何でもありだが何ものでもない――「パフォーマンス研究のキーワード 批判的カルチュラル・スタディーズ入門」(高橋雄一郎, 鈴木健/訳)
「パフォーマンス研究のキーワード 批判的カルチュラル・スタディーズ入門」(高橋雄一郎, 鈴木健/訳, 世界思想社, 2011)を読む。複数の著者からなる網羅的な内容。
パフォーマンスというと、「コスト・パフォーマンス(価格性能比)がいい」とか「パフォーマンスを発揮する」などの用法があるが、この本で取り上げるのは主にパフォーミング・アーツといった舞台芸術である。その他、人は会社では会社員として、家庭では家族の一員としてパフォームしているとも言える。なので何でもありなのだが、何ものでもないというのがミソらしい。
パフォーマンス理論の基礎にあるのはマルクス主義に基礎を置く批判理論、カルチュラル・スタディーズであるとのことである。この点で若干意欲が減退する。既に1990年代に間違っていたと証明されたものに今更深入りする気もしない。それでも「あれは正しい社会主義ではなかった」という人もいるかもしれない。でも、マルクス主義はその繰り返しなのだ。
その基礎からしてパフォーマンス理論は反体制的である。ジェンダーにおけるパフォーマンス理論はポストモダンのポスト構造主義の影響によって本質主義から構築主義へといった変遷を遂げており、そういう意味では「何でもあり」なのかもしれない。しかし、構築主義的な思考が行き着くところがまさに「本物もまがいものもない」「何でもあり」であり、それは違うのではないかという気がする。
反体制的という点で日本では受け入れられにくいかもしれない。「何でもあり」は既存の価値観を破壊する。そういう意味でアナーキズムとも容易に結びつく可能性を感じる。
パフォーマンス理論では演劇と文化人類学が出会った点で創造的な成果が出ている。エスノグラフィー(民俗誌)が主な舞台となる。ポストコロニアル(ポスト植民地主義)の状況における観察する者と観察される者の間にある力関係の見直しが行われていく。フィールドワークをパフォーマンスと捉えるのである。そういう意味では民俗学にもフィードバックがあるかもしれない。
また、ヒトをホモ・パフォーマンスと呼ぶ。「パフォーマンスするヒト」という解釈である。主体が先にあるのではなく、パフォームする主体がある、主体がパフォーマンスによって構築されると捉えるのである。
可能性を感じるのは以下のような記述である。
たとえば、メルロ=ポンティが「身体は世界を見るものであるとともに,外から見られる対象でもある」と述べたように、一つの言葉が相反する二重の意味をもち、それがともに成り立つという「両義性」の考え方が、硬直した二項対立を乗り越える概念装置として理解されてくるのである。言い換えると,パフォーマンスが観客を意識した双方向性を可能にするのも,身体が,外部に働きかけ,外界とつながる道具として存在するだけでなく、人間の内奥と外部をつなぐメディア(=インターフェイス)として理解されるからである。(142-143P)
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