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2019年4月

2019年4月30日 (火)

俵藤太と大百足――三上山

◆はじめに

 石見神楽の創作演目に「三上山」がある。俵藤太(藤原秀郷)の大百足(ムカデ)退治伝説を題材にした演目である。俵藤太は平安時代中期の豪傑で、子供の頃に親しんだ伝説なのだけど、神楽化されていた。「御伽草子集」に「俵藤太物語」が収録されている。それを中心に見ていきたい。

◆百足退治

 朱雀院の御代に、田原藤太秀郷といって名高い勇士がいた。この人は昔、鎌足の大臣の末裔で、河辺の左大臣である魚名公から五代の孫、従五位の上村雄朝臣の嫡男である。村雄朝臣は田原の里に住んでいた。しかるに秀郷は十四歳になったので、元服して冠を着けて、その名を田原藤太と呼ばれた。若輩の頃から朝廷に召されて宮仕えすること久しい。

 ある時秀郷は父の許に行ったところ、村雄朝臣はいつもより心よさげに秀郷に対面して、酒を様々に勧めて言うことに「人の親の身として、我が子をほめそやすことはおこがましい。そうだけれども、君は世の人の子に優れて立ち居振る舞いや風采が立派に見えるものだなあ。たしかに、君は先祖の誉れを継ぐべき人と見える。それについて、我が家に鎌足の大臣から相伝して来た霊剣がある。自分はおいぼれた身としてこの刀を所有しているべきではない。ただ今そなたに譲るべし。この剣をもって最高の手柄をお立てなさい、といって三尺余りに見えた黄金造りの太刀を取り出して、秀郷の前にさし置かれたので、秀郷はこの次第を承り、あまりの嬉しさに三度戴き、謹んで退出した。

 なので、この剣を相伝して後は、いよいよ心も勇み、何事も思うままであった。刀や槍など打ち物を取っても、弓を引くにも肩を並べる輩もいない。天皇のために忠勤を励むことひととおりでなかったので、下野の国(※栃木県)に恩賞を賜って、都を下ることになったのは滅多にないことだった。

 さてその頃、近江の国瀬田の橋には大蛇が横たわり伏せて、身分の高い人も低い人も通れないで困っていた。秀郷はあやしく思って行ってみたところ、まことにその丈二十条もあるだろうと思われる大蛇が橋の上に横たわって臥せていた。二つの眼が輝く様は天に日が並んだようである。十二の角の鋭いことは冬枯れの森の梢と同じである。黒鉄の牙が上下に生い違う中から紅の舌を振り出したのは炎を吐くかと怪しまれる。もし普通の人が観るならば肝魂を失い、そのまま倒れ死ぬだろうけど、もとから秀郷はすぐれて強いので、いっこうに驚いた様子もなく大蛇の背中をむずむずと踏んであちらへ通った。だけれども蛇は一向に驚いた様子もない。秀郷も後ろを顧みず、遥かに遠ざかっていった。

 それから東海道に赴き、日も西の山に入ったので、ある宿の座敷に宿をとった。既にその夜も更けていくままで、熟睡できない旅先での枕を傾けようとしたところ、宿の主が申すには、「誰だが分かりませんが、旅人に対面しようと申して、不思議な女性が独り、門のあたりに佇んでいらっしゃいます」と申した。秀郷は聞いて、「あら思いも寄らないことだ。そもそもどこの人でいらっしゃれば、自分に見参しようとおっしゃたのか。全く心当たりがない。しかし、何かのお考えがありだからこそ、ここまでお出でであったのだろう。私に聞きたいことがあるならば、こちらへ入らせなさい」と言ったので、主はかの女人にかくの如く申した。そのとき女性が言うには、「いやいや、私は怪しい者ではありません。都の者ですが、ここで少しばかりお願いしたいことがあります。恐れ多いことですが、門までお出でいただきましょう」と申した。

 ところで秀郷は断るまでもないので、居た所をさっと立って門外に出て見れば、二十歳くらいの女性がただ一人佇んでいた。その姿形は容顔美麗で、辺りも輝くほどである。髪の垂れ下がっている様は美しく、まるでこの世の人とは思われなかった。怪しさ限りない。秀郷はまぶしげな顔をして「日頃お話をした憶えもない方が夜も更けて、わざわざ私を訪ねていらっしゃったのが不審でございますが」と申したところ、かの女性は藤太の傍に差し寄って、小声で申すには「まことにわらわを見知らぬことは道理です。私はこの世の常の人でありません。今日、瀬田の唐橋でお目にかかった大蛇の変化した女です」と申した。

 秀郷はこの次第を聞いて、やはり怪しい女だったと思い、「さて、どんな訳があって変化して来たのか」と言ったので、女性が申すには、「以前からきっとお聞きになっておいででしょう。わらわは近江の湖に住んでいます。昔、天の道が開け、土が固まって、この秋津洲の国が定まった時から、あの湖水に居を定め、七度まで桑畑となりましたけれども、姿を人に見せませんでした。そういったところに第四十四代の天皇の代に当たって元正天皇と申す帝の時代に、日本第二にゐんこの神、あの湖水のほとりの三上の嶽に天下ったのです。その時から以後、あの山に百足というものが出てきて野山の獣、大河の魚類を貪って久しいのです。これにわらわの仲間の蛇が度々百足に喰われて、畜生道の三熱の苦しみの上に愁嘆の涙が乾く暇もありません。どんなことがあってもこの敵(かたき)を滅ぼし、安全だった昔のようになさんとて謀をめぐらしたといえども、わらわの仲間でたやすく平らげることは叶いません。もし人間にそれができる力量をもった人がおいでになったら、親しみ近づいて頼もうと思い、瀬田の橋に横たわって、往来の人を伺うに、遂に辺りへ近づく者もありませんでした。このようなところに今日のそのたの振る舞い、まことに感にたえない立派な根性でいらっしゃいます。この上は、あの敵(かたき)を滅ぼす人はあなた様だけで他にはあるはずがないと信頼申し上げてやって来ました。私の国が助かるか滅びるかはあなたのお言葉次第ですといって実にしかたない有様であった。

 藤太はこの次第をつくづくと聞いて、「これは容易でないことよ。世の常ならぬ物が頼んで来たのをこばむのも気後れしたと思われて恥ずかしいことだ。また、大事を仕損じたら先祖の名折れ、末代の恥辱だろう。そうではあるが、私の信仰している神が手柄を立てさせようとして日本全国の中からより抜いて私を目当てで来たのだろう。とりわけ龍宮と日本とは金剛界と胎蔵界両部の国なので(両者が相まって完全は仏国土となる)、天照大神も本地を大日如来の尊像に隠し、垂迹を青海原の龍神に顕したと承ったときには異議に及ばないだろう」と思い定めたので、「時を移さず、今夜のうちに行って、かの敵を滅ぼすべし」と申したので女性は大変悦んで、かき消すように失せた。

 さて、藤太は約束の時を違えまいと先祖代々から伝わる太刀を腰に帯び、一生に及んで身から放れず持った重藤の(下地を黒漆で塗り、上に繁く藤を巻いた)弓の五人がかりで弦を張る強い弓があるところに関弦(弓弦の材料にする麻に黒漆を塗った上により糸を一面に巻き付け、さらにその上に薄く漆を塗って丈夫にこしらえた弦)をかけて脇に挟み、十五束三伏(両手で交互に十五つかんだ長さに指を三本伏せた長さを加えたもの)ある生えてから三年経った竹でできた大きな矢の矢じりを矢竹の半分以上深く挿し込んだのを、ただ三筋手に挟んで、瀬田を目指して急いだ。湖水の渚にうち望んで、三上山を眺めたところ、しきりに稲光する。さあいよいよ、先に聞いた化け物が来るぞと、じっと見つめていると、しばらくして、風雨が激しくなってくるとその内に比良山の高根の方からも松明二、三千余り焚きあげて、三上山が動くようにゆらゆらと身を揺るがして来るものがある。山を動かし谷を響かす音は百千万の雷もかくの如くであろうか。恐ろしいともなんとも言い様がない。

 されども藤太は世に聞こえた剛の者なので少しも騒がず、「龍宮の敵(かたき)というのはこれだろう」と思い定めて、前に述べた件(くだん)の弓矢を挿し加え化け物の近付くのを待つほどに矢で射るのにちょうどよい距離になったので、十分に引き絞り、眉間の真ん中と思しい所を射たが、その手応えは黒鉄の板などを射る様に聞こえて筈を返して(射た矢が当たって逆になって跳ね返る)立たなかったので、心穏やかでなく思って、また二の矢をつがえ、同じ矢壺(弓を射るときに狙い定める所)を心がけて、非常に長い間十分に引き絞って射たが、この矢も踊り返って、百足の身には少しも立たなかった。ただ三筋持った矢を二筋は射損じた。頼むところはただ一筋、これを射損じてはどうしようと、あれこれと思案をして、この度の矢じりには唾を吐きかけ、打ちつがえて、南無八幡大菩薩と心中に祈念して、また同じ矢壺と心がけ、十分に引き絞って、ひょうと放ったところ、今度は手応えがあって見事に命中したと思った途端に、二、三千見えた松明が一度にばっと消え、百千万の雷の音もひしひしと鳴りやんだ。

 さては、化け物は滅したこと疑いなしと思い、しもべどもに松明を灯させ、件の化け物をよくよく見れば、紛うべきもない百足であった。百千の雷と聞こえたのは大地を響かす音だったのだろう。二、三千の松明と見えたのは足であろうか。頭(かしら)は牛鬼のごとくで、その形の大なることは例えようもない。件の矢は眉間のただ中を通って喉の下までくっと通り抜けていた。急所なので、百足が死んだのは当然といえば当然だが、これほどの大きな化け物が一筋通った矢に痛み滅びるたのは、藤太の弓の強さの程が尋常でないこと故だった。

 さて、はじめの二筋の矢は、黒鉄を射るがごとくで立たず、後の矢の通ったことは、唾を矢じりに塗ったからである。唾は総じて百足の毒だからである。日頃、威勢のよかったものなので、なおも恨みに思って仕返しすることもあるかもと言って、件の百足をばずたずたに斬り捨てて、湖水に流した。百足退治も終わって藤太は宿所に帰った。

 明けた夜、また夕べの女性が北。このたびは座敷まで入って「藤太殿に見参しましょう」と言った。藤太はやがて出て対面したところ、女性ははればれとした声で「さてさて貴方の勇敢な力で日頃の敵を平らげ、安全な御代としたことは返す返すも感心なことです。喜びは身に余っていますので、御恩返しに何がよいか分かりません。せめては自分がひそかに持っていますところの物でも、先ず参らせようと思って、これを持ってきました」と言って、藤太の前に据え並べた物を見たところ、巻絹が二つ、口を結んである俵、赤銅の鍋が一つあった。

 田原藤太はこの次第を見ると「まことに有難いお志だなあ。ところでこの度の事は神仏のはからいによって最高の手柄を立てたのですから、貴方の喜びは申すまでもなく、私の家にとってこれ以上の名誉はありません。その上、このように宝物を賜るなど、悦びの中の悦びでございます」と深く頭を下げて挨拶したところ、ところで女性も心よさげで、「ならば先ず今宵は帰りましょう。返す返すも今度の悦びは私だけにとってのものではありません。千万人のためによろしければ、この上にあなたに御恩返しをいたします」と言って女性はどこへとも分からず帰った。

 秀郷は件の女性から貰った巻絹を取り出し、衣装に仕立てたところ、いくら裁断しても尽きない。また米の俵を開きつつ米を取り出すと、これに遂に尽きなかった。それからの藤太を俵藤太と申した。また、鍋の内には思うままの食物が湧き出るのが不思議だった。

◆その後の藤太

 俵藤太物語は長いので、ここまでにしておく。百足退治以降の藤太はその後龍女に招かれて龍宮へ行き、丁重なもてなしを受ける。数々の財宝に加えて、釣り鐘を賜ったので三井寺に寄進する。その後、藤太が下野の国を治めていた頃、平将門が反乱を起こして関東八州を手中に収めた。藤太は将門と日本を二分しようと思い面会するが、将門に直接対面してその器ではないことを悟り退出する。藤太は急ぎ朝廷に参内し、危急の件を奏聞する。そして自ら討手として願い出る。将門の身体は鉄でできていて六人の影武者がいた。将門を倒すには謀が必要だと思った藤太は将門に近づく。そうしている内に小宰相の君に恋慕する。思いを遂げた藤太であったが、六人の影武者には影が無く、将門の肉体は鉄でできているが、こめかみだけは肉身であると聞きだす。将門の秘密を知った藤太は弓で将門を倒す。藤太は将門の首を持って上京し、将門の首は獄門に掛けられた。藤太は従四位の位を賜り、武蔵、下野の国を賜った。藤太の子孫は大いに栄えた。これも龍宮の龍神の思し召しの故である。

◆鍛冶神

 細矢藤策「大蛇と百足の神戦譚―二荒神社縁起・『俵藤太物語』の鍛冶信仰―」「国学院雑誌」104号によると、蛇と百足の双方を鍛冶神と捉え、大蛇と百足の神戦譚としている。また、俵藤太の伝説だけでなく、日光山神の大蛇と赤城山神の百足の神戦譚の存在を指摘している。

◆分類

 大島由紀夫『「俵藤太物語」の本文成立』「中世衆庶の文芸文化――縁起・説話・物語の演変」によると、俵藤太物語は太平記をはじめとするが、大きく分けてA系統とB系統に分かれるとしている。A系統の方が物語が簡素でより古く、B系統の方が記述が詳細であるとしている。御伽草子の俵藤太物語はB系統の流れを汲むものだろう。

 角川書店「室町時代物語大成 第九」に収録された「俵藤太草子」と国学院大学図書館蔵「俵藤太物語」では女房の替りに白髪の翁が登場する。A系統と思われる。

 A系統には文末に宇治民部卿忠文が恩賞に与れなかったのを恨みに思って悪霊と化し、離宮明神に祀られたとある。その他、A系統には小宰相殿のエピソードは見られない。将門と日本を二分しようとも思っていない。

◆国民伝説類聚
 「国民伝説類聚」では「粟津冠者」の伝説を引き、俵藤太伝説に先行するものと位置づけている。

◆動画

 YouTubeで佐野神楽社中の「三上山」を見る。俵藤太ともう一人、随身とでもいうのか武者が登場する。それから姫と老婆が出て藤太たちをもてなすので、これは龍宮の使いかと思ったら、三上山の百足の変化したもので、毒酒なのか酔った藤太たちをステージ外に追い出してしまう。百足は四頭まで増え、仮面を外した藤太たちと決戦となる。照明に凝った演出だった。

 俵藤太物語は平将門征伐へと物語が移る。その意味では神楽的には「滝夜叉姫」へと続いていくのかもしれない。

◆余談

 自分は幼い頃に自動車事故を起こして左足を骨折した。骨がずれたので切開してつなげる手術が行われた。それでしばらくの間、下半身を石膏のギブスで固められて半身だけミイラみたいだったことを憶えている。傷がふさがって石膏をとった後はしばらくの間歩けなかった。脚はそれで治ったのだけど、左太ももに百足のような手術跡が残った。二十数針縫っている。姉によると僕はケロイド体質らしく傷跡が目立つようだ。小学生の頃は半ズボンだったので、「気持ち悪い」と言われることも度々あった。中二病的感性だと左脚に百足を宿した男となるだろうか。

 この記事を平成最後の記事にしようと思う。

◆参考文献

・「御伽草子集」(松本隆信/校注, 新潮社, 1980)※「俵藤太物語」pp.87-142
・細矢藤策「大蛇と百足の神戦譚―二荒神社縁起・『俵藤太物語』の鍛冶信仰―」「国学院雑誌」104号(国学院大学, 2003)pp.14-28
・大島由紀夫『「俵藤太物語」の本文成立』「中世衆庶の文芸文化――縁起・説話・物語の演変」(大島由紀夫, 三弥井書店, 2014)pp.349-374
・針本正行, 太田敦子「國學院大學図書館所蔵『俵藤太物語』の解題と翻刻」「国学院大学 校史・学術資産研究」第十号(国学院大学研究開発推進機構 校史・学術資産研究センター, 2018)pp.1-21
・「國學院大學図書館所蔵『俵藤太物語』翻刻」「国学院大学 校史・学術資産研究」第十号(国学院大学研究開発推進機構 校史・学術資産研究センター, 2018)pp.22-30
・「室町時代物語大成 第九」(横山重, 松本隆信/編, 角川書店, 1981)※「俵藤太草子」pp,133-141
・「説話文学研究叢書 第一巻 国民伝説類聚 前輯」(黒田彰, 湯谷祐三/編, クレス出版, 2004)pp.289-296

記事を転載→「広小路

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2019年4月28日 (日)

アイドルデビュー直前

平川哲弘「ヒマワリ」第7巻を読む。アイドルデビュー直前となって、もはや神楽は関係なくなっている。そういう意味では神楽を出汁にしたと言えるか。別に憤る筋合いでもないが。

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八木康幸「郷土芸能としての和太鼓」「たいころじい」15号

八木康幸「郷土芸能としての和太鼓」「たいころじい」15号を読む。創作太鼓、創作和太鼓に関する論文。全国に和太鼓のグループは数千あると言われているが、その多くが昭和の比較的新しい時期に結成されたものであるとしている。特定の指導者によって指導を受けている点でも特徴的である。つまり、歴史ある土着の音かというと必ずしもそうではないのである。

漫画やアニメを見ていても、お祭りに和太鼓が出演するという描写は珍しくない。それくらい定着しているのだけど、それは古くからの伝統がある芸能だと思っていたので意外な感がある。

論文によると、県単位で催される博覧会に出演する創作和太鼓のグループが多いとの指摘がある。そういう意味では既に郷土を代表する芸能としての扱いを受けているのである。

太鼓グループを結成するには、太鼓代、衣装代、作曲料、指導料などで1000万円近い経費がかかるとのことである。そういう意味では市町村からの補助によって成り立ったという背景も無視できない。

和太鼓を「心を持たぬ芸能」とみなし、「温泉芸能」「御当地民舞太鼓」と揶揄してきた「民俗芸能の本質」を信奉する民俗芸能研究者たちは、もはや敵ではない。たしかに和太鼓は言説と装いの上で民俗芸能を写し鏡としているが、時と場所のコンテクストを離れてますます舞台化する民俗芸能は、実体の上で和太鼓に限りなく近づきつつある。いわば地域文化としての両者は対等なのであり、伝統ある民族芸能に与えられてきたのと同じ「ふるさと」を表現する資格を、すでに和太鼓は手中にしているのである。(25P)
八木康幸「郷土芸能としての和太鼓」「たいころじい」15号(十月社, 1997)


論文の結びで、こういう記述がある。同じステージの上で上演されるんだから等価ではないかとでも言えばいいのか、挑発的な文章である。「心を持たぬ芸能」「温泉芸能」「御当地民舞太鼓」と揶揄したというソースを読んでみたい気もする。一方、「どこがヴァナキュラー(土着な)音なんだ?」という反発もある。

本質主義の頑固さにも戸惑ってしまうが、一方、構築主義を推し進めると「伝統に本物もまがいものもない」となってしまって、それでは本物とまがいものの区別もつかないということで、審美眼的な点から言っても見る目がないということになってしまう。

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2019年4月27日 (土)

イメージは案外強固――「観光心理学を愉しむ」(宮原英種, 宮原和子)

「観光心理学を愉しむ 観光行動のしくみを解明する」(宮原英種, 宮原和子, ナカニシヤ出版, 2001)を読む。180ページほどの分量で記述も平易だったので直ぐに読めた。

この本が出版された2001年時点では観光心理学というジャンルは確立していないとのことである。心理学の知見自体は十二分に蓄積されているので、応用心理学として発展するだろう。観光とは日常を離れ、非日常の世界に心を遊ばせるものだけど、マズローの欲求の階層性といった心理学の基本的な概念を用いて観光を分析していく。

ある短期大学の学生を対象にオーストラリアに行ったことのある学生と行ったことのない学生とでオーストラリアのイメージについてSD法という手法でアンケートをとったところ(その学校ではオーストラリアでの研修旅行があって参加は任意である)、オーストラリアに関して抱いているイメージは経験の有無とでほとんど変わりがなかったという結果が出ている。イメージというものは移ろい易いものという印象があるが、実験結果からすると、イメージは強固で容易に変えにくいという結果となったとしている。ここから観光におけるイメージ戦略の重要性が説かれている。

また、ハワイと沖縄で比較したところ、それぞれに抱いているイメージはほとんど同じという結果が出た。つまり、ハワイと沖縄は観光行動において競合するのである。

21世紀に入ってから、政府はクールジャパンといったサブカルチャー方面でのイメージアップ戦略を掲げているけれど、アニメの聖地巡礼が21世紀型の観光と目されており、こうした観光のイメージ戦略とも繋がっているのかもしれない。

島根県のイメージというと、「鳥取県の隣」となる。そしてどっちがどっちか分からないのである。

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2019年4月25日 (木)

何でもありだが何ものでもない――「パフォーマンス研究のキーワード 批判的カルチュラル・スタディーズ入門」(高橋雄一郎, 鈴木健/訳)

「パフォーマンス研究のキーワード 批判的カルチュラル・スタディーズ入門」(高橋雄一郎, 鈴木健/訳, 世界思想社, 2011)を読む。複数の著者からなる網羅的な内容。

パフォーマンスというと、「コスト・パフォーマンス(価格性能比)がいい」とか「パフォーマンスを発揮する」などの用法があるが、この本で取り上げるのは主にパフォーミング・アーツといった舞台芸術である。その他、人は会社では会社員として、家庭では家族の一員としてパフォームしているとも言える。なので何でもありなのだが、何ものでもないというのがミソらしい。

パフォーマンス理論の基礎にあるのはマルクス主義に基礎を置く批判理論、カルチュラル・スタディーズであるとのことである。この点で若干意欲が減退する。既に1990年代に間違っていたと証明されたものに今更深入りする気もしない。それでも「あれは正しい社会主義ではなかった」という人もいるかもしれない。でも、マルクス主義はその繰り返しなのだ。

その基礎からしてパフォーマンス理論は反体制的である。ジェンダーにおけるパフォーマンス理論はポストモダンのポスト構造主義の影響によって本質主義から構築主義へといった変遷を遂げており、そういう意味では「何でもあり」なのかもしれない。しかし、構築主義的な思考が行き着くところがまさに「本物もまがいものもない」「何でもあり」であり、それは違うのではないかという気がする。

反体制的という点で日本では受け入れられにくいかもしれない。「何でもあり」は既存の価値観を破壊する。そういう意味でアナーキズムとも容易に結びつく可能性を感じる。

パフォーマンス理論では演劇と文化人類学が出会った点で創造的な成果が出ている。エスノグラフィー(民俗誌)が主な舞台となる。ポストコロニアル(ポスト植民地主義)の状況における観察する者と観察される者の間にある力関係の見直しが行われていく。フィールドワークをパフォーマンスと捉えるのである。そういう意味では民俗学にもフィードバックがあるかもしれない。

また、ヒトをホモ・パフォーマンスと呼ぶ。「パフォーマンスするヒト」という解釈である。主体が先にあるのではなく、パフォームする主体がある、主体がパフォーマンスによって構築されると捉えるのである。

可能性を感じるのは以下のような記述である。

 たとえば、メルロ=ポンティが「身体は世界を見るものであるとともに,外から見られる対象でもある」と述べたように、一つの言葉が相反する二重の意味をもち、それがともに成り立つという「両義性」の考え方が、硬直した二項対立を乗り越える概念装置として理解されてくるのである。言い換えると,パフォーマンスが観客を意識した双方向性を可能にするのも,身体が,外部に働きかけ,外界とつながる道具として存在するだけでなく、人間の内奥と外部をつなぐメディア(=インターフェイス)として理解されるからである。(142-143P)

 

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2019年4月22日 (月)

品川神社の太々神楽を鑑賞 2019.04

品川神社で催された太々神楽の鑑賞に行く。春祭ということで、正装した人達が50人くらいいた。その他の観客は20人くらいというところか。拝殿の中で演じられたのだけど、入口に立って写真を撮影する。

・四方拝の舞
・稲荷の舞
・矢天狐の舞
・花鎮の舞
・翁の舞
・幸替の舞

品川神社・太々神楽・四方拝の舞
四方拝の舞
品川神社・太々神楽・四方拝の舞
四方拝の舞
品川神社・太々神楽・稲荷の舞
稲荷の舞
品川神社・太々神楽・稲荷の舞
稲荷の舞
品川神社・太々神楽・矢天狐の舞
矢天狐の舞

品川神社・太々神楽・矢天狐の舞
矢天狐の舞
品川神社・太々神楽・花鎮の舞
花鎮の舞
品川神社・太々神楽・花鎮の舞
花鎮の舞
品川神社・太々神楽・翁の舞
翁の舞

品川神社・太々神楽・翁の舞
翁の舞

品川神社・太々神楽・幸替の舞・海幸山幸を元にした演目
幸替の舞・海幸山幸を元にした演目

品川神社・太々神楽・幸替の舞・ワダツミの神が山幸に潮干玉と潮満玉を渡す
幸替の舞・ワダツミの神が山幸に潮干玉と潮満玉を渡す

品川神社・太々神楽・幸替の舞・海幸が山幸に斬り抱えるが、玉の力で跳ね返される
幸替の舞・海幸が山幸に斬り抱えるが、玉の力で跳ね返される
品川神社・太々神楽・幸替の舞・降参した海幸
幸替の舞・降参した海幸

太々神楽、基本的には時計回りで舞台を回る。足を踏み出す際に、かかとを後ろに大きく跳ねだして進むという感じ。その点ではすり足ではない。反閇なのかどうか分からないが、足を床に強く踏む所作が多かった。正面を向く際にはどうしても脇の神官さんたちがフレームに入ってしまう。後で写真の選定で悩むだろう。

基本的には演劇化されておらず、最後の海幸山幸を題材にした舞でも演劇化はされていなかった。2時間ほどで六演目舞う。これで品川神社の太太神楽は江戸里神楽を観る会と併せて7演目見たことになる。上々の数字と言えるだろう。

今回はパナソニックGX7mk2+12-35mmF2.8で約2000枚撮影したが、35-100mmF2.8の方が良かったかもしれない。付け替えるタイミングが無かったというところ。2時間ほどなのでバッテリーはもった。(3分の1まで減ったが)。

余談
寝つけなくて、ハッと気づくと12時を過ぎていた。慌てて出て、幸い横浜市営地下鉄が快速だったのと京急もすぐに快特に乗れた。新馬場は一旦品川まで出て引き返した方が早い。神社は新馬場駅からすぐ。結局、幸いなことに神楽の時間には間に合った。

2007年に横浜市歴史博物館の講演で神楽のイロハを教わったのだけど、今回、関東の太々神楽と里神楽(神代神楽)を見比べることで、しっくりくるようになった。12年掛かったことになる。まだ、東北の神楽や伊勢神楽などが残されているけど、それは多分ライブでは見られないだろう。

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2019年4月20日 (土)

「大きな物語」の出典――リオタール「ポスト・モダンの条件 知・社会・言語ゲーム」

「ポスト・モダンの条件 知・社会・言語ゲーム」(ジャン=フランソワ・リオタール, 小林康夫/訳, 水声社, 1986)を読む。読んだといっても、書かれてある文字は読めたが、何が言いたいのかさっぱり分からなかった。この本はポスト・モダン、つまり近代(モダン)の次に来るものをテーマにした本で、その後のポスト・モダン論の嚆矢となった本なので読むのを楽しみにしていた。だが、全く歯が立たなかった。訳者のあとがきによると、本書はレポート形式で書かれており平明で簡潔な文章であるとしていた。訳者は東大教授だから頭の出来がそもそも違うのではあるが、それにしても、この本を読んで分かり易かったという人は100人に2~3人くらいなのではと思う。

この本からよく引用されるのが「大きな物語の喪失」である。大きな物語とは身近な例で言うと、一流大学に入って一流企業に就職したら一生安泰であるといったような昭和の価値観みたいなものだろうか。念のため、あとがきから要約を引用する。

 すなわち、《ポスト・モダン》はまずなによりも、《モダン》という時代の文化を根本的に規定していた様々な価値への不信感として現れる。それが、本書の著者であるジャン=フランソワ・リオタールの言う《大きな物語の失墜》である。《自由》という物語、《革命》という物語、《人間の解放》という物語、そして《精神の生》という物語……これらの物語は、人間にとっての普遍的な価値の物語として、モダン時代の理論と実践とを《正当化》する役割を果たしてきたのである。(222P)

ポスト構造主義の本を読むのはこれが初めてなのだが、他の本もこれくらい難解なのだろうか。

<追記>

……しばらく時間が経った。ポストモダンという言説には違和感があった。僕は60年代末の生まれなのだが、実感として社会の潮目が変わったのはインターネット以前/以後ではないかと思うのだ。奇しくも1995年前後には阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件が起きている。

リオタールはグローバリズムや高度情報化社会には言及していない。

リオタールはポストモダン社会では大きな物語が消失すると言った。しかし、今はグローバリズムという大きな物語が世界を席巻している。曰く「弱肉強食ですよ。自己責任ですよ。英語できないと仕事になりませんよ」と。地球温暖化もそうかもしれない。ポリティカル・コレクトネスもそうかもしれない。

大きな物語と言っているが、それは時代感覚と言い換えられるかもしれない。単に社会通念かもしれない。大きな物語とはたまたま長く続いた社会通念に過ぎないのではないか。社会通念は流転するものであり、一つの時代から次の時代への移行の端境期には混乱が生じるのは必然である。

例えば日本ではそうなっていないが、海外で知識人となるには大学院を出ている必要性がある。これも新しい社会通念ではないか。

批評家の東浩紀はポストモダンでは人は「動物化」すると言った。それは形を変えた大衆批判ではないか。欧州の知識人が北米の大量消費社会を指して「動物化」と言ったのである。自分は違うとでも言いたげである。

専門分化が著しい社会に「動物化」しない人間がいるのか?

……ということで、ポストモダン論とは形を変えた大衆批判に過ぎないのではないかという気がしてきた。

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2019年4月15日 (月)

八甫鷲宮神社の神楽を見学 2019.04

久喜市の八甫(はっぽう)鷲宮神社に行く。タクシーの運転手氏は神社の存在を知らず、あらかじめ用意した地図を見せた。住所が分かるといいんだけどとのこと。GPS利用。久喜駅から片道約2,000円ほど。帰りにタクシー会社に電話するがテリトリーが違うのでそちらに連絡してくれとのこと。やむなく電話番号をメモする。そのタクシー会社の女性社員さんも八甫鷲宮神社のことは知らなかった。調べますといって電話を切った。しばらく待っているとタクシーが来る。

今回は午後からの鑑賞で、
・八洲起源浮橋事之段
・端神楽
・祓除清浄杓大麻之段
・端神楽
・磐戸照開諸神大喜之段
・端神楽
・天津国津狐之舞

八洲起源浮橋事之段
八洲起源浮橋事之段
八洲起源浮橋事之段
八洲起源浮橋事之段

祓除清浄杓大麻之段
祓除清浄杓大麻之段
祓除清浄杓大麻之段
祓除清浄杓大麻之段
磐戸照開諸神大喜之段
磐戸照開諸神大喜之段・天児屋根命かと思っていたら手力男命だった。
磐戸照開諸神大喜之段
磐戸照開諸神大喜之段
天津国津狐之舞
天津国津狐之舞
天津国津狐之舞
天津国津狐之舞

天狐の途中で餅まきをした(撒くというより配る)。午前の分は分からず。今まで未見の演目が二つ見られたのでよかった。天狐は江戸の神楽の影響を受けているとのことであったが、実見すると演劇化はされていなかった。快活な舞だった。

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2019年4月11日 (木)

農村自然体験民宿を中心に理論面も――青木隆浩「観光地における文化と自然の有用性―グリーン・ツーリズムを事例に―」

青木隆浩「観光地における文化と自然の有用性―グリーン・ツーリズムを事例に―」「日本民俗学」243 という論文を読む。文化人類学や民俗学だけでなく、経済学にまで目を配った論文である。

 また、文化経済学や観光経済学、観光政策は、観光地として成功する要因を専ら地域特有の文化と自然に求めているが、結果と原因の関係を取り違えていることが多い。地域特有の文化と自然を活用すれば、観光地として成功するのではない。観光地として成功するには、立地条件や観光協会の営業活動、民宿の洗練されたサービスなど、文化と自然以外の様々な要素が関係している。そして成功した観光地だからこそ、文化と自然を地域特有のものとして演出することができる。このような基本的条件を差し置いて、観光開発のために文化と自然を乱用すべきではない。(2-3P)

観光地は、地域の文化と自然をそのまま活用しているのではない。おそらく、多くの経済学者が観光地としての成功と文化・自然の関係を逆さまに解釈している。地域の文化と自然を活用すれば観光地として成功するのではなく、様々な試行錯誤のなかで大勢の観光客を呼べる観光メニューを提供できた観光地が、それらを地域特有の文化と自然として固定化し、そこに自己のアイデンティティを築き上げるのではないだろうか。(19P)

鶏が先か、卵が先かといった議論になってしまいそうだが、観光に対する一定の見地はある。

著者は観光開発のために文化を乱用すべきでないと述べているが、現代において地方にとって観光客の増加は切実な問題である。地方だけでない。アトキンソン『新・観光立国論』、カー、清野由美「観光亡国論」で言及された様にインバウンド(訪日外国人客)を増やすことが21世紀の産業として観光立国化を確立させることに繋がるのだ。なにせ、製造業に次ぐ産業規模になるポテンシャルを秘めているのだから。

一方で、観光地として成功する要因を三つあげている
・立地条件
・観光協会の営業活動
・民宿の洗練されたサービス(国の定めたマニュアルに依らない体験民宿のノウハウ)
これ自体はグリーン・ツーリズム(農村自然体験民宿)に関するものだけれど、一般化できるだろう。例えば浜田市で考えれば、

・浜田道が開通して広島と二時間半程度の時間で行き来できるようになった。海。
・観光協会の営業活動自体は分からないが、なつかしの国石見として統一キャンペーンを張っている。また、石見の夜神楽定期公演などの催しを行っている。
・宿泊に関してはよく分からない。

日本海の海と食材という立地条件にあり、石見海浜公園の整備やしまね海洋館アクアスといった施設で観光客を呼び込む努力している。夏シーズン以外にも、石見の夜神楽定期公演で動員数自体は多くはないとはいえ、観光客をリピーターにする努力を怠っていない。

浜田市にもグリーン・ツーリズム的なものはあって、多分、弥栄町のふるさと体験村がそれに該当すると思われるが、生憎と赤字経営であるようだ。そういう意味では論文で個別に取り上げている長野県のグリーン・ツーリズムに学ぶ点は多いかもしれない。

なお、橋本[一九九九 四一]は観光を「(観光者にとっての)異境において、よく知られているものを、ほんの少し、一時的な楽しみとして、売買すること」と定義している。その前提には観光客が観光資源の「本物」と「まがいもの」を明確に区別していないという事実がある。この橋本の定義は妥当であり、観光資源を本来の文化的な文脈から切り離して、あくまでも商品として位置づけている点では優れているが、一方でこれを観光地の側からみた場合、観光客にとっての「ほんの少し」に案外大きな程度差があることに注意しなければならない。(12P)

※橋本和也(1999)「観光人類学の戦略―文化の売り方・売られ方―」世界思想社

という記述も重要である。観光客は観光資源の「本物」と「まがいもの」を明確に区別していないという指摘である。民俗学でいうフォークロリズム(フォークロアまがい)という概念にも関わってくる。観光という文化の二次的な利用という現代において顕著に見られるようになった動向である。例えば神楽で言えば奉納神楽という本来の文脈から外れたステージでの上演といった観光神楽化を指す。なぜ観光客は「本物の民俗」でない「フォークロアまがい」に惹かれるのか。学術的価値の高いものを常に好んでいるとは限らないのである。それは観光客の利便性に資する、観光客の望むものを提示しているからと考えられるが、それは観光学の考え方であって、民俗学固有の考え方、捉え方ではないだろう。観光客はなぜフォークロアまがいで満足するのか。この論文では観光客は「本物」と「まがいもの」を明確に区別していないのだと述べる。学者にとっては重要な「本物」と「まがいもの」の区別であるが、観光客にとっては、よく知られているものをほんの少し一時的な楽しみとして味わえばよいのだから、「まがいもの」であっても当面は構わないのだという結論になる。これも観光学の答えであろうが、民俗学はいかなる答えを用意するのであろうか。

この論文は「伝統の創出」「文化の発明」といった議論にも言及している。

柴村[1999 二二~二三]のいうとおり、「伝統の創出」や「文化の発明」といった概念は、文化を変革する主体を専ら国家に集約させ、近代社会が自律的に変化しないことを前提としている。だが、このような伝統文化が近代西洋文明の影響のもとに変容したとする「文化変容」モデルでは、文化のダイナミズムを説明できない[山下 一九九六 九]。観光資源としての文化と自然は、政府、開発業者、地域住民の様々な対立や葛藤を経て創出されていくものである。(5P)

※芝村龍太 1999「地域の活性化と文化の再編成―串原の組の太鼓と中山太鼓―」「ソシオロジ」135

「文化を変革する主体を専ら国家に集約させ、近代社会が自律的に変化しない」といった記述があるが、ホブズボウムの著作にその様な記述はなかったはずである。あるいはワグナーの「文化のインベンション」にあるのかもしれない。例えば石見神楽でいうと、明治初期の神職演舞禁止令で神職が神楽と引き離され、神楽の担い手が氏子に移ったという点では国家的影響力を見て取ることができる。国家的政策として神楽に修験道や陰陽道の要素を入れることを嫌ったのだ。一方、それに対する反応として、石見では国学者や神職が神楽の詞章改定に乗り出しており、俗な詞章を古風な整ったものに変えている。また、テンポの速い八調子を取り入れるなど、民間の担い手自体が動いているのである。

これらの様に青木論文は理論的に面白い部分を多々含んでいる。全てに納得がいった訳ではないが、いずれ参考文献欄の論文/本も読んでみたいと思う。

◆参考文献
・青木隆浩「観光地における文化と自然の有用性―グリーン・ツーリズムを事例に―」「日本民俗学」243(日本民俗学会, 2005)pp.1-32

 

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2019年4月 9日 (火)

大阪に石見神楽の常設館が

以前、ニュースで見かけて、そのままスルーしてしまっていたのだけど、大阪に石見神楽の常設会場ができたとのことである。

石見神楽なにわ館

金・土・日・祝日に一日二回公演が行われるとのこと。料金は3,000円なので映画一本を見るより高い。

週6回公演なので、島根県からの社中の応援では賄いきれない。そこで大阪に在住する石見神楽経験者を募ったという流れらしい。金・土・日・祝日と公演するので、実質的には神楽専業という形になるだろうか。公演日以外にバイトを入れるとしても練習は必要だろう。これまで兼業だった石見神楽でプロの神楽師が誕生したという流れになるのだろうか。

観客は大阪府民だけでなく海外からの観光客も見込んでいるとのことである。神楽は衣装代がかかるし、うまく定着するといいのだが。収容人数は100人くらいとのこと。

<追記>
石見神楽なにわ館は年末で閉鎖するとのことだ。騒音で苦情がきたのだとか。大阪社中は活動を継続するとのこと。県の補助も無い独自の試みだったのだけど、中々難しいものだと感じさせられる。

大阪社中は頑張れと思う。関西は巫女神楽系で能舞を舞う社中は存在しないはずだし、うまくすれば東京社中の様になれるかもしれない。

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備後神楽が八調子?

川野裕一朗「次世代への神楽の伝承―備中子ども神楽と芸北神楽高校神楽部の事例から―」「人間と社会の探求 慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要」第75号を読む。タイトルにある様に備中神楽の子供神楽と芸北神楽の高校神楽部の事例を通じて、子供世代への神楽の現代的な伝承について論じたもので、子供世代の神楽の継承に「出会い」「伝承」「深化もしくは離脱」の三段階を設定するのだけど、一部、引っかかる記述があった。

このうち高田神楽は安芸高田市の高宮町や美土里町で行われていて、島根県邑智郡阿須那地方から文化文政期頃、石見神楽の六調子と呼ばれるテンポのゆったりとした神楽が高宮町に伝わったとされる。明治初期頃に備後神楽の要素が加わり梶矢手という新しい流派の神楽が誕生した。こちらは舞の調子が速いので八調子と呼ばれている。梶矢手の特徴は、演劇性が強く、神以外にも武士や鬼、姫などたくさんの役柄が登場する, 口上の一部に方言が使われる, 他の神楽には見られない舞台構造[上段や花道の存在]などがあげられる。安芸高田市には石見神楽の影響を受けた六調子の高田神楽と、備後神楽の影響を受けた八調子の高田神楽の2系統が伝わっている。(56P)

「備後神楽の影響を受けた八調子の高田神楽」というのが初耳なのだ。八調子といえば大抵の神楽好きな人は八調子石見神楽を連想するだろう。備後神楽がテンポの速い八調子であると聞いたことがないのである。石塚尊俊や三村泰臣氏の先行研究にも記載が無い。備後神楽が八調子なら八調子石見神楽が「ショーである」と悪しざまに言われることはなかったろう。また、石見神楽への八調子の導入は明治10年代のことらしい。

三村泰臣「中国地方民間神楽祭祀の研究」によると、備後神楽はキリキリ舞といい、テンポの速い舞だそうである。だったらキリキリ舞と名乗ればよいのだ。八調子はおそらく石見固有の区分法だろう。

安芸高田市高宮町川根まで行ってきた20181125:長州住保頼塩焼
https://ameblo.jp/yoshizosovereigndomain/entry-12421509378.html

というブログ記事がある。この記事の中に梶矢手の記述が登場するのだけど、川野氏の論文の内容と食い違うのである。どちらかが間違っていることになるが、このブログ記事は神楽交遊の会、中国地区神楽談話会という二つの団体が催した会合についての記事なのである。つまり、信ぴょう性が高いのだ。また、ブログ主さんは益田市匹見町の三葛神楽の団員さんである。

また、梶矢手というのは省略形で阿須那系梶矢手と他の論文では呼んでいる。つまり、元は石見神楽なのだ。それも新舞の団体が梶矢神楽団の囃子や所作を研究してそう自称しているというのが実態なはずである。

佐々木順三「かぐら台本集」では「石見かぐら阿須那系、同矢上系、梶矢系」と分類している(9P)。同梶矢系とはしていないのではあるが、まあ石見かぐらの系列に分類しているとは思われる。別系統の備後神楽系ならそう書くだろう。

「斉藤裕子でごじゃるよ~」という広島県の神楽を扱ったブログを購読していて3年分くらい読んでいるが、備後神楽の出演回数が少ないのもあるけれど、これは備後神楽の流れにある演目だなというのに当たったことがないのである。大抵は石見神楽の流れにあるか新舞なのである。
ブログ「斉藤裕子でごじゃるよ~」で「梶矢は、神楽が、石見から広島へ伝わった最初の地と言われます。」という一文を見つけた。すると梶矢手というのは最初に芸北地方に神楽が伝えられた土地の手(技)というニュアンスになるが、阿須那、矢上というのはいずれも石見地方の地名である。石見のその地に伝わる手が伝わったというニュアンスだから、やはり阿須那手、矢上手、梶矢手という括り方には問題があると思われる。

YouTubeで備後神楽の動画を幾つか視聴する。確かにテンポは速いが、「トントコ」と六調子の様な気もする。舞の振り付けからするに、元々はもっとゆったりとしたテンポで舞っていただろう。いつからテンポが速くなったのかが問題である。むしろ芸北神楽や石見神楽の影響でテンポが速くなったとも考え得る。それに演目自体、備後神楽にも能舞はあるだろうけれど、新舞(新作高田舞)との連続性を見い出せないのである。佐々木順三「かぐら台本集」では新舞の部と旧舞の部とに分かれるが、旧舞は一演目不明なものを除いて石見神楽の演目である。

以上からしてここの記述には疑問無しとはしない。石見神楽ネイティブでないから、こういう不誠実なインフォーマントから意図の図れない説明を受けてそのまま鵜のみにしてしまったのではないかと思われる。

この論文に書かれた内容が事実なら、それはそれで新発見ということになる。が、中国地方の神楽というものは石塚尊俊・牛尾三千夫・岩田勝らによって大体掘り尽くされていると見ていい。三村泰臣という広島の地場の学者もいる。今更新発見があるとは思えないのだ。功を焦ったか。

川野氏の研究の成果は安芸高田市の広報資料にも反映されている。それだけに責任が重いのだ。

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2019年4月 7日 (日)

おもてなしは案外不評――デービッド・アトキンソン「新・観光立国論」

デービッド・アトキンソン『新・観光立国論 イギリス人アナリストが提言する21世紀の「所得倍増計画」』を読む。元ゴールドマン・サックスのアナリストで現在は伝統建築や文化財などの修復を行う会社の経営者である著者の観光論。

Amazonで僕が見た時点で139ものレビューがついていた。ベストセラーということになるだろう。読んでみて、頭の切れる人が噛んで含める様にして日本の観光の問題点を洗い出したものという印象。

アナリストらしくデータを駆使して日本の観光の水準は観光大国とされる先進国から比べると低い水準にあることが示される。要するに、まだまだ伸びしろがあるということなのだけど、21世紀の人口減少時代にGDPを伸ばす方策として観光に力を入れるべきであるとしている(移民政策には日本人がそうだからと否定的である)。

著者は観光立国の条件として「気候」「自然」「文化」「食事」を挙げる。これらの全てが揃わなくても観光客を呼び込むことはできるが、日本はこれら四つの条件が揃った稀な国だとしている。それは観光立国の条件が揃っているにも関わらず、観光の各種数値が低い水準にあるという裏返しでもある。

一方、「おもてなし」に代表される日本のサービスは実は外国人観光客にとっては画一的で不評なのだという指摘もなされる。欧米からの観光客数がまだまだなので、そこにマーケティングして注力すべきだとしているけれど、遠くから来る観光客は長期滞在する傾向にあり、お金をより多く落とす上客なのだとのこと。それら上客の需要を満たすサービスが提供されていないと指摘している。

著者は日本の観光業はゴールデン・ウィークに集中した大量の客を効率よくさばく様に特化しているとする。なので、ゴールデン・ウィークを廃止して休暇を分散させるよう提言している。

日本の場合、外国の街のように旧市街地があって古くからの建物が現存して町並みを形成しているということはない。モダンな建築物の間に伝統のある神社があったり、そういう古いものと新しいものが共存している(常にスクラップ・アンド・ビルドを繰り返している)ところが日本らしさなのだと思う。大体、日本の古い町並みは空襲で焼けてしまったのである。京都は被害が少なかったというだけの話でもある。

「気候」「自然」「文化」「食事」の四点を島根県に適用してみると、気候、自然は日本海の海、そして冬場は西日本でもスキーが楽しめるといった点に求められるだろうか。「食事」は海のものは日本海の食材、山のものは近年島根県産のものに注力しているとして、残るは文化である。この点、やはり松江や出雲が有利だろう。石見地方だと津和野や石見銀山か。浜田だと海水浴とアクアスが中心で文化の薫りはあまりしないのだけれど、石見神楽がそれを補ってくれるだろうか。

<追記>
この本では高所得層向けに例えば沖縄に大規模リゾートを開発するべきだと書いているけれども、それはバブルの時代に頓挫した流れではないか。大規模な開発によって沖縄の自然が影響を受けたのである。アトキンソン氏はバブル期には既に日本にいたはずで、このことをどう思っているのだろうか。

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2019年4月 6日 (土)

オーバーキャパシティをマネジメントする――アレックス・カー、清野由美「観光亡国論」

アレックス・カー、清野由美「観光亡国論」(中公新書ラクレ)を読む。日本のインバウンド(要するに訪日外国人客数)は2011年の622万人から2017年は2869万人と右肩上がりで、東京オリンピックで4000万人達成も夢ではなくなってきた。著者はこれを第二の開国と呼んでいる。

インバウンドの消費額は4兆4162億円にも達し、トヨタの過去最高益の1.5倍もの数字になっている。長らく日本を支えてきた製造業に匹敵する21世紀の産業となるポテンシャルを秘めているのである。

一方で京都や富士山ではオーバーキャパシティによる観光公害が目立ち始めている。バルセロナやフィレンツェといった外国の観光先進地では「オーバーツーリズム(観光過剰)」「ツーリズモフォビア(観光恐怖症)」といった造語で以て語られる様になっているとしている。そこで筆者は適切なマネージメントとコントロールを提言する。

が、民泊新法では全国一律の規制となっており、地域の実情による規制となっていないなどの指摘がなされている。

世界の趨勢として観光地と駐車場を離れた位置に置き、観光客に歩かせる(動線の設定として途中には商店街があって消費を見込む)形態が主流になっているとする。日本だと大田市の石見銀山が長距離歩かせるということで一部で不評らしいが(実際、一通り見ようとすると7~8kmは歩くことになる)、むしろ強くアピールすべきだとしている。

実は大型観光バスによるツアー客の一か所当たりの滞在時間は短く、地元に落とす金額も微々たるものらしい。それよりも少数の観光客に長期滞在してもらう方が効率がよいとする。が、行政の発想の転換が遅れ、観光地化というと大型駐車場やバイパスの整備といった方向性になってしまうとしている。

他、昔のままに伝えている文化の化石化、生きているようで生きていない文化を「ゾンビ化」、時代に合わせて柔軟に変化しているが、文化の核心への理解がなく、本質とは異なるモンスター化してしまうのを「フランケンシュタイン化」と呼んでいるとこと等が面白かった。

タイトルは観光亡国となっているが、これは増え過ぎた観光客に対する適切なコントロールとマネジメントを欠いたらという仮定の話であり、フランスの様に更なる観光客の増加もあり得ないではないとしている。

著者は日本の古民家を改装して宿泊施設として提供する活動で実績のある人。200ページほどの分量であり、一日で読めた。

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2019年4月 2日 (火)

今年も不発

ホームページ、TOPページだけだけど毎年4月1日にはエイプリルフール仕様のデザインにしているのだけど、未だにアクセスがない。

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2019年4月 1日 (月)

新元号が決定する

新元号、令和に決まる。最初「ぜいわ」と聞こえた。典拠は万葉集とのこと。学生の頃読んだ本に元号とは天皇が未だに時間を支配しているのである……といった内容のことが書かれていた。まあ、今の天皇陛下は日本の象徴だし。

平成は字面こそ平静であったが、バブル崩壊から失われた20年、阪神淡路大震災、東日本大震災、オウムのテロ、中韓台の台頭等日本のピークが過ぎ長い下り坂に入りかけた時代だったと思う。縮小均衡路線で閉塞感があり息が詰まった。

令和はどういう時代になるのだろう。人口減少時代だから縮小均衡路線は変わりそうもない。AIの発達は急激で20年後がどうなるかも予測できない。

ま、そういう時代に島根の情報を発信するのが当ブログの立ち位置か。観光にも興味が湧いてきたので、いずれ観光人類学や観光社会学の本なども読んでみたい。観光学の講座は島根県立大学の浜田キャンパスではなく松江キャンパスでやっているらしい。

松江や出雲は案外これからかもしれない。松江道が開通して山陰道、米子道と併せて広島、松山、岡山、高松、姫路、神戸方面への交通の便がよくなった。観光客が増えるだろう。周辺地域から島根大学に学生が集まるかもしれない。

石見地方はどうだろう。山陰道の全通は県内に限っても10年くらい先だろうし、神楽で観光活性化を謳っても、年間で数千人くらいの動員数である。ただ、もう一度見たいと思わせるものはあるかもしれない。その点、広島の芸北神楽と観光客の奪い合いになるのかもしれない。

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