農村自然体験民宿を中心に理論面も――青木隆浩「観光地における文化と自然の有用性―グリーン・ツーリズムを事例に―」
青木隆浩「観光地における文化と自然の有用性―グリーン・ツーリズムを事例に―」「日本民俗学」243 という論文を読む。文化人類学や民俗学だけでなく、経済学にまで目を配った論文である。
また、文化経済学や観光経済学、観光政策は、観光地として成功する要因を専ら地域特有の文化と自然に求めているが、結果と原因の関係を取り違えていることが多い。地域特有の文化と自然を活用すれば、観光地として成功するのではない。観光地として成功するには、立地条件や観光協会の営業活動、民宿の洗練されたサービスなど、文化と自然以外の様々な要素が関係している。そして成功した観光地だからこそ、文化と自然を地域特有のものとして演出することができる。このような基本的条件を差し置いて、観光開発のために文化と自然を乱用すべきではない。(2-3P)
観光地は、地域の文化と自然をそのまま活用しているのではない。おそらく、多くの経済学者が観光地としての成功と文化・自然の関係を逆さまに解釈している。地域の文化と自然を活用すれば観光地として成功するのではなく、様々な試行錯誤のなかで大勢の観光客を呼べる観光メニューを提供できた観光地が、それらを地域特有の文化と自然として固定化し、そこに自己のアイデンティティを築き上げるのではないだろうか。(19P)
鶏が先か、卵が先かといった議論になってしまいそうだが、観光に対する一定の見地はある。
著者は観光開発のために文化を乱用すべきでないと述べているが、現代において地方にとって観光客の増加は切実な問題である。地方だけでない。アトキンソン『新・観光立国論』、カー、清野由美「観光亡国論」で言及された様にインバウンド(訪日外国人客)を増やすことが21世紀の産業として観光立国化を確立させることに繋がるのだ。なにせ、製造業に次ぐ産業規模になるポテンシャルを秘めているのだから。
一方で、観光地として成功する要因を三つあげている
・立地条件
・観光協会の営業活動
・民宿の洗練されたサービス(国の定めたマニュアルに依らない体験民宿のノウハウ)
これ自体はグリーン・ツーリズム(農村自然体験民宿)に関するものだけれど、一般化できるだろう。例えば浜田市で考えれば、
・浜田道が開通して広島と二時間半程度の時間で行き来できるようになった。海。
・観光協会の営業活動自体は分からないが、なつかしの国石見として統一キャンペーンを張っている。また、石見の夜神楽定期公演などの催しを行っている。
・宿泊に関してはよく分からない。
日本海の海と食材という立地条件にあり、石見海浜公園の整備やしまね海洋館アクアスといった施設で観光客を呼び込む努力している。夏シーズン以外にも、石見の夜神楽定期公演で動員数自体は多くはないとはいえ、観光客をリピーターにする努力を怠っていない。
浜田市にもグリーン・ツーリズム的なものはあって、多分、弥栄町のふるさと体験村がそれに該当すると思われるが、生憎と赤字経営であるようだ。そういう意味では論文で個別に取り上げている長野県のグリーン・ツーリズムに学ぶ点は多いかもしれない。
なお、橋本[一九九九 四一]は観光を「(観光者にとっての)異境において、よく知られているものを、ほんの少し、一時的な楽しみとして、売買すること」と定義している。その前提には観光客が観光資源の「本物」と「まがいもの」を明確に区別していないという事実がある。この橋本の定義は妥当であり、観光資源を本来の文化的な文脈から切り離して、あくまでも商品として位置づけている点では優れているが、一方でこれを観光地の側からみた場合、観光客にとっての「ほんの少し」に案外大きな程度差があることに注意しなければならない。(12P)
※橋本和也(1999)「観光人類学の戦略―文化の売り方・売られ方―」世界思想社
という記述も重要である。観光客は観光資源の「本物」と「まがいもの」を明確に区別していないという指摘である。民俗学でいうフォークロリズム(フォークロアまがい)という概念にも関わってくる。観光という文化の二次的な利用という現代において顕著に見られるようになった動向である。例えば神楽で言えば奉納神楽という本来の文脈から外れたステージでの上演といった観光神楽化を指す。なぜ観光客は「本物の民俗」でない「フォークロアまがい」に惹かれるのか。学術的価値の高いものを常に好んでいるとは限らないのである。それは観光客の利便性に資する、観光客の望むものを提示しているからと考えられるが、それは観光学の考え方であって、民俗学固有の考え方、捉え方ではないだろう。観光客はなぜフォークロアまがいで満足するのか。この論文では観光客は「本物」と「まがいもの」を明確に区別していないのだと述べる。学者にとっては重要な「本物」と「まがいもの」の区別であるが、観光客にとっては、よく知られているものをほんの少し一時的な楽しみとして味わえばよいのだから、「まがいもの」であっても当面は構わないのだという結論になる。これも観光学の答えであろうが、民俗学はいかなる答えを用意するのであろうか。
この論文は「伝統の創出」「文化の発明」といった議論にも言及している。
柴村[1999 二二~二三]のいうとおり、「伝統の創出」や「文化の発明」といった概念は、文化を変革する主体を専ら国家に集約させ、近代社会が自律的に変化しないことを前提としている。だが、このような伝統文化が近代西洋文明の影響のもとに変容したとする「文化変容」モデルでは、文化のダイナミズムを説明できない[山下 一九九六 九]。観光資源としての文化と自然は、政府、開発業者、地域住民の様々な対立や葛藤を経て創出されていくものである。(5P)
※芝村龍太 1999「地域の活性化と文化の再編成―串原の組の太鼓と中山太鼓―」「ソシオロジ」135
「文化を変革する主体を専ら国家に集約させ、近代社会が自律的に変化しない」といった記述があるが、ホブズボウムの著作にその様な記述はなかったはずである。あるいはワグナーの「文化のインベンション」にあるのかもしれない。例えば石見神楽でいうと、明治初期の神職演舞禁止令で神職が神楽と引き離され、神楽の担い手が氏子に移ったという点では国家的影響力を見て取ることができる。国家的政策として神楽に修験道や陰陽道の要素を入れることを嫌ったのだ。一方、それに対する反応として、石見では国学者や神職が神楽の詞章改定に乗り出しており、俗な詞章を古風な整ったものに変えている。また、テンポの速い八調子を取り入れるなど、民間の担い手自体が動いているのである。
これらの様に青木論文は理論的に面白い部分を多々含んでいる。全てに納得がいった訳ではないが、いずれ参考文献欄の論文/本も読んでみたいと思う。
◆参考文献
・青木隆浩「観光地における文化と自然の有用性―グリーン・ツーリズムを事例に―」「日本民俗学」243(日本民俗学会, 2005)pp.1-32
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