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2019年4月28日 (日)

八木康幸「郷土芸能としての和太鼓」「たいころじい」15号

八木康幸「郷土芸能としての和太鼓」「たいころじい」15号を読む。創作太鼓、創作和太鼓に関する論文。全国に和太鼓のグループは数千あると言われているが、その多くが昭和の比較的新しい時期に結成されたものであるとしている。特定の指導者によって指導を受けている点でも特徴的である。つまり、歴史ある土着の音かというと必ずしもそうではないのである。

漫画やアニメを見ていても、お祭りに和太鼓が出演するという描写は珍しくない。それくらい定着しているのだけど、それは古くからの伝統がある芸能だと思っていたので意外な感がある。

論文によると、県単位で催される博覧会に出演する創作和太鼓のグループが多いとの指摘がある。そういう意味では既に郷土を代表する芸能としての扱いを受けているのである。

太鼓グループを結成するには、太鼓代、衣装代、作曲料、指導料などで1000万円近い経費がかかるとのことである。そういう意味では市町村からの補助によって成り立ったという背景も無視できない。

和太鼓を「心を持たぬ芸能」とみなし、「温泉芸能」「御当地民舞太鼓」と揶揄してきた「民俗芸能の本質」を信奉する民俗芸能研究者たちは、もはや敵ではない。たしかに和太鼓は言説と装いの上で民俗芸能を写し鏡としているが、時と場所のコンテクストを離れてますます舞台化する民俗芸能は、実体の上で和太鼓に限りなく近づきつつある。いわば地域文化としての両者は対等なのであり、伝統ある民族芸能に与えられてきたのと同じ「ふるさと」を表現する資格を、すでに和太鼓は手中にしているのである。(25P)
八木康幸「郷土芸能としての和太鼓」「たいころじい」15号(十月社, 1997)


論文の結びで、こういう記述がある。同じステージの上で上演されるんだから等価ではないかとでも言えばいいのか、挑発的な文章である。「心を持たぬ芸能」「温泉芸能」「御当地民舞太鼓」と揶揄したというソースを読んでみたい気もする。一方、「どこがヴァナキュラー(土着な)音なんだ?」という反発もある。

本質主義の頑固さにも戸惑ってしまうが、一方、構築主義を推し進めると「伝統に本物もまがいものもない」となってしまって、それでは本物とまがいものの区別もつかないということで、審美眼的な点から言っても見る目がないということになってしまう。

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