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2019年3月 9日 (土)

民俗学に特化していないが

国会図書館に行く。富士山盛りそばが売り切れなのでダブル盛りそばとおにぎりを食す。今回、フォークロリズム(フォークロアまがい)についてはまあまあ分かったというか神楽とも相性がよいだろう。石見の夜神楽定期公演などまさにその好例である。パフォーマンス理論については概説の論文2本だけでは何ともしがたいが、参考文献欄によると、パフォーマンス理論についての本があるようなので、それを横浜市立図書館で借りてみるべし。

リールという民俗学者は十九世紀にドイツのオーバーアマガウ村で催されたキリストの受難劇(一大観光地化している)を見てこう評している。
一口に言えば、そこには見たいものがすべてある。ただ、原初性や調和や充実だけはかけらもない。率直に言おう。このあいまいなごった煮こそ、食傷気味の観衆にはこの上ない魅力なのである。
河野眞「フォークロリズムの生成風景―概念の原産地への探訪から―」「日本民俗学」236(日本民俗学会, 2003)pp.12-13
観客は、村人の伝承、すなわち(自然)に接することをもとめてやって来ますが、何故<自然>が吸引力になるのかという中味になると、もはやフォークロリズムでは解けないのです。それはまた一般化することができ、それゆえユビキータスなのですが、しかしまたこうした構成部分が必然的である所以やメカニズムの深部にまでは、フォークロリズムは立ち入らないのです。
河野眞「フォークロリズムの生成風景―概念の原産地への探訪から―」「日本民俗学」236(日本民俗学会, 2003)pp.17
自然とはここでは本物、真正の民俗のことだが、本物がなぜ吸引力を持つかより、なぜフォークロアまがいが吸引力を持つかの方が謎である。表面的には利便性で顧客の望むものを提供しているからであるが、本物ではない、まがいものであるということは見抜かれるはずなのである。

また、フォークロリズムの遍在性、ユビキタス性が指摘される。ユビキタスはIT用語としても用いられているが、現代社会に遍くあるといったあり方も注目に値する。

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