文芸批評色が濃い――高橋雄一郎「身体化される知―パフォーマンス研究」
高橋雄一郎「身体化される知―パフォーマンス研究」を読み終える。アメリカのパフォーマンス理論の本。ただ、パフォーマンス理論といってもパフォーマンス自体の定義が幅広く体系的な学問ではないようで雑食性の強い印象だ。大学で演劇を専攻した著者の専門とも絡むが、パフォーマンス理論について解説した序論を除くと、演劇批評、文芸批評色が濃い。ポストコロニアル社会など現代の世界の状況と呼応していて、力(パワー)のある/ないの関係については敏感だ。そういう意味では反体制的な色が濃く、日本では受け入れられないのかもしれない。
従来、ギリシア古典悲劇やシェークスピアなど正典(カノン)の教授を専らとしてきた大学の演劇学科がやがて演劇という枠組みに収まらなくなってきて、パフォーマンスへと思考領域を広げたというところだろうか。その過程で文化人類学との接触も起きている。
神楽などの伝統芸能に関して知りたかったのだが、当てが外れた。伝統芸能を英訳すると、トラディショナル・パフォーミング・アーツとなるので、まさにパフォーマンス理論の対象なのだけど、下記に引用した程度にしか触れられていなかった。
舞台に範を求めるなら、能や歌舞伎などの古典演劇や、民俗芸能、あるいは祭事の伝承が格好の例となる。これらのジャンルでは、古典的な型を、いかに忠実に引き継ぎ、後代に伝えていくかに、細心の注意が払われる。過去のしきたりを変更する、つまりパフォーマンスに編集を加えることは、一般的にはタブーと考えられている。しかし、古典的な型が、全くそのままの形で伝承されることはない。たとえば劇場構造や照明の革新が演技に変化を持たらす。異端というレッテルを恐れずに、敢えてタブーに挑み、新しい型を生みだそうとするアーティストが出現することもある。さらに、いかなる芸術、芸能、祭事であっても、時代とともに変化する社会と隔絶して、真空状態の中で生き延びることはできない。
「身体化される知―パフォーマンス研究」(高橋雄一郎, せりか書房, 2005)p.46
神楽で例えると、広島の芸北神楽の新舞が上記文章に該当するか。変化することを厭わない。スーパーカグラなるものも生み出して、広島市内の大ホールを埋めた。批判もあるが、現に観客が支持している。ただ、それだと単に現状追認となってしまう点が疑問だ。
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