者を魅了する石見地域の神楽。それは古来より地域とともに歩み発展してきた、石見人が世界に誇る宝なのだ。

というストーリーらしい。ストーリーにも基準があり、興味深さ、斬新さ、希少性、地域性、理解しやすさ(専門的な知識がなくても分かる)といったものだそうだ。

石見神楽は江戸時代には既に舞われていたが、明治時代に入り、神職が神楽を舞うことを禁止されたため(神職演舞禁止令)、神楽の担い手が神職から氏子に移った。また、浜田市では神楽の改正作業が行われ、俗な口上台本を古風なものへと改訂され、また、テンポのゆったりとした六調子神楽から、テンポの速い八調子神楽へと変貌を遂げた。八調子神楽はそれまでの六調子神楽を塗り替える勢いで広がり、現在では六調子神楽の保存が課題となっている。

また、演目「大蛇」では竹と和紙で作られた蛇腹状の蛇胴が開発され、神楽のイノベーションをもたらした。スペクタクル化した「大蛇」は公演の目玉となり、トリの演目としてその地位を高めた。

なお、石見神楽では本来は岩戸からはじめて五神(五郎王子)で締める流れとのこと。

……といったところだろうか。舞台で上演される観光神楽は奉納神楽といった本来の文脈から外れるため、また派手な演出であるため「ショーである」といった批判もあるが、他地域にはあまり見られない程に普及している。いわば田舎のエンタメなのだ。

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2019年5月19日 (日)

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2019年5月12日 (日)

元々は二本の尾だった――玉藻前と悪狐伝

◆はじめに
 玉藻の前伝説は石見神楽の演目「黒塚」で既に取り上げたけど、今回は芸北神楽の新舞の「悪狐伝」を取り上げる形としたい。玉藻の前というと九尾の狐だが、出典の一つである「玉藻の草子」を読むと狐の尻尾は二本であった。天竺で千人の王を殺そうとしたことや、中国の周王朝を滅ぼしたという件はあるので、九尾の狐伝説の原型であることは間違いない。

◆芸北神楽の新舞「悪狐伝」あらすじ
「悪狐伝」前編
 北面の武士である坂部庄司蔵人行綱(さかべのしょうじくらんどゆきつな)は子供がいなかったので清水観音に祈願した。やがて玉の様な女の子が生まれた。才色人並み優れていると噂になり、やがて宮仕えすることになった。娘は和歌の才を見せ、玉藻前と呼ばれるようになる。
 厨部庄内(くりやべのしょうない)が清涼殿で宴が催されるので、料理の腕を振おうとした。玉藻前は桜の木陰に隠れた。すると悪狐が出現した。天竺と唐を滅ぼした金毛白面九尾の狐である。吉備大臣の帰朝について日本に上陸、鳥羽院の寵愛を受ける身となった。この国を魔国となさんとする。庄内が包丁で立ち向かうが、喰われてしまう。官女の桜の前が鉄扇を投げつけて悪狐は逃げ去る。
 安倍晴明播磨守安親(あべのせいめいはりまのかみやすちか)が占ったところ、玉藻前は変化の者に相違ないとなった。晴明は玉藻前と問答して、その正体を明かそうとしたが、逆に論破されてしまう。
 賀茂明神の巫女が晴明に玉藻前が九尾の狐であると神意を下した。正体を見破られた玉藻前は悪狐となって下野国那須野原に逃げ去った。

「悪狐伝」中編
 安倍晴明に正体を見破られた九尾の狐は玉藻前の姿で下野国那須野原に逃れてきた。一夜の宿を求めんとした玉藻前を十念寺の和尚・珍斉が迎える。親切に迎えた珍斉だったが、味噌を擦っている間に玉藻前は正体を現し、珍斉和尚を喰ってしまう。
 すると、後白河天皇に仕える三浦介と上総介が現れる。二人は玉藻前の正体を見抜く。九尾の狐と変じた玉藻前だったが、三浦介と上総介に討ち取られる。

「悪狐伝」後編
 下野国那須野原で三浦介と上総介に退治された九尾の狐だったが、その魂が留まって殺生石となった。
 殺生石の前を通りかかった飛脚飛助(ひきゃくとびすけ)だったが、弁当を食べようとしたところ、殺生石から悪狐が飛び出してきた。悪狐は飛助を喰ってしまう。
 下野国千溪寺の住持である玄翁和尚(げんのうおしょう)が法華経の功徳で悪霊を封じようとした。そこに玉藻前が現れ、狐の悪霊にとり憑かれていると告げたが、和尚は玉藻前の嘘を見破る。和尚は法華経の功徳で槌をもって殺生石を砕き、悪狐の悪霊を封じた。

◆動画
 YouTubeで高猿神楽団の「悪狐伝」を見る。基本的には中編の内容だった。YouTubeにアップロードされた一覧を見るに、中編が好んで演じられるようだ。娯楽性の強い神楽。珍斉和尚がお菓子を撒いて子供が寄って来る。化粧した男性が演じる玉藻の前をオカマと呼ぶ。金だらいで後頭部を叩かれて昏倒、狐に喰われてしまう。悪狐は何度倒されても立ち上がってくる生命力の強い狐であった。三浦介か上総介か分からないが、神の一方を女性が演じていた。そういう意味では激しい舞でも女性が舞える証明となっている。

 神幸神楽団の悪狐伝を見る。タイトルには後編とあったが、内容的には茶利の珍斉和尚との掛け合いと三浦介、上総介との殺陣であった。悪狐伝の中でも人気の高いのがこのパートなのだろう。狐は観客席に乱入したりして観客を楽しませていた。

 悪狐の衣装、モコモコなツナギだけど、もっと身体にフィットしたものにできないのだろうか。格段に格好よくなると思うのだが。

◆玉藻の草子・あらすじ
 近衛院、鳥羽院の御所に化性の前という並ぶべき者のない美人が現れて院に寵愛された。身からは香を焚かずとも蘭麝(らんじゃ)の香りがした。また教養が高く、どのような質問にもすらすらと答えた。ある秋、清涼殿で詩歌管弦の宴が開かれた。風がともし火を消してしまったが、化性の前の身体から光が発して辺りを照らした。それで玉藻の前と呼ばれるようになった。院は玉藻の前を妖しく思ったけれども傍に置いておいた。そうする内に院の体調が優れなくなった。典薬の頭(かみ)を召したが効き目がない。そこで陰陽の頭である安辺泰成を召して占わせたところ、邪気によるものだと答えた。七日間祈祷したが、効き目がない。泰成が申し上げることには玉藻の前の所行である、玉藻の前がいなくなれば平癒するだろうと答えた。詮議があって事の子細を申すに、那須野に八百歳を超えた狐がいる。その丈は七尋、尾は二本あるという。仁王教によると、天竺で塚の神となって班足(はんぞく)太子に千人の王の首を斬らせようとした。また、中国の周王朝では幽王を滅ぼしたという。そして今日本にやって来て仏法を滅ぼそうとするのだという。

 泰成は玉藻の前を幣取役として陰陽道の泰山府君の祭を行った。玉藻の前は嫌がるが泰成は幣取役を玉藻の前にさせる。すると、玉藻の前はかき消す様にして失せてしまった。それで院のご病気は平癒に向かった。詮議して武士を那須野に派遣することになった。上総介、三浦介が選ばれた。上総介、三浦介は那須野で狐を追うが、神通力を持った狐なので、どうしても仕留めることができなかった。一旦引き上げた上総介と三浦介は謀を巡らす。犬に狐を追わせることになった。七日七晩那須野を駆け巡ったけれども結果はでなかった。二人は神仏に祈る。三浦介の夢に美しい女房が現れて、自分が狐である。助けてくれれば守護神となろうと告げる。しかし、三浦介は遂に狐を射止める。狐の腹に黄金の壺があって仏舎利が収められていた。顔には白い玉があった。尾には二つの針があった。其の後、玄翁和尚が那須野を通りかかったところ、美しい女房が現れて殺生石があることを告げる。女房は討ち取られた玉藻の前の執心が殺生石になったと答える。玄翁和尚は悪念は却って善心の頼りとなると言って殺生石を供養する。すると殺生石は微塵に砕け成仏した。

◆由来譚
 狐の大きさは丈七尋、尾は二本とある。古い段階では九尾の狐ではなかったことになる。「玉藻の草子」では一番弓は三浦介がつけた。大島由紀夫『「玉藻前」諸本をめぐって』「中世衆庶の文芸文化――縁起・説話・物語の演変」によると、犬追物は那須野の狐退治に由来するという由来譚ともなっているとのこと。また、後世では尾から剣が出てきたとあるところを「玉藻の草子」では二つの針としている。

◆玉藻の草子・本文
「玉藻の草子」

※これは角川書店「室町時代物語大成 第九」に収録された「玉藻の草子」に私が独自で漢字を当てたものです。「室町時代物語大成」には注釈も現代語訳も無く、原文がドンと載っているだけなので、間違っている箇所も多々あるかと思われますのでご注意ください。

たまものさうし 上

主上近衛院、久寿元年、鳥羽の院の仙洞に一人の化女(けじょ)、出来れり。名は化性(けしやう)の前とぞ申しける。天下に並びなき美人。第一の賢女なり。

嵐峡(らんぎょう)の内に、花の顔ばせ、鮮やかに、楊貴妃の艶色を嘲り。芳体の内に綠の眉、細やかにして李婦人の姿、寥廓(りょうかく)の間(あひた)に変ず。

衣装に焚き物をせざれども、自ずから蘭麝(らんじゃ)の匂いを出す。容色、繕わざれども終日(ひめもす)に、桃李(とうり)の装い絶えず。

然間、院の御目近く召されて、御寵愛限りなし。院中の人々、高きも卑しきも、此の事、一大事とぞせられける。

およそ見る人、不縁の相を備えける間、聖主(しょうしゅ:仏)来迎かと疑い、常住不老の徳を現ずる間、天人の化現かと思ふ。歳の齢、廿(二十)とぞ、見えたりける。

かかりければ叡慮(えいりょ)に深く、思召入たり、大臣、諸卿も綾をなす事、限りなし。笑みを含み、言葉を和らげ、内典、外典(けてん)、佛法、世法(せほう)、何事につけても

つまづきなく、一々に薫灼(くんしゃく)申すに、本説に違わず。あまりの不思議さに、此化女(けぢよ)に物を言わせて聞こしめさんと思し召す。院、問わせ給うよう、

抑(そもそ)も、聖教(しやうけう)の中に煩悩即菩提、生死涅槃と云り。日々夜々に起こる所の、念(ねん)は皆是煩悩也。不縁生死とは、此の煩悩を働かさずして、直(すぐ)に菩提に至り、涅槃を招ずべきかと問い給へば、

化女、答えて申すよう、女の身にて、左様の事をば、いかでか知り申すべき。

然りと言えども、過去の光陰に惹かれて、男女(なんによ)変り目こそ候ども。心中(しんぢう)の佛性(ふつしやう)は一躰の事にて候へば、悟りにおいては、男女の不同、有べからず候。

その上、煩悩と、菩提と、生死(しやうし)と、涅槃、例えば水と氷のごとし、声と響きの如く也。しかるに、煩悩即菩提なりと言えども、思ふに任せて、煩悩を起こせば、煩悩、いよいよ、増長(さうちやう)す。

煩悩、生死なるが故に、心にまかせて、着心をなせば、生死(しやうじ)、いよいよ作る処なり。かるが故に、身には戒行を守(まほ)り息を起こさず。心に生死を厭い、偏に菩提興すべし。

その故は煩悩の風、荒く吹て、法性(ほつしやう)の智水ことごとく、氷となれども、潜心のゑ日(え衣[被]か)、高く輝くとき、煩悩の氷溶けて、法界(ほうかい)みな水となる。これ皆善悪の二つ也。而一不異(にいちふい)成が故也。

世間の道俗を見るに懈怠(けたい)して生死せず。破壊して、域を守らず。偶々当朝に入て罪業を智水にて洗わんとすれども、散乱(さんらん)の浪、気負い、起こり、一陣も未だ澄まず。

まれにも佛僧に向かいて、明暗を覚(さとり)、月にて照らさんと思へば、煩悩の雲厚く覆ひて、長夜(ぢやうや)の闇深し。

ただ起こる所の煩悩、妄想に目を掛けずして散乱の心、これ何物ぞ。長夜の闇、是何物ぞと。思料、上下して候へば、思念に涅槃の道を現して、たちまちに出世の妙諦(みょうたい)を現ずべき。

知恵もなく、道心も無き、人の前には世法佛法、隔てあり。道心堅固の人の前には、何者(いつれのもの)も、佛法(ママ)あらずと云う事なし。

ここを以て、或るいは一色(しき)一香(かう)、無非中道(むひちうたう)とも言えり、或いは、治生産業(ちしょうさんこう)、皆与実相(かいよじっそう)、不相違背(ふそういはい)、共読(どく)し、或いは鹿言挙動(ろくけんきよとう:マゝ)、皆是蜜印(かいせみついん)とも説けり。

およそ顕密二教の中には、全く出世の法なし。悲しきかな。健在黙然の佛法を知らずして、菩提を物ぐさく思う。

哀也かな。自身の佛果を悟らずして、むなしく、生を物ぐさしと期(ご)する事。たとえば一紙を隔てて千里と思いけり。

尺(しやく)を去つて、万里と思うごとく、世間の出世は一に世にして差別(しゃべつ)の物にあらず。ただ、悟ると悟らざるの差別也。

誠に書い越し給いたる太子、先徳の書置き給し、法文に少しも違わず申しける。

法皇も(マゝ)院も初め参らせて、御所中の上下、聞く人耳を驚かし、舌を振らずと云う事なし。

まことに此の女房の口のきゝ様(やう)、弁舌の滞りの無さは只者にあらず。なお物を言わせて聞し召さむと思食て。

重ねて仰出される様は、女性(にょしょう)のかように知恵才覚の有る事は昔も今も聞ず、見ざる也。さながら、富楼那(ふるな)の化現とも、龍女の再誕とも覚ゆるなり。

世間(よのなか)に不審多き中に、天に、川に、似たる物あり。我が朝には天の川と名付たり。空に川流るべきかと御尋ねありければ、

答えて申す様、粧鏡(しょうきょう)の面(おもて)に明らかに候へば、いかでか、知ろしめされては候。これは一毫(いちごう)の御物払ひかと覚え候。愚者の心には、帝釈の乗り給ひたる、大層の威儀とこそ見えて候へ。

その故は、一切の物には必ず精と申すが候間、雲の精(せい)とこそ、覚え候へ。雲と云は天地の息なり。日の照る時は、天の川消え、雨の降る時は天の川増す。

雲暖かにして、熱き時は雨降らす。雲晴るれば雨なきが故也。しかる間。一切の雲中、天の川以て精として候と申す。

まことに、院、聞し召されて、雲の精と申す。一段面白き也。また青黄赤白(しやうわうしやくひやく)の蓮花の中(なか)にはいづれを精とすべく候と問い給えば、青(しょう)蓮花を以て精とすと申す。

また、一切の山林(さんりん)に生(しやうし)たる草木(そうもく)の花の中にはいづれを精とすべきと問せ給へば、優曇華(うどんけ)を精として候と申。

また、沈香(ちんかう)、白(びやく)檀、竜肝(りうたむ)、蓮香(れんかう)、以下の中には何れを精とすべく候哉と問わせ給えば、一切の香の中にも牛頭(ごづ)栴檀(せんだん)を精として候と申す。

又、よろづの玉の中には何れの玉を精とすべく候哉と宣えば、如意宝珠(によいほうじゆ)を精として候と申す。

また、諸々の海の中には、何れの海を精として候と問給へば、諸(もろもろ)の海の中には大海(たいかい)を精として候と申す。

また、一切の山の中には、何れの山を精として候哉と問い給へば、須弥山を精として候と申す。

また、金銀銅鉄(きんぎんどうてつ)の金(かね)の中には何れを精ととして候と、問わせ給えば、金剛(こんかう)を精として候と申す。

また、諸々の龍王の中には何れをと問せ給えば、娑竭羅龍王(しやかつらりうわう)を精として候と申す。

また、諸々の獣の中にはと問せ給えば、獅子王を精として候と申す。

また、諸々の善人の中にはと問せ給えば、釈尊(しやくそん)を精とすべきと申す。

また、万(よろず)の鳥の中にはと問せ給えば、金翅鳥(こんしつてう)を精として候と申す。

また、悪人の中にはと問せ給えば、魔醯修羅(まけいしゅら)を精とすべきと申す。

また、諸々の経の中にはと問せ給えば、法華経を第一の聖教(しやうけう)の精として候と申す。

およそ、一(いち)を問えば、十を答え、浅きより深きに至(いたり)て何事も(マゝ)問せ給へども知らずと申す事なし。まことに、権者の化現(けげん)と思召。御心にも打ち解け難く思召けれども、一度(ど)笑えば百(もも)の媚(こび)あり。

西施かかんしよくもいま爰に有りと。御愛念深かりける程に、少しも御傍らを離れず、上には化性(けしやう)の前と名付させ給へども、御気色(きしよく)には偏(ひとへ)に女御(によご)のごとし。

有る九月廿日あまりの比。秋の名残を惜しませ給て清涼殿にして詩哥(しいか)管弦(くはんけむ)の御遊(ぎょゆふ)の有しに、院は化性の前を御傍に置かせ給ひ。御御簾近く御座(おはしまし)けるに、庭上の嵐激しくて御殿の燈(ともしび)を吹き消すに、

御側に候ける、化性の前の身より、光を放(はなち)て殿中を輝かす。これは、いか成、天変ぞやと。大臣公卿怪しみ、かなたこなたを見回しければ、御御簾の内より出る光なり。朝日の光

に異ならず。

俄(にはか)かに管弦を差し置きて光怪しき事を奏聞せむとする所に、院、宣(のたま)ひけるは、あら、不思議や。これ成(なる)女性(によしやう)の身より光を放したるぞや。

諸法に通達して、世間出世のことより匂ひを出し。ちんたむ蘭麝(らんしゃ)の芳しき事をこそ不思儀(マゝ)に思ひしに。あまつさへ身より光を放つ事、権者(ごむじや)にあらず、また実者(じつしや)にもあらず。偏に佛菩薩(ふつぼさつ)の境涯也。

和尚(かしょう)尊者の因位(ゐんゐ)の事を聞くに極て、貧女にてましましけるか。金(こかね)を一粒(りう)求めて、自(みづから)、ちい(マゝ)しゆようせず。博師に誂へて漠と成して

古き塔の中に御眠蔵(めんざう)の剥げたる佛のおはしけるを貧乏の業因(ごうゐん)を先駆拝して。博士とともに佛道ならんと契りけるか。

その後、九十一こうか間、生(むま)るゝ度毎に金色(こんじき)の光を放つて、遂に佛の第一の御弟子と成りて、和尚尊者と言はれ給ひし時も、昔の古き佛(ほとけ)に推しし所の、漠の縁朽ちずして。

その身金色にして、光を放つのみにあらず。如来の定法を伝て第一の御弟子となり給ふ。

今、此の女性の内殿、外殿(げでん)に暗からずして、知恵才覚、人に優れ候事、只に非ず。

ことに身より光りを放つ様、前生(ぜんじやう)いかようの善因を植え、いかなる功徳を受し給ひけん。返々も不思議に覚え候。これ偏に人間にも准(じゆん)すべからず。肉陣の大事と思はるべし。

次手(ついで)を以て、不審の事あらば、問申すべしとて、簾(みす)を打上給へば、廿日あまりの闇なれども、昼よりもなお明し。此れ程は、化性の前と申しけれども、今の光に付(つき)て玉(たま)藻の前(まへ)と申すべし。

かようの有難き化現の人には別(べち)の名は有るべからず。和光同塵(わくはうどうぢん)とて佛菩薩なれども人間に交わり給ふ時は、皆、その名を呼び候間。玉藻の前と申すべしとぞ。仰(おほせ)せられける間(ママ)。

何事も過ぎぬれば、その曲(きよく)なき物なり、此の光を放(はなつ)てより少(すこし)恐ろしく思し召して、御傍らに候へども、日頃(ひごろ)のごとくには思食されず。

管弦(くはんけん)の次手(つひで)に何事も不審の事あらば尋ぬべしとの御気色(きしよく)ある間、末座(ばつざ)なる若殿上人、進み出て申されけるは、管弦は大方相(そう)伝して候へども、未だ五音(いん)と申す事をあきらめず候。

管弦(くはんげん)は、およそ五音を以て時の調子(てうし)を分明(ふんみやう)にしてこそ。其息も出来(いでき)て、その管を催す事にて候へ。五音に比べ候間、しかる所の管弦も定めて調子(てうし)に外れ候らん。五音の起こりは如何にしてあきらめ候べきと問いければ、

答へて申す様、五音とは五臓(ざう)から出たる息の音也。五臓より出る息、五色(しき)の雲のごとし。五臓の息の響きに各々五行(きやう)の音をつかさどる。

此の五臓の声分かれて、六調子、呂(りよ)、律(りつ)の二(ふたつ)と成(なり)、呂の声と申すは喜ぶ時の声也。律の声と申すは、悲しむ時の声(こゑ)なり。

しかれば、双調(そうでう)、黄鐘調(わうしきでう)、一超(乞)調(こつでう)、此三の声は呂の声なり。平調(ひやうでう)、盤渉調(ばんしきでう)は、律の声也。かかるが故に、呂律の声にして不調成(ふてうなり)、一つの声の有を無調(てう)と名付たり。

いかなれば、無調(むでう)とは申すやと云うに、五調子(てうし)の外(ほか)に、別(べち)に無調の、有にはあらず、呂の声に准(じゆん)しながら、しかも双調。黄鐘(わうしき)。一超。三つの調子に違える。故(かるがゆえ)に無調と名付け。

これ即ち、呂の声ながら少(すこし)律の声を兼ねたる故に、一向、呂の声にして三調子には渡る也。

をよそ、一々の調子に甲乙(かうをつ)の二つの声有り。甲の声と云は上音(じやうをん)の声也。出る息の甲(かう)の声、是也。乙(をつ)の音と云うは下音(げをん)也。入息(いるいき)の乙の声、是也。かくのごとく心得て、調子を探るべしと申しければ、

又、問い給ふ様は双調黄一(わういち)の三つの調子をば。何故に楽(らく)の声と名付て呂の声と定(さだめ)。平調(ひやうでう)盤の三つ(マゝ)の調子をば、いかなれば、悲しみの声と名付て、律の声と定めて候やらんと。問給へば。

答て申様、人間は苦楽相並びて、盛ん成ものは必ず衰え、生(しやう)有者は必ず滅する作法有り。出る息は入息を待たず。入息(いるいき)は出る息を待たず。五調子は、五臓より出(いづ)る。息の根を以て無常の時分(じぶん)を表す物なり。

其の次第(しだい)を明かさば、王鐘調は心(しん)の臓(ぞう)より出る。息の声音は乙の声に返る也。其の故は、甲の音(ね)に高く上(あぐ)るときは脾(ひ)の臓の土の上に準じ、甲の音(ね)より乙の声に響く時は、肺の臓の金(かね)の声と同じ。

かるが故に土の色(いろ)を以て黄(わう)と名付(なづけ)、金の声を以て鐘(しき)と名付也。

一超調は脾(ひ)の臓より出る、息の音なり。此の臓は土に司る。五行の中には、四季に通じて王と成故に。超(こつ)と名付く。其徳、大きにして四方(はう)を兼(かね)たる故に、一と名付。

次に平調(ひやうでう)は肺の臓より出る。息の音なり。此臓は金(かね)に司る。金は物を切る徳を具(ぐ)する故にまさしき。律の声を調ふる間、平調と名付。

次に盤渉調(ばんしきでう)は腎(じん)の臓より出る息の音なり。此臓は水に司る。しかるに、玉は水の精也。水はわだかまるを以て能(のふ)とす。川と云は水の道也。撒かれるを以、習いとす。

故に盤と云う字をわだかまると読みて、玉の度に準ず。是を以て盤渉調とは名付。渉(わたる)と云字をば渡(わた)ると読む。是も水の道に準ず。是を以て盤渉とは水の徳を表す名也。

双調(そうでう)は肝(かん)の臓の息の音也。木につかさどる。木は東方(とうばう)。春に現れ、春はよろづの草木(さうもく)みな生ずる時分也。一切の草木は天より種を下して陰陽相応する時生ずる也。

しかるに、天地の二つは父母(ぶも)のごとし。草木は子のごとし。是によって双調の上無調(かみむでう)を父として下無調(しもむでう)を母として生ずる声也。故(かるがゆへ)に双調と云字を並べ調ふると読む也。

上無調は呂を本(ほん)として律を兼ねたる間、此の音(ね)を天に喩ふ。天上には楽(らく)多ければ、呂の声を父に喩へて慈父(じぶ)と名付。慈(じ)と云は楽を集むる心也。

下無調は律を本として呂を兼ねたる声也。是を地に喩ふ。土の下には苦しひ多し。然(しか)る間、律を母に喩へて悲母(ひも)と名付。悲と云は苦(くるしひ)を抜く心也、故に双調は上無(かみむ)調を父母(ぶも)として生(しやうじ)たる声也。

爰を以て外(ほか)には四大の風吹(ふけ)ば、此風に吹かれて五臓の息、自然(じねん)に六調子と成。是にまた深き心有。

我等衆生と云は生住異滅(じやうじういめつ)の四相を具足して生じたる間、五臓より吹出す声に悦び、悲しひの二つの声有り。

先(まづ)、双調は木の声也。木は東の方の性(しやう)に付(つく)。一切の物皆、生ずるを以て悦びとす。

黄(わう)鐘調は火の声也。火は南方(なんばう)の性につく。一切の物は時に住して盛(さかん)を悦びす(マゝ)。

一超調(こつでう)は土の声也。土は常住にして衰ふる事なき故に悦びとす。以上、三調子は悦(よろこ)びの声と名付る事、かくのごとし。

次に平(ひやう)調、盤渉をば悲しひの声と名付て律の声と定る事は。平調は金(かね)の声也。その故は秋にあたる。悦(よろこび)の草木、皆、色付て、金色(こんじき)に成をば。異(い)の相と名付。

滅する相の兼ねて現ずる間。異のの(マゝ)相と名付く。これに仍(よつ)て金(かね)の音(ね)を悲しみの声とは云り。次に盤渉調は律の声成が故に悲しひの声と名付也。

又、問給様は生住異滅の四相は、世間の諸法に現れ侍(はんべ)る間、明らかに聞食(きこしめさ)れぬ。人身(にんじん)に付ては、いかゞ心憂べき。

答て申す様、此四相を人身に表さば、人生(むまれ)て一歳より(マゝ)廿歳(さい)以後は住(ぢう)の相也。紅顔鮮やかにして身の力もい(つカ)よければ(強ければ)、悦(よろこび)の声も盛(さかん)也。

四十より以後は、異の相也。白髪未だ老ゐざれ(マゝ)ば、面(おもて)の色、次第に傾げて、気力(きりよく)漸く衰ふ。

五十にあまり、六十に及(をよび)ぬれば、頭(かしら)の雪、次第に積もり、眉に霜を競へて秋の色を表す。諸(もろもろ)の草木の葉も落て、木(こ)の実も落ちぬるは、滅(めつ)の相と名付。命(いのち)既に極まり又は両眼に涙浮かぶ。是を冬の水の相と名付く。

此の四相を人身(にんじん)に寄すれば、一期(ご)の内に四相あり。年に寄すれば一年の内に四相有り。月の寄すれば三十日の内に四相あり。是を日に寄すれば十二時に四相あり。時に寄すれば(以下十四字マゝ)十二時(とき)に四相あり。時に寄すれば時々に四相あり。

これをつゞむれば、出入(いていり)の息に四相あり。これを猶つゞむれば、一念(ねん)一刹那(せつな)に四相有。此の故に六調子時々に変わり、苦楽、念々に来り去る。

これに依(よつ)て、聖教(しやうげう)の中には念々消滅の法文(もん)を説きて生死(しやうじ)の無常を知らする也と申しければ、御所中に連なる大臣公卿一同に感涙を催しけり。

その後、ことの役に参られける殿上人問給ふ様、琴(こと)をば型のごとく相伝(そうでん)して候へども作者を知らず候、いかなる人の嘆じ始候哉らんと、問ければ、

答て申様は、琴をば伏義(ふつき)神皇作れる也。長さは三尺六寸、一年也。三百六十日にかたどる。絃(けん)をかくること五弦、これは五行にかたどる。

周書(しうしよ)に曰く、文王、琴を好み嘆じて一絃を加ふ。是を名付て文絃(ぶんけん)と云う。其後(そのゝち)、武王、一絃を加ふる。是を名付けて武絃(ぶげん)と云う。不思議の五絃をぞ加ふれば七絃也。これを名付て、宮(きう)、商(しやう)、角(かく)、徴(ち)、羽(う)、文(ぶん)、武(ふ)と云也と申す。

其後、横笛の役に参る人の問ひ給ふ様は。横笛の事、少々相伝して候へども、其故を知らずと申されければ、

横笛(よこぶえ)は、はゆふと申人の作りて候。かのはゆふ、有る池の辺(ほとり)を通りけるに、水中に龍(りやう)の吟(ぎん)ずる事、二声也。あまりの面白さに猶聞かんと思ひて立ち安らひけるに、龍(りう)、即、天に上(のぼ)りぬ。その後、竹を選りて是を吹くに、龍の声に少しも違はず。

笛(てき)と云人、七歳のとき位に付。昔、天下に日照りするに、王、これを嘆き給ひけるに、夢中(むちう)に二つの笛を得たり。

一つは旱笛(かんてき)と云。今一つは雨笛(うてき)と云。王、夢覚めて、雨笛を取て吹給ふに、雨の降事、夥し。また、旱笛を吹給ふに即、天晴れ候と申しけり。

また、笙(しやう)の役者、進み出て、申されけるは、笙の元来(ぐはんらい)を知らずと、問給へば、

案ずる気色も無く、笙をば伏義氏の妹、女媧(ぢよくわ)と云う人のつゝ(くカ)(作)れる也。この女媧は腰より上(かみ)は女也。腰より下(しも)は蛇(じや)也。笙を作りて吹しかば。六月に霜の降ること夥し、此の笙を吹くたび毎に鳳凰(ほうわう)来りて舞遊ぶと申す也。

また琵琶(ひは)は何(いづ)れの人の作りけるぞと問ければ、これも伏義(ふつき)氏(し)の作れると申す。

皷(つゞみ)は誰人の作りけるぞと問ば、これも伏義氏の作れりと申。また、秦の穆公(ぼつこう)の作り給ふと申す、その後、法王山(ほうわうざん)に石の皷有。皷の鳴る時はかき曇りて雨降り候と申す。

また、鐘(つきかね)をば、誰人の打ちはじめ候哉。鐘はふしと云う人の鋳そめて候と申。ほうれひ山と云う山に有(ある)。鐘(かね)は秋霜(しうさう)の降る時、必ず鳴り候と申す。

また、詩(し)は誰人の作り始けるぞと宣(のたま)へば、詩は松陵(せうりやう)と云う人の作りて候と申。

鏡はと宣えば、くんしゆけいがし初め候。硯はしろが作りて候、筆をば蒙恬(もうてん)が結ひ初(はじめ)候。墨はなしつと申す人、作り初候。

紙はいかにと宣へば、紙は蔡倫(さひりん)と申者、漉き初め候。扇(あふぎ)はと問給へば、班婕妤(はんせうよ)が作りて候。車はいかにと問給へば、奚(けひ)仲(ちう)が、作り初めて候。舟はと宣へば貨狄(くわてき)と申者の作り初めて候。

碁(こ)は誰人の初候ぞと宣へば、碁は堯王(けうわう)の子に丹朱(たんしゆ)と申人の案じ出して候、双六はいかにと宣ば、子建(しけん)と申人の始て候と申。

弓矢、毬、行李(かふり)はと問い給へば、皇帝(ママ)の時より始り候。履(くつ)は誰人の作り候ぞと問給へば、れひうんが作て候。鎧は誰人のし初め候ぞ。蚩尤(しゆう)が作り初めて候。いし(医師か)はいかにと問給へば、きはしとかう。

茶は利光(くわう)が作りはじめ候。穀の類は神農の時始まり候。井を掘る事は誰が始めけるとぞ宣へば、はくゑきが掘り始めて候。

また、宮寺を作り始めたる根源を問い給へば、漢の明帝(めひてひ)の作り初められ候と申す。

総じて、内殿、外殿、その外、何事をも心を合て、諸人(しよにん)問ひ給ふに暗からず答へ申也。院を始め参らせて、舌を巻きてぞ、おはします。

院は玉藻の前が知恵才覚の人に優れたるのみにあらず、身より光りを放し、蘭麝(らむじや)の匂ひを出す事、妖しく思し召しけれども南閻浮(なんゑんぶ)に於ゐて第一の美人と申べき。

御心ざしの色、まことに他に異也、かつせう(合掌か)の床の前には遥かに千年(せんねん)の松を契り、玉の台(うてな)の上には遠き齢(よはひ)を万年(まんねん)の亀に伍して明かし暮らしおはします所に、

不思議に玉躰(ぎよくたい)を悩まし、世の常の御風気(ふうき)と思し召しけるに、御悩(ごなう)重らせ給ふ。

典薬の頭(かみ)を召して、御尋有りけるに、この御悩は常様(つねさま)の御悩にはあらず、御邪気(じやき)にて渡らせおはします。遺偈(いげ)の御療治(れうぢ)を加へ奉らん事、叶(かなふ)べからず(マゝ)、奏聞申す。

然(しかれ)ば、陰陽(をんやう)の頭(かみ)、安辺(あべ)の泰成を召して、占はせらるゝ。とかく、詳しき事をば申さず。此御悩に付て、御大事、出来させ給ぬと存候。早速(さうそく)に御祈祷を始めらるべきと申し上(あぐる)。

仙洞の上下、大に驚き、南部北嶺の貴僧高僧、諸事諸山の能化(のうけ)、徳行(とくぎやう)の人々を召して、大法秘法を壇を並べて、念珠読経(ねんじゆどつきやう)の声を調へて、祈り申さるゝ。

七日の御祈祷、既に結願(けちぐはん)に及びけれども、終に印(しるし)もなし。御身。弥(いよいよ)御衰平(へい)あれば、あぢきなく思召して、御泪

を流しおはしまして、玉藻の前が手を取らせ給ひて、宣ひけるは、

分段生死(ふんだんしやうじ)の境、若(わかき)とても恃むべからず。娑婆無常の境、遅れ先立理、かねてより思食しるといへども、あへなく、別れん事を思へば、必滅の道理をも忘(わすれ)、定利(ぢやうり:マゝ)の謂れをも忘るべく覚ゆるなりと宣ひければ

玉藻の前、申す様、我等卑しき凡夫。おう弱(わうしやく)の身としてかたじけなくも昇殿(しやうでん)を許され参らするのみにあらず。

あまつさへ、御寵愛を被り竜眼(れうかん)に近づき奉る事、前世(ぜんぜ)の宿縁と申ながら、過去の戒行(かいぎやう)有難(ありかたく)候。哀(あわれ)々、非相の八万劫をも保たせ参らせばやとのみ祈り申候也。

もし、いかなる御事も、渡らせおはしまさば、一日片時も世に永らへじ(ママ)共、覚えず。ただ、ただ成等正覚(じやうとうしやうがく)の術(すへ)までも、御供をこそ申候はんずれと、御傍らに候(さふらう)て伏しし詰み、声を立てぞ悲しひける。

七日の御祈りも過ぎけれ共、御印(しるし)も無し。皆々嘆き給ひける。僧衆(そうしゅ)も少々退出す。猶も様々の御祈りを致さるゝといへども、その印更に無かりけり。

さて、いかゞ有べきとて、宿曜陰陽師(しゆくようをんやうじ)を数多召されて御尋ありけり。安辺の泰成(やすなり)が申状(じやう)、肝文(かんもむ)を指す所、委(くはし)く言上(ごんじやう)申度(たく)候へども、若(もし)叡慮(ゑいりよ)にも背き、後難もいかゞと斟酌仕て、申上候はずと申ければ、

たゞ、憚る所なく、一々に申上べき由、仰せ下さるゝ間、泰成が申様は此御悩は別(へち)の子細に候はず。化女(けぢよ)玉藻の前の所行也。此人を失はれば、御悩、立所に御平愈(へいゆふ)有べしと申ける。

是を聞く人、上下各々興(けう)をぞ覚まし、物も申さず呆れたる躰也。

此人、御傍らを立さる時は、御悩、弥(いよいよ)重らせ給ふ。御傍らにある時は御心地も軽(かろ)くならせ給ふ。重湯なども聞し召し入させ給ひ候に、相構いて、此人働かして御前に候はれよかしとのみ思ひ合いけり。

此の人、失はるべくは、御悩、平愈(へいゆふ)有るべき由、占ひ申しけるに、御悩をば、差し置いて、此の事を嘆き悲しますと、云事なし。

重ねて、詮議有りて、事の子細を御尋有ければ、泰成、申様、下野国(しもつけのくに)、那須野と申所の野に八百歳(さい)を経たる狐あり。かの狐は丈七尋、尾二つ有べし。所詮、かの狐の由来を詳しく記し申さん。

仁王教(にんわうぎやう)に云く、昔、天羅(てんら)国に王おはします。名をば班足(はんぞく)王と云。かの班足、外道(げだう)の羅陀師(らたし)が教へによって千人の王の首を切て塚の神に祭りて自(みづから)、その位を取らせ給へと言ふ。

然(しかれ)ば、その位を取らんとて、数(す)万人の力士鬼王を集め、東西南北、近国、遠国(えんごく)の王城に押し寄せ押し寄せ王を絡め取り、既に九百九十九人の王を生捕(いけどり)にして、今一人足らず、いかゞすべきと評定(ひやうぢやう)ありけるに、

外道、また教えて曰く、これより北、万里(ばんり)を行て国あり。その国の王を普明(ふみやう)王と云。その王を捕らえて千人の数に満てさせ給へと申ければ、直(すく)に力士を指し遣わして彼の王を捕らえて来り。既に王一千人に満(み)てけり。

一度(ど)に首を切て、塚の神に祀らんとしけるに、かの普明王、手を合て班足太子に向ひ宣(のたまふ)様は、願はくは、我に一日の暇を賜(た)び給へ。三宝を拝し、沙門を供養せんと宣へば、さらば、一日の暇(いとま)を得さす。

その時、普明王、過去七佛の法を行(きやう)ずるによりて、百人の法師を供養して仁王般若(にんわうはんにや)波羅蜜(はらみつ)経を読誦(どくじゆ)せしめ給ふ。

その第一の法師、普明王の為に偈(け)を問ひて云く。

 劫焼終訖(こうせうしうこつ) 乾坤洞燃(けんこんとうねん) 須弥巨海(しゆみこかい) 都為灰掦(とゐはいやう)

と云時、普明王、此の文を聞て問誦(もんじゆ)十二因縁(ゐんえん)を悟り、

法眼(はうけん)むなしきを得給ふ。

班足太子も諸法皆(みな)、空(くう)の道理を聴聞してたちまちに悪心を翻し、千人の王に向(むかひ)て曰く、

これこれ諸々の王達の咎にあらず。我、外道に勧められて悪因を起こし、かゝる所行(しよきやう)に赴きけり。

今は各々(をのをの)早く本国に帰り給て般若経を誦経(じゆきやう)して佛道を成(なし)給へとて、王達を返し給ふ。班足太子も道心起こりて、無生法忍(むしやうほうにん)を得たりと見えたり。

その時、班足太子、祀らんとせし塚(つか)の神と云は今の狐也。彼の班足を誑かし、千人の王の頸(くび)を斬らざる間、此狐、佛法を敵(てき)として生々世々(しやうじやうせせ)を振るといへども、今に至るまで野干(やかん)の身を享るに。

佛法繁盛の国こと化現(けげん)して、あるひは后妃(こうひ)采女(うねめ)と成。或は、侍女陪臣と成て。龍顔(りやうがん)に近付(ちかづき)。王の命を奪い取(とり)。遂に化(け)現して国王と成らんと誓いけり。

されば、震旦(しんたむ)には周の幽王の后(きさき)と成て終(つい)に幽王の命を滅ぼす。其後(そのゝち)我朝日域(じちいき)に化現せり。

日本(にほん)は粟散(そくさん)の小国と言へども、佛法盛む成、国なれば我朝の佛法を破滅し、王の命を奪ひ取りて日本の主(ぬし)とならんと誓ひけり。

かの那須野の狐、則これ也。今化現の玉藻の前、則ち、かの所の変(へん)也と申間、密かに奏聞申ければ、院は承引(せうゐん)も無し。

たまものさうし 下

さる程に、御悩は次第に重らせ給て、いかがすべきと義定(ママ)有けるに、

泰成申様、緒戦、泰山府君(ぶくん)の祭を仕(し)候はんずるに、玉藻の前を御幣取(へいとり)の役に出させ給へ、その時泰山が申処、現るべしと申しければ、

尤(もっとも)可然とて、種々の珍宝を調へ、白米拾弐石(こく)、庭に散らして泰山府君を祀らんとす。件(くたん)の玉藻の前を幣取(へいとり)の役に出させ給へと申ければ、

玉藻の前、殊の外、顔の気色損じて申けるは、その身は卑しと申せども、かたじけなくも龍眼(りやうかん)に近づき奉る者也。

けよう(下用か)祭礼の幣取なんどになされん事、妖しの鎮めの役とこそ承り候へ。さしも多き人の中に我等一人に限り罰(はち)を与えられ、申べきにあらずと。誠に遺恨深げに申ける。

時の大臣にておはします人の仰ける様は、かやうの申事、はばかり事にて候へども、宿曜道(しゆくようどう)、陰陽師(をんやうじ)は相刻相生(さうこくさうしやう)するを以て時の吉凶(きつけう)をも定め、善悪を明(あきら)め、師と旦那と相生(さうしやう)し、年と月と相生し、日と時と相生するを以て祈祷の成就(しやうじゆ)とは申候へ。

院中に、男女(なんによ)の数、上下多く有といへども、御身、相生せさせ給ふ間、陰陽の頭(かみ)、指して候。その上、玉躰恙(つつが)なくおはしましてこそ、御身も御身にて候はん。是御悩、立所に御平愈(へいゆふ)あらば、如何様の卑しき御事なりとも、何が苦しからんや。

大しやう(大乗か)、釈迦如来は善慧(ぜんゑ)仙人と言われさせ給し時、燃燈仙(ねんとうふつ:ママ)道を通らせ給ふに。道悪(わろ)くて立煩(たちわづら)ひ給ひけるに、善慧仙人、御髪(くし)を乱し、泥の上に敷きて佛を通し奉り給ひぬ。

又聖武天皇の后、光明皇后は、百日湯を沸かして千人の僧に浴びせて垢をすゝがせ給ひしは、昔も今も、卑しき御事かなと申人は候はず。

憂き世を厭ひ、後世を恐れ給ふ御心をこそ、感じ奉りて、和漢ともに賞美(せうひ)さんせられ、ましまし候ぞかし。

是は院の御悩、御平愈あらむが為に、泰山府君の御幣取おはしまし候はんずるに、御心ざしの程を感じ参らせて、奇特(きどく)とこそ申候はんずれ。世の嘲りは努々(ゆめゆめ)あるべからずと申されければ、

理、至極しける間、幣取の役に立給ふとぞ、聞こえける。天下に並びなき美人の今を晴とぞ、束帯し給ひければ、誠に心言葉も及ばれず。

翡翠(ひすひ)の簪(かんざし)は青柳(あおやき)の、風に従ふよりは猶たをやかに、紅顔(こうがん)の装ひは草花(さうくは)の露を含めるよりも、たをやかに、自ずから、蘭麝(らんじや)の匂ひ鮮やかに身より光を出す間、天人の影向(やうがふ)かと思はれけり。

誠に思ひ入たる気色にて、既(すてに)御幣(へい)を請取(うけとり)、壇面に座したり。

泰成信心をして祭文(さいもん)を読む中場と見えし時、御幣を打振ると見えて、玉藻の前、かき消す様に失せにけり。泰成が申処、掌(たな心)を指すよりも喧擾(けんでう)也。

御悩、次第に御平愈あり。それに付て。かの狐を失はるべしとて、公卿詮議あり。武士(ぶし)を集めてかの野を狩ん事を申合へり。

又ある義(マゝ)には、その身畜類(ちくるひ)なれども、天竺、辰旦(しんたん)、日域(じちいき)に化現して神通自在を得たる物也。佛力法力を以ても是を退け給はずは争(いかで)か凡夫の力を以て、

彼を失なふ事、叶ふべからずと申されければ、

又有義(あるぎ)には、諸法は縁(えん)に仍(よつ)て生じ、縁に依て滅する習ひにて候。佛の渡し給はぬ衆生を凡夫の力に仍て化渡(けど)したる事も候ぞかし。

喩ひ、三国に化現して神通を得たりと云とも、いま日本(にほん)に於ゐて、罰(ばち:マゝ)を現す処は、我朝にて失はるべき故也。それ弓箭(ゆみや)の精を得て神矢(かみや)を射(ゐる)程の者などが、かの狐を射とらで候べき。

漢朝の羿(けい)が九つの日を射落とす。本朝の頼政は雲の中(うち)の鵺(ぬえ)を射る。い国の養由(やうゆう)は霞(かすみ)の中の鴈(かり)を射落し、しうは雨の降るに儀を起こし毒龍(どくりう)を射落す。

これ皆弓矢取(とり)の達者、神矢を射けるもの也。今本朝に名を得たらん弓の上手を以て狩(から)せ候はんずるに、何の子細の候べきとぞ申ける。

此義、尤(もつとも)然るべしとて、名誉の射手(ゐて)を御尋ね有に。此比、東国の大名の中に重代の弓取りと申は、上総(かづさの)の介(すけ)、三浦(みうら)の介(すけ)、両人こそ候へと申ける。さらばとて、直(ぢき)に院宣(いんぜん)を成(なし)下さるゝ。

その院宣の文義は、太上(だいじやう)法皇の御悩に依(よつて)、陰陽の頭(かみ)、安部の泰成が考へ申旨(むね)あり。下野(しもつけの)国那須野(なすの)に丈七尋、尾二つ有狐あり。かの狐を失なはれば御悩は速やかに御平愈有べしと申。

然ば不日(ふじつ)に彼の所に向(むかひ)て、件(くだん)の狐を狩進(かりしん)ずべきの由院宣を成し下され、両介は、

行水(ぎやうずい)をして装束を着(ちやく)し、庭上に跪(ひざまづ)き、三度(ど)拝し奉り、是を請取、拝見して、則、一門を催し申ふるゝ。

悉く、馳せ集つて、評定して曰く、東国に武士多しといへども身に当(あて)て、院宣を下さるゝ事、家の面目、これに如(しが:ママ)じ。時の名誉、誰か是をうら山(羨ま)さらん哉。

所詮(しょせん)、我を我と思はむ人々は一人も残らず。かの所に向(むかつ)て、弓矢の異術(いじゆつ)を尽くすべし。時刻を移し申な。打立(うつたて)とて我先にとて急ぎける。

さて、かの那須野を駆け回すに

べうべうとしたる荒野(あれの)の草深く生茂り、人馬入べき様更に無し。されども、数多の人数(にんじゆ)を以て草を切り払ひ、馬に任せて駆け入。思ひ思ひに養由(やうゆう)が術にも越え、利光(りくはう)か神矢(かみや)にも優ればやと思ひつつ。

心の及程、駆け回すに、泰成が申つるに少も違はず。極て長く、大成尾(お)、二つ有。狐、茂りたる草むらより走り出る。

両介を始として、手の者ども、我先にと駆け巡り、射取(いとり)て高名(かうみやう)せんと思ひけれども、神通自在の変化の物なれば、弓手(ゆんで)に遭へば、馬手(めて)に切れ、馬手に遭へば弓手(ゆんで)に切れ、上を走れば下をくゞり、下に向へば、上へ飛び上る。四方八方、少も滞りなく飛走(とびはしり)、終(つゐ)に射とゞめられずして失せにけり。

其時人々、評定して申様。吾らが弓矢の分際にては何と思ふ共、射とり候はん事は叶まじく存候。しばらく国に帰(かへり)て弓矢の謀(はかり事)を致し、武用(ママ)の道を稽古して此の野を狩べしとて。両介は面々に我たち(舘か)我たちへぞ帰りける。

上総介の謀(はかり事)には、速き馬に毬を付て引かせて毬の落つる所を矢所とすべしと巧(たく)みけり。

三浦介の謀(はかり事)には、狐は犬に似たる物とて、何様にも犬を駆けさせて百日の間、犬を射て。物に相。不思義(ママ)の矢処を射出しけり。

其後(そのゝち)、などか、狩得ざるべきとて、又かの那須野に赴きけり。爰を先途(せんど)と狩けるに、猶も狩り得ずして七日七夜逗留す。七日も既に過ければ、軍兵(ぐんぴやう)ともゞ疲れ果て、下部(しもべ)以下まで退屈す。

その時、両介は高き所に打ち上て申様。此事に依(よつ)て我等、長く弓矢の疵(きず)つかん事。返々も口惜(くちをし)けれ。心の猛き事は樊噲(はんくわい)にも劣らじ。謀(はかり事)は、子房(しばう)にも優ればやとこそ存(ぞんず)れども、合戦の場にあらざれば、身を捨て命を失ふに及ず。

身代、こゝに極まれり。所詮、この狐を狩得ずんば、二度(たび)本国に帰るべからず。これより、弓矢にも分かれ、三界流浪の身と成(なり)て、長く山林に交わり、命の境を待つべし。

南無帰命頂礼(なむきみやうちやうらい)、伊勢天照大神宮(いせてんせうだいじんぐう)、百王守護(しやくわうしゅご)、八幡(まん)大菩薩。殊(こと)には、宇都宮大明神、日光権現、願はくは明日の内に此狐を狩獲らせて給れ。

喩ひ、いかなる神通自在の鬼神(きじん)なり共、いかでか王城には恐れざるべき。世は末(すへ)に及ぶといへども、日月は未だ、地に落ち給はず。

昔、延喜の御門の御時、王威の程を知ろしめさんために、池のほとりに鷺(さぎ)の居(ゐ)けるを、六位を召して、あの鷺を取て参れと勅定(マゝ)有ければ、六位走り寄り、鷺既に発たんと羽を繕ふ所を宣旨(せんじ)ぞと云ひければ、此鷺、羽を開めて取られにけり。

其後(そのゝち)、麿(まる)が威徳を現したる鳥なればとて、汝は今より鳥の中の王たるべしとて五位に成(なし)てぞ、放たれけり。それより鷺を五位と申とかや。

王位の重き事、かくのごとし、なんぞ、昔に相劣るべきや。日本国中の神(じん)祇、妙道(めうだう)も力を合給はむに何の違いあるべし。此度、射とらで有べきと誓言を致し、祈念し奉り。

少しまどろみ見たる夢に、三浦介の見る様は、歳廿ばかりにして見目形、人に優れたる女房、涙を流し申様、

我既に願いみてゝ望みたりぬると思ふ所に、今汝に命を失はれんずとす。然るべくは我を助けよ。しからば子々孫々に至るまで守(まもり)の神と成べしと云と思ひて、夢覚めぬ。

やがて、家(いゑ)の子(こ)、若党を呼びて申様。たゞ今不思義(ママ)の夢を見る也。此狐を狩り得ん事は案の内なり。討つ立てや、者どもとて、馬の腹帯(はらひ)締めさせて、未(いまた)夜中(やちう)に狩り回す処に、

辰(たつ)の刻の始め、朝日の出給ふ折ふし。件(くだん)の狐、野より山に向て、走り抜けんとする所を、三浦介(みうらのすけ)、鞭(むち)に鐙(あぶみ)を添えて、重藤(しげどう:マゝ)の弓に、染羽の鏃(かぶら)を打ち番い、駆け詰めて、しばし固めて放つ矢に、

腰の番いを筋交ひに、桧原(ひはら)へ射出(ゐいた)し、しばらくもたまらず、転(まろ)びけり、各々(をのをの)、折り合い、

取って押へて刺し殺し、やがて彼を認(したゝ)めて、夜を日に継いで上洛して、院の叡覧に備へければ、前代未聞の不思議なりとて、御感(ぎよかん)のあまりに、勅定には、

汝、那須野に於ゐて、彼を狩りつらん。裳束(しやうぞく)違へずして、御前(まへ)にて振る舞ふべしとて赤き犬、一疋駆けり出し、弓手(ゆんで)馬手(めて)に合い付て、矢所、数多ぞ射たりける。

時の面目、何事か是に如かん哉。されば、それより今に至るまでも、一騎犬追(きいぬをふ)物とぞ名付たる。狐をば

うつぼ舟に乗せて流されける。稀代不思議の事共也。

狐の腹に金(こがね)の壺あり。中に佛舎利おはします。是をば院に進上す。額に白き玉あり。夜昼照す玉也。是をば、三浦介取也。尾先に二つの針有。壱つは白し壱つは赤し。是をば上総介取て、赤針(あかきはり)をば、氏寺、清隥寺(せいりうじ:マゝ)に納(おさむ)る。

稀代不思議の化性(けしやう)のもの、叡慮を悩まし奉り。その身も滅び、朝威を軽(かろ)しめ奉る事、神明(しんめい)の加護。王法(ぼう)の威徳なからん哉。上古も末代も試しなかり

し事どもなり。

其後(そのゝち)また、玄翁(げんなふ)和尚、下野国、那須野の原を通り給ひしに、道の辺(ほとり)に苔むしたる大石(たいせき)あり。これを御覧じて、彼の石に謂れのなき事はあるまじ。

里(さと)人来たりなば問はゞやと思し召し、立ち安らい給ふ処に、美しき女房(にうばう)一人来たり。何とてその石の辺(ほとり)に立ち寄り給ふぞと申しければ、

和尚、聞し召し、此石の辺へ立ち寄るまじき子細のあるかと問ひ給ひければ、

女房、受け給、是は那須野の原の殺生石(せつしやうせき)とて人間は申すに及ばず、鳥類畜類までも障るに命を取られぬと云うことなし。

かく恐ろしき殺生石に立ち寄り給ふは、(マゝ)求めまします御命かな。疾く疾く立ち去り給ふべし。

和尚、重ねて仰せけるは、此石は何故に殺生をばするぞや、女房受け給、昔、鳥羽の院の御時の玉藻の前の執心、石となると語りければ、

不思議の事を申ものかな。その玉藻の前は殿上の交はりありし身なりしかば、遠国に執心留まりたる事は何故ぞ。詳しく語りおはしませと宣えば(の給えば)、

今は何をか包み侍べき。天竺には班足王の塚の神、大唐にては幽王の后。宝璽(ほうじ)と剣璽(けんじ)、我が朝にては鳥羽の院の玉藻の前となり。

王法(わうぼう)を傾けんため、遊女と現れ、御脳となしけるを、安辺の泰成占って、干城(かんじやう)に申ける。

その儀に任せ、三浦介、上総介に仰せつけられ、此原にて命を取られ、その執心、石となりて今殺生石とは申とかや。

和尚、聞し召し、あまりの悪念は、却つて善心の頼りぞかし。しからば、衣鉢(ゑはつ)と授くべし。

其時玉藻の前、忝(かたじけな)の仰せやな。佛法を敵として三国に化現し、邪心の□(一字分空白)たちを離れざる(ママ)嬉しさよと云ふかと思へば、彼の石に立ち隠れ、形、幻となりて失せにけり。

其後(そのゝち)、玄翁、彼の石に向かひて曰く、木石(ぼくせき)心なしと言へども、草木国土、悉皆成佛と聞くときは佛体(ぶつたい)、具足せり。

いはんや、衣鉢と授くる物ならば、成佛疑い有べからずと花を手向け、焼香(しやうかう)し、石面(せきめん)に向かつて佛事をなす。

汝、元来(ぐはんらい)、殺生石、問ふ。せきれい(鶺鴒か)、何(いづ)れの所より来たり。かくの如く、骨法(こつほう)を成す。急々にされ、而今(じこん)以後(いこ)、

汝を成佛せしめ、佛体真如(ぶつたひしんによ)の善悪善神とならん。殺生せよ(マゝ)、石(いし)に生(せい)あり、水に声あり。風は太虚(たいきよ)に渡る。形は石痕に宿りしを、玄翁忽ちに察し給へば、

大石(たいせき)即ち、微塵に砕けて石痕忽ち成佛するものなり。誠に、末代濁世(ぢよくせ)とい□(一字分空白)とも、奇特(きどく)不思議、有難きことなり。

其後(そのゝち)、玄翁和尚、陸奥(みちのく)、あつつの郡、墨川万願寺に、御寺有とや。

彼の寺は佐原の十郎義連(よしつら)の氏神。稲荷の社を勧請し奉り、今にありとなん。奇態(きたひ)不思議なる事かな。

承応二年三月吉辰
西田庄兵衛開板之

◆余談
 大学生のとき所属していた同好会の合宿が那須で催されていた。一年生のとき三年生たちが殺生石を見に行こうと言っていたので、今となっては連れていってもらえばよかったと思う。すぐ近くまで来ていたのに見ていないのだ。

 玉藻の草子、漢字を当てる作業、中々思ったように進まず、一日4ページくらいが限界であった。雅楽の用語の様に広辞苑に載っていない語句もあり、インターネットで検索することもあった。そういう意味ではインタ―ネットがないと出来ない作業だった。

◆参考文献
・「室町時代物語大成 第九」(横山重, 松本隆信/編, 角川書店, 1981)※「玉藻前物語」pp.13-36, 「玉藻の前」pp.37-57, 「玉藻の草子」pp.58-79
・大島由紀夫『「玉藻前」諸本をめぐって』「中世衆庶の文芸文化――縁起・説話・物語の演変」(大島由紀夫, 三弥井書店, 2014)pp.375-397

記事を転載→「広小路

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2019年5月 6日 (月)

天神――菅原道真と伴大納言

◆はじめに
 石見神楽の演目に「天神」がある。「天神」は菅原道真をモデルとした演目であるが、道真の先祖は野見宿祢であり、殉葬の廃止を訴えて認められ(代わりに埴輪を置いた)、土師氏の名を賜り、その後、菅原と改名したものである。とすると野見宿祢は出雲出身の人であるから、菅原道真のルーツに出雲があることになる。そういう意味では島根県にも縁がある人物ということになる。

 菅原道真は途中、讃岐国の国司として派遣されたことがあった以外は中央で文人官僚として破格の出世をした。それだけに讒言で地位を奪われ、都を追われた悲嘆はいかばかりであっただろう。

 校訂石見神楽台本では天神の随身が藤原時平を成敗する内容となっている。六調子でそうだったのが、八調子で天神が直接時平を討つ展開となったのをよしとせず、六調子の昔に戻したとしている。

◆伴大納言
 校訂石見神楽台本を読むと、基本的には道真が彼を讒訴した藤原時平を成敗する内容であるが、最後に「伴大納言を切り従えて」との詞章がある。伴大納言善男は京の応天門が放火された事件で知られるが、それは道真が二十代の頃に起きたもので、直接道真と関わりがあったとは思われない。なぜ最後に伴大納言の名が登場するのか校訂石見神楽台本の注釈でもその理由は書いていない。

 南里みち子「菅家瑞応録と天神縁起(二)」「長崎県立大学論集」に、

『瑞応録』においては、伴善男の命で応天門に放火した大宅鷹取が、後に基経の子時平として生まれたと説き、菅公と時平の因縁をこのあたりから説きおこしている。(93P)

 この間、『瑞応録』では貞観十三年(八七一)時平の誕生を伝えている。時に菅公二十七歳。菅公の夢に鷹取が現れ、梵天王と修羅王の戦いに修羅王が勝ったことを告げる。その夕べに時平が誕生したとしている。元慶四年(八八〇)菅公三十六歳のとき、父是善が逝去し、仁和二年(八八六)、十六歳になった時平の元服の儀式が伝えられる。このとき、菅公は初めて時平に対面している。(93P)

 時平・尊意の場合は、菅公との出会いを若年にさかのぼらせて語っているが、特に時平については、前世にまで言及するという念の入れようである。時平の前世である大宅鷹取は、天の羅計火の三悪星であって、仮に人間に託して、この土を魔界とせんとしていることが、菅公によって明らかにされている。時平のこのような人物設定は、本書において菅公が観音の化現であり、子なきを愁う母北の方を憐れんだ阿弥陀如来のはからいで降誕したと説明されていることと、対照をなしている。本書は菅公の徳を称揚する一方で、時平を徹底して悪人に仕立てあげることによって、両者の善悪の対象を明確なものにしているのである。(98P)

としている。史実では大宅鷹取は伴善男を応天門放火の真犯人として告発した人物とのことである。応天門の変の伴大納言と藤原時平を結びつけようとする思考が見て取れる。

◆伴大納言、応天門を焼く事
 宇治拾遺物語に「伴大納言、応天門を焼く事」が収録されているので、直訳調ながらも訳してみた。

 今は昔、水の尾の帝(清和天皇)の御代に応天門が焼けた。人が(火を)つけたのだった。それを伴善男という大納言が「これは(源)信(まこと)の大臣の仕業である」と公に言ったので、その大臣を罪に処しようとしたところ、忠仁(藤原良房)が世の政(まつりごと)は弟の西三条の右大臣(良相)に譲って、白川に籠っている時にこの事を聞き驚いて、烏帽子直垂の姿(略装)のままで移し馬に乗って、乗りながら北の陣(内裏の朔平門)までいらっしゃって、御前に参って「この事は申す人の讒言(ざんげん)でもありましょう。大事になす事はとても異様な事であり、こういうことは返す返すよく質して、まことに作り事であることを表して、行うべきです」と奏上したところ、「まことに」とお思いになって質させたところ、確実でないことなので「許しになる次第を仰せよ」という宣旨を受けて大臣は帰った。

 左の大臣は過失を犯したことはないので、このような道理に背く(無実の)罪を思い嘆いて日の装束(正装)して庭に荒薦(あらこも:あらく編んだこもむしろ)を敷いて出て、天道(天帝)に訴えたところ、お許しになる御使いに頭中将が馬に乗りながら馳せて詣でたので、急いで刑罰を与える使いと心得て、家中の物が泣いてののしったところ、お許しになる次第を仰せになって帰ったので、また喜び泣くことがおびただしかった。許されたけれど、「朝廷に出仕していては無実の罪が出てくるかもしれない」と言って殊に元の様に宮仕えもしなかった。

 この事は、過ぎにし秋の頃、右兵衛府の舎人である者が東の七条に住んでいたが、司(役所:右兵衛府)に参って夜が更けて家に帰るといって応天門の前を通ったところ、人の気配がしてささやいている。

 廊(通路)の脇に隠れて立って見たところ、柱をたどって降りてくる者がいた。怪しくて見たところ、伴の大納言であった。次に子(伴の大納言の子、中庸なかつね)である人がいた。また次に雑色(下級役人)でとよ清(紀豊城か)という者がいる。「何をしているのだろうか」とわずかに心得ず見ていると、この三人は降り果てるままで走ることは限りない。南の朱雀門の方に走って去れば、この舎人も家に行く間に、二条堀河の辺りを行くと「大内裏の方に火が出た」といって朱雀大路の方が騒がしい。見返ったところ、内裏の方と見える。走って帰ったところ、応天門の半ばが燃えていた。「このあった(さっき応天門から降りてきた)人たちは、この火をつけるために登ったのだ」と心得たけれども、一身上の重大な秘密である火事なので、敢えて口から外に出さなかった(言わなかった)。その後、左大臣がしたことといって罪を蒙ったのだろうと言って評判が立った。「何ということだ。火をつけた人があるのに、ひどいことだなあ」と思ったけれども、言い出すことでないので、気の毒な話だと思って過ごしているうちに「大臣は許された」と聞いたので、罪のない事なので遂に免れたものだろうと思った。

 かくて九月ごろになった。こうしている間に伴の大納言の出納役(諸物の出し入れを管理している者)の家の幼い子と舎人の小童(こわっぱ)とがいさかいを起こして、出納役の者が泣きわめいて、出て取り去ろうとすると、この出納役が同じく出て見たところ、寄って引き離して我が子を家に入れて、この舎人の子の髪をつかんで打ち伏せて死なんばかりに踏みつけた。舎人が思うには「我が子も人の子も共に子供同士の喧嘩である。ただそのままにさせておかずに(黙って見ていればよいものを)、我が子を情け容赦なく踏むのは、とても悪いことだ」と腹立たしくて「お前は、どうして情け容赦なく幼い者をこうもしたか(こんな目に遭わせたか)」と言ったところ、出納役が言うには「貴様は何を言うか。舎人ふぜいの役人を自分が打ったのに何事があろうか。我が君である大納言がいらっしゃるので、甚だしい過ちをしたところで何が出てくる訳でもない。たわけたことを言う馬鹿者かな」と言ったので、舎人は大いに腹を立てて「己は何を言うか。我が主の大納言を頼りになると思うか。己の主は自分が口を閉じているから人並みにしていられるのを知らぬか。自分が口を開けたら己の主は今のままではいられないぞ」と言ったので、出納役は腹が立って家に這い行ってしまった。

 このいさかいを見るといって近所の人たちが多く集まって聞いたところ、何のことを言ったのだろうか、あるいは妻子に語り、あるいは次々と語り散らして言い騒いだので、広がって公(天皇)までお聞きになって、舎人を召してお問いになったところ、初めは何も知らないと否認していたけれども、自分も罪を蒙るだろうと問われたので、ありのまま件の事を話した。その後大納言も厳しく糾問されて、事が顕れた後に流罪に処せられた。

 応天門を焼いて源信の大臣に罪を負わせて、かの大臣を罰しさせて、筆頭の大納言なので大臣になるだろうと構えた事の却って我が身が罰された。いかにか悔しかろう。

◆十訓抄・応天門の変
 十訓抄にも応天門の変について記載されている。

応天門の変
 清和天皇がいまだ幼くしていらっしゃった頃、大納言伴善男卿、身分は卑しかったけれど、天皇の恩恵に得意となって大臣を望む様になった。そのとき左大臣信(まこと)公といった方がいらっしゃったけれども「何とかしてこの人に罪を着せて、その替りに自分がなろう」と謀を巡らして、子息の右衛門佐(すけ)に命じて、貞観八年閏三月十日夜、応天門を焼いて信公大臣の仕業であると、罪の重い次第を讒言する間に、死罪になるところだったのを、忠仁公が諫めなさった事によって、その次第が留まったけれども、出仕せずに籠っていらした間に、何ヶ月かが経って善男の謀反の心が明らかになって後、信公の咎めは許され、善男卿は伊豆国へと流罪となった。子息たちも方々へ配流となった。
 これも兄弟の謀計ではないけれども前話と同様で、これを記録し加えた。

◆戸隠山鬼女紅葉退治之傳
 明治時代の作品である「戸隠山鬼女紅葉退治之傳」は「紅葉狩」に題材をとった作品であるが、作品冒頭にヒロインである呉葉の両親として伴善男の子である夫婦が登場する。要約すると下記の通りである。

 清和天皇の御世に伴の善男(よしを)なる者が応天門に災いをなし、その咎で伊豆の小島に流され、その後大赦され奥州会津に流れた。その子孫である伴の笹丸と菊世とは二人の間に子のいないことを憂えて神仏に祈っていたが、験が無かった。ある人の教えで第六天の魔王に祈ったところ、菊世が子供を身ごもった。一児を授かり名を呉葉(くれは)と名づけた。

……という内容である。

◆大鏡
 大鏡に藤原時平のエピソードが記されている。

すがわらのおとゞ御心のまゝにまつりごち給いけれ、又北野の神にならせ給て、いとおそろしくかみのなりひらめき。清涼殿におちかゝりぬと見えけるに、本院[時平]おとゞ、
太刀をぬきさげて、いきてもわがつぎにこそ物し給ひしか。けふ神となり給へりとも、この世にはわれに所をき給べし。いかでかさらではあるべきと。にらみやりての給けるに、一度はしづまらせ給へりけるとぞ。世人申侍し。されどこれはかのおとゞのいみじくおはするにはあらず、王威のかぎりなくておはしますによりて、理非をしめし給へる也。
「新訂増補 国史大系 21上 水鏡・大鏡」(41P)

 菅原の大臣がお心のままに政を行ったけれども、また北野の神になって、とても恐ろしく雷が閃いて清涼殿に落ち掛かったと見えたところ、時平は太刀を抜き提げて、生前は自分の次の位だった。どうして、そうでなかっただろうかと。睨みやっておっしゃるに、一度は静まったというと世の人が申す。しかしこれは時平の大臣が優れていたのではなく、(天皇)の王威が限りなさと道理と非理を示したことであった。

◆十訓抄
 十訓抄に当時のエピソードが幾つか記載されている。

菅原道真の大宰府左遷
 菅家(菅原道真)は昌泰三年九月十日の宴で、正三位の右大臣の大将として内裏にお勤めになっていたときに
  君は春秋に富み、臣は漸く老いにたり
  恩(うつくしび)は涯岸無くして、報いむことは猶遅し
  (皇恩は限りなくて、それに報いることは、いっそう遅く、かなわない)
という詩をお作りになったので帝は感服して御衣を脱いで褒美としてお与えになったところを、同四年正月に、本院の大臣(藤原時平)の讒奏によって急に大宰府に移されたので、どれほどか世も恨めしく、鬱々とした感情も深くあっただろうけれども、それでもやはり君臣の礼は忘れがたく、魚水の契り(魚と水の様に非常に親しい)もこらえがたく思われたのだろうか、都の形見として、あの衣を身体に添えられた(肌身離さず持っていた)。
 さて、次の年、同日にこのようにお詠みになった。
  去年の今夜清涼に侍す
  秋思(しうし)の詩篇独り腸(はらわた)を断つ
  恩賜の御衣今此れに在り
  捧げ持ちて毎日余香(よきやう)を拝す

梅の貞節
 菅原道真が大宰府にお発ちになった頃、
  東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅(むめ)の花
  主なしとて春な忘れそ
と詠み置いて都を出て筑紫にお移りになった後で、かの道真の邸宅に梅の片枝が飛んできて生えついた。
 あるとき、この梅に向かって
  ふるさとの花のものいふ世なりせば
  いかに昔のことをとはまし
と眺めなさったので、この木は
  先人故宅に於いて
  籬(まがき)、旧年に廃る
  麋鹿(びろく)、猶棲む所
  主無くして独り碧天
と申したことが意外なことで情趣が深いことだとも、心も及ばないことだ。

道真の怨霊
 延喜八年(908年)八月二十六日、雷が鳴り、恐ろしかったとき、清涼殿の坤(ひつじさる:南西)の柱の上に不思議な火が出て燃えたところ、大納言清貫(きよつら)卿、上の衣に火がついて伏して転び、わめき叫んだけれども消えず、右中弁希世(まれよ)朝臣は顔が焼けて柱の許に倒れ伏した。この二人はいつも仏法を軽んじてきたためにこの災害に遭った次第を貞信公(藤原忠平)が語りなさった。是茂(これしげ)朝臣は弓をとって向かったけれど、たちどころに雷に蹴り殺された。美奴忠兼(みぬのただかね)は火に焼けて死亡し、紀蔭連(きのかげつら)は炎にむせて悶絶した。
 これはそう多くはない天の災いだけれども、仏法を信じ奉る人は、そこに居ながら、さしさわりなかった。貞信(さだのぶ)公は時平の弟でいらしたけれども、兄に同意せず、とりわけ天神の事を嘆いていらっしゃった。そのためか、その場に居合わせたけれども少しも怪我もなかった。

時平、忠平の子孫たち

 こういうことがあったからか、正暦三年(992年)二月四日、『御託宣記』の中には

 自分が大宰府へ配流されたとき、故貞信公は右大弁で、自分の遠行を嘆いて、全く兄の謀に与しなかった。互いに消息の手紙を通わせて、ついに心のこもった交流を結んだ。あの家の子息は摂政の職が絶えず、朝廷で繁栄した。自分のために志ある輩をどうして守護しないことがあろうか。

と掲載した。
 ときに時平公以下、同意した光(ひかる)卿、定国(さだくに)卿、菅根(すがね)朝臣はその子孫が絶えて(その名が)聞こえなくなった。時平卿は延喜九年(909年)四月九日、三十九歳で亡くなった。娘の(宇多天皇の)女御、その孫でいらっしゃる皇太子(慶頼王:よしよりおう)もお亡くなりになった。一男の八条右大将保忠(やすただ)卿は承平六年(936年)十月十四日、四十六歳で亡くなった。三男本院中納言敦忠(あつただ)卿は天慶六年(943年)三月七日、四十八歳で亡くなった。
 ニ男富小路右大臣顕忠(あきただ)卿だけが深く天神を恐れ畏まって、毎夜、庭に出て天神を拝んで、万事、倹約しなさった。六年間大臣でいらっしゃったけれども馬に乗って先導する人も呼ばず引き連れず、かたちばかり副車として後から続く車だけがあった。お食事を召しあがるときも折敷(片木を曲げて四方を囲んだ盆)に取り並べて召しあがっていた。日隠しの間(寝殿造で正面階段を上がったところの部屋)に小さな桶に柄杓を添えて水を入れておいて手を洗っていた。
 そのためであろうか、右大臣、左大将、従二位を経て康保二年(965年)四月二十四日に六十八歳で亡くなった。正二位を後に贈られた。ただし、あの家(時平の家)の人だけれども、仏道に入った公達は無事だった。

冥界におちた醍醐天皇

 醍醐天皇がお亡くなりになって、しばらく後、御嶽(みたけ)に日蔵(にちぞう)上人は承平四年(934年)四月十六日から笙の窟(いはや)に籠って、(修行を)行ったところ、八月一日、午(うま)の刻あたりで頓死して、同十三日に蘇った。
 その間、夢でもなく現実でもなく、金剛蔵王の善巧方便(仏や菩薩が衆生を教化するための巧妙な手立て)で三界(衆生が輪廻する欲界、色界、無色界の三つの世界)、六道(衆生が前世の業によっておもむく六つの迷いの世界。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)と見ない所はなく、見て回っていたところ、かの帝のご座所に至った。
 四つの鉄の山があって離れること、各々四、五丈ばかりで、その中に一つの茅葺きの粗末な家があった。帝はここにいらした。上人をご覧になって、喜んで、近く招き寄せて、「自分は日本国の金剛覚大王(宇多天皇)の子である。そうしたところ、在位の時、五つの重い罪があった。、これ、主としては菅原大臣(菅原道真)のことによるために、この鉄窟(阿鼻地獄の一つ)の苦しい所に堕ちて、このような苦しくつらい報いを受けること、年久しくなった(随分と長くなった)とおっしゃった。
 さて、御身が助かるであろう善い行い(追善の供養)を主上(朱雀天皇)、国母(天皇の母)に申すべしと御ことづけがあった。
 帝は三臣(三人の臣下:藤原時平、源光、藤原定国、藤原菅根など)とともに真っ赤に焼けた灰の上にうずくまっていた。帝だけは衣で肌を隠していた。残りは裸だった。各々が泣き悲しみ、嗚咽することは一通りではなかった。上人はこのとき畏まったので、「冥途では貴賤を論じなく、罪のないものを主人とする。(私を)敬うべきでない」と帝がおっしゃった。上人は涙を流して、あの家(もしくは鉄窟)から出たところ、四つの山は一つとなったという。
 高丘親王(たかをかのみこ)の
  いふならく奈落の底におちぬれば
  刹利(せちり)も首陀(しゅだ)もかわらざりけり
とお詠みになった様に十善万乗の主(天子)だけれども、相手をはばかることのない(地獄の)習いは悲しいことだ。
 さて、上人はこの次第を奏聞したので、皇太后とその隠子(をんし)は醍醐天皇の供養を営んで、大層立派に死後の世界を供養しなさった。
 これらは後世まで志が深いためである。

◆天神御本地
 「天神御本地」に以下のような件がある。

 筑紫にて御身の罪なき次第を祭文を書いて高山(こうせん)に登り、七日間、天道に訴え申されたので、七日が満ちる日、祭文が即ち飛んで雲の上の天に入った。帝釈堂をうち過ぎて梵天までも通ったと思われる。

 同(延喜)九年、本院左大臣時平公も大事の所で病んだ。菅丞相の怨霊かと思う事、一つの験があったので、今はこうだと思われた。
 それにつけても、もしや助かるかと言って始めには陰陽師に頼んで宝物を尽くして一つ一つ祭りをしたけれども少しの効果もなかった。後に医師を請うて財宝を尽くして様々の治療をしたけれども、その効果もなかった。
 女房、男房(蔵人)、公達、子供、一門の人々が集まって泣き悲しんだけれども、苦痛はいよいよ耐えがたかった。ただ、早く死のうとおっしゃる、耆婆(ぎば:名医)の調合した薬をなむる(なめる?)けれども、効果なしだった。あんから頼もしい善宰相の嫡子である浄蔵貴僧こそ死んだ物をも祈ればたちまち生き返る、請い奉ろうと言ったところ、
 この上人は清涼房の玄照律師の弟子で十歳から護法(童子)を従えて、速疾鬼(そくしつき)に魔王を降伏させた。
 その他、御身の才能は人に越え、いわゆる顕密二宗、医道、天文、悉曇(しったん:梵字)、相人(人相をみる人)、管弦、文章、占形、秘術、験者、持経者などがこれである。まことに忿怒の声の音曲、種々の才芸、肩を並べる人がいなかった。
 四月四日、請うて寄らせて不動明王の法を行った。ただし、浄蔵は占形を開くに定の中に一生を得ることは叶うまいとおっしゃった。
 ただし、理を曲げて、一時、祈ったところ、黄泉路やすく、死のうと病人もおっしゃり、公達もおっしゃったので、堅く辞退するも浄蔵は祈り続けた。
 般若心教を一二巻読んで天衆(諸天)、地類(地上にある万物)に廻向(自分の功徳を他者にふりむける)して、薬師経を金眦羅大将と打ち上げて千手二十八部衆を言輪さわやかにお読みになったので、万人は皆、心と肝に染みて尊かった。
 今は物の怪も慈悲納受(神仏が祈願を聞き入れること)を垂れて、心が落ちついたかと思えた時、大音声を放って、一心に五体六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を責めて、陀羅尼神咒を満ちさせたので、万人は身の毛がよだって如何なる物が出てこようかと思った。
 憑坐(よりまし)には託宣がなく、病人の左の耳から青色の毒龍が一匹、頭を指しだして口から炎を燃やしている。見るに目も当てられず、人は皆顛倒した。
 浄蔵は少しも臆した様子もなく、空色に月が出た扇をはらはらと開き使って、託宣よくし給えと誘惑した。
 青龍はしばらくは物も言わなかった。浄蔵がまた祈ろうとしたのを見ていたくな御房(僧侶)を責め、これほどに差し現れて対面しながら、どうして物を言わずにいるのか(と問うた)。
 我は元から朝家(皇室)に仕えて有難いことに君の御宝だった、一天四海に慈悲を垂れて君のため、民のため、物のため、何事か一事一言もつらかった器量で万儀を政務すべき次第の宣旨を蒙ったけれども、上に左大臣があり、摂勅が先に下るといって時平が奪ったことだ。
 しかるに、何の恨みを相催して無実の讒奏をしたのか。偕老同穴の契(共に暮らして老い、死後は同じ墓穴に葬られること)、至孝招愛の志はいとおしかったけれども、妻子にも別れて八重の塩路、九重の都を追い出された時の恨みとただ今の嘆きとどちらが劣ろうか。
 筑紫で中一年思った想いは山と重なり海と積もってこの世をこの様にした。
 先年、雷となってその恨みを報復しようとしたけれども、僧正が塞がられた。今また憤りを晴らさんがために密かにここまで来た。時は既に極まり、力は皆弱った。声のかかるに徒な事を祈り給うのを目のままに殺し、知らずにし給うな、こう申さない程があろうか、どのようにも祈り給え、夕方の日の夕暮れには一定(果してその通り)で、毒龍は頭を引き入れた。
 上下万人、泣くより他の事はなかった。浄蔵は暇を申すと言って立たれた。浄蔵が立たれたので、夕暮れを待たずに時平公は遂に薨去した。耳に触れ、目に触れる物、涙を流さないということはなかった。
 お歳を申せば、四十九歳になったところであった。惜しい歳だけれども、娑婆世界の習いで力が及ばなかった。

◆菅原道真の出生伝説
 北野天神縁起に、

 菅原院とは菅相公(是善)の家である。相公は生前の当初、相公の家の南の庭に五、六歳ばかりの幼い小児が遊んでいたのを見たところ、容貌、姿形が只の人でないと思いながら「君はどこの家の子か。どうして来て遊んでいるのか」と問うた。稚児は答えるに「さしたる定めた居所もなく、父もなく母もいません。相公を父としたいと思います」とおっしゃったので、相公は大いに喜んで、かき抱いて撫でて次第にくわしく研究させたところ、天才が日に日に新たとなった。これを菅贈大相国と申すらしいと日記にある。

 戸田柿本神社の柿本人麻呂の伝説と似ている。菅公の伝説の影響か。

◆芸北神楽の新舞
 広島県の芸北神楽の新舞(戦後の創作演目)に「天神記」があり、以下のような内容である。

「天神記」
 菅原道真は左大臣藤原時平の讒言で太宰府に流された。しかし、道真は天を恨まず、人を恨まずにいて、君の安泰を願っていた。道真は息子の菅秀才(かんしゅうさい)と娘の紅梅姫(こうばいひめ)を呼ぶ。
 秀才は笛を吹いて道真の心を慰める。道真は自分の余命が幾ばくもないことを告げる。
 病の床に伏した道真を典薬司竹庵(てんやくのつかさちくあん)が見舞う。しかし時既に遅く、道真は亡くなり、雷神となって去る。
 秀才と紅梅姫は上京し、日吉(ひえ)大社にお参りする。すると日吉神社社掌真名井(ひえじんじゃしゃしょうまない)が迎え、道真が雷神となって藤原氏一門をうち滅ぼすので、七日の間は祈祷は無用であると告げた。
 藤原時平、忠平、正平が登場、我が世の春を謳歌する。そこに秀才と紅梅姫が現れ、和歌で勝負を挑む。叶わないと知った時平は秀才に切りかかる。が、そこに雷神が現れ、左大臣兄弟を討ち取った。秀才と紅梅姫は北野天満宮を建立、紅梅姫は社に仕えた。

 菅原道真の息子の名が秀才とあるのは、浄瑠璃「菅原伝授手習鑑」に由来するものと思われるが、粗筋自体は関係がない様である。

◆動画
 YouTubeで西村神楽社中の「天神」を視聴。随身は登場するが、菅公が時平と直接戦う内容だった。菅公ははじめ着面していたが、時平とのバトルになると直面に変わっていた。菅公が時平を切って、喜びの舞で終わる。非常にテンポの速い舞だった。

 あさひが丘神楽団の「天神記」を視聴する。和歌で勝負するところが見せ所だった。セリフが多く、ちょっと歌舞伎っぽいか。史実では道真の子息たちも配流されている。道真は大宰府に幼い子供を一人連れていっているが、大宰府で亡くしている。

◆伴大納言絵巻
 伴大納言絵巻を精読した。分からない箇所はそのままとした。

伴大納言絵巻詞書
[上巻 欠]

[中巻 第一段]
大臣(おとゞ)は露をかしたる事無きにかゝる横
様(さま)の罪に当たるを思し嘆きて日の
装束(さうそく)をして庭(には)に粗薦(あらこも)を敷き
て出でて天道に訴え(うたえ)申(まう)し給ひ
けるその程人々皆嘆(なけ)き騒(さは)
ぎてある程に許し給ふ由
馬(むま)に乗りながら打ち入りたれば今は
罪せらるゝぞと言ひて一家(ひといへ)泣き
罵るに許し給ふ由仰せ
かけて参りぬればまた喜びなき
夥しかりけり許され賜びたれ
と公(おほやけ)に仕(つかうまつ)り給いては
横様(よこさま)の際出できぬべかりけりと言ひ
て宮仕(みやつか)えもし給はさりけり

[中巻 第二段]
秋になりて右兵衛の舎人なるもの

東(ひむかし)の七条に住みけるが司に
参りて夜更けて家(いゑ)に帰(かへ)るとて応天門
の前を渡りければ楼(らう)の脇に

隠れ立ちて見るに端折(はしよ)り掛かくり
降るゝ者ありみれば伴大納言
なり月にこなる者居(を)るまた月に
雑色(さうしき)ときよ(常世か)という者居(を)る何業(なにわさ)
するにかあらむと露心(こゝろ)も得てこの

三人の人降(を)り果つるまゝに走ること
かりなし南の朱雀門ざまに走り
て去ぬればこの舎人も家方(いへさま)に
行く程も二条堀河の程行くに
内の方に火ありとて罵(のゝし)る見返(みか)
へりて見れば大内(おほうち)の方と見ゆ
走り帰(かへ)りたれば上(かみ)の輿(こし)の
ながらばかり燃えたるなりけりこの有り
つる人共はこの火つくとて登りたる

なりけりと心得てあれども人の
極(きは)めたる大事(たいし)なれば敢へて口
より外(ほか)に出ださずその後左の
大臣(おとゞ)のし給えることゝて罪被り
給ふべしと言ひ罵ればしたる
人は有る者をいみじき事かなと
思へども言ひ出だすべき事ならねば
愛をしと思い有りくに罪なきことは
真(まこと)にておはすものなりけれとな
む思ひけるかくて九月ばかりになりぬ
掛かるほどに伴(はん)大納言の出納の隣
にあるが事この舎人の童(わらは)と諍
いをして泣き罵れば出でて障(さ)へむ

とするにこの出納も同じく出でて障(さ)ふ
と見るにおりて取り放ちて我が子を
ば家に入れてこの舎人の子の髪を
とりて打ち伏せて死ぬばかり踏む
舎人の思ふ様(やう)我が子も人の
子も共に童部(わらはへ)諍ひなり只
さてはあらで我が子をしも斯く情
けなく踏むとはいと怪しきことなり
と腹たゞしくまうとはいかでさえ
にはさえて幼きものば斯くは
するぞと問へば出納の言ふ様(やう)己(おれ)
は何事言ふぞ舎人立つか己(おれ)ば
かりの公(おほやけ)人は我がうちたら
むに何事のあるべきぞ若君(わかきみ)
の大納言との御座しまさはいみじ
き過ちをしたりとも何事の
出で来べきぞ痴(し)れ言(ごと)する方如何な
と言ふに舎人大(おほ)きに腹立
ちて己(おれ)何事言ふぞ我が衆
の大納言を公家(かうけ)と思ふか
我が衆は我が口に依りて人
にてもおはするとは知らぬか口
開けては我が衆は人に
もありなんやと言ひければ出納は
腹立ちて家(いゑ)へ入りにけり

[下巻 第一段]
この諍ひを見るとてさと隣の
人市をなして聞きければ如何に言ふ
ことにかあらむと思ひてあるは妻子(めこ)に
語りつき語りつき語り散らして言ひさ
ばきければ世に広ごりて公(おほ
やけ)まで聞し召してこの舎
人を召して問はれければ始めは
抗ゐけれども我も罪被
りぬべく問はれければおの件(くだり)の
ことを申(まう)しけり

[下巻 第二段]
その後大納言も捕られなどして
事顕れて後なん流されけ
る応天門を焼きて真の大臣に
仰(おほ)せて彼の大臣(おとゞ)を罪せさせ
て一の大納言なれば我大臣に
ならむと構えける事の返りて罪
せられけむは如何に悔しがり
けむ

◆余談
 北野天神縁起も読んだが、十訓抄に大抵のエピソードが収録されているので、より容易な方を選んだ。

 灰原薬「応天の門」という漫画がある。若き日の菅原道真と在原業平とでコンビを組ませたバディもので、姉が気に入っている作品。応天門がどういう風に絡んでくるのか知らないが、王朝ミステリーものといった趣向である。漫画では道真の妻になる宣来子(のぶきこ)、5歳くらい年下が可愛らしく描かれている。

◆参考文献
・「日本思想大系 20 寺社縁起(※八幡愚童訓 甲乙および諸山縁起、北野天神縁起所収)」(桜井徳太郎, 萩原龍夫, 宮田登/校注, 岩波書店, 1975)
・「宇治拾遺物語 新編日本古典文学全集50」(小林保治, 増古和子/校注・訳, 小学館, 1996)※巻第十「一 伴大納言、応天門を焼く事」pp.303-307
・「新編日本古典文学全集51 十訓抄」(浅見和彦/校注・訳, 小学館, 1997)
・「新訂増補 国史大系 21上 水鏡・大鏡」(黒枝勝美, 国史大系編集会/編, 1966)※藤原時平
・「室町時代物語大成 補遺二」(松本隆信/編, 角川書店, 1988)※天神御本地pp.317-345 天神の本地pp.346-378 天神本地(仮題)pp.379-387
・「新編 名宝日本の美術 第12巻 伴大納言絵巻」(黒田泰三, 小学館, 1991)
・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)
・「菅原道真 物語と史蹟をたずねて」(嶋岡晨, 成美堂出版, 1985)※小説形式
・「人物叢書 菅原道真」(坂本太郎, 吉川弘文館, 2002)
・「北野天神縁起を読む」(竹居明男/編, 吉川弘文館, 2008)
・南里みち子「菅家瑞応録と天神縁起」「長崎県立大学論集」88-89 27 1-3 27巻・第2・3号 通巻89号(長崎大学芸術研究会, 1994)pp.497-513
・南里みち子「菅家瑞応録と天神縁起(二)」「長崎県立大学論集」90号27巻4号(長崎県立大学研究会, 1994)pp.87-104
・波戸岡旭「太宰員外師菅原道真の詩境―『菅家後集』の世界」「国学院雑誌」104号(国学院大学, 2003)pp.1-13
・「国立劇場上演資料集 615 第199回文楽公演 菅原伝授手習鑑 加賀見山旧錦絵」(国立劇場調査養成部調査記録課, 独立行政法人 日本芸術文化振興会, 2017)
・戸隠山鬼女紅葉退治之伝 : 北向山霊験記(国会図書館 近代デジタルライブラリー)

記事を転載→「広小路

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2019年5月 3日 (金)

薄田兼相の分身――岩見重太郎と猿神退治

◆講談
 講談の世界で岩見重太郎という戦国末期の武芸者の武勇伝が語り継がれている。また、石見神楽や芸北神楽で神楽化もされている。

 岩見重太郎兼相(かねすけ)は筑前名島の小早川隆景公の家臣で剣術指南役の岩見重左衛門の次男である。重太郎は元々は虚弱体質だったのだが、八幡宮の巽(たつみ)の方角に三鬼山という山がある。その三鬼山に入っては体を鍛えている内に段々と頑健になってきた。ある日道に迷った重太郎は白髪の老人と少年に会う。重太郎は老人の許に通うようになる。そして三年間の山籠もりをして強くなって実家に帰ってくる。

 ただ、重太郎は白髪の老人のことは語らずにうつけの振りをしていた。それに目をつけた若侍たちが重太郎を挑発する。挑発された重太郎は若侍5人を相手にして一蹴する。若侍たちは一転して自分たちが嘲られる立場になった。それを恨んだ若侍たちは重太郎と手打ちをすると見せかけて重太郎が酒に酔ったところを徒党を組んだ決死組の者たちに襲わせる。だが、重太郎は二十八人も斬って返り討ちにする。これでいよいよ名を挙げた重太郎だった。

 蟄居を命じられた重太郎だが、許しを得て三年間の武者修行の旅に出る。重太郎が旅だった後、小早川秀秋が隆景の養子となる。その秀秋が連れてきた軍学者に広瀬軍蔵という佞臣がいた。広瀬は重太郎の父・重左衛門に勝負を挑む。重左衛門はわざと勝ちを譲った。勝った広瀬は重左衛門の悪口を高言する。今度は御前で軍学問答となった。ところが軍学には疎い広瀬、しどろもどろとなってしまう。逆恨みした広瀬は大川八左衛門と成瀬権蔵と組んで酔った重左衛門を射殺する。広瀬、大川、成瀬は逐電する。重太郎の兄の重蔵と妹のお辻は小早川公の許しを得て敵討ちの旅に出る。

 広瀬たちを追って一年ほど旅をしたが行方が掴めない。暴漢に襲われたお辻を助け出した重蔵だったが、急に腹が痛みだす。動けなくなったところに通りかかったのが広瀬たちであった。重蔵は斬られてしまう。お辻も危ないところだったが、通りかかった塙(ばん)団右衛門が救う。広瀬達を逃してしまったが、運び込まれた旅籠で重蔵が亡くなってしまう。残されたお辻は宇都宮の遊郭に身売りして復讐の機会を待つ。若浦と源氏名のついたお辻だったが、誰にも肌を許さない。そうするうちに高野弥平次という浪人が懸想して遊郭に通い詰める。

 二年が経過し、諸国を巡っていた重太郎は宇都宮にやってくる。酒に酔った重太郎は高野の門人、塩巻平蔵と対峙して一蹴する。酔って気絶させたことを詫びた重太郎だったが、高野が夜な夜な遊郭に通っていると聞き、諫めに出かける。そこで若浦となったお辻と再会する。父と兄が広瀬たちに殺されたことを重太郎は知る。お辻は兄とともに遊郭を抜け出す(三年の年季奉公だったが、借金もないので義理もない)。ただ、置いていった書付に真実を記さず、情の果てである風に書いた。これを読んだ高野が怒り狂う。

 高野は仙台藩の関所の役人に重太郎が出羽・最上家の金蔵を破って若浦と逐電したと嘘を吹き込む。そうとは知らぬ重太郎兄妹は仙台の関所で無実の罪で捕らえられてしまう。無実だから訳を話せば分かってくれるだろうと思った重太郎は大人しく縛につく。お辻は重太郎を逃すために自害する。牢を破った重太郎は役人たちを振り払い逃れる。

 信州にやってきた重太郎はとある村に差し掛かる。その村は祭りの日で宿がないという。聞けば、国常(くにとこ)明神の氏子から毎年若い娘を人身御供に出すことになっているという。重太郎は娘の身代りになって唐櫃に入り、やってきた怪物に手傷を負わせる。翌朝、血の跡を辿って洞穴にやって来る。火で怪物を追い出して戦うが、怪物の背中は松脂で固められていて刀が折れてしまう。重太郎は素手で怪物(狒々)の睾丸をつかみ、したたかに打ち付け殺す。

 新しい刀を村人から貰った重太郎は近江の国の長浜で湖を渡る小舟に乗る。ところが暴風雨で舟は転覆してしまう。泳ぎの達者でない重太郎は溺れてしまう。浜辺に打ち上げられた重太郎を唐崎村の庄屋・平左衛門が救う。重太郎は身分を隠して下男として働くことにする。

 剣術を学んでいた平左衛門は師匠の伊藤亘(わたる)の道場に七人天狗と名のる武者修行者が道場破りに来たことを知る。勝負で平左衛門は参ったと言ったのに強かに打ち据えられてしまう。その有様を見た重太郎が乱入、素手で七人天狗のうち六人までを打ち負かしてしまう(残りの一人・植松藤兵衛は離脱する)。琵琶湖で失った刀の替りを平左衛門から受け取った重太郎は再び旅に出る。

 強かにやられた七人天狗だったが、傷が癒えると平左衛門の屋敷を訪ね、手打ちをする振りをして平左衛門を斬り殺してしまう。平左衛門の番頭である徳兵衛が京都にいた重太郎に知らせる。

 丹波八上(やかみ)の城下に入った重太郎は八上の前田家が腕の立つ武芸者を募っていると聞く。果せるかな、七人天狗の六人が鬼神組を名乗って仕官していた。前田家の家老に取り次いで貰った重太郎は六人と果し合いをすることになった。果し合いで重太郎は剣を抜かずに素手で鬼神組の六人を打ち殺してしまう。その後、但馬城崎に大川八太夫という武芸者がいることを聞かされ、重太郎は城崎に赴く。

 大川八太夫は人違いだった。引き下がった重太郎だったが、大川の郎党が桝屋という呉服商と諍いを起こして若い衆を拉致してしまう。菓子折りに十両忍ばせたが、却って居丈高となってしまう。同じ旅籠に逗留していた片桐且元の家臣・土岐権太夫が仲裁を取りなすが、話にならず果し合いとなってしまう。権太夫に加勢した重太郎は大川八太夫の首を落とす。筑前名島から来た泰助という若者と再会した重太郎は河内国・葛城山の麓の尾花村に下巻剛蔵という武芸者がいると聞かされる。塩巻平蔵ではないかと思った重太郎は尾花村へ向かう。

 尾花村の庄屋に泊まった重太郎だったが、果せるかな塩巻平蔵だった。だが、事前に重太郎がいると知った塩巻は重太郎の泊まった離れに火をかける。難を逃れた重太郎は塩巻を斬る。高野弥平次が蒲生の浪人・北見典膳と共に村雲谷に岩屋を構えていると知った重太郎は村雲谷の岩屋に向かう。村雲谷には三百人の山賊がいた。忍び込んだ重太郎だったが、自分と似た武芸者と取っ組み合いになる。塙団右衛門と知って共に山賊を討つことにする。二人は更に後藤又兵衛に遭遇する。岩屋に忍び込んだ三人は高野・北見を斬り、兄弟の盃を交わす。

 塙・後藤と別れた重太郎は丹後に向い、山賊に捕らえられていた娘を両親の許に送り届ける。重太郎は広瀬、成瀬、大川が中村式部少輔に仕えていると知る。しかも、広瀬たちは海で溺れかけた式部を救った恩人だというのだ。重太郎は中村式部の家老に敵討ちの申請をし、受理される。ところが中村式部は敵討ちを天の橋立で軍馬調練を行うその場で行うものと取り決めてしまう。広瀬たち三人だけでなく三千の兵をも相手にすることになってしまった。

 木戸を破った重太郎は軍馬調練の場へ乱入する。たちまち大乱闘となった。七人天狗の一人、植松藤兵衛が加勢する。さしもの重太郎も疲れが見え、もはやこれまでといったところで塙団右衛門と後藤又兵衛が加勢し、三千の軍勢を押し返す。中村式部はその場を離れる。広瀬、成瀬、大川を斬った重太郎は見事、仇討を果たした。

 名島に戻った重太郎は岩見家を再興させる。暇を貰った重太郎は巡礼の旅に出る。そのうち豊臣秀吉が亡くなり、徳川家康が勢力を伸ばした。塙団右衛門と後藤又兵衛は大坂方につき、重太郎も伯父である薄田(すすきだ)七左衛門の姓を名乗って薄田隼人兼相と名のり大坂の陣で武勇を振るうがそれはまた別のお話であった。

 ……講談社「岩見重太郎 講談名作文庫26」を要約した。この本、作者名が記されていない。講談出版研究所編集とある。英語の駄洒落もあり、文体からして昭和、それも戦後のものだと思われる。

◆史実の薄田兼相
 薄田兼相は大坂の陣にその名が見えるが、大坂冬の陣で酒に酔って持ち場を敵に奪われる失態を犯し橙武者(正月の飾りの橙の様に見栄えはよいが役立たず)と嘲られた。続く夏の陣で兼相は多くの敵を道連れにして恥辱を雪いだとされる。

◆神楽の岩見重太郎
 「考訂 芸北神楽台本Ⅱ 旧舞の里山県郡西部編」に「岩見重太郎」が収録されている。校訂石見神楽台本には収録されていないので、明治以降の創作演目だろう。

 神楽では舞台は石見の国となる。石見の国にやって来た岩見重太郎が毎年娘を一人生贄に求める狒々を退治する。展開は猿神退治である。それから仇の広瀬軍蔵と戦って敵討ちするという筋である。

◆動画
 YouTubeで宮乃木神楽団の「岩見重太郎」を視聴する。舞台は石見の国。まず広瀬軍蔵とその手下が登場する。それから岩見重太郎が登場する。石見の国では娘を毎年一人生贄に求める狒々を退治する。途中、刀を狒々に奪われるが、猿真似で取り返す。狒々を退治した後は天橋立に舞台が移り、広瀬軍蔵との決着となる。刀の重太郎に対し、広瀬軍蔵は槍で対抗するが討ち取られる。

 DVD「玄武の舞 2015」下巻を観る。梶矢神楽団「人身御供」は猿神退治。広島の多くの神楽団に影響を与えている団体である。これが阿須那手なのかという印象。音声レベルが低くて口上が聞き取れないので主人公の名は分からない。宮本と聞こえたので岩見重太郎ではなさそうだ。主人公、相手の猩々に刀を奪われてしまうのだけど、猿真似をする習性を利用して見事に剣を取り戻す。

◆今昔物語
 今昔物語に猿神退治の話が載っている。

「美作国神依猟師謀止生贄語第七(みまさかのくにかみれふしのはかりことによりていけにへをとどむることだいしち)」

 今は昔、美作の国に中参(ちうざむ)、高野(かうや)と申す神がいらした。その神の体は、中参は猿、高野は蛇であった。年毎に一度神を祭るのに生贄を備えた。その生贄にはその国の人の娘で未だ嫁いでいないのを立てた。これは昔から最近になるまで怠らず久しくなった。

 そうしている間に、その国に何という程の人でもないけれど、歳十六、七ばかりで姿形が清らかな娘がいた人があった。父母も娘を愛して、身に替えて悲しく思われたところに、この娘はかの生贄に指名された。これは今年の祭りの日に指名されたので、その日から一年間、養い太らせて次の年の祭りに立てた。この娘は指名され後、父母が限りなく嘆き悲しんだけれども、逃れようのない事なので、月日の過ぎるにしたがって、命が縮まるのを、親子の相見るの残り少なくなっていけば、日を数えて互いに泣き悲しむより他の事はなかった。

 そうする間に東の方から事の縁があってその国に来た人があった。この人は犬山(飼いならした犬を使って得物を食い殺させる)という事をして、多くの犬を飼い、山に入って猪や鹿を犬に食い殺させて獲ることを生業とした人だった。また、心の極めて猛々しい者で、物おじしなかった。その人はその国に暫くいたいた間に、たまたまこの事を聞いた。

 さて、言うべき事があって、この生贄の親の家へ行って、話し込む程に縁にひざまづいて蔀(しとみ:日光をさえぎり風を防ぐ戸)の間から覗いたところ、この生贄の娘はとても清らかで色も白く、姿形もかわいらしく、髪も長くて田舎の人の娘とも見えない上品さで伏している。もの思いした様子で髪をふりかけ泣き伏したのを見て、この東人(あづまびと)は哀れに思い、いとおしく思うことは限りが無かった。親に合ったので、話をした。親が言うには「ただ独りの娘をこれこれの事で指名され、嘆き暮らし思いあかして月日の過ぎるのに従って別れ果てようとする事が近づいていて、悲しんでおります。このような国もあります。前世にいかなる罪を造って、このような処に生まれて、かようにあさましい目を見るのでしょう」と。東の人はこれを聞いて言った。「世にある人というものは命に勝るものはない。人が財宝にするもので子に勝るものはない。それにただ独りもった娘を目の前で膾(なます)にされるのを見るのもとても憂うべきことだ。ただ死になさい。害意があるものに道連れになって無駄死にするものがあろうか、いや無いであろう。仏神も命のためにこそ恐ろしいのだ、子のためにこそ身を惜しみなされ。またその君は今となっては死人も同然だ。同じく死ぬならその君を我に与えよ。自分がその替りに死のう。そこは自分に与えるとも苦しいと思うな。

 親はこれを聞いて「さて、あなたはどのようになさるのか」と問うたところ、東の人は「ただすべき様がある。この殿がいると他人に言わず、ただ精進すると言って注連縄を置きたまえ」と言ったけれども、親は「娘さえ死なずば、自分が滅びても苦しくない」と言って、この東の人に忍んで娘を娶せて東人の妻として過ぎる程に去りがたく思ったので、年来飼いつけた犬山の犬を二匹選りすぐって、「お前らは自分に代われ」と言い聞かせて、ねんごろに飼ったところ、山から猿を生きながらに捕らえて持ってきて、人のいない所で役と犬に教えて喰い殺すのを習慣とさせ、元から犬と猿は仲がよくない物で、そのように教えて習わせたら、猿さえ見れば何度も掛かって食い殺す。このように習慣づけ、自分は刀を鋭く研いで持った。東の人の妻に「自分はそなたの代わりに死のうとする。死はともかく、別れを申すのが悲しいことだ」と言った。女は理解していなかったけれども、哀れに思うことは限りなかった。

 既にその日になったので宮司からはじめて多くの人が来て、これを迎えた。新しい長櫃を持ってきて「これに入れ」と言って、長櫃を寝室に差し入れたので、男は狩衣と袴だけを着て、刀を身に引き添えて長櫃に入った。この犬二匹が左右の傍に入り伏した。親どもは女を入れた様に思わせて取り出したところ、鉾、榊、鈴、鏡を持つ物が雲のようにしてののしりながら先払いして行った。妻はいかなることが起こるのだろうかと恐ろしく思い、男が自分に替わったのを哀れに思った。親は「後日身を滅ぼすことになっても構わない。同じことが無くならないのをこうして止めよう」と思っていた。

 生贄は大社に参って、祝詞を申して玉垣の戸を開いて、この長櫃を結んだ紐を切って、差し入れて去った。玉垣の戸を閉じて宮司らが外に着き並んでいた。男は長櫃をわずかばかり穴を穿って見ると、丈七、八尺ばかりの猿が主座にいた。歯は白く顔と尻とは紅い。次々と左右に猿百匹ばかりが並んでいて、面を赤くして眉の端をつり上げて叫び罵る。前のまな板に大きな刀を置いてある。酢と塩、酒塩などを皆据えている。人が鹿を解体して食おうとする様であった。しばらくあって主座の大猿が立って長櫃を開いた。他の猿どもは皆立って共にこれを開けたところに、男が急に出て犬に「食え、おれおれ」と言えば二匹の犬が奔り出て大きな猿を喰って打ち伏せる。男は氷のごとき刀を抜いて、ボス猿を捕らえてまな板の上に引き伏せて頭に刀を差し当てて「お前が人を殺して肉塊を喰うのはこうする。そっ首切って犬にえさをやろう」と言えば、猿は顔を赤らめて目をしばしば叩いて歯を白く食い出して涙を垂れて手を擦るけれども、耳にも聞き入れず「お前が長い年月多くの子を喰った替りに今日殺そう。只今だ。神ならば自分を殺せ」と言って頭に刀を当てれば、この二匹の犬は多くの猿を喰い殺しつつ、たまたま生き残ったのは木に登り山に隠れて多くの猿を呼び集めて響くばかりに叫び合ったけれども、なんの利益もない。

 こうしている間に一人の宮司に神がついておっしゃることには「自分は今日から後は長くこの生贄を求めず、ものの命を殺すまい。また、この男が自分をこのような目に遭わせたからといって、その男に危害を加える事はあってはならない。また、生贄の女からはじめてその父母親類を非難し苦しめてはならない。ただ自分を助けよ」と言ったので、宮司らは皆社の内に入って男に「大神がかくのごとく仰せである、許されよ。面目ない」と言ったので、男は許さず「自分は命が惜しくない。多くの人の替りにこれを殺して、そして共に死のう」と言って許さないのを祝詞を述べ、大層な誓言を立てたので、男は「よしよし、今からはこのような仕業はなすな」と言って許したので、ボス猿は逃げて山に入った。
 男は家に返って、その女と永く夫婦として暮らした。父母は聟を喜ぶことが限りない。また、その家にはまったく神の祟りもなかった。それも前世の果報にこそあるだろう。

 その後、その生贄を立てる事は無くなって、国は平和になったと語り伝えるということだ。

「飛騨国猿神止生贄語第八(ひだのくにのさるかみのいけにへをとどむることだいはち)という話も記録されている。隠れ里における猿神退治である。

◆余談
 薄田兼相の名は、義兄の書いた架空戦記もので大坂の陣を取り上げていて、その登場人物として知った。橙武者というネーミングが気に入り、一時期ハンドルネームにしていたこともある。

◆参考文献
・「岩見重太郎 講談名作文庫26」(講談社出版研究所, 講談社, 1976)
・「考訂 芸北神楽台本Ⅱ 旧舞の里山県郡西部編」(佐々木浩, 加計印刷, 2011)pp.136-143
・「今昔物語集 新編日本古典文学全集 37」(馬淵和夫, 国東文麿, 稲垣泰一, 小学館, 2001)※猿神退治pp.491-513
・「説話文学研究叢書 第一巻 国民伝説類聚 前輯」(黒田彰, 湯谷祐三/編, クレス出版, 2004)pp.205-211

記事を転載→「広小路

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2019年5月 2日 (木)

オルタナティブ――戻橋/羅生門

◆芸北神楽の新舞「戻橋」

 芸北神楽の新舞に「戻橋」がある。源頼光の四天王である渡辺綱が鬼の手を斬るも、綱の養母に扮した鬼に取り返されてしまうという話である。

「戻橋」
 源頼光摂津守に仕える四天王、渡辺綱(わたなべのつな)は近頃都は羅生門戻橋の辺りに夜な夜な怪物が現れ庶民を悩ますため、退治せよとの君命を受けた。
 一方、戻橋では傘売りの仏の善兵衛が親切に老婆に傘を売ろうとしたところ、老女は茨木童子の変化したものだった。善兵衛、危機一髪のところに渡辺綱が駆けつける。
 茨木童子は虚空飛天の術を以て鬼人の頭である酒呑童子(しゅてんどうじ)を呼ぶ。酒呑童子は妖術を以て渡辺綱を倒す。渡辺綱、危機一髪のところに四天王の一人、坂田金時が現れ加勢する。敵わないとみた酒呑童子は虚空飛天の術で大江山に逃れる。渡辺綱は茨木童子の左腕を切りとっていた。二人は大江山征伐の義軍を起こすべく、源頼光の許へと帰る。

 仏の善兵衛が茶利として登場するのが特徴である。決着がつかないが、この決着は「大江山」に持ち越される。

◆旧舞

 一方、芸北神楽の旧舞には「羅生門」という演目がある。「考訂 芸北神楽台本Ⅱ 旧舞の里山県郡西部編」によると、禁裏羅生門に妖鬼が夜な夜な現れ人々を悩ますために源頼光の四天王の筆頭・渡辺綱が出向く。羅生門の鬼とは茨木童子であった。童子と対決した綱は童子の腕を斬り落とす。茨木童子は妖術を使って逃げてしまった。その後、綱の許を伯母が尋ねてくる。伯母は綱が斬り落としたという鬼の腕を見たいと所望する。綱は逡巡するが、やむなく鬼の腕を見せる。鬼の腕を見た伯母は正体を現す。茨木童子の化身だった。再び綱と童子の決戦となるが、腕を取り返した茨木童子は逃げてしまう。

 舞台が羅生門に移るが、劇中では一条堀川という地名が出てくる。

 このように「戻橋」と「羅生門」の粗筋はほぼ同一で代替関係にあると思われる。

◆平家物語・剣の巻

 平家物語・剣の巻に一条戻り橋の伝説が記されている。これが芸北神楽の新舞「戻橋」の出典だろう。

 その頃、摂津守頼光の内、渡辺綱、坂田公時、碓井貞道、卜部末武といって四天王を仕えさせていた。綱は四天王のその一であった。武蔵国の美田(埼玉県鴻巣市箕田)という所で生まれたので、美田の源次と申した。一条大宮という所に頼光が尋たい事があって、綱を使いに差し向けたところ、夜に及んで遣わした間、騒がしかった。もし事があらばとして、名刀・鬚切(ひげきり)を佩(は)いて馬に乗せて遣わした。そこに行って人を尋ね、問答して返ったところ、一条堀川の辺りの橋を渡ったとき、東の端に二十歳くらいの歳と見える女房がいて、肌は雪の如くで誠に見目麗しい姿で、紅梅の打掛を着て守りを懸けて衣の袖越しにお経を持っていたが、人も従えず、ただ独り南へ向いて行ったが、綱が西の端をばたばたとうち登るのを見て、「よう、あれはどちらへお行きになる人か。わらわは夫のいない者です。五条辺りの所に用があって行く途中です。世が更けていたく恐ろしいことです。送ってはくれないでしょうか」と親しげに言ったので、綱は急いで馬から飛び降りて「ならば、馬にお乗りなされ」と申したので、「左様であればうれしく思います」と言う間に綱は近く歩み寄って、女房を抱いて馬に乗せ、自分も後ろに乗って堀川の東側を南へ向いて行ったところ、正親町の小路へ一、二段ほど出たところ、この女房が後ろを向いて「実は五条の辺りには用はありません。私の住所は都の外にあります。それまで送ってくださらないでしょうか」と申したので「承知しました。どこまででも、あなたのお渡りになろう所へ送りましょう」と言ったのを聞いて、女房はやがて美しかった姿を引き替えて恐ろし気な鬼となって「いざ我の行くところは愛宕山だ」と言うままで綱の髻(もとどり)を掴み引っ提げて戌亥(いぬゐ)の方を指して愛宕の方へと飛び行った。綱はすぐに心得て少しも騒がず、このためにこそ鬚切を佩いて遣わされた、今でなくてはいつかと思って鬚切をさっと抜いて上向きに鬼の手をふっと切ったところ、綱は北野の社の南の回廊の上にどさっと落ちた。鬼は手を切られながら、尚も愛宕の山へ飛んでいくのが恐ろしい。綱は回廊から躍って降りて髻に取り付いた鬼の手をとって見たところ、女房と見た時は雪の肌と感じて、鬼の手と見るときは色黒くて土のようだった。太々とある白毛(しらが)が隙もなく生い茂り、先は蜘蛛のように屈まって銀(しろがね)の針を屈めて立てたが如くである。是をもって参上したところ、頼光は大いに驚いて「これは不思議なことだ。晴明を召せ」と言って播磨守安倍晴明を召して「どうしたらよかろうか」と問うたので、「どの様にしても綱には七日間の間暇を与えて慎むべし。鬼の手をよくよく封じるべし。祈りには仁王教を購読するべし」と申したので、晴明の申すとおりに鬼の手を封じさせて、綱に七日の暇を与えて慎ませた。祈りには仁王教を購読させた。既に六日目というときに、黄昏時に綱の宿所の門を叩く者がいた。「誰か」と問えば、綱の養母が渡辺にいたのが上京したと答えた。養母と申す者は綱の伯母であった。人に言わせると悪しざまに思うこともあろうといって、門の際までたち出でて綱が申すことには、「たまたま上京されましたが、急いで入れさせるところだけれども、七日の物忌みで、今日は六日目になりました。明日ばかりはいかなる事があってもこれは叶えられそうにありません。どこなりと宿をとってください。明日を過ぎれば、こちらへ入らせましょう」と申したところ、母はこれを聞くままに門柱に立ちそいてさめざめと泣いた。「たまたま上京されましたが、急いで入れさせるところだけれども、七日の物忌みで、今日は六日目になりました。明日ばかりはいかなる事があってもこれは叶えられそうにありません。どこなりと宿をとってください。明日を過ぎれば、こちらへ入らせましょう」と申したところ、母はこれを聞くままに門柱に立ちそいてさめざめと泣いた。「情けないことよ。わらわがそなたが生まれ落ちたのを受け取りまして養い育てました志はどれほどかと思いますのでしょう。乳母があったといいますけれども乳房を含めたばかりです。偏にわらわが守り育てて夜も安眠もしませんで、濡れました処に我が身を伏せまして、乾きましたところに殿を伏せまして四つや五つになるまでは荒い風にも当てまいと思い、いつか我が子の成長して人にも優れた事を見ましょうと思い、聞けばと思いつつ、夜に昼に願った甲斐がありまして摂津守殿の許に参りましてから以来は、摂津守に従う人が多いけれですども、美田の源次綱とすら言いましたけれども、肩を並べる者はいません。お上にも褒められるのをうれしいとばかり思いましたけれども、一つ心に叶わない事は、毎日毎日いつも会いたいと思いますけれども、殿も宮仕えで暇がありませんで、下って会うこともありません。我も女の身ですので、会いに上京することもありません。恋しい恋しいと思いますこそ、親子の中の嘆きでありましょう。たとえ親子が死んだとても互いに会うことはありそうにないです。この程どんなことがあるべきでしょうか。うち続き夢に見ましたので、自分が死んだ綱が死んだと疑いまして今一度会おうと思いまして、渡辺から遥々上京した甲斐もありませんで、門へすらも入れませんといって宿を借りて泊まれなどと言われましたことが悲しいです。これ程まで子に親とも思われない我が身ですので、自分も子と思うべきでありません。今日から後は仏神に強く申して勘当しようと思うのです」とかき口説き申したので、綱は実に道理であると思ったので、自分の身がどのようになるとしても、どうしてかこれを聞きながら入れさせないことがあろうかと思い直して申すには「大変な大事で固く物忌みしていましたが、誠におっしゃる事が道理なのでこちらへお入りになってください」と言って門を開けて入れた。過去と未来の話をして、「さても七日の物忌みと言われましたのは何事があったのですか」と詳しく尋ね問うたので、隠すべき事でないので、ありのままに語った。母がこれを聞いて申すには、「さては実に重い慎みであったのでしょうか。左様なこととも知らず恨み事を申しましたので、入れられたことが痛々しいです。そうではありますけれど鬼の手という物はいかなる物でしょう。話の種に見たいものです」と申した。綱が答えて申したのは、「簡単な事ですが、固く封じてありますので、七日を過ぎねば叶わないでしょう。明日が過ぎたら見参に入れましょう」と申したところ、「よしよし。ならば見ないでいましょう。見なくとも不自由する訳ではありません。自分は夜が明けないうちに下ったならば、年老いた身ですので上京することは難しいでしょう。そういう次第ならば見なくとも」とも言いながら、恨めし気な様子に見えたので、これを見せないことはまたもや親不孝であろうか、どうなってもしかたがない。見せましょうと思いつつ、「実に夜明けにお下りされるならば、どうしてお目にかけないでいられましょう」と言って、封じた鬼の手を取り出して養母に見せたところ、うち返しうち返しよくよく見て、「これは我が手なので取って行くぞ」と言って恐ろし気な鬼になって空へ光りながら登って破風から伝って出た。それから渡辺党は家屋に破風を立てず、東屋造りにすることにした。綱は鬼が手を取返して七日の慎みを破ったけれども、仁王教購読の力によって特に問題はなかった。さて、この鬚切をば鬼の手を切った後に改名して鬼丸と名づけた。

 ……という話である。面白いのは綱の伯母に扮した鬼があれこれと不平を並べて綱の心を緩めさせるところだ。鬼はまんまと腕を取り返すことに成功するのである。

◆太平記
 太平記・鬼丸鬼切の事にも同様の伝説が記されている。

 次に鬼切というのは、元は清和源氏の先祖摂津守頼光の太刀であった。昔大和国宇多の郡(こおり)に大きな森があった。その陰に夜毎に変化の物があって、往来の人をとり喰らい牛馬や六種の家畜を掴んで裂いた。頼光はこれを聞いて渡辺源五綱という者にその変化の物を討ってまいれといって秘蔵の太刀を賜った。綱は頼光の命令を含んで宇多郡に行き、甲冑を着て夜ごと森の陰で待ったが、この変化の物は綱の勢いを恐れたか、敢えて眼を遮る事がなかった。綱はならばと姿形を替えて謀ろうと思って髪を解き乱して鬘(かつら)をつけ、お歯黒を塗り、眉を太く書き、薄絹を被って女のような出で立ちで朧月夜の曙に森の下を通った。俄かに虚空がかき曇って、森の上に物が翔けたように見えたが、空から綱の髻(もとどり)を掴んで宙に提げて上がった。綱は件(くだん)の太刀を抜いて、虚空を払い斬りで切った。雲の上であっという声がして額に血がさっと掛かったが、毛の生えた手で指が三つあって熊の手のようなのを二の腕から切って落とした。

 綱はこの手を取って頼光に奉った。これを朱の唐櫃に収めて置いた間、呪術者の博士に問うたところ、七日の間重い慎みをと占った。これによって頼光は堅く門を閉じて七重に木々綿(ゆふ:楮の繊維を蒸して水にさらして細かく糸状に割いたもの)を引いて四方の門に十二人の番人を置いて夜ごとに宿直(とのい)の蟇目(ひきめ)の矢を射させた。物忌みが七日に満ちた夜、河内国高安から頼光のご母堂といって門を叩いた。物忌みの最中だけれども、老母の対面のためといって遥かに来ましたといって力なく門を開き、内へ誘い入れて、珍しい物を調え酒を勧め、よもやま話に及んだ時、頼光はひどく酔ってこの事を語りだした。老母は持った盃を前に置いて「まあ恐ろしいことです。私の周囲の人もこの変化の物に多く捕らえられて子は親に先立ち、妻は夫と別れた者が多いのです。さてさて、どのような物でしょう。ああ、その手を見たいものです」と所望したので、頼光は「容易いことです」といって唐櫃の中から件の手を取り出して老母の前に置いた。母はこれをとってしばらく見た次第だが、自分の右手の肘から切れたところを差し出して「これは我が手である」といって切り口に差し合わせて、ただちに二丈ばかりの丈の牛鬼になって、酌に立った綱を左の手に引っ提げて、天上の煙出(屋内の煙を外に出す施設)から上がったのを頼光が件の太刀を抜いて牛鬼の首を切って落とした。その首は頼光に飛び掛かったが、太刀を逆手に持ち直して合わせたので、この首は太刀の切っ先に貫かれて、遂に地に落ちてただちに目を塞いだ。その骸はなおも綱を捨てず、破風から飛び出て遥か天に登った。今に至るまで渡辺党の家造りに破風を用いないのはこの故である。この太刀は多田満仲の手に渡って信濃の国戸隠山でまた鬼を切ることがあった。さてその名を鬼切と言ったのである。

◆謡曲「羅生門」

 謡曲「羅生門」では、時系列が源頼光が酒呑童子を退治した後の話となる。頼光が配下の者たちを集めて酒宴を催したところ、藤原保昌が「近頃、羅生門に鬼が出る」という噂話をする。他の者は疑うが、渡辺綱が羅生門に行って証拠を置いてくることになる。羅生門に行った綱は証拠を置いて引き返そうとするが、そこに鬼神が襲い掛かった。格闘した挙句、鬼神の腕を斬り落とした綱だったが、鬼神は「また時節を選んで取返しに来る」と言い残して去った。渡辺綱は武名を上げた……という粗筋である。してみると、旧舞の「羅生門」の出典は謡曲かもしれない。

◆動画

 YouTubeで琴庄神楽団の「戻橋」を見る。35分バージョンなのもあってか、鬼が斬られた腕を取り返す後半部分はカットされていた。というか、「戻橋」では鬼が腕を奪い返す場面まではやらない様である。他、茶利が傘売りから刀鍛冶に変更されていた。鬼の妖術で倒れた綱の加勢に藤原保昌が入るという展開であった。面の早変わりで観客の拍手が鳴り響いた。

 大塚神楽団の「羅生門」を見る。冒頭、老婆が酒呑童子と茨木童子によって取り殺される。この後、老婆に身をやつした酒呑童子が茨木童子の腕を取り返す。老婆から鬼への一瞬の早変わりが見事である。老婆と綱のやり取りはカットされている。その後、源頼光と貞光か、二人の応援を得た渡辺綱と酒呑童子、茨木童子の立ち合いとなるが、決着は大江山に持ち越されるという筋立てになっている。

 安芸高田市の神楽門前湯治村の神楽ドームで催された「戻り橋」を見る。どの神楽団か分からないが45分ある。そのうちかなりの部分を茶利(仏の善兵衛)の口上に費やしていて、観客を楽しませていた。鬼は茨木童子と酒呑童子の二体で、渡辺の綱の加勢に坂田金時が入る。観客数は三千人くらいとのこと。

 中川戸神楽団の「茨木」を見る。鬼が茨木童子であることを除けば、平家物語・剣の巻に比較的忠実に作られている。渡辺綱の伯母の名を真柴としている。綱の伯母に扮装した鬼は口上をもって綱に門を開けさせる。その後は妖術をもって唐櫃の封印を破り、左手を取り戻す。綱の他に随身が一名登場する。

◆十訓抄

 十訓抄に菅原道真と羅生門のエピソードが収録されている。

 同じ人(良香)の話。良香が羅城門を過ぎたところ
  気、霽(は)れては、風、新柳の髪を梳(けず)る
と詠んだところ、楼閣の上から声がして、
  氷消えては、波、旧苔(きゅうたい)の鬚(ひげ)を洗ふ
とつけた。良香は菅丞相(菅原道真)の御前で、この詩を自賛したところ、「下の句は鬼の詞である」とおっしゃった。

◆鬼切鬼丸のその後
 太平記に鬼切と鬼丸のその後が描かれている。鬼切と鬼丸は足利尊氏と対立した新田義貞が佩(は)いていたのである。

 そうであるけれども義貞は薄金(うすかね)という鎧に、鬼切・鬼丸といって源氏累代の重宝(ちようほう)を二振り佩(は)いていたのを抜き持って、下がる矢を飛び越え、上がる矢を指しうつむき、真ん中に当たる矢を切って落としたその間、その身は無事であった。
「太平記2 新編日本古典文学全集55」(長谷川端/校注・訳, 小学館, 1996)320P

(首実検で新田義貞らしいことが分かる)これでいよいよ事情を理解して帯びたニ振りの太刀を召し出して見ると、上は皆金銀で作っていて一振りには銀で金はばき(刀身の元の部分にはめ、刀身が鞘から抜け出さないようにするための金具)の上に鬼切(おにぎり)という文字を入れていた。一振りには金で銀はばきの上に鬼丸(おにまる)という文字を沈めていた(刻み込んでいた)。この二振りの太刀は源氏重代(ぢゆうだい)の重宝(ちようほう)で、義貞の方に伝わったと聞いたので、末々の一族どもの持つべき太刀ではないと、見る人がいよいよ怪しんで、また肌の守袋を開いてみると、吉野の帝の御宸筆で「朝敵征伐の事、帝の考え(朕の心)の向かうところは、偏に義貞の武功にあり、選んで未だ他の者を求めない。ことに早速の計略を巡らすべき者である」と書かれていた。「さては相違ない。義貞の首である。哀れかな。敵ながらも(同じ)氏族(源氏)として武勇の誉れは誰かと思ったところ(誰にも劣らないと思っていたのに)、今こうなった(討死した)事よ。弓矢を取る者は人の上(他人の身の上)と思うべきでない」と高経(たかつね)は不覚の涙を流した。
「太平記2 新編日本古典文学全集55」(長谷川端/校注・訳, 小学館, 1996)pp.559-560

 現代語訳太平記では以下の通りである。

 これを知った敵はすぐさま囲んで討ち取ろうとかかり、義貞の勢いに恐れて近寄りはしなかったものの、四方八方から射かける遠矢が雨霰よりも激しく降りかかった。義貞は薄金と名づけた鎧を身にまとい、鬼切・鬼丸という多田満仲から源氏代々に伝わる太刀を腰にしていたが、この名刀を左右の手に抜き持って、うえ向きの矢は飛び越え、した向きの矢はうつ向き、まんなかを射通す矢はふた振りの太刀を交叉させて十六本まで切って落とされた。そのありさまは、さながら四天王が須弥山の四方からいっせいに放つ矢を、捷疾鬼(しょうしつき)が走りまわって大海に落ちるよりも早く残らずうけ取ってかえる早業もかくやと思われる奮闘ぶりであった。
「太平記 下 新装版日本古典文庫14」149P 巻16

 十月九日はあわただしく御即位の儀式や還幸の準備で日も暮れた。夜も更けたころになって、新田左中将はひそかに日吉の大宮権現に参詣され、神前に心を静めて祈願をこめられた。
「いやしくもこれまで私は、濁世に示された御仏の御願にすがって日々を送り、仏法に反する戦をしながらも、仏道にはいる因縁を結んで日もすでに久しくなります。願わくば、遠く征戦の路の果てまで神の御加護をお与えくださり、ふたたび大軍を起こして朝敵を滅ぼす力をお与えくださいますように。不幸にしてたとえ私の存命中にこの望みを達することがなかったとしても、わが祈念の心が神の御心にかなうものならば、必ずや子孫のうちに大軍を起す者が現れて、父祖の屍の無念を晴らしてくれることを請い願います。このふたつの願いのうちひとつでも達することができましたなら、わが子孫には末永く当社の檀那となって、霊神の御威光を輝かすようにいたしましょう」
 信心こめてこのように誓いを立て、義貞は新田家重代の家宝で鬼切という太刀を社前に奉納した。
「太平記 下 新装版日本古典文庫14」179-180P 巻17

 と、手ずから鬢櫛で髪をかきあげ、血を洗い土をすすいで御覧になると、はたして左の眉のうえに疵の跡があった。これに力を得て、腰にされていたふた振りの太刀を取り寄せてみると、どちらも金銀の延べ金で飾り、なかのひと振りには金の脛巾(はばき)の上に銀で「鬼切」という文字が打ちこんであった。またもうひと振りには、銀の脛巾の上に金で「鬼丸」という文字を彫り入れてあった。これはふたつながら源氏累代の重宝で、義貞の手もとに相伝されているとわかっていたから、一族末流の者が身にすべき太刀ではないと思い、いよいよ怪しんで肌守りの袋を開いて見られると、吉野においでの後醍醐帝のご宸筆で、「朝敵征伐について私の心はただに義貞の武功を期待しており、他にそれを求めようとは思わない。一刻も早くその計略をめぐらしてほしい」と記されたものがあった。
「太平記 下 新装版日本古典文庫14」209-210P 巻20

◆謡曲「羅生門」現代語訳

シテ(謡なし):鬼神
ワキ(前後):渡辺綱
ツレ:源頼光
同:平井保昌
同:碓井貞光
同:卜部季武
同:坂田公時
處は:京都
季は:三月

酒宴の興より争論起り、綱は鬼神の姿を見んとて、羅生門に向ふ事を作れり。

一同次第「治まる花の都とて、花の都とて、風も音せぬ春べかな」
頼光詞「是は源の頼光(らいくわう)とは私の事である。ところで丹州大江山の鬼神を従えてからこの方、貞光(さだみつ)、季武(すゑたけ)、綱(つな)、公時(きんとき)、この人々と日夜朝夕に寄り合いに参加している。特にこの程は晴れ間も見えない春雨で、酒を勧めようと思う」
サシ「有難い。四海(天下)の安危(安全と危険)は掌(たなごころ)の内に照らし、百王(代々の王)の理乱(治まることと乱れること)は心の内にかけている」
地「曇りなき、君の御影(みかげ)は久方の、君の御影は久方の、空ものどかな春雨の、音も静かに都路の、七つの道も末すぐに、八洲(やしま)の浪も落とさぬ、九重の春ぞ久しい。九重の春ぞ久しい」
頼光詞「どうだ、面々。さしたる興もないけれども、この春雨の昨日今日、晴れ間も見えない徒然(することもない退屈な様)に、今日も暮れたと告げ渡る、声も寂しい入相の鐘(日暮れに寺でつく鐘)」
地「つくづくと春の眺めの淋しさは、淋しさは、目立たないように伝う軒の玉水(水の美称)の音凄く、独り眺める夕暮れ、伴い語らう諸人に御酒(みき)を勧めて盃を、とりどりであれ梓弓、弥猛心(やたけごころ:いよいよ猛り勇む心)の一つである、兵(つはもの)の交わり、頼みとする中の酒宴かな」
クセ「思う心の底ひ無く(果てもなく)、ただ打ち解けて徒然と、降り暮らした宵の雨、これぞ雨夜(あまよ)の物語」
頼光「品々言葉の花も咲き」
地「匂いも深い紅に、面を愛でて人心(情け)、隔てぬ中の戯れは、面白や諸共に近く寄って語ろう」
頼光詞「余りに淋しい夜なので、皆々近く寄って物語をし給え」
ワキ詞「畏まって候。仰せなので、皆々近く参り給え」
頼光「どう申そうか。ここのところ、珍しい事はないか」
保昌「左様でございます。この頃不思議な事を申します。九條の羅生門に鬼神が住んで、暮れたら人が通らぬ次第を申します」
ワキ「いかに保昌(ほうしやう)、筋無い(条理が通っていない)事を言うな。さすがに羅生門は都の南門でないか。土も木も我が大君の国なので、どこに鬼の宿を定めようと聞くときは、たとえ鬼神が住めばといって、住まわすべきでもない。このような麁忽(そこつ:失礼)な事を仰せになるぞ」
保昌「扨(さ)ては某(それがし:私)が偽りを申すとお思いになりますか。このこと世間に隠れのないことなので申したのです。まことに不審にお思いになるならば、今夜にでも彼の門にお出でになって、誠か偽りかご覧なされ」
ワキ「それでは某(私)が参るまじき者とお思いか。それならば、今夜かの門に行き、誠か偽りかを見てくるべし。印を賜ってくだされ」
ツレ「満座の輩(同輩)一同に、これは無益と支えた」
ワキ「いや。保昌に対し野心はないけれども、一つは主君の為なので、印をお与えくださいと申したのである」
頼光詞「実に綱が申す様に、一つに主君の為なので、印を立てて帰るべしと。札を取り出して与えたところ」
ワキ歌「綱は印を賜って」
地「綱は印を賜って、御前を立って出たが、立ち帰り方々(人々)は、人の心を陸奥の安達が原ではないけれども、籠った鬼を従えずんば、再びまた人に面を向ける事はあるまい。これまでだろうか梓弓、引き返さない武士(ものゝふ)の弥猛心(やたけごころ:いよいよ猛り勇む心)が恐ろしい、恐ろしい」
後ワキ一声「扨(さ)ても(ところで)渡辺の綱はただかりそめの(その場限りの)口論で、鬼神の姿を見んが為に、物の具(鎧)を取って肩にかけ、同じ毛の兜の緒を締め、重代(先祖伝来の)太刀を佩(は)き」
地「丈なる馬(四尺以上の馬)に打ち乗って、舎人(雑人)も連れずただ一騎、宿所を出て二條大宮を南頭(馬の頭を南に向けて)歩ませた。春雨の、音もしきりに更ける夜の、更ける夜の、鐘も聞こえる暁に、東寺の前を打ち過ぎて、九條の面に打って出て、羅生門を見渡せば、もの凄まじく雨が落ちて、俄かに吹き来る風の音に、駒も進まず高くいなないて、身震いして立ったことだ。その時馬を乗り放し、乗り放し、羅生門の石壇に上がり、印の札を取り出し、壇上に立て置き帰ろうとすると、後ろから兜の錏(しころ:兜の左右から後方に垂れて首を覆うもの)を掴んで引き留めたので、すわ鬼神と太刀を抜き持って切ろうとすると、取った兜の緒を引きちぎって、思わず壇より飛び降りた。こうして鬼神は怒りをなして、怒りをなして、持った兜をかっぱと投げ捨て、その長衡門(たけかうもん:二本の柱に横木を懸け渡しただけの粗末な門)の軒に等しく、両眼は日月の様で、綱を睨んで立ったことだ」
ワキ「綱は騒がず太刀を差しかざし」
地「綱は騒がず太刀を差しかざし、お前は知らないのか王の地を侵すその天罰は逃れられまいといって掛かったので、鉄杖を振り上げ、えいやと打つのを飛び違いちょうと切る。切られて組み付くのを払う剣に腕を打ち落とされ、怯むと見えたがわきづちに上り、虚空を指して上がったのを、慕い行くも黒雲が覆い、時節を待ってまた取る(取り返す)べしと呼ばわる(大声で呼ぶ)声がかすかに聞こえる、鬼神(おにかみ)よりも恐ろしかった、綱は名を揚げた」

◆余談

 佐藤両々「カグラ舞う!」という広島県の高校を舞台とした四コマ漫画で「戻り橋」が新入生勧誘の舞台で舞われる。短縮バージョンといった設定である。

◆参考文献
・「かぐら台本集」(佐々木順三, 佐々木敬文, 2016)
・「考訂 芸北神楽台本Ⅱ 旧舞の里山県郡西部編」(佐々木浩, 加計印刷, 2011)pp.73-83
・「平家物語剣巻」「完訳 日本の古典 第四十五巻 平家物語(四)」(市古貞次/校注・訳, 小学館, 1989)※平家物語剣巻pp.412-417
・「新校 太平記 下」(高橋貞一/校訂, 思文閣, 1976)※「直冬上洛の事 付 鬼切丸鬼切の事」pp.316-320
・「謡曲大觀 第五巻」(佐成謙太郎, 明治書院, 1931)※「羅生門」pp.3345-3357
・「太平記2 新編日本古典文学全集55」(長谷川端/校注・訳, 小学館, 1996)pp.559-560
・「太平記 下 新装版日本古典文庫15」(山崎正和/訳, 河出書房新社, 1988)
・「謡曲叢書 第三巻」(芳賀矢一、佐佐木信綱/編, 博文館, 1915)※「羅生門」pp.571-574
・「説話文学研究叢書 第一巻 国民伝説類聚 前輯」(黒田彰, 湯谷祐三/編, クレス出版, 2004)pp.256-266

記事を転載→「広小路

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2019年5月 1日 (水)

デイサービス慰問を終える――佐藤両々「カグラ舞う!」

月刊ヤングキングアワーズ6月号を買う。佐藤両々「カグラ舞う!」今回でデイサービスの慰問神楽は終わる。そして神楽は決心する。

「こっちの神楽はね 神事いうより皆が楽しむものだから」というセリフがある。

批判があるのだろうか。と書きつつ批判してるのは僕だけなのだが。

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